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2019/04/01

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(2) 「葦毛ノ駒」(2)

 

《原文》

 葦毛ノ馬ヲ飼ハヌト云フ風習ハ古ク且ツ弘ク行ハル。武藏入間郡飯能(ハンノウ)町大字中山ノ天滿宮ハ、昔ノ領主中山氏一家ノ氏神ナリキ。【老翁】天文二十年川越城ノ夜軍ニ、中山勘解由家勝敗北シテ中山ニ還ラントスルニ、入間川洪水ノ爲ニ渡リ難ク殊ニ艱難ノ折柄、何處ヨリトモ無ク一人ノ老翁葦毛ノ駒ヲ牽キ來リ、勘解由ヲ扶ケ乘セテ中山ニ歸リ、我ハ吾妻天神ナリト名乘ツテ人馬共ニ社ノ側ニ於テ姿ヲ見失フ。ソレヨリ此社ヲ導(ミチビキ)ノ天神トモ稱シ、中山ガ子孫ハ勿論、一村ノ者マデモ今モ葦毛ノ馬ヲ飼フコト無シ〔同上所引緣起〕。同國比企郡宮前村大字伊古ニテハ、鎭守淡淵明神之ヲ忌ミタマフトアリテ、村ノ者決シテ葦毛馬ヲ用ヰズ〔山吹日記〕。甲州ニテハ東山梨松里村大字松里上井尻組ノ諏訪明神ハ例祭舊曆ノ七月十九日ナリ。【祭ノ愼】七月一日ノ日ヨリ始メテ此日マデ氏子ノ物忌最モ嚴重ナリ。其間ハ高聲普請及ビ繩目ヲ結ブコトヲ戒メ、又祭ノ日ニハ葦毛ノ馬ヲ牽出スコトヲ禁ズ。東八代郡富士見村小石和(コイサワ)組ノ諏訪明神モ葦毛ノ馬ヲ忌ミタマフ。里人之ヲ飼フコトアレバ神必ズ之ヲ隱ス。【苧】又苧ヲ栽ウルコトモ忌ムト云ヘリ〔以上山中笑翁書簡〕。【權五郞】磐城西白河郡三神村大字三城目ノ御靈社ハ、鎌倉權五郞ヲ祀ルト云フモ所傳ヲ失ス。【竹】此村ニテハ神ノ忌トテ葦毛馬ヲ飼ハズ又矢柄竹ト謂フ竹ヲ栽ヱズ。祟ヲ畏ルヽコト古來ノ習ニシテ人敢テ犯サザリシヲ、寬政中領主松平越中守吉田家ニ請ヒテ免許ヲ得、其旨ヲ社ニ告ゲテ人ノ惑ヒヲ解キ、爾後竹ヲ栽ヱ馬ヲ畜ヒテ民用ニ給スト云ヘリ〔白川古事考二〕。信州北佐久郡本牧村大字望月、即チ古來有名ナル望月牧ニモ、同ジク此毛ノ馬ヲ飼ハヌ慣習アリ。一說ニハ村ニ飼ハヌハ葦毛ニ非ズシテ鹿毛ナリト云フ。「カゲ」ナラバ望月ニ忌ムモ理窟アリ。但シ未ダ何レガ正シキヲ知ラズ。筑前嘉穗郡足白(アシロ)村大字馬見ハ、村ニ葦毛ノ馬ヲ飼フコトヲ戒ムルノミナラズ、他處ヨリ曳來リシ者ヲモ止宿セシメズ。此村ハ多分ハ倭名鈔ニ所謂嘉麻郡馬見鄕ナルべシ。村ノ境ニ馬見嶽ト云フ高山アリ。【馬ノ神】其頂上ニ祀ラレタル馬見權現ハ一ニ白馬大明神トモ名ヅケ奉リ、昔ハ嘉麻一郡ノ總社ナリキトナリ〔太宰管内志〕。讚岐綾歌郡松山村ノ各大字ニ於テハ、葦毛ヲ飼フトキハ或ハ斃レ或ハ奔リテ必ズ飼主ニ損ヲ被ラシム。往昔三木近安ト云フ鄕士アリ。朝命トハ言ヒナガラ讚岐院ニ對シテ矢ヲ射掛ケ奉ル。【柳】普通ノ歷史トハ合ハザレドモ、終ニ路傍ノ柳ノ空洞(ウツロ)ノ中ニ於テ院ヲ害シマツレリトモ傳ヘタリ。其折三木ハ葦毛ノ駒ニ乘リ居タリ。【楊枝】故ニ今モ此家ノ者ハ決シテ楊枝ヲ懷ニセズ、又此村ニ絕エテ柳ノ木ノ生立タザルモ、總テ同ジ因緣ニ基クト云ヘリ〔讚岐三代物語〕。德川將軍家ニテモ葦毛ノ馬ハ村正ノ刀ト共ニ代々大ナル禁物ナリシガ、其理由トスル所ハ寧ロ之ト異ナリ、幾分カ中山氏ノ家傳ト相類セリ。蓋シ上野新田ノ一宮ハモト新田義重ノ尊信セシ神ナリ。寬永中林道春ノ作リタル鐘ノ銘ニモ、此神葦毛ノ駒ニ乘リタマヘルガ故ニ、新田氏ノ子孫タル者ハ此毛色ノ馬ヲ避クルナリト謂ヘリ。【金創ノ藥】後世ノ學者之ヲ記載シ更ニ附加シテ曰ク、葦毛ノ馬ノ糞ハ金創ノ妙藥ナルコトハ、既ニ甲陽軍鑑ノ松代攻ノ條ニモ見エタリ。今御當家ニ於テ悉ク此毛ノ馬ヲ忌ミタマフトアリテハ、飼フ人無クシテ次第ニ其種ヲ絕ヤスニ至ルべシ。右ノ如ク軍用トモナルべキ馬ナリトスレバ、セメテハ之ヲ諸國ノ社ノ神馬トシテナリトモ奉納シ置キタキモノナリト說ケリ〔※麓堂隨筆[やぶちゃん注:「※」=「木」+「离」。]〕。然ルニ葦毛ノ駒ハ、此學者ノ說ヲ須タズシテ、古今共ニ多クノ社ノ神馬タリシナリ。以下順序ヲ逐ヒテ自分ガ述べント欲スル所ハ即チ其始終ナリ。

