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2019/05/31

鳩 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    

 

 私はゆるく傾斜をなした岡の頂上(いたゞき)に立つてゐた。眼の前には黃金(こがね)いろ白銀(しろがね)いろにきらめく海のやうに熟した大麥が連なつてゐた。

 然しこの海の上には小波(さゞなみ)一つ起らず、大輩は息づまりさうでそよとの風もない。大暴風雨(おほあらし)が來ようとしてゐるのだ。

 身のまはりに太陽はまだどんよりした光を投げてゐたが、大麥の彼方(かなた)の、あまり遠くもないところに、嗜碧色の雨雲(あまぐも)が重苦しい塊(かたまり)をなして、地平線のまる半分を蔽うてゐた。

 萬象寂としてゐる……最後の日光の不氣味(ぶきみ)なきらめきのもとに、あらゆるものが色を失つてしまつた。鳥一羽影も見せず啼きもしない。雀までが身をひそめた。ただ何處か近くで山牛蒡(やまごぼう)の葉が絕えずぱさぱさ云つて咡いてゐる[やぶちゃん注:「咡いて」は「ささやいて」。]。

 生垣(いけがき)の苦蓬(にがよもぎ)は何と云ふ强い香ひだらう! 私はかの暗碧色の塊を見やつた……すると漠然たる不安の念が私の胸を襲うた。『さあやつて來い、早く、早く!」と私は考へた、『金の舵よ、閃け、雷(かみなり)よ、鳴れ! 動け、急げ、篠つく雨となれ、意地惡の雨雲よ。此の待ちのぞむ息苦しさを切上げてくれ!』

 けれども雨雲は動かなかつた。それは依然として、ひつそりした地上を壓し附けてゐた……そしてただ一層かたまり、一層暗くなる許(ばか)りのやうに思はれた。

 折りしも、その物凄い暗碧の空を、何か白い手巾(ハンケチ)か雪の塊(かたまり)のやうなものが、すうと眞直(まつすぐ)に飛んでゐるのが見えた。それは村の方から飛んで來る一羽の白い鳩であつた。

 鳩は飛んだ、まつすぐに飛んだ……そして森の中へ飛び込んでしまつた。暫らく經(た)つた――やつぱり恐ろしい程ひつそりしてゐる……然し見よ! 二つの白い手巾(ハンケチ)が空に閃いてゐる、二つの白い雲の塊(かたまり)がひらひらと歸つて行く、二羽の白鳩は相並んで家路をさして飛んで行く。

 そして今やつひに暴風雨(あらし)は來つた、騷然たる聲が起つた!

 私はやつとの事で歸つて行けた。風は吼えたけつて狂ひ廻る。その前を疾走する低い赤い雲は引きちぎられたやうに見える。すべての物はごつちやになつて渦卷いてゐる。篠突く雨は直立した木の下をすさまじく漲り流れ、電光(いなづま)は靑い火をはなつて目を眩(くらま)し、雷鳴(かみなり)は砲聲のやうに颯と轟き渡つて、空氣は硫黃(ゐわう)の匂ひに滿たされた。

 しかし差出た軒下、屋根窓の緣(ふち)に、二羽の白鳩は互によりそつてとまつてゐる。一羽はその配偶(はいぐう)を呼びに行つたあの鳩で、一羽はそれに連れ歸られて、恐らく破滅から救はれた方の鳩であつた。

 彼等は羽根(はね)をさか立てて、互に翼をくくつけてゐる。

 彼等は幸福である! そして彼等を見る私もまた幸福である……私はただ一人であるけれども……いつもの通りただ一人であるけれども。

    一八七九年五月

 

たゞ一人云々、ツルゲエネフは一生結婚しないでしまつた人である、一度農奴の女と一緖になつて子供さへ出來たが、のち佛羅西へ行つて孤獨に終つた。】

[やぶちゃん注:「硫黃(ゐわう)」のルビはママ。正しい歴史的仮名遣は「いわう」。]

岩 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

      第 二

 

   【一八七九年――一八八二年】

 

    

 

 諸君は、うららかな春の日の滿潮時(しほどき)、海岸の年經た灰色の岩に、八方から勢ひのいい浪が打寄せて……碎けて、戯れて、撫でさすつて――そしてその苔むした頭上に眞珠の破片のやうなきらきらする泡を散らすのを見た事があるか?

 岩はいつも變らぬ岩であるが、そのくすんだ灰色の面は鮮かな色を呈して來る。

 その色は溶けた花崗岩(みかげいし)がやつとかたまりかけたばかりで、まだ赤熱の色に燃えてゐたあの太古(おほむかし)のことを語つてゐる。

 そのやうに此頃の私の老いた心も、若い婦人の心の浪に圍(かこ)まれ打たれて……その手に撫でさすられて、久しく褪せてゐた色、消えた火の名殘が燃え上る!

 浪はまた退いてしまふ……けれども。その色はまだ褪せない。鋭い風は乾(かは)かさうとずるけれども。

    一八七九年五月

基督 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    基  督

 

 私は夢で、まだ靑年と云ふより少年のままで、とある低い木造の教會にゐた。細い蠟燭は古い聖者の畫像の前に點々と赤くともつてゐた。

 七色(なゝいろ)をした光の輪が小さな燈明の火を取り卷いてゐた。教會の中は薄暗くぼんやりしてゐた……だが、私の前には澤山の人が立つてゐた。いづれもブロンドの髮をした百姓の頭ばかりであつた。それ等の頭は時々かがんで、ずつと下(さ)げてはまた上げる、丁度熟した麥の穗が夏の風の吹き過ぎる度に、ゆるやかに波を打たせるやうに。

 不意に、誰れやら後(うしろ)からやつて來て私の傍に立つた。

 私は彼の方には向かなかつた。けれども直ぐ此人こそ基督だと感じた。

 感動、好奇、畏怖の念が忽ち私を囚(とら)へた。私はやつと自分を制して……隣の人を見た。

 他(ほか)の人と同じやうな顏、凡ての人と毫も變りの無い顏であつた。眼は穩(おだや)かに心を籠めたやうに、少しく上の方を向いてゐる。脣は閉ぢられてゐるが、然し堅く結ばれてゐるのではなく、云はば上脣を下脣の上に休めてゐるやうである。濃くない髯は二つに分けられてゐる。手は組まれた儘ぢつとしてゐる。また着てゐる着物もあたり前のものである。

『どうしてこれがまあ基督だらう?』と私は思つた、『こんなあたり前の、何の特徴も無い人が! そんな事があるものか!』

 私は眞直(まつすぐ)向いた。ところが私が此のあたり前の人から眼を離すや否や、また此の傍に立つてゐるのが。基督その人に外ならぬと感じられた。

 また私は自分を制して振向いた……そしてまたそのおなじ顏、萬人に似た顏、見た事の無い顏ではあるが每日出會(であ)ふやうな顏を見た。

 すると急に心が重苦しくなつて私は我に返つた。その時私ははじめて悟つた、丁度このやうな顏が――萬人の顏と同じ顏が基督その人の顏であると。

    一八七八年十二月

 

基督、ツルゲエネフの基督教を窺ふに足る。ルナンが「基督傳」を書いたのと同じ精神で、基督を一個の人間として見ようと云ふのである。】

[やぶちゃん注:「ルナン」フランスの宗教史家で実証主義の思想家として知られるジョゼフ・エルネスト・ルナン(Joseph Ernest Renan 一八二三年~一八九二年)。当初は聖職を志したが、聖書原典研究へ向い、一八四五年に聖職を断念した。一八四八年の「二月革命」に動かされて書いた「科学の未来」(L'Avenir de la science:一八九〇年刊)で科学精神に基づいた実証主義思想を確立した。一八六二年、コレージュ・ド・フランス(Collège de France:フランスに於ける学問・教育の頂点に位置する国立特別高等教育機関)のセム語教授に迎えられたが、開講の辞で、キリストを「比類なき人間」と呼んだため、停職処分を受けた(一八七〇年に教授職に復帰)。生来の理想主義にもかかわらず、超自然的なものを認めようとせず、歴史的な立場から大作「キリスト教起源史」(Histoire de l'origine du christianisme:全七巻。一八六三年~一八八三年)に取り組み、特にその第一巻のイエス・キリストの伝記「Vie de Jésus」(一八六三年刊)がここで言う「基督傳」で、特に名高い(以上は主文を「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

友と敵と ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    友 と 敵 と

 

 或る修身禁錮に處せられた囚人が一獄を破つて一散に逃走した……彼の後には踵を接して監守どもが追跡してゐた。

 彼は一生懸命に走つた……追跡者(おつて)は漸くおくれはじめた。

 然るに、突然彼の行く手に斷崖絕壁をなした一條の河が現れた、幅は狹いが深い河である……しかも彼は泳ぐことが出來ない!

 一枚の朽(く)ちかかつた薄い板が岸から岸へかかつてゐた。逃走者はすでにその上に片足をかけた……然るに、たまたまその兩岸に彼の親友と怨敵とが立つてゐた。

 仇敵は何も言はないで、ただ腕を拱(こまね)いてゐた。けれども親友は聲の限り叫んだ、『危い! 何をするんだ? 君は氣が違つたか? 氣を附けろ! 板のまるつきり腐つてるのがわからないか? 乘つたが最後身體の重みで析れて、君は死んぢまふぞ!』

『だつて外に助かる道が無いぢやないか、そら追跡者(おつて)はもう迫つてゐる!』

と不幸な男は絕的の呻聲を(うめき)舉げて、板を踏んだ。

『斷じていけない!……君の破滅するのが見てゐられるものか!』と熱心に親友は叫んで、逃走者の足もとから板を奪取(ひつたく)つた。逃走者は忽ち逆卷く激流に墜落して溺れてしまつた。

 仇敵は滿足の笑ひを浮べて行つてしまつた。けれども親友は岸に身を投げかけて、彼のあはれな……あはれな友人を悲しんで激しく泣きはじめた。

 しかしながら、彼はその友を死に至らしめたのについて、自分を責める念などは起らなかつた……ただの一瞬間といへども。

『私の言ふことを聞かなかつたからだ! 聞かなかつたからの事だ!』と彼はがつかりして呟いた。

『もつとも』と彼は最後に附け加へた、『どうせ一生恐ろしい牢獄(ろうや)で苦しまなきやならなかつたんだ! まあその苦みだけは免れたと云ふものだ! 今は樂になつたんだ! かうなるのもあの男の因果だつたんだらう! とは言ふものの、人情だもの、いかにもかあいさうだ!』

 そして此の親切者は、身を誤つた友の運命を思つて、熱い遣瀨(やるせ)ない淚を流すのをやめなかつた。

    一八七八年十二月

 

[やぶちゃん注:「絕的」「苦み」はママ。後者は「くるしみ」と読めるからよいが、前者は恐らく「絕望的」の脱字であろう。中山省三郎氏の訳でも『哀れな男は絕望的な呻きごゑをあげて、板を蹈んだ。』であり、神西清氏の訳でも『哀れな男は絶望の呻きをあげて、板を渡りはじめた。』である。]

さいたづま すゞしろのや(伊良子清白)

 

さいたづま

 

 

  春 の 光

 和鄕ぬしはわが歌の友なり。都におはしゝころ、きみと共に
 紫野の春を尋ねしことありしが、こたび丹後よりふりはへて
 來たまひしかばまたもかの野邊をそゞろありきするとて。

[やぶちゃん注:「さいたづま」は「春に萌え出た若草」を指す古語。

「和鄕ぬし」伊良子清白の「山岳雜詩」(明治三六(一九〇三)年一月一日発行の『文庫』初出。総標題「山岳雜詩」のもとに「陰の卷」「孔雀船」で「鬼の語」と改題して収録)と前の「山頂」及び「淺間の烟」(新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に再録するに際して「淺間の煙」と表記を変えた)の三篇から成る)と「漂泊」が収録されている、本詩篇が書かれてより七年後ではあるが、河井酔茗編の『文庫』のアンソロジー「靑海波」(明治三八(一九〇五)年内外出版協会刊)に、木船和郷なる人物の「まつよひ草」が収録されている(しかも伊良子清白の後に配されてある)ので彼であろう。経歴は不詳(「国文学研究資料館」の「電子資料館 近代書誌・近代画像データベース」のこちらの書誌に拠った)。

「ふりはへて」「振り延へて」で「ふりはへ(て)」は平安からの古語の副詞で「殊更・わざわざ」の意。]

 

古京の花にあこがれて、

畫堂の壁にもたれつゝ、

昔をしみしきみをわれ、

また見るべしと思ひきや。

 

海なき園の山中に、

都あるこそをかしけれ、

鴨の川原の漣に、

世に手弱女は生るれど。

 

朱の袂をふりはへて、

若菜摘みけむいにしへの、

紫野ゆきしめの行き、

繪筆なきこそうらみなれ。

 

萠えては靑き春艸を、

若き二人が踏み分けて、

別れし跡を語らへば、

こゝろの花の枯るゝかな。

 

あれ見そなはせ西山の、

峰のいたゞき色染めて、

木立はなれぬ夕雲に、

春の光も沈みたり。

 

 

  水 馴 棹

 

朝雲深き川上の、

森の木末のうす月に、

谷間をくだす筏師の、

歌もほのかにきこえきて。

 

親はへさきに子はともに、

かたみにさすや水馴棹、

馴れてもなやむ早き瀨を、

いざよふ浪も碎けつゝ。

 

削るがごとき岩が根に、

すがりて嘆くや山躑躅、

紅ふかく色染めて、

下行く水に映りつゝ。

 

うたへる唄もをりをりは、

浪のひゞきにうづもれて、

重なり立てる夏山の、

靑葉のひまをめぐり行く。

 

蓑の衣をあふらせて、

谷吹く風のすゞしきに、

親子ふたりが棹とれば、

あやふき瀨々もわすれつゝ。

 

「和子よまだきになが母の

山邊に笹や刈るならむ。

わづかばかりの賣代を、

髮の飾りに代へもせで」

 

「さなり父うへ今朝はしも、

うの花咲ける谷陰の、

月にわかれて下りしが、

一人しませばさびしきに。

 

市の泊にふねはてゝ、

一日の業のをはりなば、

巷に何はあるとても、

とくわが家にかへらなむ」

 

「なれの皈るをまちわびて、

母も門邊に立つならむ。

今宵も裏の瀧津瀨に、

夕涼みせんみたりして」

 

親はわが子を子は親を、

いたはりながらさす棹に、

岩堰く水のせゝらぎも、

たのしき聲や立つるらむ。

 

ほのぼの明くる谷川の

水の面ふかく霧立ちて、

岸の杉村遠こちに、

やまほとゝぎすみだれ啼く。

 

 

 絹繪の鴛鴛

 

西のみやこの寺々の、

鐘に柩を送らせて、

北の山べにをさめては、

夜な夜な月や照しけむ。

 

加茂の川原に冬ざれば、

洒せる布は白かるに、

裁ち縫ふ人のあらざれば、

千鳥啼く夜や寒からむ。

[やぶちゃん注:「洒」には「すすぐ・あらう」の意があるので、「さらせる」(晒せる)と訓じていよう。]

 

墨のかをりもかんばしく、

絹にゑがきし鴛鴦の、

かたをこの世のかたみにて、

ゆきにし人のこゝろはも。

 

百萩咲ける池水の、

さゞ浪靑き下かげに、

羽を並ぶる鳥見れば、

かたとは思へどかなしきに。

[やぶちゃん注:「百萩」「ももはぎ」で沢山の萩の意。

「かた」「形・型」で絵図の意であろう。]

 

こひしき人にわかれては、

獨さびしき小衾に、

夢あたゝかき手枕を、

またまくすべはあらざらむ。

 

玉の小筥の紐ときて、

床のべさらずかゝげても、

とばにきえせぬ色彩の、

千年見るともかたなるを。

 

[やぶちゃん注:明治三一(一八九八)年三月二十日発行の『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。最終連の「とばにきえせぬ色彩の」の「とば」は不詳。「千年見るともかたなるを」とコーダするなら、「とは」(永久)かとも思ったが、判らぬ。識者の御教授を乞う。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(26) 「神々降臨ノ跡」(2)

 

《原文》

 サテ當初駒ノ足跡ヲ崇敬スルニ至リシ動機ニ付キ、尙一段ノ考察ヲ試ミント欲ス。蓋シ駒形ハ元來定マリタル一種ノ神ノ名稱ニハ非ズシテ、實ハ各地ノ祭神ニ共通ナル威靈ノ徵(シルシ)ナリシヲ、特ニ之ニ由リテ神ニ名ヅケタリシ社ノミガ中ニ就キテ有名トナリシナリ。サレバ奧州又ハ箱根ノ駒ケ嶽トハ些カモ關係無キ諸國ノ社ニモ、駒形石ノ少ナカラザルハ前ニ既ニ言ヘルガ如シ。【白山權現】江州愛知郡押立村ノ客人宮(マラウドミヤ)ハ押連莊(オシタテノシヤウ)十七鄕ノ總氏神ナリ。此社ノ神ハ加賀ノ白山大權現ニシテ、往古神馬ニ召シテ此地ニ飛移リタマヘリトテ、社ノ近邊ヨリ森ノ北ヲ流ルヽ小川ノ岸ニ掛ケテ、其駒ノ足跡多ク殘存ス〔淡海木間攫〕。客人社ノ白山菊理比賣神ナルコト、及ビ此神ノ北國ヨリ飛ビタマヒシコトハ、共ニ日吉二十一社ノ古傳ノ中ニ見ユルコトニテ、ソレ故ニ客人ト稱スト云フ說アリ。而モ此押達莊ノ地ハ夙ニ日吉ノ客人社ノ所領ニシテ且ツ氏子ナリ。續古今集ニ載セラレタル押達宮奉納ノ歌ニ

  爰ニ又宮ヲ分チテヤドスカナ越ノ白根ヤ雪ノフル里

トモアレバ〔地名辭書〕、右ノ緣起ノ如キモ恐クハ却リテ比叡ノ麓ヨリ飛移リシモノナルべシ。但シ日吉ノ本社ニ在リテハ未ダ馬蹄ノ傳說アルコトヲ聞カザルナリ。【客人權現】思フニ客人トハ即チ客神ニシテ元ハ外國ヨリ來タリシ神ナルべシ。之ヲ白山ノ神ニ托セシハ深キ仔細ノアルコトナランモ、今之ヲ推測スルコト能ハズ。紀州ノ熊野モ古キ神ナレドモ亦震旦ヨリ飛來タマヘリト云フ說アリ〔簠簋内傳〕。【熊野】東國ニ數多キ熊野ノ勸請社ノ中ニハ、馬蹄ノ口碑亦少ナカラザルコトナラン。【鞍石】自分ノ知レル限リニテハ、武州西多摩郡小宮村大字乙津(オツ)ノ熊野神社ニ、鳥居場ヨリハ四五町ノ上手(カミテ)道ノ左ニ馬蹄石ト鞍石アリ。熊野權現馬ニ乘リテ此處ヲ通ラレシ折ノ跡ナリト云フ〔新編武藏風土記稿〕。山城男山ノ八幡ニ駒形神人ナル者ノ住セシコトハ前ニモ述べシガ、此山中ニモ八幡神ノ神馬ノ足跡アリ〔神名帳頭注〕。八幡モ最初ハ白山熊野ト同ジク、遠方ヨリ降臨セラレシ神ナリ。遠江龍池村ノ八幡ニ駒形杉ヲ說クガ如キハ、或ハ戰後ノ人心ヲ利用シテ古緣起ノ燒直シヲ試ミタルモノトモ見ルヲ得べキナリ。

 

《訓読》

 さて、當初、駒の足跡を崇敬するに至りし動機に付き、尙、一段の考察を試みんと欲す。蓋し、駒形は、元來、定まりたる一種の神の名稱には非ずして、實は各地の祭神に共通なる威靈の徵(しるし)なりしを、特に之れに由りて神に名づけたりし社のみが、中に就きて有名となりしなり。されば、奧州又は箱根の駒ケ嶽とは些(いささ)かも關係無き諸國の社にも、駒形石の少なからざるは、前に既に言へるがごとし。【白山權現】江州愛知(えち)郡押立村の客人宮(まらうどみや)は押連莊(おしたてのしやう)十七鄕の總氏神なり。此の社の神は加賀の白山大權現にして、往古、神馬に召して、此の地に飛び移りたまへりとて、社の近邊より森の北を流るゝ小川の岸に掛けて、其の駒の足跡、多く殘存す〔「淡海木間攫」(あふみこまざらへ)〕。客人社の白山菊理比賣神(はくさんきくりひめがみ)なること、及び、此の神の北國より飛びたまひしことは、共に、日吉(ひえ)二十一社の古傳の中に見ゆることにて、それ故に「客人」と稱すと云ふ說あり。而(しか)も、此この押達莊の地は夙(つと)に日吉の客人社の所領にして、且つ、氏子なり。「續古今集(しよくこきんしふ)」に載せられたる押達宮奉納の歌に、

  爰(ここ)に又宮を分ちてやどすかな

     越(こし)の白根や雪のふる里

ともあれば〔「地名辭書」〕、右の緣起のごときも、恐らくは、却りて、比叡の麓より飛び移りしものなるべし。但し、日吉の本社に在りては、未だ馬蹄の傳說あることを聞かざるなり。【客人權現】思ふに、「客人」とは、即ち、「客神(まらうどがみ)」にして、元は外國より來たりし神なるべし。之れを白山の神に托せしは、深き仔細のあることならんも、今、之れを推測すること、能はず。紀州の熊野も、古き神なれども、亦、震旦(しんたん)より飛び來たまへりと云ふ說あり〔「簠簋内傳」(ほきないでん)〕。【熊野】東國に數多き熊野の勸請社の中には、馬蹄の口碑、亦、少なからざることならん。【鞍石】自分の知れる限りにては、武州西多摩郡小宮村大字乙津(おつ)の熊野神社に、鳥居場よりは四、五町[やぶちゃん注:四百三十六から六百四十六メートル半。]の上手(かみて)道の左に「馬蹄石」と「鞍石」あり。熊野權現、馬に乘りて、此處(ここ)を通られし折りの跡なり、と云ふ〔「新編武藏風土記稿」〕。山城男山の八幡に、「駒形神人」なる者の住せしことは前にも述べしが、此の山中にも八幡神の神馬の足跡あり〔「神名帳」頭注〕。八幡も、最初は白山・熊野と同じく、遠方より降臨せられし神なり。遠江龍池村の八幡に駒形杉を說くがごときは、或いは戰後の人心を利用して、古緣起の燒き直しを試みたるものとも見るを得べきなり。

[やぶちゃん注:「江州愛知(えち)郡押立村の客人宮(まらうどみや)」「歴史的行政区域データセット」の「滋賀県愛知郡東押立村」の域内からグーグル・マップ・データ(以下同じ)を示すと、滋賀県東近江市のここら一帯となるが、改名したか、合祀したか、それらしい神社を現認出来なかった。ただ一つ気になるのは、柳田國男はこの奇体な名の神社は「押連莊(おしたてのしやう)十七鄕の總氏神」と言っていることで、調べる内に、旧押立村の南西に隣接する東近江市北菩提寺町に押立神社があり、その西北西直近には白山神社がある(示した地図の中央に配した)ことである。私の探索はこれが限界。【同日午後三時:追記】公開当日中に何時ものT氏より情報来信、

   《引用開始》

「近江愛智郡志」巻四 の「第六節 西押立村」の「押立神社」の項に[やぶちゃん注:リンク先は「国立国会図書館デジタルコレクション」の当該ページ。「近江愛智郡志」同巻は昭和四(一九二九)年近江愛智郡教育会編・刊。]、『押立神社は西押立村大字北菩提寺に鎭座す祭神火靈命伊邪那美命なり。當社は明治維新以前は客人大明神と稱し又押立二社大明神と號す。押立山の押立明神と二社鎭座の宮なるによれり。客人の神は山王七社中の一神にして此の神は押立庄内の地が延曆寺領たりし時山王七社中の客人社を分祀せしを創始とす』とありますから、貴下御推察の通りです。

   《引用終了》

とあった。まずは、安堵。

「白山菊理比賣神(はくさんきくりひめがみ)」「古事記」には登場せず、「日本書紀」も一書に、それも一度だけ出てくるのみの女神。詳しくはウィキの「菊理媛神」を見られたいが、シャーマンがモデルである可能性が濃厚。

「日吉(ひえ)二十一社」滋賀県大津市坂本の現在の日吉(ひよし)大社に所属する二十一の神社の総称。上・中・下の各社に、それぞれ七社ずつが区分されてあるので、合計で二十一社になる。「日吉」は二次世界大戦以前は「ひえ」と読んでいた

「續古今集(しよくこきんしふ)」「続古今和歌集」は鎌倉時代の勅撰集。二十一代集の第十一番目。全二十巻。正元元(一二五九)年に後嵯峨院の院宣により藤原為家・基家・家良・行家・光俊が撰し、文永二(一二六五)年に成立。歌数約千九百首。

「押達宮奉納の歌」「爰(ここ)に又宮を分ちてやどすかな越(こし)の白根や雪のふる里」「続古今和歌集」の「巻七 神祇」にあるかの九条(藤原)良経の一首。但し、「日文研」の「和歌データベース」を見ると、

 ここにまたひかりをわけてやとすかなこしのしらねやゆきのふるさと

で、「宮」ではなく、「光」である。確かに一読した時、かの私が特異的に好きな「秋篠月清集」の名歌人にしては、やけに事実をマンマを詠んでいて「何だかな」って気がした。「光」がよかろうぞ。【同日午後三時:改稿・追記】T氏に御教授頂いた「国立国会図書館デジタルコレクション」の「近江愛智郡志」巻四 の「第六節 西押立村」の「押立神社」の項のこちらに、「續古今和歌集」からの引用として(そこに『後京極攝政前太政大臣』とあるのは九条良経の通称)

 爰にまた、光をわけてやどすかな、越の白根や雪の古里。

とあった。やはり「光」。「宮」とする一本があるのかも知れぬが(でなければ、柳田國男の凡ミス)、やっぱ、これ、「光」で、しょう。

「震旦(しんたん)」古代中国の異称。古代インド人が中国をチーナ・スターナ(「『秦』の土地」の意)と呼んだのに由来する。古くは「しんだん」とも濁った。

「簠簋内傳」(ほきないでん)」書名注は附さない約束だが、私は完全な偽書と考えているので特に注しておく。全五巻。「金烏玉兎集」とも呼ぶ。陰陽師安倍晴明作とされるが、祇園社(八坂神社)に拘わる人物による偽作とする説が強く、成立も南北朝から室町時代と推定されている。中天竺の吉祥天源王舎城の牛頭天王が、巨旦(こたん)大王の妨害に苦しみながらも、蘇民将来の助力を得て、后をめとるという筋を源流として、天文・暦数の百科辞書的な項目をそれに関係づけている(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。

「武州西多摩郡小宮村大字乙津(おつ)の熊野神社」現在の東京都あきる野市乙津はここだが、地区内に熊野神社は現認出来ない。「新編武藏風土記稿」も少し見たが、それらしく見える地名と熊野社を見つけたものの、伝承が記されていないから、違う。【同日午後三時:削除・追記】やはりT氏の情報。

   《引用開始》

「新編武藏風土記稿」の「乙津村熊野神社」の記載[やぶちゃん注:「国立国会図書館デジタルコレクション」のここ。「巻之百十下 多摩郡之二十二下 小宮領」の中の「乙津村」に伝承ともに記載があった。私の見落としであった。]に「村の北の方光明山にあり。入口羊腸の坂ありて……(以下略)」

とあり、そこで、「あきる野・光明山」で探すと、

「全国熊野神社参詣記」の「東京都の熊野神社」に、高明神社(東京都あきる野市乙津二一二三)がヒットし、そこに「由緒 古くは熊野三社権現と称した。光明山上にあったが平成三年[やぶちゃん注:一九九一年。]現在地に遷座した。」

さらに、こちらには、遷座前の跡地の写真がアップされています。

残念ながら、江戸時代の熊野神社(高明神社)鳥居場下の高岩、馬蹄石・鞍石は、消えてしまったようです。

   《引用終了》

高明神社の位置はこちらで、旧地光明山(標高七百九十八メートル)はここ(山名が出る国土地理院図で示した。そこでは高明神社の表示がないが、「乙津」地区の寺院記号の北西直近である。ここは昔はこの山上の熊野神社に参詣するための登り口であったことが判る。なお、「東京都神社庁」のデータで調べると少なくとも高明神社の「高明」は「こうみょう」と読む。

『山城男山の八幡に、「駒形神人」なる者の住せしことは前にも述べし』ここ

「遠江龍池村の八幡に駒形杉を說くがごときは、或いは戰後の人心を利用して、古緣起の燒き直しを試みたるものとも見るを得べきなり」私は諸手を挙げて賛成する。]

2019/05/30

海士の囀 すゞしろのや(伊良子清白)

 

海士の囀

 

 

  ある高山にて

 

雲の梯よぢのぼり、

衣なびけて夜立てば、

 

秀(ほ)つ高みねの上にして、

袂に星もひろふべく、

 

ほがらほがらと天の原、

わたらふ月の影淸み、

 

風に布かるゝ八重霧の、

したに國土(クヌチ)のあるかそも、

 

天と地とにたゞよひて、

かげもひかりもいろもなき、

 

くしき力にうたれつゝ、

なにとはしらずなみだおつ。

[やぶちゃん注:「梯」「かけはし」と訓じておく。

「布かるゝ」「しかるる」。]

 

 

  

 

七人の子を生むとても、

女にこゝろゆるすなと、

むかしの聖をしへけむ、

百人の子あらばあれ。

 

などあさましきこの世ぞも、

刀の紐のうちとけて、

ふた世を契る妻をさへ、

あだとよぶてふ折あれば。

 

史てふ史を瀆したる、

血しほの史のおほかたは、

女の業にあらざらむ、

をのゝきてこそ讀みにしか。

 

女の髮のいくすぢを、

小琴に張りて彈く時は、

百の獸の王といふ、

獅子もおそれてにぐるとか。

 

物の博士のかにかくと、

論へるもきゝしかど、

女を鬼といふことは、

わがこゝろより放ち得じ。

 

鏡の面にうつし見て、

おのが姿のおそろしく、

人にとつぎしくはし女の、

はじめて眉を剃りしとか。

[やぶちゃん注:「論へるも」「あげつらへるも」。]

 

 

  大西日月子へ

 京にて親くせし大西白月子はまたの號を桂涯といへり。い
 みじう繪に巧にして、歌詠む業にも秀で給へり。今騎兵と
 なりて讚岐におはするに、まゐらせたるうた。

現人神(ウツヒトガミ)のすめらぎの、

詔(マケ)のまにまにかしこみて、

醜(シコ)の御盾と矛とれる、

城はととへば駒とこそ。

 

生田の杜にさく梅の、

ほゝゑむ枝をかざしけむ。

箙のぬしは一人かは、

かた畫き給ふきみあるを。

 

琴平みやのはるのくれ、

夕山おろしふくなべに、

こまの立髮花散らば、

白月毛とや名にたゝむ。

 

八十島かけてはるはると、

月こそてれゝ迫門(セト)の海。

みぎはさばしる細鱗(ウロクヅ)の、

こゝろあるかや鰭振りて。

 

かゝるながめは時分かず。

海の南のしづめとて、

林のごとく益荒雄の、

つらなる見てもをゝしきに。

 

勇魚(イサナ)吼えよるみ熊野の、

熊野の浦にうらぶれて、

われありとしも忘れずは、

はかなき願きゝてもが。

 

鬼の棲むてふ八鬼山の、

八百重の美根のふもとにて、

苫家をゆする汐風を、

馴れては地震と思はねど。

 

花も紅葉もまぼろしの、

影よりほかにしらざれば、

しばしば文にめし給ふ、

歌などいかであるべきか。

 

なかなかきみのさゝらがた、

錦の紐をときさけて、

玉の小宮に祕め給ふ、

絹繪を贈りたまはらば。

 

天馳りても魂ゆきて、

讚岐の沖に立つときく、

はらから石のゐならびて、

二人かたると思はむに。

[やぶちゃん注:第四連「はるはると」の「はるはる」は底本では後半が踊り字「〱」であるので、かく正字化した。「大西日月子」「號を桂涯」は伊良子清白が添書きした以外のことは不詳。]

 

 

  月 の 夜

 

このさやかなる月影に、

見らるゝことのはづかしく、

そむくとせしをあやにくに、

きみもこなたにむき給ふ。

 

いもとでなきがなにとなく、

こゝろのうちにうれしくて、

いつものやうに兄樣と、

いはぬをなぜととはれなば。

 

にぎるともなくにぎられて、

はなすをりにはなにとせん、

鬢のほつれのみだれきて、

搔きあげたくは思へども。

 

城のあとてふあの松に、

あれあれ月のかゝりたり、

昔の人を吊はゞ、

涸井の底もてらせかし。

 

思はず月や見入りけん、

なにを思にふけりけん、

きみも知らでかとくすぎて、

わが家はあとになりつるを。

 

 

  十津川の山中にて

 

まだ夜探しとおぼえたり。

こゝは峠の上ながら、

なほ明星の影見えず、

たゞしろじろと天の河、

南のかたに流れたり。

 

人をうづむる高がやの、

蓑の衣とすれあふに、

そよぐがごとく音立てゝ、

枯れし尾花の折れたるが、

面わなづるもけうとしや。

 

松明あげて見るかたに、

おどろかれにし寺の堂、

板は獸の蹄(アト)を印(ツ)け、

衆鳥の糞(クソ)ほの白く、

網もやぶれて山蛛兒(クモ)は、

なにのえじきにはまれけむ。

 

ひけば扉にむしばみて、

ほとけも末やすゝけては、

鼠も牙をかけざらむ。

雨風ごとに護摩檀の、

灰もこぼれて流れけむ。

 

この荒堂に夜を籠めて、

しのゝめ近くなるまゝに、

谷より雲やのぼるらむ、

たちまち狹霧おそひきて、

松の火白くしめりしが、

山高くてや小雨して。

[やぶちゃん注:「蛛兒(クモ)」「クモ」は「蛛兒」二字へのルビ。蜘蛛の異名としてこの熟語は見たことがないが、何だか、不思議に違和感はない。]

 

[やぶちゃん注:明治三一(一八九八)年三月五日発行の『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。]

ニンフス ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    ニ ン フ ス

 

 私は半圓(はんゑん)をなした美しい山脈に對(むか)つて彳んでゐた。若々しい綠の森がその頂(いたゞき)から麓まで蔽うてゐた。

 その上には澄み渡つた靑い南國の空が輝いてゐた。頂には日光が戯れ、麓には半ば草に隱されて、小川の早瀨がさざめいてゐる。

 するとかの古傳說が私の胸に浮んだ。基督降誕後一百年、希臘の船が多島海を走つてゐた時のことである。

 時は眞晝(まひる)……天候(てんき)は靜穩であつた。突然水先案内の頭上高く聲あつてはつきりと呼ばはつた、『汝かの島の傍を行かば、聲高く呼ばはれよ、「大いなる神パンは死せり!」と』

 水先案内は驚いた……恐れた。けれども船がその島にさしかかつた時。彼はその命に從つて呼ばはつた、『大いなる神パンは死せり!』

 すると忽ちその叫聲に應じて、その海岸のすべてに亘つて(その島は無人であつたけれども)高い歔欷慟哭の聲、長く曳いた悲鳴の叫びが響き渡つた。『ああ死せり! 大いなる神パンは死せり!」と。私は此の傳說を思出した……そして妙な考へが胸に浮んだ。『若し今私が呼び懸けたならばどうであらう?』

 ところで身のまはりの喜ばしげな美景を眺めては、死ついて考へることが出來なかつたので、私は懸命の聲を舉げて叫んだ、「大いなる神パンは蘇(よみがへ)れり! 蘇(よみがへ)れり!』すると忽ち、何等の不思議ぞ、私の叫び聲に應じて、半圓形の綠の山脈から嬉しさうな笑ひのどよめき、喜ばしさうな私語(さゝやき)や拍手の音が起つた。

『彼は蘇(よみがへ)れり! パンは蘇れり!』と若々しい聲々がどよもした。眼前(めのまへ)のすべては急に笑ひはじめた、大空の日よりも輝かしく、草間を流るる小川のせせらぎよりも樂しげに。せはしげなぱたぱたと云ふ輕い足どりが聞え、綠なす木立の間には、ふはりとした白衣が大理石のやうにきらめき、生々(いきいき)と紅味(あかみ)のさした裸形の四肢(てあし)がちらちらした……それは山からこの野邊へと急ぐニンフや、ドライアッドやバッカントの群れなのであつた。

 忽ち彼等は森のすべての出口に姿をあらはした。捲髮(まきげ)はその神々しい頭から垂れ下り、そのしなやかな手には花輪や鐃鈸(にようばち)を捧げ持つてゐる。そして笑聲は、はれやかな神々の笑ひ(オリンピアン・ラフタア)は飛びつ躍りつ彼等に伴つて來る……[やぶちゃん注:「オリンピアン・ラフタア」のルビは「神々の笑ひ」の五文字に対するもの。]

 一人の女紳が彼等の先頭に立つてゐる。彼女は皆の神より一層脊(せい)が高くて美しい。肩には箙(えびら)、手には弓を携へて、その浪打つた捲髮(まきげ)には白銀(しろがね)の新月(しんげつ)がきらめいてゐる……

『ダイアナ、おん身はダイアナだな?』

 けれどもその女神は突然立止つた……そして一時にニンフの群れもすべて立止つた。はればれしい笑ひ聲は消え失せてしまつた。

 私は沈默せる女神の顏が忽ち死人のやうに蒼褪(あをざ)めたのを見た、彼女の足は地にぴつたり着いてしまつて、名狀すべからざる苦痛に脣が開き、眼が大きく見開かれて遠方を凝視するのを見た……彼女は何を見附けたのだらう? 何を見詰めてゐるのだらう?

 私は彼女の見詰めてゐる方に向きかへつた……

 遙かなる地平線の上、なだらかな野の果てに、基督教の寺院の白い鐘樓の頂きに、一點の火のやうに黃金の十字架がきらめいてゐた……此の十字架を女神は目に留(と)めたのであつた。

 後(うしろ)に切れた絃(いと)のやうな長い切(せつ)なげな嘆息(ためいき)が聞えたので、私が振向いて見ると、ニンフの群れはあと方もなく消え失せてゐた……うち擴がつた森は依然として綠で、ただ繁り合つた木の間の其處此處(そここゝ)に何か白いものがかつ消えかつ輝いてゐたが、それがニンフの白衣であるか、谿(たに)から立のぼつた聲であるかはわからない。

 然し、女神達の消え失せたのを私はどんなにか悲しんだであらう!

    一八七八年十二月

 

ニンフス、この篇は基督教と異教との爭鬪を知つてゐなければわからない。基督教の宣傳されると共に、希臘の神々は滅ぼされてしまつた。】

パン神は牧神である、頭に角を生やし、半羊の姿をしてゐる。】

ニンフ、山林水澤の神、女神である。】

ドライアツド、森の闇の中に棲んでゐるニンフの一種。】

バツカンテス、酒神バツカスに仕へる女神達をいふ。】

神々の笑ひ(オリンピア・ラフタア)、無遠慮な哄笑である。神々はよく笑ふのだ。】

ダイアナ、狩獵の女神である、貞潔を代表してゐる。ダイアナの原形は月だから月を頂いてゐるのだ。】

十字架云々、基督教は神々には禁物だから、それで十字架を見て驚き恐れたのである。】

[やぶちゃん注:生田の詩篇本文の外来語の表記と註の違いは総てママである

「ニンフス」英語「nymph」(可算名詞)の複数形のカタカナ音写。古代ギリシャ語では「ニュンペー」(ラテン文字転写:Nymphē)で複数形は「ニュンパイ」(Nymphai)。

「パン神」(Pān)はギリシア神話に登場する牧羊神の半獣神で、ローマ神話におけるファウヌス(Faunus)と同一視される。

「歔欷」「きよき(きょき)」。啜(すす)り泣き。咽(むせ)び泣き。

「ドライアッド」英語「dryad」のカタカナ音写。ギリシア神話に登場する木の精霊であるニンフのドリュアス(ラテン文字転写:Dryas)。

「バッカント」「バツカンテス」これは本来はギリシア・ローマ神話に登場する豊饒と酒の神ディオニュソス(Dionȳsos))や酒神バッカス(Bacchus)の女性の信奉者を指すマイナス(複数形:マイナデス/英語: Maenad)。ウィキの「マイナス(ギリシア神話)によれば、マイナスと『は「わめきたてる者」を語源とし、狂暴で理性を失った女性として知られる。彼女らの信奉するディオニューソスはギリシア神話のワインと泥酔の神である。ディオニューソスの神秘によって、恍惚とした熱狂状態に陥った女性が、暴力、流血、性交、中毒、身体の切断に及んだ。彼女らは通常、キヅタ(常春藤)』(セリ目ウコギ科キヅタ属セイヨウキヅタ Hedera helix)『でできた冠をかぶり、子鹿の皮をまとい、テュルソス』(thyrsos:オオウイキョウ(セリ目セリ科オオウイキョウ属オオウイキョウ Ferula communis)で出来た杖。ブドウの蔓や葉などで飾られ、先端に松毬(まつかさ)を附けたものである。「タイニア」と呼ばれるリボン状のものが添えられる場合もある)を持ち運んでいる姿で描かれる。そこで未開時代に見合った粗野で奔放な踊りを踊る』。『ローマ神話では、ディオニューソスに対応する』バッカスに『狐の皮(bassaris)を身につけさせる傾向が強くなった後、マイナスはBassarids(またはBacchae、Bacchantes)としても知られることとなった』とある中の、英語の複数形「Bacchantes」と、その単数形「bacchante」をカタカナ音写したもの。

「鐃鈸(にようばち)」ルビは擦れて「□よ□ばち」しか現認出来ないが、「う」は破片から推すことが出来、その場合、「にようばち」と振られていると考えるしかない。しかし、これは歴史的仮名遣としては誤りで「ねうばち」(原題仮名遣は「にょうばち」)でないといけない。而して「鐃鈸」とは「鈴」或いは「銅製の銅鑼・シンバル」である。孰れでもよいように思われるかも知れないが、ギリシャ神話の技芸神の女神の祝祭に捧げ持つてゐる持ち物としては、私には孰れも、今一つ、ピンとこない気がするのである。鈴はやや小さい感じがし、ドラやシンバルはちょっと重々しい。原文を見ると、ここは「тимпаны」(ラテン文字転写:timpany)であって、これはイタリア語の「timpani」、楽器の「ティンパニ」であるが、これも相応しくないように思われるのだが、この西洋の「太鼓」を先の「鈴」や「シンバル」と合成してみると、ある楽器が思い出される。それは英語「timbrels」「tabourine」、タンバリンである。小さなシンバル状の鈴のついたタンバリンはニンフの持ち物に相応しく、ここでの音響としても、私は最もしっくりくる楽器であると思うのである。

「神々の笑ひ(オリンピアン・ラフタア)」「Olympian Laughter」(オリンポスの神々の笑い)という「神々の哄笑」の成句表現があるのかと思って調べたが、ない。]

「ダイアナ」ローマ神話に登場する、狩猟と貞節、及び、月の女神ディアーナ(ラテン語表記:Diāna)。新月の銀の弓を手にする処女の姿を特徴とする。日本語では長母音記号を省略して「ディアナ」とも呼び。英語「Diana」から「ダイアナ」の表記が現行は一般的。ギリシア神話ではアルテミス(Artemis)に相当する。主に南イタリアのカプアとローマ附近のネミ湖湖畔のアリキアを中心に崇拝された。]

スフィンクス ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    スフィンクス

 

 上の方は柔かく、底の方は硬(かた)くきしむ黃色がかつた灰色の砂……見渡す限り際涯(はて)のない砂。

 そして此の沙漠の上、此の死せる砂埃(すなぼこり)の海の上には。埃及のスフィクスの巨大な頭が突出てゐる。

 これ等の厚い出張つ脣や、動くことなく開いた仰向いた鼻孔、二つの眼、二重の弓門(アーチ)のやうになつた高い眉の下に半ば眠り半ば醒めてゐるやうな眼などは何を言はうとしてゐるのだらう?

