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2019/04/13

和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狐(きつね) (キツネ)

Kitune

 

 

 

きつね 射干【俗稱】

 

【音胡】

    【和名抄狐木

     豆禰射干也

     關中呼爲野

     干語訛也蓋

フウ   野干別獸也】

 

本綱狐北方最多今江南亦有之江東無之形似小黃狗

而鼻尖尾大日伏于穴夜出竊食聲如嬰兒氣極臊烈其

性疑疑則不可以合類故狐字從孤常疑審聽故捕者多

用罠蓋妖獸鬼所乘也有三德其色中和小前大後有黃

黒白三種白色者尤稀也尾白錢文者亦佳其腋毛純白

謂之狐白共毛皮可爲裘狐死則首丘狐善聽氷或云狐

有媚珠或云狐至百歳禮北斗變爲男婦以惑人又能擊

尾以出火或云狐魅畏狗千年老狐以千年枯木燃照則

見眞形犀角置穴狐不敢歸

凡狐魅之狀見人或叉手有禮或祇揖無度或静處獨語

或裸形見人也

狐肉【甘溫】 治瘡疥補虛損及五臟邪氣【作臛或生作膾食但可去首】

狐膽【臘月收之】 治人卒死【雄狐膽】温水研灌入喉卽活【移時者無及矣】

狐血 解酒毒以狐血漬黍米麥門冬【陰乾爲丸】飮時以一丸

 置舌下含之令人不醉

                  爲顯

 夫木花を見る道のほとりの古狐かりの色にや人惑ふらん

△按本朝狐諸國有之唯四國【伊豫土佐阿波讃岐】無之耳凡狐多

 壽經數百歳者多而皆稱人間之俗名【如大和源九郞近江小左衞門

 是也】相傳狐者倉稻魂之神使也天下狐悉參仕洛之稻

 荷社矣人建稻荷祠而祭狐其所祭者位異于他狐凡

 狐患則聲如小児啼喜則聲壺敲性畏犬若犬逐之窘

 迫則必屁其氣惡臭而犬亦不能近之將爲妖必載髑

 髏拜北斗則化爲人【見于陳眉公秘笈】惑人報仇亦能謝恩好

 物小豆飯油熬物

 試狐魅其邪氣入肩脇皮膚間必有塊診其脉浮沈不

 定其拇指多震也能察之者刺火鍼則去或先疑似之

 閒煎樒葉令服之狐妖者不曾吃眞病者雖嫌臭味而

 能吃

 狐有花山家能勢家之二派相傳云往昔有狐狩老狐

 將捕急迯隱花山殿乘輿中乞赦遂得免矣能勢何某

 亦雖時異而助死之趣相同共狐誓曰至子孫永宜謝

 厚恩也自此于今有狐魅人則以二家之符置閨傍乃

 魅去平愈其固約人亦可愧也又能守死如有人生割

 狐腹取膽然不動不目逃刳盡臟腑後死此乃首丘之

 理乎

三才圖會云狐古淫婦所化其名曰紫善聽氷河氷合時

聽氷下水無聲乃行

 相傳近衞帝有侍女名玉藻帝會不豫醫療無効使安

 倍泰成禳之占以爲玉藻之障碑卽令玉藻持幣祝之

 玉藻怖捐幣而去化爲白狐入下野那須野害人多於

 是使義純【三浦介】廣常【上總介】驅之狐又化石【殺生石也詳于下野國

 之下】信州諏訪湖水冬月氷合而人馬行氷上春氷漸解

 徃來止其始行也始止也皆窺見狐往來爲的

三才圖會云北山有黒狐卽神獸也王者能致太平則見

四夷來貢周成王時嘗有之

 元明天皇【和銅四年】伊賀獻黒狐【同五年】丹波獻黒狐元正天

 皇【靈龜元年】遠江獻白狐【養老五年】甲斐獻白狐皆以爲祥瑞

玄中記云狐五十歳能變化百歳爲美女爲神巫爲丈夫

與女子交接千歳能知千里外事卽與天通爲天狐

五雜組云齋晉燕趙之墟狐魅最多然亦不爲患北人往

往習之亦猶嶺南人與蛇共處也狐千歳始與天通不爲

魅矣其魅人者多取人精氣以成内丹然則其不魅婦人

何也曰狐陰類也得陽乃成故雖牡狐必托之女以惑男

子也然不爲大害南方猴多爲魅

 狐托於人也強氣者則不能托蓋邪氣乘虛入之謂也

 初如傷寒瘴瘧類但譫語有異耳以咒術靈符禳之則

 病人詈語宿意此乃將去之表也既解去時忽倒臥熟

 睡一二日勿呼起自身寤則安

 

 

きつね 射干(やかん)【俗稱。】

 

【音「胡」。】

    【「和名抄」に、『狐は木豆禰、

     射干なり。關中に呼ぶに、

     野干と爲すは語の訛りなり』

     〔と〕。蓋し、野干は別獸な

フウ   り。】

 

「本綱」、狐は北方に最も多し。今、江南にも亦、之れ有り。江東には之れ無し。形、小さき黃なる狗〔(いぬ)〕に似て、鼻、尖り、尾、大(ふと)く、日(〔ひ〕る)は穴に伏し、夜は出でて食を竊〔(ぬす)〕む。聲、嬰兒のごとし。氣(かざ)、極めて臊-烈(なまぐさ)し。其の性、疑ふ。疑ふときは、則ち、以つて合類〔(がふるゐ)〕すべからず[やぶちゃん注:その結果、同類とともに行動することが出来ない。]。故に「狐」の字、「孤」に從ふ。常に疑ひて審〔(つまびら)〕かに聽く。故に捕るをば、多く、罠(わな)を用ふ。蓋し、妖獸にして、鬼の乘〔(じやう)〕ずる所なり[やぶちゃん注:この場合の「鬼」は]。〔然れども、〕三德[やぶちゃん注:儒学で言う「智・仁・勇」。]、有り。其の色、中和〔ちゆうわ〕にして[やぶちゃん注:特定の色に強くは片寄らずに穏やかであること。]、〔身は〕小前大後なり。黃・黒・白の三種有り。白色なる者、尤も稀れなり。尾に白錢の文有る者も亦、佳なり。其の腋の毛、純白〔なる者を〕之れ、「狐白」と謂ふ。共に毛皮、裘(かはごろも)に爲すべし。狐、死するときは、則ち、〔住みし〕丘を首〔(かうべ)〕にす。狐、善く氷〔(こほり)〕を聽く。或いは云〔はく〕、「狐に媚珠〔(びしゆ)〕[やぶちゃん注:人を惑わす妖しい輝きを持った宝珠。]有り」〔と〕。或いは云〔はく〕、「狐、百歳に至れば北斗[やぶちゃん注:北斗七星。]を禮し、變じて男婦と爲り、以つて人を惑はす」〔と〕。又、「能く尾を擊ちて、以つて火を出だす」〔と〕。或いは云はく、「狐魅〔(こみ)〕[やぶちゃん注:ここは「狐が化けること」或いは「妖狐」の意。直後の次の段落に出る「狐魅(きつねつき)」とは明らかに違った用法であるから、明確に区別して読まねばならないと思う(その点で東洋文庫訳がここに『きつねつき』のルビを附しているのは私は従えない。]、狗〔(いぬ)〕を畏る、千年の老狐、〔人、〕千年の枯木を以つて燃(も)し、〔それを以つて〕照すときは、則ち、眞形〔(しんぎやう)〕を見〔(あらは)〕す。犀の角を穴に置けば、狐、敢へて歸らず。

凡そ、狐魅(きつねつき)の狀(ありさま)[やぶちゃん注:この訓読は特異点。良安は殆んどの場面で「かたち」と訓じている。]、人を見るに、或いは手を叉〔にして〕禮〔する〕有り、或いは、祇(たゞ)揖〔(いふ)〕すること、度〔(たび)〕無し[やぶちゃん注:「揖」は中国の古式の礼の一つで、両手を胸の前で組んでそれを上下したり、前に進めたりする礼を指す。「度〔(たび)〕無し」(「たび」は「ど」でもよいとは思う)は決まった回数が無い、則ち、何時までも繰り返す、の謂いである。]。或いは、静なる處にて、獨語す。或いは、裸(はだか)の形〔(なり)〕にて人に見〔(まみ)〕ゆなり。

