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2019/04/18

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(11) 「駒ケ嶽」(1)

 

《原文》

駒ケ嶽 又白馬ノミヲ神ト祀リタル社アリ。【駒形神】例ヘバ武藏北足立郡尾間木(ヲマキ)村大字中尾ノ駒形神社ハ、神體ハ三軀ノ白駒ニシテ長各六寸バカリ、本地ハ正觀音ニオハシマス〔新編武藏風土記稿〕。【黑駒】羽後秋田郡山崎ト云フ處ノ白旗明神ニハ、末社ニ白駒ノ神ト黑駒ノ神トアリテ、牛馬ノ病ニ禱リテ驗アリ〔風俗問狀答〕。磐城相馬中村ノ太田神社ハ土地ノ人ハ妙見樣ト云フ。有名ナル野馬追(ノマオヒ)ノ祭ヲ行フ社ナルガ、其社ノ神モ毛色ハ不明ナレドモ一ノ龍馬ナリ。【龍馬ト星ノ神】昔平將門逆心ノ時、一夜客星落チテ化シテ龍馬トナル。之ヲ妙見菩薩ト尊崇シテ土地ノ鎭守ト爲スト傳フ〔行脚隨筆上〕。【石馬】越前大野郡ノ穴馬谷(アナマダニ)ニテハ、岩穴ノ遙カ奧ニ石馬ヲ祀リテアリ。乃チ穴馬ト云フ村ノ名ノ起原ナルガ、此石馬ハ人作ノ物ニ非ザルガ如シ。上下穴馬村ハ以前ノ郡上(クジヤウ)領ニシテ、九頭龍川ノ源頭十里ニ亙リタル山村ナリ。ヨクヨクノ旱年ニハ此洞ノ奧ニ入込ミ、鞭ヲ以テ石ノ馬ヲ打ツトキハ必ズ雨降ル。但シ其鞭ヲ執リタル者ハ遲クモ三年ノ内ニ死スルガ故ニ、八十九十ノ老翁ヲ賴ミテ其役ヲ勤メサセタリト云フ〔笈挨隨筆八、有斐齋劄記〕。陸中腹膽澤郡金ケ崎村大字西根ノ赤澤山ノ頂上ニハ、鐵ヲ以テ鑄タル二體ノ馬ノ像アリキ〔仙臺封内風土記〕。如何ナル信仰ニ基ケルモノナルカハ知ラズ、此山ニハ又天狗佛ト稱スル羽ノ生エタル佛像ヲモ安置シテアリキト云フコトナリ。

 

《訓読》

駒ケ嶽 又、白馬のみを神と祀りたる社あり。【駒形神】例へば、武藏北足立郡尾間木(をまき)村大字中尾の駒形神社は、神體は三軀(さんく)の白駒にして、長さ各六寸ばかり、本地は正觀音(しやうかんのん)におはします〔「新編武藏風土記稿」〕。【黑駒】羽後秋田郡山崎と云ふ處の白旗明神には、末社に白駒の神と黑駒の神とありて、牛馬の病ひに禱(いの)りて驗(げん)あり〔「風俗問狀答」〕。磐城相馬中村の太田神社は、土地の人は「妙見樣」と云ふ。有名なる「野馬追(のまおひ)の祭」を行ふ社なるが、其の社の神も、毛色は不明なれども一つの龍馬(りゆうめ)なり。【龍馬と星の神】昔、平將門逆心の時、一夜、客星(かくせい)[やぶちゃん注:流星。]落ちて、化して龍馬となる。之れを妙見菩薩と尊崇して、土地の鎭守と爲すと傳ふ〔「行脚隨筆」上〕。【石馬】越前大野郡の穴馬谷(あなまだに)にては、岩穴の遙か奧に石馬を祀りてあり。乃(すなは)ち、「穴馬」と云ふ村の名の起原なるが、此の石馬は人作(じさく)の物に非ざるがごとし。上・下穴馬村は以前の郡上(くじやう)領にして、九頭龍川の源頭、十里に亙りたる山村なり。よくよくの旱年(ひでりどし)には、此の洞の奧に入り込み、鞭を以つて、石の馬を打つときは、必ず、雨、降る。但し、其の鞭を執りたる者は、遲くも三年の内に死するが故に、八十、九十の老翁を賴みて、其の役を勤めさせたりと云ふ〔「笈挨隨筆」八、「有斐齋劄記(いうひさいさつき)」〕。陸中膽澤(いざわ)郡金ケ崎村大字西根の赤澤山の頂上には、鐵を以つて鑄たる二體の馬の像ありき〔「仙臺封内風土記」〕。如何なる信仰に基けるものなるかは知らず、此の山には又、「天狗佛」と稱する羽の生えたる佛像をも安置してありきと云ふことなり。

