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2019/04/25

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(14) 「駒ケ嶽」(4)

 

《原文》

 岩代耶麻郡金川村ノ駒形山ハ、山ノ南ニ草木ノ生ゼザル砂石ノ地アリテ、恰モ逸馬ノ形ニ似タル故ニ駒形山ト名ヅケタリト稱ス〔新編會津風土記〕。山ノ樹木ノ特ニ茂レル部分、例ヘバ富嶽南側ノ鶴ケ芝ノ如キ、或ハ永ク物ノ成長セザル部分ガ、何カノ形狀ニ類似シタリト云フハ、事ニ由ルト幾分ノ人作ヲ加ヘタルモノナリトモ言ヒ得べシ。京ノ東山ノ大文字又ハ北山ノ妙法ナドハ、其最モ著シキ例ナリ。併シナガラ雪ノ消エヌ消エタト云フガ如キハ正シク天然ノ現象ナリ。故ニ遠クヨリ望ム人ガ意ヲ以テ迎ヘタル解說ト言フノ他ナキナリ。越後絲魚川邊ニ牛形ト稱スルハ、季春山中雪消エノ時殘ル形ノ牛ニ似タルモノナリ。飯豐山(イヒデサン)ニハ乘物形アリ、肩輿ノ形ニ似タリ。【鍬形】粟ヲ蒔ク頃殘雪ノ僧形ヲ爲スヲ名ヅケテ粟蒔入道ト謂ヒ、菱嶽ノ殘雪ノ鍬ノ形狀ニ似タルヲ鍬形ト稱スルガ如キ、皆同ジ類ナリ〔以上越後野志十九〕。【農牛農鳥】富士ノ白雪ノ解ケ殘リタル形ヲ、駿河ヨリ見テ農男、甲斐ノ方ヨリ農牛農鳥ナドト謂ヒ、之ヲ望ミテ農事ニ取掛ルガ如キ亦然リ。或ハ南面ニ在リテハ農馬ニ見ユト爲シ、牛ト馬ト自然ニ陰陽兩位ノ方角ヲ表ハスモノナリト言ヒシ人アリ〔甲斐國志三十五〕。サマデノ理窟ハ無キマデモ、農耕ト關係アリト考ヘシコトハ右等ノ名稱ヲ見テモ明白ナリ。【人形山】越中礪波(トナミ)ノ奧ナル人形山ハ、殘雪ノ形ガ二人手ヲ連ネテ立ツガ如ク見ユ。其雪ノ次第ニ融ケテ結ビシ手ヲ離ス頃ヨリ、木樵獵人ハ山ニ入リテ差支ナシト信ジ居タリ〔地名辭書〕。是レ即チ障神(サヘノカミ)ノ思想ヲ表示スル者ナルべシ。【名ノ附會】何レニシテモ遠方ニ在ル物ノ形ハ見ヤウ次第如何ヤウニモ見エ。[やぶちゃん注:句点ママ。訓読では読点に代える。]天井板ノ節穴ガ眼球ノヤウニ思ハレタリ、障子ノ雨ノ痕ガ影法師ト見エタリスル例ハ多シ。仍テ自分ノ考フル所ニテハ、前ニ列記スルガ如キ馬ノ形像說ハ、駒ケ嶽又ハ駒形山ト云フ地名アリテ後、次第ニ土地ノ人ガシカ看倣スヤウニナリシナラント認ム。即チ神馬ヲ崇祀スル信仰ノ方ガ、此傳說ヨリ一段ト古キモノニテハ非ザルカト思ヘリ。若シ然ラズトスレバ、平地ニ於ケル駒形又ハ馬神ノ信仰ハ、全然別口ノモノトナリ了ル結果ヲ見ルべキナリ。

 