 

《訓読》

 葦毛の馬を飼はぬと云ふ風習は古く、且つ、弘く行はる。武藏入間郡飯能(はんのう)町大字中山の天滿宮は、昔の領主中山氏一家の氏神なりき。【老翁】天文二十年[やぶちゃん注:一五四三年。但し、後注するように天文十五年の縁起自体の誤り。]、川越城の夜軍(よいくさ)に、中山勘解由(かげゆ)家勝、敗北して、中山に還らんとするに、入間川、洪水の爲に渡り難く、殊に艱難(かんなん)の折柄(をりから)、何處(いづこ)よりとも無く、一人の老翁、葦毛の駒を牽き來たり、勘解由を扶(たす)け乘せて中山に歸り、「我は吾妻天神なり」と名乘つて、人馬共に社の側に於いて姿を見失ふ。それより此の社を「導(みちびき)の天神」とも稱し、中山が子孫は勿論、一村の者までも、今も葦毛の馬を飼ふこと無し〔同上所引緣起〕。同國比企郡宮前村大字伊古にては、鎭守淡淵(あはぶち)明神、之れを忌みたまふとありて、村の者、決して葦毛馬を用ゐず〔「山吹日記」〕。甲州にては東山梨松里村大字松里上井尻組(かみゐじりぐみ)の諏訪明神は、例祭、舊曆の七月十九日なり。【祭の愼(つつしみ)】七月一日の日より始めて此の日まで、氏子の物忌(ものいみ)、最も嚴重なり。其の間は高聲・普請(ふしん)及び繩目を結ぶことを戒め、又、祭の日には葦毛の馬を牽き出だすことを禁ず。東八代郡富士見村小石和組(こいさわぐみ)の諏訪明神も葦毛の馬を忌みたまふ。里人、之れを飼ふことあれば、神、必ず之れを隱す。【苧(からむし)】又、苧を栽うることも忌むと云へり[以上山中笑(ゑみ)翁書簡〕。【權五郞】磐城西白河郡三神村大字三城目の御靈社は、鎌倉權五郞を祀ると云ふも、所傳を失す。【竹】此の村にては、神の忌むとて葦毛馬を飼はず、又、矢柄竹と謂ふ竹を栽ゑず。祟りを畏るゝこと、古來の習ひにして、人、敢へて犯さざりしを、寬政中[やぶちゃん注:一七八九年~一八〇一年。]、領主松平越中守、吉田家に請ひて、免許を得、其の旨を社に告げて、人の惑ひを解き、爾後、竹を栽ゑ、馬を畜ひて、民用に給すと云へり〔「白川古事考」二〕。信州北佐久郡本牧村大字望月、即ち、古來有名なる望月牧(もちづきのまき)にも、同じく此の毛の馬を飼はぬ慣習あり。一說には、村に飼はぬは、葦毛に非ずして、鹿毛(かげ)なりと云ふ。「かげ」ならば、望月に忌むも理窟あり。但し、未だ何れが正しきを知らず。筑前嘉穗(かほ)郡足白(あしろ)村大字馬見(うまみ)は、村に葦毛の馬を飼ふことを戒むるのみならず、他處より曳き來りし者をも止宿せしめず。此の村は多分は「倭名鈔(わみやうせう)」に所謂、嘉麻(かま)郡馬見鄕なるべし。村の境に馬見嶽と云ふ高山あり。【馬の神】其の頂上に祀られたる馬見權現は一に白馬大明神とも名づけ奉り、昔は嘉麻一郡の總社なりきとなり〔「太宰管内志」〕。讚岐綾歌(あやうた)郡松山村の各大字に於いては、葦毛を飼ふときは、或いは斃(たふ)れ、或いは奔(はし)りて、必ず、飼主に損を被(かふむ)らしむ。往昔、三木近安と云ふ鄕士あり。朝命とは言ひながら讚岐院[やぶちゃん注:崇徳院。]に對して矢を射掛け奉る。【柳】普通の歷史とは合はざれども、終(つひ)に路傍の柳の空洞(うつろ)の中に於いて院を害しまつれりとも傳へたり。其の折り、三木は葦毛の駒に乘り居たり。【楊枝(やうじ)】故に今も此の家の者は決して楊枝を懷(ふところ)にせず、又、此の村に絕えて柳の木の生ひ立たざるも、總て同じ因緣に基づくと云へり〔「讚岐三代物語」〕。德川將軍家にても葦毛の馬は、村正の刀と共に、代々、大なる禁物なりしが、其の理由とする所は、寧ろ、之れと異なり、幾分か中山氏の家傳と相ひ類せり。蓋し、上野(かうづけ)新田(につた)の一宮(いちのみや)は、もと、新田義重の尊信せし神なり。寬永中[やぶちゃん注:一六二四年~一六四五年。]、林道春の作りたる鐘の銘にも、此の神、葦毛の駒に乘りたまへるが故に、新田氏の子孫たる者は、此の毛色の馬を避くるなりと謂へり。【金創(きんさう)の藥】後世の學者、之れを記載し、更に附加して曰く、『葦毛の馬の糞は金創の妙藥なることは、既に「甲陽軍鑑」の松代攻(まつしろぜめ)の條にも見えたり。今、御當家に於いて、悉く此の毛の馬を忌みたまふとありては、飼ふ人無くして、次第に其の種を絕やすに至るべし。右のごとく、軍用ともなるべき馬なりとすれば、せめては之れを諸國の社の神馬としてなりとも奉納し置きたきものなり』と說けり〔「※麓堂隨筆」[やぶちゃん注:「※」=「木」+「离」。]〕。然るに、葦毛の駒は、此の學者の說を須(ま)たずして、古今共に、多くの社の神馬たりしなり。以下、順序を逐(お)ひて自分が述べんと欲する所は、即ち、其の始終なり。