 それ等は何か言はうとしてゐるのだ。實際それ等は何か語つてゐるのだ。けれどもその無言の言葉を解し、その謎を解き得るものは、ただエヂプスだけである。

 ところで、私はかうした容貌(かほつき)を知つてゐる……それには少しも埃及風のところはない。白い低い額、出張(でば)つた頰骨。短かい眞直(まつすぐ)な鼻、綺麗な口に白い齒、柔かな口髭にちぢれた顎髯、ずつと懸け離れた二つの大きからぬ眼……そして頭には眞中(まんなか)から分けた髮を頂いてゐる。……ああ。それは汝である、カルプである、シドルである、セミヨンである、ヤースラアフやリヤザンの百姓、我が同國人、血あり肉ある露西亞人である! 汝もまたスフィンクスの仲間であるか?

 汝もまた何をか言はうとするか? 然り、汝もまたスフィンクスである。

 そして汝の眼、汝の光澤(つや)のない窪(くぼ)んだ眼もまた語つてゐる……そして汝の言葉もまた無言で謎のやうである。

 然し汝のエヂプスは何處にゐるか?

 惜むぺし! 汝のエヂプスとなるためには、百姓服を着ただけでは十分では無いのである。おお、全露西亞のスフィンクスよ!

    一八七八年十二月

 

スフインクス、埃及のスフインクスは誰でも知つてゐるが、露西亞の農夫をそれに比したのである。】

エヂプスはテエベの王、スフインクスの謎とは、朝は四本の足で行き、晝は二本の足で行き、夜には三本の足で行く者は何と云ふので、女面獅身翼を備へたスフインクスと云ふ怪物がこの謎に答へない者は皆岩から突落してしてしまふので、それを退治たものを王にすると云ふ布告が出ると、エヂプスが見事その謎を解いてそれは人間だと言つた。赤ん坊の時は四つん這ひ、大きくなると立つて步き、年を取ると杖を突くからだ。それでスフインクスは岩から身を投げて死に、エヂプスは王になる。その後の悲劇はソツオクレスの名作があつて、この間藝術座でも上演した。さう云ふ事からして、ツルゲエネフは埃及のスフインクスの面、更に露西亞農民の面それ自らを謎だと云つたのである。】

カルプ等は皆ありふれた百姓の名前。】

リヤザン等は地名。】

百姓服云々は百姓服を着て人民の愛願を獲ようとした熱狂的なスラヴ主義者、國粹主義者を諷したものである。】

[やぶちゃん注:本文が「スフィンクス」で、註では「スフインクス」であるのはママ。

「ソツオクレス」古代ギリシアの悲劇詩人のソポクレス(ラテン文字転写:Sophoklēs 紀元前四九六年頃~紀元前四〇六年頃)のこと。言わずもがなであるが、彼の「名作」とはギリシャ悲劇の最高傑作とされる「オイディプス王」(ラテン文字転写:Oedipus Tyrannus)のこと。紀元前四二七年頃の作とされる。]

太平百物語卷五 五十 百物語をして立身せし事 附 奥書・冠首・全巻目録 /「太平百物語」~全電子化注完遂

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   ○五十 百物語をして立身せし事

 或(ある)國主(くにのかみ)の若君、御とし、未(いまだ)十才斗(ばかり)にならせ給ふが、ある日の事なりし、朝、とく、おきさせ玉ひて、御書院に出(いで)させ玉ひけるに、手水鉢(てうずばち)の際(きは)に、猫の切られて死(しゝ)ゐけるを御覽ありて、近習(きんじゆ)の人を召(めし)、

「是れは。いかに。」

と仰(おほせ)下されければ、

「されば候。いかなる者か、仕り候やらん。」

とて、則(すなはち)、御家中(ごかちう[やぶちゃん注:ママ。])へ觸(ふれ)ながして、御僉議(ごせんぎ)有(あり)ければ、御兒小姓(おんこごしやう)に蔭山只之進と申者、罷出(まかりいで)て申しけるは、

「某(それがし)、夜前(やぜん)御寢番(おんねばん)を相勤(あひつとめ)候所に、五更の比(ころ)ほひ、用事に罷出候ひしが、此[やぶちゃん注:「この」。]御緣先(ごゑんさき)に、たけ六尺斗(ばかり)[やぶちゃん注:約一・八二メートル。]と見へし女の、髮を乱して立[やぶちゃん注:「たち」。]ゐけるまゝ、變化(へんげ)の者と存じ、やがて切(きり)はなし候へば、何國(いづく)ともなく迯失(にげうせ)候ふゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、今日(こんにち)、御沙汰にもおよび奉らざるに、扨(さて)は、此[やぶちゃん注:「この」。]猫にて、御坐有(ござあり)けるにや。」

と申し上げければ、若君、殊の外、御きげんにて、仰(おほせ)けるは、

「かゝる事も、世に有(ある)事にや。」

と御尋(たづね)ありければ、御近習頭(ごきんじゆかしら)伴丈右衞門(ばんじやうゑもん)、申し上られけるは、

「さん候。其實否(じつふ[やぶちゃん注:ママ。])は存じ奉らず候ふといへども、世にばけ物有(あり)と申す事は、每度、咄(はな)しに承り候。」

と答へ奉れば、

「さらば、咄し仕(つかまつ)れ。」

と仰(おほせ)ありしほどに、取(とり)あへず、恐ろしき昔物がたりを申し上られければ、限りなく興(けう)ぜさせ玉ひて、それより、ひたと、化者咄しを御さいそく有(あり)ければ、御近習(ごきんじゆ)の人々も、御奉公の事なれば、御機嫌をとりどりに、樣々、おもひ出(いづ)るまゝ、御咄し申し上られけるが、每日每夜の事なれば、今は御咄しのたねつきて、皆々、案じ煩(わづら)ひけるが、御臺所に御料理方(おんりやうりかた)をつとめ居(ゐ)ける与次(よじ)といふ者あり。

 いろいろの恐しき咄を能(よく)覚へゐるよし、沙汰しければ、若君、此よし、聞し召(めし)、「急ぎ參りて、御はなし、申し上(あぐ)べき」よしの御意有難く、御前(おんまへ)に罷出(かまりいで)、いろいろの、ばけもの咄、或は、ゆうれひ[やぶちゃん注:ママ。]・ろくろ首・天狗のふるまひ・狐狸(きつねたぬき)のしわざ・猫また・狼が惡行(あくぎやう)、おそろしき事、哀(あはれ)なる事、かなしきむくひ、武邊成(なる)手柄(てがら)ばなし、臆(おく)したる笑ひ草(ぐさ)[やぶちゃん注:「気後(きおく)れしてしまって大失敗したような笑い話」。前の「武辺とするに相応しい手柄話」の対義表現。]など、手をかへ、品を分(わか)ち、御咄しを申し上ければ、若君、限りなき御機嫌にて、それより、每日每日、

「与次、与次。」

と召されけるが、此若君、御成長の後(のち)、國主(こくしゆ)と成(なり)玉ひければ、彼(かの)与次を召出(めしいだ)され、

「汝、我(わが)いはけなかりし比(ころ)ほひ、さまざまの物語をして、心を慰めしが、稚心(おさなごゝろ[やぶちゃん注:ママ。])に剛臆(がうおく)の差別を知り[やぶちゃん注:剛毅であることとと臆病であることの真の違い。]、恥と譽(ほまれ)の是非好惡(かうあく)を弁(わきま)へし程に、今、以て、益ある事、おほし。然(しか)れば、其儘、下﨟(げらう)にして、遣(つか)ふべきに、あらず。」

とて、忝(かたじけなく)も新知(しんち)[やぶちゃん注:新たに下賜された知行地。]三百石下され、大小姓格(おほこしやうかく)になされけるぞ、有難き。

「是(これ)、偏(ひとへ)に、百物語の數々、能(よく)覚居(おぼへゐ[やぶちゃん注:ママ。])たりし奇特(きどく)なり。」

とぞ、羨まぬ人は、なかりけり。

 目出度かりける、ためしなり。

 

 

太平百物語卷之五終

[やぶちゃん注:本話を以って「太平百物語」は終わっている。この一篇は本書中の特異点で、怪談でも擬似怪談でもなく、謂わば、本「百物語」のような、一見、他愛もない馬鹿げたあり得ない怪談でさえも、それを覚えておくことが、人生の中の思いがけない好機を摑む契機となることもあるという、噂話(実際に在り得そうな世間話)として全体を締め括るなかなかにニクい効果を狙っているものと言え、それは正に以下に示す「冠首」の語りと絶妙に応じている。「菅生堂人惠忠居士」はただの動物怪奇談の名手であるばかりではなく、怪談の大事な規範的属性を体現した、いや、なかなかの作者と存ずるものである。

 以下、現在の奥附に当たる奥書。]

 

 

        作者菅生堂人惠忠居士

        畫工髙木幸助貞武

  享保十七年子三月吉日出來

 

         大坂心齋橋筋書林

           河内屋宇兵衞新刊

 

[やぶちゃん注:「髙木幸助貞武」(生没年不詳)は大坂の浮世絵師。幸助は通称。ウィキの「高木貞武」他によれば、『大坂の人』で、素黙・素黙斎と号した。『はじめは斎藤幸助と称したという。延享』四(一七四七)年刊行の「難波丸綱目」には『「高木幸助」として名が載っている』。『狩野派の絵師牲川充信』(にえかわみつのぶ 生没年不詳:江戸中期の画家で享保(一七一六年~一七三六年)頃に活躍した大坂の人。狩野派の鶴沢探山(つるざわたんざん)に学び、独自の画風を拓いた)『の門人だったと伝わるが、残されている作には画風に西川祐信』(にしかわすけのぶ 寛文一一(一六七一)年~寛延三(一七五〇)年):江戸前期から中期にかけての浮世絵師。江戸を中心とした一枚摺の作品で主に語られる浮世絵の歴史の中で、祐信は京で活躍し、絵本を主に手がけたため、やや等閑視されるきらいがあるが、当世風俗描写を主体としていたそれまでの浮世絵に、古典の知識を作中に引用してこれを当世風に表わすなど、抑揚の効いた理知的な美を追求し、次代の浮世絵師たちに大きな影響を与えた作家である)『の影響がうかがえる。作画期は享保』五(一七二〇)年から宝暦二(一七五二)年の『間にかけてで、主に版本の挿絵を描く。宝暦の初年または明和の初年』(明和元年は一七六四年)『に没したといわれる』とある(代表的作品はリンク先を参照。本書も挙げられてある)。

「享保十七年」は壬子(みづのえね/じんし)で一七三三年。因みに、この年は江戸四大飢饉の一つである「享保の大飢饉」の年である。ウィキの「享保の大飢饉」によれば、前年享保十六年『末より天候が悪く、年が明けても悪天候が続』き、この板行の直後の夏から『冷夏と害虫により』、『中国・四国・九州地方の西日本各地、中でもとりわけ瀬戸内海沿岸一帯が凶作に見舞われた。梅雨からの長雨が約』二『ヶ月間にも及び』、『冷夏をもたらした。このためウンカなどの害虫が稲作に甚大な被害をもたらして蝗害として記録された。また、江戸においても多大な被害が出たといい、その死者の供養のために隅田川花火大会が始まったとされる』。『被害は西日本諸藩の』内、四十六『藩にも及』び、『藩の総石高は』二百三十六『万石で』あった『が、この年の収穫は僅か』二十七%『弱の』六十三『万石程度』しかなく、『餓死者』は実に一万二千人『(各藩があえて幕府に少なく報告した』とする説もある)『にも達した』(「徳川実紀」では餓死者を九十六万九千九百人とする)。また、二百五十『万人強の人々が飢餓に苦しんだと言われる。また、翌享保一八(一七三三)年『正月に飢饉による米価高騰に困窮した江戸市民によって』「享保の打ちこわし」も発生している。なお、『最大の凶作に陥った瀬戸内海にあって』、現在の愛媛県の最北に位置し、愛媛県今治市に属する芸予諸島の中の一つで、大山祇神社がある「神の島」として知られる、同県に属する最大の有人島『大三島』(おおみしま)『だけは』、『下見吉十郎』(秀譽(あさみきちじゅうろうひでたか 寛文一三(一六七三)年~宝暦五(一七五五)年:ここ大三島などの瀬戸内海の島々へサツマイモを広めた六部僧。松浦宗案・義農作兵衛とともに「伊予の三農」と称される人物)『がもたらしたサツマイモによって餓死者を出すことはなく、それどころか』、『余った米を伊予松山藩に献上する余裕があった。 この飢饉を教訓に、時の将軍徳川吉宗は米以外の穀物の栽培を奨励し、試作を命じられた青木昆陽らによって東日本各地にも飢饉対策の作物としてサツマイモの栽培が広く普及した』とある。これを以ってしても「太平」どころではなかったのであった。

 以下、ペンディングしていた本書冒頭に配された「冠首」(序)を示す。]

 

 

太平百物語冠首

 やつがり、年比(としごろ)、西國に經歷して、貴賤・僧俗・都鄙(とひ)・遠境(ゑんきやう)の分ちなく、打交(うちまじは[やぶちゃん注:ママ。])り語らひける中に、あやしの物語どもの、それが中にも、出所(しゆつしよ)の正しきをのみ集(あつめ)て、反古(ほうご)の端に書綴(かきつゞ)り置(おき)しをみれば、其數(かず)、百に滿(みて)り。然るを笥中(しちう)に藏(こめ)て虫糞(むしくそ)となさんも本意(ほゐ[やぶちゃん注:ママ。])なければ、是を梓(あづさ)に壽(いのちながふ)して、吾にひとしき輩(ともがら)に見せなば、永き夜(よ)の眠(ねふ)りを覚(さま)し、寂寞(つれづれ)なぐさむ一助ともならんと、剞劂氏(きけつし)に命じぬ。実(げ)に怪力亂神を語るは、聖(ひじり)の文(ふみ)の誡(いまし)めながら、かく拙き物語も、おかし[やぶちゃん注:ママ。]と見る心より、自然と善惡の邪正(じやしやう)を弁(わきま)へ、賢愚得失の界(さかひ)にいらば、少(すこし)き補ひなきにしもあらずと、いにしへの百物語に太平の御代(みよ)を冠(かふむら)しめて、筆(ふんで[やぶちゃん注:ママ。])を浪花菅生堂(らうくはかんしやうどう[やぶちゃん注:ママ。])の窓中に抛(なげう)つといふ事、しかなり。

 時は谷の戶(と)出(いづ)る鶯の

   初聲(はつこゑ)そふる比ならし

           市中散人

            佐(ゆうすけ)書

[やぶちゃん注:「弁(わきま)へ」の「弁」の字は下部が複雑な異様な字形であるが、似たような字を見出せなかったので、この通用字で代えた。最後の署名の位置は実際には前二行の下方中央から二行目下にかけてで、最後に大きな落款が打たれてある(字は私には判読出来ない)。私が底本とした巻首全文の画像(「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のそれ()をリンクさせておく。

「やつがり」「僕(やつがれ)」に同じ一人称人代名詞。「奴(やつこ)」たる「吾(あれ)」の音変化とされる。古くは「やつかれ」と清音(底本でも「が」は濁音)。自分を遜(へりくだ)っていう語。上代・中古では男女を通じて用いたが、近世以降は男性がやや改まった場で用いるに限られた。

「剞劂氏(きけつし)」元は板木を彫る人、板木師のこと。ここは板行する板元(具体的には巻末に出た大坂心斎橋の書林河内屋宇兵衛を指す。

「怪力亂神を語るは、聖(ひじり)の文(ふみ)の誡(いまし)め」「論語」の「述而篇」の「子不語怪力亂神」(子、怪力亂神(かいりきらんしん)を語らず)の孔子の言を指す。「怪」は「尋常でない事例」を、「力」は「粗野な力の強さを専ら問題とする話」を、「乱」は「道理に背いて社会を乱すような言動」を、「神」は「神妙不可思議・超自然的な、人知では解明出来ず、理性を以ってしても、説明不能の現象や事物」を指す。孔子は仁に満ちた真の君子というものは怪奇談を口にはしない、口にすべきではない、と諭すのである。しかし、この言葉は、実は逆に古代から中国人が怪奇現象をすこぶる好む強い嗜好を持っていたことの裏返しの表現であることに気づかねばならぬ。

 以下、各巻冒頭に配された目次を一挙に示す。目録各項は底本では二字下げ「○」で始まっており、話数と表題の間は有意に空いている(上記のリンクの左頁を参照)が、ブラウザの不具合を考えて、引き上げた。但し、読みは既に本文で出してあるので、一部、難読と判断したものを除いて省略した。歴史的仮名遣に反する表記も総てママである。]

 

太平百物語卷之一目錄        前編

○一   松岡同雪狐にばかされし事

○二   馬士八九郞狐におどされし事

○三   眞田山のきつね伏見へ登りし事

○四   冨次郞娘蛇見入れし事

○五   春德坊きつねに化されし事

○六   愚全坊化者の難を遁れし事

○七   天狗すまふをとりし事

○八   調介姿繪の女に契りし事

○九   經文の功力にて化者の難遁れし事

 

太平百物語卷之二目錄        前編

○十   千々古といふばけ物の事

○十一  緖方勝次郞獺を射留し事

○十二  小僧天狗につかまれし事

○十三  或僧愛宕山にて天狗と問答の事

○十四  十作ゆうれひに賴まれし事

○十五  吉田吉郞ばけ物を切し事

○十六  玉木蔭右衞門鐮倉にて難に逢ひし事

○十七  榮六娘を殺して出家せし事

○十八  小栗栖のばけものゝ事

○十九  狐人たがへして憑きし事

○二十  本行院の猫女にばけし事

○二十一 孫兵衞が妾(しやう/てかけ)蛇になりし事

 

太平百物語卷三目錄         前編

○二十弐 きつね仇をむくひし事

○二十三 大森邪神往來の人を惱す事

○二十四 くらがり峠三つの火の魂の事

○二十五 惡次郞天狗の栖に至る事

○二十六 高木齋宮相摸にて難に逢ひし事

○二十七 紀伊の國隱家の事

○二十八 肥前の國にて龜天上せし事

○二十九 和田八熊を殺して發心せし事

○三十  小吉妻のゆうれひと物語する事

 

太平百物語卷之四日錄        前編

○三十一 女の執心恨を永く報ひし事

○三十二 松浦庄太夫猫またと問答の事

○三十三 孫六陰蜘(ぢやらうぐも)にたぶらかされし事

○三十四 作十郞狼に逢ひし事

○三十五 三郞兵衞妻の幽㚑の事

○三十六 百(ど)々茂左衞門ろくろ首に逢ひし事

○三十七 狐念仏に邪魔をなせし事

○三十八 藥種屋長兵衞金子をひろひし事

 

太平古物語卷之五目錄        前編

○三十九 主部(とのべ)筆太化物に宿かりし事

○四十  讃岐の國騎馬のばけ物の事

○四十一 力士の精(せい)盗人を追退けし事

○四十二 西の京陰魔羅鬼(おんもらき)の事

○四十三 能登の國化者やしきの事

四十四 或侍猫またを切し事

四十五 刑部屋敷ばけ物の事

四十六 獺人とすまふを取し事

四十七 松田五市たぬきを切し事

四十八 紺屋のばけ物の事

四十九 天狗祟りをなせし事

五十  百物語をして立身せし事

 

 以上前編終(おはり)後編跡より出(いだ)し申

 

[やぶちゃん注:最後に以上の予告があるが、遂に後編は未刊であった。最終の「五十」に「百物語をして立身せし事」を持ってきていることと、その内容が、本「太平百物語」全体の半公式的な本百物語の所縁をシチュエーションとして確信犯で「キリ」として語っている点から見ても、筆者は実際には後編を出す意志は実際にはなかったのではないかと私は推察する。

太平百物語卷五 四十九 天狗祟りをなせし事

 

   ○四十九 天狗祟りをなせし事

 或國(あるくに)の大守君(たいしゆくん)、御領分の山々の樹木を、おほく切(きら)せられければ、其中(そのなか)に、天狗の栖家(すみか)、おほく有(あり)て、此天狗ども、安からぬ事におもひ、

「いざや。此恨みに返報をなさばや。」

とて、御別埜(おんしたやしき)におかせ玉ふ女房達の黑髮を、夜每(よごと)に、壱人宛(づゝ)、髻(もとゞり)より切(きり)ければ、ありあふ女中、打集(うちあつま)り、皆々、恐れ歎きつゝ、

「いかゞせん。」

とぞ、あきれ居(ゐ)たり。

 主君、此よしを聞(きこ)し召(めし)、大きに驚かせ玉ひ、

「是、天狗の所爲(しよゐ)ならめ。」

と、おぼし召(めし)て、

「此後(このゝち)、樹木を剪採(きりとる)事、かたく停止(てうじ)仕(つかまつ)るべき。」

よし、仰出(おほせいだ)されければ、これにこゝろや足(たり)けん、其後(そのゝち)は、此災(わざはひ)もなかりしとぞ。

[やぶちゃん注:以下は原典では全体が本文の二字下げで、有意に字が小さく、本文同様、ベタで(改行せずに)書かれてある。]

 評じて曰(いはく)、此事、何國(いづく)の事といふ事を、しらず。或人のいふ、

「是は唐土(もろこし)の事をば、此道のすき人、わが國に附會して、ちか比[やぶちゃん注:「ちかごろ」]のやうに、いひなしける。」

とも、いひあへりぬ。

 何(いづ)れか是(ぜ)なるや、しる人は、しるべし。われは、しらざるを、しらず。

[やぶちゃん注:評の末尾は、「中国の原話を日本に付会したに過ぎない翻案とする説と、確かな本邦で起こった実話とする説(それをことさらに挙げてはいないが、それを対峙させなければ、怪談本としての面目は丸潰れである)との、孰れが正しいかは、まあ、知っている人は、知っているのであろう。私は知らない。知らないことは知らないと言うしかない。」という謂いであろう。既に見た通り、巻三の「三十 小吉が亡妻每夜來たりし事」は明の瞿佑(くゆう)作の志怪小説集「剪燈(せんとう)新話」の中の、知られた一編「牡丹燈記」を素材として用いているし、他にも発想や展開を中国の伝奇・志怪小説に求めていると思しいものもあるから、これも逆に見れば、筆者が、「翻案だ」の「これが種本だ」のという五月蠅い穿鑿(「批判」と言うのはあまり当たらない。当時は同時代人に書いたものでさえ、ほぼ真似て板行しても「盗作だ」などとする感覚はほぼ皆無に等しかったからである。要は面白ければよかったのである)をかわすためポーズとも見られる。]

太平百物語卷五 四十八 紺屋ばけ物の事

 

   ○四十八 紺屋(こんや)ばけ物の事

 阿波の國に松屋五郞八といふ紺屋あり。

 或る夜、子の刻ばかりに、家内(かない)、何となく、騷がしかりしかば、五郞八、目覚めて、あたりを見廻しけるに、色の黑き、犬よりは大き成[やぶちゃん注:「なる」。]獸(けだもの)、兩手をあげて、足(あし)二本にて、庭を步(ある)きけるが、染物につかふ糊(のり)をこしらへ置(おき)けるを、悉く、喰(くら)ひ仕廻て、

「そろそろ。」

と、上にあがり、燈(ともしび)の油を、ねぶりける。

 五郞八、此体(てい)を、よくよく、みるといへども、餘りのおそろしさに、しらぬふりにて[やぶちゃん注:騒いだり、音を立てたり、することも出来ず。]、伺ひ居(ゐ)たり。

 扨、夜明(よあけ)ければ、其邊(あたり)の若者共に、「此よし」を語り、

「如何(いかゞ)せん。」

と議(ぎ)しければ、いづれも、はやりお[やぶちゃん注:ママ。「逸(はやり)り男(を)」。]の者どもなれば、皆々、いさんで、五郞八が宅(たく)に集(あつま)り、

「今宵、化者きたらば、打殺(うちころ)さん。」

とて、木刀、又は、樫(かし)の棒なんど、思ひ思ひに脇ばさみ、物かげに隱れ居て、

『今や來(きた)る。』

と待(まち)けるに、案に違(たが)はず、夕(ゆふべ)の刻限[やぶちゃん注:前夜と同じ子の刻。]と覚しき折節、かのばけ物、顯(あらは)れ出(いで)、あたりを、

「きつ。」

と見廻し、又、糊棚(のりだな)にかゝる所を、待(まち)かけ居たる若者共、一度に、

「どつ。」

と、飛出(とびいで)て、

「遁(のが)すまじ。」

と打(うち)ければ、化物、これにおそれをなし、迯ぐる所を、彼方此方(かなたこなた)と追廻(おひまは)けるに、少(すこし)戶の透間(すきま)の有(あり)し所より、

「つ。」

と、拔(ぬけ)て迯出(にげいで)ければ、

「何國迄(いづくまで)も。」

と追(おひ)かけたりしが、平山(ひらやま)といふ所にて、大き成[やぶちゃん注:「なる。]榎(ゑのき)の内に隱れけるを、猶も、かけ寄(より)、尋(たづね)めぐれば、壱つの、火の玉、ほのほとなりて飛出(とびいで)しに、皆々、おそれて、迯歸(にげかへ)りしが、其後は、五郞八が宅へも、再び、來(きた)らざりける、とぞ。

 いかなる化者にてや、有りけん、しらずかし。おぼつかな。

[やぶちゃん注:確信犯の因果も根拠も一切不明の物の怪であり、しかも本書の強い特色である獣類の変異である、黒犬よりも有意に大きい獣(狼より有意に大きく、月の輪熊よりは一回り小さいといったニュアンス)の見かけを持り、しかもそれは直立二足歩行を日常的に行う四足動物の形状を成す。糊や灯しの油を舐(ねぶ)る(妖猫・妖狐・妖狸・妖獺・妖鼬の類いに繋がりそうな属性ではある)。かなり残念なのは、二日目の夜の出現の、複数の目撃者がいるリアルさを出すべき「キモ」のシークエンスで、全く、その視認された「物の怪」の形状や習性を、全く描かれていない点ではある(それはそれで筆者の、読者の最後まで不明性の恐怖を与えるための確信犯なのであろうが)。最後のロケーションである、榎は、老木になると、怪異を生ずるともされるし、大きな榎の洞にはやはり年経て化け物と成った大蛇・化鳥・妖獣の類いを想起は出来る。但し、「火の玉」の出現(私は狐火より(榎の内は狐の棲み家としては相応しくない)も、火と強い相性を持つとされる妖鼬の「火柱」を想起した。私の「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼬(いたち)(イタチ)」を参照されたい。まあ、この部分も追跡者を退散させて話を切り上げるには展開上で必要ではあったのだが)は、視覚上に小道具として如何にもな、三文芝居のそれで、却って、読んでいて失笑してしまった。

「おぼつかな」形容詞語幹の用法による詠嘆。正体不明のこの「化け物」に対する不信・恐怖を余韻として添えて効果的である。それは「おぼつかなし」の「ぼんやりしていて、その実体がはっきりせず、不気味に火の玉となってほのかに消えてしまう」という原義を含みつつ、派生するところの不安感情としての「ひどく気がかりで、不安で」「不審極まりなく、如何にも疑わしいではないか?!」という響かせである。]

2019/05/29

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(25) 「神々降臨ノ跡」(1)

 

《原文》[やぶちゃん注:見出し下冒頭三字空けはママ。]

神々降臨ノ跡   前ニ駒形ト云フ神ノ名ノ本意ヲ駒ノ足型ニ基ケリト言ヒシガ、此解釋ノ丸々ノ臆說ナラザルコトハ、甲州穴山村ノ駒形石ナド之ヲ證スルニ足レリ。【駒形杉】遠江濱名郡龍池村大字八幡ノ八幡社ニ一ノ駒形杉アリ。元龜三年德川武田合戰ノ折ニ、白衣ノ老翁白馬ニ跨リテ此木ノ梢ヨリ空ニ昇ルト濱松勢ノ眼ニ見エタリ。軍終リテ後杉木ヲ檢スルニ、馬蹄ノ跡最モ明白ナリキ〔曳馬拾遺〕。即チ八幡大菩薩ガ未來ノ大將軍ヲ助ケラレタル證據ナリシナリ。【足形ノ社】相州足柄上郡岡本村大字駒形新宿ノ駒形權現ハ又足形ノ社トモ稱ス。神體ハ地上二尺バカリノ一箇ノ岩ニシテ、其面ニ馬ノ足形アリ。足ヲ煩フ者ノ祈願スル神ナリキ〔新編相模風土記〕。土佐長岡郡西豐永村大字柳野影ノ宮ノ神ヲ馬足大明神ト云フ。例祭ハ九月吉日〔諸神社錄〕、未ダ其由來ヲ知ラズ。更ニ步ヲ進メテ馬頭觀音ヲ駒形ノ本地佛ト假定スルナラバ、武藏北足立郡平方村大字平方ノ孤峯山馬蹄寺寶池院ノ本尊ガ馬頭觀音ナリシ事實モ亦一箇ノ證ナリ。此寺ハ古クハ馬蹄菴ト稱シ、吾妻左衞門是好ト云フ芝居ニデモ出サウナ名前ノ武士ガ、【三輪】其伯父三輪莊司ノ菩提ノ爲ニ建立セシ淨土寺ナリ〔新編武藏風土記稿〕。莊司死シテ後馬ニ生レ變リ、人ノ如ク物言ヘリトノ傳說モアレバ、此馬モ亦蹄ノ痕ヲ石ニ印セシコトナルべシ。【觀音石】長門大津郡深川村江良ノ觀音石ハ、【圓相】一間[やぶちゃん注:一メートル八十二センチメートル弱。]四方ホドノ石ノ面ニ圓相アリテ、其中ニ人ノ足ト馬ノ蹄多ク存セリ。昔ヨリ此石ヲ觀音ノ正體トシテ拜スト云ヘバ〔長門風土記〕、此モ亦一ツノ馬頭觀音ナリケリ。此等ノ事實ヲ考ヘ合ストキハ、駒形ハ即チ馬ノ足型ノコトニテ、神馬ノ奇瑞ノ顯著ナルガ爲ニ、特ニ馬ノ爲ノ祈願ニ有效ナリト考フルニ至リ、終ニ他ノ馬ノ生靈死靈ヲ祭ルノ信仰ト合體シタルモノナルべシ。

 

《訓読》

神々降臨の跡   前に駒形と云ふ神の名の本意を駒の足型に基けりと言ひしが、此の解釋の、丸々の臆說ならざることは、甲州穴山村の駒形石など、之れを證するに足れり。【駒形杉】遠江濱名郡龍池村大字八幡の八幡社に一つの駒形杉あり。元龜三年[やぶちゃん注:一五七三年。]、德川武田合戰の折りに、白衣(びやくえ)の老翁、白馬に跨りて、此の木の梢より空に昇ると、濱松勢の眼に見えたり。軍(いくさ)終りて後、杉木を檢(けみ)するに、馬蹄の跡、最も明白なりき〔「曳馬拾遺」〕。即ち、八幡大菩薩が、未來の大將軍を助けられたる證據なりしなり。【足形の社】相州足柄上郡岡本村大字駒形新宿の駒形權現は、又、「足形の社」とも稱す。神體は地上二尺ばかりの一箇の岩にして、其の面に馬の足形あり。足を煩ふ者の祈願する神なりき〔「新編相模風土記」〕。土佐長岡郡西豐永村大字柳野影の宮の神を「馬足(ばそく)大明神」と云ふ。例祭は九月吉日〔「諸神社錄」〕、未だ其の由來を知らず。更に步みを進めて、馬頭觀音を駒形の本地佛と假定するならば、武藏北足立郡平方村大字平方の孤峯山馬蹄寺寶池院の本尊が馬頭觀音なりし事實も亦、一箇の證なり。此の寺は、古くは「馬蹄菴(ばていあん)」と稱し、吾妻左衞門是好と云ふ、芝居にでも出さうな名前の武士が、【三輪】其の伯父三輪莊司の菩提の爲めに建立せし淨土寺なり〔「新編武藏風土記稿」〕。莊司、死して後、馬に生れ變り、人のごとく物言へり、との傳說もあれば、此の馬も亦、蹄の痕(あと)を石に印(しる)せしことなるべし。【觀音石】長門大津郡深川村江良(えら)の觀音石は、【圓相(ゑんさう)】一間四方ほどの石の面に圓相ありて、其の中に人の足と、馬の蹄、多く存せり。昔より、此の石を觀音の正體として拜すと云へば〔「長門風土記」〕、此れも亦、一つの馬頭觀音なりけり。此等の事實を考へ合はすときは、「駒形」は、即ち、「馬の足型」のことにて、神馬の奇瑞の顯著なるが爲めに、特に馬の爲めの祈願に有效なり、と考ふるに至り、終に、他の馬の生靈・死靈を祭るの信仰と合體したるものなるべし。

[やぶちゃん注:「遠江濱名郡龍池村大字八幡の八幡社」諸データから見て、私は静岡県浜松市浜北区油一色に現存するこの八幡宮(グーグル・マップ・データ。以下同じ)ではないかと推理している。但し、旧龍池村地区には八幡を冠する神社が現在も複数あり、それらでないとも言えない。伝承を確認出来ない。そもそも糞を漏らして敗走(後注参照)した家康勢が呑気に以下に描写されるような幻想風景をのんびり眺めていられた話は、これ、なかろが! という気は強くしてはくるね。【2019年6月1日追記】T氏より、地名履歴による私の誤認を御指摘戴いたので、以下に引用させて戴く。

   《引用開始》

藪野様は「遠江濱名郡龍池村大字八幡の八幡社」を「静岡県浜松市浜北区油一色」と推定されていますが、「静岡県浜松市浜北区八幡」の八幡神社と思います。場所はこちらです。[やぶちゃん注:私が比定した八幡宮の南東五百五十メートルほどの位置にある。]「静岡県浜松市浜北区油一色」は明治二九(一八九六)年の時点で「遠江濱名郡美島村」であり、明治四一(一九〇八)年の時点で「遠江濱名郡北浜村」です[やぶちゃん注:本「山島民譚集」は大正三(一九一四)年七月刊]。「美島村」は明治二二(一八八九)年四月一日の町村制の施行により、横須賀村・中条村・東美薗村・西美薗村・高畑村・寺島村・油一色村及び豊田郡本沢合村が合併して、長上郡美島村が発足。明治四一(一九〇八)年一月一日に平貴村の一部(貴布祢・沼・道本・小林)と合併して北浜村が発足。同日、美島村は廃止されています(ウィキの「美島村」)。

   

実は私がいい加減に比定材料とした「歴史的行政区域データセット」の「静岡県浜名郡龍池村」を改めてちゃんと見たところが、油一色の「八幡宮」はそこでも実は東の村域線の僅かに外側であったのであった(私はいい加減に旧村域を頭において、この附近の現在の地図を見、その辺りの中心と誤認した附近の本「八幡宮」を比定してしまったのであった)。なお、その「八幡宮」から三百五十メートル南下した位置に「若宮八幡宮」というもある(静岡県浜松市浜北区上善地)が、ここは旧龍池村内(上のリンク参照)で、T氏の比定された「八幡神社」の四百七十メートルほどの位置に当たる。無論、現在の地名も「八幡」であるから、T氏の「八幡神社」が柳田國男の言うそれであることは最早、間違いない。それにしても、最初に述べた通り、この周辺には八幡を祀る社が異様に多い感じを新たにした。これらは、或いは、孰れもこの八幡の八幡神社が元になって分祀されたものかも知れない。いつも有り難い情報を戴くT氏に改めて御礼申し上げるものである。

「德川武田合戰」元亀三年十二月二十二日(一五七三年一月二十五日)に遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった武田信玄と徳川家康・織田信長の間で行われた「三方ヶ原の戦い」。信長包囲網に参加すべく上洛の途上にあった信玄率いる武田軍を徳川・織田の連合軍が迎え撃ったが、敗退した。特に家康が死を覚悟した大敗退・大敗走として知られる。この三方ヶ原から前の「遠江濱名郡龍池村」は東北東に十キロメートル弱ほどの位置にある

「相州足柄上郡岡本村大字駒形新宿の駒形權現」「足形の社」【2019年6月1日:改稿】T氏よりメールを頂戴し、これは柳田國男の「大字」の記述ミスであるという御指摘を得た。正しくは「相州足柄上郡岡本村大字炭焼所」(柳田國男の底本表記(小文字右付)に合わせて「大字」を上付とした)で、この当時の足柄上郡岡本村はウィキの「岡本村(神奈川県)」によれば、明治二二(一八八九)年四月に町村制の施行により、炭焼所村・和田河原村・駒形新宿・塚原村・三竹山村・岩原村・沼田村が合併して発足したものであった(本書の刊行は大正三(一九一四)年七月)。「新編相模國風土記」の記載は、巻十八の「村落部 足柄上郡七」冒頭の「苅野庄」の部の「狩野村」・「中沼村」・「三竹山村」(みたけやまむら)・「沼田村」・「岩原村」・「塚原村」・「駒形新宿」・「炭燒所村」(すみやきしょむら)と続く中の「駒形新宿」の条の中に(【 】は二行割注。下線はやぶちゃん)、

   *

○駒形新宿【古滿加多志無之久】 古は塚原村にて、新宿と呼し地なり、【正保[やぶちゃん注:一六四五年から一六四八年まで。第三代将軍徳川家光の治世。]の改に塚原の内新宿と記す、】其後塚原の枝鄕となり、始て駒形新宿と唱ふ、【元祿[やぶちゃん注:一六八八年から一七〇四年まで。第五代将軍徳川綱吉の治世。]の改に、塚原村枝鄕駒形新宿と號す、】炭燒所村鎭守、足形社或は駒形權現といへり、當所其比隣に在をもて駒形の名は負はせしなり、今は全く別村となれり、其年代は傳へず、[やぶちゃん注:以下略。]

   *

とある。則ち、この「駒形新宿」という新村地区は隣りの「炭燒所村」内の鎮守である「足形社」=「駒形權現」社のごく近くに新設された村であったのであり、T氏も指摘されておられるのであるが、後の「炭燒所村」の項に「足形の社」「駒形權現」の由来の本記載(名の由来)が載るのである。当該部を電子化すると、

   *

○炭燒所村【須美也幾之餘牟良】 相傳ふ古は墨八寸生村【須美也幾也宇牟良[やぶちゃん注:「すみやきしやうむら」。]】と書せり、こは彼賴朝秘藏の乘馬磨墨のせし地なれば村名とすと云、【彼馬毛色純黑にして、長[やぶちゃん注:「たけ」。]四尺八寸[やぶちゃん注:約一メートル四十五センチメートル。後注参照。]に及ぶ、故に磨墨と名付、村名も賴朝が名づくる所と傳ふ、今村民次兵衛は彼馬のせし家筋なりと云、】[やぶちゃん注:中略。]

○足形社 又駒形權現とも呼べり。神躰は一巨石にて地中に埋れり、【地上に出る所、長二尺許、橫一尺五寸、】面に凹池あり。【徑六七寸許、深七寸餘、】賴朝の乘馬磨墨の蹄蹟なりと云、例祭は九月朔日、足を病む者祈れば驗あり、【癒れば草履を賽す、又病馬には沓を納むるを例とす、】王傳寺持、[やぶちゃん注:以下略。]

   *

旧村名は「墨(すみ)八寸(やき)生(しょう)村(むら)」で、記されている通り、「八寸(やき)」=名馬(「寸(き)」は馬の丈(たけ)であるが、馬では地面から肩高(乗馬する背の前部)までを指すので注意されたい。その背丈が四尺八寸(すん)もあるものを指すが、これは一般名詞「八寸(やき)」で「大きく逞しい馬」を言う語ととっておく。馬の丈は四尺(一メートル二十一センチメートル)を標準とし、それ以上は寸だけで数え、それを別して「寸(き)」と称した)磨墨が生まれた村という意味である。私(やぶちゃん)が参照して電子化したのは「国立国会図書館デジタルコレクション」の「大日本地誌大系」の第三十六巻のこちら(左ページ)である。T氏より現在の「足形社」は神奈川県南足柄市生駒のこちら、と指示戴いた。そのサイド・パネルの境内画像を見ると、駒形石らしい(かも知れない)石が横たわってはいる。また、そこの解説版(写真)によれば、大正時代までは、ここで競馬も行われていたという(この解説版(南足柄観光協会及び南足柄教育委員会製作)は非常に読み易く、且つ、丁寧に書かれてある)。T氏にはいつも乍ら、深く感謝申し上げるものである。

「土佐長岡郡西豐永村大字柳野影の宮の神」「馬足(ばそく)大明神」現在の高知県長岡郡大豊町のこの附近に駅名や郵便局名で「豊永」を現認出来るから、この辺りか。国土地理院図で見ると、複数の神社をこの辺りに見出すことは出来るが、私に出来るのはここまでだ。悪しからず。「影の宮」と言い、「馬足(ばそく)大明神」(読みは「ちくま文庫」版全集に拠る)と言い、何だか横溝正史張りに慄っとくるんだかねぇ。

「更に步みを進めて」謹厳実直の柳田先生にしてちょいと「駄」洒落れてみましたかねぇ。

「馬頭觀音を駒形の本地佛と假定する」賛成!