[やぶちゃん注:「龍馬(りゆうめ)」この熟語は本書ではここで初めて出現する。小学館「日本国語大辞典」の「りゅうめ(龍馬)」の項に、「メ」は「馬」の呉音、「バ」は漢音、「マ」は慣用音とし、『きわめてすぐれた駿足の馬。たつのうま。りゅうば。りょうめ。りょうば』とする。無論、ルビがないから(「ちくま文庫」もルビなし)、柳田國男がこれを現代仮名遣で「りゅうば」「りょうめ」「りょうば」或いは坂本竜馬よろしく「りょうま」(同辞書はこれも掲げて「見よ見出し」で「りょうめ」を指示している)と読んいなかったどうかは判らない。しかし、とならば、ここは天下の「日本国語大辞典」に従い、「りゆうめ(りゅうめ)」と読みを統一しておくのが無難と判断した。以後、特別な場合を除いて、一切振らないつもりであるが、ここでそれを特に注しておくことにした。なお、以上の注記は2019年6月8日に特に追加注したものである。

「武藏北足立郡尾間木(をまき)村大字中尾の駒形神社」現在の埼玉県さいたま市緑区中尾地区には、中尾神社とその北方に駒形権現神社須賀神社本殿があるが、孰れもここに言う駒形神社と関係を持ちながら(体のいい合祀)、その大元である本来の駒形神社があったのはこの孰れの地でもないように思われる。但し、この旧中尾地区内(現在の中尾はここ)に字駒形があり、そこにあったらしいことは幾つかの記載から判明した。しかし、調べる限りでは、この「神體」とする「三軀(さんく)の白駒にして、長さ各六寸ばかり」のそれは見当たらない。識者の御教授を乞うものである。【2019年4月20日追記】いつものT氏が情報がお寄せ下さった。それに従って追記する。「新編武藏風土記稿」の「足立郡巻九」の「中尾村 吉祥寺」の条に「吉祥寺天台宗川越仙波中院末寶珠山十林院と號す」とした後、こちら(国立国会図書館デジタルコレクションの画像。右ページ一行目。前記記載はこの前のコマ)に(カタカナをひらがなに代え、句読点を添えた)、

   *

駒形權現社【大門の入口にあり。神體は白駒にて、三軀あり。長三寸許、本地佛正觀音を安せり。】

   *

とある。さらに、個人ブログ「なお爺のひとり言」の「東浦和とその周辺 26 天台宗吉祥寺」の十枚目の写真の「駒形権現神社須賀神社本殿」の解説板(吉祥寺とさいたま市教育委員会署名)の冒頭に、

   *

 この神社本殿は、現在のプラザイーストの地にありましたが、明治時代以降、中尾神社への合祀(ごうし)や道路の改修により、二度の移転を経て、現在の地に至りました。権現神社の御神体(ごしんたい)は三頭の白馬像、須賀神社の御神体は神輿(みこし)といわれています。

   *

と書かれてあることから、埼玉県さいたま市緑区中尾の「プラザイースト」がある場所が柳田國男の言う「駒形神社」の旧地であることが判明した(現在の吉祥寺持の「駒形権現神社須賀神社本殿」のある位置から、国道四百六十三号を跨いだ、西南百四十三メートルほどの位置)。また、以上の解説版の書き方から、権現神社の神体である三頭の白馬像は現存しないか、残っていても非公開であると考えられる。

