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2019/03/20

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(37) 「河童の神異」(3)

《原文》

 河童ノ社會上ノ地位ト云フべキモノニモ地方的ニ餘程ノ高下アリ。東北ノ河童ハ槪シテ普通ノ獸類以下ニ取扱ハル。化ケルトハ言ヒテモ狐ナドニ比ブレバ遙カニ拙劣未熟ナリ。之ニ反シテ西部日本ニ向フニ從ヒテ、次第ニ其神異的分子ヲ增加スルガ如シ。【河童人ニ憑ク】二三ノ地方ニ於テハ河童ハ犬神「ヲサキ」又ハ「トウビヤウ」ナドノ如ク自在ニ人ニ憑キ、頗ル馬ノ因緣ヲ離レテ人間ノミヲ目ノ敵トスル風アリ。土佐ニテハ婚姻ノ相談ナドハ決シテ之ヲ河童ニ聞カシムべカラズ。若シ不注意ニシテ彼等ノ立聞キスル所トナレバ、必ズ嫁入婿入ニ化ケ來タリテ人ヲ迷ハス。故ニ一般ニ密談ヲスルニハ先ヅ弓弦ヲ鳴ラシテ此徒ヲ退散セシムべキナリ〔土陽陰見記錄下〕。【カウゴ石】肥後ノ葦北郡ナドニハ、他國ノ天狗話ノ多クヲ以テ、「カゴ」卽チ河童ノ所爲ニ歸セリ〔日本周遊記談〕。肥前五島ノ富江ニハ河童ノ築キタリト云フ城ノ城壁今モ存在スト云フ〔同上〕。又西國ニテ川ニ火トボリ芥ナドヲ燒クガ如キアリ。船近ヅクコト三四尺ニナリテ消エ、漕ギ過グレバ又元ノ如シ。之ヲ「川ワラフ」[やぶちゃん注:原典のママ。「ちくま文庫」版全集は『川ワロウ』とする。則、これを「川ワラウ」の誤植と断じているわけである。「觀惠交話」を確認出来ないので、ママとしておく。]ノ仕業ナリト云フ〔觀惠交話下〕。卽チ不知火モ亦河童ノ力ニ出ヅトスルナリ。加藤淸正ニ二字ヲ奉リタル河童ノ頭目九千坊ノ如キモ、亦恐クハ一城ノ主ナルべシ。人間ノ武家ガ迫(サコ)每ニ割據シテアリシ時代ニ、河童ノ方面ニハ既ニ或程度迄ノ中央集權行ハレ、此ノ如キ大酋長ヲ推戴シテアリシナリ。

《訓読》

 河童の社會上の地位と云ふべきものにも、地方的に餘程の高下(かうげ)あり。東北の河童は、槪して普通の獸類以下に取り扱はる。化けるとは言ひても、狐などに比ぶれば遙かに拙劣未熟なり。之れに反して、西部日本に向ふに從ひて、次第に其の神異的分子を增加するがごとし。【河童人に憑く】二、三の地方に於いては、河童は「犬神」・「ヲサキ」、又は「トウビヤウ」などのごとく、自在に人に憑き、頗る馬の因緣を離れて、人間のみを目の敵(かたき)とする風あり。土佐にては、婚姻の相談などは、決して之れを河童に聞かしむべからず、若し不注意にして彼等の立ち聞きする所となれば、必ず嫁入り婿入りに化(ば)け來たりて人を迷はす。故に一般に密談をするには、先づ、弓弦(ゆづる)を鳴らして此の徒を退散せしむべきなり〔「土陽陰見記錄」下〕。【かうご石】肥後の葦北郡などには、他國の天狗話の多くを以つて、「カゴ」、卽ち、河童の所爲に歸せり〔「日本周遊記談」〕。肥前五島の富江には、河童の築きたりと云ふ城の城壁、今も存在すと云ふ〔同上〕。又、西國にて、川に火とぼり、芥(あくた)などを燒くがごときあり。船近づくこと、三、四尺になりて消え、漕ぎ過ぐれば、又、元のごとし。之れを「川ワラフ」の仕業なりと云ふ〔「觀惠交話」下〕。卽ち、不知火(しらぬひ)も亦、河童の力に出づとするなり。加藤淸正に二字を奉りたる河童の頭目九千坊のごときも、亦、恐らくは一城の主(あるじ)なるべし。人間の武家が迫(さこ)每に割據してありし時代に、河童の方面には、既に或る程度までの中央集權、行はれ、此くのごとき大酋長を推戴してありしなり。

[やぶちゃん注:「犬神」私の「古今百物語評判卷之一 第七 大神、四國にある事」の私の注を参照されたい。

「ヲサキ」「オサキ狐」のこと。私の「反古のうらがき 卷之一 尾崎狐 第一」の本文及び注を参照されたい。

「トウビヤウ」先行する『「河童駒引」(25)「川牛」(5)』の私の『「トンボ」又は「トウビヤウ」と云ふ蛇のごとき』の注(ウィキの「トウビョウ」からの引用)を参照されたい。

「土陽陰見記錄」「土陽陰見記談」が正しい(書誌データ不詳)。当該記載は珍しく「国文学研究資料館」の画像データ・ベースの接続がいいので、発見出来た。ここである。

「【かうご石】肥後の葦北郡などには、他國の天狗話の多くを以て、「カゴ」、卽ち、河童の所爲に歸せり」「肥前五島の富江には、河童の築きたりと云ふ城の城壁、今も存在すと云ふ」この個所は、柳田國男にして、この頭書は、誤認を惹起させる配慮に欠くものと私は思う。「日本周遊記談」(書誌不詳)に当たることが出来ないので何とも言えないが、「かうご石」とは、「カゴ」=「カハゴ」=「川子」=「河童」所以の「石」の意ではなく、「かうごいし」(「神籠石」「皮籠石」「交合石」「皇后石」などの当て字が成され、現代仮名遣「こうごいし」と呼ばれている、主に九州地方から瀬戸内地方の山等に見られる、石垣で区画した謎の列石遺跡の総称である。その殆どは造成年代も理由も全く不明で、何らかの祭祀遺跡とも、古代の山城の跡とも議論されている不詳の人工石積みを指すものである。詳しくはウィキの「神籠石」を読まれたい。