「武藏北足立郡平方村大字平方の孤峯山馬蹄寺寶池院」埼玉県上尾市平方にある浄土宗の孤峯山寶池院馬蹄寺。いつも大変お世話になっている東京都・首都圏の寺社情報サイト「猫の足あと」の「馬蹄寺」によれば、『鎌倉時代に吾妻左衛門是好が、その伯父三輪庄司好光の菩提を弔うために、知道を庵主として小名大門に馬蹄庵と称して創建したといい』、『天文年中』(一五三二年~一五五五年)、『感誉存貞上人が浄土宗寺院として中興、天正』一八(一五九〇)年に『当地へ移転したと』される。(『感誉存貞上人は、川越蓮馨寺を開山した他、芝増上寺』十『世となった名僧で、当寺の山号院号は川越蓮馨寺と同じ』)。『江戸期には徳川家光より寺領』十五『石の御朱印状を拝領して』いたとある。現在の本尊は阿弥陀如来像であるが、「新編武蔵風土記稿」の平方村の本馬蹄寺の縁起によれば(漢字の幾つかを正字化させて貰った)、『淨土宗、入間郡河越蓮馨寺の末、孤峯山寶池院と號す、寺領十五石の御朱印を賜ふ、昔は小名大門にありしが、天正十八年ここに移せりと、寺傳の略に云昔當所に吾妻左衛門是好と云る者あり、其伯父なりける三輪庄司好光と云ものの爲に草菴を建て、知道と云僧を庵主となし、伯父の菩提を弔ひけり』。『其頃は馬蹄庵と號し、馬頭観音を安ぜしと云、此餘三輪庄司が馬と化して人語をなし、及び蹄を折しことあるより』、『寺號となせしとなり、さまざまの事を書つづれど』、『怪談に亘れば』、『取らず、遙の後』、『天文年中』、『感譽といへる僧當寺を再興し、山號寺號を銘して淨土の道場とせり、よりてこれを開山とすと云、又本寺の傳へにては、川越の城主大道寺駿河守政繁が母常に佛道を傾慕し、己が甥山角某の第二子を僧として、感譽上人と號し、平方村に一寺を草創せしむ』に『よりて』、『かの法尼が謚をとりて蓮馨寺と號せり、其境内御嶽の社あるにより孤峯山と號し、又』、『丸池と云あるをもて寶池院と名付、是より冬夏の法幢』、『怠りなく』、『僧俗』、『群詣しけり、其後永祿六年上人』、『江戶緣山へ轉住し、夫より諸刹を開建して遂に當寺に歸れり』。『此頃』、『川越城主の指揮によりて、蓮馨寺を今の所へ引移せしにより、其跡へ』、『この馬蹄寺を建立すと云、何れの是なるべきやは詳にせざれど、三輪庄司が馬と化せしなど云は妄誕なること齒牙をまたずして、明かなり』。『本尊三尊の彌陀を安ず』。『鐘楼。明曆三年鑄造の鐘をかく』。『觀音堂。馬頭観音を安ず』。『是』、『當寺往古の本尊なり、堂の傍に天文中の古碑二基立り』。『共に月待供養塔にて、灌律師賢秀阿闍梨、某十郎定重・彦五郎吉次助三など彫れり』とあるので、大いに納得!

「莊司、死して後、馬に生れ變り、人のごとく物言へり」これ! いいねえ!! どこかに伝承として残ってないのかなあ!!!

「長門大津郡深川村江良(えら)の觀音石」山口県長門市東深川江良gomen氏のブログ「山へgomen … 山口県の山歩き記録」の「観音石・江良山(長門市東深川)[県北部の山]」でアプローチから「観音石」の画像まで総て丁寧な逐次写真で確認出来る。地図もあり!

「此等の事實を考へ合はすときは、「駒形」は、即ち、「馬の足型」のことにて、神馬の奇瑞の顯著なるが爲めに、特に馬の爲めの祈願に有效なり、と考ふるに至り、終に、他の馬の生靈・死靈を祭るの信仰と合體したるものなるべし』無条件で賛成します! 柳田先生!]

うもれ水 すゞしろのや(伊良子清白)

 

うもれ水

 

 

  八鬼山

 

 八鬼山は紀のくに南北牟婁兩郡の界にあり。友人某山麓に
 居して炭燒を業とす。都門に來學せんとするの意頻なり。
 乃ち此詩を作りて與ふ。

[やぶちゃん注:、「八鬼山」は「やきやま」と読み、現在の三重県尾鷲市九鬼町(くきちょう)(グーグル・マップ・データ)にある六百四十七メートルの山である。熊野古道伊勢路の途中にある。「南北牟婁兩郡の界」とあるが、現在の尾鷲市は昭和二九(一九五四)年に合併する以前は北牟婁郡の尾鷲町と須賀利村と九鬼村、及び、南牟婁郡の北輪内村と南輪内村であった。]

 

鬼の棲むてふ八鬼山の、

さやけき冬の月影は、

よひよひ每にきみが讀む、

書の燈とてらすらむ。

 

うらやむきみの山の菴、

紅葉おちてやねをふき、

ふく風塵を拂ふらむ、

玉の墓はあらずとも。

 

叫ぶ山猿の谷ごとに、

水の氷るをつぐるとき、

寐覺の枕そば立てゝ、

閨うつ霰きゝまさむ。

 

あやふき岩を攀ぢ登り、

長き蘿にすがりつゝ、

裾よりのぼる白雲を、

さか卷く雪と見ますらむ。

[やぶちゃん注:「蘿」「つた」。]

 

函に藏むる書ならで、

文字なき書もあるものを、

炭燒く業のつらしとて、

なにいとふらん山の奧。

 

わけてもきみが手みづから、

亡たらちねの奧城を、

まもりたまふはいかばかり、

すぎたる幸におはすらむ。

 

きみ見そなはせつゞら折、

檜原杉原下闇く、

けはしき峯の洞穴も、

熊は安けくかくれ棲む。

 

劍ににたるこがらしを、

きみなかこちそ寒けしと、

うき世の風は長閑なる、

春の日にさへ身にぞしむ。

 

鴨の川原の小夜千鳥、

きゝにきますはよけれども、

都の塵にうもれむは、

すゝめまつらずきみのため。

 

たふとからずや天地の、

なしのまにまに生ひ立ちて、

心けがれぬ山の子の、

罪も望も抱かずば。

 

 

  惡 因 緣

 

いたづらものと世の人に、

指ざさるゝがくやしくて、

しなむとせしもこの子故、

あゝこの子ゆゑしにもせで。

 

いづれ男のことのはは、

たゞ商人のなさけのみ、

その犧牲に生れこし、

女も人の一人かや。

 

世の人々ぞ同情(なさけ)なき、

きこゝろかよわき女子を、

力のかぎりくるしめて、

男の罪は問ひもせず。

[やぶちゃん注:「きこゝろ」はママ。]

 

三十路に近きよはひまで、

子はありながら圓髷の、

髮も結はれぬ宿世こそ、

前の世深き恨なれ。

 

せめて頰よく生れずは、

人をうらまでよかりしを、

まがつひ神のにくしみに、

花の姿をさづけけむ。

 

あかれしわれはいづれその、

塵芥にもかはらねど、

この子をすてゝ君はそも、

安き寐覺の夜半やある。

 

親のゆるさぬきみの手に、

ひかれてわれも落しゆゑ、

奈落の底の苦悶に、

この子も罪をつくるらむ。

[やぶちゃん注:「苦悶」は韻律からして「みもだえ」か。]

 

 

  山百合ぬしへ

 

五日の旅を海に經て、

山も百里をへだつらむ、

故鄕遠き信濃より、

きみはきましぬわが宿に。

 

都といへどふる寺の、

やれし菴にすめるのみ、

遠き旅路のつかれさへ、

なぐさめまつるよしをなみ。

 

うら珍しき賓客に、

薦むる物もあらざれば、

夏はすゞしき鴨川の、

岸のあたりをしるべして。

 

越路の旅のをかしさを、

きみが話せばわれもまた、

熊野の浦の名どころを、

こゝろへだてず語りつゝ。

 

はなれともなき涼しさの、

柳ふきしく川風に、

あつきさかりも忘られて、

流るゝ水もこゝちよく。

 

三年のすゑに知りそめて、

文の便は通へども、

今日ぞはじめてまのあたり、

きみを見るこそうれしけれ。

 

才なきわれをすてずして、

たづね給ひしみこゝろに、

禮いふすべはならはねど、

わすれはせじなとこしへに。

 

よの交らひは薄氷の、

くだけやすしときくものを、

きみとわれとが誓ひてし、

深き眞情をたれかしる。

[やぶちゃん注:「眞情」は既に「深き」があるので私は「こころ」と訓ずる。]

 

とゞめまほしく思へども、

永き日影も暮れはてゝ、

月さしのぼる鴨川原、

いそぐ旅ぢをいかにせむ。

 

つきぬ名殘に見送りて、

かたみにうらむうしろ影、

かたるまもなく別れては、

なみだにぬるゝ袂かな。

 

茅渟の浦邊のうた人と、

一夜さやけき月を見て、

須磨のみ寺に詠みませし、

歌のこゝろぞまことなる。

[やぶちゃん注:「茅渟」「ちぬ」。既注であるが再掲しておく。「茅渟の浦」は「古事記」に既に登場する古語「茅渟の海」。和泉・淡路の両国の間の海の古名。則ち、現在の大阪湾一帯を指す。]

 

瀨戶の内海に舟うけて、

沖吹く風に棹もさし、

白雲あそぶ彥島の、

浪にもきみは嘯きし。

 

ながき放路もやすらかに、

歸りたまひしその折の、

たよりの末にいかでまた、

見まくほしやとかき添へて。

 

ふかきゑにしもあるものを、

また逢ふときのなからんや、

うき世の中はなかなかに、

さだめなきこそ望あれ。

 

くれ行く秋の夜を長み、

ともし火更くる文机に、

文庫(ふみ)繙きてたゞ一人、

くりかへしよむ「歌枕」。

[やぶちゃん注:「繙きて」「ひもときて」。

 さて、標題の「山百合ぬしへ」の「山百合ぬし」とは久保田山百合のこと。既注の詩人・歌人の島木赤彦の当時のペン・ネームである。「故鄕遠き信濃」とあるが、赤彦は長野県諏訪郡上諏訪村角間(現在の諏訪市元町)生まれである。]

 

 

  祇園懷古

 

 祇園新地は舊眞葛か原といへる野原なりしとぞ。

[やぶちゃん注:「祇園新地」現在の祇園のこと。祇園町地区(所謂、狭義の「祇園」である京都府京都市東山区祇園町南側はここ(グーグル・マップ・データ))は、もっと古くはもと「八坂新地」と称した。また、「眞葛か原」(「か」はママ。後の詩篇本文も同じ)はさらに古い今の祇園地区の他に同地区の東北部の円山公園を中心として、周囲の青蓮院・知恩院・双林寺・八坂神社などをも含んだ、東山山麓の傾斜地の旧広域地名で、この一帯は平安時代より、真葛や薄が生い茂っていたために「真葛ヶ原」と呼ばれていた。]

 

裏吹きかへす葛の葉の、

眞葛か原のあき風に、

昔乙女の袖とめて、

月や恨をやどしけむ。

 

蟲撰けむ宮人の、

秋のあそびのあともなく、

小鷹狩せしものゝふの、

狩衣姿見えもせず。

 

招く薄はうるはしき、

舞の姿にうつり行き、

おき渡したる白露も、

插頭の珠とかはりつゝ。

 

鶉なきけむ細徑を、

大路小路の立つゞき、

おひ茂りたる淺茅にも、

庭の砂やひかるらむ。

 

時の力のおそろしき、

昔の哥にうたひけむ、

眞葛か原の月影も、

史の上のみてらせども。

[やぶちゃん注:「昔の哥にうたひけむ」「眞葛か原の月影」真葛ヶ原と和歌と言えば、鎌倉時代の慈円の一首、「新古今和歌集」巻第十一「戀歌一」の正治二(一二〇〇)年の「院初度百首」で詠まれた一首(一〇三〇番)、

   百首歌たてまつりし時よめる

 我が戀は松を時雨の染めかねて眞葛が原に風さわぐなり

で、この歌で、一躍、ここは和歌の名所となったのであるが、「月影」は詠まれていない。但し、この「眞葛が原」は実は地名のそれではなく、葛が風に煽られて白っぽい葉裏を見せる景色を自らの胸の内の恋に乱れた騒ぎに比したものである。慈円と親しかった西行はこの真葛ヶ原に庵を結んでいたことがある(現在、双林寺境内に西行庵がある)から、探してみたが、見当たらない。識者の御教授を乞うものである。]

 

いづれ此世の夢ならば、

花にもまさる手弱女の、

しろき細手の扇より、

常無き風の吹かざらん。

 

八坂の森の春の夜に、

散りくる花をはかなみて、

遠きうたげの聲きけば、

樓臺くづるゝ響あり。

 

[やぶちゃん注:明治三一(一八九八)年二月発行の『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。]

和漢三才図会巻第四十(末) 獸之用 皮(かは) //十二年半かけた「和漢三才図会」動物パート全十八巻のオリジナル電子化注を完遂した!!!

Kawa

 

かは   皮【和名加波】

     革【豆久利加波】

【音脾】

     韋【奈女之加波】

     靻【同右】

 

釋名云皮被也被覆體也剥取獸皮生曰皮理之曰革【音格】

去其毛革更也柔之曰韋【音爲】韋相背也獸皮之韋可以束

物枉戾相韋背故借以爲皮革【俗作※一字作非也】

[やぶちゃん注:「※1」は「韋」の「口」以下の下部を「吊」とした字。]

鞄人【柔革之工】柔革曰※2【奈女須】用稻藁灰汁和米糠畧煖之革

[やぶちゃん注:「※2」=(上)「比」+(中)「穴」+(下)「瓦」。「東洋文庫」訳では(上)「北」+(中){「穴」の第一画の点を除去した字}+(下)「瓦」であるが、私の原典は以上の通り。]

 表裏能揉洗以※3張晒之俟稍乾以竹箆刮去肌肉

[やぶちゃん注:「※3」=「籤」の(たけかんむり)の下部部分に(きへん)「木」を添えたもの。]

凡洗韋垢※4者以糯糠揉洗之不糠去晒乾可揉

[やぶちゃん注:「※4」=「耳」+「黒」。]

凡皮褥夏月不宜藏置可見風日否則毛脫

肉【音辱】

[やぶちゃん注:以下の二行分は、原典では上記「肉」の標題の下に二行で載る。]

 月【同】宍【古文】△按肉肥肉也月字中二畫竝連兩

 傍與日月之月不同俗用完字者宍字謬矣完

 【音桓】全也

 

 

かは   皮【和名「加波」。】

     革【「豆久利加波〔(つくりかは)〕」。】

【音「脾」。】

     韋【「奈女之加波〔(なめしかは)〕」。】

     靻【同右。】

 

「釋名〔しやくみやう)〕」に云はく、『皮は「被」なり。體を被〔(かぶ)〕り覆ふなり』〔と〕[やぶちゃん注:「體を被〔(かぶ)〕り覆ふなり」は和文としてはちょっとおかしい。「體を被覆せるものなり」あたりがよかろう。]。獸の皮を剥(は)ぎ取〔れる〕生を「皮」と曰ひ、之れを理(をさ)むる[やぶちゃん注:皮製品として毛を除去して(後述している)調製加工する。]を「革」【音「格」。】と曰ふ。「其の毛を去りて、革(あらた)め、更〔(か)へ〕る」〔こと〕なり。之れを〔さらに〕柔(やはらかにす)るを「韋」【音「爲」。】と曰ふ。「韋」は「相ひ背〔(そむ)〕く」なり。獸皮の「韋」〔は〕以つて物を束(たば)ねるべし[やぶちゃん注:物を束ねることが出来る。]。枉〔(ま)げ〕戾〔しても〕、相ひ韋-背〔(そりかへ)る〕。故に〔この字を〕借りて以つて「皮革」と爲す【俗に「※」の一字に作〔るは〕非なり。】[やぶちゃん注:「※1」は「韋」の「口」以下の下部を「吊」とした字。]。

鞄人〔(はうじん)〕【革を柔かにするの工〔(たくみ)〕[やぶちゃん注:職人。]。】革を柔かにするを、「※2[やぶちゃん注:音不詳。]」[やぶちゃん注:「※2」=(上)「比」+(中)「穴」+(下)「瓦」。]【「奈女須〔(なめす)〕」。】と曰ふ。稻藁の灰汁(あく)を用ひて、米糠に和(ま)ぜて、畧〔(ほぼ)〕、之れを煖〔(あたた)〕め、革の表裏〔を〕、能く揉み洗ひ、※3(たけぐし)[やぶちゃん注:「※3」=「籤」の(たけかんむり)の下部部分に(きへん)「木」を添えたもの。竹串。]を以つて張りて、之れを晒〔(さら)〕し、稍〔(やや)〕乾くを俟〔(ま)〕ちて、竹箆(〔たけ〕へら)を以つて、肌肉を刮(こそ)げ去る。

凡そ、「韋」の垢-※4(よご)[やぶちゃん注:「※4」=「耳」+「黒」。]れたる者を洗ふに、糯糠(もちぬか)を以つて之れを揉(も)み洗ひ、糠を去らずして、晒し乾し、揉むべし。

凡そ、皮の褥〔(しとね)〕、夏月、藏(をさ)め置く〔は〕宜しからず。風・日を見すべし[やぶちゃん注:風通しがよく、一定時間は太陽光線が射す場所に置いておくのがよい。]。〔かく〕否(〔せ〕ざ)れば、則ち、毛、脫(ぬ)ける。

肉【音「辱〔(ニク)〕」。】

「月」【同。】。「宍」【古文。】。[やぶちゃん注:同義字を掲げているので、通常項のように改行した。]

△按ずるに、肉は「肥肉」なり。「月」の字、中の二畫、竝びに〔→びて〕兩傍に連なる。「日月」の「月」と〔は〕同じからず。俗に「完」の字を用ひるには〔→用ひるは〕、「宍」の字の謬〔(あやま)〕り〔なり〕。「完」【音「桓」。】は「全きもの」〔の意〕なり〔→なればなり〕。

[やぶちゃん注:「釋名〔しやくみやう)〕」後漢末の劉熙が著した辞典。全八巻。ウィキの「釈名」によれば、その形式は「爾雅」に似るが、『類語を集めたものではない。声訓を用いた説明を採用しているところに特徴がある』。『著者の劉熙については、北海(今の山東省)出身の学者で』、『後漢の末』頃『に交州にいた』『ということのほかは』、『ほとんど不明である』「隋書」の「経籍志」には、『劉熙の著作として』本書の他に「謚法」(しほう:普通名詞としては「諡(おくりな)をつける法則」のことを指す)及び「孟子」注を『載せている』。『成立年代は不明だが』、二七三年に『韋昭が投獄されたときの上表文に「又見劉熙所作釈名」とある』。清の官僚で歴史家でもあった畢沅(ひつげん 一七三〇年~一七九七年)は、『釈州国篇の地名に建安年間』(後漢の献帝(劉協)の治世に用いられた元号。一九六年から二二〇年まで)『以降のものがあることなどから、後漢末から魏のはじめにかけての著作としている』が、清中期の考証学者銭大昕(せんたいきん 一七二八年~一八〇四年)は『三国時代』(「黄巾の乱」の蜂起(一八四年)による漢朝の動揺期から、西晋による中国再統一(二八〇年)まで。狭義には後漢滅亡(二二〇年)から晋が天下を統一した二八〇年までを、最狭義には三国が鼎立した二二二年から蜀漢が滅亡した二六三年までを指す)『の作とする説に反対し』、『後漢末の作とする』。なお、「後漢書」には劉珍の著書にも「釈名」が『あったことを記すが』、『劉熙とは時代が異なり、どういう関係にあるのか不明である』とある。以下は、同書の「釋形體」に、

   *

皮、被也、被覆體也。

   *

とあるものである。

「枉〔(ま)げ〕戾〔しても〕、相ひ韋-背〔(そりかへ)る〕」東洋文庫訳では『反対に巻き戻してもすぐもとに背(そり)かえる』とあり、私の添え文もそれを参考にさせて貰った。

『「※2」(「※2」=(上)「比」+(中)「穴」+(下)「瓦」)【「奈女須〔(なめす)〕」。】』現在の「鞣」(なめす)である。動物の皮は柔軟性に富み、非常に丈夫であるが、そのまま使用すると、すぐに腐敗したり、乾燥すると、板のように硬くなって柔軟性がなくなってしまう。この大きなデメリットの属性を、樹液や種々の薬品を使って変化させる方法が「鞣し」である。ここは製革業者団体「日本タンナーズ協会」公式サイト内の『「鞣す(なめす)」とは』に拠った。

「糯糠(もちぬか)」「糯(もち)」とはイネ(単子葉植物綱イネ目イネ科イネ亜科イネ属イネ Oryza sativa)やオオムギ(イネ科オオムギ属オオムギ Hordeum vulgare)などの作物の内で、アミロース(amylose:多数のα-グルコースス(α-glucose)分子がグリコシド結合(glycosidic bond:炭水化物(糖)分子と別の有機化合物とが脱水縮合して形成する共有結合)によって重合し、直鎖状になった高分子。デンプン分子であるが、形状の違いにより、異なる性質を持つ)を全く或いは殆んど含まない特定品種を指す。対義語は「粳(うるち)」で、組成としてアミロースを含む通常の米飯に用いるそれを「粳米(うるちまい)」と呼ぶ(以上はウィキの「糯」に拠った)。]

 

*   *   *

 

本項を以って、私の「和漢三才図会」の動物部の総て、全十八巻のオリジナル電子化注を遂に完遂した(別に藻類の一巻がある)。

 

 思えば、私が、その中、最初に電子化注を開始したのは、私が幼少時からフリークであった貝類の「卷第四十七 介貝部」で、それは実に凡そ十二年と半年前の、二〇〇七年四月二十八日のことであった。

 その時の私は、正直、偏愛する海産生物パートの完成だけでも、自信がなく、まさか、総ての動物パートをやり遂げられるとは、実は夢にも思っていなかった。

 海洋生物パートの貫徹も、幾人かの方のエールゆえ、であったと言ってよい。

 その数少ない方の中には、チョウザメの本邦での本格商品化飼育と販売を立ち上げられながら、東日本大地震によって頓挫された方がおられた。

 また、某国立大学名誉教授で日本有数の魚類学者(既に鬼籍に入られた)の方もおられた。「あなたの仕事は実に楽しく、また、有意義です」というメールを頂戴し、また、私の『栗本丹洲「栗氏千蟲譜」卷九』では、この先生の伝手で、無脊椎動物の幾つかの種の同定について、専門家の意見を伺うことも出来たのであった。

 ここに改めてその方々に謝意を表したい。

 以下、サイト「鬼火」と本ブログ「鬼火~日々の迷走」に分散しているため、全部に就いてリンクを張っておく。

 

ブログ・カテゴリ「卷第三十七 畜類」(各個版)

ブログ・カテゴリ「卷第三十八 獸類」(各個版)

ブログ・カテゴリ「卷第三十九 鼠+「動物之用」(ブログ各個版。「動物之用」は本来は以下の「卷第四十 寓類 恠類」の後に附録するパートであるが、ここに添えた)

卷第四十  寓 恠サイト「鬼火」の「心朽窩旧館HTML版)

ブログ・カテゴリ「和漢三才圖會 鳥★各個版で以下の四巻総て★

卷第四十一 禽部 水禽類

卷第四十二 禽部 原禽類

卷第四十三 禽部 林禽類

卷第四十四 禽部 山禽類

卷第四十五 龍蛇部 龍 蛇サイト「鬼火」の「心朽窩旧館HTML版)

卷第四十六 介甲部 龜 鼈 蟹サイト「鬼火」の「心朽窩旧館HTML版)

卷第四十七 介貝部サイト「鬼火」の「心朽窩旧館HTML版)

卷第四十八 魚部 河湖有鱗魚サイト「鬼火」の「心朽窩旧館HTML版)

卷第四十九 魚部 江有鱗魚サイト「鬼火」の「心朽窩旧館HTML版)

卷第五十  魚部 河湖無鱗魚サイト「鬼火」の「心朽窩旧館HTML版)

卷第五十一 魚部 江無鱗魚サイト「鬼火」の「心朽窩旧館HTML版)

ブログ・カテゴリ「和漢三才圖會 蟲類」★各個版で以下の三巻総て★

卷第五十二 蟲部 卵生類

卷第五十三 蟲部 化生類

卷第五十四 蟲部 濕生類

 

が動物部の総てであり、それに附録して、私のフリーク対象である海藻類を含む

卷第九十七 水草部 藻 苔サイト「鬼火」の「心朽窩旧館HTML版)

が加えてある。

 

 なお、私は植物は苦手で、向後も纏めてそれをやる意志は今のところ、ない。

 

 一つの私の「時代」が終わった――という感を――強く――しみじみと感じている。……では……また……何時か……何処かで…………

和漢三才図会巻第四十(末) 獸之用 蹯(けもののたなごころ)

Mikukyuu

 

けものゝ

たなこゝろ

 

【音番】※1【音柔】

[やぶちゃん注:「※1」=「凩」-「木」+「ム」。]

 

蹯者獸之掌也熊蹯味美煑之難胹得酒醋水三件同煮

熟卽大如皮毬也

爾雅云狸狐貒貈醜其足蹯其跡※1郭璞曰※1者指頭處

與※2同字蓋三隅矛曰※2此相似故名

[やぶちゃん注:「※2」=(上)「九」+(下)「ム」。]

 

 

けものゝ

たなごゝろ

 

【音「番」。】※1〔(じう)〕【音「柔」。】

[やぶちゃん注:「※1」=「凩」-「木」+「ム」。]

 

蹯〔(ばん)〕は獸の掌〔(たなごころ)〕なり。熊の蹯、味、美なり。之れを煑るに、胹〔(に)〕難し[やぶちゃん注:軟らかくなりまで煮ることが難しい。]。酒・醋〔(す)〕・水の三件を得て、同〔じくして〕煮れば、熟して、卽ち、大いさ、皮〔の〕毬〔(まり)〕のごとくな〔れ〕り。

「爾雅」に云はく、狸・狐・貒〔(〔ま〕み)〕・貈〔(むじな)〕の醜き其足〔にも〕蹯(たな心[やぶちゃん注:漢字のルビはママ。訓点の送りがなに含まれる漢字類(「云」「時」など)は今まで総て平仮名で示したが、明らかルビに振られた特異点なので、例外的に漢字で示した。])あり。其の跡、「※1〔(じう)〕」あり。郭璞〔(かくはく)〕が曰はく、『「※1〔(じふ)〕」は、指の頭の處なり。「※2〔(じう)〕」[やぶちゃん注:「※2」=(上)「九」+(下)「ム」。]と同字〔なり〕。蓋し、三隅の矛〔(ほこ)〕[やぶちゃん注:刃の部分が三稜を成している矛のこと。]を「※2〔(じう)〕」と曰ひ、此〔れに〕相ひ似る。故に名づく』〔と〕。

[やぶちゃん注:所謂、肉球を含めた獣類の掌。但し、挿絵では手の甲のそれも添えているから、手首から先全体とするのが本来は正しいかろう。

「爾雅」字書で全三巻・十九編。撰者未詳。周代から漢代の諸経書の伝注を採録したものとされる。後の「郭璞〔(かくはく)〕が曰はく」は「爾雅注疏」で十一巻。晉の郭璞の「爾雅」の注釈書で、北宋の刑昺(けいへい)疏。大変優れたもので、後世の人々から注疏の手本とされている。

「貒〔(〔ま〕み)〕」アナグマ或いはタヌキの異名。「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貒(み)(同じくアナグマ)」を参照。

「貈〔(むじな)〕」同前。この時代のこれらは厳密な生物学的種別ではないので、同定比定する気はない。]

和漢三才図会巻第四十(末) 獸之用 蹄(ひづめ)

Hidume

 

ひつめ  蹢【音的】

     【詩小雅有豕白蹢】

【音題】

     【和名比豆米】

 

切韻云蹄者畜足圓也岐曰甲【和名豆米】爪也

 

 

ひづめ  蹢〔(てき)〕【音「的」。】

     【「詩」[やぶちゃん注:「詩経」。]の

      「小雅」〔に〕、

      『豕〔(ぶた)〕に白蹢〔(はくてき)〕

       有り』といへり。】

【音「題」。】

     【和名「比豆米」。】

 

「切韻」に云はく、『蹄は畜の足の圓〔(まどか)なる〕なり。岐〔(また)〕あるを「甲」【和名「豆米」。】曰ひ、「爪」なり』〔と〕。

[やぶちゃん注:『「詩」の「小雅」〔に〕、『豕〔(ぶた)〕に白蹢』と有り』「詩経」の「小雅」の「漸漸之石(ざんざんしせき)」の一節。以前にも紹介した個人ブログ「raccoon21jpのブログ」のこちらで全文・訓読・和訳が出るので、参照されたい。詩篇本文の詩句が「有豕白蹢」である。

「切韻」隋の韻書。全五巻。六〇一年成立。反切(はんせつ:ある漢字の字音を示すのに、別の漢字二字の音を以ってする方法。上の字の頭子音(声母)と下の字の頭子音を除いた部分(韻母)とを合わせて一音を構成するもの。例えば、「東」の子音は「徳紅切」で「徳」の声母[t]と「紅」の韻母[]とによって[toŋ]とする類)によって漢字の音を表わし、百九十三韻を「平声(ひょうしょう)」・「上声(じょうしょう)」・「去声(きょしょう)」。「入声(にっしょう)」の四声に分類した書。陸法言・劉臻(りゅうしん)・顔之推・盧思道・魏彦淵・李若・蕭該・辛徳源・薛道衡(せつどうこう)の九人が、古今各地の韻書について議論した結果を、陸法言が系統的に整理した。原本は早く失われたが、敦煌から一部が発見されている。唐代、他の韻書を圧倒して、詩の押韻の基準に用いられ、その後、王仁昫(おうじんく)の「刊謬補欠切韻」、孫愐(そんめん)の「唐韻」等により増補し、北宋の陳彭年の「広韻」によって集大成された。これらは〈切韻系韻書〉と呼ばれ、中上古の中国語の体系や音韻を推定するための貴重な資料とされる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。辞書としての役割も持っている。]

和漢三才図会巻第四十(末) 獸之用 角(つの)

Tuno

 

つの    角

      【和名豆乃】

      䚡【音顋】

      【和名古豆乃】

【音覺】

      觘【音鈔】

      【和名沼大波太】

 

△按角獸頭上出骨也角中骨曰䚡【和訓古豆乃】角上浪皮曰

 觘【和訓沼大波太】曲骨曰觠【音權】以角觸物曰觝【與牴同和名豆木之良比】觸

 字本作?作觕會意

本綱羚羊角耳邊聽之集集鳴者良然今牛羊諸角但殺

之者聽之皆有聲不羚羊自死角則無聲矣

煑角作噐法 事林廣記云地骨皮牙硝柳枝與角同煑

 水則柔輭如土以作噐再以甘草水煑堅硬【鹿角之下亦有之】

 鹿角切浸水久則柔也鹿角之用甚多

――――――――――――――――――――――

きば

【音】

[やぶちゃん注:以下の内二行は原典では標題下にある。]

 猛獸牙之纖利曰※【所賣切】事林廣記云煑象牙

[やぶちゃん注:「※」=(「刹」-「刂」)+「閃」。]

 與木賊水同以砂鍋煑之水減則加熱水煑三

 伏時卽柔用作噐再以甘草水煑之堅硬

 

 

つの    角

      【和名「豆乃」。】

      䚡〔(さい)〕【音「顋」。】

      【和名「古豆乃〔(こづの)〕」。】

【音「覺」。】

      觘〔(せう)〕【音「鈔」。】

      【和名「沼大波太〔(ぬたはだ)〕」。】

 

△按ずるに、角は、獸の頭の上に出づる骨なり。角の中の骨、「䚡」【和訓「古豆乃」。】と曰ひ、角の上の浪〔打ちたる樣なる〕皮を「觘」【和訓「沼大波太」。】と曰ひ、曲れる骨を「觠〔(けん)〕」【音「權」。】と曰ひ、角を以つて物を觸(つ)くを「觝〔(てい)〕」【「牴〔(てい)〕」と同じ。和名「豆木之良比〔つきりらひ〕」。】と曰ふ。「觸」の字は、本(〔も〕)と、「?」に作り、〔また、〕「觕」に作り、〔これ、〕會意〔なり〕。

「本綱」、『「羚羊〔(れいよう)〕の角を耳の邊りに〔當て〕之れを聽くに、「集集(しゆつしゆつ[やぶちゃん注:ママ。オノマトペイア。])」と鳴る者、良し」〔と言へど〕、然れども、今、牛・羊の諸角――但し、殺(ころ)したるの者――之れを聽くに、皆、〔その〕聲、有り。羚羊のみならず、自死の角〔(つの)〕のには、則ち、聲、無し』〔と〕。[やぶちゃん注:以上の時珍の文章(以上総ては「本草綱目」の巻五十一上の「獸之二」の「羊」の「集解」の一節)では明らかに部分挿入をして述べているので、今までやったことのないダッシュを用いて示した。]

角を煑〔(に)〕て噐〔(うつは)〕を作る法 「事林廣記」に云はく、『地骨皮〔(ぢこつぴ)〕・牙硝・柳の枝を角と同〔じくして〕水に煑〔れば〕、則ち、柔輭〔に成ること〕[やぶちゃん注:「輭」は「軟」の本字。]、土のごとくにしして、以つて噐に作り、再たび、甘草水を以つて煑れば、堅硬〔と成れり〕【鹿角の下にも亦、之れ、有り。[やぶちゃん注:次の一行がそれであろう。]】』〔と〕。

『鹿の角は、切りて、水に浸〔すこと〕久しきときは、則ち、柔なり。鹿角の用、甚だ多し』〔と〕。

――――――――――――――――――――――

きば

【音[やぶちゃん注:欠字。]。】

猛獸の牙の纖(ほそ)く利(と)きを「※〔(さい)〕」[やぶちゃん注:「※」=(「刹」-「刂」)+「閃」。]【「所」「賣」の切。】「事林廣記」に云はく、『象牙を煑るに、木賊(とくさ)水と同じく〔して〕、砂鍋を以つて之れを煑る。水、減ずるときは、則ち、熱水を加へて、煑ること、三伏時[やぶちゃん注:三日。三昼夜。]、卽ち、柔なり。用ひて、噐に作り、再たび、甘草水を以つて之れを煑れば、堅-硬(かたま)る』〔と〕。

[やぶちゃん注:「會意」漢字の成り立ちを分類する六書(りくしょ)の一つ。二字以上の漢字を組み合わせて、同時にそれぞれの意味をも合わせて一字の漢字とすること。「日」+「月」=「明」、「女」+「取」=「娶」(めとる)などのケース。

「羚羊〔(れいよう)〕」「かもしか」とも訓読出来る。狭義の中国に棲息する「羚羊(かもしか)」となると、獣亜綱偶蹄目反芻亜目ウシ科ヤギ亜科カモシカ(シーロー(英名:serow))属 Capricornis の内で、シーロー亜属スマトラカモシカ(シーロー・ヒマラヤカモシカ)Capricornis sumatraensis(パキスタン北部・インド北部・中国南部・タイ・ミャンマー・スマトラ島などに分布。本種には別に Capricornis milneedwardsiiCapricornis rubidusCapricornis thar の三亜種がいるらしい)。詳しくは「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麢羊(かもしか・にく)・山驢(カモシカ・ヨツヅノレイヨウ)」の私の注を参照されたい。

「事林廣記」南宋末から元代にかけて、福建崇安の陳元靚(ちんげんせい)が著した日用の百科事典タイプの民間書籍。ウィキの「事林広記」によれば、『当時の民間の生活に関する資料を大量に含んでおり、かつ挿絵入りの類書という新しいジャンルを切りひらいた。わかりやすいために、広く普及した』。同書は記載中の『「帝系」の項に』、『「大元聖朝」の一節があり、そこに「今上皇帝中統五年」(』一二四六『年)「至元万万年」』『とあることから、元初のフビライの中統年間から至元年間のはじめ(』十三『世紀中ごろ)に書が完成したことがわかる。この本の原刊本は』既に『失われており、現在は元・明の刻本および和刻本などが知られているが、いずれも増改を経ている』。『元の時代の百科事典として、まず元朝の領域を示した「大元混一図」を置いている。その中に』、『元の上都・大都が描かれている。ついで』、『元朝の郡邑・蒙古字体・パスパ文字』(中国語「蒙古新字」「八思巴字」。十三世紀にモンゴル語など、大元ウルス(元朝)の各種言語表記に用いるために制定された表音文字。上から下へと縦に綴る。「方形文字(ほうけいもじ)」とも呼ばれる)の「百家姓」(伝統的な中国の教育課程に於いて子供に漢字を教えるための学習書の一種。中国の代表的な漢姓を羅列してあるだけの内容だが、「三字経」・「千字文」と同様に韻文の形式で書かれてある)や『元の官制・元の交鈔貨幣・元の皇帝などを順次』、『紹介している。それから元の市井生活および市民生活の常識を紹介しているが、そこでは』、『生活類百科事典ではじめて挿絵を使用している。挿絵には元の騎馬・弓術・拝礼・車両・旗幟・学校・先賢神聖・孔子・老子・昭烈武成王・宴会・建築・囲碁・シャンチー』(象棋。中国及びヴェトナムで盛んな将棋の一つで、二人で行うボード・ゲーム)『・投壺・盤双六・打馬(ダイスゲームの一種)・蹴鞠・幻術・唱歌などがあり、元の歴史や社会生活を研究する上』で、『一級の視覚的資料となっている』。『パスパ文字で書かれた百家姓に多くの紙幅をさいており、かつ「蒙古字体」の説明を行っている。パスパ文字は後世』、『使用されなくなり、元の滅亡後は廃棄されたため、このパスパ文字百家姓はパスパ文字の実物を残すものとして重要である』とある。

「地骨皮〔(ぢこつぴ)〕」被子植物門双子葉植物綱ナス目ナス科クコ属クコ Lycium chinense の根皮。漢方で清涼・強壮・解熱薬などに用いる。「枸杞皮(くこひ)」とも呼ぶ。

「牙硝」不詳。「馬牙硝」(ばがしょう)ならば、硫曹石を再結晶させて精製した、天然の硫酸ナトリウムの水和物。「芒硝(ぼうしょう)」とも呼ぶ。漢方薬では乾燥させた硫酸ナトリウムが便秘の際の便の軟化に用いられており、また、「おでき」や湿疹による炎症を鎮静させる効果も認められる。

「甘草水」植物のカンゾウ(中国の記載であるから、原産地が中国東北部とされている、双子葉植物綱マメ目マメ科カンゾウ属ウラルカンゾウ Glycyrrhiza uralensis とする)の草体全体か根などの部分か、生か乾燥品か、知らぬが、水に浸して得た水溶液であろう。

「木賊(とくさ)水」植物のシダ植物門トクサ綱トクサ目トクサ科トクサ属トクサ Equisetum hyemale を前注同様に(不明部分も同じ)に処理した水溶液であろう。

「砂鍋」土鍋のこと。]

太平百物語卷五 四十七 松田五市狸を切りし事

Matudagorou 

 

   ○四十七 松田五市狸を切りし事

 ある國の事なりし。

 御城下を、每夜每夜、役人衆、夜廻りに通られけるに、丑三つ[やぶちゃん注:午前二時。]の此ほひ、町はづれにて、若き女の綿帽子をかづきて、只一人(いちにん)、いと忍びやかに通りしかば、役人衆、此体(てい)をみて、心得ぬ事におもひ、跡を付(つけ)て行(ゆか)れけるに、此女、ふり歸りみて、

「莞尓(につこ)。」

と、わらひ、又、靜(しづか)に步み行(ゆき)けるまゝ、いよいよ、あやしくおもひ、猶々、慕(した)ふて行(ゆく)に[やぶちゃん注:ますます不審を募らせて、なおもその後(あと)をつけて行ったところが。]、此女、しだひしだひ[やぶちゃん注:ママ。]に、たけ高くなりて、大きなる松の木の許(もと)に行(ゆく)ぞ、と見へし。

 かの綿ぼうしを取(とり)て、役人の衆中(しゆぢう[やぶちゃん注:ママ。])を、

「はつた。」

と、ねめしをみれば、眼(まなこ)は日月(じつげつ)のごとく、口は耳のもと迄さけて、頭(かしら)におどろの髮を乱し、眉間(みけん)に一つの角(つの)を生(おひ)たりしかば、さしもに武(たて)き面々も、身の毛、

「ぞつ。」

と、立(たち)ければ、皆、引色(ひきいろ)に見へにける[やぶちゃん注:流石に、殆んどだれもが怖気てしまい、身を退かせ気味になったように見受けられたという。]。

 其中に、松田五市といふ人、心勝(こゝろまさ)りの男(おのこ[やぶちゃん注:ママ。])にて、頓(やが)て、刀を拔放(ぬきはな)し、橫樣(よこざま)に切付(きりつけ)しかば、其儘、形(かた)ちは消失(きへうせ[やぶちゃん注:ママ。])て、切(きり)こみしは、松の木なりしが、大勢の聲として、

「どつ。」

と、笑ふ音して、其後は、何事も、なかりけり。

 能(よく)々きけば、

「此所に數(す)百年を經し古狸(ふるだぬき)の所爲(しよゐ)なり。」

とぞ、いひあへりける。

神の饗宴 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    神 の 饗 宴

 

 或日神がその蒼穹の宮殿に一大饗宴を催ほさうと思ひ立たれた。

 あらゆる美德は招き呼ばれた。然しただ女性なる德のみで……男子は招かれず……婦人ばかりであつた。

 大きな德、小さな德、非常な數であつた。小さな德は大きな德よりは一層愉快で樂しさうであつた。けれどもいづれも滿足氣に見受けられ、近親か知己ででもあるやうに打ちとけて話し合つてゐた。

 ところが神は全く初對面らしい二人の美しい婦人にお目を止められた。

 主人は一人の婦人の手を執つて、今一人の婦人に引合はせて、

 『恩惠!』とはじめの婦人を指(さ)して言ひ、

 『謝恩!』とつぎの婦人を指して附け足された。

 二人の美德は此上もなく驚いた。世界の創造されて以來(このかた)すでに長い年月は經つてゐたけれども、この二人の出會つたのはこれが始めてだつたのである。

    一八七八年十二月

 

神の饗宴、人間の忘恩を諷したもの。】

は女性である。】

エゴイスト ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    エ ゴ イ ス ト

 

 彼はその家族を責め苛(さいな)むあらゆる性質をそなへてゐた。

 彼は生れて健康であり富裕であり、またその長い一生涯富裕で健康で通して來て、たつた一つの罪も犯さす、たつた一つの過失(あやまち)もせず、また曾て心得違ひも遣り損(そこな)ひもしたことはなかつた。

 彼は一點難の打ちどころもない、堅實な人間だつた!……そして自分の堅實なことを誇りにして、彼はそれに依つて、家族であれ友達であれ知人であれ、凡ての人を壓服してゐた。

 彼の堅實さは彼の資本であつた……そして彼は此の資本から放外な利息を收めてゐたのだ。

 此の堅實さが彼に無慈悲であり、また法律の命じない善事をしないと云ふ權利を彼に與へた、そして彼は無慈悲であり、何等の善事もなさなかつた……何となれば命じられてなす善事は少しも善事では無いからである。

 彼は彼自身の模範的の自我を除いては、いかなるものにも興味を有しないで、しかも若し他人がそれに同じやうに、深い興味を有たなければ本氣(むき)になつて怒(おこ)るのであつた!

