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2019/04/30

酒吞み唄 伊良子清白

 

酒吞み唄

 

上戶(じやうご)神樣下戶(げこ)乞食

上戶御宮(おみや)に鎭座まします

下戶は伊丹(いたみ)の薦(こも)かぶり

樽に目鼻のへのへのもへの

ごろりころげる道の上

上戶はあれど下戶はない

下戶のたてた倉もない

上戶長生き五百八十年

七福神はいづれも揃うてお酒吞み

天の美祿と申すとかや

八千代の樽酒でさく

花見て月見て雪見て暮らす

     いつも正月

醉うてのむ酒とうたらり

鳴るは瀧の水

瀧の水さへ酒に成る

酒のみ櫓を押しや船が浮かれる

うかれるうかれる

海も山も踊り出す

踊り出したら縱橫無盡

天下におそるる敵はない

世界に憎い奴もない

やつさ飮め飮め

一寸先や闇よ

のまにや甘露(かんろ)が水に成る

 

[やぶちゃん注:初出未詳。

「下戶は伊丹(いたみ)の薦(こも)かぶり」初行で酒の飲めない「下戶(げこ)」を「乞食」と比し、「上戶(じやうご)」の「神樣」は「御宮(おみや)に鎭座まします」と振ったので、「下戶(げこ)」の「乞食」をかく「道」に物貰いする「薦(こも)かぶり」(乞食の異称蔑称)でさらに言い換え、それに酒樽として知られる「伊丹」の四斗樽を盛り飾る「薦(こも)」を掛けたもの。]

屑屋の籠 伊良子清白

 

屑屋の籠

 

八千八聲のほととぎす

     路地(ろぢ)で啼く

 屑屋の籠はおもしろや

女の痴話文(ちわぶみ)まづ可笑し

三下(みくだ)り半は

投げのなさけのあとはかなしや

引き裂いた

寫眞をえこそ燒きもせで

大象も繫ぐ丈(たけ)なす黑髮は

 

色慾の奴(やつこ)ひたすらに

     憂身(うきみ)を寠(やつ)す

さつても笑止の

     紅(あか)い手がらが

秋の枯葉と色槌せて

月も盈(み)ち缺け

櫛の小割(こわ)れは緣起でないよ

男もすなる白粉の壺

とかくうき世はぎあまんの

破(わ)れもの用心さつしやりませ

練物(ねりもの)の

珊瑚の珠は土臭い

鬼一口の餡ころと

見たい小さい阿婆(あば)の髷(わげ)

靑丹(あをに)よしレーヨンもまじる

     絲の縒屑(よりくづ)

光る針、チクリ、

ねぶたい眼をさます

ランプの下の暗がりに

はばかりあるもの選り分けて

寶探しは七福神

その筆頭(ふでがしら)夷(えびす)の三郞

えびで鯛釣る

山吹色が

そりやこそ出たぞ

 

[やぶちゃん注:初出未詳。変わった対象・素材を使ってうまく捻り、なかなか面白く作っている。私自身、十全に説明するほど理解しているわけではないが、やや艶笑的な含み(暗示)もあるように思われる。

「八千八聲」は「はつせんやこゑ(はっせんやこえ)」と読む。「八千八声啼いて血を吐く杜鵑(ほととぎす)」の成句で知られ、ホトトギス(カッコウ目カッコウ科カッコウ属ホトトギス Cuculus poliocephalus)がしきりに鳴く時の声をいう語。

「練物(ねりもの)の」「珊瑚の珠」江戸時代の昔から珊瑚に似せた、鉱物粉末や樹脂、私の記憶するところでは卵白などを練っては偽の珊瑚玉を作ったものである。現在は合成樹脂のそれも横行している。

「阿婆(あば)」「すれっからし」「世間ずれしていて厚かましい」「身持ちが悪い」の意の、本来は男女共通に使用される語。ここはそうした女。

「筆頭(ふでがしら)」韻律から訓じたに過ぎぬと私は読む。

「夷(えびす)の三郞」七福神の恵比須のこと。日本神話の蛭子神(ひるこのかみ)は伊耶那岐・伊耶那美の第三子であるとされるが、「蛭子」の字面及び「えびす」も「ひるこ」もともに海に関わる神であることから、両神が混同されたものであろう、と小学館「日本国語大辞典」にはある。]

秋曉 伊良子清白

 

秋 曉

 

赤い日一つ

くろい島三つ

白い帆五つ

靑い海七つ

夜明けは六時

 

[やぶちゃん注:初出未詳。]

寢鵜捕り 伊良子清白

 

寢鵜捕り

 

島のお月夜

  ころころ寢鵜(ねう)

羽根にうづめて

  首がない

 

島の岩窟(いはや)の

  お月さんはくらい

寢鵜は巢にねる

  うづくまる

 

寢鵜を捕る船

  月夜に來るよ

棹をさしさし

  音もせず

 

寢鵜を捕るには

  女がとるよ

白いをんなの

  手がとるよ

 

寢鵜はころころ

  月夜も知らず

ほわり抱かれた

  手も知らず

 

寢鵜はとられて

  月夜の船で

黑い羽根伸(の)す

  首あげる

 

寢鵜の啼ごゑ

  波々こえて

月の遠潮

  よびかける

 

[やぶちゃん注:初出未詳。この「寢鵜捕り」というのは、恐らく嘗つて伊勢湾で行われていた鵜飼用のウミウ(カツオドリ目ウ科ウ属ウミウ Phalacrocorax capillatus)の捕獲を指すものと思われる。ウィキの「長良川鵜飼」によれば、岐阜県岐阜市の長良川で毎年五月十一日から十月十五日まで行われる長良川鵜飼で用いる鵜は、嘗て、『昭和初期までは伊勢湾』の『海鵜を捕獲していたが、現在は茨城県日立市の鵜の岬で捕獲している』とあるからである。伊良子清白のこれは嘱目か。ロケーション位置を特定出来ればいいのだが。鳥羽近辺でも行われていた可能性は高いと思う。識者の御教授を乞う。]

大護摩詣り 伊良子清白

 

大護摩詣り

 

竹の籠頭にのせて

楊梅賣(やまももうり)が

今日も海邊の里に來る

梅雨(つゆ)明けの

焦(こ)げつくやうな炎天に

海は紺靑(こんじやう)燃える潮(しほ)

世義寺(せぎでら)の

大護摩(おほごま)焚(た)く日なり

海見れば

高々と旗はうつくし

ほのぼのと白帆は涼し

島々の

船の賑はひ

こどもも乘せて

護摩じやごまじやと

ほたえてゆくよ

 

註 世義寺は宇治山田市にある古刹、護摩の供養は陰曆六月七日に行はる。

 

[やぶちゃん注:以上の注は底本では本文ポイント一字下げでポイント落ちであるが、ブラウザの不具合を考えて、引き上げた。初出未詳。

「楊梅(やまもも)」ブナ目ヤマモモ科ヤマモモ属ヤマモモ Morella rubra。六月頃、黒赤色の果実を結び、甘酸っぱく、生で食べられる。

「世義寺(せぎでら)」三重県伊勢市岡本にある教王山(きょうおうざん)神宮寺宝金剛院世義寺(グーグル・マップ・データ)。現在は毎年七月七日の七夕の「柴燈大護摩(さいとうおおごま)」、通称「ごまさん」と、子どもの命名の祈祷で知られる。参照したウィキの「世義寺」によれば、『以前は大護摩で火渡りが行われたが、一般人には危険であるとして』二十『世紀末に廃止された』。『護摩札による祈願成就と護摩木の授与が行なわれ、護摩木は農地の虫除けや家屋の魔除けになるという』とある。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(16) 「駒形權現」(2)

 

《原文》

 駒形ト云フ神ハ、必ズシモ延喜式ナドヲ搜索セズトモ、現代諸國ノ平地ニイクラモ之ヲ祀リテアルコトハ事實ナリ。但シ其分布ガ東北ヨリモ寧ロ關東ノ諸國ニ多キハ、多分ハ箱根ノ感化影響ナルべシ。而シテ山城朝初期ノ駒形神ガ如何ナル御神ナリシカハ不明トシテモ、近世ノ駒形權現ガ馬ト深キ關係アリシコトハ爭フ能ハズトス。【箱根緣起】箱根ニハ今ヨリ四百五十年前ノ緣起殘存ス。鎌倉時代ノ記錄ニ基キテ起草ストアリテ、ホボ又吾妻鏡ノ記事トモー致スレドモ、其神ノ由來ニ至リテハ固ヨリ本居平田兩大人ノ神道ニテハ之ヲ說明スル能ハザルト同時ニ、佛敎ヨリ言フモ尙且ツ一種ノ異端ナリシガ如ク、密宗ノ曼陀羅思想ヲ以テ辛クシテ之ト聯絡ヲ保チ得タリシ姿アリ。【仙人】最初此山ニ三代三人ノ異人出現ス。其名ヲ聖占仙人利行上人及ビ玄利老人ト謂フ。聖占ハ高麗權現即チ駒形神、利行ハ能善神、玄利ハ即チ高根神(タカネジン)ナリ。【比丘尼】此山ニハ右ノ三神ニ奉仕スル爲ニ多クノ修驗者ト比丘尼ト住ミタリト云フコトナルガ、彼等ハ果シテ本山當山ノ行人タチノ如ク、佛道ニ染メ上ゲタル者ナリシカ否カハ疑問ナリ。山ヲ降リテ村々ニ勸請セラレシ駒形ニモ、頗ル後世ノ富士行者ノ如キ面目ヲ存セシ者アリキ。【御生題】例ヘバ相州酒勾(サカワ)村ノ鎭守駒形社ノ如キ、祭神ヲ鸕鷀草葺不合尊ト稱シテ木ノ御立像ヲ安置スル外ニ、別當寺ニ御生題(ミシヤウダイ)ト稱スル銅鏡ニ鑄出シタル神像アリ。唐服ヲ著タル仙人ノ如キ姿ニシテ、其鏡ハ普通ノ懸佛ト云フ物ト同ジカレドモ、兩側ノ紐附ノ耳ニ當ル場所ニ奇怪ナル人ノ顏ヲ鑄出シ、裏面ニハ天文二十二年駒形大權現御生題ト刻シタリキ〔新編相模風土記〕。御生題ハ勿論御正體ノコトナランモ、兎ニ角ニ一種異樣ナル信仰ノ對象ナリ。甲州其他ノ地方ニ御生題山ト云フ高山アリ。中古修驗道ノ遺跡ナラント思ヘド、土地ノ人モ多クハ地名ノ由來ヲ說明スルコト能ハズ。

 

《訓読》

 駒形と云ふ神は、必ずしも「延喜式」などを搜索せずとも、現代諸國の平地に、いくらも之れを祀りてあることは事實なり。但し、其の分布が、東北よりも、寧ろ關東の諸國に多きは、多分は、箱根の感化・影響なるべし。而して、山城朝初期の駒形神が如何なる御神なりしかは不明としても、近世の駒形權現が馬と深き關係ありしことは、爭ふ能はずとす。【箱根緣起】箱根には今より四百五十年前の緣起、殘存す。鎌倉時代の記錄に基きて起草すとありて、ほぼ又、「吾妻鏡」の記事ともー致すれども、其の神の由來に至りては、固(もと)より、本居(もとをり)・平田兩大人(だいじん)の神道にては、之れを說明する能はざると同時に、佛敎より言ふも、尙且つ一種の異端なりしがごとく、密宗の曼陀羅(まんだら)思想を以つて、辛(から)くして、之れと聯絡を保ち得たりし姿あり。【仙人】最初、此の山に、三代三人の異人、出現す。其の名を「聖占(せいせん)仙人」・「利行(りぎやう)上人」及び「玄利(げんり)老人」と謂ふ。「聖占」は「高麗(こま)權現」、即ち、「駒形神」、「利行」は「能善神(のうぜんしん)」、「玄利」は、即ち、「高根神(たかねじん)」なり。【比丘尼(びくに)】此の山には、右の三神に奉仕する爲めに、多くの修驗者と比丘尼と、住みたりと云ふことなるが、彼等は果して本山・當山の行人(ぎやうにん)たちのごとく、佛道に染め上げたる者なりしか否かは、疑問なり。山を降りて、村々に勸請せられし駒形にも、頗る後世の富士行者のごとき面目(めんぼく)を存せし者、ありき。【御生題(みしやうだい)】例へば、相州酒勾(さかわ)村の鎭守駒形社のごとき、祭神を「鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあへずのみこと)」と稱して木の御立像を安置する外に、別當寺に「御生題(みしやうだい)」と稱する銅鏡に鑄出したる神像あり。唐服(たうふく)を著たる仙人のごとき姿にして、其の鏡は普通の懸佛(かけぼとけ)と云ふ物と同じかれども、兩側の紐附(ひもつき)の耳に當る場所に、奇怪なる人の顏を鑄出し、裏面には「天文二十二年[やぶちゃん注:一五五三年。]駒形大權現御生題」と刻したりき〔「新編相模風土記」〕。「御生題」は、勿論、「御正體(みしやうたい)」のことならんも、兎に角に、一種異樣なる信仰の對象なり。甲州其の他の地方に「御生題山」と云ふ高山あり。中古修驗道の遺跡ならんと思へど、土地の人も多くは地名の由來を說明すること能はず。

[やぶちゃん注:「山城朝初期」平安京初期。

「今より四百五十年前」本書は大正三(一九一四)年刊であるから、室町最末期の寛正五(一四六四)年前後か。但し、現在の箱根神社にある「筥根山縁起并序」は建久二(一一九一)年に箱根権現別当行実が編纂したものとされ、これだと七百二十三年前だが? ところが、「有鄰」の「座談会 箱根神社とその遺宝」こちらを読むと、これとは別に通称「箱根権現縁起」と言われる「箱根権現縁起絵巻」(最初の部分は欠落しており、正式名称は不明)という重要文化財指定の絵巻があり、そこに箱根権現の縁起が示されてあるとあるのだが、しかし、それも鎌倉末期の成立とあるのだ(因みに、座談会の後のこちらには、箱根神社は豊臣秀吉によって社殿は全部焼かれてしまったと書いてもあった)。後者のことを言っていることが以下の三異人(正体を柳田國男は簡単に言い換えて明かしているけれど、私にはこういう異名同定学は何かよう分らんがのぅ?)の内容から判るが、それでも不審やなぁ? 或いは、当時は「四百五十年前」の作と過少に推定されていたんかなぁ? ともかくもここに書かれているのは公式の「箱根元宮」や、こたつむり氏のサイト内のこちらにも書かれてある。「四百五十年前」意味分らん!?!

『「吾妻鏡」の記事』前段参照。

「本居(もとをり)」本居宣長。

「平田」平田篤胤。

「利行(りぎやう)上人」これ、ネット上を調べると、公式も個人も皆、「利行丈人」とかいてあるんですけど? 柳田國男の誤字?

「御生題(みしやうだい)」後注に見る通り、「新編相摸國風土記稿」では「御正體」(「みしょうたい」(現代仮名遣)とも読む。御神体。また、狭義には、神仏習合の考えによって神体である鏡に本地仏の像を示した鏡像又は懸仏を意味する)の誤りとする。

「相州酒勾(さかわ)村の鎭守駒形社」現在の神奈川県小田原市酒匂にある酒匂神社(合祀? 但し、以下の引用に出る持分とする「南藏寺」は東一キロメートルに現存する)らしい。「神奈川県神社庁」公式サイト内のこちらに「駒形神社」を併記する。ちょっと興味が湧いたので調べたところ、「新編相摸國風土記稿卷之三十六 村里部 足柄下郡卷之十五」の「酒勾村」に図入りであった。国立国会図書館デジタルコレクションの「大日本地誌大系」版のこちら図も国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして使用した。割注は〔 〕で示した。

   *

○駒形社 村の鎭守なり、 祭神鸕鷀茅葺不合尊、〔木立像、長二尺〕又當社御生題と〔按ずるに、正體の誤なるべし〕號して、銅鏡面に像を鑄出せしものを、別當寺に置、天文廿二年、岡部出雲守廣定の寄附する所なり、其圖左の如し、

Sakawakomagatakakebotoke

[やぶちゃん注:「裏」の刻印は以下。

   奉寄進

 駒形第權現御生題

 相州西郡酒匂鄕代官

 ?部出雲守廣定

  天文廿二七月二日]

同時小島左衛門太郎正吉も又生題二面を寄附す、こは中古失へり、〔村民德右衛門家乘に、其銘の寫あり奉寄進駒形大權現御生題、相州西郡酒勾鄕、旦那小島左衛門太郎正吉、天文廿二癸丑七月二日、德右衛門は卽正吉が裔なり、〕按ずるに、【北條役帳】幻庵内室の知行中に、四十貫二百五十文酒勾内駒形分と見ゆ、則當社の事なり、本地十一面觀音、〔別當寺の本尊是なり、〕例祭七月七日、〔當社及八幡の神輿を舁て村内を巡行す〕元和七年、領主阿部備中守正次、先規に任せ供免五石を寄附す、〔德右衛門家乘に、寄附狀の案あり、曰、相州西群酒勾鄕、駒形權現社領之事、田畑五石地也、但御供免、御祭免、御造家免、右之分如前々相違有間鋪者也、元和七年十二月、阿部備中守内、内藤覺右衛門印、下宮理右衛門印、小島主水へ參とあり、〕今も社地の外供免五石六斗餘の除地を附す、幣殿・拜殿等あり、 寬永五年の鰐口を掲ぐ、社地に供所及神木古松一株あり、【圍一丈八尺】南藏寺の持、[やぶちゃん注:以下、摂社・末社の記載は略す。]

   *

しかして、これ、存在しないのが、実に惜しい。

「鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあへずのみこと)」彦火火出見尊(山幸彦)の子。母は豊玉姫。「日本書紀」によれば、彼が誕生した産屋は全て鸕-鶿(う)の羽を茅(かや)代りにして葺いたが、屋根の頂上部分をいまだふき合わせぬうちに生まれ、茅に包まれ、波瀲(なぎさ)に棄てられたとする(ウィキの「ウガヤフキアエズ」に拠った)。

「甲州」「御生題山」山梨県都留市と南都留郡道志村に跨る御正体山(みしょうたいやま/さん)のことか(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「御正体山」によれば、『古くは養蚕の神の山として敬われた。江戸時代後期の』文化一〇(一八一三)年に『美濃の僧妙心が入山し、人々の信仰を集めた』。文化十四年に』『妙心は山中で入定する。妙心のおひしゃり(ミイラ)は山内の上人堂に祀られていたが、明治の廃仏毀釈によって山からおろされてしまった。京都の博覧会などに展示されるなどした後、故郷である岐阜県揖斐川町の横蔵寺に祀られている』。『山頂には御正体権現が祀られ、都留市小野に里宮である若宮神社がある。「正体」という言葉は本来、「日本のカミガミは仮の姿であり、その正体はインドの仏である」と主張する本地垂迹説に由来する仏教用語』(但し、ここには要出典要請が掛けられている)とも言い、『他方』、『「権現」は、同じく仏教用語で、インドの仏が仮の姿で、つまり日本のカミとして現れたものを意味する』とも言う(同前の要請有り)。『従って、「正体」と「権現」は相互に相容れない概念であると考えられ、山頂に祀られた「御正体権現」に仏教もしくは神道の教理上いかなる位置づけが与えられているのかは明らかでない』とある。]

和漢三才図会巻第三十九 鼠類 ※(「※」=「鼠」+「番」)(しろねずみ) (ドブネズミ及びハツカネズミのアルビノ或いは白色個体)

 

Sironezumi

 

 

しろねすみ  白鼠

【音樊】

[やぶちゃん注:「※」=「鼠」+「番」。]

 

△按※白鼠也非老鼠變色者而自一種也故往往見小

 ※然不多人以爲福祥且謂大黒天使會有之者多出

 於米倉

 

 

しろねずみ  白鼠

【音「樊〔(バン)〕」。】

[やぶちゃん注:「※」=「鼠」+「番」。]

 

△按ずるに、※〔は〕白鼠なり。老鼠〔の〕色を變ずる者に非ずして、自〔(おのづか)〕ら一種なり。故に往往、小〔さき〕※を見る。然れども多からず。人、以つて福祥と爲し、且つ、「大黒天の使ひ」と謂ふ。會(たまたま)之れ有るは、多く、米倉より出づ。

[やぶちゃん注:小学館「大辞泉」では、毛が白いネズミで、福の神の大黒 の使者といわれ、古来、吉兆とされたとしつつ、一番にドブネズミ(齧歯目リス亜目ネズミ下目ネズミ上科ネズミ科クマネズミ属ドブネズミ Rattus norvegicus)の飼養白変種(アルビノ(albino)でないものも含まれるという)で動物実験用、「だいこくねずみ」「ラッテ」(ラット(rat)と同じであろう)とし、二番目にハツカネズミ(ネズミ科ハツカネズミ属ハツカネズミ Mus musculus)の飼養白変種(アルビノ)で「マウス」(mouseとする。なお、京都大学准教授で実験動物学専攻の庫本高志氏の公式サイト内の「江戸時代の鼠ガイドブックを解説」を見ると(庫本氏の考証論文も読めるPDF)のであるが、英文で読み解く元気が今の私にはない)、やはり、江戸時代に愛玩用として飼養されていたのは(前の「鼠」の注で荒俣宏氏の引用で既出)上記の二種(或いはそのまた改良品種)であることが判る。

「大黒天の使ひ」「大黒天」は小学館「日本大百科全書」によれば、元来は『ヒンドゥー教の主神の一つで、青黒い身体をもつ破壊神としてのシバ神(大自在天)の別名であり、仏教に入ったもの。サンスクリット語のマハーカーラ』の漢『訳で、摩訶迦羅(まかから)と音写。マハーカーラは偉大な黒い神、偉大な時間(=破壊者)を意味する。密教では大自在天の眷属』『で三宝』『を愛し、飲食を豊かにする神で黒色忿怒』『相を示し、胎蔵界曼荼羅』『の外金剛部に入れられている。七福神の一つ』。『中国南部では床几』『に腰を掛け』、『金袋を持つ姿になり、諸寺の厨房』『に祀』『られた。わが国の大黒天はこの系統で、最澄』『によってもたらされ、天台宗の寺院を中心に祀られたのがその始まりといわれる。その後、台所の守護神から福の神としての色彩を強め、七福神の一つとなり、頭巾』『をかぶり左肩に大袋を背負い、右手に小槌』『を持って米俵を踏まえるといった現在よくみられる姿になる。商売繁盛を願う商家はもとより、農家においても田の神として信仰を集めている。民間に流布するには天台宗などの働きかけもあったが、音韻や容姿の類似から大国主命』『と重ねて受け入れられたことが大きな要因といえよう。また、近世に隆盛をみた大黒舞いの芸人も大きな役割を果たしたようである。大黒柱などの名とともに親しまれており、東北地方では大黒の年取りと称して』、十二『月に二股』『大根を供える行事が営まれている』とある。荒俣宏氏は「世界大博物図鑑 5 哺乳類」(一九八八年平凡社刊)の「ネズミ」で、『ネズミが大黒天と結ばれたのは』、『一説にこの神が大国主神(おおくにぬしのかみ)と混同されたことによと』も言うとされ、「古事記」で、『大穴牟遅神(おおなむちのかみ)(大国主神)が野火に囲まれた』際、『ネズミに地下の空洞を教えてもらい』、『難をのがれたという話がみえる』が、『ところが大国主神は』、『その名や俵をかついだ姿が似ている大黒天としだいに混同され』、『大国主神の命を救ったネズミが大黒天の使いと考えられるようになったらしい』と述べておられる。]

太平百物語卷二 十八 小栗栖のばけ物の事

Ogurusu


   ○十八 小栗栖(おぐるす)のばけ物の事

 山城の國小栗栖といふ所に、化物住むと專ら沙汰しけるに、或夜の事なりし、醍醐の九郞次郞といふ者の宅へ、其近邊の若者ども、集まりて夜咄しをしけるが、折から秋の長き夜(よ)なれば、樣々の咄しをしける次で、彼(かの)小栗栖のばけ物ばなしを仕出(しいだ)し、

「おそろしき事なり。」

なんど、とりどり申し合(あひ)ければ、其座に八郞といふ者ありて、いふやう、

「何条(なんでう)、ばけ物という者、あらんや。われ、小栗栖に行かんに、若(もし)、ばけ物出(いで)なば、とらまへて連歸(つれかへ)り、いづれもへ、土產にせん。」

と廣言(くはうげん)すれば、人々、いふ。

「さあらば、今宵、彼(かの)所に行(ゆく)べきや。心得ず。」

といふに、八郞、聞(きゝ)て、

「安き事なり。われ行て參るべし。何にても印(しるし)を出(いだ)されよ。」

といへば、

「さらば。」

とて、「不敵の八郞」と書付(かきつけ)て、札を渡し、

「これを彼所に立置(たておき)て歸らるべし。然るにおゐては、今宵の夜食、御身の望みに任せん。」

といふほどに、八郞、ゑつぼ入[やぶちゃん注:「いり」。]、さまざま料理好(りやうりごの)みして、彼札を引(ひつ)かたげ、小栗栖にぞ、急ぎける。

 さて、小栗栖にもなりければ、あたりを、

「きつ。」

と見廻すに、目に遮ぎる物もなければ、

『さもこそ。』

と、おもひて、彼札を㙒中(のなか)に立置(たておき)、歸らんとせし時、うしろの方より、

「八郞、まて。」

とぞ、聲、かけたる。

『扨(さて)は。聞ゆる化物、ござんなれ。』

と、大脇指(わきざし)の鍔元(つばもと)くつろげ、大音聲(だいおんじやう)にいひけるは、

「いかなる者なれば、わが名をしりて呼(よぶ)ぞ。其正体を顯はすべし。」

といひければ、いづくともなく、こたへていはく、

「我は、此所(ところ)に年久しく住(すむ)者なり。何故、かゝる怪しき札を立(たて)たる。急ぎ持(もち)て歸るべし。おこと、無益(むやく)のかけろくして、爰(こゝ)に來(きた)る事、わが眷属ども、先達(さきだつ)て、しらせたり。よしなき武邊(ぶへん)を立(たて)んとせば、目に物、見せん。」

と、のゝしりけり。

 八郞、したゝか者なれば、打わらつていひけるは、

「あら、ことごとしの化物殿(ばけものどの)や。われ、其札(そのふだ)を取るまじきか、いかなる物をか見せけるぞ。出(いだ)せ、出だせ。」

と嘲(あざ)ければ、

「やらやら、にくき廣言かな。」

と、いふ儘に、さも、すさまじき毛のはへたる腕(うで)斗(ばかり)をさしいだし、八郞が髻(もとゞ)り、中(ちう)に引(ひつ)さげ、ゆかんとす。

「心得たり。」

とて、刀を、

「すらり。」

とぬき放し、かいなを、

「丁(てう)。」

ど、切りければ、

「あつ。」

と、さけびて、消失(きへうせ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。])たり。

 八郞は㙒中に、

「どう。」

ど、落(おち)けるが、大聲上(あげ)ていひけるは、

「扨々、卑怯なる化者かな。何とてはやく消(きへ)たるぞ、形(かた)ちを見せずは、只今、出(いだ)せし腕(うで)なりとも出(いだ)すべし。取(とり)て歸りて、土產にせん。」

と、飽(あく)までに罵(のゝし)れども、八郞が勇氣にやおそれけん、何(なに)の返答(こたへ)もせざりければ、

「今は、長居して詮なし。」

と、いにしへの綱(つな)[やぶちゃん注:大江山の酒呑童子退治や京都の一条戻橋の上で鬼の腕を源氏の名刀「髭切(ひげきり)」で切り落としたとされる渡辺綱(天暦七(九五三)年~万寿二(一〇二五)年)。]におとらぬ心地して、いさみ進んで歸りけるが、向ふの方より六十斗の老婆(うば)壱人、出できたり。

 八らふにむかひ、いひけるは、

「いかに。私殿(わどの)は、只今、小栗栖にて、かぎりなき手柄をし玉ひける事よ。今こそ九郞次郞殿方に、夜食、結構して、御待(まち)あらんに、早々(はやはや)、いざなひ參らん。」

とて、八郞がゑりくび、摑んで、虛空にあがるを、八郞、すかさず、太刀ぬきそばめ、彼(かの)婆(うば)を切りはらへば、うばは、八郞を抛(なげ)すて、いづくともなく、失(うせ)けるが、八郞は、九郞次郞がざしきの椽(ゑん)にぞ、落(おち)たりける。

 ありあふ人々、此音におどろき、立出(たちいで)、みれば、八郞、絕入(ぜつじゆ)してこそ、居たりけり。

「こは、いかに。」

と、うち集(あつま)り、顏に水濯ぎて呼(よび)おこしければ、やうやう正氣に成(なり)けるが、髮は化者にむしられて、偏(ひとへ)に童子の頭(かしら)の如くなりしかば、皆々、大きにあきれ、とかくする内、夜(よ)はほのぼのと明(あけ)はなれて、夜食は、あだとなりにける。

[やぶちゃん注:百物語系怪談にポピュラーに出るお馴染みの話柄である。

「小栗栖」現在の京都市伏見区東部の一地区。「おぐりす」とも言う。山科盆地西縁の東山山地南東麓に当たり、伏見から近江に向かう街道が通ずる。天正一〇(一五八二)年六月、「山崎の合戦」で豊臣秀吉に敗れた明智光秀が、近江の坂本城に逃れる途中、この地で土民の竹槍に刺されて最期を遂げたとされる場所である(ここは小学館「日本大百科全書」に拠った。醍醐寺(伏見区醍醐東大路町(ちょう))のある醍醐地区の西南方の、この中央附近(グーグル・マップ・データ)。現在も小栗栖を冠した地名が点在する。

「かけろく」「賭け禄」で、金品を賭けて勝負すること。]

冬 の 山 伊良子清白

 

冬 の 山

 

金銀瑠璃の

鞍(くら)置(お)いて

冬の山々

雪をまつ

 

[やぶちゃん注:初出未詳。]

靑いみかんが 伊良子清白

靑いみかんが

 

靑い蜜柑が枝の上

靑いみかんは靑いまま

靑いみかんに雪がふる

靑い蜜柑は雪にもならず

 

[やぶちゃん注:初出未詳。]

參宮ぶね 伊良子清白

 

參宮ぶね

 

磯は西風

  裙帶菜(わかめ)干す

 

山はつつじの

  花ざかり

 

昨日の雨の

  水たまり

 

燕が泥を

  掬(すく)ひとる

 

旗で飾つた

  參宮(さんぐ)ぶね

 

遠い紀州の

  船も來た

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三(一九二八)年七月発行の『詩神』。初出標題は「參宮船」で、各連の前に一字下げで「一」から「六」の数字数字が配された構成となっており、一部の漢字に読みが附されたり、「裙帶菜(わかめ)」が「わかめ」、最終「六」の「參宮(さんぐ)ぶね」が「參宮船(さんぐぶね)」である以外は有意な差を認めないので初出は示さない。嘱目はツツジの満開から見て、四月の中・下旬と読んだ(三重県の観光情報でも確認)。

「參宮船(さんぐぶね)」船による一般参拝客のお伊勢参りは江戸時代に盛んであったが、陸路の整備によって近代に入って殆んど見られなくなった。ここは漁業従事者たちの船によるそれの景であろう。江戸時代よりの上陸地点は伊勢神宮の東北の勢田川の河口であった(グーグル・マップ・データ。右上。左下に伊勢神宮)。

「裙帶菜(わかめ)」「裙帶」は「くんたい」(撥音無表記で「くたい」とも書く)は平安後期(十一~十二世紀頃)の公家の女房らが、晴れの装束の際に裳の腰に附けて、左右に垂らした紐を指す。中国風に真似たもので、羅などの薄布でつくられた。異なった色が相半ばするのを特色し、八世紀頃の裾(きょ)に付属していた飾りの縁が独立して装飾化したものと考えられており、後の女房装束の小腰(こごし:裳の大腰の左右に取り附けて後ろに長く引き垂らした二本の飾り紐)はその遺制という。グーグル画像検索「裙帯」をリンクさせておく。不等毛植物門褐藻綱コンブ目チガイソ科ワカメ属ワカメ Undaria pinnatifida の直喩異名としては腑に落ちるものではあり、貝原益軒も「大和本草卷之八 草之四 裙蔕菜(ワカメ)」で標題にこれを用いているおり、『處々の海中に多し。二月にとる。伊勢の海に産するを好しとす』と述べており(リンク先で私はかなり詳細なワカメ注を行っているので参照されたい)、現代中国語でワカメ(ワカメの原産分布は本邦を中心とし(本来は植生しなかったのは北海道東部と同北部及び和歌山県熊野から鹿児島県に至る太平洋岸であるが、すでにそれらの場所にも棲息域を広げて晋三も羨ましがるであろう強力な全国区勢力となっている)、朝鮮半島南部まで。但し、現代ではタンカーのバラスト水で胞子が世界中に運ばれてしまい、深刻な優勢侵入外来種となって生態系を致命的に破壊している)は「裙带菜」と書くのであるが(ワカメの中文ウィキを見よ)、しかし、私はこの異名は、思うにそう古いものではないのではないかと考えている。少なくとも、採取し、生で食してきた一般国民の表記異名ではあり得ない(裙帯なんざ、みんな、見たことねえもん)。宮下章氏の「ものと人間の文化史 11・海藻」(一九七四年法政大学出版局刊)の第二章「古代人の海藻」の「(二)海藻の漢名と和名」の「藻(モ・ハ)」の項によると、源順の「和名類聚鈔」が編纂『されるより少なくとも二、三百年前から、古代日本の人々は「海藻」の文字に「ニギメ」(ワカメ)の和名を当てるという誤りをおかしてしまった』とする一方、諸海藻名の末尾に多く見られる「メ」は『布のほか「女」「芽」にも通』ずるとされ、また、後の「海藻(ニギメ・ワカメ)」の項では、『和名抄は、唐書が藻類の総称とする「海藻」をニギメと読む誤りをおかしたが、反面で「和布」という和製文字を示してくれた。また、ニギメのほかに「ワカメ」という呼び方も示してくれた。たとえば、延喜式では海藻をニギメ、和布をワカメ、万葉集では稚海藻をワカメ、和海藻をニギメと読ませている』。『ニギメとワカメとは別種でなく、ニギメの若芽がワカメである。古くから若芽が喜ばれたと見えて、中世に入るころには「ニギメ」は消えてしまう。「メ」は藻類の総称だが、「和布刈(めかり)」の神事や人麻呂の』歌(「万葉集」巻第七・一二二七番。上記リンク先で和歌を提示してある)などでも、「海和刈」(めかり)は『ニギメの意味にも使われていた』とある。平安中期の「一代要記」、平安後期の「東大寺文書」でも「和布」である。則ち、本邦の上古の上流階級に於けるワカメの呼称に於いても今、も現役の「和布」こそが最も普通であったのである。なお、宮下氏の同書によれば、『糸ワカメは、三重県の答志島辺を中心として志摩名産とされたもので』、『ミチ(葉』状部『の中央の茎状のすじ)をとり去り、乾燥してのち、こもに包んで約三〇分後にとりだし、手で一枚ずつもみ上げて箸状にしておくと白い粉を吹く。江戸時代から伊勢参宮みやげとされたものである』とある。この詩篇を読みながら、干されたワカメの景の向うに、そうした漁民の仕事を想起する時、この詩篇は正しくワイドに立体的な映像として現前すると言える(太字は私が附した。言い忘れが、私は海藻フリークでもある)。]

2019/04/29

和漢三才図会巻第三十九 鼠類 始動 / 目録・鼠(総論部)

寺島良安「和漢三才図会」の「巻第三十九 鼠類」の電子化注を、新たにブログ・カテゴリ「和漢三才図会巻第三十九 鼠類」を作って始動する。

私は既に、こちらのサイトHTML版で、

卷第四十  寓類 恠類

及び、

卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類

卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類

卷第四十七 介貝部

卷第四十八 魚部 河湖有鱗魚

卷第四十九 魚部 江海有鱗魚

卷第五十  魚部 河湖無鱗魚

卷第五十一 魚部 江海無鱗魚

及び

卷第九十七 水草部 藻類 苔類

を、また、ブログ・カテゴリ「和漢三才圖會 蟲類」で、

卷第五十二 蟲部 卵生類

卷第五十三 蟲部 化生類

卷第五十四 蟲部 濕生類

を、新しいものとして、ブログ・カテゴリ「和漢三才圖會 鳥類」で、

卷第四十一 禽部 水禽類

卷第四十二 禽部 原禽類

卷第四十三 禽部 林禽類

卷第四十四 禽部 山禽類

を、そして直近の最新のものとして、

三十七 畜類

卷第三十八 獸類

を完全電子化注している。余すところ、同書の動物類は、この「卷三十九 鼠類」の一巻のみとなった。但し、「卷第四十 寓類 恠類」の後にある短い「獸の用」については未電子化なので、便宜上、このカテゴリの最後で電子化注することとする。

 思えば、私が以上の中で最初に電子化注を開始したのは、「卷第四十七 介貝部」で、それは実に十二年半前、二〇〇七年四月二十八日のことであった。

 当時は、偏愛する海産生物パートの完成だけでも、正直、自信がなく、まさか、ここまで辿り着くとは夢にも思わなかった。それも幾人かの方のエールゆえであった。その数少ない方の中には、チョウザメの本邦での本格商品化飼育と販売を立ち上げられながら、東日本大地震によって頓挫された方や、某国立大学名誉教授で日本有数の魚類学者(既に鬼籍に入られた)の方もおられた。ここに改めてその方々に謝意を表したい。

 総て、底本及び凡例は以上に準ずる(「卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」の冒頭注を参照されたい)が、HTML版での、原文の熟語記号の漢字間のダッシュや頁の柱、注のあることを示す下線は五月蠅いだけなので、これを省略することとし、また、漢字は異体字との判別に迷う場合は原則、正字で示すこととする(この間、文字コードの進歩で多くの漢字を表記出来るようになったのは夢のようだ)。また、私が恣意的に送った送り仮名の一部は特に記号で示さない(これも五月蠅くなるからである。但し、原典にない訓読補塡用の字句は従来通り、〔 〕で示し、難読字で読みを補った場合も〔( )〕で示した。今までも成した仕儀だが、良安の訓点が誤りである場合に読みづらくなるので、誤字の後に私が正しいと思う字を誤った(と判断したもの)「■」の後に〔→□〕のように補うこともしている(読みは注を極力減らすために、本文で意味が消化出来るように、恣意的に和訓による当て読みをした箇所がある。その中には東洋文庫版現代語訳等を参考にさせて戴いた箇所もある)。原典の清音を濁音化した場合(非常に多い)も特に断らない)。ポイントの違いは、一部を除いて同ポイントとした。本文は原則、原典原文を視認しながら、総て私がタイプしている。活字を読み込んだものではない(私は平凡社東洋文庫版の現代語訳しか所持していない。但し、本邦や中文サイトの「本草綱目」の電子化原文を加工素材とした箇所はある)。なお、良安は「鼠」の字の「臼」の下部を「鼡」の三つの(かんむり)を除去した略字で総て(今までも)書いているが、表記出来ないし、私は激しい生理的嫌悪感を持つ字(実は原典を見ているだけでも気持ちが悪くなる)なので総てを正字「鼠」で示した。なお、ニフティのブログ・メンテナンスによって表示出来ない漢字が増えた。ワードで製作中は普通に表示されているのは勿論、ここでの投稿画面やプレビューでは表記出来ていても、本投稿すると「?」になるものも存在することが判った。毎回、点検してはいるが、新しい投稿で、本文中に突然、何の注もなしに「?」があった場合は、お教え戴けると助かる。即座に字注を入れる。よろしくお願い申し上げる。【2019年4月30日始動 藪野直史】

 

和漢三才圖會卷第三十九目録

 卷之三十九

  鼠類

[やぶちゃん注:原本の大標題は実際には「和漢三才圖會卷第三十九之四十目録」で、後ろに「卷之四十」「寓類 恠類」「獸之用」の目録が続くのであるが、ここは既に示した通り、「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の冒頭で電子化済みなので、「寓類 恠類」の部分を省略して、かくした。以下は原典では三段組で字は大きい(目録では今までも大きくしていないので、ここもそれに従う)。ここではルビは原典通りのひらがな或いはカタカナを後に丸括弧で示した(「ねすみ」と総て清音であるのは総てママである。ここでは一部の不審を持たれるであろう箇所を除いて、注しない。]

 

鼠(ねすみ)

※1(しろねすみ)[やぶちゃん注:「※1」=「鼠」+「番」。]

鼷(あまくちねすみ)

鼩鼱(はつかねすみ)

※2※3(つらねこ)[やぶちゃん注:「※2」=「鼠」+「离」。「※3」=「鼠」+「曷」。]

鼨(とらふねすみ)

水鼠(みつねすみ)

火鼠(ひねすみ)

䶄(またらねすみ)

蟨鼠(けつそ)【附鼵(トツ)】

食蛇鼠(へびくらいねすみ)[やぶちゃん注:「い」はママ。]

麝香鼠(じやかうねすみ)

鼢(うころもち) 【鼧鼥(ダハツ)】

隱鼠(ぶたねすみ)

鼫鼠(りす)

貂(てん)

黃鼠(きいろねすみ)

䶉 【附 鼯鼠 出于原禽下】[やぶちゃん注:ルビは排除して示した。ルビを含めて訓読すると、「附〔(つけた)〕り 鼯鼠(ノフスマ) 原禽の下に出〔(いだ)〕す。」。]

猬(けはりねすみ)

鼬(いたち)

 

  獸之用

牝牡(めを)

角(つの)

牙(きば)

蹄(ひづめ)

蹯(けものゝたなこゝろ)〕 【※(ミヅカキ)】[やぶちゃん注:「※」=(「凪」-「止」)+(中)「ム」。]

皮(かは)

肉(にく)

 

 

和漢三才圖會卷第三十九

      攝陽 城醫法橋寺島良安尚順

  鼠類

 

Nezumi



 

ねすみ    䶆鼠 家鹿

       首鼠 老鼠

【音暑】

★     【鼠字象其頭

       齒腹尾之形】

チユイ   【和名禰須美】

[やぶちゃん注:★部分に上図の篆文が入る。大修館書店「廣漢和辭典」の解字によれば、『尾の長いねずみの形にかたどり、ねずみ・ねずみのように穴にすむ動物の意を表す』(これはリス類に「栗鼠」とするのが腑に落ちる)。『音形上は貯などに通じ、ものを引きこんでたくわえる動物であろう』とある。]

 

本綱鼠其類頗繁形似兔而小青黒色有四齒而無牙長

鬚露眼前爪四後爪五尾文如織而無毛長與身等五臟

俱全肝有七葉膽在肝之短葉間大如黃豆正白色貼而

不埀鼠孕一月而生多者六七子魚食巴豆而死鼠食巴

豆而肥【魚字疑當作鳥乎鳶鴉犬等食巴豆至死】鼠食鹽而身輕食砒而卽死

玉樞星散爲鼠在卦爲☶艮其聲猶喞喞凡鼠壽三百歳

善憑人而卜名曰仲能知一年中吉㐫及千里外事鼠性

多疑出穴不果【惠州獠民取鼠初生閉目未有毛者以蜜養之用獻親貴挾而食之謂之蜜喞】

鼠肉【甘熱】 治小兒疳腹大貪食者【黃泥裹燒熟去骨取肉和豉汁作羹食之莫食

 骨甚瘦人】出箭鏃入肉【取鼠一枚肉薄批焙研毎服二錢熱酒下瘡痒則出矣凡入藥皆用牡鼠】

鼠膽 㸃目治青盲雀目不見物滴耳治聾【卒聾者不過三度久年者側臥入耳盡膽一箇須臾汁從下耳出初時益聾十日乃聾瘥矣】

鼠印 卽外腎也【上有文似印】令人媚悅【正朔端午七夕十一二月以子時向北刮

取陰乾盛青囊男左女右繫臂上人見之無不懽悅所求如心也】

鼠糞 入藥用牡鼠屎【兩頭尖者是也】爲厥陰血分藥【有小毒食中誤食令

 人目黃成黃疸】治馬咬狗咬猫咬成瘡者【燒末傅之】

                  俊賴

 夫木我か賴む草の根をはむ鼠そと思へは月のうらめしきかな

△按鼠豫知人之科擧遷居毎夜舉床上席間微塵則有

 應往昔帝遷都時鼠先移至【詳于日本紀】酉陽雜組云人夜

 臥無故失髻者鼠妖也又鼠有着人及牛馬而晝夜不

 避無奈之何也唯用咒術宜禳除

 鼠咬用胡椒末傅之【凡鼠所咬人禁食小豆愈後亦食小豆則痛再發】性畏菎

 蒻用生菎蒻水煉塞鼠穴則不出

鼠糞【有毒】 養小鳥之餌誤入食之鳥皆死又鏽腐鐵噐鼠

 屎塗新小刀表安於醋桶上得醋氣一宿刮去之肌如

 古刄凡鼠屎尿損絹紙以可知

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野鼠【一名田鼠】 形狀不異家鼠而別種也在田野竊食菽穀

 人捕之切尾瑞【傅灰止其血】養之豫令飢毎教之爲汲水或

 書使之形勢勝於家鼠之黠乞丐出市衢使之糊錢也

 既載五雜組則和漢共然矣【月令云田鼠化爲鴽之田鼠非此鼴也】

 

 

ねずみ    䶆鼠〔(すいそ)〕

       家鹿〔(かろく)〕

       首鼠 老鼠

【音「暑」。】

★     【「鼠」の字、其の頭・齒・腹・

       尾の形に象〔(かたど)〕る。】

チユイ   【和名「禰須美」。】

[やぶちゃん注:「鼠」は別の音で「ショ」(現代仮名遣)があり、現代中国音でも孰れも同音「shǔ」(シゥー)である。]

 

「本綱」、鼠、其の類、頗〔(すこぶ)〕る繁〔(おほ)〕し。形、兔に似て、小さく、青黒色。四齒、有りて、牙、無く、長き鬚、露(あらは)なる眼〔(まなこ)〕、前の爪、四つ、後の爪、五つ。尾の文(あや)織〔れ〕るがごとくにして、毛、無く、長さ、身と等(ひと)し。五臟、俱〔(とも)〕に全〔(まつた)〕し。肝に七葉有り。膽(たん)は肝の短葉の間に在りて、大いさ、黃豆〔(だいづ)〕[やぶちゃん注:大豆の別名。]のごとく、正白色、貼〔(てん)〕じて埀れず。鼠、孕(はら)みて一月にして生ず。多き者、六、七子なり。魚は巴豆〔(はづ)〕を食ひて死す。鼠は巴豆を食ひて肥ゆ【「魚」の字は疑ふらくは、當に「鳥」に作るべきか。鳶・鴉・犬等、巴豆を食へば、死に至る。】鼠、鹽を食ひて、身、輕く、砒〔(ひ)〕[やぶちゃん注:砒素。]を食へば、而して、卽ち、死す。

玉樞星(ぎよくすうせい)、散じて鼠と爲る。卦に在る、「☶」・艮〔(コン/うしとら)〕と爲す〔と〕。其の聲、猶ほ「喞喞(ツエツエツ)」と云ふがごとし。凡そ、鼠の壽、三百歳にして、善〔(よ)〕く、人に憑きて、卜〔(うらな)〕ふ。〔かく成れる老妖鼠を〕名づけて「仲」と曰ふ。能く一年〔(ひととせ)の〕中〔(うち)〕の吉㐫[やぶちゃん注:「凶」の異体字。]及び千里の外〔の〕事を知る。鼠、性、疑ひ多く、穴を出づるに、果〔(あらは)〕さず[やぶちゃん注:なかなかその全身の姿を見せようとしない。]【惠州[やぶちゃん注:広東。]の獠〔(りよう)〕民[やぶちゃん注:中国南方の異民族の名。後注参照。]鼠の初生の、目を閉ぢ、未だ毛の有らざる者を取りて、蜜を以つて之れを養ひ、用ひて、親貴[やぶちゃん注:目上の親族や地位の高い人々。]に獻ず。〔親貴なる人々は箸にて〕挾みて之を食ふ。之れを「蜜喞〔(みつひつ)〕」と謂ふ。】。

鼠の肉【甘、熱。】 小兒の疳〔や〕腹〔の〕大〔きくして〕食を貪る者[やぶちゃん注:病的な過食障害者。]を治す【黃泥〔(くわうでい)〕[やぶちゃん注:シルト(silt)状の黄土の泥。]に裹み、燒き熟し、骨を去り、肉を取り、豉汁〔(みそしる)〕を和〔(あ)〕へ、羹〔(あつもの)〕と作〔(な)〕して、之れを食ふ。骨を食ふ〔こと〕莫し。甚だ人を瘦せさす。】箭(や)の鏃(ね〔/やじり〕)の肉に入るを出だす【鼠一枚の肉を取り、薄く批〔(たた)〕き、焙〔(あぶ)〕り、研〔(けづ)〕る。毎服二錢[やぶちゃん注:明代の一銭は三・七五グラム。]を熱酒〔(かんざけ)〕にて下〔(のみくだ)〕す。瘡〔(きず)〕の痒〔(かゆ)〕きときは、則ち、〔それ、〕出づ。凡そ、藥に入るるに、皆、牡鼠を用ふ。】。

鼠の膽〔(たん/い)〕 目に㸃じて青-盲(あきしり)[やぶちゃん注:音「セイマウ(セイモウ)」。目が尋常に開(あ)いているのに物の見えない眼病。]・雀目(とりめ)にて、物、見えざるを治す。耳に滴〔(つ)く〕れば、聾を治す【卒〔に〕聾〔たりし〕者[やぶちゃん注:急に耳が全く聴こえなくなった患者。]〔には〕、三度を過ぎず、久しき年の〔聾〕者にては、側に臥せしめ耳に入れ〔るに〕、膽一箇を盡して、須-臾(しばら)くして、汁、下の耳より出づ。〔その處方をせし〕初〔めの〕時〔には〕、益々、聾〔するも〕、十日にして、乃〔(すなは)〕ち、聾、瘥〔(い)〕ゆ。】。

鼠の印〔(いん)〕 卽ち、外腎(へのこ)[やぶちゃん注:陰茎。但し、陰茎骨であろう。]なり【上に文〔(もん)〕有りて印に似たり。】人をして媚悅〔(びえつ)〕せしむ[やぶちゃん注:催淫効果を惹起させる。]【正朔[やぶちゃん注:元日。]・端午・七夕〔及び〕十一〔月〕・二月の子〔(ね)〕の時、北に向ひ、刮〔(こそ)〕ぎ取り[やぶちゃん注:これは直後の陰干しから見て、生きた鼠からちょん切ることを指していると読む。]、陰乾し、青き囊〔(ふくろ)〕に盛り、男は左〔(ひだ)り〕、女は右〔の〕臂〔(ひじ)〕の上に繫ぐ。人、之れを見ば、懽悅〔(くわんえつ)〕[やぶちゃん注:ここは性的に恍惚となり、相手を求めたくなるということ。]せざるといふこと無く、所むるところ、心のごとくなり。】。

鼠の糞 藥に入るるには牡鼠の屎〔(くそ)〕を用ふ【〔屎の〕兩頭、尖れる者、是れなり。】。厥陰血分の藥と爲す【小毒、有り。食中に誤食〔せば〕、人をして目を黃〔に〕し、黃疸を成す。】。馬〔の〕咬〔(かみきず)〕・狗〔の〕咬・猫〔の〕咬、瘡〔(かさ)〕を成せる者を治す【燒〔きて〕末〔にして〕之れを傅〔(つ)〕く。】。

                  俊賴

 「夫木」

   我が賴む草の根をはむ鼠ぞと

      思へば月のうらめしきかな

△按ずるに、鼠、豫(あらかじ)め、人の科擧〔(かきよ)〕・遷居を知る。毎夜、床〔(ゆか)〕の上に、席(たゝみ)[やぶちゃん注:ここでは中国の官吏登用試験の科挙とはっきり出してしまっており、畳ではおかしい。これは「むしろ」と訓ずるべきであろう。]の間〔(あひだ)〕の微塵を舉ぐれば、則ち、應〔(わう)〕有り〔と〕[やぶちゃん注:「合格の見込みがあるとする」の意。]。往昔、帝〔(みかど)〕、遷都(せんと)の時、鼠、先づ、移り至る【「日本紀」に詳かなり。】〔と〕。「酉陽雜組」に云はく、『人、夜、臥し、故無くして髻(もとゞり)を失するは、鼠の妖なり』〔と〕。又、鼠、人及牛馬に着(つ)くこと有りて、〔これ、〕晝夜を避けず〔憑けば〕、之れ、奈何(いかん)ともすること無し。唯だ、咒術(まじなひ)を用ひて、宜しく禳(はら)い[やぶちゃん注:ママ。]除(の)くべし。

 鼠の咬〔(か)み〕たるには、胡椒の末を用ひ、之れを傅く【凡そ、鼠に咬まれたる人、小豆を食ふを禁ず。愈えて後、亦、小豆を食へば、則ち、痛み、再發す。】。〔鼠は〕、性、菎蒻〔(こんにやく)〕を畏る。生(なま)菎蒻を用ひ、水煉〔(みづねり)し〕て、鼠の穴を塞げば、則ち、出でず。

鼠の糞【有毒。】 小鳥を養ふの餌に、誤りて入り、之れを食へば、鳥、皆、死す。又、鐵噐〔(てつき)〕をして鏽(さ)び腐(くさ)らかす。鼠の屎、新しき小刀〔(さすが)〕の表に塗り、醋〔(す)〕桶の上に安〔(お)〕き、醋の氣(かざ)を得ること、一宿、之れ[やぶちゃん注:塗った鼠の糞。]を刮〔(こそ)〕げ去れば、〔小刀の〕肌、古刄(ふるは)のごとし。凡そ、鼠の屎・尿〔(ゆばり)〕、絹紙〔(けんし)〕を損(そこ)なふ〔こと〕、以つて知るべし。

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野鼠【一名「田鼠」。】 形狀、家鼠に異〔(こと)〕ならずして、而〔れども〕別種なり。田野に在りて、菽〔(まめ)〕・穀を竊〔(ぬす)み〕食ふ。人、之れを捕へ、尾の瑞を切り【灰を傅〔(つ)〕け、其の血を止む。】、之れを養ひ、豫(あらかじ)め、飢へ[やぶちゃん注:ママ。]しめ、毎〔(つね)〕に之に教へて、水汲〔(みづく)〕みを爲させ、或いは書使(ふみづかい[やぶちゃん注:ママ。])の形勢(ありさま)をせしむ。〔これ、〕家鼠の黠(こざかし)き[やぶちゃん注:本漢字は「悪賢い」の意がある。]より勝れり。乞丐〔(こつがい)〕[やぶちゃん注:乞食。]、市衢(〔いち〕つじ)[やぶちゃん注:市街地の辻。]に出でて、之れを使はして錢を糊(もろ)ふ[やぶちゃん注:貰う。]ことや、既に「五雜組」に載す。則ち、和漢共に然るか【「月令〔(がつりやう)〕」に云はく、『田鼠、化して鴽〔(じよ)〕と爲る』の「田鼠」は此れに非ず。「鼴(うごろもち)」[やぶちゃん注:モグラ。本巻の後の方に独立項で後掲される。]なり。】。

[やぶちゃん注:動物界 Animalia 脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 哺乳綱 Mammalia 齧歯(ネズミ)目 Rodentia ネズミ亜目 Myomorpha のネズミ上科 Muroidea・トビネズミ上科 Dipodoidea・ヤマネ上科 Gliroidea の属するネズミ類の総論。世界で凡そ千三百種(或いは千六十五種から千八百種とも)棲息する一大生物種群を成し、ヒトが滅んでもゴキブリと並んで生存し続ける種群とされる。ウィキの「ネズミ」によれば、その『ほとんどが夜行性で』、『門歯が一生伸び続けるという』齧歯(げっし)類の『特徴を持っているため、常に何か硬いものを(必ずしも食物としてではなく)かじって前歯をすり減らす習性がある。硬いものをかじらないまま放置しておくと、伸びた前歯が口をふさぐ形になり食べ物が口に入らなくなってしまい』、『餓死してしまう』。『世界中のほとんどあらゆる場所に生息して』おり、『ネズミ上科のほとんどの種が、丸い耳、とがった鼻先、長い尻尾といった、よく似た外観上の特徴をもち、外観から種を見分けることは難しい。このため、頭骨や歯によって識別がなされている』。『繁殖力が旺盛で』、『ハツカネズミなどのネズミは一度の出産で』六~八『匹生むことが出来、わずか』三~四『週間程度で性成熟し子供が産めるようになる』。『世界的にネズミは有史以前から人間が収穫した後の穀物を盗んで食べる害獣である。農作業において自然の鳥獣が』、時折り、『田畑に食物を食べに出てくるのは自然なことであり、人間が自然の恵みによって間接的に自然から食料を得ているという意識のもとでは、そうした鳥獣は殺して駆除すべき対象ではなく、殺さずに追い払う対象であった。しかし、収穫後の穀物は自然と切り離された人間の所有物であり、それを食べるネズミは古今東西』、『忌み嫌われてきた』。哲学者で博物学者でもあった『アリストテレス』(紀元前三八四年~紀元前三二二年)の「博物誌」では『農作物に害をなすことが述べられているとともに、塩を舐めているだけで交尾をしなくても受胎すると考えられていて、繁殖力が強い事は知られていた。中世のヨーロッパでは、ネズミは不吉な象徴でありペストなどの伝染病を運んでくると考えられていた(実際、ペストの媒介動物である)。欧米では「ゾウはネズミが天敵」と信じられていた(ネズミはゾウの長い鼻に潜り込んで窒息死させると言われていた)。これは単なる迷信などではなく、ネズミは自分より体の大きなものであっても襲うことがあるためである。人間の乳児や病人などはネズミにかじられてしまうことが多々あった。飢饉などで動けなくなり』、『周囲も看病をできなかった弱った人間がネズミにかじられて指を失った事例などは世界中にある』。『また、ドブネズミ、クマネズミ、ハツカネズミの』三『種はイエネズミと呼ばれ、人間社会にとってもっとも身近なネズミである。現代でも病原体を媒介したり』、『樹木や建物、電気機器などの内部や通信ケーブルなどをかじったりして』、『人間に直接・間接の害を与える衛生害獣であり、駆除の対象となっている』。『日本列島では縄文時代の貝塚において、微小な動物遺体の水洗選別を行った際』、『ネズミの骨が回収されている』。『これらはアカネズミ・ヒメネズミなど森林性の小型のネズミ類であり、狩猟対象獣であるイノシシ・シカ・タヌキなどに比べて微量であるため』、『食用ではなかったと考えられて』おり、『貝塚から出土する動物遺体にはネズミの齧り跡が認められることもある』。『東京都北区に所在する七社神社裏貝塚では、魚骨・貝殻などが廃棄されていた縄文後期前葉の土坑内部からハタネズミ・アカネズミで構成される大量のネズミが出土している』。『ゴミ坑から出土したことから食用であることも想定されるが、全身の部位が残っている個体が多く、焼けた形跡も見られない。このため食用ではなく、縄文人の採集生活において、堅果や加工品を食糧とする森林性のネズミは競合関係にあり、このため』、『駆除を目的としてゴミ坑に廃棄しており、また土坑は落とし穴として機能していた可能性も考えられている』。『弥生時代にもネズミが存在した痕跡が見られる』。『静岡県静岡市に所在する登呂遺跡における発掘調査により出土した楕円形・蓋状の木製品は、その後の類似した木製品の出土事例の増加により、食料貯蔵庫である高床倉庫の柱に設置するネズミ返しであるとする説が提唱された』。『高床倉庫のネズミ返しは』、『取り付け位置・ネズミの種類からクマネズミ属のクマネズミ・ドブネズミには通用せず』、『ハタネズミを対象としたものであり、クマネズミ属は弥生時代には渡来していなかったとする説もある』。『一方で、奈良県磯城郡田原本町唐古に所在する唐古・鍵遺跡では弥生時代のドブネズミが出土している』。『また、唐古・鍵遺跡から出土した壺形土器には』四『本の掻き傷が見られ、大きさ・本数からネズミの爪跡であると考えられている』。『ドブネズミは東南アジアを起源とするクマネズミ属であり、世界中に進出している』。『一般に集落の形成期にはハタネズミ・アカネズミなどの野ネズミが多く出土し、集落の成長に伴い』、『人家の周辺に生息するドブネズミが出現し、さらに集落が衰退すると再び野ネズミが増加するという』。『唐古・鍵遺跡における出土事例から、弥生時代には稲作農耕の開始に伴』って『渡来したとする説がある』。『従来、日本列島へのネズミの渡来は飛鳥時代に遣唐使の往来に』随伴して『渡来したとする説や』、『江戸時代に至って渡来したとする説もあったが、唐古・鍵遺跡の事例により、これを遡って弥生時代には渡来していたと考えられている』。『石川県金沢市に所在する畝田ナベタ遺跡から出土した平安時代(』九『世紀)の木簡にはネズミ歯形が認められてる』。『この木簡は籾の付札で、穀倉を棲家とするネズミが存在していたと考えられている』。『平安時代には宇多天皇』の日記「寛平御記」などの『文献資料において』、『ネコの飼育に関する記録が見られ、仏典などを守るため』、『ネズミの天敵であるネコが導入されたとする説もある』。『日本語の「ネズミ」という言葉について、過去に以下のような語源説が唱えられ』ている。①『「ネ」は「ヌ」に通じ「ヌスミ」の意味。盗みをする動物であることから』(「日本釈名」)。②『「寝盗」。寝ている間に盗みをする動物であることから』(「和訓栞」)。③『「ネ」は「根の国」の「根=暗いところ」、「スミ」は「棲む」。暗いところに棲む動物であることから』(「東雅」)といったものである。「日本神話のネズミ」の項。「古事記」の『根の国の段にネズミが登場する。大国主命』は、素戔嗚命から、三『番目の試練として、荒野に向けて放った鏑矢を取って来るように言われる。矢を探して野の中に入ると』、素戔嗚命は『野に火を付け、大国主命は野火に囲まれて窮地におちいる。その時、一匹のネズミが現れて、「内はほらほら、外はすぶすぶ。」(内はホラ穴だ、外はすぼんでる。)と告げる。大国主命が、その穴に隠れて火をやり過ごすと、ネズミは探していた矢をくわえて来た。こうしてネズミの助けにより、大国主命はこの試練を乗り切ることができた』とあり、また、後、『仏教の神である大黒天(だいこくてん)は、後に大国主命と習合して、七福神としても祀られるが、ネズミを使者としている。ネズミが使者とされる理由については一般に、大黒天の乗る米俵や、ネズミが大国主命を助けた事に由来するといわれる。しかし、中国や西域では毘沙門天』『がネズミを眷属としており、大黒天は毘沙門天とは非常に近しい関係にあったので、ネズミとの関係は日本以前に遡るとも言われる』。『ヒンドゥー教の神・クベーラが仏教に取り込まれ』、『毘沙門天となるが、クベーラは宝石を吐くマングースを眷属としており、中国や西域ではマングースがネズミに置き換わった』のであった、とある(学名は以下の項の種考証で示すこととし、ここでは挿入を一切やめたが、引用元に詳細な分類表がある)。

「巴豆」キントラノオ目トウダイグサ科ハズ亜科ハズ連ハズ属ハズ Croton tigliumウィキの「ハズ」によれば、『英名の Croton(クロトン)でも呼ばれるが、日本語でクロトンという場合は同科クロトンノキ属の Codiaeum variegatum を指すこともある』。『種子から取れる油はハズ油(クロトン油)と呼ばれ、属名のついたクロトン酸のほか、オレイン酸・パルミチン酸・チグリン酸・ホルボールなどのエステルを含む。ハズ油は皮膚につくと炎症を起こす』。『巴豆は』中国の古い本草薬学書のバイブルともいうべき、「神農本草経下品」や「金匱要略(きんきようりゃく)」にも『掲載されている漢方薬であり、強力な峻下』(しゅんげ:非常に強い下剤効果を言う)作用がある』。『日本では毒薬または劇薬に指定』『されているため、通常は使用されない』とある。台湾・中国南部・東南アジアの熱帯原産で、高さ約三メートル。葉は柄を持ち、長さ六~一〇センチメートルの長卵形で、縁に鋸歯があり、色は黄緑色だが、青銅色・橙色になるものがある。雌雄同株。雄花は緑色の五弁花で、枝先の総状花序の上部につき、雌花はその下部にあって花弁はない。果実は倒卵形で高さ約三センチメートルである(ここは小学館「日本国語大辞典」に拠った)。「株式会社ウチダ和漢薬」公式サイト内の「生薬の玉手箱」の「ハズ(巴豆)」によれば、本邦では、「御預ケ御薬草木書付控」に享保六(一七二一年)に『巴豆が貝母・沙参などとともに長崎から小石川薬園に移されたという記録があり』『江戸時代中期にはすでに国内に導入されてい』たとし、また「古方薬品考」には『薩州産あり、薬舗には未だ出ず」という『内容の記載があり』、『巴豆として一般に流通するほどの供給がなかったことがうかがえ』るとする。『現在でも屋久島を北限として分布してい』るものの、『生薬としては利用されていない』模様であるとある。

「砒〔(ひ)〕」砒素(厳密には、その酸化物である三酸化二砒素(As2O3。「三酸化砒素」とも呼ぶ)を主成分とする)は本邦ではまさに殺鼠剤として江戸時代から「石見銀山」や「猫いらず」の名で知られ、毒殺・自殺用の薬物としても使用された。ウィキの「石見銀山ねずみ捕り」等によれば、『石見国笹ヶ谷鉱山で銅などと共に採掘された砒石すなわち硫砒鉄鉱(砒素などを含む)を焼成して作られた』。但し、『実際の「石見銀山」では産出され』ず、その生産地についても異説が多いが、『その知名度の高さにあやか』って、かく呼ばれた。『毒薬として落語・歌舞伎・怪談などにも登場する』。『元禄期には銀山の産出が減る一方で、その後も笹ヶ谷からの殺鼠剤販売が続き』、『名前が一人歩きするようになった』『と考えられている』とある。私などは黒澤明の「赤ひげ」(東宝・昭和四〇(一九六五)年公開)の長坊(長次)の挿話が強烈に結びついている。

「玉樞星(ぎよくすうせい)」東洋文庫訳注に、「本草綱目」の「鼠」の項の「集解」で、時珍が「春秋緯運斗樞」『という緯書を引いて述べている言葉である。緯書は経書に仮託して禍福吉凶や予言などを記したものである』が、『現在からみれば』、『奇異にうつる記事が多い』とあり、検索を掛けても腑に落ちる解説がない。ここまでとする。

「喞喞(ツエツエツ)」この「喞」(音は正しくは「ショク・ソク」)「鳴く・すだく・虫が集まって鳴く」の意があり、「喞喞」も、そのオノマトペイアとしてよく使われるが、別に実は「かこつ・不平を言って嘆く」の意がある。猜疑心の塊りと言う鼠にしてこれはまた、隠れた意味がありそうな感じがしてくる。

『鼠の壽、三百歳にして、善〔(よ)〕く、人に憑きて、卜〔(うらな)〕ふ。〔かく成れる老妖鼠を〕名づけて「仲」と曰ふ』東洋文庫注に晋の葛洪(二八三年~三四三年)の神仙術書「抱朴子」の「対俗」に「百歲鼠色白、善意ㇾ人而ト、名曰くㇾ仲」とある、とする。数字の合わないのは、誇張癖の中国人には百も三百も同じだと言っておけば事足りよう。

「獠〔(りよう)〕」鼠を食べるからって忌避してはいけない。平凡社「世界大百科事典」によれば、漢の武帝は当初、南越討伐の拠点として、のちには大月氏と連合して匈奴を討つために、中国南西部、現在の貴州省附近の「夜郎(やろう)」を重視し、紀元前一一一年に牀柯(そうか)郡を配置し、その長を王に封じたが、彼らは逆に前漢代を通じて、反乱を繰り返した。彼らは日本の「桃太郎説話」と酷似する「竹生始祖伝説」を持ち、また、彼らの後裔ともされる獠(僚)族は、干闌(かんらん)とよばれる高床式住居に住んだばかりか、銅鼓を製作し、しかもそれを本邦固有の銅鐸のように埋納するなど、日本の民族・文化との緊密な繋がりを思わせる民族であるとある。

「蜜喞〔(みつひつ)〕」南方熊楠の「十二支考 鼠に関する民俗と信念」の最後の部分で、人の鼠食(ねづみしょく)に触れた中に(一九八四年平凡社刊「南方熊楠選集」第二巻を底本とした)、

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支那では漢の蔵洪や晋の王載の妻李氏が城を守り、蘇武が胡地に節を守った時、鼠を食うたという。しかし『尹文子』に、周人、鼠のいまだ腊(乾肉)とされないものを璞というとあるそうだから考えると、『徒然草』に名高い鰹同前、最初食用され、中頃排斥され、その後また食わるるに及んだものか。唐の張鷟(ちょうさく)の『朝野僉載』に、嶺南の獠民、鼠の児、目明かず、全身赤く蠕(うごめ)くものに、蜜を飼い、箸で夾み取って咬むと、喞々(しつしつ)の声をなす、これを蜜喞(みつしつ)といって賞翫する、とあり。『類函』に引いた『雲南志』に、広南の儂人、飲食美味なし、常に鼷鼠の塩漬を食う、とあり。明の李時珍が、嶺南の人は、鼠を食えど、その名を忌んで家鹿と謂う、と言った。して見ると鼠は支那で立派な上饌ではない。

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と出るのを参照に本文を補った。因みに、この南方熊楠の作品には本「鼠類」の漢名が、これまた、ぞろぞろ出る。

「久しき年の〔聾〕者にては、側に臥せしめ耳に入れ〔るに〕、膽一箇を盡して、須-臾(しばら)くして、汁、下の耳より出づ」って! あり得ないでショウ!!!