「肥前五島の富江には、河童の築きたりと云ふ城の城壁、今も存在すと云ふ」個人のページと思われる「島の暮らしって?長崎県五島の暮らし(伝説と民話)」に(下線太字やぶちゃん)、「大円寺の河童伝説」があり(大円寺は長崎県五島市大円寺町に現存する曹洞宗広巌山大円寺。戦国時代の大永年間(一五二一年~一五二八年)に宇久(五島)盛定がこの地にあった庵を寺に改めて大円寺と号したのに始まると伝えられ、その後、五島地方における曹洞宗を統括する「録司」の任に当たり、肥前国福江藩(五島藩)の藩主となった五島氏の菩提寺となった、とウィキの「大円寺(五島市)」にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。以下に出る「水神社」とは、同地図の大円寺の東北直近の河畔にある「水神宮」のことと思われる)、そこには、『大円寺川畔の水神社は、消防の神として昔から有名である。河童を祭った珍しい神社で、前面の深渕には河童の大将が住んでいると言い伝えられ』ており、享保八(一七二三)年二月十六日、『江戸麻生六本木の五島家上屋敷が類焼した。そこで、時の藩主第』二十六『代盛住は、火の用心のためにとこの神社の分社を同屋敷内に建て奉祀した。その後、隣屋敷である小田原藩主大久保家に火災が起こり、まさに五島邸に燃えうつろうとした時、突然五島邸より大勢の消防手が現われまたたくまに火を消し止めたという。その消防手は人間でなく、水神社の河童であったことが江戸市中の大評判となり、参拝者が多かった。福江市の二番町で安政』五(一八五八)年七月十六日に『大火があり、町内の大部分を消失し、その前後も火災が多かった。そこで水神社の祭りを毎年行うことにした。また』、『新一番町も旧藩時代は火災が多かったので、町内に水神社を分祀した。その後災難は絶えたという』とあり、さらに興味深い叙述として、「伝説・勘次ケ城(富江町)」があり(ここ(グーグル・マップ・データ))、そちらには、『今から約』百五十『年前、富江の大工だった勘次は藩命で新船を建造中、突然』、『姿をくらませた。捜索すると』、『玉之浦村小川の海岸で発狂しているのを見つけ、連れ戻したが、それから間もなく』、『山崎の石の城跡に住むようになった』。『勘次の発狂は、山崎の海岸で難破した唐人船を襲い、銀』六貫目(二十二・五キログラム)の『入った金箱を奪った崇りだと言われ、狂った勘次は』「六貫目様、六貫目様」と』、『ぶつぶつつぶやきながら歩くので、村人は彼のあだ名を』「六貫目様」と『呼んでいた』。『勘次はクブキ(かますのこと)を背負い』、『村を廻って食物を乞い、米飯を与えてくれた家には、その謝礼に水の漏らない一升枡を作って贈り、イモをくれた家には水の漏る枡を置いて帰った』。『村人が城を造った人の名を聞くと、必ず「自分がカッパと一緒に築いた」と答えるので』、「勘次ケ城」の『名がついたという』。『もちろん、この城は勘次ひとりで造れるものではなく、その築城法が大陸風の海域を思わせることや』、『付近の出土品、隣接地の多数の人骨の埋葬などから、和冦の出城であろうと言われている。城の構造は』十五間(二十七・二七メートル)に二十二間(約四十メートル)の『長方形で』、『外壁の高さは』一丈二尺(三メートル六十三センチメートル)、『入り口は』一ヶ所しかなく、その幅は二尺(六十一センチメートル弱)あった。これが「觀惠交話」(書誌不詳。ある記載には二百年前の古書とあるので、寛政(一七八九年~一八〇一年)前後成立か)の言うそれであろう。なお、同書は、河童の一種についてのウィキの「セコ」に出る。既に『「河童駒引」(17)「河童ニ異名多シ」(3)』で引用済みである。