《訓読》

 岩代耶麻(やま)郡金川村の駒形山は、山の南に草木の生ぜざる砂石の地ありて、恰(あたか)も逸馬(いつば)の形に似たる故に駒形山と名づけたりと稱す〔「新編會津風土記」〕。山の樹木の特に茂れる部分、例へば富嶽南側の鶴ケ芝のごとき、或いは、永く物の成長せざる部分が、何かの形狀に類似したりと云ふは、事(こと)に由(よ)ると、幾分の人作(じんさく)を加へたるものなりとも言ひ得べし。京の東山の大文字又は北山の妙法などは、其の最も著しき例なり。併しながら、雪の消えぬ消えたと云ふがごときは、正(まさ)しく天然の現象なり。故に、遠くより望む人が、意を以つて迎へたる解說と言ふの他なきなり。越後絲魚川邊に「牛形(うしがた)」と稱するは、季春、山中雪消えの時、殘る形の牛に似たるものなり。飯豐山(いひでさん)には「乘物形(のりものがた)」あり、肩輿(かたこし)の形に似たり。【鍬形(くはがた)】粟(あわ)を蒔く頃、殘雪の僧形(そうぎやう)を爲すを、名づけて「粟蒔入道(あはまきにふだう)」と謂ひ、菱嶽(ひしだけ)の殘雪の、鍬の形狀に似たるを「鍬形」と稱するがごとき、皆、同じ類ひなり〔以上「越後野志」十九〕。【農牛(のううし)・農鳥(のうとり)】富士の白雪(しらゆき)の解け殘りたる形を、駿河より見て「農男(のうをとこ)」、甲斐の方より「農牛」・「農鳥」などと謂ひ、之れを望みて、農事に取り掛るがごとき、亦、然り。或いは、南面に在りては「農馬(のううま)」に見ゆと爲し、牛と馬と、自然に陰陽兩位の方角を表はすものなり、と言ひし人あり〔「甲斐國志」三十五〕。さまでの理窟は無きまでも、農耕と關係ありと考へしことは、右等(みぎなど)の名稱を見ても明白なり。【人形山(にんぎやうざん)】越中礪波(となみ)の奧なる人形山は、殘雪の形が、二人、手を連ねて立つがごとく見ゆ。其の雪の、次第に融けて、結びし手を離す頃より、木樵(きこり)・獵人(かりうど)は山に入りて差し支へなしと信じ居たり〔「地名辭書」〕。是れ、即ち、「障神(さへのかみ)」の思想を表示する者なるべし。【名の附會】何れにしても、遠方に在る物の形は、見やう次第、如何やうにも見え、天井板の節穴が眼球のやうに思はれたり、障子の雨の痕が影法師と見えたりする例は多し。仍(より)て、自分の考ふる所にては、前に列記するがごとき馬の形像說(ぎやうざうせつ)は、駒ケ嶽又は駒形山と云ふ地名ありて後(のち)、次第に、土地の人が、しか、看倣(みな)すやうになりしならんと認む。即ち、神馬を崇祀(すうし)する信仰の方が、此の傳說より、一段と古きものにては非ざるかと思へり。若(も)し然らずとすれば、平地に於ける駒形又は馬神(うまがみ)の信仰は、全然、別口(べつくち)のものとなり了(をは)る結果を見るべきなり。

[やぶちゃん注:「岩代耶麻(やま)郡金川村の駒形山」「駒ヶ岳ファンクラブ ブログ」の「駒の話シリーズ 32:幻の駒ヶ岳」に「岩代耶麻郡金川村駒形山(福島県喜多方市塩川町)」として推定標高三百・六メートルとするのがそれである。文化六(一八〇九)年成立の「新編会津風土記」に、『「駒形山、金川むら十町余りにあり、此山の南面、草木生ぜざる沙面の地、其形逸馬に似たり、故に名づく」とある。さらに古くは、農業用水用の堰の竣工を記録した文書(』応永二(一三九五)年のものに、『「新関は、大もちさかの井とやの下、駒かたのつづき」と駒形山が登場している』。『江戸期の金川村は、明治には金橋村から駒形村、さらに塩川町へ、平成に入ると喜多方市となっている。現地には駒形小学校、駒形堰や駒形神社など駒形の名称は残っている。金川村の駒形山について』、「河東町史」下巻(昭和五八(一九八三)年刊)には、『「源義家の伝説より生まれた駒形山」と述べている。この源義家伝説は』、「塩川町史」(昭和四一(一九六六)年刊)に、『「義家が父頼義とともに』、永承六(一〇五一)年の「前九年の役」『に際し、往路の中継基地として、今日の塩川市街の北方に』、『かなり長期に駐留した。それは源屋、鍛冶屋敷の地名や、民間伝承で知ることができる」と述べて』あり、「河東町史」は』『また、現在の東京電力第』四『発電所の裏山』(三百・六メートル)『の駒形山については、第』四『発電所は猪苗代水力電気(株)と東京電燈(株)によって大正』一五(一九二六)年に『完成した。この工事にて赤い肌を出し、荒れた駒形山には、完成後』、『会社の手に』よって、『桜や松・つつじなどが植えられ』、『駒形公園が造成されたと記述している。この駒形公園は花見や遠足で賑わいを呈していたようだが、今は手入れも』されず、『無残な状態である』。『第』四『発電所の工事以前に金川発電所(現在』は『無人)が東北電化(株)によって大正』八(一九一九)『年に竣工している。この金川発電所の右隣に駒形神社の表参道および昭和』三(一九二八)『年銘の石柱がある。そして駒形山の中腹には駒形神社があった。この神社は源義家伝説が生まれた大昔から鎮座していたのであろうが、今日では礎石を残すのみである。駒ヶ岳、駒形山、駒形神社が姿を消してゆく実例がここで見られる』として、最後に『なお、民俗学者の柳田國男もその著』「山島民譚集」で『この駒形山を紹介している』とあるから、間違いない。その他、「得さんのページ」の「喜多方発・駒形山を甦らせたい。」の情報を綜合すると、現在の福島県喜多方市塩川町(まち)金橋にある猪苗代第四発電所の真裏にあるピークで一致しているから、国土地理院図のここの二百九十四メートルのピークではないかと推定する。