狐の肉【甘、溫。】 瘡疥〔(さうかい)〕[やぶちゃん注:広く発疹性の皮膚疾患を指す。]を治す。虛損及び五臟の邪氣〔による虛損を〕補ふ【臛(にもの)に作〔(な)〕し、或いは生にて膾(なます)に作して食ふ。但し、首を去るべし。】。

狐〔の〕膽〔(い)〕【臘月、之れを收む。】 人の卒死を治す【雄狐の膽。】温水にて、研〔(す)れるものを〕灌ぐ。〔それ、〕喉に入らば、卽ち、活す【時の移れる者は及ぶこと無し。】[やぶちゃん注:人の急死した場合でもこれを蘇生させる【それには雄狐の胆(い)でなくてはならない。】。温水を注ぎながら擂り砕いたものを、服用させる。それが咽喉に入った瞬間、忽ち、生き返る【但し、頓死してから有意に時間が経過してしまった場合は生き返らすことは出来ない。】。]

狐〔の〕血 酒毒を解す。狐の血を以つて、黍〔(きび)〕・米・麥門冬〔(ばくもんとう)〕を漬け【陰乾しし、丸と爲す。】、飮む時は一丸を以つて舌の下に置き、之れを含めば、人をして醉はしめざらしむ。

                  爲顯

 「夫木」

   花を見る道のほとりの古狐

      かりの色にや人惑ふらん

△按ずるに、本朝、狐、諸國に之れ有り。唯だ、四國【伊豫・土佐・阿波・讃岐。】には之れ無きのみ。凡そ、狐は多壽〔にして〕數百歳を經る者多くして、皆、人間の俗名を稱(なの)る【大和の「源九郞」、近江の「小左衞門」のごとき、是れなり。】。相ひ傳ふ、狐は「倉稻魂(うかのみたま)」の神使なり。天下の狐、悉く洛の稻荷社に參仕す。人、稻荷の祠(ほこら)を建てて、狐を祭る。其の祭らるゝ所の者は、位〔(くらゐ)〕、他の狐に異〔(こと)なる〕なり。凡そ、狐、患ふるときは、則ち、聲、小児の啼くがごとし。喜ぶときは、則ち、聲、壺を敲(たゝ)くがごとし。性、犬を畏る。若〔(も)〕し、犬、之れを逐ひて、窘迫〔(きんぱく)〕なれば[やぶちゃん注:迫られて苦しみ困った場合には。]、則ち、必ず、屁(へひ)る。其の氣(かざ)、惡(わ)る臭(くさ)くして、犬も亦、之れに近づくこと能はず。將に妖(ばけ)を爲さんとする〔ときは〕必ず髑髏(しやれかうべ)を載いて[やぶちゃん注:ママ。]、北斗を拜し、則ち、化(ばけ)て人と爲〔(な)〕る【陳眉公の「秘笈〔(ひきふ)〕」に見えたり。】人を惑はし、仇〔(あだ)〕を報ひ〔しも〕、亦、能く恩を謝す。小豆飯(あづきめし)・油熬(あぶらあげ)の物を好む。

 狐魅(きつねつき)を試るに、其の邪氣、肩〔の〕脇〔の〕皮膚の間に入り、必ず、塊(かたまり)、有り。其の脉[やぶちゃん注:「脈」に同じ。]を診るに、浮沈、定まらず[やぶちゃん注:脈搏が一定しない。]。其の拇指(をほゆび)、多くは震(ふる)ふなり。能く之れを察する者、火鍼〔(くわしん)〕[やぶちゃん注:火で熱した鍼(はり)。鍼術に「古代九鍼」の一つとして実際にある技法。]刺すときは、則ち、去る。或いは、先づ、疑似の閒に〔ある時は〕[やぶちゃん注:真正の狐憑きであるか、或いは別の疾患であるか、区別がつかない時には。]、樒(しきみ)の葉を煎じて之れを服せしめば、狐妖の者は曾つて吃〔(くら)〕はず、眞〔(まこと)〕の病ひの者は、臭味〔(くさみ)〕を嫌〔(きら)ふ〕と雖も、能く吃〔(きつ)〕す。

 狐〔を司るとせる家〕に花山家・能勢〔(のせ)〕家の二派有り。相ひ傳へて云はく、往昔、狐狩り有りしとき、老狐、將に捕(と)られんとし、急ぎ迯(にげ)て花山殿の乘〔れる〕輿の中に隱れて、赦〔(ゆるし)〕を乞ひ、遂に免るゝを得。能勢の何某(なにがし)も亦、時、異なりと雖も、死を助けたるの趣き、相ひ同じ。共に、狐、誓ひて曰はく、「子孫に至りて、永く、宜しく厚恩を謝すべきなり」〔と〕。此れより今に于〔(おい)て〕、狐魅〔(きつねつき)〕の人有るときは、則ち、二家の符を以つて閨〔(ねや)〕の傍らに置けば、乃〔(すなは)〕ち、魅〔(つきもの)〕、去りて、平愈す。其の固〔き〕約、人も亦、愧〔(は)〕づべし。又、能く死を守る[やぶちゃん注:死に臨む際の態度が甚だ立派であることを言う。]。如〔(も)〕し、人、有りて、生きながら、狐の腹を割〔(さ)き〕、膽を取ること〔あれど〕、然れども、動かず、目、逃〔(のが)す〕まじかず[やぶちゃん注:目を逸らさず。但し、訓読には自信はない。]、臟腑を刳(さ)き盡(つく)されて、後、死す。此れ、乃ち、丘を首するの理〔(ことわり)〕か。

「三才圖會」に云はく、『狐は、古へ、淫婦の化する所〔なり〕、其の名を「紫〔(し)〕」と曰ふ。善く氷を聽く。河の氷、合〔(あ)〕ふ時[やぶちゃん注:氷結する時。]、氷を聽きて、下水、聲無きときは、乃ち、行く』〔と〕。

 相ひ傳ふ、近衞の帝、侍女有り、「玉藻」と名づく。帝、會(たまたま)不豫〔(ふよ)〕[やぶちゃん注:天子の病気。「不例」に同じ。]にして、醫療、効、無く、安倍の泰成をして之れを禳(はら)はせしめば[やぶちゃん注:「禳」は「祓」に同じい。]、占ひて、以つて玉藻の障碑〔→障碍〔(さはり)〕〕と爲す。卽ち、玉藻をして幣〔(みてぐら)〕を持たしめ、之れを祝す[やぶちゃん注:祈らせた。]。〔然れども、〕玉藻、怖れて、幣を捐(す)てゝ去り、化して白狐と爲る。下野〔(しもつけ)〕の那須野に入り、人を害すること、多し。是に於いて、義純【三浦介。】廣常【上總介。】をして之れを驅らしむ。狐、又、石に化す【「殺生石〔(せつしやうせき)〕」なり。下野國の下に詳らかなり。】信州諏訪の湖水、冬月は、氷、合して、人馬、氷の上を行く。春、氷、漸く解けて、徃來、止む。其の始めて行くや、始めて止まるや、皆、見狐の往來を窺がひ、的〔(めあて)〕と爲す。

「三才圖會」に云はく、『北山〔(ほくさん)〕に黒狐有り。卽ち、神獸なり。王者、能く太平を致すときは、則ち、見〔(あら)は〕れて、四夷、來貢す。周の成王の時、嘗つて之れ有り』〔と〕。

 元明天皇【和銅四年[やぶちゃん注:七一一年。]。】、伊賀より黒狐を獻ず【同五年。】丹波より黒狐を獻ず。元正天皇【靈龜元年[やぶちゃん注:七一五年。]。】遠江より白狐を獻ず。【養老五年[やぶちゃん注:七二一年。]。】、甲斐より白狐を獻ず。皆、以つて祥瑞と爲せり。

