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2019/03/18

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(33) 「靱猿根原」(1)

 

《原文》

靱猿根原  厩ノ祈禱ニ關係スル巫祝ノ中ニ、今一種ノ部類アリ。【萬歳師】ソハ今日モ隨分數多キ春ノ初ノ萬師ナリ。河童ノ手形ト誤ラレタル牛馬安全ノ守護札ヲ民家ニ配リシハ或ハ此輩ノ所業ナリトモ想像スルコトヲ得。而シテ此ニモ亦少々ナガラ猿ノ因緣ハアルナリ。【靱猿】能ノ狂言ニ「靱猿」ト云フ一曲アリ。アル我儘ナル大名、猿牽ノ猿ヲ見テ靱ニ張リタケレバ其皮ヲ呉レヨト言フ。猿牽ハ驚キテ色々ト詫言ヲ爲シ辛ウジテ勘辨シテ貰ヒ、其禮ニ猿ヲ舞ハスト云フ趣向ナリ。此狂言ノ猿屋モ腰ニ御幣ヲ挿シタリ。歌ノ文句ニハ厩ヲ譽メ馬ヲ祝スル語多シ。狂言ハ必ズシモ有力ナル史料ト認ムル能ハザルモ、之ヲ見レバ靱舞ノ根原ハ此時ノ猿ノ皮事件ニ在ルガ如クモ考ヘラル。然ルニ右ノ「ウツボ」ノ舞ナルモノハ、實ハ古クヨリ存在セシ厩祈禱ノ爲ノ宗教上ノ舞ナリシナリ。【野大坪】越前今立郡味間野(アヂマノ)村ノ野大坪(ノオツボ[やぶちゃん注:ママ。])及ビ上大坪ノ二大字ハ、所謂越前萬歳ノ鄕里ナルガ、此地ノ住民ガ自ラ記錄シタル由緖書ヲ檢スルニ、地名ノ大坪ハ卽チ右ノ宇津保舞ノ「ウツボ」ニ同ジ。彼等ノ先祖河内首(カハチノオビト)某ナル者ハモト朝廷ノ馬飼部ナリキ。或時皇子御寵愛ノ馬物ニ驚キテ、秣モ食ハズ病附キシヲ、此者其馬ノ前ニ進ミテ宇津保ノ舞ヲ舞ヒシカバ、忽チニシテ氣力ヲ恢復シ一命ヲ取留メタリ。ソレヨリ吉例トナリテ御厩ノ祈禱役ヲ命ゼラレ、野宇津保萬歳ノ稱號ヲ賜ハル。【唱門師】其後賴朝公ノ將軍時代ニハ鎌倉ニ召サレ、正月御初乘ノ式ニ祝言ノ禱ヲセシ功ヲ以テ、證文士ト云フ位ヲ授ケ且ツ萬歳樂ヲ舞フコトヲ許サル云々〔今立郡誌〕。此宇津保ノ舞ハ人ガ舞フモノニテ、猿トハ關係無キガ如クナレドモ、彼等ガ其家ノ神トシテ天鈿女命卽チ世ニ猿田彦神ノ妻トモ謂ヒ又猿女君(サルメノキミ)ノ祖先トモ謂フ女神ヲ祀リテアルコトハ頗ル注意ニ値セリ。此徒ノ厩ノ舞ガ何故ニ古クヨリ宇津保ト稱セシカハ誠ニ決シ難キ問題ナリ。試ミニ僅カナル手掛リニ由リテ想像ノヲ立テンニ、靱ニ猿ノ皮ヲ張ルコトハ決シテ狂言ノ大名ノ思附ニ非ズ。【猿皮靱】既ニ源平盛衰記ノ中ニモ猿ノ皮ノ靱ト云フコト見エタリ。而シテ猿ニハ限ラヌコトナレドモ、總テ靱ニ毛皮ヲ掛ケタルヲ名ヅケテ騎馬靱ト云ヒ、其他ノモノヲ大和靱ト云ヘバ〔武家名目抄〕、馬ニ騎ル武士ハ特ニ猿ノ皮ヲ掛ケタル靱ヲ携ヘテ馬ノ守護ト爲シ、馬ノ病ナドノ折ニモ自然ニ之ヲ用ヰテ舞フコトトナリシヨリ、其舞ヲモ「ウツボ」ト名ヅケシモノナランカ。

