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2019/03/21

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(39) 「河童の神異」(5)

《原文》

 所謂夏越祭又ハ牛ノ藪入ノ趣旨ハ多クハ牛馬ノ疫病ヲ防グ爲ナリト云フモ、又異ナリタル口碑ノ存スルアリ。例ヘバ備後ノ福山附近ニテハ、七月七日ニ牛馬ヲ海川ニ引入レテ置ケバ、年中河童ノ災難ニ遭フコト無シト信ゼラレタリ〔風俗問狀答書〕。【野牧】【河童ノ祭】曾テ河童ガ馬ヲ引込マントシテ失敗セシ古跡、土佐長岡郡ノ下田ナドニテハ、每年六月十五日ニ家々ノ馬ヲ川端ニ引出シ、長キ綱ヲ以テ之ヲ杭ニ繫ギ置クヲ野牧ト稱シ、此ノ日ハ又河童ノ祭ヲ營ム〔土州淵岳志〕。遭難當時ヲ記念スル爲ニ年々同ジ作法ヲ繰返スモノカ、但シハ又斯ル慣習アル爲ニ此傳說ヲ發生セシモノカ、之ヲ判斷セザルべカラザルハ我々ナリ。思フニ猿ノ水中ニ住ムニ至リシモ、段々ノ順序ヲ考ヘテ見レバ必ズシモ非常ニ不自然ニハ非ズ。川ノ流ノ淵ヲ爲ス場處ヲ諸國ニテハ多クハ釜ト云フ。【竃ノ祭】釜ハ英語ノ「ポツト」ナドトハ別ニテ、周圍ヲ巖石ニテ圍ハレ一方ニノミ開ケルサマ、ホボ竃ノ形ニ似テ居ルガ爲ノ名ナルガ如ク、昔ヨリ之ヲ竃ノ神ノ祭場ニ用ヰタリシガ如シ。陸上ニテモ岩ノ形ノ竈ニ似タル處ヲ崇敬シタル例ハ多シ。巫女ノ宗教ニ於テハ生命ノ根原トシテ食物調製ノ爲ニ用ヰラルヽ竃其物ヲ祭ル風アリキ。貴人大家ナラバ家々ノ竃ニ就キテ其祭ヲ營ミシナランモ、一村一鄕合同ノ竃祭ニハ、天然ノ地形ノ竈ニ似タル處、卽チ前ニ屢擧ゲタルガ如キ川々ノ淵、又ハ山中ノ岩組ノ中凹ナル處ナドヲ其祭場ニ選定セシモノナラン。【馬ト竃】而シテ竃ノ神ト馬トハ夙クヨリ深キ關係アリキ。此ハ馬ノ蹄ノ痕ガ昔ノ時代ノ竈ノ形ト似テ居タリシ爲カ、或ハ又竈ハ火ノ神ナルガ故ニ午ニ相當スル馬ヲ以テ其ノ象徵トシタルモノカ、未ダ充分ニ其理由ヲ知ル能ハザルモ、兎ニ角二者ノ關係アリシコトノミハ疑無シ。馬ノ鞋ヲ作リテ初春每ニ之ヲ竃ノ神ニ供ヘ、馬ノ繪札ヲ竃ノ傍ニ貼附ケ、或ハ又生レシバカリノ馬ノ子ヲ曳キテ竈ノ神ヲ拜マシムルガ如キ風習ノ、今モ各地ニ行ハルヽモノ甚ダ多シ。牛ニ就キテモ之ニ似タル例アリ。例ヘバ羽後北秋田郡阿仁合(アニアヒ)町ニテハ、十二月二十八日ニ竈ノ神ノ祭アリ。宮ノ神主ハ一枚ノ紙ニ三十六ノ牛ヲ印刷シタルモノヲ家每ニ配リタリ。昔伊勢ニテ三十六頭ノ牛物ヲ運ビテ功アリ。【飯盛】御炊(ミカンキ)ノ神氷沼道主(ヒヌマノミチヌシ)、三十六ノ「ヘツヒ」ノ神ヲ率ヰテ朝夕ノ大御食(オホミケ)ヲ炊キ供フト云フ故事ニ基クカト云ヘリ〔眞澄遊覽記二十三〕。但シ其故事何ニ見ユルカヲ知ラズ。此等ノ關係ヨリ察スレバ、竃ノ神ノ祭場ガ同時ニモシクハ時代ヲ經テ、牛馬ノ神ノ祭場トナルコト無シト云フべカラズ。而シテ所謂河童ガ牛馬ノ神トシテ常ニ水邊ノ祭場ニ居住スト考ヘシモ亦自然ノ推測ト謂フべキナリ。但シ氣紛レニ人間ノ子供ニ迄モ手ヲ出セシガ爲ニ、其正體ガ甚シク不明ト爲リ、此ノ如ク後世ノ硏究者ニ手數ヲ掛クルニ至リシナリ。