[やぶちゃん注:「武藏入間郡飯能(はんのう)町大字中山の天滿宮」現在の埼玉県飯能市中山字吾妻台にある加治(かじ)神社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。東京都・首都圏の寺社情報サイト「猫の足あと」の「加治神社」によれば、慶長元(一五九六)年武、蔵七党の一人であった『中山勘解由丹冶家範の老臣本橋貞潔が聖天社として勧請、明治初めに加治神社と改称し』たとあり、『聖天社境内には、天満宮があり、天神様、天満様とも称されてい』たとあり、「新編武蔵風土記稿」には、『天満宮、真福寺持。縁起に云、天文』二十『年、川越夜軍の時、中山勘解由家勝当所より出陣せしに、敗軍して其夜中山へ帰らんとせし時、入間川満水にて渉りかね、殊に艱難の折からいづくとも知らず独の老人、葦毛の馬を牽来て家勝を扶け乗せ中山に帰る。家勝その姓名を問ふに、我は吾妻天神なりと云て、人馬ともに社のほとりに所在を失ふ。是よりして導の天神とも称すと云、此故を以て今も中山が子孫と、当村の民家にては、葦毛の馬を飼養せずと云。川越夜軍は天文』十五『年なるを』二十『年と云は、縁起の年代をあやまれり』と引用し、さらに、「埼玉の神社」から以下も引く。

   《引用開始》

当社は明治四〇年、丹党中山氏縁の天神社に、他の同氏崇敬の社を合祀し、そのうちの村社の名を取り、加治神社と改称した。

当地は、武蔵丹党の祖、丹治武信が元慶年中武蔵国に下向し、館を構えた所で、丹治家季の次男助季は地名の中山を名乗り、丹党中山氏の祖となった。天文一五年河越夜戦に敗れた中山家勝は、帰途、入間川の増水に遭い渡りかねていたところ何処ともなく一人の老人が蘆毛の馬を曳いて現れ、家勝を対岸に渡し、中山に導いた。家勝が名を問うと、「我は鎮守十二社の吾妻天神なり」と答え姿を消した。これにより家勝は“導の天神”と崇め、館の北、勘解由山に祀られていた天神社を現社地裏に当たる御伊勢山へ遷座したという。また、中山ではこれより蘆毛の馬は神馬だとして飼わないという。

丹党と天神社との関係は、天慶五年に多治比文子に菅公の神託があったことが『北野天神縁起』に見え、多治比の血を引く中山氏とのかかわりが推測される。

   《引用終了》

「中山氏」ウィキの「中山氏」によれば、『高麗』(こま)『五郎経家が武蔵国高麗郡加治郷に定着したことから』、『当初は加治氏を名乗った。その』十三『代目の家勝が同郷の中山村に移住したため』、『以後は中山氏を称した。中山家勝』(生没年未詳)『は武蔵七党』の一つである『丹党の一族(加治氏)として武蔵を基盤に活動し』、初め、『山内上杉家に仕えた。ついで』、『後北条氏の北条氏康に仕えた。家勝の子中山家範(勝範)は北条氏照に仕え』、天正八(一五八〇)年に『豊臣秀吉の北条攻めを受け、八王子城を守って討ち死にした』とある。

