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2019/03/26

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(41) 「虬は水神」(2) / 「河童駒引」~了

《原文》
「ミンツチ」ハ日本語ノ「ミヅチ」ト關係アルべキコト、「アイヌ」ノ音韻轉訛ノ法則ヨリ見テ露ホドモ疑ナシト、金田一君ハ言ハレタリ。奧州ノ「メドチ」ハ固ヨリナリ。加賀能登ノ「ミヅシ」ニ至リテモ、之ヲ「ミヅチ」ノ轉訛ト考フルノ外別ニ一案ノ存スル無シ。「ミヅチ」ハ我邦ニ於テハ古クヨリ之ヲ漢字ノ虬又ハ蛟ニ宛テタレドモ、單ニ其語原ヨリ見レバ未ダ之ヲ蛇類ニ屬スべキ理由ヲ知ラズ。本居氏ノ說ニハ、「ミヅチ」ノ「ミ」ハ十二支ノ巳又ハ「オカミ」、「へミ」、「ハミ」ナドノ「ミ」ニ同ジク、モト龍蛇ノ類ノ總稱ナリ。「ツ」ハ之ニ通フ辭ニシテ「チ」ハ尊稱ナリ。野槌ナドノ例ニ同ジトアレド、自分ハ其野槌ノ例ヨリ推シテ之ヲ水槌ノ義ナランカト思ヘリ。【足摩乳】【手摩乳】「ツチ」ノ靈物ヲ意味スルラシキ旁例ハ、出雲ノ國津神足摩乳(アシナツチ)手摩乳(テナツチ)アリ。【打出小槌】打出小槌ヲ如意ノ寶トスルコト、奧州ノ「イタコ」等ガ槌ノ子ニ由リテ巫術ヲ妨ゲラレシ話〔佐々木繁氏談〕、サテハ大地ヲ「ツチ」ト云フナドヲ思合セテ、此ノ如ク考フルナリ。歷代ノ文人タチ、其漢學ノ知識ヲ以テ頻リニ虬ノ字蛟ノ字ヲ以テ「ミヅチ」ニ宛テヽ止マザリシモ、水邊ニ住スル平民ハ一向之ニ頓著セズ、何カ有リ得べキ怪物ニ托シテ各自ノ水ノ神ヲ想像セシハ寧ロ正直ナリト云フべク、彼等ハ父祖十數代一タビモ遭遇セザル四脚ノ蛇ナドヲ、村ノ水中ニ養フコト能ハザリシナリ。而モ又否定スべカラザル一事ハ、每年夏月ニ入ルニ及ビ、小兒婦女牛馬ノ類往々ニシテ淵ニ入リテ死シ、恰モ物アリテ其獲物ヲ求ムルガ如クナリシヨリ、「ミヅチ」ノ恐怖ハ久シキヲ經テ愈深ク、神トシテ之ニ仕ヘ其意ヲ迎フルニ非ザレバ其災ヲ免ルヽ能ハズト信ズルニ至リシナリ。其時一人ノ英雄アリ、乃至ハ道力優レタル行者ノ村ヲ訪フ者アリ。法(カタ)ノ如ク出現シ來リ法ノ如ク兇神ヲ退治シ去ル。【傳說ノ發明】是レ卽チ我々ガ所謂傳說ノ東雲ナリ。傳說ハ恰モ春ノ野ノ陽炎ノ如シ。能ク我等ガ望ム所ニ向ヒテ發展ス。唯夫レ陽炎ノ如クナルガ故ニ、從前ノ信仰ハ少ナクモ其形式ノ上ニ於テハ此ガ爲ニ一朝ノ變革ヲ受クルコト無ク、永ク其痕跡ヲ故土ニ留ムルナリ。天然ノ神々ガ人間ノ便宜ニ抵抗スル能ハズシテ徐ロニ其威力ヲ收メ、終ニハ腑甲斐無キ魑魅魍魎ノ分際ニ退却スルコトハ何レノ民族ニ於テモ常ニ然リ。而モ彼等ガ既ニ其結界ヲ明渡シ其犧牲ヲ思切リテ後モ、責メテハ型バカリノ昔ノ祭ヲ要求シ、且ツハ氣味惡キ儀式ヲ繰返シテ畏怖ノ記念ヲ新ナラシメ、且ツハ之ニ由リテ敗北ノ失望ヲ慰メラレントスルモノ往々ニシテコレ有リ。【センゾク】【駒繫松】サレバ彼ノ馬ヲ水邊ノ杙ニ繫ギテ河童ノ祭ト稱スル土佐ノ例ノ如キモ、恐クハ又「ミヅチ」ニ對スル最少限度ノ養老金ノ類ニシテ、更ニ多クノ洗足池馬洗淵ノ地名ハ、由來不明ナル各地ノ駒繫松ナドト共ニ、年々馬ヲ水ノ神ニ供ヘタル上古ノ儀式ヲ、イツト無ク農民ノ好都合ニ解釋シテ、之ヲ以テ其馬ノ災害ヲ除却スル一手段ト見ルニ至リシモノ、久シキヲ經テ再ビ其理由ヲ忘ルヽニ至リシナルべシ。【雨乞】牛馬ノ首ヲ水ノ神ニ捧グル風ハ、雨乞ノ祈禱トシテハ永ク存シタリキ。朝鮮扶余縣ノ白馬江ニハ釣龍臺ト云フ大岩アリ。唐ノ蘇定方百濟ニ攻入リシ時、此河ヲ渡ラントシテ風雨ニアヒ、仍テ白馬ヲ餌トシテ龍ヲ一匹釣上ゲタリト云フ話ヲ傳ヘタリ〔東國輿地勝覽十八〕。白キ馬ハ神ノ最モ好ム物ナリシコト、舊日本ニ於テモ多クノ例アリ。 


