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2019/04/04

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(3) 「白馬ヲ飼ハヌ村」(1)

 

《原文》

白馬ヲ飼ハヌ村 葦毛ハ一名ヲ靑鷺毛(アヲサギゲ)トモ謂ヒテ、稍靑味ノカヽリタル白馬ナリ。然ルニ夙クヨリ白馬ト同ジ毛色ノ如ク取扱ハレ、村ノ内ニ飼ハヌト云フ右ノ傳說ノ如キモ二者共通ニ存スルハ奇ト謂フべシ。【有馬】攝津有馬ノ湯山權現ハ此山ノ地主神ナリ。曾テ婦人ノ姿ヲ現ジテ麓ノ野邊ニ遊ビシニ、國ノ守護某ナル者鷹狩ニ出デテ之ヲ見怪シミ、滋籐ノ弓ニ白羽ノ箭ヲツガヒ、葦毛ノ馬ニ乘リテ山ノ奧マデ之ヲ追ヒ懸ケタリ。其咎ヲ以テ武士ハ即座ニ命ヲ殞シ、其後右ノ三物ヲ携ヘテ山内ニ入ル者アレバ、必ズ山荒レ雷電スト云フ話ナリキ〔諸國旅雀五〕。此話ハ極メテ古クヨリ世ニ傳フル所ナリ。阿波ノ領主三好修理太夫長慶ガ弟ニ十河ノ某ト云フ武士ハ、唐瘡ヲ煩ヒテ此湯ニ養生ノ間、人々ノ止ムルヲモ聽カズ、葦毛ノ馬ニ乘リテ押シテ登山シ、ヤガテ神罰ヲ蒙リテ歸國ノ後程モ無ク病死セリ。此ハ正シク永祿九年中ノ出來事ナリ〔當代記〕。ソレヨリ更ニ百十餘年ノ以前ニモ、有馬ニ滯在シテ山神ノ女ノ姿ト現ハレテ武士ニ追ハレシ話ヲ聞書シタル僧アリ。【三輪】此ニハ湯山權現ノ本地ハ三輪明神ニシテ、此山ニテ禁ズルハ白馬ナル事ヲ記載シテ葦毛ナリトハ言ハズ〔臥雲日件錄寶德四年四月十八日條〕。此湯ノ發見ニ三輪ノ神ト因ミアル蜘蛛ノ絲ノ導アリシコトハ前ニ言ヘリ。【厩師ノ神】而シテ三輪ガ小山秦兩家ノ厩師ノ尊信スル神ナルコトハ猿屋傳書ニモ見ユ〔駿國雜志七〕。又之ト因ミアルカ否カヲ知ラザレドモ、更ニ今一ツノ似タル話アリ。下野那須郡那珂村大字三輪ノ三輪明神社古傳ニ曰ク、昔此村ノ宮窪ニ柏ノ大木アリ。其處ヨリ見エ渡ル所ヲ白馬ニ乘リテ過グレバ、人馬共ニ即時ニ倒ル。【神託】人々不思議ノ思ヲ爲シ湯ノ花ヲ捧ゲ神託ヲ問ヒシニ、神少女ニ移ラセタマヒ、吾ハ大和ノ三輪ノ神ナリ。此地ニ跡ヲ垂レントスルコトヲ知ラシムル爲ナリ。爰ニ祀ラバ永ク里ヲ守ラントアリシヨリ此社ヲ建テタリ。今ニ至ルマデ葦毛ノ馬ヲ此里ニ留ムルコト一夜ナリト雖、必ズ災アリト云ヘリ〔下野風土記下〕。

 