「川越城の夜軍(よいくさ)」戦国時代に武蔵国の枢要な城であった河越城の争奪を巡って河越城周辺で争われた一連の戦いを「河越城の戦い」(北条早雲の嫡男で後北条氏の第二代当主北条氏綱が武蔵国征服のために武蔵国を支配していた上杉氏の居城河越城に侵攻、大永四(一五二四)年から複数回の争奪戦が展開された)と称するが、その中でも「日本三大奇襲(日本三大夜戦)」の一つとして有名な、天文十五年四月二十日(ユリウス暦一五四六年五月十九日)に行われた、関東の政局を決定した大きな戦いとなった五度目の戦闘である「河越夜戦(かわごえよいくさ)」を指す。参照したウィキの「河越城の戦い」によれば、『河越夜戦は、北条氏康軍と上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の』三『者連合軍が武蔵国の河越城(現在の埼玉県川越市)の付近で戦闘し、北条軍が勝利を収めた戦いである』。この時点で既に川越城は北条氏に奪われていたが、こ『の夜、氏康は自軍』八千『を四隊に分け、そのうち一隊を多目元忠に指揮させ、戦闘終了まで動かないように命じた。そして氏康自身は残り三隊を率いて敵陣へ向かう。子の刻、氏康は兵士たちに鎧兜を脱がせて身軽にさせ、山内・扇谷の両上杉勢の陣へ突入した。予期しない敵襲を受けた上杉勢は大混乱に陥り、扇谷上杉軍では当主の上杉朝定、難波田憲重が討死、山内上杉方では上杉憲政は』辛うじて『戦場を脱出し』、『上州平井に敗走したが、重鎮の本間江州、倉賀野行政が退却戦で討死した。氏康は』、『なおも上杉勢を追い散らし』、『敵陣深くに切り込むが、戦況を後方より見守っていた多目元忠は危険を察し、法螺貝を吹かせて氏康軍を引き上げさせた。城内で待機していた「地黄八幡」綱成はこの機を捉えて打って出ると、足利晴氏の陣に「勝った、勝った」と叫びながら突入した。既に浮き足立っていた足利勢も』、『綱成軍の猛攻の前に散々に討ち破られて』、『本拠地の古河へ遁走した。一連の戦闘による』上杉・足利の『連合軍の死傷者は』一万三千~一万六千名『と伝えられている』。但し、残念ながら、当時は上杉方であった中山家勝の名はウィキのそれには登場していない。

「中山に還らんとするに、入間川、洪水の爲に渡り難く」この地図を見て貰うと判るが、現在の川越の中心街にあった川越城は入間川の右岸、中山は左岸である。

「比企郡宮前村大字伊古」現在の埼玉県比企郡滑川町(なめがわまち)伊古(いこ)

「淡淵(あはぶち)明神」上記の伊古地区には現認出来ない。名称が変わったか、合祀されたか。識者の御教授を乞う。

「東山梨松里村大字松里上井尻組(かみゐじりぐみ)の諏訪明神」現在の山梨県甲州市塩山上井尻の諏訪神社。「組(くみ)」は旧来の村の中をさらに分けた最小単位を指し、それを地名の中に添えて呼んだ。

「繩目を結ぶことを戒め」意味不明。紐や縄を結ぶ行為は古代からの習俗では、その結び目にある種の念を込めることとなり、神を招く行為でもあったが、或いは、この諏訪明神以外の神霊を呼び寄せてしまうことになるのを忌んだものか? 識者の御教授を乞う。

「東八代郡富士見村小石和組(こいさわぐみ)の諏訪明神」現在の山梨県笛吹市石和町四日市場にある諏訪神社。次注の後のリンク先を参照。

「苧(からむし)」イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononiveaウィキの「カラムシ」によれば、本種の『茎の皮から採れる靭皮繊維は麻などと同じく非常に丈夫である。績(う)ん取り出した繊維を、紡いで糸とするほかに、糾綯(あざな)って紐や縄にし、また荒く組んで』、『網や漁網に用い、経(たていと)と緯(よこいと)を機(お)って布にすれば』、『衣類や紙としても幅広く利用できる。分布域では自生種のほかに』、六千年も前から『ヒトの手により栽培されてきた。日本において現在自生しているカラムシは、有史以前から繊維用に栽培されてきたものが野生化した史前帰化植物であった可能性が指摘されている。古代日本では朝廷や豪族が部民(専門の職業集団)として糸を作るための麻績部(おみべ)、布を織るための機織部(はとりべ、はとり、服部)を置いていたことが見え』、「日本書紀」の持統天皇七(六九三)年の『条によれば、天皇が詔を発して』、『役人が民に栽培を奨励すべき草木』を列挙しているが、その『一つとして「紵(カラムシ)」が挙げられている』。『中世の越後国は日本一のカラムシの産地だったため、戦国大名として有名な上杉謙信は衣類の原料として青苧』(あおそ)『座を通じて京都などに積極的に売り出し、莫大な利益を上げた。新潟県の魚沼地方で江戸時代から織られていた伝統的な織物、越後縮はこれで織られていた。また上杉氏の転封先であった出羽国米沢藩では藩の収入源のひとつであった』とある。これだけ価値のある植物を栽培しないというのは、よほど変わった禁忌起原伝承があるに違いないと、勇んで調べて見たが、判らぬ。サイト「YAMANASHI DESIGN ARCHIVE」のこちらに、その諏訪神社の画像とともに、「馬を忌む神」として、「東八代郡誌」の引用(但し、土橋里木「甲斐傳説集」(昭和二八(一九五三)年山梨民俗の会刊からの孫引きか)で、『村社諏訪神社は、むかし石和川の水難鎮護のために奉祀したもので、石和川神社とも、船形神社ともいうが、また』『馬蔵(マガクシ)社といい、この神は葦毛の馬を忌み、里人がこれを飼えば、神は必ず林中にその馬を隠してしまわれるので、この名がある。また苧を作ることをも忌むというが、理由はわからない』とあったから、これ以上は調べない。何か情報をお持ちの方は御教授願いたい。