「俊賴」「夫木」「我が賴む草の根をはむ鼠ぞと思へば月のうらめしきかな」源俊頼(天喜三(一〇五五)年~大治四(一一二九)年)は平安後期の貴族・歌人で、宇多源氏。家集「散木奇歌集」や歌学書「俊頼髄脳」でとみに知られる。ウィキの「源俊頼」によれば、『堀河院歌壇の中心人物として活躍し、多くの歌合に作者・判者として参加すると共に』、「堀河院百首」を『企画・推進した』。天治元(一一二四)年には『白河法皇の命により』、「金葉和歌集」を撰集している。『藤原基俊と共に当時の歌壇の中心的存在で』、『歌風としては、革新的な歌を詠むことで知られた』とある。本歌は「夫木和歌抄」の「巻二十七 雑九」に所収。「日文研」の「和歌データベース」で校合済み。よく判らぬが、これ、或いは「我が」(わか)は「和歌」に掛けてあり、自身が頼むその敷島の言の葉の「草」の道の、その「根」を食(は)む鼠とさらに掛けているのかも知れないな、とは思った。

『帝〔(みかど)〕、遷都(せんと)の時、鼠、先づ、移り至る【「日本紀」に詳かなり。】』「日本書紀」の大化元(六四五)年十二月癸卯(みずのとう)の条。

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冬十二月乙未朔癸卯。天皇遷都難波長柄豐碕。老人等相謂之曰。自春至夏鼠向難波。遷都之兆也。

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因みに、「大化」は皇極天皇四年六月十九日(ユリウス暦六四五年七月十七日)の孝徳天皇即位の時から実施されたもので、これが日本で元号が使われた最初である。但し、これ以外にも、白雉五(六五四)年正月一日の条に、『夜。鼠向倭都而遷』とあり、また同年十二月一日にも『老者。語之曰。鼠向倭都、遷都之兆也』とし、さらに天智天皇五(六六六)年の冬の条にも『京都之鼠向近江移』とあって、なかなかプレ遷都演出のレギュラー出演の感がある。

『「酉陽雜組」に云はく……』中唐の詩人段成式(八〇三年?~八六三年?)の膨大な随筆「酉陽雑組(ゆうようざっそ)」(「酉陽雑俎」とも書く)の「巻十六 広動植之一」の以下。

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人夜臥無故失髻者、鼠妖也。

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「鼠の咬〔(か)み〕たる」れっきとした「鼠咬症(rat-bite fever)」があることを認識されたい。これは異なる二種の原因菌により発症する別の感染症の総称で、ちゃんとした個別の人獣共通感染症の一つなのである。ウィキの「鼠咬症」によれば、「鼠咬熱」とも呼ばれる。『鼠咬症スピロヘータ感染症』及び『モニリホルム連鎖桿菌感染症』の二種の病気『が存在する』。『鼠咬症スピロヘータ感染症の原因菌はSpirillum minus、モニリホルム連鎖桿菌感染症の原因菌はStreptobacillus moniliformis(ストレプトバチルス・モニリホルム)』で、『ヒトはネズミの咬傷により感染する。日本では前者による疾病が多い』。『前者では感染』一~二『週間後に発熱、咬傷部の潰瘍、局所リンパ節の腫脹。後者では感染』十『日以内に発熱、頭痛、多発性関節炎、局所リンパ節の腫脹。両者とも心内膜炎、肺炎、肝炎などを発症することもある。両者とも一般にネズミに対しては無症状』である。

「菎蒻〔(こんにやく)〕」単子葉植物綱オモダカ目サトイモ科コンニャク属コンニャク Amorphophallus konjac。忌避関係は不詳。ただ、生のコンニャクイモの根茎はえぐみが強く鼠でさえ食わないというのはよく言われることではある。しかし、試みに調べてみると、ちゃんと保存していた種芋のコンニャクが齧られたという食害被害を訴えている方がいた。

「鼠の屎・尿〔(ゆばり)〕」種によって差があるが、概ね、ネズミの尿は強烈な刺激臭を持ち、病原菌も多く含まれている。

「野鼠」山林・農耕地・雑林等に棲息するネズミ類の総称通称。本邦ではアカネズミ(ネズミ科アカネズミ属アカネズミ Apodemus speciosus)・ヒメネズミ(ネズミ科アカネズミ属

ヒメネズミ Apodemus argenteus)・カヤネズミ(ネズミ科カヤネズミ属カヤネズミ Micromys minutus)・エゾヤチネズミ(キヌゲネズミ科ミズハタネズミ亜科ヤチネズミ属タイリクヤチネズミ亜種エゾヤチネズミMyodes rufocanus bedfordiae)・ヤチネズミ(谷地鼠:キヌゲネズミ科ハタネズミ亜科ヤチネズミ族ビロードネズミ属ヤチネズミ Eothenomys andersoni:日本固有種)・ハタネズミ(ネズミ上科キヌゲネズミ科ハタネズミ亜科ハタネズミ属ハタネズミMicrotus montebelli:日本固有種)・スミスネズミ(ネズミ科ビロードネズミ属スミスネズミ Eothenomys smithii:日本固有種)など、多くの種が含まれる。

「家鼠」現代に於いて、人家やその周辺に棲息するネズミ類の一般通称総称であるが、本邦ではドブネズミ(ネズミ科クマネズミ属ドブネズミ Rattus norvegicus)・クマネズミ(ネズミ科クマネズミ属クマネズミ Rattus rattus)・ハツカネズミ(ネズミ科ハツカネズミ属ハツカネズミ Mus musculus)の三種類にほぼ限られる。但し、クマネズミは江戸時代には「田鼠(たねずみ)」と呼んでいたから、ここに限っては括弧書きとすべきかもしれない。特に、後の芸をするネズミというのは、どうも私にはハツカネズミか或いはその近縁種のように思えてならないからである。なお、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑 5 哺乳類」(一九八八年平凡社刊)の「ネズミ」によれば、本邦では江戸の宝暦期(一七五一年~一七六四年)頃から『ハツカネズミ系の変種コマネズミの飼育が京都・大阪を中心に流行した』が、この『コマネズミは中国産のナンキンネズミ』(ハツカネズミの飼養白変種)『をもとに日本で作られたもの』で、『ちなみにナンキンネズミの初渡来は承応』三(一六五四)年『のことという』。『これは内耳に遺伝的な奇形があ』るため、『体を独楽(こま)のように回転させる』習性があった『ためにその名がつ』けられ、天明七(一七八七)年頃には、『このネズミの交配の方法や』、『ハツカネズミの突然変異種がどのような系統的交配によって生ずるかを記した小冊子』「珍翫鼠育草(ちんがんそだてぐさ)」『(元本では鼠の字は読まれていない)が刊行されて』おり、『この本はハツカネズミの遺伝の形式にまでふれている点で』、『時代に大きく先駆けた書物であった』。『ちなみに同書によれば』、『毛色のようネズミをつくるためには』、『芸のへたなものを選んだほうがよいと』ある、とある。これはまさにその頃、ネズミに芸をさせることを庶民が好んだことを示していると言える。

「五雜組」「五雜俎」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。以下は同書の「人部二」の以下。

   *

長安丐者、有犬戲猴戲、近有鼠戲。鼠至頑、非可教者、不知何以習之至是。

   *

「月令〔(がつりやう)〕」「礼記」の「月令」(がつりょう)篇(月毎の自然現象・古式行事・儀式及び種々の農事指針などを記したもの。そうした記載の一般名詞としても用いる)。以下はこれ。

   *

桐始華、田鼠化爲鴽、虹始見、萍始生。

   *

この「鴽」には東洋文庫訳では割注で、『家鳩もしくはふなしうずら』とする。ところが、既に電子化注した和漢三才圖會第四十二 原禽類 鶉(うづら)(ウズラ)」には「鴽」に良安は「かやくき」というルビを振っているのである(但し、そこでも東洋文庫版は『ふなしうずら』と訳ルビしてある)。現行ではフナシウズラは「鶕」で、鳥綱チドリ目ミフウズラ(三斑鶉)科ミフウズラ属ミフウズラ Turnix suscitator の旧名であり、「ウズラ」とはつくものの、真正のキジ目キジ科ウズラ属ウズラ Coturnix japonica とは全く縁遠い種である。中国南部から台湾・東南アジア・インドに分布し、本邦には南西諸島に留鳥として分布するのみである。されば、そこで良安が「かやくき」と和名表記したそれは、種としての「フナシウズラ」ではないと私は考えた。「かやくき」は、調べてみると、「鷃」の漢字を当ててあり、これはウズラとは無関係な(この漢字を「うずら」と読ませているケースはあるが)、スズメ目スズメ亜目イワヒバリ科カヤクグリ属カヤクグリ Prunella rubida の異名であることが、小学館「日本国語大辞典」で判明した。しかも上記の「鶉」の次の項が「和漢三才図会」の「鷃(かやくき)」なのであった(但し、そこには『鷃者鶉之屬』(「本草綱目」引用)とはある)。この日中の同定比定生物の齟齬のループから抜け出るのはなかなかに至難の技ではある。軽々に比定は出来ない。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(15) 「駒形權現」(1)

 

《原文》

駒形權現  [やぶちゃん注:二字空けはママ。]【勝善神】駿府淺間社ノ社人ノ唱言ニ、所謂關東ノ「ソウゼン」奧ノ「ソウゼン」、奧羽ニテ弘ク拜マルヽ「オコマサマ」ハ、今日村々ノ百姓ガ之ヲ何ト稱フルカヲ問ハズ、表向ノ名稱ハ殆ド皆今ハ駒形神社トナレリ。此ハ明治ノ復古思想ノ一種ノ發露ニシテ、奧羽ノ「オコマ」信仰ノ中心タル膽澤郡ノ駒ケ嶽ガ、即延喜式内ノ駒形神社ナルべシト謂フ地方誌ノ說ヲ公認シ、之ニ由リテ名ヲ正シ迷信ヲ改メントセシ神祇官(じんぎくわん)ノ目的ニハヨク合セリ。奧州ノ駒形神ハ成程古シ。神名帳ノ發表ヨリ五十餘年前ニ、既ニ神階ヲ正五位ニ進メラレタル記事アリ〔文德實錄仁壽元年九月二日條〕。【箱根權現】箱根ノ駒ケ嶽ニ祀ラルヽ駒形權現ノ如キモ、安貞二年ノ火災ノ記事ニ、ソレヨリ又五百年前ノ創立トアレドモ〔吾妻鏡〕、此ハ要スルニ所謂緣起ノ主張ニシテ、實ハ足柄越ノ閉塞シ此山道ノ開カレテヨリ後、奧州ニ往來スル旅人ニ由リテ運搬セラレタル信仰ナリシカモ知レズ。兎ニ角ニ此ノ如ク古キ神ナレバ、其名ノ由來ヲ解說スルコトハ容易ノ業ニハ非ズ。即チ假令駒ノ一字ガ共通ナリトテ、馬ノ保護者ニシテ兼ネテ蠶ノ神タル今ノ「オコマサマ」ヲ、駒形神社ト改メ稱フルノ正シキカ否カハ、今直チニ決スルコト能ハザル難問題ナリ。自分ノ信ズル限ニテハ、少ナクモ駒形ト云フ語ノ解釋トシテハ、地名辭書等ニ採用シタル觀迹聞老志以下ノ通說ハ疑ヲ容ルヽ餘地アリ。雪ナリ岩ナリ其形狀ガ駒ニ似タルガ故ニ駒形ト謂フナリト說クハ、恐クハ形ト云フ文字ニ拘泥シタル意見ナルべシ。駒ニ似タル「カタチ」ヲ以テ駒形ト稱スルハ、昔ノ造語法トシテハ不自然ナリ。【手形】「カタ」ハヤハリ押型ナドノ型ニシテ、手形ノ形ト同ジク物ノ上ニ印サレタル跡ヲ意味スルモノト解スべシ。【駒形ハ足形】而シテ馬ガ其跡ヲ留ムト云フニハ言フ迄モ無ク其蹄ヲ以テセザルべカラズ。サレバ古代ノ奧州ノ駒形神モ亦多クノ社ノ神々ノヤウニ、祭ノ日ニ神馬ニ騎リテ降ラレタルガ、其馬ノ痕跡殊ニ鮮カニ岩カ何カノ上ニ殘リシ爲ニ、頗ル地方ノ信仰ヲ繫ギ、從ヒテ其御神ノ名トモ爲リシカト思ハル。始メテ社ヲ建ツルト同時ニ又ハソレヨリモ以前カラ、駒形ハ其地ノ地名ナリシヲ、神ノ御名ニモ及シタリト見ルモ差支無シ。勿論此ハ駒形神社ノ名ノ由來ヲ想像シタル迄ニテ、其後色々ノ神祕ガ附加ヘラレ、或ハ本然ノ信仰ニ多少ノ變動ヲ及スニ至リシコトモ、決シテ無シトハ言フ能ハザルナリ。

 

《訓読》

駒形權現  【勝善神(そうぜんしん)】駿府淺間(せんげん)社の社人の唱言(となへごと)に、所謂、關東の「ソウゼン」奧の「ソウゼン」、奧羽にて弘く拜まるゝ「オコマサマ」は、今日、村々の百姓が之れを何と稱ふるかを問はず、表向きの名稱は、殆んど皆、今は駒形神社となれり。此れは、明治の復古思想の一種の發露にして、奧羽の「オコマ」信仰の中心たる膽澤(いざは)郡の駒ケ嶽が、即ち「延喜式」内の駒形神社なるべし、と謂ふ地方誌の說を公認し、之れに由りて、『名を正し』、迷信を改めんとせし神祇官の目的にはよく合(がう)せり。奧州の駒形神は、成程、古し。「神名帳(じんみやうちやう)」の發表より五十餘年前に、既に神階を正五位に進められたる記事あり〔「文德實錄」仁壽元年[やぶちゃん注:八五一年。]九月二日條〕。【箱根權現】箱根の駒ケ嶽に祀らるゝ駒形權現のごときも、安貞二年[やぶちゃん注:一二二八年。]の火災の記事に、それより又、五百年前の創立とあれども〔「吾妻鏡」〕、此れは要するに、所謂、緣起の主張にして、實は、足柄越えの閉塞し、此の山道の開かれてより後、奧州に往來する旅人に由りて、運搬せられたる信仰なりしかも知れず。兎に角に、此くのごとく古き神なれば、其の名の由來を解說することは容易の業(わざ)には非ず。即ち、假令(たとひ)、「駒」の一字が共通なりとて、馬の保護者にして、兼ねて、蠶(かいこ)の神たる今の「オコマサマ」を、駒形神社と改め稱ふるの正しきか否かは、今、直ちに決すること能はざる難問題なり。自分の信ずる限りにては、少なくも、「駒形」と云ふ語の解釋としては、「地名辭書」等に採用したる「觀迹聞老志」以下の通說は、疑ひを容るゝ餘地、あり。雪なり、岩なり、其の形狀が「駒」に似たるが故に「駒形」と謂ふなりと說くは、恐らくは「形」と云ふ文字に拘泥したる意見なるべし。駒に似たる「かたち」を以つて「駒形」と稱するは、昔の造語法としては不自然なり。【手形】「かた」は、やはり、「押型」などの「型」にして、「手形」の「形」と同じく、「物の上に印(しる)されたる跡」を意味するものと解すべし。【駒形は足形】而して、馬が其の「跡」を留むと云ふには、言ふまでも無く、其の「蹄(ひづめ)」を以つて、せざるべからず。されば古代の奧州の駒形神も亦、多くの社の神々のやうに、祭の日に神馬に騎(の)りて降(くだ)られたるが、其の馬の痕跡、殊に鮮かに、岩か何かの上に殘りし爲めに、頗(すこぶ)る地方の信仰を繫ぎ、從ひて、其の御神の名とも爲りしかと思はる。始めて社を建つると同時に、又は、それよりも以前から、「駒形」は其の地の地名なりしを、神の御名にも及ぼしたりと見るも、差し支へ無し。勿論、此れは、駒形神社の名の由來を想像したるまでにて、其の後、色々の神祕が附け加へられ、或いは、本然の信仰に多少の變動を及ぼすに至りしことも、決して無しとは言ふ能はざるなり。

[やぶちゃん注:本段落の柳田國男の見解には細部に至るまで私は非常に共感出来る。

「勝善神(そうぜんしん)」既出既注

「駿府淺間(せんげん)社」現在の静岡市葵区宮ケ崎町にある静岡浅間神社(グーグル・マップ・データ)は神部(かんべ)神社(祭神は駿河国開拓の祖神ともされる大己貴命。崇神天皇の時代(約二千百年前)の鎮座と伝えられ、「延喜式」(「弘仁式」・「貞観式」以降の律令の施行細則を取捨して集大成したもの。全五十巻。延喜五(九〇五)年、醍醐天皇の勅により、藤原時平・忠平らが編集。延長五(九二七)年に成立、康保四(九六七)年に施行された)内小社。国府が定められてからは国司崇敬の神社となり、平安時代より駿河国の総社とされた)・浅間神社・大歳御祖神社(祭神は大歳御祖命(おおとしみおやのみこと=神大市比売命(かむおおいちひめ))。応神天皇の時代(約千七百年前)の鎮座と伝えられ、元々は安倍川河畔の安倍の市(古代の市場)の守護神であった。古くは「奈古屋神社」と称された。「延喜式」内小社)の三社からなり、戦後まで三社は独立した神社であった(現在は一つの法人格扱い)。浅間神社の祭神は木之花咲耶姫命で、延喜元(九〇一)年、醍醐天皇の勅願により、富士山本宮浅間大社より、総社神部神社の隣りに勧請され、以来、「冨士新宮」として崇敬されてきた(以上は主にウィキの「静岡浅間神社」に拠った)。但し、柳田國男の言っている祝詞が狭義のこの神社のそれであるかどうかは私には分らない。

「神祇官」律令制で朝廷の祭祀を掌り、諸国の官社を総轄した、太政官(だいじょうかん)と並んだ中央最高官庁は、平安後期にはその機能を失い、室町時代には吉田家がこれに代わっていたが、明治維新政府は慶応四(一八六八)年閏四月に太政官(だじょうかん)七官の一つの官庁として復活させ、宗教統制による国民教化を担当させた。明治四(一八七一)年には神祇省と改称したが、翌年に教部省となり(この時、神祇官は事実上廃止されているものと思われる)、それも明治一〇(一八七七)年一月に廃止され、当該機能は内務省社寺局へ移された。明治三三(一九〇〇)年四月に神社局と宗教局の二つに分離したが、敗戦後の昭和二二(一九四七)年五月三日に施行された「日本国憲法」の理念に基づき、同年末、GHQの指令により、内務省は廃止され、神道部門は宗教法人神社本庁として外に出された。

「神名帳」ここは「延喜式神名帳」を指す。既に注した延長五(九二七)年に纏められた「延喜式」の巻九と巻十のことで、当時、「官社」に指定されていた全国の神社一覧を指す。

「箱根の駒ケ嶽に祀らるゝ駒形權現」神奈川県足柄下郡箱根町元箱根の箱根駒ヶ岳(標高千三百二十七メートル)の山頂にある現在、箱根神社所轄の箱根元宮(グーグル・マップ・データ)。「箱根神社」の同宮の解説によれば、『駒ヶ岳は北に霊峰神山を拝し、古代祭祀=山岳信仰が行われたところ』で、『その起源は、今から凡そ』二千四百『年前、人皇五代孝昭(こうしょう)天皇の御代、聖占仙人(しょうぜんしょうにん)が、神山に鎮まります山神の威徳を感應し、駒ヶ岳山頂に神仙宮を開き、次いで利行丈人、玄利老人により、神山を天津神籬(あまつひもろぎ)とし、駒ヶ岳を天津磐境(あまついわさか)として祭祀したのに始まる』。『爾来、御神威は天下に輝き渡り、歴世の天皇の崇敬と庶民の信仰をあつめ、敬仰登拝する者跡を断たず、人皇』二十九『代欽明』『天皇の御代に佛教が渡来して』以来、『神佛習合して、修験』『者等が練行苦行する霊場として有名になった』。『奈良時代、人皇』四十六『代孝謙』『天皇の御代、高僧の万巻(まんがん)上人が入峰し、霊夢をうけて箱根三所権現として奉斎。天平宝字元』(七五七)年に『山麓の芦ノ湖畔に社殿を造営し、里宮としたのが』、『現在の箱根神社である』とあり、「史跡 馬降石(ばこうせき)」の項には、『注連縄を張ってあるのは馬降石といい、白馬に乗って神様が降臨』『された岩と傳えられる』。『石の上の穴は降馬の折の蹄跡で、穴にたまる水は旱天にも枯れたことがないと傳えられる不思議な岩』であり、『また』、『参道の右側には馬乗石(ばじょうせき)があり、白馬の信仰を今に残している。此の山の七名石の一つとされている』とある。

『安貞二年の火災の記事に、それより又、五百年前の創立とあれども〔「吾妻鏡」〕』「吾妻鏡」の記載は以下。まず、同年十月十八日の箱根社焼亡の記載。

   *

十八日戊午。昨日午尅。筥根社壇燒亡之由。馳參申之。當社垂跡以來。未有回祿之例云々。依之。御作事可延引否。及評議。如助教。駿河前司。隱岐入道。後藤左衞門尉。凝群議。依風顚倒屋々被取立之條不可有其憚云々。無御侍幷中門廊條。頗似荒癈之體也。早可被急御造作之由。人々申之云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十八日戊午(つちのえむま)。昨日の午の尅(こく)、筥根の社壇、燒亡の由、馳せ參じ之れを申す。當社は垂跡(すいじやく)以來、未だ回祿の例有らずと云々。

之れに依つて、御作事[やぶちゃん注:実はこの直前の十月七日に颱風が鎌倉を襲い、御所の侍所や中門の廊部分と竹の御所(第二代将軍源頼家の娘鞠子(或いは媄子(よしこ)とも)の侍控所が転覆し、諸亭も数多く破損していた。]は延引すべきや否や、評議に及ぶ。風に依て顚倒の屋々を取り立て被る之條、其の憚り有る不可と云々。」助教[やぶちゃん注:中原師員(もろかず)。評定衆(以下も同じ)。]・駿河前司(三浦義村)・隱岐入道(二階堂行村)・後藤左衞門尉[やぶちゃん注:後藤基綱。]のごとき、群議を凝らす。風に依つて顚倒せる屋々を取り立つるの條、其の憚り有るべからずと云々。

御侍幷びに中門の廊無きの條、頗る荒癈の體(てい)に似る也。早く御造作を急がるべきの由、人々、之れを申すと云々。

   *

とあり、次いで、翌十一月の条に、

   *

九日己卯。筥根山神社佛閣火災事。滿月上人草創當山以後五百餘歳。未有此例。當于斯時回祿。武州頗以御歎息。仍今日潛有解謝之儀。又被捧願書云々。

○やぶちゃんの書き下し文

九日己夘(つちのとう)。筥根山神社の佛閣火災の事、滿月(まんげつ)上人、當山を草創以後五百餘歳、未だ此の例、有らず。斯(こ)の時に當りて回祿すること、武州[やぶちゃん注:執権北条泰時。]、頗る以つて御歎息あり。仍つて、今日、潛かに解謝の儀、有り(かいしや)[やぶちゃん注:政道が正しくないことがこの火災を齎したと考えて、神に陳謝する儀式を内密に執り行ったことを指す。以下の「願書」のその願文(がんもん)である。]。又、願書を捧げらると云々。

   *

とあって、早くもこの時の二十八日に『筥根社、上棟す』(社殿の新築のそれ)とあって、翌十二月三日には『筥根社遷宮の事』について評定が行われ、同十二月二十八日に新築社殿が完成し、恙なく遷宮が行われたとある。]

太平百物語卷二 十七 榮六娘を殺して出家せし事

 

   ○十七 榮六娘を殺して出家せし事

 讃岐の國に榮六とて、心たくましき者あり。

 或夜、一里斗(ばかり)の堤(つゝみ)を越(こへ[やぶちゃん注:ママ。])て、朋友の方に行(ゆき)けるが、丑三つ過(すぐ)る比(ころ)、又、此堤づたひに歸りけるに、すこし酒きげんにて、心おもしろく、小哥(こうた)などうたひ、何心なく通りけるが、道の眞中(まんなか)に大き成[やぶちゃん注:「なる」。]古狸、前後もしらず臥居(ふしゐ)たり。

 榮六、此体(てい)をみて、

「扨々、にくきふるまひ哉。わらはが通る道筋に、かく狼籍なる風情こそ安からね。」

と傍(そば)ちかくさしより、持(もち)たる杖にて、したゝかぶちければ、狸、目覚(めざめ)て、肝をつぶし、一さんに迯走(にげはし)りければ、

「扨々、能(よき)氣味かな。」

とて、打笑ひて通りけるが、程なく宿に着きて表を叩きければ、今年十二歳になりける一人むすめ、頓(やが)て起き出でて戶口を明(あけ)しかば、榮六、悦び、

「家來は能(よく)ふせりて起(おき)もあがらぬに、やさしくも待(まち)うけたり。」

とて、手を取り、ふしどに入りけるに、爰(こゝ)にも、わが娘、心よく、臥し居たり。

 榮六、ふしぎにおもひ、ふり皈(かへ)りみれば、只今、戶口を明たる娘、うしろに、有。

 一人(ひとり)のむすめ、俄(にはか)に二人となりければ、榮六、大きに驚き、

『こは、いかにぞや。此内、壱人、ぜひ、變化(へんげ)ならん。』

と、おもひながら、何(いづ)れをそれと分(わき)がたく、暫く樣子をうかゞひ、案じ煩ひけるに、表を明けたるむすめのいふやう、

「われ、父上の歸り玉ふを迎ひに出でし間に、何國(いづく)の女やらん、我が臥(ふし)たる跡に、ふしけるこそ、安からね。はやはや、おひ出(いだ)したびたまへ。」

といふ聲に、臥たる娘、目を覚(さま)し、

「父上は、只今、歸り給ひけるかや。それなる女子(おなご[やぶちゃん注:ママ。])は、何方(いづかた)より伴ひかへり玉ふ。」

といふに、榮六、いよいよ、こゝろ迷ひ、二人の娘が顏かたちを、つくづく守りうかゞふに、いづれ、少しも違(たが)はねば、榮六、今はせん方なく、あきれ果てゝ居(ゐ)たりしが、能(よく)々、おもひめぐらす程、

『戸を明たる社(こそ)、化者(ばけもの)ならめ。』

と覺悟して、其儘(そのまゝ)、刀、ぬき放し、只、一太刀に切付(きりつく)れば、

「あつ。」

と叫びて、たふれしが、臥たる娘、此体(てい)を見て、忽ち、すさまじき狸と變じ、

「かうかう。」

と啼きて逃出(にげいづ)る所を、榮六、

『南無三宝(なみさんぼう)。』

とおもひながら、すかさず追詰(おつつめ)、すぐさまに切こめば、此狸、運や盡(つき)たりけん、眞向(まつかう)を切(きら)れて、聲をも立(たて)得ず死しければ、榮六、刀をかしこに捨(すて)、娘が側に走り寄(より)、さめざめと泣(なき)ていひけるは、

「我、はやまりて汝を殺せし不便(びん)さよ。ゆるしてくれ。」

とさけびしが、此むすめ、深手なれば、たまらずして、終に空しくなりぬ。

 榮六、娘が死骸に取り付き、くどきけるは、

「おことが母、先だちて『娘をたのむ』といひ置(おき)たる言葉も、無下になしけるよ。今は、此世に、望みなし。」

とて、これを菩提の種(たね)として、其儘、髻(もとゞろ)おし切、桑門(よすてびと)と成て、彼(かの)むすめの跡をぞ、吊(とむら)ひけるとかや。

 げに、狐・たぬきの類ひ、咎(とが)なきに、おどし苦しめまじき事にこそ。

[やぶちゃん注:「おひ出(いだ)したびたまへ」「追ひ出し賜び給へ」「たびたまふ」は動詞の連用形(或いはそれに「て」の付いた形)に付いて、「~して下さる」の意を添えるもので、補助動詞的用法で、殆んどが、このように命令形で用いられる。動詞「たぶ」の連用形に尊敬の補助動詞「たまふ」が接合した畳語的語彙である。中世以降の出現であろう。

「かうかう」この啼き声は普通、狐のオノマトペイアとして用いることの方が多い。実際のタヌキの啼き声は音写するなら、「キャウウウーーーン」「キュウーーーン」「クゥーーーン」である。なお、私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貍」も参照されたい。

「桑門(よすてびと)」出家修行者のこと。サンスクリット語の「シュラマナ」の漢音写。「沙門(しゃもん)」とも音写するほか、「勤息(ごんそく)」「静志」などとも意訳する。翻訳仏典においては「沙門」が頻出するが、本邦ではこの「桑門」が比較的多く用いられた。その場合、名利を捨て、出家した聖(ひじり)や遁世僧を意味することが多い。本来は、非バラモン教の自由な立場で出家修行に努める者の総称で、強い意志で禁欲生活を送り、閑静な場所で瞑想を行い、真理を目指す者であり、釈尊もそうした一人であった(以上は「WEB版新纂浄土宗大辞典」のこちらに拠った)。]

雁、雁 伊良子清白

 

雁、雁

 

雁(がん)、雁(がん)おまへは

  どこへ行く

 

北へ行くなら

  加賀のくに

 

防風の萠える

  砂山に

 

かはりはないか

  いうておくれ

 

[やぶちゃん注:初出は昭和三(一九二八)年七月発行の『詩神』であるが、初出標題は「雁」一字である。

「防風」はセリ目セリ科ハマボウフウ属ハマボウフウ Glehnia littoralis のこと。海岸の砂地に植生し、浜風に耐えるために根茎は太く長い。葉は羽状の複葉で厚く、放射状に広がる。夏、茎の頂きに白色の小花を密集させる。香りのよい若葉は刺身の褄、根は本邦では民間薬として解熱・鎮痛に用いる。「伊勢防風」とも呼ぶ。中医の正統な漢方生薬である「ボウフウ」は同じセリ科 Apiaceae ではあるが、全くの別属であるボウフウ属ボウフウ Saposhnikovia divaricata の根及び根茎由来(発汗・解熱・鎮痛・鎮痙作用を有する)であって全くの別物である。

 初出は四部構成。以下に示す。

   *

 

 

 

雁(がん)、おまへは

  どこへ行く

 

 

北(きたへ行(ゆ)くなら

  加賀(かが)の國

 

 

防風(ぼうふ)の萠(も)える

  砂山に

 

 

かはりいないと

いふとくれ。

 

   *]

遠い熊野の 伊良子清白

 

遠い熊野の

 

遠い熊野の

   沖合で

月の夜更に

   錨打つ

 

七里御濱(みはま)の

   荒濱も

波は靜かや

   人の聲

 

空は月夜の

   玉霰

しきりに人の

   喚(よ)びたつる

 

波の起臥(おきふし)

   からころと

轆轤(ろくろ)まはしの

   帆をおろす

 

[やぶちゃん注:初出未詳。前後の一連の小唄風詩篇と同時期と考えてよかろう。

「七里御濱」「しちりみはま」と読み、現在の三重県熊野市から三重県最南端の南牟婁郡紀宝町(きほうちょう)はにかけて熊野灘に面した浜の固有名。旧熊野古道の伊勢路の一部。ここ(グーグル・マップ・データ)。鳥羽からは海路実測で百三十キロメートルを有に超えあり、直線距離でも百三キロメートル(浜の中間部の南牟婁郡御浜町基準)ある。

「轆轤」「絞車(きょうしゃ)」とも呼ぶ船具。平安後期以降、大型和船の艫(とも)やぐら内部の左右に設けて、帆・伝馬船・碇・重量荷物などの上げ下ろしに用いた船具。巻胴・轆轤棒・轆轤座:身縄・しゃじき棒・飛蝉などからなり(全体の形状や各部については引用したネットの小学館「精選版 日本国語大辞典」の附図を参照)、今日のウインチに相当する。]

ねたか起きぬか 伊良子清白

 

ねたか起きぬか

 

ねたか起きぬか

  萱野の貉(むじな)

 よいそらよい

沖の夜繩を

  鮫がとる

 

岳(たけ)の朝西風(あさにし)

  飛び出せ螇蚸(ばつた)

 よいそらよい

濱の鰯(いわし)を

  鮪(しび)が逐ふ

 

[やぶちゃん注:これは本底本のこのパートの親本である昭和四(一九二九)年十一月十五日新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」が刊行される七ヶ月前、改造社から出版された「現代日本文学全集」(昭和四(一九二七)年四月十五日刊)第三十七篇の「現代日本詩・漢詩集」の部の「伊良子清白篇」に初出された特異点の詩篇である(この刊行の五日前には梓書房から詩集「孔雀船」の再刻版が刊行されている)。なお、改造社本の同篇には、他に「孔雀船」から「秋和の里」・「漂泊」・「月光日光」・「不開の間」・「安乘の稚兒」・「鬼の語」・「五月野」・「初陣」の全九篇が載せられてある。無論、初出時も伊良子清白は鳥羽にあったから、その景と考えてよい。初出では標題の「ねたか起きぬか」が「寢たか起きぬか」、詩篇初行が「寢(ね)たか起(お)きぬか」となっている。

「貉(むじな)」貍(たぬき)、則ち、食肉目イヌ科タヌキ属タヌキ亜種ホンドタヌキ Nyctereutes procyonoides viverrinus ととっておく。本邦の民俗社会では古くから、穴熊(本邦固有種である食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakuma)や、白鼻芯(食肉目ネコ型亜目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン属ハクビシン Paguma larvata)を指したり、これらの種を区別することなく、総称する名称として使用することが多いが、アナグマとの混淆はいいとしても、後者ハクビシンは私は本来、本邦には棲息せず、後代(江戸時代或いは明治期)に移入された外来種ではないかと考えているので含めない。さらに言うと、アナグマはしばしばタヌキにそっくりだとされるが、私は面相が全く違うと感ずる。私はアナグマは民俗社会ではタヌキとゝネツして独立的にメジャーな存在であるとは決して思わない人間である。従って私はこの「貉」はタヌキ(アナグマを無意識的に含むとしてもよい)とするのである。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貍」及び同「貉」をどうぞ!

「岳(たけ)」朝熊ヶ岳(あさくまだけ)。朝熊山(あさまやま)。前の「七つ飛島」の伊良子清白の「註」及び私の注を参照。

「螇蚸(ばつた)」節足動物門昆虫綱直翅(バッタ)目雑弁(バッタ)亜目 Caelifera のバッタ類。

「鰯(いわし)」本邦では、条鰭綱ニシン目ニシン亜目 Clupeoidei の、ニシン科ニシン亜科マイワシ属マイワシ Sardinops melanostictus・ウルメイワシ亜科ウルメイワシ属ウルメイワシ Etrumeus teres 及びカタクチイワシ科カタクチイワシ亜科カタクチイワシ属カタクチイワシ Engraulis japonica の三種を「鰯(イワシ)」と呼んでいる。

「鮪(しび)」漢字からマグロ(条鰭綱スズキ目サバ科マグロ族マグロ属 Thunnus)に類する分類学的に真正な、「ホンマグロ」と呼ばれることの多いスズキ目サバ亜目サバ科サバ亜科マグロ族マグロ属クロマグロ Thunnus orientalis を想起する者が多いが、確かにそれも指すものの、本邦で古くより使われている「鮪(しび)」は魚体の似た複数のマグロ属の種を指し、他に、「キハダマグロ」とも呼ばれるマグロ属キハダ Thunnus albacares や、マグロ族マグロ属 Thunnus 亜属ビンナガ Thunnus alalunga を含む。なお、「鮪(しび)」は「古事記」「日本書紀」「万葉集」に既に「鮪」の字が出、「日本書紀」武烈天皇即位前記の部分に、その読み方を「滋寐(しび)」としてある非常に古い語である。]

2019/04/28

七つ飛島 伊良子清白

 

七つ飛島

 

七つ飛島

  靑剛樹(いまめ)の茂り

  裾は砂濱 春の波

   ぎいとんぎいとん

   櫂なら來い櫓なら來い

   ぎいとんぎいとん

 

七つ飛島

  阿久瀨(あぐせ)を越えて

  沖は白帆の 伊勢の海

   ぎいとんぎいとん

   櫂なら來い櫓なら來い

   ぎいとんぎいとん

 

七つ飛島

  長山、尾山、

  おだま、けないし、御前島(ごぜんじま)

  おむら、坊主で 七つじま

   ぎいとんぎいとん

   櫂なら來い櫓なら來い

   ぎいとんぎいとん

 

七つ飛島

  二見の浦は

  かもめ一聲 羽根の下

   ぎいとんぎいとん

   櫂なら來い櫓なら來い

   ぎいとんぎいとん

 

七つ飛島

  千疊敷岩で

  可愛いお方と ふのり摘み

   ぎいとんぎいとん

   櫂なら來い櫓なら來い

   ぎいとんぎいとん

 

七つ飛島

  朝熊岳(あさま)を眺め

  今日も煙が 三すぢたつ

   ぎいとんぎいとん

   櫂なら來い櫓なら來い

   ぎいとんぎいとん

 

七つ飛島

  親神子神

  なぜに逢はれぬ 波と風

   ぎいとんぎいとん

   櫂なら來い櫓なら來い

   ぎいとんぎいとん

 

七つ飛島

  まはれば一里

  裏の洞門 潮が鳴る

   ぎいとんぎいとん

   櫂なら來い櫓なら來い

   ぎいとんぎいとん

 

七つ飛島。二見の浦鳥羽間に在る七つの群嶼。

阿久瀨。群嶼の外海一帶の淺瀨。

朝熊岳。古い「よさ節」に「さまよあれ見よ朝熊の山を……中略……はなれがたなき此山の、ぢんの煙が、三すぢ立つ」とあり。岳頂金剛證寺あり。

親神子神、飛島七嶼は何れも神體として俚人の尊崇篤し。

 

[やぶちゃん注:初出不詳であるが、言わずもがなであるが、鳥羽での作。則ち、既に示した通り、大正一一(一九二二)年九月十二日から、ここの底本親本である新潮社版「伊良子清白集」刊行の昭和四(一九二九)年十一月以前の作となる。以下、本大パート「笹結び」最後の「冬が來たとて」まで総て同じなので、これを以ってこの創作時期指定は示さないなお、最後の注は底本では、「註」は詩篇本文の一字分下げ位置で、後に一字空けで一行目(『七つ飛島。二見の浦鳥羽間に在る七つの群嶼。』)があり、二行目(『阿久瀨。群嶼の外海一帶の渡瀨。』)以降は註の一字分が下げとなり、以下、註全部がそれに倣い、「朝熊岳」は底本では三行及ぶが二行目と三行目は一字上っている。ブログ・ブラウザの不具合を考え、以上のように処理した。

「七つ飛島」国土地理院図の「飛島」とのみ記す、この東西に並ぶ諸島。現在の三重県鳥羽市桃取町飛島に総ての島が含まれる。グーグル・マップ・データの航空写真のこの位置のこのサイズで辛うじて、伊良子清白の註する「二見の浦鳥羽間に在る七つの群嶼」(「群嶼」は「ぐんしよ(ぐんしょ)」で「嶼」は「島嶼」の熟語でお判りの通り、「島」は大きな、「嶼」は小さな島を指す漢字である)が判るはずである。諸島の上に「飛島」の文字が出、左上端に二見ヶ浦にある「二見興玉神社」が、右端中央に「鳥羽湾」の文字が視認出来る。さても問題はこれらの、伊良子清白が言う七つの島の名とどれがそれなのかが地図好きの私には気になった。伊良子清白は第三連で七つの島を挙げて、「長山」島・「尾山」島・「おだま」島・「けないし」島・「御前島(ごぜんじま)」・「おむら」島・「坊主」島と名数としているのだが、まず、これが西から或いは東からの島の順列呼名である保証はどこにもない。しかも、国土地理院図を見ると、大まかに島影を想像して数えれば、七か八つ、ごく小さなものを含めると十九を数え得る。但し、ここで清白が言い、現地でもそう呼称していたのであろう「七つ島」は陸から見た、見た目の島影を数えたもので、何となく国土地理院図を眺めていると、きっとここは纏まるからと推測されて、凡そ七つというのは腑に落ちる数ではあると私は思った。しかしそれで納得は出来ない。さらに調べて見たところ、この飛島諸島の南の端から真南の、湾に面した、三重県伊勢市二見町松下の伊勢志摩国立公園内の「池の浦 旅荘 海の蝶」の公式サイト(地図はここに有)内に、「飛島の全ての島の名称」というページを発見した(同旅荘のスタッフの一人「地下のホシ」氏の記事)。それによると、「鳥羽市史」上巻によると、『淡良伎(あわらぎ)島=小浜の前海中にある七ツ島の総称で、大小七個の島が東西に相並び、飛んで踏みこえる状態のため、通称を飛島ともいわれる』、『と記述されており、また、淡良伎島のことは、神宮の贄海(にえうみ)神事のとき』、『謳(うた)われる三首の歌の一つに「淡良伎や、島は七島と、申せども、不毛島加(けなしか)てては、八島なりけり」とあり、不毛(けなし)島は、やはり飛島に並んでいる島で、草木が生えない。飛島の個々の名称については『鳥羽誌』に「大村・ボウス・御膳島・同・カマダ・長山・大山」と記されている。飛島はまた、志摩国旧図に「州浮(すうき)島」とも書かれている』、『と記述されています。この記述の中で私は、飛島はどう見ても』七『つしかないのに、なぜ』八『島なのか。残りの』一『つの島はどれだろうか。御膳島の次の「同」と「カマダ」はどれなのか気になります。「カマダ」は御膳島の右側にある小島でしょうか。「同」は不明です』。『図書館にございます、神宮文庫所蔵の「志摩國圖」を見ますと、飛島が』八『つ同じ大きさで並んで描かれています。そして、海上保安庁の「世界測地系」を見ますと、御膳島は「御前島」、不毛島は「ケナシ」と記されています』。『以上の事をまとめますと、島名は』『左から、大村島、ボウス島、御前島、カマダ島、長山島、大山島、ケナシ』島と『なります』とあったのである(太字下線は私が附した)。毎日、この旅荘の位置で飛島の島々を眺めつつ、お仕事をなされておられる方の記事であるから、「七つ島」は東から、

大村島・ボウス島・御前島・カマダ島・長山島・大山島・ケナシ(島)

であることは間違いない。ただ、記事の中の「志摩國圖」というのがひどく気になった。調べみたところ、同一の絵図かどうかはわからないが、江戸幕府の命によって作られた「天保國繪圖」(天保九(一八三八)年完成)の志摩国のパート部分を「国立公文書館」の「デジタルアーカイブ」(重要文化財(国絵図等)内に発見、細部を拡大して見ると、あったのだ! 東から、飛島諸島相当するところに、東から、八つ、

大村・小山・御膳嶋・小山・長山・尾山・小けなし・大けなし

とあったのである! しかも「大村」島だけがちょっと大きめで、あとは似たり寄ったりのいい加減に似たような大きさで描かれているから、恐らくはブログを書かれた方が見たものも同系列のものなのだろうと推測する。今一度、伊良子清白のそれを示すと、

長山島・尾山島・おだま島・けないし島・御前島・おむら島・坊主島

で、順列ではないことが明らかになる。しかし、それは実は当然なのだ。清白は韻律を整えるためにこれらの七つ島の名を組み変えたに過ぎないないからである。気になるのは呼称の相異ではある。しかし、清白の「おだま島」はブログ主の「カマダ島」や古地図の二つの「小山」島(名前がダブっているのは作成者のいい加減さに過ぎないだろう。漁師はちゃんと区別していた。そうでなくては板子一枚下は地獄の彼らの命に係わるからである)と音の親和性があるし、「けないし島」は明らかに、西の端の「ケナシ」で(ここは小さな島が、ちょっと離れて二つのやや大きな島と中くらいとがあり、そこにまた小さいの(五つ)がごちゃごちゃっとあり、陸からは或いは一つに見えるのかも知れない。「おむら島」は「大村島」であろうし、「坊主島」は「ボウス島」(古地図の東から二つ目の「小山」)であろう。清白は土地の者ではない。土地の訛りを聴き取り違えた可能性もある。以上が私の机上の飛島小旅行であった。何時か、ここに泊まって見たくなったな……

【2019年5月2日追記】昨日、東京湾を友人のヨットでクルーズさせて貰った。その折り、冊子型の海図を見ることが出来、そこに飛島諸島があった。総ての島に名は載っていなかったが新しい発見があった。先のブログ主が「ボウス島」と読んでいる、大村島と御前島の間にある、ごくごく丸い小さな島には、海図では、

飛島

とあったのである。ご報告まで。

「靑剛樹(いまめ)」ブナ目ブナ科コナラ属アカガシ亜属アラカシ Quercus glauca のことか。この木は現代中国語で「青剛櫟」と書く。ウィキの「アラカシ」によれば、『常緑広葉樹。クロガシ、ナラバガシともいう』。『樹皮は黒っぽい灰色』。『葉は楕円形で硬く、中央から先にあらい鋸歯がある。裏面は粉を吹いたように白い』。『開花期は』四・五『月で、雌雄異花』。『果実(堅果)は、いわゆるドングリのひとつになる。殻斗(ドングリの入っている台のような部分)は環状である』。『中国、台湾、日本(本州東北以南、四国、九州)に分布する』。『人里近くの雑木林に多く見られる。照葉樹林の構成種であるが、人為的攪乱にも強く、人手が入った二次林に特に多』く、『照葉樹林そのものがほとんど残っていない場所でも、この種は比較的よく見られる』。『公園や学校にもよく植栽されている。木は建築材として利用される』。『大きな木になると、樹皮の傷口から虫が入り、これにカブトムシやクワガタムシが集まることがあり、クヌギほどではないが、そのような昆虫を見るのによい木である』とある。

「阿久瀨(あぐせ)」この辺りか(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「千疊敷岩」不詳。飛島諸島のどこかの島の海食台の通称か。

「ふのり」紅色植物門紅藻綱スギノリ目フノリ科フノリ属の海藻で、本邦にはハナフノリ Gloiopeltis complanata・フクロフノリ Gloiopeltis furcata・マフノリ Gloiopeltis tenax の三種が植生する。布海苔・布苔・布糊などと書く。一般的に食用とするのはマフノリとフクロフノリで、ウィキの「フノリ」によれば、『マフノリはホンフノリと呼ばれることもある』。『岩礁海岸の潮間帯上部で、岩に付着器を張り付けて生息する。日本全国の海岸で広く見られる』。二月~四月が『採取期で、寒い時のものほど』、『風味が良いといわれる。採取したフノリの多くは天日乾燥され』、『市場に出回るが、少量は生のまま、または塩蔵品として出回ることもある』。『乾燥フノリは数分間水に浸して戻し、刺身のつまや味噌汁の具、蕎麦のつなぎ(へぎそば)などに用いられる。お湯に長時間つけると』、『溶けて粘性が出るので注意が必要である』。『近年、フノリはダイエット食品として注目されている。また、フノリの粘性の元となる多糖質に抗がん作用があるとか』、『血中コレステロールを下げる作用があるなどという見解を持つものもおり、フノリの成分を使った健康食品なども開発されている』。『一方、フノリは古く』『は食用よりも糊としての用途のほうが主であった。フノリをよく煮て溶かすと、細胞壁を構成する多糖類がゾル化してドロドロの糊状になる。これは、漆喰の材料の』一『つとして用いられ、強い壁を作るのに役立てられていた』のである。『ただし、フノリ液の接着力はあまり強くはない。このため、接着剤としての糊ではなく、織物の仕上げの糊付けに用いられる用途が多かった。「布糊」という名称はこれに由来するものと思われる。また、相撲力士の廻しの下につける下がりを糊付けするのに用いられたりもする』。『その他、フノリの粘液は洗髪に用いられたり、化粧品の付着剤としての用途もある。また、和紙に絵具や雲母などの装飾をつける時に用いられることもある』とある。何を隠そう、海藻フリークの私の中でも、ランキングの高いこれまた大好物であって、現在も常時、三袋ほどを保存して欠かさない。先般、西伊豆で買って生も食べたが、フノリに関しては、乾したもの、しかも、ガタイの大きくない細目のもの、ともかく北のものの方が風味がある。

脚注「朝熊岳(あさま)」三重県伊勢市及び鳥羽市に跨る朝熊山(あさまやま)。正式名称は「朝熊ヶ岳(あさまがたけ)」。標高は北峰で五百五十五メートル。ウィキの「朝熊岳」によれば、「三国地誌」では『「岳(たけ)」とも記され、伊勢市近辺で「岳」は朝熊山を意味する』という。『紀伊半島から太平洋に突き出た志摩半島の最高峰で、山頂付近は初日の出の名所である。朝熊山は伊勢志摩を代表する霊山として知られる』。「延喜太神宮式」などに『「朝熊(あさくま)」とあるように』、『「あさくま」が本来の読みであり、音が約され』、『「あさま」となったと考えられる。なお、「あさくま」との読みは伊勢神宮摂社の朝熊神社に残っている』。『「あさくま」の語源として、浅隈(川の浅瀬を意味する古語)に由来する説(度会清在』「旧蹟聞書」『)が有力とされる。ほかに、この地を訪れた空海の前に』、『朝に熊が』、『夕に虚空菩薩が現れたという伝説による説(金剛證寺伝)、朝熊神社の祭神である葦津姫(別名木華開耶姫)の通音に由来するという説(度会延経)などがある』とある。清白が註で言うように、山頂付近に臨済宗金剛證寺(創建は六世紀半ばに欽明天皇が僧暁台に命じて明星堂を建てたのが初めといわれているものの定かでない。天長二(八二五)年に空海が真言密教道場として当寺を中興したと伝えられており、長く修験道の道場であった。明徳三(一三九二)年に鎌倉建長寺第五世の仏地禅師東岳文昱(ぶんいく)が再興に尽力し、これによって東岳文昱を開山第一世として臨済宗に改宗した。参照したウィキの「金剛證寺」によれば、『朝熊山付近では江戸期以降、宗派を問わず』、『葬儀ののち』、『朝熊山に登り、金剛證寺奥の院に塔婆を立て供養する「岳参り」「岳詣(たけもうで)」などと呼ばれる風習がある』とある)がある。

「親神子神」不詳。飛島になんらかの神話があるものか? 或いは朝熊神社の祭神である木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ:大山津見神の娘)の天孫の寿命短縮神話と関係するか(見当違いだと意味がないので説明はしない。知らぬ方はウィキの「コノハナノサクヤビメ」などを参照されたい。

「裏の洞門」不詳。飛島諸島のどこかに海食台があるなら、海食洞もあってよい。]

太平百物語卷二 十六 玉木蔭右衞門鎌倉にて難に逢ひし事

Kobukurozakanokai 

   ○十六 玉木蔭右衞門鎌倉にて難に逢ひし事

 九州に玉木蔭右衞門といふ侍あり。

 一年(ひとゝせ)、主君の御供して登られけるが、とし比(ごろ)、鎌倉の方(かた)に心ざしありて、御いとまを願はれけるに、早速の御免、有り難く、供者(ずさ/けらい[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。])壱人召具(めしぐ)して、日比、飼ひ馴れし栗毛の馬(むま)にうち乘(のり)、かまくらに赴きしが、小袋坂(こぶくろざか)といふ所にて、日、すでに暮れかゝりしが、折からの星月夜(ほしづきよ)も、

「所がら。」

とて、一入(ひとしほ)、興(けう)まさり、いにしへの歌人(うたびと)の、ことの葉草(はぐさ)をおもひ出(いで)て、いと面白く行(ゆき)ける所に、道のほとりの山路(やまぢ)より、裝束(しやうぞく)異形(ゐぎやう[やぶちゃん注:ママ。])の人、來つて、蔭右衞門にむかひ、申けるは、

「われらが主人、御身の日暮れて道を急ぎ玉ふをしりて、御宿(やど)を參らせん爲に、わらはを迎ひに參らせぬ。いざ、させ給へ。」

といふに、蔭右衞門がいふやう、

「こは、おもひもふけぬ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]御事かな。御身の主人(しゆじん)は此所の首長(しゆちやう/かしら)なるや。」

と尋ねければ、答へていふ、

「長(ちやう)にはあらず。されども、家、富(とみ)さかへて、おほくの從者(ずさ)を持(もち)けるが、御身のごとき旅人(りよじん)を、いたはり玉ふ。」

と、いふ。

「扨(さて)は。御こゝろざしの程、淺からず。」

とて、此(この)者と伴ひ行(ゆく)に、山に入る事、百步(ひやくほ/あゆみ[やぶちゃん注:この左ルビは「步」のみに附く。後も同じ。])ばかりにして、一つの大門(だいもん)あり、朱塗(しゆぬり)にして、甚だ高し。人、多く守り居て、偏(ひとへ)に國君(こくぐん[やぶちゃん注:ママ。])のごとし。

 此所にて、馬(むま)より下(おり)て行く所を、此馬、蔭右衞門が袂(たもと)を喰(くは)へて、しきりに、留(とゞ)む。

 蔭右衞門、其故をさとらずして、あざわらひ、從者(ずさ/けらい)と共に殘し置きて、又、廿步(にじつほ/あゆみ)斗(ばかり)ゆけば、中門に至る。

 彼(かの)者、いふ、

「しばらく、是れに待(まち)玉へ。」

とて、一人、内に入しが、程なく、衣冠(ゐくわん[やぶちゃん注:ママ。])せし人、兩人(りやうにん)きたりて、蔭右衞門を誘ひ入(いり)ぬ。

 内の体(てい)をみるに、主人とおぼしき人、身に裘(かはごろも)を着(ちやく)し、面色(めんしよく)より相好(さうがふ[やぶちゃん注:ママ。])に至るまで、常の人には、事、かはりぬ。

 夫(それ)より有あふ臣下、次第に列(つらな)り、坐す。

 蔭右衞門、此有樣(ありさま)をみて、おもはず、拜す。

 時に、主人のいはく、

「われ、此所に住(すむ)事、久し。たまたま、御身の通る事をしりて、迎へ入たり。これ、饗應(もてなさ)んが爲なり。」

と、いふ。

 蔭右衞門、拜謝すれば、やがて、酒宴をまふく。

 其器物(うつはもの)、皆、めづらしき物どもなり。主人、興に乘じ、左右の臣下にいふやう、

「かゝるめづらかなる客人(まらうど)を、など、なぐさめ參らせずや。」

と、いへば、

「畏(かしこま)り奉る。」

とて、御前に集(あつま)る。

 其人々をみれば、其形(かた)ち、黑き裝束あり、錦(にしき)を著(ちやく)し、白き冠(かんぶ[やぶちゃん注:ママ。])り、又は、靑き衣、まだらなる衣裳ありて、いづれも酒を酌(くみ)かはし、音樂を奏す。

 蔭右衞門も興に乘じける所に、錦を著(き)たる者、蔭右衞門にいふやう、

「われは未(いまだ)夜食(やしよく)せず。客人(きやくじん)、われに與へよ。」

と、いふ。

 蔭右衞門がいはく、

「君の望み玉はん食物(しよくもつ)、此所にして、われ、いかで求めん。」

といへば、

「いや。わが望む所は外(ほか)になし。只、御身の肉をくらはしめ玉へ。別の味ひを求(もとめ)る事、なし。」

と、いふ。

 蔭右衞門、大きに驚き、急に退(しりぞ)かんとすれば、黑き衣(ころも)着たる者、笑つていはく、

「客人(きやくじん)、おどろく事なかれ。われらは、さきに、足下(そこ)の下人と馬(むま)とを、わけて喰(くら)ひしゆへに、食(しよく)に飽(あき)たり。はやはや、御身を與へ玉へ。」

と、いふ。

 蔭右衞門、いよいよ色を變じ、

『こは、そも、變化(へんげ)の者にたばかられけるぞ。』

と、おもひながら、すべき樣なく、網切(あきれ)たる所に、主人、此体(てい)をみて、いはく、

「汝等、何とて客人(まらうど)の心にさかふや。」

と、しかりければ、錦をきたる者、わらつて、

「これ、戲(たはふ)れなり。」

とて、退(しりぞ)きしが、しばらくありて、外(ほか)より、入り來(きた)る者あり。

 其形(かた)ち、頭(かしら)、ながく、五体の丸き者なりしが、主人にむかひ、いふ様、

「われ、常に占卜(せんぼく/うらなひ)を好む。主人の愁ひ、此客人(きやくじん)に有る事を、しる。早く、ころし玉へ。」

と、すゝむ。

 主人、怒つていはく、

「此悅びに何の災(わざはひ)あらん。」

 卜者(ぼくしや/うらなひ)、なげきていふ、

「殺し玉はずんば、御身をはじめ、此所にありあふ者、一人も生(いく)る事、叶ふべからず。其時、おもひ知り玉へ。」

と、いふ。

 主人、大きに怒つて、終に卜者(ぼくしや)を殺す。

 夜(よ)更(ふ)くるにしたがつて、皆々、大きに醉(ゑひ)て、たふれ臥(ふせ)ば、蔭右衞門も、心氣(しんき)つかれて、眠(ねふ)らんとする時、天、まさに裂(さけ)んとして、忽ち、目(め)、覚(さ)め、あたりをみれば、大ひなる巖(いはほ)の中(うと)に、ふせり。

 其中に種(しゆ)々の調度(てうど)、あり。

 一つの大猿(おほざる)、かたち、人の如くなるが、醉(ゑひ)て、地に伏す。

 これ、主人なり。

 其次は、劫(かう)經たる熊、白き頭(かしら)の狼、毛の禿(はげ)たる狸、或は狐、鹿、猪、いづれも共に酔(ゑひ)ふして、正体(しやうだい[やぶちゃん注:ママ。])、なし。

 其傍(かたはら)に、ひとつの龜、死しゐたり。

 是、さきの卜者(ぼくしや)なり。

 こなたをみれば、家來と馬(むま)とを取りくらひて、頭(かしら)と手足、すこし、のこれり。

 蔭右衞門、十方(とほう)[やぶちゃん注:総てママ。]に暮(くれ)ながら、すべき樣なく、ひそかにしのび遁(のが)れいで、里にかけ付、所の長(ちやう/かしら)に告(つげ)て、地頭(ぢとう)に、

「かく。」

と訴ふれば、頓(やが)て、數(す)百人の若者どもをかり催し、武具を帶(たい)して、かけ來り、彼(かの)山中(さんちう)に分入(わけいれ)ば、大將の大猿、此音におどろき覚(さめ)て、大ひに叫んで、いはく、

「卜者(ぼくしや)がいさめを用ひずして、今、かくのごとし。」

と、いふ内に、はや、其いはほを打碎(うちくだ)き、手に手に弓・鐵砲をもつて、悉(ことごとく)平治(へいぢ)しければ、蔭右衞門は虎口(こかう)の難をのがれ、剩(あまつさ)へ、家來と馬(むま)の敵(かたき)を眼前(がんぜん)に取つて、人々に一禮し、辛(から)ふじて[やぶちゃん注:ママ。]靏(つる)が岡に至りしとかや。

[やぶちゃん注:さても私のテリトリーにしてフリークの鎌倉が舞台の異類変化オン・パレードの怪異譚とは頗る珍しい特異点の一話である。

「玉木蔭右衞門」不詳。「衞」の字は総てが「串」のような極端な奇妙な略字(恐らくはこれ(リンク先は「グリフウィキ」の当該字の画像ページ)の更なる略字で「ヱ」の原型)で表記不能であるため、正字で示した。

「栗毛」馬の毛色の名。地肌が赤黒く、鬣(たてがみ)と尾が赤茶色を呈しているもの。品種改良の結果、出現したもの。

「小袋坂(こぶくろざか)」水戸光圀の「新編鎌倉志卷之二」には、

   *

○巨福呂坂 巨福路(コフクロ)〔或作小袋路或作禮又作呂(或は「小袋路」(コフクロ)に作る。「路」或は「禮」に作る。又は「呂」に作る)。〕坂(サカ)は、雪下(ユキノシタ)より建長寺の前へいづる切通(キリトヲシなり)。【太平記】幷【神明鏡】に、新田義貞(ニツタヨシサダ)、鎌倉合戰の時、堀口美濃の守貞滿(サダミツ)を、巨福呂坂(コフクロサカ)へ指向(サシムケ)らると有は、此所にはあらず。市場村(イチバムラ)の西に、巨福呂谷)コフクロガヤ)と云所あり。是を指(サ)すなり。則、此道筋(ミチスヂ)なり。此の所ろは、巨福呂谷(コフクロガヤ)へ行(ユ)く坂(サカ)の名なり。【太平記】【神明鏡】をも、巨福呂谷(コフクロガヤ)となして見るべし。古老の云、此の邊より市場村(イチバムラ)の邊までを、巨福呂谷(コフクロガヤ)と云。故に建長寺を巨福山(コフクサン)と云也と。【鎌倉九代記】に、新田義興(ヨシヲキ)・脇屋義治(ワキヤヨシハル)、鎌倉に攻入(セメイ)りし時、基氏方(モトウヂガタ)の兵、小袋坂(コブクロサカ)・假粧坂(ケワヒサカ)に集りて堅(カタ)めたりとあるは、市場村(イチバムラ)の西を云(イ)ふには非ず。則ち、此の所ろを指(サ)すなり。義興(ヨシヲキ)、義治(ヨシハル)、已に源氏山(ゲンジヤマ)へ登り、鶴が岡山(ヤマ)へ登るとあるを以て知る也。

   *

とある。旧の巨福呂坂(現在の住所地名ではこの表記)は、近代に掘削して切通しになっている県道二十一号の被覆天上のあるトンネルのあそこではなく、その南西直近を南西直近の尾根の上を通る、かなりきつい山越え道であった。国土地理院図で説明すると、まさにこの部分の「巨福呂坂(二)」と言う地番が書かれてある右側、同図を少し拡大すると、旧道の南側の痕跡が判り、そのどん詰ったところに「巨福呂坂」と書いてあるのが、南側の坂の上ったところで、ここから北西へ伸びて、そこで現在の県道の掘削以前の尾根を越えて、円応寺前・建長寺門前で現行の県道のある道と一致していたものと推定される。現行、一般に車で鎌倉に入る場合は、この県道を使うのが普通であるが、鎌倉時代のこのルートは山越えでしかも狭く、鎌倉合戦の時も北からの攻め手は北鎌倉の浄智寺から西に迂回し、化粧坂(けわいざか)から侵入を試みたのは、そのためである。

 さて、次に本ロケーション、猿(ましら)を首魁とする異類の巣窟であるが、三ヶ所が候補地として考えられる。巨福呂坂で呼びとめられたとすると、先の国土地理院図で示した箇所をやや引いてグーグル・マップ・データの航空写真画像で示すと、こことなるが、一つは、ここから東北方向に尾根を伝って建長寺の南東・鶴ヶ岡八幡宮の北西の山林である。但し、そこの南東部(鶴岡八幡宮の北西の谷戸)は候補外となる。何故なら、そこは二十五坊ヶ谷(やつ)と言って、今は人家も少ない閑静な谷で観光客は行かないところ乍ら、ここにはかつて鶴岡八幡宮寺の供僧寺院の集合である二十五坊がみっちりあったからである(明治の廃仏毀釈で総て消失した。詳しくは私の「新編鎌倉志卷之一」を参照されたい。他人からの拝借であるが、絵図や写真もある)。この尾根筋は十王岩を経て天園に向かい、所謂、「百八やぐら」へも通ずるから、本話のロケーション(この最後に現れる岩窟は鎌倉の人工の墳墓である「やぐら」の一つである可能性がすこぶる高い)には最も都合がよく、東北方向へ尾根を詰めれば詰めるほど、人里から有意に離れるからである。他の二つは、反対の西方向で、一つは私の愛する本尊のある浄光明寺の裏山であるが、ここは人里に近過ぎるし、自然林の範囲が狭い。今一つは、西北へ少し行った現在の横須賀線のトンネルの上の尾根で、ここまで行きつけば、今も、まず、普通の人が立ち入らぬ山林地ではあるが、ここに辿り着くためには、鎌倉時代からあった人作の亀ヶ谷坂を横切らねばならないので、私は無理があると考える。以上から、このロケーションは最初に挙げた一帯であると比定するものである。

『星月夜(ほしづきよ)も、「所がら。」とて』具体的な対象物としては鎌倉市坂ノ下の極楽寺坂切通しの鎌倉側手前の登り口右側にある、鎌倉十井(せい)の一つとされる「星月夜の井」があり、現存するが(グーグル・マップ・データ)、まあ、見るべきものはない。「新編鎌倉志卷之六」これは私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 星月夜井/虛空藏堂――(脱漏分+山本松谷挿絵)」を読まれるがよかろう。尤も、リンク先のそれは「新編鎌倉志卷之六」巻頭の「〇星月夜井〔附虗空藏堂〕」の無批判な引き写しなのであるが。要は、それらに記されている鎌倉のこの地名(これは井戸の名というよりもここら辺りの旧地名である。以下の引用参照)の名を詠み込んだとされる「後堀河百首」の常陸の一首、

 我ひとり鎌倉山を越へ行けば、星月夜こそうれしかりけれ

とか、堯慧の「北國紀行」の、

    極樂寺へ至るほとに、いとくらき山間

    に、星月夜といふ所あり、むかし此邊

    に星の御堂とて侍りきなど、古き僧の

    申侍りしかは、

 今もなほ星月夜こそのこるらめ寺なき谷の闇の燈

などを蔭右衛門は、坂の上で実際の降るような星空を眺めながら、想起して興じたのである。ということは彼には相応にその素養もあったらしい。

「國君(こくぐん)」一国の王。

「此馬、蔭右衞門が袂(たもと)を喰(くは)へて、しきりに、留(とゞ)む」忠実なる智ある同じ獣として、彼らの臭いを嗅ぎ知って、異形の変化(へんげ)と察知したのである。何と、忠たらんや!

「裘(かはごろも)」獣類の毛皮で出来た衣服。まんず、彼自身が大猿ですから。

「相好(さうがふ)」顔つき。正しい歴史的仮名遣は「さうがう」。

[やぶちゃん注:ママ。])に至るまで、常の人には、事、かはりぬ。

「黑き裝束あり」最後に出る(以下同じ)「熊」であろう。

「白き冠(かんぶ[やぶちゃん注:ママ。])り」なのは「白き頭の狼」であろう。

「靑き衣」不詳。古文の「青」は概ね暗い藍色であるから、それの白っぽいものなら、「貍」か。或いは妖狐の類いは青「狐」有り得よう。さらに白が強いのなら、挿絵にしか出ない(後姿)兎かも知れぬ。挿絵のそれは手前右奥が熊で、その前が白狼、中に兎で、左に控えているのが狸か。ちょっと鼬(いたち)か獺(かわうそ)のようでもあり、彼らの絵は本文に今一つ対応していない感じで、絵も上手くない(動物の顔がどれも下手だ。兎を背後から描いたのも顔を描くのが厭だったからではないか)。

「まだらなる衣裳」「鹿」であろう。

「網切(あきれ)たる」「江戸文庫」版は「あきれたる」と平仮名で、「徳川文芸類聚」版では「惘切(あきれ)たる」となっていて意味の通る(「惘」は「呆れる」の意)表記だが、私の底本としている原本は逆立ちしても「惘」には見えない「網」の崩し字である。それで表示した。

「卜者(ぼくしや/うらなひ)」これが「龜」(かめ)なわけで、亀卜(きぼく)と絡めるのは如何にも嵌まり過ぎていて、微苦笑せざるを得ない。これ以下の展開、忠臣伍子胥(ごししょ)と凡愚の呉王夫差の趣きがある。

「熊」昨日完遂した「和漢三才圖會卷第三十八 獸類」の「熊」の項をどうぞ!

「狼」「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狼」をどうぞ!

「狸」「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貍」をどうぞ!

「狐」「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狐」をどうぞ!

「鹿」「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 鹿」をどうぞ!

「猪」「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 猪」をどうぞ!

「地頭(ぢとう)」江戸時代のそれは知行取りの旗本。また、各藩で知行地を与えられ、租税徴収の権を持っていた家臣を指す。鎌倉は前者。多数人に分割されていた。

「靏(つる)が岡」現在の鶴岡八幡宮。私の推定したロケーションなら、バッチ、グー!]

2019/04/27

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獵虎(らつこ) (ラッコ) / 巻第三十八 獣類~完遂

Rakko

 

 

 

らつこ 【正字未詳】

獵虎

 

△按獵虎蝦夷島東北海中有島名獵虎島此物多有之

 常入水食魚或出島奔走疾如飛大如野猪而頸短亦

 似猪頸脚矮島人剥皮待蝦夷人交易其毛純黒甚柔

 軟左右摩之無順逆有黒中白毛少交者爲官家之褥

 其美無比之者價最貴重也其全體無見生者人以皮

 形察之耳其皮送長崎而中華人争求疑此本艸綱目

 所謂木狗之屬也【木狗見于前】

祢豆布

△按此亦蝦夷海中有之大四五尺黒色

 毛短疎其皮薄不堪爲褥止毛履或爲

 鞍飾亞熊障泥然不上品

[やぶちゃん注:「山祢豆布獺」の前には、通常、附録項の場合に必ず附帯する縦罫がなく、「獵虎」本文から直に繋がっている。また、以上の前の二行は底本では「山獺」の大項目の下に一字下げ二行で記されてある。最終の「鞍飾亞熊障泥然不上品」のみは上辺から一字下げである。]

 

 

らつこ 【正字、未だ詳らかならず。】

獵虎

 

△按ずるに、獵虎、蝦夷(ゑぞ)が島の東北の海中に、島、有り、「獵虎島」と名づく。此の物、多く、之れ、有り。常に水に入りて魚を食ひ、或いは島に出でて、奔走す。疾〔(はや)〕きこと飛ぶがごとし。大いさ、野猪(ゐのしゝ)のごとく、頸、短く、亦、猪(ゐのしゝ)の頸(くび)に似たり。脚、矮(ひき)し[やぶちゃん注:低い。]。島人、皮を剥ぎ、蝦夷〔の〕人を待ちて、交易す。其の毛、純黒、甚だ柔にして、左右〔に〕之れを摩(なづ)るに、順・逆、無し[やぶちゃん注:どちらから撫ぜても全く毛が逆立つことがなく、手に滑らかに従う。]。黒き中に、白き毛、少し交じる者、有り、官家〔(かんけ)〕[やぶちゃん注:通常は朝廷を指すが、ここは幕府も含めて考えるべきであろう。]の褥〔(しとね)〕と爲す。其の美、之れに比する者、無し。價〔(あたい)〕も最も貴重なり[やぶちゃん注:非常に高価である。]。其の全體、生きたる者を見る人、無し。皮の形を以つて、之れを察するのみ。其の皮、長崎に送りて、中華(もろこし)の人、争ひ求む。疑ふらくは此れ、「本艸綱目」に、所謂〔(いはゆ)〕る、「木狗〔(もくく)〕」の屬なり【「木狗」、前に見ゆ。】。

祢豆布(ねつぷ)

△按ずるに、此れも亦、蝦夷の海中に之れ有り。大いさ、四、五尺、黒色にして、毛、短く、疎〔にして〕[やぶちゃん注:粗くて。]、其の皮〔も〕、薄く、褥〔(しとね)〕と爲るに堪へず。止(たゞ)毛の履〔(はきもの)〕、或いは鞍の飾りと爲す。熊(くま)の障泥(あをり)に亞(つ)ぐ。然れども、上品ならず。

[やぶちゃん注:一属一種の食肉目イタチ科カワウソ亜科ラッコ属ラッコ Enhydra lutris。三亜種いるが、本邦に関わるのは、Enhydra lutris lutris(基亜種。千島列島・コマンドルスキー諸島(カムチャツカ半島の東百七十五キロメートルに位置する諸島)に分布。大型で頭骨が幅広く、吻部が短い)と Enhydra lutris kenyoni(アリューシャン列島からアラスカ州南部に原産。基亜種に比べて頭骨が短く、吻が長い)の二亜種である(私が後者を挙げる理由は宮澤賢治の名作「銀河鉄道の夜」のジョバンニのお母さんの台詞「お父さんはこの次はおまへにラツコの上着をもつてくるといつたねえ。」やザネリらが彼を冷やかすのに言う「ジヨバンニ、お父さんから、ラツコの上着が來るよ。」のラッコが或いは後者のそれである可能性を考えるからである)ウィキの「ラッコ」によれば、『イタチ科』 Mustelidae『のうちで水棲に進化したのが』、『カワウソ類(カワウソ亜科)』Lutrinae『であるが、その中から海洋に進出して、陸に依存』せずとも、『棲息可能なまでの本格的な適応』『を遂げた唯一の現生種』『が、ラッコ属であり、ラッコである。氷河期を迎えた北太平洋西部海域におけるコンブの出現と適応放散がもたらした新たな生態系が、ラッコの出現および適応放散と密接に関係すると考えられている』(但し、以上の以上の引用部全体に要出典要請がかけられており、個人の意見である可能性がある)。体長は一メートルから一メートル三十センチメートル、尾長二十五~三十七センチメートルで、体重は♂で二十二~四十五キログラム、♀で十五~三十二キログラム』と、『イタチ科』では現生で『最大種』である。『尾は短く』、『扁平』で、『尾の基部には臭腺(肛門腺)を持たない。体毛密度が高く、哺乳類のなかでも最も高い部類に入る』。一『平方センチメートル』当たり十『万本以上の柔らかい下毛(綿毛)が密生』し、全身で八億本にも及ぶ『体毛が全身に生えている』。『潜水する時も綿毛の間に空気の層ができることで、寒冷な海洋でも生息することができる』。『これは』六立方センチメートル『の皮膚にヒトの頭髪すべてが生えているのと同等である。全身をくまなく毛繕いするために』、『柔軟な体』と『皮膚を具えている。体色は赤褐色や濃褐色・黒と変異が大きく、頭部や喉・胸部は灰色や黄白色』。『吻部には洞毛』(血洞毛。哺乳類の、主に口吻にある、毛状の感覚器官。所謂、犬や猫の「ヒゲ」と呼称する感覚毛のこと)『が密生する。幼獣は全身が黄褐色、亜成獣は全身が濃褐色の体毛で被われる』。『吻端の体毛がない裸出部(鼻鏡)は菱形』。『臼歯は扁平で幅広く、貝類や甲殻類を噛み砕くことに適している』。『大臼歯は大型で丸みを帯び、固い獲物を噛み砕くことに適している。前肢は小型で、指の境目は不明瞭』。『爪は引っ込めることができる』。『後肢は鰭状』。『水分は海水を飲むことで補い、浄化のため』、『腎臓の大きさはカワウソ類の平均的な大きさの』二『倍にもなる』。『海洋の沿岸部に生息し、主に海岸から』一『キロメートル以内の場所に生息する』。『主に岩場が近くにあり、海藻が繁茂した環境に生息する』。『海岸から』十キロメートル『以内の沿岸域に生息する。陸上に上がることは稀であるが、天候が荒れた日には上がることもある。単独で生活するが』、『繁殖期にはペアで生活する』。『休息時には数十頭から数百頭の個体が集合することもある』。『数十頭からなる群れを形成し、生活する。昼行性で、夜間になると』、『波のない入江などで』『海藻を体に巻きつけて海流に流されないようにして休む』。『生息密度が高く』、『人間による攪乱のない地域では、陸上で休むこともある』。『防寒効果を維持するため、頻繁に毛繕いをし、毛皮を清潔に保っている。幼獣の毛繕いは母親が行う。主に水深』二十『メートルまで潜水するが、水深』九十七『メートルまで潜水した例もある』。『主に』五十二~九十『秒間の潜水を行うが、最長で約』四『分の潜水を行った例もある』。『貝類、甲殻類、ウニ類などを食べる』。『これらがいなければ』、『魚類を食べることもある』。『獲物は前肢で捕えることが多い』。『硬い獲物は歯や前肢を使い、中身をこじあけて食べる』。『貝類やウニ類は胸部や腹部の上に石を乗せ、それに叩きつけて割り中身だけを食べることもある』。『このため』、『霊長類を除いた道具を使う哺乳類として紹介されることもある』。『魚を捕らえるのは苦手とする説もある』。『亜種カリフォルニアラッコ』(Enhydra lutris nereis:カリフォルニア州に分布するが、以前はチャンネル諸島(フランスのコタンタン半島(映画で知られたシェルブールや人類が破滅する事故を起こしかけた核廃棄物貯蔵施設のあるラ・アグーがある)西方沖合の英国海峡に浮かぶ諸島)やバハ・カリフォルニア(メキシコ)にかけても分布していた。頭骨の幅が狭く、吻が三亜種の中で最も長い)『では道具を使い』、『貝類を割る行動が』、『比較的』、『確認されているものの、主に柔らかい獲物を食べる亜種アラスカラッコでは』、『道具を使って貝類を割ることは稀とされる。なお、動物園などで飼育されているラッコの場合は自然界には無い道具を使用するほか』、『水槽のガラスに貝殻を叩きつけることも確認されており、日本の豊橋総合動植物公園では強化ガラスを叩きつけすぎて』、『強化ガラスにヒビが入った例も確認されている。また』、『貝類を食べる際の石等の道具や食べ切れなかったアサリ等は』、脇『腹のたるみをポケットにして、しまいこんでおく癖がある』。『ラッコが長く生息する海域ではウニが食い尽くされて、主に貝類を捕食するようになるといわれる。そういった生態から漁業被害を訴えられることもあるが、ウニが増えると』、『コンブなどの海藻が食い尽くされる弊害があり、ラッコが生息することでそれを防ぐ効果もある』。『交尾、出産は海上で行う。春になると』、『雄は雌に交尾のアピールをし、雌の承諾が得られると』、『並んで仰向けになって波間に浮かぶ。雄は交尾の際、体勢を維持するために雌の鼻を噛む。たいていはすぐに治る軽症で済むが、稀に傷が悪化し、食物を食べられなくなることなどで命を落としてしまうケースもある。雄は交尾が済むと』、『別の雌を探しにいき、子育てに参加することはない。妊娠期間は』六ヶ月半~九ヶ月で、一回に一頭、まれに二頭の『幼獣を産む』。『腹の上に仔を乗せながら、海上で仔育てを行う。幼獣は親が狩りをしている間、波間に浮かんで親が戻ってくるのを待つ。このときは無防備になり、ホホジロザメ』(軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目ネズミザメ科ホホジロザメ属ホホジロザメ Carcharodon carcharias)『に約』一『割の幼獣が捕食されてしまう。幼獣は親から食べられる物の区別や道具の使い方を習う。成長したラッコは気に入った特定の石を保持し、潜る際には錘(おもし)に使う』。『属名Enhydra』(エンヒドラ)『は「水に棲む」』の意で、『古代ギリシア語の「〜の中で、中に」』と「水」を意味する語を合成したものであり、種小名lutris』(ルトリス)『は「カワウソに似た」の意』である。『現在の標準和名「ラッコ」は、近世の日本における標準的な本草学名に由来し、さらにそれは』、『アイヌ語で本種を意味する』rakko『にまで起源を辿れる』。『その「ラッコ」』の本来の『発音の高低アクセントは頭部にあったが、現在は平坦ないし語尾に付ける事例が多い』。『^高低アクセント表示が特徴となっている』三省堂の「明解国語辞典」の一九八九年刊の第四版では、『両方』のアクセントが併記されているが、『現在はNHKなどにおいても頭部に高低アクセントをつけることは僅少である』。『毛皮が利用されることもあった』。十八『世紀以降にロシア人が東方進出した理由の一つに本種の毛皮採集が挙げられる』。十八~十九世紀の乱獲により、二十『世紀初頭にはラッコの個体数は絶滅寸前にまで減少した』その後、海世界的には海洋汚染・異常気象・感染症の蔓延などにより、個体数が減少したが、種々の保護政策によって、現在は『生息数を徐々に回復し』つつある。『アラスカやアリューシャン列島ではキタオットセイ』(食肉目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科キタオットセイ属キタオットセイ Callorhinus ursinus)『・トド』(アシカ科トド属トド Eumetopias jubatus)『・ゼニガタアザラシ』(鰭脚下目アザラシ科ゴマフアザラシ属ゼニガタアザラシ Phoca vitulina)『などの鰭脚類が減少したことにより』、『それらを捕食していたシャチ』(哺乳綱鯨偶蹄目マイルカ科シャチ亜科シャチ属シャチ Orcinus orca)『が本種を襲う』ケース『が増加し』、九十%近くが捕食されてしまう事態となった。二〇〇四から二〇一二年に於ける生息数は十二万五千八百三十一頭『と推定されている』。但し、『再定着した歯舞群島では』、一九九〇『年代以降』、『生息数が増加し、ここから北海道東岸へ来遊する個体もいると考えられ』、『生息数は増加傾向にある』。『第二次世界大戦以降は』一九七三『年に浜中町』(北海道釧路総合振興局管内の厚岸郡にある町。ここ(グーグル・マップ・データ))『で発見例があり』、一九九〇『年代以降は北海道東岸・襟裳岬でも発見例が増加している』。二〇〇二『年以降に襟裳岬近海で』二~三頭、二〇〇九年以降に釧路川河口で』一『頭が定着し、浜中町・大黒島』(北海道厚岸郡厚岸町にある島。ここ(グーグル・マップ・データ)。面積は約一平方キロメートル、標高百五メートル。現在。定住者はいないが、コンブ漁期のみ、番屋で過ごす世帯が一軒のみ存在する)『・納沙布岬では』一~二『頭の継続的な観察例』が、二〇一〇『年に納沙布岬で』六『頭の観察例がある』。『一方で』、一九九〇『年代以降は定置網や刺網による混獲も増加し、死亡例も発生している』。『鰭脚類などと比べると』、『体が小さく皮下脂肪が相対的に薄いため』、タンカー事故の油などで『体毛が汚染される』と、『防寒効果が低下して凍死し、また、体毛の間に蓄えられた空気がなくなり、浮力が減少して溺死した』りもする。『アワビ、ウニなどを捕食する害獣と見なされることもある』が、『国際条約などで保護動物となっている場合が多いので』、『地域の都合で駆除など』は『できない』。「シートン動物記」では、『本来は海辺で生活する陸棲動物であり、日光浴をしている群れをごく当たり前に見ることができたらしい。その頃は』、『人間に対する警戒心も無かったため、瞬く間に狩り尽くされてしまい、現在のような生態になっ』てしまった『と記されている』。『日本では平安時代には「独犴」の皮が陸奥国の交易雑物とされており、この独犴が本種を指すのではないかと言われている。陸奥国で獲れたのか、北海道方面から得たのかは不明である。江戸時代の地誌には、三陸海岸の気仙の海島に「海獺」が出るというものと』、『見たことがないというものとがある』。『かつて千島列島や北海道の襟裳岬から東部の沿岸に生息していたが、毛皮ブームによ』る『乱獲によって』、『ほぼ絶滅してしまった。このため、明治時代には珍しい動物保護法』「臘虎膃肭獣(らっこおっとせい)猟獲取締法」(明治四五(一九一二)年)『が施行され、今日に至っている』とある。……あぁ……昔……江ノ島水族館のマリンランドにいた……芸までしていたなぁ……教員になった始めの頃に訪ねてきた高校時代の後輩の女性と見たなぁ……可愛かったなぁ……あぁ……遠い遠い思い出だ…………

『蝦夷(ゑぞ)が島の東北の海中に、島、有り、「獵虎島」と名づく』現在の千島(クリル)列島南部にあるロシア統治下の火山島である得撫島(ウルップとう)の日本での古名。ロシア名はウループ(Остров)島、英語表記は Urup。日本では古くは「得生」の字を当てたり,「ラッコ島」とも呼ばれた。択捉(えとろふ)島の北東に位置し,長さ百十七キロメートル、幅二十キロメートル、面積は約千四百二十平方キロメートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。以上は主文を平凡社「世界大百科事典」に拠った。

『「木狗〔(もくく)〕」の屬なり【「木狗」、前に見ゆ。】』「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 木狗(もつく)(インドシナヒョウの黒色変異個体)」を見られたい。私の同定比定からは絶対にあり得ない。良安の誤りである。

「障泥(あをり)」既出既注であるが、歴史的仮名遣は「はふり」が正しい。馬具の付属具の名で、鞍橋(くらぼね)の四緒手(しおで)に結び垂らし、馬の汗や蹴上げる泥を防ぐためのもの。下鞍(したぐら)の小さい「大和鞍」や「水干鞍」に用い、毛皮や皺革(しぼかわ)で円形に作るのを例としたが、武官は方形とし、「尺(さく)の障泥(あおり)」と呼んで用いた。場所と形が頭に浮かばぬ方は、参照した小学館「デジタル大辞泉」の「あおり」の解説の下の画像をクリックされたい。

「祢豆布(ねつぷ)」「祢」は「禰」の略字であるが、生物種は分らん! 良安の書き方からは何らかの文献記載があるだろうに、検索で掛かってこない!! クソ!!! これで「巻第三十八 獣類」は終わるってえのに!!!! 識者の御教授を切に乞う!!!!!