《訓読》
『「ミンツチ」は日本語の「ミヅチ」と關係あるべきこと、「アイヌ」の音韻轉訛の法則より見て、露(つゆ)ほども疑ひなし』と、金田一君は言はれたり。奧州の「メドチ」は固(もと)よりなり。加賀・能登の「ミヅシ」に至りても、之れを「ミヅチ」の轉訛と考ふるの外、別に一案の存する無し。「ミヅチ」は我が邦に於ては、古くより之れを漢字の「虬」又は「蛟」に宛てたれども、單に其の語原より見れば、未だ之れを蛇類に屬すべき理由を知らず。本居氏の說には、「ミヅチ」の「ミ」は十二支の巳(み)、又は「オカミ」・「へミ」・「ハミ」などの「ミ」に同じく、もと、龍蛇の類の總稱なり。「ツ」は之れに通(かよ)ふ辭(じ)にして「チ」は尊稱なり。「野槌(のづち)」などの例に同じ、とあれど、自分は其の「野槌」の例より推して、之れを「水槌(みづづち)」の義ならんかと思へり。【足摩乳(あしなつち)】【手摩乳(てなつち)】「ツチ」の靈物(れいぶつ)を意味するらしき旁例(ばうれい)は、出雲の國津神(くにつかみ)足摩乳(あしなつち)手摩乳(てなつち)あり。【打出小槌(うちでのこづち)】打出小槌を如意(によい)の寶(たから)とすること、奧州の「イタコ」等が「槌(つち)の子(こ)」に由りて、巫術(ふじゆつ)を妨げられし話〔佐々木繁氏談〕、さては、大地を「ツチ」と云ふなどを思ひ合はせて、此(かく)のごとく考ふるなり。歷代の文人たち、其の漢學の知識を以つて、頻りに「虬」の字、「蛟」の字を以つて「ミヅチ」に宛てゝ止まざりしも、水邊に住する平民は、一向、之れに頓著(とんちやく)せず、何か有り得べき怪物に托して、各自の水の神を想像せしは、寧ろ、正直なりと云ふべく、彼等は父祖十數代一たびも遭遇せざる四脚の蛇などを、村の水中に養ふこと、能はざりしなり。而も又、否定すべからざる一事は、每年、夏月に入るに及び、小兒婦女・牛馬の類ひ、往々にして、淵に入りて死し、恰(あたか)も物ありて其の獲物を求むるがごとくなりしより、「ミヅチ」の恐怖は久しきを經て愈々(いよいよ)深く、神として之に仕へ、其の意を迎ふるに非ざれば、其の災ひを免るゝ能はず、と信ずるに至りしなり。其の時、一人の英雄あり、乃至(ないし)は道力(だうりき)優れたる行者の村を訪ふ者あり。法(かた)のごとく出現し來たり、法のごしく兇神を退治し去る。【傳說の發明】是れ卽ち、我々が所謂、「傳說の東雲(しののめ)」なり。傳說は、恰も春の野の陽炎(かげらふ)のごとし。能く我等が望む所に向ひて發展ス。唯だ、夫れ、陽炎のごとくなるが故に、從前の信仰は、少なくも其の形式の上に於ては、此れが爲に一朝の變革を受くること無く、永く其の痕跡を故土に留むるなり。天然の神々が人間の便宜に抵抗する能はずして、徐(おもむ)ろに其の威力を收め、終(つひ)には腑甲斐無き魑魅魍魎の分際に退却することは、何れの民族に於ても常に然り。而も彼等が既に其の結界を明け渡し、其の犧牲を思ひ切りて後も、責めては型ばかりの昔の祭りを要求し、且つは、氣味惡き儀式を繰り返して、畏怖の記念を新たならしめ、且つは、之れに由りて敗北の失望を慰められんとするもの、往々にして、これ、有り。