《訓読》

 所謂、「夏越祭」又は「牛の藪入り」の趣旨は、多くは牛馬の疫病を防ぐ爲なりと云ふも、又、異(こと)なりたる口碑の存するあり。例へば、備後の福山附近にては、七月七日に牛馬を海川(うみかは)に引き入れて置けば、年中、河童の災難に遭ふこと無しと信ぜられたり〔「風俗問狀答書(ふうぞくとひじやうこたへ)」〕。【野牧(のまき)】【河童の祭】曾つて河童が馬を引き込まんとして失敗せし古跡、土佐長岡郡の下田などにては、每年六月十五日に家々の馬を川端に引き出だし、長き綱を以つて之れを杭(くひ)に繫ぎ置くを「野牧」と稱し、此の日は又、河童の祭を營む〔「土州淵岳志」〕。遭難當時を記念する爲に年々同じ作法を繰り返すものか、但しは、又、斯かる慣習ある爲に此の傳說を發生せしものか、之れを判斷せざるべからざるは、我々なり。思ふに、猿の水中に住むに至りしも、段々の順序を考へて見れば、必ずしも非常に不自然には非ず。川の流れの淵を爲す場處を諸國にては多くは「釜(かま)」と云ふ。【竃(かまど)の祭】釜は英語の「ポツト」[やぶちゃん注:pot。]などとは別にて、周圍を巖石にて圍はれ。一方にのみ開けるさま、ほぼ竃の形に似て居るが爲の名なるがごとく、昔より之れを竃の神の祭場に用ゐたりしがごとし。陸上にても、岩の形の竈に似たる處を崇敬したる例は多し。巫女(ふぢよ)の宗教に於ては生命の根原として食物調製の爲に用ゐらるゝ竃其の物を祭る風ありき。貴人大家ならば家々の竃に就きて其の祭を營みしならんも、一村一鄕合同の竃祭には、天然の地形の竈に似たる處、卽ち、前に屢々擧げたるがごとき川々の淵、又は、山中の岩組みの中凹(なかくぼ)なる處などを、其の祭場に選定せしものならん。【馬と竃】而して竃の神と馬とは夙(はや)くより深き關係ありき。此れは、馬の蹄(ひづめ)の痕(あと)が昔の時代の竈の形と似て居たりし爲か、或いは又、竈は「火」の神なるが故に「午(うま)」に相當する「馬」を以つて其の象徵としたるものか、未だ充分に其の理由を知る能はざるも、兎に角、二者の關係ありしことのみは疑ひ無し。馬の鞋(わらぢ)を作りて、初春每に之これを竃の神に供へ、馬の繪札を竃の傍らに貼り附け、或いは又、生れしばかりの馬の子を曳きて、竈の神を拜ましむるがごとき風習の、今も各地に行はるゝもの甚だ多し。牛に就きても之れに似たる例あり。例へば、羽後北秋田郡阿仁合(あにあひ)町にては、十二月二十八日に竈の神の祭あり。宮の神主は、一枚の紙に三十六の牛を印刷したるものを家每に配りたり。昔、伊勢にて三十六頭の牛、物を運びて功あり。【飯盛(いひもり)】御炊(みかしき)の神氷沼道主(ひぬまのみちぬし)、三十六の「へつひ」[やぶちゃん注:「竃(へつつい(へっつい)」。「かまど」の主に関西での呼称。]の神を率ゐて、朝夕の大御食(おほみけ)を炊き供ふと云ふ故事に基づくかと云へり〔「眞澄遊覽記」二十三〕。但し、其の故事、何に見ゆるかを知らず。此等の關係より察すれば、竃の神の祭場が同時に、もしくは、時代を經て、牛馬の神の祭場となること、無しと云ふべからず。而して、所謂、河童が牛馬の神として常に水邊の祭場に居住すと考へしも亦、自然の推測と謂ふべきなり。但し、氣紛(きまぐ)れに人間の子供にまでも手を出だせしが爲に、其の正體が甚しく不明と爲り、此くのごとく、後世の硏究者に手數を掛くるに至りしなり。

[やぶちゃん注:「備後の福山附近にては、七月七日に牛馬を海川(うみかは)に引き入れて置けば、年中、河童の災難に遭ふこと無しと信ぜられたり〔「風俗問狀答書(ふうぞくとひじやうこたへ)」〕」「備後の福山」現在の広島県福山市(グーグル・マップ・データ)。たまたまこの引用書の読みを確認するために調べたところが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像で当該ページを調べ得た。ところが、その「備後浦崎村風俗問狀答」パートの「七月」の「七日星祭の事」には、

   *

牛を海へ追行、汐をかけ洗申候。

   *

あるだけで、そうし「て置けば、年中、河童の災難に遭ふこと無しと信ぜられたり」という記載はどこにも、ないのだ! 危うく、柳田國男に騙されるところだった! 不愉快!!!