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 水豹(あざらし) (アザラシ)

Azarasi

 

 

 

あさらし

      【和名 阿左良之】

水豹

 

本綱豹有水陸二種而海中豹名水豹文選西京賦謂搤

水豹者是也

△按蝦夷海中有水豹大四五尺灰白色有豹文剥皮販

 于松前其皮薄毛短而不堪用

 

 

あざらし

      【和名「阿左良之」。】

水豹

 

「本綱」、豹に水陸の二種有りて、海中の豹を「水豹」と名づく。「文選〔(もんぜん)〕」の「西京の賦」に『水豹を搤〔(とら)〕ふ』と謂ふは、是れなり。

△按ずるに、蝦夷(ゑぞ)の海中に水豹有り。大いさ、四、五尺。灰白色にして、豹の文、有り。皮を剥ぎて松前に販〔(う)〕る〔も〕、其の皮、薄く、毛、短くして用ふるに堪へず。

[やぶちゃん注:食肉目イヌ亜目鰭脚下目アザラシ科 Phocidae のアザラシ類。十属十九種から成る。ウィキの「アザラシ」によれば、『北海道ではアイヌ語より「トッカリ」とも呼ばれている』。『アザラシには』成獣でも体重五十キログラム程度にしかならない、ワモンアザラシ(アザラシ科 Pusa 属ワモンアザラシ Pusa hispida):輪紋海豹。背中側に灰色の地に灰褐色から黒色の斑紋があり、斑紋は明灰色が縁取りされており、この点でゴマフアザラシ(後出)の模様とは異なる)から、三・七トンにも『及ぶミナミゾウアザラシ』(ゾウアザラシ属ミナミゾウアザラシ Mirounga leonina)『までおりその体は変化に富む。体格については多くの種で雌雄にそれほど顕著な差は無いが、ミナミゾウアザラシではオスの体重はメスの』十倍にもなる甚だしい性的二型として知られるが、『逆にモンクアザラシ』(アザラシ科モンクアザラシ属Monachus)『やヒョウアザラシ』(一属一種。ヒョウアザラシ属ヒョウアザラシ Hydrurga leptonyx)『ではメスのほうがオスより大きい』。『首は短く、四肢には』五『本指があり』、『指の間には水かきが』あって、鰭に『変化している。アザラシの前』鰭『のうち』、『空気中に露出している部分はヒトの手首より先の部分にあたる』。『アザラシは優れた潜水能力をもつことで知られている。キタゾウアザラシ』は実に千五百メートルの超深海にまで『潜水した記録がある。鼻腔を閉じることができ、肺の中の空気をほとんどすべて吐き出すことで』、『高い水圧に耐えられるなど、潜水に適応した特徴をもつ』。『かつて、アザラシはイタチ』(イヌ亜目イタチ科イタチ亜科イタチ属 Mustela)『との共通祖先から分岐し、アシカ』(イヌ亜目鰭脚下目アシカ科アシカ亜科 Otariinae)『はクマ』(イヌ亜目クマ下目クマ小目クマ科 Ursidae)『との共通祖先から分岐し、収斂進化によって類似した形態を獲得したとする』二『系統説が主流であったが、近年は分子系統学的研究により、いずれもクマに近い共通の祖先をもつという単系統説が主流になっている』。『北極圏から熱帯、南極まで幅広い海域に生息』し、『頭蓋骨や四肢骨の特徴からモンクアザラシ亜科』Monachinae『とアザラシ亜科』Phocinae『に分けられる。モンクアザラシ亜科に属する種は主に南半球に、アザラシ亜科に分類される種は北半球に生息する』。『アザラシはホッキョクグマ』(クマ科クマ亜科クマ属ホッキョクグマ Ursus maritimus)『の主食となっており、その食料の』実に九『割をアザラシが占める』。『ホッキョクグマの嗅覚は優れており』、十キロメートル程度『離れた場所からでも』、『アザラシの匂いを嗅ぎつけることができるとする説もある』。『日本近海では北海道を中心にゴマフアザラシ』(ゴマフアザラシ属ゴマフアザラシ Phoca largha:胡麻斑海豹。背面が灰色の地に黒い斑(まだら)模様が散らばる)・ワモンアザラシ(前掲)・『ゼニガタアザラシ』(ゴマフアザラシ属ゼニガタアザラシ Phoca vitulina:和名は黒地に白い穴あき銭のような斑紋を持つことに由来する))・『クラカケアザラシ』(ゴマフアザラシ属クラカケアザラシ Phoca fasciata:成獣の♂には、暗褐色から黒色の地に首・前肢・腰を取り巻く白い有意に太い帯があり、これが、馬具の鞍を掛けたように見えるので「鞍掛海豹」の和名がついた)・『アゴヒゲアザラシの』(アゴヒゲアザラシ属アゴヒゲアザラシ Erignathus barbatus:名の通り、他のアザラシに比べ、ヒゲがよく発達しているが、このヒゲは実は顎からではなく、上唇付近から生えている)五『種のアザラシが見られる』(太字は私が附した。以下同じ)。なお、『日本近海』の『彼らは「すみわけ」をしているように見える。大雑把に言うと』、『ワモンアザラシは氷や流氷の多い地域に多く、大型プランクトンと小型魚類を食べている。アゴヒゲアザラシは流氷の移動する浅い海域を好み底性の魚類やカニ・貝を食べている。ゴマフアザラシとクラカケアザラシはこれらより南に分布し、冬から春にかけては』、『流氷上で出産する。流氷期が終わると』、『ゴマフアザラシは分散して沿岸で生活するが』、『クラカケアザラシは外洋で回遊する。ゼニガタアザラシはその南に分布し』、『流氷のあまり来ない北海道から千島列島の』、『結氷しない地域で暮らす。以上が日本近海のアザラシの分布の定説であるが』、二〇〇二『年に東京都の多摩川に出現し』て『日本を騒がせたアゴヒゲアザラシのタマちゃんのように』、『定説どおりに動かないアザラシの個体も少数おり、日本各地に出現するケースも稀にある』。『アザラシの夫婦形式は一雄一雌型のゴマフアザラシのような種もいる一方、ミナミゾウアザラシは一夫多妻型、ハーレムを作る種もおり』、『多様である』。『アザラシは陸上』若しくは『海氷上で出産する。一産一仔で妊娠期間はほとんどの種で一年である。新生児の産毛は保護色になっている種も多い。すなわち』、『海氷上で出産する種(ゴマフアザラシ・ワモンアザラシなど)は白色の産毛を持って産まれてくる』。『アザラシは一般的に魚やイカなどを食べている』が、『種によって食物に偏りがある』。『アザラシを含む鰭脚類の眼球は陸生の食肉類に比べて大きい。南半球ではロスアザラシ』(ロスアザラシ属ロスアザラシ Ommatophoca rossii)が、『北半球ではクラカケアザラシが特に大きい。網膜には色を識別する錐体はなく』、『明るさを感じる桿体だけなので』、『彼らに色の概念は無い。なお』、『陸上にアザラシがいる際、目の下が濡れて泣いているように見えるときがあるが、これは涙を鼻腔に流す鼻涙管が無いためで』、『ヒトのように泣いているわけではない』。『両極地方の暗い水の中で魚を取らなければならない種もおり、視覚以外の感覚も鋭い。アザラシには耳たぶは無いが』、『目の横に耳の穴がある。ゴマフアザラシなどのいくつかの種では』、『水中でクリック音を発してエコロケーション』(echolocation:反響定位)『を行っている。また』、『飼育下のアザラシでも』、『周囲の物音に敏感に反応する様子を観察する事ができる』。『アザラシの母親が自分の子供を見分けるための重要な情報』は『匂いであると言われている。なお』、『アザラシと近縁のアシカ科でも親が子を確認するのに嗅覚が使われている』。『アシカとは外見がよく似ているが、いくつか明確な相違点が見られる』。まず、『アシカには耳たぶがあるが、アザラシの耳は穴が開いているだけである』。次に、『アシカは後肢に比較して前肢が発達している。泳ぐ際の主たる推進力は前肢から得て左右の後肢を同調させて泳ぐ。逆に、アザラシは後肢が発達しており、泳ぐ際には前肢は体側に添えるのみで、左右の後肢を交互に動かして推進力を得る』。第三に、『陸上における移動を見ても異なっている。アシカは後肢を前方に折り曲げ、主に前肢を使って陸上を『歩く』ことができる。一方、アザラシは後肢を前方に折り曲げることはできず、前肢もあまり発達していないので『歩く』ことはできない。前肢を補助的に使いながら全身を蠕動させ、イモムシのように移動する』のである。『このような差異もあって、かつてアザラシ類とアシカ・セイウチ類は異なる祖先からそれぞれ独自に進化したとみられていたが、研究が進んだことで』、鰭脚類は古第三紀(漸新世前期:六千六百万年前から二千三百三万年前まで)から中新世(二千三百万年前から約五百万年前)前期に棲息していた『アンフィキオン類』(食肉目アンフィキオン科†Amphicyon)『(クマに近い化石種の系統)から進化した共通の祖先を持ったグループであることがわかっている』。『日本では古くからアザラシ猟が行われてきた。北海道の先住民であるアイヌ民族や開拓期の入植者も利用した。皮は水濡れに強く、馬の手綱やかんじきの紐に好んで使われた。また脂肪は照明用に燃やされた』。『昭和以降になると』、『皮が』スキー・シール(ski seal:スキーによる登行時、スキー板の底面に貼り付け、後方に滑らないようにする毛羽だったテープ状の物。クライミングスキン(climbing skin)とも呼ぶ)や鞄の『材料になったり、脂肪から石鹸が作られたりした。昭和』三十『年代以降は』土産物の『革製品の材料として多く捕獲された。この頃になると』、『猟も大規模になり』、『北海道近海からサハリン沖にまで及んだ。最盛期の年間捕獲頭数は』二千五百『頭ほどと推定されている。その後、環境保護の流れが盛んになり』、『ファッションの材料としての需要の低迷、ソ連の』二百『海里水域経済水域宣言、輸入アザラシ皮の流入等の理由により』、『昭和』五十『年代には商業的なアザラシ猟は終わりを迎えた』。『現在では北海道の限られた地域で有害獣駆除を目的としてわずかな数が捕獲されているのみである』とある。

「文選」六朝時代の梁の昭明太子の編になる詩文選集。全六十巻。五三〇年頃成立。周から梁に到る約一千年間の詩文の選集で、収録された作者は百三十名、作品は七百六十編に上ぼる。「賦」・「詩」・「騒」(韻文体の一種。社会や政治に対する憂憤を述べたもの。屈原の「離騒」に由来する呼称)に始まり、弔文・祭文に到る、三十九の文体に分類し、各文体内では作者の年代順に配列されている。編集方針は、編者の序によれば。道徳的実用的観点よりも、芸術的観点から文学を評価して選んだもので、その結果として賦五十六編・詩四百三十五首が選ばれ,この二群だけで全体の六割以上を占める。本書はその後、文学を志す人の必読の書として広く流布し、唐の李善の注を始め、多くの注釈が出て、「文選」学が出来たほどで、日本にも早く伝わり、王朝文学に大きな影響を与えた(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「西京の賦」後漢代の政治家で科学者でもあった張衡(七八年~一三九年)の作品。全文はこれ(中文ウィキソース)。

「搤〔(とら)〕ふ」この漢字は「摑む」「捕える」「押さえる」の意。]

太平百物語卷二 十五 吉田吉郞化物に逢ひし事

   ○十五 吉田吉郞化物に逢ひし事

 中京(なかぎやう)に吉田吉郞といふ者あり。

 或夜、子の刻ばかりに、五条醒井(さめがい[やぶちゃん注:ママ。])を通りけるに、うしろより、しづかに步み來る者、あり。

 ふりかえりみれば、年のほど、七、八才斗(ばかり)なる童子なり。

 吉郞、あやしくおもひ、童子にむかひ、

「いかに、小伜(こせがれ)、此くらき夜(よ)の、しかも更行(ふけゆき)て、おのれ壱人、何國(いづく)へか行く。」

と、いひければ、わらは、答へて、

「我は、何(いつ)も、此所を通る者なり。我(わが)形(かた)ちの、ちいさく幼きが、御氣に參らずば、いざや、大きく成(なり)申さん。」

とて、其儘(まゝ)、六尺餘りの大童(おほわらは)となり、吉郞をにらみけるに、吉郞、元來、しれ者にて、

「さこそおもひし。」

とて、大脇指(わきざし)を、

「すらり。」

と引ぬき、橫樣に切り付ければ、頓(やが)て形は消失(きえうせ)たり。

 吉郞、あざ笑ひて過(すぎ)ける所に、又、向ふより、いと誮(やさ)しき女、壱人、出(いで)きたり、吉郞が傍(そば)ちかく、寄(より)そひ、

「いかに。其方(そなた)樣へ、物申さん。われは四条あたりの者なるが、只今、其樣(さま)、すさまじき大坊主に行(ゆき)あひ、餘りのおそろしさに、これ迄、やうやう迯(にげ)きたりぬ。あはれ、御情(なさけ)に、われを誘(いざな)ひ玉へ。」

と、誠しやかに、いふ。

 吉郞、此女の体(てい)を、つくづく見て、

『これ、誠の女にては有(ある)まじ、今の化者(ばけもの)が無念さに、又、我をたばかるならん。』

と、おもひながら、さあらぬ体(てい)にて、

「いざ、伴ひ申さん。」

と、少(すこし)もゆだんをせずして行けるが、吉郞、女にむかひ、

「其大坊主(おほぼうず)は、いか樣成[やぶちゃん注:「やうなる」。]者にて侍りしや。」

とゝへば、此女、袖、かき合せて、

「さん候ふ。其坊主が姿は、かやうにこそはべりし。」

とて、さしも美しかりし女、忽ち、壱丈斗の古(ふる)入道となり、面(おもて)の眞中(まんなか)に車輪のごとくなる眼(まなこ)、壱つ、ひからし、吉郞を、

「はつた。」

と、ねめしを、すかさず、脇指、ぬき放し、

『柄(つか)も碎け。』

と切付(きりつく)れば、切られて迯(にぐ)るを、追(おひ)つむれば、門(もん)の際(きは)にて漂(たゞよ)ふ所を、拜み打(うち)に切りこみしに、彼(かの)ばけ物は消失(きへうせ[やぶちゃん注:ママ。])て、大石(だいせき)にぞ切付たり。

 吉郞、前後を、よくよく、見定め、

「今は恐るゝ事あらじ。」

と、氣色(きしよく)ぼうて[やぶちゃん注:ママ。]、宿に歸りしが、夜明(よあ)けて、人々に語り、彼(かの)脇指、取出(とりいだ)し見てあれば、悉く、刄(やいば)、こぼれてげり。

 されども、不敵なりしゆへに、災(わざはひ)はなかりしとぞ。

[やぶちゃん注:「中京(なかぎやう)」近世、京都の中心部を成した商業地域を指し、二条から四条までの附近を称した。元禄期(一六八八年~一七〇四年)頃からこの呼称は用いられた(小学館「日本国語大辞典」に拠る)。本「太平百物語」は享保一七(一七三三)年の板行であるから、本話柄はごく直近の都市伝説(urban legend)ということになる。

「五条醒井(さめがい)」この附近(グーグル・マップ・データ)だが、現在、南北にあった醒井通は、この五条通以南では西隣りの堀川通が東よりに拡張されたため、これと重なって消滅してしまっている。

「頓(やが)て」そのまま。

「誮(やさ)しき」「優しき」に同じい。「優美である・上品で美しい」の意。

「四条」現在位置より北。

「門(もん)」国書刊行会「江戸文庫」版ではルビに『もの』と振る。不審。

「拜み打(うち)」刀の柄(つか)を両手で握り、頭上高く振り被って、上から下に一気に斬り下げること。

「氣色(きしよく)ぼうて」気色(けしき)ばんで。ここは「得意げに意気込んで・気負い込んだ顔つきになって」の意。]

鰹船の唄 伊良子清白

 

鰹船の唄

 

見える大海(だいかい)

  八丈が島は

朝日夕日の

  くもらぬところ

 

海は急流

  鰹の川に

釣竿(はね)で飛び込む

  黑瀨川

 

志摩の漁師は

  荒灘稼ぎ

命知らずの

  海知らず

 

風は靑東風(あをごち)

  汽笛のしらべ

浪の白雪

  納涼(すずみ)ぶね

 

をとこ旱(ひで)りは

  龍宮城よ

赤いふどしの

  丸裸

 

鷗(ごめ)がついたで

  鰹はまたい

とろり流れる

  壺の魚

 

竿の穗先は

  秋野の薄

海の太陽

  魚が降る

 

夜とも晝とも

  わからぬ世界

魚を抱きこむ

  腋(わき)の下

 

金銀瑠璃の

  魚島を

船に築くとは

  おもしろや

 

えいやえいやで

  ほりこむ氷室(ひむろ)

千里風吹きや

  帆のうなり

 

靑い海原

  疊でござる

船で大の字

  高鼾き

 

かへる凱旋

  波間を分けて

のつと顏出す

  富士の山

 

船は着く着く

  朝日の湊

濱にや赤兒(あかご)も

  這うて出る

 

志摩の波切(なきり)の

  大王崎の松に

並ぶ男の

  勇兄(いなせ)ぶり

 

[やぶちゃん注:初出不詳であるが、鳥羽での作。則ち、既に示した通り、大正一一(一九二二)年九月十二日から、ここの底本親本である新潮社版「伊良子清白集」刊行の昭和四(一九二九)年十一月以前の作となる。「だいかい」はママ。「釣竿(はね)」「はね」は「釣竿」二字へのルビ。

「黑瀨川」は言わずもがなであるが、黒潮の換喩。

「鷗(ごめ)」は「かもめ」(チドリ目カモメ科カモメ属カモメ Larus canus)の方言。Q&Aサイトの回答に東北地方では「ごめ」はウミネコ(チドリ目カモメ亜目カモメ科カモメ属ウミネコ Larus crassirostris)のことを指し、土地の漁師達は「ゴメ」と呼んで大切にするとあり、これは「かもめ」→「かごめ」(加護女)→「ごめ」と訛った言葉らしいとし、「神の加護」の意味を籠めるとし、「神の使い姫」という呼び方もあるという。「ゴメ」は漁船に方角や魚の在り処(か)を教えて呉れ、羅針盤や魚群探知機のなかった時代には重要な存在であり、そうした古えより「神の使い姫」として、大切にされてきたとあった。小学館「日本国語大辞典」には「かもめ」の方言として「かごめ」を志摩・南伊勢の採取とし掲げており、そもそもが「かもめ」は「かごめ」(幼鳥の斑紋が籠の目のように見えることが由来とされる)であったので方言という謂いそのものが正しくない。なお、カモメとウミネコの違いを述べておくと、カモメ(標準全長四十五(四十~四十六)センチメートル・翼開長百十~百二十五センチメートル)よりもウミネコの方が一回り大きく(標準全長四十七(四十四~四十八)センチメートル・翼開長百二十~百二十八センチメートル)、ウミネコの方が厳つい感じを与える。最も簡単な識別法は嘴の違いで、こちらの識別ノートによれば(写真有り)、『ウミネコの嘴は、大型カモメ類に比べて細いため、かなり長く感じられます。そして、黄色い嘴の先端が赤、黒と色が付いているので、明瞭です』。『カモメの嘴はウミネコに比べるとあきらかに短く、そして黄色い嘴の途中に黒い斑がぼんやりあるだけです。たまに黒い斑の周囲が、赤っぽく見える事がありますが、ウミネコのようにはっきりした色ではありません』。『従って、嘴を見ただけで両者は識別可能です』とあり、また、『次に顔つきですが、ウミネコの虹彩は淡色で、目つきが鋭く見えます。また、頭の形も角張っています』それに対し、『カモメは淡色のものもいますが、概して虹彩は暗色で、頭も丸く全体的に大人しく見えます』。『また、ウミネコの換羽時期は早く』、二『月には斑がない真っ白な頭の夏羽の個体が見られます(地域差はあると思います)。これは遠目にも明瞭に識別できます』。『背の色はウミネコの方が濃く、オオセグロカモメ』(カモメ属オオセグロカモメ Larus schistisagus)『より少し薄いくらいです。カモメはセグロカモメ』(カモメ属セグロカモメ Larus argentatus)『とほぼ同じです』。『また足の色は両者とも黄色ですが、ウミネコの黄色は赤みがあり、絵の具で言うクロームイエローなのに対して、カモメは白っぽい黄色で、レモン色と言う感じです』。『カモメ類は成鳥になるまでは尾に黒い帯がある種が多いのですが、ウミネコだけは成鳥になっても』、『尾に黒い帯があるのが特徴です』。『この点は、飛んでいるカモメ類を識別する際には最大のポイントになります』。『さらに一番の両者の違いは、ウミネコが留鳥だと言う』ことで、『カモメ類の中で日本で繁殖するのは、北海道で繁殖するオオセグロカモメの他にはウミネコしかありません。従って他のカモメ類が北へ帰って、秋に戻ってくるまでの間に見られるカモメ類は』総て『ウミネコと言う』こと『になります。まあ、夏場はアジサシ類』(カモメ科アジサシ亜科アジサシ属 Sterna のアジサシ Sterna hirundo など)『が見られますので、そちらとの比較が必要になるかも知れませんが、前述したように飛んでいる事の多いアジサシは尾が二またに分かれていますので、一目瞭然です』とある。……あぁ、先日、富山の新湊の観光船でカモメの餌やりをした折り、俺の指を切った奴は、嘴から、ウミネコだったわけだな……

「壺」船内の生簀。

「志摩の波切(なきり)の」「大王崎」現在の三重県志摩市大王町(ちょう)波切(なきり)の大王崎(グーグル・マップ・データ)。]

霰 伊良子清白

 

 

やるせなや

  軒の、玉霰

うけて見るまの

  手の掌(ひら)を

流れておちる

  もとの水

假りのすがたは

  人かいな

 

[やぶちゃん注:初出は明治三二(一八九九)年十二月発行『よしあし草』で「きりの海」の総標題で別詩篇「きりの海」と併載。署名は「すゞしろのや」。本昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に収録(改変部有り。以下参照)された詩篇の中では最も古いものである。初出は以下。

   *

 

 

やるせなや軒の、玉霰

うけて見るまの手の掌を

流れておつるもとの水、

假りのすがたは人かいな。

 

髑髏の霜が化粧なら、

卒塔婆小町の舞の手は

穴目穴目や枯芒、

まだ懲りずまに招くとは。

 

   *

「穴目穴目や枯芒、」は、しばしば説話に見られる見られる〈髑髏の眼窩に芒の穂〉をイメージしたが、どうもそれらしい。小町伝承にもそれがあることが、個人ブログ「忍山 諦の写真で綴る趣味のブログ」の「吾れ死なば焼くな埋むな野に晒せ~小町ゆかりの寺(2)」で、小町所縁の寺のの一つで「小町寺」の通称で知られる、京都市上京区静市(しずいち)市原町(いちはらちょう)にある天台宗如意山(にょいさん)補陀洛寺(ふだらくじ)(グーグル・マップ・データ)について書かれた記事の中で、『階段の下に設置されている京都謡曲史跡保存会の案内板によると』、『「遠く陸奥路まで漂泊の身を運んだ一世の美人小野小町も、年老いて容色も衰えた身を、ここ市原野に、昔、父が住んでいたなつかしさから、荒れ果てた生家を訪れ、そこで朽木の倒れるように、あえなくなるが、弔う人とてもなく、風雨に晒される小町の髑髏から生い育った一本の芒(すすき)が風にふるえていた。この伝説に因んで穴目のススキ、老衰した小町像や、少将の通魂塚がつくられている」』『と記されている』。『言い伝えにによると、小町は』天慶八(九〇〇)年に』、

 吾れ死なば燒くな埋むな野に晒せ

    瘦せたる犬の腹肥やせ

『の辞世の歌を残してこの地で亡くなり、その遺骸は本人の望みどおり』、『野に晒らされたという』。『後年、恵心僧都源信がこの地を訪れたとき、「目が痛い」という声がしたので見ると、野晒しになった一体の遺骸の眼窩を貫くようにススキが生い出ていたので、これを拭き取り供養したと』も言われる。『この穴目のススキの話は謡曲の題材ともなっているが、果たして史実なのか、それとも後年の創作にかかるものかは確かめようがない』。『境内には小町の供養塔』『と深草少将の供養塔』『がある』とある。今度、行ってみたい。]

2019/04/26

巖間の白百合 すゞしろのや(伊良子清白) 原本底本電子化版・附オリジナル注

 

巖間の白百合

 

  

 

波の穗あかく海燃えて、

 西にくづるゝ夕雲の、

  名殘はまよふ岩の上、

   今日の別を告ぐるらむ。

南の洋にたゞよへる、

 百千の島は一つらの、

  潮のけぶりやつゝみたる、

  うかぶ翠も見えわかず。

[やぶちゃん注:「洋」はここは「うみ」と読んでおく。]

晝は光におほはれて、

 さやかにめにも入らざりし、

  火を吐く峯のひらめきは、

   闇の沖べをぞ照したる。

岬の岩にくだけ散る、

 浪のしぶきは高けれど、

  翅休めぬ大鳥の、

   歸るを追はむ力なし。

大龜うかぶ湊江の、

 陰に散りうく花片は、

  浪に環をつくれども、

   またみだれ行く潮の泡。

イヤライ草の漂ふを、

 摘む兒の影も見えざれば、

  下に群れよるうろくづの、

   鰭こそ水をさわがすれ。

[やぶちゃん注:「イヤライ草」不詳。「下に群れよるうろくづの」とあるから、海面に普通に浮遊しているのを見かける海藻と思われるが、異名としても海藻フリークの私でさえ聴いたことも見たこともない。翻って、塵(ごみ)のように漂う、人の「嫌らふ」或いは「居遣(や)る」(そこにあるのを押し遣る)ような役立たずの雑藻のことかとも考えたが、それでは次行の「摘む兒の影も見えざれば」が齟齬する。「イヤライ草」は食用や藻塩用に「摘む」(但し、海面を漂う海藻を「摘む」とは言うのは不適切な表現と思う)海藻だということになる。これらの条件を最もよくクリアー出来るのは、不等毛植物門褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科 Sargassaceae のホンダワラ属ホンダワラ Sargassum fulvellum やホンダワラ属アカモク Sargassum horneri であるが、伊良子清白は後の明治三七(一九〇四)年一月発表の「海の聲山の聲」では、それを、万葉以来の美しい異名「莫告藻(なのりそ)」を用いている。「イヤライ草」とは如何にも厭な響きの語であるが、或いは「言ひやる」ことを「嫌(いや)がる」の謂いと解するなら、「名乗りそ」の意と妙に繋がるような気がしないでもない。ただ、しないでもないと消極的に思うだけで、それを執り立てて主張したくもない。お手上げ。識者の御教授を乞う。]

胡沙吹く風を葉に浴びて、

 玉を累ぬる香蕉の、

  このみは莢をはしりけむ、

   こぼれし豆の色ぞ美き。

[やぶちゃん注:「胡沙」中国で塞外の胡国から来る砂塵の意であるが、ここは大陸の砂塵でよかろう。「香蕉」「かうせう(こうしょう)」と読み、バナナ(単子葉植物綱ショウガ目バショウ科バショウ属 Musa の内で果実を食用とするもの)の漢名。]

橫たふ幹はをろちなす、

 パンダナの樹のうねれるが、

  潮にひたりてあまたゝび、

   貝の住處(すみか)となるやらむ。

 

橫たふ幹はをろちなす、

 パンダナの樹のうねれるが、

  潮にひたりてあまたゝび、

   貝の佳處(すみか)となるやらむ。

[やぶちゃん注:「パンダナの樹」「パンダナス」で、単子葉植物綱タコノキ目タコノキ科タコノキ属 Pandanus のタコノキ類を指すが、同属タコノキ Pandanus boninensis、或いは同属で葉の鋸歯が小さいアダン Pandanus odoratissimus を挙げておけばよかろうとは思うのだが、どうも気になるのは、伊良子清白が「潮にひたりてあまたゝび」「貝の佳處(すみか)となるやらむ」と続けていることで、これは私はどうも、清白は、海岸沿岸の陸地に植生するタコノキ類と、マングローブを形成する、潮間帯に植生して板根を広げる汽水域を好む耐海水性のヒルギ類(双子葉植物綱キントラノオ目ヒルギ(蛭木)科 Rhizophoraceae:例えば、メヒルギ属メヒルギ Kandelia obovata・オヒルギ属オヒルギ Bruguiera gymnorhiza等)を一緒くたにして誤認しているように思われてならない。タコノキ類は実を好物とする、ほぼ完全な陸棲性甲殻類(成体は産卵時以外は水に入らない)であるヤシガニ(甲殻綱 十脚(エビ)目エビ亜目異尾(ヤドカリ)下目ヤドカリ上科オカヤドカリ科ヤシガニ属ヤシガニ Birgus latro)の根の周囲が棲み家にはなり得るが、貝のそれにはなり得ないし、後者はパンダナスとは縁もゆかりもなく、「パンダナ」とは決して呼ばないからである。

凉しき暮を一しきり、

 飛魚の群飛びめぐる、

  珊瑚の礁の水底に、

   低く映れる棕櫚の影。

なみほの白き磯際に、

 獨木の舟をつなぎすて、

  かこは家路に歸りけむ、

   たゞ棹のみぞのこりたる。

[やぶちゃん注:「獨木」「まるき」(丸木)と当て訓していよう。]

深き林は紫の、

 うすき烟にとざされて、

  聲を競ひし百鳥の、

   白日の歌はすぎにけり。

[やぶちゃん注:「白日」「まひる」と読んでおく。]

塵だにすゑぬ眞砂路の、

 翠の陰をとめくれば、

  新芽は枝をうちたれて、

   老木をつゝむ葉のしげみ。

[やぶちゃん注:二〇〇三年岩波書店刊平出隆編集「伊良子清白全集」第一巻では「つゞむ」であるが、「約む」で「縮めさせるようにする」の謂いでは無理がある。原本(後注参照)に拠った。]

池に臨める椰子葺の、

 軒端のすだれ風見えて、

  欄干による嶋の王、

   夕立つ雲を仰ぐらむ。

[やぶちゃん注:「欄干」「おばしま」。]

白き小石を並べたる、

 床には布ける新筵、

  皿にあふるゝ野のこのみ、

   山のこのみぞ珍らしき。

夕げをよぶや女の童、

 肩にかけたる花束の、

  花ひそやかにうちそよぎ、

   媚ぶるに馴れしうしろ影。

[やぶちゃん注:「媚ぶる」「こぶる」。]

水草かくれにひそみたる、

 池のうろくづ尾を赤み、

  玉も拾はむ砂の上に、

   人なつかしく來るかな。

母なる君と手をひきて、

 岸邊をあゆむ姬皇子の、

  たけなす髮にこゝろなく、

   はらりと散りし花一瓣(よ)。

[やぶちゃん注:「よ」は万葉語で「花びら」。]

拂ひし花は池水に、

 たゞよひうかぶ一葉舟、

  二人の君は凉しさを、

   語らひながらかへりけむ。

折しも近き高峰より、

 たちまち雨の篠つきて、

  木々の梢を洗ひ去り、

   浴びをいづる森の花。

[やぶちゃん注:「をいづる」不審。「生ひ出づる」か。だとしたら「おひいづる」でなくてはおかしい。]

名殘の雫陰におち、

 眞砂にまろぶ露の珠、

  あたりをぐらくなるまゝに、

   かはほり飛ぶや羽廣き。

森の遠近かゞり火の、

 ほのめきわたる木下闇、

  吹なす笛の聲きけば、

   しらべゆかしき暮の歌。

 

 みどりのかげに

    かくれすみ

 夕手まねく

    人はたぞ

 白雨もりを

    あらふとき

[やぶちゃん注:「白雨」は明るい空から降る雨・俄か雨のこと。「はくう」では韻律が崩れるので「ゆふだち」と当て訓しているか。]

 花のをだまき

    散るらんか

 草にこやせる

    あだ人の

 ざれしかうべを

    ふまんより

 かゞりに燒ける

    ニーの實の

[やぶちゃん注:「ニー」不詳。但し、南洋諸島ではココヤシ(単子葉類植物綱ヤシ目ヤシ科ココヤシ属ココヤシ Cocos nucifera をニウ(Niu)と呼ぶから(アメリカ人の方の日本語による個人サイト「マウイ島からアロハ」のこちらを参照)、それではなかろうか?]

 はしりいでゝも

    きたりなむ

 あつくももゆる

    手のひらを

 きみのうなじに

    われはまかせむ

 

   

 

クンナツト花手にまきて、

 くちを漱がむ池水に。

[やぶちゃん注:「クンナツト」不詳。先のココヤシは英語で「Coconut palm」で音が近くはある。]

谷かけくだる白玉は、

 を指にさむく觸るゝかな。

分髮肩をすぐればか、

 おぞや浪間にひたりたり。

神にさゝぐる菓を、

 供へまつらむ夕なれば、

いはほの前にぬかづきて、

 所のうたをことあげむ。

[やぶちゃん注:「菓」の読みは「くだもの」か。]

 

 島のさつをら

    さきくあれ

[やぶちゃん注:「さつを」は「猟男・猟夫」で漁師のこと。]

 海のいさり男

    やすけかれ

 棕櫚の林に

    風ふきて

 夢路すゞしき

    あしたより

 大蟹のぼる

    白濵の

 月たゞ細き

    夕まで

 谷の小川の

    せゝらぎを

 絃なき琴と

    きゝなして

 ふかき林の

    山陰に

 かれずも神よ

    まもりませ

[やぶちゃん注:「かれずも」は「離(か)れずも」か。]

 夜ざりくれば

    やわらかき

[やぶちゃん注:ママ。]

 草のしとねを

    ふみわけて

 風はふかねど

    おのづから

 木々よりおつる

    露にぬれ

 かの新しく

    咲きいでし

 花のかをりを

    なつかしみ

 胡桃みのれる

    山裾の

 うす紫の

    のべをこえ

 老葉若葉の

    かさなれる

 椰子の林に

    あそびませ

 朝は鮮きを

    たてまつり

[やぶちゃん注:前行は「あさはあざきを」と読んでおく。]

 夕はニーを

    供ふれど

 われをとめこの

    﨟げて

 あまりに面

    なまめけば

 まつりのころも

    まとへども

 かしこき神の

    みまへかな

 山の端うすく

    黑ずみて

 光をまとふ

    笹緣の

[やぶちゃん注:「ささへり」「ささべり」で、本来は、衣服の縁や袋物・茣蓙の縁(へり)を補強や装飾の目的で布や扁平な組紐で細く縁取ったものを言うが、ここは山の端の夕景の換喩。]

 色こまやかに

    そめなすは

 今月影や

    いづるらむ

 虹のうき橋

    とだえして

 森より森に

    雨はれぬ

 つゆあきらかに

    みえそめつ

 ひかり仰ぐも

    ちかからし

 誰が吹く笛ぞ

    さはやかに

 をりにあひたる

    しらべなり

 風の千條の

    細絲の

[やぶちゃん注:「千條」「ちすぢ」。]

 みだれてなびく

    峯の雲

 底湧き回る

    千々の浪

 碎けて空に

    うつるかな

 山の彼方の

    かゞやきは

 玉の梢や

    匂ふらむ

 藐姑射の宮の

    み園生の

[やぶちゃん注:「藐姑射」は「はこや」と読み、小学館「日本国語大辞典」によれば、「藐」は「邈」と同じで「遙か遠い」意、「姑射」は山の名。元来は「遙かなる姑射の山」の意であるが、「荘子」の「逍遥遊」によって、合わせて山名の如く用いられるようになったもので、中国で不老不死の仙人が住むとされた想像上の山を指すこととなった。]

 七つの寳

    八重垣の

 花の臺や

    そびえたる

 天のうき舟

    かぢとりて

 はつるよしもが

    よもぎ島

[やぶちゃん注:「果つる由もが」か。「行き着いた果てのところが所謂」の意か。「よもぎ島」は蓬莱山のこと。]

 尾上の木立

    あざやかに

 巖のうへに

    あらはれて

 百たび鍊れる

    久方の

 月の鏡は

    かゝりたり

 靜かにのぼる

    影見れば

 下づ枝は橫に

[やぶちゃん注:「づ」はママ。]

    中つ枝は

 幹をかすめて

    すぢかひに

 また直くのみ

    のぶれども

[やぶちゃん注:「またますくのみ」(再びひたすらに真っ直ぐに)か。]

 千枝にわかるゝ

    上つ枝は

 月の桂の

    陰さして

 風にもまるゝ

    葉のそよぎ

 一つ一つに

    てらすめり

 今やはなれん

    木々のうへ

 小さくなり行く

    月影の

 めぐりはうすき

    色の彩

 霓ぞたまきを

    ゑがきたる

[やぶちゃん注:「霓」は龍の名で音「ゲイ」であるが、ここは古来、それと認知された虹を指し、「にじ」と訓じているように思われる。]

 月のみ神の

    みめぐみの

 光あまねき

    島のうへ

 高きみ影に

    ぬかづきて

いざやいのりの

    うたををはらん

 

女蘿にとざす岩穴の、

 白晝のごとくかゞやきて。

[やぶちゃん注:「女蘿」「ぢよら(じょら)」は、樹皮に附着して懸垂する糸状の地衣類の一群の総称である猿麻桛(さるおがせ:菌界子嚢菌門チャシブゴケ菌綱チャシブゴケ目ウメノキゴケ科サルオガセ属 Usnea)の漢名。]

本は一本枝ごとに、

 七百咲くてふ百合の花。

花のうてなの紫の、

 色うつぐしみ來る鳥の、

五彩(ごさい)の翅しをるゝは、

 神こそ天降りゐますらめ。

[やぶちゃん注:「うづくしみ」の濁音はママ。]

 

白玉なせる房ごとに、

 つゆこきみだるよのゆるぎ。

[やぶちゃん注:「露放(こ)き(或いは「扱(こ)き」)亂る節(よ)の搖ぎ」か?]

洞にひそめる遠つ世の、

 黑き風もや通ふらむ。

手をだにふれなば崇るべき、

 花は一瓣もちらねども、

少女さびすとわが胸に、

 さゝば大神やどりなむ。

[やぶちゃん注:「一瓣」は前に出た。「ひとよ」と読む。]

二つの翼生ふるれば、

 虹のみ橋に袖ふりて。

櫻八重咲く敷島の、

 五百重の浪に嘯かむ。

[やぶちゃん注:「五百重」は「いほへ」。「嘯かむ」は「うそぶかむ」。]

老いぬ藥を授からば、

 牡丹匂へるもろこしの、

大城の庭のあし鶴を、

 友にや雲に乘りてこむ。

[やぶちゃん注:「大城」「おほき」と読んでおく。「あし鶴」は仙界に相応しい脚のごくほっそりした鶴のことか。少なくとも、その和名を持つツルはいない。]

こは仙人の夢ににて、

 神さびたりなあまりにも。

長き裳裾は曳かねども、

 われ姬皇子の玉簪。

[やぶちゃん注:「玉簪」「たまかざし」であろう。]

足乳の母の御手にだに、

 ぬかせまつるはまれらなる。

[やぶちゃん注:「形容動詞「稀らなり」の連体形。]

大宮内にうまれては、

 產衣ゆたかにはぐくまれ。

現女神とめでられて、

 いつき少女となりぬるを。

[やぶちゃん注:「現女神」韻律から「あらひとがみ」と読んでおく。]

黃金花咲く西島の、

 王子のみもとにかしづきて。

珊瑚の舟の纜を、

 さゝらぐ浪に解き放ち。

[やぶちゃん注:「纜」「ともづな」。]

瑠璃なす海にこぎいでゝ、

 桂の棹をさしぬとも。

太刀とりなるゝをのこゞの、

 强きかひなにいだかれて。

頸環の玉のくだけなば、

 かよわき胸のたへざらむ。

舟のへさきをめぐらして、

 椰子のこかげにかへる時。

しだり尾長き赤はしの、

 鳥の囀いたましく。

[やぶちゃん注:「はし」は「嘴」。]

面そむくる宮ぬちに、

 羅の袖ぬれもせば。

[やぶちゃん注:「羅」「うすぎぬ」。]

風の一葉とうらぶれて、

 寢覺の床やつらからむ。

母のかふこのまゆごもり、

 つまれぬ花とみををへば。

[やぶちゃん注:「こ」は「蠶」。「みををへば」は「身を負へば」。]

鮫に槍うつあらし男の、

 淺き思にをしまれて。

深山のこのみあだにのみ、

 おちてくちぬといはれんも。

百合のうてなの室ごとに、

 かくれましぬる大神の、

ひろきこゝろにかなひてぞ、

 幸長しへに盡きざらむ。

[やぶちゃん注:「室」読みはいろいろ考えられるが、私は「へや」と読む。「長しへに」「とこしへに」。]

さばかり神のまもります、

 われは思へばいつの夜か、

分髮祝ふさかもりの、

 うたげのともし輝きて、

父がしたしく銀の、

 環をうでにかけしをり。

なれは年月大神に、

 いのりてこそはうまれしか。

月影白きさむしろに、

 椰子は繪のごと影を曳き、

星あまたゝび空を行く、

 夜半に產聲あげしなり。

ゆめおろそかに思ふなと、

 をしへたまひしこともあり。

さらば神の子わが衣に、

 百合の花ひらさしぬとも。

[やぶちゃん注:「花ひら」の清音はママ。]

すがたよそほふためならば、

 とがめたまはじ大神も。

こゝろおちゐてひそやかに、

 女蘿の隙ゆ二ひらを、

摘みとりてこそ柔かき、

 乳房のうへにかざしけれ。

淸きかほりは龍のすむ、

 宮居の壺の酒ならむ。

ましろの色は織女が、

 たちし千ひろのきぬならむ。

雲の夕凝るいたゞきに、

 よろづの山を見るごとく。

みかどの位さづかりて、

 冠戴く朝のごと。

戰の庭に笛吹きて、

 城にをのこをよぶがごと。

望はるけき天地に、

 あやしくあがるわが心。

御空仰げば七星は、

 紫金の色をあらためて、

芭蕉の幹の廣き葉の、

 かさなるうへに影をなげ。

西にかたぶく明星は、

 寂しき天の戶をいでゝ、

沈める船の帆ばしらを、

 うちてくだくる浪にすみ。

雲にまよへる三つ星は、

 若き光を包めども、

岬を洗ふ黑潮の、

 うづまくうへやてらすらむ。

戀草茂る天上の、

 銀河の水に風立ちて、

深き泉の濃紫、

 流るゝ星の花を吹き。

紅葉の渡狹霧こめ、

 つらき別の朝のごと。

步は遲き彥星の、

 錦の衣ほころびて、

高き通路牽く牛の、

 はづなは浪にぬれにけり。

夜のみ神の月影は、

 こよひ圓かにみちたらひ、

ほがらほがらと大空の、

 風にのりてや渡るらむ。

雲の浪間にたゞよひて、

 夜すがら西に流れたり。

ひろき光のはろはろと、

 千里の色ぞ輝ける。

[やぶちゃん注:「はろはろと」清音はママ。]

白き翼に弓ひきて、

 誰か國土(くぬち)に射おとさむ。

森の木の間の葉を茂み、

 影こそ近くさまよへれ。

月の光を身にあびて、

 星の雫を袖にうけ、

わけ髮ながくなびかせて、

 高くかゝれる空の海の、

はてなき橋の下かげに、

 男神女神の名をよべば。

晝の男神の行く道の、

 村立つ雲に弦伏せて、

紅の目の浪間より、

 光の白箭放てども、

星の炬火たきすてゝ、

 夜は獵夫のかへりこず。

[やぶちゃん注:「炬火」は「たいまつ」。松明。「獵夫」は前に従い、「さつを」と読んでおく。]

萬の光衰へて、

 炎はきゆる流れ星。

照せる月にくらぶれば、

 塵ひぢにだにまさらんや。

[やぶちゃん注:「ひぢ」は「泥」。]

こよひみ神のうてなより、

 白百合の花二よこひ。

さやけき影を前にして、

 まほにむかへばをみなごの、

あがるこゝろをおさへかね、

 胸の波こそたちまされ。

みどりのかげにいこふとも、

 白日の夢をむすぶとも、

白雨森をあらふとも、

 いそべの浪にかつぐとも、

海に立ちたる紅の、

 火柱の火をさけえんや。

朝は東に羽をふり、

 夕は西に勝鬨の、

豊旗雲をなびかせて、

 休む時なき日の軍。

天の炎をなげかけて、

 やきはらへども椰子の原。

廣き葉裏に月さゝば、

 よみがへるらん島と海。

み神のおはす望月の、

 かゞやく宮ゆ吹きおちて、

夕ざりくれば遠近の、

 百千の小枝うちそよぎ。

この島國もをしからぬ、

 涼しき風はたちぬめり。

あゝ電のびらめきて、

 いかづちのなる天雲の、

上に烈しき火柱の、

 たけき力にくらべ見て、

雲井冴やけく照りわたる、

 月のみ神のたゞへごとせむ。

[やぶちゃん注:「たゞへごと」「稱(ただ)へごと」。讃辞。祝詞に濁音で出る。]

 

   

 

朝の月のほのぼのと、

 棕櫚の葉末に白む時、

  塒はなるゝ鳥の歌、

   別の袖のつらき哉。

石を拾ひて夕月の、

 沈める池になげやれば、

  一つ一つに輪をまして、

   果(はて)は岸邊にきえにけり。

夜渡る月の夜を寒み、

 八重の照妙かさぬれど、

  朝吹く風にぬぎ去れば、

   白日の月やのこるらむ。

[やぶちゃん注:「照妙」は「てるたゑ」で、「一本に繋がった輪状の綱」を指し、ここは言わば、神に捧げる幣帛の一種であろう。]

弓張月をたとふれば、

 水草に伏す鰐ざめの、

  鱗の銀をふるふごと、

   光は雲を破るかな。

望の月夜に舟うけて、

 月の鏡をのせ行くに、

  汐馴衣袖びぢて、

   月も島根をめぐりけり。

下弦(げげん)の月の弦にふれ、

 潮は岩に響けども、

  岩燕飛ぶ曉を、

   驚きさむる人ぞなき。

[やぶちゃん注:「げげん」のルビはママ。]

椰子の林の葉のかげに、

 よるよる沈む月影は、

  珊瑚の磯の波間より、

   さしのぼりたる月ならむ。

宿る陰なき洋に、

 ひとり漂ふ月なれば、

  かぢをたえたる大空を、

   ほがらほがらとわたるらむ。

[やぶちゃん注:「洋」ここは「おほうみ」と読んでおく。]

紅淡き東雲の、

 產湯の上にうつれども、

  砂をおほへば夢もなき、

   廣野の墓をてらすなり。

かけたる月も來ん夜の、

 滿ちくる影の月なれば、

遠き昔も今の世も、

 月こそとはにさやかなれ。

 

 *  *  *  *

   *  *  *  *

 

 かゞみととげる

    おもてより、

 ほそきけぶりの

    たなびきて、

 ひかりかくさふ

    つきのみや。

 花の香たへに

    咲きにほふ、

 大木のかつら

    みきさけて、

 みるみる月は

    かけにけり。

 月のみうたを

    とのふれど、

[やぶちゃん注:「となふ」(唱ふ)の音変化であろう。]

 たかきみやゐに

    かよはねば、

 くらくなり行く

    天地や。

 天の河瀨の

    夕波は、

 みふねのともに

    かゝれども、

 八重のさぎりの

    ひらかんや。

 あかがねなせる

    あらがねの、

 こりてはながれ

    ながれては、

 うづまきかへる

    月のおも。

 かゞやきわたる

    もちづきの、

 花のみやゐは

    とこやみの、

 よみぢの水に

    沈みたり。

 月の底より

    わきいづる、

 くろき炎は

    ときのまに、

 千尺の上に

    もえあがり。

 火を吐く山の

    いただきの、

 洞よりのぼる

    こむらさき、

 むらさきうすき

    色なせり。

大綿津見の

    なみのうへに、

 影をやどしゝ

    もち月も、

 み空の月と

    わかれけむ。

 たつのみやこの

    たかとのゝ、

 とばりをまける

    乙姬の、

 袂の玉と

    かくれけり。

 七百の百合の

    花をだに、

 むねにさゝずは

    をとめごの、

 ひめにかくまで

    たゝらんや。

 いたくにごれる

    人のよを、

 にくみたまひて

    とこしへに、

 月はきえさせ

    たまひけむ。

 星のひかりの

    夕より、

 つゆおきまさる

    あしたまで、

 椰子のこかげを

    もるゝとも。

 百千のかゞり

    あつめたる、

 焰の花の

 flame tree

    山陰に、

 夜すがらさきて

    もゆるとも。

[やぶちゃん注:ブログでは上手くゆかぬが、「焰の花」三字の左に英文「flame tree」がルビ大で記されてある。わざわざかく振ったのは、異国シークエンスの篝火の換喩であると同時に、伊良子清白は実在するflame tree」、オーストラリア原産の双子葉植物綱ビワモドキ亜綱アオイ目アオギリ科ブラキキトン属ゴウシュウアオギリBrachychiton acerifolium をも、出来れば、読者にイメージして貰いたかったからではなかろうか? 個人サイト「GKZ植物事典」の「ゴウシュウアオギリ」によれば、『花茎も真っ赤であり、花も真っ赤』で、『ベル型の小花を見せる』とあり、さらに『我が国への渡来時期不詳』とする。但し、国内では温室でしか見られないようだが、一目見ると、その鮮烈な赤さに忘れ難い木ではあるのだ。グーグル画像検索「Brachychiton acerifoliusを見られたい。]

 月なき園の

    山河は、

 繪にかく花の

    色香にて、

 活きたる泉

    わかざらむ。

 みそらの海の

    星くづの、

 よろづの光

    あらはれて、

 かくれし月をや

    たづぬらん。

 漣しげき

    白はまの、

 玉採小舟

    籠をおもみ、

 水に沈みし

    玉のごと。

 天の河原の

    かつぎ女は、

 髮を結びて

    かつげども、

 浪の五百重の

    底深み。

 うき藻みだるゝ

    あじろ木に、

 かゝれる月の

    鏡こそ、

 影もとゞめず

    碎けけれ。

 

 *  *  *  *

   *  *  *  *

 

島のかゞりは雲をやく、

 焰俄にもえあがり、

  空にうつりて金粉を、

   散らす火の子のしげき哉。

織るがごとくに火の影は、

 東に西にはせみだれ、

  亡び行く夜の俤を、

   さやかに見する凄じさ。

こゝらの臣を引き具して、

 こゞしき岩根ふみさくみ、

  島の岬にこゝろざす、

   王の姿ぞ雄々しかる。

誰か贈りし束總の、

 綠の紐のはし長く、

  鞘は黑ざや燒太刀を、

   今もはかせと帶びにたり。

鞘を拂へば拂ふ每、

 千度八千度よろづたび、

  見るとも朱の血汐には、

   あくを知らざる業物も。

[やぶちゃん注:「業物」「わざもの」。]

み空の闇をきり開く、

 降魔の劍にあらざれば、

  紫電みだるゝ太刀の面、

   匂ふみだれもなにかせむ。

白き珊瑚を織りにたる、

 祈の庭の冠は、

  紅き珊瑚の緣とりて、

   輝く珠もちりばめず。

花鳥の影草の像、

 ところせきまでゑらせたる、

  常のよそひににざればか、

   いと淸げにも見えにけり。

前に後に列なめて、

 王に從ふ兵者は、

  生れぬさきに勝つといふ、

   敎をうけて來りけり。

いくさの庭に旗樹てゝ、

 鬨をつくれば谷答へ、

  山鳴り蛟龍舞ひいでゝ、

   靡かぬ草もなかりけむ。

[やぶちゃん注:「蛟龍」は「みづち」と訓じておく。]

並めたる槍の穗先より、

 白き光芒の湧きいでゝ、

  くらきみ空に入る見れば、

   小さき星ぞきらめける。

[やぶちゃん注:「光芒」は二字で「ひかり」と読んでよう。]

千々のかゞりの紅は、

 吹きくる風を火に帶びて、

  森の木立の一面を、

   燒き拂へるにことならず。

かゞりの下にゆきなづみ、

 險しといふな兵者よ、

  幼き折におぼえたる、

   ざれ歌一つうたへかし。

 

 大蟹小蟹

    谷のこ川におりてきて

 甲はぬがれず

    ぬがねばならず

 橫に這ふたが

    落度で御座ろ

 をしへて下され

    すぐな道

 どうせうぞいな

    泡もふかれず

 めもたてられず

    瀧は千丈

 壺は藍

    岸の椰子の木

 ねいろとすれば

    波が洗ふて

 ゆりおこす

    ゆりおこす

 おこすのが

    とんと面白う御座る

 椰子ぢやなし

    口に善惡ない

 大蟹小蟹

    發矢とあたる

 椰子の實で

    大事な甲を

 わつたげな

    われたと思ふたら

 ぬげたげな

    大きな甲は石に成れ

    小さな甲は貝になれ

 

つゞらをりなす山越の、

 椰子の枯葉を分けくれば、

  ふむに音なき夜の道、

   たゞかゞり火ぞおつるなる。

山を下りれば荒磯の、

 きり岸高く海見えて、

  かさなり伏せる岩の上、

   水鳥の糞(まり)たゞ白き。

幾百年の大濤や、

 破りすてけむ巖の門、

  くゞるにかづらとざせるを、

   かゞりにやきてすぎ行きぬ。

半ばたふれし木々の幹、

 石より石に根は匍ひて、

  洗ふにまかす磯の浪、

   いつまですがる危さぞ。

人は通はぬわだなかの、

 潮の滿干にたゞよひて、

  沈むともなき島の群、

   根は奈落より生ふるらん。

末をひたせる大空に、

 たけりてのぼる沖つ浪、

  嵐に迷ふ舟人は、

   棹をとゞむるひまやなき。

岬に着けば兵者は、

 ひとしく岸になみ立ちて、

  王をめぐらす圓陣を、

   最とおごそかに築きたり。

[やぶちゃん注:「最と」は韻律から「もと」と訓じていよう。]

冠をぬぎて岩におき、

 祭の檀設(つくゑ)設へつ、

  新菰の上をおもむろに、

   王は正しく進みけり。

[やぶちゃん注:「設へつ」は韻律から「こしらへつ」と訓じているように思う。「新菰の上を」は韻律から「あらこものへを」であろう。]

東の方をおろがめば、

 輝ぎわたる星の群、

  並めたる槍の穗を拂ふ、

   沖つ汐風ほの白し。

赤きかゞりをうちふりて、

 荒ぶる浪にさしかざし、

  繡身したるあらし男は、

   あたりの闇を警めぬ。

[やぶちゃん注「繡身」「いれずみ」であろう。「警めぬ」「いましめぬ」。]

とり帶く太刀を兩の手に、

 高く捧げて禮ををへ、

  王まづ歌をとのふれば、

   つゞきて合す兵等。

[やぶちゃん注:「帶く」「はく」(佩く)。]

壇の上は山の花、

 野の鳥海の白玉の、

  こゝろこめたる齊物(いつきもの)、

   めづらかなるを陳ねたり。

[やぶちゃん注:「齊物」は供物。「陳ね」「つらね」。]

谷の八谷の奧ふかく、

 潜める風も吹きくらん、

  坂の七坂未遠く、

   おりゐる雲も舞ひいでむ。

天にとゞかば天の果、

 地にひゞかば地の底、

  とよもしふるふ祈歌、

   祭の御庭開かれぬ。

  ○

谷のかゞりは遠近の、

 塒の鳥をおどろかし、

  たぎつ早瀨にうつろひて、

   炎ぞおつる靑き淵。

森の木の間の縵幕の、

 火影を帶びて張られしは、

  かくれし月をいさめんと、

   少女が舞の庭ならむ。

[やぶちゃん注:「縵幕」岩波版全集は『幔幕』としているが、これは誤字ではない。]

瀧のながれに身をひたし、

 肌を淨むるをとめらが、

  花のたまきに小夜風の、

   しつかに來てはさはるなり。

林の奧のやかたにて、

 舞の衣をよそほへば、

  耳輪の金に後れ毛の、

   二すぢ三すぢ迷ひつゝ。

椰子の枯葉をたきくべて、

 かゞり色ます火の影や、

  木の下闇のくまぐまの、

   小草の露も見ゆるなり。

笛は林の風と吹き、

 皷は岸の浪とうち、

  かくれし月もあこがれて、

   迷ひいでなむしらべあり。

舞の少女のいでたちは、

 かしらにかざす忍草、

  長き若葉は肩に垂れ、

   みどりの髮をかくしたり。

[やぶちゃん注:本邦でなら、樹木の樹皮上に植生する着生植物のシダ植物門シノブ科シノブ属シノブDavallia mariesii でよいが、仮想される南洋なので、シノブ属にとどめておく。]

たけの袂を飾へし、

 一さし舞へば舞ふごとに、

  玉うち觸れて黃金を、

   つちに擲つ響あり。

環の花の白玉は、

 木の間の螢とちりばめて、

  紅皮の靴のまさごぢを、

   ふむに輕くも見ゆるかな。

[やぶちゃん注:「環」「たまき」。「まさごじ」は「眞砂路」。砂地の道。]

火影に背き歌謠ひ、

 裳裾を曳きて露にぬれ、

  空より峯に白鳥の、

   舞ふが如くに舞ひ遊ぶ。

淸けきまみも輝きて、

 花の面は朱を帶び、

  かつらの草のゆるびては、

   白き眞砂におつるかな。

破れよ皷とうちしきり、

 管もさけよと笛を吹き、

  林の奧の山彥の、

   答ふる聲に競ひけり。

舞へば流るゝ流るれば、

 淚にけがす花の面、

  あつき血しほは身にもえて、

   狂ひもいでむこゝろかな。

羽しもたねば大空に、

 のぼりもえせずうろくづの、

  鰭しなければ海底に、

   潜みもあヘず月影を、

    いかなる鄕に探るべき。

天に沖りしかゞり火も、

 さすが焰の衰へて、

  一つ消ゆればつきづきに、

   見えずなり行く島の陰、

    夜の光の亡ぶべき、

     終の時は來りけり。

[やぶちゃん注:「沖りし」は「ひひりし(ひいりし)」と読み、「ひらひらと舞い上がる・高く飛び上がる」の上代からの古語。]

仰げば遠き久方の、

 雲の通路風死して、

  草木は萎へ葉は黃ばみ、

   谷の峽に危くも、

    黑き月たゞかゝりたり。

  ○

 群たつ雲の

    廣ごりて、

 墨をながせる

    天つそら、

 ほしのひかりも

    きえにけり。

 ひらめきわたる

    稻妻は、

 裂けし雲間を

    彩りて、

 奇しき形を

    あらはしぬ。

 あやめもわかぬ

    闇路より、

 けたゝましくも

    聲たてゝ、

 林をよぎる

    何の鳥。

 きりをふくめる

    小夜風の、

 いとひやゝかに

    吹きくれば、

 おのゝきふるふ

    松の枝。

 闇とこしへに

    とざしては、

 はるゝ時なき

    月の蝕、

 夜の光は

    ほろびたり。

 沖つ藻邊つ藻

    なびきよる、

 島の岬の

    うへにして、

 かくれし月を

    おろがみし。

 王もいまはや

    みまつりの、

 にはをけがすに

    たへかねて、

 宮居にかへり

    たまひけり。

 東にひかり

    西宮に、

 ひらめきかへし

    稻妻の、

 すさまじくのみ

    なりぬれば。

 夜は小夜中と

    更け行けど、

 ねぶるともなき

    島人の、

 むねはおそれに

    おほはれぬ。

 白くのこれる

    炬火を、

 かこみてたてる

    人のおも、

 うなだれてのみ

    かたらはず。

 天の河原に

    沈みてし、

 月の光は

    さながらに、

 夜の電と

    なりにけり。

 芭蕉の廣葉に

    うつりては、

 くだけてはしる

    白光の、

 行衛や人の

    世にあらず。

 高くたちたる

    岩が根を、

 ひらめきくだる

    幾千條、

 海の底にや

    入りぬらむ。

 すさまじかりし

    稻妻も、

 たゞ一しきり

    をさまれば、

 こたびはさらに

    色深く、

 開かぬ闇に

    襲はれぬ。

 

   

 

 一葉のふねを

    海にうけ、

 神の御贄と

    たゞよへる、

 姬の袂や

    ぬるゝらん。

 櫂とり馴れで

    白浪の、

 立つをおそれん

    くらき夜に、

 珊瑚のしまを

    さまよふか。

 岬をあらふ

    黑潮の、

 渦まくうへに

    ながされて、

 千尋の底に

    しづみなば。

 月の光は

    さゝずとも、

 さめぬねぶりの

    とこしへに、

 破れぬ夢を

    結びつゝ。

 靡く玉藻の

    影見えて、

 梅の花貝

    みだれ散る、

 錦の床に

    こやすらむ。

[やぶちゃん注:「梅の花貝」私の守備範囲なので注せずにはおられない。本邦に和名として実在する二枚貝である。斧足綱異歯亜綱ツキガイ科ウメノハナガイ亜科 Pillucina属ウメノハナガイPillucina pisidium。殻長六・五ミリメートル、殻高六ミリメートル、殻径五ミリメートルの小型種。殻は球状で、やや堅固。殻表は白色又は淡黄色で、殻頂より腹縁へ分枝状の放射肋があるが、中央部が滑らかになっていることもある。殻内面も白色で、外套線は彎入せず、腹縁は細かく刻まれている。北海道南部から朝鮮半島南部に分布し、内湾の潮間帯の砂泥底に普通に見られる。但し、英文サイトの生物データサイトの採集箇所を調べてみると、フィリピンやニューギニアの西方の島で見つかっているから、南洋でも問題ない。ただ、名前の割に如何にも小さくえ地味な貝ではある(私は形状が好きだが)。グーグル画像検索「Pillucina pisidiumをリンクしておく。]

 二つの百合の

    花びらの、

 しつかにむねを

    はなれては、

 かたみを

    うみにのこすとも。

 ねみだれ髮を

    かゝぐとて、

 紅潮しゝ

    かほばせの、

 花なる君は

    かへらじな。

 土星(ほし)が省くてふ

[やぶちゃん注:「ほし」は「土星」二字へのルビ。]

    帶解きて、

 日の行く道を

    東より、

 西に橫ぎる

    天津風。

 千里の旅を

    夜もおちず、

 月のみ舟に

    うちのりて、

 きみがころもを

    なびけんに。

 海の香たかく

    星とびて、

 南にきゆる

    天の花、

 わがたましひの

    こゝちせむ。

 さすが少女の

    父をこひ、

 母を慕ひて

    あくるまで、

 舟になくとも

    潮けぶり。

 曉深く

    とざしこめ、

 かゞり火きゆる

    島陰の、

 しるしの椰子も

    見えざらむ。

 綾の袴も

    みだれずに、

 蟬の羽袖も

    やれずして、

 知らぬ浦曲に

    舟はてば。

[やぶちゃん注:「浦曲」は「うらわ」。海岸の湾曲した所。浦廻(うらみ)のこと。上代語で「み」とよむべき「廻」を旧訓で「わ」と誤って読んだために生じた語である。]

 玉の小筥の

    ひめごとを、

 知らぬをのこは

    おどろきて、

 龍のしろをや

    たづぬらむ。

 さもあらばあれ

    ひとみなの、

 なみだは海に

    ながれいで、

 安けき里に

    おくりなむ。

 いそべに立ちて

    手をあげよ、

 手はあぐれども

    八重の浪、

 舟の帆影は

    かくれたり。

 

 *  *  *  *  *

   *  *  *  *

 

[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年七月十五日内外出版協会刊になる河井酔茗編の『文庫』派のアンソロジー「詩美幽韻」の巻頭に配された伊良子清白の長詩(元の物語性を全く排除してしまった小唄風の蟹のパートが「大蟹小蟹」の標題で昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に改題収録されているのは、これを読んでしまうと、何かひどく哀しい気持ちがしてくる)。

 なお、本詩篇に限っては、今までの底本である、二〇〇三年岩波書店刊平出隆編集「伊良子清白全集」第一巻をOCRで読み込んで、加工用データとしては使用させて貰ったものの、底本としては、「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」にある「詩美幽韻」原本の画像を視認して電子化した。表記は漢字字体や記号を含め、岩波版全集ではなく、原本に拠った(同じ底本のはずであるが、電子化して見ると、異なる箇所が複数あった)。但し、原本は画像を見て戴くと一目瞭然であるが、各パート間を空けずに、太字やポイント違いや字間空けを施す形を採っており、しかも二段組であるために、一部の行の頭の揃えが異なっていたりする。その辺りは岩波版全集を参考に補正を加えてある。また、一部に私のオリジナルな注を挟んでおいた。【2019年6月9日追記:注の一部を改稿した。】

大蟹小蟹 伊良子清白

 

大蟹小蟹

 

大蟹小蟹

 谷の小川におりてきて

甲はぬがれず

 ぬがねばならず

橫に這うたが

  落度(おちど)で御座る

をしへて下され

  すぐな道

どうせうぞいな

  泡もふかれず

   めもたてられず

瀧は千丈

  壺は藍

岸の椰子の木

  ねいろとすれば

波が洗うて

  ゆりおこす

   ゆりおこす

おこすのが

  とんと面白う御座る

椰子ぢやなし

  口に善惡(さが)ない

大蟹小蟹

  發矢(はつし)とあたる

椰子の實で

  大事な甲を

わつたげな

  われたと思うたら

ぬげたげな

  大きな甲は石になれ

  小さな甲は貝になれ

 

[やぶちゃん注:初出は明治三三(一九〇〇)年七月内外出版協会刊の、河井酔茗編になる『文庫』派のアンソロジー「詩美幽韻」初出であるが、本篇は同書巻頭に配されてある長篇詩「巖間の白百合」(署名「すゞしろのや」)の中の、三分の二ほど進行したところに出る、本文が「大蟹小蟹」で始まるパート(当該部は前後一行空けとなっている)を独立させて題を附し、一部表記を変えた作品である。次で、「巖間の白百合」全篇を現物画像を元にオリジナルに電子化する(但し、恐ろしく長い詩篇なので時間がかかる。悪しからず)

 なお、本篇に登場する蟹は、初出「巖間の白百合」を読むに、ロケーションは想像された南洋の島と思しいのだが、伊良子清白は実際には既に述べた通り、台湾には一時期住み、その後にボルネオ行きを希望はしたものの、叶わず、狭義の意味での南洋には行っていない。さすれば、伊良子清白がモデルとして考えた本邦産の実在種を考えると、私は高い確率で、

甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目イワガニ上科ベンケイガニ科アカテガニ属アカテガニ Chiromantes haematocheir

であると思う。それは本種が本邦では嘗ては普通に見られ、海岸から遠く離れた、しかも高所(時に人家にさえ)にまで登る、乾燥に強い性質を持つこと、成体個体は甲幅三センチメートル前後にまで達し、性的二型で♂の方が♀より大きいこと、伊良子清白に縁の深い紀伊半島にも多く見られ、私自身、十年ほど前、新宮市熊野速玉大社の摂社で、巨石ゴトビキ岩を御神体とする神倉神社(グーグル・マップ・データ)へ行った折り、標高百二十メートルの急勾配の道すがら(海や川は近い。彼らの幼生は海水がないと生育出来ない)、大小の彼らを沢山見て興奮した記憶があるからである。

2019/04/25

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 胡獱(とど) (トド)

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とゝ   海驢【天木集】

     【別有海驢與

      此不同】

胡獱

   【胡者夷之名獱

    者大獺之名也】

     【俗云登土】

[やぶちゃん注:「獱」は底本では、総て、(つくり)が「濵」の(つくり)であるが、正字で示した。「獺」も今までと同じく正字で示した。]

 

△按胡獱松前海中有之形色氣味共似膃肭而大也

 但以齒辨之【膃肭下齒二行胡獱齒如尋常】好眠常寢於水上亦奇也

 本草所謂海獺【出於前】一類乎蓋海獺膃肭阿茂悉平胡

 獱之四種同類異物也特以膃肭人賞之故以胡獱僞

 充膃肭獸

               衣笠内大臣

  夫木わが戀はとどのねなかれさめやらぬ夢なりなから絕えやはてなん

 

 

とゞ   海驢【「天木集」。】

     【別に「海驢」有る〔も〕、

      此れと同じからず。】

胡獱

   【「胡」とは「夷」の名なり。「獱」とは

    大獺〔(おほかはうそ)〕の名なり。】

     【俗に云ふ、「登土」。】

 

△按ずるに、胡獱、松前の海中に之れ有り。形・色・氣味、共に、膃肭〔(をつとつ)〕[やぶちゃん注:オットセイ。]に似て大なり。但し、齒を以つて、之れを辨ず【膃肭は、下の齒、二行〔(ふたくだり)〕、胡獱は齒は尋-常(つね)のごとし。】好んで眠る。常に水上に寢るも亦、奇なり。「本草」に謂ふ所の「海獺〔(うみうそ)〕」【前に出づ。】、一類か。蓋し、海獺(うみうそ)・膃肭(をつとつ)・阿茂悉平(あおもしつぺい)・胡獱(とど)の四種、同類異物なり。特に膃肭を以つて、人、之れを賞す。故に、胡獱を以つて僞り、膃肭獸に充〔(あ)〕つ。

               衣笠〔の〕内大臣

 「夫木」

   わが戀はとどのねなかがれさめやらぬ

      夢なりながら絕えやはてなん

[やぶちゃん注:一属一種の食肉目アシカ科トド属トド Eumetopias jubatusウィキの「トド」によれば、「トド」という和名は、アイヌ語の「トント」に由来するもので、『これは「無毛の毛皮」つまり「なめし革」を意味する』。『トドそのものは、アイヌ語で』「エタシペ」と『呼ばれる。日本各地にトド岩という地名も散見されるが、過去においては日本ではトドとアシカ(ニホンアシカ)は必ずしも区別されておらず、アシカをトドと呼ぶ事も度々みられ、本州以南のトド岩の主はアシカであったようである』とある。北太平洋・オホーツク海・日本海(朝鮮半島北部から北海道島牧郡以北)・ベーリング海に分布し、『繁殖地は千島列島やアリューシャン列島』から『カムチャツカ半島東部、カリフォルニア州にかけての地域に点在する』。『日本には』十月から翌年五月に『千島列島の個体群が、北海道沿岸域(礼文島』から『積丹岬にかけて、根室海峡など)へ回遊する』。最大全長は三メートル三十センチメートルで、体重は♂で一トンにも達するが、♀は三百五キログラムで極端な性的二型を示す。アシカ科では最大種。『背面の毛衣は淡黄褐色、腹面の毛衣は黒褐色』、『四肢(鰭)は黒く、体毛で被われない』。『出産直後の幼獣は全長』一メートルで、体重は十八~二十二キログラム、♂の『成獣は額が隆起し、後頭部の体毛が伸長し』て、鬣(たてがみ)状を呈し、『種小名 jubatus は「たてがみがある」の意』である。『上半身が肥大化する』。『海岸から』三十『キロメートル以内の海域に生息』し、『昼間は岩礁海岸で休む』。『食性は動物食で、魚類(カサゴ、シシャモ、スケトウダラ、ヒラメ、ホッケ、マダラ、メバルなど)、軟体動物(イカ、ミズダコ)などを食べる』。五~七月に『なると』、♂が『上陸して縄張りを形成し、数頭から数十頭の』♀と『ハーレムを形成する』。『主に』六『月に』、一『回に』一『頭の幼獣を産む』。『授乳期間は』一~二年で、♂は生後三~四年、♀は生後四~五年で『性成熟する』とある。

「天木集」「夫木集」の誤字。何度も出、本項の最後にも出している「夫木和歌抄」のこと。

「別に「海驢」有る〔も〕、此れと同じからず」小学館「日本国語大辞典」では、これに「あしか」と当て訓し、一番目に狭義のアシカ(ニホンアシカ)に当て、他に「うみおそ」「うみうそ」「みち」という呼称を示す。しかし、二番目に、鰭脚目アシカ科の哺乳類の総称とし、トド・オットセイなども含まれる、としている。後者は多分に近世以降の意義規定のように思われるものの、寺島良安がここを敢えて「とど」としたのは、江戸初期に於いて、「海驢」を「とど」と読むのが普通の一解釈としてあったことを示している。但し、最後の注も必ず参照されたい。

「胡」「夷」孰れも国境外の未開地の意。

「大獺〔(おほかはうそ)〕」先行する「獸類 獺(かはうそ)」には「大獺」はない。カワウソの大型個体と採っておく。

「海獺〔(うみうそ)〕」「【前に出づ。】」先行する「獸類 海獺(うみうそ)」を見よ。そこの注で考証した通り、アシカ類或いは、本邦産ならば、ニホンアシカに同定した。

「阿茂悉平(あおもしつぺい)」前の「獸類 膃肭臍(をつとせい)」に膃肭臍の『小さき者を「阿毛悉乎(あもしつぺい)」と名づく』とある。キタオットセイの若年個体と採る。

「同類異物なり」以上から、必ずしも異物という良安の見解には賛同しない。

「特に膃肭を以つて、人、之れを賞す」ここは肉ではなく、毛革を指していよう。

「衣笠〔の〕内大臣」「夫木」「わが戀はとどのねなかがれさめやらぬ夢なりながら絕えやはてなん」衣笠(藤原)家良(建久三(一一九二)年~文永元(一二六四)年)は鎌倉時代の公卿で歌人。正二位・内大臣に至った。藤原定家に師事し、「万代和歌集」を藤原光俊と共撰し、「続古今和歌集」の撰者にも加わり、「新勅撰和歌集」以下の勅撰集に百十八首が入集している。但し、「夫木和歌抄」のそれは、「日文研」の「和歌データベース」では、巻三十六の「雑十八」にある(同ページの通し番号17063歌)、

 わかこひはみちのねなかれさめやらぬゆめなりなからたえやはてなむ

で、これは、

 我が戀は海驢(みち)の寢流れ覺めやらぬ夢なりながらえや果てなむ

であって「とど」とは読んでいない。この「みち」に後世、「海驢」を当てたものが流布し(小学館「日本国語大辞典」の「馬驢」に引かれた本歌がまさにそうなっている)、それを良安は「とど」と読んだのである。

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 膃肭臍(をつとせい) (キタオットセイ)

Otutosei

 

 

 

をつとせい 骨豽 海狗

      【肭豽貀

        三字同】

膃肭臍

      【胡人呼之曰

       阿慈勃他伱】

 

本綱膃肭臍諸説區多女直國撒馬兒罕朝鮮突厥國等

北海有之又如三佛齋國南海亦有之毛色似狐尾形似

魚足形似狗而無前兩足呼其外腎曰臍者連臍取之也

膃肭臍【甘大溫】 補中益腎氣暖腰膝又治驚狂癇疾

△按膃肭奧州松前海中有之大者二三尺全體魚類而

 有毛乃此魚與獸半者矣頭似猫而口尖有眼鼻而無

 耳埀止有小孔其齒上一行下二行相双長短齟齬其

 尾有岐如金魚尾而黒色耑各有五岐其表中間有三

 針而堅似爪其毛色似鼬毛而根稍黒無手足而近尾

 兩脇有鰭蹼而黒色宛如足然此鰭而非足本草諸註

 爲有足而無前足者未見生者憶見之誤也有牡牝難

 辨以外腎有無別之其外腎長四五寸太如小指陰乾

 黒色性好睡眠土人以小者最賞美之五六月生子此

 時泛海上食小鰯蓋外腎連臍取之說亦不然矣凡狗

 食之則毛脫皮爛至死以可知性大温也其小者名阿

 毛悉乎虛寒人食其肉暖腰足松前人以爲美饌猶是

 肥前人嗜鼈也

 

 

をつとせい 骨豽〔(こつどつ)〕

      海狗〔(かいく)〕

      【「肭」「豽」「貀〔(どつ)〕」

       の三字、同じ。】

膃肭臍

      【胡人、之れを呼びて曰ふ、

       「阿慈勃他伱〔(あじぼたに)〕」。】

 

「本綱」、膃肭臍、諸説、區〔區(まちまち)にして、又、〕多し。女直國〔(ぢよちよくこく)〕[やぶちゃん注:「女直」は「女眞」(ジュルチン)に同じ。中国東北部、満洲の松花江一帯から外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南の外満州にかけて居住していたツングース系民族の当時の現有支配地域。]・撒馬兒罕〔(サマルカンド)〕[やぶちゃん注:ウズベキスタンの古都。但し、内陸(ここ。グーグル・マップ・データ)でおかしい。]・朝鮮・突厥〔(とつけつ)〕國[やぶちゃん注:六世紀に中央ユーラシアにあったテュルク系遊牧国家。但し、当が国家の占有域は海洋に面していないので前ろ同じく、おかしい。前と合わせて、交易品の集合地・経由地として挙げたものであろう。]等、北海に之れ有り。又、三佛齋(サフサイ)國[やぶちゃん注:七世紀にマラッカ海峡を支配して東西貿易で重要な位置を占めるようになったスマトラ島のマレー系海上交易国家であったシュリーヴィジャヤ王国。]のごとき南海にも亦、之れ有り。毛の色、狐に似て、尾の形(なり)魚に似る。足の形、狗〔(いぬ)〕に似て、前の兩足、無し。其の外腎(へのこ)[やぶちゃん注:陰茎。]を呼んで「臍〔(せい)〕」と曰ふは、臍〔(へそ)〕を連〔(つら)ね〕て、之れを取ればなり。

膃肭臍【甘、大温。】 中[やぶちゃん注:中胃。消化器系。]を補し、腎氣を益し、腰・膝を暖かにし、又、驚狂[やぶちゃん注:痙攣などを伴う心身性の劇症型発作のようである。]・癇疾[やぶちゃん注:神経過敏による痙攣など、特に小児に多い「癇の虫」等の精神疾患を指す。]を治す。

△按ずるに、膃肭、奧州松前の海中に之れ有り。大なる者、二、三尺。全體、魚類にして、而〔れども〕、毛、有り。乃〔(すなは)ち〕、此れ、魚と獸と〔の〕半ばなる者なり。頭、猫に似て、口、尖り、眼・鼻有りて、耳埀(みゝたぶ)、無く、止(たゞ)、小孔有るのみ。其の齒、上(〔う〕へ)に一〔(ひと)〕行(くだ)り、下に二行〔(ふたくだり)〕、相ひ双〔(なら)び〕て、長短、齟-齬(くいちが[やぶちゃん注:ママ。])ふ。其の尾に岐〔(また)〕有り、金魚の尾のごとくして、黒色、耑〔(はし)〕[やぶちゃん注:「端」に同じ。]〔に〕各々、五〔つの〕岐(また)有り。其の表の中間に三〔つの〕針有りて、堅くして、爪に似たり。其の毛色、鼬(いたち)の毛に似て、根、稍〔(やや)〕黒し。手足無くして、尾に近き兩脇に、鰭(ひれ)・蹼(みづかき)有りて、黒色、宛(さなが)ら、足のごとく然り。此れ、鰭にして、足に非らず。「本草」の諸註、『足、有りて、前足、無し』と爲るは、未だ生きたる者を見ざる、憶見の誤りなり。牡牝、有る〔も〕、辨じ難く、外腎の有無を以つて、之れを別〔(わか)〕つ。其の外腎、長さ四、五寸。太(ふと)さ、小指のごとく。陰乾にして黒色〔たり〕。性、好みて睡眠す[やぶちゃん注:彼らは実際、海中でも眠ることが出来る。後注の引用部の最初の太字部を参照。]。土人、小さき者を以つて、最も之れを賞美す。五、六月、子を生む。此の時、海の上に泛〔(うか)〕んで[やぶちゃん注:ママ。]、小鰯〔(こいわし)〕を食ふ。蓋し、外腎、臍を連ねて之れを取るの說、亦、然からず。凡そ、狗〔(いぬ)〕、之れを食へば、則ち、毛、脫(ぬ)け、皮、爛(たゞ)れて、死に至る。以つて、性〔(しやう)〕、大温なることを知るべし。其の小さき者を「阿毛悉乎(あもしつぺい)」と名づく。虛寒の人、其の肉を食ひて、腰・足を暖む。松前の人、以つて、美饌〔(びせん)〕[やぶちゃん注:御馳走。]と爲す。猶ほ、是れ、肥前[やぶちゃん注:現在の佐賀県。]の人、鼈〔(すつぽん)〕を嗜〔(たしな)む〕がごときなり[やぶちゃん注:現行も佐賀はスッポンの名産地で料理も有名。]。

[やぶちゃん注:食肉目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科オットセイ亜科 Arctocephalinae のキタオットセイ属キタオットセイ Callorhinus ursinus、及びミナミオットセイ属 Arctocephalus(八種)を指すが、本邦には前者のみで、しかも日本はキタオットセイの南限とされる。但し、ミナミオットセイ属は調べる限りでは、生息域が限定されており、「本草綱目」の引用のそれも概ねキタオットセイ(或いはお得意の海棲哺乳類一緒くた)のように思われる。ウィキの「オットセイ」を引く。『一匹のオスが複数のメスを独占しハーレム』(トルコ語:harem:イスラム社会における女性の居室の意)『を形成する。ハーレムは一般に海岸に近い場所に形成される。メスをめぐる戦いに敗れたオスは、まとまって群れを作って生活する。その場合、居住地は内陸に入った不便な場所となる場合が多い。若いオスでは戦いに敗れても、戦いの訓練を積み体格が大きくなるまで待ち』、『改めて戦いに挑む場合もあるが、多くのオスは再挑戦をする気力を失い、メスとの交尾の機会を持てずに』、『同性の集団生活において生涯を終える』。『耳たぶがある、四脚で体を支えて陸上を移動できる、前脚を鳥の翼のように羽ばたくことによって遊泳するなど、アシカ科特有の特徴をもつ』。『アシカよりは若干小ぶりで、ビロード状の体毛が密生していることがオットセイの特徴である。オットセイの毛は、ごわごわとしたアザラシと異なり、つやつやとして柔らかく、暖かく、防寒性、装飾性に優れている』。『食性としては魚、タコ、エビを主食としているが、地域的にはペンギンを捕食する場合もあることが報告されている』。『陸上だけでなく、水中でも睡眠を行う。この時、右脳を覚醒させたまま、左脳を眠らせることができる。陸上で眠る時は、人間と同様の方法で眠る』(太字下線は私が附した。以下同じ)。『海の生き物だが、海水ではなく淡水でも生育可能である。いくつかの水族館では、オットセイを淡水で飼育している場合もある』。『高価な毛皮や、さらには陰茎や睾丸(生薬名:海狗腎)が精力剤などの漢方薬材料として珍重されたため、乱獲により生息数が激減した。江戸時代初期の慶長』一五(一六一〇)年と、二年後の慶長十七年、『蝦夷地の松前慶広が徳川家康に海狗腎を二回に』亙って『献上し、家康の薬の調合に使用されたという記録も残っている』(「当代記」)『オットセイはアイヌ語で「onnep」(オンネプ)とよばれていた。それが中国語で「膃肭」と音訳され、そのペニスは「膃肭臍」(おっとせい)と呼ばれ精力剤とされていた。現代の中国語ではオットセイは膃肭獣 wànàshòu ワナショウと呼ばれていて、アイヌ語onnepに由来する膃肭 wànà ワナの部分は』、『もっぱら「(身動きも不自由となるほどの)デブ」という意味で使われている。後に日本ではペニスの部位だけを指す「膃肭臍(おっとせい)」という生薬名が、この動物全体を指す言葉になった』らしい。『また、英語ではfur seal(毛皮アザラシ)と呼ばれ、アザラシよりも質の良い毛皮が取れるため、この名前がついたといわれている』。『日本海や銚子沖の太平洋が、キタオットセイ属の南限といわれる。たまに日本海側や北海道、東北地方の海岸に死体や、生きたまま漂着することがある』とある。

 なお、ヴィジュアルに識別法を覚えたい方のために、動物サイト「マランダー」の「これはちょっと難しい?アシカとオットセイの違いを比べてみよう」と、序でに、より基本の「似てると思ってたら意外と違う?アザラシとアシカの違いについて学んでみよう」をリンクさせておく。

「阿慈勃他伱〔(あじぼたに)〕」最後の「伱」は「儞」「爾」と同字だが、意味不明。ただ、調べているうちに、既知のサイト「山海経動物記」の「鯥(ロク)」に非常に興味深い記載を見出した。「鯥」は幻想地誌「山海経」の「南山経」に、

   *

東三百里祗山、多水、無草木。有魚焉、其狀如牛、陵居、蛇尾有翼、其羽在下、其音如留牛、其名曰鯥、冬死而夏生、食之無腫疾。

   *

という、トンデモ怪魚なのだが(訳はリンク先にある)、サイト主はこのモデル動物にオットセイを候補として挙げている。中国の古文献の膃肭臍の記載を調べた上での堅実な仮説で、非常に面白い。是非、お読みあれ!