「磐城西白河郡三神村大字三城目の御靈社」現在の福島県西白河郡矢吹町三城目にある御霊神社

「鎌倉權五郞」菅原道・平将門・崇徳院などと並ぶ御霊信仰の知られた対象である、平安後期の猛勇無双の武将鎌倉権五郞平(たいらの)景政(延久元(一〇六九)年~?)は。私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 御靈社」の注や、「甲子夜話卷之三 24 權五郎景正眼を射させたること、杉田玄伯が説幷景正が旧蹟」の本文及び私の注を参照されたい。

「矢柄竹」単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科ヤダケ属ヤダケ Pseudosasa japonica の古名・別名。矢の矢柄の材料とする。これを栽培しないという方は権五郎景政の強烈な勇猛果敢なエピソードから納得。

「信州北佐久郡本牧村大字望月」現在の長野県佐久市北西端及び立科町(たてしなまち)大字茂田井(もたい)附近。この地図の中央一帯

「望月牧(もちづきのまき)」信濃国佐久郡の千曲川と鹿曲(かくま)川の間にある御牧原(みまきがはら)台地を中心に設置された御牧(勅旨牧)。前注の地区はその中心地で馬の名前(後述)由来。信濃十六牧の一つ。現在の長野県佐久市・東御(とうみ)市・小諸市に亙り、浅科村(現在の佐久市)には「御馬寄(みまよせ)」の地名が残る。「延喜式」によると、年貢馬は信濃諸牧で最も多い二十疋で、貢馬日が八月十五日(後に十六日)の望月の日であったことから信濃の馬は「望月の駒」と称されて歌にも詠まれ、十六牧を代表する当牧が望月牧と呼ばれるようになったという。他牧の貢馬が途絶えてからも、望月牧のみは南北朝頃まで続けていたが、正平二二/貞治六(一三六七)年の十疋貢進を最後に記録から消えた(以上は平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。

「葦毛に非ずして鹿毛(かげ)なり」既注であるが、再掲すると、「葦毛」は、馬を区別する最大の指標である毛色の名で、栗毛(地色が黒みを帯びた褐色で、鬣(たてがみ)と尾が赤褐色のもの)・青毛(濃い青みを帯びた黒色のもの)・鹿毛」(かげ:体は鹿に似た褐色で、鬣・尾・足の下部などが黒いもの)の毛色に、年齢につれて、白い毛が混じってきたものを指す。もっと簡単に言うと、「葦毛」は「灰色の馬」(但し、肌は黒っぽいが、生えている毛が白いことの方が多い)で、「鹿毛」は、普通、我々が「馬」と言われて想起する色、則ち、一般的に見られる茶褐色の馬のことを指すと言ってもよい。

『「かげ」ならば、望月に忌むも理窟あり』満月が翳(かげ)る(曇る)に掛けて忌み嫌うという意であろう。駄洒落っぽいが、禁忌や忌み言葉(数字の縁担ぎや結婚式の祝辞等)にはかなり頻繁に見られる。

「筑前嘉穗(かほ)郡足白(あしろ)村大字馬見(うまみ)」現在の福岡県嘉麻(かま)市馬見。柳田國男は「アシロ」と振るが、明治の村落名では「あしじろ」であり、現在の施設につくそれも「あしじろ」である。柳田のそれは間違いの可能性もある。

「倭名鈔」「和名類聚鈔(抄)(わみょうるいじゅしょう)」。平安中期、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した辞書。承平年間(九三一年~九三八年)成立。「嘉麻(かま)郡馬見鄕」は同巻九の「國郡部第十二」の「筑前國第百二十五 嘉麻郡」に『馬見〔牟万美〕』と出る。

「村の境に馬見嶽と云ふ高山あり」現在、馬見山山頂は福岡県嘉麻市桑野であるが、現在の馬見にある馬見山キャンプ場近くから御神所岩(ごしんじょいわ)を経て馬見山山頂へ登るルートがあり、この御神所岩(馬見地区内)はグーグル画像検索で見ると、如何にも権現を祀っていそうな(実際に下部に祠あり)奇体な巨石である。その画像の中に『御神所岩直下に祀られた馬見神社上宮の石祠』(前のリンク画像はそれ。残念ながら、本体ページは消失している)というキャプションも発見した。個人ブログ「事代主のブログ」の「馬見神社」(地図有り)によれば、馬見にあるそれは、 掲示板の由緒書きによれば、『上宮の創立は不詳であるが』、三『千年前と言われ』(大きく出たね!)、『馬見山頂』(九百八十七メートル)『の頂上近く御神所(ごしんじょ)岩の巨岩あり、ここに鎮座。瓊瓊杵尊は天孫降臨の御神で、日本民族の祖。比類なき神徳をもって尊崇される』。『中古仏法隆盛の頃、約』千三百年『前、鎮西八郎為朝現在の神社(下宮)建立』(為朝は(保延五(一一三九)年生まれで数字がひどくおかしいが、写真を見ると確かにそう書いてある!)、『また神木寺も建つ』。『天正前後、武家政治となり、秋月藩主秋月種実公、毎年参拝せられ尊崇を集めた』。『黒田藩となり』、『嘉穂郡の総社として、代々尊崇あり』。「福岡県神社誌」に『よれば、神武天皇ご東征の時、ここに参拝せられ、その御神馬が足が白い馬で(足白)又、馬見の地名が起こったとも言われる』(『縄田小観 記』とある)。以下、ブログ主の記載。『「天降八所神社縁起」によると』、『馬見の物部の末裔の駒主の命が案内した馬見山の中腹に馬見神社があり』、『神武天皇は東征の時、ここに参拝されその後目尾山(現在の鳥尾峠)に向かったとあり』、『また』、『乗っていた馬が足の白い馬で「足白」又「馬見」の地名が起こったと言われ』、『他に、馬に逃げられてしまって見送ったので「馬見」となったという伝承もある』とされ、「筑前国続風土記附録」の「馬見大明神社」には、『産土神である。御祭神は天津彦ホホデミの尊・ニニギノ命であって、賀茂大明神・荒穂大明神をも相伝に祭っている』。『馬見山が東にそびえ、渓水が西に流れて、人里離れて潔浄の宮所である。馬見山の山上に社があって、白馬山大明神ともいう。どんな神を祀っているか分からないという』とあるとする。また、「筑前名所図会」の「馬見大明神」には、『古宮は馬見山上にあり』。『御神域という大岩の辺に石の祠あり』。『今の社は山下にあり』。『白馬大明神とも申して、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)なり』。『この神、葦毛の馬を忌むという』。『この里に飼うを忌むのみならず、他のことろから来ても、村の方で留めて置くという』とある。