「加藤淸正に二字を奉りたる河童の頭目九千坊」清正と九千坊の話は既出であるが、「加藤淸正に二字を奉りたる」という部分は意味不明。識者の御教授を乞う。


《原文》

 【水神】河童ノ威風ノ最モ行ハレ居タル南部九州ニ於テハ、水神ト云ヘバ卽チ河童ノコトナリ。田畠收穫ノ季節ニハ地面ノ西ノ方ヲ一鎌ダケ刈殘シ、之ヲ其水神ニ供フル慣習アリキ〔笈挨隨筆一〕。肥後ノ北部ニ在リテハ、河童ヲ水邊ニ祭レドモ水神ハ河童ニ非ズ。每年ノ夏畠ノ初物ヲ串ニ挿シテ溝川ノ堤ナドニ立テヽ置ク〔高木敏雄氏談〕。此モ亦水神ノ信仰ニ基クモノナレドモ、此ハ寧ロ河童ニ對抗スべキ勢力トシテ之ヲ祭ルガ如シ。【鐵ノ忌】但シ河童モ水ノ神モ共ニ鐵類ヲ忌ミ、水神ノ供物ト河童ノ供物トノヨク相似タルヲ見レバ、本來一ツノ神ノ善惡兩面ガ雙方ニ對立分化シタルモノト解スルモ必ズシモ不自然ナラズ。【植物ノ忌】河童ハ又角豆ヲ嫌フ。近江ニテハ村童角豆ヲ袋ニ入レテ腰ニ下ゲ、河童ノ害ヲ防グ守トス。河童來リテ相撲ヲ取ラント云フトキ、我ハ角豆飯(ササゲメシ)ヲ食ヒタリト云ヘバ閉口シテ去ル〔土陽陰見記錄下〕。【瓠】河童ハ又瓢簞ヲ甚シク嫌フ。仍テ之ヲ食ヒテ川ヲ涉ルトキハ害無シト云ヘリ〔越後名寄十八〕。又同ジ國ニテ川々ノ渡シ守壺蘆(ユフガホ)ト胡麻トヲ作ラザルハ古クヨリノ習慣ナリ。其仔細ハ川ニ潛ム河童ドモ壺蘆ノ若キト胡麻ノ若葉トヲイタク忌ムト傳フル故ニ、之ヲ作ラズシテ舟ニ乘ル人ノ安全ヲ祈ルナリ〔越後風俗志七〕。之ニ由リテ思フニ、大昔笠臣(カサノオミ[やぶちゃん注:底本は「カノオミ」であるが、これは諸記載から「サ」の脱字と断じ、特異的に訂した。「ちくま文庫」版全集も「カサノオミ」である。])ノ祖ガ川島川ノ虬ヲ試ミタリシ三ノ全キ瓠(ヒサゴ)、或ハ河内ノ人茨田連衫子(マンダノムラジコロモノコ)ガ河伯(カハノカミ)ヲ欺キ得タル兩個ノ瓠ナル者ハ〔仁德紀〕、共ニ後世ノ河童ガ避ケ且ツ忌ミタル壺蘆ノ瓜ナルコト大凡其疑無キニ近シ。河童ハ又麻ヲ忌ム。或人河童ヲ捕ヘ之ヲ斬レドモ通ラズ、麻穰(アサガラ)ヲ削リテ刺セバヨク通リタリ。又樒(シキミ)ノ香ヲ惡ムトモ云フ說アリ。或ハ法師ノ言ヒ始メシ言ナランカ。【胡瓜】河童ノ愛スル物ハ胡瓜ナリ。胡瓜アル畠ニハ多ク來ル。胡瓜ヲ食ヒテ川ヲ渡ル人往々ニシテ河童ニ取ラルヽコトアリ。關東ニテハ六月朔日ニ胡瓜ヲ川ニ流シテ河童ノ害ヲ攘ヒ得べシト信ズル者アリ〔竹抓子四〕。【祇園】此ハ恐クハ祇園ノ神ノ胡瓜ト何等カノ關係アルべシ。自分等ノ鄕里ニテハ祇園ノ夏祭ニハ胡瓜ヲ川ニ流シテ其神ニ捧ゲ、ソレヨリ後ハ中ニ蛇ガ居ルナドト稱シテ決シテ胡瓜ヲ食ハズ。【水天宮】此神ハ西京ノ本社ニ於テハ水ノ神トハ言ハザレドモ、田舍ニテハ此意味ヲ以テ祀ル處モアルナリ。今日ノ東京ニテハ水難除ノ守札ハ殆ド水天宮ノ一手專賣ナルガ、蠣殼町ノ流行神ガ東上シタルハ決シテ古キコトニ非ズ。有馬家ノ舊領久留米ヨリ芝ノ屋敷内ニ勸請シタルハ實ニ文化ノ某年ニ在リ。此神ノ守札ヲ碇ニ附ケテ水中ヲ探レバ、水ニ落チタル物必ズ綱ニ掛リテ揚ル外ニ、産ニ臨ミタル婦人之ヲ戴ケバ直チニ安産スナドトモ噂セラレキ〔寶曆現來集七〕。此神樣モ亦些シク風變リナリ。【隱レ里】鄕里ノ筑後ニ於テハ元ハ尼御前社ト稱セラレ、城下ヨリ四里ホドノ上流ニ九十瀨川(コセガハ)ト云フ處ノ水神ト夫婦[やぶちゃん注:底本は「夫插」であるが、私はこれでは読めないので、「ちくま文庫」版全集で訂した。]ノ神ナリトモ云ヒ、或ハ又九十瀨入道ハ卽チ平相國淸盛ニシテ尼御前ハ二位尼ナリトモ傳ヘラレ、此地方ニ分布スル平家隱里ノ傳說ト因緣ヲ結ビ附ケラレタリ〔筑後志下〕。今ノ久留米ノ本社ニ於テハ祭神ハ三座ナリ。中央ハ二位尼安德天皇ヲ抱キマツル像、一體ハ女院ニシテ他ノ一體ハ戎衣ヲ著ケタル平知盛ナリ。【水難除】而モ此尼御前ノ靈驗ハ弘ク水難ヲ救フニ在ルノミナラズ、殊ニ河童ニ對シテ有力ナル守札ヲ出スハ奇ト謂フべシ〔校訂筑後志〕。但シ此札ハ專ラ人間ノ腰ニ佩ビシムべキモノニシテ、牛馬ノ爲ニハ寧ロ冷淡ナルガ如クナレド、是レ恐クハ牛馬ノ多カラザル都會地ノ神ト爲リテ後ノ變遷ナルべシ。【釜神】同ジ筑後ノ中ニテモ、八女郡光友村大字田形ノ釜屋神、卽チ矢部川南岸ノ淵ニ臨ミテ構ヘラレタル水神ノ社ノ如キハ、農民ヲ相手ニ盛ニ牛馬安全ノ護符ヲ出シ、多クノ修驗者ハ其札ヲ持チテ村々ヲ廻リ、一匹一升ノ施米ヲ受ケツヽ、牛馬病難ト河童トノ防衞ヲ以テ任務トスル、神ノ德ヲ宣傳シツヽアリシナリ〔筑後地鑑下〕。