 

《訓読》

靱猿根原(うつぼざるこんげん)  厩の祈禱に關係する巫祝(ふしゆく)の中(うち)に、今一種の部類あり。【萬歳師】そは、今日も隨分數多き春の初めの萬師(まんざいし)なり。「河童の手形」と誤られたる牛馬安全の守護札を民家に配りしは、或いは、此の輩の所業なりとも想像することを得。而して此(ここ)にも亦、少々ながら、猿の因緣はあるなり。【靱猿】能の狂言に「靱猿」と云ふ一曲あり。ある我儘なる大名、猿牽の猿を見て靱に張りたければ、「其の皮を呉れよ」と言ふ。猿牽は驚きて、色々と詫言(わびごと)を爲し、辛(から)うじて勘辨して貰ひ、其の禮に猿を舞はすと云ふ趣向なり。此の狂言の猿屋も腰に御幣を挿したり。歌の文句には、厩を譽め、馬を祝する語、多し。狂言は必ずしも有力なる史料と認むる能はざるも、之れを見れば、靱舞(うつぼまひ)の根原は、此の時の「猿の皮事件」に在るがごとくも考へらる。然るに、右の『「ウツボ」の舞』なるものは、實は、古くより存在せし厩祈禱の爲の宗教上の舞なりしなり。【野大坪】越前今立郡味間野(あぢまの)村の野大坪(のおつぼ)及び上大坪の二大字(おほあざ)は、所謂、「越前萬歳」の鄕里なるが、此の地の住民が自ら記錄したる由緖書を檢(けみ)するに、地名の「大坪」は、卽ち、右の「宇津保舞」の「ウツボ」に同じ。彼等の先祖河内首(かはちのおびと)某(なにがし)なる者は、もと、朝廷の馬飼部(うまかひべ)なりき。或る時、皇子(みこ)御寵愛の馬、物に驚きて、秣(まぐさ)も食はず、病み附きしを、此の者、其の馬の前に進みて、「宇津保の舞」を舞ひしかば、忽ちにして氣力を恢復し、一命を取り留めたり。それより吉例となりて御厩の祈禱役を命ぜられ、「野宇津保萬歳」の稱號を賜はる。【唱門師】其の後、賴朝公の將軍時代には、鎌倉に召され、正月御初乘(おはつのり)の式に祝言の禱(いのり)をせし功を以つて、「證文士」と云ふ位(くらゐ)を授け、且つ、「萬歳樂」を舞ふことを許さる云々〔「今立郡誌」〕。此の「宇津保の舞」は人が舞ふものにて、猿とは關係無きがごとくなれども、彼等が其の家の神として、天鈿女命(あめのうづめのみこと)、卽ち、世に猿田彦神(さるたひこのかみ)の妻とも謂ひ、又、猿女君(さるめのきみ)の祖先とも謂ふ女神を祀りてあることは、頗る注意に値(あたひ)せり。此の徒の厩の舞が、何故に古くより「宇津保」と稱せしかは、誠に決し難き問題なり。試みに、僅かなる手掛りに由りて想像のを立てんに、靱に猿の皮を張ることは、決して、狂言の大名の思ひ附きに非ず。【猿皮靱(さるかはうつぼ)】既に「源平盛衰記」の中にも「猿の皮の靱」と云ふこと見えたり。而して、猿には限らぬことなれども、總て靱に毛皮を掛けたるを名づけて「騎馬靱(きばうつぼ)」と云ひ、其の他のものを「大和靱(やまとうつぼ)」と云へば〔「武家名目抄」〕、馬に騎(の)る武士は、特に猿の皮を掛けたる靱を携へて馬の守護と爲し、馬の病ひなどの折りにも、自然に之れを用ゐて舞ふこととなりしより、其の舞をも「ウツボ」と名づけしものならんか。