 その癖彼は自分を主我主義者(エゴイスト)だとは思つてゐなかつた。そして主我主義者(エゴイスト)を非難する事は特別過酷で、それを見附け出す事は鋭敏なものであつた。云ふ迄もなく、他人の主我主義(エゴイズム)は彼自身の主我主義(エゴイズム)の邪魔になるものである。

 彼は自分には些かの弱點も認めないで、他人の弱點は理解もしなけれぱ容赦もしなかつた。まつたく彼は何人も何物も理解しなかつた、と云ふのも、彼が上下前後、あらゆる方面からすつかり自分と云うもので取圍まれてゐたからである。

 彼は寬容の意義さへも理解してゐなかつた。彼は自分自身を赦(ゆる)さねばならぬ必要を持たなかつた……どうして他人を赦さねばならぬ必要があらうぞ?

 彼自身の良心と云ふ判官の前に立つて、彼自身の神の面前に於いて、彼は、此の驚くべき人物、此の德の怪物は、その眼を空に向けて、確乎たる明晰な聲で公言した、『然り、自分は模範的人物である、眞個の道德的人物である!』と。

 彼はこの言葉をその臨終の床でも繰返すであらう、そしてその時でさへも、此の石のやうな心は何等の動搖をも來さないであらう――缺點も汚點も無いその心は!

 ああ、廉價に購(あがな)ひ得たる德の頑迷な自己滿足のその醜惡よ。汝は惡德のおほつぴらな醜惡よりもより惡(にく)むべきものである!

    一八七八年十二月

 

エゴイストは、主我主義者、利己主義者、自分の事ぱかり重んじて他人の事は顧みない人間。】

[やぶちゃん注:「眞個」「しんこ」。「真箇」とも書く。真実であること。真正。これで「まこと」と当て訓することも可能だが、今までの生田のルビの振り方から見て、その可能性はゼロである。]

2019/05/28

二兄弟 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    二 兄 弟

 

 それは幻影(まぼろし)であつた……

 二人の天使が……一人の精靈が私のところに顯(あら)はれた。

 私は天便とも精靈(せいれい)とも呼ぷ、二人は裸身(はだかみ)で衣(きぬ)も纒はず。いづれも肩のうしろに二つの長いしつかりした翼が附いてゐるからである。

 二人とも若かつた。一人はふつくらとしてゐて、柔かな滑かな肌に黑い捲髮(まきげ)をしてゐた。鳶色のぱつちりした眼は睫毛(まつげ)が濃くてはればれした眼附には媚を含み、また熱が籠つてゐた。顏には魅するやうな迷はすやうなところと、厚かましい意地が惡さうなところとあつた。やはらかさうな紅(あか)い脣はぴくぴく顫(ふる)ヘてゐた。靑年は力ある者のやうに――自ら恃(たの)むところありげにまた氣怠(けだ)るげに微笑した。つやつやした捲髮(まきげ)にふわりとかかつた見事な花輪はその天鵞絨(びろうど)のやうな眉に觸れんばかりである。まだらな豹の皮は金の矢をもてとめられて、ま

るい肩からふつくりした腿(もゝ)へふわりと垂れてゐる。翼の羽根は薔薇色に染めなされ、その端はまるでなまなましい鮮血に浸されたやうな眞紅(しんく)である。時々さわやかな銀(しろがね)の響、春雨の音を立ててせはしげにその翼は振ふ。

 いま一人は瘠せてゐて、肌は黃ばんでゐる。息する度に肋骨(あばらぼね)がかすかにあらはれる。その髮はブロンドで、細くて直(す)ぐだし、その眼は大きく圓くて薄鼠色である……眼附は不安げで、異樣に光つてゐる。相貌はすべて鋭く、尖つた魚のやうな齒をもつた小さな半ば開かれた口、よく通つた鷲鼻、白い絨毛(わたげ)で蔽はれてゐる突き出(で)た顎(あご)。乾いた脣は未だ曾て微笑したこともないであらう。

 よく整つてゐながらも、何と云ふ恐ろしい無慈悲な顏だらう!(もつとも前の美しい靑年の顏も、惚れ惚れするやうではあつたが慈悲の相は缺いてゐた)此の靑年の頭には少しばかりのちぎれた空穗(しいな[やぶちゃん注:ママ。])が枯草で卷き附けられてゐる。腰には粗(あら)い灰色の布(きれ)をまとひ、どんよりした鼠いろの翼をゆるゆると脅(おびや)かすやうに動かしてゐる。

 此の二人の靑年は離すことの出來ない伴侶(つれ)のやうに見えた。互に肩をもたせかけて、一人がその柔かな手を相手の骨ばつた頸に葡萄の房のやうに卷きつければ、一人の細長い指をした瘠せた手首は相手の女のやうな胸のまはりに蛇のやうに曲げられた。

 すると何だか聲がして、それはかう言つた、『戀と飢とがお前のまへに立つてゐる――これ雙生兒(さうせいじ)、生きとし生けるものの二つの礎(いしずえ)。

『生きとし生けるもの皆食を求めて動く、そして後繼者(あとつぎ)を生まんが爲めに食ふ。

『戀と餓と――その目的たるや一つである、自分の生命(いのち)も、他人(ひと)の生命(いのち)も――生きとし生けるものの生命(いのち)を絕(た)やさせまいとするにある。』

    一八七八年八月

 

[やぶちゃん注:「空穗(しいな)」歴史的仮名遣は「しひな」で「粃」「秕」と書く。殻ばかりで中身のない籾(もみ)を言う。]

通信員 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    通 信 員

 

 二人の友達が食卓(テエブル)によつて茶を飮んでゐた。

 すると突然街路(とほり)で消魂(けたゝま)しい騷ぎがおこつて、哀れな呻き聲や、烈しい罵詈(ばり)や意地の惡い笑ひ聲などが聞えた。

『誰れやらが打擲(ぶんなぐ)られてるぞ』と友達の一人が窓から覗きながら言つた。

『罪人か? 人殺しか?』と他の一人が訊(き)いた。『そりや誰でもかまはんが、無法(むはふ)に打擲(ぶんなぐ)らせちや置けない。行つて、助けてやらう』

『打擲(ぶんなぐ)られるのは人殺しぢやない』

『人殺しぢやない? ぢや泥棒か? 何だつてかまはん、彌次馬(やじうま)の手から救ひ出してやらう』

『泥棒でもないよ』

『泥棒でもない? ぢや持逃げした會計係か、鐡道の役員か、陸軍の御用商人か、露西亞文鄙の保護者(パトロン)か。辯護士か、保守黨の記者か、社會改良者か?……何だつていゝさ、行つて救つてやらうぢやないか』

『いや違ふ、打擲(なぐ)られてるのは新聞の通信員だ』

『通信員? あゝさうか。ぢや、まあ茶を喫(の)んでしまつてからにしよう』

    一八七八年七月

老人 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    老  人

 

 陰暗たる荒凉たる日は來つた……その身の衰弱、その愛する者の苦痛、老年の冷索(れいさく)と憂愁。汝が愛したものは、そのために献身的に盡したものは、すべて凋落しては碎け散つてしまふ。道はすべて下り坂である。

 今さら何をすべきだらう? 悲むべきか? 嘆くべきか? そんな事をしても自分にも他人(ひと)にも何の益もないであらう。

 曲(まが)つた凋(しを)れた樹の葉はだんだんと小さく少(すくな)くはなるけれども、その綠の色はやはり變らない。

 いざ、汝もまた縮(ちゞ)かまつて、汝自身のうちに、汝の追想(おもひで)の中に隱れよ。さうすれはその奧底に、汝の心の奧底に、汝の過ぎ去つた生活、汝にのみ理解の出來る生活が、美しい春の力と香ばしい未だなほ鮮かな綠のいろとをもつて、汝の前に輝き出るであらう。

 然し氣を附けるがいゝ……哀れなる老人よ、前途を見てはいけない!

   一八七八年七月

 

[やぶちゃん注:「冷索(れいさく)」冷たく、もの淋しいさま。]

二富豪 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    二 富 豪

 

 冨豪口スチヤイルドがその莫大な收入の中から子供の教育、病人の治療、老人の扶助に、巨萬の金を寄附すると言つて人の賞めるのを聞く度に、私は讃嘆し感動する。

 然しそれを讃嘆し、それに感動する時ですら、私は孤兒(みなしご)になつた姪をそのみすぼらしい小舍(こや)に引取つた貧しい百姓一家を思ひ出さずにはゐられない。

『もしカチカを家(うち)へ引取るとすると』と女房は言つた。『一文無しになつちまつて、汁に入れる盬だつて買へなくなりますよ』

『いゝやな……盬が無くつたつて食へるさ』と亭主の百姓が答へた。

 ロスチヤイルドは此の百姓を相距ること遠いと云はねばならぬ!

    一八七八年七月

 

[やぶちゃん注:「富豪口スチヤイルド」「Rothschild」はユダヤ系金融業者の一族で、イギリス最大の富豪。始祖マイヤー・アムシェル・ロートシルト(ロスチャイルドのドイツ語読み)Meyer Amschel Rothschild(一七四四年~一八一二年)が、フランクフルトで金融業によって財産の基礎を形成し、その子の代でイギリス・フランス・イタリア・ドイツ・オーストリア等、ヨーロッパ各国に「ロスチャイルド財団」を形成した(イギリスでは孫の代に貴族に列している)。フランスではマイヤーの息子ジェームスが鉄道事業に着目して、パリ―ブリュッセル間の北東鉄道を中心に事業を拡大し、本詩が書かれた数年前(一八七〇年)には、「ロスチャイルド銀行」による財政難のバチカンへの資金援助が行われる等、着実に欧州に於ける金融支配を固めた。ロシアへは日露戦争前後に於ける石油開発の投資でも知られ、一族はヨーロッパ各地での金融業の他、現在も石油・鉱業・マスコミ・軍産共同体・製薬等の企業を多く傘下に置きつつ、主にロンドンとパリに本拠地を置いて、世界経済に対し、隠然たる権力を有しているとされる。ちなみに私の好きなボルドーの「シャトー・ムルトン・ロートシルト」(Château mouton rothschild)はマイヤーの息子ネイサン・ロスチャイルドの三男ナサニエルが一八五三年に購入し(「ローシルト」が「ロスチャイルド」のドイツ語読みとは私は不覚にも知らなかったのであった)、更に、やはり私のお気に入りのカリフォルニア・ワイン「オーパス・ワン」(Opus One)もナサニエルの曾孫のものと知るに及んで、何とも複雑な気持ちになっている。

「相距る」「あひへだたる」。]

空色の國 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    空 色 の 國

 

 おゝ、空色の國よ! おゝ、光明と色彩と、靑春と幸福の國よ! 私は夢に汝を見た。私は幾人(いくたり)かの仲間と華かに飾られた綺麗な小舟に乘つてゐた。白鳥の胸のやうに白帆はふくらんでゐた、風に翻へる流旗(はた)のもとに。

 仲間と云ふのは誰だか私は知らなかつた。けれども私自身のやうに、若い快活な幸福な人達だとは心底から感じられた!

 しかも私は彼等には目もくれなかつた。私はたゞまはりの金の鱗(うろこ)の波立つ果て知らぬ海を眺めた。頭上にも同じ窮(きはま)りなき空色の海が橫はり、太陽は嬉しげに勝ち誇つたやうに動いてゐた。

 我々の間には、時々諸神(かみがみ)の笑ひのやうによく透(とほ)る喜ばしいげな笑ひ聲が起つた!

 それから不意に誰かの脣(くち)から言葉が出た。不思議な美や感激した力に充たされた歌が出た……天(そら)もそれに應(こた)へ、まはりの海もそれに調子を合せて顫(ふる)へるやうに思はれた。……それからまた樂しい平穩にかへつて行つた。

 おだやかな波の上を輕く浮んで、我々の小舟は走つて行つた。風が走らせるのではなくて、我々自身の輕く波打つ心臟がそれを導いて行くのである。小舟は我々の行つて見たい方へ走つた、まるで生きた物のやうに從順に。

 我々は群島(しま)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]に近づいた、紫水晶や綠柱石(エメラルド)などの寶石のきらきら光つてゐる半透明の仙島である。そのぐるりの海岸からは心を醉はす薰香が立ちのぽつてゐた、その或る島では薔薇や君影草(ヴアレイ・リリイ)の雨を我々に降らし、また或る島では紅の七色をした長い翼を持つた鳥のむれが舞ひあがつた。

 鳥のむれは我々の頭上に輪を描き、百合や薔薇は我々の小舟の滑らか舷(ふなばた)を滑つて、眞珠のやうな泡の中へ溶け込んでしまふ。

 そして花や鳥とともに、蜜のやうにスヰイトな音調が我々の方へ漂つて來た……その中には女の聲も聞えた……そして我々のまはりはすべて、天(そら)も、海も、高くあがつた帆も、舵のところでどくどく云ふ水も――すべて戀を語つた。幸福な戀を語つた!

 そして彼女も、我々のそれぞれの戀人もまた其處(そこ)にゐたのである……目には見えなかつたけれども。いま一時(ひとゝき)、そして見よ、彼女の眼は汝等に輝き、彼女の頰は汝等に笑みゆらぐであらう………彼女の手は汝等の手を取つて、永久の樂園(パラダイス)へと導くであらう!

 おゝ、空色の國よ! 私は夢に汝を見た。

    一八七八年六月

 

[やぶちゃん注:「君影草(ヴアレイ・リリイ)」既出既注の単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科スズラン亜科スズラン属スズラン Convallaria majalis の異名。鈴蘭は実際、英名の別名を「lily-of-the-valley」、則ち、「谷間の姫百合」とも呼ぶのである。]

和漢三才図会巻第四十(末) 獸之用 牝牡(めを)

[やぶちゃん注:ここから以下は、本カテゴリの冒頭で述べた通り、「卷第四十 寓類 恠類」の後にある、短い「獸の用」のみを、便宜的にここで電子化注することとする。なお、この「獣之用」を以って「和漢三才圖會」の動物に関わる記載の私のオリジナル電子化注は、遂に、総てを終了することとなる。]

 

 

   獸之用

牝牡【臏母】

說文云畜母曰牝【和名米計毛乃】畜父曰牡【和名乎介毛乃】凡飛者曰雌

雄走者曰牝牡然亦通用雄狐綏綏則是走獸也雉鳴求

牝則是飛禽也凡鳥交接曰交尾獸交接曰遊牝【二共和名豆流

比】 淮南子云犬三月而生豕四月而生猨五月而生鹿

六月而生虎七月而生 春秋說題辭馬十二月而生

凡熊虎狐狸之聲曰嘷【音豪】牛鳴曰吼【吽同】犬鳴曰吠【音廢三字訓皆保由】

凡獸食蒭已久復出嚼之牛羊麋鹿皆然但其名異耳牛

曰※【齝同音鴟】羊曰齥【音泄】麋鹿曰齸【音益皆訓迩介加無】禽獸所食餘曰

[やぶちゃん注:「※」=「齒」+「同」。]

㱚【音殘】字从肉

以鼻動物曰鼿【音兀訓宇世流】

獸直前足坐曰蹲踞【俗云豆久波不】

尙書云中冬鳥獸氄毛【和名不由介】注云鳥獸皆生細毛自温

也毛落更生整理曰毨【音先】毛羽美悅之狀

 

 

   〔(けもの)〕の用

牝牡(めを)【〔音〕「臏母」。】

「說文」云はく、『畜〔(ちく)〕の母を「牝(め)」【和名「米計毛乃〔(めけもの)〕」。】と曰ひ、畜の父を「牡(を)」【和名「乎介毛乃〔(をけもの)〕」。】と曰ふ』〔と〕。凡そ、飛ぶ者を、「雌雄(しゆう)」と曰ひ、走る者を「牝牡(ひんぼ)」と曰ふ。然れども、亦、通用す。〔例へば、「詩經」に〕『雄狐〔(ゆうこ)〕綏綏〔(すいすい)〕』といふときは、則ち、是れ、走〔る〕獸なり。『雉(きじ)、鳴きて牝を求む』といふときは、則ち、是れ、飛〔ぶ〕禽〔(とり)〕なり。凡そ、鳥、交-接(まじは)るを、「交-尾(つる)む」と曰ひ、獸の交-接〔(まじは)〕るを「遊牝〔(つる)む〕」と曰ふ【二つ共に和名「豆流比〔(つるび)〕」。】。「淮南子〔(えなんじ)〕」に云はく、『犬は三月〔(みつき)〕[やぶちゃん注:以下、妊娠期間の月数。]にして生(こ〔を〕う)み、豕〔(ぶた)〕は四月にして生み、猨〔(さる)〕五月にして生み、鹿は六月にして生み、虎は七月にして生む』〔と〕。「春秋說題辭」に、『馬は十二月にして生む』〔と〕。凡そ、熊・虎・狐・狸の聲を「嘷(ほ)ゆる」【音「豪〔(コウ)〕」。】と曰ひ、牛の鳴くを「吼(ほ)ゆ」【「吽〔コウ/ク/イン/オン〕」も同じ。】と曰ふ。犬の鳴くを「吠(ほ)ゆる」【音「廢〔(ハイ)〕」。三字、訓、皆、「保由」。】と曰ふ。

凡そ、獸、蒭(くさ)[やぶちゃん注:草。馬や牛の飼料とする草であるが、その内、本来は乾燥させた干し草を指し、生のそれは「秣(まぐさ)」として区別していたらしい。]を食ひて、已に久しくして、復た出だして、之れを嚼〔(は)〕むを、牛・羊・麋〔(おほじか)〕・鹿、皆、然り。但し、其の名の異なるのみ。牛のを「※(にげか)む」[やぶちゃん注:「※」=「齒」+「同」。原典は『ニケカム』とルビする。反芻動物のそれは一般には「にれかむ」の読みが知られるが、「にげかむ」「にげがむ」の訓もちゃんとある。]【「齝」も同じ、音「鴟〔(シ)〕」。】と曰ひ、羊のを「齥(にげか)む」【音「泄〔(セツ)〕」。】と曰ひ、麋・鹿のを「齸(にげか)む」【音「益」。皆、訓「迩介加無〔(にげかむ)〕」。】と曰ふ。禽獸の食ふ所の餘(わけ)を「㱚〔(ざん)〕」【音「殘」。】と曰ふ。字は「肉」に从〔(したが)〕ふ[やぶちゃん注:「㱚」の旁(つくり)が「月」(にくづき)であることを指す。]。

鼻を以つて、物を動かすを、「鼿〔(こつ)〕」【音「兀〔コツ)〕」。訓「宇世流〔(うせる)〕」。】

獸、前の足を直〔(すぐにし)〕て坐〔(すわ)〕るを「蹲踞(つくぼ)う[やぶちゃん注:ママ。]」【俗に云ふ、「豆久波不〔(つくばふ)〕」。】と曰ふ。

「尙書」に云はく、『中冬、鳥獸、氄毛(ふゆげ)【和名「不由介」。】』〔と〕。〔その〕注に云はく、『鳥獸、皆、細毛を生じて自ら温〔むる〕なり。〔この〕毛、落ちて、更に生じて整理〔せる毛〕を「毨〔(せん)〕」【音「先」。】と曰ひ、毛羽〔の〕美悅の狀なり』〔と〕。

[やぶちゃん注:「說文」「説文解字(せつもんかいじ)」。後漢の許慎の著になる西暦一〇〇年頃に成立した現存する中国最古の字書。全十五巻。漢字を「扁 (へん)」と「旁 (つくり)」 によって分類し、その成立と字義を解説したもの。書名は「文字」を「説解」したという意で、略して「説文」と呼ばれる。部首は「一」に始り、「亥」に終る五百四十部に亙り、各部に属する文字は類義字の系列順で配列されてある。各字は、まず、秦代の小篆を掲げ、その古字がある場合は下に付記して(「重文」と称する)字体の変遷を示す。則ち、見出し字である小篆九千三百五十三字と、その重文千百五十三字が収められてある。漢字の造字法を「象形」・「指事」・「会意」・「形声」・「転注」・「仮借」の現在も分類として現役の「六書 (りくしょ)」 に分類し、各字について、その造字法と字義とを解説している。漢字の本質を説明した最古にして最も権威ある書で、甲骨文字が発見され、音韻論・語源研究の発達した今日にあっても、その解説は概ね正しいとされ、逆に本書があって初めてこれらの研究が進んだ。漢字の配列・分析に使われる「部首」や、以上の「六書」の発明と相俟って、中国の実証的学問研究の端緒を成すものとされる。テキストは宋初の校訂本が規準とされ、清代にはそれを校合した「説文」研究が盛んとなり、多くの注釈が生れた。中でも清代の考証学者段玉裁の「段注説文解字」(全三十巻・一八〇七年成立) が、強引な論証をも含むものの、最も精密なものとされている(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

「畜〔(ちく)〕」人が何らかの目的を以って飼育する動物のみを指すが、それだと、そうでない動物の♀♂を「牝牡」と呼んではならないことになるので、これが厳密な意味での本来の原義という謂いであると言う意味で示してあるのである。

「米計毛乃〔(めけもの)〕」言わずもがなであるが、「牝獣(毛物)(めけもの)」の謂いであり、後の「乎介毛乃〔(をけもの)〕」も「牡獣」。

「〔例へば、「詩經」に〕『雄狐〔(ゆうこ)〕綏綏〔(すいすい)〕』といふ」「詩経」の「斉風」の「南山」に出る詩句(書誌情報は平凡社「東洋文庫」訳に拠った)。ここは、「♂のキツネが♀キツネを求めて、ゆるやかに身も軽く、水が流れるように野を走ってゆく」というさまを詠んでいる。詩全体は例えば、個人ブログ「raccoon21jpのブログ」のこちらの原文・訓読・現代語訳及び解説を見られたい。

「雉(きじ)、鳴きて牝を求む」これも実際には前の引用に合わせて「詩経」を念頭に置いていよう。同「邶風」の「匏有苦葉(ほうゆうくよう)」の詩句に「雉鳴求起牡」(雉は鳴き その牡(オス)を求め起(はじ)む)とあるからである。全篇は先の方のブログのこちらで読める。

『凡そ、鳥、交-接(まじは)るを、「交-尾(つる)む」と曰ひ、獸の交-接〔(まじは)〕るを「遊牝〔(つる)む〕」と曰ふ【二つ共に和名「豆流比〔(つるび)〕」。】』この部分、私は良安の割注が気に入らない。前の語はそれを動詞として訓じて訓読しているのであるから、割注の内の和名を名詞で示すというのは、そもそもおかしいからである。

「淮南子〔(えなんじ)〕」(「え」は呉音であるが、こう読まねばならない論理的理由は実は全くない)前漢の武帝の頃に淮南(わいなん)王劉安(紀元前一七九年~紀元前一二二年)が学者を集めて編纂させた思想書。

「春秋說題辭」「春秋」に付会された「緯書(いしょ)」(儒家の経書を神秘主義的に解釈した書物類の総称)の一つで、前漢末頃成立と推定されるもの。東洋文庫訳の書名注では、『一巻。無名氏撰』で、『経書をまねて、吉凶禍福や未来のことを予言した書物で』、「春秋」『に仮託した緯書の一つ』とするが、緯書の書名は三文字で附けられるのが一般的であると、個人サイト「学退筆談」の「『春秋説題辞』は「春秋説」の題辞にあらず」にあって、この書名は正しくない旨の批評が記されてある。

「吽」この字、「阿吽(あうん)」の「ウン」であるが、この「ウン」は仏教の呪言(じゅごん)での音であるので、採用しなかった。

も同じ。】と曰ふ。犬の鳴くを「吠(ほ)ゆる」【音「廢〔(ハイ)〕」。三字、訓、皆、「保由」。】と曰ふ。

「麋〔(おほじか)〕」これを「なれじか」と読み、トナカイ(馴鹿:鯨偶蹄目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科トナカイ属トナカイ Rangifer tarandus)とする場合もあるが、トナカイは現行では中国に分布せず、文字列から見ても、ここは「大型の鹿」の意でとるべきである。「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麋(おほしか)附・雙頭鹿(大型のシカ或いはシフゾウ)」も参照されたい。

「字は「肉」に从〔(したが)〕ふ」「㱚」の旁(つくり)が「月」(にくづき)であることを指して謂っている。

「鼿〔(こつ)〕」『訓「宇世流〔(うせる)〕」』岩波書店「広辞苑」に「鼿(うせ)る」の見出しで載り、他動詞で活用未詳(四段・下一段活用の両説があるとする)で、『けものが鼻先でものをつき動かす』とあり、「和名類聚鈔」を出典例とする。調べてみると、「和名類聚鈔」の巻第十八の「毛群部第二十九 毛群體第二百三十五」に、

   *

鼿 「説文」云、『鼿【「五」「忽」反。宇世流。】以鼻動物也』。

   *

とある。

「尙書」「五経」の一つである「書経」の古名。「尚(とうと)ぶべき書」の意。夏・商(殷)・周の史官が当時記録したものを、周末に至って孔子が編纂したとされる君主や重臣の訓告を主とするものであるが、中には後世の偽作も含まれているとされる。

「整理〔せる毛〕」しっかりと、再度、生え揃った毛。]

和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼬(いたち) (イタチ)/ 和漢三才図会巻第三十九 鼠類 電子化注~完遂

Itati

 

 

いたち   鼠狼  鼪【音生】

      ?【音谷】 地猴

【音佑】

      【和名以太知】

ユウ

 

本綱鼬狀似鼠而身長尾大黃色帶赤其氣極臭其毫與尾可作筆其肉【甘温有小毒】臭此物能捕鼠及禽畜亦能制蛇虺

△按鼬其眼眩耳小吻黒全體黃褐色身長而柔撓雖小隙竹筒反轉無不出能捕鳥鼠惟吮血而不全食之其聲如輾木音群鳴則以爲不祥或夜中有熖氣高升如立柱呼稱火柱其消倒處必有火災蓋群鼬作妖也

水鼬 本此一種常棲屋壁穴覘瀦池入水捕魚性畏蟾蜍如相見則鼬困迷又畏瓢簞故養魚池邊安瓢簞

 

 

いたち   鼠狼  鼪〔(せい)〕【音「生」。】

      ?〔(こく)〕【音「谷」。】

      地猴〔(ちこう)〕

【音「佑〔(イウ)〕」。】

      【和名「以太知」。】

ユウ

 

「本綱」、鼬、狀〔(かたち)〕、鼠に似て、身、長く、尾、大〔なり〕。黃色に赤を帶ぶ。其の氣〔(かざ)〕、極めて臭し。其の毫〔(がう)〕[やぶちゃん注:細い毛。]尾と與(とも)に筆に作るべし。其の肉【甘、温。小毒有り。】〔は〕臭し。此の物、能く、鼠及び禽〔(とり)〕・畜〔(けもの)〕を捕ふ。亦、能く、蛇・虺〔(まむし)〕を制す。

△按ずるに、鼬、其の眼、眩(かがや)き、耳、小さく、吻〔(くちさき)〕黒く、全體、黃褐色。身、長くして、柔〔かく〕撓〔(たをや)かなり〕。小〔さき〕隙〔(すき)〕・竹の筒と雖も、反轉して出でざるといふこと無し。能く、鳥・鼠を捕へて、惟だ、血を吮〔(す)〕ひて、全く、之れを食らはず。其の聲、木を輾(きし)る音のごとし。群鳴すれば、則ち、以つて不祥[やぶちゃん注:不吉の前兆。]と爲す。或いは、夜中、熖氣、有りて、高く升(のぼ)り、柱を立つるがごとし。呼んで、「火柱〔(ひばしら)〕」と稱す。其の消へ[やぶちゃん注:ママ。]倒るゝ處、必ず、火災、有りといふは、蓋し、群鼬、妖を作〔(な)〕すなり。

水鼬〔(みづいたち)〕 本(〔も〕と)、此〔の〕一種〔なり〕。常に屋壁の穴に棲みて、瀦池(ためいけ)を覘(ねら)い[やぶちゃん注:ママ。]、水に入りて、魚を捕る。性、蟾蜍(ひきがへる)を畏る。如〔(も)〕し、相ひ見るときは、則ち、鼬、困迷す。又、瓢簞〔(へうたん)〕を畏る。故に魚を養(か)ふ池邊に瓢簞を安(お)く。

[やぶちゃん注:食肉(ネコ)目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科イタチ属 Mustela に属する多様な種群を指す。ウィキの「イタチ」等によれば、世界には十六乃至十八種が現生し、本邦には、一九六〇年代以降に飼育個体由来の北海道で野生化した北米原産の外来種アメリカミンク(ミンク)Mustela vison を除くと(良安の時代に合わせてこれは数えない)、以下の四種七亜種ほどが棲息する。中国産種はよく判らぬので示さないが、イタチ・オコジョ・イイズナ類の多数種が分布するようである。

ニホンイタチ(イタチ)Mustela itatsi(本州・四国・九州・南西諸島・北海道(偶発的移入):日本固有種:チョウセンイタチMustela sibirica の亜種とされることもあったが、DNA解析により別種と決定されている)

ニホイタチ亜種コイタチ Mustela itatsi sho(屋久島・種子島個体群)

チョウセンイタチ Mustela itatsi coreana(対馬のみに自然分布。本州西部・四国・九州の個体群は外来侵入種で、これは一九四九年頃に船舶の積荷などに紛れ込んで朝鮮半島から九州に侵入したとも、また、同時期に毛皮業者が養殖のために持ち込んで脱走し、西日本を中心に分布を広げたともされる。ニホンイタチの棲息域を圧迫している)

チョウセンイタチ亜種ニホンイイズナ Mustela itatsi namiyei (青森県・岩手県・山形県(?):日本固有亜種。キタイイズナより小型で、日本最小の食肉類とされる。なお、ウィキの「イイズナ」によれば、『東北地方や信州では「飯綱(いづな、イイズナ)使い」「狐持ち」として管狐(くだぎつね)を駆使する術を使う家系があると信じられていた。長野県飯綱(いいづな)山の神からその術を会得する故の名とされる』。『民俗学者武藤鉄城は「秋田県仙北地方ではイヅナと称し』、『それを使う巫女(エチコ)〔イタコ〕も」いるとする』。『また』、『北秋田郡地方では、モウスケ(猛助)とよばれ、妖怪としての狐よりも恐れられていた』とある。)

チョウセンイタチ亜種キタイイズナ(コエゾイタチ)Mustela itatsi nivalis (北海道。大陸に分布するイイズナの亜種)。

オコジョ亜種エゾオコジョ(エゾイタチ)Mustela erminea orientalis(北海道及び千島・サハリン・ロシア沿海地域に分布)

オコジョ亜種ホンドオコジョ(ヤマイタチ)Mustela erminea nippon(本州中部地方以北:日本固有亜種)

以下、ウィキの「ニホンイタチ」を引く。『成獣の大きさはオスとメスで異なり、オスはメスより大きい。体長は、オス』で二十七~三十七センチメートル、メスで十六~二十五センチメートル、尾長はオスで十二~十六センチメートル、メスで七~九センチメートル。体重はオスで二百九十~六百五十グラム、メスで百十五~百七十五グラム。『毛色は個体により様々だが、躯体は茶褐色から黄褐色である。鼻筋周辺は暗褐色。尾の色は』体幹部『とほぼ同色』。『乳頭数は、胸部』にはなく、腹部に二対、鼠径部に二対で、合計八個』。『指趾数(指の数)は、前肢が』五『本、後肢が』五『本』である。『本種は冬眠は』せず、一『年中』、『活動し、その活動時間帯は特に定まっておらず、昼夜活動する。繁殖期以外は基本的に単独で行動する。本種の手足の指の間には蹼(みずかき)があり、泳ぎが得意である。厳冬期にも水に入り、潜ることもある。主な活動地域は川や湖沼、湿地、沢などの水辺であるが、水辺から離れた森林地帯にも生息しており、樹木に登ることもある』。『用心深く』、『後肢で』二『本足立ちして周囲を見回すことがある。この行動を』「目蔭(まかげ)」と称する。『巣は、既存の穴や隙間を使用する』。『メスの活動領域はオスの活動領域よりも狭く、オスの活動領域は複数のメスの活動領域にまたがる』。『食性は主に動物食で、ネズミや鳥、両生類、魚、カニ、ザリガニ、昆虫類、ミミズ、動物の死体など。また、ヤマグワやサクラ、ヤマブドウ、マタタビ、コクワ(サルナシ)の実などの植物質のものも食べる』とある。ここには挙げられていないが、本文にあるように、蛇類も有意に捕食するウィキの「イタチ」の「伝承」の項によれば、『日本古来からイタチは妖怪視され、様々な怪異を起こすものといわれていた』。江戸時代の百科辞典「和漢三才図会」に『よれば、イタチの群れは火災を引き起こすとあり、イタチの鳴き声は不吉の前触れともされている』(本項のこと)。『新潟県ではイタチの群れの騒いでいる音を』、六『人で臼を搗く音に似ているとして「鼬の六人搗き」と呼び、家が衰える、または栄える前兆という。人がこの音を追って行くと、音は止まるという』。『また』、『キツネやタヌキと同様に化けるともいわれ、東北地方や中部地方に伝わる妖怪・入道坊主はイタチの化けたものとされているほか、大入道や小坊主に化けるという』。『鳥山石燕の画集』「画図百鬼夜行」にも『「鼬」と題した絵が描かれているが、読みは「いたち」ではなく「てん」であり』、『イタチが数百歳を経て』、『魔力を持つ妖怪となったものがテンとされている』(後掲する。先行する「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 貂(てん)(テン)」も参照)。『別説ではイタチが数百歳を経ると狢になるともいう』。『イタチを黒焼にして飲めば、こわばりなどに良いという伝承が長野県にある』。また、知られた怪奇現象に「かまいたち」があり、『何もしていないのに突然、皮膚上に鎌で切りつけたような傷ができる現象のことを指す』が、『かつては「目に見えないイタチの妖怪のしわざ」だと考えられていたが、現在では、乾燥した肌が衝撃を受けることで裂ける生理現象であると判明している。最近まで、「空気中にできた真空によって引き起こされる」と説明されていたが、科学的な根拠はない』。但し。『「かまいたち」は「構え太刀」が転じたもので、元来はイタチとは全く関係がない、とする説もある』とある。

「其の氣〔(かざ)〕、極めて臭し」所謂、「鼬の最後っ屁(ぺ)」である。イタチは犬や猫のように、肛門周辺に一対の臭腺を持っており。臭腺はマーキングの用途以外にも外敵に襲われた際に用いる。イタチは外敵と遭遇すると、この臭腺から強烈な悪臭を放ち、相手がひるんだ隙に逃げ出す。その悪臭は取れるまでに時間がかかり、嗅覚が優れている動物にとっては地獄のような苦しみであるという。

「虺〔(まむし)〕」マムシ亜科 Crotalinae(ここにはハブ類が含まれる)マムシ属 Gloydius のマムシ類。本邦産種は有鱗目ヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii と(但し、本種は中国・朝鮮半島にも棲息する)、一九九四年に対馬固有種の独立種として分割されたツシママムシ Gloydius tsusimaensisの二種のみであるが、中国にはマムシ属だけでも複数種が棲息する(中文ウィキの「亞洲蝮屬」(アジアマムシ属)を参照されたい)。また、「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「蝮蛇(はみ)」(マムシ)他の項も参考となるので見られたい。

「惟だ血を吮〔(す)〕ひて、全く、之れを食らはず」誤認。そんなことはない。この俗信について、Q&Aサイトの回答で、イタチの専門家ではないと言い添えられながら、『イタチが鶏小屋などに侵入すると』、『とりあえず』、『そこにいる鶏を全部殺して、そのうえで自分の食べる分を持ち帰るから』と思われ、その血だらけになった惨状を『あとから』、『人間が見ると』、『食べもしないのに』、『殺した様子が「血を吸った」ように見え』たものと思われるとあった。目から鱗の解説である。

「其の聲、木を輾(きし)る音のごとし」短いが、You Tube 駆除屋 CH氏の「イタチの鳴き声が聞けました。」がよい。

「夜中、熖氣、有りて、高く升(のぼ)り、柱を立つるがごとし。呼んで、「火柱〔(ひばしら)〕」と稱す」ウィキの「イタチ」に添えられてある、昔から、「何だか、不思議な絵だな」と思っていた鳥山石燕「画図百鬼夜行」の妖獣「鼬」の絵は、まさにこの「鼬の火柱」を形象化したものだったのだと私には思われて、腑に落ちた。

「水鼬〔(みづいたち)〕」これはまさに普通にイタチの習性である。良安は「本(〔も〕と)、此〔の〕一種〔なり〕」とするが、これをわざわざ上記のニホニイタチ以外のイイズナやオコジョ類の別な種に限定同定する必要を私は感じない(魚食に特化したイタチの仲間は本邦には、どうなんだろう、いない気がするが)。

「性、蟾蜍(ひきがへる)を畏る。如〔(も)〕し、相ひ見るときは、則ち、鼬、困迷す。又、瓢簞〔(へうたん)〕を畏る」孰れも由来不詳。ただ、御存じの通り、ヒキガエルは有毒物質を持ち、犬でさえも誤って噛みつくと、その毒(ブフォトキシン(bufotoxin:激しい薬理作用をもつものが多い強心配糖体の一種。主として心筋(その収縮)や迷走神経中枢に作用する)等)には激しく苦しむというから、イタチも学習していて、好んで捕食はしないであろうから、腑には落ちる(「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蟾蜍(ひきがへる)」の私の注を参照)。また、後者については、単なる思い付きであるが、瓢簞はよく磨くと光るが、イタチは光り物を嫌うという俗信は古くからあったからそれで説明可能かも知れない。

 以上を以って「和漢三才図会巻第三十九 鼠類」は終わっている。]

太平百物語卷五 四十六 獺人とすまふを取し事

 