《訓読》

 【水神】河童の威風の最も行はれ居たる南部九州に於いては、水神と云へば、卽ち、河童のことなり。田畠收穫の季節には、地面の西の方を一鎌だけ刈殘し、之れを、其の水神に供ふる慣習ありき〔「笈挨(きふあい)隨筆」一〕。肥後の北部に在りては、河童を水邊に祭れども、水神は河童に非ず。每年の夏、畠の初物を串に挿して、溝川の堤などに立てゝ置く〔高木敏雄氏談〕。此れも亦、水神の信仰に基づくものなれども、此れは寧ろ、河童に對抗すべき勢力として、之れを祭るがごとし。【鐵(てつ)の忌(いみ)】但し、河童も水の神も共に鐵類を忌み、水神の供物と河童の供物との、よく相ひ似たるを見れば、本來、一つの神の、善惡兩面が雙方に對立分化したるものと解するも、必ずしも不自然ならず。【植物の忌】河童は又、角豆(ささげ)を嫌ふ。近江にては、村童、角豆を袋に入れて腰に下げ、河童の害を防ぐ守(まも)りとす。河童、來たりて「相撲を取らん」と云ふとき、「我は角豆飯(ささげめし)を食ひたり」と云へば、閉口して去る〔「土陽陰見記錄」下〕。【瓠(ひさご)】河童は又、瓢簞(へうたん)を甚しく嫌ふ。仍(よつ)て之れを食ひて川を涉るときは害無し、と云へり〔「越後名寄(えちごなよせ)」十八〕。又、同じ國にて、川々の渡し守、壺蘆(ゆふがほ)と胡麻(ごま)とを作らざるは、古くよりの習慣なり。其の仔細は川に潛む河童ども、壺蘆のごときと、胡麻の若葉とを、いたく忌む、と傳ふる故に、之れを作らずして、舟に乘る人の安全を祈るなり〔「越後風俗志」七〕。之れに由りて思ふに、大昔、笠臣(かさのおみ)の祖が川島川の虬(みづち)を試みたりし三つの全(まつた)き瓠(ひさご)、或いは、河内の人、茨田連衫子(まんだのむらじころものこ)が河伯(かはのかみ)を欺き得たる、兩個の瓠(ひさご)なる者は〔「仁德紀」〕、共に後世の河童が避け、且つ、忌みたる壺蘆(のゆふがほ)の瓜(うり)なること、大凡(おほよそ)、其の疑ひ、無きに近し。河童は又、麻(あさ)を忌む。或る人、河童を捕へ、之れを斬れども、通らず、麻穰(あさがら)を削りて刺せば、よく通りたり。又、樒(しきみ)の香(か)を惡(にく)むとも云ふ說あり。或いは法師の言ひ始めし言(げん)ならんか。【胡瓜】河童の愛する物は胡瓜なり。胡瓜ある畠には多く來たる。胡瓜を食ひて川を渡る人、往々にして河童に取らるゝことあり。關東にては、六月朔日(つひたち)に胡瓜を川に流して、河童の害を攘(はら)ひ得べしと信ずる者あり〔「竹抓子(たけさうし)」四〕。【祇園】此れは、恐らくは、祇園の神の胡瓜と何等かの關係あるべし。自分等の鄕里にては、祇園の夏祭りには、胡瓜を川に流して其の神に捧げ、それより後は中に蛇が居るなどと稱して、決して胡瓜を食はず。【水天宮】此の神は西京の本社に於いては水の神とは言はざれども、田舍にては此の意味を以つて祀る處もあるなり。今日の東京にては、水難除けの守札(まもりふだ)は殆ど水天宮の一手專賣なるが、蠣殼町(かきがらちやう)の流行神(はやりがみ)が東上したるは決して古きことに非ず。有馬家の舊領久留米より、芝の屋敷内に勸請したるは、實に文化[やぶちゃん注:一八〇四年~一八一八年。]の某年に在り[やぶちゃん注:誤り。後で引用するように文政元(一八一八)年九月。]。此の神の守札を碇(いかり)に附けて水中を探れば、水に落ちたる物、必ず、綱に掛りて揚る外に、産に臨みたる婦人、之れを戴けば、直ちに安産すなどとも噂せられき〔「寶曆現來集」七〕。此の神樣も亦、些(すこ)しく風變りなり。【隱れ里】鄕里の筑後に於いては、元は尼御前社(あまごぜしや)と稱せられ、城下より四里ほどの上流に九十瀨川(こせがは)と云ふ處の水神と夫婦(めをと)の神なりとも云ひ、或いは又、「九十瀨入道(こせにゆうだう)」は、卽ち、平相國淸盛にして尼御前は二位尼なりとも傳へられ、此の地方に分布する「平家隱れ里」の傳說と因緣を結び附けられたり〔「筑後志」下〕。今の久留米の本社に於いては、祭神は三座なり。中央は、二位尼、安德天皇を抱(いだ)きまつる像、一體は女院(にようゐん)にして、他の一體は戎衣(じゆうい)[やぶちゃん注:武士が戦場で身につける武具。甲冑。具足。]を著けたる平知盛なり。【水難除】而も、此の尼御前の靈驗は、弘く水難を救ふに在るのみならず、殊に河童に對して有力なる守札を出だすは、奇と謂ふべし〔「校訂筑後志」〕。但し、此の札は、專ら、人間の腰に佩(お)びしむべきものにして、牛馬の爲には、寧ろ、冷淡なるがごとくなれど、是れ、恐らくは、牛馬の多からざる都會地の神と爲りて後の變遷なるべし。【釜神】同じ筑後の中(うち)にても、八女(やめ)郡光友(みつとも)村大字田形(たがた)の釜屋神、卽ち、矢部川南岸の淵に臨みて構へられたる水神の社のごときは、農民を相手に盛んに牛馬安全の護符を出だし、多くの修驗者は其の札を持ちて、村々を廻り、一匹一升の施米を受けつゝ、牛馬病難と河童との防衞を以つて任務とする、神の德を宣傳しつゝありしなり〔「筑後地鑑(ちくごちかん)」下〕。

[やぶちゃん注:『田畠收穫の季節には、地面の西の方を一鎌だけ刈殘し、之れを、其の水神に供ふる慣習ありき〔「笈挨(きふあい)隨筆」一〕』は『「河童駒引」(18)「河童ト猿ト」(1)』で同書の同記載の載る「水虎」の全文を電子化済み。そこに、『日薩[やぶちゃん注:日向国と薩摩国。]の間にては水神と號して誠に恐る。田畑の實入(みいり)たる時、刈取(かりとる)るに、初(はじめ)に一かま[やぶちゃん注:刈った一鎌分。]ばかり除置(のけおき)、是を水神に奉るといふ』とある。

「角豆(ささげ)」マメ目マメ科ササゲ(大角豆)属ササゲ亜属ササゲ Vigna unguiculata。一年草。若い莢や熟した種子を食用とするほか、茎葉を家畜の飼料とし、緑肥ともする。品種によって蔓性、半蔓性、矮性などがあり、蔓性品種は茎の長さが二~四メートルになるが、矮性種は三十~四十センチメートルに留まる。葉は互生し、三小葉からなる複葉で、葉柄は長い。夏、葉の付け根から花柄を出し、白色又は淡紫色の蝶形花(ちょうけいか)を数個つける。果実は豆果で、中に種子(豆)が一列に並んで入っている。種子はアズキに似るものから、大形で扁平にして角張るものまで、種々あり、色は赤・白・黒・褐色・斑紋様など多様である。日本では近縁種の品種ヤッコササゲ(Vigna unguiculata subsp. cylindrica)とジュウロクササゲ(Vigna unguiculata subsp. sesquipedalis)も栽培され、ともに栽培上はササゲの仲間として扱われる。ヤッコササゲは矮性で、莢は長さ十二~二十センチメートル、物を捧げる手のように上を向いてつく特徴が顕著である(和名の由来はそれともされるが、他にも、莢を牙に見立てて「細々牙(ささげ)」と言ったという説、豆の端が少しばかり(「ささ」)角張っている(「とげ」か)ことに由来するなど諸説がある)。ジュウロクササゲはつる性で、茎は二~三メートル、莢は長く垂れ下がり、一メートルを超す品種もある。ササゲの仲間は全般に寒さには弱いが、乾燥に強く、土地を選ばず、比較的、容易に栽培出来る。原産地はアフリカで、古代にインドや東南アジア各地に広まった。日本へは九世紀以前に中国から伝来したと考えられている。ササゲの栄養成分や無機質・ビタミン類などの含有量は同属のアズキ(ササゲ属アズキ Vigna angularis)によく似ており、煮豆や餡・味噌原料とし、また、煮崩れしないので、アズキ(アズキは煮崩れし易い)の代わりに赤飯をつくるのにもよく用いられる。若い莢は、茹でて和え物にしたり、炒め物・汁の実・天ぷらなどにする(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「角豆飯(ささげめし)」ササゲを小豆代わりにした赤飯。