「逸馬(いつば)」駿馬のことであろう。

「富嶽南側の鶴ケ芝」【2019年4月27日改稿】不詳としていたが、いつも情報を頂くT氏より、静岡県富士市本市場の富士市の公共複合施設である「フィランセ」(グーグル・マップ・データ)の西側の民家の玄関先に「鶴芝の碑」があると、「日本観光協会」公式サイト内の「鶴芝の碑」(写真有り)を紹介戴いた。それによれば、『ここから富士山を眺めると、山腹に一羽の鶴が舞うように見える部分があるため』、『鶴芝といわれた。京の画家蘆州が鶴を描き、江戸の儒者亀田鵬齋が賛を寄せたものを、文政』三(一八二〇)年に『土地の人々が碑として、間の宿本市場に建てた』とあり、別の、サイト「碑像マップ」の「鶴芝の碑」には、『鶴芝の碑(鶴の茶屋跡) 文政』三年『盧州画、亀田鵬斎讃』、但し、『現在は拓本禁止』とし、『鶴芝は』、『春先』、『富士山に現れる残雪を鶴に見立てたもの(農鳥)』とあった(後者のページには詳細地図があり、富士山麓の「鶴形」残雪の写真等もある。必見!)

「京の東山の大文字」「北山の妙法」現在、八月十六日、盆の精霊送りとして行われている京都五山の送り火のこと。東山に「大」の字が浮かび上がり、続いて松ケ崎に「妙」・「法」、西賀茂に船形、大北山に左大文字、嵯峨に「鳥居」形が灯もる。私は見たことがない。「京都観光オフィッシャルサイト」こちらで画像や非常に詳しい解説が見られる。

「飯豐山(いひでさん)」山形県西置賜郡小国町・新潟県東蒲原郡阿賀町・福島県喜多方市に跨る標高二千百五・一メートルの飯豊(いいで)山。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「肩輿(かたこし)」轅 (ながえ) を肩に担ぐ輿。「けんよ」と読んでもよい。

「菱嶽(ひしだけ)」上越市安塚(やすづか)区の長野県との県境近くにある独立峰菱ヶ岳(ひしがたけ)か。標高千百二十九・一メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「農男(のうをとこ)」小学館「日本国語大辞典」の「農男」に、遠くの山の雪が次第に消えて、黒い山肌の形が人のように見えるのを、農夫に譬えて言った語とし、「羇旅漫録」から『宝永山の方、凹(なかくぼき)ところに、人の形のごとく雪ののこることあり。これを農男と称」すと引く。

「牛と馬と、自然に陰陽兩位の方角を表はすものなり」「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 牛(うし)(ウシ或いはウシ亜科の種を含む)」に、『其の性、順なり。乾陽を馬と爲し、坤陰を牛と爲す。故に馬の蹄は圓く、牛の蹄は坼〔(さ)け〕たり。馬、病むときは、則ち、臥す。陰、勝てばなり。牛、病めば、則ち、立つ。陽、勝てばなり。馬、起つときは、前足を先〔(さき)〕にし、臥すときは後足を先す。陽に從ふなり。牛、起つときは、後足を先にし、臥すときは、前足を先す。陰に從ふなり』とある。