   ○四十六 獺(かはうそ)人とすまふを取し事

 さぬきの國に山城屋甚右衞門といふ者あり。

 「一穴(ひとつあな)」といふ所に田地(でんぢ)を持ちける程に、常に下人を遣(つかは)して耕作をさせける。

 一日(あるひ)、每(いつも)のごとく、耕作に、孫八といふ下人をつかはしけるに、主人の子甚太郞とて、今年十一才なるが、此「一つ穴」に遊びゐたり。

 孫八、いふ樣、

「今日(けふ)は、高松の叔父君(おぢご)、御出(おんいで)ありて、父上、もてなし給ふに、何とて、内には居(ゐ)玉はぬや。はやはや、歸り玉へかし。」

といへば、此甚太郞、返答(いたへ)もせず、うちわらひ、

「相撲(すまふ)をとらん。」

といふ。

 孫八も、おかしながら[やぶちゃん注:ママ。ここは「ちょっと不審に思いながら」という現代語に近い用法であろう。]、

「いで、さらば、取申さん。」

と、

「無手(むず)。」

と組合(くみあひ)、僞りて、孫八、まけければ、甚太郞、悅び、

「今、一番。」

といふに、又、取て、まけたり。

 甚太郞、限りなく悅び、歸りぬ。

 孫八も黃昏(たそがれ)に歸りて、甚太郞にいふやう、

「扨々。今日は『一つ穴』にて、二番迄、相撲に負(まけ)申たり。無念にこそ侍るなり。」

と、戲(やはむれ)て申しければ、甚右衞門夫婦、いひけるは、

「今日は、高松の叔父、御出(おんいで)なれば、甚太郞は終日(ひねもす)、他行(たぎやう)せず。何をか、いふぞ。」

と申しければ、甚太郞もうちわらひ、

「孫八が、晝寐(ひるね)の夢をや、見つるならん。」

と嘲(あざ)ければ、孫八、ふしぎをなし、

「正(まさ)しく『一つ穴』にて相撲を取(とり)しが、扨は、聞(きゝ)およぶ、あの邊(へん)の獺ならん、惡(にく)き事かな。重(かさね)て出(いで)なば、打殺(うちころ)さん。」

と、いひて、明(あけ)の日も耕作に行(ゆき)けるが、案のごとく、又、甚太郞に化(け)して、

「すまふを取らん。」

と、いふ。

 孫八、

『扨は。昨日(きのふ)の獺ならん。』

と思ひ、

「心得たり。」

とて、頓(やが)て引組(ふつくみ)けるが、孫八、力量の者なれば、其儘、宙(ちう[やぶちゃん注:ママ。])に引提(ふつさげ)、かたへに有(あり)し岩角(いはかど)を目當(めあて)に、なげ付(つけ)ければ、頭(かうべ)を巖(いはほ)に打碎(うちくだか)れ、水の流るゝ事、一斗ばかりして、忽(たちまち)、獺となりて、死(しゝ)たり。

 孫八、うちわらひ、歸りて、甚右衞門夫婦に「かく」と語りけるが、其夜、孫八に物の化(け)付(つき)て、口ばしりけるは、

「扨々、情なや。わが夫(おつと)を、よくも、殺しぬ。われ、此敵(かたき)を取(とら)ずんば、何(いつ)までも、歸るまじ。惡(にく)や、惡や。」

と叫びしかば、甚右衞門夫婦、是におどろき、頓(やが)て、実相坊といふ修驗者(しゆげんしや)を賴みて、祈禱し、樣々に詫(わび)ければ、やうやうに、物の化(け)、落(おち)たり。

 然(しかれ)ども、孫八、心氣(しんき)つかれて、其後(そのゝち)は、力量もおとろへ、病心者(びやうしんもの)となりけるとかや。

[やぶちゃん注:本篇は既に二年前に「柴田宵曲 妖異博物館 河童の力」の注で電子化しているのであるが、今回は底本を原板本としたので、完全に一からやり直してある。こちらがより正確と心得られたい。

「獺」本作では、人を化かす妖獺としてのメイン・キャラクターとしての登場は、「卷二 十一 緖方勝次郞獺(かはうそ)を射留めし事」に続く二度目の登場である。そちらで妖怪としての「かわうそ」は注してあるので参照されたい。また、たまたま、その翌日に電子化注した「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ)(カワウソ)」も参照して戴ければ、幸甚である。

「一穴(ひとつあな)」地名として捜してみたが、見当たらぬ。しかし、この地名、作者の確信犯の意味深長な架空地名ではあるまいか? 諺に「蟻(あり)の一穴(いっけつ)天下の破れ」或いは「蟻の一穴」という成句があり、「大事はほんの些細なことから生じ、ちょっとしたことが原因で大変なことになる」の謂いであるからである。たかが獺の化けたものと相撲を取り、それが物の怪と知ってより、それをぶち殺した結果として、「ぶらぶら病」となった甚八は、まさにその諺と一致するからである。しかもこの語は「同じ穴の狢」などの語との相性もあって、一見、無関係のように見えても実は同類・仲間(特に悪事を働く存在)であることの喩えと通ずる。獺の連れ合いの牝が殺された牡同様に変化(へんげ)の妖術を持ち、甚八に憑くことが、まさしくそれを髣髴とさせるからでもある。]

2019/05/27

和漢三才図会巻第三十九 鼠類 猬(むささび/のぶすま) (ハリネズミ)

Harinezumi

 

けはりねすみ  彙 毛刺

        蝟鼠

【音彙】

 

ヲイ

 

本綱猬頭觜似鼠刺毛似豪猪蜷縮則形如芡房及栗房

攅毛外刺尿之卽開其刺端分兩頭者爲猬如棘針者爲

䖶人犯之便藏頭足毛刺人不可得能制虎跳入虎耳中

而見鵲便自仰腹受啄物相制如此其脂烊鐵中入水銀

則柔如鉛錫

 

 

けはりねずみ  彙〔(い)〕 毛刺〔(まうし)〕

        蝟鼠〔(いそ)〕

【音「彙」。】

 

ヲイ

 

「本綱」、猬は頭・觜〔(くちさき)〕、鼠に似て、刺(はり)の毛、豪猪(やまあらし)に似る。蜷(ま)き縮(ちゞま)るときは、則ち、形、芡房(みづふき)及び栗(くり)の房〔(いが)〕のごとし。毛は攅(あつま)り[やぶちゃん注:密集して群がって。]、外に〔向きて〕刺〔(とげ)〕あり。之れに尿〔(ゆばり)すれば〕、卽ち、開く。其の刺の端、兩頭を分かつ者、「猬」と爲し、棘針のごとき者を「䖶〔(かい)〕」と爲す。人、之れを犯せば、便〔(すなは)〕ち、頭足、毛刺に藏(かく)して、人、得べからず。能く虎を制す。虎の耳の中に跳〔(をど)〕り入る。而〔(しか)〕も、鵲〔(かささぎ)〕を見れば、便ち、自ら、腹を仰けて、啄〔(くちばし)〕を〔甘んじて〕受く。物、相ひ制すること、此くのごとし。其の脂、鐵〔の〕中に烊〔(とか)〕し、水銀を入るれば、則ち、柔かにして、鉛(なまり)・錫(すゞ)のごとし。

[やぶちゃん注:ここはまずは、東アジアから北東アジアに分布し、現代では日本の一部地域にペット由来の外来種として定着している、哺乳綱ハリネズミ目ハリネズミ科ハリネズミ亜科ハリネズミ属アムールハリネズミ Erinaceus amurensis と同定比定してよかろう。但し、日本では更新世(約二百五十八万年前から約一万年前)の堆積物からハリネズミ類の化石が見つかっていることから、太古には日本列島にもハリネズミが棲息していたものと推測される(ここはウィキの「アムールハリネズミ」に拠る)。広義のハリネズミ類(ハリネズミ亜科Erinaceinaeの仲間)は、ユーラシアとアフリカに分布し、現在、五属十六種がいる。体はずんぐりとし、背面には堅い針状毛を持ち、尾は痕跡的。手足は頑丈で、強大な爪を持つ。平地の農耕地・低木林・草原などに棲み、地上性・雑食性で、温帯に分布するものは、冬に冬眠をする。時珍は針の先の違いで二種を挙げているが、「棘針のごとき者」で「䖶〔(かい)〕」という名のそれをアムールハリネズミとすれば(同種は棘先が分かれてはいないだろうと思う)、「其の刺の端、兩頭を分かつ」「猬」とは何なのかはよく判らない。識者の御教授を乞うものである。

「豪猪(やまあらし)」「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 豪豬(やまあらし)(ヤマアラシ)」を参照されたい。また、私の図入りの電子化注『栗本丹洲自筆(軸装)「鳥獣魚写生図」から「豪猪」(ジャワヤマアラシ)』も、是非、どうぞ! 但し、両者の棘(とげ)は使用属性が全く異なる。本ハリネズミのそれは自己防衛のための装置であるが、ヤマラシのそれは積極的な危険な攻撃用具として現に存在しているのである。

「芡房(みづふき)」「水蕗」で、スイレン目スイレン科オニバス(鬼蓮)属オニバス Euryale ferox の異名。一属一種。ウィキの「オニバス」によれば、『アジア原産で、現在ではアジア東部とインドに見られる。日本では本州、四国、九州の湖沼や河川に生息していたが、環境改変にともなう減少が著し』く、『かつて宮城県が日本での北限だったが』、『絶滅してしまい、現在では新潟県新潟市が北限となっている』。『植物』体全体に『大きなトゲが生えており、「鬼」の名が付けられている。特に葉の表裏に生えるトゲは硬く鋭い』ことから、ここに比喩として挙げたのである。なお、私たちが小さなころから写真で見慣れた、子供が乗っている巨大な蓮は、スイレン目スイレン科オオオニバス(大鬼蓮)属オオオニバス Victoria amazonica で、和名は酷似するが、別種である。

「之れに尿〔(ゆばり)すれば〕、卽ち、開く」って、人がってことなわけだけど、「ミミズに小便」式に考えると、恐(コワ)!!!

「虎の耳の中に跳〔(をど)〕り入る」虎、痛(イタ)!!!

「鵲〔(かささぎ)〕」スズメ目カラス科カササギ属カササギ亜種カササギ Pica pica sericea「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鵲(かささぎ)(カササギ)」をどうぞ。

「物、相ひ制すること、此くのごとし」自然界の架空の相克関係を五行思想でこじつけているだけである。

「其の脂、鐵〔の〕中に烊〔(とか)〕し、水銀を入るれば、則ち、柔かにして、鉛(なまり)・錫(すゞ)のごとし」殆んど錬金術!!!]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(24) 「甲斐ノ黑駒」(2)

 

《原文》

 【神馬足跡】對馬ヨリ出デタル神馬ノ足跡ハ、同國與良村大字豆酘内院(ツヽナヰン)神崎ノ馬下(ウマオロシ[やぶちゃん注:底本ではルビの「ロ」が脱字であるため、後文と「ちくま文庫」版によって挿入した。])ト云フ海岸ノ巖ノ上ニ、數處一列ヲ爲シテ存在シ、此馬ノ洋海ノ出ス所ナルコトヲ暗示セリ〔津島記事〕。但シ馬下ノ「オロシ」ハ神ヲ降臨セシムルコトヲ意味スルカト思ハル。甲斐ノ黑駒ノ遺跡ニ至リテハ、太子ニ對スル崇敬ト伴ヒテ更ニ弘ク國内ニ分布セリ。【馬蹄石】先ヅ其本國ノ甲斐ニ於テハ、東山梨郡等々力(トヾロキ)村ノ萬福寺ノ門前ニ、太子ノ憩ヒタマヒシト云フ馬蹄石アリ。此寺今ハ眞宗ニシテモトハ天台宗、而モ聖德太子ヲ以テ開基トス〔本朝國語〕。四ツノ蹄ガ四ツナガラ鮮カニ現ハレ居ルト云ヘバ〔甲州噺〕、勢ノハズミニ打込ミタルモノニ非ズシテ、靜カニ且ツ確實ニ印シタル痕跡ナリ。同ジク東八代郡日影村駒飼宿(コマカウジユク[やぶちゃん注:ママ。])ノ駒飼石ニ至リテハ、五間ニ三間ノ石ノ面ニ二十一箇ノ足跡アリキ。上宮太子此地ニ於テ黑駒ヲ飼ヒタマヘリト傳ヘタリ。此石ハ享保年中笹子川ノ洪水ニ障リトナリテ多クノ民屋ヲ損ゼシヨリ、之ヲ割リテ川除ノ石堤ニ用ヰ〔甲斐國志〕、今ハ其片影ヲモ留メズ〔山梨縣市町村誌〕。其他東山梨郡加納岩村上下石森組ノ境、熊野權現ノ小山ニ馬蹄石、同郡松里村大字松里三日市場組ノ馬蹄石一名ヲ駒石、【駒形石】北巨摩郡穴山村黑駒ノ駒形石、北都留郡初狩村下初狩組カンバ澤山ノ馬蹄石ナドアレド、何レモ聖德太子ノ傳說ヲ伴ハズ。【降臨ト馬】穴山ノ駒形石ハ黑駒大神ノ社頭ニ在レドモ、此神ハ大汝(オホナムチ)ト建御名方トノ二尊ヲ祭リ、昔諏訪ノ神黑駒ニ乘リ此地ニ來リタヒシヨリ社ヲ立テ名ヲ定メタリト稱シ〔山梨縣市町村志〕、初狩ノ馬蹄石ハ數多ノ馬ノ蹂躪シタル跡ナリト云フ〔甲斐國志〕。黑駒ガ聖德太子ノ知遇ヲ忝クセシト云フハ大和ノ朝廷ニテノ事ナリ。富士往來ノ三日ノ外、後ニ鄕里ニ還リタリトモ見エザレバ、太子ノ口碑ノ甲斐ニ多ク存セザルハ寧ロ當然ナリ。【黑駒ノ塚】黑駒終焉ノ地ハ河内南河内郡駒ケ谷村大字駒ケ谷ナリト謂ヒ、此村ノ金剛輪寺ハ亦太子ノ建立スル所ナリ。此谷ニモ黑駒ノ足形ノ石ノ上ニ遺ルモノアリ。之ヲ繫ギタリト云フ柊(ヒヽラギ)ノ樹ハ葉ノ端ニ刺無シ〔和漢三才圖會〕。攝津川邊郡長尾村ノ仲山寺モ太子創立ノ寺ナリ。境内ノ黑駒石ニハ四ツノ蹄ノ跡アリ。後世ノ爲ニ斯ノ如キ奇跡ヲ留メシナリ〔攝陽群談〕。大和ノ三井ノ法輪寺ノ巽ノ方ニハ、太子ノ召サレシ栗毛ノ駒ヲ葬ルト云フ栗毛ノ岡アリ〔大和國遊誌下〕。此ハ勿論黑駒トハ別ナルべキカ。播州斑鳩寺(イカルガデラ)ノ檀特山ノ路ニ、御駒ノ蹄ヲ留ムト云フ岩アリシハ、是レ亦日本ノ太子ニ托シタル靈石ナルガ如シ〔朝風意林所錄斑鳩寺緣起〕。

 

《訓読》

 【神馬足跡】對馬より出でたる神馬の足跡は、同國與良村大字豆酘内院(つゝなゐん)神崎の馬下(うまおろし)と云ふ海岸の巖の上に、數處、一列を爲して存在し、此の馬の洋海の出だす所なることを暗示せり〔「津島記事」〕。但し、馬下の「おろし」は、神を降臨せしむることを意味するかと思はる。甲斐の黑駒の遺跡に至りては、太子に對する崇敬と伴ひて、更に弘く國内に分布せり。【馬蹄石】先づ、其の本國の甲斐に於いては、東山梨郡等々力(とゞろき)村の萬福寺の門前に、太子の憩ひたまひしと云ふ馬蹄石あり。此の寺、今は眞宗にして、もとは天台宗、而(しか)も、聖德太子を以つて開基とす〔「本朝國語」〕。四つの蹄が、四つながら、鮮かに現はれ居ると云へば〔「甲州噺」〕、勢ひのはずみに打ち込みたるものに非ずして、靜かに、且つ、確實に印(しる)したる痕跡なり。同じく、東八代郡日影村駒飼宿(こまかうじゆく)の駒飼石に至りては、五間に三間[やぶちゃん注:五・〇九×五・四五メートル。]の石の面に二十一箇の足跡ありき。上宮太子、此の地に於いて黑駒を飼ひたまへりと傳へたり。此の石は享保年中[やぶちゃん注:一七一六年~一七三六年。]、笹子川の洪水に障(さは)りとなりて、多くの民屋を損ぜしより、之れを割りて、川除(かはよけ)の石堤に用ゐ〔「甲斐國志」〕、今は、其の片影をも留めず〔「山梨縣市町村誌」〕。其の他、東山梨郡加納岩村上下石森組の境、熊野權現の小山に馬蹄石、同郡松里村大字松里三日市場組の馬蹄石、一名を駒石、【駒形石】北巨摩郡穴山村黑駒の駒形石、北都留郡初狩村下初狩組かんば澤山の馬蹄石などあれど、何(いづ)れも聖德太子の傳說を伴はず。【降臨と馬】穴山の駒形石は黑駒大神の社頭に在れども、此の神は大汝(おほなむち)と建御名方(たけみなかた)との二尊を祭り、昔、諏訪の神、黑駒に乘り、此の地に來りたまひしより、社を立て、名を定めたりと稱し〔「山梨縣市町村志」〕、初狩の馬蹄石は數多(あまた)の馬の蹂躪(じうりん)したる跡なりと云ふ〔「甲斐國志」〕。黑駒が聖德太子の知遇を忝(かたじけな)くせしと云ふは、大和の朝廷にての事なり。富士往來の三日の外、後に鄕里に還りたりとも見えざれば、太子の口碑の甲斐に多く存せざるは、寧ろ當然なり。【黑駒の塚】黑駒終焉の地は、河内南河内郡駒ケ谷村大字駒ケ谷なりと謂ひ、此の村の金剛輪寺は亦、太子の建立する所なり。此の谷にも、黑駒の足形の、石の上に遺るもの、あり。之れを繫ぎたりと云ふ柊(ひゝらぎ)の樹は葉の端に刺(とげ)無し〔「和漢三才圖會」〕。攝津川邊郡長尾村の仲山寺(なかやまでら)も太子創立の寺なり。境内の黑駒石には四つの蹄の跡あり。後世の爲めに斯くのごとき奇跡を留めしなり〔「攝陽群談」〕。大和の三井の法輪寺の巽(たつみ)の方には、太子の召されし栗毛の駒を葬ると云ふ「栗毛の岡」あり〔「大和國遊誌」下〕。此れは、勿論、黑駒とは別なるべきか。播州斑鳩寺(いかるがでら)の檀特山(だんとくざん)の路に、御駒の蹄を留むと云ふ岩ありしは、是れ亦、日本の太子に托したる靈石なるがごとし〔「朝風意林」所錄「斑鳩寺緣起」〕。

[やぶちゃん注:「對馬」「與良村大字豆酘内院(つゝなゐん)神崎の馬下(うまおろし)と云ふ海岸」対馬の最南端に位置する長崎県対馬市厳原町(いづはらまち)豆酘内院(つつないいん)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。海岸線は東側のみであるが、ネットでは「馬下(うまおろし)」という海岸は確認出来ないし、神馬伝承も不詳。識者の御教授を乞う。

「東山梨郡等々力(とゞろき)村の萬福寺」山梨県甲州市勝沼町等々力にある万福寺。推古天皇一二(六〇四)年創建で(聖徳太子の関わった創設伝説有り)、当初は法相・天台・真言の三宗兼学道場であったが、鎌倉時代に浄土真宗となった。境内に聖徳太子が乗用した黒駒の蹄の跡とする「馬蹄石」が現存するが、滝おやじ氏のサイト「巨石・滝・地形めぐりの記録とメモ」の「山梨県甲州市勝沼町綿塚 大石神社、等々力 萬福寺の馬蹄石」の記載によれば(馬蹄石の写真有り)、昭和三三(一九五八)年刊『勝沼町誌刊行委員会編「勝沼町誌」』の『万福寺の項によれば』、『馬蹄石』は『駒塚ともいう』。『長さ二間』(約三・六四メートル)、『広さ九尺』(約二・七三メートル)。『石の面は平らにして馬の蹄の跡四個を留む。伝説によると』、『聖徳太子甲斐の驪駒に乗り』、『富士山、駒ヶ岳に登り』、『還りて』、『この石に駐したりと』とあるとし、『さらに、町誌』』『によると』、『松尾芭蕉が「野晒紀行」に著した甲斐国回遊の道すがら、万福寺に立ち寄り、馬蹄石も見たと考えて、万福寺住職三車らの努力により、石の傍らに「行駒の麦に慰むやどりかな」の芭蕉句碑が建立され、地方俳人による句集「駒塚集」が刊行されたと』という。但し、現存するその「馬蹄石」は巨石研究家のサイト主が見ても、最早、上記のサイズより小さく、『万福寺の所在する扇状地面位置ではあり得ない大きさの礫で、角が丸くなっていますから転落岩塊ではなく、土石流運搬の礫だと思います』。『完全に地表に露出していて、境内の地表の上に乗っていて埋まっていません。また』上述の『句碑、馬蹄石、参道、本堂』の総合的な『配列も人工的で』あって、『この地点に』もともと『あったものでなく、別の地点から人工的に運んできたものと思います』。『念のため、境内の地質を見てまわったら、本堂脇に穴があってテフラ』(tephra:地学用語。噴火口から放出されて火山周辺や風下側の広い範囲に堆積した降下性火山砕屑物の総称)『が見えました』。『馬蹄石は、テフラ堆積後』、『現在位置に乗ったことにな』り、近くを流れる日川(ひかわ)の『氾濫による溢流堆積とは考えられない地形なので、人工移動と』する『より無い』と断じておられる。「四つの蹄が、四つながら、鮮かに現はれ居る」とあるが、現行の当該石の複数の写真を見ても、最早、それも認め得ない。

「東八代郡日影村駒飼宿(こまかうじゆく)の駒飼石」現在の山梨県甲州市大和町日影のこの附近が、旧甲州街道駒飼(こまかい)宿である。個人ブログ「新甲州人が探訪する山梨の魅力再発見!」の『甲斐大和「笹子峠」を越えると本陣「駒飼宿」があった!』によって旧駒飼石(馬蹄石)のあったらしい位置が判る。則ち、示したグーグル・マップ・データの南の端の橋附近である。

「東山梨郡加納岩村上下石森組の境、熊野權現」山梨県山梨市下石森と上石森の間となると、この中央附近であるが、熊野神社は見出せない。或いは画面北部分にある下石森の山梨岡神社に合祀されたか?

「同郡松里村大字松里三日市場組」山梨県甲州市塩山三日市場はこの附近

「北巨摩郡穴山村黑駒」山梨県韮崎市穴山町はここで、同地区内に御名方(みなかた)神社(黒駒神社)を現認出来る。「山梨県神社庁」公式サイト内の同神社の解説に、『「甲斐国志」に云ふ黒駒明神なり、社記に「古昔諏方ノ神、驪(くろ)駒(こま)ニ騎リテ来レリ因テ祠ヲ置キテ地名トス、祠後ノ山ニ馬蹄石アリ、駒形石ト呼ブ、又祠東ニ鎮座石アリ、昔鉾ノ木ト云フ処ヘ神與ヲ移シテ祭リシガ今ハ廃セリ今尚其地ニ神楽田、楔田ナド云フ名残レリ云云」』とあった(因みに「楔田」(くさびだ)というのは如何にも変。「禊田」(みそぎだ)の誤りではなかろうか?)。サイト「YAMANASHI DESIGN ARCHIVE」の同神社のページ「馬蹄石」の写真が挙げられており、『黒駒大神の社の後ろに馬蹄石があり、駒形石と呼んでいる。昔 諏訪明神が黒駒に騎って来たのでこれを祀り、また駒ケ岳の黒駒もここに往来したという。(北巨摩郡誌)』(昭和二八(一九五三)年山梨民俗の会刊「甲斐傳説集」より)とある。

「北都留郡初狩村下初狩組かんば澤山」山梨県大月市初狩町はここ。東西に貫通する笹子川の南北に沢と峰が複数あり、特定不能。

「河内南河内郡駒ケ谷村大字駒ケ谷」「金剛輪寺」大阪府羽曳野市駒ケ谷に「金剛輪寺址」として残る。同マップのサイド・パネルの写真の解説板によれば、実際には奈良時代後期の創建と推定されている。明治四(一八七一)年に廃寺となっている。「和漢三才圖會」の巻第七十五の「河内」に載る。以下、所持する原典(画像)から電子化し、訓読(一部の読みは私の推定)する。

   *   *

金剛輪寺   在駒之谷 名十六山安養院

 推古天皇祈願 聖德太子開基

 釋迦堂【座像四尺五寸】 十一靣觀音 藥師如来【共此太子之作也】

 三所權現社 辨財天

 聖德太子乘黑駒以調子丸爲舎人入于雲中至富士山還到河州磯長山時放駒於此谷其馬足形遺于石靣有之所馬繫柊樹有之葉耑無尖刺

   *

金剛輪寺   駒之谷に在り。十六山安養院と名づく。

 推古天皇の祈願。聖德太子の開基。

 釋迦堂【座像。四尺五寸。】。十一靣觀音。藥師如来【共に、此れ、太子の作なり。】。

 三所權現社。辨財天。

 聖德太子、黑駒に乘り、調子丸(ちやうじまる)を以つて舎人(とねり)と爲し、雲中に入りて、富士山に至る。還(また)、河州[やぶちゃん注:河内国。]磯長(しなが)の山に到りし時、駒を此の谷に放つ。其の馬の足形、石靣に遺りて、之れ、有り。馬を繫(つな)ぐ所の柊(ひいらぎ)の樹(き)、之れ、有り、葉の耑(はし)に、尖-刺(はり)無しと云々。

   *

「攝津川邊郡長尾村の仲山寺」兵庫県宝塚市中山寺(なかやまでら)にある真言宗紫雲山中山寺(なかやまでら)。寺伝では聖徳太子が建立したとされ、日本最初の観音霊場である。古くは「極楽中心仲山寺」と称されていた。「黑駒石」は公式サイトのこちらにも、『奥之院のほど近く、太子の愛馬黒駒の馬蹄跡が残る石がございます』とあるが、ネットで検索しても画像は見当たらない。

「大和の三井の法輪寺の巽(たつみ)の方」奈良県生駒郡斑鳩町三井の法輪寺(三井寺)の南東になる富郷(とみさと)陵墓参考地附近か。ここは「岡の原」と地元では呼ばれている。因みに円墳である。

「播州斑鳩寺(いかるがでら)の檀特山(だんとくざん)」兵庫県揖保(いぼ)郡太子町(たいしちょう)鵤(いかるが)の斑鳩寺であるが、柳田國男の言っている「檀特山」はその南東二キロメートルの位置の、現在の兵庫県姫路市勝原区下太田にある。ここ「太子町観光協会」公式サイト内「檀特山」の解説(そこをクリックすると、地図が移動するによれば、『弥生時代の頃、屋根筋の最高所に近いところで広い範囲に集落を築いていました。考古学では、高地性集落と呼んで注目されています。天下の名僧徳道上人の特化の由緒を持つ感動石の伝説もあり、また、その石に打たれて死んだという悪キツネの話もあります』。また、『行道岡・黒駒蹄跡』が檀特山から峰伝いに東北に少し行った位置にあり、ここは『太子行道』(こうどう)『の岡ともいいます。山頂に十畳ほどの岩があり、その表面にある無数のくぼみは、聖徳太子の駒の蹄跡と伝えられています。その傍らに昔は駒のつなぎの松がありました。この木が妙なる異香を放っていたので、異香留我(いかるが)の地名がついたとの言い伝えもあります』とあり「太子町」公式サイトのこちらの「行道岡・黒駒蹄跡」に、それらしい多数の穴の開いた岩の写真が添えられてある。

キヤベツ汁 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    キ ヤ ベ ツ 汁

 

 或る百姓の寡歸の一人息子に二十歲になる若者があつた、村中での一番の働き手であつたが、それが死んでしまつた。

 此の村の地主の奧樣が此の女房の不幸を聞き附けて、葬式の日に訪(たづ)ねて行つてやつた。

 女房は家(うち)にゐた。

 小舍(こや)の眞中(まんなか)の食卓(テエブル)の前に立つて、彼女はゆつくりと右の手を規則正しく動かして(左の手はだらりと垂れてゐた)、眞黑(まつくろ)になつた鍋の底から、薄いキヤベツの汁(スウプ)をしきりにすくつては飮んでゐた。

 その女房の顏は沈んで暗く、眼は赤く脹(は)れ上つてゐた……けれどもその樣子は寺院(おてら)にゐるやうにきちんとし、ちやんとしてゐた。

『まあ!』と奧樣は思つた。『こんな時にまだ食(た)べてゐられるなんて……この人達は何て感情(こゝろもち)が荒つぽいんだらう!』

 そしてそのをり、奧揉は自分が幾年前生後九ケ月になる娘を失くした時、悲しさのあまり、ペテルブルグの近傍にある大好きな別莊にも行かないで、一夏市街(まち)で過(すご)した事を思出した! その間女房はキヤベツ汁をすゝり續けてゐた。

 奧樣はとうとうこらへ切れなくなつて、『タチヤナ!』と呼んだ……『まあ! 驚いた! お前まあ息子(むすこ)の事を思はずにゐられるのかえ? こんな時にやつぱり物が食べたいのかえ? どうして汁(スウプ)なんか食べてゐられるのだらうね!』

『家(うち)のワアシヤは死んぢまひました』と女房は小聲で言つて、悲嘆の淚はまたもそのげつそり落ちた頰に流れた。『もう私(わし)も死んぢまひさうでございます、もう此の胸をかきむしられるやうでして。でも、汁(スウプ)はうつちやらかして置いちや勿體なうございます、これにはお盬が入(はひ)つとりますから』

 奧樣はたゞ肩を動かしたばかりで行つてしまつた。彼女には盬の價(あたひ)はわからなかつたのだ。

    一八七八年五月

 

キヤベツ汁、露西亞では盬に重税を課せられてゐるから、その寡婦が勿體ながつたのである。】

[やぶちゃん注:「とうとう」「死んぢまひました」は孰れもママ。「入(はひ)つとりますから」の「入(はひ)る」といふ語は「這ひ入る」の発音の一部が脱落した形の表記語であるから、歴史的仮名遣としては誤りではない。]

蟲 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    

 

 我々廿人ばかりが窓や開け放した大廣間にすわつてゐる夢を見た。

 その中には女も子供も老人もゐた。……珍らしくもない話が、騷々(さうざう)しく取交はされてゐた。

 突然鋭い騷音を立てゝ二寸ばかりの大きな蟲が廣間へ飛び込んで來た……飛ぴ込んで來て、二三度飛び廻つて、壁にとまつた。

 それは蠅か、山蜂かのやうであつた。その身體(からだ)は土色(つちいろ)であり、平つたいごつごつした翼も同じ色であつた。擴(ひろ)げた足には毛が生えてゐるし、頭は蜻蛉などに見るやうに大きくて角(かど)ばつてゐた。そしてこの頭も足も血潮に浸したやうに眞赤(まつか)だつた。

 此の奇怪な蟲は絕えずその頭を上下左右に振り、その足をばたばたさせてゐた……それから突然壁から飛立ち、ぶんぶんと部屋を飛廻つて、また止(と)まると再ぴその場を動かないで、身體中を厭(い)やな氣味の惡い工合に動かしてゐた。

 それは我々凡てに嫌惡、恐怖、戰慄の感をさへ起させた……我々の中には誰一人これまでこんなものを見た者はなかつた。我々は一齊(せい)に叫んだ、『此の怪物を追ひ出しちまへ!』そして、遠くからその方へ手巾(ハンケチ)を振つた……けれども一人として敢て近づいて行く者はなかつた……そしてその蟲が飛びはじめると、皆思はず身を避けた。

 一座の中でたつた一人蒼(あを)い顏をした靑年が、驚いたやうに我々一同を眺めた。彼は利肩をゆすぶつて、にやりとした、そして一體我々にどんな事が起つたか、何故(なぜ)我々がこんなに騷ぎ立つてゐるか一向譯(わけ)がわからなかつたのだ。彼自身は全く蟲をも見なければ、その翼の不氣味(ぶきみ)な音をも聞かなかつた。

 突然蟲は靑年をぢつと見込んだらしく。飛立つて彼の頭上へ落して行き、額の、眼の上のところを剌した。……靑年は微かに呻(うめ)いて、そして倒れて死んでしまつた。

 その恐ろしい蠅は直ぐに飛び去つた……その時はじめて我々は、我々を訪(おとづ)れたものが何ものであつたかを悟つた。

    一八七八年五月

 

[やぶちゃん注:これは旧約聖書「列王紀」や、新約聖書でイエスを批判する者たちが口にするところの「Beelzebub」(ベルゼブブ)、ヘブライ語で「ハエの王」、所謂、「悪魔」であろう。]

施物 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    施  物

 

 或る大きな市街(まち)の近くの廣い大通を一人の病みほけた老人が步いてゐた。

 彼はよろよろ步いて行つた。彼の年と共に衰へた足は、止つたり引きずつたり躓(つまづ)いたりして、苦しげに力無げに動いてゐた、まるで他人の足でゝもあるかのやうに。彼の着物はぽろぼろになつてゐて、露出(むきだし)の頭は胸の上に垂れてゐた……彼は精も根もすつかり盡き果てゝゐるのだ。

 彼は路傍の石に腰をかけて、がつくり屈(かゞ)んで、膝の上に肘を突いて、兩手で顏を蔽うた。そして淚は曲げられた指の間から洩れて乾いた灰色の埃の上に滴(したゝ)つた。

 彼は昔の事を思出した。

 彼もまた健康で金持でつた事、それからその健康をこはしてしまつた事、その金を他人の爲めに、敵の爲め友達の爲めに蕩盡(たうじん)してしまつた事を思出した……そして今は、一塊の麺麭(ぱん)も持つてゐないのだ。凡ての人が彼を見棄てゝしまつた。友達の棄てゝ行つたのは敵よりも早かつた。……彼は施物(ほどこし)を乞ふまでに身を下(くだ)さねばならぬのだらうか? かう考へ時、彼の心は苦々(にがにが)しさと羞沁とに充たされた。

 淚は溢れに溢れて、點々と灰色(はひいろ)の埃(ほこり)を濡らした。

 突然誰れかゞ自分の名を呼ぶ聲を聞いて、彼はものうい頭(かしら)を舉げて、前に一人の知らない人物の立つてゐるのを見た。

 その顏は落着いて重々しげではあつたが、峻嚴(しゆんげん)ではなかつた。その眼は輝いてゐると云ふよりはつきりしてゐた。この眼附は人を見拔くやうではあつたが意地の惡いものではなかつた。

『君は財產をすつかり人にやつてしまつた』とその知らない人物は落着いた調子で言つた、……『然し、君はその善行を後悔してゐやしまいね?』

『後悔いたしはしません』と老人は溜息をして答へた。『けれども私は餓死しかけてゐます』

『若し乞食が君に手を出さなかつたなら』と知らない人物は續けた、『君は自分の慈善の心を證明(ため)して見る人間が無かつたらう。君は善行をする事が出來なかつたらう』

 老人はそれには答へないで、ぢつと考へ込んだ。

『爺さん、だから君も今は氣位(きぐらゐ)を高くしてゐないで』と知らない人物はまた言ひはじめた、『行つて手を出したがいゝ。君も他(よそ)の善人たちにその慈悲心を實證する機會を與へるがいゝ』

 老人は吃驚(びつくり)して眼をあげた……然し其知らない人物は、もう消え去つてゐた。そして遠方から一人の男がおなじ道を此方(こちら)へやつて來るのが見えた。

 老人はその男のところへ行つて手を出した。その男は冷たい眼色をして顏をそむけて、彼に伺も與へなかつた。

 然し其後から又一人通つた、そして其人は老人にほんの僅(わづか)の施(ほどこし)をしてやつた。

 かうして老人は貰つた銅錢で自分の麺麭(ぱん)を買つた、乞食して得た少しの食物(たべもの)は彼には旨(うま)かつた、そして心に何の恥づるところもなく、むしろ反對に平安(やすらかさ)と歡喜(よろこび)とが彼の心に神の惠みのやうに湧いたのであつた。

    一八七八年五月

太平百物語卷五 四十五 刑部屋敷ばけ物の事

 

   ○四十五 刑部(ぎやうぶ)屋敷ばけ物の事

 但馬の國に化者屋敷ありと專ら沙汰して、此家(いへ)に住む人なかりしが、木戶(きど)刑部と云(いふ)浪人、此よしを聞(きゝ)、

「我、行(ゆき)て住(すま)ん。」

とて、主從二人、住けるが、如何樣(いかさま)、人のいふに違(たが)はず、每夜每夜、一時(いつとき)[やぶちゃん注:二時間。]斗(ばかり)づゝ、家内(かない)震動して、偏(ひとへ)に大地震のごとし。

 刑部、心は武(たけ)しといへ共、其正体を見屆(みとゞけ)ざれば、力なく日を送りけるに、或夜、刑部が常に尊(たうと)みける智仙といふ僧、訪(とふら)ひ來(きた)られける。

 此僧は、道德、目出度(めでたき)人なりしかば、刑部、幸(さひはひ)と悅び、「しかじか」のよしを語る。

 智仙、聞玉ひて、

「いか樣、不審(いぶか)しき事にて侍る。我、今宵、此所に滯留して、樣子を見るべし。」

とて、一宿し玉ひけるが、每(いつも)の刻限にもなりしかば、刑部がいふに違はず、震動する事、冷(すさま)じかりし。

 智仙、つくづくこゝろを付て見給ふに、座(ざ)しゐられし所の疊、うねりしかば、其[やぶちゃん注:「その」。]高く疊の上(あが)る所を、

「じつ。」

と、おさへ玉ふに、さしも、今迄、騷(さはが)しかりしも、忽ち、治まりたり。

 時に智仙、小刀(こがたな)をとりて、疊をさし、刑部にむかひ、仰(おほせ)けるは、

「今宵は、はや、動くまじ。夜明(よあけ)てこそ樣子を正(たゞ)し玉へ。」

とて、其夜の明(あく)るを待ち、翌(あけ)の日、刑部、家來と共に、疊を上(あげ)、床(ゆか)の下を搜しみれば、數年(すねん)を經たる古墳(ふるづか)あり。

 洗ひてみれば、

『刄熊靑眼㚑位(じんゆうせいげんれいゐ』

といふ文字、幽(かすか)にありて、「眼」の字より、新(あらた)なる血、こぼれ居(ゐ)たり。

『扨は。夜前(やぜん)、智仙ひじりの小刀をさし玉ひける跡にや。』

と、刑部も奇異の思ひをなし、所に久しき百姓を招きて、此事を語るに、此者のいはく、

「むかし、此所に外記(げき)といへる人、住(すむ)で、人の爲に熊(くま)を、生(いき)ながら、血をしぼり取、殺しけるが、後難(こうなん)を恐れて、骸(なきがら)を土中(どちう[やぶちゃん注:ママ。])にうづみ、私(ひそか)に墳(つか)を築き吊(とぶ)らはれしに、猶も、其恨み、はれやらず、終に、外記を取殺(とりころ)しぬ。されば、其執心、此屋敷に留(とゞま)りて、夜な夜な、出(いづ)るといひ傳へしより、人、恐れて住(すま)ざりしが、ちか比(ごろ)、御身、住給ひしに、げにも。噂に、違ひ侍らず。」

と、委(くはし)く語れば、智仙、始終を聞玉ひ、

『不便(ふびん)の事。』

に、おぼして、則(すなはち)、二夜(や)三(さん)日が間(あいだ[やぶちゃん注:ママ。])、外記と熊の遠忌(ゑんき)を吊らはれければ、其後は、家鳴(やなり)・震動もやみて、何の事もなかりければ、此屋敷、永く、刑部が有(う)となりにけり。

[やぶちゃん注:「但馬の國」現在の兵庫県北部。

「遠忌」通常は「をんき(おんき)」没後に長い期間を経て行われる年忌。五十年忌以降の法会供養を指す。

「有(う)」所有。持ち分。]

和漢三才図会巻第三十九 鼠類 䶉(たけねずみ)・鼯鼠(むささび/のぶすま) (タケネズミ・ムササビ・モモンガ)

Takenezumi

 

 

たけねすみ  竹㹠

 【音留】

 

本綱䶉出南方居土穴中食竹根之鼠也大如兎人多食

之味如鴨肉凡煮羊以䶉煮鼈以蚊物性相感也

――――――――――――――――――――――

むささひ

鼯鼠

のふすま

[やぶちゃん注:以下は原典では上記三行の下部に配されてある。]

△按鼯鼠毛色形畧似鼠而有肉翼

 也【詳于原禽類伏翼之次】

 

 

たけねずみ  竹㹠〔(ちくとん)〕

 【音「留」。】

 

「本綱」、䶉は南方に出づ。土〔の〕穴の中に居り、竹根を食ふ鼠なり。大いさ、兎のごとし。人、多く、之れを食ふ。味、鴨肉のごとし。凡そ、羊を煮るに、䶉を以つてし、鼈〔(すつぽん)〕を煮るに、蚊を以つてす。物性、相感〔するもの〕なり。

――――――――――――――――――――――

むささび

鼯鼠

のぶすま

△按ずるに、鼯鼠は、毛色・形、畧〔(ほぼ)〕鼠に似て、肉の翼(つばさ)有るなり。【原禽類〔の〕「伏翼〔(かはほり)〕」の次〔じ〕[やぶちゃん注:次第。当該項の解説。但し、これは「和漢三才圖會第四十二 原禽類 䴎鼠(むささび・ももか)(ムササビ・モモンガ)」の項の誤り(「伏翼(かはほり)(コウモリ)」はその前項)。]に詳らかなり。】。

[やぶちゃん注:齧歯目ネズミ亜目ネズミ下目タケネズミ科タケネズミ亜科Rhizomyinae に属するタケネズミ(竹鼠)類。平凡社「世界大百科事典」によれば、中国中部及び南部からアッサム・マレー半島・スマトラにチュウゴクタケネズミ Rhizomys sinensis など三種が分布する。体長は二十三~四十八センチメートル、尾長は五~二十センチメートル、体重は一~四キログラム。体幹は太く、四肢が短くて、耳介と目が小さい。前足の爪、特に第三指の爪が長く、穴掘りに適応している。上下の門歯は大きく口外へ突出し、これは穴掘りにも使用する。竹の下に穴を掘り、その根を摂餌する。