【せんぞく】【駒繫松(こまつなぎまつ)】されば彼の馬を水邊の杙(くひ)に繫ぎて河童の祭りと稱する土佐の例のごときも、恐らくは又、「ミヅチ」に對する最少限度の養老金の類ひにして、更に多くの、「洗足池」「馬洗淵」の地名は、由來不明なる各地の「駒繫松」などと共に、年々、馬を水の神に供へたる上古の儀式を、いつと無く、農民の好都合に解釋して、之れを以つて其の馬の災害を除却(じよきやく)する一手段と見るに至りしもの、久しきを經て、再び其の理由を忘るゝに至りしなるべし。【雨乞(あまごひ)】牛馬の首(かふべ)を水の神に捧ぐる風は、雨乞ひの祈禱としては永く存したりき。朝鮮扶余縣(ふよけん)の白馬江(はくばこう)には釣龍臺(てうりようだい)と云ふ大岩あり。唐の蘇定方(そていはう)、百濟(くだら)に攻め入りし時、此の河を渡らんとして、風雨にあひ、仍(よつ)て、白馬を餌として、龍を一匹、釣り上げたりと云ふ話を傳へたり〔「東國輿地勝覽(とうごくよちしやうらん)」十八〕。白き馬は神の最も好む物なりしこと、舊日本に於いても、多くの例あり。


[やぶちゃん注:これを以って「山島民譚集」の「河童駒引」は終わっている。私は正直、「河童駒引」がこれでエンディングというのは、かなり消化不良を起こすものではある。まあ、そのお蔭で石田英一郎氏の名著「河童駒引考」(昭和二三(一九四八)年筑摩書房刊)が書かれたのであってみれば、よしとしよう。
「本居」本居宣長。
「オカミ」「龗」(音「レイ・リョウ」)で日本神話の神「淤加美神(おかみのかみ)」。「古事記」にも言及される、罔象女神(みづはのめのかみ)とともに水神とされる。ウィキの「淤加美神」によれば、『神産みにおいて伊邪那岐神が迦具土神を斬り殺した際に生まれたとしている』。「古事記及び「日本書紀」の『一書では、剣の柄に溜つた血から闇御津羽神(くらみつはのかみ)とともに闇龗神(くらおかみのかみ)が生まれ』たとし、「日本書紀」の『一書では』、『迦具土神を斬って生じた三柱の神のうちの一柱が高龗神(たかおかみのかみ)であるとしている』。『高龗神は貴船神社(京都市)の祭神である』。「古事記」では、『淤迦美神の娘に日河比売(ひかはひめ)がおり、須佐之男命の孫の布波能母遅久奴須奴神(ふはのもぢくぬすぬのかみ)と日河比売との間に深淵之水夜礼花神(ふかふちのみづやれはなのかみ)が生まれ、この神の』三『世孫が大国主神であるとしている。 また、大国主の』四『世孫の甕主日子神』(みかぬしひこのかみ)『は淤加美神の娘比那良志毘売』(ひならしびめ)『を娶り、多比理岐志麻流美神』(たひりきしまるみのかみ)『をもうけている』。漢字の「龗」は「龍」の古字であり、「神」「善」の意もある。
「野槌(のづち)」、本邦の妖怪。ウィキの「野槌」によれば、「野つ霊」「野椎」とも。「野の精霊」(「野つ霊(ち)」)の意『であるとも言われる』。『外見は蛇のようだが、胴は太く、頭部に口がある以外は目も鼻もなく、ちょうど柄のない槌(つち)のような形をしている』。『深山に棲み』、『子ウサギやリスを食べる』が、『時には人を喰うとされた』。『近畿地方・中部地方・北陸地方・四国地方を中心に伝承されているもので』、『シカを一飲みにする』、『転がってくる野槌に当たると死ぬ』、『野槌に見つけられただけでも病気を患ったり、高熱を発して死ぬともいう』。『昭和中期から未確認生物として知名度をたかめたツチノコは、野槌に用いられていた呼称のひとつ(槌の子・土の子)だったが、昭和』四十『年代以降』(一九六五年以降)『はマスメディアなどで多用された結果、野槌のような伝承上の特徴をもつ蛇の呼称も「ツチノコ」が定着していった』。