《訓読》

白馬を飼はぬ村 葦毛は一名を靑鷺毛(あをさぎげ)とも謂ひて、稍(やや)靑味のかゝりたる白馬なり。然るに、夙(と)くより、白馬と同じ毛色のごとく取り扱はれ、村の内に飼はぬと云ふ右の傳說のごときも、二者共通に存するは奇と謂ふべし。【有馬】攝津有馬の湯山權現は此の山の地主神なり。曾つて、婦人の姿を現じて、麓の野邊に遊びしに、國の守護某なる者、鷹狩に出でて、之れを見怪しみ、「滋籐(しげどう)の弓」に「白羽(しらは)の箭(や)」をつがひ、「葦毛の馬」に乘りて、山の奧まで之れを追ひ懸けたり。其の咎(とが)を以つて、武士は即座に命を殞(おと)し、其の後、右の三物(みつもの)携へて山内に入る者あれば、必ず、山、荒れ、雷電す、と云ふ話なりき〔「諸國旅雀」五〕。此の話は、極めて古くより世に傳ふる所なり。阿波の領主三好修理太夫長慶が弟に、十河(そがう[やぶちゃん注:歴史的仮名遣がこれで正しいかどうかは不明。])の某(なにがし)と云ふ武士は、唐瘡(たうがさ)[やぶちゃん注:「唐人が伝えた病気」の意で梅毒のこと。]を煩ひて、此の湯に養生の間、人々の止むるをも聽かず、葦毛の馬に乘りて押して登山し、やがて、神罰を蒙りて、歸國の後、程も無く、病死せり。此れは正(まさ)しく永祿九年中の出來事なり〔「當代記」〕。それより更に百十餘年の以前にも、有馬に滯在して、山神の、女の姿と現はれて、武士に追はれし話を聞き書きしたる僧あり。【三輪】此れには、湯山權現の本地は三輪明神にして、此の山にて禁ずるは「白馬」なる事を記載して、「葦毛なり」とは言はず〔「臥雲日件錄(ぐわうんにつけんろく)」寶德四年[やぶちゃん注:一四五二年。]四月十八日の條〕。此の湯の發見に、三輪の神と因(ちな)みある「蜘蛛の絲の導(みちび)き」ありしことは、前に言へり[やぶちゃん注:本書の本文冒頭。]。【厩師の神】而して、三輪が、小山・秦兩家の厩師の尊信する神なることは「猿屋傳書」にも見ゆ〔「駿國雜志」七〕。又、之れと因みあるか否かを知らざれども、更に今一つの似たる話あり。下野(しもつけ)那須郡那珂(なか)村大字三輪の三輪明神社古傳に曰く、昔、此の村の宮窪に柏の大木あり。其處(そこ)より見え渡る所を、白馬に乘りて過ぐれば、人馬共に即時に倒る。【神託】人々、不思議の思ひを爲し、湯の花を捧げ、神託を問ひしに、神、少女に移らせたまひ、「吾は大和の三輪の神なり。此の地に跡(あと)を垂れんとすることを知らしむる爲なり。爰(ここ)に祀らば、永く、里を守らん」とありしより、此の社を建てたり。今に至るまで、葦毛の馬を此の里に留むること、一夜なりと雖も、必ず、災ひありと云へり〔「下野風土記」下〕。

[やぶちゃん注:「滋籐(しげどう)の弓」(「しげとう」とも読む)弓の束(つか)を黒漆塗りにし、その上を籐(単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科トウ連 Calameae に属する熱帯性植物。多くは蔓性)で強く巻いたもの。大将などが持った弓で、籐の巻き方などによって多くの種類がある。握り下を二十八ヶ所、握り上を三十六ヶ所巻くのが正式なそれ。