「阿毛悉乎(あもしつぺい)」松江重頼編の俳論書「毛吹草」(正保二(一六四五)年刊)にも載るが、語源不詳。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(14) 「駒ケ嶽」(4)

 

《原文》

 岩代耶麻郡金川村ノ駒形山ハ、山ノ南ニ草木ノ生ゼザル砂石ノ地アリテ、恰モ逸馬ノ形ニ似タル故ニ駒形山ト名ヅケタリト稱ス〔新編會津風土記〕。山ノ樹木ノ特ニ茂レル部分、例ヘバ富嶽南側ノ鶴ケ芝ノ如キ、或ハ永ク物ノ成長セザル部分ガ、何カノ形狀ニ類似シタリト云フハ、事ニ由ルト幾分ノ人作ヲ加ヘタルモノナリトモ言ヒ得べシ。京ノ東山ノ大文字又ハ北山ノ妙法ナドハ、其最モ著シキ例ナリ。併シナガラ雪ノ消エヌ消エタト云フガ如キハ正シク天然ノ現象ナリ。故ニ遠クヨリ望ム人ガ意ヲ以テ迎ヘタル解說ト言フノ他ナキナリ。越後絲魚川邊ニ牛形ト稱スルハ、季春山中雪消エノ時殘ル形ノ牛ニ似タルモノナリ。飯豐山(イヒデサン)ニハ乘物形アリ、肩輿ノ形ニ似タリ。【鍬形】粟ヲ蒔ク頃殘雪ノ僧形ヲ爲スヲ名ヅケテ粟蒔入道ト謂ヒ、菱嶽ノ殘雪ノ鍬ノ形狀ニ似タルヲ鍬形ト稱スルガ如キ、皆同ジ類ナリ〔以上越後野志十九〕。【農牛農鳥】富士ノ白雪ノ解ケ殘リタル形ヲ、駿河ヨリ見テ農男、甲斐ノ方ヨリ農牛農鳥ナドト謂ヒ、之ヲ望ミテ農事ニ取掛ルガ如キ亦然リ。或ハ南面ニ在リテハ農馬ニ見ユト爲シ、牛ト馬ト自然ニ陰陽兩位ノ方角ヲ表ハスモノナリト言ヒシ人アリ〔甲斐國志三十五〕。サマデノ理窟ハ無キマデモ、農耕ト關係アリト考ヘシコトハ右等ノ名稱ヲ見テモ明白ナリ。【人形山】越中礪波(トナミ)ノ奧ナル人形山ハ、殘雪ノ形ガ二人手ヲ連ネテ立ツガ如ク見ユ。其雪ノ次第ニ融ケテ結ビシ手ヲ離ス頃ヨリ、木樵獵人ハ山ニ入リテ差支ナシト信ジ居タリ〔地名辭書〕。是レ即チ障神(サヘノカミ)ノ思想ヲ表示スル者ナルべシ。【名ノ附會】何レニシテモ遠方ニ在ル物ノ形ハ見ヤウ次第如何ヤウニモ見エ。[やぶちゃん注:句点ママ。訓読では読点に代える。]天井板ノ節穴ガ眼球ノヤウニ思ハレタリ、障子ノ雨ノ痕ガ影法師ト見エタリスル例ハ多シ。仍テ自分ノ考フル所ニテハ、前ニ列記スルガ如キ馬ノ形像說ハ、駒ケ嶽又ハ駒形山ト云フ地名アリテ後、次第ニ土地ノ人ガシカ看倣スヤウニナリシナラント認ム。即チ神馬ヲ崇祀スル信仰ノ方ガ、此傳說ヨリ一段ト古キモノニテハ非ザルカト思ヘリ。若シ然ラズトスレバ、平地ニ於ケル駒形又ハ馬神ノ信仰ハ、全然別口ノモノトナリ了ル結果ヲ見ルべキナリ。

 

《訓読》

 岩代耶麻(やま)郡金川村の駒形山は、山の南に草木の生ぜざる砂石の地ありて、恰(あたか)も逸馬(いつば)の形に似たる故に駒形山と名づけたりと稱す〔「新編會津風土記」〕。山の樹木の特に茂れる部分、例へば富嶽南側の鶴ケ芝のごとき、或いは、永く物の成長せざる部分が、何かの形狀に類似したりと云ふは、事(こと)に由(よ)ると、幾分の人作(じんさく)を加へたるものなりとも言ひ得べし。京の東山の大文字又は北山の妙法などは、其の最も著しき例なり。併しながら、雪の消えぬ消えたと云ふがごときは、正(まさ)しく天然の現象なり。故に、遠くより望む人が、意を以つて迎へたる解說と言ふの他なきなり。越後絲魚川邊に「牛形(うしがた)」と稱するは、季春、山中雪消えの時、殘る形の牛に似たるものなり。飯豐山(いひでさん)には「乘物形(のりものがた)」あり、肩輿(かたこし)の形に似たり。【鍬形(くはがた)】粟(あわ)を蒔く頃、殘雪の僧形(そうぎやう)を爲すを、名づけて「粟蒔入道(あはまきにふだう)」と謂ひ、菱嶽(ひしだけ)の殘雪の、鍬の形狀に似たるを「鍬形」と稱するがごとき、皆、同じ類ひなり〔以上「越後野志」十九〕。【農牛(のううし)・農鳥(のうとり)】富士の白雪(しらゆき)の解け殘りたる形を、駿河より見て「農男(のうをとこ)」、甲斐の方より「農牛」・「農鳥」などと謂ひ、之れを望みて、農事に取り掛るがごとき、亦、然り。或いは、南面に在りては「農馬(のううま)」に見ゆと爲し、牛と馬と、自然に陰陽兩位の方角を表はすものなり、と言ひし人あり〔「甲斐國志」三十五〕。さまでの理窟は無きまでも、農耕と關係ありと考へしことは、右等(みぎなど)の名稱を見ても明白なり。【人形山(にんぎやうざん)】越中礪波(となみ)の奧なる人形山は、殘雪の形が、二人、手を連ねて立つがごとく見ゆ。其の雪の、次第に融けて、結びし手を離す頃より、木樵(きこり)・獵人(かりうど)は山に入りて差し支へなしと信じ居たり〔「地名辭書」〕。是れ、即ち、「障神(さへのかみ)」の思想を表示する者なるべし。【名の附會】何れにしても、遠方に在る物の形は、見やう次第、如何やうにも見え、天井板の節穴が眼球のやうに思はれたり、障子の雨の痕が影法師と見えたりする例は多し。仍(より)て、自分の考ふる所にては、前に列記するがごとき馬の形像說(ぎやうざうせつ)は、駒ケ嶽又は駒形山と云ふ地名ありて後(のち)、次第に、土地の人が、しか、看倣(みな)すやうになりしならんと認む。即ち、神馬を崇祀(すうし)する信仰の方が、此の傳說より、一段と古きものにては非ざるかと思へり。若(も)し然らずとすれば、平地に於ける駒形又は馬神(うまがみ)の信仰は、全然、別口(べつくち)のものとなり了(をは)る結果を見るべきなり。

[やぶちゃん注:「岩代耶麻(やま)郡金川村の駒形山」「駒ヶ岳ファンクラブ ブログ」の「駒の話シリーズ 32:幻の駒ヶ岳」に「岩代耶麻郡金川村駒形山(福島県喜多方市塩川町)」として推定標高三百・六メートルとするのがそれである。文化六(一八〇九)年成立の「新編会津風土記」に、『「駒形山、金川むら十町余りにあり、此山の南面、草木生ぜざる沙面の地、其形逸馬に似たり、故に名づく」とある。さらに古くは、農業用水用の堰の竣工を記録した文書(』応永二(一三九五)年のものに、『「新関は、大もちさかの井とやの下、駒かたのつづき」と駒形山が登場している』。『江戸期の金川村は、明治には金橋村から駒形村、さらに塩川町へ、平成に入ると喜多方市となっている。現地には駒形小学校、駒形堰や駒形神社など駒形の名称は残っている。金川村の駒形山について』、「河東町史」下巻(昭和五八(一九八三)年刊)には、『「源義家の伝説より生まれた駒形山」と述べている。この源義家伝説は』、「塩川町史」(昭和四一(一九六六)年刊)に、『「義家が父頼義とともに』、永承六(一〇五一)年の「前九年の役」『に際し、往路の中継基地として、今日の塩川市街の北方に』、『かなり長期に駐留した。それは源屋、鍛冶屋敷の地名や、民間伝承で知ることができる」と述べて』あり、「河東町史」は』『また、現在の東京電力第』四『発電所の裏山』(三百・六メートル)『の駒形山については、第』四『発電所は猪苗代水力電気(株)と東京電燈(株)によって大正』一五(一九二六)年に『完成した。この工事にて赤い肌を出し、荒れた駒形山には、完成後』、『会社の手に』よって、『桜や松・つつじなどが植えられ』、『駒形公園が造成されたと記述している。この駒形公園は花見や遠足で賑わいを呈していたようだが、今は手入れも』されず、『無残な状態である』。『第』四『発電所の工事以前に金川発電所(現在』は『無人)が東北電化(株)によって大正』八(一九一九)『年に竣工している。この金川発電所の右隣に駒形神社の表参道および昭和』三(一九二八)『年銘の石柱がある。そして駒形山の中腹には駒形神社があった。この神社は源義家伝説が生まれた大昔から鎮座していたのであろうが、今日では礎石を残すのみである。駒ヶ岳、駒形山、駒形神社が姿を消してゆく実例がここで見られる』として、最後に『なお、民俗学者の柳田國男もその著』「山島民譚集」で『この駒形山を紹介している』とあるから、間違いない。その他、「得さんのページ」の「喜多方発・駒形山を甦らせたい。」の情報を綜合すると、現在の福島県喜多方市塩川町(まち)金橋にある猪苗代第四発電所の真裏にあるピークで一致しているから、国土地理院図のここの二百九十四メートルのピークではないかと推定する。

「逸馬(いつば)」駿馬のことであろう。

「富嶽南側の鶴ケ芝」【2019年4月27日改稿】不詳としていたが、いつも情報を頂くT氏より、静岡県富士市本市場の富士市の公共複合施設である「フィランセ」(グーグル・マップ・データ)の西側の民家の玄関先に「鶴芝の碑」があると、「日本観光協会」公式サイト内の「鶴芝の碑」(写真有り)を紹介戴いた。それによれば、『ここから富士山を眺めると、山腹に一羽の鶴が舞うように見える部分があるため』、『鶴芝といわれた。京の画家蘆州が鶴を描き、江戸の儒者亀田鵬齋が賛を寄せたものを、文政』三(一八二〇)年に『土地の人々が碑として、間の宿本市場に建てた』とあり、別の、サイト「碑像マップ」の「鶴芝の碑」には、『鶴芝の碑(鶴の茶屋跡) 文政』三年『盧州画、亀田鵬斎讃』、但し、『現在は拓本禁止』とし、『鶴芝は』、『春先』、『富士山に現れる残雪を鶴に見立てたもの(農鳥)』とあった(後者のページには詳細地図があり、富士山麓の「鶴形」残雪の写真等もある。必見!)

「京の東山の大文字」「北山の妙法」現在、八月十六日、盆の精霊送りとして行われている京都五山の送り火のこと。東山に「大」の字が浮かび上がり、続いて松ケ崎に「妙」・「法」、西賀茂に船形、大北山に左大文字、嵯峨に「鳥居」形が灯もる。私は見たことがない。「京都観光オフィッシャルサイト」こちらで画像や非常に詳しい解説が見られる。

「飯豐山(いひでさん)」山形県西置賜郡小国町・新潟県東蒲原郡阿賀町・福島県喜多方市に跨る標高二千百五・一メートルの飯豊(いいで)山。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「肩輿(かたこし)」轅 (ながえ) を肩に担ぐ輿。「けんよ」と読んでもよい。

「菱嶽(ひしだけ)」上越市安塚(やすづか)区の長野県との県境近くにある独立峰菱ヶ岳(ひしがたけ)か。標高千百二十九・一メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「農男(のうをとこ)」小学館「日本国語大辞典」の「農男」に、遠くの山の雪が次第に消えて、黒い山肌の形が人のように見えるのを、農夫に譬えて言った語とし、「羇旅漫録」から『宝永山の方、凹(なかくぼき)ところに、人の形のごとく雪ののこることあり。これを農男と称」すと引く。

「牛と馬と、自然に陰陽兩位の方角を表はすものなり」「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 牛(うし)(ウシ或いはウシ亜科の種を含む)」に、『其の性、順なり。乾陽を馬と爲し、坤陰を牛と爲す。故に馬の蹄は圓く、牛の蹄は坼〔(さ)け〕たり。馬、病むときは、則ち、臥す。陰、勝てばなり。牛、病めば、則ち、立つ。陽、勝てばなり。馬、起つときは、前足を先〔(さき)〕にし、臥すときは後足を先す。陽に從ふなり。牛、起つときは、後足を先にし、臥すときは、前足を先す。陰に從ふなり』とある。

「人形山(にんぎやうざん)」「越中礪波(となみ)の奧なる人形山」富山県南砺市(五箇山地域)と岐阜県白川村(白川郷)に跨る人形山(グーグル・マップ・データ)。標高千七百二十六メートル。ウィキの「人形山」によれば、『五箇山地域には』、『この人形山にまつわる悲しい伝説(昔話)があ』るとし、『実際に山腹には』二『人の幼子が手をつないで踊っているかのような、残雪による人形の形をした雪形が現れ、山名の由来となって』おり、『古くは「ひとがたやま」と呼ばれていた』とあって以下の話が載る。『昔』、『この山の麓に信心深い山姥と二人の娘が暮らしていた』。三『人は泰澄が創建したとされる白山権現堂を拝んでいた。ある日』、『山姥が薪を採りに女人禁制であった山に入ったところ、小枝を跳ねて目を痛めてしまう。二人の娘が熱心にお祈りし、権現様からのお告げで山上の病に効く湯に山姥を背負って通ったところ』、『目が治った。ある朝』、『山上に権現様がいるのに二人が気づき』、『山頂にお参りしたが、下山途中に山が荒れ』、遂に『麓の山姥のところへ』二人は『戻らなかった。春が来て』、『山の雪解けが進むと、山肌の残雪が二人の娘が手をつないでいる形に見え、この山が人形山と呼ばれるようになった』という話である。『左甚五郎が木の人形を彫り、それに入魂して山地を開拓した後』、『ここに埋葬したとする説も伝えられている』(これは河童に代えた類話も知られる)。

「障神(さへのかみ)」塞(さえ)の神に同じい。ウィキの「岐の神」(くなどのかみ)を引いておく。『岐の神(クナド、くなど、くなと』『のかみ)、とは、古より牛馬守護の神、豊穣の神としてはもとより、禊、魔除け、厄除け、道中安全の神として信仰されている。 日本の民間信仰において、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを防ぐとされる神である。また、久那土は』「くなぐ」、即ち、『交合・婚姻を意味するものという説もある』。異名・異表記が多いが、本来、『「くなど」は「来な処」すなわち「きてはならない所」の意味』で、『もとは、道の分岐点、峠、あるいは村境などで、外からの外敵や悪霊の侵入をふせぐ神である』。『道祖神の原型の』一『つとされる』、『読みを』「ふなと」・「ふなどのかみ」とも『されるのは、「フ」の音が「ク」の音と互いに転じやすいためとする説がある』。『以下のように、意味から転じた読みが多い。岐(ちまた、巷、衢とも書く)または辻(つじ)におわすとの意味で、巷の神(ちまたのかみ)または辻の神(つじのかみ)』、『峠の神、みちのかみとも言う。また、障害や災難から村人を防ぐとの意味で、さえ、さい -のかみ(障の神、塞の神)』。『さらに「塞ぐ」の意味から転じて幸の神、生殖の神、縁結びの神、手向けの神の意味を併せるところもある』。「古事記」の『神産みの段において、黄泉から帰還したイザナギが禊をする際、脱ぎ捨てた褌から道俣神(ちまたのかみ)が化生したとして』おり、この神は「日本書紀」や「古語拾遺」にでは、「サルタヒコ」と『同神としている。また』、「古事記伝」では「延喜式」にある『「道饗祭祝詞(みちあえのまつりのりと』『)」の八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)と同神であるとしている』。「日本書紀」では、『黄泉津平坂(よもつひらさか)で、イザナミから逃げるイザナギが「これ以上は来るな」と言って投げた杖から来名戸祖神(くなとのさえのかみ)が化生したとしている。これは』、「古事記」にあっては、『最初に投げた杖から化生した神を衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)としている』。『なお、道祖神は道教から由来した庚申信仰と習合して青面金剛が置かれ、「かのえさる」を転じて神道の猿田彦神とも習合した』。『治安が安定してくる平安後期以降は、往来に置かれた道祖神は道標(みちしるべ)としての役割を持つようにな』り、さらに『仏教の説く六道輪廻の概念から生じた末法思想を背景に、六道に迷った衆生を救う地蔵菩薩信仰が民間で盛んとなり』、そこに『六地蔵が置かれるようにもなった』とある。

「天井板の節穴が眼球のやうに思はれたり、障子の雨の痕が影法師と見えたりする例」心霊写真や神霊現象でお馴染みの心理現象、「パレイドリア(Pareidolia)」(視覚刺激や聴覚刺激に於いて普段からよく知ったパターンを本来そこに存在しないにも拘わらず、知覚認識してしまう現象)や「シミュラクラ(Simulacra)」(ヒトの目には三つの点が集まった図形を人の顔と見るようにプログラムされているという脳の働き。類像現象)である。]

太平百物語卷二 十四 十作ゆうれひに賴まれし事

 

   ○十四 十作(じうさく)ゆうれひに賴まれし事

 大坂上本町(うへほんまち)に、每夜每夜、ゆうれひ[やぶちゃん注:標題ともにママ。以下同じ。]出(いづ)ると沙汰して、夜(よ)更(ふけ)ぬれば、人、おそれて通らざりしが、或夜、十作といふ者、幾兵衞(いくびやうへ[やぶちゃん注:ママ。])といふ者を伴ひ、此所を通りけるに、谷町(たにまち)といふ所にて、うしろの方(かた)より、女の聲にて、二人の者を呼(よび)かけゝれば、十作、幾兵衞にいふやう、

「これは。聞(きゝ)およぶ此所の幽㚑(ゆふれひ)ならん。」

とて、兩人、ふり歸り見れ共、目に遮る者なければ、又、十間(けん)ばかりも行(ゆく)に、已前のごとくに呼しかば、立留(たちど)まりて、能(よく)々見るに、年の比(ころ)、二十(はたち)斗(ばかり)なる女の、色靑ざめたるが、腰より下(しも)はなくして、髮をみだし、さめざめと泣(なき)ゐたり。

 幾兵衞、おく病者なれば、是を見るより、

「わつ。」

と、さけびて、倒れふす。

 されども、十作、强氣(がうき)の者にて、少(すこし)も恐れず、ふみ留(とゞま)りて、いはく、

「何者なれば、われらを呼ぶぞ。近くよらば、切(きつ)てすてん。」

と、氣色(きしよく)ぼうて[やぶちゃん注:ママ。]身がまへすれば、此女、こたへて、

「さん候ふ。我は此あたりの者にて候ひしが、嫉妬の爲に、それのおく方(がた)に殺されたり。されば、其瞋恚(しんゐ[やぶちゃん注:ママ。])、はれやらず、夜每(よごと)に此所に出(いで)て、人を待(まち)て呼(よべ)ども、皆、わが姿におそれて、答ふる人、なし。御身、幸ひに言葉をかはし玉ふ嬉しさよ。願はくは、我(わが)力となり玉へ。」

と、云ふ。

 十作がいはく、

「我、何としてか此事をなさん。今は恨みをはれ玉へ。跡をねんごろにとふてまいらせん[やぶちゃん注:ママ。]。」

といふ。

 幽㚑、よろこびずして[やぶちゃん注:ママ。]、いふやう、

「賴(たのみ)參らする事、外(ほか)ならず。わが腹に子をやどりしが、死せずして、胎内(たいない)、甚(はなはだ)、くるし。おことの刄(やいば)を以て、わが腹を、やぶりてたび候へ。必ず、おそれ玉ふな。」

といふに、流石(さすが)の十作も氣味わるければ、かぶりをふりて、

「左樣の事は、おもひもよらず。免(ゆる)し玉へ。」

と迯(にげ)ごしらへすれば、ゆうれひ、いと恨めしげなる顏(かほ)ばせにて、

「若(もし)、此事かなへ玉はずば、永く御身に付(つき)そひて、恨(うらみ)をいはん。」

といふにぞ、十作も、今はぜひなく、脇ざし、引ぬき、かのゆうれひの傍(そば)へおそろしながら近々と寄(より)て、胴腹(どうばら)をたちやぶれば、

「うれしや。今は、わが本望(ほんもう)は達(たつ)するものを。」

と、いふかとおもへば、姿は、其儘(そのまゝ)、消うせけり。

 十作、いそぎ、幾兵衞を呼(よび)おこし、肩に引(ふつ)かけて、一さんに迯歸りしが、其後(そのゝち)はいかゞなりけんも、しらずかし。

[やぶちゃん注:「大坂上本町(うへほんまち)」現在の大阪府大阪市天王寺区上本町附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「十間(けん)」約十八メートル。

「谷町(たにまち)」大阪府大阪市中央区谷町附近。先の上本町の北西直近。

「氣色(きしよく)ぼうて」気色(けしき)ばんで。「ぼうて」の用法や転訛は私は知らない。

「瞋恚(しんゐ)」歴史的仮名遣は「しんい」でよい。連声で「しんに」とも発音し、仏教の三毒(貪(どん)・瞋(じん)・痴(ち))・十悪などの一つに数える、自分の心に違(たが)うものを怒り怨むことを言う。

「迯(にげ)ごしらへすれば」「逃げ拵へ」。今にも逃げようとしたところが。]

神田田植唄 伊良子清白

 

神田田植唄

 

   

婿見嫁見よ御田(おんた)の田植

近鄕近在皆出た出たぞ

しかもすぐつた若衆と娘

晴の田植じや劣らずまけず

 

   

 

今日の吉(よ)い日の御田植はじめ

早苗(さなへ)取りましよ瑞穗(みづほ)のくにの

空は薄照り御田植日和(ひより)

水も豐かに流れ入る

 

   

 

紅色(べに)の笠紐お十七八は

聲も美(よ)い美いお顏も美い美い

手甲脛巾(はばき)は紺地の木綿

泥はついても身はきよい

 

   

 

男よ御田の若衆

露の玉苗綠にそよぐ

姿ばかりか情(なさけ)も意地も

村の譽れの名代(なだ)がそろた

 

   

 

賴みますぞよ苗取る人等

秋は見渡す穗に穗が咲いて

穰(みの)る千粒(つぼ)萬粒(つぼ)とても

みんな田植がはじめじや程に

 

   

 

苗は御寶千五百(ちいほ)の秋の

神の鏡の御田に插む

歌は流れる磯打つ浪か

苗は見る見る田に繁る

 

   

 

めでためでたの御田の苗は

うゑた若苗葉に葉がさして

根株はりましよ土深々と

伸びる本末(もとすゑ)百姓の手柄

 

   

 

早苗早苗に水みちみちて

映るみどり葉(ば)漣波(さざなみ)わたる

やあれさ早少女(さをとめ)笠ぬぐよ

植ゑた御田は綾錦

      あやにしき

 

神のよろこび雲舞ひ立ちて

鷺も下り候神山(みやま)の使

歌ひをさめて植ゑ納め

うゑた御田は綾錦

      あやにしき

 

[やぶちゃん注:初出未詳。前の「大漁參り」と並べられると、つい鳥羽での作かと思いたくなる。]

大漁參り 伊良子清白

 

大漁參り

 

東の村の娘さん

紅(べに)の裲襠(うちかけ)紅の帶

笠はすげ笠一文字

一さし舞うて神柄め

 

西の村の娘さん

自の裲襠(うちかけ)白の帶

笠は塗笠三度笠

一ふし歌うて神納め

 

玉のいさごの廣前を

しんづしんと步み寄り

大漁祝(たいれふいはひ)の御初穗(おはつほ)を

 

二人ではこぶ生(い)きざかな

正月二日(むつきふつか)の空たかく

銀の細鉤(ほそばり)お月さん

ちらりはらりと撒くやうに

きよめの雪が降り出した

 

[やぶちゃん注:初出未詳。行事から見て、やはり素材は鳥羽での景と私は読みたい。とするならば、その嘱目自体は「船は進む」の注で考証した、大正一一(一九二二)年九月十二日から昭和四(一九二九)年十一月以前を候補と出来るであろう。

「廣前」(ひろまへ)は「神の前」を憚って言う敬語。神社の前庭の謂い。

「しんづしんと」「しんづしんづと」の略。副詞「靜靜と」「しづしづと」の変化した語で、語り物の口調としてよく用いられる。

「生(い)きざ」は活魚の意の「生き魚(ざかな)」の略であろう。]

葦刈 伊良子清白

 

  笹 結 び

 

   *

「いたいけのしたるものあり、張子の顏や塗り稚兒しゆ、くしや結びに笹結び、やましな結びに風車、瓢簞に宿る山雀、胡桃にふける友鳥、虎斑の犬ころ、起上り小法師振鼓、手鞠や踊ろ黃櫨(はじ)小弓」(能狂言小歌)

 

[やぶちゃん注:以下、昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」の「笹結び」という歌謡或いは小唄風のオリジナル詩群二十一篇から成るパートに入る。これらは、少なくとも纏まったものとして短期にソリッドな群作として全篇が発表されたものではない(一部は初出が判明しているが、冒頭の「葦刈」が明治三三(一九〇〇)年発表であるのに対し、八番目の「寢たか起きぬか」は昭和四(一九二九)年発表である)。但し、創作自体はある時期に集中して行った可能性は高いようには思われる。今まで大パート名は注で示すだけに留めたのだが、ここは以上のように添書きがあるため、ここに添えて示した。

 引かれた「能狂言小歌」というのは、「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、『能狂言のなかで歌われる小歌。狂言の流派によって』、『歌そのものや歌詞に異同があるが』、『各流の古い書きとめの類から集められた曲は約 』百八十『曲』あり、『狂言が固定化された室町時代末期から江戸時代初期の小歌と共通する点があり』、『当時の歌謡を考えるうえで大切な資料』とされる。室町後期の永正一五(一五一八)年に編せられた歌謡集「閑吟集」などとの関係性は、『一概にいえないが』、『曲によっては』「閑吟集」よりも『新しく』、『江戸時代初期の歌謡を取入れている場合もある』とある。「日本芸術文化振興会」のサイト「文化デジタルライブラリー」のこちらで、「花子」と「柴垣」の実際の小歌を試聴出来る。そこには『ゆったりとしたテンポで、独特の美しい節回しを持ち、「ユリ」という細やかな揺れを付けながらうたわれ』るとある。私はその方面に疎いのであるが、サイト「京都和文華の会」の「狂言歌謡はおもしろい」の権藤芳氏の「狂言歌謡について」の解説が非常に詳しく、そこに示された茂山千之丞 構成・演出「室町歌謡組曲 遊びをせむとや」の冒頭部に出る「幼けしたる物」のパートに伊良子清白が引いた『幼けしたる物あり』/『張子の顔や 塗り稚児』/『しゅくしゃ結びに 笹結び』/『山科結びに 風車』/『瓢箪に宿る 山雀』/『鼓にふける 友鳥』/『虎斑の狗児』/『起き上がり小法師 振り鼓』/『手鞠や 踊る毬 小弓』と出る。

 歌の趣旨はよく判らぬが、よくみると、ただの無心な幼気(いたいけ)なそれの「もの尽くし」だけでもないように見える。例えば、「瓢簞に宿る山雀、胡桃にふける友鳥」の部分は「閑吟集」の百四十八番目の「我をなかなか放せ 山雀(やまがら)とても 和御料(わごりやう)の胡桃(くるみ)でもなし」を確信犯でインスパイアしているようにも見える。岩波文庫「閑吟集」の浅野建二氏の校注では、『山雀は遊女風情の女自身、胡桃(山雀の好物)は山雀の縁語で』「来る身」を掛けており、『縁を絶(た)つことを願った女の歌であろうか』とされ、『一首は「いっそのことわたしを自由ににして下さいな。たとえ山雀のような浮かれ女でも、全く籠の中の鳥同然、あなたが』「来る」『のを待つ』「身」『ではないのですもの」という意』とあるからである。

「笹結び」パート表題にもなっているこれは帯の結び方の一つで、team-osubachi2氏の「丘の上から通信」の『半幅帯「笹結び」』が写真・結び方の丁寧なイラスト附きで判り易い。

「しゆ」はお稚児の口紅の「朱」であろう。

「くしや結び」やはり帯の結び方であろうが、不明。先の組曲の表記からは無造作にクシャっとむすんだようなものか?

「やましな結び」(「山科」か?)も不明。

「風車」はやはり帯の結び方の一法で、「きものデビューnavi」の「浴衣にぴったりの帯の結び方 かざぐるま♪」に連続写真で結び方が示されてある。

「瓢簞」「へうたん(ひょうたん)」で被子植物門双子葉植物綱スミレ目ウリ科ユウガオ変種ヒョウタン Lagenaria siceraria var. gourda

「山雀」スズメ目スズメ亜目シジュウカラ科シジュウカラ属ヤマガラ Parus varius。本邦では、本種専用の「ヤマガラかご」を使って、既に平安時代には飼育されていたことを示す文献が遺されている。学習能力が高いため、芸を仕込むことができ、覚えさせた芸は江戸時代に盛んに披露された。恐らく、私がそれを縁日で見た記憶を持つ最後の世代であろう。

「胡桃」双子葉植物綱ブナ目クルミ科クルミ属のオニグルミ Juglans mandshurica var. sachalinensis・ヒメグルミ Juglans mandshurica var. cordiformis の実。

「友鳥」「ともどり」。連れだって飛ぶ鳥。ここは「閑吟集」から前の山雀のそれであろう。

「虎斑」「とらふ」。

「起上り小法師」「おきあがりこぼし」(或いは「おきあがりこばうし(おきあがりこぼうし)」。言わずもがな、達磨 の形などに作った人形の底に錘を附け、倒れても、すぐに起き上がるようにした玩具。

「振鼓」「ふりつづみ」でんでん太鼓。本来は舞楽などで用いられる正式な楽器で、それに似せて小型に作った玩具がそれ。

「黃櫨(はじ)小弓」「はじこゆみ」。ハゼノキ(双子葉植物綱ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum)でつくった子供用の玩具の弓。但し、ハゼノキは実際の和弓の素材でもある。]

 

 

葦 刈

 

三島菅笠かづくとて

髮も結ばぬ浪花女の

紅燃ゆる木綿襷(ゆふだすき)

葦を刈ろとて船に棹

 

まだ有明(ありあけ)の色冴えて

空にはのこる月の鎌

波間にならす葦のかま

唄はにや寒し唄はいや

 

月に背くが暗からば

笠を脫(ぬ)ぎやれ笠の紐

ばらりと解きやれ浪花潟(なにはがた)

蓑毛(みのけ)みだして鷺のたつ

 

染めて甲斐なき花色ごろも

波が濡(ぬら)せば潮がしむ

さまに見せうとて帶くけて

しぶきかかればあとがつく

 

同じ手ぶりもたをやかに

花のかんばせはぢらひて

うつむきがちや紫の

眉をかくした水のおも

 

棹取り馴るる川口を

對(つゐ)の菅笠うちつれて

さしこそのぼれ聲々に

をりもをりとてあげ潮を

 

やれさて葦は刈りてそろ

和泉(いづみ)河内路(かはちぢ)津(つ)の國の

空も一つやくだかけ啼いて

浪花堀江の日が今のぼる

 

[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年一月二十八日発行の『よしあし草』第二十二号初出。初出標題は雑誌名と同じ「よしあし草」で、署名は「すゞしろのや」。同誌は「関西青年文学会」(明治三十年七月創刊。当初は「浪華青年文学界」の機関誌)が発刊した文芸誌。「八木書店」のこちらの解説によれば、『関西における新しい文学運動の先駆として、中村吉蔵・高須梅渓が発起し』、『小年文集』・『文庫』・『新声』など『への投書家を中心に創立された』もので、『会の発展とともに誌面も充実し、『小林天眠・河井酔茗・伊良子清白・中山梟庵・堀部靖文・山川延峰・横瀬夜雨ら』が投稿し、『その顔ぶれは多彩で』、『途中』、『会の名称を関西青年文学会と改め、通巻二十七号まで発行され、次いで発行所を矢島誠進堂に移し、雑誌』『わか紫』と統合し、誌名を『関西文学』と改称、『通巻七号(臨時増刊号「初がすみ」を含む)を発行し』た。『与謝野鉄幹は詩歌欄で活躍し、晶子も小舟女という筆名でその初期の作品を発表、柳浪門下の新人永井荷風が処女作「濁りそめ」を載せているのも注目され』るとある。それにしても、雑誌名と同題の詩篇を堂々と投稿するというのは、私は尊大としか思えない。しかも全集年譜の著作年表のデータを見ると、彼は明治三十一年十一月(詩)からの投稿者で、翌年は本雑誌のみに五回投稿(短歌三回・短歌評一回・俳句二回・詩篇一回(二篇))しているものの、毎号投稿しているわけでもない。私が編集者なら、作品内容の可否は別として、まず微苦笑せざるを得ない。

「帶くけて」よく判らぬ。「絎(く)ける」は「くけ縫い(布の端を折り込み、表側に縫い目が見えないように縫うこと)をする」の意であるから、帯の縫い目を見えぬようにたくし込むことを指すか。

「くだかけ」「かけ」は万葉時代からの鷄(にわとり)の称で、「くたかけ」「くだかけ」は平安以後の同種への本来は蔑称異名。個人ブログ「古代史に登場する鳥」の「古代史に登場する鳥(1)―ニワトリ―」によれば、柿澤亮三・菅原浩編著「鳥名の由来辞典」によれば』『「かけ」は鳴き声に由来する』とし、『ニワトリの雅語に「くだかけ」があるが、本来、「くだ」は、「朽ちた」の意。「くだかけ」は「腐れ鶏」のことで、鶏が早く鳴いて、夜訪ねて来ていた男が、早くに家を出て行ってしまったため、女が怒って罵った言葉』とされ「伊勢物語」『が出典。後世、それが、みやびな言葉に転化したと言』う、とある。

 初出は以下。最終連が有意に異なる。

   *

 

よしあし草

 

三島菅笠かつぐとて、

髮もむすばぬ浪華女の、

紅もゆる木綿たすき、

あしを刈ろとて舟に棹。

 

まだあかつきの霧深く、

空にはのこる月の鎌、

波間にならす葦の鎌、

歌はにや寒し歌もいや。

 

月にそむくがくらからば、

笠をぬぎやれ笠の紐、

ばらりと解きやれ浪華がた、

蓑毛(みのけ)みだして鷺のたつ、

 

染めて甲斐なきあゐ鼠、

波が濡(ぬら)せば潮がしむ。

とのに見せうとて帶くけて、

波がぬらせば色がつく。

 

同じ手ぶりもたをやかに、

花の面をはぢらひて、

うつむきがちや葦のそな、

風がさはれば散るものを、

 

棹操り馴るゝ川口を、

對(つゐ)の菅打揃ひ、

さしこそのぼれ朝の潮、

ちぎれちぎれの雲とびて。

 

細き黃雲は和泉路に、

廣い白雲河内路に、

長い赤雲津の國に、

わかれわかれや葦刈も、

こゝろこゝろに皈りけり。

 

   *

「そな」は不詳。連体詞の「そな」(「そこな」の転)で「そこにいる・そこの」の意かとも思ったが、あまりうまく繋がらぬ。因みに、ブッポウソウ目カワセミ科カワセミ亜科カワセミ属カワセミ Alcedo atthis の異名に「そな」があり、前に「鷺」を出しているので、それも考えたが、やはりピンとこない。お手上げ。]

2019/04/24

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 海鹿(あしか) (前と同じくアシカ類・ニホンアシカ)

Asika

 

 

 

あしか 阿之加

 

海鹿

 

△按海鹿卽海獺也但本草謂頭如馬者差耳紀州有海

 鹿島多群居毎好眠上島上鼾睡唯一頭撿四方若漁

 舟來則誘起悉轉入水中潜游甚速而難捕其肉亦不

 甘美唯熬油爲燈油耳西國處處亦有之其聲畧似犬

 如言於宇蓋海獺海鹿一物重出備考合

                  仲正

  家集我戀はあしかをねらふゑそ舩のよりみよらすみ波間をそ待

 

 

あしか 阿之加

 

海鹿

 

△按ずるに、海鹿、卽ち、海獺〔(うみうそ)〕なり。但し、「本草」に『頭、馬のごとし』と謂ふは差(たが)ふのみ。紀州に「海鹿島(あしかじま)」有りて、多く群居す。毎〔(つね)〕に眠りを好みて、島の上に上がり、鼾-睡(いびきか)く。唯だ一頭、四方を撿(み)て、若〔(も)〕し、漁舟、來たれば、則ち、誘(さそ)ひ起(をこ[やぶちゃん注:ママ。])して、悉く、水中に轉(ころ)び入る。潜(〔も〕ぐ)り游(をよ[やぶちゃん注:ママ。])ぐこと、甚だ速くして、捕(とら)へ難し。其の肉、亦、甘美ならず、唯だ、熬〔(い)〕りたる油、燈油に爲るのみ。西國、處處にも亦、之れ有り。其の聲、畧(ち)と、犬に似て、「於宇〔(おう)〕」と言ふがごとし。蓋し、海獺・海鹿〔は〕一物〔なれど〕、重ねて出だして、考〔へ〕合〔はす〕に備ふ。

                  仲正

  「家集」

    我が戀はあしかをねらふゑぞ舩の

       よりみよらずみ波間をぞ待つ

[やぶちゃん注:前の「海獺」の注でさんざん考証したように、ここは最早、良安の評言のみであり、良安の認識を支持して、本邦の本草書記載として「海獺」と同じ食肉目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科アシカ亜科アシカ属ニニホンアシカ Zalophus japonicus に比定同定する。

「海鹿島(あしかじま)」和歌山県日高郡由良町(ゆらちょう)大引(おおびき)にある海鹿島(グーグル・マップ・データ)。谷川健一の「列島縦断地名逍遥」(二〇一〇年冨山房インターナショナル刊)によれば、『享保十五年(一七三〇)には百頭、安政三年(一八五六)には二百五十頭が確認された(二本歴史地名大系『和歌山県の地名』)』が、『このアシカも明治十年』(一八七七)『年頃にはまったく姿を消してしまった』とある(「和漢三才図会」は正徳二(一七一二)年の成立)。

「仲正」「家集」「我が戀はあしかをねらふゑぞ舩のよりみよらずみ波間をぞ待つ」「中正」は、かの鵺退治で知られ、以仁王(もちひとおう)の宣旨を得て平家に最初の反旗を挙げた功労者源頼政の父である源仲政(生没年未詳)の別名である。家集としては「蓬屋集」があったが、現存せず、今、伝わり、良安が参照したのであろう「源仲正集」は後世の編輯になるものである。但し、この一首は「夫木和歌抄」の「巻三十三 雑十五」に再録されていたので、「日文研」の「和歌データベース」で校合出来た。水垣久氏のサイト「やまとうた」の「歌枕紀行 蝦夷」に採り上げられており、そこでは「寄舟戀」という題詠であることが判る。水垣氏の解説に、本歌は『「えぞ」という語が用いられた最初期の例』で、『作者は源三位頼政の父、白河院の時代の人である。平安時代後期、和人と蝦夷の交易は盛んになっていたが、蝦夷にまつわるさまざまな風聞が都人の耳にまで届いていたことが窺える』とある。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 海獺(うみうそ) (アシカ類・ニホンアシカ)

Umiuso

 

 

うみうそ  川獺海獺山獺

       之三種有之

海獺

    【卽是此云海鹿也

     重出于後】

[やぶちゃん注:良安は「獺」の(つくり)を総て「頼」とするが、総て正字で表記した。]

 

本綱海獺生海中似獺而大如犬脚下有皮如胼拇毛着

水不濡頭如馬自腰以下似蝙蝠其毛似獺大者五六十

斤肉可烹食又有海牛海馬海驢等皮毛在陸地皆候風

潮猶能毛起

△按海獺處處有海中狀獸與魚相半者其大者六七尺

 頭靣至肩類牝鹿而耳小眼大有利齒背身毛細密而

 短微赤土器色美兩䰇末黒似手是以下腹大肥尻

 窄有尾長二寸許似龜尾而黒夾尾有䰇黒色縱有五

 㽟近耑前一寸許處有黒刺爪欲立行則開擴之以爲

 足出肩以上於水靣則似獸也欲潜游則窄伸之如魚

 尾然

山獺

 一名挿翹出廣州其性淫毒山中有此物凡牝

 獸皆避去其陰莖以爲補助要藥然不載形狀

[やぶちゃん注:「山獺」の前には通常附録項の場合に必ず附帯する縦罫がなく、「海獺」本文から直に繋がっている。また、以上の二行は底本では「山獺」の大項目の下に一字下げ二行で記されてある。]

 

 

うみうそ  川獺(かはうそ)・海獺・

       山獺の三種、之れ、有り。

海獺

    【卽ち、是れ、此〔(か)く〕

     云ふ、「海鹿〔(あしか)〕」なり。

     重ねて後に出づ。】

[やぶちゃん注:「海鹿」は次項で「あしか」とルビする。ここの割注も無論、良安の注意喚起のそれで、次の「海鹿」では、その冒頭で良安は、『海鹿卽海獺也(海鹿(あしか)は、卽ち、海獺(うみうそ)なり』として、本種と同一であると断じているのである。]

 

「本綱」、海獺、海中に生ず。獺に似て、大いさ、犬のごとし。脚の下に、皮、有り、胼拇〔(べんぼ)〕[やぶちゃん注:胼胝(たこ)のような親指のようなものの謂い。]のごとし。毛、水に着きて〔も〕濡(ぬ)れず。頭は馬のごとく、腰より以下は蝙蝠(かはもり)に似たり。其の毛、獺に似る。大なる者、五、六十斤[やぶちゃん注:明代の一斤は五百九十六・八二グラムであるから、三十キログラム弱から三十六キログラム弱。]。肉、烹て食ふべし。又、海牛・海馬・海驢等、有り。皮毛、陸地に在りて、皆、風潮〔(ふうてう)〕を候〔(うかが)〕ふ。猶ほ、能く、毛、起つがごとし。

△按ずるに、海獺、處處、海中に有り。狀、獸と魚と相ひ半ばする者〔なり〕。其の大なる者、六、七尺。頭・靣〔より〕肩に至〔つては〕牝鹿(めじか)に類して、耳、小さく、眼、大きく、利〔(と)き〕齒、有り。背身の毛、細密にして短くして微赤、土器(かはらけ)色にして美(うつく)し。兩の䰇(ひれ)[やぶちゃん注:「鬐」「鰭」の異体字。]の末、黒く、手に似る。是れより以下、腹、大きに肥え、尻、窄(すぼ)く、尾、有り〔て〕長さ二寸許り、龜の尾に似て黒し。尾を夾(はさ)んで、䰇、有り、黒色。縱(たて)に五つの㽟うね)有り、〔その〕耑(はし)[やぶちゃん注:端。]に近く、前一寸許りの處〔に〕黒〔き〕刺爪〔(きよくさう)〕有り。立行せんと欲すれば、則ち、之れを開(ひら)き、擴(ひろ)げて、以つて足と爲す。肩以上を水靣に出だす〔によつて〕、則ち、獸に似たり。潜游せんと欲すれば、則ち、之れを窄〔(すぼ)く〕伸ばして、魚の尾のごとく〔して〕然り。

山獺(やまうそ)

一名、「挿翹〔(さうぎやう)〕」。廣州[やぶちゃん注:広東・広西地方。]に出づ。其の性、淫毒なり。山中に此の物有れば、凡そ、牝〔(めす)の〕獸、皆、避け去る。其の陰莖、以つて補助の要藥と爲〔(な)〕す。然れども、形狀を載せず。

[やぶちゃん注:食肉目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科アシカ亜科 Otariinae のアシカ類。漢字では現行「海驢」「葦鹿」等と表記するが、ここ以降、海棲哺乳類に入ると、呼称や良安の比定同定にもブレが生ずる。しかしこれは今でも同じなのであり、以下に引くウィキの「アシカ」の冒頭からして既に、上記の分類群をアシカ類と示しながらも、但し、『現状』、「アシカ」と呼ぶ生物対象(群)『の範囲は文脈により』、『揺らぎがある。最も広義にはアシカ科』科 Otariidae『の総称であるが、アシカ科、アシカ科には一般的にオットセイ』(オットセイ亜科 Arctocephalinae)・『トド』(アシカ科トド属トド Eumetopias jubatus)・『オタリア』(アシカ亜科オタリア属オタリア Otaria flavescens)『も含まれ、これ等(特にオットセイ)を別扱いとする場合もある。さらに狭義の意味で、アシカ属』一『属を意味することもある』とあるからである。以下、「定義」の項。『アシカの定義には揺らぎがあり、狭義』のそれ『から順に』、『次のようになる』。

 『歴史的な資料(たとえば』「日本後紀」や本「和漢三才図会」)『においてアシカ(あしか、海驢、葦鹿)に言及している場合』、それは、ほぼ例外なく、既に日本人が絶滅させてしまったと考えられるアシカ科アシカ属ニホンアシカ Zalophus japonicusであり、『これがこの言葉の原義ということになる』。

 次のレベルでは、『アシカ科アシカ属の総称』で、これには絶滅種である『ニホンアシカ』、及び北アメリカ大陸西岸を生息域とする『カリフォルニアアシカ』(アシカ属カリフォルニアアシカ Zalophus californianus)と、ガラパゴス諸島の固有種である『ガラパゴスアシカ』(Zalophus wollebaeki)の三『種が属する。なお、アシカ属に』一『種か』二『種しか認めない説もあり、それらの説に則る場合は「アシカとはアシカ科の』一『種のことである」や「アシカとはニホンアシカとカリフォルニアアシカの』二『種の総称である」(カリフォルニアアシカにガラパゴスアシカを含んでいる)と表現されることもあるが、意味するところは同じである』。

 その次のレベルが、非生物学的な、『和名に「〜アシカ」と付く種の総称』で、『アシカ属に加え、オーストラリアアシカ』(アシカ亜科Neophoca属オーストラリアアシカNeophoca cinerea)『とニュージーランドアシカ』(アシカ科ニュージーランドアシカ属ニュージーランドアシカ Phocarctos hookeri)『を含む。ただし』、これは『分類学的なグループでも』、『系統学的なグループでもない』。

 さらに汎称とされるのが、『アシカ科アシカ亜科の総称』に加えて、『オタリアとトドを含』めてしまうものである。日本人には違和感がある群だが、『英語の「シーライオン sea lion」はほぼこの意味である。ただし、アシカ亜科は単系統ではなく』、『系統学的には否定されたグループであり』、これらは『「長い体毛を持たない」以外に顕著な共通点はない』、古典的博物学的呼称と言える。

 その上のタクソンで『アシカ科の総称』となると、『さらにオットセイ』が含まれることになる。

なお、『セイウチ』(鰭脚下目セイウチ科セイウチ属セイウチ Odobenus rosmarus)『やアザラシ』(鰭脚下目アザラシ科 Phocidae)『はアシカ科にも含まれず』、『別科である。そのため、「アシカとアザラシの違い」について語られるとき、アシカとはアシカ科のことである。いっぽう、「アシカとオットセイの違い」について語られるときは、アシカとはアシカ亜科か、(アシカ亜科とオットセイ亜科の違いとして語れることはほとんどないので)もっと狭くアシカ属のことである』とある。ともかくも、良安の言っている「あしか」とは、『北海道を除く』、『日本本土近海に生息するアシカ類は、絶滅したと見られるニホンアシカのみであり、この語も本来はニホンアシカを指したものである』以上、ニホンアシカ Zalophus japonicusを限定的に指すと考えねばならない。『「あしか」の語源は「葦鹿」で「葦(アシ)の生えているところにいるシカ」の意味であるという。古くは「海(あま)鹿」説もあったが、アクセントから否定されている』。『奈良時代には「みち」と呼ばれていた。他に異名として「うみおそ(うみうそ)」「うみかぶろ」がある。うみおそは海にいるカワウソ、うみかぶろは海にいる禿の意である』。『佐渡島ではこの「うみかぶろ」(海禿)の名で妖怪視されており、両津港近辺の海でよく人を騙したという伝承がある』とある。但し、良安の引用する「本草綱目」の場合は事態が変わってくる。それは、記載内容から、まず明らかに複数の海棲哺乳類を一緒くたにして語り、しかもそれらを一種、彼ら本草学者の悪癖である〈ためにする分類〉によって、恣意的にして致命的に再分類し、別な漢名を与えてしまっているからである。私はそこまで踏み込む気持ちは全く、ない。それは中国の博物史家がやるべき仕事であるからである。

「川獺(かはうそ)」既出既注

「山獺」これは川・海とに「獺」(邦語なら「をそ」「おそ」)が居るのだから、山にも居なくてはならないという、何が何でも分類して対応させねば気が済まない中国古来の五行思想の悪しき部分が生んだ幻獣としか思えない。なお、Q&Aサイトの回答に、朝鮮語にはテン(朝鮮半島に棲息しているとならば、食肉目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科テン属テン亜種コウライテン Martes melampus coreensis か)の類又はタヌキ(イヌ亜目イヌ科タヌキ属タヌキ Nyctereutes procyonoides)を指す漢風の名称に、「山獺(サンダル)」という単語があるとあった。

「海牛」哺乳綱アフリカ獣上目海牛(ジュゴン)目Sirenia のジュゴン科 Dugongidae・マナティー科 Trichechidae の属するカイギュウ類。特にヒトが滅ぼしてしまった巨大海棲哺乳類であったジュゴン科†ステラーカイギュウ亜科ステラーカイギュウ属ステラーカイギュウ Hydrodamalis gigas を挙げずにはいられない。繰り返すのはやめるが、例えば「獸類 犛牛(らいぎう)(ヤク)」の私の注の「海牛」の部分を読まれたい。

「海馬」タツノオトシゴの異名は問題外として、これは「セイウチ」・「トド」・「アシカ科のアシカ類(上記の通り、オットセイ・トド等を含み、アザラシやセイウチ等を含まない)」・上記の二番目の「アシカ」類・最も狭義の「ニホンアシカ」の異名であったし、ジュゴンを誤ってかく呼称した事例もある。

「海驢」調べて見たが、前の「海馬」とほぼ同じで差別化する気にならなかった。

「皮毛、陸地に在りて、皆、風潮〔(ふうてう)〕を候〔(うかが)〕ふ。猶ほ、能く、毛、起つがごとし」東洋文庫訳では、『皮毛は陸地にあってはいずれも風潮をうかがって』、『よく毛が起(た)つ』とある。「風潮」は風と潮(しお)、或いは、風によって起こる潮の流れを指す。海の生き物だったから、共感呪術で陸にあってもそれを感じてそうした動きを成すという五行思想的謂いか。

「其の陰莖、以つて補助の要藥と爲〔(な)〕す」先のQ&Aサイトの答えに、陰茎や『骨水獺を薬にするとの』ことだが、『日本野生生物研究センターの江戸時代の産物帳から過去の動物の分布を研究した資料には山獺は出てい』ないともあった。実在生物種も比定し得ず、その陰茎の生薬ときた日にゃ、流石に調べる気にもならん。因みに、薬になる陰茎とすると、陰茎骨である可能性が高いように思われるのだが(まあ、海綿体組織でも生薬にはなろうが)、ウィキの「陰茎骨」によれば、『陰茎骨(いんけいこつ)とは哺乳類の陰茎の亀頭内部に存在する骨である。バキュラム(baculum)とも呼ぶ』。『陰茎骨を持つのはサル目』(=霊長目 Primates)『(ヒト』(霊長目直鼻猿亜目狭鼻下目ヒト上科ヒト科ヒト亜科ヒト族ヒト亜族ヒト属ヒト Homo sapiens)・『クモザル属』(直鼻猿亜目真猿下目広鼻小目クモザル科クモザル属 Ateles)・『ウーリーモンキー属』(クモザル科クモザル亜科ウーリーモンキー属 Lagothrix)・『メガネザル属』(直鼻猿亜目メガネザル下目メガネザル科メガネザル属 Tarsius)『などを除く)、ネコ目』(=食肉目 Carnivora)『(ジャコウネコ科』(ネコ型亜目ジャコウネコ科 Viverridae)『の一部やハイエナ科』(ネコ亜目ハイエナ科 Hyaenidae)『を除く)、コウモリ目』(翼手(コウモリ)目 Chiroptera)『(一部の種を除く)、ネズミ目』(真主齧上目グリレス大目 Glires 齧歯(ネズミ)目 Rodentia)・『モグラ目』(=食虫目 Insectivora)『などで』、陰茎骨を持たない哺乳類は、『有袋類』(=有袋上目 Marsupialia)『単孔類』(=原獣亜綱カモノハシ目 Monotremata)・『ウサギ目』(Lagomorpha)『(アメリカナキウサギ』(ナキウサギ科ナキウサギ属 Pika 亜属アメリカナキウサギ Ochotona princeps)『にはある』『)、サル目の一部』(上記を見よ)『ネコ目の一部』、『コウモリ目の一部、鯨偶蹄目(クジラウシ目)』(鯨偶蹄目 Cetartiodactyla)・『ウマ目』(Perissodactyla)・『ゾウ目』(=長鼻目 Proboscidea)・『ジュゴン目』(=海牛目 Sirenia)『などは陰茎骨を持たない』とあり、『陰茎骨は亀頭内の尿道の上付近にあり、他の骨と連結しておらず』、『孤立している。陰茎骨の形やサイズは分類群によって様々である』。『役割はまだはっきり分かっていないが、交尾時に機能すると考えられる。例えば、挿入時は未勃起で挿入後に海綿体が膨張するイヌ科では、陰茎骨があることで非勃起状態での挿入が容易になる。サル目やネコ目(食肉目)では交尾の時間が長い種は陰茎骨が長い傾向がある』、『高緯度に生息する種ほど』、『陰茎骨が長い傾向がある』。『ゴリラ』(ヒト科ゴリラ属 Gorilla)が一センチ二ミリのごく短い『陰茎骨しか持たないことに示されるように、必ずしも体躯の大きな種が長大な陰茎骨を持つとは限らない。また、陰茎における陰茎骨の割合や海綿体の大きさや陰茎の膨張率は分類群によって様々であるので、陰茎骨の長さと陰茎の長さは異なる』。『コウモリ類などでは』、『しばしば酷似する近似種間で陰茎骨の形態が著しく異なるため、形態分類学で重要視されている』とあった。まあ、この薬方も類感呪術的で、まがまがしいから私の探究心はここまでである。では。]

老年 伊良子清白

 

老 年

 

景色がよいので

生業(なりはひ)が出來ぬ

來る波は一つ一つ誘惑し

鷗は女の顏の白さで會釋する

 

景色がよいので

生業が出來ぬ

海を見れば恍惚(うつとり)する

ぼんやりしてゐる間に

他人(ひと)はどんどん追ひ越してしまふ

 

景色がよいので

生業が出來ぬ

日のほこり月のあくた

景色がつもつて

雅致(がち)ある老人に成つた

 

[やぶちゃん注:「船は進む」の私の冒頭注を必ず参照されたい。本篇を以って昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」の大パート「南風の海」は終わっている。「生業(なりはひ)が出來ぬ」というのはその「雅致(がち)ある老人に成つた」人物であるが、漁師か? 因みに、新潮社のそれが刊行された当時でも伊良子清白は五十二歳であり、「老人」と自己表現する年とは私には思われないし、ここで清白自身を主人公に設定してしまうと、医業の「生業が出來ぬ」の意味の採り方が何とも難しくなってしまう。但し、その老人の生きざまに自身の理想像を投影してはいると私は読む。]

凍死の漁夫 伊良子清白

 

凍死の漁夫

 

雪が降つて來た四方から

靑い蝶が羽搏く

淦(あか)の上につもる金銀

水(か)ん子の魚は沈んで動かぬ

 

兄弟(きやうだい)釣りはやめようじやないか

夜明けは近い

東の方の紫は

遠い茜紅(あかね)であるかも知れぬ

 

風も波もないが

しんしんたる寒さではある

燈明臺は凍てたのか燻(くす)ぶつてゐる

暗い海は一面の雪だ

 

船の船首(みよし)に誰か立つてゐる

雪の夜の雪女郞が

目の前にあらはれた

兄弟(きやうだい)おいらは死なねばならぬ

 

甘い睡りの寒さが來た

ふりしきる雪が船をうづめぬ前に

兄弟二人は帆綱で

からだを縛(しば)つておかう

 

ひき潮時の海は今

沖の方に渦を卷いてゐる

日の出の島においらは

死んで着くであらう

 

註 大正十五年一月十五日未明、二人の漁夫年若うして伊勢灣外石鏡沖に凍死す、そを悼みてこの詩をつくる。

 

[やぶちゃん注:「船は進む」の私の冒頭注を必ず参照されたい。最後の注は、全体が底本では詩篇本文の一字下げポイント落ちで、二行に亙っており、二行目は「註」の字の位置の一字下から始まっている。ブログ・ブラウザでの不具合を考えて上記のように配した。「大正十五年」一九二六年。日付まで示された伊良子清白にして特異点の海難事故死した若き漁師二人に対する追悼詩であるが、調べて見たが、残念ながら、当時の天候や事故記事は見出せなかった。医師であったから、或いは伊良子清白は彼らの遺体を検死したものかも知れないなどと私は考えた。なお、その検索の途中、「リクルート」(グループ)公式サイト内の観光サイトの「漂泊の詩人伊良子清白の家」を発見した。移築であるが、伊良子清白の診療所兼住居であった建物だそうである。JR鳥羽駅のすぐ近くにあり、見学無料とあって、投稿者による多くの写真が見られる。今度行ったら、是非、見たい。

「石鏡」「いじか」と読む。現在の三重県鳥羽市石鏡町(グーグル・マップ・データ)。因みに、「船は進む」の私の冒頭注でも述べたが、この石鏡は私は行ったことがないのに、よく知っている場所なのだ。それは私の偏愛する昭和二九(一九五四)年の「ゴジラ」(私はサイトで「やぶちゃんのトンデモ授業案:メタファーとしてのゴジラ 藪野直史」を公開している程度には同作に対してフリークである。なお、この「メタファーとしてのゴジラ」は現役の宗教民俗学者の論文(橋本章彦氏「露呈するエゴイズム ――『ゴジラ』(一九五四)を考える」)にも引用された)の「大戸島」のロケ地だからなのである。

「淦(あか)」「浛」「垢」とも書く。船の外板の合せ目などから浸み込んできて船底に溜まる水。また、荒天で船体に「あか」の道が出来て浸入してくる水や、打ち込む波で溜まった水をも称す。「あか水」「ふなゆ」「ゆ」とも言う。梵語の「閼伽(あか)」(仏前に供える水)が語源とも言われ、中世には生まれていた。小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「水(か)ん子」平凡社「世界大百科事典」の「かんこ船」を見ると、『北陸・山陰海岸に多い小型漁船。瀬戸内や九州の北西部にも少しは見られた。多くは』矧(はぎ)板(板の側面を接合させて作った幅の広い板)の五『枚仕立てで,長さ』七~八メートル、『肩幅』一・二メートル『程度の』小舟で『手漕ぎで』、『帆はもたない。〈かんこ〉の語義は明らかでない』が、『西日本の太平洋岸には漁船の〈いけま〉の部分を〈かんこ〉といっているところがあ』る、とあった。この「いけま」とは「活間」で、船の中に設えた「生簀(いけす)」のことを指すから、さすれば、ここはその「いけま」を「かんこ」と呼んでいることが判り、映像もはっきりと見えてきた。]

小さい風景 伊良子清白

 

小さい風景

 

帆を張つて春風の筋を――

片手で櫓を握り

片手で一本釣をあやしてゐる

皺くちやの手の側(はた)を通る

「おい、何が釣れるかい」

「赤遍羅(あかべら)さ」

「またいものをつるな」

蔑(さげす)むのか慰むのか

船頭の聲も風景に成つて了ふ

だまつて顏をあげた老漁夫――

無數の浪が

べちやくちやべちやくちや

春の海は

じつに賑やかい

 

[やぶちゃん注:「船は進む」の私の冒頭注を必ず参照されたい。

「赤遍羅(あかべら)」条鰭綱棘鰭上目スズキ目ベラ亜目ベラ科カンムリベラ亜科キュウセン(求仙)属キュウセン Parajulis poecilopterus の異名。若い頃、父とよく鱚釣りに行ったが、キュウセンは外道としてしょっちゅう掛かってきて、嫌われた者ではあった。関東ではまず食用にしないが(華やかな多色混じりの体色が却って気持ちが悪いと嫌われるのかも知れない)、関西では好まれて高値で取引されており、個人的にも私は美味いと感じる。

「またいものをつるな」検索を掛けると、四日市市西部で「無難だ」という意味で「またい」を使うとあった。小学館「日本国語大辞典」の「またい」(全い)を引くと、意味の中に「馬鹿げているさま・愚鈍であるさま」とあり、方言欄を見ると、尾張・三重県尾鷲で「確実である」とあり(これは前の「無難だ」と強く親和する表現と言える)、三重県松阪で「人の好い」、三重県名賀郡で「きびきびしない・気が弱い・おとなしく愚鈍である」等とある。キュウセンは磯の根つきの個体群も多く、海岸端の普通の釣りでもかなり容易に釣ることが出来る。さすれば、船頭が茶化して「こりゃまた、無難な(阿呆くさい)雑魚を釣ってるんだな」と揶揄した感じを含むとすれば、腑に落ちる。]

暴風雨の日に 伊良子清白

 

暴風雨の日に

 

暴風雨が村落を襲ふ

一本の草一粒の砂をも殘さず

もろもろのいとなみを無(な)みして

押し流しふみにじる

 

山嶽を海洋を平野を

鏽銹(さび)を沈澱(おどみ)を染斑(しみ)を

吹き上げ吹き下ろし

洗ひ轉(まろ)ろがし淸めつくす

 

白晝を黑夜(こくや)に變じ

人間を自然に奪還する

暴風雨の叫喚に

淸亮(せいりやう)な角笛(かく)の響がある

 

溷濁(こんだく)の騷擾の破滅の

殺戮の間に

一道(だう)の金氣(きんき)立ち昇り

萬物蘇生の額(ぬか)を現はす

 

はてしもない空洞(うつろ)を

風雨は吹き荒(すさ)ぶ

明日(あす)の日の太陽は

香(かん)ばしく輝くであらう

 

[やぶちゃん注:「船は進む」の私の冒頭注を必ず参照されたい。

「金氣(きんき)」五行の「金」は冷徹・堅固・確実な性質を表わし、何よりここはロケーションの時制である「秋」が「金」に配されていること、それが収獲・豊饒・再生を象徴させるように表現されているものと私は読む。]

祈 伊良子清白

 

 

塵のみ積る

 冬の巷(ちまた)に

ただ一筋の

 小川流れて

晝夜(ひるよる)絕えず

 祈るなり

 いのるなり

 

[やぶちゃん注:創作時期推定については、「船は進む」の私の冒頭注を参照されたい。

乞食 伊良子清白

 

乞 食

 

垢(あか)の佛よ乞食(こつじき)は

よにひもじさは堪へがたし

ただ一すぢに食を乞ふ

まことなるこそ佛なれ

 

[やぶちゃん注:創作時期推定については、「船は進む」の私の冒頭注を参照されたい。

雨後 伊良子清白

 

雨 後

 

午前二時――

雨の上がつたあとの木々の滴り

どこかで御詠歌の鉦(かね)の音

また餘勢をのこす波のひびき

そして海から海へ

劈(つんざ)くが如き海鳥の叫號

一つ一つ星があらはれて

離々たる雲の姿

うしろの山には

晴天の風が起つてゐる

 

[やぶちゃん注:「船は進む」の私の冒頭注を必ず参照されたい。

「御詠歌」霊場巡りの巡礼や浄土宗の信者などが、鈴を振りながら、哀調を帯びた節回しで声を引いて歌う、仏の徳などを讃えた歌。「詠歌」は、もともとは単に「歌を詠むこと」「和歌を声に出して歌うこと・作ること」を意味するが、それが限定された「御詠歌」となる背景には、特に中世に於ける仏教と和歌との密接な関係があると見られ、その発生は室町以後と推定されている。伝承上では西国三十三番札所に残る三十五の御詠歌の源を花山院に求めるが、これは疑わしい(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

晚凉 伊良子清白

 

晚 凉

 

夕暮の、滿潮の

渦卷がはじまつた

山をも浸(ひた)す

さし汐の勢ひは

漁村の壯觀だ

 

ところどころ鰡(ぼら)が飛んで

峽灣は靜かに暮れる

兩岸の木立が

くつきりとあらはれて

水が明るい

 

[やぶちゃん注:「船は進む」の私の冒頭注を必ず参照されたい。

「鰡(ぼら)」条鰭綱ボラ目ボラ科ボラ属ボラ Mugil cephalus。ボラはよく海面上に跳ね上がり、時に体長の二~三倍もの高さまで跳躍する。私も海釣りでしばしば体験した(因みに、恐らく私が釣り上げた魚では、高校時代に父と行った新湊港の岸辺で釣った三十センチメートル超のボラが最大であった。あの時の強烈な引きは今も忘れ難い。釣り上げる間に釣り人が何人も寄って来たが、魚を見て「なんじゃい、ボラか」と皆、去って行ったのだが、何となくボラが可哀想な気がしたのも忘れられない。因みに彼は、亡き母が味噌煮込みにしてくれ、美味しく戴いた)この現象については、周囲の物の動きや音に驚いてするという説、或いは、水中の酸素が欠乏しているため、はたまた、その運動衝撃を以って体表に付着した寄生虫を落とすなどという諸説があるが、未だ解明には至っていない(一部でウィキの「ボラ」を参照した)。]

帆が通る 伊良子清白

 

帆が通る

 

浦をすれすれに

明るい帆が通る

(大きな白い花びらの漂着)

面梶(おもかぢ)!

船長の若々しい雄叫(をたけ)び

ぎい、ごとん! 梶の軋(きし)み

帆がくるりとまはつて

船は巧みに暗礁(しま)をかはした

急湍(はやせ)の外のどよみ

甲板で働く水夫の姿は

舞臺の上の俳優の科(しぐさ)を見るやう

順風!

滿潮!

びゆんびゆん帆綱が鳴る

船首(みよし)は潮を截(き)つて急流を作る

船は山に向つてぐんぐん迫つて來る

海深(かいしん)を測る鉛錘の光りが

振り子のやうに水面を叩く

鷗が輪を描(か)きわをかき

灰色の腹を見せ見せ

ぎあぎあ啼き乍ら

船に尾(つ)いて行く

取梶!

帆がばたつく

ぎい!