「玄中記」に云はく、『狐、五十歳にして能く變化〔(へんげ)〕す。百歳にして美女と爲り、神巫〔(かんなぎ)〕と爲り、丈夫〔(ますらを)〕と爲る。女子と交-接(つる)む。千歳にして能く千里の外〔の〕事を知り、卽ち、天と通じ、「天狐」と爲る』〔と〕。

「五雜組」に云はく、『齋・晉・燕・趙の墟〔(あと)〕には、狐魅、最も多し。然れども亦、患〔(わざはひ)〕を爲さず。北人、往往〔にして〕之れに習(な)れる[やぶちゃん注:日常的な対象として特に気にしない。]。〔これ〕亦、猶ほ、嶺南の人、蛇と共に處〔(す)め〕るがごときなり。狐、千歳にして始めて天と通じて、魅(ばか)すことは爲さず。其の人に魅〔(つ)く〕者、多く、人の精氣を取り、以つて、内丹を〔→と〕成す。然れども、則ち、其の婦人を魅(ばか)さゞるは何ぞや、曰はく、狐は陰類なり。陽を得、乃ち、成る。故に牡(を)狐と雖も、必ず、之れ、女に托(かゝは)りて以つて男子を惑はすなり。然れども、大害を爲さず。南方には、猴(さる)、多く魅〔(み)〕を爲す』〔と〕。

狐、人に托(つ)く[やぶちゃん注:「憑く」。]こと、強氣〔(がうき)〕[やぶちゃん注:精神力が強い、引いては、陰気の狐に対して、陽気がすこぶる強いことを言う。]なる者に〔は〕、則ち、托(つ)くこと能はず。蓋し、邪氣、虛に乘じて入るるの謂ひなり。初めは、傷寒・瘴瘧〔(しやうぎやく)〕の類ひのごとく、但し、譫語〔(うはごと)〕に異なること有るのみ。咒術・靈符を以つて之れを禳〔(はら)〕ふ〔に〕、則ち、病人、詈(のゝし)り、宿意〔(しゆくい)〕を語る[やぶちゃん注:その人物に憑りつい、その積年の恨み(「宿意」は「宿怨」の同じい)。]。此れ、乃ち、將に去(い)なんとするの表はれなり[やぶちゃん注:憑いた狐が去らずにはいられない状態に至っている現われなのである。]。既に解〔(ぬ)〕け去る時、忽ち、倒れ臥し、熟睡すること、一、二日。呼び起こすこと、勿かれ。自身、寤〔(さ)〕むれば、則ち、安し[やぶちゃん注:憑き物はいなくなって平癒している。]。