[やぶちゃん注:「靱(うつぼ)」正しくは「靫」「空穗」で(この「靱や「靭」は誤用〕、矢を携帯するための筒状の容器の称。竹などを編んで毛皮を張ったもの、練り革に漆をかけたものなどがあり、右腰に装着する。矢羽を傷めたり、篦(の:矢の竹の部分。矢柄(やがら))が狂ったりするのを防ぐことが主目的である。

「萬師(まんざいし)」既出既注

能の狂言に「靱猿」と云ふ一曲あり』大名狂言の一つで、狂言の世界では「猿(「靭猿」の猿役)に始まり、狐(「釣狐」の狐役)に終わる」とも言われ、狂言師を目指す子弟が本作の猿役で幼少時に初めて舞台に立つ演目としても知られている。大名が太郎冠者を連れて狩りに出かける途中、猿引きが連れている毛並みの良い猿を見かけて、「靱の皮にしたいから猿を譲れ」という。猿引きが断ると、大名は弓矢で脅し、無理に承知させる。猿引きが猿を殺そうと杖を振り上げると、無邪気な猿は、その杖を取って舟の櫓を漕ぐ真似をするので、猿引きは憐れを催し、手が下せない。大名も無心な猿の姿に心打たれ、命を助けてやる。猿引は喜んで、猿歌を歌い、猿に舞わせる。大名も上機嫌で猿に戯れて舞う真似をした上、扇・刀・衣服を褒美として与える、という筋。国立国会図書館デジタルコレクションの画像の「和泉流狂言大成全篇が読める(シノプシス部分は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「越前今立郡味間野(あぢまの)村の野大坪(のおつぼ)及び上大坪」これは現在の福井県越前市味真野町(あちょう)及びその東南で接する越前市上大坪みおぼ)(グーグル・マップ・データ)に当たる。柳田國男のルビは「ノオツボ」であるが、これは確かに「のおほつぼ」と読んだ場合、「ほ」が脱音される可能性があり、ルビの配置から見ても、かつては「のおつぼ」と読まれていたか、或いはそう発音では聴こえた可能性を排除出来ない。

「越前萬歳」小学館「日本大百科全書」によれば、『福井県越前』『市野大坪(のおおつぼ)に伝承する万歳。野大坪万歳ともよばれる。江戸時代は毎年元旦』『に越前の福井、鯖江(さばえ)、加賀(石川県)の金沢、大聖寺(だいしょうじ)などの藩城に登城していたという。越前には継体』『天皇にまつわる伝承が多く、万歳も例外でないが、不詳である。ただ』、『野大坪は靭舞(うつぼまい)に関する名称とされ、古い来歴をもつものだろう。太夫(たゆう)と才蔵各』一『人ずつの「ことぶき万歳」「扇づくし」、才蔵が複数の「三番叟(さんばそう)」「木やり万歳」「さいとり万歳」、両方とも複数の「舞込お家万歳」などがある。太夫は侍烏帽子(さむらいえぼし)、舞鶴(まいづる)の素袍(すおう)、手に扇、才蔵は大黒頭巾』、『着付』、『袴』、『手に万歳太鼓が基本だが、曲によって叺(かます)帽子、蝶々薙刀(ちょうちょうなぎなた)帽子をかぶる。舞、しぐさ、語りとも早いテンポで軽快である』とある。You Tube 早川真「2016全国万歳フェスティバルin安城 越前万歳で動画が見られる。