「瓠(ひさご)」「瓢簞(へうたん)」スミレ目ウリ科ユウガオ属ユウガオ変種ヒョウタン Lagenaria siceraria var. gourda

「壺蘆(ゆふがほ)」ユウガオ属ユウガオ変種ユウガオ Lagenaria siceraria var. hispida

「胡麻(ごま)」シソ目ゴマ科ゴマ属ゴマ Sesamum indicum

「之れを作らずして、舟に乘る人の安全を祈るなり」河童の忌む作物を片手間に栽培すれば、河童はそれを憎んで、彼の生業である舟を襲うからである。

「笠臣(かさのおみ)」講談社「日本人名大辞典」の「笠県守(かさのあがたもり)」には『「日本書紀」にみえる豪族』で、『笠氏の祖。仁徳』天皇六十七年(機械換算で西暦三七八年)に『吉備』『の川嶋河(岡山県の高梁川』(たかはしがわ:ここ(グーグル・マップ・データ)『か)にいる大虬』(みつち:蛇或いは竜)『が民衆をくるしめたため』、『きり殺したという』とある。Open GadaiWikiの「県守」によれば、『笠臣の祖。勇猛果敢で力が強い。仁徳帝朝、吉備中国の川島河に大きな虯』(みづち)『がいて民を苦しめていた。県守は、三つの瓠を用意して淵に臨んで「汝に告げる。今、ここで三つの瓠を河に投げ込む。もし汝が瓠を沈めることができたら』、『汝を許す。沈めることができなかったら』、『汝を殺す。」と言った。すると、大虯は鹿に化けて八方手を尽くし』たが、『瓠を沈めなかった。県守は剣を抜』き、『河に飛』び『込んで』、『大虯を斬り殺した。さらに小虯を求め』、怖しくて』『水底の岩穴に隠れてい』た『小虯を探し出して殺した。そのとき、河の水はすべて血に変わった。それでそこを名付けて「県守淵」という』とある。以上は「日本書紀」の仁徳六十七年の以下の記載に基づく。

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是歲、於吉備中國川嶋河派、有大虬、令苦人。時路人、觸其處而行、必被其毒、以多死亡。於是、笠臣祖縣守、爲人勇捍而强力、臨派淵、以三全瓠投水曰、「汝屢吐毒令苦路人、余殺汝虬。汝沈是瓠則余避之、不能沈者仍斬汝身。」。時、水虬化鹿、以引入瓠、瓠不沈、卽舉劒入水斬虬。更求虬之黨類、乃諸虬族、滿淵底之岫穴。悉斬之、河水變血、故號其水曰縣守淵也。當此時、妖氣稍動、叛者一二始起。於是天皇、夙興夜寐、輕賦薄斂、以寛民萌、布德施惠、以振困窮、弔死問疾、以養孤孀。是以、政令流行、天下太平、廿餘年無事矣。

   *

なお、史実的系譜上では笠氏は古代日本の吉備国(岡山県)の豪族吉備氏(きびうじ)から七世紀以降に分派した一氏族で、ウィキの「吉備氏」によれば、分派した彼らは姓(かばね)としては「臣(おみ)」または「朝臣(あそみ)」を称し、『多くは国造や郡司などの在地の有力豪族』となったが、『中央貴族として立身した者も少なくな』く、例えば、飛鳥時代の官人吉備笠垂(きびのかさのしだる)は古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ ?~大化元(六四五)年:舒明天皇第一皇子)の『反乱を告発して名を上げ』たとある(但し、ウィキの「古人大兄皇子」によれば、古人大兄皇子は「乙巳の変(いっしのへん:彼の異母弟中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌子(藤原鎌足)らが蘇我入鹿を暗殺して蘇我本宗家を滅ぼした政変)」で後ろ盾であった曽我氏を失ってからは、皇極天皇退位後、皇位に就くことを勧められたものの、それを断り、出家して吉野へ隠退していた。しかし、この笠垂が古人大兄皇子の謀反の企てを密告し、中大兄皇子によって攻め殺されたもので、実際には『謀反を企てていたかどうかは不明である』ともある)。

「茨田連衫子(まんだのむらじころものこ)」(生没年不詳:「まむた」とも)は日本古代の河内国の豪族で、姓は連。ウィキの「茨田連衫子」によれば、「新撰姓氏録」の『「右京皇別」によると、茨田連氏は「多朝臣同祖」とあり、「神八井耳命男彦八井耳命之後也」とある。茨田』の屯倉(みやけ)(河内国に設置された大和朝廷の直轄地)の『管掌を行ったので、この氏名がある』。「日本書紀」巻第十一によると、仁徳天皇十一年(機械換算で三二三年)、『日本最初の大規模な土木工事である茨田堤の築造の際』、

両處(ふたところ)の築(つ)かば、乃(すなは)ち、壞(くづ)れて塞(ふさ)ぎ難き有り。

『(築いてもまた壊れ、防ぎにくい所が二カ所あった)』。その時、『天皇は夢を見』、そこに『神が現れて』、

武藏人(むさしひと)強頸(こはくび)河内人(かふち)茨田連(まむたのむらじ)衫子(ころものこ)二人を以(も)て河伯(かはのかみ)に祭らば、必ず塞(ふさ)ぐこと獲(え)てむ。

『とおっしゃられた。そこで』、『この二名を捜して人身御供にした』。『強頸は泣き悲しんで水に入って死んだが、衫子は、

全(おふし)匏(ひさご)兩個(ふたつ)

『を取って、川の中に投げ入れ』、誓約(うけい)『をした』。

河神、祟(たた)りて、吾(やつかれ)を以て幣(まひ)とせり。是(ここ)を以て、今吾來(きた)れり。必ず我(やつかれ)を得むと欲(おも)はば、是(こ)の匏(ひさこ)を沈めてな泛(うかば)せそ。則ち、吾、眞(まこと)の神と知りて、親(みづか)ら水の中に入らむ。若し、匏を沈むることを得ずは、自(おのづか)らに僞(いつは)りの神と知らむ。何(いかに)ぞ吾が身を亡(ほろぼ)さむ。