[やぶちゃん注:食肉(ネコ)目イヌ科イヌ亜科 Caninae に属する広義のキツネ類(「~キツネ」の和名を持つ世界的属群)には六属あるが、本邦に棲息し、中国にも分布するそれは一種で、キツネ属アカギツネ Vulpes vulpes であり、ここはそれでカバー出来る(日本列島周辺では北海道・樺太にアカギツネ亜種キタキツネ Vulpes vulpes schrencki が、列島のそれ以外の地域に亜種ホンドギツネ Vulpes vulpes japonica が、千島列島にはベニキツネ Vulpes vulpes splendidissima などの亜種が分布している)。ウィキの「アカギツネ」によれば、体長四十五・五~八十六・五センチメートル、尾長三十~五十六センチメートル。『体色は普通、赤錆色で腹側は白く、黒い耳の先端と足、フサフサした尾の先端の白が目立つ。赤の度合いは真紅から金色と幅があり、実際によく見てみると、各々の個体の毛は赤、茶色、黒、白の条の入った斑模様か』茶色の野生色である。『野生においては、さらに別の』二『つの色が見られることもある。一つは銀または黒で、野生の個体の』一〇%、『養殖される個体のほとんどを占める。およそ』三〇%『の個体には、さらに黒い模様があり、通常は肩と背部の中央下側に、縞として現われる。このパターンは背中に十字架を作るため、このようなキツネは「十字ギツネ」と呼ばれる。家畜化された養殖のアカギツネには、斑や縞などを含むあらゆる色がみられる』。『目は金から黄で、ネコ科動物のような縦に裂けた瞳を持つ。その素早さもあり、アカギツネは「猫のようなイヌ科」と形容される。長いフサフサとした尾は、身軽な跳躍の際にバランスをとるのに役立つ。獲物を捕えたり捕食者から逃れたりするための走る速度は時速』五十キロメートル『に及ぶ』。『成獣の体重は』二・七~六・八キログラム『になるが、地域により異なり、ヨーロッパの個体は北アメリカの個体より大きくなる』。『秋と冬には、より厚い毛皮である「冬毛」を生やし、寒冷な環境に対応する。春が始まると』、『この毛皮は抜け落ち、夏場は短い「夏毛」で過ごす』。『日本に生息するホンドギツネとキタキツネを比較すると、ホンドギツネの方が毛色がより暗褐色で』、『体長がやや小さい。足先が黒くなく、キタキツネが大陸のアカギツネと同じ頭骨を持つのに対し、ホンドギツネの頭骨は微妙に異なることや、キタキツネの乳頭が』八『または』六『個であるのに対し、ホンドギツネは』十『または』八『個と多いことから、亜種ではなく』、『日本固有の新種である可能性もある』。『大草原や低木地から森林まで、アカギツネは多様な生物群系で見られる。低緯度地域に最も適しているが、極北にまで進出し、ツンドラ地域ではホッキョクギツネと直接競争関係にある。欧米では郊外や都市部でさえ見かけることができ、害獣であるアライグマと縄張りを共有する。アカギツネは齧歯類・ウサギ・昆虫類・果実・ミミズ・卵・鳥類、その他小動物を食べる』。四十二『本の強力な歯でそれらを捕らえ』、一日で五百グラムから一キログラムの『食物を摂取する。都市区域でも庭や荒地で齧歯類や鳥を狩ることはあるが、主に家庭のゴミに頼っていると思われる。稀にホッキョクギツネの子供を狩る場合もある』。『イヌ科でありながら、体の特徴や行動がネコに似ているとされており、その理由は効率的に齧歯類を捕らえるという共通の目的による、収斂進化の結果と言われている』。『さまざまな生息地に応じて、さまざまな習性を持つ』。『主に薄明活動性で』あるが、『人間の手の入った(人工照明のある)区域では夜行性になりがちである。つまり、夜間と黄昏時に最も活動的である。狩りは単独で行うのが普通であり、食べきれない獲物を獲た場合は、それを埋める』。『普通は各々の縄張りを持ち、単独で生活し、冬にのみペアを形成し』、『生活する。縄張りの面積は』五十平方キロメートル『程と考えられており、食料の豊富な場所ではより狭く』(十二平方キロメートル以下)に『なる。縄張り内には複数の巣穴があり、これらはマーモット・アナウサギなどの別の動物が掘ったものも含まれ』、時には『平和的に捕食動物と巣穴を共有することもある』。『より大きなメインの巣穴が居住・出産・子育てに使われ、縄張り中にある小さな巣穴は、緊急用と食糧貯蔵の目的がある。しばしば一連のトンネルはメインの巣穴につながる。本種』一頭当たりでは、『尾の真下にある臭腺の特有の』臭いによって『マーキングされた』、概ね一平方キロメートル『の土地を必要とするとされる』。『冬になると、主に一夫一婦制でペアを作り、毎年』四~六『匹を協力して育てる。仔ギツネの天敵は猛禽類だが、約』八~十ヶ月で成熟し、『巣立つ。しかし、『あまり調査』は進んいないが、『複婚(一夫多妻・一妻多夫)の習性もある。複婚の証拠として、繁殖期の雄に余分な移動が見られること(さらなる相手を探しているとみられる)と、雄の行動圏が複数の雌の行動圏と重複することがある。成獣』十『匹以上の「群生」もあ』り、『このような変化は、食物のような重要な資源の手に入りやすさと関連があると考えられている』。『この「群生」の習性の理由はあまり解明されておらず、非ブリーダー(繁殖に直接関わらない群れのメンバー)の存在が一腹の仔の生存率を押し上げると信じる研究者がある一方で、有意な違いは見られないとも言われ、またそのような群生状態は、餌の過剰供給によって自発的に作られるともいう』。『社会的に、狐のコミュニケーションは身体言語とさまざまな発声によってなされる。「キャンキャンキャン」と』三『回鳴く呼び声から、人間の叫び声を想起させる悲鳴に至るまで、その鳴き声は非常に多様で変化に富む。においによっても連絡をとり合い、縄張りの境界は糞と尿で付けられる。求愛行動は、二匹の鳴き交わし、急ターンを伴う追いかけっこ、互いに向き合い』、『後足で立ち上がるダンスで構成されている。まれにオスからメスへ小動物がプレゼントされることもある。個体同士の優劣は互いに口を開いて大きさを比べあうことで決定してしまい、直接攻撃することを極力』、『避ける。負けた方は「ヒー」と鳴いて腹をよじる格好で地に伏す。求愛を受けたメスが拒絶するときもこのパターンである。また』、『口の大きさを比べ合うような仕草は挨拶として兄弟同士でもしきりに行う』。『キツネの研究で学位を得た博物学者のデビッド・マクドナルド(David Macdonald)はキツネの鳴き声について、音域はおよそ』五『オクターブで、強弱を組み合わせて様々なバリエーションがあり、古い研究では』二十『の分類例があるが、大別すれば、コンタクト』・『コールとインストラクションに別れ、どちらにも属さないものがいくつかあると述べている。コンタクト』・『コールは個体同士の位置確認の鳴き声で、比較的位置が近い場合の「コンコンコン」「コッコッコッ」のような』三『音節の挨拶があり、遠くなるに従い「ウォウウォウウォウ」と』三『から』五『節の吼え声が相互に交わされるようになるという。また』別な『分析では』、『一匹ずつ声が異なっているのが確認されている。大人の個体が幼い個体に向かって「フーフー」と挨拶すると、子ギツネは尾を振って耳を寝かせ』、『口を引く仕草をする。一方』、『インストラクションは、二匹が接近しているときの鳴き声で、劣位が発する高い「クンクン」という声、優位が発する低く太い「コッコッコッ」という声(ゲカーリング』(gekkering)『)があり、ゲカーリングは子ギツネが食事中に、接近しすぎた兄弟に向かって発せられたり、連れ合いのメスに別のオスが近づいた時、オスが発して牽制するときに発せられたりする。どちらにも属さないものの代表として、けたたましい単音節の「ウァー」「ギャー」がある。この声は主にメスの声とされ、まれにオスも発し、他の個体は見ているだけで、返事はしない。その意味については繁殖期に頻繁に発せられるため、オス達を召集する意味ではないかという説がある』。『キツネは食べきれないネズミを埋める習性があるが、飼いならされた複数の個体を使った実験により、翌日』、九〇%『の確率で掘り出すことに成功したことが確認されている。埋めたキツネと別の個体が最初のキツネが埋めた発見する割合は』二五%『程度に低下し、同じ個体でも、埋めた穴の』二~三『メートル横に別のネズミを埋めると発見率が』二五%『に低下することから、嗅覚ではなく、キツネは埋めた獲物の穴をかなり正確に記憶しているといわれている。また』、ある雌個体の観察では『穴の場所を記憶するだけでなく、中の獲物の種類まで記憶する能力があ』ったともされる。『繁殖期はその広大な生息域によって異なり、南方では』十二~一月、中緯度では一~二月、北方では二~四月と『なる。雌は日ごとの発情周期を』一~六『日間続け、排卵は自動的になされる。交接はやかましく、時間は通常』五分から二十分、三十分『以上かかる場合もある。雌は複数の雄を交尾の候補とするが(権利を得るために互いに戦い)、最終的に一匹の雄に決定する』。『雄は雌が出産する前後、餌を与える一方で、雌は仔狐と共に育児室』『で待つ。一腹の仔の平均数は』五『匹だが、多い時には』十三『匹に及ぶ。新生仔は目が見えず、体重は約』百五十グラムで、『生後』二『週間で目が開き』、五『週間で巣穴の外へ出てきて』、十『週間で完全に乳離れする』。『同年の秋に仔狐は独り立ちして、自らの縄張りを必要とする。性成熟までの期間は』十『ヶ月。寿命は飼育下で』十二『年だが、野生ではたいてい』三『年程度である』とある。次にウィキの「キツネ」の一部を引く。まず、「日本人とキツネの関係」の項。『キツネを精霊・妖怪とみなす民族はいくつかあるが、特に日本(大和民族)においては文化・信仰と言えるほど』、『キツネに対して親密である。キツネは人を化かすいたずら好きの動物と考えられたり、それとは逆に』、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ:名前の「うか」は「穀物・食物」の意で穀物神。また「うか」は「うけ」(食物)の古形で、特に「稲霊(いなだま)」を表わし、「御」は「神秘」「神聖」の意、「魂」は「霊」であって全体として「稲に宿る神秘な霊」と考えられている。「古事記」では素戔嗚命が櫛名田比売の次に娶った神大市比売(かむおおいちひめ)との間に生まれたとする)『の神使として信仰されたりしている。アイヌの間でもチロンヌプ(キタキツネ)は人間に災難などの予兆を伝える神獣、あるいは人間に化けて悪戯をする者とされていた。キツネが化けた人間にサッチポロ(乾しイクラ)を食べさせれば、歯に粘り付いたイクラの粒を取ろうと口に手を入れているうちに正体を表すという。日本における鳴き声の聞きなしについては、古来は「キツ」「ケツ」と表現されており、近代からは「コン」「コンコン」が専ら用いられている。「コン」「コンコン」については』、『親が子を呼ぶ時の鳴き声に由来していると報告されている』。『また、キツネは特に油揚げを好むという伝承にちなみ、稲荷神を祭る神社では、油揚げや稲荷寿司などが供え物とされることがある。ここから、嘗ての江戸表を中心とした東国一般においての「きつねうどん」「きつねそば」などの「きつね」という言葉は、その食品に油揚げが入っていることを示す』『(畿内を中心とした西国では蕎麦に関してはたぬきと呼ばれる場合がある)』。狐の「語源」の項。『諸説あるが』、「大言海」では、『古来のなき声の表す「ケツケツ」「キツキツ」と神道系の敬称を表す「ネ」が結びついたと説明している』。「万葉集」巻第十六の、長忌寸意吉麿(ながのいみきおきまろ)の一首(三八二四番)に、

 さし鍋(なべ)に湯沸かせ子ども櫟津(いちひつ)の檜橋(ひばし)より來む狐(きつね)に浴(あ)むせむ

以上の引用はリンク先の表記に疑問があるので、所持する「万葉集」で独自に電子化した。「さし鍋(なべ)」柄のついた鍋。「櫟(いちひ)」現在の大和郡山市の東方、天理市櫟本(いちのもと)の西方の古地名。「津」とあるからには渡し場(佐保川の旧流域か)があったのであろう。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。「ひつ」は「櫃」に掛けており、「橋」は「箸」を掛けている。「來む」の「こむ」には狐の鳴き声「こん」を掛ける。この一首は、後書きがあり、宴会の席上、狐の声がし、皆が、狐・宴席にあった物品・土地の景物を読み込んで歌を作れ、と請われて作者が作歌した旨の記載がある