「人形山(にんぎやうざん)」「越中礪波(となみ)の奧なる人形山」富山県南砺市(五箇山地域)と岐阜県白川村(白川郷)に跨る人形山(グーグル・マップ・データ)。標高千七百二十六メートル。ウィキの「人形山」によれば、『五箇山地域には』、『この人形山にまつわる悲しい伝説(昔話)があ』るとし、『実際に山腹には』二『人の幼子が手をつないで踊っているかのような、残雪による人形の形をした雪形が現れ、山名の由来となって』おり、『古くは「ひとがたやま」と呼ばれていた』とあって以下の話が載る。『昔』、『この山の麓に信心深い山姥と二人の娘が暮らしていた』。三『人は泰澄が創建したとされる白山権現堂を拝んでいた。ある日』、『山姥が薪を採りに女人禁制であった山に入ったところ、小枝を跳ねて目を痛めてしまう。二人の娘が熱心にお祈りし、権現様からのお告げで山上の病に効く湯に山姥を背負って通ったところ』、『目が治った。ある朝』、『山上に権現様がいるのに二人が気づき』、『山頂にお参りしたが、下山途中に山が荒れ』、遂に『麓の山姥のところへ』二人は『戻らなかった。春が来て』、『山の雪解けが進むと、山肌の残雪が二人の娘が手をつないでいる形に見え、この山が人形山と呼ばれるようになった』という話である。『左甚五郎が木の人形を彫り、それに入魂して山地を開拓した後』、『ここに埋葬したとする説も伝えられている』(これは河童に代えた類話も知られる)。

「障神(さへのかみ)」塞(さえ)の神に同じい。ウィキの「岐の神」(くなどのかみ)を引いておく。『岐の神(クナド、くなど、くなと』『のかみ)、とは、古より牛馬守護の神、豊穣の神としてはもとより、禊、魔除け、厄除け、道中安全の神として信仰されている。 日本の民間信仰において、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを防ぐとされる神である。また、久那土は』「くなぐ」、即ち、『交合・婚姻を意味するものという説もある』。異名・異表記が多いが、本来、『「くなど」は「来な処」すなわち「きてはならない所」の意味』で、『もとは、道の分岐点、峠、あるいは村境などで、外からの外敵や悪霊の侵入をふせぐ神である』。『道祖神の原型の』一『つとされる』、『読みを』「ふなと」・「ふなどのかみ」とも『されるのは、「フ」の音が「ク」の音と互いに転じやすいためとする説がある』。『以下のように、意味から転じた読みが多い。岐(ちまた、巷、衢とも書く)または辻(つじ)におわすとの意味で、巷の神(ちまたのかみ)または辻の神(つじのかみ)』、『峠の神、みちのかみとも言う。また、障害や災難から村人を防ぐとの意味で、さえ、さい -のかみ(障の神、塞の神)』。『さらに「塞ぐ」の意味から転じて幸の神、生殖の神、縁結びの神、手向けの神の意味を併せるところもある』。「古事記」の『神産みの段において、黄泉から帰還したイザナギが禊をする際、脱ぎ捨てた褌から道俣神(ちまたのかみ)が化生したとして』おり、この神は「日本書紀」や「古語拾遺」にでは、「サルタヒコ」と『同神としている。また』、「古事記伝」では「延喜式」にある『「道饗祭祝詞(みちあえのまつりのりと』『)」の八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)と同神であるとしている』。「日本書紀」では、『黄泉津平坂(よもつひらさか)で、イザナミから逃げるイザナギが「これ以上は来るな」と言って投げた杖から来名戸祖神(くなとのさえのかみ)が化生したとしている。これは』、「古事記」にあっては、『最初に投げた杖から化生した神を衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)としている』。『なお、道祖神は道教から由来した庚申信仰と習合して青面金剛が置かれ、「かのえさる」を転じて神道の猿田彦神とも習合した』。『治安が安定してくる平安後期以降は、往来に置かれた道祖神は道標(みちしるべ)としての役割を持つようにな』り、さらに『仏教の説く六道輪廻の概念から生じた末法思想を背景に、六道に迷った衆生を救う地蔵菩薩信仰が民間で盛んとなり』、そこに『六地蔵が置かれるようにもなった』とある。

「天井板の節穴が眼球のやうに思はれたり、障子の雨の痕が影法師と見えたりする例」心霊写真や神霊現象でお馴染みの心理現象、「パレイドリア(Pareidolia)」(視覚刺激や聴覚刺激に於いて普段からよく知ったパターンを本来そこに存在しないにも拘わらず、知覚認識してしまう現象)や「シミュラクラ(Simulacra)」(ヒトの目には三つの点が集まった図形を人の顔と見るようにプログラムされているという脳の働き。類像現象)である。]

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