『(河神がたたるので、私が生け贄にされることになった。自分を必ず得たいのなら、このヒサゴを沈めて浮かばないようにせよ、そうすれば自分も本当の神意と知って水の中に入りましょう。もしヒサゴを沈められないのなら、無駄にわが身を亡ぼすことはない)』、と『言った途端、つむじ風がにわかに起こり、匏を引いて水中に沈めたが、匏は波の上に転がるだけで沈まなかった。風に流されて遠くへ行ってしまった』。『かくして衫子は死ななかったが、堤は完成した。これは衫子の才量によって命が助かったのである。時の人はこれを強頸断間・衫子断間と呼んだ』とある。『前者は大阪市旭区千林町、後者は寝屋川市太間に比定されている』。『これと同様の物語が仁徳天皇』六十七『年にある。吉備中国(きびのみちのなかのくに)の川嶋河の川俣に、大虬(みずち=大蛇・竜)が住んでおり、毒気で人々を苦しめていた。笠臣の始祖の県守(あがたもり)は勇敢で力が強く、淵に「三(みつ)の全瓠(おふしひさこ)」を投げ入れ、「お前がこの瓠を沈められるのなら、私が避ろう。できなければ』、『お前の体を斬るだろう」と言った。みずちは鹿に化けて瓠を沈めようとしたが、沈まずに、県守は剣を抜いて水中にはいり、みずちとその仲間を斬り殺した。この淵を県守淵と言う。この時妖気に当てられて、叛く者が一二名いたという』(前掲であるが、引いておいた)。『茨田連一族は』、「日本書紀」巻第二十九に『よると、八色の姓制定により』、天武天皇一三(六八四)年十二月に『宿禰の姓を与えられている』。『この説話の末尾には』、

是歲(ことし)、新羅人(しらきひと)朝貢(みつきたてまつ)る。則ち、是の役(えたち)に勞(つか)ふ。

『とあり』、五『世紀代から本格化する大土木工事の技術や知識が渡来人集団によるものであることは明らかであり、その技術革新への自信が自然の脅威への挑戦・克服へと繋がっていることを、衫子の行動自身が指し示している』。『そこには』、『それまでの農民の利益を代表してきた共同体の機能の存続・維持を求めてきた「迷信」への克服が現れている。農耕具の進歩(U字形鍬・曲刃の鎌など)、武具における革綴短甲から鋲留短甲への革新・発展、須恵器生産の開始、騎馬の風習なども大いに関係している』とある(「日本書紀」原文の漢字表記を正字に改め、一部に句読点を追加して打った)。「日本書紀」の原文は以下(【 】は割注)。

   *

冬十月、掘宮北之郊原、引南水以入西海、因以號其水曰堀江。又將防北河之澇、以築茨田堤、是時、有兩處之築而乃壞之難塞、時天皇夢、有神誨之曰、「武藏人强頸・河内人茨田連衫子【衫子、此云莒呂母能古】二人、以祭於河伯、必獲塞。」。則覓二人而得之、因以、禱于河神。爰强頸、泣悲之沒水而死、乃其堤成焉。唯衫子、取全匏兩箇、臨于難塞水、乃取兩箇匏、投於水中、請之曰、「河神、崇之以吾爲幣。是以、今吾來也。必欲得我者、沈是匏而不令泛。則吾知眞神、親入水中。若不得沈匏者、自知僞神。何徒亡吾身。」。於是、飄風忽起、引匏沒水、匏轉浪上而不沈、則潝々汎以遠流。是以衫子、雖不死而其堤且成也。是、因衫子之幹、其身非亡耳。故時人、號其兩處曰强頸斷間・衫子斷間也。是歲、新羅人朝貢、則勞於是役。

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「河伯(かはのかみ)」この漢字表記は気になる。明らかに中国由来の川の神だからである。


「麻穰(あさがら)」削るとあるからには、落葉小高木のツツジ目エゴノキ科アサガラ属アサガラ Pterostyrax corymbosus か。樹皮はコルク質が発達し、浅く裂け易く、材も非常に割れ易い。但し、河童がこれに刺されてしまうのは、和名の「麻殻」の「麻」絡みであるからに過ぎまい。河童が鉄や麻を嫌う意味はよく判らぬ(五行の相剋でもない)。ピンとくる説明にも巡り遇わぬが、ここに一つ、sunekotanpako氏の『スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語』の「続・河童と渋江氏」にかなり変わった解釈が示されてはある。それに賛同するわけではないが、一つの見解としてはかなり面白い。

「樒(しきみ)」アウストロバイレヤ目 Austrobaileyalesマツブサ科シキミ属シキミ Illicium anisatumウィキの「シキミ」によれば、シキミは『俗にハナノキ・ハナシバ・コウシバ・仏前草と』も言い、『空海が青蓮華の代用として密教の修法に使った。青蓮花は天竺の無熱池にあるとされ、その花に似ているので仏前の供養用に使われた』とある。なお、仏前供養でお馴染みな割には、あまり知られていないと思うので引用しておくと、シキミは『花や葉、実、さらに根から茎にいたるまでの全てが毒成分を含む。特に、種子に』猛毒の神経毒であるアニサチン(anisatin)『などの有毒物質を含み、特に果実に多く、食用すると』、『死亡する可能性がある程度に有毒である』。『実際』に『事故が多いため、シキミの実は植物としては唯一、毒物及び劇物取締法により劇物に指定』『されている』ことは知っておいてよい。

「胡瓜」ウリ目ウリ科キュウリ属キュウリ Cucumis sativusウィキの「河童」には、『キュウリを好むのは、河童が水神の零落した姿であり、キュウリは初』実(な)り『の野菜として』、『水神信仰の供え物に欠かせなかったことに由来するといわれる』とある。柳田國男の論展開と一致するし、これは判り易く、プラグマティクで腑にも落ちる。