『という、鍋とキツネを詠んだ即興歌が残っており、日本では古代より「キツ」と呼んでいたことを示す資料が残っている』。『仏教系の説では』「日本霊異記」や、『その話を転記した』「今昔物語集」では「來つ寢」という』『語呂合わせが語源と説明している。平安時代に編纂された日本最古の辞書である』「和名類聚抄」には(後で原文を引く)「狐」「『韻は(コ)日本の読み(きつね)中国の伝説では』百『歳になると女に化ける妖怪に変化する。」という説明があり、平安時代には、既にきつねと発音していたことが分かる』。『日本の狩猟時代の考古学的資料によると、キツネの犬歯に穴を開けて首にかけた、約』五千五百『年前の装飾品』や、『キツネの下顎骨に穴を開け、彩色された護符のような、縄文前期の(網走市大洞穴遺跡)ペンダント』『が発掘されている。しかし、福井県などでは、キツネの生息域でありながら、貝塚の中に様々な獣骨が見つかる中』、『キツネだけが全く出てこない』ともされる。『日本人がキツネを稲と関連させた起源は、文化人類学的推察にもとづく農耕民族の必然だったとする必然起因説と、歴史学的手法に基づいて推察して、神の名に「狐」を宛てたことによるとする、誤解起因説の』二『通りがあって特定はされておらず、その後大陸より渡来した秦氏の勢力によって、キツネは稲荷神の眷属に収まったという流れになっている』。『稲作には、穀物を食するネズミや、田の土手に穴を開けて水を抜くハタネズミが与える被害がつきまとう。稲作が始まってから江戸時代までの間に、日本人はキツネがネズミの天敵であることに注目し、キツネの尿のついた石にネズミに対する忌避効果がある事に気づき、田の付近に祠を設置して、油揚げ等で餌付けすることで、忌避効果を持続させる摂理があることを経験から学んで、信仰と共にキツネを大切にする文化を獲得した』。『日本古来の世界観は山はそれ自体が山神であって、山神から派生する古木も石も獣(キツネ)もまた神であるという思想が基としてあると言われている』。『民間伝承の狐神信仰の発生がいつ始まったかの特定は難しいとした上で、発生の順番から考えて、土地が開墾される以前にキツネが生息しており、畏敬された狐神と稲荷の結合は、田の神信仰と稲荷の結合に先立つであろうと言われている』。『一方、稲荷神社の神は、宇迦之御霊神、別名、御食神(みけつがみ)であって、三狐神と書き誤って、日本中に誤解が定着したという説も、根強く有力な説である』。『正史に狐の記事が記載されたのは』、「日本書紀」の斉明天皇三(六五七)年に『石見に現れた白狐の記事であり』、『伝記に狐が記載されたのは』「日本霊異記」欽明天皇の時代(五四〇年~五七一年)『とされている』。『キツネが騙す、化ける妖怪の一種であるという概念は、仏教と共に伝来』(五五二年辺り)『したもので、中国の九尾狐の伝説に影響されたものである』。『以下は日本の文化におけるキツネの歴史の大まかな流れである』。『弥生時代、日本に本格的な稲作がもたらされるにつれネズミが繁殖し、同時にそれを捕食してくれるキツネやオオカミが豊作をもたらす益獣となった』。『柳田國男は、稲の生育周期とキツネの出没周期の合致から、キツネを神聖視したという民間信仰が独自に芽生えたと言う説を述べている。必然起因説はその発展系と見られる』。『御饌津神(みけつ)が誤って三狐神と書かれたという説が定説である。しかし秦氏が土着民への懐柔策として使用させたとの説もある。大和時代に入り』、『朝廷が勢力を拡大する中、抵抗する土着の神を持つ民を排除し、狐と呼んで蔑視していた』。『土着の農民は、独自の「山の神―田の神」を信仰しており、狐をその先触れとする文化があったものの』、欽明天皇期に『伊勢と交易を行い、後に国庫の管理者となる程の秦氏の経済的な勢力に押され、元は「田の神―山の神」の祠であった場所が秦氏の神社になった事に、農民たちは旧来の神を祭りながらも抗えなかったであろうと言われている』。『秦氏の稲荷の眷属の狐は「命婦(みょうぶ)」と呼ばれ、命婦の位を持っているが、最初からそのような位を持っていた訳ではないということは、伏見稲荷の縁起によって示されている』。『こうして土着の神は豊穣をもたらす荒神的な性格から「宇迦之御魂大神」の「稲荷」として認識され、シンボルである狐自体は眷属に納まったと考えられる』。『鍛冶屋に信仰される金屋子神』(かなやこかみ)『は、白い狐に乗って現れるとの伝説が有る』。『天照皇大御神は豊葦原瑞穂国(日本国)を豊穣の地にせよと豊受明神に命じたため、豊受明神は多くの狐たちに命じ、稲の種を各地に蒔かせたと言われている』。『平安時代、空海により中国から本格的に密教がもたらされ、キツネは仏典に登場する野干(やかん)の名でも呼ばれるようになる。後には白狐に乗ったダキニ天と、狐を眷属とした稲荷が同一視されることとなる。説話の中で多い、人に化ける悪いキツネが僧によって降参する(仏の勝利)という図式は、ダキニ天の生い立ちそのものである。このころから狐に悪狐が登場し、ある種の精神病を狐の仕業とし、法力で治せるものと宣伝された。また密教では狐霊が使われ呪術が行われた。このようにしてキツネが化ける妖怪(妖狐)であるというイメージが民衆に定着した』。『このような状態はかなり後世まで続いたが、キツネは大衆に憎まれる存在とはならなかった。江戸時代に入り』、『商業が発達するにつれて、稲荷神は豊作と商売繁盛の神としてもてはやされるようになり、民間信仰の対象として伏見のキツネの土偶を神棚に祭る風習が産まれた』。『明治政府が不敬としてキツネの土偶の製造を禁じると、細々と生産されていたネコの土偶が大流行し』、『定番商品(招き猫)となった。狐霊に白黒赤金銀があるように招き猫にも白黒赤金が存在するのは』、『そのためである』。『社の裏手にキツネの巣穴があるような稲荷は多く見られることから、キツネの巣穴を供養する風習が江戸時代から昭和にかけて全国各地に広がっていたことが判る。キツネの巣穴に食べ物を供える習慣は穴施行、寒施行となって現在も残っている。またそのような由来を持つ狐塚(田の神の祭場)も数多くある。安倍晴明で有名な葛葉稲荷神社の裏手には石組みの行場が残っている』。『明治時代に入り、廃仏毀釈の運動が起こり、稲荷神社は少数の仏教系と、多数の神道系に分かれた』。『キツネ(狐)が霊獣として伝えられる歴史は非常に古く』、「日本霊異記」には『すでにキツネの話が記されている。美濃大野郡の男が広野で』一『人の美女に出会い、結ばれて子をなすが、女はキツネの化けた姿で、犬に正体を悟られて野に帰ってしまう。しかし男はキツネに、「なんじ我を忘れたか、子までなせし仲ではないか、来つ寝(来て寝よ)」と言った。なお、これを元本に発展させた』「今昔物語集」にも『この話は収録され、キツネの語源としている。キツネは、人間との婚姻譚において語られることが多く、後、「葛の葉」や「信太妻(しのだづま)」伝承を経て、古浄瑠璃「信田妻(しのだづま)」において、『異類婚姻によって生まれた子の超越的能力というモティーフが、稀代の陰陽師』『安倍晴明の出生となって完成される』のである。『「狐」は、蜘蛛、蛇などと同じく』、『大和朝廷側から見た被差別民であったという見方もある。彼らは、大和朝廷が勢力を伸ばす段階で先住の地を追われた人々であり、人ではない者として動物の名称で呼ばれたという見方である。彼らが、害をもたらす存在として扱われる場合、それは朝廷側の、自分たちが追い出した異民族が復讐してくるのではという恐怖心の現れであると考えられる。また、動物が不思議な能力(特殊能力)を持つというのは、異民族が持つ特殊な技術を暗に意味している場合がある。この考え方に沿えば、異類婚姻は、それらの人々との婚姻を意味することになる。つまり』、『女が身元を偽って(化けて)婚姻したものの里が暴かれ、子の将来を案じて消えてしまった物語と解される』。『キツネの子が神秘的能力をもつというのは、稲荷の神の使いとして親しまれてきたキツネが、元来は農耕神として信仰され、豊穣や富のシンボルであったことに由来するものである。狐婚姻の類話には、正体を知られて別れたキツネの女が、農繁期に帰ってきて田仕事で夫を助けると、稲がよく実るようになったという話がある。また江戸の王子では、大晦日の夜、関八州のキツネが集い、無数の狐火が飛んだというが、里人はその動きで豊作の吉凶を占ったと伝えられており、落語「王子の狐」のモチーフとなっている』。『人間を助ける役割を果たすキツネの側面は、かつてキツネが、農耕神信仰において重要な役割を果たしていたことの名残りであるといえ、江戸大窪百人町など、郊外にある野原に出没する特定のキツネは名前をつけて呼ばれ、人間を化かすが、災害や変事を報らせることもあった』。『岐阜県の老狐「ヤジロウギツネ」は、僧に化けて、高潔な人物の人柄を賞揚したという。群馬県の「コウアンギツネ」もこの類で、 白頭の翁となり、自ら』百二十八『歳と述べ、常に仏説で人を教諭し、吉凶禍福や将来を予言した。千葉県飯高壇林の境内に住みついた「デンパチギツネ」も、若者に化けて勉学に勤しんでいる。その他、静岡県の「オタケギツネ」は、大勢の人々に出す膳が足りない場合にお願いに行くと、膳をそろえてくれるといわれていた』(これは椀貸伝承の一変形である)。『岩手県九戸のアラズマイ平に棲む白狐は、村の子どもと仲がよく、一緒に遊んでいたという。また、鳥取県の御城山に祭られている「キョウゾウボウギツネ」は、城に仕え、江戸との間を』二、三『日で往復したと伝えられている』。宝暦三(一七五三)年八月、『江戸の八丁堀本多家に、日暮れから諸道具を運び込み、九ツ前、提灯数十ばかりに前後数十人の守護を連れた鋲打ちの女乗物が、本多家の門をくぐった』五、六千石の『婚礼の体であったが、本多家の人は誰も知らなかったという。このような「キツネノヨメイリ」には必ずにわか雨が降るとされるが、やはりこれも降雨を司る農業神の性質であろう』。『しかし、農耕信仰がすたれるにつれ、キツネが狡猾者として登場することも多くなり』、「今昔物語集」でも「高陽川の狐、女と変じて馬の尻に乗りし語」では、夕に若い女に化けたキツネが、馬に乗った人に声をかけて乗せてもらうが』、四、五『町ばかり行ったところでキツネになって「こうこう」と鳴いたとある』(これは「今昔物語集」の「巻第二十七」の「高陽川狐變女乘馬尻語第四十一」(「高陽川(こうやがは)の狐、女に變じて馬の尻ぶ乘りたる語(こと)第四十一)。「やたがらすナビ」のこちらでカタカナをひらがなに直した原文が読める)。「行脚怪談袋」には、『僧が団子を喰おうとするキツネを杖で打ったら、翌日そのキツネが大名行列に化けて仕返しをしたという話がある』(私は既に「行脚怪談袋 五の卷 嵐雪上州館橋に至る事 僧狐に化さるゝ事」で電子化注している)。『ほかにも』「太平百物語」に、『京都伏見の穀物問屋へ女がやって来て、桶を預けていった。ところがその桶の中から、大坂真田山のキツネと名乗る大入道が現われて、この家の者が日ごろ自分の住まいに小便をして汚すと苦情を述べた。そこで主人は入道に詫びて』、三『日間』、『赤飯と油ものをキツネのすみかの穴に供えて許しを乞うたという』(近日、「太平百物語」の電子化をブログ・カテゴリ「怪奇談集」で開始するので暫し待たれよ)。『キツネは女に化けることが多いとされるが、これはキツネが陰陽五行思想において土行、特に八卦では「艮」』(うしとら)『に割り当てられることから』、『陰気の獣であるとされ、後世になって「狐は女に化けて陽の存在である男に近づくものである」という認識が定着してしまったためと考えられる。関西・中国地方で有名なのは「おさん狐」である。このキツネは美女に化けて男女の仲を裂きにくる妖怪で、嫉妬深く』、『男が手を焼くという話が多数残っている。キツネが化けた女はよく見ると、闇夜でも着物の柄がはっきり見えるといわれていた。女の他、男はもちろん、月や日、妖怪、石、木、電柱、灯籠、馬やネコ、家屋、汽車に化けるほか、雨(狐の嫁入り)や雪のような自然現象を起こす等、実にバリエーションに富んでいる』。『霊狐には階級があるとされ、住む場所、妖力によって「地狐」、「天狐」、「空狐」などに分類される。長崎県五島列島でいう「テンコー(天狐)」は、 憑いた者に神通力を与えるが、これに反して「ジコー(地狐)」の方はたわいのないものといわれる』。『妖怪の狐は九尾の狐など尾が分かれていることを特徴とすることがある。九尾の狐は』「山海経」では『「その状は、狐の如くで九つの尾、その声は嬰児の様、よく人を喰う。食った者は邪気に襲われぬ」という。日本ではその正体が九尾の狐とされる玉藻前(たまものまえ)の物語が有名である』。『狐信仰の変種であり、日本独自の現象として、「狐憑き(きつねつき)」が存在する。狸、蛇、犬神憑きなどに比べ』、『シェアが広く、全国的(沖縄等を除く)に見られ、かつ根強い。狐憑きは、精神薄弱者や暗示にかかりやすい女性たちの間に多く見られる発作性』・『ヒステリー性精神病と説明され、実際に自らキツネとなって、さまざまなことを口走ったり、動作をしたりするという話が、平安時代ごろから文献に述べられている。行者や神職などが、「松葉いぶし」や、キツネの恐れる犬に全身をなめさせるといった方法で、キツネを落とす呪術を行っていた』。『狐憑きで有名なものは、長篠を中心に語り伝えられる「おとら狐」で、「長篠のおとら狐」とか「長篠の御城狐」などと呼ばれていた。おとら狐は、病人や、時には健康な人にも憑くことがあって、憑いた人の口を借りて』「長篠の戦い」の『物語を語る。櫓』『に上がって合戦を見物しているときに、流れ弾に当たって左目を失明し、その後』、『左足を狙撃されたため、おとら狐にとり憑かれた人は、左の目から目やにを出して、左足の痛みを訴えるという』。『狐憑きの一種に「狐持ち」という現象があり、狐持ちの家系の者はキツネの霊を駆使して人を呪うという迷信があった。「飯綱(いづな、イイズナ)使い」と呼ぶ地方もあり、管狐(くだぎつね)や、オサキ、人狐(ニンコ)を操ると信じられていた。これらの狐霊は、人に憑いて憎む相手を病気にしたり、呪いをかけたりすることができると信じられてきた。狐持ちの家系の者はこの迷信のため差別され、自由な結婚も認められなかった。現在でもなお、忌み嫌われている地方がある』。『キツネにまつわる俗信には、日暮れに新しい草履(ぞうり)をはくとキツネに化かされるというものがあり、かなり広い地域で信じられていた。下駄はもちろん靴でも、新しい履き物は必ず朝におろさなければならないとされ、夕方、新品を履かねばならないときは、裏底に灰か墨を塗らねばならないといわれている』。『キツネに化かされないためには、眉に唾をつけるとよいというが、これは、キツネに化かされるのは眉毛の数を読まれるからだと信じられていたためである。真偽の疑わしいものを「眉唾物(まゆつばもの)」というゆえんである』。『また、得体の知れない燐光を「狐火」と呼び、「狐に化かされた」として、説明のつかない不思議な現象一般をキツネの仕業とすることも多かった。 しかし、化けるにしろ報復譚にしろ、キツネの話はどこかユーモラスで、悪なる存在というよりは、むしろトリックスター的な性格が強い』とある。