「羽後秋田郡山崎と云ふ處の白旗明神」。【2019年4月20日追記】同じくT氏が情報がお寄せ下さった。以下にメール本文を一部加工して示す。

   《引用開始》

「風俗問狀答」には、

   *

秋田六郡神佛之部

七月

一六日 白籏明神祭

秋田の郡山崎の里にあり、神職は三田氏、此日境内に角力の勝負あり、參詣多し。又、末社に白駒の神、黑駒の神有、牛馬の病を祈る、しるし有り。

   *

とあり、同じ文章が、「秋田叢書」第三巻の「六郡祭事記」の七月の条[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの当該部の画像。]にも書かれています。

場所は「秋田の郡山崎の里」としかないので手こずりましたが、ほぼ確定と思われる場所は、秋田市外旭川水口(みのくち)字山崎にある白幡(しらはた)神社[やぶちゃん注:ここ。グーグル・マップ・データ。]で、「秋田県神社庁」公式サイト内の同神社の記載に、例祭を八月十六日とし、境内神社として黒駒神社とあるのが決め手です(旧暦の祭を一ヶ月ずらしたものと考えられます)。リンク先には、白幡神社は『創立年代不詳』とし、長祿元(一四五七)年に『川尻館再興』、『天徳寺山に構築されていた白坂館(白坂右近太夫の居城)の守護神』とあり、明治六(一八七三)年七月に『村社になる』とあります。なお、この「字山崎」はウィキの「外旭川」を見ると、町村合併でも水口字山崎は残されていたことが判ります。

   《引用終了》

またT氏のお世話になった。心から御礼申し上げる。

[やぶちゃん注:「武藏北足立郡尾間木(をまき)村大字中尾の駒形神社」現在の埼玉県さいたま市緑区中尾地区には、中尾神社とその北方に駒形権現神社須賀神社本殿があるが、孰れもここに言う駒形神社と関係を持ちながら(体のいい合祀)、その大元である本来の駒形神社があったのはこの孰れの地でもないように思われる。但し、この旧中尾地区内(現在の中尾はここ)に字駒形があり、そこにあったらしいことは幾つかの記載から判明した。しかし、調べる限りでは、この「神體」とする「三軀(さんく)の白駒にして、長さ各六寸ばかり」のそれは見当たらない。識者の御教授を乞うものである。【2019年4月20日追記】いつものT氏が情報がお寄せ下さった。それに従って追記する。「新編武藏風土記稿」の「足立郡巻九」の「中尾村 吉祥寺」の条に「吉祥寺天台宗川越仙波中院末寶珠山十林院と號す」とした後、こちら(国立国会図書館デジタルコレクションの画像。右ページ一行目。前記記載はこの前のコマ)に(カタカナをひらがなに代え、句読点を添えた)、

   *

駒形權現社【大門の入口にあり。神體は白駒にて、三軀あり。長三寸許、本地佛正観音を安せり。】

   *

とある。さらに、個人ブログ「なお爺のひとり言」の「東浦和とその周辺 26 天台宗吉祥寺」の十枚目の写真の「駒形権現神社須賀神社本殿」の解説板(吉祥寺とさいたま市教育委員会署名)の冒頭に、

   *

 この神社本殿は、現在のプラザイーストの地にありましたが、明治時代以降、中尾神社への合祀(ごうし)や道路の改修により、二度の移転を経て、現在の地に至りました。権現神社の御神体(ごしんたい)は三頭の白馬像、須賀神社の御神体は神輿(みこし)といわれています。

   *

と書かれてあることから、埼玉県さいたま市緑区中尾の「プラザイースト」がある場所が柳田國男の言う「駒形神社」の旧地であることが判明した(現在の吉祥寺持の「駒形権現神社須賀神社本殿」のある位置から、国道四百六十三号を跨いだ、西南百四十三メートルほどの位置)。また、以上の解説版の書き方から、権現神社の神体である三頭の白馬像は現存しないか、残っていても非公開であると考えられる。