「攘(はら)ひ」「拂」「祓」に通ず。

「祇園の神」ウィキの「祇園信仰」によれば、それは『牛頭天王・スサノオに対する神仏習合の信仰で』、『明治の神仏分離以降は、スサノオを祭神とする神道の信仰となっている。京都の八坂神社もしくは兵庫県の広峯神社を総本社とする』。『牛頭天王は元々は仏教的な陰陽道の神で、一般的には祇園精舎の守護神とされ』、「簠簋(ほき)内伝」(安倍晴明が編纂したと伝承される占術書「三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集(さんごくそうでんいんようかんかつほきないでんきんうぎょくとしゅう)」の略称)の『記述が著名である。中国で道教の影響を受け、日本ではさらに神道の神であるスサノオと習合した。これは牛頭天王もスサノオも行疫神(疫病をはやらせる神)とされていたためである。本地仏は薬師如来とされた』。『平安時代に成立した御霊信仰を背景に、行疫神を慰め和ませることで疫病を防ごうとしたのが祇園信仰の原形である。その祭礼を「祇園御霊会(御霊会)」といい』、十『世紀後半に京の市民によって祇園社(現在の八坂神社)で行われるようになった。祇園御霊会は祇園社の』六『月の例祭として定着し』、天延三(九七五)年には、『朝廷の奉幣を受ける祭となった。この祭が後の祇園祭となる。山車や山鉾は行疫神を楽しませるための出し物であり、また、行疫神の厄を分散させるという意味もある。中世までには祇園信仰が全国に広まり、牛頭天王を祀る祇園社あるいは牛頭天王社が作られ、祭列として御霊会(あるいは天王祭)が行われるようになった』。『明治の神仏分離令で、神社での仏式の行事が禁止され、また、祭神の名や社名に「牛頭天王」「祇園」のような仏教語を使用することが禁止されたことから、祇園社・牛頭天王社はスサノオを祀る神社となり、社名を改称した。総本社である京都の祇園社は、鎮座地の地名から八坂神社とされた。その他の神社では、京都にならった八坂神社のほか、祭神の名前から素盞嗚神社・素戔嗚神社、かつての社名から祇園神社、また地名を冠したものや牛頭天王を祀る以前の旧社名などに改称した』。『牛頭天王・スサノオに対する信仰のうち、津島神社(愛知県津島市)を中心に東海地方に広まった信仰を津島信仰(つしましんこう)と呼ぶ』とある。牛頭天王と素戔嗚命(すさのおのみこと)と水神と河童を芋蔓式の誤魔化しではなく、多重多層的に結びつけるものが示されないと私のような偏屈者には、まだまだ納得が行かない。

「それより後は中に蛇が居るなどと稱して、決して胡瓜を食はず」祇園祭の期間は、胡瓜を食べないという習慣は全国的に残っている。これは一般には祇園神社の紋が「五瓜(ごか)紋」ウィキの「木瓜(もっこう)紋」の当該紋の画像)が胡瓜の輪切りに似ていることに由来するとされる。他にも、平将門の紋である「九曜星」がやはり似ていることから、千葉県などで胡瓜を食べない地区があることは大学時分に聴いたことがある。

「水天宮」「蠣殼町(かきがらちやう)の流行神(はやりがみ)」「鄕里の筑後に於いては、元は尼御前社(あまごぜしや)と稱せられ、城下より四里ほどの上流に九十瀨川(こせがは)と云ふ處の水神と夫婦(めをと)の神なり」東京都中央区日本橋蛎殻町にある水天宮(グーグル・マップ・データ)は、福岡県久留米市にある久留米水天宮の分社。ウィキの「水天宮(東京都中央区)」によれば、『久留米の水天宮は久留米藩歴代藩主(有馬家)により崇敬されていたが』、文政元(一八一八)年九月、第九代『藩主有馬頼徳が江戸・三田の久留米藩江戸上屋敷に分霊を勧請した。これが江戸の水天宮の始まりである。藩邸内にあったため』、『一般人の参拝が難しかったが、江戸でも信仰者の多い水天宮への一般参拝の許可を求める伺書を幕府へ提出、幕府のこうした事例は関与しないとの見解を得た上で、同年から毎月』五『の日に一般開放された。その人気ぶりは「情け有馬の水天宮」という地口も生まれたほどであった。有馬家の会計記録には「水天宮金」という賽銭や奉納物、お札などの販売物の売上項目があり、その金額は安政年間の記録で年間』二千『両に上り、財政難であえぐ久留米藩にとって貴重な副収入だった』。明治四(一八七一)年に『有馬家屋敷が移転することになり、それとともに赤坂に遷座したが』翌明治5年、『有馬家中屋敷(近隣の中央区立有馬小学校に名前と痕跡が残る)のあった現在の日本橋蛎殻町二丁目に移転した』。『有馬家との縁は続いており』、二〇一六年『現在の宮司有馬頼央は、有馬家の第』十七『代当主』だそうである。さて、本家の現在は福岡県久留米市瀬下町(せのしたまち)にある水天宮(グーグル・マップ・データ)もウィキの「水天宮(久留米市)」から引く。『天御中主神・安徳天皇・高倉平中宮(建礼門院、平徳子)・二位の尼(平時子)を祀る』。『社伝によれば』、寿永四(一一八五)年、『高倉平中宮に仕え』、『壇ノ浦の戦いで生き延びた按察使』(あぜち)『の局伊勢が千歳川』(現在の筑後川)『のほとりの鷺野ヶ原に逃れて来て、建久年間』(一一九〇年~一一九九年)『に安徳天皇と平家一門の霊を祀る祠を建てたのに始まる。伊勢は剃髪して名を千代と改め、里々に請われて加持祈祷を行ったことから、当初は尼御前神社と呼ばれた』(調べてみると、このプレ水天宮である尼御前神社はその後、筑後川下流の氾濫原を流されては再建し、転々と場所を移っていたらしい。但し、さらに調べるに、最初の位置候補として現在の水天宮の対岸(北)の佐賀県鳥栖(とす)市下野町(しものまち)(地図を拡大すると、同地区内にも「水天宮」が現認出来る)内に「鷺ケ鼻」という地名が残るという(ビッグツリー氏のサイト「ぶらり寺社めぐり」の久留米の「水天宮」の記載内)。また、ずっと上流であるが、福岡県うきは市浮羽町妹川周辺(以上総てグーグル・マップ・データ)もこの伝承と絡んでいるらしいことも判った(後の引用参照))。『そのころ、中納言平知盛の孫の平右忠が肥後国から千代を訪れ、その後嗣とした。これが現在まで続く社家・真木家の祖先である』。『慶長年間』(一三一一年~一三一二年)『に久留米市新町に遷り』、慶安三(一六五〇)年、『久留米藩第』二『代藩主有馬忠頼によって現在地に社殿が整えられ遷座したのが』、『現在総本宮である久留米水天宮で』、『その後も歴代藩主により崇敬されたが、特に第』九『代藩主頼徳』が以上の通り、『久留米藩江戸屋敷に分霊を勧請し』ている。