「讚岐綾歌(あやうた)郡松山村」現在の香川県坂出市高屋町か。ここには崇徳上皇が讃岐に配流され、「松山の津」に着いたとされており、ここがその比定地候補である。

「三木近安」玉山氏のブログ「紀行歴史遊学」の「崇徳天皇弑逆事件(崇徳院番外編)」で彼が崇徳院を殺害した場所が坂出市府中町柳田であるとする(地図有り)。それによれば、『延享二』(一七四五)年『に原本が成立した』「讃州府誌」では、『崇徳上皇の崩御について、次のように伝えている』。『院の御崩御に付ては記すだにも恐れ多き事どもなるが、本書原本の記す所に依れば長寛二年八月二十六日二条帝陰に讃の士人三木近安(保)なる者に命じ戕(しょう)ぜしむ。時に近安驄馬(そうば=青馬)に乗り紫手綱を取って鼓岡を襲ふ。院知り玉ひ急に之を避け路の大柳樹の穴に匿れ玉ふ。近安之を探し索め執て之を害し奉り遂に崩ず御年四十六。是に因って三木姓の者、驄馬紫衣の者、白峯に上るを得ずといふ』。以下、ブログ主の訳。長寛二(一一六四)年八月二十六日、『二条天皇はひそかに、讃岐の武士・三木近安という者に命じて、崇徳上皇の暗殺を図った。近安は青い馬に乗り、紫の手綱を取って、仮御所のある鼓岡を襲撃した。上皇は逃げて大きな柳の木の穴に隠れた。近安は上皇を探し出して殺害し、上皇は』四十六『歳の生涯を終えた。このことによって、三木姓の者、青い馬に乗る者や紫色を身に着ける者は白峰山に登ってはならないということだ』。『その殺害場所が「柳田」だという』。『しかもこの伝説は、三木姓の者を排除する差別性を有する。何がしかの根拠があるのではなく、まったくのフィクションだろう』。『二条天皇は、崇徳上皇の死後一年ほどで亡くなるので、その死は上皇の祟りと考えられた。なぜ祟られるのか。それは、上皇暗殺を命じた黒幕だからだ。そのように考えられ、フィクションの暗殺事件が創作されたのだろう。我が国では珍しい話である』とあり、柳田國男の大雑把な梗概の不足を補って余りあった。

「楊枝」(ようじ)はインド・中国に始り、本邦でも平安時代から柳(ヤナギ)の枝を細長く削り、先を尖らせたものを歯を清潔にするために用いた。昔の楊枝は小は三寸、大は一尺二寸(約 三十六センチメートル)と長いものであった。ここは類感呪術で、殺害した崇徳院が隠れ潜んでいた柳絡みによる禁忌である。