「河内首(かはちのおびと)某(なにがし)」yusakuブログ「yusakuの「5世紀の渡来人と首おびと)」に、『神功皇后の新羅征伐の時代より、日本と朝鮮半島との交流が盛んとなり、その後』、五『世紀に入って、半島の百済や新羅からの渡来人も急増した様である。この多くは不安定な国からの脱出であったと思』われる『が、一部はその技術が認められ、渡来を望まれた人々もいた』。『この様な人は、職種により』、『集団で渡来し、場所を与えられ(河内が多かった様だ)、その頭目には首(おびと)の称号が与えられた』。『首とは臣(おみ)とか連(むらじ)等より低い地位の氏に与えられたものであるが、渡来人には職掌名+首として氏に与えられた。応神天皇の時代、学者として百済より、王仁(わに)が招聘され、書首(ふみのおびと)と呼ばれ』、『他に鍛冶首や馬飼首等ある』とされ、続く継体天皇と馬飼首によれば、『継体天皇、当時は男大迹王(おほどのおう)が大和の豪族である大伴金村大連等に天皇となることを乞われても、直ちに首を振ることなく、たまたま知り合いであった、河内の馬飼首荒籠』(うまかいのあらこ)『に相談し、その話を受ける様勧められ、即位を決心した経過が』「日本書紀」に『述べられている』。『さて馬飼首とはどの様な人であったかを考えると、首とは職掌名を冠して賜る姓で、主として渡来人に付けられたものであるが、馬飼とは馬を飼育・調教する職種であった。こう書けば、今では大した職にみえないが、当時馬術は中国や朝鮮半島で軍備として、急速に発展してきたので、日本でも取り入れるべく、応神天皇の時代、貢物の一部として、馬や、それを育てる飼部(みまかい)が献上された、その中から馬飼首が誕生したと考えられる。現代風に言えばミサイルを操作するハイテクの技術屋集団の長であったのである。当然』、『この技術を通じて、大きな攻撃能力を有していたと考えられる』。『男大迹王が荒籠に頼んだのは、大和に入っても身の安全のための協力を求めたものであらう、この保証が得られたので、決心したと考えられる。それでも尚』、『警戒し、即位した場所が奈良でなく、大阪の樟葉(今の枚方市楠葉)で河内の地を選んだのであらう』とある。

「唱門師」「證文士」小学館「日本大百科全書」の「唱門師(しょうもんし)」によれば、『唱聞師、声聞師、唱文師、聖文師とも書き、「しょうもんじ」「しょもじ」ともいう。中世から名が現れ、民衆の門口に立って金鼓(きんこ)を打ち、経文や寿詞を唱える芸能の一種で、施しを乞』『うた。大和』『の興福寺に所属する唱門師はとくに知られ、清掃などで奉仕したが、一座を結成し、卜占』、『読経、曲舞(くせまい)などを行い、猿楽』『などの芸能を支配する権利を得ていた。近世の京都では大黒(だいこく)ともよばれ、皇居の門で元旦』『に毘沙門』『経を訓読して玉体の安穏を祈った。中世から近世初期にかけて毎年正月に宮中に出入りして千秋万歳(せんずまんざい)を奏したのも唱門師たちであった。京都のほか、近江』『や河内』『など各地に存在し、近世の大道芸人の先駆をなした』とある。

「賴朝公の將軍時代」頼朝の征夷大将軍宣下は建久三(一一九二)年三月十三日で、在位のまま建久一〇(一一九九)年一月十三日(満五十一歳)で急死しているから、事実とすれば、この閉区間の七年間のどこかとなる。