「羽後秋田郡山崎と云ふ處の白旗明神」。【2019年4月20日追記】同じくT氏が情報がお寄せ下さった。以下にメール本文を一部加工して示す。

   《引用開始》

「風俗問狀答」には、

   *

秋田六郡神佛之部

七月

一六日 白籏明神祭

秋田の郡山崎の里にあり、神職は三田氏、此日境内に角力の勝負あり、參詣多し。又、末社に白駒の神、黑駒の神有、牛馬の病を祈る、しるし有り。

   *

とあり、同じ文章が、「秋田叢書」第三巻の「六郡祭事記」の七月の条[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの当該部の画像。]にも書かれています。

場所は「秋田の郡山崎の里」としかないので手こずりましたが、ほぼ確定と思われる場所は、秋田市外旭川水口(みのくち)字山崎にある白幡(しらはた)神社[やぶちゃん注:ここ。グーグル・マップ・データ。]で、「秋田県神社庁」公式サイト内の同神社の記載に、例祭を八月十六日とし、境内神社として黒駒神社とあるのが決め手です(旧暦の祭を一ヶ月ずらしたものと考えられます)。リンク先には、白幡神社は『創立年代不詳』とし、長祿元(一四五七)年に『川尻館再興』、『天徳寺山に構築されていた白坂館(白坂右近太夫の居城)の守護神』とあり、明治六(一八七三)年七月に『村社になる』とあります。なお、この「字山崎」はウィキの「外旭川」を見ると、町村合併でも水口字山崎は残されていたことが判ります。

   《引用終了》

またT氏のお世話になった。心から御礼申し上げる。

「磐城相馬中村の太田神社」福島県南相馬市原町区(はらまちく)中太田字舘腰(たてこし)にある相馬太田神社

「野馬追(のまおひ)の祭」ウィキの「相馬野馬追」によれば、『相馬野馬追』『は、福島県相馬市中村地区を初めとする同県浜通り北部(旧相馬氏領。藩政下では中村藩)で行われる相馬中村神社、相馬太田神社、相馬小高神社の三つの妙見社の祭礼である』。『馬を追う野馬懸、南相馬市原町区に所在する雲雀ヶ原祭場地において行われる甲冑競馬と神旗争奪戦、街を騎馬武者が行進するお行列などの神事からな』り、『東北地方の夏祭りのさきがけと見なされ、東北六大祭りの』一『つとして紹介される場合もある』。『起源は、鎌倉開府前に、相馬氏の遠祖である平将門』『が、領内の下総国相馬郡小金原(現在の千葉県松戸市)に野生馬を放し、敵兵に見立てて軍事訓練をした事に始まると言われている』。『鎌倉幕府成立後はこういった軍事訓練』を『一切取り締ま』ったが、『この相馬野馬追はあくまで神事という名目でまかり通ったため、脈々と続けられた』。「戊辰戦争」で『中村藩が明治政府に敗北して廃藩置県により消滅すると』、明治五(一八七二)年に『旧中村藩内の野馬がすべて狩り獲られてしまい、野馬追も消滅した。しかし、原町の相馬太田神社が中心となって野馬追祭の再興を図り』、明治一一(一八七八)年には、『内務省の許可が得られて野馬追が復活した。祭りのハイライトの甲冑競馬および神旗争奪戦は、戊辰戦争後の祭事である』。『相馬氏は将門の伝統を継承し、捕えた馬を神への捧げ物として、相馬氏の守護神である「妙見大菩薩」に奉納した』。『これが現在「野馬懸」に継承されている。この祭の時に流れる民謡『相馬流れ山』は、中村相馬氏の祖である相馬重胤が住んでいた下総国葛飾郡流山郷』『(現在の千葉県流山市)に因んでいる』とある。