寺島良安の「和漢三才図会」では、『大和国(現・奈良県)吉野山中の菜摘川(夏実川)や清明滝(蜻螟滝)でよく見かけるもので、野槌の名は槌に似ていることが由来とある。深山の木の穴に住み、大きいものでは体長』三『尺(約』九十『センチメートル)、直径』五『寸(約』十五『センチメートル)、人を見ると』、『坂を転がり下って』、『人の足に噛みつくが、坂を登るのは遅いので、出くわしたときには高いところへ逃げると良いという』とある。同原文・訓読と私の注は「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「野槌蛇(のづち)」を見られたい。『仏教説話の中にも「野槌」という名は見られ、鎌倉時代の仏教説話集』「沙石集」『には、徳のない僧侶は深山に住む槌型の蛇に生まれ変わるとされている。生前に口だけが達者で智慧の眼も信の手も戒めの足もなかったため、野槌は口だけがあって目や手足のない姿だとある』。『鳥山石燕は』「今昔画図続百鬼」で『全身毛だらけの野槌がウサギを食べる様子を描いているが、解説文でその形状を』「沙石集」を『引いて「目も鼻もなき物也といへり」と述べている』。「古事記」「日本書紀」に『登場している草の女神』『カヤノヒメの別名に野椎神(ノヅチノカミ)があり、「のづち」という言葉そのものは、草や野の精であるという解釈がとられている』。『鳥山石燕が野槌の解説文に「草木の精をいふ」』『とも述べているが、これはそれを受けたものである。記紀神話にはカヤノヒメを蛇とする記述は見られないものの、夫のオオヤマツミを蛇体とする説があることからカヤノヒメも蛇体の神だと考えられている』。『仏教が普及すると、カヤノヒメが霧の神、暗闇の神、惑わしの神を産んだとされることから、野槌は妖怪変化を産む神とみなされ、野槌自体も次第に妖怪視された』。『近代以前の辞書などではさまざまな虫について「のづち」と称している例も見ることも出来る。平安時代の漢和辞典』「新撰字鏡」では、『蝮(フク。マムシの漢字)に「乃豆知」』、『蠍(カツ。サソリの漢字)に「乃豆知」』『という訓読みを示している。江戸時代に編纂された源伴存』の「古名録」でも、『蝮の項目に』「新撰字鏡」等を引きつつ、『「乃豆知」「乃川知」という呼び方を示している他、「古書ノヅチト云ハ蚖(クソヘビ)ニノ長サ四五寸、首尾一般ノハビ也」としている』。『また、室町時代に編纂された』国語辞書「節用集」では、『「蝍蛆」(ムカデ、またはコオロギの事)に「ノヅチ」と読み仮名を当てたものもある』とある。『江戸時代の黄表紙』「妖怪仕内評判記(ばけものしうちひょうばんき)」にも『野槌が登場するが、こちらは』「のっぺらぼう」の如く、『目鼻のない人型の化け物で、頭の上の大きな口で物を食べる姿として描かれている』。この容貌は江戸初期の怪談集「奇異雑談集」の『「人の面に目鼻なくして口頂の上にありてものをくふ事」に描かれている、目鼻がなく口のみある「不思議の人」の図像を借用したもので、口のみ』を『器官として』持つ『とされる野槌にあわせて取られたものであると見られ』ている、とある。
「足摩乳(あしなつち)」「手摩乳(てなつち)」前者(「足」は「脚」とも、「なつち」は「名椎」とも書く)は「古事記」「日本書紀」に見える男神で後者はその妻。出雲の斐伊川の川上に住む老夫婦として登場し、二人の娘の奇稲田姫(くしなだひめ)が八岐大蛇(やまたのおろち)に食われるところを素戔嗚尊に救われ、新たに造営された宮の管理に当たるとともに、稲田宮主神(いなだみやぬしのかみ)の名を与えられる。記紀神話全体から見ると、天から降った神と初めて対面した国神となる。記紀の神界は、天上の神と地上の神に大別されており、また神話における「初め」には、その「典型」を示す働きがあるので、この神が素戔嗚に服従の態度をとったことは、天上の神が国神に対し、優勢であるのが基本的な在り方であるという構造を示そうとしているとも言う(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