物の響は靜かだ

船は山を離れて、沖へ

かもめは空しい海を

低う掬(すく)つて飛ぶ

 

[やぶちゃん注:「船は進む」の私の冒頭注を必ず参照されたい。

「暗礁(しま)」「しま」は「暗礁」二字へのルビ。

「海深(かいしん)を測る鉛錘の光りが」「海深(かいしん)」のそれから、この「鉛錘」はもう、「おもり」ではなく、「えんすい」と音読みしたい。]

船は進む 伊良子清白

 

船は進む

 

山と積まれた蛸壺殼(つぼがら)で

松の幹はかくれてゐる

胸をはだけた此庭の眺望(みはらし)は

午前の太陽が香ばしい

沖のうねりの强い朝だ

近い颱風を豫感させる日だ

銀綠の島々は

もう睡たさうな徽暈を帶びてゐる

 

見よ、生活が

傳統から力づけられ

戀愛から彩られ

信仰から燃やされて

大洋のただ中に

何の不安もなく

人達は突き進む

 

[やぶちゃん注:ロケーションを知りたいが、「蛸壺殻」と「島々」と、伊良子清白の居住歴を見るに、三重県の鳥羽の景である可能性が高いように思われる。「鳥羽市観光課」の公式サイト内のこちらによれば、『かってはタコガメ漁だけで生活ができると言われるほど、タコ漁業が盛んであった。鮹漁は、年間を通じて行われるが、最盛期は麦が穂を見せはじめる頃から夏にかけての「ノボリダコ」と、秋から冬にかけての「オチダコ」と呼ばれる時期の』二『回である。タコガメは、常滑の素焼きのカメが使用されてきたが、近年ではプラスチックのものになってきている。島内で捕れたタコを、島の女性達が加工した「潮騒タコ」は隠れた島の特産品として人気が高い』とある。してみると、この口語詩は一つ、彼が当時の三重県志摩郡鳥羽町大字小浜に転居して村医(翌年には小浜小学校校医にもなっている)として診療所に住んだ大正一一(一九二二)年九月十二日から、本篇が所収される新潮社の「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」の刊行された昭和四(一九二九)年十一月までの閉区間の約七年間の秋が有力な創作時期となるようには思われる。以下、本集の大パート「南風の海」の最終篇「老年」までの海をロケーションとする総てが(二篇そうでないものがあるが、それが中に挟まっているのはやはり同時期の作と採ってよいように思われる)、その時期のそのロケーションであると、私は確信している。それは、後に出る詩篇「凍死の漁夫」の後註に『大正十五年一月十五日未明、二人の漁夫年若うして伊勢灣外石鏡沖に凍死す、そを悼みてこの詩をつくる』と伊良子清白が記していることが、大きな証左となろう。「石鏡」はこれで「いじか」と読み、これは現在の三重県鳥羽市石鏡(いじか)町を指すここ。グーグル・マップ・データ)からである。因みに、この石鏡は私は行ったことがないのに、よく知っている場所なのだ。かの偏愛する昭和二九(一九五四)年の「ゴジラ」の「大戸島」のロケ地だからなのである。

「蛸壺殼(つぼがら)」「つぼがら」は「蛸壺殼」三字へのルビなので注意されたい。

「微暈」見慣れぬ熟語であるが、「びうん」と音読みしておく。微かに暈が(かさ)がかかったようにぼんやりして見えることではあろう。]

太平百物語卷二 十三 或禪僧愛宕山にて天狗問答の事




Atagoyamanotengu


   ○十三 或禪僧愛宕山(あたごさん)にて天狗問答の事

 或禪僧の【故ありて其名を顯はさず。】、道德、目出度かりしが、一年(ひとゝせ)、愛宕山にまふで玉ひて、薄暮(はくぼ/くれかた)の比(ころ)、下山し給ひしに、峠の半(なかば)にて、道にふみ迷ひ給ひ、あらぬ方(かた)に深(ふか)入し給ひけるが、其あたり、奇麗に洒掃(さいさう/さうじ)して、麥藁(むぎわら)を敷置(しきおき)たり。

 此僧、おぼしけるは、

『げに。此所は、人跡たへて、住む人あるべくも見へざるに、かゝる有りさまこそ、不思議なれ。いか樣、聞(きゝ)およぶ、天狗の住(すみ)所にや。』

と、上の方をあふぎ見玉へば、其たけ、一丈斗(ばかり)に、橫のわたり二丈斗もあらんとおもふ大石(たいせき)の有りしが、偏(ひとへ)に石工(せきかう)の刻みなしたる如く、いと美(うつ)くしかりしかば、

「いざや、登りて見ん。」

と攀(よぢ)のぼり玉へば、上の方は甚だ平(たいらか[やぶちゃん注:ママ。])にして、板敷(いたじき)のごとくなりしほどに、

「幸(さいわい[やぶちゃん注:ママ。])の事哉。今宵は通夜(よもすがら)、此所に坐禪して、明けなば、下山せんものを。」

と、石上(せきしやう)に座具を敷(しき)、おこなひすまして居玉ひける。

 しばらくあつて、冷風(りやうふう)、

「さつ。」

と、ふききたり、此僧の頭上を、大勢、かけありく音して、いふやう、

「いかに、御坊(おんぼう)、何とて、わが住(すむ)所に來たりて安坐するや。歸へれ、歸へれ。」

と大音聲(だいおんじやう)にのゝしりけれ共、此僧は、見上げもやらず、兩眼(りやうがん)を閉(とぢ)て、心靜(こゝろしづか)に「陀羅尼(だらに)」を唱へておはしければ、又、

「どつ。」

と、わらひて、いふ樣、

「此坊主は、何をつぶやくぞ。今少(すこし)、聲を上(あげ)て、いへ。われら、汝がいふ所の經文、能(よく)、しれり。讀(よみ)てきかせん。」

とぞ、どよめきける。

 其時、此僧、眼(まなこ)をひらき、答(こたへ)て申さく、

「我慢增上(がまんぞうじやう)の汝等が、何とて、わが正法(しやうぼう)成(なる)經文を誦せんや。されども、望(のぞみ)によつて、讀み上(あぐ)るなり。一句にても口眞似(くちまね)をせば、われ、汝等が爲に、命(いのち)を失ふべし。」

とおほせければ、しきりに、

「よめ、よめ。」

といふほどに、其時、御僧、「光明眞言(くはうみやうしんごん)」を十遍斗、

「さらさら。」

と讀み上げ玉ひしが、天狗ども、これを一句もよむ事あたはずして、

「どつ。」

と、わらふて、退散しけり。

 御僧、うちわらひ玉ひて、又、默然と座禪しゐ玉ひけるが、夜も程なく明ぬれば、道を求めて、元(もと)きし方(かた)に出玉ひ、下山したまひける。

 さしも、飛行自在(ひぎやうじざい)の魔性(ましやう)なれども、道德つよき名僧には、敵對する事、叶はずとかや。

 西國(さいこく)渡海の舩中(せんちう)にて、坂田氏(さかたうじ)の何某(なにがし)、かたりし儘(まゝ)、爰(こゝ)に記(しる)し侍る。

[やぶちゃん注:【 】は底本では二行割注。挿絵の左手上方の迦楼羅(かるら)っぽいそれは天狗の眷属である烏天狗。ウィキの「烏天狗」によれば、『大天狗と同じく山伏装束で、烏のような嘴をした顔をしており、自在に飛翔することが可能だとされる伝説上の生物。小天狗、青天狗とも呼ばれる。烏と名前がついているが、猛禽類と似た羽毛に覆われているものが多い』。『剣術に秀で、鞍馬山の烏天狗は幼少の牛若丸に剣を教えたともいわれている。また、神通力にも秀で、昔は都まで降りてきて猛威を振るったともされる。中世以降の日本では、天狗といえば猛禽類の姿の天狗のことを指し、鼻の高い天狗は、近代に入ってから主流となったものである』。『和歌山県御坊市では、烏天狗のものとされるミイラが厨子に入れられて保存されている。江戸時代から明治時代にかけ、修験者たちがこれを担ぎ、利益を説きながら諸国を回ったといわれる』。二〇〇七年に『保存事業の一環として行われた調査の際、トンビとみられる鳥の骨と粘土で作られた人造物であることが判明している』。『もっとも、天狗のミイラに関しては科学鑑定がなされる以前にも懐疑的な意見があり、平賀源内の「天狗髑髏鑑定縁起」では』、『そもそも不老不死とされる天狗の骨がなぜあるのだ』、『という意見を問う者もあったということが記されている』。『天狗は、一説には仏法を守護する八部衆の一、迦楼羅天が変化したものともいわれる。カルラはインド神話に出てくる巨鳥で、金色の翼を持ち頭に如意宝珠を頂き、つねに火焔を吐き、龍を常食としているとされる。 奈良の興福寺の八部衆像では、迦楼羅天には翼が無いが』、『しかし、京都の三十三間堂の二十八部衆の迦楼羅天は一般的な烏天狗のイメージそのものである』とある。ウィキには「天狗」や、天狗の大元締めとも言える「大天狗」も別ページとしてあるので参照されたい。

「愛宕山」は数あれど、まずは全国に約九百社余りある愛宕神社の総本社で、現在の京都府京都市右京区嵯峨愛宕町(ちょう)にある愛宕神社のある愛宕山(グーグル・マップ・データ。当時の山城国と丹波の国境に位置し、標高は九百二十四メートル)ととるべきであろう。神仏習合期に於いては、ここは修験道の道場として信仰を集め、既に九世紀には霊山とされており、「奥の院」(現在の若宮)には愛宕山の天狗の太郎坊が祀られていた。

「一丈」は三・〇三メートル。

「陀羅尼(だらに)」本来は、「よく総ての物事を摂取して保持し、忘失させない念慧(ねんえ)の力」を指す、サンスクリット語「ダーラニー」の漢音写。「保持すること」「保持するもの」の意とされる。元来は一種の記憶術を指し、一つの事柄を記憶することによって、あらゆる事柄を連想して忘れぬようにすることを言う。謂わば、その最初の代表されるキー・ワードとも言えようか。通常、長句のものを「陀羅尼」、数句からなる短いものを「真言」、一字二字などのものを「種子(しゅじ)」と称する場合が多い。「大智度論」巻五には、「聞持(もんじ)陀羅尼」(耳に聞いたこと総てを忘れない)・「分別知(ふんべつち)陀羅尼」(あらゆるものを正しく分別する)・「入音声(にゅうおんじょう)陀羅尼」(あらゆる音声によっても揺るがない)の三種の陀羅尼を説き、略説すれば、五百陀羅尼門が、広説すれば、無量の陀羅尼門があるとする。また、「瑜伽師地論(ゆがしじろん)」巻四十五には、「法陀羅尼」・「義陀羅尼」・「呪陀羅尼」・「能得菩薩忍陀羅尼」の四種の陀羅尼が挙げられている。諸尊や修法に応じて、陀羅尼が誦持(じゅじ)され、密教では祖師の供養や亡者の冥福を祈るために「尊勝陀羅尼」を誦持するが、その法会を「陀羅尼会」という(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「我慢增上(がまんぞうじやう)」この場合の「我慢」は仏教の煩悩の一つで、「強い自己意識から起こす慢心のこと」を指し、「增上」は「増上慢」(未熟であるのに、仏法の悟りを身につけたと誇ること。転じて今、「自分を過信して思い上がること」の意となった)で、四字一語として強調していると採ってよかろう。

「一句にても口眞似(くちまね)をせば、われ、汝等が爲に、命(いのち)を失ふべし」一句でも正しく応じて唱えることが出来たとならば、拙僧はお前らのために命を亡くして構わぬ。

「光明眞言(くはうみやうしんごん)」真言密教で唱える呪文の一つ。大日如来の真言で、また、一切仏菩薩の総呪でもある。「唵(おん)・阿謨伽(あぼきゃ)・尾盧左曩(べいろしゃのう)・摩訶母捺羅(まかぼだら)・麽尼(まに)・鉢曇摩(はんどま)・忸婆羅(じんばら)・波羅波利多耶(はらばりたや)・吽(うん)」。これを唱えると、一切の罪業が除かれるとされ、また、この真言を以って加持した土砂を死者にかけると、生前の罪障が滅するとされる。詳しくは「不空大灌頂光真言」と言い、略して「光言」とも呼ぶ。平安時代以来、「光明真言法」で唱えられたが、殊に中世、新興仏教の念仏や唱題の易行道に対抗して、旧仏教側が念仏に優るものとして普及に努めた。その結果、この光明真言の信仰が浄土思想と結びついて流布し、中世の石卒塔婆にも刻まれるなど、広く盛行して、土俗化した(ここは小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

[語誌]平安時代以来、光明真言法でとなえられたが、殊に中世、新興仏教の念仏や唱題の易行道に対抗して、旧仏教側が念仏に優るものとして普及に努めた。その結果、この光明真言の信仰が浄土思想と結びついて流布し、中世の石卒塔婆にも刻まれるなど広く盛行して、土俗化した。

「坂田氏(さかたうじ)の何某(なにがし)」不詳。聞書きとして変化を加えている。本「太平百物語」の作者、なかなか芸が細かい。]

2019/04/23

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ) (カワウソ)

Kawauso

 

 

 

かはうそ 水狗

水獺

     【和名宇曽

      今云川宇

      曽別有海

      曽宇山宇

      曾故以

シユイタ  別之】

[やぶちゃん注:良安は「獺」の(つくり)を総て「頼」とするが、総て正字で表記した。]

 

本綱水獺江湖多有之狀似小狐而毛色青黒若故紫帛

似狗膚如伏翼長尾四足俱短頭與身尾皆褊大者身與

尾長三尺餘水居食魚能知水信爲穴鄕人以占潦旱如

鵲巢知風也正月十月獺兩祭魚知報本反始也熊食鹽

死獺飮酒而斃是物之性也今漁舟徃徃馴畜使之捕魚

獱獺 卽獺之大者頸如馬身似蝙蝠或云獱獺無雌以

 猨爲雌故云猨鳴而獺候

獺肉【甘鹹寒】 治疫氣溫病及牛馬時行病女子經脉不通

 大小便秘【但熱症宜冷症不佳】

獺肝【甘溫有毒但肉寒肝溫】 諸畜肝葉皆有定數惟獺肝一月一葉

 十二月十二葉其間又有退葉用之者須驗治虛勞咳

 嗽傳尸病【以肝一具陰乾爲末水服方寸匕日三以瘥爲度】

獺膽【苦寒】 治眼翳黒花飛蠅上下視物不明入㸃藥中也

 又以獺膽塗盃唇使酒稍髙于盞靣

△按獺溪澗池河之淵灣或巖石間爲穴出食魚游水上

 時以砲擊取之性捷勁牙堅故闘犬却喫殺犬或云老

 鰡變成獺故獺胸下亦有肉臼又鮎變成獺但鰡變者

 口圓鮎變者口扁也【人有見其半分變者】鰡則海魚若謂江海獺

 乃鰡之變溪湖獺乃鮎變則可矣乎恐俗說也

獺皮 作褥及履屧産母帶之易産【毛甚柔軟微似獵虎而毛短形小不堪用】

 

 

かはうそ 水狗〔(すいく)〕

水獺

     【和名「宇曽〔(うそ)」。今、

      云ふ、「川宇曾」。別に

      「海宇曾」・「山宇曾」有り。

シユイタ  故に以つて之れを別〔(わか)〕つ。】

 

「本綱」、水獺、江湖、多く之れ有り。狀、小狐に似て、毛色、青黒。故〔(ふる)〕き紫の帛(きぬ)のごとし。狗〔(いぬ)〕の膚〔(はだへ)〕に似て、伏翼(かはもり)[やぶちゃん注:「蝙蝠(こうもり)」に同じ。]のごとし。長き尾、四足俱に短く、頭と身と尾、皆、褊〔(せま)〕し。大なる者は、身と尾と、長さ三尺餘り。水居して魚を食ふ。能く水信[やぶちゃん注:水の変化の予兆。]を知り、穴を爲〔(つく)〕る。鄕人〔(さとびと)〕、〔それを見て〕以つて潦〔(にはわづみ)〕[やぶちゃん注:大雨。]・旱〔(ひでり)〕を占ふ。鵲〔(かささぎ)〕の巢の風を知るごときなり。正月・十月、獺、兩〔(ふた)〕たび[やぶちゃん注:年に二度の意。]、魚を祭る。知、本〔(ほん)〕を報い、始めに反〔(かへ)〕るを知るなり。熊は鹽を食ひて死し、獺は酒を飮みて斃〔(たふ)〕る。是れ、物の性〔(しやう)〕なり。今、漁舟、徃徃〔にして〕馴(な)れ畜(か)ひて之れをして魚を捕へしむ。

獱獺〔(ひんだつ)〕 卽ち、獺の大なる者。頸、馬のごとく、身、蝙蝠(かはもり)に似たり。或いは云ふ、「獱獺、雌、無く、猨〔(さる)〕[やぶちゃん注:猿。]を以つて雌と爲す。故に云ふ、『猨、鳴きて、獺、候〔(うかが)ふ〕』〔と〕」〔と〕。

獺の肉【甘、鹹。寒。】 疫氣・溫病[やぶちゃん注:発熱性の急性伝染病の総称。]及び牛馬の時行(はやり)病ひ、女子の經脉不通、大小便の秘〔せる〕[やぶちゃん注:便秘。]を治す【但し熱症に〔は〕宜しく〔も〕、冷症〔には〕佳ならず。】。

獺〔の〕肝【甘、溫。毒、有り。但し、肉は寒、肝は溫〔なり〕。】 諸畜の肝葉は、皆、定數、有り。惟だ、獺の肝、一月一葉〔にして〕、十二月には十二葉あり。其の間、又、退葉、有り。之れを用ふる者〔は〕須らく驗(こゝろ)むべし。虛勞[やぶちゃん注:過労による衰弱。]・咳嗽〔(がいさう)〕[やぶちゃん注:咳や痰。]・傳尸病〔(でんしびやう)〕[やぶちゃん注:伝染性である結核性の諸疾患。]を治す【肝一具を以つて陰乾し、末と爲し、水〔にて〕服す。方寸〔の〕匕〔(さじ)〕、日に三たび、瘥〔(い)〕ゆを以つて度と爲す[やぶちゃん注:服用を止める。]。】。

獺の膽(ゐ[やぶちゃん注:ママ。])【苦。寒。】 眼〔の〕翳〔(かす)みて〕黒〔き〕花飛ぶ蠅〔のごときものの〕上り下り、物を視ること明ならざるを、㸃藥の中に入るるべし。又、獺の膽を以つて、盃〔(さかづき)〕の唇(くち)に塗り、酒をして、稍〔(やや)〕盞〔(さかづき)〕の靣より髙からしむ。

△按ずるに、獺、溪澗・池河の淵〔や〕灣、或いは巖石の間〔に〕穴を爲〔(つく)〕り、出でて、魚を食ふ。水上を游(をよ)ぐ[やぶちゃん注:ママ。]時、砲を以つて、之れを擊ち取る。性、捷勁〔(せふけい)〕[やぶちゃん注:動きが敏捷でしかも体力強靭であること。]にして、牙、堅し。故に犬と闘へば、却つて、犬を喫(か)み殺す。或いは云はく、老鰡(しくちぼら)、變じて、獺と成る。故に獺の胸の下に亦、肉〔の〕臼〔(うす)〕、有り。又、鮎(なまづ)變じて、獺と成る。但し、鰡〔(ぼら)〕の變じたる者は、口、圓〔(まろ)〕く、鮎の變じたるは、口、扁(ひらた)しとなり【人、有見其れ、半分、變じたる者を見たる有り〔と〕。】。鰡は則ち、海魚なり。若〔(も)〕し、江海の獺は乃〔(すなは)〕ち、鰡の變、溪湖の獺は乃ち、鮎の變、と謂はゞ、則ち、可ならんか。恐らくは〔これ〕俗說なり。

獺(うそ)の皮 褥(しとね)及び履屧〔(くつのしきもの)〕[やぶちゃん注:靴の中の敷き物。]に作る。産母、之れを帶びて、産、易し【毛〔は〕甚だ柔軟にして微〔(かす)かにて〕、獵虎〔(らつこ)〕に似れども、毛、短く、形、小にして、用に堪へず。】。

[やぶちゃん注:「本草綱目」のそれは、食肉目イタチ科カワウソ属ユーラシアカワウソ Lutra lutra、本邦のそれは日本人が滅ぼしたユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nipponウィキの「ニホンカワウソ」を引く。『明治時代までは礼文島、北海道、本州、四国、九州、壱岐島、対馬、五島列島まで日本中の陸地から島々に至るまで広く棲息していたが、乱獲や開発によって棲息数が激減』、昭和三(一九二八)年には、『狩猟の対象外となった。しかしその後も棲息数は減少を続け』、一九三〇年代から昭和二五(一九五〇)年にかけて、『棲息が確認された地域は北海道、青森県東津軽郡油川町、秋田県仙北郡角館町檜木内川、山形県朝日山地、栃木県大田原市箒川および日光市西ノ湖、埼玉県、山梨県中巨摩郡宮本村荒川、長野県、奈良県吉野郡下北山村、和歌山県、兵庫県神崎郡川辺村、揖保郡越部村栗栖川および淡路島、四国地方、大分県のみとなった。しかし、本州及び九州本土の個体群はいずれも孤立した個体群であったため』、昭和二九(一九五四)年『頃までに絶滅したとみられ』る。『本州最後の個体群は、和歌山県和歌山市友ヶ島で』昭和二九(一九五四)年に『確認された個体群であったが、特に保護されることなく』、『絶滅した』、『北海道産亜種』であるLutra lutra whileleyi(和名がつけられる前に我々が絶滅させてしまった。「エゾカワウソ」と呼ばわってやりたい)も、昭和三〇(一九五五)年に『斜里郡斜里川で捕獲されたのが最後の捕獲例であ』った。『そのため』、『ニホンカワウソの分布域は、四国地方の愛媛県および高知県のみとな』ってしまい、『最後の捕獲例は』、昭和五〇(一九七五)年四月八日、『愛媛県宇和島市九島で保護されたもので、その後は捕獲されていない。ニホンカワウソが生きた姿で最後に発見されたのは高知県須崎市の新荘川におけるもので』、昭和五四(一九七九)年六月の目撃で、この新荘川では昭和六一(一九八六)年十月に、『ニホンカワウソの死体が発見されているが、これ以降』、『棲息の確認は得られていない』。なお、『樺太(サハリン)南端部の能登呂半島には』、二千十七年『現在でもカワウソが棲息しているが』、これを絶滅した『北海道産亜種(Lutra lutra whileleyi)と同一種であると分類する専門家も』いる。体長は六十四.五~八十二センチメートル、尾長三十五~五十六センチメートル、体重五~十一キログラムで、『外部計測値は韓国産のユーラシアカワウソとほぼ同じだが、頭骨形状に特徴があ』り、『眼を水面から出して警戒できるよう、眼と鼻孔が顔の上方にあった』、また、『鼻孔は水中で閉じることができ』、『毛皮は二層からなり、外側に見える部分は粗い差毛、内側は細かい綿毛であった。差毛は水中で水に濡れて綿毛を覆い、綿毛に水が浸入するのを防いだ。このことにより』、『水中での体温消耗を防ぐ効果があった。この良質な毛皮を目的とした乱獲が、絶滅の要因となった』。『河川の中下流域、砂浜や磯などの沿岸部に単独で棲息し』、『主に夜行性で、魚類、テナガエビ、カニ、カエルなどを食べていた』。一『頭の行動域は十数』キロメートル『にもおよび、この中に「泊まり場」と呼ばれる生活の拠点(岸辺近くの大木の根元の穴や岩の割れ目、茂みなど)を』三、四箇所持っており、『縄張り宣言のために、定期的に岩や草むらの上など目立つ位置に糞をする習性があった』。『春から初夏にかけて水中で交尾を行い』、六十一~六十三『日の妊娠期間を経て』、二~五『頭の仔を産んでいたと考えられている。仔は生後』五十六日ほどで『巣から出るようになり、親が来年に新たな繁殖を開始するころに独立していたと推定される』。『人間にとって身近な存在であり、河童伝説の原型になったと考えられているほか、カワウソそのものも伝承に登場する。また、アイヌ語では「エサマン」と呼ばれ、アイヌの伝承にもしばしば登場している。七十二候の一つ(雨水初候)で獺祭魚(春になり』、『カワウソが漁を』始め、『魚を捕らえること)とある』。『江戸時代の料理書』「料理物語」には『「獣の部」において「川うそ」の名が記載されており、かつては食用となっていたとみられる』。『ニホンカワウソは保温力に優れている毛皮や肺結核の薬となる』とされた『肝臓を目的として、明治から昭和初期にかけて乱獲が進んだ』(本文にも結核の特効薬とするそれが出る)。『そのため北海道では』、明治三九(一九〇六)年『当時』、『年間』八百九十一『頭のカワウソが捕獲されていたが』、たった十二年後の大正七(一九一八)年には、『年間』七『頭にまで減少した』。『このような乱獲が日本全国で行われたため』、昭和三(一九二八)年、遅まきながら、『ニホンカワウソは日本全国で狩猟禁止となっ』た。而して昭和二九(一九五四)年『時点で、ニホンカワウソは北海道、紀伊半島と愛媛県の瀬戸内海から宇和海にかけての沿岸部、高知県南西部の沿岸部および室戸岬周辺にわずかに棲息域を残すのみとなったが、農薬や排水による水質悪化、高度経済成長期における周辺地域の開発、河川の護岸工事等により、棲息数の減少に更なる拍車がかかった。さらに、漁具による溺死や生簀の食害を防ぐための駆除も大きな打撃となった』。『最後の個体群は当初』、『猟師だけが知っていたもので』、結局それも『密猟されていた』のであった、とある。妖怪としての妖獣「かわおそ」については、本日、私が公開した「太平百物語卷二 十一 緖方勝次郞獺(かはうそ)を射留めし事」の私の注を参照されたい。

 因みに、「獺」は「をそ(おそ)」とも呼ばれるが、小学館「日本国語大辞典」によれば、これは「かはをそ」「かわうそ」の略で、その語源説には「うををす」「ををす」(魚食)の略(「大言海」)、「おそる」(畏懼)と同根(「和句解」・「東雅」)、獣のくせに水中に入って魚を捕える獣にあるまじき「偽」(うそ)の存在の義(「名言通」)、妖獣譚でよく人を襲(おそ)うところから(「紫門和語類集」)、水底を住居とすることからの「こ」の反切(「名語記」)が示されてある。しかしどれも信じ難い。原形に獣・幻獣の「をそ」を探索すべきであろう。

「鵲〔(かささぎ)〕の巢の風を知るごときなり」東洋文庫注によれば、「淮南子」の「繆稱訓(びょうしょうくん)」に、

   *

鵲巢知風之所起、獺穴知水之高下。暈目知晏。陰階知雨。

   *

とあるとする。

「知、本〔(ほん)〕を報い、始めに反〔(かへ)〕るを知るなり」魚を殺生して生きている自分の存在を自覚し、天にその生贄を捧げて獺祭を行い、自己の無惨な生き方を自覚し、その在り方を原型に戻すことをちゃんと弁えているのである。

「熊は鹽を食ひて死し」先行する「熊(くま)」に記載があった。

「今、漁舟、徃徃〔にして〕馴(な)れ畜(か)ひて之れをして魚を捕へしむ」俄かに示せないが、カウワソを飼養して、鵜飼のように川魚を捕獲していたとする古記録を確かに読んだ。発見し次第、追記する。

「獱獺〔(ひんだつ)〕」変異個体か、幻獣であろう。同定する気になれない。

「候〔(うかが)ふ〕」東洋文庫訳は「やってくる」と訳す。採らない。

「之れを用ふる者〔は〕須らく驗(こゝろ)むべし」は以下の「治虛勞・咳嗽〔(がいさう)〕・傳尸病〔(でんしびやう)〕を治す」に係ると読んでおく。但し、中文本草書でこういう形の構文はあまりないようには思われ、或いは、前の肝臓が毎月一枚増加するが、時に、それが、減ることもある、ということを獺の肝臓を薬として、解剖して得る本草家は、剖検時にしっかりとその現象を確かめて見よと言っていると採る方が自然ではある。

「眼〔の〕翳〔(かす)みて〕黒〔き〕花飛ぶ蠅〔のごときものの〕上り下り、物を視ること明ならざる」典型的な眼疾患である飛蚊(ひぶん)症である。尋常性のそれも多いが(私も幼少期から馴染みである)、突然、多量に五月蠅く感ずるほどに発生する場合は、網膜剥離の前兆であるから、早急な治療が必要である。

「稍〔(やや)〕盞〔(さかづき)〕の靣より髙からしむ」表面張力で酒が盃から有意に盛り上がるぐらいに入れることを指す。

「老鰡(しくちぼら)」これはボラ(条鰭綱ボラ目ボラ科ボラ属ボラ Mugil cephalus)ではなく、ボラ科メナダ属メナダ Liza haematocheilus である。完全生育個体では体長が一メートルに及び大型で、背面は青色、腹面は銀白色。同属の近縁種との違いとしては、上唇が下方に曲がっていて、口を閉じると外部に露出してみえること、脂瞼(しけん)と呼ばれるコンタクト・レンズ状の器官が発達していないことがボラとの識別点として挙げられる。東洋文庫はこの「老鰡」の「鰡」にのみ『ぼら』とルビしており、老成したボラと採っていて、少なくとも個々の部分での訳としては致命的な誤りである。

「故に獺の胸の下に亦、肉〔の〕臼〔(うす)〕、有り」ボラ属 Mugil の多くの成魚は、胃が発達しており、胃の幽門部(ヒトの十二指腸に繋がる胃の部分)が体表から見ても、あたかも「出臍(でべそ)」のように突き出ている。現在も市場ではこれを「うす(臼)」と称したり、或いは、それを切り出した形が算盤の珠(たま)に似ていることから、「そろばんだま」と呼んだりする。一般的には焼くか揚げて食べる。食ったことがあるが、ホルモンの「ミノ」のような食感で私は好きだ。

「鮎(なまづ)」言わずもがな、中国語の「鮎」はナマズしか指さない。アユは「香魚」である。

「獵虎〔(らつこ)〕」食肉目イタチ科カワウソ亜科ラッコ属ラッコ Enhydra lutris。独立項として本巻の最後に出るので、そこで詳述する。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(13) 「駒ケ嶽」(3)

 

《原文》

 サテ此ヨリ愈駒ケ嶽ノ本論ニ入ラント欲スルナリ。諸國ノ名山ニ駒ケ嶽ト云フモノ多キハ人ノ善ク知ル所ナリ。【嶽又ハ岳】「ダケ」ハ只ノ山又ハ峯ト云フ語トハ別ニシテ、神山又ハ靈山ヲ意味スル日本語カト思ハル。蟲送リ又ハ雨風祭ニ山ニ神ヲ送ルヲ「ダケノボリ」ト云フコト奧州ニ多シ。東國ニテハ秩父甲州ナドノ御嶽、木曾ノ御岳山ノ類アリ。沖繩ニ於テモ「ダケ」ハ悉ク神ノ山ナリ。駒ケ嶽ト云フガ如キ山ノ名ハ、固ヨリ偶然ニ出デ來ルべキ者ニ非ズ。故ニ今ノ人ガ此ニ無頓著ナルトハ正反對ニ、昔ノ人ハ色々ト其命名ノ由來ヲ說明セント試ミタリ。駒ケ嶽ニ駒ノ住ムト云フ說ハ、北海道渡島ノ駒ケ嶽ニモ存ス。文政八年ノ八月松前侯ノ御隱居、人ヲ彼地ニ遣ハシ其噂ノ實否ヲ確メシム。【野馬】其報告ハ區々ニシテ或ハ靑ト栗毛ト二頭ノ牝馬ヲ見タルハ、野飼ノ逸シ去リテ幸ニ熊ノ害ヲ免レシナラント言ヒ、又ハ古來一雙ノ神馬住ムト傳ヘタレバ、試ミニ牝馬ヲ繋ギ置キテ之ヲ誘ハント獻策セシモノアリ〔兎園小說別集上〕。併シ此等ハ山ノ名先ヅ知ラレテ後ニ生ジタル想像ノ產物ナリトモ見ルコトヲ得べシ。見キモ見ザリキモ要スルニ個々ノ人ノ言ナレバナリ。木曾ノ駒ケ嶽ニ於テハ、或ハ中腹以上ノ雪ノ中ニ先ヅ消エテ黑ク見ユル箇處、駒ガ草食ム形ニ見ユルガ故ト云ヒ〔本朝俗諺志〕、又ハ此山ノ東面ニ駒ノ形ヲシタル大石アリテ、春ハ此石ノ處ヨリ雪消ヘ始ムルガ爲ニ名ヅクトモ云フ〔新著聞集〕。會津槍枝岐(ヒノエマタ)ノ駒ケ嶽ニテハ之ト反對ニ、夏秋ノ際消エ殘リタル雪ノ形駒ニ似タリト稱シ、越後南魚沼郡室谷ノ奧ナル駒ケ嶽ニモ同ジ說アリ〔地名辭書〕。同國西頸城(にしくびき)郡今井村ノ駒ケ嶽ハ信濃トノ境ノ山ナリ。山中ノ洞ニ駒ノ形狀アリテ明ラカニ存ス。故ニ山ノ名トス。【石馬】俚俗ノ說ニ源義經ノ馬此ニ至リ石ニ化スト云ヘリ〔越後野志六〕。陸中膽澤郡ノ駒ケ嶽ハ彼地方馬神信仰ノ中心タリ。神馬今モ此山中ニ住ムト云ヒ、昔名馬ノ骨ヲ此山頂ニ埋メタリト傳ヘ、或ハ又殘雪ノ形ガ駒ノ形ニ似タル故ノ名ナリトモ稱ス〔奧羽觀迹聞老誌〕。前ニ擧ゲタル鐵製ノ馬ノ像モ、此峯續キノ赤澤山ニ在ルナリ。

 

《訓読》

 さて、此れより、愈々、「駒ケ嶽」の本論に入らんと欲するなり。諸國の名山に駒ケ嶽と云ふもの多きは人の善く知る所なり。【嶽又は岳】「だけ」は只の「山」又は「峯」と云ふ語とは別にして、「神山」又は「靈山」を意味する日本語かと思はる。「蟲送り」又は「雨風祭(あめかぜまつり)」に、山に神を送るを「だけのぼり」と云ふこと、奧州に多し。東國にては、秩父・甲州などの御嶽(みたけ)、木曾の御岳山(おんたけさん)の類ひあり。沖繩に於いても「だけ」は悉く、神の山なり。駒ケ嶽と云ふがごとき山の名は、固より偶然に出で來たるべき者に非ず。故に、今の人が此れに無頓著なるとは正反對に、昔の人は、色々と其の命名の由來を說明せんと試みたり。駒ケ嶽に駒の住むと云ふ說は、北海道渡島の駒ケ嶽にも存す。文政八年[やぶちゃん注:一八二五年。]の八月、松前侯の御隱居、人を彼の地に遣はし、其の噂の實否を確めしむ。【野馬】其の報告は區々(まちまち)にして、或いは、靑と栗毛と二頭の牝馬を見たるは、野飼(のがひ)の逸(いつ)し去りて、幸ひに熊の害を免れしならんと言ひ、又は、古來、一雙の神馬住むと傳へたれば、試みに牝馬を繋ぎ置きて、之れを誘はんと獻策せしものあり〔「兎園小說別集」上〕。併し、此等は、山の名、先づ、知られて、後に生じたる想像の產物なり、とも見ることを得べし。見きも、見ざりきも、要するに、個々の人の言(いひ)なればなり。木曾の駒け嶽に於いては、或いは、中腹以上の雪の中に、先づ、消えて、黑く見ゆる箇處(かしよ)、駒が草食む形に見ゆるが故と云ひ〔「本朝俗諺志」〕、又は、此の山の東面に、駒の形をしたる大石ありて、春は此の石の處より、雪、消へ始むるが爲めに名づく、とも云ふ〔「新著聞集」〕。會津槍枝岐(ひのえまた)の駒ケ嶽にては之れと反對に、夏秋の際、消え殘りたる雪の形、駒に似たりと稱し、越後南魚沼郡室谷の奧なる駒ケ嶽にも同じ說あり〔「地名辭書」〕。同國西頸城郡今井村の駒ケ嶽は信濃との境の山なり。山中の洞(ほら)に駒の形狀ありて、明らかに存す。故に山の名とす。【石馬】俚俗の說に、源義經の馬、此に至り、石に化す、と云へり〔「越後野志」六〕。陸中膽澤(いざは)郡の駒ケ嶽は、彼(か)の地方、馬神(うまがみ)信仰の中心たり。神馬、今も此の山中に住むと云ひ、昔、名馬の骨を此の山頂に埋めたりと傳へ、或いは又、殘雪の形が駒の形に似たる故の名なりとも稱す〔「奧羽觀迹聞老誌(おううかんせきぶんらうし)」〕。前に擧げたる鐵製の馬の像も、此の峯續きの赤澤山に在るなり。

[やぶちゃん注:「蟲送り」主として稲の害虫(浮塵子(うんか:昆虫綱半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目 Homoptera に属する一群で、特にその中のハゴロモ(ウンカ)上科Fulgoroidea或いはその中のウンカ科Delphacidae に属する種群が多い。セミに似るが、体長は一センチメートル以下で、触角の基部が太い。日本に約百種棲息し、多くはイネ科植物を食べる。ウンカ科 Sogatella 属セジロウンカSogatella furcifera・ウンカ科トビイロウンカ属トビイロウンカ Nilaparvata lugens・ウンカ科Laodelphax 属ヒメトビウンカ Laodelphax striatellus が代表的な食害種)や、二化螟蛾(鱗翅目チョウ目ツトガ(苞蛾)科ツトガ亜科メイガ科Chilo suppressalis):和名は本邦の大部分の地域で成虫が年に二回発生することに拠る)の幼虫等)を村外に追放する呪術的な行事。毎年初夏の頃、定期的に行う例と、害虫が大発生した時に臨時に行うものとがある。一例を示すと、稲虫を数匹とって藁苞に入れ、松明(たいまつ)を先頭にして行列を組み、鉦や太鼓を叩きながら、田の畦道を巡って村境まで送って行く。そこで藁苞を投げ捨てたり、焼き捨てたり、川に流したりする。理屈からいえば、村外に追放しても隣村に押し付けることになるが、村の小宇宙の外は他界であり、見えなくなったものは、消滅した、と考えたのである。「風邪の神送り」や「厄病送り」などと一連の行事で、呪術のなかでは鎮送呪術に含まれる。害虫は実在のものであるが、非業の死を遂げた人の霊が浮遊霊となり、それが害虫と化したという御霊信仰的側面もあって、非業の死を遂げたと伝えられる平安末期の武将斎藤別当実盛の霊が祟って虫害を齎すという故事に付会させて、帯刀の侍姿の藁人形(実盛人形)を担ぎ歩く所もある。虫送りを「さねもり祭り」などと呼ぶのはそれに由来する。初夏の風物の一つとして、子供の行事にしていた所も多い。近年は農薬の普及に伴って虫害も少なくなり、この行事も急速に消滅してしまった(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠り、生物種はオリジナルに附した)。

「雨風祭(あめかぜまつり)」前の「虫送り」の風水害版。風雨の害を避けるために行われる呪術的行事。通常は男女二体の形代(かたしろ)の人形を村境まで送って行き、捨てたり焼いたりする。特に東北地方での呼称。私の「佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 一〇九 雨風祭」も見られたい。

「だけのぼり」フレーズ検索「だけのぼり 風雨祭 東北」を掛けたが、確認出来ない。

「秩父・甲州などの御嶽(みたけ)」「秩父」のそれは埼玉県秩父市と秩父郡小鹿野町との境にある御岳山(おんたけさん:標高千八十・四メートル。木曽御嶽山の王滝口を開いた普寛上人が開山した)。「甲州」のそれは赤石山脈(南アルプス)北端の山梨県北杜市と長野県伊那市に跨る甲斐駒ヶ岳(標高二千九百六十七メートル)。

「木曾の御岳山(おんたけさん)」長野県木曽郡木曽町王滝村と岐阜県下呂市及び高山市に跨る標高三千六十七メートルの御嶽山

「北海道渡島の駒ケ嶽」現在の北海道森町・鹿部町・七飯町に跨る標高千百三十一メートルの北海道駒ヶ岳。渡島半島のランド・マーク。江戸時代の旧称は内浦岳。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。この山の名に関して言えば、大沼方面から見たそれが、馬が嘶いている姿に似ていることに由来すると言われている。これウィキの「北海道駒ヶ岳」の同方面からの画像)。私はこの山容がとても好きである。

「文政八年の八月、松前侯の御隱居……」これは割注にある通り、「兎園小説」シリーズの中の、滝澤馬琴一人の編集になる概ね彼による考証随筆「兎園小説別集」の上巻の中の一条「内浦駒ケ岳神馬紀事」に基づく記載である。「松前侯の御隱居」というのは蝦夷地松前藩第八代藩主松前道広(宝暦四(一七五四)年~天保三(一八三二)年)のこと。ウィキの「松前道広」によれば、寛政四(一七九二)年に隠居し、長男章広に家督を譲っているが、九年後の文化四(一八〇七)年、藩主時代の海防への対応や元来の遊興癖を咎められて幕府から謹慎(永蟄居)を命ぜられた(この背景には元家臣の讒言があったともされる。文政五(一八二一)年にこれは解かれた)。当時、満七十一であったこの爺さん、大の馬好きで、駒ヶ岳の神馬の話を聴き、興味津々、ここにある通り、藩内の者を使って情報を収集、牝馬を囮にして捕獲を試みようとしたりしたのを、以前から江戸で知り合いであった馬琴が聴き付け、手紙をものして(原書簡が引用されてある)、古今の神馬の祟りの例などを挙げて遠回しに諌めた顚末が記されてある。「幸ひに熊の害を免れしならん」の部分は、百姓が放牧していた馬が逃げ出し、岳の中段より上に登ってしまった、極めて人目につきにくい個体で、また『駒ケ岳は靈山の事故、山の德によつて熊にも取られ申さず』と記している。

「新著聞集」前に引いた「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のこちらで原典当該部(終りの部分がそれ)が読める。

「會津槍枝岐(ひのえまた)の駒ケ嶽」福島県南会津郡檜枝岐村にある標高二千百三十三メートルの会津駒ヶ岳

「越後南魚沼郡室谷の奧なる駒ケ嶽」新潟県南魚沼市と魚沼市に跨る標高二千三メートルの越後駒ヶ岳。「室谷」(「むろだに」か)の地名は現認出来ない。

「同國西頸城郡今井村の駒ケ嶽」現在の新潟県糸魚川市市野々(いちのの)の奥にある標高千四百八十七・四メートルの頸城駒ヶ岳

「陸中膽澤(いざは)郡の駒ケ嶽」「前に擧げたる鐵製の馬の像も、此の峯續きの赤澤山に在るなり」本条の冒頭の段落の「赤澤山」の注で私が指摘した、岩手県胆沢郡北上市和賀町の標高千百二十九・八メートルの駒ヶ岳である。やはり、そこで私が推理した通り、この峰続きの地図上では無名のピークの孰れかが、「赤澤山」なのであった。

裸 伊良子清白

 

 

裸の女は裸を大きくし

凉しい濱をむさぼつてあるく

裸のをとこは風の中

裸を吹きとばしてゐる

 

裸のをんなははだかのままで

はだかの冷えるまで凉み

夜更けの幮(かや)の底でも

裸丸出しで寢てゐる

裸の女を抱いてねる

はだかのをとこは勝ち誇つてゐる

裸に罪があるか――

罪は人がつくり、裸は神が造る

 

[やぶちゃん注:こんな一篇をあの「孔雀船」の伊良子清白がものしているのはすこぶる面白い。

「幮(かや)」「蚊帳(かや)」に同じい。]

海風はげし 伊良子清白

 

海風はげし

 

海軟風――

飛び沙魚(はぜ)の類ひである

數限りなく濱からのぼつて來る

海の風には鱗の觸感がある

巖石の匀ひがある

帆は城廓である

城廓は戶を開く、海の風に――

赫耶姬(かぐやひめ)は竹から產れる

アフロデイテは海泡からうまれる

おお

この風に

わたしの耳から

靑い壯麗の侏儒(こびと)がうまれる

 

[やぶちゃん注:「飛び沙魚(はぜ)」生物種としては、条鰭綱スズキ目ハゼ亜目ハゼ科オキスデルシス亜科トビハゼ属トビハゼ Periophthalmus modestus であるが、ここは一行でその「海」からの「軟風」の直喩である。]

子供の憂鬱 伊良子清白

 

子供の憂鬱

 

海連の學校で

子供が憂鬱に成る

お山の大將は

山から下りて來た

 

海の子が

海から逃げて來た

海邊の山が

子供を憂鬱にした

 

のろい蛆(うじ)が

かしこい蝶に成る

海邊の學校で

かしこい子供が憂鬱である

 

[やぶちゃん注:面白い一篇である。]

洞窟の神 伊良子清白

 

洞窟の神

 

注連繩(しめなは)延(は)へし島の洞窟に

憂鬱の淸水滴る

陰森として魍魎棲む奧所(おくが)よ

海檜葉(うみひば)の蔓(はびこ)る絕壁を

船蟲の族群り上下す

新裝の砂汀は

晴れ渡る海面に輝けども

古代の怒濤を深く刻(きざ)める

老顏の洞窟はひたぶるに

日(ひ)の鋭(と)き香(か)をいとひて

腹立たしき澁面をつくれり

 

畏怖の鏡の前にすゑられ

赤兒(せきじ)の心にをののく漁人は

原始の威靈を直(ひた)と感ず

したたる淸水(しみづ)はげしく打つ

 

[やぶちゃん注:初出未詳だが、ロケ地を切に知りたくなる一篇である。

「延(は)へし」延ばして張った。「延(は)ふ」はハ行四段活用の動詞で、「地面や壁面に沿って延びる」の意。延縄(はえなわ)等で今も生きる読みである。

「魍魎」はロケーションと韻律から、水神を意味する「みずは」と読んでいよう。

「海檜葉(うみひば)」不詳。海岸の絶壁で「蔓(はびこ)る」と形容する草木を私は知らない。識者の御教授を乞う。

「族」「うから」と読んでいよう。

「砂汀」ルビを振らないから「さてい」と読んでおく。砂浜のこと。

「赤兒(せきじ)の心にをののく漁人は」純朴な心ゆえに洞窟の神に慄(おのの)いている漁師たちは。「赤子(せきし)の心」(生まれたままの純真で偽りのない心・赤子(あかご)のような心)に同じで、「孟子」「離婁 下」の「大人 (たいじん)とは其の赤子の心を失はざる者 なり」に基づく語。]

太平百物語卷二 十二 小僧天狗につかまれし事

     ○十二 小僧天狗につかまれし事

 さぬきの國に、照本寺といへる日蓮宗の寺あり。

 ある時、「うたづ」といふ所へ、用の事ありて、眞可(しんが)といふ小僧を使(つかひ)にやりけるが、其歸へるさ、「ばくち谷」といふ所を通りしに、俄に、風一頻(ひとしき)りして、何者ともしらず、眞可を虛空につかみ行(ゆき)ぬ。

 眞可、いとおそろしくおもひて、「法花經」の「普門品(ふもんぼん)」を高らかに唱へしに、後(うしろ)よりも同じくこれを唱へしまゝ、眞可、さかしく心得て、終りより始へ讀(よみ)もどしけるに、障碍(しやうげ)の者、これを讀(よむ)事、あたはず。

 無念の事にやおもひけん、此眞可が上帶(うはおび)にしける繻巾(しゆきん)をほどきて、おもふ樣に引しばり、かの照本寺の椽(ゑん)[やぶちゃん注:漢字・読みともにママ。後も同じ。]にすてゝ歸りしが、眞可は猶も高らかに、「普門品」を唱へけるに、寺中(じちう)、これを聞(きゝ)つけて、やがて、椽にかけ出(いで)みれば、眞可なり。

 人々、おどろき、上人に「かく」と告げしらせければ、上人、やがて立出(たちいで)、つくづくと見定め、しづかに、眞可が聲に合はせて、同じく「普門品」を讀誦ありければ、ふしぎや、此繻巾、忽ち、ぬけて、眞可、別義なく本心(ほんしん)なりければ、上人、其ゆへを尋(たづね)給ふに、眞可、しかじかのよしをかたれば、上人もいぶかしくおぼして、かの繻巾を取上げ見給ふに、さまざまにむすぼふれて、紐の端(はし)、いかに求むれども、見へず。

 あたりの人々、これをみて、きゐ[やぶちゃん注:ママ。「奇異」。]のおもひをなしけるが、今に此寺にありて、世の人、これを「天狗の繩(なは)」と稱(しやう)じて[やぶちゃん注:ママ。]、もてはやしけるとぞ。

[やぶちゃん注:「さぬきの國」「照本寺」現在の香川県丸亀市南条町(まち)に法華宗本門流(日蓮系宗派の一つ。日蓮宗も江戸時代までは正式は法華宗と名乗っていた)の本照寺があるが(グーグル・マップ・データ。以下同じ)、「香川県立図書館」公式サイト内の「地域の本棚」の「三 丸亀を行く」(「香川の文学散歩」(平成四(一九九二)年香川県高等学校国語教育研究会刊)の電子化)では、『塩飽町交差点を西に進んで』、『すぐの四差路を北に進むと右側に本照寺がある。菅生堂人惠忠の『怪異』の舞台となった寺である』と断定している。

「うたづ」香川県綾歌(あやうた)郡宇多津町(ちょう)。本照寺からは直線で二、三キロ圏内で近い。

「ばくち谷」不詳であるが、宇多津町の南西の町境部分に「青ノ山」という小さな山塊(標高二百二十四メートル)があり、その西の山腹を国土地理院図で見ると、三本の谷川が現在も流れていることが確認出来る。本照寺からのルートを考えると、「谷」を形成し得る地形はここ以外にはまず認められないから(他は現行ではほとんどが平地である。但し、宇田津町東北境には二つの丘陵部があるから、そこである可能性もないとは言えない)、私はこの辺りと考えてよいのではないかと思う。

『「法花經」の「普門品(ふもんぼん)」』「法華経」第二十五品「観世音菩薩普門品」の略称。別出して一巻とした「観音経」に同じ。「法華経」ではこれだけを読誦することが多い。鳩摩羅什(くまらじゅう:六朝期の中央アジア亀玆(きじ)国の僧)が散文を、闍那崛多(じゃなくった:北インドのガンダーラの訳経僧。北周から隋の時代に来朝して仏典を漢訳した)が韻文を漢訳したものを合せたものが、中国・日本で広く読誦されてきた。観世音菩薩が神通力をもって教えを示し、種々に身を変えて人々を救済することを説く。観音を心に念じ、その名を称えれば、いかなる苦難からも逃れることが出来ることを説いて、観音を信仰すべきことを勧めている(主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「さかしく心得て」知恵を働かせて思い至り。

「終りより始へ讀(よみ)もどしけるに」「法華経」を逆に音読したのである。常に読誦している経で、同経は漢字を音で読むので、それを逆に読むことは必ずしも困難なことではない。一種の呪法である。

「障碍(しやうげ)の者」仏法を侮る魔の存在。逆読はそうした存在にとっては呪的な効力を発揮し、魅入られてしまうことから逃れられると真可は考えたのであろう。この時点で、真可は脅かしている物の怪が何者であるかは認識していないから、かく言ったのである。というか、それが果たして「天狗」であったかどうかは実は分らぬのである。その他の魔性のもの、妖怪であったのかも知れない。

「上帶(うはおび)にしける繻巾(しゆきん)」「繻」は絹の端布(はしぎれ)で、「巾」は、この場合、同じく布(きれ)であり、余り絹を用いた紐のようにも思われるが、一方で、これは「繻子」(しゅす:繻子織り(縦糸と横糸とが、交差する箇所が連続することなく、縦糸又は横糸だけが表に現れるような織り方。一般に縦糸の浮きが多く、斜文織りよりさらに光沢がある)のことを指しているのかも知れない。繻子は女帯や羽織裏などに用いるもので、修行僧が使うには贅沢ではあるが。

「椽(ゑん)」本字は本来は「垂木(たるき)」(家の棟から軒に渡して屋根を支える材木)を指すが、古くから「縁」の代字として慣用され、近代作家なども頻りに「縁側」の意で用いることが多い。

「さまざまにむすぼふれて、紐の端(はし)、いかに求むれども、見へず」『世の人、これを「天狗の繩(なは)」と稱(しやう)じて、もてはやしける』変化(へんげ)の物が癇癪を起してやらかした呪的な緊縛法なのであろうが、先に述べた通り、その変化を「天狗」としたのは巷の人々の憶測に過ぎない。まあ、知恵がなければ、そんな複雑な縛り方は出来ぬし、真可を虚空に投げ、本寺に投げ込むというのも如何にも天狗らしくはある。]

2019/04/22

服用すべき薬物を間違える

今日になって気がついた。五日間も、一日一錠の糖尿病薬を別な薬物と間違えて、二錠も服用していてことに気が附かなかった! 何たる、ていたらく! 万死だぜ、これはよ!

世界は

世界は――追懐は当然如く「今、一度……」の惨めな浪漫主義もあろうはず無く何処かの詩人面(づら)した輩の「絶対の孤独」もあろうはずなく植木等の諧謔もない「ハイ」「ソレマデ」という民俗学用語のカタカナ表記の一般名詞化による埋没的殺戮に過ぎなかった――と――私はそう今日此の頃実感している

太平百物語卷二 十一 緖方勝次郞獺(かはうそ)を射留めし事

Ogatakatujirou

    ○十一 緖方勝次郞獺(かはうそ)を射留めし事

 山城の國に緖方勝次郞といふ侍あり。

 或時、あふみの國彥根に行くとて、㙒州川(やすがは)を通りけるが、折ふし、秋の末つ方、冬のけしきをあらはして、落葉ちりしく水の面(おも)、見るに、こゝろもすみわたりければ、旅のこゝろをよみはべりける。

   やす川といかでか名にはながしけん

    くるしきせのみありとおもふに

かく口ずさみつゝ行く所に、むかふの方に、小舩(こぶね)一艘こぎ來る者あり。

 見れば、みめうつくしき童子なりしが、身には木の葉・もくづなどをかづきてゐたり。

 勝次郞、あやしくおもひて、

「いかなる人ぞ。」

と尋(たづね)ければ、

「これは此あたりに住(すむ)者なり。御身も此舟に乘(のり)給へかし。共に逍遙して樂しまん。」

といふ。

 勝次郞、其體(てい)を能(よく)々みるに、

『これ、人間にあらず。』

と思惟(しゆひ[やぶちゃん注:ママ。])して、やがて嶲(たづさ)へたりし弓矢おつ取、引しぼりてぞ、

「ひやう。」

ど、はなつ。

 あやまたず、此童子が胸にあたるに、忽ち、獺となりて、卽座に死(しゝ)たりしが、舟とおぼしきも、皆、木の葉にてぞ有(あり)ける。

『さればこそ。』

とおもふ所へ、又、壱人、陸(くが)の方より、老女、きたり、勝次郞をまねきて申さく、

「おこと、只今、童子の舟に乘りたるを見玉はずや。」

と。

 勝次郞、荅(こた)へて、

「それは、はや、とく行き過ぎたり。」

といひて、向ふの方へやり過(すご)し、又、弓を引堅め、

「はた。」

と、ゐければ[やぶちゃん注:ママ。]、頭(かうべ)にあたると見へし。

 頓(やが)て、老たる獺となりて、一聲(ひとこゑ)、

「あつ。」

と、さけびて、死しけり。

 勝次郞、二疋のかはうそを取て、所の人々にみせければ、皆々、大きによろこび、云(いひ)けるは、

「此年比(このとしごろ)、かやうに美童・美女に化(け)して、おほく旅人(りよじん)をたばかり、喰殺(くひころ)し侍りしに、今よりしては、此あはれをみる事あるまじければ、有がたくこそさふらへ。」

とて、打よりて、勝次郞を拜みけるとかや。

[やぶちゃん注:「獺」日本人が滅ぼしてしまった哺乳綱食肉(ネコ)目イタチ科カワウソ亜科カワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon は古くより怪異を起こす動物として信ぜられた。中国でも例外ではなく、それは私「柴田宵曲 續妖異博物館 獺」にも取り上げられてある(リンク先は私の電子化注)。ウィキの「カウウソ」の「伝承の中のカワウソ」によれば、『日本や中国の伝承では、キツネやタヌキ同様に人を化かすとされていた。石川県能都地方で』、二十『歳くらいの美女や碁盤縞の着物姿の子供に化け、誰かと声をかけられると、人間なら「オラヤ」と答えるところを「アラヤ」と答え、どこの者か尋ねられると「カワイ」などと意味不明な答を返すといったものから』、『加賀』『で、城の堀に住むカワウソが女に化けて、寄って来た男を食い殺したような恐ろしい話もある』。江戸時代には「裏見寒話」「太平百物語」「四不語録」などの『怪談、随筆、物語でもカワウソの怪異が語られており、前述のように美女に化けたカワウソが男を殺す話がある』。『広島県安佐郡沼田町(現・広島市)の伝説では「伴(とも)のカワウソ」「阿戸(あと)のカワウソ」といって、カワウソが坊主に化けて通行人のもとに現れ、相手が近づいたり』、『上を見上げたりすると、どんどん背が伸びて見上げるような大坊主になったという』。『青森県津軽地方では人間に憑くものともいわれ、カワウソに憑かれた者は精魂が抜けたようで元気がなくなるといわれた』。『また、生首に化けて』、『川の漁の網にかかって化かすともいわれた』。『石川県鹿島郡や羽咋郡では』、「かぶそ」又は「かわそ」の『名で妖怪視され、夜道を歩く人の提灯の火を消したり、人間の言葉を話したり』、十八、九歳の『美女に化けて人をたぶらかしたり、人を化かして』は『石や木の根と相撲をとらせたりといった悪戯をしたという』。『人の言葉も話し、道行く人を呼び止めることもあったという』。『石川や高知県などでは河童の一種ともいわれ、カワウソと相撲をとったなどの話が伝わっている』。『北陸地方、紀州、四国などではカワウソ自体が河童の一種として妖怪視された』。室町時代の国語辞典の一種である「下学集」には、『河童について最古のものと見られる記述があり、「獺(かわうそ)老いて河童(かはらふ)に成る」と述べられている』。『アイヌの昔話では、ウラシベツ(北海道網走市浦士別)で、カワウソの魔物が人間に化け、美しい娘のいる家に現れ、その娘を殺して魂を奪って妻にしようとする話がある』。『中国では、日本同様に美女に化けるカワウソの話が、「捜神記」・「甄異志(しんいし)」などの『古書にある』(先の私の柴田宵曲のそれを参照されたい)。『朝鮮半島にはカワウソとの異類婚姻譚が伝わっている。李座首(イ・ザス)という土豪には娘がいたが、未婚のまま妊娠したので李座首が娘を問い詰めると、毎晩』、『四つ足の動物が通ってくるという。そこで娘に絹の糸玉を渡し、獣の足に結びつけるよう命じた。翌朝糸を辿ってみると』、『糸は池の中に向かっている。そこで村人に池の水を汲出させると』、『糸はカワウソの足に結びついていたので』、『それを殺した。やがて娘が生んだ子供は黄色(または赤)い髪の男の子で武勇と泳ぎに優れ』、三『人の子をもうけたが』、『末の子が後の清朝太祖ヌルハチである』とする。『ベトナムにもカワウソとの異類婚姻譚が伝わっている。丁朝を建てた丁部領(ディン・ボ・リン)は、母親が水浴びをしているときにかわうそと交わって出来た子であり、父の丁公著はそれを知らずに育てたという伝承がある』とある。ここにあるように、河童との親和性が強く、人間に化けるところは、狐狸の類いとの古来からの共通性が認められるが、生物としての彼らを滅亡させてしまった以上、最早、彼らは化けようがなくなったのだと考えるとき、私は一抹の寂しさを感じざるを得ない。

「㙒州川(やすがは)」野洲川は琵琶湖へ流入する河川では最長で、「近江太郎」の通称を持つ。鈴鹿山脈の御在所山(標高千二百十メートル)に発し、甲賀(こうか)市を西に流れ、湖南市南東と甲賀市の境界付近で杣川(そまがわ)が合流する。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「野洲川」に拠った。

「もくづ」「藻屑」。ここはロケーションから、淡水産の水草類や藻類の類い。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 兔(うさぎ) (ウサギ)

Usagi

 

 

 

うさぎ 明眎  婏【子】

    舍迦【梵書】

★   【和名 宇

     佐木】

トウ

[やぶちゃん注:★の部分に上記の画像の篆文が入る。]

 

本綱兔處處有之爲食品之上味大如貍毛褐形如鼠而

尾短耳大而鋭上唇缺而無脾長鬚而前足短尻有九孔

趺居趫捷善走䑛雄豪而孕五月而吐子【或謂兔無雄而中秋望月中顧

兔以孕者不經之說】目不瞬而瞭然【故名明眎】兔者明月之精【白毛者入藥可】

兔以潦爲鼈鼈以旱爲兔熒惑星不明則雉生兔

㚟【音綽】 似兔而大青色首與兔同足與鹿同

肉【甘寒】補中益氣止渴去兒豌豆瘡【凡食兔可去尻八月至十月可食薑

 芥橘及雞肉忌與兔同食】

兔血【鹹寒】 凉血活血催生易産解胎毒不患痘瘡

兔腦髓 又催生神藥【以上藥方見于本草附方】生塗皸凍瘡能治

兔皮毛【臘月收之】 治難産及胞衣不出餘血搶心脹刺欲死

 者極騐【燒灰酒服方寸匕】兔毛敗筆【燒灰】治小便不通及産難

                  慈圓

 拾玉何となく通ふ兔もあはれなり片岡山の庵の垣根に

△按兔善走如飛而登山則愈速下山則稍遲所以前足

 短也毎雖熟睡不閉眼黒睛瞭然

傳燈錄云兔渡川則浮馬渡及半象徹底截流

宋史云王者德盛則赤兔見王者敬耆老則白兔見然今

毎白兎有之北國之兔白者多稱越後兔者形小而潔白

可愛毎食蔬穀而能馴尋常兔性狡而難馴

 

 

うさぎ 明眎〔(めいし)〕

    婏〔(ふ)〕【子。】

    舍迦〔(しやか)〕【梵書。】

★      【和名「宇佐木」。】

トウ

 

「本綱」、兔、處處に之れ有りて、食品の上味と爲す。大いさ、貍のごとく、毛、褐なり。形、鼠のごとくして、尾、短く、耳、大にして鋭なり。上唇、缺けて、脾[やぶちゃん注:漢方で言う架空の消化器系。現代医学の脾臓とは関係がない。]、無し。長き鬚ありて、前足、短し。尻に九つの孔有り。趺居〔(ふきよ)〕して[やぶちゃん注:両高気後脚の甲を股の上に置いて座り。東洋文庫訳割注を参考にした。]、趫(あし)[やぶちゃん注:実際にはこの漢字も「素早い」の意。]、捷(はや)く、善く走る。雄の豪(け)[やぶちゃん注:時珍の「毫」の誤字か。毛。]䑛めて孕む。五つ月[やぶちゃん注:五ヶ月。]にして子を吐く【或いは、「兔は雄無くして、中秋、望〔(もち)〕の月の中の兔を顧みて、以つて孕む」と謂ふは、不經〔(ふけい)〕[やぶちゃん注:常軌を逸すること。道理に外れること。]の說なり。】。目、瞬(またゝきせ)ずして瞭然たり。【故に「明眎」と名づく。】兔は明月の精〔なり〕【白毛の者、藥に入るるに可なり。】。兔、潦(にはたづみ)[やぶちゃん注:大雨の水。]を以つて鼈〔(すつぽん)〕と爲り、鼈は旱(ひでり)を以つて兔と爲る。熒惑星〔(けいわくせい)〕、明らかならざれば、則ち、雉〔(きじ)〕、兔を生ず。

㚟【音「綽〔(シユク)〕」。】 兔に似て、大なり。青色なる首〔は〕兔と同じく、足は鹿と同じ。

肉【甘、寒。】中[やぶちゃん注:脾胃。消化器系。]を補し、氣を益し、渴きを止め、兒の豌豆瘡(もがさ)[やぶちゃん注:疱瘡(天然痘)の古名。]を去る【凡そ、兔を食ふときは、尻を去るべし。八月より十月に至る〔まで〕食ひて可なり。薑芥〔(きようかい)〕・橘〔(たちばな)〕及び雞〔(にはとり)の〕肉、兔との同食を忌む。】。

兔〔の〕血【鹹、寒。】 血を凉〔しく〕し、血を活す。生〔氣〕を催(はや)め、産を易くし、胎毒を解す。痘瘡を患はず。

兔〔の〕腦髓 又、催生〔(さいせい)〕の神藥〔なり〕【以上の藥方、「本草」の「附方」に見ゆ。】。生〔(なま)〕にて皸(ひゞ)に塗り、凍瘡(しもやけ)を能く治す。

兔〔の〕皮毛【臘月[やぶちゃん注:陰暦十二月の異名。]、之れを收む。】 難産及び胞衣〔(えな)〕の出でざるを治す。餘血〔の〕心〔臟〕を搶〔(つ)〕く[やぶちゃん注:突く。撞く。]もの、脹刺して死せん欲(す)る者、極めて騐〔(げん)あり〕[やぶちゃん注:「驗」に同じい。]【灰に燒きて酒にて方寸の匕〔(さじ)ほど〕を服す。】。兔の毛〔にて製したる〕敗筆(ふるふで)[やぶちゃん注:兎の毛で作った筆が古くなったもの。]【燒き灰とす。】〔は〕小便〔の〕不通及び難産を治す。

                  慈圓

 「拾玉」

   何となく通ふ兔もあはれなり

      片岡山の庵〔(いほ)〕の垣根に

△按ずるに、兔、善く走りて、飛ぶがごとく、山に登るときは、則ち、愈々、速し。山を下るときは、則ち、稍〔(やや)〕遲し。前足の短き所以〔(しよい)〕なり。毎〔(つね)〕に、熟睡すと雖も、眼を閉ぢずして、黒睛(くろまなこ)、瞭然たり。

「傳燈錄」に云はく、『兔、川を渡るときは、則ち、浮く。馬の渡るには、半ばに及ぶ。象〔の渡るときは〕、〔川〕底に徹(いた)り、流れを截〔(き)〕る』〔と〕。

「宋史」に云はく、『王者、德、盛なるときは、則ち、赤兔、見〔(あら)〕はる。王者、耆老〔(としより)〕を敬すれば、則ち、白兔、見はる』〔と〕。然〔れども〕、今、毎〔(つね)〕に白兎、之れ、有り。北國の兔に白き者、多し。「越後兔」と稱せる者、形、小さくして、潔白、愛すべし。毎に蔬〔(やさい)〕・穀を食ひて、能く馴るゝ。尋常の兔、性、狡〔(ずる)〕くして馴れ難し。

[やぶちゃん注:南極大陸や一部の離島を除く世界中の陸地に分布している(但し、オーストラリア大陸やマダガスカル島には元来は棲息していなかった)哺乳綱ウサギ目ウサギ科ウサギ亜科 Leporinae のウサギ類。以下、今回は主に小学館「日本大百科全書」より引く(但し、分類学上の和名の一部で他の資料を参考にした)。『ウサギ目 Lagomorpha は最近まで齧歯』『目Rodentiaのなかの亜目とされていたが、齧歯類が』四『本の切歯(門歯)』『があるのに対して、上あごの大きな』一『対の切歯の背方に小形に退化した』一『対の切歯が余分にあることを最大の特徴として区別され、現在では別の目とされている』。『一般にウサギとよばれている』ウサギ亜科 Leporinae には『ノウサギやカイウサギが含まれる。イエウサギの名でもよばれるカイウサギ rabbit はこの亜科に属するが、いわゆるノウサギ hare と属を異にし』(ノウサギ属 Lepus)、『本来ヨーロッパ中部および南部、アフリカ北部にかけて生息していたアナウサギrabbit(』アナウサギ属『ヨーロッパアナウサギOryctolagus cuniculus)を馴化』させ『たもので、世界各地で改良、飼育されている』。『ノウサギ類は、アナウサギ類に比べ』、『前肢がやや長いため、座ったときの姿勢が斜めになる。穴を掘らずに地上に巣をつくり、そこに子を産む。生まれたばかりの子は、毛が生えそろっていて、目も見え、すぐに歩き回ることができる。ノウサギ類は、オーストラリア、ニュージーランドなどを除き、世界中ほとんどの地域でごく普通にみられる。たとえば、北極圏やアラスカにはホッキョクノウサギ Lepus arcticus やアラスカノウサギ L. othus が、また、ヨーロッパに共通のノウサギとしてヨーロッパノウサギ L. europaeus が分布するなど、多種が広く生息する。日本には、北海道にエゾユキウサギ(エゾノウサギ)L. timidus ainu がいるほか、ノウサギ L. brachyurus の』四『亜種、すなわち、本州の日本海側と東北地方にトウホクノウサギ(エチゴウサギ)L. b. angustidens が、福島県の太平洋沿岸地方より南の本州、四国、九州地方にキュウシュウノウサギ L. b. brachyurus が、さらに隠岐』『と佐渡島に、それぞれオキノウサギ L. b. okiensis とサドノウサギ L. b. lyoni があり、合計』五『種が生息する。エゾユキウサギ』Lepus timidus ainu『と他の』四『種とは異なるノウサギ亜属に属し、エゾユキウサギは、ヨーロッパ、シベリア、モンゴル、中国東北部、樺太』『(サハリン)など亜寒帯から寒帯にかけて広くすんでいるユキウサギ』Lepus timidus『の亜種である。ユキウサギは本種、亜種とも冬になると』、『被毛が純白になる。一方、別の亜属に分類されるトウホクノウサギ』L. b. angustidens や『サドノウサギも冬毛は純白になるが、白くならないキュウシュウノウサギ』L. b. brachyurusや『オキノウサギ』L. b. okiensis『と同一グループとされる。世界でこれと同じ亜属に属するウサギは、中国東北部の東部とウスリー地方の狭い地域に分布するマンシュウノウサギ L. mandchuricus だけである』。『アナウサギ類は、ノウサギ類に比べ』、『前肢が短いため、座ったときの姿勢が低く、体が地面と平行になる。さらにアナウサギの名のとおり、地中に穴を掘って巣をつくり、群れをなして生活する。この地下街は、「ウサギの町」と称されるほど大規模な巣穴となる。妊娠した雌は分娩』『用の巣をここにつくり、生まれた子は、目が開いて』おらず、『赤裸であることもノウサギと異なっている』。『ローマ人たちは、壁に囲われた庭に、とらえたヨーロッパアナウサギを飼育していた。アナウサギはノウサギと異なり、このような人為的な環境下でも子を産み育てるから、数は増え、食肉用として飼育された。中世になると、帆船によって広く世界の各地に運ばれていった。これは、航海中の食糧を求める手段として、各航路の島々にヨーロッパアナウサギをカイウサギとして土着させるためであった。一般的環境、つまり気候や、餌』『となる植生が適し、さらに害敵(肉食獣など)がいない土地では急速にその数を増していった。オーストラリア大陸には元来』、『アナウサギ類は生息していなかったが』、一八五九年に、『ビクトリア州に導入されると、たちまちその数を増やし』一八九〇年頃には、『この地域におけるアナウサギの数は』二千『万頭と推定されるようになった。アナウサギの餌は草や若木の樹皮、畑の農作物であるから、被害は膨大なものになり、手に負えぬ』厄介者に『なった。害を防ぐため、さまざまな手段が実施されたが、効果はなかった』が、一九五〇年頃から、『ウサギの粘液腫』『ウイルス(全身皮下に腫瘤』『を形成し、死亡率が高く、伝染力も強い)を用いた駆除法が成功し、近年はその被害も少なくなってきて』は『いる』という。『日本には、奄美』『大島、徳之島特産の』アマミノクロウサギ属『アマミノクロウサギ Pentalagus furnessi がおり、特別天然記念物に指定されている。穴を掘って巣をつくるところはアナウサギ類に似るが、耳の長さは半分以下で、体全体もずんぐりしている。アマミノクロウサギは「生きている化石」とよばれる動物の一種で、近縁としてメキシコ市近くの山にいる』メキシコウサギ属『メキシコウサギ Romerolagus diazzi と』、『アフリカ南部にいるアカウサギ属のプロノウサギ Pronolagus crassicaudatus などとともにムカシウサギ亜科Palaeolaginaeに分類されている』。『カイウサギは、ヨーロッパアナウサギを馴養することに始まった。その後、大きさ、毛色、毛の長さ、毛の手触りなど、多様な変異を利用し、選抜淘汰』『を繰り返して、多くの品種を作出してきた。用途によって、毛用種、肉用種、毛皮用種、肉・毛皮兼用種、愛玩』『用種に分けられる』。『毛用種としてはアンゴラ』(Angora rabbit)『がよく知られている。トルコのアンゴラ地方が原産といわれ、イギリスやフランスで改良されたものが現在』、『飼養されている』。『白色毛がもっとも商品価値が高く、高級な織物や毛糸に加工される』。『肉用種としてはベルジアンノウサギ Belgian hare や、フレミッシュジャイアント Flemish giant などがある。前者はベルギー原産で体重』三・六『キログラム、ノウサギに似た毛色をしているのでこの名がある。後者は「フランダースの巨体種」の名のとおりフランス原産で、体重は』六・七『キログラムにもなる。毛色は鉄灰色、淡褐色などさまざまである』。『毛皮用種としてはチンチラ Chinchilla やレッキス Rex などがある。両者ともフランス原産』である。『兼用種は肉・毛皮両方を目的につくられ』、『兼用種にはニュージーランドホワイト New Zealand white や日本白色種がある』。『後者は日本でもっとも多く飼育されている白色種で』、『起源は明らかではないが、おそらく明治初期に輸入された外来種との交配によってつくられたアルビノと考えられている。そのため』、『以前は地方によって体形、大きさに差があり、大形をメリケン、中形をイタリアン、小形を南京(ナンキン)とよんでいたが、第二次世界大戦後』、『統一され、体重は生後』八ヶ月で四・八『キログラムを標準とする。肉と毛皮との兼用種として改良されてきたため、毛皮の質と大きさの点で優秀な品種である』。『愛玩用種としてはヒマラヤン Himalayan やダッチ Dutch が』おり、『前者はヒマラヤ地方原産といわれており、体重』一・三『キログラムの小形で、白色毛に、顔面、耳、四肢端が黒色の毛色である。後者はオランダ原産で、黒色、青色、チョコレート色などの被毛であり、胸の周りには帯をかけたような白色毛がある。体重は』二『キログラム前後である』。『餌』『は青草、乾草、野菜、穀類を与える。水は自由に飲めるようにする。とくに乾草給与時や、夏季、分娩後や哺乳中には水分が不足しやすい。ウサギは体に比べて』、『大きな胃と盲腸があって』、『大食である。成長期には』一『日に体重の』一~三『割の餌を食べる。ウサギの奇妙な習性に食糞』『がある。普通にみられる糞と、ねばねばした膜に包まれた糞を交互に排出するが、後者が排出されると、自分の口を肛門』『に近づけて吸い込み、かまずに飲み込む。この糞を食べさせないようにすると、しだいに貧血症状を呈し、やがて死亡する。これからもわかるように、排出物というよりも』、『餌といえるほどにタンパク質やビタミン』B12『が多く含まれていて、ウサギの健康維持にたいへん役だっている』。『ウサギをつかむときには、背中の真ん中より』、『やや前方の皮を大づかみにする。両耳を持ってつり下げるようなことをしてはいけない。粗暴に扱ったり、苦痛を与えると、普段鳴かないウサギも、キイキイと甲高い声を出す。おそらく恐怖のための悲鳴であろう』。『ウサギは生後』八ヶ月から『繁殖に用いられる。野生のウサギには繁殖季節があるが、カイウサギには認められない。また、自然排卵をしないで交尾刺激によって排卵が誘発される。この型の排卵はネコやイタチ類にみられる。妊娠期間は』三十一~三十二日で、一回の分娩で六、七頭の『子を産む。母親は分娩後、非常に神経質になり、興奮して子を食い殺すこともあるので安静にしておく。ウサギの乳汁は牛乳より栄養に富み』、『赤裸の子も早く育』ち、六~七『週齢で離乳する』。『ウサギは暑さに対して弱いばかりでなく、病気に対する抵抗力が一般的に弱い。とくにかかりやすい病気として、原虫によるコクシジウム症』(コクシジウムはアルベオラータ上門 Alveolataアピコンプレックス門 Apicomplexa コクシジウム綱 Coccidea に属する原生生物の一群で、人間・家畜・家禽に対して重大な疾患を引き起こすものが多く含まれるが、単に「コクシジウム」と言った場合は特にアイメリア科アイメリア属 Eimeria の原虫を指すことが多く、これが腸管内に寄生して下痢を起こさせるのがそれである)、『細菌による伝染性鼻炎、ぬれた草(とくにマメ科植物)の多食による鼓張症などがある』。『日本において家畜としてウサギが飼養されるようになったのは明治時代からで、中国やアメリカなどから輸入され、当初は愛玩用として飼われていた。防寒具としての毛皮、食用としての肉が軍需用物資として使用されるようになって急激に飼育数が増大した。これはアメリカへの毛皮輸出を含めた』、大正七(一九一八)年の『農林省の養兎(ようと)の奨励による。飼育数増大とともに各地で毛皮・肉兼用種への改良が行われ、現在日本白色種とよばれるものができた。日本におけるウサギの飼育頭数は、軍の盛衰と運命をともにし、一時は』六百『万頭も飼育されていたが、第二次世界大戦の終戦とともに激減した。なお、日本ではウサギ類を古来』「一羽」「二羽」『とも数えるが、これは獣肉食を忌み、鳥に擬したためである』。『毛皮は軽く保温力に富むので』、『オーバー、襟巻などに、アンゴラの毛はセーターや織物になる。肉もよく利用されるが、ほとんどは輸入されたものである。利用面で近年忘れられないことは、医学、生物学、農学などの研究に供試されることで、年間数十万頭が利用されている』。『ウサギの肉は食用としてもよく用いられる。野ウサギの肉はやや固く一種の臭みがあるが、家ウサギの肉は柔らかく、味も淡白である。ウサギ肉のタンパク質は、粘着性や保水性がよいので、プレスハムやソーセージのような肉加工品のつなぎとしてよく使われた。ウサギの肉は、鶏肉に似ているので、鶏肉に準じて各種料理に広く用いることができる。ただ、においにややくせがあるので、香辛料はいくらか強めに使うほうがよい。栄養的には、ウサギの肉はタンパク質が』二十%『と多く、反対に脂質は』六%『程度で他の肉より少ない傾向がある』。「古事記」の「因幡の白兎」や、「鳥獣戯画」に『描かれているおどけたウサギなど、古来』、『ウサギは人間と密接な関係をもつ小動物と受け取られてきた。「かちかち山」や「兎と亀』『」などの動物説話が広く知られている一方、一見』、『おとなしそうなウサギが』、『逆に相手をだます主人公となるような類話も少なくない。その舞台を語るのか、赤兎山(あかうさぎやま)、兎平(うさぎだいら)、兎跳(うさぎっぱね)など、ウサギにちなむ地名が全国各地に分布する。また』、『時期や天候の予知にも関係し、山ひだの雪形が三匹ウサギになると、苗代に籾種(もみだね)を播』『くとする所や、時化(しけ)の前兆となる白波をウサギ波とよんでいる所が日本海沿岸に広くみられる。ウサギの害に悩む山村の人々は、シバツツミとよばれる杉葉を田畑の周囲に巡らしたり、ガッタリ(水受けと杵(きね)とが相互に上がったり落ちたりする仕掛けの米搗』『き臼』『)の発する音をウサギ除』『けとした。雪国の猟師たちは、新雪上に描かれたテンカクシ、ミチキリなどと特称される四肢の跡を目安に狩りをしたが、なかでも、棒切れあるいはワラダ、シブタなどといわれる猟具を』、『ウサギの潜む穴の上へ投げ飛ばし、空を切る音と影の威嚇』『効果によって生け捕りにする猟法は、注目に値する。また、ウサギは月夜の晩に逃げるとか、その肉を妊婦が食べると兎唇』『(口唇裂)の子が生まれる、などの俗信も少なくない』。『ヨーロッパ、とりわけフランスでは、家畜ウサギは食用としてニワトリと並び賞味されているが、一方の野生のノウサギは、世界各地で民話の登場人物として親しまれてきた。そのイメージの多くは、すばしこくて少々悪賢く、いたずら好きだが、ときには人にだまされるという共通性をもっている。アフリカ(とくにサバンナの草原地帯)の民話では、ウサギはトリック』・『スターとして活躍し、ハイエナなどがウサギにかつがれる。ナイジェリアのジュクン人の民話では、ウサギは王の召使いとして人々との仲介者となったり、未知の作物や鍛冶』『の技術を人々にもたらす文化英雄の役割を演じるほか、詐術によって世の中を混乱させたり、王の人間としての正体を暴いてみせたりする。またいたずら者のウサギは「相棒ラビット」などのアフリカ系アメリカ人の民話にも生き続けている』とある。

「鼈〔(すつぽん)〕」爬虫綱カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensis。同種は中国・日本・台湾・朝鮮半島・ロシア南東部・東南アジアに広く棲息する。本邦産種を亜種Pelodiscus sinensis japonicusとする説もある。

「熒惑星〔(けいわくせい)〕」火星の非常に古い異名。

「雉〔(きじ)〕」鳥綱キジ目キジ科キジ属キジ Phasianus versicolor。この辺り、ウサギがスッポンになり、スッポンがウサギになり、星の影響でキジがウサギを産んじゃったりと、まんず、凄いね!

「㚟」不詳。幻獣染みている。

「薑芥〔(きようかい)〕」中国の本草書「神農本草経」(「鼠實」)や東洋文庫訳の割注(「めづみ草」)によれば、シソ目シソ科イヌハッカ属ケイガイ Schizonepeta tenuifolia のこととなる。ウィキの「ケイガイ」によれば、『薬用植物』とし、『中国原産の草本で花期は初夏から夏』。『花穂は発汗、解熱、鎮痛、止血作用などがあり、日本薬局方に生薬「荊芥(ケイガイ)」として収録されている。荊芥連翹湯(けいがいれんぎょうとう)、十味敗毒湯(じゅうみはいどくとう)などの漢方方剤に配合される。「アリタソウ」という別名がある。ただし、本種はシソ科であり、アカザ科のアリタソウとは全く別の物である』とある。

「橘〔(たちばな)〕」ここは「本草綱目」の記載であるから、バラ亜綱ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン属 Citrus のミカン類としか言えない。これを種としての「タチバナ」、ミカン属タチバナ(橘)Citrus tachibana ととってはいけない。同種は本邦に古くから自生している本邦の柑橘類固有種であるからである。近縁種にコウライタチバナ(高麗橘)Citrus nipponokoreana があるものの、これは現在、山口県萩市と韓国の済州島にのみしか自生してない(萩市の自生群は絶滅危惧IA類に指定されて国天然記念物)。

「生〔氣〕を催(はや)め」ここは訓点がおかしいので、独自に読んだ。「催生〔(さいせい)〕」と同じく、健全な生気を促進させるの謂いではあろう。

「脹刺して」意味不明。腹部が膨満して、刺すような痛みがあるということか?

「方寸の匕(さじ)」東洋文庫訳では割注で『茶さじ一杯』とする。

「兔の毛〔にて製したる〕敗筆(ふるふで)【燒き灰とす。】〔は〕小便〔の〕不通及び難産を治す」何らかの類感呪術と思われるが、最早、その謂れが判らぬ。

「慈圓」「拾玉」「何となく通ふ兔もあはれなり片岡山の庵〔(いほ)〕の垣根に」本歌は「夫木和歌抄」の「巻二十七 雑九」にも所収されていたので、「日文研」の「和歌データベース」で校合出来た。

「傳燈錄」「景徳傳燈録」。北宋に道原によって編纂された過去七仏から禅僧及びその他の僧千七百人の伝記を収録している(但し、実際に伝のあるものは九百六十五人だけ)全。三十巻。景徳元(一〇〇四)年に道原が朝廷に上呈し、楊億等の校正を経て、一〇一一年に続蔵に入蔵を許されて天下に流布するようになったため、当代の年号をとって、かく呼ばれるようになった。これ以降、中国の禅宗では、同様の伝記類の刊行が相次ぎ、それがやがて「公案」へと発展したとされる。参照したウィキの「景徳傳燈録」によれば、『現在もなお、禅宗を研究する上で代表的な資料であり、必ず学ぶべきものとされるが、内容は必ずしも史実とは限らない部分もある』とある。う~ん、確かに、この兎と馬と象の謂いは、これ、博物学的というより、まさに公案っぽいがね!