「越前大野郡の穴馬谷(あなまだに)」旧福井県大野郡和泉(いずみ)村、現在の福井県大野市朝日のこの附近。サイト「日本歴史地名大系ジャーナル」の「地名拾遺3」の「第10回 穴馬 【あなま】 轆轤師が定着し、落人伝説をはぐくんだ風土」が詳しいが、ここに出る「石馬」については触れられていない。岩窟や石の馬は最早、存在しないのだろうか?【2019年4月27日追記】何時も情報を頂くT氏が、それらしい岩窟として「白馬洞」を指摘して下さった。大野市内の「和泉自治会」公式サイト内の「白馬洞」のページに、『大野市箱ケ瀬にある、北陸では珍しい鍾乳洞』で、『穴馬伝説の発祥の地、穴馬村の地名のいわれの地である』。『洞穴は上下に長いのが特徴で、竜宮城へ通じているともいわれているが、実際には九頭竜湖につながってい』るとし、『その昔、洞窟の中から突然に白馬が飛び出し、九頭竜の流れに沿って真っ白なたてがみを、朝風になびかせながら雄々しい姿で走り、大野市勝原の馬返し隧道あたりから引き返し、飛騨を経て』、木曽の『駒ケ岳に消え去ったという伝説により、白馬洞、馬返し、穴馬の名称が生まれたと言われてい』るとある残念ながら、現在は崩落の危険があることから閉鎖されているとあるため、石馬が現存するかどうかは不明である)。同サイト内の地図で位置(「白馬洞跡」とある)が確認出来る。九頭竜湖の東北岸近くで、グーグル・マップ・データではこの中央位置附近である。なお、T氏によると、この白馬伝説の書かれた本の名などは見当たらないとのことであった。

『「笈挨隨筆」八』ちょっと判り難いので言っておくと、巻之八の「神泉苑」の雨乞の関連で文中に出る。そこでは、『美濃の郡上西に穴馬村という山に穴あり。深さ三里、中に馬有り』として以下の話が載る。

「陸中膽澤(いざわ)郡金ケ崎村大字西根の赤澤山」現在の岩手県胆沢郡金ケ崎町西根はここ。「赤澤山」というのは国土地理院図でも見当たらないが、一つ気になるのは、同地区の西の境界のごく直近にある岩手県胆沢郡北上市和賀町岩崎新田の駒形神社奥宮という駒ヶ岳のピーク(標高千百二十九・八メートル)で、「遠野文化研究センター」公式サイト内の「駒形神社奥宮」を見ると、奥宮の堂内には『白馬と黒馬の神像が祀られていました。藩政時代には白馬が盛岡藩・黒馬が仙台藩の神像だったと聞きますが、藩境が取り払われた現在はどうなのでしょうか。それに白馬が親子です』。『なにか意味があるのか気になります』。『現在このお駒堂を守っている水沢駒形神社の山下宮司によると、「晴れを願う時は白い馬に、雨を願う時は黒い馬に祈る」らしく、晴れを望む人が多かったので白馬の神像を二体奉納したのだそうです』。『水も晴天も農業には欠かせないものです。お駒堂から見下ろす北上盆地は黄金色で、昔の今も人々が変わらず願い続けている通りの実りの秋の風景でした』。『盛岡・仙台両藩の水争いの出発地点から豊作を見守るお駒さまたちも安心していることでしょう』とあって、現在の新しい馬の像の写真があるのである。或いはこれが柳田國男がここで言うそれなのではないか? と思わせるのである。柳田は「鐵を以つて鑄たる二體の馬の像ありき」と過去の助動詞を用いているから、或いは、これがその後裔なのかも知れないと感じるのである。但し、遂にここ或いはこの周辺に赤沢山は現認出来なかったし、「天狗佛」も検索ではヒットしなかった。これもまた、識者の御教授に委ねるしかあるまい。【2019年4月27日追記】T氏から非常に興味深い膨大な考証と情報を頂戴した。ほぼそのメールそのままで以下に引用させて戴く。

   《引用開始》

 小生の今の考えは、「栗原郡栗駒山の山腹の寺社の話がコンガラガッテ膽澤郡金ケ崎村の話」と誤認したものと思っています。柳田氏は引用元を尊重し、「澤郡金ケ崎村大字西根ノ」と記載しています。「仙臺封内風土記」(田邊希文著。明和九・安永元(一七七二)年完成)の当該記述は「封内風土記」の「巻之十九」の「膽澤郡西根邑」の項(同書の立国会図書館デジタルコレクションの画像の110コマから112コマの記載)ですが、そのなかで「但有一古老……以下」の部分は、一寸、問題??な記載です。

