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2019/04/24

太平百物語卷二 十三 或禪僧愛宕山にて天狗問答の事




Atagoyamanotengu


   ○十三 或禪僧愛宕山(あたごさん)にて天狗問答の事

 或禪僧の【故ありて其名を顯はさず。】、道德、目出度かりしが、一年(ひとゝせ)、愛宕山にまふで玉ひて、薄暮(はくぼ/くれかた)の比(ころ)、下山し給ひしに、峠の半(なかば)にて、道にふみ迷ひ給ひ、あらぬ方(かた)に深(ふか)入し給ひけるが、其あたり、奇麗に洒掃(さいさう/さうじ)して、麥藁(むぎわら)を敷置(しきおき)たり。

 此僧、おぼしけるは、

『げに。此所は、人跡たへて、住む人あるべくも見へざるに、かゝる有りさまこそ、不思議なれ。いか樣、聞(きゝ)およぶ、天狗の住(すみ)所にや。』

と、上の方をあふぎ見玉へば、其たけ、一丈斗(ばかり)に、橫のわたり二丈斗もあらんとおもふ大石(たいせき)の有りしが、偏(ひとへ)に石工(せきかう)の刻みなしたる如く、いと美(うつ)くしかりしかば、

「いざや、登りて見ん。」

と攀(よぢ)のぼり玉へば、上の方は甚だ平(たいらか[やぶちゃん注:ママ。])にして、板敷(いたじき)のごとくなりしほどに、

「幸(さいわい[やぶちゃん注:ママ。])の事哉。今宵は通夜(よもすがら)、此所に坐禪して、明けなば、下山せんものを。」

と、石上(せきしやう)に座具を敷(しき)、おこなひすまして居玉ひける。

 しばらくあつて、冷風(りやうふう)、

「さつ。」

と、ふききたり、此僧の頭上を、大勢、かけありく音して、いふやう、

「いかに、御坊(おんぼう)、何とて、わが住(すむ)所に來たりて安坐するや。歸へれ、歸へれ。」

と大音聲(だいおんじやう)にのゝしりけれ共、此僧は、見上げもやらず、兩眼(りやうがん)を閉(とぢ)て、心靜(こゝろしづか)に「陀羅尼(だらに)」を唱へておはしければ、又、

「どつ。」

と、わらひて、いふ樣、

「此坊主は、何をつぶやくぞ。今少(すこし)、聲を上(あげ)て、いへ。われら、汝がいふ所の經文、能(よく)、しれり。讀(よみ)てきかせん。」

とぞ、どよめきける。

 其時、此僧、眼(まなこ)をひらき、答(こたへ)て申さく、

「我慢增上(がまんぞうじやう)の汝等が、何とて、わが正法(しやうぼう)成(なる)經文を誦せんや。されども、望(のぞみ)によつて、讀み上(あぐ)るなり。一句にても口眞似(くちまね)をせば、われ、汝等が爲に、命(いのち)を失ふべし。」

とおほせければ、しきりに、

「よめ、よめ。」

といふほどに、其時、御僧、「光明眞言(くはうみやうしんごん)」を十遍斗、

「さらさら。」

と讀み上げ玉ひしが、天狗ども、これを一句もよむ事あたはずして、

「どつ。」

と、わらふて、退散しけり。

 御僧、うちわらひ玉ひて、又、默然と座禪しゐ玉ひけるが、夜も程なく明ぬれば、道を求めて、元(もと)きし方(かた)に出玉ひ、下山したまひける。

 さしも、飛行自在(ひぎやうじざい)の魔性(ましやう)なれども、道德つよき名僧には、敵對する事、叶はずとかや。

 西國(さいこく)渡海の舩中(せんちう)にて、坂田氏(さかたうじ)の何某(なにがし)、かたりし儘(まゝ)、爰(こゝ)に記(しる)し侍る。

[やぶちゃん注:【 】は底本では二行割注。挿絵の左手上方の迦楼羅(かるら)っぽいそれは天狗の眷属である烏天狗。ウィキの「烏天狗」によれば、『大天狗と同じく山伏装束で、烏のような嘴をした顔をしており、自在に飛翔することが可能だとされる伝説上の生物。小天狗、青天狗とも呼ばれる。烏と名前がついているが、猛禽類と似た羽毛に覆われているものが多い』。『剣術に秀で、鞍馬山の烏天狗は幼少の牛若丸に剣を教えたともいわれている。また、神通力にも秀で、昔は都まで降りてきて猛威を振るったともされる。中世以降の日本では、天狗といえば猛禽類の姿の天狗のことを指し、鼻の高い天狗は、近代に入ってから主流となったものである』。『和歌山県御坊市では、烏天狗のものとされるミイラが厨子に入れられて保存されている。江戸時代から明治時代にかけ、修験者たちがこれを担ぎ、利益を説きながら諸国を回ったといわれる』。二〇〇七年に『保存事業の一環として行われた調査の際、トンビとみられる鳥の骨と粘土で作られた人造物であることが判明している』。『もっとも、天狗のミイラに関しては科学鑑定がなされる以前にも懐疑的な意見があり、平賀源内の「天狗髑髏鑑定縁起」では』、『そもそも不老不死とされる天狗の骨がなぜあるのだ』、『という意見を問う者もあったということが記されている』。『天狗は、一説には仏法を守護する八部衆の一、迦楼羅天が変化したものともいわれる。カルラはインド神話に出てくる巨鳥で、金色の翼を持ち頭に如意宝珠を頂き、つねに火焔を吐き、龍を常食としているとされる。 奈良の興福寺の八部衆像では、迦楼羅天には翼が無いが』、『しかし、京都の三十三間堂の二十八部衆の迦楼羅天は一般的な烏天狗のイメージそのものである』とある。ウィキには「天狗」や、天狗の大元締めとも言える「大天狗」も別ページとしてあるので参照されたい。