「宋史」「宋書」が正しい。中国二十四史の一つで、南朝宋の正史。全百巻。南朝梁の沈約(しんやく)が撰し、四八八年に完成した。

「越後兔」冒頭解説に出た、本邦産ノウサギの亜種の一つであるトウホクノウサギ Lepus brachyurus angustidens のこと。現在も「エチゴノウサギ」の異名が生きている。本州中部以北に棲息し、頭胴長は五十センチメートル内外。]

夜半の星 伊良子清白

 

夜半の星

 

天半(てんぱん)音無く

東海をのぼる星あり

八月上浣

冷露を浴びて

磯岸(きがん)に立つ

舟人(まなびと)はいと目敏(めざと)くて

すでに錨を拔きつ

暗黑の海なだらかにして

たたなはる四山死せり

淸き旦(あした)の來らんまで

なほここだくの時ぞあらん

萬象結びて蕾の如く

ひたすら祈願の夜半なり

 

[やぶちゃん注:次に注する「上浣」や「磯岸(きがん)」の伊良子清白にして特異な音読み、海と「たたなはる四山」(「疊(たた)なはる」は「幾重にも重なっている・重なり合って連なった」の意)のロケーションから、私は前の「聖廟春歌(媽姐詣での歌)」及び「大嵙崁悲曲(大溪街懷古)」に続く、台湾での嘱目吟がもとではないかと踏む。

「上浣」「じやうくわん(じょうかん)」と読み、上旬に同じい。「浣」は「濯(すす)ぐ」意で、唐代の制度では月の内、十日ごとに官吏に休暇を与え、自宅で入浴させたところから、十日を単位として「浣」或いは「澣(カン)」と称した。

「ここだくの時ぞあらん」「ここだくの」は「幾許(ここだ)くの」で、「相応に長い時間がまだあるようだ」の意。]

大嵙崁悲曲(大溪街懷古) 伊良子清白

 

大嵙崁悲曲

 (大溪街懷古)

 

大嵙崁城(だいこかんじやう)の石疊(せきるゐ)から

臭木(くさぎ)が生え綠珊瑚が茂り

日本が攻めた時の激情が產んだ

赤い生々(なまなま)しい傳說は消えた

仙人掌(しやぼてん)の籬(まがき)

栴檀(せんだん)の花が紫に薰(く)ゆつて

滿地の草露

星を踏む夜の引き明け

蕃山の煙仄(ほの)白く

耿々と南下する大溪

阿旦葉(あたんば)のおほひかぶさつた片蔭から

金の耳環の少女は

靑鷺のやうに

蹌踉と浮び出で

畫眉(ぐわび)ふすふすと

火を點ずる時

廢墟の一角

刑死人らしい志士の幽靈は

日の出前につつましく

朝の齋飯(とき)をうけるのです

 

[やぶちゃん注:素材とした体験地や、その推定時制は前の「聖廟春歌」の私の注を参照されたい。

「大嵙崁城(だいこかんじやう)」現在の桃園市大溪區中央路に「大溪古城遺跡」(グーグル・マップ・データ。以下同じ)があるが、この附近か。同データの画像を見ると、石組の建物が並ぶのが判り、その西直近を大漢溪という川が流れ(後に出る「大溪」である)、その対岸には「大溪大嵙崁人工湿地」という名の地域が確認出来る。

「臭木(くさぎ)」シソ目シソ科クサギ属クサギ Clerodendrum trichotomum。日当たりのよい原野などによく見られ、和名は葉に悪臭があることに由来する。中国・朝鮮及び日本全国に分布する。現代中国語の漢名は「海州常山」「臭梧桐」。

「綠珊瑚」キントラノオ目トウダイグサ科トウダイグサ属ミドリサンゴ Euphorbia tirucalliウィキの「ミドリサンゴ」によれば、『観賞用に栽培される。アフリカ東部周辺の乾燥地の原産と考えられるが、世界の熱帯に広く帰化している。ただし文献によってはインド原産でそこからアフリカ全土に定着したのではないかとするものもあり』、『原産地に関してははっきりとしていない』。なお、『この植物に含まれる乳液は、少なくとも人間にとっては有害なもので』、『全株、特に乳液に発がん作用のあるジテルペンエステルのホルボールエステル類などが含まれ』、『毒性が強いので注意を要する。目に入ると炎症を起こして』『激しい痛みを、皮膚につくと皮膚炎を、誤食すると吐き気、嘔吐、下痢を引き起こす場合があり』、『危険である。皮膚に乳液が付着した場合には、石鹸と水で念入りに洗浄すべきであ』り、『目に入った場合の対処方法としては、人の乳を用いるのが有効であるともいわれる』とある。ウィキには移入先に台湾が含まれていないが、同種或いは同属種と思われるものが、石垣島に移入されて植生していることがネット記載から判るので、台湾に植生していてもおかしくはないと思われる。

「日本が攻めた時」「日清戦争」の結果、「下関条約」によって台湾が清朝から日本に割譲されたのは明治二八(一八九五)年四月十七日であるが、これは台湾の人々にとっては侵略であり、占領に他ならなかった。その初期に於いて、ウィキの「日本統治時代の台湾」によれば、『台湾総督府は軍事行動を前面に出した強硬な統治政策を打ち出し、台湾居民の抵抗運動を招いた。それらは武力行使による犠牲者を生み出した』とある。

「仙人掌(しやぼてん)」ナデシコ目サボテン科 Cactaceae のサボテン類。

「栴檀(せんだん)」本邦にも植生するムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach と採ってよかろう。

「蕃山」(ばんざん)台北に同名の山があるが、ロケーションから違う。とすれば、「蕃」は一般名詞で、その場合、「草木が生い茂る」の意で採れる。別に「蛮」に通じ、未開の異民族や、それらの人々の住む未開の地の意があるが、伊良子清白の名誉のために私は前の意で採っておくことにする。

「阿旦葉(あたんば)」単子葉植物綱タコノキ目タコノキ科タコノキ属アダン Pandanus odoratissimus の葉。

「蹌踉」「さうらう(そうろう)」と読み、「足元がしっかりせず、よろめくさま」を言う。ここは単にイメージとしてのそれであるが、纏足の少女を想起させる。ウィキの「纏足」によれば、『中国大陸からの移住者が多く住んでいた台湾でも纏足は行われていたが、日本統治時代初期に台湾総督府が辮髪・アヘンとならぶ台湾の悪習であると位置づけ、追放運動を行ったため』、『廃れた』とあるから、既に若い少女のそれはなかったかも知れぬものの(伊良子清白が台湾に渡ったのは明治四三(一九一〇)年五月)、この後半部は一種の幻想世界への誘(いざな)いであるから、私は纏足の幼さの残る少女の娼婦、私の偏愛する芥川龍之介の「南京の基督」(大正九(一九二〇)年七月発表。リンク先は私の古い電子テクスト)の少女「宋金花」をイメージしてしまうのである。

「畫眉(ぐわび)」眉墨で眉を描くこと。また、その眉。転じて美人をも指す。そこに「ふすふすと」「火」が点ぜられるというシークエンスは強烈に妖なるもの凄さを持っている。

「廢墟の一角」「刑死人らしい志士の幽靈」無論、日本兵によって殺戮された若き台湾の青年志士である。ここも私は直ちに、芥川龍之介の名篇「湖南の扇」(リンク先は私の電子テクスト)を思い出さずにはいられない。

「齋飯(とき)」仏教では僧の戒律として、本来は正午を過ぎての食事を禁しており、食事は日に午前中に一度のみ許される(しかし、それでは実際には身が持たないので、時間内の正式な午前の食事を「斎食(さいじき)」「斎(とき)」と呼び、時間外の補食を「非時食(ひじじき)」「非時(ひじ)」と呼んだ。それらの語が時刻に関わるものであったところから、後に仏教では食事を「とき」と呼ぶようになった。さすれば、「とき」には「僧侶や修行者が戒に従って、正午前にとる正式な食事」又は「精進料理」、広く「法会の際に供される施食(せじき)」、果ては「法会や仏事の俗な呼称」になったが、ここはその本来の午前中の一度きりの「とき」の「斎料(ときりょう)」として殺された若き志士への少女の供物の意味で用いている。]

聖廟春歌(媽姐詣での歌) 伊良子清白

 

聖廟春歌

 (媽姐詣での歌)

 

   

 

華麗艶美な太陽に迎へられ

草の赤子(あかご)が鈴振り鈴ふり

血に慘(にじ)む荒野(あれの)の旅

蜜のやうな靈廟(れいべう)の地に

到り着いた恍惚の夕

「臺灣」は

航海から上陸した

南瀛(なんえい)の艶姿(えんば)

媽姐(まそ)の羽(は)がひの下で

暖(ぬ)くめられかい割れた

靑い白鳥の卵である

 

   

 

また參籠(さんろう)の夜半

裂帛(れつぱく)の女の肉聲が

赤い悲鳴の胡琴(こきん)から

金の鋭匙(えいび)で

絕美な嗟嘆(さたん)を剔(えぐ)り取る時

「臺灣」は

苦練(くれん)の花の香(にほ)ひに咽(むせ)んで

珠の廻廊(わたどの)月暗く

晝燭の影に鬼集(すだ)き

飛龍の浮彫(うきぼり)の

冷たい楹柱(はしら)にすがつて

銅鐡(てつ)の淚で

泣いて居るのを見る

 

   

 

夜は明け放れ

雪白の巖(いただき)は

東方に爽やか

寶玉の川水を掬(むす)んで

靑藍(せいらん)の旗に

陣容を改めた

露結ぶ月餠(げつぺい)を獻じて

最高神を敬せよ

莊嚴美麗の樓宮に

「臺灣」は

星の葡萄に飾られ

鬱蒼と茂つて

冨貴(ふうき)の相を具(そな)へ

不死の神靈に抱かれて

紅顏朱の如き

壯士と成つた

 

[やぶちゃん注:ここからは昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」の第三パート「南風の海」の電子化に入る。本大パート「南風の海」は同集の大パート「五月野」(詩集「孔雀船」からの九篇抜粋)と次の「鷗の歌」に続くもので、本「聖廟春歌」から「老年」までの全十七篇を収録するが、この十七篇は総て校異記載がない。則ち、初出も不明である。従って、この注は以下では繰り返さない。但し、本篇はロケーションが明らかに台湾であることから、創作時期は別として、実際の体験は、底本全集年譜から、伊良子清白が明治四三(一九一〇)年五月に台湾に渡って台湾総督府直轄の台中病院内科部に勤務して以降、日本に帰国するまでのそれに基づく。その後、同総督府台中監獄医務所長(明治四十五年四月)・同府防疫医(台北医院と台北監獄医務所の双方に勤務。大正五(一九一六)年七月から二月初めまで)を経て、同大正五年三月頃には大嵙崁(だいこかん:現在の中華民国(台湾)桃園市市轄区である大渓(たいけい)区(グーグル・マップ・データ)の日本占領当時の旧称)に移住して開業(次の詩篇「大嵙崁悲曲」はそこでの感懐を元に懐古して創作されたものと思われる)したが、十一月には台北に戻り、医務室を経営(同府鉄道部医務嘱託兼務)、翌大正六年十二月には北ボルネオのタワオへの移住を考え(診療所医師として単身赴任が条件であった)、翌年には渡航するはずであったが、南洋開発組合の中の有力者の一人の、個人的な横槍によって移住が承認されず、万事休すとなる。大正七年三月末、思い立って、台中・台南・橋頭・阿猴を旅し、同年四月上旬、内地帰還を決意、妻幾美(きみ)とともに四月十九日に神戸に入港している。以上、この明治四三(一九一〇)年五月から大正七(一九一八)年四月上旬までの約八年間が伊良子清白の台湾体験の閉区間である。本篇は詩篇の内容から、明治四三(一九一〇)年五月に台湾渡航直後の嘱目をもとにしていると読める。五月で「春歌」はやや遅い感はあるが、新天地での始まり、媽姐への祝歌として相応しいと私は思う。篇中の「一」~「三」のそれは太字ゴシックである。

「媽姐」ウィキの「媽姐」によれば、『媽祖(まそ)は、航海・漁業の守護神として、中国沿海部を中心に信仰を集める道教の女神。尊号としては、則天武后と同じ天后が付せられ、もっとも地位の高い神ともされる。その他には天妃、天上聖母、娘媽がある。台湾・福建省・潮州で特に強い信仰を集め、日本でもオトタチバナヒメ信仰と混淆しつつ』、『広まった』。中国語では、『親しみをこめて媽祖婆・阿媽などと呼ぶ場合もあ』り、『天上聖母、天妃娘娘、海神娘娘、媽祖菩薩などともいう』。『「媽」の音は漢音「ボ」・呉音「モ」で、「マ」の音は漢和辞典にはない』。しかし、中国語では「」(マァー:一声。高い音程を保ちながら、そのまま伸ばす)であり、台湾語でも「」(マァー:三声。中音から始め、ゆっくりと低音に移動し、一気に中音に戻す音)である。『媽祖は宋代に実在した官吏の娘、黙娘が神となったものであるとされている。黙娘は』建隆元(九六〇)年、『興化軍莆田県湄州島の都巡林愿の六女として生まれた。幼少の頃から才気煥発で信仰心も篤かったが』、十六『歳の頃に神通力を得』、『村人の病を治すなどの奇跡を起こし』、『「通賢霊女」と呼ばれ』て『崇められた。しかし』、二十八『歳の時』、『父が海難に遭い』、『行方知れずとな』ってしまい、『これに悲嘆した黙娘は旅立ち、その後、峨嵋山の山頂で仙人に誘われ』、『神となったという伝承が伝わっている』。『なお、父を探しに船を出し』たが、『遭難したという伝承もある。福建連江県にある媽祖島(馬祖列島、現在の南竿島とされる)に黙娘の遺体が打ち上げられたという伝承が残り、列島の名前の由来ともなっている』。『媽祖信仰の盛んな浙江省の舟山群島(舟山市)には』、『普陀山・洛迦山があり』、『渡海祈願の神としての観音菩薩との習合現象も見られる。もともとは天竺南方にあったとされる普陀落山と同一視された』ものである。『媽祖は千里眼(せんりがん)と順風耳(じゅんぷうじ)の二神を脇に付き従えている。この二神はもともと悪神であったが、媽祖によって調伏され』て『改心し、以降』、『媽祖の随神となった』とされる。以下、「各地の信仰」の「台湾」の項。『台湾には福建南部から移住した開拓民が多数存在した。これらの移民は媽祖を祀って航海中の安全を祈り、無事に台湾島へ到着した事を感謝し』、『台湾島内に媽祖の廟祠を建てた。このため』、『台湾では媽祖が広く信奉され、もっとも台湾で親しまれている神と評される事も多い』。『台湾最初の官建の「天后宮」は台南市にある大天后宮であり、国家一級古蹟に指定された』。しかし、『この媽祖信仰は日本統治時代末期に台湾総督府の方針によって一時』、『規制された。なお』、台北最大規模であった台北にあった彼女を祀る「天后宮」は一九〇八年(明治四一年)に台湾総督府によって撤去されてしまい、『かわりに博物館(』現在の『国立台湾博物館)が建てられた』(同博物館は台北市中正區のここ(グーグル・マップ・データ))。『日本統治の終了後は再び活発な信仰を呼び、新しい廟祠も数多く建立されるようになった。なお毎年旧暦の』三月二十三日は『媽祖の誕生日とされ、台湾全土の媽祖廟で盛大な祭りが開催されている』とある。この下線太字部から考えると、伊良子清白は見たのは、この「天后宮」ではあり得ないことになる。私は当初、日本からの渡航船は台北に着くものとばかり考えていたが、彼が務めたのは台中であるから、或いはこれは、船が台北を経由後、台中へ行き、そこで下船して、台中にあった媽姐の廟を訪れたものかも知れない。台中市には彼女を祀った「大甲鎮瀾宮」(俗称で「大甲媽祖廟」「大甲媽」と称し、清の一七三〇年に創建され、現在の中華民国臺中市大甲區順天路にある。グーグル・マップ・データ。同データの画像を見ると、その絢爛さと今も続く信仰の厚さがよく判る)がある。伊良子清白が見たのはここかも知れない。

「南瀛(なんえい)」「瀛」には「大海」「広い海」の意味もあるが、台湾の古地名として「南瀛」があり、その昔、そこには多くの文人が集まっていたともいう。これは台湾の南部(或いは狭義の台南地区)の総称でもあるようで、現在も台南大内区には「南瀛天文教育園区」という施設地区がある。

「艶姿(えんば)」漢語の国に来た伊良子清白にして初めての土地なればこそ従って使った言葉(音)であろう。

「媽姐(まそ)の羽(は)がひの下で」媽姐の守護下にあることの比喩表現と採れるが、媽姐には「天妃(てんぴ)」「天后聖母(てんこうしょうも)」の異名もあるから、羽があっても一向におかしくはないであろう。

「鋭匙(えいび)」現行、鋭匙(えいひ)と呼び、先端がスプーン状になっている、病巣の掻破や骨の組織の除去などの際に使用する医療器具の呼称であるから、医師である伊良子清白には馴染みの語ではなかったか。

「楹柱(はしら)」「はしら」は「楹柱」二字へのルビ。「楹」は「丸く太い柱」の意で、聖廟のそれを指している。

「銅鐡(てつ)」「てつ」は「銅鐡」二字へのルビ。

「靑藍(せいらん)の旗」青や藍は中国の伝統色である。]

2019/04/21

南の家北の家 伊良子清白 (『白鳩』発表の別ヴァージョンの抜粋改作版)

 

南の家北の家

 

  

二歲木(さいぎ)低く山を蔽ひて

蕈(くさびら)かくるゝ草の上に

獅子の形(かたち)したる巨巖(おほいは)

幾つとなく峙(そばだ)ち

霜に飽きたる紅葉(もみぢ)の樹々は

谿(たに)と言はず嶺と言はず

麓と言はず染め盡して

朝な朝な雄鹿の群の角振り立てゝ

彼方の岸より此方の岸に

白く泡立つ水を越えて

早瀨の石を啼き渡る頃

茨に閉せる古き祠(ほこら)は

扉の鋲に露をふきて

百歲曇らぬ神の鏡

月輪懸(かゝ)ると社壇に見えぬ

 

祠の北の椋(むく)の大樹(をほき)を

右に曲りて坂を下れば

半ば岩窟(いはや)半ば黑木

萱(かや)を葺きたる杣小屋(そまごや)あり

祠の南の竹林(たけばやし)過ぎて

雞(とり)の聲朗らにきこえ

こはまた紅葉(もみぢ)の懷子(ふところご)とも

いふ可く景有る藁屋(わらや)立てり

北には母持つ若人(わかうど)一人(ひとり)

山に育ちて火性(ひしやう)の星の

今年二十(はたち)の腕を揮ひ

額の汗もて神人人(しんじんびと)に

廣く下せし生活(たつき)の物を

正しき價(しろ)もて我手に受けぬ

南はあらき父の手より

成長(ひとゝなり)たるわかき處女

春秋(はるあき)司(つかさ)の二人の姬の

形(かたち)を具したる面(おもて)花やかに

竹割る父の業(わざ)を助けて

優(いう)なる手籠を編みし事あり

元來(もとより)兩家は往來(ゆきゝ)繁く

親戚(みより)のごとき交際(なからひ)なれば

彼に枯木を集めし折は

此(これ)に水汲み湯をたてゝ待ち

此に蕨の飯炊(いひかし)ぐ間に

彼は煤けし瓢(ふすべ)を拭きぬ

二條(ふたすぢ)三條林を穿ち

山の諸所(こちごち)印(つ)けたる道は

平和の神の守らせ給ひ

妙(たへ)なる草木の花の香匂ふ

見れば高山(たかやま)雪を帶びて

塔(あらゝぎ)聳ゆる雲の飾(かざり)

餘流(なごり)は遙かに國を傳ひ

煙(けぶり)の廣野を前に盡きぬ

村里(むらさと)遠近(をちこち)森に倚りて

燦爛(きらゝ)の白壁千々に輝き

河の帶もて珠と貫きぬ

山の瞳か二つの家は

げにこの木暗(こぐれ)に世を見るものは

二つの家の圓(まろ)き窓のみ

されど紅(あか)き日(ひ)扇(あふぎ)を閉ぢて

夜(よ)の黑幕を垂るゝに及び

戶を固くして眠りし後(のち)は

天(そら)に彫める不滅の文字(もんじ)

銀河の砂(いさこ)岸に溢れて

星の宴の場(には)とぞ成れる

  

斯(かゝ)る詩卷(しくわん)の紙(かみ)を年(とし)に

三百あまり繰りかへしつゝ

其繪は曾て變らざりき

されば人の世神の攝理

恆河(ごうが)の砂も乾く時は

撫子花咲き雲雀巢(す)ぐひて

趣味ある草野と變る習ひ

人の心にこぼるゝ種を

培ふ造化の力いみじく

今見よ二人の靈(れい)のうごき

日は深秋(ふけあき)の林の奧に

沈(しづ)みの名殘(なごり)を葉末に染めて

目路(めぢ)皆黃ばめる雜木(ざふき)の夕(ゆふべ)

折ふし老木(おいき)の幹にもたれ

互(かたみ)に若きが心うつす

忘我(わすれが)の境(さかひ)を光明(ひかり)流れ[やぶちゃん注:「ひかり」は「光明」の二字へのルビ。]

此時睦(むつみ)の魂(たま)は合ひ

常春(とこはる)百千(ももち)の花のさかり

騎りの御國(みくに)に遊びけらし

眼(まな)ざしおぼろに霞を帶びて

たゆげにまきたる頸(うなじ)のめぐり

男の腕(かひな)は鬢(びん)をおせど

夢見る少女(をとめ)の眼(まみ)の上に

彌生の空なる彩を曳きて

あこがれ限りも知らずげなる

渴きは面(おもて)の色に見えぬ

こは美はしき戀の掛繪

山路(やまぢ)の紅葉(ももぢば)框(わく)を組みぬ

斯くてぞ小女(をとめ)は山に入りて

日每に枯枝集むと號(なの)り

男は木屑を道に撒きて

戀人迷はんしるべと成しぬ

蜘蛛の網小女(をとめ)の顏にかゝり

茨は木樵(きこり)の指を染めて

人里(ひとざと)離れし奧所(おくが)乍ら

戀にはさはりの絕えぬを泣きぬ

いつしか紅葉(もみぢば)霜に敗れ

空癖(そらぐせ)時雨の冬に成れば

谷川(たにがは)淺く乾瀨(からせ)をつくり

岩壺の澄みたる水に

底深く沈む木の枝(ゑだ)

瀨の魚は簗(やな)の破れの流れを上り

石疊(いしだゝみ)木(き)の陰(かげ)暗き淵に津(とま)り

草村の蟲は穴を求めて赤土の

雨無き所霜負(しもまけ)の枯生(かれふ)に隱る

物を燒く竃の烟

白くのみ立のぼりつゝ

その烟棚引く時は

軒を行く一村時雨

冬籠(ふゆごもり)木部屋(きべや)の屋根を

杉皮に厚く繕ひ

大雪の用心すると

置石の數を減らしつ

葡萄畠(ぶだうはたけ)竹棚(たけだな)解きて

古蓙(ふるござ)に幹を被ひぬ

裏木戶に釘打つ音は

からびたる山に木精(こだま)し

猪垣(しゝがき)の石冬ざれて

ふくれたる野鳩ぞとまる

唐臼(からうす)を門(かど)より下ろし

南の軒を支へて

きたかぜあふせ

北風の荒るゝを防ぎぬ

鷄(にはとり)は藪を求食(あさ)りて

枯殘る菊を啄み

くゝと啼きて人につかねば

捨飼(すてがひ)の世話なかりしも

藪寒く冬來(く)るまゝに

仕事場に上ぼる日多く

籠に伏せて籠の窓開けて

餌(え)を撒く要(よう)なき手數(てかず)[やぶちゃん注:「餌(え)」はママ。]

山かげは日の影薄く

張付(はりづけ)の糊は乾かず

藪の前(まへ)風强くして

干飯(ほしいひ)の席(むしろ)ぞ卷かる

炭俵空(あ)きたる燃(もや)し

爐の灰を換へてやおかん

菅笠の紐を固くし

蓑の緖(を)も結(むす)ひなほしたり[やぶちゃん注:「結(むす)ひ」はママ。]

數多き仕事の中に

山里は冬早くして

雪もよひ雲惡しき日も

珍(めづ)らかん思はざりける[やぶちゃん注:「珍(めづ)らかん」はママ。]

 

[やぶちゃん注:前の「山家冬景(斷章)(「南の家北の家」より拔抄)」で注した通り、明治三三(一九〇〇)年十一月発行の二冊及び十二月発行の一冊の『文庫』に三回に分割して発表された長篇の物語詩「南の家北の家」を、抜粋して手を加えた、明治三九(一九〇六)年四月発行の『白鳩』掲載版の改作版「南の家北の家」である。元は題と上・下を除き、詩行本文ほぼ総ルビであるが、流石に、初出のそれも電子化したし、断章抜粋版も示したからには、一部のルビは五月蠅いだけであるから、私の判断で、振れると感じたもののみのパラルビで電子化した。なお、本篇を以って、昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」の、「避暑の歌」に始まった大パート「鷗の歌」は終わっている。]

山家冬景(斷章) (「南の家北の家」より拔抄) 伊良子清白

 

山家冬景(斷章)

 (「南の家北の家」より拔抄)

 

 

    ×

 

山の家は紅葉散りしより

色の彩(あや)剝(は)げたるあとの

荒彫の木偶(でく)の如く

常盤木の葉のみ黑みて

谷川の水は瘦せ

底深く沈む木の枝

衣(きぬ)浣(あら)ふ手の皹(ひび)いたく

水桶を擔(かた)げて登る

坂路に草履は滑(す)べる

さし覗く岩角高く

舞ひ下る落葉頻りなり

瀨の魚は梁の破れの流れを上り

石疊(いしだたみ)木の蔭暖(ぬく)き淵にぞ津(とま)る

草村の蟲は穴を求めて

赤土の雨無き所

霜負(しもまけ)の枯生に陰る

荊薪(おぴろ)たく竃の煙[やぶちゃん注:「おぴろ」は不詳。薪(たきぎ)のこととは思われる。]

白くのみ立のぼりつつ

その煙棚曳く時は

軒を行く一村しぐれ

冬籠(ふゆごもり)木部屋の屋根を

杉皮に厚く繕ひ

大雪の用心すると

置石(おきいし)の數を減らしつ

葡萄畠竹棚解きて

古茣蓙(ふるござ)に幹を被ひぬ

裏木戶に釘打つおとは

からびたる山に木精(こだま)し

猪垣(ししがき)の石冬ざれて

ふくれたる野鳩ぞとまる

雞は藪を求食(あさ)りて

枯れ殘る菊を啄(ついば)み

くくと噴きて人につかねば

拾飼(すてがひ)の世話なかりしも

藪寒く冬來るままに

仕事場に上ぼる日多く

籠(こ)に伏せて籠の窓開けて

餌(ゑさ)を撒く要なき手數

山陰は日の影うすく

張付の糊は乾かず

藪の前風强くして

病葉(わくらば)の枯笹捲かる

南壁干菜(ほしな)黃ばみて

唐辛子の紅(あか)きとほめき

冬乍ら小鳥來にけり

日だまりに針箱運び

何くれと繼(つぎ)を集めつ

剪刀(はさみ)の音ききゐたりけり

 

   ×

 

其夜の風は雪と成りて

後夜(ごや)すぐる頃はたと凪(な)ぎぬ

背戶(せど)の林に木の折るる音

谷の峽間(はざま)に猿の叫ぶ聲

一時(ひととき)斷えては一時續き

なほしんしんと積る雪に

老の寢醒の母は起(た)ちて

雨戶の隙より外をすかし

 

ほのかに煙る空を覗けば

霏々(ひゝ)として降る六つの花

夜は混沌の雪に閉ぢて

幽か(かす)に遠き闇の彼方

鄰の雞(かけ)は時をつくりて

まだ夜の深きを人に告げぬ

彿名(みな)を唱へて枕に就けば

雪の明りにいよいよ暗く

わが兒の寢姿さながら夢の

花の臺(うてな)に見たる如く

深き追懷(おもひで)老いたる人の

袖は慈愛の淚にぬれぬ

 

   ×

 

姿勝(すぐ)れし山の少女(をとめ)の

火影(ほかげ)に榮(は)ゆる白き面(おもて)は

春の陽炎(かげろふ)珠あたたかに

大空わたる白鵠(くぐひ)のとりか[やぶちゃん注:「白鵠(くぐひ)」白鳥(ハクチョウ)のこと。]

その時雪は少歇(をや)みと成りて

風一煽(あふ)り山より下ろし

竹の葉雪をふるひおとせば

後に彈(はじ)く幹の力に

三本(もと)四本(もと)强く打たれて

戛々(あつかつ)と鳴る琅玕(らうかん)靑く

頽雪狼籍竹影婆娑

皆紅(くれなゐ)の爐火に映(うつ)りぬ

 

[やぶちゃん注:標題から判る通り、既に電子化した、明治三三(一九〇〇)年十一月発行の二冊及び十二月発行の一冊の『文庫』に三回に分割して発表された長篇の物語詩「南の家北の家」を抜粋して手を加えて、改題したものである。伊良子清白はよほど本長篇詩に思い入れがあったものらしく、初出の電子化注でも示したように、複数回の抄出改作を行っている。次回、その別な改作版「南の家北の家」(明治三九(一九〇六)年四月発行の『白鳩』掲載版)を電子化する。]

太平百物語卷二 十 千々古といふばけ物の事

 

太平百物語卷之二

    ○十 千々古(ちゞこ)といふばけ物の事

 或城下の事なりし。大手御門の前に、「ちゞこ」といふばけもの、毎夜毎夜、出づるよしをいひ傳へて、日暮(ひぐれ)ては、往來の人、搦(からめ)手の御門へ廻りて、用の事はとゝのへける。

 然るに、其家中に小河多助とて、不敵の若侍ありけるが、

『彼(かの)「ちゞこ」を見屆(とゞけ)ばや。』

とおもひ、ひそかに夜(よ)に入て、大手の御門の前に行き、爰(こゝ)かしこ、うかゞひみるに、げに、人のいふに違(たが)はず、ばけ物こそ出(いで)たれ。

 其形(かた)ちを、よくよくみれば、鞠(まり)の如くなる物にて、地に落(おち)ては、又、中(ちう)にあがり、西に行き、東に走る。動く度(たび)に、何やらん、物の音、しけり。

 多介、ふしぎにおもひ、心靜(しづか)に樣子を見定め、さあらぬ躰(てい)にて、其邊りを行過(ゆきすぎ)る時、彼(かの)ばけ物、多介が前後を飛(とび)上り、とびさがりて、程なく、多介が頭に、

「どう。」

ど、落(おつ)るを、すかさず、刀を、

「すらり。」

と、ぬき取(とり)、手ばしかく切付(きりつけ)ければ、きられて、地にぞおちたりける。

 多介、やがて、飛かゝり、引(ひつ)とらまへて、膝(ひざ)に敷き、大音聲(おんじやう)にのゝしりけるは、

「音に聞へし『千々古』の化物こそ仕留(しとめ)たれ。出合(ではへ)や、出合や、人々。」

と、聲をばかりに呼(よば)はりければ、其邊の家々より、手に手に挑灯(ちやうちん)ともし、つれ、

「御手柄(てがら)にさふらふ。」

とて、立寄(たちより)、その正体(しやうたい)をみるに、化者(ばけもの)にはあらで、誠(まこと)の鞠(まり)なり。

 引(ひき)さきて、内(うち)をみれば、ちいさき鈴を入置(いれおき)たりければ、多介を始め、人々、あきれて、はては、大きにわらひ合(あひ)けり。

 後(のち)にきけば、しれ者共(ども)が工(たく)みて、兩方より繩を張(はり)、此まりを中(ちう)にゆひ付(つけ)、夜な夜な、人をおどし、戲(たはぶ)れけるとぞ。

[やぶちゃん注:本書で初めての擬似怪談でそれも、やや変な連中(それも複数)がやらかした、迷惑極まりない新妖怪系の都市伝説(urban legend)である。

「千々古(ちゞこ)」不詳。どうも、本作の本話のオリジナルな人造似非妖怪名のようである。或いは、以下の意味の類似性からは、その犯行グループが面白がって作って流した名前のような気さえしてくる。恐らくは、近世口語として既に発生していたであろう、「縮(ちぢ)こまる・縮かまる」(自動詞ラ行四段。「人や動物が体を丸めて小さくなる。縮まる」。小学館「日本国語大辞典」の古文の使用例では江戸末期の人情本「春色恵の花」(天保七(一八三六)年であるが(本「太平百物語」は享保一七(一七三三)年刊)、現在の方言では「かがむ・しゃがむ・蹲(うずくま)る」等の意でも東北地方などで各地に見られることから、発生はもっと古いと思われる。或いはそのプレ単語表現が元かも知れない)の意味を含ませたものであろうと思われる。

「手ばしかく」不詳。但し、思うに、これは「手ばしこく」で、「素早い」の意の「手捷(てばし)こし」という形容詞ク活用の連用形「てばしこく」の誤用か、訛りではないかと私は考える。

「挑灯(ちやうちん)ともし、つれ」「つれ」は「連れ」でラ行下二段活用の連用形で、「おのおの提灯を灯して、連れ立ってやって来て」の意。]

太平百物語卷一 九 經文の功力にて化者の難遁れし事

Kyoumonkuriki

    ○九 經文の功力(くりき)にて化者(ばけもの)の難遁(のが)れし事

 或僧、丹波の國を修行せられける時、「村雲(むらくも)の山」といふ所にて、日、暮れければ、上の峠に家(いへ)のありしを求めて、宿(やど)をこひけるに、年の比(ころ)、十二、三斗(ばかり)なる童一人出でて、宿をゆるしぬ。

 内に入りてみれば、あるじは七十あまりの姥(うば)なりけらし。

 其顏(かほ)ばせ、世にすさまじく、目のうちは水晶を磨きたるが如くなりしが、此僧をみて、

「につこ。」

と笑ひて、いひけるは、

「旅僧(りよそう)は何方(いづかた)より、いづくへゆかせ玉ふぞ。」

と問ふ。僧、こたへて、

「われらは何國(いづく)をそれと定むる事、なし。出家の事にさふらへば、命の限りは國々を廻(めぐ)り侍る。」

と申されければ、姥、聞きて、

「扨(さて)は、やさしき御志しにて社(こそ)候へ。今宵は、わらはが家(いへ)に明させ玉へ。見ぐるしく候へど、あれに、一間(ひとま)の候。」

とて、さきの童子にあなひさせければ、此僧も心をやすんじ、一間に入しが、折しも、軒の透間(すきま)より月の影、幽(かす)かにさし渡りければ、

   秋の雨なごりの空ははれやらで

     なを村雲の山の端の月

[やぶちゃん注:「なを」はママ。]

とよみしむかしのことの葉までも、いとゞあはれにおもひいでられ、心靜(しづか)に御經を讀誦(どくじゆ)し居(ゐ)けるに、夜(よ)も更行(ふけゆき)て、納戶(なんど)の内(うち)に、物くらふ音の聞へしが[やぶちゃん注:ママ。]、偏(ひとへ)に、魚(うを)などの骨を、かむやうに聞へしほどに、此僧、あやしみおもひて、杉の戶の間(ひま)より、そと、のぞき見れば、死人(しにん)の腕を取つて、

「ひた。」

と喰(くら)ひけるが、肉の所は、わけて、童子にあたへ、骨と覚しき所は、姥、取くらひぬ。

 此僧、此ありさまを見て、大きにおどろき、

『扨は、世に聞ゆる「山うば」ならめ。此人を喰(くひ)おはらば、終(つゐ[やぶちゃん注:ママ。])には、われらをも取りくらはん。』

とおもふに、肝(きも)・たましゐも身にそはず、あきれはてゝ居(ゐ)たりしが、

『とても、遁(のが)れんとすとも、かなふまじ。所詮、此所に露命(ろめい)を落さんこそ安からめ。』

と思ひ極めて、一心不乱に御經を讀誦し、更に餘念もなかりしが、此姥、死人どもを喰(くら)ひしまひて後(のち)、童子に、いふ。

「何(なに)と、食(しよく)に飽(あき)たるや。」

と。

 童子、かぶりをふりて、

「未(いまだ)あかず。」

といへば、姥、点頭(うなづい)て、

「さこそあらめ。明日(あす)は又、飽くまで喰(くら)はせんに。待(まち)候へ。」

といふ。

 童子、こたへて、

「こよひ、宿まいらせし客僧こそ、肉あひもふとくて、味よからんに、与へ玉へ。」

と、いふ。

 姥がいはく、

「我もさはおもへど、宵より少しもまどろまずして、偏(ひとへ)に經文をのみ誦しゐ侍る程に、我(われ)、いとまを得ず。」

と、いふ。

 此僧、始終を聞(きゝ)て、いよいよ、身心(しんじん)、安からず、偏(ひとへ)に死出(しで)の山路(やまぢ)に迷(まよひ)たる亡者の、ごくそつに逢(あへ)る心地して、いと淺ましくおもひ、猶も、高らかに御經を讀上(よみあげ)ければ、童子、重(かさね)て、いふ。

「いかに經文を讀むとも、われ、行(ゆき)て、喰殺(くひころ)さん。」

と、進み行を、姥、おさへて、いはく、

「汝が及ぶ所にあらず。さあらば、我、行きて、先(まづ)、試みん。」

とて、かの僧の傍(そば)ちかく伺ひ寄(より)しを、此僧、しらぬ顏にて、眼(まなこ)を閉(とぢ)、いよいよ、御經、怠る事、なし。

 時に此姥、折りをみて、飛びかゝつて喰付(くひつか)んとせしが、此僧の姿、俄(にはか)に不動尊の形(かた)ちに見へて[やぶちゃん注:ママ。]、いとおそろしかりければ、中(なか)々、寄(より)もつかれぬに、讀み上ぐる經文の聲、姥(うば)が身節(みふし)にこたへて、殊(こと)なふ苦しかりければ、力(ちから)なく退(しりぞ)きしが、兎角する内、夜もしらじらと明けければ、此僧は、何となく、

「緣あらば、又、參らん。」

などいひて、此宿を出(いで)ければ、姥も童子も、名殘(なごり)おしげに、見おくりしが、辛(から)きいのちを助りて、何事なくぞ、出でられける。

 これ、偏(ひとへ)に經文の功德(くどく)とぞ、聞(きく)人、感を催しける。

 今も此國には、かゝるおそろしきものゝ有(ある)よし、聞へ侍りぬ。

 

太平百物語卷之一終

[やぶちゃん注:「丹波の國」「村雲(むらくも)の山」諸情報を勘案すると、恐らくは兵庫県篠山市東本荘字城山の西の、この「松ヶ鼻」の東北の、この地図の(国土地理院図)中央の小さなピーク(標高三百三十一メートル)ではないかと思われる(グーグル・マップ・データの航空写真はこちら)。

「秋の雨なごりの空ははれやらで」「なを村雲の山の端の月」「とよみしむかしのことの葉」とくれば、誰か知られた歌人の一首であろう、それらしい歌ではある、などということになるのであるが、知らない。少なくとも八代集にはない。主人公は僧なので、西行も調べてはみたが、なさそうだ。そもそもが「秋の雨」という歌い出しは、近代短歌ならまだしも、何となく洗練された古形の感じじゃあないように思われる。私は和歌嫌いなので、ご存じの方は御教授願いたい。]

太平百物語卷一 八 調介姿繪の女と契りし事

 

    ○八 調介(てうすけ)姿繪(すがたゑ)の女と契りし事

 出雲に調介といふ大百姓あり。

 或日、朋友の許(もと)に罷(まか)りて、世上の物がたりをし居けるが、床のかけ物をみれば、いと美しき女の姿繪なり。調介、傍(そば)ちかく寄(より)て見るに、其うるはしさ、生(いけ)るが如くなりければ、やゝみとれ居たり。

 亭[やぶちゃん注:ママ。](あるじ)のいふ、

「いかに、調介殿。世には名畫もある物かな。われ、近比(ちかごろ)、都に登りしに、或人、所持したりしを所望し、求め來りし。」

と語る。

 調介がいふ、

「誠に。かゝる美女、若(もし)、人間にあらば、われ、財宝を擲(なげう)つとも、おしからじ。」

といひければ、亭主(あるじ)、此よしを聞、調介が傍ちかく寄(より)て、いふ樣、

「実(まこと)、さ樣に覚し召(めさ)ば、我、常に聞きおける祕術あり、試(こゝろみ)になして見給ふべきや。」

といふ。

 調介、笑つて、

「いかなる事にや。」

とゝへば、

「されば。此繪を、人間になすの奇術なり。」

といふを、調介、きゝて、

「御身はわれをあざむき玉ふや。これ、おそらくは戲言(たはごと)ならん。」

と、曽(かつ)て信ぜず。

 亭主(あるじ)のいはく、

「われも、未だ、其眞僞をしらずといへども、此術傳へし事は眞実なり。然ども、御身のごとく、疑(うたがひ)の心つよくして、其行(おこなひ)、努(ゆめ)々、行はれず。貴殿、ふかく此繪に執著(しうぢやく)するゆへ[やぶちゃん注:ママ。]申たる也。强(あなが)ちに勸め申には、あらず。」

といふに、調介、亭主を拜して、

「これ、わが過(あやまち)なり。願はくは、其術を授け玉へ。」

と、おもひ入て、こひければ、

「然る上は傳ふべし。わがいふ所を、よく、つとめたまへ。まづ、此繪を御身に與ふるなれば、私宅(したく)に歸りて、密室に閉籠(とぢこも)り、此繪にむかつて、『眞(しん)々』と呼(よび)玉ふ事、每昼夜、百日し玉へ。此事、一日も怠り給ふべからず。扨、百日滿(まん)ずる時に、此繪、かならず、應(おふ/こたへ)ぜん。其時、八年の古酒(こしゆ)をもつて、其顏に灌(そゝ)ぎ給へ。掛繪(かけゑ)をはなれて、人間とならん。穴(あな)かしこ、此行ひ、人に見せ給ふべからず。」

と敎へければ、調介、斜(なのめ)ならず、よろこび、

「是、わが一生の本望(ほんもう)、君が高思(かうおん)、重(かさね)て報ぜん。」

とて、頓(やが)て、わが家(や)に歸り、おしへのごとく、百日、丁寧に勤しかば、ふしぎや、此繪、調介に、言葉をかはす。

 時に、八年の古酒をもつて、面(おもて)に灌ぎしかば、忽ち、掛繪をはなれて、飛(とび)出たり。

 調介、試(こゝろみ)に、先(まづ)、飮食(いんしよく/のみくひ)をさせけるに、常の人に変る事なく、よく、物いひ、打ゑみければ、調介、かぎりなくよろこび、此女と、ふかく契り、年(とし)月をかさねければ、終(つひ)に一子(いつし)を儲(まふ)けたり。

 調介、いよいよ、いとおしみ、彼(かの)傳へし朋友の許(もと)に數の寶をおくりて、恩を謝しけるが、其後、石見(いはみ)より、調介が從弟(いとこ)進兵衞といふもの、訪(とぶら)ひ來りて、山海隔(さんかいへだ)てし疎遠を語り、互ひの無事をよろこびけるが、調介が妻子をみて、其みめ能[やぶちゃん注:「よく」。]、淸らかなるを誉めて、

「何方(いづかた)より迎へ玉ひし。今迄、しらせ玉はぬこそ、遺恨なれ。」

といふに、調介、小聲になりて、「しかじか」のよしを委(くは)しく語りければ、進兵衞、始終をきゝ、大きにおどろき、

「是、天理に違(たが)へり。おそらくは妖術ならん。われ、幸(さひはひ)に希有(けう)の名劍を帶(たい)せり。しばらく、御身にかし與へん。必ず、此妖婦を殺し玉へ。害(がい)し玉はずは、後、大きなる災(わざはひ)あらん。くれぐれ、まどひて、執着(しうぢやく)したまふな。」

と、にがにが敷[やぶちゃん注:「しく」。]いひしに、調介も『此事、如何(いかゞ)』と、未(いまだ)決せざりしが、まづ、進兵衞が心ざし、背(そむき)がたくして、彼(かの)名劍を預り置ぬ。

 其後、此妻、調介にむかひて申けるは、

「われは、是、南方(なんぼう)に住む地仙(ちせん)なり。たまたま、御身に招かれ、此年(とし)月、契りまいらせしに[やぶちゃん注:ママ。]、はからずも、進兵衞の言葉によりて、御身にうたがはれ參らせぬ。然る上は、われ、此所に留(とゞま)る事、あたはず。」

とて、彼(かの)一子を抱(いだき)て、はじめ、調介が灌ぎたる古酒を、悉く、吐(はき)いだし、空中に去(さり)ければ、調介、かぎりなくおしみかなしめども、甲斐なかりけり。

 餘りの戀しさに、彼(かの)掛物の巣(す)を取出し、見けるに、ふしぎや、此女、彼(かの)一子を抱きて、歷然たり。

 調介、おどろき、よくよくみれば、母子(ぼし)ともに繪なり。

 餘りふしぎの事におもひて、或博識の僧に、さんげして、事の樣(やう)を尋(たづね)ければ、此僧のいはく、

「かゝる例(ためし)、唐土(もろこし)の書にも似たる事あれば、わが朝にも有るまじき事にあらず。」

と宣ひけるとかや。

 不思議なりし事にこそ。

[やぶちゃん注:「掛物の巣(す)を取出し」の「巣」が判らぬ。何らかの漢字の誤記を考えたが、諸本、孰れも「巢」「巣」である。或いは、「その女性がもともと居たところ」の意でかく用いているのかも知れない。

 既に同工異曲でハッピー・エンドの「御伽百物語卷之四 繪の婦人に契る」を電子化注しているが、その最後で示した、元末の一三六六年に書かれた陶宗儀の随筆「輟耕録」巻十一にある幻想譚「鬼室」の後半部が本話の種本である。そこでは、白文でしか示さなかったので、ここで訓読を試みておく(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」にある承応元(一六五二)年版「輟耕録」に附された訓点を参考にしたが、従っていない部分もある。注は総てオリジナル。私は専門家ではないから、くれぐれも御自身で原文に当たられんことを)。太字部分がそれである。

   *

溫州は監郡の某の一女、笄(かんざし)せる及ぶも、未だ室を岀でず。貌、美しくして、性も慧なり。父母の鍾愛する所の者なり。疾ひを以つて卒す。畫工に命じて其の像を寫す。歲序(さいじよ)[やぶちゃん注:毎年の命日の意であろう。]には張り設けて哭奠(こくでん)[やぶちゃん注:朝夕の弔いであろう。]。常の時には、則ち、之れを庋置(きど)す[やぶちゃん注:棚に仕舞い置くことか。]。任、滿ちて、偶(たまたま)取り去ることを忘る。新しき監郡、復た是の屋に居す。其の子、未だ婚せず。忽ち、此れを得て、心竊(ひそ)かに念じて曰はく、

「妻を娶ること、能く是(か)くのごとくんば、平生(へいぜい)の願ひ事、足らん。」

と。因つて以つて臥室に懸け、一夕、其れ軸中より下り榻(ねだい)に詣でて、前に敍すこと、殷勤なるを見て、遂に與(とも)に好合す。此れより、夜をして來らざる無し。半載(はんとし)を踰(へ)て、形狀、羸弱(るいじやく)す[やぶちゃん注:衰え弱ってしまった。]。父母、詰めて責む。實を以つて告ぐ。且つ云はく、

「必ず、深夜に至れば去ることは、五鼓[やぶちゃん注:午前三時又は四時から二時間を指す。]を以つてす。或いは、佳果を齎(もたら)して我に啖(く)はしむ。我、荅(こた)ふるに餠を與ふ。餌を、則ち、堅く郤(あふ)ぎて[やぶちゃん注:「仰ぎて」で読んだ。]、食はず」

と。父母、其れをして此(ここ)に番せしむ[やぶちゃん注:彼女が餅を食おうとしないことを「番」=大事な意味のある「節目」と捉えた、の意か。]。

「須らく、力(ちから)して、之れを勸むべし。」

と。既にして、女、辭すること得ずして、咽(の)むことを爲す。少-許(しばらく)して、天、漸(やうや)く明く。竟に去らず。宛然として人たるのみ。特に言語すること能はざるのみ。遂に眞(まこと)に夫婦と爲る。而して病ひも亦、恙無し。

 此の事、余、童子の時、之れを聞き、甚だ熟す[やぶちゃん注:深く思いに耽ったものだ。]。『惜しいかな、兩(ふたり)の監郡の名を記す能はざることを』と。近ごろ、杜荀鶴が「松窓雜記」を讀むに、云はく、

『唐の進士趙顏、畫工の處に於いて一つの軟障(ぜんじやう)[やぶちゃん注:装飾を兼ねた障屏用の幕で、柱の間・御簾の内側に掛け、彩色や絵を施した。]の圖を得。一婦人、甚だ麗顏なり。畫工に謂ひて曰はく、

「世に、其れ、無き人なり。如(も)し、生ぜしむべくんば、余、願はくは、納めて妻と爲さん。」

と。工、曰はく、

「余が神畫なり。此れ亦、名、有り。『眞眞』と曰ふ。其の名を呼ぶこと、百日晝夜、歇(た)えざれば、卽ち必ず、之れに應ず。應ざば、則ち、百家の綵灰酒(さいくわいしゆ)[やぶちゃん注:中文サイトを見るに、ここを代表的出典とする伝説の名酒とする。]を以つて之れに灌げば、必ず、活す。」

と。顏、其の言のごとくす。乃(すなは)ち、應じて曰はく、

「諾。」

と。急ぎ、百家の綵灰酒を以つて、之れに灌ぐ。遂に活して下(くだ)り步みて、言ひて笑ひ、飮食すること、常のごとし。終[やぶちゃん注:その年の末。]、一兒を生む。兒の年、兩たり[やぶちゃん注:一年で普通の子の二年分成長したことを指す。]。友人、曰はく、

「此れ、妖なり。必ず、君の與(ため)に患ひを爲さん。余に、神劒、有り。之れを斬るべし。」

と。其の夕べ、顏に劒を遺す。劒、纔(わづ)かに室が顏に及ぶ[やぶちゃん注:妻の目にとまった。]。眞眞、乃ち、曰く、

「妾(わらは)は南嶽の地仙(ちせん)なり。無何(むか)にして[やぶちゃん注:ちょっと。]人の爲めに妾の形を畫がかる。君、又、妾の名を呼ぶ。既にして君が願ひを奪はず[やぶちゃん注:叶えてやった。]。今、妾を疑ふ。妾、住むべからず。」

と言ひ訖(おは)りて、其の子を攜(たづさ)へて、却(しりぞ)きて軟障(ぜんじやう)に上(のぼ)る。其の障を覩(み)るに、惟だ一孩子を添ふのみ。皆、是れ、畫たり』と。

 讀み竟(おは)りて、轉じて、舊聞を懷ふ。巳に三十餘年、若(も)し、杜公が書く所、虛(うそ)ならざれば、則ち、監郡が子の異遇も、之れ有らん。

   *]

卯の花降し 清白(伊良子清白)

 

卯の花降し

 

卯の花降ししとしとと

しめりがちなる燈火に

西の國なるうた人の

すぐれし歌を誦し行けば

 

傷ましかりし我が戀の

悲しき節を歌ふとて

皆うるはしき手弱女の

淚の袖によそへたり

 

春の牧場に笛吹きて

獵の童を戀ふるあり

秋の落葉を片敷きて

仇の世嗣をしたふあり

 

龍の宮居をぬけいでゝ

うみにうかべる少女あり

雪の山路を下りきて

冷き石を抱くあり

 

ことこそかはれさまざまに

うきを籠めたる物語

物の思に堪へかねて

書を擲ち外を見れば

 

顏靑白きうた人は

闇の中よりあらはれて

「わが戀人やなやむらん

なげく勿れ」と告げにけり

 

[やぶちゃん注:初出は明治三八(一九〇五)年九月発行の『文庫』。初出では総標題「短夜」のもとに、本「卯の花降し」と前に電子化した「散步」の二篇を掲げる。署名は「清白」。本篇をここで電子化したのは、底本と差別化するためでもある。底本では本篇は「未収録詩篇」(これは詩集「孔雀船」(明治三九(一九〇六)年五月刊)及び昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」の二種の著作に「未収録」の「詩篇」の謂いである)パートに離れて載り、初出で並べられたという事実を意識しない限り、共時的に読むことがは出来ないからである。是非とも、本篇を読み、後、戻って、「散步」の初出を読まれたい。そうした時、初めて時の推移、「短夜」の夏へと向かう一種の爽快感が漂ってくるように思われるのである。たまにはこういう変則の電子化をやらかしたく思うのである。それぐらいの手間で、初出を味わって戴くのも、これまた、一興と存ずる。

「卯の花降し」は「うのはなくだし」と読む。陰暦四月頃に降る、ちょうど咲いているせっかくの卯の花を散らせてしまうほどに続く長雨を指す。「卯の花腐(くた)し」とも呼び、春雨と梅雨の間の、本格的な梅雨の前触れ、「走り梅雨」のことを指す。私は「うのはなくたし」の「腐し」の漢字表記が嫌いなので、これは視覚的には好ましい。]

散步 清白(伊良子清白)

 

散 步

 

稻の靑葉の丈伸びて

畦(あぜ)に水越す六月の

草生(くさふ)の上はことさらに

このごろ蝶の數多き

 

綠の雲の屯(たむろ)する

林の奧に宿しめて

なくほととぎす大空は

ふるふが如くとよむなり

 

秩父の山の靑あらし

幾村々を渡り來て

新桑繭(にひくはまゆ)や河沿ひの

絲とる家も吹きにけり

 

轍(わだち)の跡をとめくれば

樹立にかこむ一廓(くるわ)

空しき庭に火はもえて

栗の花散る門構(かどがま)へ

 

螢逐ふ兒が夜は競(きそ)ふ

澤べの橋にかかる時

知りたる人の會釋(ゑしやく)して

いづこに行くと尋ねけり

 

[やぶちゃん注:初出は明治三八(一九〇五)年九月発行の『文庫』。署名は「清白」。初出では総標題「短夜」のもとに、「卯の花降し」と本篇の二篇を掲げる。「卯の花降し」は次で電子化する。

「新桑繭(にひくはまゆ)」。新しい桑の葉で育った繭。今年の蚕の繭。「にひぐはまゆ・にひぐはまよ」とも読む、万葉語。

 初出形は以下。

   *

 

散 步

 

稻のあを葉のたけのびて

畦(あぜ)に水こす六月の

芝生の上はことさらに

このごろ蝶の數多き

 

綠の雲の屯(たむろ)する

林々に宿しめて

やまほとゝぎす一つ一つ

ことなる歌をなのるかな

 

秩父の山の靑嵐

幾村々を渡りきて

今日や巢立ちし鳩の子の

弱き翅にもかゝるらん

 

轍(わだち)の跡をとめくれば

木立に圍む一廓(くるわ)

空しき家に火は焚えて

栗の花散る裏の庭

 

螢追ふ子が夜は競(きそ)ふ

澤邊の橋にかかる時

知りたる人の會釋(ゑしやく)して

いづこに行くと尋ねけり

 

   *]

2019/04/20

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(12) 「駒ケ嶽」(2)

 

《原文》

 深山ノ奧ニ於テ生キタル白馬ヲ見タリト云フ話モ亦多シ。紀州熊野ノ安堵峯(アンドミネ)ノ中腹ニ、千疊ト云ヒテ數町ノ間草ノ低ク連ナリタル平アリ。如法ノ荒山中ナルニモ拘ラズ、古キ土器ノ破片ト共ニ古代ノ戰爭ニ關スル口碑ノ斷片ヲ殘存ス。其一區域ヲ或ハ馬ノ馬場ト名ヅク。時トシテ白馬ノ馳セアリクヲ目擊セシ者アリ〔南方熊楠氏報〕。【神馬足跡】薩摩日置都田布施村ノ金峯山ニモ、山中ニ權現ノ神馬住ミテ、其姿ハ見タル人無ケレドモ、社殿又ハ社頭ノ土ニ蹄ノ跡ヲ殘シ行クコトアリ〔三國名勝圖會〕。美作ノ瀧谷山妙願寺ハ本尊ハ阿彌陀ニシテ靈異多シ。近所出火ノ節ハ堂ノ前ニテ馬七八疋ニ乘リタル者集リ何ヤラ囁ク如ク本堂ニ聞エ、又馬ノ足跡ヲ土ノ上ニ殘スト云フ〔山陽美作記上〕。【山中ノ馬】木曾ノ駒ケ嶽ニ不思議ノ駒ノ居ルコトハ頗ル有名ナル話ナリ。或ハ至ツテ小ナル馬ニシテ狗ホドノ足跡ヲ土ノ上ニ留ムト謂ヒ〔蕗原拾葉所錄天明登攀記〕、或ハ又偉大ナル葦毛ノ馬ノ、尾モ鬣モ垂レテ地ニ曳キ、眼ノ光ハ鏡ヲ懸ケタルガ如ク怖シキガ、人影ヲ見ナガラ靜々ト嶺ノ中央マデ昇リ行ク程ニ、俄カニ雲立チ蔽ヒ行方ヲ知ラズ、其蹄ノ痕ヲ見レバ尺以上アリキト云フ說アリ〔新著聞集所引寬文四年登攀記〕。今若シ此等ノ傳說ニ基キテ馬ニ似タル一種ノ野獸ノ分布ヲ推測スル人アラバ、ソハ多クノ山中ノ馬ノ毛色白カリシト云フ事實ヲ過當ニ輕視スル者ナリ。日本ノ山ニハ白色ノ動物ハソウハ居ラヌ筈ナレバナリ。自分ノ信ズル所ニ依レバ、白馬ハ即チ山ノ神ノ馬ナリ。【山ノ神田ノ神】麓ノ里人時トシテ之ヲ見タリト云フ傳說ハ、ヤハリ亦山神ガ里ニ降リテ祭ヲ享クルト云フ信仰ノ崩レタルモノナルべシ。山ノ神ト田ノ神トハ同ジ神ナリト云フ信仰ハ、弘ク全國ニ分布スル所ノモノナルガ、伊賀ナドニテハ秋ノ收穫ガ終リテ後、田ノ神山ニ入リテ山ノ神ト爲リ、正月七日ノ日ヨリ山神ハ再ビ里ニ降リテ田ノ神トナルト云フ。【鍵引】此日ニハ多クノ村ニ鍵引ト云フ神事アリ。神木ニ注連ヲ結ヒ頌文(ジユモン)ヲ唱ヘツヽ田面ノ方へ之ヲ曳クワザヲ爲スナリ〔伊水溫故〕。【山神祭日】神ノ出入リノ日ハ地方ニ由リテ異同アリ。木曾ノ妻籠山口ノ邊ニテハ、舊曆二月ト十月ノ七日ヲ以テ山ノ講ノ日ト稱シ、山ノ神ヲ祭ル。甲府ノ山神社ノ緣日ハ正月ト十月トノ十七日ナルガ〔甲陽記〕、甲州ノ在方ニテハ十月十日ヲ以テ田ノ神ヲ祭ル〔裏見寒話〕。肥後ノ菊池ノ河原(カワハル)村大字木庭(コバ)ニテハ十一月九日ニ山ノ神ヲ祭ル〔菊池風土記〕。佐渡ニテハ二月九日ヲ山ノ神ノ日トシテ山ニ入ルコトヲ愼ミ、矢根石ノ天ヨリ降ルモ此日ニ在リト信ズ〔佐渡志五及ビ鏃石考〕。【十二神】越後魚沼地方ニテハ一般ニ二月十二日ニテ、從ツテ山神ノ祭ヲ十二講ト呼ビ〔浦佐組年中行事〕、明治以後ハ一般ニ山神祠ノ名ヲ十二神社ト改メタリ〔北魚沼郡誌〕。會津ノ山村ニ於テハ、或ハ正月十七日ニ山神講ヲ營ミ、又ハ二月九日ヲ山ノ神ノ木算ヘト稱シテ戒メテ山ニ入ラヌ例モアレド、多クハ亦正月十二日ヲ以テ其祭日ト爲シ、十二山神ト云フ祠モ處々ニ多シ〔新編會津風土記〕。十二日ヲ用ヰル風ハ隨分廣ク行ハレ、磐城相馬領ノ如キモ亦然リ〔奧相志〕。秋田縣ニテハ平鹿郡山内村大字平野澤ノ田ノ神ナド、四月ト十二月トノ十二日ニ古クヨリ之ヲ祭リシノミナラズ〔雪乃出羽路〕、今モ槪シテ二月ト十月トノ十二日ヲ以テ山ノ神田ノ神交代ノ日ト爲セリ〔山方石之助氏報〕。此地方ニハ北部ハ津輕堺ノ田代嶽、南ハ雄勝ノ東鳥海山ヲ以テ共ニ田ノ神ノ祭場ト爲セリ。【大山祇】田ノ神ヲ高山ノ頂ニ祀ルハ一見不思議ノ如クナレド、出羽ナドニテ山ノ神ト云フハ單ニ山ニ住ム神ノ義ニシテ、大山祇ニハ限ラザリシ由ナレバ〔雪乃出羽路〕、田ノ神任務終リテ靜カニ山中ニ休息シタマフヲ、往キテ迎フルノ意味ナリシナラン。此等ノ事實ヲ考ヘ合ストキハ、深山ノ白馬モ以前ハ右ノ如クー定ノ日ヲ以テ里人ニ現ハレシニハ非ザルカ。駿河ノ奧山ナル安倍郡梅ケ島村ノ舊家市川氏ニ、繪馬ノ古板木ヲ藏ス。モトハ二枚アリキ。【日待】新曆五月ト十一月ト春秋二季ノ日待ノ日ニ、村民此板木ヲ借リテ紙ニ刷リ其畫ヲ村社ノ前ニ貼リ置クヲ習トセリ。【歸リ馬】馬ノ畫ハ右向ト左向トノ二種ニテ、今殘レル板木ノ左向ナルハ之ヲ歸リ馬ト呼ビ、秋ノ祭ニ用ヰラルヽモノナリ〔仙梅日記〕。陸中遠野ニモ之ニ似タル繪馬ノ板木ヲ刷リテ出ス家多シ。春ノ農事ノ始マルニ先ダチテ之ヲ乞ヒテ田ノ水口ニ立テ神ヲ祭ルト云ヘリ〔佐々木繁氏談〕。【出駒入駒】カノ繪錢ノ出駒入駒ガ、之ト關係アリヤ否ヤハ兎モ角モ、此馬ノ田ノ神山ノ神ノ乘用ナリシコトノミハ、先ヅハ疑ヲ容ルヽノ餘地ナカルべシ。二月初午ノ祭ノ如キモ、今ハ狐ノ緣ノミ深クナリタレドモ、古クハ山ニ人ル日ノ祭ナリシコト、古歌ヲ以テ之ヲ證スルニ難カラズ。【白色ノ忌】常陸那珂郡柳河(ヤナガハ)村附近ニテハ、二月八日ノ午前ト十二月八日ノ午後ヨリト、白キ物ヲ屋外ニ出スコトヲ戒ムル俗信アリ〔人類學會雜誌第百五十九號〕。此日ハ他ノ地方ト同樣ニ山ニ入ルコトヲ愼ムヲ見レバ、即チ亦山神ノ祭日ニシテ、白キ物ヲ忌ムハ則チ白馬ヲ村ニ飼ハザルト同趣旨ノ風習ナルコトヲ知ル。

 

《訓読》

 深山の奧に於いて、生きたる白馬を見たり、と云ふ話も亦、多し。紀州熊野の安堵峯(あんどみね)の中腹に、「千疊」と云ひて、數町の間[やぶちゃん注:一町は約百九メートルだから、六掛けで六百五十五メートルほどか。]、草の低く連なりたる平(たいら)あり。如法(によほふ)の[やぶちゃん注:そこらにある普通の。]荒山中(あらやまなか)なるにも拘らず、古き土器の破片と共に、古代の戰爭に關する口碑の斷片を殘存す。其の一區域を或いは「馬の馬場」と名づく。時として、白馬の馳せありくを目擊せし者あり〔南方熊楠氏報〕。【神馬足跡】薩摩日置(ひおき)都田布施(たぶせ)村の金峯山(きんぽうざん)にも、山中に權現の神馬住みて、其の姿は見たる人無けれども、社殿又は社頭の土に蹄(ひづめ)の跡を殘し行くことあり〔「三國名勝圖會」〕。美作(みまさか)の瀧谷山妙願寺は、本尊は阿彌陀にして、靈異、多し。近所出火の節は、堂の前にて、馬七、八疋に乘りたる者、集まり、何やら、囁(ささや)くごとく、本堂に聞こえ、又、馬の足跡を土の上に殘すと云ふ〔「山陽美作記」上〕。【山中の馬】木曾の駒ケ嶽に不思議の駒の居(ゐ)ることは、頗る有名なる話なり。或いは、至つて小なる馬にして、狗(いぬ)ほどの足跡を土の上に留むと謂ひ〔「蕗原拾葉」所錄「天明登攀記」〕、或いは又、偉大なる葦毛の馬の、尾も鬣(たてがみ)も、垂れて、地に曳き、眼の光は、鏡を懸けたるがごとく怖しきが、人影を見ながら、靜々(しづしづ)と嶺の中央まで昇り行く程に、俄かに、雲、立ち蔽ひ、行方を知らず、其の蹄の痕を見れば、尺以上ありき、と云ふ說あり〔「新著聞集」所引「寬文四年登攀記」〕。今、若(も)し、此等の傳說に基きて、馬に似たる一種の野獸の分布を推測する人あらば、そは、多くの山中の馬の毛色、白かりしと云ふ事實を、過當(かたう)に[やぶちゃん注:許容されるレベルを越えて過剰に。]輕視する者なり。日本の山には、白色の動物は、そうは居らぬ筈なればなり。自分の信ずる所に依れば、白馬は、即ち、「山の神」の馬なり。【山の神・田の神】麓の里人、時として之れを見たり、と云ふ傳說は、やはり亦、山神(やまがみ)が里に降(くだ)りて祭を享(う)くると云ふ信仰の、崩れたるものなるべし。『「山の神」と「田の神」とは同じ神なり』と云ふ信仰は、弘(ひろ)く全國に分布する所のものなるが、伊賀などにては、秋の收穫が終りて後、「田の神」、山に入りて「山の神」と爲り、正月七日の日より、「山神」は再び里に降りて「田の神」となると云ふ。【鍵引(かぎひき)】此の日には多くの村に「鍵引」と云ふ神事あり。神木(しんぼく)に注連(しめ)を結(ゆ)ひ、頌文(じゆもん)を唱へつゝ、田面(たのも)の方へ、之れを曳くわざを爲すなり〔「伊水溫故」〕。【山神祭日】神の出入りの日は地方に由りて異同あり。木曾の妻籠(つまごめ)・山口の邊りにては、舊曆二月と十月の七日を以つて「山の講の日」と稱し、「山の神」を祭る。甲府の山神社の緣日は正月と十月との十七日なるが〔「甲陽記」〕、甲州の在方にては、十月十日を以つて「田の神」を祭る〔「裏見寒話」〕。肥後の菊池の河原(かわはる)村大字木庭(こば)にては十一月九日に「山の神」を祭る〔「菊池風土記」〕。佐渡にては二月九日を「山の神」の日として、山に入ることを愼み、「矢根石(やのねのいし)、天より降るも此の日に在り」と信ず〔「佐渡志」五及び「鏃石考(ぞくせきかう)」〕。【十二神】越後魚沼地方にては一般に二月十二日にて、從つて、「山神」の祭を「十二講」と呼び〔「浦佐組(うらさぐみ)年中行事」〕、明治以後は、一般に、山神祠(やまがみのほこら[やぶちゃん注:私がこれを音で読むのが厭なのでかく当て訓した。])の名を「十二神社」と改めたり〔「北魚沼郡誌」〕。會津の山村に於いては、或いは、正月十七日に「山神講(やまがみこう)」を營み、又は、二月九日を「山の神の木算(きかぞ)へ」と稱して、戒めて、山に入らぬ例もあれど、多くは亦、正月十二日を以つて、其の祭日と爲し、「十二山神(やまのかみ)」と云ふ祠も處々に多し〔「新編會津風土記」〕。十二日を用ゐる風(ふう)は隨分、廣く行はれ、磐城相馬領のごときも亦、然り〔「奧相志(おうさうし)」〕。秋田縣にては平鹿郡山内(さんない)村大字平野澤の「田の神」など、四月と十二月との十二日に、古くより之れを祭りしのみならず〔「雪乃出羽路」〕、今も、槪して、二月と十月との十二日を以つて、『山の神」・「田の神」交代の日』と爲せり〔山方石之助氏報〕。此の地方には、北部は津輕堺(さかひ)の田代嶽、南は雄勝(をがち)の東鳥海山(ちがちちやうかいさん)を以て共に田の神の祭場と爲せり。【大山祇(おほやまづみ)】「田の神」を高山の頂(いただき)に祀るは、一見、不思議のごとくなれど、出羽などにて「山の神」と云ふは、單に山に住む神の義にして、大山祇には限らざりし由なれば〔「雪乃出羽路」〕、「田の神」、任務終りて、靜かに山中に休息したまふを、往きて迎ふるの意味なりしならん。此等の事實を考へ合すときは、深山の白馬も、以前は右のごとく、ー定の日を以つて、里人に現はれしには非ざるか。駿河の奧山なる安倍郡梅ケ島村の舊家市川氏に、繪馬の古板木を藏す。もとは二枚ありき。【日待(ひまち)[やぶちゃん注:村の近隣の仲間が特定の日に集まり、夜を徹して籠り明かす行事。通常は家々で交代に宿を務め、各家からは主人又は主婦が一人ずつ参加する。小規模の信仰的行事(講)で、飲食をともにして楽しく過ごすのが通例である。]】新曆五月と十一月と春秋二季の日待の日に、村民、此の板木を借りて、紙に刷り、其の畫(ゑ)を村社の前に貼り置くを習ひとせり。【歸り馬】馬の畫は、右向きと左向きとの二種にて、今、殘れる板木の左向きなるは、之れを「歸り馬」と呼び、秋の祭に用ゐらるゝものなり〔「仙梅日記」〕。陸中遠野にも、之れに似たる繪馬の板木を刷りて出だす家、多し。春の農事の始まるに先だちて、之れを乞ひて、田の水口(みなぐち)に立て、神を祭ると云へり〔佐々木繁氏談[やぶちゃん注:「遠野物語」の原作者佐々木喜善のペン・ネーム。]〕。【出駒(でごま)・入駒(いりごま)】かの繪錢(ゑせん)の出駒・入駒が、之れと關係ありや否やは兎も角も、此の馬の、「田の神」・「山の神」の乘用なりしことのみは、先づは疑ひを容るゝの餘地、なかるべし。二月初午(はつうま)の祭のごときも、今は狐の緣のみ深くなりたれども、古くは、山に人る日の祭なりしこと、古歌を以つて之れを證するに難からず。【白色の忌】常陸那珂郡柳河(やながは)村附近にては、二月八日の午前と十二月八日の午後よりと、白き物を屋外に出すことを戒むる俗信あり〔『人類學會雜誌』第百五十九號〕。此の日は他の地方と同樣に、山に入ることを愼むを見れば、即ち亦、「山神」の祭日にして、白き物を忌むは、則ち、白馬を村に飼はざると同趣旨の風習なることを知る。

[やぶちゃん注:「紀州熊野の安堵峯(あんどみね)」奈良県吉野郡十津川村上湯川(和歌山県境ごく直近)にある標高千百八十四メートルの安堵山(あんどさん)(国土地理院図)。次注も参照されたい

「南方熊楠氏報」当該内容の部分は確認出来なかったが、明治四四(一九一一)年四月二十二日附の南方熊楠の柳田國男宛書簡で恐らく(書き方から)始めて南方が柳田にこの「安堵峯」の話をしており、その後もここで得た伝承を柳田宛の書簡で披露しているから、この時期に南方から得た情報であろうと思われる。因みに、当該書簡で南方は、この峰の名前について、『西牟婁郡兵生(ひょうぜ)』は『二川村の大字』で、『ここに当国』(紀伊国)『第一の難所安堵が峰あり、護良親王ここまで逃げのびたまい安堵せるゆえ安堵が峰という』と由来を記している。

「薩摩日置(ひおき)都田布施(たぶせ)村の金峯山(きんぽうざん)」は鹿児島県南さつま市金峰町(ちょう)尾下(おくだり)他にある本岳・東岳・北岳からなる標高六百三十六メートル(北岳)の連山。地元では美人が寝た横顔に見えることから「美人岳」という別名で親しまれる。山頂直下西に金峰神社がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「美作(みまさか)の瀧谷山妙願寺」不詳。岡山県津山市戸川町に浄土真宗妙願寺があるが、ここは通称は「鶴山御坊」で、山号は「法雲山」で違う。但し、本尊は阿弥陀如来(浄土真宗だから当然)で、この寺、美作国の触頭(ふれがしら)を務めた有力な寺ではある。「山陽美作記」に当たらぬと判らぬ。

「木曾の駒ケ嶽」長野県上松町・木曽町・宮田村の境界にそびえる標高二千九百五十六メートル山で、木曽山脈(中央アルプス)の最高峰。ここ(グーグル・マップ・データ)。言わずもがなであるが、「駒」を名に持つ山は概ね、融雪期の山肌に現れる馬型をした残雪に基づき(山容の場合もある)、ここ木曽駒ヶ岳でも雪解け期には幾つかの雪形が見られ、それらが古くから農業の目安にされてきた経緯がある。特に山名の元にもなった駒(馬)は中岳(標高二千九百二十五メートル)の山腹に現われるものを特に指す。

『「新著聞集」所引「寬文四年登攀記」』同書「勝蹟編篇第六」の「信州駒が岳馬化して雲に入る」。寛文四年は一六六四年。「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のこちらで原典当該部が読める。

「馬に似たる一種の野獸の分布を推測する人あらば」柳田先生、そんな人は、いませんよ。そんな動物、いませんもの。

「日本の山には、白色の動物は、そうは居らぬ筈なればなり」柳田先生、冬毛のライチョウ(キジ目キジ科ライチョウ属ライチョウ Lagopus muta)、食肉目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科テン属テン亜種ホンドテン Martes melampus melampus の冬毛は頭部が灰白色或いは白出、尾の先端も白いですし、特に鯨偶蹄目反芻亜目 Pecora 下目ウシ科ヤギ亜科ヤギ族カモシカ属ニホンカモシカ Capricornis crispus には全身が白い個体もいますぜ?!