「土佐長岡郡の下田」今回、地名変遷を順に辿ってゆくと、ここは現在の高知県南国(なんごく)市稲生(いなぶ)地区内(グーグル・マップ・データ)にあったことが判明した。しかもこの地図、見覚えがあると思ったら、「馬ニ惡戲シテ失敗シタル河童」(3)」で既注であった。そこに出る「河童の祭」の注を再掲する。そこには確かに河童を祀った「河泊(かはく)神社」が現存するのである。サイト「Web高知」の「稲生のエンコウ祭―河泊様―」の解説によれば、旧暦六月十二日に「エンコウ祭り」が今も行われている。位置は同サイトの別ページで、ここ。判り難い方のために。正規のグーグル・マップ・データのこの中央辺りである。サイト「日本伝承大鑑」の「河泊神社」によれば、『この神社の来歴は未詳であるが、かつてこの地にあった円福寺の境内に漂須部(ひょうすべ)明神という社があり、それが改称されて存続したのではないかとも考えられる』(「ひょうすべ」『も河童の異称である)』。『毎年』七『月に河泊祭りがおこなわれており、地元の人も「河泊様(かあくさま)」と呼んで崇敬しているという。祭りでは、近くの小学生による奉納相撲がおこなわれ』る、とある。そこで私は『但し、ここで柳田が言っている「下田」村で行われていたという「河童の祭」と同一のものかどうかは定かではない』としたが、ここの記載から間違いないことが確定したと言ってよい。但し、現在、その祭事は「六月十五日」ではなく、旧暦「六月十二日」である。これは柳田國男が誤ったものかどうかは、「土州淵岳志」を見られないので判らぬ

「巫女(ふぢよ)の宗教に於ては生命の根原として食物調製の爲に用ゐらるゝ竃其の物を祭る風ありき」私は思うに、竈が祀られる真の意味は形が食物を調製するからではなく、竈の形が子宮を連想させるからであると考える。いや、食物絡みでもいい。そもそもが保食神(うけもちひのかみ)はその「火登(ほと)」(陰部)から麦・大豆・小豆を生んでいるのだから。南方熊楠先生なら、私のこの物言いに、ニッコリ笑って頷いて戴けるものと存ずる。

『竈は「火」の神なるが故に「午(うま)」に相當する「馬」を以つて其の象徵としたるものか』五行思想で「火(か)」は方位で南=「午」である。しかしどうも、説得力に欠く謂いである。

「羽後北秋田郡阿仁合(あにあひ)町」現在の秋田県北秋田市阿仁地区(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。幾つかの神社を認めるが、果たして現在も「十二月二十八日に竈の神の祭」があり、「宮の神主」か「一枚の紙に三十六の牛を印刷した」「ものを家每に配」っているかどうかは確認出来なかった。郷土史研究家の御教授を乞うものである。ただ当地には「阿仁郷土文化保存伝承館」(北秋田市阿仁銀山下新町)なるものがあるので、ここに行けば、或いは判るかも知れぬ。

「伊勢にて三十六頭の牛、物を運びて功あり」不詳。識者の御教授を乞う。

「飯盛(いひもり)」以下の文章から、テキトーに訓じた。

「御炊(みかしき)の神氷沼道主(ひぬまのみちぬし)」「御炊」は辞書的には「内膳司の官人。また、一般に貴人の食事の準備をする者」或いは「貴人の食事を調える場所」の意であるが、ここは厨房の神ということらしい。「氷沼道主」というのはよく判らぬが、ある記載(複数)には「粟御子神」「粟嶋坐神乎多乃御子(あはしまにますかみをたのみこ)」の子孫とあるが、これらの神がまた、その人らの解説を読んでも、どんな神なのか一向に判らぬ。お手上げ。まあ、柳田國男自身が「其の故事、何に見ゆるかを知らず」と言っているんだから、しゃあないか。

「大御食(おほみけ)」天皇の食べる食物。「大御饗(おほみあへ)」に同じ(「おほみ」は接頭語)。]

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