「射干(やかん)」「野干は別獸なり」ウィキの「野干」を引く。『野干(やかん)とは漢仏典に登場する野獣(正確には』「干」は「犭」に「干」で「犴」。この字体を正確に知らない当時の人たちにより、「野干」の『表記も多く存在するので間違いではない)。射干(じゃかん、しゃかん、やかん)豻(がん、かん)、野犴(やかん:犴は野生の犬のような類の動物、キツネやジャッカルなども宛てられる)とも。狡猾な獣として描かれる。中国では狐に似た正体不明の獣とされるが、日本では狐の異名として用いられることが多い』。『唐の』「本草拾遺」に『よると、「仏経に野干あり。これは悪獣にして、青黄色で狗(いぬ)に似て、人を食らい、よく木に登る。」といわれ、宋の』「翻訳名義集」では、『「狐に似て、より形は小さく、群行・夜鳴すること狼の如し。」とされる』。「正字通」には『「豻、胡犬なり。狐に似て黒く、よく虎豹を食らい、猟人これを恐れる。」とある』。『元は梵語の「シュリガーラ」』『を語源とし、インド仏典を漢訳する際に「野干」と音訳されたものである。他に』「悉伽羅」「射干」「夜干」とも『音訳された。この動物は元々インドにおいてジャッカル(この名称も元は梵語に由来する)』(「野干」の正体は食肉目イヌ科イヌ亜科イヌ属に属するジャッカル類である。ジャッカルはキンイロジャッカル Canis aureus(南アジア・中央アジア・西アジア・東南ヨーロッパ・北アフリカ・東アフリカに棲息)・セグロジャッカル Canis mesomelas(南部アフリカ)・ヨコスジジャッカル Canis adustus(中部アフリカ)・アビシニアジャッカル Canis simensis(エチオピアに棲息。アビシニアオオカミなどとも呼び、ジャッカルに含めないこともある)がいる)『を指していたが、中国にはそれが生息していなかったため、狐や貂(てん)、豺(ドール)』(一属一種の食肉目イヌ科ドール属ドール Cuon alpinus。別名をアカオオカミ(赤狼)とも呼ぶ)『との混同がみられ、日本においては主に狐そのものを指すようになる』。『インドでジャッカルは尸林』(しりん:遺体を火葬したり、遺棄した林。放置されたり、焼け残った遺体は鳥獣の餌となった)『を徘徊して供物を盗んだり、屍肉を喰う不吉な獣として知られていたため、カーリーやチャームンダー(ドゥルガー分身の七母神の』一『人)など、尸林に居住する女神の象徴となった。また、インド仏教においても野干は閻魔七母天の眷属とされた』。明治四三(一九一〇)年、『南方熊楠が、漢訳仏典の野干は梵語「スルガーラ」(英語』Jackal『「ジャッカル」・アラビア語「シャガール」)の音写である旨を、『東京人類学雑誌』に発表し』ている。『日本では当初、主に仏教や陰陽道など知識階級の間で狐の異名として使われた。平安初期の』「日本霊異記』」の上巻第二「狐爲妻令生子緣」『には、狐が人間の女に化けて男の妻となり、子供もできたが、正体がばれたときに男から「来つ寝よ」(きつねよ)と言われ「キツネ」という名が出来たとする説話が収録されているが、そこでも狐のことを文中で「野干」と記す例が確認出来る』。「拾芥抄」には『「野干鳴吉凶」』『として狐の鳴き声によって吉凶を占うことがらについても記されている』「吾妻鏡」には、『野干(狐)によって名刀の行方が知れなくなったこと』(建仁元(一二〇一)年五月十四日の条)『が書かれていたりするほか、江戸時代以後には一般的にも書籍などを通じて「狐の異名」として野干という語は使用されて来た。その他、各地の民話でも狐の別名として野干が登場する』。「大和本草」などの『本草学の書物などでは』、『漢籍の説を引いて、「形小さく、尾は大なり。よく木に登る。狐は形』、『大なり。」と、狐と野干は大きさが違う』、『とされているので』、『別の生物であるという説を載せている』。『また、日本の密教においては、閻魔天の眷属の女鬼・荼枳尼(だきに)が野干の化身であると解釈され』、『平安時代以後、野干=狐にまたがる姿の荼枳尼天となる。この日本独特の荼枳尼天の解釈はやがて豊饒や福徳をもたらすという利益の面や狐(野干)に乗っているという点から稲荷神と習合したり、天狗信仰と結び付いて飯綱権現や秋葉権現、狗賓などが誕生した』。『能では狐の精をあらわした能面を「野干」と呼んでおり』、「殺生石」「小鍛冶」など、『狐が登場する曲で使用されている』。「殺生石」に『登場する狐の役名も「野干の精」などと表記され』ている、とある。