「九十瀨入道(こせにゆうだう)」(「ちくま文庫」版全集は前の九十瀬川にもこれにもルビを振らないが、これを「こせ」と読める人はそう多くはない。ルビを振らないのは、これ、不親切極まりないと私は思う)多くは平清盛が化した河童の頭目とするが、個人(女性)サイトの「のりちゃんず」の「巨勢山口神社」(この神社は奈良県御所市古瀬宮ノ谷にある)の解説の下方に、サイト主宛てに豪族「巨勢(こせ)氏」と「九十瀬入道」についての、メールで受けたとする情報が示されてあり、

   《引用開始》

「福岡県浮羽郡田主丸町の九十瀬入道についてですが、別名を巨瀬入道といいますが、田主丸町歴史研究家によれば、古代豪族の巨勢氏からではなく、同地方にある巨瀬川の「巨瀬」を取って名乗ったということです。例えば、『源氏の一部のものが、足利という土地を領するようになり、その後、足利を名乗るようになった』というように、中世の武士は、本貫地とする地名を氏としていますが、平氏の残党である武士が巨瀬川付近に住むようになって、自ら巨瀬と名乗ったのではないかと思います。なお、田主丸町史によれば、この九十瀬入道は、物語である旨、記載されています。」

「九十瀬入道については、福岡県浮羽郡浮羽町大字妹川(江戸時代まで、妹川村と呼ばれていました。)にある大山祇神社内にある御神体の敷板にも、次のことが書かれています。『妹川村地方は昔巨勢氏の領地であった。この巨勢氏の同族である妹川朝臣が開墾したので、この地を高西(こせ)の妹川という。巨勢大夫人は白鳳年中(五三八年~七一〇年)勅命により賊を討ったが敗れたため罪を蒙った。その子孫である蟻(あり)は僧となり諸国を修行し、先祖の遣蹟を慕ってこの地に来り住んだ。天宝壬寅春村民のために山神をまつって、田園の守護神として崇めさせ、樋を設けて濯漑の便をはかることなどを教えた。爾来鳥獣の害、早魃の憂いもなく五穀豊穣、居民は益々さかえた。蟻入道は後年自ら九十瀬入道(こせにゅうどう)ととなえたが、ある日山に入ったままとうとう帰らなかった。

村民は、敬慕のあまり滝のそばに小伺を立てて蟻権現とあがめた。これがいわゆる九十瀬水神である。』(原文は漢文)

大山祇神社については、壇ノ浦の敗戦後、平家の将卒は、九州にある巨瀬川を上って福岡県浮羽郡浮羽町大字妹川の樫ケ平に至り、同地にある大山祇神社を祭って戦勝の再興を祈願したそうです。九十瀬入道については、浮羽町史等が、平清盛や平家関係の人物である旨記載しておりますが、田主丸町史には、道君氏の15世及麿(ちかまろ)の捨い子であり、後に石垣山観音寺の中興の祖となる金光坊然廓(ねんかく、童子のころ現若(ありわか)と名付けられたそうです。)伝説の影響下で構成されたものではなかっただろうか、と記載しており、この九十瀬入道が、実在の人物であったかどうかには、未だ分かりません。今後も調査を続けようとおもいます。

なお、巨瀬川は巨勢川とも書きますが、巨勢川という川の名は巨勢氏から来ているそうです。何かの本で読んだのですが、福岡県には、筑後川があり、灌漑用水のため、巨勢氏が筑後川から支流を開いたので、巨勢川と呼んだそうです。」

   《引用終了》

とある。う~ん、なかなか奥が深そう!!!

「女院(にようゐん)」高倉天皇の皇后(中宮)で安徳天皇の母である建礼門院徳子。

「釜神」竈神に同じ。なお、調べているうちに、『各市町村史()、郷土史、書籍等から抜粋の釜神関係記事』と副題する「工房釜神 【釜神の伝説 言い伝え 習俗】」というマニアックな竈神ページを発見! ともかく凄い! 必読・要保存!!!

「八女(やめ)郡光友(みつとも)村大字田形(たがた)の釜屋神、卽ち、矢部川南岸の淵に臨みて構へられたる水神の社」福岡県八女市立花町田形にある釜屋神社(グーグル・マップ・データ)。事代主氏の「事代主のブログ」の「釜屋神社(立花)」によれば、祭神は罔象女命(みつはのめのみこと)・瀬織津媛命(せおりつひめのみこと)大日孁貴(おほひるめのむち)で、社殿に掲げられた「釜屋神社縁起」に(写真有り。事代主氏の電子化されたものを、そのまま引用させて貰う。

   《引用開始》

それここに筑後国上妻郡釜屋大明神は人皇五十代桓武天皇の御宇延暦年中この地に跡を祭りたもうてより多年の星霜を経て社頭も漸く頽敗しぬ。

然るに平治の頃薩摩国根占の城主大蔵大輔助能公綸命を蒙りて黒木の庄猫尾の城主に封ぜらる。ある時助能公霊夢によりて、嘉應年中この社頭を再興し給ひ尊信淺からず、則ち累世祈願の地と仰ぎ給う。

物換り星移り数十代を経て天正十二年甲申黒木兵庫頭家永公に至りて、猫尾落城、社頭も己に破却し候。その後慶長十一年田中吉政公尊敬ましまし神領を寄附し給ひ再び盛栄の霊地となれり、元和七年の春竹中寀女正公また神領御免の地を給う。同年の冬大守宗茂公御尊信の旨を以て猶また倍加の地を寄附し給ふ。

之に依りて神威日を追ふて輝き神徳年を経て厚し誠に国土安全五穀豊饒万民快楽の霊地となれり。今ここに宝暦十年辰三月旧例によりて瑞戸をひらき奉り貴餞の拝礼を乞う神奧奇跡の影を移すがごとく、その徳豈空しからんや(由緒板より)

   《引用終了》

以下、事代主氏の解説。『これによると』、『この神社は、桓武天皇の時代』(七一六年前後)『の創建のようで、平治の頃』(保元四年四月二十日(ユリウス暦一一五九年五月九日)~平治二年一月十日(同一一六〇年二月十八日))、『黒木の猫尾城主となった大蔵大輔助能が社殿を再興したとなっています』。『そして天正十二年』(一五八四年)に『黒木兵庫頭家永公』の『頃、猫尾』は『落城』し、後の元和七(一六二一)年『の春』、『竹中寀女』(采女(うねめ)であろう)『正』(しょう)、『公に許しを得て』、『同年の冬』、『大守宗茂公によって更に倍加の土地(神領)の寄附を賜ったとあります』。ブログ主は最後に『ここはいかにも水と河の神の社と云う雰囲気です』と述べておられる。添えられた写真とともに見られたい。確かに。いい感じ!]

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