「德川將軍家にても葦毛の馬は、村正の刀と共に、代々、大なる禁物なりし」「村正」はウィキの「村正」によれば、『村正(むらまさ、初代の生年は文亀元年』(一五〇一年)『以前)、通称千子村正(せんご むらまさ)は、伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)で活躍した刀工。千子派の祖。およびその名跡、その作になる日本刀の名。 同銘で六代以上あり』、『中でも右衛門尉村正(文亀・永正頃』(一五〇一年~一五二一年頃)『に活躍)と藤原朝臣村正(大永・天文頃』(一五二一年~一五五五年頃)『に活躍)が最大の名工だが、名跡そのものは少なくとも寛文』八(一六六八)年『まで存続した』。『史上最も有名な刀工名の一つ』で、『その作は武器としての日本刀の代名詞で、斬味凄絶無比と名高く』、『精強で知られる三河武士を中心に』『将軍徳川家康』『・関白豊臣秀次』『ら天下人を含む戦国時代の武将から至上の業物(実戦刀)として愛用された。さらに、刀剣美術としても、南北朝後の室町・戦国時代』(一三九四年~一五九六年)『を代表する巨匠で』、『覇気を放つ鋭い作風で知られ』たとある。以下、「妖刀村正伝説」の項。『村正は妖刀として広く知られて』おり、噂に『徳川家に仇をなす妖刀:徳川家康自身、祖父、父、息子が、村正によって被害を受けたので、徳川家に禁止された』というのがあるが、『現実には、家康自身が二振りの村正を子孫に残し、譜代の重臣も村正や村正から影響を受けた刀工の武器を使用するなど、村正は三河武士に愛好された武器だった』。『家康自身やその家族が血を流した、などという話も、比較的信頼のおける史料があるのは、祖父清康が村正で家臣に殺された一件だけで、他は著者不明の書や偽書、あるいは死後』百『年以上後に書かれた書籍に登場する。祖父の殺害に用いられたのが村正だったのも、当時家臣には千子派(村正一派)の武器が普及していたのだから、特に不思議な話ではない』。『まして家康が村正を禁じたなどというのは根拠の無い俗説である』。『しかし、正保年間』(一六四五年~一六四八年)『以降に書かれた偽書』「三河後風土記」で、『村正の作は徳川三代不吉の刀槍、直臣陪臣に至るまで皆所有を禁止』『とされてしまう。この説が』百『年かけて』一七〇〇『年代後半までにはかなり広まり、徳川家以外にも災いをもたらす刀だとか』、『実は四代不吉の刀であるとか』、『噂に尾ひれがついていく』。一八〇〇『年代になると、幕府の正史』「御実紀」の『附録に妖刀村正伝説が収録される』『など、権威も付けられていった』。『根拠が無いにも関わらず、一体なぜこれほどまでに妖刀伝説が広まったのかについては』、幾つかの『説がある』。まずは、●『村正の桑名と家康の三河は、地理的に近く、三河武士に普及していたため』とするもので、『桑名(三重県桑名市)から七里の渡しで尾張(愛知県西部)に渡って陸路ですぐが三河(愛知県東部)である。前述の通り、村正は三河武士によく使われていたから、説話そのものの真偽はともかくも、周辺の説話にしばしば登場するのは不思議ではない』。次に、●『悪い剣相とされたから。江戸時代には「剣相」といって刀の見た目から吉凶を占う迷信があり、村正は悪しき剣相を持つ刀として妄説の標的にされた』。●『権威のある書物に妖刀伝説が掲載されたから』。『江戸中期の南町奉行根岸鎮衛はその随筆で妖刀伝説の正しさの根拠に』「三河後風土記」などを『挙げている』(私の電子化注「耳囊 卷之二 村政の刀御當家にて禁じ給ふ事/利欲應報の事」を参照されたい)。『この書は本来は偽書であるのに、根岸の随筆の数年後には講談師が辻で軽々しく読むのを禁じられるほど、当時は権威がある書物とみなされていた』。●『村正の作の覇気のこもる外観も、妖刀伝説に説得力を与えた』。●『一般に人間は他人の良い噂よりも悪い噂を好む』。●『徳川幕府からの「黙認」があった』。『本来ならば、神である東照大権現家康とその親族が血を流した、などという話は幕府の検閲の対象となっても良さそうなものである』。『原史彦は、「実証的な見解にはほど遠い」「事実経過を踏まえた上での一つの仮説呈示」としつつ、家康の長子の信康切腹事件が家康主導だったという汚点を覆い隠すために、信康切腹が(家康のせいではなく)村正の祟りのせいだという妖刀伝説の噂が広まるのを、幕府は積極的に支援する訳ではないが、検閲はしないという形で、あえて黙認したのではないか、という新説を唱えている』。『妖刀伝説普及の過程で、家康と戦った真田信繁(俗に幸村)』、『幕府転覆を図った由比正雪』、『吉原で遊女を斬殺した(後に百人斬りと誇張された)佐野次郎左衛門』、『江戸城で殺傷事件を起こした松平外記』『など有名人も根拠なく』、『村正の所有者とされるようになる。こうした結果、妖刀伝説はただの噂から倒幕の象徴の一つと化し、西郷隆盛』や『三条実美』『などが実際に所持していた』という。『一方で、文化的な影響も大きく、幕末から明治初期にかけて歌舞伎』や『浮世絵』などでも、『妖刀村正を題材にした傑作』が『生まれるようになった』とある。また、日本刀売買の「刀剣鋼月堂」の公式サイト内の「千子村正(せんごむらまさ) 徳川家に祟る妖刀村正」によれば、『初めて村正が徳川家に祟る刀といわれた所以について、徳川将軍家の公式記録である「徳川実紀」によると、徳川家康の祖父松平清康が天文四年』(一五三五年)『に家臣に村正の刀で斬られた事に始まり、父広忠が乱心した家臣に村正の脇指で刺され、信長から内通の嫌疑をかけられ、切腹に追い込まれた家康の長男信康を介錯した刀も村正でした。また、家康自身も信長の甥長孝の戦功報告を受けた際に、村正の槍を検分中に手に怪我を負っています。以上が、村正が徳川家に祟る妖刀として一般に広く認知されたと推測される理由なのですが、祖父清康の例はともかく、父広忠の時までは偶然で済んだのでしょうが、家康、信康と四代もこの様な凶事が重なると、村正は徳川家に祟る刀ではないかという話が出てきても不思議はありません。但し、三河と伊勢は近いので、それだけ村正の刀がこの地方で流通していたとも考えられます。仮に、備前や美濃に代々住んでいる一族がいて、親子三代戦争で長船派の刀や関の刀に切られたとしても「長船派(或いは関)の刀は我が家を祟る刀じゃ」とは言わないと思いますので、やはり千子派の刀が現在の東海地方に多く流通していたことと家康が天下をとったことが結びついて「村正=徳川家に祟る刀=妖刀」というイメージが出来上がったのだと思います。実際、徳川家の一族である尾張徳川家は江戸期から現在に至るまで皆焼の村正を所有していますし、徳川四天王の一人本多忠勝の愛槍「蜻蛉切」も千子派の作です。本当に徳川家に祟る刀であれば両家とも改易されているでしょうから、江戸初期はともかく、江戸中期以降は徳川家自体もそこまで重く考えていなかったのではないかと思います』とある。