「羊を煮るに、䶉を以つてし、鼈〔(すつぽん)〕を煮るに、蚊を以つてす。物性、相感〔するもの〕なり」「鼈」は潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科 Trionychinae に属するスッポン類(世界的には約十三属を数えるが、中国産では養殖食用種として著名なキョクトウスッポン属シナスッポン Pelodiscus sinensis がまず挙げられる(本邦にも生息するが、在来種ではないと思われる)。因みに本邦種は大陸にも棲息する同属のニホンスッポン Pelodiscus sinensis。但し、本邦種は在来個体群(大陸からの侵入・移入個体ではなく)のものとしてこれを Pelodiscus sinensis japonica として亜種と見る向きもある)。孰れも五行の性質から、肉を柔らかくするということを謂う。このスッポンとの相制については、「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」の「鼈」の「本草綱目」の引用にも、

   *

蚊を畏る。生きたる鼈、蚊に叮(く)はれ、遇して、則ち、死す。死したる鼈、蚊を得て煮るときは、則ち爛〔(ただ)〕[やぶちゃん注:煮崩れる。]る。蚊を熏〔(くん)〕ずるに、復た、鼈甲を用ひてす。物、報-復(むく)ふこと此くのごとし。異なるかな。

   *

とある。「物、報復ふこと」とは、蚊に刺されると死に、一緒に煮ると、その体を解かすという、正に鼈の天敵である蚊に対して、死んだ鼈の甲羅が、蚊を退治するための燻しに用いられるということは、本来、生時の一方向の「制」のベクトル(蚊が鼈を制する)でも、生死という位相が変じれば、逆のベクトルとしての「制」が発生するという、物質同士の互換性のある相互的因果応報があるということを指しているようである。

「鼯鼠」及び誤った「伏翼」については、上記リンク先の本文と私の注を参照。ムササビ・モモンガ・コウモリ類を中国の本草書が鼠類や鳥類と重複誤認するのは、その体型から判らなくはない。]

和漢三才図会巻第三十九 鼠類 黃鼠(きいろねずみ) (ダウリアハタリス)

Kiironezumi

 

きいろねずみ 禮鼠 拱鼠

       鼲鼠 貔貍

黃鼠

 

ハアン チエイ

 

本綱黃鼠狀類大鼠黃色而足短善走極肥穴居有土窖

如牀榻之形者牝牡則所居之處秋時畜豆粟草木之實

以禦冬各爲小窖別而貯之村民以水灌穴而捕之味極

肥美也晴暖則出坐穴口見人則交其前足拱而如揖乃

竄入穴其皮可爲裘領性最畏鼠狼此鼠大原及沙漠等

北地有之遼人尤以供上膳爲珍饌

 

 

きいろねずみ 禮鼠 拱鼠〔(きようそ)〕

       鼲鼠〔(こんそ)〕

       貔貍〔(ひそ)〕

黃鼠

 

ハアン チエイ

 

「本綱」、黃鼠、狀、大鼠に類して、黃色にして、足、短かく、善く走る。極めて肥え、穴居して土の窖(あな)に有り。牀榻〔(しやうたふ)〕[やぶちゃん注:床(ゆか)寝台。長寝椅子。]の形のごとくなる者、牝牡、則ち、所居(しよきよ)の處なり。秋時、豆・粟〔(あは)〕・草木の實を畜(たくは)へて以つて冬を禦(ふせ)ぐ。各々〔(それぞれ)に〕小〔さき〕窖を爲し、別にして、之れを貯之(たくは)ふ。村民、水を以つて穴に灌(そゝ)ぎて之れを捕ふ。味、極めて肥美なり。晴〔れて〕暖〔かに〕して、則ち、出でて穴の口に坐す。人を見るときは、則ち、其の前足を交〔(まぢ)〕へ、拱(こまぬ)いて[やぶちゃん注:ママ。]揖〔(れい)を〕[やぶちゃん注:中国の昔の礼式の一つで、両手を胸の前で組み、これを上下したり、前にすすめたりする厳粛な礼法。]するがごとし。乃〔(すなは)〕ち、穴に竄(かく)れ入る。其の皮、裘(かはごろも)の領(えり)と爲すべし。性、最も鼠-狼(いたち)[やぶちゃん注:「鼬」。]を畏る。此の鼠、大原及び沙漠等の北地に、之れ、有り。遼人[やぶちゃん注:満州・シベリア・極東にかけての北東アジア地域に住み、ツングース語族に属する言語を母語とする狩猟民族であるツングース族。]、尤も以つて上膳に供して、珍饌と爲す。

[やぶちゃん注:齧歯目リス科 Xerinae 亜科 Marmotini 族に属するジリス(地栗鼠:所謂、地上性生活するリス類の総称)の内、最後の「遼人」の居住域から見て、Spermophilus属ダウリアハタリスSpermophilus dauricus と同定してよいかと思われる。英文ウィキの「Daurian ground squirrelを見ると、分布・生態がよく一致する。詳しくはそちらを参照されたい。]

箒木集 すゞしろのや(伊良子清白)

 

箒 木 集

 

 

 野中の井

 

野中にたつる碑に、

なれを傳へん人あらば、

男をこひてこの井より、

地獄に行きしとかくやらむ、

その碑はいつはりよ。

 

今こそ母が懺悔する、

むかしの罪を汝はきかず、

さはいへなれがこの水に、

はてし恨の眞情こそ、

母がしりたれこのはゝが。

 

汲まずなりたる桔槹、

石は草生にころげ落ち、

井筒もくちて村すゝき、

たけたかくこそかくしたれ、

のぞけば面わなづるまで。

 

いふぞよまゝ子まゝ母が、

まがりはてたるこゝろより、

つれ子のこひを遂げんとて、

なれをさいなみくるしめて、

舌の刃にころせしぞ。

 

なれはわが子をつゆこはず、

されど戀へりと人はいふ、

このまゝ母もしかいひぬ、

妹脊の契結べよと、

なれに强ひしもいくそ度。

 

こひに狂ひておろかにも、

死にしわが子をにくむとも、

あとをおひたるながこころ、

手をうち合せこの母が、

佛菩薩とも拜むなり。

 

 

  對 花 詞

 

ふかきまことのこの菊に、

こもれるものをいかなれば、

いひいでがたき世の中の、

千々にあまれることばもて。

 

 

  長 思 吟

 

やさしときみを思へども、

われはこひせじ長しへに。

 

こひするをりは短くて、

うれひのつくるときぞなき。

 

きみもこひすることなかれ、

こひしてやすきものやある。

 

花の姿のしほれんに、

いたまさらめや人みなの。

 

 

  妹脊の中

 

にごりはてたるうつし世は、

みなあさましく見ゆれども、

いもせの中のまごゝろは、

かみ代ながらに深くして。

 

こゝろのうちのかなしさを、

かたみに二人なぐさめて、

かたり暮さばなかなかに、

たのしかるらめうき世こそ。

 

綾もにしきもなにかせん、

いもせの中のへだてより、

袖になみだのたえざらば、

ふかきおもひに沈みつゝ。

 

いもせの中のかたらびは、

まづしかるこそ親しけれ、

物はたらはぬ折にこそ、

こゝろのまこと見えもすれ。

 

まづしきものゝ妹と脊よ、

なうらやみそとみ人を、

たからとたのむとみゆゑに、

うき世は波のさわぎつゝ。

 

ことばにいやをしらずとも、

なれら二人のまごゝろの、

なかよりいでしゑまひこそ、

えがたかりけれ人みなは。

 

[やぶちゃん注:明治三一(一八九八)年一月五日発行の『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。本年十月四日を以って伊良子清白満二十一歳で、京都医学校四年生。

「桔槹」音は「ケツ(ッ)コウ」「キツ(ッ)コウ」であるが、ここは訓じて「はねつるべ」(撥ね釣瓶)である。なお、この第一篇「野中の井」は所謂、「継子の井戸掘り」譚をベースにしている。この「継子いじめ」の一類型については、「日本大百科全書」に以下のようにある。『「継子話」の歴史は古』く、『中国では古代の君主として著名な舜』『の生い立ちの史伝が「継子話」になっている。司馬遷』の「史記」(紀元前一世紀成立)に『詳しい。舜は継母に虐待され、堯』『王の』二『人の娘と結婚したあと、継母の実子の象(ぞう)の策略で殺されそうになる。倉の修理を言いつけられて倉に上ったところを下から火をつけられたり、井戸さらいをしろといわれ』、『井戸に入ると』、『生き埋めにされたりするが、妻の助言で』、『ことなきを得る。原拠と』する「書経」の当該『本文は伝わらないが、すでに』「孟子」(紀元前四世紀成立)に『みえる。舜自体、伝説的な存在で、この史伝はきわめて古い物語に由来するらしい。舜の物語を「継子話」としてまとめた俗講文学に、敦煌』文書「舜子至孝変文」(九五〇年成立)などがある』。『この「舜子変文」は、そのままの形式で、日本では「継子の井戸掘り」の昔話として知られているが、類型群としては、チベット語とモンゴル語で書かれた中世的な』「不思議な屍体の物語」の中の『「日光月光(にっこうがっこう)」の話や、古代的な』「観世音菩薩浄土本縁経」(但し、偽経とされる)の中の『「早離速離(そうりそくり)」の話などとも同一』の『範疇』『に属する。この』、『父親の留守中に継母が継子を亡きものにしようとする話は、日本では、鎌倉後期の』「箱根権現絵巻」や物語草子の「月日(つきひ)の本地」『などの本地物になり、昔話では「お銀小銀」として伝わっている。一つの範疇の「継子話」が、東アジアでは』実に二千五百年もの時間を『隔てて』、この原型が『生き続けていたことがわかる』とある。]

2019/05/26

ミッション・インポッシブル フォール・アウト

一昨日、横浜に頭を散髪に行く途中で無性に「ミッション・インポッシブル フォール・アウト」を見たくなって、二年振りにDVDを買いに行ったら、ニ店舗探しても単品無しで、シリーズ6作揃いセット(¥8400)しかなく、かなりムッときたが(初回は映画館で、Ⅱ以降は総てDVDを持っているからである)、仕方なく買った。CD同様、ネット配信で手に入るそれを買う人間も、化石に等しい時代となったようだ。
しかし、トム・クルーズはやっぱ! 半端なく凄いな!
特典ディスクの「フォール・アウト」のメイキング映像を見て、あの高高度ダイヴィング(「ヘイロウ・ジャンプ」(高高度降下低高度開傘)シーン)の実演と演技、ラストのヘリの追跡シークエンスでの総て自分独りで乗って操縦し、しかもしっかり演じているというのには、正直、たまげた。
彼のように、超危険なスタント・シーンをテツテ的にこなすことを「古武士」のように自己に課すという俳優というのは、スタッフらが口を揃えて言っているように、向後、そうそう出ないという気が確かにした。
クリストファー・マッカリー監督(彼による脚本も恐らくシリーズ出色の出来と思う)もトム・クルーズも生身で演ずることの覚悟を、シンプルに――観客(大衆)は「噓(作り物)を必ず見破る」――と言っている。
これはまた、世の総ての、ロクなことをしていない誰彼どもの座右の銘とすべき謂いだろう。

夏の海 すゞしろのや(伊良子清白)

 

夏 の 海

 

四里あまりある島村に、

舟を僦ひて渡り行く、

七月なかばの海の色、

藍の油にさもにたり。

[やぶちゃん注:「僦ひて」「僦」は「借りる」の意で、「雇(やと)う」の意でよく用いられ、ここも「やとひて」と読む。]

 

暑さを飛ばすまぜ風に、

席帆張りて舟子等が、

赤裸なるたくましさ、

櫓のかけ聲もおもしろく。

[やぶちゃん注:「まぜ風」南方から吹き来たる南風。「はえ」「まぜ」「ぱいかじ」などとも呼ぶ。但し。漁師たちはこれを天候変化の前兆として警戒する。

「席帆」「むしろほ」。]

 

こゝらあたりは荒磯の、

つんざきやぶる白濤に、

いはは抉られ削られて、

あやふやすがる松一木。

 

屛風のごとき絕壁の、

下は百千の貝殼に閉ぢ、

暴風の夜每に落ちくだけ、

碎けつもれる山の石。

[やぶちゃん注:「百千」「ももち」。

「貝殼」「かひ」或いは「から」であるが、断然、前者。

「暴風」「かぜ」と読んでおく。]

 

上は葛虆の垂れさがり、

かつておほなみのぼりけむ、

ところどころに獸の、

爪もてかきしごときあり。

[やぶちゃん注:「葛虆」音「カツルイ」で蔓草の総称である両字ともに「蔦葛(つたかずら)」のことであるから、ここは二字で「かづら」と読んでおく。]

 

かゝる磯にもいさり夫が、

魚見るためにしつらへし、

杉の板屋の板廂、

雨風いかにつらからん。

 

一里あまりも行くほどに、

靑松續く白濱に、

畫くが如き海士の家、

鷗もうかび人もよぶ。

 

四月なりけむこの浦の、

いそもの狩にまねかれて、

一夜いねたる村長の、

宿さへ近くめに見ゆる。

 

丘のいたゞき濱寺の、

庫裡の白壁日はさして、

松にかゝれる凌霄の、

蘿も花も搖ぎつゝ。

[やぶちゃん注:「凌霄」「りようせう(りょうしょう)」で落葉性の蔓性木本のシソ目ノウゼンカズラ(凌霄花)科タチノウゼン連ノウゼンカズラ属ノウゼンカズラ Campsis grandiflora のこと。夏から秋にかけて、橙色又は赤色の大きな美しい花をつけ、気根を出して、樹木や壁などの他物に付着して蔓を伸ばす。

「蘿」は「かづら」と呼んでおよう。]

 

丘の下には鰹つる、

彩舟あまたひきあげて、

船板穿つ大工らの、

鑿の音こそきこえたれ。

 

こゝをすぐればこの海の、

名にきこえたる難所にて、

今日はことさらしづけきも、

なほいさゝかのうねりあり。

 

潮の色は黑靑く、

沫をつくりて流れくる、

早瀨に舟をのせたれば、

さながら飛ぶがごとくにて。

 

しほに曲げられ矯められて、

かしら得あげぬ木々の幹、

石に抱かれ岩に匍ひ、

鳥の塒もなかるらむ。

 

陸のなごりかわだ底に、

うねくつゞく暗礁、

あはれ膽ある船長の、

しづめしふねもいく艘ぞ。

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「陸」は「くが」と読みたい。]

 

おもへばなみもなみの音も、

祀らぬ鬼が水底に、

あるゝならずやその聲の、

さけびならずや舟人よ。

 

岬の鼻をうちめぐり、

わが島村にきて見れば、

浪は綠に山うつる、

夏の夕べのしづけさよ。

 

からりころりと櫓の音の、

水にひゞきて行くあとは、

一すぢのこる舟のあと、

入日のさすも花やかに。

 

澄みわたりたる夕汐の、

玉も拾はむそこ淸み、

いく群となきうろくづの、

舟を掠めてとくすぐる。

 

沖にむらむら雲湧きて、

やうやうせまる暮の色、

水に臨めるみ社の、

華表の奧に灯もともる。

[やぶちゃん注:「華表」「くわへう(かひょう)」で、ここは神社の鳥居を指す。「とりゐ」と読んでもいいが、だったら、「華表」と漢字表記してルビも振らぬのは、あざと過ぎる。]

 

松疎らなる岩山に、

折しも白く瀧見えて、

半ばのぼれる峯の月、

舟をさすこそうれしけれ。

 

[やぶちゃん注:明治三〇(一八九七)年十二月発行の『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。本篇が底本の明治三十年の最後の詩篇である。個人的には好きな詩であるものの、ルビが一切ないのは確信犯であろうが、異様に、気になる。定型音律を用いている以上、孤高にして佶屈聱牙の詩人ならいざ知らず、素直に多くの民衆に読めることを心掛ける詩人たるべき彼にして、不親切、否、独善的な感じさえする。今の若い読者はそこら中で躓くぞ! 清白! だから敢えて無粋に注を挿入したんだ! なお、底本全集年譜によれば、前の「南海の潮音」(同年七月発表)との間の八月八日頃に、『靑年文』や『文庫』を介して文通のみの関係にあった、新進の新体詩人として頭角を現わしつつあった詩人・歌人の島木赤彦(明治九(一八七六)年~大正一五(一九二六)年:伊良子清白より一つ年上。当時は長野尋常師範学校最終学年で、翌年、北安曇郡池田会染尋常高等小学校の訓導となった。当時のペン・ネームは「塚原伏龍」「久保田山百合」。なお、彼が『アララギ』派の代表歌人となるのは明治四二(一九〇九)年以降)の訪問を受けている。]

太平百物語卷五 四十四 或る侍猫またを切りし事

Nekomata2 

   ○四十四 或る侍猫またを切りし事

 或侍【ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]ありて其名をしるさず。】朋友の方へ夜會(やぐはい[やぶちゃん注:ママ。])にゆかれけるに、樣々武邊の咄(はな)しをして後(のち)、厠にゆかれけるが、出(いで)んとするに、四方、皆、壁となりて、出口、なし。

『こはいかに。』

と思ひ、空を、

「きつ。」

と見るに、眼(まなこ)の光り、水晶のごとくなる者、此侍の頭(かうべ)を、

「しか。」

と、とらへて、虛空に上(あが)りぬ。

 されども、此侍、したゝか者にて、頓(やが)て、刀をぬき放し、

「はた。」

と、切付(きりつけ)たりければ、其儘、地にぞ落(おち)たり。

 あるじを始め、ありあふ人々、此音に驚き、出(いで)てみれば、侍、既に絕入(ぜつじゆ)しゐたりければ、急ぎ、顏に水を濯(そゝ)ぎて、呼起(よびおこ)しけるに、やうやう人心地つけば、

「いかゞし給ひける。」

と尋ぬるに、「しかじか」のよしをかたり、打(うち)もらしける事を無念がれば、人々、其邊(そのあたり)をうかゞひみるに、おほく、血(ち)、ながれたり。

「扨は。」

と、是を慕ひ求むれば、床(ゆか)の下に、血(のり)を引けり。

 頓て、床をこぢ放し搜しみるに、となり屋敷に久しく飼置(かひおかれ)たる古猫(ふるねこ)なり。

「扨こそ。此(この)『猫また』が所爲(しよゐ)。」

とぞ、人々、申合(あひ)けるとぞ。

[やぶちゃん注:【 】は底本では二行割注。本文同ポイントで挿入した。挿絵は例の通り、国書刊行会「江戸文庫」版(国立国会図書館蔵本)を用いたが、この絵には猫又をひしぎ込んだ侍の上部の庭の部分に、

  おのれ

  生ては

  おか■

   物を

(三行目は「おかす」(おかず)か「おかさぬ」の「ぬ」の脱字か? 「■」は「ミ」(み)のようにしか見えず、上手く判読出来ない。識者の御教授を乞う)という、侍のオリジナルな台詞(本文にはない)があるのであるが、「底本の「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」の原板本の当該挿絵には、これはなく、空白である。再版で後から追刻したものか、或いは、旧蔵の持ち主が書き入れたものかは定かでない。

 既に「太平百物語卷四 卅二 松浦正太夫猫また問答の事」に「猫また」が出たが、余りにオーソドックスなので、つい注を忘れた。というより、猫又或いは猫の妖異や奇談については、私のブログでは無数に電子化注しているため、私の意識の中では猫の変化(へんげ)は余りに親し過ぎて注を必要としない状態なのである。ここでは改めて、総合的に纏まった注がしっかり出来ていると自身でも思い、話柄としてもよく結構されてある、「想山著聞奇集 卷の五 猫俣、老婆に化居たる事」及び「宿直草卷四 第一 ねこまたといふ事」の二例を挙げて、不親切のお詫びとしておく。]

2019/05/25

NECESSITAS_VIS_LIBERTAS! 薄肉彫 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    NECESSITAS_VIS_LIBERTAS!

 

      薄 肉 彫

 

 鐡のやうな顏をした眼附の鈍くすわつた脊の高い老婆が、大股にふんばつて、そして棒のやうに乾いた腕で今一人の女を前に押出してゐる。

 此の女は――大きた身體をして力がありさうに肥つてゐて、ヘラクレスのやうな筋肉をし、牡牛(をうし)やうな頭には小つぽけな頸(くび)が乘つてゐて、しかも盲目である――彼女もまた小さな瘠せた娘を前に押し出してゐる。

 此の娘だけは眼が見える。彼女は反抗して、ふり返つて、その綺麗な優しい手をふり舉げてゐる。その顏は生々としてゐて、性急さと大膽さとを現してゐる……彼女は從ふまいとしてゐる、押される方へ行くまいとしてゐる……でも紋女は屈從して、行かなければならないのだ。

   Necessitas_Vis_Libertas!

 氣が向いたら譯して見たまへ。

    一八七八年五月

 

Necessitas_Vis_Libertas、羅甸語。これを譯して見ると必然、力、自由となる。卽ち鐡のやうな顏をしたのが必然で、大女が力、小娘が自由だ。三つの槪念を三人の女の彫刻になぞらへたのである。】

薄肉彫、普通の彫像ではなくて、淺く浮彫にしたものを云ふ。】

ヘラクレス、希臘神話に出る半神の英雄、獅子と格鬪して苦もなく組伏せてしまふ大力者。それで大男のことを、あれはヘラクレスだなどと云ふ。】

[やぶちゃん注:二ヶ所のハイフンの位置は中央よりやや下位置であるが、ピンとくる活ハイフンが見当たらなかったので、この完全下部ハイフンで示した。また、ラテン語部分はゴシックでは痩せ細って見えてしまうので、太字にした。

 さて以上のラテン語であるが、この三つの単語は以下のような多様な意味を含んでいる。ツルゲーネフが最後にわざわざ「氣が向いたら譯して見たまへ」と言う時、こうしたラテン語の様々な意味を念頭に置いて、そこに多様な網の目のような思索を期待したのではないかと私は思うので、以下に示しておく。

necessitas」(ネケッシタース)は①必然(的なこと)。②強制・圧迫。③境遇・立場。④危急・急迫・苦境。⑤繋がり・関係付ける力・情。

vis」(ウィース)①力・権力・勢力・②活動力・実行力・勇気・精力。③敵意としての武力・攻撃。④暴力・暴行・圧制・圧迫。⑤影響・効果。⑥内容・意義・本質・本性。⑦多量・充満。

libertas」(リーベルタース)①自由・解放。②自主・独立。③自由の精神・自立心。④公明正大・率直。⑤放縦・自由奔放・拘束のないこと。⑥無賃乗車券。

ツルゲーネフの「散文詩」はその作者不詳の素朴な挿絵が一つの良さでもあるのであるが、残念ながら本篇の挿絵は、非常に見づらい。私の中山省三郎訳の底本のそれは、左手の少女の画像が頗る見え難くなっている。両足は判別できるが、胴から上、特に頭部が全く不分明であるので、私の『トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) NECESSITAS, VIS, LIBERTAS」』で新たに掲げた、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」の方の挿絵を見られたい。言っておくと、少女はひどく小さいのである。]

和漢三才図会巻第三十九 鼠類 貂(てん) (テン)

Ten

 

 

てん   栗鼠 松狗

     【和名天牟】

【鼦同】

     黑貂【和名布

        流木】

 

本綱貂鼠屬大而黃黒色如獺而尾粗也其毛深寸許紫

黑色蔚而不耀用皮爲裘帽風領寒月服之得風更暖著

水不濡得雪則消拂靣如熖拭眯則出亦奇物也惟近火

則毛易脫毛帶黃色者爲黃貂白色者爲銀貂此鼠好食

栗及松皮故名栗鼠【高麗女直韃靼等諸胡國皆有】

△按貂在山中狀類鼬而身長大如獺毛色亦似鼬而胸

 腹褐色頰短而醜其皮爲鋒槍之鞘袋時珍以爲栗鼠

 蓋本朝謂栗鼠與貂其類不遠而異也【栗鼠乃鼠屬貂鼬屬】

 云老鼬變成貂然乎否能治眯【塵埃入于目中曰眯】

 

 

てん   栗鼠(りす) 松狗〔(しやうく)〕

     【和名「天牟〔(てむ/てん)〕」。】

【「鼦」同じ。】

     黑貂【和名「布流木〔(ふるき)〕」。】

 

「本綱」、貂は鼠の屬にして、大にして黃黒色、獺〔(かはうそ)〕のごとくにして、尾、粗なり。其の毛、深さ寸許り、紫黑色、蔚(しげ)りて[やぶちゃん注:「繁茂して」。緻密みみっちりと生えていることを言っている。]、耀(かゞや)かず[やぶちゃん注:光沢はない。]。皮を用ひて裘〔(かはごろも)〕・帽・風領〔(かざえり)〕に爲〔(つく)〕る。寒月、之れを服すに、風を得て〔も〕更に暖きなり。水に著〔(つけ)〕て〔も〕濡れず、雪を得て〔も〕、則ち、消ゆる。靣[やぶちゃん注:毛皮の表面。]を拂ひて〔は〕[やぶちゃん注:摩擦してみると。]熖〔(ほのほ)〕のごとく〔熱くなり〕、眯〔(び)〕[やぶちゃん注:目の中に入った塵(ごみ)。]を拭ひて〔は〕、則ち、〔それを〕出だす。亦、奇物なり。惟だ、火も近づくときは、則ち、毛、脫(ぬ)け易し。毛、黃色を帶ぶる者、「黃貂〔(きてん)〕」と爲し、白色なる者、「銀貂」と爲す。此の鼠、好んで栗及び松皮を食ふ。故に「栗鼠〔(りす)〕」と名づく【高麗・女直(ぢよちよく)・韃靼〔(だつたん)〕等の諸胡國、皆、有り。】。

△按ずるに、貂は山中に在り。狀、鼬〔(いたち)〕の類にして、身、長く、大いさ、獺〔(かはうそ)〕のごとし。毛色も亦、鼬に似て、胸・腹、褐(きぐろ)色。頰、短く、醜(みにく)し。其の皮、鋒-槍〔(やり)〕の鞘袋〔(さやぶくろ)〕と爲す。時珍、〔本「貂」を〕以つて、「栗鼠(りす)」と爲す。〔而れども、〕蓋し、本朝に謂ふ「栗鼠(りす)」と「貂(てん)」と、其の類、遠からずして、而〔れども〕異なり【「栗鼠」は、乃〔(すなは)ち〕、鼠の屬。「貂」は鼬の屬なり。】。〔或いは〕云ふ、「老〔いたる〕鼬、變じて貂と成る」と。然るや否や。能く眯〔(び)〕を治す【塵埃、目の中に入るを、「眯」と曰ふ。】。

[やぶちゃん注:食肉(ネコ)目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科テン属 Martes のテン類。テン属には、北アメリカに、アメリカテンMartes americana・フィッシャー(fisher)Martes pennantiの二種があり、ヨーロッパからアジアにかけて、クロテンMartes zibellina・マツテンMartes martes・キエリテンMartes flavigula・コウライテンMartes melampus coreensis(朝鮮半島南部。但し、捕獲例が二例あるのみ)など七種が棲息する。本邦には孰れも固有亜種の、ホンドテン Martes melampus melampus(本州・四国・九州自然分布。北海道・佐渡島へ移入。沖縄県には棲息しない)と、対馬にのみ棲息するツシマテン Martes melampus tsuensis が棲息する。小学館「日本大百科全書」によれば、『どの種も毛皮が美しいために乱獲され、一時は非常に減少したが、現在では世界各国とも保護策をとっている。また、クロテンは養殖もされている。体形はいずれも似ていて、イタチ』(食肉(ネコ)目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科イタチ属 Mustela本巻掉尾が「鼬」である)『より大きく、四肢が長い。毛色は黄ないし黒褐色で、のどの部分が淡い。冬毛と夏毛で毛色が異なるものも多い。いずれも森林にすみ、昆虫や小動物のほか、果実も好む』。本邦産は『体長は雄で』四十五~五十『センチメートル、尾長』十七~二十三『センチメートル、雌はやや小さい。夏毛は全体に褐色で、耳からのどにかけて黄色、顔と四肢は黒い。冬毛は変異が大きく、キテン』(種名ではなく、毛色の有意な相違による呼称。ホンドテンは体色(冬毛)に東北地方などの主に寒冷地に棲息する全身が黄色の個体群と、四国・九州などの主に温暖地に棲息する黄褐色の個体群との、二つの色相がある。前者のように全体に美しい黄色を呈して頭と顔が白いものを「キテン」(黄貂)、地色は夏毛と殆んど変わらずに頭・顔・咽頭部が淡い褐色となるものを「スステン」(恐らくは「煤貂」)と呼ぶ。時珍の言う『白色なる者、「銀貂」と爲す』と言うのも、中国産種の異種ではなく、同一種の中の、そうした毛色の型位相を指している可能性が高い)『ように全体に美しい黄色で、頭と顔が白いものから、スステンのように地色は夏毛とほとんど変わらず、頭、顔、のどが淡い褐色となるもの』、『および』、『その中間型もあり、色相によって区別される別型と考えられている。対馬』『産の亜種ツシマテン』『の冬毛はスステンに似るが、頭、顔、のどは白い。テンの各型および亜種とも、四肢、とくにその先端はつねに黒いが、クロテンと違い』、『尾の先端は黒くない』。『テンは山地から平野部の森林にすみ、高山には少ないが、人里近くにもみられる。日中は樹洞などに潜み、夜間に活動する。雑食性で、昆虫、カエル、トカゲ、小鳥、ネズミなどの動物質のほか、果実も食べ、とくに秋にはノブドウ、アケビ、ムベなどをよくとる。木登りは非常に巧みである。繁殖期以外は単独で生活する。交尾は春から夏にみられ幅があるが、出産は』四~五『に限られ』一産で二~四子を産む。『夏にみられる交尾で』は『妊娠するかどうか』が『わかっていないが、胎児が発育を停止する妊娠遅延があるとも考えられ』ているという。『テンは、毛皮を利用するためと』、『夜行性』であることから、本邦では、『銃器によらず、とらばさみや箱わななどのわなで捕獲する。日本での捕獲数は年間』一『万頭、東北地方と群馬、長野、新潟、島根などの各県が多い。北海道と愛媛県は現在捕獲禁止としている』。『利用はおもにコート、襟巻などで、寒い地域のキテンが価値が高く、なかでも背の下毛が白い根白(ねじろ)が最高級とされ』、『ついで』、『下毛の赤褐色の根赤(ねあか)、黒褐色の根青(ねあお)』の順『となり、暖地のスステンは黒く染色して、より価値の高いクロテンの代用にされる程度である。また、テンは養鶏場や養魚場へ侵入して害を与えることもあり、これらの業者からは嫌われている』とある。なお、漢字「貂」の音は「テウ(チョウ)」で「てん」は訓である。現代中国語では「diāo」(ディアォ)であるが、中国では地方によりまた、朝鮮語音では「トン」と発音することから、本邦ではそれが訛って「てん」となったものと言う。

「貂は鼠の屬」誤り。テンは齧歯(ネズミ)目 Rodentia にあらずして、肉食(ネコ)目 Carnivora である。最後の珍しい良安の時珍への正当な批判も、言わずもがなの「其の類、遠からずして、而〔れども〕異なり」とやらかした部分で、ややズッコケている。但し、割注のと『「栗鼠」は、乃〔(すなは)ち〕、鼠の屬。「貂」は鼬の屬なり』は「栗鼠」は齧歯目リス亜目リス科 Sciuridae で、「鼬」は既に見た通り、食肉(ネコ)目であるから、正しい。

「獺〔(かはうそ)〕」食肉目イタチ科カワウソ属ユーラシアカワウソ Lutra lutra、本邦の日本人が滅ぼしたそれは、ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ)(カワウソ)」を参照。

「風領〔(かざえり)〕」着衣の大きくとった防寒用の襟。

「高麗」(九一八年~一三九二年)は首都は開京(現在の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)南部にある開城(ケソン)市)。十世紀の最大版図時には、朝鮮半島の大部分に加え、現在の中国の元山市や鴨緑江まで及んだ。この名称は朝鮮半島を表す英語「Korea」の語源である。

「女直(ぢよちよく)」「女眞」(じょしん)に同じで、本来は民族名である「ジュルチン」「ジュシェン」での読みも一般的である。満洲の松花江一帯から外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南の外満州にかけて居住していたツングース系民族が居住し、実効支配していた中国の北外。

「韃靼〔(だつたん)〕」「タタール」に同じ。本来は、モンゴリア東部に居住したモンゴル系遊牧部族タタールを指した中国側の呼称。「タタール部」は十一世紀から十二世紀にかけて、モンゴリアでは最も有力な集団の一つであり、また、モンゴル族の中でも多数を占めていたという。このため「宋」では「タタール部」を「韃靼」と呼んだが,それは拡大してモンゴリア全体を指す呼称としても用いられた。十二世紀末から十三世紀初め、モンゴル部にチンギス・ハーンが出現し、モンゴル帝国が出現するに及んで、「タタール部」の力は衰えた。ここはやはり中国北部外の旧地を指す。

「胡國」古代より中国北方の異民族(夷狄(いてき))の国を呼んだ「野蛮な国」の意を含む蔑称。]

太平百物語卷五 四十三 能登の國化者やしきの事

 

   ○四十三 能登の國化者やしきの事

 能登の國に、化物屋敷ありて、おほく人を取りけるよし、專ら沙汰しける程に、後々は住(すむ)人もなかりしに、幾田八十八(いくたやそはち)といふ侍、おこの者にて[やぶちゃん注:「おこ」はママ。]、此屋敷を所望し、好みて住みけり。

 然れども、化物、更に出でざれば、八十八、笑つて、

「さこそあるべし。化物も人によりてこそ出(いづ)らめ。」

と、独(ひとり)嘲(あざけ)り居(ゐ)たりしが、ある夜(よ)、深更におよび、厠に行(ゆき)けるに、下(した)より長き毛の手にて、八十八が尻を、なでける。

「さればこそ。」

とて、能(よき)ほどに、なでさせ、頓(やが)て、引(ひつ)とらまへて、力に任せ、引(ひき)ければ、次第次第に長くのびけるが、空(そら)を[やぶちゃん注:厠内(かわやうち)の上方を。]、

「きつ。」

と見上ぐれば、屋根、板、めくれて、さもすさまじき頰(つら)だましゐの者、八十八を、

「はつた。」

と白睨(にらむ)。

 八十八も、同じく、にらみ付(つけ)、先(まづ)、此手を取(とつ)て、外に出(いづ)るに、『出(いで)じ』と力(りき)むを、八十八、大力量の者なれば、苦もなく引出(ひきいだ)しけるに、空より白睨(にらみ)し化物、其儘、落(おち)たり。

 能(よく)々みれば、此、化者が手なり。

 それより、兩方引組(ひつくみ)、上になり下になり、互に負(まけ)じと爭(あらそひ)しが、八十八、力や勝れけん、終に化者を組留(くみとめ)、やうやうに、さし殺しけるが、我身も所々に疵を蒙りけり。

 夜明けて、みれば、猿の劫(かう)經たるにてぞありける。

 其屋敷のうらに、年經りたる槇(まき)の木の有(あり)しを、怪しくおもひ、悉く、きらせ見るに、果(はた)して、樹上(じゆしやう/きのうへ)には、年來(ねんらい)取喰(とりくらひ)し人の屍(しかばね)、おほく有りしとぞ。

 八十八、此ばけ物を退治して後(のち)は、何の事もなかりければ、人皆(みな)、八十八が勇力(ゆうりき)不敵の程を、かんじける。

[やぶちゃん注:「おこの者」「烏滸(おこ)の者」。ここでは物好きな変人・奇人の意でとっておいてよい。「おこ」はなかなかに含蓄のある語で、総合的には「馬鹿げていて或いは滑稽で人の笑いを買う・誘うような様態」を指す語であるが、但し、それを確信犯として行う者の中には、なかなかに逆に賢いトリック・スターが有意に含まれる。ウィキの「烏滸」によれば、記紀に既に「をこ」もしくは「うこ」として『登場し、「袁許」「于古」の字が当てられる。平安時代には「烏滸」「尾籠」「嗚呼」などの当て字が登場した』。『平安時代には散楽、特に物真似や滑稽な仕草を含んだ歌舞やそれを演じる人を指すようになった。後に散楽は「猿楽」として寺社や民間に入り、その中でも多くの烏滸芸が演じられたことが』、「新猿楽記」に描かれており、「今昔物語集」(巻第二十八)や「古今著聞集」などの、平安から鎌倉時代にかけての説話集には、所謂、「烏滸話」と『呼ばれる滑稽譚が載せられている。また、嗚呼絵(おこえ)と呼ばれる絵画も盛んに描かれ』、「鳥獣戯画」「放屁合戦絵巻」は『その代表的な作品である』。『南北朝・室町時代に入ると、「気楽な、屈託のない、常軌を逸した、行儀の悪い、横柄な」』(「日葡辞書」)『など、より道化的な意味を強め、これに対して』、『単なる愚鈍な者を「バカ(馬鹿)」と称するようになった。江戸時代になると、烏滸という言葉は用いられなくなり、馬鹿という言葉が広く用いられるようになった』とある。平安期には既に「癡(痴)」を当てて「痴(を)こがまし」という形容詞が(「源氏物語」)、「宇治拾遺物語」には「痴こがる」という語も生まれている。

「槇(まき)の木」裸子植物門マツ綱マツ目マキ科マキ属イヌマキ Podocarpus macrophyllus、マツ目コウヤマキ科コウヤマキ属コウヤマキ Sciadopitys verticillata などを指す。前者は二十メートル、後者は三十メートルで幹の直径が一メートルを越える巨木に成長する個体もある。]

南海の潮音 すゞしろのや(伊良子清白)

 

南海の潮音

 

 

  春 の 夜

 

ともし火くらき春の夜の、

窓によりそひ書よめば、

心のもつれはるかぜの、

氷吹きとくおもひあり。

 

都にひとりのこりゐる、

こひしき妹もわがごとく、

まなびの業のひまなさに、

夜すがら書をよむらむ。

 

障子の紙にさらさらと、

散りくる花のおとすなり。

かゝる宵にはこひ人の、

よくわが宿を訪ねしか。

 

げにわすれてはなにとなく、

人まつさまのこゝちして、

いなわぎも子は今宵しも、

おとづれこむと契りしが。

 

わがよむ聲をきくまゝに、

かれが優しきこゝろより、

柴のをり戶をあけかねて、

門に立つにはあらざるか。

 

まどを開きてながむれば、

あるかなきかの月影の、

弱きひかりにほの見えて、

たゞたえまなく花ぞ散る。

 

ともし火かゝげまたもわれ、

書よみおれば門の邊に、

とひくる人のけはひして、

わが名をよぶはかのきみか。

 

されどあたりに音はなく、

くま笹がくれうねうねと、

一すじ白く行く水の、

たえつつゞきつ見ゆるのみ。

 

しばらく書をよむほどに、

またしも妹のこゑはして、

はては障子をうつ花の、

散りくるふ音となりにけり。

 

花はますます散りしきり、

月はいよいよおぼろなり。

夜もはやいたく更けぬらし、

妹のきたるはいつならむ。

 

 

  醉 歌

 

あまつみくには

さゝやけき、

ひさごのなかに

あるぞかし。

 

ちりのうき世を

いとひなば、

きたりてこゝに

あそびませ。

 

わかきいのちの

いつまでか、

白きおもわの

われらぞや。

 

げにわか人を

たとふれば、

ゆめよりあはき

春の夜や。

 

夜はのあらしを

知れよとは、

法のうたにも

をしへたり。

 

くるしきこひの

かなしさに、

つき日をすつる

ことなかれ。

 

まなびのもりに

わけいりて、

あらたにまよふ

ことなかれ。

 

たゞなにごとも

うちわすれ、

この一つぎを

くめよかし。

 

見よ桃靑は

句にかくれ、

また雪舟は

繪にかくる。

 

をかしからずや

この酒に、

君と二人が

かくれなば。

 

ほまれといふは

ちりひぢか、

くらゐといふも

あくたなり。

 

にほへる顏の

くれなゐに、

まされるたから

世にあらめやも。

 

 

  詩 人

 

うた人ようた人よ、

君はいかなれば、

玉をまろばすいと竹の、

きよきしらべをいとはしと、

荒野のすゑにたちいでゝ、

あらしの樂をきくならむ。

 

うた人ようた人よ、

君はいかなれば、

たかきくらゐのあて人の、

たまふさかづきをうけずして、

みどりしたゝるおく山の、

松の淸水をくむならむ。

 

うた人ようた人よ、

君はいかなれば、

錦のしとねしきつめし、

たまのうてなにのぼらずに、

あらゝぎ匂ひさ百合咲く、

岩の小床にぬるやらむ。

 

うた人ようた人よ、

君はいかなれば、

彌生のはるの都路の、

花のさかりをめでずして、

名もなき草のしら露に、

熱きなみだをそゝぐらむ。

 

[やぶちゃん注:明治三〇(一八九七)年七月発行の『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。

「あらゝぎ」はここでは、「万葉集」「源氏物語」以来、愛されたキク目キク科キク亜科ヒヨドリバナ属フジバカマ Eupatorium japonicum の異名と採っておく。]

2019/05/24

おとづ れ ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    お と づ れ

 

 私は開(あ)け放(はな)した窓邊にすわつてゐた……朝早く、五月一日の朝早くである。

 日はまだ出ない。けれども。仄(ほの)かに白みそめて、暗(くら)い暖(あたゝ)かな夜は早や凉氣を帶びはじめた。

 霧はまだのぼらず、そよとの風もない。よろづの物は一色(ひといろ)に、まはりには深い靜寂(しづけさ)がある――けれども自然はやがて目覺(めざ)めることを思はせた。微風は鋭い濕つぽい露の匂ひを蒔き散らしてゐた。

 突然開け放した窓から輕い音立てゝ、大きな鳥が部屋の中へ飛び込んだ。

 私はびつくりして、それに眼を遣つた……鳥ではなかつた、身にぴつたり附いた長い着物を垂れて、翼をそなへた小さな女の姿であつた。

 彼女はすつかり灰色であつた、眞珠母(しんじゆぼ)いろの灰色であつた。たゞその翼の内側のみが、咲き初めた薔薇のやはらかな紅(くれなゐ)を帶びてゐた。君影草(きみかげぐさ)の花輪はその圓い頭のうち亂れた捲髮をとりかこんでゐた。美しい圓(まる)い額(ひたひ)には、二つの孔雀の羽根が蝶の觸角(しよくかく)のやうに面白く搖れてゐた。

 彼女は部屋の中を二三度飛び廻つた。彼女の小さな顏は笑つてゐた。大きな黑い明るい眼も笑ひを湛へてゐた。

 氣儘に飛んではふざけ廻るので、彼女の眼は金剛石(ダイヤモンド)のやうにきらきら輝いた。

 彼女は曠野(ステツプ)に咲く花の長い莖を持つてゐた。露西亞人が「皇帝の笏」と呼んでゐるもので、實際笏によく似てゐる。

 すばしこく私の上を飛びながら、彼女はその花を私の頭に觸れた。

 私は兩手をその方へ差しのぱした……けれども彼女は窓から飛び出して、また行つてしまつた……

 庭園(には)の紫丁香花(むらさきはしどい)の花の繁みの中で、斑鳩(じゆづかけばと)はその日のはじめの鳴聲を舉げて彼女を迎へた。彼女がはるかに消えてしまつたあたり、乳白の空はだんだんと紅味(あかみ)を帶びはじめた。

 私はおん身を知つてゐる、空想の女神よ! はからずもおん身は私を訪ねてくれた、若い詩人たちの許(もと)へ行く道すがらに。

 おゝ、詩歌(しいか)よ、靑春よ、女性の童貞の美よ! たゞこの瞬間に、お前たちは私の生涯に光輝(かゞやき)を與へてくれた、春のはじめの朝まだきに!