「三好修理太夫長慶」(大永二(一五二二)年~永禄七(一五六四)年)は戦国時代の武将で畿内・阿波国の大名。室町幕府の摂津国守護代で相伴衆(しょうばんしゅう)。細川政権を事実上、崩壊させ、室町幕府将軍足利義晴や足利義輝を京都から放逐し、三好政権を樹立した。後は足利義輝・六角義賢・畠山高政らと時に争い、ときに和議を結び、畿内の支配者として君臨した。その「弟」で「十河の某」というのは、十河一存(そごうかずまさ/かずなが 天文元(一五三二)年~永禄四(一五六一)年)。ウィキの「十河一存」によれば、『讃岐十河城主の十河景滋(存春)の世子の十河金光が早世したこともあり、長兄の長慶の命により』、『景滋の養子となって十河氏の家督を継いだ』。天文一八(一五四九)年六月には、『父の仇である三好政長との摂津江口の戦いで勝利に貢献した。これにより』、『細川晴元の政権は崩壊し、兄』『長慶の政権が確立』し、天文一九(一五五〇)年の「東山の戦い」で『京都復帰を狙う晴元を阻止』し、天文二二(一五五三)年六月の「阿波見性寺事件」の際にも、『次兄の実休を助けて細川持隆殺害に協力した』。永禄元(一五五八)年の「北白川の戦い」にも参戦し、永禄三(一五六〇)年には『畠山高政との戦いで大勝し、長慶から岸和田城主に任じられた。その後も畿内各地を転戦して功を挙げ、兄を軍事的によく補佐した』。『しかし』、永禄四(一五六一)年三月十八日(異説として四月)、『病を患い、子・松浦萬満の後見のために在住していた和泉国で死去した。享年』三十。『一存の死因は、瘡による病死といわれる。しかし』、『一存が死んだ時に、不仲であった松永久秀が傍にいたことから、当時から京都では久秀による暗殺説が伝聞として流れた。以下のような逸話がある』。「足利季世記」並びに「続応仁後記」には、『一存の死去について以下のように伝える』。永禄三(一五六〇)年頃に『一存は病にかかった。そこで摂津の有馬温泉で一存が久秀と湯治中のとき、久秀が一存の乗馬である葦毛馬を見て、「有馬権現は葦毛を好まないため、その馬には乗らないほうがいい」と忠告した。しかし久秀を嫌う一存は忠告を無視して乗馬し、そして落馬して絶命したというものである』。『この話について、現代の歴史研究家である長江正一は、病を得ていた一存がわざわざ乗馬をするだろうか、武勇に長け乗馬にも習熟していたと思われる一存がはたして落馬するものだろうか』、『という疑問を呈している』。『さらに、実際には一存が没したのは』翌年『であり』、『この話は、死去した時期にも誤謬が生じている』。『あるとき、一存は合戦中に左腕を負傷した。普通ならば養生するであろうが、一存は傷口に塩をすり込んで消毒し、藤の蔓を包帯代わりにして傷口に巻いて、再び戦場で猛然と槍を振るったという。このため、一存は「鬼十河」(鬼十川)と呼ばれて敵に恐れられたという。その武勇から家臣たちからも信望厚く、一存の髪型は「十河額」と呼ばれて、真似する家臣も多かったという』。ともかくも、『兄を軍事的によく補佐したため、その死は三好軍の軍事力衰退を招くことになった』とする。「戴恩記」では、『松永貞徳が俳句の世界で師匠にあたる九条稙通に聞いた言葉として、「婿の十川は武勇である」としてその武勇の高かったことを評したとしている』とある。

「唐瘡」「當代記」(寛永年間(一六二四年~一六四四年)頃に成立したとされる史書。編纂者は姫路藩主松平忠明と言われるが、不詳。全九巻。太田牛一の「信長公記」を中心に、他の記録資料を再編した二次史料である)の冒頭にある。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ。そこには彼の有馬での養生を確かに「永祿九年」と記しているが、もう死んでる↑ぜ?

「それより更に百十餘年の以前」「有馬に滯在して、山神の、女の姿と現はれて、武士に追はれし話を聞き書きしたる僧あり」「臥雲日件錄(ぐわうんにつけんろく)」これはこちらの記載によれば、室町中期の臨済僧瑞渓周鳳(明徳二/元中八(一三九二)年~文明五(一四七三)年:和泉国出身。俗姓大伴氏。周鳳は諱、瑞渓は字。臥雲山人とも称された)の日記。全七十四冊あったが、一冊しか現存しない。文安三(一四四六)年から文明五(一四七三)年までの記録で、社会情勢だけでなく、禅宗・学芸史料にも富むという。アテズッポウで「国文研」の「臥雲日件録抜尤」の画像を冷やかしたら(画像表示に時間がかかるので滅多にやらない)、数分で発見出来た。ここの左頁部分

「下野(しもつけ)那須郡那珂(なか)村大字三輪の三輪明神社」現在の栃木県那須郡那珂川町(まち)三輪には「三和神社」なら現存する(グーグル・マップ・データ)。この神社の南北方向にはそれぞれ「温泉神社」なるものがあり、東北直近には「馬頭温泉郷」というのがあってコリャマタ! 非常に気になるわい。

「此の村の宮窪」地図上では確認出来ないが、個人サイト「神社と古事記」の「三和神社」に同神社自体が『もとは大字三輪字宮窪に鎮座し』てい『たという』とある。]

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