「天鈿女命(あめのうづめのみこと)」「猿田彦神(さるたひこのかみ)の妻」「猿女君(さるめのきみ)の祖先とも謂ふ女神」「岩戸隠れ」のストリップで特に知られる芸能の女神であり、日本最古の踊り子とされる。「天鈿女命」は「日本書紀」の表記で、「古事記」では「天宇受賣命」。参照したウィキの「アメノウズメによれば、『岩戸隠れで天照大御神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になったとき、神々は大いに困り、天の安河に集まって会議をした。思金神の発案により、岩戸の前で様々な儀式を行った』その決め手となったのが、彼女のそれで、「古事記」では、『「槽伏(うけふ)せて踏み轟こし、神懸かりして胸乳かきいで裳緒(もひも)を陰(ほと=女陰)に押し垂れき。」 つまり、 アメノウズメがうつぶせにした槽(うけ 特殊な桶)の上に乗り、背をそり胸乳をあらわにし、裳の紐を股に押したれて、女陰をあらわにして、低く腰を落して足を踏みとどろかし(』「日本書紀」では『千草を巻いた矛を、「古事記」では『笹葉を振り)、力強くエロティックな動作で踊って、八百万の神々を大笑いさせた。その「笑ひえらぐ」様を不審に思い、戸を少し開けた天照大神に「あなたより尊い神が生まれた」とウズメは言って、天手力雄神』(たぢからのをのかみ)『に引き出して貰って、再び世界に光が戻った』。また、『天孫降臨の際、邇邇芸命(ににぎ)が天降ろうとすると、高天原から葦原中国までを照らす神がいた。アメノウズメは天照大御神と高木神に、「手弱女だが顔を合わせても気後れしない(面勝つ)からあなたが問いなさい」と言われた。この時のアメノウズメは』、「日本書紀」によれば、『「その胸乳をあらわにかきいでて、裳帯(もひも)を臍(ほそ=ヘソ)の下におしたれて、あざわらひて向きて立つ。」』たとする。『つまり、乳房をあらわにし、裳の紐を臍の下まで押したれて、あざわらいながら向かって言った』のであった。『その後』、その神の『名を問い質すと』、彼は『国津神の猿田毘古神と名乗り、道案内をするために迎えに来たと言った』とある。『アメノウズメは天児屋命(あめのこやね)、布刀玉命(ふとだま)、玉祖命(たまのおや)、伊斯許理度売命(いしこりどめ)と共に五伴緒の一柱として』、『ニニギに随伴して天降りした。アメノウズメは猿田毘古神の名を明かしたことから』、『その名を負って仕えることになり、猿女君の祖神となった。一説には猿田毘古神の妻となったとされる』ことで、柳田國男が挙げた異名は総て説明される。『白川静は』「字訓」で、『「神と笑ひゑらぐ」巫女の神格化である。「神々を和ませ 神の手較ぶ(真似する)」神事の零落したものが、現在の芸能であり、折口信夫によれば、滑稽な技芸である猿楽(さるがく 能や狂言の祖)は、猿女のヲコのわざと一脈通じるという(上世日本の文学 天細女命)』。「巫女考」で『芝居の狂人が持つ竹の枝を「ウズメの持つ」笹葉が落ちたものとする柳田國男の説を享けた折口信夫は、手草』(たくさ:歌ったり舞ったりする際に手に持つもの。神楽の採り物としての笹などを指す)『を「神である」物忌みを表す標とし、「マナを招く」採り物とは別であるとした』。『谷川健一が、笑いと狂気という、「人間の原始的情念」の一環が噴出したものとしてあげ』ており(「狂笑の論理」)、『天の岩戸の前における「巧みに俳優をなす」彼女の行為は、神への祭礼、特に古代のシャーマン(巫)が行ったとされる神託の祭事にその原形を見ることができ』、『いわば』、『アメノウズメの逸話は古代の巫女たちが神と共に「笑ひゑらぐ」姿を今に伝えるものである』と言えよう。折口信夫は「上世日本の文学」で、『カミアソビは「たまふり」の儀礼であり、岩戸で行なったウズメの所作は「マナ(外来魂)を集め、神に附ける」古代の行為である』とし、さらに、『死者の魂を呼ぶ儀礼が遊びであるため、「岩屋戸の神楽は、天照大神が亡くなったため興った」という説は再考すべきだと言っているが、少なくとも』「延喜式」では、『宮廷で行われた古代の鎮魂祭において、巫女たちが「槽ふし」』の『激しい踊りを大王家の祖神へ奉納する儀礼に猿女も参加したことが記されている』。また、彼女の伝承で海産無脊椎動物フリークの私が好きな一つが、以下で、『アメノウズメは大小の魚を集めて天孫(邇邇芸命)に仕えるかどうか尋ねた。みな「仕える」と答えた中でナマコだけが何も答えなかったので、アメノウズメはその口を小刀で裂いてしまった。それでナマコの口は裂けているのである』という話である。]

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