「其の理由とする所は、寧ろ、之れと異なり、幾分か中山氏の家傳と相ひ類せり」葦毛の馬を德川が忌む理由は調べて見たが、よく判らない。識者の御教授を乞うものである。

「上野(かうづけ)新田(につた)の一宮(いちのみや)」現在の群馬県富岡市一ノ宮にある一之宮貫前(いちのみやぬきさき)神社。 祭神は経津主神(ふつぬしのかみ)と姫大神(ひめおおかみ)。

「新田義重」(永久二(一一一四)年或いは保延元(一一三五)年~建仁二(一二〇二)年)は新田氏の祖(後に鎌倉幕府を倒した義貞は嫡流)。武家の棟梁として名を馳せた八幡太郎義家の孫で、新田氏本宗家(上野源氏)の初代であり、上野国新田荘を本拠としたため、新田義重と称した。

「林道春」江戸初期の朱子学派の儒学者で林家の祖である林羅山(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)。羅山は号で、本名は信勝。「道春」は出家後の号。

「葦毛の馬の糞は金創の妙藥なること」小学館のサイト「NEWSポストセブン」の「戦国時代の傷病治療 馬糞や尿を塗ったり飲んだりしていた」に、『戦国時代の傷病治療は薬草や漢方を用いた民間療法が主体で、当然ながら医学的根拠のないものだらけだった。たとえば』、『戦場で受けた刀傷には、馬糞や尿を塗ったり飲んだりした。これは排泄物に含まれる成分に止血効果があると信じられていたからである』とある。また、あるQ&Aサイトの回答には、『戦国時代、戦場には金創医という従軍医師が居て、彼らの治療法には「馬糞療法」という治療法があったとい』い、『出血、内出血の場合、馬糞を水で溶いて飲む又は馬糞を食う。特に腹部の内出血には有効とされ、鉄砲で撃ちぬかれて腹部に血が溜まって膨れた時』、『馬糞を水で溶いた「馬糞汁」を飲むと』、『腹に溜まった血が排出され』、『傷が治ると信じられていた』という。また、『エピソードとしては』、『武田の家臣、甘利昌忠』(あまりまさただ 天文二(一五三三)年~永禄七(一五六四)年)が『負傷した家臣』『米倉重継の子』『彦二郎の鉄砲傷を治すため』、葦『毛の馬の馬糞汁を飲ませようとし、彦二郎が嫌がると、自ら馬糞汁を飲んで見せ、彦二郎を説得したという逸話が有名』だとある。さらに、『多量の出血時は、馬の糞を水で溶いて飲ませるか』、『そのまま食べさせる。傷口の消毒には人の小便が使われ、場合によってはそれを飲ませ、刀傷の痛みが酷い場合には、小便を陣笠に溜めてから暖めて飲ませた。文献「戦国時代なるほど事典」(川口素生著 PHP文庫)』(こうした回答で引用が示されているのは頗るありがたい)。『ちなみに、韓国では早漏に対する民間療法として馬糞を食べるというものがある』らしいともあった。

「甲陽軍鑑」江戸初期に編纂された軍書。全二十巻。甲州流の軍法・兵法を伝える目的で、武田晴信(信玄)・勝頼二代に亙る事績・合戦・刑政・軍法を記し、さらに甲州武士の事績・心構え。理想を述べたもので、特に軍法の記述に中心がおかれているので「軍鑑」と言われる。本書は武士団内部に於ける種々の伝承を集大成したものの代表的なものであり、「武士道」という語を使用した最も古い文献でもある。著者については六つの説あり、そのうちで最も有力なものは、信玄の重臣海津城主高坂弾正虎綱(昌信)の遺記や関山派の僧の遺記を基礎資料として、春日惣次郎・小幡康盛・外記孫八郎・西条治部らが書き継ぎ、さらに江戸初期の軍学者で兵法家の小幡景憲が、自家門客の説及び自己の見聞を加えて集大成したというものである(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「松代攻(まつしろぜめ)」長野県長野市松代町松代にあった松代城。この城は「海津城」或いは「貝津城」「茅津(かやつ)城」とも呼ばれた。参照したウィキの「松代城」によれば、上杉氏への最前線に位置し、永禄四(一五六一)年九月、『上杉氏が川中島へ侵攻すると、海津城の城代である武田家臣・春日虎綱(高坂昌信)は海津城において篭城し』、『信玄本隊の到着を待ち』、九月十日に『八幡原において両軍の決戦が行われたという』(第四次の「川中島の戦い」)とあるのが、それか。]

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