[やぶちゃん注:以下、同部分のT氏による電子化に一部で私が手を加えた。後も同じ。]

   *

山一。 駒形山。或稱峯◦駒嶽◦駒形。封内名跡志曰。山嶽峻峻西跨仙北。北跨南部。東南蟠栗原◦磐井◦膽澤三郡之高山。而言其所一ㇾ及。則西根◦水澤◦桃岡◦永德寺數邑。遶山麓也。不ㇾ詳ㇾ祀何神。後世鄕隣失其傳來。依駒形之字。推安馬頭觀音。號御駒山馬峯寺。可ㇾ謂馳上世神明之旨矣[やぶちゃん注:返り点「三」はママ。]。是亦淫祠之甚者也。今問之鄕里。而無分明解說者。尤可ㇾ憂焉。(ここまでは「膽澤郡西根邑」の話で間違いありません)但有一古老。說曰。此峯巒絕頂曰大日嶽。亞ㇾ之者曰駒形。半腹有叢祠神馬(コマノ)社。往古有神駒。而常遊山岳。雪毛霞暈。殪[やぶちゃん注:音「アイ」。死ぬこと。]後瘞[やぶちゃん注:「うづむ」。]之峯頂。立ㇾ祠祭ㇾ之。故稱神馬嶽。神名帳所ㇾ謂。駒形神社是也。其山峻極。至晩夏宿雪猶不未ㇾ消。其殘雪之狀。自然爲奔馬迅電之勢。而如ㇾ具首尾耳鬣脚蹄之形也。人以爲ラク是乃精神生氣之妙。自然所ㇾ現于玆矣。今望之近隣境之山頭。則果現然如其所一ㇾ傳。於ㇾ是爲地名。又山間有岩窟。濶三尺。高一丈。長二間許。内藏銅臺。置馬首佛(バトウクワンヲン)◦大日◦虛空藏。一里餘而山下。有往昔寺址。相傳。平城帝。大同中。釋慈覺開基。號滿德山寶福寺。今荒廢。鄰大岳而有ㇾ山。曰赤澤山。山上有鐵駒二頭。長四寸。又有鐵佛。背後負兩翼。土人曰之天狗佛。共在山頭。其峯山岳地勢形氣渾非凡境焉。(ここから先行著書の批評、と言うよりも、実は否定部分となります)後世以此山岳歌林所ㇾ詠栗駒山也。非ㇾ是。歌林稱栗駒山。而所ㇾ詠者。在栗原郡沼倉邑者是也。其地朴樹亦多。質之土地。其山勢。亦相等栗原郡中駒岳。其山高大以栗文字推ㇾ之。以ㇾ在栗原郡而須ㇾ稱之栗駒山。於社號。亦栗原乃稱駒形根。在此郡乃但稱駒形。視者辨焉。

   *

とあって「山に雪形がある。最高峰が大日嶽で第二峰が駒形である」と云っています。(栗駒山??)最後部の「非ㇾ是。歌林稱栗駒山。」以下は、先行の「奧羽觀蹟聞老志」(佐久間洞巖著。享保四(一七一九)年完成)の「卷之十」の「膽澤郡栗駒山」の記載(歌枕「くりこま」主題)への批評で「場所が違う」と言っています。「奥羽観蹟聞老志」は義経伝説の丁寧なサイトを作っておられる佐藤弘弥氏の、「仙台叢書」第十五巻の国字表記「奥羽観蹟聞老志巻之十」の「胆沢郡」の「栗駒山」で読むことができます。