「鍵引(かぎひき)」個人ブログ「愛しきものたち」の「伊賀市 西高倉の山の神(カギヒキ)」に解説と写真が載る(地図有り)。それによれば、『三重県伊賀地方やその南部、名張や大和高原域では「山の神」信仰が根強く残り、この地域では山の神を迎えるために殆ど「鍵引き神事」を行うので「山始め」を単に「カギヒキ」と呼び習わしている』。『「鍵引き神事」は山の神を「田の神」として里に迎え入れるために木枝の鍵手で引き寄せる神事で』「『山の神と共々』、『農作物や銭金や糸錦も村へと引き寄せよ』」『と祈って今尚』、『行われている』。『その現場には中々』、『出遭う事は出来』ない『が、その場所を後から訪ねることは出来』るとして、『先ずは』、『滋賀県甲賀市に程近い伊賀市の北端、御斎峠(おとぎ峠)に近い高倉神社一の鳥居と共に有る』、その『神事の行われる「山の口」の大ケヤキ』の写真が示される(神事の痕跡が明瞭)。『この地、西高倉の「カギヒキ」は例年』一月七日『に行われ、「東の国の銭金この国へ引き寄せよ、西の国の糸錦この国へ引き寄せよ、チョイサ、チョイサ」と唱えられると言う』。『両部鳥居脇に立つ「山の口」の大ケヤキと呼ばれる欅の巨木に縄の片方が巻きつけられ、鍵引神事の樫の葉をつけた鍵状の枝がたくさん付けられている』。『又』、『この西高倉では、縄は掛け渡されることなく』、『片方は切られて地表に打ち捨てられているが、これにはどういう意味が有るのか解らない』とある。検索では他の地方のそれも散見される。

「木曾の妻籠(つまごめ)」現在の長野県木曽郡南木曽町妻籠宿(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「山口」岐阜県中津川市山口。県境を越えるが、実は妻籠の西直近。

「肥後の菊池の河原(かわはる)村大字木庭(こば)」旧上益城(かみましき)郡河原(かわはら)村、現在の熊本県阿蘇郡西原村河原の内であることしか判らない。この「かわはる」の読みも不審。郷土史研究家の御教授を乞う。

「矢根石(やのねのいし)、天より降るも此の日に在り」「矢根石(やのねのいし)」本邦では、縄文時代に弓矢の使用とともに現われ、縄文から弥生時代を通じて主に狩猟具として使われた剥片石器を指す。材料は黒曜石・粘板岩・頁岩が多い。ここで改めて説明するより、私の「北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート1 其一「神樂嶽の神樂」 其二「箭ノ根石」(Ⅰ))」「同パート2」「同パート3」を見られた方がビジュアル的にも手っ取り早い。なお、ここにあるように、これらを神々の武器と採り、暴雨風や落雷或いは禁忌を破る者が出た時、天からそれが振ってくると信じた、石器天降説は古くからあった。

「鏃石考(ぞくせきかう)」書名注は附けない約束だが、これは私の好きなの奇石収集家で本草学者であった木内石亭(きのうちせきてい 享保九(一七二五)年~文化五(一八〇八)年)の著作である。

「浦佐組(うらさぐみ)年中行事」「文化庁」公式サイト内の「浦佐毘沙門堂の裸押合(はだかおしあい)の習俗」で、宝暦(一七五一年~一七六四年)期に書かれた当地域の記録資料であることが判った。

『「山神」の祭を「十二講」と呼び』「十二山神(やまのかみ)」菊地章太氏の論文「十二山ノ神の信仰と祖霊観」(「上」・「中」・「下」・「拾遺」四部構成で孰れも総てPDFでダウン・ロード出来る)が非常に詳しい。

「磐城相馬領」現在の福島県相馬市・南相馬市・双葉郡の内の、旧標葉(しめは)郡と旧相馬郡に相当する(リンクはそれぞれのウィキで、そこにある旧郡域図で位置が判る)。

「平鹿郡山内(さんない)村大字平野澤」現在の秋田県横手市山内(さんない)平野沢

「北部は津輕堺(さかひ)の田代嶽、南は雄勝(をがち)の東鳥海山(ちがちちやうかいさん)を以て共に田の神の祭場と爲せり」「田代岳」は秋田県大館市早口で、標高千百七十八メートル。「東鳥海山」は別名「権現山」で標高七百七十七メートルで、その名は単に山容が西方の鳥海山に似ていることによるもの。秋田県湯沢市相川麓沢

「大山祇(おほやまづみ)」大山祇の神。小学館「日本大百科全書」より引く。狭義には、『記紀神話で』伊耶那岐・伊耶那美『の子、また磐長姫(いわながひめ)・木花開耶姫(このはなさくやひめ)の父として語られる神』で、「古事記」では「大山津見神」、「伊予国風土記」逸文では「大山積神」と『記す。本居宣長』は「古事記伝」の中で、『山津見とは山津持(やまつもち)、すなわち』、『山を持ち、つかさどる神のことであるという賀茂真淵』『の説を紹介している』。「伊予国風土記逸文では、『仁徳』『天皇のとき』、百済『国より渡来、初め摂津国御島(みしま)(大阪府三島)に座し、のち』、『伊予国御島(愛媛県今治』『市大三島(おおみしま)町)に移り、現在の大山祇』『神社に祀』『られたと記し』、「釈日本紀」では、『現在の静岡県三島市大宮町の三嶋』『大社の祭神としても記している』。但し、現在、各地の神社に祀られてある大山祇神は、そうした神話とは関係なのない、広義の意の「山の神」として一般に信仰されてきた神である、とある。

「安倍郡梅ケ島村」現在の静岡市葵区梅ヶ島

「二月初午(はつうま)の祭のごときも、今は狐の緣のみ深くなりたれども」初午は本来その年の豊作祈願が原型であたが、それに稲荷信仰が強く結びついた結果、専ら、稲荷社の祭りのように転じてしまったものである。

「常陸那珂郡柳河(やながは)村」茨城県の旧那珂郡にかつて存在した村であるが、現在、村域は、ひたちなか市・那珂市・水戸市の三つに分離している。この附近(旧村名を継いでいる水戸市柳河町をポイントした)。

太平百物語卷一 七 天狗すまふを取りし事

 

    ○七 天狗すまふを取りし事

 安藝の國いつくしまにて、一年(ひとゝせ)、相撲(すまふ)ありしが、諸國より名を得たるすまふ取り、おほく集まりければ、見物羣(ぐん)をなしけり。

 すでに相撲も五日めになりて、

「大関をとらす。」

と觸れければ、見物、一入(ひとしほ)いやまし、錐(きり)を立つベき地もなかりしが、其日のすまふも段々すみて、既に、大関、出(いで)たりしに、寄(より)の形屋(かたや)に、たれあつて、相手にならんといふ者、なければ、しばらく時をぞ、うつしける。

 然るに、年の比(ころ)、五十斗なる、いろ、靑ざめたる男、出(いで)ていふやう、

「今日(こんにち)の相撲は、大関殿の御すまふをこそ見まほしくて、たれたれも參りたれ、これ程、大勢集まり玉ひて、すゝむ人のなきこそ、ぶ興(けう)なれ。それがし、年寄(より)て御(おん)相手にはならずとも、いで、一番取申さん。」

といひければ、大関をはじめ、諸見物に至るまで、

「かゝるおのこ[やぶちゃん注:ママ。]が、何として、小ずまふの一番も取べき。あら、片腹いたきいひ事や。」

と、座中、一同にどよめきけるが、暫くありて、行司、立出(たちいで)、申すやう、

「是は奇特(きどく)の御事ながら、年來(ねんらい)、相撲に馴れたる者だに、御身の年ごろとなれば、すまふはとられぬ物なり。殊に、是れは、此度(たび)の大関にて、日(につ)本に名を得し、大兵(ひやう)なり。さればこそ、御覽ぜよ、はやりおの衆(しゆ)中さへ、心おくして、時、うつりぬ。必(かならず)、無用にし玉へ。」

といふ。

 此男、大きに腹をたて、

「すまふは時の拍子なり、必、弱きが負(まく)るにあらず、强きが勝つにも定めがたし、われらも少しは覚へのあればこそ、望みもしぬ。いかに行司の仰せにても、ぜひぜひ、とらでは、叶ふまじ。」

と、中々ひき入るけしきなければ、大関、甚(はなはだ)ぶ興し、

「われ、おほくの相撲を取りしに、終(つひ)にかゝる老ぼれの相手に成りたる事、なし。此すまふは、取まじ。」

といふに、此親仁(おやぢ)、

「とらずんば、此座をさらじ。」

と、土俵にすはつて、動かねば、諸見物は同音に、

「いざや、其おやぢが意地(ゐぢ)ばるに、引とらへて、打殺せ。」

とぞ、ひしめきける。

 大関、今は是非なく、立出(たちいで)、

「おのれ、中[やぶちゃん注:「宙(ちう)」の意。]につかんで、うき目をみせん。」

と立かゝれば、此男も、進みよる。

 行司、團(うちは)を引くといなや、双方、やがて、

「むず。」

と、組む。

 諸見物は、息をつめ、

「あはや、親仁が打殺(うちころ)されん、不便(びん)や。」

と、どよめきける。

 案のごとく、大関、兩手をさしのべ、此男を中(ちう)に引提(ひつさげ)、自由自在にふり廻し、目より高くさし上て、大地(ぢ)に、

「どう。」

ど、なげけるを、中(ちう)にて、反(かへ)りて、

「すつく。」

と立(たて)ば、大関、いかつて、又、引つかみ、なげんとせし兩手を取りて、いだき、しめ、中々、ちつとも、動かさず。

 大関、少(すこし)漂(たゞよ)ふ所を[やぶちゃん注:少しだけ体勢を崩しかけたとろを。]、右へまろばし、左へまはし、褌(よつい[やぶちゃん注:ママ。後注参照。])をつかんで、中(ちう)にさし上げ、大音上げていひけるは、

「いかに旁(かたがた[やぶちゃん注:「方々」に同じで、複数の人々に対して敬意を表して呼ぶ言い方。])、わが[やぶちゃん注:私が。]、『年寄りて物數寄(ものずき)』と御笑ひ侍れども、相撲には、はや、勝(かち)たるぞ。」

と、又、二、三遍ふり廻し、大地(だいぢ)へ、

「どう。」

ど、打付(つく)れば、起(おき)もあがらず、絕入(たへいり[やぶちゃん注:ママ。])たり。

 有合(ありあふ)所の[やぶちゃん注:そこに居合わせた総ての。]すまふ取より、諸見物に至るまで、

「案(あん)に相違(さうゐ)。」

と、おどろき、騷ぎ、

「にくき親仁が仕業(しわざ)哉(かな)。それ、迯(にが)すな。」

といふ程こそあれ、東西の相撲取、四方より取まはし、

「爰(こゝ)よ。」

「かしこ。」

と、搜すれども、いづち、行(ゆき)けん、其場に、見へず。

 はては、大きに喧嘩となり、南北に逃(にげ)はしり、泣(なき)さけぶ聲、おびたゞしかりしが、よくよく後(のち)にきけば、大関が餘り傍若無人(ぼうぢやくぶじん)なりしを、天狗のにくみて、かくは、はからひけるとかや。

[やぶちゃん注:「褌(よつい)」国立国会図書館蔵本底本の国書刊行会の「江戸文庫」版ではルビを振っていないが、私の底本としている原典(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」の原板本の当該頁)を見ると、「ふんどし」ではなく、「よつい」とルビされてある。調べてみると、小学館「日本国語大辞典」で解明出来た。正しくは「よつゐ」で漢字表記は「四井」「四居」でこれは、「四辻」と同義とあり、「四辻」の項で二番目の意味として、『相撲のまわしの腰のうしろで結んだところ。三つ辻。よつい。よつゆい』とある。恐らく、「江戸文庫」版の本篇を読んでいる読者は誰もがここを「ふんどし」と読んでいるはずで、これは私自身も目から鱗のルビなのであった。――「ふんどし」をつかんで宙に差し上げ――ではなく「よつゐ」をつかんで宙に差し上げ――の方が遙かに原映像を活写しているからである! 私には大発見であった!!!

君の眼を見るごとに 伊良子清白

 

君の眼を見るごとに

 

君の眼を見るごとに

君のことばを聽くごとに

君の柔手(やはで)をとるごとに

君の唱歌をきくごとに

我てふもののいつとなく

君のこころに流れ入り

瀧(たぎ)つ早瀨のさらさらと

光りを帶びて見ゆるかな

 

[やぶちゃん注:初出は明治三八(一九〇五)年九月発行の『文庫』であるが、初出では総標題「小詩二篇」のもとに、先の「北のはて」とともに本篇を「無題」として収め、署名も単に「清白」である。初出では題名以外に最終行が「月を帶びても見ゆるかな」となっている点が有意な相違点である。]

北のはて 清白(伊良子清白)

 

北のはて

 

北のはて千島の國土(くぬち)

濃き霧の去來(いざよふ)ふあたり

夏七月(ふづき)雪厚肥えて

赤熱の目も力なし

 

父母(たらちね)の古巢をいでて

水くむと通ふ細路

夕づつの照らせる下に

夷曲(えぞぶり)を悲しくうたふ

 

深沼(ふけぬま)の水のおもてに

くろぐろとうかぶ唐松

山祇(やまづみ)の棲める谿間(たにま)に

木魂して震ふ響よ

 

丈(たけ)低き落葉松林(からまつばやし)

一刷毛の雲と連なり

深碧(ふかみどり)湖遠く

さかしまに樹立をうつす

 

常春(とこはる)の國の幻影(まぼろし)

南(みんなみ)の海の白帆は

夕雲の中に漂泊(たゞよ)ひ

珊瑚珠の柱ぞ見ゆる

 

[やぶちゃん注:初出は明治三八(一九〇五)年九月発行の『文庫』であるが、初出では総標題「小詩二篇」のもとに、本「北のはて」と次に電子化する「君の眼をみるごとに」の原詩「無題」を収める。署名は「清白」。初出形の第二連以降を連の順列変更を含めて大幅に書き変えている。

「父母(たらちね)」はママ。「父母」二字に対して「たらちね」とルビする。古語には「たらちね」で「父母・両親」の意がある。

 以下が初出形。

    *

 

北のはて

 

北のはて千島の國土(くぬち)

濃き霧の去來(いざよふ)ふあたり

夏七月(ふづき)雪厚肥えて

赤熱の目も力なし

 

丈低き落葉松(からまつ)林

一刷毛の雲と連り

深碧湖遠く

さかしまに樹立を映(うつ)す

 

此土に處女(をとめ)と生れ

南に船を見る目は

常春(とこはる)の國を慕ひて

大海(おほうみ)に淚を落す

 

父母(たらちね)の古巢をいでゝ

水くみに通ふ細路

夕つゞの照らせる下に

夷曲(えぞぶり)を悲しくうたふ

 

古沼の水の面に

くろぐろとうかぶ唐松

山祇の棲める谿間に

こだまして冴ゆる響よ

 

    *]

淨瑠璃姬 清白(伊良子清白) (附・初出形)

 

淨瑠璃姬

 

 

   

 

矢矧(やはぎ)の長(ちやう)の愛娘(まなむすめ)

淨瑠璃姬と諢名(あだな)せし

巫女(みこ)の一人はこのうちに

最(い)と年若の少女なり

 

姉君たちの體(てい)たらく

鳩に交(まじ)りて殿(でん)に飛び

燃ゆるが如き緋の袴

古き簾(すだれ)の裾に曳く

 

巫女年壯(さう)に心冷え

陰陽(をんめう)の術(じゆつ)授かりて

巫覡(いちこ)の窟(いは)の木伊乃(みいら)かな

髮は骨より生ひいでて

 

痛みや也縣珠肉に生(わ)く

千尋(ちひろ)の底も泥あかく

紅藻(べにも)色づき丈(たけ)伸びて

神しろしめす春はあり

 

見よ美しの巫女(かんなぎ)が

男の胸の火に觸れて

燒けずば燒けん焦(こが)れんと

物の誘はばいかならん

 

淨きは淨く業(ごふ)に墮(お)ち

人を蠱(まど)はす蝙蝠(かはほり)の

老巫(いちこ)の谷に投げられて

立つ期(ご)もあらぬ不具者(かたはもの)

 

しかずわれらは黑髮の

長きを市の女(め)に結(ゆ)はせ

丹塗(にぬり)の鈴の柄は折りて

杉の木叢(こむら)をのがれんか

 

火桶圍みてしとやかに

坐せし三人(みたり)のをとめごは

彼が激しき熱情に

破船(はせん)に遭ひしここちしつ

 

   

 

女怪(によくわい)の君か蛇性(じやしやう)の淫か

美しきもの怪ならば

黑髮長く角生ふる

女餓鬼(めがき)の口にくらはれん

 

牛若丸とよばれたる

美少は佐保の川添柳

雲を帶びたる朝姿

腰にさしたる小刀(さすが)かな

 

蓼(たで)に親しむ鮎鮓(あゆずし)の

淨瑠璃姬を戀ひ慕ひ

顏もほてるや若盛り

親の許さぬ文(ふみ)千束(ちづか)

 

幽鬼(すだま)の如く家を出で

春日(かすが)の森に來て見れば

馬醉木(あしび)花咲く朝明けの

岡には鹿の啼きにけり

 

雪消(ゆきげ)の澤に袖長の

眉紫の山姬が

十五の鏡たて列ね

姿うつすを目に見たり

 

肩にかけたる藤娘

地に曳く程の花房を

霧のまぎれに曳きすてて

朱(あけ)は御垣(みかき)にのこりけり

 

今は心も恍惚(ほれぼれ)と

海山こえて里こえて

神樂(かぐら)のひびき舞殿(まひどの)の

階(きざはし)近く來りけり

 

若紫の元結(もとゆひ)や

髮もほどけて面(おもて)にかかり

その中空の蜻蛉蟲(あきつむし)

千々にみだるる身のうつつなや

 

[やぶちゃん注:初出は明治三五(一九〇二)年十二月発行の『文庫』であるが、初出では総標題「霜柱」のもとに、既に電子化した「野衾」と本「淨瑠璃姫」及び「秋和の里」の三篇を掲げてある。署名は「清白」。初出形は全一段(上記のような上下二段構成をとらない)で、それを激しく書き変えている。以下に初出を示す。

   *

 

淨瑠璃姬

 

矢矧(やはぎ)の長(ちやう)の愛娘(まなむすめ)

淨瑠璃姬とあだ名せし

巫女(みこ)の一人はこのうちに

最も年若の少女なり

 

浮世を知らぬ巫女なれば

胸はきよしといふ勿れ

花は少女の物なれば

折らでかなはぬ時あらん

 

姉君たちのていたらく

鳩にまじりて殿(でん)に飛び

燃ゆるが如き緋の袴

靑き簾の裾に牽く

 

巫女年壯(さう)に、心冷え

陰陽(をんめう)の術(じゆつ)授かりて

巫覡(いちこ)の窟(くつ)の木伊乃(みいら)かな

我等の末は皆かくぞ

 

痛みや、胸(こゝ)を撫でさすり

童女(どうによ)の昔たらちねと

祭、見に來し夢を迫ひ

乍ち神に驚きつ

 

見よ、美しの巫女(かんなぎ)が

男の胸の火に觸れて

燒けずば燒けん焦(こが)れんと

物の誘はゞいかにせん

 

淨きは淨く業(ごふ)に墮(お)ち

人を蠱(まど)はすうそつきの

老巫(いちこ)の谷に投げられて

立つ期(ご)も知らぬ不具者(かたはもの)

 

しかずや、われ等黑髮の

長きを市の女(め)に結(ゆ)はせ

丹塗(にぬり)のあしだなげうちて

杉の木叢(こむら)をのがれんか

 

火桶圍みてしとやかに

坐せし三人(みたり)の少女子は

彼が激しき熱情に

破船(はせん)にあひし心地しつ

 

外面(そとも)は竹の玉霰

冬の威こゝにあらはれて

燈火白く氷るらし

少女も終に默したり

 

さばれ三人の持つ鍵は

早鏽び朽ちて役立たず

盲ひたりける悲しさよ―

我身の歌を火の中に―

 

女怪(によくわい)の君といふ勿れ

美しきもの怪ならば

小說多き少女子の

命は正(しやう)の化物ぞ

 

牛若丸とよばれたる

美少は奇良の若葉陰

雲を帶びたる佐保川の

淸(きよ)けき岸に生まれたり

 

蓼(たで)に親しむ鮎鮓(あゆずし)の

淨瑠璃姬と戀慕ひ

顏もほてるや若盛り

親の許さぬ文(ふみ)千束(ちづか)

 

五條の橋に辨慶と

鎬削りし御曹司

其正眞の我ならば

ひらりとこゝの垣越えて

 

さてもお通(つう)の物語り

假名(かりな)の姬の主ならば

十二の鏡並み立てゝ

優しの姿うつすもの

 

巫女に召されて家を出で

春日の森に來て見れば

雪消(ゆきげ)の澤に袖長の

あなあやにくの者ありき

 

あなあやにくの者ありき

髮や、若衆の立姿

掟ぞ、彼は戰きて

少女の群にかききえつ

 

咒詛(のろひ)はこの子拙かり

大熱鐡を鎔(とろ)ろかすを

劫(こう)經て知るは聖(せい)の業(わざ)

さもなく知るは可憐の子

 

その時よりぞ少女子の

胸はいたくもみだれしか

淨瑠璃姬のゆゑよしを

知る人絕えてあらざりき

 

   *

初出のダッシュ一字分表記はママ。「奇良」というのは分らない。「奇良」で形容詞の語幹への当て字と考えたり、地名として調べたりしてみたが、判らない。しかしこれは現在の奈良県北部の奈良市及び大和郡山市を流れる佐保川の近くの景であり、そこに生まれた牛若丸、源義経を語る段である。私はてっきり義経の生地は京都とばかり思っていたが、調べてみると、現在の奈良県奈良市大柳生町説(リンクはグーグル・マップ・データ)があることを知った(個人ブログ「義経伝説を追う」の「牛若丸誕生の地(奈良県)」を見よ。但し、この大柳生町には佐保川は流れていない。佐保川はずっと南西である)。してみると、これは或いは初出誌の「奈良」の誤植なのではあるまいか? 大方の御叱正を俟つ。

2019/04/19

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 檮杌(たうこつ)・獌(ばん)・猾(かつ) (総て幻獣)

Toukotu

  

 

 

たうこつ  倒壽

 

檮杌

      【頑凶而無疇匹

       曰檮杌此獸然

タ◦ウキユイ  故名之乎】

 

三才圖會云檮杌【一名倒壽】獸之至惡者好闘至死不却西荒

中獸也狀如虎毛長三尺餘人靣虎爪口牙一丈八尺獲

人食之獸闘終不退却惟而已

――――――――――――――――――――――

【音萬】

[やぶちゃん注:以下は原典では項目名の下に三行で記されてある。]

三才圖會云獌獸之長者【一名獌狿】以其長故从曼

从延大獸而似狸長百尋

字彙云貙似貍而大立秋日祭獸一名獌

――――――――――――――――――――――

【音滑】

[やぶちゃん注:同前。但し、四行目の良安の評言は頭から。]

本綱曰海中有獸名曰猾其髓入油中油卽活

水不可救止以酒噴之卽滅不可于屋下收故

曰水中生火非猾髓而莫能也【樟腦亦能水中生火】

△按猾不載形狀蓋檮杌獌之類本朝未曽有之物

 

 

たうこつ  倒壽〔(たうじゆ)〕

 

檮杌

      【頑凶にして、疇匹〔(ちうひつ〕)

       無きを、檮杌と曰ひ、此の獸、

ウキユイ  然り。故に之れを名づくか。】

[やぶちゃん注:「疇匹」とは「自分と同じ類いの仲間・輩(ともがら)」の意で、仲間がいない孤独な獣だというのである。何だか……淋しそうだな……。]

 

「三才圖會」に云はく、『檮杌【一名「倒壽」。】、獸の至惡なる者なり。好〔んで〕闘〔ひ〕、死に至るも、却〔(さ)〕らず。西荒〔(せいこう)〕[やぶちゃん注:中国西方の未開地。]

〔の〕中の獸なり。狀、虎のごとく、毛の長さ三尺餘。人靣にして、虎の爪・口なり。牙、一丈八尺。人を獲り、之れを食〔(くら)〕ふ。獸の闘ひて終(つひ)に退き却らざるは、惟〔(こ)〕れのみ』〔と〕。

――――――――――――――――――――――

〔(ばん)〕【音「萬」。】

「三才圖會」に云はく、『獌、獸の長者〔なり〕【一名「獌狿〔(ばんえん)〕」。】。其の長きを以つて、故に「曼」に从〔(したが)〕ひ、「延」に从ふ。大獸にして、狸に似たり。長さ、百尋(ひろ)あり。

「字彙」に云はく、『貙は貍に似て、大なり。立秋の日、獸を祭る。一名「獌」』〔と〕。

――――――――――――――――――――――

【音「滑」。】

「本綱」に曰はく、『海中に、獸、有り。名づけて「猾」と曰ふ。其の髓、油の中に入るれば、油、卽ち、水を活〔(わか)〕し、救ふべからず。止(たゞ)酒を以つて之れを噴(ふ)くときは、卽ち、滅す。屋の下に收むべからず。故に曰ふ、「水中に火を生ずること、猾の髓に非ざれば、能〔(よ)〕くすること莫し」と【樟腦も亦、能く水中に火を生ず。】』〔と〕。

△按ずるに、猾〔は〕形狀を載せず。蓋し、檮杌・獌の類ひ〔ならん〕。本朝には未曽有〔(みぞう)〕の物なるべし。

[やぶちゃん注:三種ともに幻獣でモデル動物は、なしとしておく。ウィキの「檮杌」には、『中国神話に登場する怪物の一つ。四凶』(聖王舜によって中原の四方に流された四柱の悪神とされる存在。ウィキの「四凶」によれば、「書経」と「春秋左氏伝」に『記されているが、内容は各々異なる。四罪と同一視されることが多いが』、「春秋左氏伝」の文公十八年(紀元前六〇九年)に『記されているものが一般的で』、そこでは、『大きな犬の姿をした「渾沌」(こんとん)』、『羊身人面で目がわきの下にある「饕餮」(とうてつ)』、『翼の生えた虎「窮奇」(きゅうき)』、『人面虎足で猪の牙を持つ「檮杌(とうこつ)」』を挙げる)『虎に似た体に人の頭を持っており、猪のような長い牙と、長い尻尾を持って』おり、『尊大かつ頑固な性格で、荒野の中を好き勝手に暴れ回り、戦う時は退却することを知らずに死ぬまで戦う』。『常に天下の平和を乱そうと考えて』おり、『「難訓(なんくん。「教え難い」の意)」という別名がある』。前漢の東方朔の作とされる「神異経」には、「西方荒中有焉、其狀如虎而犬毛、長二尺、人面虎足、猪口牙、尾長一丈八尺、攪亂荒中、名檮杌、一名傲狠、一名難訓」とある、とする。

『「三才圖會」に云はく……』檮杌のそれはこの左頁(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。

「獌」音の「バン」は大修館書店「廣漢和辭典」の当該字の、大きな獣とする部分の「獌狿(バンエン)」の読みに従った(同辞書にはその前で「狼の一種」及び「狸の一種」とはある)中文サイトの解説では伝説上の獣で、狼の一種とするが、「百尋」(「三才図会」の成立したのは明代であるが、「尋」は中国では古代(戦国頃まで)に使用されたきりで後には使用されなかった。使用された当時の一尋は八尺で一メートル八十センチとされるから、体長百八十メートルの狼や狸は同定することこれ能はずである。

『「三才圖會」に云はく……』のそれはこの左頁(同前)。

「字彙」明の梅膺祚(ばいようそ)の撰になる字書。一六一五年刊。三万三千百七十九字の漢字を二百十四の部首に分け、部首の配列及び部首内部の漢字配列は、孰れも筆画の数により、各字の下には古典や古字書を引用して字義を記す。検索し易く、便利な字書として広く用いられた。この字書で一つの完成を見た筆画順漢字配列法は、清の「康煕字典」以後、本邦の漢和字典にも受け継がれ、字書史上、大きな意味を持つ字書である(ここは主に小学館の「日本大百科全書」を参考にした)。

「立秋の日、獸を祭る」老婆心乍ら、獣の獌が生贄を供えて天に祭りするのである。

「猾」海棲哺乳類という設定だが、その「髓」(骨髄と採っておく)を、「油の中に」投ずると、その油(水は液体としての油のことか)を沸騰させて、手におえない状態になると言い、そうなった時には酒をそれに吹きかけると沸騰がやむ、だから昔から、「水中で火を起こさせようとすれば、猾の骨髄を用いる以外にはよい方法は他にない」というのだが、これ、何だか、言っている意味が今一つ腑に落ちない。しかし、ともかくも、その「猾の骨髄」なる物質が、油或いは水激しい化学反応を起こすというのであろう。想起したのは爆発的熱反応を示す消石灰(水酸化カルシウム)や金属ナトリウム、及び、海というところからはメタンハイドレートmethane hydrateである(私は中学生の時、理科部(海塩粒子班)で、理科教師が戸棚の奥を整理する内、古い試料の中に少量の金属ナトリウムを発見し、処分するのを見学させて貰ったことがある。小指の頭ほどで既に劣化していたようであったが、シャーレの中で少量の水に浮かべると、激しい炎を上げながら、くるくると回るのに息を呑んだのを今も忘れない)。但し、大修館書店「廣漢和辭典」の「猾」を見ると、海獣の名とし、「正字通」を引き、そこには「猾には骨がなく、虎の口に入っても、虎は噛み砕くことが出来ない。そのまま猾はやすやすと虎の消化器官の中に入り込み、その虎の内側から噛みつく」という、とんでもないことが書いてあるのである。しかし、この海獣を虎が食うというのも、ちと不自然ではなかろうかとは思う。

「樟腦」クスノキ目クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphoraの精油の主成分である分子式 C10H16Oで表される二環性モノテルペンケトン(monoterpene ketone)の一種。「能く水中に火を生ず」ることは残念ながらないけれど、思い出すよね、小さな時にやった「樟脳舟(しょうのうぶね)」「協和界面科学株式会社」公式サイト内のこちらから引用しておくよ。『小さな模型舟の船尾にショウノウの塊を付けておくと、舟を水に浮かべたときに勝手に走り回る現象』だ。『「ショウノウ」というと防虫剤の匂いを思い出す方もいらっしゃるでしょうが、最近ではp(パラ)ジクロロベンゼンなどにその役目を奪われてしまいましたので、入手しにくいかもしれません』。『(なお、いずれも口に入れると有害ですので、食べないように。)』『こショウノウの分子は、水をはじく疎水基と、水になじむ親水基を持っています。舟の船尾に取り付けられたショウノウの塊が分解して、分子が水面に移ると、疎水基を上にして単分子の膜を形成します。舟の後方ではショウノウの単分子膜ができ、舟の前方には水面があります。物質は表面張力により、その面積を少なくしようとします。この場合、水の表面張力はショウノウよりも高いため、水面の面積の方がより小さくなろうとする力が強いのです。したがって、ショウノウと水の境目は水のほうへ引き寄せられます。そして、その境目にある舟も、一緒に引っ張られてしまうため動きます。また船尾のショウノウはどんどん溶け出していきますから、ますますショウノウの表面は広げられてしまいます』。『ショウノウにはじかれて動いているように見えますが、実際は水の表面張力によって引っ張られているわけです。しかしこの舟も、水面が完全にショウノウ分子で覆われてしまうと、動かなくなります』。

「本朝には未曽有〔(みぞう)〕の物なるべし」本朝には未だ嘗つて存在したことがない動物と言ってよい。良安先生、謙虚やねぇ。そうそう、偉そうな麻生先生、「みぞう」でっせ、「みぞゆう」じゃあ、ありまへんで。

葡萄の房 清白(伊良子清白)

 

葡萄の房

 

暮れ行く秋のたのしさを

語らふごとく睦まじく

葡萄は房に集りぬ

夕陽照らせる野の畠に

 

されどわが眼にとまりしは

風やおとせる草の間に

腐れはてたるくだものの

見るかげもなきそれなりき

 

愛は祕密のささやきか

さにはあらずと思へども

室に洩れたる繼子(ままこ)等を

見れば憎惡(にくみ)の疵(きず)はあり

 

棚にかかれる紫の

葡萄の房は幸あれど

情の犧牲(いけにへ)眼の下は

土も被(おほ)はぬ墓場なり

 

腐れしものはいとはしき

形を人に示せども

おのがすぐ世(せ)にくらべ見て

淚を灑(そそ)げつたなさに

 

愛は憎惡(にくみ)にあらねども

憎惡の砦(とりで)築かずば

安きを知らぬ果實(くだもの)の

葡萄の房ぞ罪多き

 

[やぶちゃん注:明治三五(一九〇二)年七月発行の『文庫』初出で総標題「葉分の月」の中の一篇(前の「三人の少女」の私の注を参照)。署名は「清白」。初出とは有意な相違を私は認めない。伊良子清白が意識しているかどうかは別として、「聖書」の「創世記」の、例のエデンの園の「禁断の木の実」はウィキの「禁断の果実」によれば、『しばしばリンゴとされるが、これはラテン語で「善悪の知識の木」の悪の部分にあたる「malus」』(マールス)『は「邪悪な」を意味する形容詞だが、リンゴも「malus」になるため、取り違えてしまったか、二重の意味が故意に含まれていると読み取ってしまったものとされ』、『東欧のスラブ語圏では、ブドウとされる事が多い。ユダヤ教神秘思想の書籍』「ゾーハル」『でも、禁断の木の実をブドウとしている』とある。伊良子清白は後年の大正七(一九一八)年三月、妻の幾美(きみ)とともに『永く近づこうとしてきたキリスト教に帰依し』(底本全集年譜に拠る)、洗礼を受けている。]

太平百物語卷一 六 愚全ばけ物の難を遁れし事

Guzen

  

    ○六 愚全ばけ物の難を遁れし事

 備中に愚全といへる沙門あり。

 年比(としごろ)、都の方に志しありて、此春、おもひ立(たち)けるが、播磨の書寫山へも次でながら參詣しけるに、下山の比(ころ)、山中にて日(ひ)暮(くれ)ければ、其あたりなる辻堂に立寄(たちより)、『一夜(ひとよ)を明さばや』とおもひ、通夜(よもすがら)、念佛して居られけるに、年のほど、十八、九斗(ばかり)なる女一人、何國(いづく)ともなく來りて、愚全にむかひ、いふ樣、

「それに入らせ玉ふは、御僧(おんそう)と見參らせて候。一夜のほど、此方(こなた)へ來り玉へ、御宿(おんやど)をかしまいらせん。」

といふに、折しも餘寒(よかん)、身にしみ、堪がたかりければ、

「誠に、御こゝろざし、有りがたく候。」

とて、打連(うちつれ)て行ければ、一つの庵(いほり)に入りぬ。

 愚全、家内(かない)を見廻すに、此わかき女の外、人、一人もなし。

 愚全、心におもひけるは、

『かゝる所に一宿せん事、心よからぬ事かな。』

と思ひながら、力なくしてゐられけるに、此女、愚全にいふやう、

「御覽のごとく、わらは事、獨ずみのやもめなれば、たれを力にすべき便(よすが)なし。御身、夫婦となりて、われに力をそへ玉へ。」

と、傍(そば)ちかく寄そへば、愚全、興を覺(さま)し、

「こは、おもひよらぬ仰(おほせ)かな。われは元來(もとより)出家の身なれば、假初(かりそめ)の戲(たはむれ)だに、仏のいましめ給ふぞかし。あなかしこ、筋なき事、な宣(のたま)ひそ。」

と、にがにがしくいへば、此女、うちわらひて、

「さないひ給ひそ。出家も美童を愛し給ふうへは、女とても何か苦しう候べき。」

といひければ、愚全、こたへて、

「さればとよ。童子は成長にしたがひて、愛著(あいぢやく)のこゝろ、はなるゝものにて、殊に子孫相續の因緣なく、女の道とは格別なり。其上、女は五障(しやう)三從(じう)(/いつのさはりみつのしたがひ)の苦しみありて、仏のいませ給ふぞ。」

と、さも、すげなくぞ申ける。

 此女、つくづく聞きて、

「實(げに)、さる事も侍るやらん。」

とて、其儘、十四、五斗なる美童と變じ、愚全が傍へすゝみ寄(より)、

「われこそ、佛のゆるし給ふ童子なり。情(なさけ)をかけて給はれ。」

といふ。

 愚全、此有樣をみて、

『これ、察する所、化物(ばけもの)なり。』

とおもひながら、荅(こた)へていはく、

「實(げに)。それとても、道德めでたき知識の事なり。愚僧がごとき蒙昧(もうまい)の身は、童子とても、かなひがたし。」

といへば、其時、童子、氣色かはり、

「扨々、にくや。おのれが舌頭(ぜつとう/したのさき)の聞まゝに、樣々にいひ遁(のが)るゝ腹たちさよ。いで、其義ならば、喰殺(くひころ)さん。」

とて、頓(やが)て大き成坊主となりて、愚全を一口に吞まんとす。

 其時、愚全は眼を閉(とぢ)、一心に「仁王經(にんわうきやう)」を修(しゆ)しければ、此妙音(みやうおん)におそれをなし、消(けす)が如くに失せけるが、彼(かの)庵と見へしも、いつしか、㙒原(のばら)となりて、愚全、茫然と四方をみれば、よは、はや、東よりしらみ渡りしほどに、夫(それ)より、やうやう下山し、都の方(かた)に急がれけるとなり。

[やぶちゃん注:「愚全」不詳。

「備中」現在の岡山県西部に相当する。

「播磨の書寫山」兵庫県姫路市書写(しょしゃ)にある書写山(しょしゃざん:標高三百七十一メートル)にある天台宗の名刹書寫山圓教寺(えんぎょうじ:この地図(グーグル・マップ・データ)の北部一帯総て。引用の後に出る「如意輪寺」を下方でフラグした)。私は同寺に行ったこともなく、演劇の発声練習の早口言葉「書写山の社僧正」の莫迦の一つ覚え状態であるから、ウィキの「圓教寺」を引くと、『西国三十三所のうち最大規模の寺院で、「西の比叡山」と呼ばれるほど』、『寺格は高く、中世には、比叡山、大山とともに天台宗の三大道場と称された巨刹である』。『京都から遠い土地にありながら、皇族や貴族の信仰も篤く、訪れる天皇・法皇も多かった』。『境内は、仁王門から十妙院にかけての「東谷」、摩尼殿(観音堂)を中心とした「中谷」、』三『つの堂(三之堂)や奥の院のある「西谷」に区分される』。『伽藍がある』『書写山は』現在、『兵庫県指定の書写山鳥獣保護区(特別保護地区)に指定されている』。『室町時代の応永』五(一三九八)年『から明治維新まで』、『女人禁制であったため、女性は東坂参道の入口にある女人堂(現・如意輪寺)』ここ。グーグル・マップ・データ航空写真。既に書写山山麓の平地部分直近であるが、本話が室町以前の時制設定であるとは凡そ考えられないので、愚全が女の出現自体を全く問題にしていない以上、この附近より下方の場所をロケーションとすると考えねばならぬ『に札を納めて帰った』。創建は康保三(九六六)年、『性空』(しょうくう)『の創建と伝えられる』が、『もとは素盞嗚命が山頂に降り立ち、一宿したという故事により、「素盞ノ杣」といわれ、性空入山以前より』、『その地に祠が祀られていたといわれる。山号の由来は』、『この「素盞(すさ)」からのものといわれ、姫路市と合併する以前は、飾磨郡曽左』(そさ)『村と呼ばれていたが、この「曽左』『」も素盞に由来する』。『創建当初は「書写寺」と称した。仏説において書写山は、釈迦如来による霊鷲山』(りょうじゅせん:インドのビハール州のほぼ中央に位置する山で、釈迦はここで「無量寿経」や「法華経」を説いたとされる)『の一握の土で作られたと伝えられ、「書寫山」の字が当てられたのは、その山がまさに霊鷲山を「書き写した」ように似ることによるといわれる』。『また一つに、その名は、山上の僧が一心に経典を書写する姿に、山麓の人たちが崇敬をもって称したとも伝えられる』とある。現在、『国の史跡に指定されている圓教寺の境内は』、『姫路市街の北方およそ』八キロメートル『に位置する書写山の山上一帯を占め、境内地は東西に長く広がる。市街地から近く、標高も』『それほど高くないが』、現在でも『境内地には自然環境が良好に保持され、山岳寺院の様相を呈する』とあるから、特にロケーションとして不自然ではない

「餘寒(よかん)」冒頭に「此」(この)「春」と合った通りで、余寒は旧暦の立春(旧暦の節分の翌日で新暦の二月四日頃)を過ぎて寒が明けても、なお残る寒さを指す。則ち、物語内時制の設定はそれ以降の二月中上・中旬かと読めよう。

「五障(しやう)三從(じう)(/いつのさはりみつのしたがひ)」既に述べた通り、左右の読み(というか、左のそれは意訳訓)が振られているのであるが、右のそれは「五」「三」には振っていないため、以上のような仕儀とした。「五障三從」の内の「五障」は女性が生得として身に持ってしまっているとされた仏法に従うに致命的な五種の障り、則ち、「法華経」に説くところの、女性は仏教の守護神である天部の梵天王帝釈天や、魔王(欲界第六天他化自在天にあって仏道修行を妨げるという魔王波旬)、転輪聖王(てんりんじょうおう:須弥山の四洲を統治するとされる最も優れた聖王で、一説に未来に阿弥陀仏となることを約束されたともする)は勿論、「仏」そのものになることは出来ないことを指す。女性がもっているこれらを、月の光を蔽う霞や雲に譬えて「五障の霞(雲・氷)」などとも称した。従って女は変生男子(へんじょうなんし)、男に生まれ変わらなければ、極楽浄土へは往けないというというのが、実は本来の仏教の女性観なのである。原始仏教以来より胚胎している仏教の、それこそ致命的な女性蔑視の思想である。次の三従(さんしょう)は、幼時は親に、結婚すれば夫に、老いては子に、それぞれ従えとするもので、先の「五障」と連用させて、仏教で女性が従うべきものとされた属性と規範を指す。

「仁王經(にんわうきやう)」「仁王般若経」とも称される。仏教に於ける国王のあり方について述べた経典。ウィキの「仁王経」によれば、主な内容は、『釈尊が舎衛国の波斯匿王との問答形式によって説かれた教典で、六波羅蜜のうちの般若波羅蜜を受持し』、『講説することで、災難を滅除し』、『国家が安泰となるとされ、般若経典としては異質の内容を含んでいる』。永く宮中に於いての『公共的呪術儀礼としての役目を』担った側面を持つ経典で、後には広く『災禍を除く』呪的経文となったようである。]

2019/04/18

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(11) 「駒ケ嶽」(1)

 

《原文》

駒ケ嶽 又白馬ノミヲ神ト祀リタル社アリ。【駒形神】例ヘバ武藏北足立郡尾間木(ヲマキ)村大字中尾ノ駒形神社ハ、神體ハ三軀ノ白駒ニシテ長各六寸バカリ、本地ハ正觀音ニオハシマス〔新編武藏風土記稿〕。【黑駒】羽後秋田郡山崎ト云フ處ノ白旗明神ニハ、末社ニ白駒ノ神ト黑駒ノ神トアリテ、牛馬ノ病ニ禱リテ驗アリ〔風俗問狀答〕。磐城相馬中村ノ太田神社ハ土地ノ人ハ妙見樣ト云フ。有名ナル野馬追(ノマオヒ)ノ祭ヲ行フ社ナルガ、其社ノ神モ毛色ハ不明ナレドモ一ノ龍馬ナリ。【龍馬ト星ノ神】昔平將門逆心ノ時、一夜客星落チテ化シテ龍馬トナル。之ヲ妙見菩薩ト尊崇シテ土地ノ鎭守ト爲スト傳フ〔行脚隨筆上〕。【石馬】越前大野郡ノ穴馬谷(アナマダニ)ニテハ、岩穴ノ遙カ奧ニ石馬ヲ祀リテアリ。乃チ穴馬ト云フ村ノ名ノ起原ナルガ、此石馬ハ人作ノ物ニ非ザルガ如シ。上下穴馬村ハ以前ノ郡上(クジヤウ)領ニシテ、九頭龍川ノ源頭十里ニ亙リタル山村ナリ。ヨクヨクノ旱年ニハ此洞ノ奧ニ入込ミ、鞭ヲ以テ石ノ馬ヲ打ツトキハ必ズ雨降ル。但シ其鞭ヲ執リタル者ハ遲クモ三年ノ内ニ死スルガ故ニ、八十九十ノ老翁ヲ賴ミテ其役ヲ勤メサセタリト云フ〔笈挨隨筆八、有斐齋劄記〕。陸中腹膽澤郡金ケ崎村大字西根ノ赤澤山ノ頂上ニハ、鐵ヲ以テ鑄タル二體ノ馬ノ像アリキ〔仙臺封内風土記〕。如何ナル信仰ニ基ケルモノナルカハ知ラズ、此山ニハ又天狗佛ト稱スル羽ノ生エタル佛像ヲモ安置シテアリキト云フコトナリ。

 

《訓読》

駒ケ嶽 又、白馬のみを神と祀りたる社あり。【駒形神】例へば、武藏北足立郡尾間木(をまき)村大字中尾の駒形神社は、神體は三軀(さんく)の白駒にして、長さ各六寸ばかり、本地は正觀音(しやうかんのん)におはします〔「新編武藏風土記稿」〕。【黑駒】羽後秋田郡山崎と云ふ處の白旗明神には、末社に白駒の神と黑駒の神とありて、牛馬の病ひに禱(いの)りて驗(げん)あり〔「風俗問狀答」〕。磐城相馬中村の太田神社は、土地の人は「妙見樣」と云ふ。有名なる「野馬追(のまおひ)の祭」を行ふ社なるが、其の社の神も、毛色は不明なれども一つの龍馬(りゆうめ)なり。【龍馬と星の神】昔、平將門逆心の時、一夜、客星(かくせい)[やぶちゃん注:流星。]落ちて、化して龍馬となる。之れを妙見菩薩と尊崇して、土地の鎭守と爲すと傳ふ〔「行脚隨筆」上〕。【石馬】越前大野郡の穴馬谷(あなまだに)にては、岩穴の遙か奧に石馬を祀りてあり。乃(すなは)ち、「穴馬」と云ふ村の名の起原なるが、此の石馬は人作(じさく)の物に非ざるがごとし。上・下穴馬村は以前の郡上(くじやう)領にして、九頭龍川の源頭、十里に亙りたる山村なり。よくよくの旱年(ひでりどし)には、此の洞の奧に入り込み、鞭を以つて、石の馬を打つときは、必ず、雨、降る。但し、其の鞭を執りたる者は、遲くも三年の内に死するが故に、八十、九十の老翁を賴みて、其の役を勤めさせたりと云ふ〔「笈挨隨筆」八、「有斐齋劄記(いうひさいさつき)」〕。陸中膽澤(いざわ)郡金ケ崎村大字西根の赤澤山の頂上には、鐵を以つて鑄たる二體の馬の像ありき〔「仙臺封内風土記」〕。如何なる信仰に基けるものなるかは知らず、此の山には又、「天狗佛」と稱する羽の生えたる佛像をも安置してありきと云ふことなり。

[やぶちゃん注:「龍馬(りゆうめ)」この熟語は本書ではここで初めて出現する。小学館「日本国語大辞典」の「りゅうめ(龍馬)」の項に、「メ」は「馬」の呉音、「バ」は漢音、「マ」は慣用音とし、『きわめてすぐれた駿足の馬。たつのうま。りゅうば。りょうめ。りょうば』とする。無論、ルビがないから(「ちくま文庫」もルビなし)、柳田國男がこれを現代仮名遣で「りゅうば」「りょうめ」「りょうば」或いは坂本竜馬よろしく「りょうま」(同辞書はこれも掲げて「見よ見出し」で「りょうめ」を指示している)と読んいなかったどうかは判らない。しかし、とならば、ここは天下の「日本国語大辞典」に従い、「りゆうめ(りゅうめ)」と読みを統一しておくのが無難と判断した。以後、特別な場合を除いて、一切振らないつもりであるが、ここでそれを特に注しておくことにした。なお、以上の注記は2019年6月8日に特に追加注したものである。

「武藏北足立郡尾間木(をまき)村大字中尾の駒形神社」現在の埼玉県さいたま市緑区中尾地区には、中尾神社とその北方に駒形権現神社須賀神社本殿があるが、孰れもここに言う駒形神社と関係を持ちながら(体のいい合祀)、その大元である本来の駒形神社があったのはこの孰れの地でもないように思われる。但し、この旧中尾地区内(現在の中尾はここ)に字駒形があり、そこにあったらしいことは幾つかの記載から判明した。しかし、調べる限りでは、この「神體」とする「三軀(さんく)の白駒にして、長さ各六寸ばかり」のそれは見当たらない。識者の御教授を乞うものである。【2019年4月20日追記】いつものT氏が情報がお寄せ下さった。それに従って追記する。「新編武藏風土記稿」の「足立郡巻九」の「中尾村 吉祥寺」の条に「吉祥寺天台宗川越仙波中院末寶珠山十林院と號す」とした後、こちら(国立国会図書館デジタルコレクションの画像。右ページ一行目。前記記載はこの前のコマ)に(カタカナをひらがなに代え、句読点を添えた)、

   *

駒形權現社【大門の入口にあり。神體は白駒にて、三軀あり。長三寸許、本地佛正觀音を安せり。】

   *

とある。さらに、個人ブログ「なお爺のひとり言」の「東浦和とその周辺 26 天台宗吉祥寺」の十枚目の写真の「駒形権現神社須賀神社本殿」の解説板(吉祥寺とさいたま市教育委員会署名)の冒頭に、

   *

 この神社本殿は、現在のプラザイーストの地にありましたが、明治時代以降、中尾神社への合祀(ごうし)や道路の改修により、二度の移転を経て、現在の地に至りました。権現神社の御神体(ごしんたい)は三頭の白馬像、須賀神社の御神体は神輿(みこし)といわれています。

   *

と書かれてあることから、埼玉県さいたま市緑区中尾の「プラザイースト」がある場所が柳田國男の言う「駒形神社」の旧地であることが判明した(現在の吉祥寺持の「駒形権現神社須賀神社本殿」のある位置から、国道四百六十三号を跨いだ、西南百四十三メートルほどの位置)。また、以上の解説版の書き方から、権現神社の神体である三頭の白馬像は現存しないか、残っていても非公開であると考えられる。

「羽後秋田郡山崎と云ふ處の白旗明神」。【2019年4月20日追記】同じくT氏が情報がお寄せ下さった。以下にメール本文を一部加工して示す。

   《引用開始》

「風俗問狀答」には、

   *

秋田六郡神佛之部

七月

一六日 白籏明神祭

秋田の郡山崎の里にあり、神職は三田氏、此日境内に角力の勝負あり、參詣多し。又、末社に白駒の神、黑駒の神有、牛馬の病を祈る、しるし有り。

   *

とあり、同じ文章が、「秋田叢書」第三巻の「六郡祭事記」の七月の条[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの当該部の画像。]にも書かれています。

場所は「秋田の郡山崎の里」としかないので手こずりましたが、ほぼ確定と思われる場所は、秋田市外旭川水口(みのくち)字山崎にある白幡(しらはた)神社[やぶちゃん注:ここ。グーグル・マップ・データ。]で、「秋田県神社庁」公式サイト内の同神社の記載に、例祭を八月十六日とし、境内神社として黒駒神社とあるのが決め手です(旧暦の祭を一ヶ月ずらしたものと考えられます)。リンク先には、白幡神社は『創立年代不詳』とし、長祿元(一四五七)年に『川尻館再興』、『天徳寺山に構築されていた白坂館(白坂右近太夫の居城)の守護神』とあり、明治六(一八七三)年七月に『村社になる』とあります。なお、この「字山崎」はウィキの「外旭川」を見ると、町村合併でも水口字山崎は残されていたことが判ります。

   《引用終了》

またT氏のお世話になった。心から御礼申し上げる。

[やぶちゃん注:「武藏北足立郡尾間木(をまき)村大字中尾の駒形神社」現在の埼玉県さいたま市緑区中尾地区には、中尾神社とその北方に駒形権現神社須賀神社本殿があるが、孰れもここに言う駒形神社と関係を持ちながら(体のいい合祀)、その大元である本来の駒形神社があったのはこの孰れの地でもないように思われる。但し、この旧中尾地区内(現在の中尾はここ)に字駒形があり、そこにあったらしいことは幾つかの記載から判明した。しかし、調べる限りでは、この「神體」とする「三軀(さんく)の白駒にして、長さ各六寸ばかり」のそれは見当たらない。識者の御教授を乞うものである。【2019年4月20日追記】いつものT氏が情報がお寄せ下さった。それに従って追記する。「新編武藏風土記稿」の「足立郡巻九」の「中尾村 吉祥寺」の条に「吉祥寺天台宗川越仙波中院末寶珠山十林院と號す」とした後、こちら(国立国会図書館デジタルコレクションの画像。右ページ一行目。前記記載はこの前のコマ)に(カタカナをひらがなに代え、句読点を添えた)、

   *

駒形權現社【大門の入口にあり。神體は白駒にて、三軀あり。長三寸許、本地佛正観音を安せり。】

   *

とある。さらに、個人ブログ「なお爺のひとり言」の「東浦和とその周辺 26 天台宗吉祥寺」の十枚目の写真の「駒形権現神社須賀神社本殿」の解説板(吉祥寺とさいたま市教育委員会署名)の冒頭に、

   *

 この神社本殿は、現在のプラザイーストの地にありましたが、明治時代以降、中尾神社への合祀(ごうし)や道路の改修により、二度の移転を経て、現在の地に至りました。権現神社の御神体(ごしんたい)は三頭の白馬像、須賀神社の御神体は神輿(みこし)といわれています。

   *

と書かれてあることから、埼玉県さいたま市緑区中尾の「プラザイースト」がある場所が柳田國男の言う「駒形神社」の旧地であることが判明した(現在の吉祥寺持の「駒形権現神社須賀神社本殿」のある位置から、国道四百六十三号を跨いだ、西南百四十三メートルほどの位置)。また、以上の解説版の書き方から、権現神社の神体である三頭の白馬像は現存しないか、残っていても非公開であると考えられる。

「羽後秋田郡山崎と云ふ處の白旗明神」。【2019年4月20日追記】同じくT氏が情報がお寄せ下さった。以下にメール本文を一部加工して示す。

   《引用開始》

「風俗問狀答」には、

   *

秋田六郡神佛之部

七月

一六日 白籏明神祭

秋田の郡山崎の里にあり、神職は三田氏、此日境内に角力の勝負あり、參詣多し。又、末社に白駒の神、黑駒の神有、牛馬の病を祈る、しるし有り。

   *

とあり、同じ文章が、「秋田叢書」第三巻の「六郡祭事記」の七月の条[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの当該部の画像。]にも書かれています。

場所は「秋田の郡山崎の里」としかないので手こずりましたが、ほぼ確定と思われる場所は、秋田市外旭川水口(みのくち)字山崎にある白幡(しらはた)神社[やぶちゃん注:ここ。グーグル・マップ・データ。]で、「秋田県神社庁」公式サイト内の同神社の記載に、例祭を八月十六日とし、境内神社として黒駒神社とあるのが決め手です(旧暦の祭を一ヶ月ずらしたものと考えられます)。リンク先には、白幡神社は『創立年代不詳』とし、長祿元(一四五七)年に『川尻館再興』、『天徳寺山に構築されていた白坂館(白坂右近太夫の居城)の守護神』とあり、明治六(一八七三)年七月に『村社になる』とあります。なお、この「字山崎」はウィキの「外旭川」を見ると、町村合併でも水口字山崎は残されていたことが判ります。

   《引用終了》

またT氏のお世話になった。心から御礼申し上げる。

「磐城相馬中村の太田神社」福島県南相馬市原町区(はらまちく)中太田字舘腰(たてこし)にある相馬太田神社

「野馬追(のまおひ)の祭」ウィキの「相馬野馬追」によれば、『相馬野馬追』『は、福島県相馬市中村地区を初めとする同県浜通り北部(旧相馬氏領。藩政下では中村藩)で行われる相馬中村神社、相馬太田神社、相馬小高神社の三つの妙見社の祭礼である』。『馬を追う野馬懸、南相馬市原町区に所在する雲雀ヶ原祭場地において行われる甲冑競馬と神旗争奪戦、街を騎馬武者が行進するお行列などの神事からな』り、『東北地方の夏祭りのさきがけと見なされ、東北六大祭りの』一『つとして紹介される場合もある』。『起源は、鎌倉開府前に、相馬氏の遠祖である平将門』『が、領内の下総国相馬郡小金原(現在の千葉県松戸市)に野生馬を放し、敵兵に見立てて軍事訓練をした事に始まると言われている』。『鎌倉幕府成立後はこういった軍事訓練』を『一切取り締ま』ったが、『この相馬野馬追はあくまで神事という名目でまかり通ったため、脈々と続けられた』。「戊辰戦争」で『中村藩が明治政府に敗北して廃藩置県により消滅すると』、明治五(一八七二)年に『旧中村藩内の野馬がすべて狩り獲られてしまい、野馬追も消滅した。しかし、原町の相馬太田神社が中心となって野馬追祭の再興を図り』、明治一一(一八七八)年には、『内務省の許可が得られて野馬追が復活した。祭りのハイライトの甲冑競馬および神旗争奪戦は、戊辰戦争後の祭事である』。『相馬氏は将門の伝統を継承し、捕えた馬を神への捧げ物として、相馬氏の守護神である「妙見大菩薩」に奉納した』。『これが現在「野馬懸」に継承されている。この祭の時に流れる民謡『相馬流れ山』は、中村相馬氏の祖である相馬重胤が住んでいた下総国葛飾郡流山郷』『(現在の千葉県流山市)に因んでいる』とある。

「越前大野郡の穴馬谷(あなまだに)」旧福井県大野郡和泉(いずみ)村、現在の福井県大野市朝日のこの附近。サイト「日本歴史地名大系ジャーナル」の「地名拾遺3」の「第10回 穴馬 【あなま】 轆轤師が定着し、落人伝説をはぐくんだ風土」が詳しいが、ここに出る「石馬」については触れられていない。岩窟や石の馬は最早、存在しないのだろうか?【2019年4月27日追記】何時も情報を頂くT氏が、それらしい岩窟として「白馬洞」を指摘して下さった。大野市内の「和泉自治会」公式サイト内の「白馬洞」のページに、『大野市箱ケ瀬にある、北陸では珍しい鍾乳洞』で、『穴馬伝説の発祥の地、穴馬村の地名のいわれの地である』。『洞穴は上下に長いのが特徴で、竜宮城へ通じているともいわれているが、実際には九頭竜湖につながってい』るとし、『その昔、洞窟の中から突然に白馬が飛び出し、九頭竜の流れに沿って真っ白なたてがみを、朝風になびかせながら雄々しい姿で走り、大野市勝原の馬返し隧道あたりから引き返し、飛騨を経て』、木曽の『駒ケ岳に消え去ったという伝説により、白馬洞、馬返し、穴馬の名称が生まれたと言われてい』るとある残念ながら、現在は崩落の危険があることから閉鎖されているとあるため、石馬が現存するかどうかは不明である)。同サイト内の地図で位置(「白馬洞跡」とある)が確認出来る。九頭竜湖の東北岸近くで、グーグル・マップ・データではこの中央位置附近である。なお、T氏によると、この白馬伝説の書かれた本の名などは見当たらないとのことであった。

『「笈挨隨筆」八』ちょっと判り難いので言っておくと、巻之八の「神泉苑」の雨乞の関連で文中に出る。そこでは、『美濃の郡上西に穴馬村という山に穴あり。深さ三里、中に馬有り』として以下の話が載る。

「陸中膽澤(いざわ)郡金ケ崎村大字西根の赤澤山」現在の岩手県胆沢郡金ケ崎町西根はここ。「赤澤山」というのは国土地理院図でも見当たらないが、一つ気になるのは、同地区の西の境界のごく直近にある岩手県胆沢郡北上市和賀町岩崎新田の駒形神社奥宮という駒ヶ岳のピーク(標高千百二十九・八メートル)で、「遠野文化研究センター」公式サイト内の「駒形神社奥宮」を見ると、奥宮の堂内には『白馬と黒馬の神像が祀られていました。藩政時代には白馬が盛岡藩・黒馬が仙台藩の神像だったと聞きますが、藩境が取り払われた現在はどうなのでしょうか。それに白馬が親子です』。『なにか意味があるのか気になります』。『現在このお駒堂を守っている水沢駒形神社の山下宮司によると、「晴れを願う時は白い馬に、雨を願う時は黒い馬に祈る」らしく、晴れを望む人が多かったので白馬の神像を二体奉納したのだそうです』。『水も晴天も農業には欠かせないものです。お駒堂から見下ろす北上盆地は黄金色で、昔の今も人々が変わらず願い続けている通りの実りの秋の風景でした』。『盛岡・仙台両藩の水争いの出発地点から豊作を見守るお駒さまたちも安心していることでしょう』とあって、現在の新しい馬の像の写真があるのである。或いはこれが柳田國男がここで言うそれなのではないか? と思わせるのである。柳田は「鐵を以つて鑄たる二體の馬の像ありき」と過去の助動詞を用いているから、或いは、これがその後裔なのかも知れないと感じるのである。但し、遂にここ或いはこの周辺に赤沢山は現認出来なかったし、「天狗佛」も検索ではヒットしなかった。これもまた、識者の御教授に委ねるしかあるまい。【2019年4月27日追記】T氏から非常に興味深い膨大な考証と情報を頂戴した。ほぼそのメールそのままで以下に引用させて戴く。

   《引用開始》

 小生の今の考えは、「栗原郡栗駒山の山腹の寺社の話がコンガラガッテ膽澤郡金ケ崎村の話」と誤認したものと思っています。柳田氏は引用元を尊重し、「澤郡金ケ崎村大字西根ノ」と記載しています。「仙臺封内風土記」(田邊希文著。明和九・安永元(一七七二)年完成)の当該記述は「封内風土記」の「巻之十九」の「膽澤郡西根邑」の項(同書の立国会図書館デジタルコレクションの画像の110コマから112コマの記載)ですが、そのなかで「但有一古老……以下」の部分は、一寸、問題??な記載です。

[やぶちゃん注:以下、同部分のT氏による電子化に一部で私が手を加えた。後も同じ。]

   *

山一。 駒形山。或稱峯◦駒嶽◦駒形。封内名跡志曰。山嶽峻峻西跨仙北。北跨南部。東南蟠栗原◦磐井◦膽澤三郡之高山。而言其所一ㇾ及。則西根◦水澤◦桃岡◦永德寺數邑。遶山麓也。不ㇾ詳ㇾ祀何神。後世鄕隣失其傳來。依駒形之字。推安馬頭觀音。號御駒山馬峯寺。可ㇾ謂馳上世神明之旨矣[やぶちゃん注:返り点「三」はママ。]。是亦淫祠之甚者也。今問之鄕里。而無分明解說者。尤可ㇾ憂焉。(ここまでは「膽澤郡西根邑」の話で間違いありません)但有一古老。說曰。此峯巒絕頂曰大日嶽。亞ㇾ之者曰駒形。半腹有叢祠神馬(コマノ)社。往古有神駒。而常遊山岳。雪毛霞暈。殪[やぶちゃん注:音「アイ」。死ぬこと。]後瘞[やぶちゃん注:「うづむ」。]之峯頂。立ㇾ祠祭ㇾ之。故稱神馬嶽。神名帳所ㇾ謂。駒形神社是也。其山峻極。至晩夏宿雪猶不未ㇾ消。其殘雪之狀。自然爲奔馬迅電之勢。而如ㇾ具首尾耳鬣脚蹄之形也。人以爲ラク是乃精神生氣之妙。自然所ㇾ現于玆矣。今望之近隣境之山頭。則果現然如其所一ㇾ傳。於ㇾ是爲地名。又山間有岩窟。濶三尺。高一丈。長二間許。内藏銅臺。置馬首佛(バトウクワンヲン)◦大日◦虛空藏。一里餘而山下。有往昔寺址。相傳。平城帝。大同中。釋慈覺開基。號滿德山寶福寺。今荒廢。鄰大岳而有ㇾ山。曰赤澤山。山上有鐵駒二頭。長四寸。又有鐵佛。背後負兩翼。土人曰之天狗佛。共在山頭。其峯山岳地勢形氣渾非凡境焉。(ここから先行著書の批評、と言うよりも、実は否定部分となります)後世以此山岳歌林所ㇾ詠栗駒山也。非ㇾ是。歌林稱栗駒山。而所ㇾ詠者。在栗原郡沼倉邑者是也。其地朴樹亦多。質之土地。其山勢。亦相等栗原郡中駒岳。其山高大以栗文字推ㇾ之。以ㇾ在栗原郡而須ㇾ稱之栗駒山。於社號。亦栗原乃稱駒形根。在此郡乃但稱駒形。視者辨焉。

   *

とあって「山に雪形がある。最高峰が大日嶽で第二峰が駒形である」と云っています。(栗駒山??)最後部の「非ㇾ是。歌林稱栗駒山。」以下は、先行の「奧羽觀蹟聞老志」(佐久間洞巖著。享保四(一七一九)年完成)の「卷之十」の「膽澤郡栗駒山」の記載(歌枕「くりこま」主題)への批評で「場所が違う」と言っています。「奥羽観蹟聞老志」は義経伝説の丁寧なサイトを作っておられる佐藤弘弥氏の、「仙台叢書」第十五巻の国字表記「奥羽観蹟聞老志巻之十」の「胆沢郡」の「栗駒山」で読むことができます。

 栗駒山と駒形山については、小関純夫のサイトの「文献からみた栗駒山名の定着過程」の「1.はじめに」に、『江戸時代中期に製作された『仙台領際絵図』や他の文献では、栗駒山は本来の雪形の出る1573m峰を「駒ヶ嶽」と呼んでいた。また、最高峰1627.7mは「大日嶽」として区別していた。それがどうして栗駒山という山名に定着していったのだろうか』とあり、同「3.仙台領内の絵図」の「膽澤郡・栗駒山」の項に『このなかで、栗駒山は栗原郡(巻之八)ではなく膽澤郡(巻之十)に記載してある。延喜式神名帳に載っている駒形神社を山中に祭っていて、現在の焼石連峰に属する駒ヶ岳をさすことが分かる。そして、この駒ヶ岳を仙北、磐井、栗原にまたがる広大な山域としてとらえている。しかし、絶頂は大日嶽としている。残雪が奔走する馬の形をしていることや、山中の岩窟に馬頭観音、大日如来、虚空蔵菩薩の仏像が祭ってあることなどは、現在の栗駒山の記述のようにもとれる』。『この膽澤郡には「酢川岳」の記載もあり、奥羽の両境にまたがる大岳で、温泉があることを紹介している。そして「日本三代実録」から』、仁徳天皇六一(三七三)年に『温泉神に従五位を授くと引用している。一方、栗原郡の記述では、駒形根神社が神名帳に載っていることだけを紹介している。従って、須川温泉側から行く駒形根神社の口伝を、膽澤郡にある駒形神社のものと記述したのかもしれない』とあり、「奧羽觀蹟聞老志」の「膽澤郡 栗駒山」の記載は「栗原郡栗駒山」の話を混ぜている可能性が高いことを指摘されています。

 序でに、膽澤郡駒形神社の少し吃驚な話を紹介しておきます。

 江戸時代には駒形山上の奥宮と里宮(女人参拝ができるように)があった。ともに観音堂と思われていた(神仏習合時代ですから)。「封内風土記」[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁画像。]では、

   *

佛宇凡八。  觀音堂四。 其一。在駒嶽仙臺◦南部封境之間。是以兩主相輿修補造營其堂宇[やぶちゃん注:原書の返り点がおかしいので訂した。]。傳云。仁明帝。嘉祥三年。慈覺大師造ㇾ之。希文按。延喜式神名帳所ㇾ謂。駒形神社是也。士俗誤傳以本地佛爲ㇾ主稱觀音。處處神社以佛名稱ㇾ之者。其類多。 其二。號御堂。山上禁婦人之登拜。故建堂於山麓。使婦人拜一ㇾ之。

   *

各地の神社を踏破・紹介されておられる玄松子さんのサイト「玄松子の記録」の、岩手県奥州市水沢区中上野町にある「駒形神社」[やぶちゃん注:陸中國一之宮駒形神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。]の記載の中に、現在は『岩手県奥州市水沢区』の『水沢駅の南西』一キロメートル『ほどの水沢公園の一角に鎮座』するが、『当社は』、もとは『奥宮のある駒ケ岳山頂に鎮座していたが、参拝』が『不便であるため、明治』三六(一九〇三)『年に鹽竃神社境内に遷座された。鹽竃神社は、境内別宮として祀られていた春日神社に合祀され、鹽竃神社と名を変えて、春日神社の名は消滅した。玉突き事故のような、事の顛末』。「参拝のしおり」の「本社について」にも、『当社の社地は』、『もと』、『塩釜神社の鎮定地であったが、明治四』(一八七一)『年五月十四日』、『国幣小社に列せられた時、里宮、奥宮ともに交通不便の地にあるため』、『県知事等の参向することもできかねる為、当時』、『水沢県庁の所在地であった現社殿を仮遥拝所とした。さらに明治七年』、『社殿を大いに修理し』、『正式の遥拝所とした』とありました。

 明治の「そこのけそこのけ延喜式記載の式内社」の地上げと県幹部への忖度??? 塩釜神社は伊達藩時代の金ケ崎付近領主が旧地より勧請した神社であったのに、です。……「春日神社の名は消滅した」……後ろ建てなく無念…………

   《引用終了》

何時もながら頭が下がりっぱなしになる御協力を頂いた。改めてT氏に心より感謝申し上げます。

三人の少女 伊良子清白 (附・初出形)

 

三人の少女

 

末のをとめを譬ふれば

雪の中なるうめの花

操(みさを)に生くるをんなごの

氣高(けだか)き形具へたり

 

中のをとめをながむれば

夏の野に咲く白百合の

髮も面(おもて)も淸らにて

つゆのけがれもなかりけり

 

姉のをとめの風情こそ

霧のまぎれの女郞花(をみなへし)

風にもたへぬすがたにて

いとどか弱く見えにけり

 

三人のみなる湯の槽(ふね)に

春はおぼろの宵にして

油乏しきともし火は

けぶりの如くてらしけり

 

あけもみどりもぬぎすてて

生(なし)のままなる天(あめ)の子等

出湯(いでゆ)の波の泡沫(うたかた)に

今も生(あ)れしと疑はる

 

神代ながらに湧き出づる

靈(くし)ふる泉音澄みて

三つの花瓣(はなびら)花の子が

膚(はだへ)は消ゆと見ゆるかな

 

窻のひまより腕(ただむき)と

圍(まろ)き肩とをてらしけり

もとより弱き影なれば

月のさすとは知らざらむ

 

うつくしきものらこころせよ

獵矢(さつや)手挾(たばさ)み愛の子が

高きに翔(か)けり兵(ひやう)と射ば

こよひの程もやすからじ

 

三人のうちの誰が子をか

幸(さち)とさだめて射向はん

月の村雲見えがくれ

クピドは空にうかぶなり

 

長き黑髮すゑ濡(ひ)ぢて

神は解くともをとめ子よ

しづく白珠(しらたま)波越えて

をさなきものに箭(や)は立たじ

 

[やぶちゃん注:明治三五(一九〇二)年七月発行の『文庫』初出であるが、初出形からは後半が大きく改変されてある。後で初出形を示す。なお、初出は総標題「葉分けの月」で次の「葡萄の房」と「卜」(「うらなひ」か「ぼく」かは不明)で、後者の「卜」を改題改作したものである。

「生(なし)のままなる」「生(な)す」を名詞化し、「生まれたままの裸形となって」の意。

「クピド」Cupid。ローマ神話のキューピッド。

 初出は以下。

   *

 

三人の少女

 

末のをとめをたとふれば

雪の中なる梅の花

操(みさを)に生くるをんなごの

氣高(けだか)き形備へたり

 

中の少女をたとふれば

夏の野に咲く百合の花

髮も面(おもて)も淸らにて

珠を展べたるごとくなり

 

姉のをとめの風情こそ

霧のまぎれの女郞花(をみなへし)

つゆにも堪へぬ姿にて

いとゞかよわく見えにけり

 

三人のみなる湯の槽(ふね)に

春はおぼろの宵にして

油乏(ともし)きともし火は

をとめの面を照らしけり

 

あけも綠もぬぎすてゝ

生(なし)のままなる天(あめ)の子等

愛を波うつ湯のおもに

生(あ)れしもいでしとうたがはる

 

昔は鳩の箭の傷を

癒したりてふ野の泉

三つの蕾の花のこが

今は肌を洗ふかな

 

かたみに小さき手の掌を

ゆゑゆゑしくも集め見て

何に卜ふ行末の

幸は誰が子に宿るらむ

 

氣高きものとかよわきと

淸らのものとおのがじゝ

稟けし姿はかはれども

誰か幸無きものあらむ

 

美しき子ようらなひの

まだ見ぬ夢を追ふなかれ

湯のもにうかぶ浮像の

かりの戲れをなにかせむ

 

窓のひまより腕(たゞむき)と

圓き肩とをてらしたり

もとより弱きかげなれば

月のさすとも知らざらむ

 

長き黑髮すゑひぢて

母は解くともをとめ子よ

をさなすがたのなんたちに

湯の香のいかでそまり得む

 

   *

初出形の「稟けし」は「うけし」と読む。「浮像」は「うたかた」(泡沫)と訓じていよう。「なんたち」は「汝達」の短縮訓。明治期の作品ではしばしば見られる。]

太平百物語卷一 五 春德坊狐に化されし事

    ○五 春德坊狐に化されし事

 下京に順光寺といへる寺あり。

 或る夜、下男(しもおとこ[やぶちゃん注:ママ。])とおぼしき者壱人(いちにん)、挑灯をともし來たり、

「某(それがし)は久㙒(ひさの)屋可十郞方より參り候。主人、『召使ひの女、相果(あいはて)申すに付(つき)、今夜の内、㙒送り仕り度(たき)儘(まゝ)、御弟子の内、御壱人、御越(おんこし)下さるべし。則(すなはち)、御迎(むかひ)の爲、私を指越(さしこし)候ふ。」

と申しければ、住持、此よしを聞(きゝ)、

「心得候。」

とて、春德といへる弟子をつかはしけるが、子の刻も過ぎ、丑の刻になりても、春德、かへらず。

 住持、ふしぎにおもひ、彼の久㙒屋へ人をつかはし、樣子を尋(たづね)させけるに、可十郞、此よしをきゝ、おどろき、申しけるは、

「此方(このほう)には死人なし。元來、家來もつかはさず。若(もし)、所たがひ侍るにや。」

といひければ、

「こは、ふしぎ。」

とて、急ぎ、寺に歸り、住持に「かく」と告ければ、

「さればこそ。」

とて、さはぎ立(だち)、手分けをして方々と尋步(たづねあり)きけるに、夜明の比(ころ)ほひ、五条西洞院にて見付出(みつけいだ)し、頓(やが)て連れ歸りけるが、住持、あきれて、

「何國(いづく)へ行きし。」

と尋ねられしかば、

「さん候、未(いまだ)可十邸宅に行つかぬうちに、夜(よ)明(あけ)候ひける。」

といひければ、

「扨は。きつねの所爲(しわざ)ならめ。」

と、はては、大わらひになりて、はたしぬ。

[やぶちゃん注:「順光寺」不詳。

「五条西洞院」この辺り(グーグル・マップ・データ)。

「はたしぬ」「果たしぬ」で「お終(しま)いとなったのであった」の意。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 黒眚(しい) (幻獣)

Sii

 

 

 

しい

 

黒眚

 

震澤長語云大明成化十二年京師有物如狸如犬倐然

[やぶちゃん注:「大明」は原典では「太朋」であるが、流石に訂した。]

如風或傷人靣噬手足一夜數十發負黒氣來俗名黒眚

△按元祿十四年和州吉野郡山中有獸狀似狼而大高

 四尺長五尺許有白黒赤皂彪班之數品尾如牛蒡根

 鋭頭尖喙牙上下各二如鼠牙齒如牛齒眼竪脚太而

[やぶちゃん注:「喙」は「啄」であるが、おかしいので訂した。東洋文庫訳も「喙」とする。]

 有蹼走速如飛所觸者傷人靣手足及喉遇之人俯倒

 則不噬而去用銃弓不能射之用阱取得數十而止【俗呼

 名志於宇】蓋黒眚之屬乎

 

 

しい

 

黒眚

 

「震澤長語〔(しんたくちやうご)〕」に云はく、『大明の成化十二年[やぶちゃん注:一四七六年。]、京師[やぶちゃん注:当時の明の首都は既に南京から北京に移っている(遷都は一四二一年)。]〔に〕物有り、狸のごとく、犬のごとし。倐然〔(しゆくぜん)〕として[やぶちゃん注:忽ち。]、風のごとく〔來たりて〕、或いは人靣を傷(きずつ)け、手足を噬〔(か)〕む。一夜〔にして〕數十、發〔(おこ)〕る。黒〔き〕氣を負ふ。〔故に〕俗に「黒眚」と名づく』〔と〕。

△按ずるに、元祿十四年[やぶちゃん注:一七〇一年。]、和州吉野郡〔の〕山中〔に〕獸有り、狀〔(かたち)〕、狼に似て、大きく、高〔(た)〕け四尺、長さ五尺許り。白黒〔(びやくこく)〕・赤皂〔(あかぐろ)〕・彪班〔(ひようまだら)〕の數品〔(すひん)あり〕、尾、牛蒡〔(ごばう)の〕根のごとく、鋭き頭、尖れる喙〔(くちさき)〕、牙、上下各二つ〔ありて〕鼠の牙のごとく、齒は牛の齒ごとく、眼〔(まなこ)〕、竪〔(たて)〕にして、脚、太くして蹼(みづかき)有り。走-速(はし)ること飛ぶがごとく、觸るる所の者、人靣・手足及び喉〔(のど)〕を傷つくる。之れに遇ひ、人、俯〔(うつむ)〕き〔て〕倒〔(たふ)〕るれば、則ち、噬まずして去る。銃・弓を用ひて〔も〕之れを射ること能はず。阱(をとしあな[やぶちゃん注:ママ。]を用ひて、數十を取り得て、止む【俗に呼びて「志於宇〔(しおう)〕」と名づく。】。蓋し、黒眚の屬か。

[やぶちゃん注:幻獣。挿絵を見てもモデル動物も思い浮かばない。良安の附言に挙げるものは、ごく直近(本書は正徳二(一七一二)年頃成立であるから、僅か十年前の事件である)の出現と捕獲事例であって、それは明らかに実在する獣として述べられているのであるが、当該し得る動物も私には浮かばない(狼の特殊な毛色の個体群にしてもバラエティに富み過ぎていて実在感がない)。但し、私は一読、銃や弓で狙撃出来ない点(落とし穴で獲れるというのは除外する)、人の顔面・手足・頸部前面等を傷つける点、疾風のように敏捷である点から、

「鎌鼬(かまいたち)」

を第一に、次いで

「頽馬(だいば)」

を想起したことを述べておきたい。それぞれ、さんざん電子化したし、私の見解も語ってきた。まんず、概要なら、「柴田宵曲 續妖異博物館 鎌鼬」を読まれたく、続いて「想山著聞奇集 卷の貮 鎌鼬の事」を、また、後者については「想山著聞奇集 卷の壹 頽馬の事」を見られんことを強くお薦めしたい。但し、「鎌鼬」も「頽馬」も落とし穴で捕えることが出来る実在獣ではない。因みに、ウィキの「シイ(妖怪)」があるので以下に引用はしておくが、この内容は私にとっては(珍しく)散漫な印象で頗る不満足なものである。『シイ』(引用元には漢字で「青」及び、原文部分で字注として述べた、上が「生」で下が「月」の字を表示してあるが、後者は私の現在のブログでは文字化けして表示出来ない)『は、日本の妖怪。和歌山県、広島県、山口県、福岡県に伝わる。姿はイタチに似ており、牛や馬などを襲うという』。「日本国語大辞典」「広辞苑」の『記述によると、シイは筑紫国(福岡県)や周防国(山口県)などに伝わる怪獣で、その姿はイタチに似ており、夜になると』、『人家に侵入し』、『家畜の牛や馬を害する存在であるという』。江戸時代の本草書「大和本草」や本「和漢三才図会」、随筆「斎諧俗談」等には、『シイに「黒』(上記下線で説明した漢字)『」という漢字表記をあてている』。貝原益軒の「大和本草」の『解説によると、周防国(現・山口県)や筑紫国(現・福岡県)におり、やはり牛馬に害をなすもので、賢い上に素早いので』、『なかなか捕えることはできないとある』「中村学園大学」公式サイト内の同大「図書館」の「貝原益軒アーカイブ」「大和本草」の「巻之十六」(PDF)の十二コマ目から十三コマ目にかけて載る。良安と同じく完全に実在する害獣として記載しており、益軒は筑紫にも所々でこの獣がいると断言している(彼は生涯の殆どを福岡で過ごした)。しかし同時に近年までこの動物がいることを知らず、最近になって狩りするようになったと言っている、正直、「なにこれ?」って感じ。益軒は「養生訓」で有名だが、本草家としては杜撰が多く、小野蘭山の「本草綱目啓蒙」は実はこの「大和本草」が誤りだらけであることに腹を立てた蘭山がそれを批判する目的をも以って作られたものである。「斎諧俗談」では『奈良県吉野郡にいるものとされ、人間はこれに触れただけで顔、手足、喉まで傷つけられるとある』(「斎諧俗談」のそれは巻五に載るが、「和漢三才図会」の記載を順序を入れ替えて剽窃したものでしかない。同書は引用元を伏せてしばしばそうしたことをやらかす要注意の作品である)。『和歌山県有田郡廣村(現・広川町)や広島県山県郡では、シイを「ヤマアラシ」ともいって、毛を逆立てる姿を牛がたいへん恐れるので、牛を飼う者は牛に前進させる際に「後ろにシイがいるぞ」という意味で「シイシイ」と命令するのだという』。山口県『大津郡長門市では田で牛を使う際』、五月五日に『牛を使う、田植え時期に牛に牛具を付けたまま川を渡す、女に牛具を持たせる』五月五日から『八朔』(旧暦八月一日のこと)『までの間に』、『ほかの村の牛を率いれるといった行為がタブーとされており、これらを破ると』、『シイが憑いて牛を食い殺すといわれた』(この事例は私にはすこぶる「頽馬」との親和性がある内容と考えている)。福岡県『直方市にある福智山ダムには、地元に伝わるシイ(しいらく)の伝承を伝える石碑が建てられている』。『この』幻獣は、『本来は中国の伝承にある怪物の名であり、宋時代の書』「鉄囲山叢談」によると、その『一種として「黒漢」というものが』北宋の『宣和年間』(一一一九年~一一二五年)『の洛陽に現れ、人間のようだが』、『色は黒く、人を噛むことを好み、幼い子供をさらって食らい、その出現は戦乱や亡国の兆しとして恐れられていたとある』、また、明代の「粤西叢戴」では、『この類として「妖』(同前の字)『」というものが、夜になると』、『人家に侵入して女を犯し、時に星のごとく、黒気のごとく、火の屑のようにもなるとある』。『江戸期の書物にある』それ『は、日本の正体不明の怪物に』、『この中国の』その『名を』ただ『当てはめたに過ぎないとの説もある』とある。

