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2019/03/29

甲子夜話卷之五 30 厭離穢土の御旗幷參州大樹寺閂の事

 

5-30 厭離穢土の御旗參州大樹寺閂の事

[やぶちゃん注:以下、長い二箇所の漢文体部分には訓点があるが、それを排除して、まず、白文で示し、後に( )で、訓点に完全に従った訓読文を添える形とする。やや読み難いので、訓読文では今まで本「甲子夜話」の電子化では一回もやっていないのだが、例外的に句読点を変更・増加し、送り仮名の一部を追加して送り、難読と思われる字には、これも極めて例外的に歴史的仮名遣で推定読みを添え、鍵括弧も添えた。静山の文はこれも特異的に改行した。

參州大樹寺登譽和尚傳云。永祿三年、東照神君出師不利、脫身奔走入大樹寺。時隨之者僅十八人。神君謂師曰。今日事急矣。當如之何。師曰。男兒當於死中求生計。豈可坐受窘辱乎。鳴呼檀越之有難者、係我法門之厄也。我雖沙門頗解兵策。能捨身命爲擁護、則敵不足懼矣。卽遣使近村招募兵士、得緇素五百人。乃設方略防守寺門。又以白布遽裁爲旗、大書之曰。厭離穢土欣求淨土。乃自揭旗、規度軍營處所。其指揮籌策、殆如宿將。神君見而壯焉。又云。從此之後、神君用兵、則必揭是旗而出、戰則必勝、攻則必取。平居無事、則納之烏漆匝、未嘗離其傍云。

(參州大樹寺の登譽和尚の傳に云ふ、『永祿三年、東照神君、師を出でて、利あらず、身を脫して奔走し、大樹寺に入る。時に之れに隨ふ者、僅に十八人。神君、師に謂ひて曰はく、「今日、事、急なり。當に之れを如何(いか)んとかす。」。師、曰はく、「男兒、當に死中に於いて生計を求むべし。豈に坐(ざ)ながら窘辱(くんにく)を受くべけんや。鳴呼、檀越(だんおつ)の難(なん)有るは、我が法門の厄に係れり。我れ、沙門と雖も、頗る兵策を解す。能く身命(しんみやう)を捨てゝ擁護を爲さば、則ち、敵、懼るるに足らず。」。卽ち、使ひを近村に遣はし、兵士を招き募るに、緇素(しそ)五百人を得。乃ち、方略を設け、寺門を防ぎ守らしむ。又、白布を以つて遽(には)かに裁して旗と爲し、大に之れを書きて曰はく、「厭離穢土欣求淨土」。乃(すなは)ち、自ら旗を揭げ、軍營の處所を規度(きど)す。其の指揮・籌策(ちうさく)、殆んど宿將のごとし。神君、見て、「壯なり。」とす。又、云はく、此れよりして後、神君、兵を用ひるとき、則ち、必ず、是の旗を揭げて出するに、戰へば、則ち、必勝、攻むれば、則ち、必取。平居、事は無きとき、則ち、之れを烏漆(うしつ)の匝(はこ)に納め、未だ嘗つて其の傍らを離さず、と云ふ。)

件の御旗のことは世普く所ㇾ知なり。御他界の後は、日光の神庫に納て、世々崇寶ありしと云。然にこの六七年前か、日光の何院とか火を失し、神庫も延燒して、此御旗も祝融の患に罹れりと聞く。又前書に云く。

寺有一僧。號曰祖同。勇悍多力能敵八十夫。時祖同介冑帶刀、爲神君御馬。敵兵方至已逼寺門。緘扃甚固欲入無從。神君曰、閉門拒之事似怯弱。言未訖、拔刀斫門關。祖同曰、此豈足以煩於君手耶。便進破鎖、奓戶而立。神君上馬。祖同執其馬勒而先登。從者十八人亦隨突出。雄壯威猛無敢近者。敵兵大潰神君得捷。其所斫門關、至今尚在大樹寺、刀痕宛然而存。

(寺に、一僧、有り。號して祖同と曰ふ。勇悍多力にして、能く八十夫に敵す。時に祖同、介冑(かいちう)して刀を帶び、神君の爲めに馬を御す。敵兵、方(まさ)に至りて已に寺門に逼(せま)る。緘扃(かんけい)、甚だ固くして入らんと欲すに從(よ)し無し。神君、曰はく、「門を閉(とざ)して之れを拒(ふせ)ぐは、事、怯弱(けふじやく)に似たり。言ふこと、未だ訖(をは)らざるに、刀を拔きて、門關を斫(き)る。祖同、曰はく、「此れ、豈に以つて君手(くんしゆ)を煩はすに足らんや。」。便ち、進みて鎖を破り、戶を奓(ひら)きて立つ。神君、馬に上る。祖同、其の馬の勒(くつわ)を執りて先登(せんとう)す。從ふ者、十八人、亦、隨ひて突き出づ。雄壯威猛、敢へて近づく者、無し。敵兵、大いに潰れて、神君、捷を得たり。其の斫る所の門關、今に至りて、尚ほ、大樹寺に在り、刀痕、宛然として存す。)