 栗駒山と駒形山については、小関純夫のサイトの「文献からみた栗駒山名の定着過程」の「1.はじめに」に、『江戸時代中期に製作された『仙台領際絵図』や他の文献では、栗駒山は本来の雪形の出る1573m峰を「駒ヶ嶽」と呼んでいた。また、最高峰1627.7mは「大日嶽」として区別していた。それがどうして栗駒山という山名に定着していったのだろうか』とあり、同「3.仙台領内の絵図」の「膽澤郡・栗駒山」の項に『このなかで、栗駒山は栗原郡(巻之八)ではなく膽澤郡(巻之十)に記載してある。延喜式神名帳に載っている駒形神社を山中に祭っていて、現在の焼石連峰に属する駒ヶ岳をさすことが分かる。そして、この駒ヶ岳を仙北、磐井、栗原にまたがる広大な山域としてとらえている。しかし、絶頂は大日嶽としている。残雪が奔走する馬の形をしていることや、山中の岩窟に馬頭観音、大日如来、虚空蔵菩薩の仏像が祭ってあることなどは、現在の栗駒山の記述のようにもとれる』。『この膽澤郡には「酢川岳」の記載もあり、奥羽の両境にまたがる大岳で、温泉があることを紹介している。そして「日本三代実録」から』、仁徳天皇六一(三七三)年に『温泉神に従五位を授くと引用している。一方、栗原郡の記述では、駒形根神社が神名帳に載っていることだけを紹介している。従って、須川温泉側から行く駒形根神社の口伝を、膽澤郡にある駒形神社のものと記述したのかもしれない』とあり、「奧羽觀蹟聞老志」の「膽澤郡 栗駒山」の記載は「栗原郡栗駒山」の話を混ぜている可能性が高いことを指摘されています。

 序でに、膽澤郡駒形神社の少し吃驚な話を紹介しておきます。

 江戸時代には駒形山上の奥宮と里宮(女人参拝ができるように)があった。ともに観音堂と思われていた(神仏習合時代ですから)。「封内風土記」[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁画像。]では、

   *

佛宇凡八。  觀音堂四。 其一。在駒嶽仙臺◦南部封境之間。是以兩主相輿修補造營其堂宇[やぶちゃん注:原書の返り点がおかしいので訂した。]。傳云。仁明帝。嘉祥三年。慈覺大師造ㇾ之。希文按。延喜式神名帳所ㇾ謂。駒形神社是也。士俗誤傳以本地佛爲ㇾ主稱觀音。處處神社以佛名稱ㇾ之者。其類多。 其二。號御堂。山上禁婦人之登拜。故建堂於山麓。使婦人拜一ㇾ之。

   *

各地の神社を踏破・紹介されておられる玄松子さんのサイト「玄松子の記録」の、岩手県奥州市水沢区中上野町にある「駒形神社」[やぶちゃん注:陸中國一之宮駒形神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。]の記載の中に、現在は『岩手県奥州市水沢区』の『水沢駅の南西』一キロメートル『ほどの水沢公園の一角に鎮座』するが、『当社は』、もとは『奥宮のある駒ケ岳山頂に鎮座していたが、参拝』が『不便であるため、明治』三六(一九〇三)『年に鹽竃神社境内に遷座された。鹽竃神社は、境内別宮として祀られていた春日神社に合祀され、鹽竃神社と名を変えて、春日神社の名は消滅した。玉突き事故のような、事の顛末』。「参拝のしおり」の「本社について」にも、『当社の社地は』、『もと』、『塩釜神社の鎮定地であったが、明治四』(一八七一)『年五月十四日』、『国幣小社に列せられた時、里宮、奥宮ともに交通不便の地にあるため』、『県知事等の参向することもできかねる為、当時』、『水沢県庁の所在地であった現社殿を仮遥拝所とした。さらに明治七年』、『社殿を大いに修理し』、『正式の遥拝所とした』とありました。

 明治の「そこのけそこのけ延喜式記載の式内社」の地上げと県幹部への忖度??? 塩釜神社は伊達藩時代の金ケ崎付近領主が旧地より勧請した神社であったのに、です。……「春日神社の名は消滅した」……後ろ建てなく無念…………

   《引用終了》

何時もながら頭が下がりっぱなしになる御協力を頂いた。改めてT氏に心より感謝申し上げます。

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