「震澤長語〔(しんたくちやうご)〕」明の王鏊(おうごう)撰。東洋文庫の書名注によれば、『十三項目に分けて事物を考訂したもの』とある。中文サイトでやっと見つけた。上巻の以下。

   *

成化中。京師黑眚見、相傳若有物如狸或如犬、其行如風、倐忽無定、或傷人面、或嚙人手足。一夜數十發、或在城東、又在城西、又在南北、訛言相驚不已。一日上御奉天門、視朝、侍衛忽驚擾、兩班亦喧亂、上欲起、懷恩按之、頃之乃定。自是日、遣内豎出詗。汪直、時在遣中、數言事、由是得幸。遂立西廠、使偵外事廷臣、多被戮辱、漸及大臣、大學士。商輅兵部尚書項忠皆以事去都。御史牟俸亦被逮、或徃南京、或徃北邊、威權赫奕倐忽徃來不測人、以爲黑眚之應也。

   *

よく判らないが、ともかくも神出鬼没であることは取り敢えず判るわな。]

太平百物語卷一 四 富次郎娘虵に苦しめられし事

 

    ○四 富次郎娘虵(へび)に苦しめられし事

Tomijiroumusume

 越前の國に富次郎とて、代々分限(ぶんげん)にして、けんぞくも數多(あまた)持(もち)たる人、有り。

 此富次郎、一人(ひとり)の娘をもてり。今年十五才なりけるが、夫婦の寵愛、殊にすぐれ、生(むま)れ付(つき)もいと尋常にして、甚(はなはだ)みめよく、常に敷嶋(しきしま)の道に心をよせ、明暮(あけくれ)、琴を彈じて、兩親の心をなぐさめける。

 或時、座敷の緣に出て、庭の氣色を詠(ながめ)けるに、折節、初春(はつはる)の事なれば、梅(むめ)に木づたふ鶯の、おのが時(とき)得し風情(ふぜい)にて、飛びかふ樣のいとおかしかりければ、

    わがやどの梅(むめ)がえになくうぐひすは

     風のたよりに香をやとめまし

と口ずさみけると、母おや、聞きて、

「げにおもしろくつゞけ玉ふ物かな。御身の言の葉にて、わらはも、おもひより侍る。」

とて、取りあへず、

    春風の誘ふ垣ねの梅(むめ)が枝に

     なきてうつろふ鶯のこゑ

かく詠(ゑひ)じられければ、此娘、聞きて、

「実(げ)によくいひかなへさせたまひける哉。」

と、互に親子、心をなぐさめ樂しみ居(ゐ)ける所に、むかふの樹木(じゆぼく)の陰より、時ならぬ小虵(こへび)壱疋(いつひき)、

「するする。」

といでゝ、此娘の傍(そば)へはひ上(あが)るほどに、

「あらおそろしや。」

と、内にかけいれば、虵も同じく付(つい)て入(いる)。

 人々、あはて立出(たちいで)て、杖をもつて、追(おひ)はらへども、少しも、さらず、此娘の行方(ゆくかた)に、したがひ行く。

 母人(はゝびと)、大(おほ)きにかなしみ、夫(おつと[やぶちゃん注:ママ。])に

「かく。」

と告げければ、富次郎、大きにおどろき、從者(ずさ)を呼(よび)て取捨(とりすて)させけるに、何(いづ)くより來(きた)るともなく、頓(やが)て立歸(たちかへ)りて娘の傍(そば)にあり。

 幾度(いくたび)すてゝも、元のごとく歸りしかば、ぜひなく打殺(うちころ)させて、遙かの谷に捨(すて)けるに、又、立ち歸りて、もとの如し。

「こはいかに。」

と、切(きれ)ども、突(つけ)ども、生歸(いきかへ)り、生歸りて、中々(なかなか)娘の傍を放れやらず。

 兩親をはじめ、家内の人々、

「如何(いかゞ)はせん。」

と嘆かれける。

 娘もいと淺ましくおもひて、次第次第によはり果(はて)、朝夕(てうせき)の食事とてもすゝまねば、今は命もあやうく見へければ、諸寺諸社への祈禱、山伏・ひじりの咒詛(まじなひ)、殘る所なく心を盡せども、更に其(その)驗(しるし)もあらざれば、只いたづらに娘の死するを守り居(ゐ)ける。

 然るに當國永平寺の長老、ひそかに此事を聞(きゝ)給ひ、不便(びん)の事におぼし召し、富次郎が宅(たく)に御入有りて、娘の樣躰(やうだい)・虵がふるまひを、づくづくと[やぶちゃん注:ママ。]御覽あり、娘に仰せけるやうは、

「御身、座を立て、向ふの方(かた)に步(あゆ)み行べし。」

と。

 仰せにしたがひ、やうやう人に扶(たすけ)られ、二十(にじつ)步(ほ/あゆみ)斗(ばかり)行くに、虵も同じくしたがひ行く。

 娘、とまれば、虵も、とまる。

 時に長老、又、

「こなたへ。」

とおほせけるに、娘、歸れば、虵も、同じく立歸る所を、長老、衣の袖にかくし持玉(もちたま)ひし、壱尺餘りの木刀(ぼくたう)にて、此虵が敷居をこゆる所を、つよくおさへ玉へば、虵、行(ゆく)事能(あた)はずして、此木刀を遁(のが)れんと、身をもだへける程(ほど)、いよいよ強く押へたまへば、術(じゆつ)なくや有りけん、頓(やが)てふり歸り、木刀に喰付(くひつく)所を、右にひかへ持(もち)玉ひし小劔(こつるぎ)をもつて、頭を「丁(てう)」ど、打ち落し給ひ、

「はやはや、何方(いづかた)へも捨(すつ)べし。」

と。

 仰せにまかせ、下人等(ら)、急ぎ野邊(のべ)に捨(すて)ける。

 其時、長老、宣(のたま)ひけるは、

「最早、此後(こののち)、來たる事、努々(ゆめゆめ)あるべからず。此幾月日(いくつきひ)の苦しみ、兩親のなげき、おもひやり侍るなり。今よりしては、心やすかれ。」

とて、御歸寺(ごきじ)ありければ、富次郎夫婦は、餘りの事の有難さに、なみだをながして、御後影(おんうしろかげ)を伏拜(ふしおが)みけるが、其後(そのゝち)は、此虵、ふたゝび、きたらず、娘も日を經て本復(ほんぶく)し、元のごとくになりしかば、兩親はいふにおよばず、一門所緣の人々迄、悦ぶ事、かぎりなし。

「誠に有難き御僧かな。」

とて、聞く人、感淚をながしける。

[やぶちゃん注:以下の筆者評の部分は底本では文字が有意に小さく、全体が本文の二字相当の下げとなっているが、ブラウザの不具合を考えて引き揚げた。]

評じて曰(いはく)、虵、木刀に喰付(くひつき)たる内、しばらく娘の事を忘れたり。其執心(しうしん)のさりし所を、害し給ふゆへに、ふたゝび、娘に付事、能はず。是(これ)、倂(しか)しながら、知識(ちしき)の行ひにて、凡情(ぼんじやう)のおよぶ所にあらず。誠に、此一箇(いつこ)に限らず、萬(よろづ)の事におよぼして、益(ゑき[やぶちゃん注:ママ。])ある事、少なからず。諸人、能(よく)思ふべし。

[やぶちゃん注:おぞましき異類恋慕譚に、鎌倉新仏教のチャンピオンたる禅宗僧が、その蛇の執心の意識をずらすことで退治するという仕掛けを施し、気味の悪さを和歌で和らげてあるこの一篇、私などには、江戸時代の臨済中興の祖とされる名僧白隠慧鶴(えかく 貞享二(一六八六)年~明和五(一七六九)年)の逸話とされる、地獄を問う武士をけんもほろろに追い返して怒らせ、禅師を斬らんとしたその瞬間、彼に向って「それぞ地獄!」と応じた変形公案と同工異曲のようには思われる(白隠はまさに「太平百物語」の板行された享保一七(一七三二)年当時の同時代人である)ものの、なかなかに成功している怪談で、まず「太平百物語」の一つのクライマックスと言える。第四話目にこれを配し、しかも異例な作者の評言を添えるなど、筆者の自信作であったことは疑いない。但し、プロトタイプは恐らく中国の伝奇か志怪小説であろう。なお、この一条は既に「柴田宵曲 妖異博物館 執念の轉化」の注で電子化しているが、今回は底本を変えたので、一からやり直した。柴田宵曲はかなり綿密に本話を梗概訳しているので、そちらも見られたい。

「敷嶋(しきしま)の道」歌道のこと。これを「敷島の道」と呼ぶようになったのは、存外、新しいようだ。田中久三氏のサイト「亦不知其所終」の「敷島の道」の考証が興味深い。それによれば、歌学用語としての定着は鎌倉後期のようである。]

太平百物語卷一 三 眞田山の狐伏見へ登りし事

 

    ○三 眞田山(さなだやま)の狐伏見へ登りし事

Sanadayamanokitune_4

 伏見に德地屋(とくぢや)といふ穀物(こくもの)問(とい[やぶちゃん注:ママ。])屋あり。或日の事なりしが、五十斗(ばかり)の女壱人、此みせの先に立ちやすらひ居(ゐ)けるが、風呂敷包より藁苞(わらつと)を取出(とりいだ)していふやう、

「わらはゝ、大坂より京へのぼる者なり。此苞は大事の物に候ふまゝ、厠(かはや)へ參り申すうち、しばらく是(これ)に御預り置給はれ。」

といふにぞ、

「子細候はじ。」

とて許容して預り置(おき)しが、一時(とき)斗になりても、此女、見へこず。

「こは。わすれて上京せしにや。大事の物といひしが。」

なんど、寄合、いひあへりしを、主人、聞付(ききつけ)、おくより出ていひけるは、

「しらぬ人の物、須臾(しばらく)も預る事、卒爾(そつじ)の至りなり。」

とて、大きに叱り、其あたりなる厠ごとに尋(たづね)させけれども、敢て見へねば、

「又々たづね來(きた)るまで大事にして置べし。」

とて、庭の片脇(かたわき)に持行(もちゆき)、桶をかぶせ、犬・猫の用心をして置けるに、亥の刻ばかりとおもふ比(ころ)、此桶、そろそろとゆるぎ出(いだ)しけるを、下女が見付けて、うちおどろき、

「あれあれ、桶の步き侍る。」

といひければ、家内(かない)の男女(なんによ)、おそれ合、身をちゞめて守りゐる内、此桶、次第に宙に上(あが)るとぞ見えし。

 小坊主、壱人、立出(たちいで)しが、次第次第に大きになりて、七尺有餘(ゆうよ)の大入道となり、

「あら窮屈や。」

といひて、四方を見廻す其眼(まなこ)のすさまじさ、偏(ひとへ)に車輪のごとくなりければ、女・わらべはいふに及ばず、さしもに若き男までも、一度に、

「わつ。」

とさけびて迯吟(にげさまよ)ふ。

 されども、亭主は心剛(こゝろがう)る男にて、脇指(わきざし)おつ取、飛(とん)で出(いで)、彼(かの)大入道を、

「はつた。」

とねめ、

「おのれ。いかなる變化(へんげ)なれば、我家(わがいへ)に來りて、かく人を惱ます。はやく此所(このところ)を立ちさるべし。ぜひ、災(わざはひ)をなさんとならば、今(いま)、目の前に切(きつ)て捨てん。」

と、勢ひかうでいひければ、入道がいはく、

「われは大坂眞田山に年を經る狐なり。此家(このいへ)の者、頃日(このごろ)、わが住(すむ)所に來りて、出(いで)入りする穴に、小便をし、穢(けが)したるがにくさに、跡をしたふて登り、此所の桃山に住む狐を賴みて、今朝(こんてう)、たばかり入たり。はやはや、其者を出すべし。さもなくば、家内殘らず仇(あだ)をなさん。」

といふ。

 亭主、此よしを聞(きゝ)、

「頃日(このごろ)大坂へ下(くだ)せし者は太次兵衞(たじびやうへ[やぶちゃん注:ママ。])なり。」

とて、呼出(よびいだ)して、事のやうすを尋ねければ、太次兵衞、ふるひふるひ這出(はひいで)て、

「誠に、仰せのごとく、眞田山見物に罷りて、木陰なる所に、何心なく、小便いたし候ひき。しらぬ事にてさふらへば、御ゆるし下さるべし。」

と、色を變じてなげきければ、亭主、入道にむかひ、

「樣子は、なんぢ、今(いま)聞く通りなり。しらざれば、力なし。ゆるして、はやはや歸るべし。」

といふ。

 入道がいはく、

「然らばいのちを助くべし。此(この)過代(くはだい)として、わが住(すむ)穴に、三日が内(うち)、赤飯(あかめし)と油ものを備へ來(きた)るべし。此事、違(たが)ふにおいては、汝が皮肉に入りて、命を取(とる)べきぞ。」

といふに、

「其義(そのぎ)ならば、いと安き事なり。明日(みやうにち)より三日の内、朝暮(てうぼ)備へ申さん。」

と請合(うけあひ)しかば、忽ち、形ちは、消え失せたり。

 それよりして三日の内、朝暮、彼(かの)所に備へければ、太次兵衞が身の上、無事にをさまりけるとかや。

[やぶちゃん注:「太平百物語」のここまでの巻頭三話は総て妖狐譚で、作者の計算された構成意図が窺える。狐の博物誌は、ごく最近電子化注した「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狐(きつね)(キツネ)」をお薦めする。

「眞田山」現在の大阪市天王寺区の大阪城の南方にある小さな丘。「大坂冬の陣」の際、真田幸村が陣を構えた所とされる。ここ(グーグル・マップ・データ。大阪府大阪市天王寺区玉造本町の宰相山公園をドットした。宰相山は真田山の別名)。ここから伏見までは直線でも三十六キロメートルある。

「一時」現在の二時間相当。

「卒爾」十分な判断をせず、軽々しい行動をとること。軽率。

「亥の刻」現在の午後十時の前後二時間頃。挿絵師は本文を読んで描いていると思われるから、おくどさん(竈)では飯が炊かれているのは、当時の商家の雇い人たちの夕食か。されば彼らの夕飯は著しく遅かったことが窺われるではないか。

「七尺」二メートル十二センチ。

「吟(さまよ)ふ」当て訓としては不審。「吟」にはこのシーンに相応しい意味では「呻(うめ)く」・「嘆く」・「泣き叫ぶ」等があるが、「彷徨(さまよ)う」の意はない。

「桃山」伏見桃山。この附近(グーグル・マップ・データ。京阪電気鉄道京阪本線の「伏見桃山駅」をドットした)。狐が住まうのだから、地図の東北の、伏見桃山城跡や明治天皇陵がある辺りであろう。

「たばかり入たり」(「入(いり)たり」)「謀(たばか)る」は「計略をめぐらして騙(だま)す。誑(たぶら)かす」。本話の前の一連の変事・怪異を総て示す。さすれば、五十歳ほどの老女は助力を頼んだ桃山の狐が変じたものと読める。

「赤飯(あかめし)」赤飯(せきはん)。供物としての赤飯の起原はよく判っていないが、ウィキの「赤飯」によれば、『古代より赤い色には邪気を祓う力があるとされ、例えば墓室の壁画など呪術的なものに辰砂が多く使われ、また、日本神話の賀茂別雷命や比売多多良伊須気余理比売出生の話に丹塗矢(破魔矢の神話的起源)の伝承があることからも窺える。また、神道は稲作信仰を基盤として持ち(田の神など)、米はとても価値の高い食糧と考えられてきた。このため、古代には赤米』『を蒸したものを神に供える風習があったようである(現在でもこの風習は各地の神社に残っている)。その際に、お供えのお下がりとして、人間も赤米を食べていたと想像される。米の源流を辿ると、インディカ種とジャポニカ種に辿り着く。インディカ種は赤っぽい色をしており、ジャポニカ種は白である。縄文時代末期に日本に初めて渡ってきた米はこの』二『種の中間の種類で、ちょうど赤飯くらいの色だった。この米を、日本人は江戸時代になる前まで食べていた。しかし、稲作技術の発展による品種改良でより収量が多く作りやすい米が出てきたこと、食味の劣る赤米を領主が嫌って年貢として収納することができなかったことから、次第に赤米は雑草稲として排除されるようになった。だが』、『赤いご飯を食べる風習自体は生き続け、白い米に身近な食材である小豆等で色付けする方法が取られるようになったと考えられる。赤飯にゴマを乗せるのは、白いご飯を赤くしたことを神様にゴマかすためである』という。『現在は、祭りや誕生祝いなど吉事に赤飯を炊く風習が一般的である。しかし、江戸時代の文献』「萩原随筆」には、『「凶事ニ赤飯ヲ用ユルコト民間ノナラワシ」と記されており』、『凶事に赤飯を炊く風習がこの頃には既にあった』。『凶事に赤飯を炊く理由は不明ではあるが、赤色が邪気を祓う効果がある事を期待したためという説や、いわゆる「縁起直し」という期待を込めて赤飯が炊かれたとも考えられる。また、古くは凶事に赤飯を食べていたものが何らかの理由で吉事に食べるように反転したという説もある』。『伝承や歴史が明白となっている部分では、少なくとも』十二『世紀には赤飯が供養に使われていたという事である。赤飯は宗教的な意味合いも強く、赤飯を用いた「赤飯供養」という風習が存在する』とあるから、稲荷信仰よりも以前に赤飯を供物とする習俗は存在したのであり、動物生態学的にもキツネが赤飯を好むものではない。

「油もの」「油揚げ」ではない。油で揚げたものである。当初の稲荷信仰ではキツネが好む鼠を油で揚げたものが供物とされていたが、仏教の殺生禁断から油揚げに変わったに過ぎず、くどいが、肉食であるキツネが特に油揚げを好むわけではない。但し、キツネは肉食に近い雑食性であり、飢えていれば、赤飯や油揚げも食う。]

郭公の歌 伊良子清白 (附初出形)

 

郭公の歌

 

莊嚴美麗の夕日影

一ひらの雲羽搏き入らば

極樂鳥と身をかへん

汝は醜き冥府(よみ)の鳥

 

たとへば蘭の花を啄(ついば)み

巖(いはほ)の上に尾羽を伸す

快樂(けらく)の鳥にくらぶれば

汝は人に馴れ難き

 

生れて鳥の郭公(ほととぎす)

盲(めしひ)の鳥にあらねども

めしひの鳥のごとくにて

人厭はしき風情(ふぜい)あり

 

番(つがひ)はなれぬ金絲雀(かなりや)の

人に飼はるる歌鳥は

手にさへのりて囀れど

汝はにくき小鳥かな

 

汝はにくき鳥なれど

雨にくるひてをやみなく

木かげにさけぶ聲きけば

心は千々にむしられぬ

 

ああ暗黑と光明の

二つのかげをより交(ま)ぜて

林をゆすり山をとよもし

みち渡り行く夕暮の聲

 

[やぶちゃん注:明治三四(一九〇一)年八月一日発行の『明星』(第十五号)初出(署名は「伊良子清白」で、底本全集の「著作年表」に載るデータでは、彼がこの署名を用いた最初の公開作品である)であるが、初出形からは大きな改変が行われている。後で初出形を示す。

 言わずもがなであるが、標題中の「郭公」は「ほととぎす」と読んでいる。本邦の古文ではこれを「くわくこう」(かっこう)と読むことはなく、あくまでカッコウ目カッコウ科カッコウ属ホトトギス Cuculus poliocephalus を指すのであり、カッコウ目カッコウ科カッコウ属カッコウ Cuculus canorus はその棲息域が温暖地の森林であったことから、少なくとも文芸対象としては全く認知されていなかったのである。例えば、同志社女子大学公式サイト内のコラム『「ほととぎす」をめぐって』を見られたい。流石に江戸中期の正徳二(一七一二)年頃成立した寺島良安の画期的な博物学書「和漢三才図会」には、「第四十三 林禽類 杜鵑(ほととぎす)」でホトトギスが、同巻「第四十三 林禽類 鳲鳩(ふふどり・つつどり)(カッコウ)」「第四十三 林禽類 加豆古宇鳥(かつこうどり)(カッコウ?)」でカッコウ或いはカッコウ類らしきものが分別されて登場するが(リンク先は総て私の電子化注)、後の二者は良安の附言部(△印以降)が短いのを見ても、江戸中期の段階でさえも本草学的(良安は医師)にすこぶるマイナーであったことが判る。

「極樂鳥」これは種としてのそれ(スズメ目スズメ亜目カラス上科フウチョウ(風鳥)科 Paradisaeidae のフウチョウ類の異名。「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 風鳥(ふうちやう)(フウチョウ)」を参照)ではなく、後の「醜き冥府(よみ)の鳥」対として出したに過ぎない。後の「快樂(けらく)の鳥」も同義と採る。

「汝は醜き冥府(よみ)の鳥」先に示した同志社女子大学公式サイト内のコラム『「ほととぎす」をめぐって』にも、『中国の故事に由来するものは「死・魂・悲しみ」のイメージをひきずっているとされています』。ホトトギスの異名の一つの『「しでの田長」は』、『本来』、『身分の低い「賎(しづ)の田長」だったようですが、それが「死出」に変化したことで、「田植え」のみならず』、『冥界と往来するイメージまで付与されました』とあるように、主に中国伝来の不吉な鳥としての文化が纏いついている彼らにとっては不幸な経緯がある。それについては、「和漢三才圖會第四十三 林禽類 杜鵑(ほととぎす)」の本文や私の注を参照されたい。昼夜を問わず鳴くことが、ある種の五月蠅さと冥界との以降的時空間に啼く不吉な鳥と理解された可能性も高いと私は考えている。

「生れて鳥の郭公(ほととぎす)」/「盲(めしひ)の鳥にあらねども」/「めしひの鳥のごとくにて」/「人厭はしき風情(ふぜい)あり」恐らく伊良子清白はここでは知られたホトトギス前世譚として知られる「時鳥(ほととぎす)と兄弟」等と呼ばれる説話を念頭に置いているものと思う。小学館「日本大百科全書」の「時鳥と兄弟」から引く(下線太字は私が附した)。『昔話。鳥の前生が人間であったことを主題にする鳥の由来譚』『の一つ。兄弟がいる。弟が山芋』『をとってくる。兄にはうまい下のほうを食べさせ、自分はまずい上のほうを食べる。疑い深い兄は、弟がうまいところを食べているのではないかと思い、弟ののどを突き切った。山芋のまずいところばかり出てくる。兄は後悔してホトトギスになり、「オトノドツッキッタ」(弟ののどを突き切った)と鳴いている、という話である。弟はモズになり、兄のために虫などを木の枝に挿しておくという伝えが付随している話もある。兄が弟を疑う伏線として、兄は盲目であったとか、異母兄弟であったとか説く例も多い(私は盲目設定としてこの話を知っている)。『「継子(ままこ)話」の形をとるものもあり、ホトトギスの托卵(たくらん)性から「継子話」として語られた時期がある』の『かもしれない。端午』『の節供に山薬(さんやく)と称して山芋をとってきて食べる習慣があった地方では、それに結び付けて説いている。類話は中国貴州省のミャオ族にもある。「ペェア」(兄さん)と鳴く鳥の由来で、兄は魚をとってくると、弟には身を与え、自分は頭を食べていたが、弟は兄がうまいほうを食べていると思い、兄を川に突き落とす。頭がまずいことを知った弟は兄を探し求めて鳥になったという。日本にも福島県に魚の例があり、注目される。兄弟の葛藤』『を主題にした鳥の由来譚はマケドニアやアルバニアにもある』とある。

「金絲雀(かなりや)」スズメ目アトリ科カナリア属カナリア Serinus canaria。野生種はアゾレス諸島(大西洋の中央部(マカロネシア)にある九つの島からなる群島。ポルトガル領)・カナリア諸島(アフリカ大陸北西沿岸に近い大西洋上の七つの島からなる群島。スペイン領)・マデイラ諸島(ポルトガルの首都リスボンから南西に約一千キロメートルのマカロネシアにある四つの島からなる群島。ポルトガル領)で、名のカナリアは原産地の一つであるカナリア諸島による。

 初出形は以下。

   *

 

郭公の歌

 

羽(はね)の和毛(にこげ)に雨うたば

あつき血潮の胸冷えむ

もとより人に隱れゐて

葉陰に洩らす歌の聲

 

たとへば枇杷を啄みて

上毛(うはげ)の艶(つや)の羽をのす

快樂(けらく)の鳥に比ぶれば

汝(なんぢ)は人に馴れ難き

 

生れて鳥の郭公

めしひの鳥にあらねども

めしひの鳥のごとくにて

人いとはしき風情あり

 

巢なき鳥ぞと笑はれて

耻らふらしき雛ならば

手にさへ乘りて囀れど

汝はにくき小鳥かな

 

逆立つ毛には瀧つ瀨の

雨ふりそそぎ身のうちの

肉ことごとく波立ちて

とまり危き木々(きゞ)の枝

 

鳥屋(とや)にかくるゝ鷄の

雌(め)にもおとれる小さき身の

闇(やみ)いと深き夕暮も

恐を知らず啼けるかな

 

汝はにくき鳥なれど

雨にくるひてをやみなく

木かげに歌ふ聲きけば

心は千千(ちぢ)にむしられぬ

 

   *

初出の「巢なき鳥ぞと笑はれて」とは托卵の習性を指す。]

2019/04/17

追伸

現物標本よりも精密な模造の方が遙かに金がかかるし、技術も不可欠だ。何より、実物は厳粛であると同時に、より科学的に教育的であることは言うまでもない。言っとくぜ! 実物の標本があって「何が悪い!」と。因みに、母と俺と妻の肉体は慶応大学に献体だ。医学部志望の誰彼は俺を切刻んで学ぶのだ。俺はそこでちゃらけた奴が俺の耳を切って「壁に耳あり」とやらかしたとしても、「全然いいぜ」と言える人間なのだ――

胸糞悪い最下劣なタイプ標本とは、実人骨なんぞではなく、偉そうにして生きて人民を支配して「日本人」の代表――タイプ種然としている誰彼そのものだろう。そいつらこそ今、廃棄されるべきおぞましい対象物である。

生物室の髑髏

先日来の報道を聴きながら、思い出すことがある。私が最初に勤務した学校の(別に言っても構わないが、それが下らぬ官庁の大騒ぎになってあの校長やらが大騒ぎをすると……♪ふふふ♪……困るかも知れぬから……言わぬこととしよう)生物教官室にあった頭骨標本は、インドの女性の実物標本であった(報道ではインドから輸入された標本が多数あったとあった)。私の尊敬した甲殻類を専門で学ばれた生物教師(故人)は、その頭蓋骨の人物の名前も教えてくれた。合宿でその部屋に泊まる時は、その標本に蔽いをかけて見ないようにしていると言われておられたのを思い出す。私はそれを聴きながら、梶井基次郎の「愛撫」を思い出していたことも遠い昔に呼び返したことも(リンク先は私の古い電子テクスト)。

私は醫科の小使といふものが、解剖のあとの死體の首を土に埋めて置いて髑髏を作り、學生と祕密の取引をするといふことを聞いてゐたので、非常に嫌な氣になつた。何もそんな奴に賴まなくたつていいぢやないか。そして女といふものの、そんなことにかけての、無神經さや殘酷さを、今更のやうに憎み出した。しかしそれが外國で流行つてゐるといふことについては、自分もなにかそんなことを、婦人雜誌か新聞かで讀んでゐたやうな氣がした。――

……高等學校の……生物學教室に……印度の女性の頭蓋骨が……ある…………ああ……さても「此の世のものでない休息が傳はつて來る」ではないか…………

太平百物語卷一 二 馬士八九郞狐におどされし事

 

    ○二 馬士(むまかた)八九郞狐におどされし事

 大坂久宝寺町(きうほうじまち)に八九郞といふ馬士あり。或る日、牧方(ひらかた)まで馬に荷付けて行しが、歸るさ、守口(もりぐち)より日暮けり。時は霜月下旬の事なれば、寒風、面(おもて)を打(うち)て、いとさむかりしかば、茶店(さてん)によりて、茶椀酒をかたぶけ、醉ひきげんに寒氣(かんき)をわすれ、小歌(こうた)つぶやきて歸りける所に、年比六十斗(ばかり)の禪門、八九郞をよびかけ、

「いかに馬士(まご)殿、われは、今宵、大坂へ行(ゆく)者なり。老足、甚(はなはだ)道に倦(うみ)たり。其馬かして乘せ玉へ。」

といふ。八九郞聞きて、

「價(あたひ)はいかほど出(いだ)さるゝや。酒手あらば、のせん。」

といふ。禪門がいふ、

「御覽の通り、貧僧なり。心安くして、乘(のせ)給へ。」

といへば、

「さらば、乘り候へ。」

と彼(かの)馬にうち乘せ、四、五丁斗、行く所に、うしろの方より、大勢の聲として、

「其馬、まて。」

とぞ、どよめきける。

 八九郞、『何事やらん』と顧りみれば、武具(ものゝぐ)せし者、四、五人かけ來り、此馬に追付(おひつく)といなや、彼(かの)禪門を馬より取つて引(ひき)おろし、

「扨々、にくき坊主めかな。」

とて、引縛りければ、八九郞、仰天し、馬を馳(はせ)て逃げけるに、

「其馬とまれ。」

と、口々にいふ聲、しきりなれば、『南無三宝(なむさんぼう)』とおもひ、やがて、馬にとび乘(のり)、息をばかりに追(おつ)たつれば、跡より追ひ來るこゑ、次第次第に遠ざかりしまゝ、やうやうに心をやすんじ、片町(かたまち)まできたりて、しるべの方(かた)にかけ入(いり)、大汗をながして、しかじかのよしを語れば、亭主もおどろき、いぶかりしが、後(のち)に能(よく)々きけば、狐どもが八九郞をばかしけるとぞ。

[やぶちゃん注:「馬」は総て「むま」と読んでいるので、そのように読まれたい。

「大坂久宝寺町(きうほうじまち)」現在、大阪府大阪市中央区に内久宝寺町・北久宝寺町・南久宝寺町があるから、この附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ。北と南のそれは中央附近に現認出来る)である。大阪城の南西の町屋である。

「牧方(ひらかた)」ママ。「徳川文芸類聚」版では「枚方」と訂するが、「江戸文庫」(国立国会図書館蔵本を親本とする)も「牧方」である。怪談話では虚構性を暗示させるためにしばしばこうした意識的仕儀が行われることがある。大阪府枚方市。直線でも二十キロメートルはあるから、荷駄で往復では日も暮れよう。

「守口(もりぐち)」大阪府守口市は丁度、中間点に当たる。

「心安くして」親切なる志しを以って。

「さらば、乘り候へ」禅僧であるから、布施のつもりでただで乗せたのである。酒に酔った心地よさも手伝ってはいるが、八九郎はこだわりを見せておらず、すんなりと引き受けており、優しい市井の民の一人なのである。こうした設定は前の金目当ての藪医者松岡同雪なんどとは異なり、読む庶民も八九郎に親和性を抱いて読み、主人公とともに狐に化かされることを「能狂言」の登場人物のように一緒に気持ちよく楽しむのである。

「四、五丁」約四百三十七~五百四十五メートル。

「片町」大阪府大阪市都島区片町であろう。大阪城北詰である。]

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狼(おほかみ) (ヨーロッパオオカミ・ニホンオオカミ・エゾオオカミ)

Ookami

 

 

 

おほかみ  毛狗   獾【牡】

        狼【牝】 獥【子】

        【和名於

ラン       保加美】

 

本綱狼處處有之豺屬也穴居形大如犬而鋭頭尖喙白

頰駢脇高前廣後脚不甚高能食雞鴨鼠物其色雜黃黒

亦有蒼灰色者其聲能大能小能作兒啼以魅人其久鳴

其膓直故鳴則後竅皆沸而糞爲烽烟直上不斜其性善

顧而食戾踐藉老則其胡如袋所以跋胡疐尾進退兩患

其象上應奎星【駢音緶聯也與骿同謂肋骨連合爲一也晉文公駢脇者是也】

肉【鹹熱】 補益五臟厚腸胃腹有冷積者宜食【味勝狐犬】

狼牙佩之辟邪惡氣 狼喉靨治噎病【日乾爲末每半錢入飯内食之妙】

狼皮暖人辟邪惡氣 狼尾繫馬胸前辟邪氣令馬不驚

 月淸世の中に虎狼も何ならす人の口こそなほ增りけれ

△按狼春夏出山家竊食鳥獸及人物秋冬穴居性能知

 機若欲獵則深匿不出四趾有蹯而能渉水或齅砲火

 繩之氣則遠避去夜有行人跳越其首上數回人如恐

 怖轉倒則噬食稱之送狼【人不怖又不敵者無害】故行山野人常

 攜火繩也狼見人屍必跳超其上尿之而後食之

五雜組云江南多豺虎江北多狼狼雖猛不如虎而貪殘

過之不時入村落竊取小兒銜之而趨豺凡遇一獸遂之

雖數晝夜不舎必得而後已故虎豹常以比君子而豺狼

比小人也

――――――――――――――――――――――

狼狽 狼前二足長後二足短狽前二足短後二足長狼

 無狽不行狽亦無狼不行若相離則進退不得

△按二物相依頼者蟨與蛩蛩【見鼠部】蝦與水母【見魚部】知母

 與黃栢【見木部】狼與狽亦然矣而狽未知其何物

 

 

おほかみ  毛狗

        獾〔(くわん)〕【牡。】

        狼【牝。】 獥〔(げき)〕【子。】

        【和名「於保加美」。】

ラン

 

「本綱」、狼、處處に之れ有り、豺〔(やまいぬ)〕の屬なり。穴居す。形・大いさ、犬のごとくにして、鋭き頭、尖れる喙〔(くちさき)〕、白き頰、駢(つらな)れる脇(わき)、高き前、廣き後脚〔は〕甚だ〔は〕高からず。能く雞・鴨・鼠〔の〕物を食ふ。其の色、雜す。黃黒、亦、蒼灰色の者有り。其の聲、能く大に〔成し〕、能く小に〔成し〕、〔また、〕能く兒の啼くを作〔(な)〕して、以つて人を魅(ばか)す。其れ、久しく鳴〔かば〕、其の膓(はらわた)、直(すぐ)なる故に〔長く〕鳴くときは、則ち、後(うしろ)の竅(あな)、皆、沸(わい)て[やぶちゃん注:ママ。]、糞、烽-烟〔(のろし)〕と爲〔(な)〕る。〔その烟は〕直〔ちに〕上りて斜〔(なのめ)〕ならず。其の性、善く顧(かへりみ)て、食ふときは、戾り踐〔(ふ)〕み〔て〕藉〔(しや)〕す[やぶちゃん注:踏み躙(にじ)ってから、やおら、食う。]。老するときは、則ち、其の胡(ゑぶくろ)、袋のごとし。所以〔(ゆゑ)〕に胡を跋(ふ)み、尾に疐(つまづ)く、進退、兩〔(ふた)〕つながら、患ふ。其の象(〔かた〕ち)、上(〔か〕み)〔の〕奎星〔(けいせい)〕に應ず【「駢」は音「緶〔(ベン)〕」、「聯〔(レン/つならる)〕」なり。「骿」と同じ。肋骨の連なり〔て〕合し、一に爲れるを謂ふなり。晉の文公〔の〕駢脇とは是れなり。】。

肉【鹹、熱。】 五臟を補益し、腸胃を厚くし、腹〔に〕冷積有る者、宜しく食ふべし【味、狐・犬に勝れり。】。

狼〔の〕牙〔は〕之れを佩ぶれば、邪惡の氣を辟〔(さ)〕く。 狼〔の〕喉靨[やぶちゃん注:「のどぼとけ」か。東洋文庫訳でも疑問符附きでそう割注する。]〔は〕噎-病〔(つかえ)〕を治す【日に乾し、末と爲し、每半錢[やぶちゃん注:明代の一銭は三・七五グラム。]、飯の内に入れ、之れを食へば妙なり。】。

狼〔の〕皮〔は〕人を暖め、邪惡の氣を辟く。 狼〔の〕尾〔は〕馬の胸の前に繫げ、邪氣を辟け、馬をして驚かさざらしむ。

 「月淸」

   世の中に虎狼も何ならず

      人の口こそなほ增さりけれ

△按ずるに、狼、春夏は山家に出でて、鳥獸及び人・物を竊(ぬす)み食〔(くら)〕ふ。秋冬は穴居す。性、能く、機を知り、若〔(も)〕し、〔人、〕獵せんと欲せば、則ち、深く匿(かく)れて出でず。四つの趾〔(あし)〕、蹯〔(バン/みづかき)〕[やぶちゃん注:ここは以前に出た「蹼(みづかき)」の意である。]有りて、能く水を渉〔(わた)〕る。或いは、砲の火繩の氣(かざ)を齅(か)ぎて、則ち、遠く避け、去る。夜、行く人有れば、其の首の上を跳(と)び越(こ)えること、數回にして、人、如〔(も)〕し、恐怖して轉倒すれば、則ち、噬〔か〕み食〔(くら)〕ふ。之れを稱して「送り狼」と〔謂ふ〕【人、怖れず、又、敵せざれば、害、無し。】。故に山野を行く人、常に火繩を攜(たづさ)へしむなり。狼、人の屍〔(しかばね)〕を見ば、必ず、其の上を跳び超え、之れに尿〔(ゆばり)〕して後、之れを食ふ。

「五雜組」に云はく、『江南には、豺・虎、多く、江北には、狼、多し。狼、猛しと雖も、虎にしかずして、而〔れども〕、貪殘なること[やぶちゃん注:貪欲で残忍なところは。]、之れに過ぐ。不時に[やぶちゃん注:思いもかけない時に。]村落に入り、小兒を竊〔(ぬす)〕み取り、之れを銜〔(くは)〕へて趨〔(はし)〕る。〔また、〕豺、凡そ、一〔つの〕獸に遇へば、之れを遂ふこと、數晝夜と雖も、舎〔(す)〕てず[やぶちゃん注:決して追跡を諦めない。]、必ず、得て後に已む[やぶちゃん注:獲物を確保して初めて走るのをやめる。]。故に、虎・豹は常に以つて君子に比す。而〔れども〕豺・狼は小人に比すなり』〔と〕。

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狼狽〔(らうばい)〕 狼は、前の二足、長く、後ろの二足、短し。狽は、前の二足、短く、後ろの二足、長し。狼、狽、無ければ、行かず、狽も亦、狼、無ければ、行かず。若〔(も)〕し、相ひ離るれば、則ち、進退、得ず。

△按ずるに、二物、相ひ依頼〔する〕者は、「蟨〔(けつ)〕」と「蛩蛩〔(きようきよう)〕」【「鼠部」に見ゆ。】、「蝦(ゑび)」と「水母(くらげ)」【「魚部」に見ゆ。】、「知母〔(ちぼ)〕」と「黃栢〔(くわうはく)〕」【「木部」に見ゆ。】〔等にして、〕狼と狽も亦、然り。而〔れども〕「狽」は、未だ其の何物といふことを知らず。

[やぶちゃん注:中国に分布するものは、哺乳綱食肉目イヌ亜目イヌ科イヌ亜科イヌ属タイリクオオカミ亜種ヨーロッパオオカミCanis lupus lupus。本邦に棲息していたが、我々が絶滅させてしまったのは、同じくタイリクオオカミ亜種ニホンオオカミCanis lupus hodophilax(北海道と樺太を除く日本列島に棲息していた)と、同亜種エゾオオカミ Canis lupus hattai(樺太と北海道に棲息していた)である。ウィキの「ニホンオオカミ」を引いておく。『生態は絶滅前の正確な資料がなく、ほとんど分かっていない』。『薄明薄暮性で、北海道に生息していたエゾオオカミと違って』、『大規模な群れを作らず』二頭・三頭から十頭『程度の群れで行動した。主にニホンジカ』(鯨偶蹄目シカ科シカ属ニホンジカ Cervus nippon)『を獲物としていたが、人里に出現し飼い犬や馬を襲うこともあった(特に馬の生産が盛んであった盛岡では被害が多かった)。遠吠えをする習性があり、近距離でなら障子などが震えるほどの声だったといわれる。山峰に広がるススキの原などにある岩穴を巣とし、そこで』三『頭ほどの子を産んだ。自らのテリトリーに入った人間の後ろを監視する様に付いて来る習性があったとされる。また』、この習性から、『hodophilax(道を守る者)という亜種名の元となった』。『一説にはヤマイヌ』(これは現在は本ニホンオオカミと山にいる野犬とを混同したものの呼称と考えるのが主流である)『の他にオオカメ(オオカミの訛り)』『と呼ばれる痩身で長毛のタイプもいたようである。シーボルトは両方』を『飼育していたが、オオカメとヤマイヌの頭骨はほぼ同様であり』、オランダの動物学者コンラート・ヤコブ・テミンク(Coenraad Jacob Temminck 一七七八年~一八五八年:シーボルトの「日本動物誌」(Fauna japonica 一八四四年~一八五〇年)の編纂作業ではドイツの動物学者ヘルマン・シュレーゲル(Hermann Schlegel 一八〇四年~一八八四年)とともに脊椎動物を担当しており、日本産大型脊椎動物はテミンクとシュレーゲルによって学名が命名されたものが多い)『はオオカメはヤマイヌと家犬の雑種と判断した。オオカメが亜種であった可能性も否定出来ないが』、『今となっては不明である』。『日本列島では縄文時代早期から家畜としてのイヌが存在し、縄文犬と呼ばれている』。『縄文犬は縄文早期には体高』四十五『センチメートル程度、縄文後期・晩期には体高』四十『センチメートルで、猟犬として用いられていた』。『弥生時代には』、『大陸から縄文犬と形質の異なる弥生犬が導入されるが、縄文犬・弥生犬ともに東アジア地域でオオカミから家畜化されたイヌであると考えられており、日本列島内においてニホンオオカミが家畜化された可能性は』、『形態学的・遺伝学的にも否定されている』。『なお、縄文時代にはニホンオオカミの遺体を加工した装身具が存在し、千葉県の庚塚遺跡からは縄文前期の上顎犬歯製の牙製垂飾が出土している』。『日本の狼に関する記録を集成した平岩米吉の著作によると、狼が山間のみならず』、『家屋にも侵入して人を襲った記録』『がしばしば現れる。また北越地方の生活史を記した』「北越雪譜」や、『富山・飛騨地方の古文書にも狼害について具体的な記述』『が現れている』。『奥多摩の武蔵御嶽神社や秩父の三峯神社を中心とする中部・関東山間部など』、『日本では魔除けや憑き物落とし、獣害除けなどの霊験をもつ狼信仰が存在する。各地の神社に祭られている犬神や大口の真神(おおくちのまかみ、または、おおぐちのまがみ)についてもニホンオオカミであるとされる。これは、山間部を中心とする農村では日常的な獣害が存在し、食害を引き起こす野生動物を食べるオオカミが神聖視されたことに由来する』。「遠野物語」の『記述には、「字山口・字本宿では、山峰様を祀り、終わると衣川へ送って行かなければならず、これを怠って送り届けなかった家は、馬が一夜の内にことごとく狼に食い殺されることがあった」と伝えられており、神に使わされて祟る役割が見られる』。『ニホンオオカミ絶滅の原因については確定していないが、おおむね狂犬病やジステンパー(明治後には西洋犬の導入に伴い流行)など』、『家畜伝染病と人為的な駆除、開発による餌資源の減少や生息地の分断などの要因が複合したものであると考えられている』。『江戸時代の』享保一七(一七三二)年頃には、『ニホンオオカミの間で狂犬病が流行しており、オオカミによる襲撃の増加が駆除に拍車をかけていたと考えられている。また、日本では山間部を中心に狼信仰が存在し、魔除けや憑き物落としの加持祈祷にオオカミ頭骨などの遺骸が用いられている。江戸後期から明治初期には狼信仰が流行した時期にあたり、狼遺骸の需要も捕殺に拍車をかけた要因のひとつであると考えられている』。『なお』、明治二五(一八九二)年六月まで、『上野動物園でニホンオオカミを飼育していたという記録があるが』、『写真は残されていない。当時は、その後』十『年ほどで絶滅するとは考えられていなかった』のであった。生存説を唱える人がいるが、私はそういう連中の非生態学的な主張は絶対に信じない。ウィキには「オオカミの再導入」もあるが、ヒトはどれだけ生態系を破壊したら気が済むのかという気がするだけである。

「豺〔(やまいぬ)〕」前項「豺(やまいぬ)(ドール(アカオオカミ))」を参照されたい。

「高き前、廣き後脚〔は〕甚だ〔は〕高からず」ウィキの「オオカミ」によれば、『姿勢においては』、『頭部の位置がイヌに比べて低く、頭部から背中にかけては』、『地面に対して水平である』とあり、後半の部分は腑に落ちる。「高き前」というのは、索敵する際の伸び上がった姿勢を指しているように私には思え、これもまた腑に落ちる

「其れ、久しく鳴〔かば〕、其の膓(はらわた)、直(すぐ)なる故に〔長く〕鳴くときは、則ち、後(うしろ)の竅(あな)、皆、沸(わい)て、糞、烽烟と爲〔(な)〕る。〔その烟は〕直〔ちに〕上りて斜〔(なのめ)〕ならず」この部分、東洋文庫訳では『沸く。』と切って、以下を人はその狼の『糞を烽烟(のろし)に使う。煙は真直ぐ上って斜めにならない』と訳しているが、「本草綱目」を見てもそうは読めないし、時珍の訓点も上記の通りである。これは、言っている科学的な意味は全く判らないけれども、

――狼の腸は捩じれることなく真っ直ぐであるため、長く吠え続けると、腸の中で食ったものが醗酵或いは熱を持ち、遂には燻り出してしまい、遂には、肛門から出た糞から煙が立ち昇り出す。その煙は真っ直ぐに立ち昇って決してぶれて斜めになったりはしない不思議な煙である(その特異性を以って、古来、人は戦時の烽火(のろし)として使用するのである)。

という意味で採る。因みに、たまたま今朝、妻が見ていた忍術絡みのドキュメントのテレビ番組で、実際にオオカミの糞を燃やす実験が行われているのを見た。普通のものを燃やすのと煙の立ち方には変化はなかった。しかし、実験者が耐えられなくなるほど「臭い」のだそうで、臭気測定器では振り切れて計測出来ないほどのものであった。その臭いは恐らく一~二キロメートル圏内でも容易に人が感知出来るだろうと実験者は述べていた。そうか! それが! それでこその「狼煙」なんだ! と一人合点したものである。

「胡(ゑぶくろ)」餌嚢。この場合は胃であろう。老成個体では甚だしい胃下垂を起こすというのである。というより、これは腸の捻転のような症状にしか見えないのだが。

「其の象(〔かた〕ち)、上(〔か〕み)〔の〕奎星〔(けいせい)〕に應ず」東洋文庫訳では、『その占いの象は天の奎星(けいせい[やぶちゃん注:ルビ。])(トカキボシ[やぶちゃん注:本文割注。])と照応する』とある。「奎」は玄武七宿の一つで、現在のアンドロメダ座西部に当たり、距星(二十八宿の各宿の基準点となる星)はアンドロメダ座ζ(ゼータ)星に相当するという。

「晉の文公〔の〕駢脇」春秋時代の晋の君主文公(紀元前六九六年~紀元前六二八年/在位:紀元前六三六年~紀元前六二八年)は諱の重耳(ちょうじ)で知られる、春秋五覇の代表格の覇者。晋の公子であったが、国内の内紛を避けて、十九年もの間、諸国を放浪した後、帰国して君主となって天下の覇権を握り、斉の桓公と並んで斉桓晋文と称された。彼は駢脇(肋骨が分かれず、総てが繋がって一枚の板のように見える骨奇形。或いは見かけ上で外見はそう見えただけのことかも知れない)であったという。これは「春秋左氏伝」の僖公二十三年(紀元前六三七年)の条の出る話で、以下。公子重耳が曹の国を訪れた時のことである。

   *

及曹、曹共公聞其駢脇、慾觀其裸。浴、薄而觀之。僖負羈之妻、「吾觀晉公子之從者、皆足以相國。若以相夫子必反其國。反其國、必得志於諸侯。得志於諸侯而誅無禮、曹其首也。子盍蚤自貳焉。」乃饋盤飧寘璧焉。公子受飧反璧。

   *

勝手流で訓読して見ると、

   *

 曹に及ぶ。曹の共公。其の駢脇(べんきよう)なるを聞きて、其の裸を觀んと慾し、浴するとき、薄(せま)りて、之れを觀る[やぶちゃん注:岩波文庫の小倉善彦氏の訳では『簾(すだれ)の外からのぞいた』とある。]。僖負羈(きふき)[やぶちゃん注:曹の大夫の名。]の妻、曰はく、「吾れ、晉の公子の從者を觀るに、皆、以つて、國に相(しやう)たるに足れり。若(も)し、以つて、夫子(ふうし)を相(たす)たけんとせば、必ず其の國に反(かへ)らん。其の國に反らば、必ず、志(こころざし)を諸侯に得ん。志を諸侯に得、而して無禮を誅(ちゆう)せんとせば、曹は其の首(はじめ)たらん。子、盍(なん)ぞ蚤(はや)く、自ら貳(そ)はざらんや[やぶちゃん注:親しく挨拶なさらないのか。]。」と。乃(すなは)ち、盤飧(はんそん)を饋(おく)り、璧(へき)を寘(お)く[やぶちゃん注:食膳を差し入れ、その膳の中に賄賂としての璧玉を包み入れておいた。]。公子、飧を受け、璧は反(かへ)したり。

   *

である。歴史上は、この年終わりか、翌年には重耳は晋公の座に就いているようだ(実に六十二歳の新君主であった)から、僖負羈の妻の観察は正鵠を射ていたのである。因みに、そういう盤状肋骨の奇形があるかないかは知らないが、例えば、私の嘗つての同僚で、尊敬した生物の先輩教師は、肋骨の最下部が左右ともに一本足りない奇形であられた。

「冷積」東洋文庫訳割注によれば、『体内に慢性の硬結があって』、『胃腸の働きのにぶっている』症状を指すとある。

「噎-病〔(つかえ)〕」「膈噎(かくいつ)」が知られた症状で、胸の辺りが痞(つか)える症状を示す疾患のこと。食道狭窄症・食道癌等に相当するか。

「月淸」「世の中に虎狼も何ならず人の口こそなほ增さりけれ」既出既注の九条良経(嘉応元(一一六九)年~元久三(一二〇六)年)の家集「秋篠月清集」の「巻一 十題百首」の中の一首。「日文研」の「和歌データベース」で校合済み。

「送り狼」ウィキの「送り犬」を引いておく。『送り犬(おくりいぬ)は、日本の妖怪の一種。東北地方から九州に至るまで各地で送り犬の話は存在するが、地域によっては犬ではなく狼であったり、その行動に若干の違いがある。単に山犬(やまいぬ)、狼(おおかみ)とも呼ばれる』。『夜中に山道を歩くと』、『後ろからぴたりとついてくる犬が送り犬である。もし何かの拍子で転んでしまうと』、『たちまち食い殺されてしまうが、転んでも「どっこいしょ」と座ったように見せかけたり、「しんどいわ」と』、『ため息交じりに座り』、『転んだのではなく』、『少し休憩をとる振りをすれば』、『襲いかかってこない。ここまでは各地とも共通だが、犬が体当たりをして突き倒そうとする、転んでしまうと』、『どこからともなく犬の群れが現れ襲いかかってくる等』、『地域によって犬の行動には違いがある』。『また、無事に山道を抜けた後の話がある地域もある。例えば、もし無事に山道を抜けることが出来たら』、『「さよなら」とか「お見送りありがとう」と一言声をかけてやると』、『犬は後を追ってくることがなくなるという話や、家に帰ったら』、『まず』、『足を洗い』、『帰路の無事を感謝して』、『何か一品送り犬に捧げてやると』、『送り犬は帰っていくという話がある』。『昭和初期の文献である「小県郡民譚集」(小山眞夫著)には『以下のような話がある。長野県の塩田(現・上田市)に住む女が、出産のために夫のもとを離れて実家に戻る途中、山道で産気づき、その場で子供を産み落とした。夜になって何匹もの送り犬が集まり、女は恐れつつ「食うなら食ってくれ」と言ったが、送り犬は襲いかかるどころか、山中の狼から母子を守っていた。やがて送り犬の』一『匹が、夫を引っぱって来た。夫は妻と子に再会し、送り犬に赤飯を振舞ったという。長野の南佐久郡小海町では、山犬は送り犬と迎え犬に分けられ、送り犬はこの塩田の事例のように人を守るが、迎え犬は人を襲うといわれる』。関東地方から近畿地方にかけての地域と、高知県には「送り狼」が伝わるという。『送り犬同様、夜の山道や峠道を行く人の後をついてくるとして恐れられる妖怪であり、転んだ人を食い殺すなどといわれるが、正しく対処すると』、『逆に周囲からその人を守ってくれるともいう』「本朝食鑑」に『よれば、送り狼に歯向かわずに命乞いをすれば、山中の獣の害から守ってくれるとある』(ここに本「和漢三才図会」の梗概が載るが、略す)。『他にも、声をかけたり、落ち着いて煙草をふかしたりすると』、『襲われずに家まで送り届けてくれ、お礼に好物の食べ物や草履の片方などをあげると、満足して帰って行くともいう』。『伊豆半島や埼玉県戸田市には、送り犬の仲間とされる送り鼬(おくりいたち)の伝承がある。同様に夜道を歩く人を追って来る妖怪で、草履を投げつけてやると、それを咥えて帰って行くという』。なお、ニホンオオカミには人間を監視する目的で、人についてくる習性があったとされ、妖怪研究家の村上健司は「送り狼は、実際にはニホンオオカミそのものを指しており、怪異を起こしたり、人を守ったりといった妖怪としての伝承は、ニホンオオカミの行動や習性を人間が都合の良いように解釈したに過ぎない」という主旨の仮説を主張している、とある。因みに、『好意を装いつつも害心を抱く者や、女の後をつけ狙う男のことを「送り狼」と呼ぶのは、この送り狼の妖怪伝承が由来である』ともある。

「五雜組」既出既注

「狼狽〔(らうばい)〕」以下の、アラ松ちゃん出臍が宙返りするほどの仰天の記載に思わず狼狽する人が多いのではないかと思うのだが、大修館書店「廣漢和辭典」の「狽」にはその通りのことがちゃんと記されてある(後に『一説に、生まれながらに一本足または二本の足がなく、互いに助けあわねば行けぬことをいう』とあってここに書かれたことが、「集韻」「正字通」に書かれていることが示されてある)のである。それを知ってまた狼狽する人も多かろう。しかしまあ、比翼鳥の例もありますさかい。

「蟨〔(けつ)〕」思うに実在するモデル獣がいるとは思われるのであるが、大修館書店「廣漢和辭典」には「ねずみ」とした後に、『前足が短くて走ることができず、常に蛩蛩(キョウキョウ)巨虚という獣と同居して、そのために食を取り、危難が迫るとその背に負われて逃げるという』『獣の名』とする。

「蛩蛩〔(きようきよう)〕」北海に住むとされた馬に似た想像上の動物。

『「鼠部」に見ゆ』次の巻第三十九の「鼠類」の中の「蟨鼠」の項。そこで以上の生物も、また、考証することとする。

『「蝦(えび)」と「水母(くらげ)」【「魚部」に見ゆ。】』「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「䖳(くらげ)」で、『「本綱」に、海䖳〔(くらげ)〕は、形ち、渾然として凝結し、其の色、紅紫、口・眼、無く、腹の下に、物、有り。絮〔(しよ)[やぶちゃん注:綿。]〕を懸〔けたるが〕ごとし。羣蝦〔(むれえび)〕、之れに附きて、其の涎沫〔(よだれ)〕を咂(す)[やぶちゃん注:「吸」に同じ。]ふ』(以下略)とあるのを指す。その「羣蝦、之に附きて」に私は以下のように注した。『まず浮かぶのはエビの方ではなくて、鉢虫綱根口クラゲ目イボクラゲ科エビクラゲ Netrostoma setouchianaだ。ここで共生するエビは、特定種のエビではないようである(ただ研究されていないだけで特定種かも知れない)が、好んで鉢虫・ヒドロ虫類及びクシクラゲ類・サルパ類に寄生するエビとなれば、節足動物門大顎亜門甲殻綱エビ亜綱エビ下綱フクロエビ上目端脚目(ヨコエビ目)クラゲノミ亜目 Hyperiideaに属するクラゲノミHyperiame medusarumやオオタルマワシPhronima stebbingi、ウミノミ類辺りが挙げられよう』とやらかしている。なお、それとは別に「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「海鏡(うみかゞみ)(私は斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目マルスダレガイ科カガミガイカガミガイDosinia japonica(リンク先の注の Phacosoma japonicum はシノニム)に同定した)の「本草綱目」の引用の中に、『海鏡は、南海に生ず。兩片相合して形を成す。殻圓く鏡のごとし。中、甚だ瑩滑、日光に映ずるに雲母(きらゝ)のごとし。内に少しの肉有り。蚌胎のごとく、腹に寄居蟲(がうな)有り。大いさ、豆のごとし。状、蟹のごとし。海鏡飢うれば、則ち出でて食らい[やぶちゃん字注:ママ。]、入れば、則ち、海鏡も亦、飽(あ)く。郭璞が所謂〔(いはゆ)〕る『瑣※が腹には蟹、水母(くらげ)の目には鰕(えび)』と云ふは、卽ち、此れなり』(「※」=「王」+「吉」)ともある(この「瑣※」は「瑣蛣」と同じで「寄居蟹」を指す古語であるが、この場合は勿論、ヤドカリ類ではなく、ピンノ類などの短尾下目(カニ類)のカクレガニ科 Pinnotheridae の寄生性のカクレガニ類を示している)。あぁ、懐かしいな……もう、十一年以上も前だ……あの頃は、なんとまあ、無心に無邪気に、楽しくやっていたことだろう……

『「知母〔(ちぼ)〕」と「黃栢〔(くわうはく)〕」【「木部」に見ゆ。】』これは巻第八十三の「喬木類」の巻頭にある「黃蘗(わうへき/きはだ)」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの中近堂版「和漢三才図会」の当該解説部分。画像を視認右側端の一行)。そこには訓読すると、 

   *

黃蘗、知母〔(ちも)〕、無ければ、猶ほ水母(くらげ)の蝦(ゑび)無きがごとし。

   *

とある。「黃檗(きはだ)」はムクロジ目ミカン科キハダ属キハダ Phellodendron amurense で、「知母」は単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科リュウゼツラン亜科ハナスゲ属ハナスゲ Anemarrhena asphodeloides を指す。但し、この部分、リンク先のその後を見ると、漢方としての作用を述べていることが判り、植物体としてのキハダとハナスゲがともに植生しないと共に生存出来ないという意味ではないことが判明する。そもそもが「知母」というのは現行ではハナスゲの根茎の生薬名である(消炎・解熱・鎮静・利尿作用を有する)。キハダの方も樹皮の乾燥させたものを「黄檗(オウバク)」と呼び強い抗菌作用を持つとされ、他に健胃整腸・眠気覚まし・湿布薬として使用される。二種のその効果を塩梅してこそ漢方では薬となると言っているのを、「黄蘗に知母がなければ、それは丁度、水母に海老がいないのと同じである」と言い換えているのである。東洋文庫訳では『水母に蝦』の訳に後注して、『水母と蝦は共生し、蝦は水母の涎(よだれ)を飲んで生き、その代り水母の眼の役割をして水母の移動に力を貸しているいるという。また黄柏は腎経血分の薬、知母は腎経気分の薬で、相俟って効力を発揮する』とある。但し、言っておくと、前に示したクラゲ類とエビ及び甲殻類は共生などしていない。あれは寄生(或いは私が否定したい用語で言えばクラゲに益の全くない(害は必ずあると私は考えるので否定したいのである)「片利共生」)クラゲにとって迷惑千万な「寄生」に過ぎない。

『「狽」は、未だ其の何物といふことを知らず』儂も知らんとですばい、良安先生。

「太平百物語」始動 / 太平百物語卷之一 壱 松岡同雪狐に化されし事

[やぶちゃん注:ブログ・カテゴリ「怪奇談集」で「太平百物語」を始動する。

「太平百物語」は菅生堂人恵忠居士(「かんしょうどうじんえちゅうこじ」(現代的仮名遣)と読んでおく。「菅生堂」の読みは「序」にある)なる人物の百物語系浮世草子怪談集で高木幸助画。享保一七(一七三三)年大坂心斎橋の書林河内屋宇兵衛を版元とする新刊で、五巻五十話。末尾に「以上前編終 後編跡より出し申候」とあり、百物語を期す気持ちがあったか、なかったか。しかし乍ら、五十話目は「百物語をして立身せし事」で、一応、これで完結したつもりであったようである。よく知られていないので一言言っておくと、百物語系怪談本で百話を完遂していて現存する近世以前のものは、実は「諸國百物語」ただ一書しかない(リンク先は私の挿絵附き完全電子化百話(注附き))

 底本は「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」の原板本を用い、国立国会図書館デジタルコレクションの「徳川文芸類聚」第四所収の活字本で校合した。但し、加工データとして国書刊行会の「叢書江戸文庫」第二巻「百物語怪談集成」所収のものを(国立国会図書館蔵本を親本とする)OCRで読み込んだものを使用した。底本は多くの読みが附されてあるが、五月蠅いので、私が読みが振れると判断したものだけのパラルビとした。踊り字「〱」「〲」は正字或いは「々」に代えた。句読点等の記号は「江戸文庫」版を参考にしつつも、オリジナルに大幅に追加してある。原本はベタであるが、読み易さを考え、適宜改行を加え、今までもそうであるが、会話文は勿論、心内語やオノマトペイアも準じて二重鍵括弧や鍵括弧で概ね改行して示した(これは私が怪談を読むに非常に効果的と考えているリズム・ブレイクの仕儀でもある)。そのため、各話の冒頭は一字下げとし(底本にはない)、改行部も同様の仕儀を行った。漢字で正字か俗字か迷うものは、正字で示した。なお、読み等の一部の清音を濁音にしてある。読みで「/」で二つ示したものは、前者が右、後者が左に添えられた読みである。挿絵は、「叢書江戸文庫」版のそれをトリミングして用いた。

 冒頭にある「冠首」の序(「山中散人 祐佐(ゆうすけ)」の署名があるが、作者の仮託で、別名或いは本名であろう。姓は「伴(ばん)」とも)と各巻の頭に附された目次は最後に一括して示すこととする。【2019年4月17日始動 藪野直史】]

 

太平百物語卷之一

     ○壱 松岡同雪狐に化されし事

Matuokadousetu

 津の國の片ほとりに、松岡同雪といふ㙒巫醫師(やぶくすし)あり。心、あくまで貧慾なる男なりしかば、人々、うとみて、療治もはかばかしからず、明暮れの竈(かまど)さびしく暮しけるが、一年(ひとゝせ)、風邪麻疹(かぜはしか)はやりて、何國(いづく)の浦も醫者と名付(なづく)るに隙(ひま)なるはなかりき。此同雪も、ことしはふしぎに病家(びやうか)おほくて、晝夜りやうじに隙なかりしが、或夜、表の戶をあらけなく叩きけるゆへに、

「誰なるや。」

と問ふに、

「これは此あたりの者にて候。一子、麻疹にて甚(はなはだ)惱(なやみ)けるが、只今、俄に目を見つめたり。頃日(このごろ)、賴み參らせし醫師は、他の急病に行給ひて間に合(あは)ず、夜分と申し、近比(ちかごろ)御苦勞の御事ながら、只今、御出(おんいで)下さるべし。」

と、実(げに)余儀なく申すにぞ、

「此あたりとは、いかなる人ぞ。」

と尋ねければ、

「それも御出候へばしれ申なり。則(すなはち)、御迎(むかひ)の籠を爲持(もたせ)たり。はやはや。」

と申にぞ、

「さらば行て參らせん。わが療治にて今宵の難を救ひなば、藥料銀五枚、御越(こし)あれ。」

といふに、

「其段は仰せにや及び候。」

とて、頓(やが)て駕籠に打乘(うちのせ)、飛ぶがごとくに馳行(はせいき[やぶちゃん注:ママ。])しが、

「さらば、此所にて侍(さふ)らふ。」

とて、駕籠の戶をひらけば、大きなる屋敷なり。大慾心(だいよくしん)の同雪、銀五枚と約せし事を悔み、

「かゝる所ならば、金十兩といふべきものを。」

と、未(いまだ)病人をも見ずして、貪る事を先だて、頭(かしら)をかきて奧に通れば、やがて病人の傍(そば)に伴ひ行きて、まづ樣躰(やうだい)みせけるに、同雪、病人をみて、

「扨(さて)々、夥敷(おびたゞしき)はしかの出樣(でやう)かな。」

と、脈を取、身躰(しんたい)より足をなでゝ、大きにおどろき、

「是れは。はや、事切(きれ)たり。扨々、殘心(ざんしん)なり。」

といふに、介抱の人々、いふ、

「たとひ左樣に候とも、折角、御出被下(いでくだされ)候上(うへ)は、ぜひに、御藥を下し給はれ。」

と、口々にいふほどに、

「然らば、一貼(てう)調藥申て見ん。」

と、駕籠に入來(いれきた)りし藥箱を取よせ、頭をかたぶけ調合し、

「はやはや、これを与へ玉へ。」

と指出(さしいだ)だすに、其あたりには、人、壱人も、なし。

「こはいかに。」

とあきれ果(はて)、彼(かの)ふしたる病人を、能(よく)々みれば、人にはあらで、石佛(いしぼとけ)なり。

 同雪、大きに仰天し、あたりをとくと見廻せば、さしも結構なりし屋敷と思へしは、墓原(はかはら)にて、卒都婆木(そとばぎ)、いくつも並べたり。

「扨は狐の所爲(しよゐ/しわざ)ならん。」

と、やうやう心付ける内に、夜はしらしらと明わたれば、自身、藥箱を引(ひつ)かたげ、頭をかゝへて、ほうほう、わが家に迯げかへりしが、其後(そのゝち)は、これにこりて、夜(よ)に入りては、いかなる急病にも、なかなかゆかざりけるとなん。

[やぶちゃん注:「上方講談師・旭堂南海に語る大阪怪談百物語」のパンフレットPDF)に、本話を元に改変した怪談講談が載る(現代語)が、そこでは、この話のロケーションを『大阪市上本町から谷町が舞台』とし、エンディングになかなかニクい捻りが施されてある。是非、ご覧あれ。

「風邪麻疹(かぜはしか)」「麻疹(はしか)」は、最初の三~四日の間は咳や鼻水・目脂(めやに)などが出、普通の流行性感冒と区別がつかない。ここはそうした症状から一語で読みを与えておいた。なお、「はしか」は麻疹ウイルス(ウイルス第五群(一本鎖RNA―鎖)ノネガウイルス目パラミクソウイルス科パラミクソウイルス亜科モルビリウイルス属 Morbillivirus 麻疹ウイルス Measles morbillivirus)による急性熱性発疹性感染症で、呼称は中国由来で、発疹が麻の実のように見えることによる。]

戀の使 伊良子清白 (附・初出形「柳の芽」)

 

戀 の 使

 

日の午(ひる)ごとに尾を擴げ

步む孔雀の盛なる

戀は歷史に殘りたり

われは小さき地上の芽

 

垣根に生ふる鳳仙花

節(ふし)くれ立ちし莖よりぞ

爪紅(つまくれなゐ)は咲きにける

戀はすべてを女王とす

 

わがこひ小さく紅(べに)を帶び

ふふめる程のをさなさに

戀の使は箭(や)を番(つが)へ

兵(ひやう)と射てこそ立ちにけれ

 

[やぶちゃん注:明治三四(一九〇一)年十月発行の『明星』初出。初出標題は「柳の芽」であるが、初出形から大きな改変が行われている。以下に初出形を示す。

   *

 

柳 の 芽

 

甘き泉に醉ひぬらん

若き泉に醉ひぬらん

醉ふ戀ならば美しく

瞳の色は輝かむ

 

日の午ごとに尾を擴げ

步む孔雀の盛なる

戀は歷史に殘りたり

われは小さき柳の芽

 

垣根に植ゑし鳳仙花

節くれだちし垂よりぞ

匂へる花は咲きにける

戀はすべてを女王とす

 

衆落は森に隱るれど

胸におほはん羽もなき

人の戀こそあらはなれ

風もて冷やす魔やあらむ

 

戀は苦しき戀にして

卽ち物の極みなる

彼方の空を仰ぎたる

わが目はにぶく曇りたり

 

   *

 なお、この年に与謝野鉄幹(鉄幹は不倫)と晶子は正式に結婚するが、先立つ三月に二人を誹謗中傷する怪文書「文壇照魔鏡」なるものが横浜から出回り、小島烏水・山崎紫紅とともに伊良子清白がその作者ではないか、というあらぬ嫌疑がかけられていた(これは前年の八月に鉄幹と晶子の二人が出逢い、不倫恋愛(鉄幹には妻子があった)としてスキャンダル化してゆくに従い、清白は鉄幹を離れたことと関係しているように思われる)。その結果、『明星』への寄稿は同年八月・九月とあったものの、この十月を以って終り、以降は絶え、鉄幹・晶子とは絶縁状態となってしまう。それは四年後の明治三八(一九〇五)年十一月の烏水・河井酔茗との与謝野邸訪問で解けまで続いた(底本全集年譜に拠る)。]

新月 清白(伊良子清白)

 

 新 月

  (短唱四篇)

 

 

   ○

 

たださすところ朝日子の

夕入るところ新月(にひづき)の

山に育ちてをとめごは

牧(まき)のうなゐとなりにけり

 

熊の毛皮を打敷きて

ねぶるは誰ぞ山のうへ

澄みてかがやく星ならで

をとめをまもるものぞなき

 

   ○

 

薔薇の花はかなしみて

冷たき土にこぼれけり

わびしくくらくためいきの

音ぞ幽(かす)かにもれくなる

 

こひのさつ矢のとぶごとく

みそらを鳥のとびきたる

彼方の空にきえゆきて

聲こそのこれほととぎす

 

   ○

 

世のすねものよのろはれて

小田にかくるるすねものよ

月の女神を垣間(かいま)見て

なれも醜くなりぬるか

 

五月雨ふりて空くらく

月の光の見えぬ時

歌よむことはゆるされて

小田にかくるるわび人よ

 

   ○

 

處女マリアのあらはれて

千々の寶を賜ひけり

ことにすぐれてめでたきは

稚兒のおもわの美はしさ

 

二人の姉は雲にのり

ひとりの姉は草に立ち

御空の雨にうるほひて

稚兒守ると見えにけり

 

[やぶちゃん注:明治三六(一九〇三)年六月発行の『文庫』初出。署名は「清白」。

「うなゐ」は既に注したが、「髫」「髫髪」で、元は「項 (うな) 居 (ゐ) 」の意かと推定され、昔、七、八歳の童児の髪を項(うなじ)の辺りで結んで垂らさせた髪型或いは女児の髪を襟首の附近で切り下げておいた「うない髪」のことで、本来は転じて「幼女」を指すが、ここはその上限を遙かに延ばした少女・乙女・処女の謂いで用いている。

「さつ矢」は「獵矢」「幸矢」で「狩猟に用いる矢」の意。「さちや」とも呼ぶ、万葉以来の古語。

 初出形は以下。

   *

 

 新 月

 

たださすところ朝日子の

夕入るところ夕月の

山に育ちてをとめごは

牧(まき)のうなゐとなりにけり

 

熊の毛皮を打敷きて

ねぶるは誰ぞ山のうへ

澄みてかがやく星ならで

をとめをまもるものぞなき

 

   ○

 

薔薇の花はかなしみて

冷たき土にこぼれけり

わびしくくらくため息の

音ぞ幽(かす)かにもれくなる

 

一聲なきてほとゝぎす

彼方の空に飛び去りぬ

戀のさつ矢のとぶごとく

かなたの空にとびさりぬ

 

   ○

 

世のすねものよ咒はれて

小田にかくるるすねものよ

月の女神を垣間みて

なれも醜くなりぬるか

 

五月雨ふりて空くらく

月の光の見えぬ時

歌詠むことはゆるされて

小田にかくるるわび人よ

 

   ○

 

處女マリアのあらはれて

千々の寶を賜ひけり

ことにすぐれてめでたきは

稚兒のおもわの美はしさ

 

二人の姉は雲にのり

ひとりのあねは草にたち

御空の雨にうるほひて

稚兒守ると見えにけり

 

   *]

2019/04/16

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 豺(やまいぬ) (ドール(アカオオカミ))

 

Yamainu

 

 

 

やまいぬ  犲狗

 

【音儕】

      【俗云也

ツアイ    末以奴】

 

本綱豺處處山中有之狼屬也似狗而頗白前矮後高而

長尾其體細痩而健猛其毛黃褐色而鬇鬡其牙如錐而

噬物群行虎亦畏之喜食羊其聲如犬人惡之以爲引魅

不祥其氣臊臭可惡世傳狗爲豺之舅見狗輒跪亦相制

耳月令云九月豺乃祭獸可謂才故字從才

△按豺【俗云山狗】狀似狗而以足有蹯如狼足爲異山行人怖

 之甚於狼

 

 

やまいぬ  犲狗〔(さいく)〕

 

【音「儕〔(サイ)〕」。】

      【俗に云ふ、「也末以奴」。】

ツアイ

 

「本綱」、豺は處處の山中に之れ有り、狼の屬なり。狗に似て、頗る白し。前、矮〔(ひき)〕く、後ろ、高くして、長き尾たり。其の體、細痩〔(さいそう)〕にして、健〔やかにして〕猛し。其の毛、黃褐色にして、鬇鬡〔(さうなう)〕[やぶちゃん注:毛髪が乱れること。現代仮名遣では「ソウノウ」。]其の牙、錐のごとくにして、物を噬〔(か)〕む。群行して、虎も亦、之れを畏る。喜んで羊を食ふ。其の聲、犬のごとし。人、之れを惡〔(にく)〕む。以つて引魅不祥〔(いんびふしやう)〕[やぶちゃん注:人を惑わす不吉なる存在。]〔のものと〕と爲〔せばなり〕。其の氣〔(かざ)〕臊臭〔(なまぐさ)〕く惡むべし。世に傳ふ、「狗は豺の舅(をぢ)[やぶちゃん注:この場合は伯(叔)父。]たり。〔さればこそ〕狗を見〔るとき〕は、輒ち、跪〔(ひざまづ)〕く」〔と〕。〔されど、それは〕亦、相ひ制するのみ〔なり〕[やぶちゃん注:狼類である彼らが互いに牽制し合っているのを誤解しているだけのことである。]。「月令〔(がつりやう)〕」に云はく、『九月、豺、乃ち、獸を祭る』〔と〕。才〔あり〕と謂ふべし。故に、字、「才」に從ふ。

△按ずるに、豺【俗に云ふ、「山狗」。】狀、狗に似て、足に蹯〔(ばん)〕[やぶちゃん注:何度も注したように「蹯」の字は「足の裏」の意であるが、所謂、掌に相当する、肉球を特徴として、有意に周りと区別出来る部位があることを示す。]有り、狼の足のごとくなるを以つて異と爲す。山行の人、之れを怖るること、狼より甚だし。

[やぶちゃん注:和訓「やまいぬ」は「山犬」だろうし、そもそもが現行、この「豺」の漢字は中国では、ユーラシア大陸の東部(中国・朝鮮半島・東南アジア・ロシア南東部)と同大陸の中央部から南部(モンゴル・ネパール・インド・バングラデシュ・ブータン等)に棲息するイヌ科イヌ亜科イヌ族ドール属ドール Cuon alpinus別名アカオオカミ(赤狼)、英名「Dhole」に当てられており、叙述も以下に見るドールの生態によく一致する(以下の下線太字部など)。ウィキの「ドール」によれば(下線太字は私が附した)、体長は七十五~百十三センチメートル、尾長は二十八~五十センチメートル、肩高四十二~五十五センチメートルで、体重は♂で十五~二十キログラム、♀で十~十七キログラム。『背面の毛衣は主に赤褐色、腹面の毛衣は淡褐色や黄白色』。『尾の先端は黒い体毛で被われる』。『鼻面は太くて短い』。『指趾は』四『本』。『乳頭数は』十二~十六個である。『森林などに』棲息する『昼行性』動物であるが、『夜間に活動(特に月夜)する事もある』。五~十二『頭からなるメスが多い家族群を基にした群れを形成し生活するが』、『複数の群れが合わさった約』四十『頭の群れを形成する事もある』。『狩りを始める前や狩りが失敗した時には互いに鳴き声をあげ、群れを集結させる』。『群れは排泄場所を共有し、これにより』、『他の群れに対して縄張りを主張する効果があり』、『嗅覚が重要なコミュニケーション手段だと考えられている』。『食性は動物食傾向の強い雑食で』、シカやヤギ類などの『哺乳類、爬虫類、昆虫、果実、動物の死骸などを食べる』。『獲物は臭いで追跡し、丈の長い草などで目視できない場合は直立したり』、『跳躍して獲物を探す事もある』。『横一列に隊列を組み、逃げ出した獲物を襲う』。アクシスジカ(鯨偶蹄目反芻亜目シカ科シカ亜科アクシスジカ属アクシスジカ Axis axis:南アジア地域に分布。インドを中心にバングラデシュ・ネパール・ブータンを原産地とする)『などの大型の獲物は他の個体が開けた場所で待ち伏せ、背後から腹や尻のような柔らかい場所に噛みつき』、『内臓を引き裂いて倒す』。『また』、『群れでトラやヒョウなどから獲物を奪う事もある』。『繁殖形態は胎生。妊娠期間は』六十~七十日。『土手に掘った穴、岩の隙間、他の動物の巣穴などで』、十一月から翌年の四月に一回に二~九『頭の幼獣を産む』。『繁殖は群れ内で』一『頭のメスのみが行う』。『授乳期間は』二ヶ月で、『群れの中には母親と一緒に巣穴の見張りを行ったり、母親や幼獣に獲物を吐き戻して運搬する個体がいる』。『幼獣は生後』十四日で目を開く。生後二~三ヶ月で『巣穴の外に出』、生後五ヶ月で『群れの後を追うようになり』、生後七~八ヶ月で『狩りに加わる』。『生後』一『年で性成熟する』。『生息地では』彼らドールの得物の『狩り』方が『残忍とみなされたり』、ヒトの狩猟の『競合相手として』も『敬遠され、報奨金をかけられたり』、『毒餌で駆除される事もあった』。『開発による生息地の破壊、駆除、伝染病(狂犬病、ジステンパー