    一八七八年五月

 

[やぶちゃん注:「眞珠母(しんじゆぼ)」アワビの貝殻の内側等に見られる真珠層の別名。真珠母(しんじゅぼ、英: mother of pearl)は、ある種の軟体動物(特に貝類)が貝殻の内側に形成する、外套膜から分泌された炭酸カルシウムを主成分とした光沢物質で無機物と有機物の複合物質である。干渉縞により、構造色(虹色)を呈する場合が多い。

「君影草(きみかげぐさ)」単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科スズラン亜科スズラン属スズラン Convallaria majalis の別名。

「曠野(ステツプ)に咲く花の長い莖を持つてゐた。露西亞人が「皇帝の笏」と呼んでゐるもので、實際笏によく似てゐる」「曠野(ステツプ)」はステップ(ロシア語:степь /ラテン文字転写:stepʹ/英語:steppe)は中央アジアのチェルノーゼム(ロシア語:чернозём/ラテン文字転写:chernozyom/英語:chernozem/肥沃な黒土のこと)帯に代表される世界各地に分布する草原を言う。ロシア語で「平らな乾燥した土地」の意味で、学術的には、樹木のない平原で河川や湖沼から離れている様態を指す。通常は丈の低いイネ科 Poaceae 等の草が植生する。「皇帝の笏」の原文は「царским жезлом」で、「царским」は「ツアーリの」の原義から「豪勢な」の謂いで、「жезл」は権力や職権を表わす笏杖のことである。これは先行する神西清訳の「散文詩」の本篇の注で 学名 Verbascum thapus であることが明らかにされている。この Verbascum thapus とはシソ目ゴマノハグサ科モウズイカ(毛蕋花)属ビロードモウズイカで、名称はこの植物の毛深さに由来する(以下のリンク先の写真を参照)。ウィキの「ビロードモウズイカ」によれば、『ヨーロッパおよび北アフリカとアジアに原産するゴマノハグサ科モウズイカ属の植物である。アメリカとオーストラリア、日本にも帰化している』とあり、『この植物の大きさや形を元にした名前として、"Shepherd's Club(s) (or Staff)"(羊飼いの棍棒(または杖))』や『"Aaron's Rod"(アロンの杖)(これは、例えばセイタカアワダチソウのような、背の高い花穂に黄色い花を群がり付ける他の植物に対しても使われる))そして、他にも「何何の杖」は枚挙に暇がないくらい』多数あるとする。因みに、『日本では「アイヌタバコ」「ニワタバコ」などの異名がある』と記す。グーグル画像検索「Verbascum thapusを添えておく。皇帝の笏杖の意が何となく判る。

「紫丁香花(むらさきはしどい)」「ムラサキハシドイ」はモクセイ目モクセイ科ハシドイ属ライラックSyringa vulgarisの標準和名。花言葉には「青春の思い出」・「純潔」・「初恋」などがあり、ここは確信犯の描写であろう。なお、ハシドイの語源は不明だが、花が枝先に集まることから、「端集(はしつど)い」の略ともされるようである。グーグル画像検索「Syringa vulgarisをリンクさせておく。

「斑鳩(じゆづかけばと)」「數珠掛鳩」ハト目ハト科ジュズカケバトStreptopelia roseogrisea var. domestica。白色のものは手品等でお馴染みである。グーグル画像検索「Streptopelia roseogrisea var. domesticaをリンクさせておく。]

最後の面會 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    最 後 の 面 會

 

 曾て我々はたゞならぬ親しい友達であつた。……けれども不幸な日が來た……我々は敵となつて相分れた。

 多くの年は過ぎ去つた……そして彼の住んでゐる市(まち)へ來たとき、私は彼が瀕死(ひんし)の床に橫はつて、私に會ひ度がつてゐることを聞いた。

 私は彼を訪れて、彼の部屋(へや)へ入つた……二人の視線は出會つた。

 これが彼だとは思へなかつた。あゝ! 病氣は彼をこんなに迄したのか?

 黃色くなつて、皺が寄つて、すつかり禿げて、まばらな白い髯を生やして、特別な仕立方をした襯衣(しやつ)を着けたばかりで彼はすわつてゐた……彼は輕い着物の重みにすら堪へられないのだ。彼は忙しくその恐ろしく瘠(や)せ細(ほそ)つた嚙みへらされたやうな手を私に差しのべて、辛うじて二言三言わけの分らぬことを呟いた――それが歡迎の言葉か非難のそれかを誰か知らう? 彼の瘠せ衰へた胸は波打つて、その血走つた眼のどんよりした瞳には押し出された苦痛の淚が浮んでゐた。

 私の心は搔(か)き亂(みだ)された……私はその傍の椅子にかけて、その物凄(ものすご)い姿に思はず眼を落しながらも、同じく手を差出した。

 けれども私の手を握つたのは彼の手ではないやうに思はれた。

 二人の間に脊(せい)の高い無言の白衣(びやくえ)の女がすわつてゐるやうに思はれた。長い着物は彼女を頭から爪先まで包んでゐた。彼女の深い蒼(あを)い眼は空(くう)を見、その蒼い嚴(いか)めしい脣からは一語も洩れなかつた。

 彼女が我々の手を結ぴ合せたのだ……彼女が我々を永遠に和解させたのだ。

 然り……死が我々を和解させたのであつた.

    一八七八年四月

 

友人と云ふのは前に言つた[やぶちゃん注:「我が競爭者」の生田の註を見よ。]ネクラソフである。二人は靑年時代に共に活動したが、のち長らく反對の地位に立つてゐたのだ。――露西亞っでは死は女性と見られてゐる。】

[やぶちゃん注:中山省三郎氏訳にある「註」がより詳しくてよい。以下に引く。

   *

・最後の會見:ここで「嘗ての友達」といつてゐるのは、有名な民衆詩人ネクラーソフ(一八二一-七七)のことであつて、彼はツルゲーネフの長年の發表機關であつた雜誌「現代人」の主幹で、一八五〇年代に同誌の編輯に參加したチェルヌィシェフキイに對するツルゲーネフの反感、同じくドブロリューボフとの反目、一八六〇年同誌に掲げられた「その前夜」についてのドブロリューボフの批評に對する忿懣、さては一八六二年、長篇「父と子」を「現代人」ならぬ「ロシヤ報知」に發表したこと、この小説によってまき起された事件等によつて、二人は絕交したのであつた。然るに、この頃から、十年、十五年の月日が經つて、一八七七年の五月下旬、パリからペテルブルグに歸つたツルゲーネフは雙方の友人の斡旋によつて、病篤きネクラーソフを見舞つたのであつた。そのときの情景をネクラーソフ未亡人は次のやうに記してゐる。

「死ぬまへ幾許もない時に、二人はめぐり會ふ運命にあつたのです。ツルゲーネフは二人の共通の知人から、良人が不治の病床にあると聞いて、良人に會つて、和解をしようと希望されました。しかし、良人はあまりにも衰弱してゐましたから、うまくお膳立てをしてからでないと、お通し申すことが出來ません。ツルゲーネフは宅へいらして、もうまへの控室にお待ちでした。で、私が良人にむかつて『ツルゲーネフさんがあなたにお會ひしたいさうですよ』と申しましたら、良人は悲痛な笑ひ方をして『やつて來て、おれがどんな風になつたか見て貰はう』と答へました。そこで私が寢卷を着せて、もう自分では步けませんでしたから――肩を貸して、寢室から食堂に連れ出しました。良人はテーブルについて、ビフテキの汁をすすりました、――その頃はもう固形物はとれなかつたのです。良人はやせて、血の氣もなく、衰へて、――見るも怖ろしいほどでした。私は窓の外を覗いて丁度そこへツルゲーネフが見えたかのやうな振りをして申しました、『さあ、ツルゲーネフさんがいらつしやいましたよ』と。それから暫くすると、背が高くて、風采の立派なツルゲーネフはシルクハットを手にして、控室に隣つてゐる食堂の戶口にあらはれました。が、良人の顏を覗いたかと思ふと、さすがに驚いた樣子をして、固くなつてしまひました。一方、良人はと見ると、その顏は苦しさうな痙攣が通り過ぎて、いひ知れぬ心の激動と鬪ふ力もなくなつたやうに見えました……。彼はやせ細つた手をあげて、ツルゲーネフの方に別れの身振りをしましたが、良人はツルゲーネフに對して、どうしても話をする元氣がないと言ひたさうな樣子でした……。ツルゲーネフの顏もやはり興奮に歪んで居りましたが、彼は良人の方へ祝福の十字を切つて、そのまま戶口の方へ消えて行きました。この會見のあひだ、ひと言も二人の口にのぼりませんでしたが、二人ともその胸中はどんなであつたでせう。」

 この場合ネクラーソフが手をあげたのは、生理的にもはや話など出來ぬといふことを示すのか、或は不可能といふのではなく、「話したくない」の意味か……と或るジャーナリストがネクラーソフ未亡人に向つて愚かしい質問を投げたとき、暫く默想の後、やはり衰弱の極に達してゐたので、ああいふ仕草によつて別れの言葉を述べたのです、と未亡人が嚴然と答へたのは三十數年後の一九一四年であつた(エヴゲーニェフ・マクシモフの「ネクラーソフと同時代人」による)。

   *

 補足しておくと、文中、底本では「その頃はもう固形物はとれなかたのです」「彼はやせ細つて手をあげて」「エヴゲーニュフ」とあるが、先行する昭和二一(一九四六)年八雲書店版との対比によって誤植と判断されるので、それぞれ「その頃はもう固形物はとれなかつたのです」「彼はやせ細つた手をあげて」「エヴゲーニェフ」と訂正した。]

松籟潮聲 すゞしろのや(伊良子清白)

 

松籟潮聲

 

 

  新 曉

 

しづかに木々の、

つゆおちて、

いはほの苔も、

かをるとき。

むらさきうすき、

しのゝめの、

くものしとねに、

うまいして、

ねむるもきよき、

曉(あけ)のひめ。

靑ぞらとほき、

ひかしより、

黃金のくるま、

かゝやきて、

のぼらせたまふ、

朝日子の、

たかきすがたに、

はぢらひて、

かすみに隱れ、

きりにのり、

のこんの星を、

ともなひて、

雲路はるけく、

きえて行く。

 

[やぶちゃん注:「ひかし」はママ。]

 

 

  心のやみ

 

みわたすかきりは、

露おりて、

秋野にこよひは、

星くずおほし。

 

なにとてこゝまで、

さまよひきけむ。

家ゐをいでしも、

さやかに知らず。

 

いまわれしづかに、

思ひてみれば、

人こひそめしは、

まよひのはじめ。

 

まよひにしづめば、

こゝろはくらく、

くるしきもだへに、

やせおとろへぬ。

 

たのしき天國(あめ)とは、

こひしき人を、

見そめしをりより、

外にはあらじ。

 

この世もかのよも、

わが行く道は、

さみしくおぐらき、

冥府(よみ)にやあらぬ。

 

いのりもさゝげじ、

つとめもなさじ。

はかなき生命を、

こひにぞすてむ。

 

[やぶちゃん注:「かきり」はママ。]

 

 

  讀 書

 

今日插し初めし花櫛の、

まだ少女子のきみなれば、

わが讀むふみをなにぞとも、

知りたまはぬをうらまねど。

 

わがよむふみは紫の、

式部の刀自かつゞりたる、

よにもかなしくうら若き、

をとこ女のこひなれば。

 

わが口唇はうちふるひ、

よみさす聲もみだれつゝ、

熱き淚ははらはらと、

こぼれて書におつるなり。

 

あゝいかなればさばかりに、

深くもなげき給ふぞと、

戀しききみののたまはゞ、

うれしからむを一ことも。

 

[やぶちゃん注:「刀自か」の「か」はママ。]

 

 

  吹 笛

 

すかたみにくきくちなはの、

いかなればこそかくまでに、

わが吹く笛をしたふらむ。

 

たゞ一ふしのたけにさへ、

きれば七つの律呂(こゑ)をなす、

ふかきまことのこもれるに。

 

火焰はくてふくちなはの、

聲こそなけれこゝろには、

あつきうれひのなからめや。

 

いさきけよかししづかにて、

夕暮ふかき草原に、

なかためふかむしばらくは。

 

[やぶちゃん注:最終連の「すかた」「なか」「いさきけよ」(「潔氣よ」であろう)はママ。以上、示した全篇の清音語は、総てが、万葉調を匂わせるための確信犯と思われる。明治三〇(一八九七)年六月発行の『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。]

太平百物語卷五 四十二 西の京陰魔羅鬼の事

 

   ○四十二 西の京陰魔羅鬼(おんもらき)の事

 山城の國西の京に、宅兵衞といふ人、有(あり)。

 折しも、夏日(がじつ[やぶちゃん注:ママ。])のたへがたき比(ころ)、其近邊成(なる)寺に行(ゆき)て、方丈の緣にいで、しばらく納凉(なうりやう/すゞみ)してゐけるに、いと心能(こゝろよく)して、眠りを催しける時、俄に物の聲ありて、

「宅兵衞。宅兵衞。」

と、呼ぶ。

 宅兵衞、おどろき覚(さめ)て、起(おき)あがり、みれば、鷺(さぎ)に似て、色黑く、目の光る事、灯火(ともしび)の熾(さかん)なるが如くにして、羽をふるひ、鳴(なく)聲、人のごとくなり。

 宅兵衞、恐れて、法緣を退(しりぞ)き、窺(うかゞ)へば、翼をひろげて、羽(は)たゝきす、と見へし。

 頭(かしら)より、次第次第に消(きへ[やぶちゃん注:ママ。])て、終に、形は、失(うせ)けり。

 宅兵衞、奇異のおもひをなし、則(すなはち)、此寺の長老に語りて、樣子をとひけるに、長老、答へて、

「此所に、今迄、さやうのばけ物、なし。此比(このごろ)、死人をおくり來(きた)る事ありしが、假(かり)に納めおきたり。おそらくは、それにてやあらん。されば、始(はじめ)て新たなるしかばねの氣、變じて、如此(かくのごとき)もの、あり。是を名付けて『陰魔羅鬼(おんもらき)』といふよし、藏經(ざうきやう)の中(うち)に、のせ侍る程に。」

と仰せければ、宅兵衞、此よしを聞(きゝ)、

「さも侍る事にや。」

とて、いよいよ、あやしみ、おもひける。

[やぶちゃん注:「陰魔羅鬼(おんもらき)」「陰摩羅鬼」とも書く。ウィキの「陰摩羅鬼」によれば、『中国や日本の古書にある怪鳥』で、経典「大蔵経」(本篇最後の「藏經」はそれを指す)に『よれば、新しい死体から生じた気が化けたものとされる』。『充分な供養を受けていない死体が化けたもので、経文読みを怠っている僧侶のもとに現れるともいう』。『古典の画図においては鳥山石燕の画集』「今昔画図続百鬼」(安永八(一七七九)年刊)にも『描かれており、解説文には中国の古書』「清尊録」(宋の廉宣撰撰になる志怪小説集)からの『引用で、姿は鶴のようで、体色が黒く、眼光は灯火のようで、羽を震わせて甲高く鳴くとある』。この「清尊録」には『以下のような中国の陰摩羅鬼の話がある。宋の時代のこと』、『鄭州の崔嗣復という人物が、都の外の寺の宝堂の上で寝ていたところ、自分を叱る声で目を覚ました。見ると、前述のような外観の怪鳥がおり、崔が逃げると』、『姿を消した。崔が寺の僧侶に事情を尋ねると、ここにはそのような妖怪はいないが、数日前に死人を仮置きしたという。都に戻って寺の僧に尋ねると、それは新しい死体の気が変化して生まれた陰摩羅鬼とのことだった』とあり、本話はその全くの(捻りなしの)翻案であることが判る』(原文が「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」の陶宗儀纂の「説郛」正篇巻第三十四の画像のこちらで読める)。『陰摩羅鬼の名の由来は、仏教で悟りを妨げる魔物の摩羅(魔羅)に「陰」「鬼」の字をつけることで鬼・魔物の意味を強調したもの、もしくは障害を意味する「陰摩」と「羅刹鬼」』(もとは破壊と滅亡を司る神であったが、仏教に取り入れられ、四天王の一人多聞天(毘沙門天)に夜叉とともに仕える護法善神となった)『の混合されたものとの説がある』とある。]

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太平百物語卷五 四十一 力士の精盗人を追ひ退けし事

 

   ○四十一 力士の精(せい)盗人を追ひ退けし事

 因幡の國に、作㙒屋(さくのや)の何某(なにがし)とて冨(とめ)る人あり。

 或夜の事なりし。

 盗人(ぬすびと)、五人、押入(おしいり)て、家内(かない)の者を悉く引き縛り、亭主壱人を扶(たす)け[やぶちゃん注:縛り上げず。]、藏の内の案内をさせける。

 亭主、力なく、土藏に伴ひければ、銀箱(かねばこ)を五つ取り出だし、五人の盗人、壱つ宛(づゝ)、かたげ[やぶちゃん注:肩に担(かつ)いで。]出でんとせし時、俄に、藏の中(うち)、鳴動して、一人の力士、顯れいで、盗人等が前に立塞(たちふさが)りければ、五人の者ども、是をみるに、頭(かしら)は赤熊(しやぐま)にして、眼(まなこ)は金(こがね)のごとく光りて、其有樣、世に冷(すさま)じかりければ、盗人共は肝を消し、彼(かの)銀箱(かねばこ)を打捨(うちすて)、一さんに迯歸(にげかへ)りければ、藏の中(うち)も程なく靜(しづま)り、彼(かの)力士も見へざりけり[やぶちゃん注:ママ。]。亭主此体(てい)をみて、限りなくよろこび、頓(やが)て家内の者のいましめを解(とき)て、「しかじか」のよしを語りければ、亭主の老母、橫手(よこで)を打(うち)、

「それこそ。此家に先祖より持傳(もちつた)へし、力士の精魂ならめ。それならば、土藏の二階に有(ある)べし。心見(こゝろみ)に取出(とりいだ)し見玉へ。」

といふ程に、頓(やが)て取いだしみるに、此木像、汗をながして坐(おは)しけるが、兩足(りやうそく)をみれば、土も付(つき)てありし程に、

「扨は。此奇瑞に疑ひなし。」

とて、夫(それ)より厨子を結構し、此力士を納め、永く祝ひ尊(たうと)みけるとかや。

[やぶちゃん注:以下は原典ではベタのやや字が小さく、本文で二字分下げで、改行せずに一行で記されてある。]

 或る人の曰(いはく)、

「此力士は『鳥佛師(とりぶつし)』の作にて、其後も、奇瑞、ありける。」

とぞ。

[やぶちゃん注:「赤熊(しやぐま)」兜の縅(おどし)や、能・歌舞伎で用いられる、赤く染めたヤク(ウシ目ウシ亜目ウシ科ウシ亜科ウシ属ヤク。野生種の学名は Bos mutus。家畜化された種としての学名はBos grunniens。自然分布はインド北西部・中国西部(甘粛省・チベット自治区)・パキスタン北東部で本邦には棲息しないが、本邦ではヤクの尾毛が兜や槍につける装飾品や能や歌舞伎の装具として、古くから、特に武士階級に愛好され、江戸時代の鎖国下でも清を経由して定期的な輸入が行われていた。詳しくは私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 犛牛(らいぎう)(ヤク)」を参照されたい)の尾の毛、或いは、それに似た赤い髪の毛の飾り鬘(かつら)。

「橫手(よこで)を打(う)」つ、とは、思わず、両手を打ち合わせることで、意外なことに驚いたり、深く感じたり、また、「はた!」と思い当たったりしたときなどにする動作を指す。室町末期以降の近世語。

「鳥佛師(とりぶつし)」「鞍作止利・鞍作鳥(くらつくりのとり)」或いは「止利(とり)仏師」と呼ばれた飛鳥時代の代表的仏師の名。「日本書紀」によると、渡来人の司馬達等(しばたつと/しめだち)の孫で、坂田寺の丈六像を制作したと伝えられる鞍部多須奈(くらべのたすな)の子。法隆寺金堂の金銅釈迦三尊像(推古天皇三一(六二三)年)の作者として光背の銘文に名をとどめる。聖徳太子の命を受け、多くの仏像制作に従事し、推古一四(六〇六)年には元興寺金堂の丈六像を造り、その功として大仁位に叙せられて水田二十町歩(ちょうぶ)(約二十ヘクタール)を賜ったといわれる。中国北魏の仏像の形式や様式を基礎とし、より洗練された作風を持ち、板耳・杏仁形の目などの表情、指の長い大きな手、細く長い首、下裳の着方、裳懸座(もかけざ)などに特色を持つ。このような様式の仏像を「止利様(とりよう)」と称する(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

2019/05/23

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(23) 「甲斐ノ黑駒」(1)

 

《原文》

甲斐ノ黑駒 駿府ノ猿屋ガ祕傳ノ卷物、サテハ江州小野庄ノ馬醫佐藤家ノ由緖書ノ外ニモ、聖德太子ヲ以テ馬ノ保護者トスル傳說ハ弘ク行ハレタリシガ如シ。古クハ天平神護元年ノ五月、播磨賀古郡ノ人馬養造人上(ウマカヒノミヤツコヒトガミ)ノ款狀ニ、此者ハ吉備都彥ノ苗裔、上道臣息長借鎌(カミツミチノオミオキナガノカリカマ)ノ後ナルニ、其六世ノ孫牟射志(ムサシ)ナル者、能ク馬ヲ養フヲ以テ上宮太子之ヲ馬司ニ任ジタマヒ、此ガ爲ニ庚午ノ戶籍ニハ誤リテ馬養造(ウマカヒノミヤツコ)ニ編セラルト稱セリ〔續日本紀〕。此君馬ヲ愛シタマフト云フコトハ久シキ世ヨリノ傳說ニシテ、難波ノ四天王寺ニ甲斐黑駒ノ影像ヲ安置シ〔台記久安二年九月十四日條〕、或ハ此馬ノ太子ノ御柩ニ殉ジタル物語ヲ傳ヘ〔元亨釋書〕、或ハ又秦川勝ガ黑駒ノ口ヲ取リテ太子ノ巡國ニ隨ヒマツリシ由ヲ言ヘリ〔花鳥餘情〕。而シテ猿屋ノ徒モ亦自ラ秦氏ノ末ナリト稱スルナリ。近世ニ及ビテモ大和ノ橘寺若狹ノ馬居寺、安房ノ檀特山小松寺等、太子ト黑駒トノ關係ヲ語リ傳フル例甚ダ多シ。【太子講】東國ニテハ武藏甲斐ノ間ニハ太子講ト稱スル月祭アリ。常陸北部ニテハ太子塚ト刻セシ石塔到ル處ノ路傍ニ在リ。此モ亦馬ノ斃レシ跡ナドニ造立スルコト、馬頭觀音勢至菩薩ノ立石或ハ駒形權現ノ祠ナドト其趣ヲ一ニセリ。陸中岩谷堂(イハヤダウ)町ノ太子ノ宮ノ如キモ、亦馬ノ祈願ノ爲ニ勸請セシモノナルべシ。【達磨大士】或ハ鎭守府將軍秀衡ガ奈良ノ都ノ俤ヲ移セシトモ傳ヘラレ、其地ヲ片岡ト稱シ岡ノ片岨ニハ太子ノ宮ト竝ビテ又達磨尊者ノ社アリキ〔眞澄遊覽記十〕。後世ノ俗說ニテハ達磨ニ御脚ガアルモノカナド云フニ、時トシテ馬ノ神ニ祀ラルヽハ珍シキ事ナリ。猿牽ノ仲間ニ在リテモ家藝ノ祖神トシテ達磨ヲ祀レリ。彼等ハ或ハ太子ノ調馬術モ亦片岡ノ飢人ヨリ學ビ得タマヒシ如ク說クナランモ、ソハ信ズべカラザル後世ノ附會ニシテ、其梶原ハ單ニ古代ノ駿馬傳說ガ聖德太子ト云フ日本ノ理想的人物ト因緣ヲ有セシ結果ニ他ナラザルべシ。最モ古キ記述ニ依レバ、太子ノ愛馬ハ四脚雪ノ如ク白ク極メテ美シキ黑駒ナリキ。推古女帝ノ第六年ノ始ニ、諸國ヨリ獻上セシ數百頭ノ中ニ於テ、太子ハ能ク此黑駒ノ駿足ナルコトヲ見現ハシタマフ。【黑駒巡國】同ジ年ノ秋太子ハ黑駒ニ召シ、白雲ヲ躡ミテ富士山ノ頂ニ騰リ、ソレヨリ信濃三越路ヲ巡リテ三日ニシテ大和ニ歸ラセタマフ〔扶桑略記〕。甲斐ノ黑駒ハ此馬ノ名ニハ非ザリシモ、黑駒ハ夙クヨリ甲州ノ名產ニシテ、且ツ駿逸ノ譽高カリシモノナリ〔日本書紀雄略天皇十三年九月條〕。【祥瑞】加之此毛色ノ馬ハ特ニ朝廷ニ於テ祥瑞トシテ迎ヘラルべキ仔細アリキ。例ヘバ聖武天皇ノ天平十年ニ信濃國ヨリ貢セシ神馬ノ如キハ、甲斐ノ黑駒ニヨク似テ更ニ髮ト尾白カリキ。其翌年ノ三月ニ對馬ノ島ヨリ獻上セシハ、靑身ニシテ尾髮白シト見ユ〔續日本紀〕。此等ハ何レモ聖人政ヲ爲シ資服制アルノ御世ニ非ザレバ、現ハレ來ラザル馬ニテ、始ヨリ凡人ノ乘用ニ供スべキ物ニハ非ザリシナリ。故ニ世治マリ天下平カニシテ之ヲ大内ノ庭ニ曳クコトヲ得レバ好シ。【神馬】然ラザルモノハ諸國ニ留マリテ永ク神遊幸ノ乘具ニ供セラレシナルべク、後世池月磨墨ノ二名馬ニ由リテ代表セラレシ二種ノ純色ハ、即チ馬ノ最モ神聖ナルモノト認メラレシ物ナルべシ。尤モ古史ニ見エタル神馬ト云フ漢語ハ、單ニ極端ニ結構ナル馬ト云フ意味ニ用ヰシモノカモ知レザレドモ、邊土ノ人々ニ至リテハ終ニ之ヲ以テ神ノ馬又ハ馬ノ神ト解シ、或ハ木曾ノ駒ケ嶽ニ於テ馬蹄ヲ印セシカトオボシキ土砂ヲ取還リ、或ハ樹ノ枝ナドニ懸リタル馬ノ尾ノ如キ一物ヲ持チ來リテ、厩ノ守護用トスル迄ニハナリタルナリ。

 

《訓読》

甲斐の黑駒 駿府の猿屋が祕傳の卷物、さては、江州小野庄の馬醫佐藤家の由緖書の外にも、聖德太子を以つて、馬の保護者とする傳說は、弘く行はれたりしがごとし。古くは、天平神護元年[やぶちゃん注:七六五年。]の五月、播磨賀古(かこ)郡の人、馬養造人上(うまかひのみやつこひとがみ)の款狀(かんじやう)に、『此の者は、吉備都彥(きびつひこ)の苗裔(びやうえい)、上道臣息長借鎌(かみつみちのおみおきながのかりかま)の後なるに、其の六世の孫(そん)、牟射志(むさし)なる者、能く馬を養ふを以つて、上宮太子(じやうぐうたいし)[やぶちゃん注:聖徳太子の異称。]、之れを馬司(むまのつかさ)に任じたまひ、此れが爲めに、庚午(こうご)の戶籍には、誤りて、「馬養造(うまかひのみやつこ)」に編せらる』と稱せり〔「續日本紀」〕。此の君(きみ)、馬を愛したまふと云ふことは、久しき世よりの傳說にして、難波(なには)の四天王寺に、甲斐黑駒の影像(やうざう)を安置し〔「台記(たいき)」久安二年[やぶちゃん注:一一四六年。]九月十四日の條〕、或いは、此の馬の、太子の御柩(おんひつぎ)に殉じたる物語を傳へ〔「元亨釋書」〕、或いは又、秦川勝(はたのかはかつ)が、黑駒の口を取りて、太子の巡國に隨ひまつりし由を言へり〔「花鳥餘情」〕。而して、猿屋の徒も亦、自ら、秦氏の末なりと稱するなり。近世に及びても、大和の橘寺(たちばなでら)、若狹の馬居寺(まごじ)、安房の檀特山小松寺(だんとくざんこまつじ)等、太子と黑駒との關係を語り傳ふる例、甚だ多し。【太子講】東國にては武藏・甲斐の間には、「太子講」と稱する月祭(つきまつり)あり。常陸北部にては、「太子塚」と刻せし石塔、到る處の路傍に在り。此れも亦、馬の斃(たふ)れし跡などに造立すること、馬頭觀音・勢至菩薩の立石(りつせき)或いは駒形權現の祠(ほこら)などと、其の趣を一(いつ)にせり。陸中岩谷堂(いはやだう)町の「太子の宮」のごときも、亦、馬の祈願の爲めに勸請せしものなるべし。【達磨大士】或いは、鎭守府將軍秀衡(ひでひら)が奈良の都の俤(おもかげ)を移せしとも傳へられ、其の地を「片岡」と稱し、岡の片岨(かたそは)には、「太子の宮」と竝びて、又、「達磨(だるま)尊者の社(やしろ)」ありき〔「眞澄遊覽記」十〕。後世の俗說にては、達磨に御脚(おんあし)があるものか、など云ふに、時として、「馬の神」に祀らるゝは、珍しき事なり。猿牽(さるひき)の仲間に在りても、家藝の祖神として達磨を祀れり。彼等は、或いは、太子の調馬術も亦、「片岡の飢人(きじん)」より學び得たまひしごとく說くならんも、そは、信ずべからざる後世の附會にして、其の梶原は、單に古代の駿馬傳說が聖德太子と云ふ日本の理想的人物と因緣を有せし結果に他ならざるべし。最も古き記述に依れば、太子の愛馬は、四脚、雪のごとく白く、極めて美しき黑駒なりき。推古女帝の第六年[やぶちゃん注:五九六年。]の始めに、諸國より獻上せし數百頭の中に於いて、太子は、能く此の黑駒の駿足なることを、見現はしたまふ。【黑駒巡國】同じ年の秋、太子は黑駒に召し、白雲を躡(ふ)みて、富士山の頂(いただき)に騰(のぼ)り、それより、信濃三越路を巡りて、三日にして大和に歸らせたまふ〔「扶桑略記」〕。甲斐の黑駒は、此の馬の名には非ざりしも、黑駒は夙(と)くより、甲州の名產にして、且つ、駿逸の譽(ほまれ)高かりしものなり〔「日本書紀」雄略天皇十三年[やぶちゃん注:四六九年。]九月の條〕。【祥瑞(しやうずい)】加之(しかのみならず)、此の毛色の馬は、特に朝廷に於いて祥瑞として迎へらるべき仔細ありき。例へば、聖武天皇の天平十年[やぶちゃん注:七三八年。]に、信濃國より貢(こう)せし神馬のごときは、甲斐の黑駒によく似て、更に、髮と尾、白かりき。其翌年の三月に對馬の島より獻上せしは、靑身にして、尾・髮、白しと見ゆ〔「續日本紀」〕。此等は何れも、聖人、政(まつりごと)を爲し、資・服・制あるの御世に非ざれば、現はれ來たらざる馬にて、始めより、凡人の乘用に供すべき物には非ざりしなり。故に、世、治まり、天下、平らかにして、之れを大内(おほうち)の庭に曳くことを得れば、好し、【神馬】然らざるものは、諸國に留まりて、永く、神、遊幸(ゆうこう)の乘具に供せられしなるべく、後世、池月・磨墨の二名馬に由りて代表せられし二種の純色は、即ち、馬の最も神聖なるものと認められし物なるべし。尤も、古史に見えたる「神馬」と云ふ漢語は、單に「極端に結構なる馬」と云ふ意味に用ゐしものかも知れざれども、邊土の人々に至りては、終(つひ)に之れを以つて「神の馬」又は「馬の神」と解し、或いは、木曾の駒ケ嶽に於いて、馬蹄を印(しる)せしかとおぼしき土砂を取り還り、或いは、樹の枝などに懸りたる馬の尾のごとき一物を持ち來たりて、厩の守護用とするまでにはなりたるなり。

[やぶちゃん注:「江州小野庄の馬醫佐藤家の由緖書」前段に登場(但し、私は不詳)。

「播磨賀古(かこ)郡」旧兵庫県加古郡。「風土記」では「賀古郡」と書かれてある。旧郡域には現在の加古郡(グーグル・マップ・データ(以下同じ)。稲美町(いなみちょう)と播磨町のみ)の他に、その周縁の、加古川市の一部・高砂市の一部・明石市の一部が含まれる。

「馬養造人上(うまかひのみやつこひとがみ)」(生没年不詳)八世紀中頃の地方豪族。播磨国賀古郡の人で。天平神護元(七六五)年五月に外従七位下。その先祖は、ここに出る通り、第七代天皇孝霊天皇の皇子とされる吉備都彦の後裔、上道臣の一族息長借鎌(それは仁徳天皇(三一三年~三九九年)の頃で、一族は印南野(いなみの:現在の兵庫県南部の明石川と加古川及びその支流美嚢(みの)川に囲まれた三角状台地)に住んだらしい)で、その六世の孫の時、聖徳太子(敏達天皇三(五七四)年~推古天皇三〇(六二二)年)から馬司に任じられたため、「庚午年籍(こうごねんじゃく)」(天智九庚午(かのえうま)年(六七〇年)に作成された戸籍簿。古代に於いては一般の戸籍は六年ごとに作成され、三十年を経ると、廃棄される規定であったが、この「庚午年籍」は永久保存とされた。姓氏を正す原簿として重んじられた。戸籍が制度化されたの大化改新以来では整ったものとして最も古い戸籍で、各階層に、ほぼ全国に棉って施行されたものである)で誤って「馬養造」とされた。「印南野臣(いなみのおみ)」への氏姓変更を願い出て、許されている(以上は「朝日日本歴史人物事典」と「ブリタニカ国際大百科事典」その他を綜合した)。

「款狀(かんじやう)」古代から中世にかけての古文書様式の一つ。古くは「申文(もうしぶみ)」と呼び、鎌倉時代頃から「款状」と言うようになった。「款」は「偽りなく誠を尽くす」の意。官人や僧侶などが、位階や官職の叙任・昇進を望むために自己の経歴・功績或いは祖先のことを書いた自薦文書。他に訴訟の趣旨を記した嘆願書をも、かく呼ぶ。

「續日本紀」天平神護元(七六五)年五月庚戌二十日の条に以下のように出る。

   *

庚戌。播磨守從四位上日下部宿禰子麻呂等言。部下賀古郡人外從七位下馬養造人上款云。人上先祖吉備都彥之苗裔。上道臣息長借鎌。於難波高津朝庭。家居播磨國賀古郡印南野焉。其六世之孫牟射志。以能養馬、仕上宮太子、被任馬司。因斯。庚午年造籍之日。誤編馬養造。伏願。取居地之名。賜印南野臣之姓。國司覆審。所申有實。許之。

   *

「秦川勝(はたのかはかつ)」(生没年不詳)六世紀末から七世紀前半にかけて活躍した厩戸皇子(聖徳太子)の側近。山背国葛野(現在の京都市)の人。葛野秦造河勝・川勝秦公とも書く。山背国の深草地域(京都市伏見区)及び葛野地域に居住する秦氏の族長的地位(太秦)にあり,その軍事力や経済力を背景に、早くから厩戸皇子の側近として活躍、「上宮聖徳太子伝補闕記」は、用明二(五八七)年の物部守屋の追討戦に「軍政人」として従軍、厩戸皇子を守護して、守屋の首を斬るなどの活躍を伝え、秦氏の軍事力が上宮王家の私兵として用いられたことが知られる。推古一八(六一〇)年には、来日した新羅・任那使人らの導者となった。また、秦氏の氏寺として蜂岡寺(京都市右京区太秦蜂岡町の広隆寺)を造営するが、推古三十年に於ける聖徳太子の病気回復(或いは追善供養)を契機として、推古十一年に太子から授かった仏像を安置するために建立したものと伝えられる。現存する伽藍は平安末期以降の再建だが、太子が河勝に授けた朝鮮伝来と伝えられる半跏思惟像(国宝)は有名。皇極三(六四四)年には、不尽(富士)川辺で大生部多(おおふべのおお)が常世神と称して虫を祭り、都鄙の人が、こぞってこれを信仰すると、民の惑わされるを憎んで、大生部多を打ち懲らしたという。これは神仙的な当時の民間信仰や、蘇我氏との関係で微妙な秦氏の政治的立場を議論する史料となっている。物部守屋を討った功により大仁、のちには小徳に叙せられた(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「大和の橘寺(たちばなでら)」既出既注

「若狹の馬居寺(まごじ)」福井県高浜町にある真言宗本光山馬居寺(まごじ)。本尊馬頭観音。ウィキの「馬居寺」によれば、『もと西光寺と号し、中世には東寺の末寺であったことが古文書から知られるが創建の事情・時期等については不明である。本尊の馬頭観音像は平安時代末期』、十二『世紀にさかのぼる作と見られ、遅くともその頃には寺観が整っていたものと見られる』。『寺伝では推古天皇』二七(六一九)年、『聖徳太子の開創と言い』、延宝三(一六七五)年成立の「若州管内社寺由緒記」にも『聖徳太子の創建を伝えるが、伝承の域を出ない。縁起によれば、「あるとき』、『太子は摂政の御役目を帯びて御愛馬』「甲斐の黒駒」に『召され、当地方御巡行の道すがら、馬を下り海辺に歩を進めて、しばし御休息をとられた。ちょうどそのとき』、『彼方』の『山上に御愛馬のいななく』の『を聞かれた。それと刻を同じくして、時ならぬ一大光明がそのあたりに輝くのを見』給い、「ここそ自分が日頃から求めていた霊地である」『として、太子自ら』、『馬頭観世音菩薩像を御刻みになり、堂を建て、ここにその像を安置し』た、とある。

「安房の檀特山小松寺(だんとくざんこまつじ)」千葉県南房総市千倉町大貫にある真言宗檀特山小松寺。本尊薬師瑠璃光如来。公式サイトも見たが、聖徳太子や黒駒との関係は記されていないが?