『「和名抄」に、『狐は木豆禰、射干なり。關中に呼ぶに、野干と爲すは語の訛りなり』〔と〕』。「和名類聚鈔」の「巻十八」の「毛群部第二十九 毛群名第二百三十四」に、

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狐 考聲「切韻」云、『狐【音「胡」。和名「木豆禰」。】獣名、射干也。關中呼爲「野干」語、訛也』。孫愐「切韻」云、『狐能爲妖恠、至百歳化爲女也。』。

(狐 考聲「切韻」に云はく、『狐【音「胡(コ)」。「岐豆禰(きつね)」。】は獸の名にして射干(しやかん)なり。關中には呼びて「野干(やかん)」と爲すは、語の訛りなり。』と。孫愐「切韻」に云はく、『狐は能(よ)く妖怪と爲り、百歳に至りて化けて女と爲る者なりと。)

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とある。「關中」は漢文の項羽と劉邦でお馴染みの、函谷関の西側の地域、現在の陝西省渭水盆地の西安(旧長安)を中心とした一帯の呼称。春秋戦国時代の秦の領地であり、その後の前漢や唐もこの地に首都を置いたので、都や首都圏の意ともなった。

「〔住みし〕丘を首〔(かうべ)〕にす」狐死に際しては、自身が住み馴れた丘に敬意をこめて、首を向けて死ぬ。東洋文庫注に、『死に際してもうろたえず、節度を失わない態度をほめたもの』で、出典は「礼記」とする。同書の「檀弓(だんぐう)上」の以下である。

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大公封於營丘、比及五世、皆反葬於周。君子曰、「樂樂其所自生、禮不忘其本。古之人有言曰、『狐死正丘首。仁也』。」。

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「善く氷〔(こほり)〕を聽く」目には見えない、氷の下の状態(厚く張ったり、表面だけでその下には氷が未だ張っていないこと、さらには後に記すように、春になって氷が融け始めることも事前に極めて敏感に認知することが出来ることを指す。

「北斗」中国では北斗星は天帝の乗り物と見立てたり、北斗七星を司る「北斗星君」(「死」(寿命)を司る冥界の王)という神がいるなどと考えた。

「黍〔(きび)〕」単子葉植物綱イネ目イネ科キビ属キビ Panicum miliaceum

「麥門冬〔(ばくもんとう)〕」単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科スズラン亜科 Ophiopogonae 連ジャノヒゲ属ジャノヒゲ Ophiopogon japonicus の根の生薬名。現行ではこれで「バクモンドウ」と濁る。鎮咳・強壮などに用いる。

「爲顯」「夫木」「花を見る道のほとりの古狐かりの色にや人惑ふらん」藤原為顕(生没年未詳)は藤原定家の三男為家の子。二条為氏・京極為教の弟、冷泉為相の兄に当たる。従五位上・侍従。歌学書「竹園抄」の原著者で、作歌は「続拾遺和歌集」などに入る。永仁三(一二九五)年までの事績が確認されている。

「四國【伊豫・土佐・阿波・讃岐。】には之れ無きのみ」現在では、個体数は少なく、ある程度まで限定された一帯にではあるが(学術的調査では高知県と愛媛県の境に集中するとされる。但し、香川県で捕獲したという本人の記事(いちろー氏ブログ「いちろーのブログ~とりあえずその日のこと~」の「キツネ捕まえたよ! 香川県にもキツネがいたよ!」。捕獲したキツネの画像も有る。しかも香川県の環境森林部みどり保全課野生生物グループの担当者の話では県内での捕獲報告は時々あるとある)も発見した)、四国にキツネ(=ホンドギツネ)は棲息している