「愛宕山」は数あれど、まずは全国に約九百社余りある愛宕神社の総本社で、現在の京都府京都市右京区嵯峨愛宕町(ちょう)にある愛宕神社のある愛宕山(グーグル・マップ・データ。当時の山城国と丹波の国境に位置し、標高は九百二十四メートル)ととるべきであろう。神仏習合期に於いては、ここは修験道の道場として信仰を集め、既に九世紀には霊山とされており、「奥の院」(現在の若宮)には愛宕山の天狗の太郎坊が祀られていた。

「一丈」は三・〇三メートル。

「陀羅尼(だらに)」本来は、「よく総ての物事を摂取して保持し、忘失させない念慧(ねんえ)の力」を指す、サンスクリット語「ダーラニー」の漢音写。「保持すること」「保持するもの」の意とされる。元来は一種の記憶術を指し、一つの事柄を記憶することによって、あらゆる事柄を連想して忘れぬようにすることを言う。謂わば、その最初の代表されるキー・ワードとも言えようか。通常、長句のものを「陀羅尼」、数句からなる短いものを「真言」、一字二字などのものを「種子(しゅじ)」と称する場合が多い。「大智度論」巻五には、「聞持(もんじ)陀羅尼」(耳に聞いたこと総てを忘れない)・「分別知(ふんべつち)陀羅尼」(あらゆるものを正しく分別する)・「入音声(にゅうおんじょう)陀羅尼」(あらゆる音声によっても揺るがない)の三種の陀羅尼を説き、略説すれば、五百陀羅尼門が、広説すれば、無量の陀羅尼門があるとする。また、「瑜伽師地論(ゆがしじろん)」巻四十五には、「法陀羅尼」・「義陀羅尼」・「呪陀羅尼」・「能得菩薩忍陀羅尼」の四種の陀羅尼が挙げられている。諸尊や修法に応じて、陀羅尼が誦持(じゅじ)され、密教では祖師の供養や亡者の冥福を祈るために「尊勝陀羅尼」を誦持するが、その法会を「陀羅尼会」という(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「我慢增上(がまんぞうじやう)」この場合の「我慢」は仏教の煩悩の一つで、「強い自己意識から起こす慢心のこと」を指し、「增上」は「増上慢」(未熟であるのに、仏法の悟りを身につけたと誇ること。転じて今、「自分を過信して思い上がること」の意となった)で、四字一語として強調していると採ってよかろう。

「一句にても口眞似(くちまね)をせば、われ、汝等が爲に、命(いのち)を失ふべし」一句でも正しく応じて唱えることが出来たとならば、拙僧はお前らのために命を亡くして構わぬ。

「光明眞言(くはうみやうしんごん)」真言密教で唱える呪文の一つ。大日如来の真言で、また、一切仏菩薩の総呪でもある。「唵(おん)・阿謨伽(あぼきゃ)・尾盧左曩(べいろしゃのう)・摩訶母捺羅(まかぼだら)・麽尼(まに)・鉢曇摩(はんどま)・忸婆羅(じんばら)・波羅波利多耶(はらばりたや)・吽(うん)」。これを唱えると、一切の罪業が除かれるとされ、また、この真言を以って加持した土砂を死者にかけると、生前の罪障が滅するとされる。詳しくは「不空大灌頂光真言」と言い、略して「光言」とも呼ぶ。平安時代以来、「光明真言法」で唱えられたが、殊に中世、新興仏教の念仏や唱題の易行道に対抗して、旧仏教側が念仏に優るものとして普及に努めた。その結果、この光明真言の信仰が浄土思想と結びついて流布し、中世の石卒塔婆にも刻まれるなど、広く盛行して、土俗化した(ここは小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

[語誌]平安時代以来、光明真言法でとなえられたが、殊に中世、新興仏教の念仏や唱題の易行道に対抗して、旧仏教側が念仏に優るものとして普及に努めた。その結果、この光明真言の信仰が浄土思想と結びついて流布し、中世の石卒塔婆にも刻まれるなど広く盛行して、土俗化した。

「坂田氏(さかたうじ)の何某(なにがし)」不詳。聞書きとして変化を加えている。本「太平百物語」の作者、なかなか芸が細かい。]

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