「旁例(ばうれい)」「傍例」に同じ。一般に見られる例のこと。
「如意(によい)」思うがままのことが成就するの意。
『奧州の「イタコ」等が「槌(つち)の子(こ)」に由りて、巫術(ふじゆつ)を妨げられし』不詳。
「責めては」せめても。
「除却(じよきやく)」取り除くこと。
「朝鮮扶余縣(ふよけん)」現在の大韓民国忠清南道扶余郡(グーグル・マップ・データ)。「白馬江(はくばこう)」は東北から南西に貫通している川の部分名であろう。「釣龍臺(てうりようだい)」の位置はハングルなので判らない。この伝承はサイト「龍学」の「白馬江と釣龍台」に詳しい。
「蘇定方(そていはう)」(五九二年~六六七年)は、初唐の軍人。名は烈、定方は字(あざな)。ウィキの「蘇定方」によれば、十五歳で『父の下で従軍し、しばしば先頭に立って敵陣を陥落させた』。『唐の貞観初年』(六二七年)、『匡道府折衝となり、李靖の下で二百騎を率いて突厥を攻撃する先鋒をつとめ、霧の中で牙帳を襲撃した。突厥の頡利可汗』(けつりかがん)『は狼狽して逃亡し、李靖がまもなく到着すると、取り残された突厥の一党はことごとく降伏した。凱旋すると、定方は左武候中郎将に任ぜられた。永徽』(えいき)『年間』(六五〇年~六五五年)『に左衛勲一府中郎将に転じた。程名振とともに高句麗を攻撃(唐の高句麗出兵)して、これを破った。右屯衛将軍に任ぜられ、臨清県公に封ぜられた』。その後も、異民族の制圧に功あって、彼の活躍によって、『唐の勢力圏は中央アジア』はもとより、『パミール高原より西の地方も唐の勢力圏に入った』。六六〇年、『熊津道(ようしんどう)大総管となり、軍を率いて百済の征討にあたった。城山から海をわたって熊津口に上陸』、『沿岸の百済軍を撃破して真都城に進軍すると、百済の主力と決戦して勝利をおさめ』、『百済王義慈や太子の隆は北方に逃走した。定方が泗沘』(しび)『城を包囲すると、義慈の子の泰が自立して王を称した。泰は抗戦を続けようとしたが、義慈は開門して降伏することを決意して、泰はこれを止めることができなかった。百済の将軍の禰植と義慈は唐軍に降り、泰も捕らえられ、ここに百済は平定された。百済王義慈や隆・泰らは東都洛陽に送られた』とあり、この中のワン・シークエンスが、以上の白馬江釣龍台での出来事なのである。『定方は三カ国を滅ぼし、いずれもその王を捕らえたため、賞与の珍宝は数えきれず、子の蘇慶節は尚輦奉御の位を加えられた。まもなく』、『定方は遼東道行軍大総管となり、また平壌道行軍大総管に転じた。高句麗の軍を浿江で破り、馬邑山の敵営を落とし、平壌を包囲した。大雪に遭って、包囲を解いて帰還した。涼州安集大使に任ぜられて、吐蕃や吐谷渾とも戦った』。七十六歳で『死去すると、高宗はかれの死をいたんで、左驍衛大将軍・幽州都督の位を追贈した』とあり、生涯、根っからの軍人であり続けた武人であることが判り、龍も釣るだろうという気がしてくる壮士である。

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