「陳眉公」明末の書家・画家として知られる陳継儒(一五五八年~一六三九年)の号。同じ書画家董其昌(とうきしょう)の親友としても知られる。

「秘笈〔(ひきふ)〕」陳継儒が、収集した秘蔵書を校訂・刊行した叢書「宝顔堂秘笈」のことか。

「油熬(あぶらあげ)の物」単品の「油揚げ」ではなく、油で揚げた物一般である。

「樒(しきみ)」アウストロバイレヤ目 Austrobaileyalesマツブサ科シキミ属シキミ Illicium anisatumウィキの「シキミ」によれば、シキミは『俗にハナノキ・ハナシバ・コウシバ・仏前草と』も言い、『空海が青蓮華の代用として密教の修法に使った。青蓮花は天竺の無熱池にあるとされ、その花に似ているので仏前の供養用に使われた』とある。なお、仏前供養でお馴染みな割には、あまり知られていないと思うので引用しておくと、シキミは『花や葉、実、さらに根から茎にいたるまでの全てが毒成分を含む。特に、種子に』猛毒の神経毒であるアニサチン(anisatin)『などの有毒物質を含み、特に果実に多く、食用すると』、『死亡する可能性がある程度に有毒である』。『実際』に『事故が多いため、シキミの実は植物としては唯一、毒物及び劇物取締法により劇物に指定』『されている』ことは知っておいてよい。

「花山家」花山院家。藤原北家師実流嫡流。京極摂政藤原師実の次男家忠を家祖とし、家名は家忠が舅から花山院第(東一条殿)を伝領したことに拠る。

「能勢〔(のせ)〕家」摂津国の北摂地方の封建領主で清和源氏頼光流を称した能勢氏か。

『「三才圖會」に云はく……』図はここの左側、解説は次のコマの右側(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。

『其の名を「紫〔(し)〕」と曰ふ』妖狐の別名に「阿紫」がある。「紫」は神仙の色であり、この「阿紫」のあどは明らかに女の名っぽいから、違和感はない。

「近衞の帝」近衛天皇(在位:永治元(一一四二)年~久寿二(一一五五)年)。但し、以下のリンク先で判る通り、伝説の「玉藻の前」は同時代の鳥羽上皇(康和五(一一〇三)年~保元元(一一五六)年)の寵姫であったとされる。まあ、どうでもいいか。

「玉藻」妖狐のチャンピオン、中国から飛んで来た九尾狐。ウィキの「玉藻前」(たまものまえ)を読まれたい。

「安倍の泰成」鳥羽上皇附きの陰陽師。これも話によって安倍泰親とも安倍晴明ともなったりする。安倍晴明の五代の孫に当たる安倍泰親(天永元(一一一〇)年~寿永二(一一八三)年?)なら、まだいいが、ゴースト・バスターのチャンピオン安倍晴明(延喜二一(九二一)年~寛弘二(一〇〇五)年)では時代が全く合わぬ。

「義純【三浦介。】」三浦義明(寛治六(一〇九二)年~治承四(一一八〇)年)。平安末期の相模国三浦郡衣笠城の武将。三浦荘(現在の神奈川県横須賀市)の在庁官人で、桓武平氏の平良文を祖とする三浦氏の一族。後の鎌倉幕府の重臣となる三浦義村の祖父。

「廣常【上總介。】」上総広常(?~寿永二(一一八四)年)は房総平氏惣領家頭首で、源頼朝の挙兵に応じて平氏との戦いに臨んだ関東きっての名将。梶原景時の讒言により、頼朝の命で、景時が鎌倉の十二所(じゅうにそ)の広常の館を訪れ、碁をしている最中に謀殺した。これも玉藻の前の祟りかも知れんね。

「殺生石」] 栃木県那須郡那須町、那須岳の寄生火山御段山の東腹にある溶岩。嘗つて付近の硫気孔から有毒ガスが噴出して、そこに近づく蜂や蝶などの動物が多く死んだ。伝説によれば、鳥羽天皇の寵姫玉藻前に化けた金毛九尾の狐が、安倍泰成に正体を見破られ、三浦介義明に射止められて石と化したが、未だ恨みを以って生類の殺生を続けたが、後の至徳二(一三八五)年、玄翁和尚によって打ち砕かれ、成仏したとも伝える。ウィキの「殺生石」を参照されたい。

『「三才圖會」に云はく、『北山〔(ほくさん)〕に黒狐有り……』ここの右(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。

「四夷、來貢す」中国の四方の境域外の異民族が、この黒狐を恭順の証しとして貢納した。

「周の成王」周の第二代の王で武王の子であった姫誦(ひじゅ)のこと。「成王」とは諡号ではなく、生前からの称号。在位は紀元前一〇四二年から紀元前一〇二一年。父の武王の後を継いで即位するも、僅か二年で崩御してしまった。ウィキの「成王(周)」によれば、『当時は』未だ『周の政治体制は安定しておらず、殷の帝辛(紂王)の子の武庚(禄父)や』、『成王の叔父(武王の弟。管叔鮮と蔡叔度)たちの謀反などが相次ぎ、国情は極めて不安定であった』。『成王誦は即位した時はまだ幼少であったので、実際の政務は母の邑姜、叔父の周公旦(魯の開祖)、太公望呂尚(斉の開祖)、召公奭(燕の開祖)らが後見した』。『成長すると、自ら政務を執』ったが、「史記」の「周本紀」に『よると、若くして崩御したと記されている』。『子の釗』(しゅう)『(康王)が後を継いだ。彼の代までが周の確立期であった(成康の治)』とある。

「元明天皇……」以下はる菅野真道らが延暦一六(七九七)年に完成させた「続(しょく)日本紀」の記載。

「玄中記」西晋(二六五年~三一六年)の郭璞(かくはく)の著わした博物誌であるが、散佚、部分が引用で残る。

「神巫〔(かんなぎ)〕」「いちこ」との呼び、「市子」「巫子」等とも書く。呪文を唱えて生き霊や死霊を呼び出し、自身に憑依させ、死後の様子や未来の事などを知らせることを職業とした女。「口寄せ」。また、広義の「巫女(みこ)」を言う。後世、神前で神楽を奏する舞い姫をも指した。

「五雜組」「五雜俎」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。

「齋」現在の山東省の一部に相当する。

「晉」現在の山西省の一部に相当する。

「燕」現在の河北省に相当する。

「趙」現在の山西省と河北省の一部に相当する。

「嶺南」中国南部の南嶺山脈よりも南の地方の広域総称。現在の広東省・広西チワン族自治区・海南省の全域と、湖南省・江西省の一部に相当する(部分的には「華南」と重なっている)。参照したウィキの「嶺南」地図(キャプションに『華南/嶺南の諸都市。なお』、『福建省(かつての閩)は、多くの場合』、『嶺南には含まれない』ともある)。

「蛇と共に處〔(す)め〕るがごときなり」蛇と日常的に居住空間を一(いつ)にし、特に蛇を意識せずに生活しているのと同じである。

「南方には、猴(さる)、多く魅〔(み)〕を爲す」南方では(狐よりも)猿の類いが多く人を化かし、その被害は猿よりも有意に甚大である、という謂いである。

「傷寒」漢方で体外の環境変化によって経絡が冒された状態を指す。特に発熱し、悪寒が激しく、しかも汗が出ない症状で、現在の悪性の流行性感冒、或いは、腸チフスの類いを指すようである。

「瘴瘧〔(しやうぎやく)〕」概ね、その土地特有の「瘴」気(しょうき:目に見えない悪しき邪気)によって、一日二日といったように、日を隔てて周期的間歇的に悪寒・戦慄と発熱を繰り返すような病状を指す。紀元前から中国で知られていた病気で、「湿瘧(しつぎゃく)」「痎瘧(がいぎゃく)」など、多くの病名が記載されている。他の病気(限定的な伝染性風土病など)も含まれていたとは思われるが、その主体はマラリアと考えられている。

「譫語〔(うはごと)〕に異なること有るのみ」頻りに譫言(うわごと)を言うという点だけが、通常の疾患とは異なるだけである、の意。だから、狐憑きはそれらと判別が難しい、というのである。]。

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