この門關も、亦五六年前大樹寺より持出たるとき、增上寺の方丈に於て拜見せり。このときの大僧正は敬譽典海と云て、予が少時より相識れる人なりし。因て見ることを得たり。凡木口にては三寸ばかり、長さは一間にもたらずと覺ゆ。神君の御太刀痕と云ものもさまで顯然たるにもあらず。然れば其時の有さまは、此門關にては知れず。唯急難の御時に、御勇氣の盛なるを以て相傳たる者ならん。因て予、僧正に言しは、此物は今幕下の歷々總て拜見すべきもの也。冀は其形狀を模寫ありて開梓せらるべし。然らば各遠く參州龍興の跡を拜觀し、英氣を長ぜんと申置たりしが、僧正も尋で遷化せしかば其事いかゞなりしにや。

■やぶちゃんの呟き

「參州大樹寺」現在の愛知県岡崎市鴨田町広元にある浄土宗成道山松安院(じょうどうさんしょうあんいん)大樹寺(だいじゅじ/だいじゅうじ)(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「大樹寺」によれば、『寺の言い伝えによれば』、永禄三(一五六〇)年の「桶狭間の戦い」で、『総大将義元を失った今川軍は潰走、拠点の大高城で織田方の水野信元の使者からの義元討死の報を聞いた松平元康(徳川家康)は、追手を逃れて手勢』十八『名とともに当寺に逃げ込んだ。しかし』、『ついに寺を囲んだ追撃の前に絶望した元康は、先祖の松平八代墓前で自害して果てる決意を固め、第』十三『代住職登誉天室に告げた。しかし登誉は問答の末』、「厭離穢土 欣求浄土」の教え(絶対他力で只管、阿彌陀の大慈大悲の誓願を信じて来世の極楽浄土を冀(こいねが)う浄土宗の教えを「穢れた世の中は清浄な世の中に変えなくてはならない」という自力的意味に読み換えたもので、『登誉は浄土宗徒でもあった元康に、この努めを果たすよう説得したとされる』)『を説いて諭した。これによって元康は、生き延びて天下を平定し、平和な世を築く決意を固めたという』。『元康は奮起し、教えを書した旗を立て、およそ』五百『人の寺僧とともに奮戦し郎党を退散させた。以来、家康はこの言葉を馬印として掲げるようになる。こうして元康は、今川軍の元での城代山田景隆が打ち捨てて空城となった古巣の岡崎城にたどりついたとされる』。『しかし』、「桶狭間の戦い」『の直後、三河へ撤退する松平勢に対し、織田勢が追撃戦を行ったという記録を有する資料は存在しない』とある。慶長七(一六〇二)年には『勅願寺とな』り、『家康の死に際しては』、第十七『代住職の了譽(りょうよ)が同席した。家康の死後は、遺言に従い、位牌が収められた。以降、歴代徳川将軍の等身大位牌が大樹寺に収められた』とある。

「閂」「かんぬき」。

「窘辱(くんにく)」辱めを受ける苦しみ。

「檀越(だんおつ)」檀家。

「緇素(しそ)」「緇」は出家者の衣の色である「黒」色を指し、「素」は在家者の衣の色である「白」色をいう。転じて、出家者と在家者の意。

「裁して」裁断して。

「規度(きど)す」奮起を促すための規範評語とし、軍紀を守ったということであろう。

「籌策(ちうさく)」計略。策略。

「宿將」経験に富んだ優れた将軍。老練なる武将。

「平居」非戦時。

「烏漆(うしつ)」烏の羽毛のように黒く、光沢を帯びた黒漆塗りのこと。

「祝融」祝融(しゅくゆう)は中国神話の「火の神」。炎帝の子孫とされ、火を司るとする。そこから、「火災に遇う」ことを「祝融に遇う」と喩える。

「介冑(かいちう)」鎧と兜。ここはそれらを装着すること。

「御す」「馭す」に同じい。

「緘扃(かんけい)」門を閉ざして堅く封じること。

「從(よ)し無し」「由無し」の同じ意でルビを振った。

「怯弱(けふじやく)」臆病。怯懦(きょうだ)。

「奓(ひら)きて」「開きて」に同じ。「奓」には「開ける」の意がある。

「勒(くつわ)」「轡」に同じい。

「捷を得たり」獲得するの意であるが、ここは戦に勝利することを指す。

「敬譽典海」浄土宗学僧にして増上寺第五十六世となった典海教誉のことかと思われる。俗姓は出島、号は演蓮社・教誉・光阿・義円。紀伊生まれ。大阪天満大信寺で剃髪、三田林泉寺の禀誉説典に師事、後、増上寺に入り、内外の経典を学び、増上寺学頭・連馨寺住職から、光明寺に転住、その後、増上寺住職となり、大僧正に叙された。文化六(一八〇九)年八十で入寂している(ここまで思文閣「美術人名辞典」に拠る)から、時期的にも合う。

「凡」「およそ」。

「木口」「こぐち」。木材を横切りにした面。

「一間」一メートル八十二センチメートル弱。

「御太刀痕」「おんたちあと」。

「開梓」「かいし」。公に板行(出版)すること。

「各」「おのおの」。

「龍興」これは本来は天子が国を起こして興隆させることを指すが、ここはそれを実質的に日本を収めた家康の出現に擬えたもの。

「申置たり」「まうしおきたり」。

「尋で」「ついで」。その時から間もなく。静山が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは、文化三(一八〇六)年に三男熈(ひろむ)に家督を譲って隠居した後の、文政四(一八二一)年十一月十七日甲子の夜であるから、典海教誉の入寂とも矛盾がない。

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