「太子講」聖徳太子を讃仰する宗教講、又は、大工・左官などの建築関係の職人たちが、それぞれ同業者集団として結束を図るために、聖徳太子を守護神として行う職業講。浄土真宗では、親鸞が和国の教主と讃えた聖徳太子の奉賛が盛んで、存覚(正応三(一二九〇)年~応安六/文中二(一三七三)年:かの覚如の長男。父に従って各地に布教するが、父と義絶・和解を繰り返した)の定めた太子講式に則って行われた。また、聖徳太子が寺院建築史上、大きな存在であったところから、江戸時代には、職人、殊に大工・左官・鍛冶屋・屋根葺・桶屋などが「工匠の祖」として祭るようになり,忌日の二月二十二日に「太子講」を行った(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「勢至菩薩」仏菩薩を十二支に割り当てた際に「午(うま)」年の守り本尊とされる。

『陸中岩谷堂(いはやだう)町の「太子の宮」』岩手県奥州市江刺区岩谷堂はここだが、「太子の宮」というのは見当たらない。地区外東北直近に玉崎駒形神社というのを見出せ、複数の資料を確認したところ、牛馬を守る守護神ではあるが、聖徳太子とは関係がないので、違う。

『「太子の宮」と竝びて、又、「達磨(だるま)尊者の社(やしろ)」ありき』仏法の布教を志した聖徳太子にして、その愛馬「黒駒」は、それに感応した「達磨大師」が「化身」したものだとする伝承がある。また、以下に出る「飢人」伝説の本性を達磨大師とする伝承もある(後注参照)

「片岡」「片岡の飢人」ウィキの「片岡山伝説」によれば、『片岡山伝説』『または飢人伝説(きじんでんせつ)とは』、「日本書紀」推古天皇の条に『収載された飛鳥時代の説話。聖徳太子と飢人(飢えた人)が大和国葛城(現在の奈良県北葛城郡王寺町)の片岡山で遭遇する伝説で』、『古代における太子信仰のひとつのあり方を示す伝説として注目される』。「日本書紀」のそれは、推古天皇二一(六一三)年十二月『庚午朔、聖徳太子が片岡(片岡山)に遊行したとき、飢えた人が道に臥していたので、姓名を問うたが返事がなかった』。『太子はこれを見て飲食物を与え、また、自分の衣服を脱いでその人を覆い』、『「安らかに寝ていなさい」と語りかけ、次の歌を詠んだ』。

   *

斯那提流 箇多烏箇夜摩爾 伊比爾惠弖 許夜勢屢 諸能多比等阿波禮 於夜那斯爾 那禮奈理鷄迷夜 佐須陀氣能 枳彌波夜祗 伊比爾惠弖 許夜勢留 諸能多比等阿波禮

(しなてる 片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こや)せる その旅人(たびと)あはれ 親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢ゑて臥(こや)せる その旅人(たびと)あはれ)

   *

『翌日、太子が使者を遣わして』、『その人を見に行かせたところ、使者は戻って飢者がすでに死んでいたことを告げた』。『太子は大いに悲しんで、飢人の遺体をその場所に埋葬して墓を固く封じさせた。数日後』、『太子は、近習の者を召して「過日』、『埋葬した人は普通の人ではない。きっと真人(ひじり)にちがいない」と語り、墓を見に行かせた』。『使いが戻って来て』、『「墓を動かした様子はありませんでしたが、棺を開いてみると』、『屍も骨もありませんでした。ただ』、『棺の上に衣服だけがたたんで置いてありました」と告げた』。『太子は』、『再び』、『使者を遣わして、自分がかつて与えたその衣服を持ち帰らせ、以前のように身に着けた。人々は大変』、『不思議に思い、「聖(ひじり)は聖を知るというのは、真実だったのだ」と語って、ますます太子を畏敬した』(中略)。『ここで注目されるのは、この説話における「聖人」(聖・真人)の概念の多面的・重層的な性格で』、『第一に「ひじり」はもともと日本古来の古代宗教(古い形態の神道)における霊的能力者を意味していたのであるが、そこに中国の「聖」の概念が重ねられ』ていること、『「聖人」はまた、儒教における絶対的な帝王であり、仁を身につけ礼の実践に努める「君子」よりさらに上の、最高の道徳的人格者である』こと、『さらに』、『「聖人」はまた』、『仏教にあっては絶対者であるブッダ、すなわち悟りをひらいた仏の姿にほかならない』という点である。『そのうえ、「凡人に非』ずして、『必ず真人ならむ」や「聖の聖を知る、それ実なるかな」などの記述にみられるように、道教における「真人」、すなわち道の奥義(宇宙の根源)を悟り、自由の境地を得て仙人となった理想的人間像が重ねられ』ている。『「真人」はまた』、『仏教にあっては仏陀である』。『さらに、墓をみたら』、『死体がなかったという逸話は、神仙思想における「尸解」にかかわりをもっている』(そうそう。道家思想に於ける完全なる存在は「真人」と言うのだ)。『いったん死んだ様態を呈して墓から抜けて昇天するのは、不老不死を得た仙人』則ち、『「尸解仙」なのであり、これまた道教に深いかかわりを有している』(但し、この登仙法は最もレベルの低いものである)。『要するに、以上述べたような多面的・重層的な聖人性こそが太子にふさわしいものと考えられ、どの宗派や教義の立場からしても太子が聖人であるということを説話は示しているのである』。また、『この説話に対して後世、実は、この飢人こそ、禅宗の始祖として知られる』達磨大師(?~五二八年)『その人であったという話が付加される』(以下太字は私が附した)。『これは一見、はるか後の禅宗の徒による牽強付会のようにもみえるが、実は奈良時代末に敬明によって編まれた』「上宮太子伝」に『注記として記されたものであり、同時にこれは、太子が隋の南嶽慧思』(えし 五一五年~五七七年:天台智顗の師で、天台宗二祖とされる)『の生まれ変わりであるという説と密接にからんでいる』。『南嶽慧思は天台宗を開いた天台智顗の師であり、天台宗では第二祖とされる高僧で、特異の禅定と法華信仰をもって知られるが、その慧思が日本の王家に生まれ変わって太子となったという説が奈良時代末期の文献にみられる』。『そして慧思に日本への生まれ変わりを勧めたのが』、『当時インドより中国にやって来た達磨であるとされる。とするならば、片岡山での邂逅はこの』二『人の再会であったという意味が付託される』のである。まあ、『太子が用明天皇の皇子として飛鳥の地に誕生した時点においては』、『慧思はまだ中国に生存していたのであるから、「生まれ変わり」』など『ありえないわけではあるが、この説をさかんに普及させたのは』、『唐からの渡来僧として著名な鑑真の弟子たち、すなわち』、『唐より鑑真に同行した思託らをはじめとする律宗教団の人びとであったと考えられる』。『そして、最澄以降、天台宗が日本に定着していく過程で、この説は大きな役割を果たしたと考えられる』。『また、小野妹子が』、『太子の命により遣隋使として煬帝のもとに派遣されたとき、太子の命で』、『太子が未だ慧思であった際に用いた』「法華経」を『受け取りに出かけたという説もこれに加わる』。この「片岡山飢人説話」は、九『世紀初頭に薬師寺の僧景戒によって編纂された仏教説話集』「日本霊異記」上巻にも確認でき、『当時から広く知られた説話であったことがうかがわれる』。『同書の説話の末尾には「誠に知る聖人は聖を知り、凡夫は知らず、凡夫の肉眼には賤しき人と見え、聖人の通眼には隠身と見ゆ」と付言され』、「日本書紀」『記述の説話以上に仏教色の強い内容となっている』。『ところで』「日本書紀」に『おいては、太子の仏教上の師である高句麗僧の慧慈が、太子の死をしきりに悼み、また「聖なる人」「大聖」と述べているが、さらに「三宝を恭み敬いて、黎元の厄を救う、是実の大聖なり」と述べたことを』も『記している』。『ここにおける「聖」とは、上述のとおり解脱して悟りを得た者(仏)を意味しており、単に能力・識見にすぐれた人物というだけで』は『なしに、平安時代には救世観音の化身であるという説も生じるなど、常人を越えた異能の人として崇敬されている』。『こうした諸説が成立する背景としては、太子が日本仏教の興隆に深くかかわったという歴史的事実を踏まえていることは言うまでもないが、一方ではすでに』、「日本書紀」に記された時点で、殊更に『異能の人として書き記されていることと無縁ではないと考』えられるのである。『聖徳太子の活躍は、古代日本が律令国家として発展していく第一歩を踏み出した時期であり、推古天皇の摂政兼皇太子として朝廷権力の中枢にあって諸改革を進めた時期に相当している』。しかし、「日本書紀」の『記述では、太子の政治活動は』、『推古朝の前半期に偏っており、必ずしも後半期には充分に及んでいない』。『これについて、米田雄介は、聖徳太子の後半期の政治的社会的地位が前半期に比較して相対的に低下しているのではなく、太子は蘇我氏に擁されながらも、一方では蘇我氏に屈服していないという立場と目され、反蘇我氏の諸勢力のなかからも蘇我氏を統制しうる象徴的な存在としておおいに期待され、それゆえに脱世俗的な存在として聖化されたものであろうと推定している』。『聖徳太子伝説の形成により、太子に対する崇拝・信仰は時代が下るとともにさかんになっていった。摂津国の四天王寺や河内国磯長(大阪府南河内郡太子町)の「太子廟」などは古くより数多の参詣者を集める一種の聖地である』。『太子信仰の実例については枚挙にいとまがないが、鎌倉時代、浄土真宗の開祖とされる親鸞が仏教者として初めて公然と妻帯することを決意したのも』、『聖徳太子からの夢告によるものと』するのは頓に知られている。

「聖人、政(まつりごと)を爲し、資・服・制ある」「資・服・制ある」はよく判らぬ。「資」は食物を始めとした、総ての人民を養う豊かな財物の豊富な貯えか。「服」は総ての民草がその政道に心からほっとし、得心して従うことか。「制」は秩序ある世界を維持する仁徳に則った法制度か。

「大内(おほうち)」宮中。]

ユウ・ピイ・ウレフスカヤの記念のために ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    ユウ・ピイ・ウレフスカヤの

    記念のために

 

 荒凉たる勃加利(ブルガリヤ)の村、急に野戰病院にされた傾きかゝつた小舍のあまり賴りにならぬ屋根の下、汚い濕つぽい惡い臭のする藁蒲團の上に、彼女は二週間の其上(そのうへ)も窒扶斯(チブス)で死んだまゝ橫たへられてゐた。

 彼女は人事不省であつた、それに一人の醫者も彼女を見舞はなかつた。彼女が自分の動くことの出來る間看護してやつた病兵達が、代る代るその臭氣を放つ病床から起き上つて、こはれた土瓶の破片(かけら)に入れて水の數滴を彼女の乾いた脣に注ぎ込んだ。

 彼女は若くて美しかつた。上流社會にもてはやされて、高位高官の人達すら心を寄せた。婦人達は彼女を嫉み、男子達はその機嫌を取つた……その中幾人かは心の底から彼女を愛してゐた。人生は彼女に微笑を見せた。然し世には淚よりも惡い微笑がある。

 素直(すなほ)な優しい心……しかもかばかりの力、かばかりの献身! 助けを要する者を助けること……彼女はその外に幸福を知らなかつた……それを知らなかつた、決してそれを知らなかつた。その外のあらゆる幸福は彼女の傍を通り過ぎた。然し彼女は疾(と)くに心を決して、消し去る事の出來ない信仰の熱に燃えて、隣人のために身を献げたのだ。

 いかなる不滅の寶が彼女の胸深く、その心の奧底に藏(かく)されてあつたか、誰一人知る人はなかつた。今ではもとより誰も知る人はないであらう。

 あゝ、然しそれが何であらう? 彼女の犠牲は献げられた……彼女の事業は

完うされた。

 然し彼女の遺骸(なきがら)にさへも誰一人感謝の言葉を俸げなかつたことを考へると傷(いたま)しい思ひがする、彼女自身はすべての感謝の言葉を恥ぢ斥けてはゐたけれども。

 彼女が在天の靈よ、希(こひねがは)くは此の時を失したる花をその墓の上に置く私の大膽を許せ!

    一八七八年九月

 

ウレフスカヤ、一八七七年―七八年の露土戰爭中の出來事。健氣な露西亞の少女に對する讚美である。この篇は「その前夜」のエレナを思出[やぶちゃん注:「おもひだ」。]させる。】

[やぶちゃん注:生田の注記は余りに簡略に過ぎる。以下に私の一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」の注を含むを引く(「〔は〕」は私が脱字と断じて補ったもの)。

   *

『ヴレーフスカヤ夫人をしのんで』 原稿には單に『ユ・ぺ・ヴェをしのんで』とあつて、發表の際にも遠慮して名は伏せられた儘であった。すなはちこの一篇は、男爵夫人ユリヤ・ペトローヴナ・ヴレーフスカヤ(J. P. Vrevskaja, 1841―1878)の思出に捧げられたもの。早く夫と死別した夫人は、一八七七年の夏折柄の露土戰爭に慈善看護婦を志願して戰地におもむき、翌七八年舊一月の末、ブルガリヤで病死した。トゥルゲーネフ〔は〕夫人と親しく、彼の氣持は次の手紙からも明らかである。――「お眼にかかってからといふもの、あなたが心から親しいお友達と思へてなりません。それに貴女と御一緒に暮したい氣持が、拂つても拂つても消えないのです。とは申せわたしのこの願ひは、思ひきつて貴女のお手を求めるほどに抑制のないものではありませんでしたし(さう、わたしももう若くはないし――)、その他にも色々なことが妨げになりました。そのうへ貴女が、フランス人の言ふ une passade(出來心)に心を許される方ではないことも、私はよくよく承知してゐましたから。」(一八七七年二月七日附)二人が最後に會つたのは、その年の夏にトゥルゲーネフが歸國した時で、すでに夫人が慈善看護婦を志願した後であつた。ちなみにこの作の日附も、從來四月と誤讀されてゐた。

   *

後の中山省三郎氏註にも、『ツルゲーネフとは昵懇の間柄であつた。ツルゲーネフの郷里スパッスコエを訪れたり、互ひに文學を語つたりするほどであつた』とある。因みに、二人は、二十七歳違いで、この書簡の一八七七年当時で、ツルゲーネフは六十三、ヴレーフスカヤは三十六歳であった。な彼女の名前のロシア語表記は Юлия Петровна Вревская(ラテン文字転写:Yulia Petrovna Vrevskaya)で、カタカナ音写するなら、「ユリア・ペトローヴナ・ヴレフスカヤ であろう。グーグル画像検索「Юлия Петровна Вревскаяをリンクさせておく。

「その前夜」一八六〇年に発表されたツルゲーネフの長編小説(原題:Накануне Nakanune)。友人同士の二人の青年、彫刻家のシュービンと将来の大学教授ベルセーネフは、ともに金持ちの貴族令嬢エレーナ(Елена:Elena)を恋している。彼女も二人に好意をもっている。ある日、ベルセーネフがロシアの大学に学ぶブルガリア独立運動の志士である友人インサーロフを連れてくる。インサーロフを知るに及んで、エレーナは彼を自分の夫に選ぶ。日常的な家庭生活の幸福を捨て、敢えて茨の道を選んだのであった。ブルガリアへの帰国の途中、インサーロフはイタリアで病死するが、彼女は夫の遺志を継ぎ、亡夫の祖国に赴いて独立運動に身を投じる。エレーナは行動的・情熱的な、来たるべき時代のロシア女性の理想像として描かれている。題名は農奴解放(一八六一年)の「前夜」の意である(ここは主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼫鼠(りす) (リス類)

Risu

 

 

りす  碩鼠 䶂鼠

    雀鼠 ※鼠

鼫鼠

    【此云栗鼠

    稱利須唐音】

[やぶちゃん注:「※」=「鼠」+(「峻」-「山」)。]

 

本綱鼫鼠似鼠而大也居土穴樹孔中頭似兎尾有毛靑

黃色善鳴能人立交前兩足而舞好食栗豆與鼢鼠俱爲

田害鼢小居田而鼫大居山也又專食山豆根取其毛作

△按鼫鼠形色行勢乃此云栗鼠也【時珍以栗鼠爲鼦別名者不審】其狀

 色似鼠而大於鼠色淺於鼠尾粗大而長山中古樹穴

 在之毎好食栗柹葡萄之諸果性怕寒身輕如飛日温

 而腹滿則踞立于石上樹梢自被尾蔽身人畜於樊中

 齒勁如鐵故不用䥫綱則齒破脫去

 

 

りす  碩鼠〔(せきそ)〕 䶂鼠〔(しやくそ)〕

    雀鼠 ※鼠〔(しゆんそ)〕

鼫鼠

    【此れ、「栗鼠」と云ふ。

    「利須」と稱す〔は〕唐音〔なり〕。】

[やぶちゃん注:「※」=「鼠」+(「峻」-「山」)。]

 

「本綱」、鼫鼠は鼠に似て、大なり。土〔の〕穴・樹の孔の中に居り。頭、兎に似て、尾に、毛、有り。靑黃色。善く鳴き、能く人のごとく立つ。〔→ちて、〕前の兩足を交へて舞ふ。好んで栗・豆を食ふ。鼢鼠(うころもち)と俱に田〔の〕害を爲す。鼢〔(うころもち)〕は小にして田に居り、鼫〔(りす)〕は大にして、山に居〔(を)〕るなり。又、專ら、山豆根〔(さんづこん)〕を食ふ。其の毛を取りて筆に作る。

△按ずるに、鼫鼠、形・色・行勢(ありさま)、乃〔(すなは)ち〕、此れ、云〔ふところの〕栗鼠なり【時珍は「栗鼠」を以つて「鼦〔(てん)〕」の別名と爲すは、不審〔なり〕。】。其の狀〔(かたち)〕・色、鼠に似て、鼠より大きく、色、鼠より淺し。尾、粗大にして長し。山中〔の〕古樹の穴に、之れ、在り。毎〔(つね)〕に好んんで栗・柹〔(かき)〕・葡萄の諸果を食ふ。性、寒を怕〔(おそ)〕る。身輕にして飛ぶがごとく、日〔(ひ)〕、温かにして、腹、滿つれば、則ち、石の上・樹の梢に踞-立(つくば)ふ。自〔(みづか)〕ら、尾を被(ひら)き、身を蔽ふ。人、樊〔(かご)の〕中に畜〔(か)〕ふ。齒、勁〔(つよ)く〕して、鐵のごとし。故〔に〕䥫綱〔(てつかう)〕[やぶちゃん注:鉄製の籠の意。「䥫」は「鐡」の古字。]を用ひざれば、則ち、齒〔にて〕破(やぶ)りて脫け去る。

[やぶちゃん注:齧歯(ネズミ)目リス亜目リス科 Sciuridae のリス類。世界には五亜科五十八属二百八十五種が棲息する。樹上で暮らすリス類の他、地上で暮らすマーモット(リス科 Xerinae 亜科 Marmotini 族リス亜目リス科マーモット属 Marmota:主に山岳性であるが、平地に棲む種もいる。中国にはいるが、本邦には棲息しない)・プレーリードッグ(Marmotini 族プレーリードッグ属 Cynomys:北米原産)・シマリス(Marmotini 族シマリス属 Tamias:本邦にはシベリアシマリス Tamias sibiricus・エゾシマリス Tamias sibiricus lineatus が北海道に分布する)・イワリス(Marmotini 族イワリス属イワリス Sciurotamias davidianus:中国西部及び北部に棲息するが、本邦には分布しない)・ジリス(Marmotini 族の広汎な種群を指す)や、滑空能力のあるモモンガ(リス亜科モモンガ族モモンガ属ニホンモモンガ Pteromys momonga)・ムササビ(リス亜科 Pteromyini 族ムササビ属 Petaurista)もリスの仲間である「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鼠(むささび・ももか)(ムササビ・モモンガ)」を参照。良安は「本草綱目」を形の上で踏襲してしまい、鳥類に分類する誤りを犯している)。リス類は、ほぼ全世界に分布する(但し、オーストラリア・南極大陸・ポリネシア・マダガスカル・南アメリカ南部、及び、一部の砂漠(サハラ・エジプト・アラビア)地帯は除く。ここまではウィキの「リス」及び、そのリンク先を多用してオリジナルに示した)。平凡社「百科事典マイペディア」他によれば、本邦には自然分布では、

リス科 Sciurinae 亜科 Sciurini 族リス属亜属ニホンリス Sciurus lis(別名ホンドリス)

リス属キタリス亜種エゾリス Sciurus vulgaris orientis

エゾシマリス(学名既出)

ムササビ(同前)

ニホンモモンガ(同前)

モモンガ属タイリクモモンガ亜種エゾモモンガ Pteromys volans orii

の六種が棲息する。最も見かけることの多いニホンリスは、体長十八~二十二センチメートル、尾長十五~十七センチメートル。冬毛は背面灰褐色で、耳の端毛は長い。夏毛は赤褐色で、四肢や体側は赤みが強い。北海道を除く日本各地に分布していたが、近年、九州では確認されていない。平地から亜高山の森林の樹上に棲み、朝夕に活動する。松類の種子・どんぐり・栗などを食べ、秋にはこれらを穴に貯えるが、冬眠はしない。一腹で二~六子を産む、とある。因みに、私の家の周辺に棲んでいて、今年は先代の子がやってきて、妻が庭の金柑を総て食われることを許容してしまった、

リス科ハイガシラリス属クリハラリス亜種タイワンリス Callosciurus erythraeus thaiwanensis

は台湾固有亜種で、ウィキの「タイワンリス」によれば、元来は『台湾に分布しており、日本では』、昭和一〇(一九三五)年に『伊豆大島の公園から逃げ出したのを皮切りに』(大島は現在、日本で最も個体数が多い地域と推定されている)、『神奈川県南東部、静岡県東伊豆町(熱川)・浜松市(浜松城)、岐阜県岐阜市(金華山)、大阪府大阪市(大阪城)、和歌山県和歌山市(友ヶ島・和歌山城)、長崎県、熊本県など』、『日本各地に観光用として放されたり、逃げ出したりして広く定着している』。『神奈川県の江ノ島では』昭和二六(一九五一)年に『伊豆大島から連れてきた』五十四『匹のタイワンリスを江ノ島植物園で飼育した。しかし、台風で飼育小屋が壊れたことで逃げ出し、弁天橋を渡って』、『鎌倉市内に入り込』み、『繁殖するようになったと言われている。また、鎌倉市内の個体については、別荘地で飼われていた個体が逃げ出し野生化したとする説もある』。一九八〇『年代になり、個体数が増えて分布が拡大したことで』、『在来種であるニホンリスと競合し、ニホンリスの地域的な絶滅要因になる可能性が懸念されている』。『コゲラやシジュウカラといった小鳥の巣がある樹洞の入り口をかじって広げ、中にいる雛や卵を食べる被害も報告されて』おり、『餌の少ない冬場などは』、『人家近くに現れることも多い。主に木の実を食べる。ツバキの蕾や収穫前の果実を食べることや、樹木の樹皮をはがして食べることがあり、食害が問題になっている地域もある。また地域によっては、電線や電話線をかじる、雨戸などの家屋をかじるといった被害も出ている』。『神奈川県鎌倉市では、民家の天井裏などに住み着き、庭の果樹をかじる、物干し竿を伝い歩きすることによって洗濯物を汚す、電線や電話線をかじるなどの被害が出ている』。『鎌倉市では』、一九九九『年からタイワンリスに対する餌付けを禁止し、捕獲作業を行っている。捕獲を開始してからは、年々捕獲数、被害相談件数ともに減少している』。『長崎県壱岐市や五島市(鬼岳山麓)では、植林したスギやヒノキの樹皮を食害したり、農園の果樹や農作物を食害したりする被害がでている。そのため、かご罠や捕獲檻などを使った駆除が行われている』。『伊豆大島では、島内で敷設されている送電線を、タイワンリスが渡ったりかじったりすることによる停電被害の未然防止のために、特別な皮膜で覆われたものに交換した』とある。二〇〇五年には遂に「外来生物法」による特定外来生物に指定されてしまったので、餌付けしたり、飼育することは全国的に禁じられている。『しかし、岐阜県岐阜市の金華山にはタイワンリスと遊べる「金華山リス村」が所在するほか、静岡県浜松市の四ツ池公園でも放し飼いにされているように、タイワンリスを観光的に利用しようという例はなおも存在している』とある。今年の私の家(うち)の金柑を偸みとって食う(ちょっと齧って全部は食わぬ贅沢な子じゃて)タイワンリスの「かんちゃん」(妻の命名)の写真(妻撮る)はこちら。好き好んで来日したのではない彼らを秘かに哀れと私は思うている。なお、世界的には都会でヒトを襲う凶暴な個体もなくはないようだが、人獣感染症の報告は未だ、ない。

「鼢鼠(うころもち)と俱に田〔の〕害を爲す」中国語の「田」は「田畑」を指すから、栽培穀物や栽培果樹を害するととるなら、強ち誤りではないが、リスとモグラ(モグラも畑地下にトンネルを作って「荒す」とは言えるものの、稲や根菜類を食性としないから実際には冤罪部分が甚だ大きい。民俗社会でモグラを害獣扱いしている誤りについては、既に「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼢(うころもち)・鼧鼥(モグラ・シベリアマーモット)で注した)を併置して田畑の害獣とするのは生物学的に誤りである。

「山豆根〔(さんづこん)〕」これは「本草綱目」の記載なので、マメ目マメ科クララ(エンジュ)連クララ属クララ Sophora flavescens であろう。本邦にも植生する。漢名「苦参」。和名は「眩草(くららぐさ)」で、根を噛むと、クラクラするほど苦いことに由来するという。ウィキの「クララ」によれば、『全草有毒であり、根の部分が特に毒性が強い』。『アルカロイド』(alkaloid:窒素原子を含み、ほとんどの場合で塩基性を示す天然由来の有機化合物の総称)『のマトリン』(Matrine)『が後述の薬効の元であるが、薬理作用が激しく、量を間違えると大脳の麻痺を引き起こし、場合によっては呼吸困難で死に至る。素人が安易に手を出すのは非常に危険である』。『根は、苦参(くじん)という生薬であり、日本薬局方に収録されている。消炎、鎮痒作用、苦味健胃作用があり、苦参湯(くじんとう)、当帰貝母苦参丸料(とうきばいもくじんがんりょう)などの漢方方剤に配合される。また、全草の煎汁は、農作物の害虫駆除薬や牛馬など家畜の皮膚寄生虫駆除薬に用いられる』。『なお、延喜式には苦参を紙の原料としたことが記されているが、苦参紙と呼ばれる和紙が発見された例が存在せず、実態は不明である』が、二〇一〇年の『宮内庁正倉院事務所の調査で「続々修正倉院古文書第五帙第四巻」の』一『枚目は和紙、手触りや色合いが』、『延喜式での工程や繊維の特徴を持ち』、二『枚目は苦参の可能性が高いと判断した』とある。但し、平凡社「世界大百科事典」によれば、本邦では全くの別種であるマメ目マメ科ミヤマトベラ(深山扉木)Euchresta japonica を「山豆根」と称し、特に前者の毒性が強いことから、注意が必要である。こちらは本州(茨城県以西)・四国・九州、及び、中国大陸に分布する(最近までは日本固有種とされていた)。本邦の漢方では、根を乾燥して「山豆根(さんずこん)」の名称で、口腔・咽喉の病気に用いていた、とある。

「其の毛を取りて筆に作る」洋画の絵筆の販売サイトの解説によれば、リスの毛は水彩筆に適した最高級の原毛で絵具の含みが優れているとし、リス毛は繊細で柔らかく、筆運びからして滑らかで、非常に多くの毛量をまとめた穂先は、絵具の含みが良く、長い線描も可能で、途中でパレットの絵具を含ませる必要がないとあり、この種の筆のもう一つの特徴は穂先が自然に揃うことである、とある。毛筆用にも使用されるようだが(昔の同僚の書道の先生は鼠の毛の筆も持っていた)、別のサイトでは現在ではリス毛は、主に最高級の化粧ブラシに用られるらしい。フェイス用など比較的大きな穂先をボリュームたっぷりに使うことで、特別な肌触りを示すと書かれてあった。何となく、梶井基次郎の「愛撫」の中の(リンク先は私の古い電子テクスト)、夢のシークエンスで、女が使う『猫の手の化粧道具』を思い出して、胸糞が悪くなってきた。

「鼦〔(てん)〕」次の独立項が「貂」で、そこでも良安はこれを問題にしている。]

太平百物語卷五 四十 讃岐の國騎馬の化物の事

 

   ○四十 讃岐の國騎馬の化物の事

 或る僧、さぬきの國丸龜より、三井(みゐ)といふ所へ行(ゆく)とて、「千代池(ちよいけ)の堤(つゝみ)」といふを夜中(やちう[やぶちゃん注:ママ。])に通りけるが、むかふの方(かた)より、騎馬の、おほく、いなゝき來(きた)る体(てい)の聞へければ、此僧、心に、

『あやしや、夜(よ)いたく更(ふけ)て、何方(いづかた)へ行(ゆく)人々にて有(あり)けるぞ。』

と思ひながら、靜(しづか)に進み行けるに、蹄(ひづめ)の音、次第次第に近くなりて、今は其間(あいだ[やぶちゃん注:ママ。])十間(けん)[やぶちゃん注:約十八メートル。]斗(ばかり)にもなるらん、とおもふ折節、向ふの方(かた)を、

「きつ。」

と見るに、音斗(ばかり)はなはだしくて、其あや[やぶちゃん注:ここは単に姿・形・シルエットの意。]、少(すこし)も、見へず[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]。

『こは、ふしぎ。』

と、おもひながら、堤の上にかゝれば、かの騎馬、行過(ゆきすぎ)て、跡に、聞ゆ。

 此僧、いよいよあやしみ、思ふ樣、

『此堤より外(ほか)に行べき道、なし。あら、不審(いぶか)さよ。』

と、立留(たちとゞまり)て、能(よく)々きけば、堤の下(した)に、ありありと聞ゆ。

『さらば、行て見定めん。』

と、堤を下(くだ)りて見れ共、更に、見へず。

 しばらくして、又、上の堤に聞ゆ。

『扨は。』

と、上にあがりてきけば、いなゝく聲、下に、あり。

 下(した)へ、行けば、上に、音す。

 此僧、ふかく怪しみながら、今は、はや、すべきやうなく、志ざす方(かた)に行(ゆけ)ば、又、むかふの方(かた)に聞ゆ。

 追付(おつつき)てきけば、後(しりへ)に、あり。

 此僧、あきれて、四方(しほう)を見廻しければ、夜(よ)はゝや、東より白みて、ほのぼのと明渡(あけわた)りぬ。

 此僧、大きに仰天し、それより、三井にぞ、急がれける。

 後(のち)、能々きけば、古狐の、夜もすがら、徃來(ゆきゝ)の人を、かく、たぶらかしけるにてぞ有ける。

[やぶちゃん注:『さぬきの國丸龜より、三井といふ所へ行くとて、「千代池(ちよいけ)の堤(つゝみ)」といふを夜中に通りける』「千代池」は現在の香川県仲多度郡多度津町葛原に実在する(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。丸亀城下(丸亀市内)はここの東北で直線でも三キロ半ほどしか離れていない。問題は「三井」で、このような地名を見出し得ない。方向から見て、南西方向の路次であるから、この延長線上で、「三」の附く古い地名は、恐らく、讃岐国旧三野郡の現在の三豊(みとよ)市三野(みの)町地区(取り敢えず最北の三野町大見をポイントしてある。広域の「三豊市」は現代になって統合で生まれた地名で元が「三野」の「三」由来であるから候補にはならない)と思われる。丸亀と三野のほぼ中間に千代池があることになるからである。万一、「三井」という地名が相応しい場所に別にあるとせば、御教授頂けると幸いである。

いさり舟 すゞしろのや(伊良子清白)

 

いさり舟

 

 

  う ま 追

 

菫はな咲くませ垣に、

もたれてひとりながめやり、

妹まつひまの手すさびに、

なびく柳をいくたびか、

ときつ結びつまたときつ。

 

むかひあはせの近ければ、

朝夕かほは見るものを、

さすがにいはですぎ行くを、

かたみに二人いひいでゝ、

うらみあひしもいくそたび。

 

めぐみも深きたらちねの、

父とはゝとのうせしより、

にはかに家はおとろへて、

あとにのこりしみなし子は、

うま追ふ賤におちぶれき。

 

契りし妹も人づまと、

淸きみさををかへぬれば、

人の心のつれなさに、

ひとり思にたえかねて、

袂もくつるうきなみだ。

 

草むらごとに蟲なきて、

夕風さむきさとのみち、

うまおひながら皈り行く、

尾花の末に松見えて、

これぞ昔のおのが家。

 

 

  

 

夕やけ雲の色そへて、

日影殘れる山の端の、

うすくれなゐに匂ふとき。

そよがぬ木々のひまとめて、

水より淡き大空に、

星の帝王(みかど)はのたまひぬ。

 

「あはれわが臣けふもまた、

鳥を塒におくりてよ。

雲をみ山にかへしてよ。

ふねを湊にあつめてよ。

菫つむ子をまつ母の、

そのふところにおくりてよ。」

 

のたまふまゝに三ツ二ツ、

四つ六つ五つつぎつぎに、

星のひかりのあらはれて、

空もせきまでなりし時、

淸き夢路の戶を開けて、

宇宙は皆安く眠り行く。

 

 

  あ る 夕

 

秋の夕べをかなしとは、

いかなる人か言初めし。

あゝわが如くいにしへも、

うせにしせこをこひわびて、

ひとりさびしき岸に行き、

水のながれにうらみけむ、

少女やかくもいひそめし。

 

 

  し ら 浪

 

春の夕べのさびしさに、

ひとり海邊にたちいでゝ、

こゝろともなく眺むれば、

みるめだになき荒いそに、

たれをか戀ひししら浪の、

とほき潮路をわたりきて、

よせてはかへしきてはうつ。

 

 

  行 く 水

 

ながれゆく水の、

    あとをおひて、

しばし語らむと、

    ふたりあゆむ。

 

空はれわたりて、

    いとしづかに、

星かげきらめく、

    ゆふぐれどき。

 

すぎこしうれひを、

    おもひいでゝ、

戀のかなしさに、

    袖をぬらしぬ。

 

されどもせめては、

    きみとあひて、

かたらひうるをぞ、

    さいはひとせむ。

 

みにしみわたれる、

    夕ぐれどきの、

えならぬけしきを、

    いかでわすれむ。

 

ながれ行く水の、

    あとをおひて、

かたりしゆふべを、

    いかでわすれむ。

 

 

  は る 風

 

あしのわか葉の、

    末かけて、

妹がそで吹く、

    うみのかぜ。

八重たちこむる、

    あまぐもの、

千さとのをちを、

    しのびきて、

さわらびもゆる、

    わかやまの、

尾上のまつに、

    吹きわたる。

 

[やぶちゃん注:明治三〇(一八九七)年四月二十日発行の『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。]

うもれ木 すゞしろのや(伊良子清白)

 

うもれ木

 

 

  かくれ家

 

笠松の枝さすかげに、

さゝやけき庵ぞたてる。

誰人かむすびかけけむ、

かやののき黑木の柱、

ゆがみたるまゝに削らず、

けづらねば蔦はひかゝり、

その蔦ぞ紅葉しにける。

柴の戶を鎖すしら雲、

草のやをかくす葎生、

勿來ぞといふにやあらむ。

人すむと見れば人なく、

人なしと見れば琴あり。

折しもやうしろの山ゆ、

草花の籠をかたへに、

くだり來る花の手弱女、

つひしらず姿ゆかしく、

よびとめてとはむとすれば、

立こむる夕べの霧に、

遠近の峯はかくれて、

うるはしき人の姿も、

見えずなりぬる。

 

 

  のこるうらみ

 

君のなさけを知らずして、

うかれ少女にうかれけむ、

おのが心のうたてさよ。

 

君はおもひにたへかねて、

深きうらみをのこしおき、

皈らぬ人となりにけり。

 

ませの白菊やゝ散りて、

むら雨さむき夕まぐれ、

君のひつぎは岡の邊の、

御寺の森にかくれ行く。

 

 

  須磨の浦かぜ

 

たく藻の烟うちなびく、

蘆の苫屋にあけくれて、

海士の少女とよばれたる、

昔の影のあと追へば、

 

澄む朝潮に影うつる、

花のすがたとうまれいで、

まつ吹風にふさふさと、

振分髮はながかりし。

 

須磨の浦曲の春の夜は、

月もおぼろに影かすむ、

汐汲車ひきつれて、

戀てふうさは知らざりき。

 

あゝ忘れじな貴人の、

たゞかりそめのたはぶれに、

鄙の少女の狹ごろもを、

ひかせ給ひし夢がたり。

 

つゞれを綾にぬぎかへて、

花の都ははるなれや、

霞のをくのたかどのに、

君と二人がゐならびつ。

 

錦をつゞり玉をのべ、

黃金をかざり花を布き、

燿きわたる高臺は、

雲もいざよひ霧も行く。

 

鶯なけば花も咲き、

月影させば虫うたふ、

簾を捲きて雪を賞で、

筧を引きて水を聽く。

 

庭の芙蓉花影に、

大和小琴をかきならし、

池の汀の藤浪に、

春ををしみし舟あそび。

 

髮を梳りつ眉を畫き、

臙脂の紅ころもの香、

黃金の指環あやの帶、

ひかるばかりに裝ひつ。

 

限もしらずときめきて、

影も足らへる望月の、

かけたることもあらざれば、

老いじとのみは願ひしか。

 

紫にほふ紫陽花の、

朝のあめに褪むるごと、

をとこ心のはかなさは、

君のなさけのつれなさよ。

 

梧の葉墜つる秋雨に、

袂はぬれて閨さむく、

孤雁わたる夕雲を、

ながめて遠きわが思。

 

つひに都をぬけいでゝ、

わが故鄕にきて見れば、

柳の絮は地に滿ち、

むなしく拂ふ春の風。

 

ひとり思にたへかねて、

磯べづたひもうきふしや、

花のかざしをなげやれば、

浪のまにまにうかび行く。

 

 

  こゝろの琴

 

春風吹きて、

わがむねに、

ひそめる琴は、

なりそめぬ。

 

こひのしらべは、

かなしくも、

またたのしくも、

きこゆかな。

 

君と逢ふひは、

うぐひすの、

さへづるごとく、

のどかにて。

 

ひとりぬる夜は、

秋雨の、

そゝぐがごとく、

さびしかり。

 

あゝ君の手に、

彈きそめて、

また君のてに、

すつるなよ。

 

 

  う ま 酒

 

葡萄の園にふさふさと、

垂れたる房をぬすみ行き、

酒をつくりしエジプトの、

むかしの人を誰か知る。

 

つくりし酒は美酒の、

こゝろの塵をはらふ哉。

ぬすみ心もかさなれば、

つひに牢獄(ひとや)につながれき。

 

今わがこひを酒として、

君を葡萄にたとふれば、

垂れたる房はうるはしく、

やさしき君の姿なり。

 

君のすがたをぬすみ見て、

たのしき戀にあそぶまに、

たびかさなればいつしかも、

憂苦(うき)の牢獄(ひとや)につながるゝかな。

 

[やぶちゃん注:明治三〇(一八九七)年二月二十五日発行の『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。]

2019/05/22

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(22) 「馬塚ハ馬ノ神」(4)

 

《原文》

 馬ノ神ノ信仰ハ必ズシモ死靈ニノミハ限ラレテアラズ。諸國ノ駒ケ嶽ニ活キタル神馬ノ往來ヲ見ルト云フ如ク、越前ノ穴馬谷(アナマダニ)ナドニモ穴ノ中ニ馬アリテ、時トシテ谷ノ口ノ鹽井ノ水ヲ來テ飮ムト云フ說アリ〔大野郡誌〕。【駒ト岩屋】多クノ巖窟ニハ駒ノ住ムト云フ口碑存セリ。甲斐西八代郡古關村大字瀨戶山中ノ栃木澤(トチノキザハ)ニハ、土人ガ駒ノ寢處ト稱スル岩穴アリ。夏ハ凉風ヲ起シ冬ハ暖風ヲ生ズル爲ニ、其中ノ草ノミハ夏枯レテ冬繁茂スト云ヘリ〔甲斐國志〕。今ナラバ蠶ノ種紙デモ藏シ置クべキ一ノ風穴ニ過ギザレドモ、昔ノ人ニ取リテハ濫ニ近ヅクべカラザル靈地ナリシナリ。【生駒】此等ハ所謂活馬(イコマ)ノ神ノ信仰ノ殘片ニシテ、起原頗ル古キモノナルべキモ、塚穴ヲ以テ悉ク葬處ト看做ス後世トナリテハ、追々ト此ヲモ死馬ノ幽靈ト考フルガ如キ傾向ヲ生ゼシガ如シ。多クノ馬塚ハ恐クハ掘ツテ見レバ何モ無ク、唯ノ祭場タル封土(モリツチ)ニ過ギヌナルべシ。馬ヲ一疋埋ムルハ決シテ容易ノ業ニ非ズ。故ニ塚ノ形ノアマリニ小サキ場合ノ如キハ、是非無ク馬骨ヲ集メテ之ヲ埋メタリナドト云フナリ。陸奧上北郡六ケ所村大字出戶ノ口碑ニ至リテハ更ニ一段ノ荒唐ヲ加フ。【巨馬】曰ク昔此村ニ常ノ馬ヲ四ツ五ツモ合セシホドノ大馬出現シテ、人ヲ追ヒ牧ノ馬ヲ食フ。其大馬ノ出デタル故ニ大字出戶、之ヲ捕ヘテ檢分セシ故ニ大字高架(タコホコ)、馬ノ形ガ平カナリシ故ニ大字平沼ノ地名ハ生ジタリ。【七座】又之ヲ射殺シテ埋メシ塚ヲ「七クラ」ト云フハ、馬ノ背長クシテ鞍ヲ七ツ置クホドナリシ故ナリトモ傳ヘタリ。【大骨】其後領主ノ命アリテ此塚ヲ發キ白骨ヲ取出シ見ルニ、背骨ノ周圍二尺ニ餘レリ云々〔眞澄遊覽記八〕。思フニ「ナヽクラ」ハ七座(ナヽクラ)ニシテ北斗七星ノ崇拜ニ基ク名ナルべシ。【妙見】龍馬ヲ妙見ニ配スルコトハ前ノ磐城相馬ノ例モアルナリ。此ノ如キ巨大ノ白骨ナルヲ、如何ニシテ鯨カ何カノ物ニ非ザルコトヲ確メ得タリシカ、怪シキ話ナリト言フべシ。此迄話ガ進ミテ來レバ、死馬ノ祟ヨリモ活馬ノ威力ノ大ナルコトヲ認メザル能ハズ。カノ奧州ノ蒼前神ノ神體タル白馬ハ立往生ヲセシ馬ナリト謂ヒ、或ハ猿牽ノ傳書ノ中ニ葦毛ハ死シテ復蘇リシ馬ナドト云フガ如キハ〔考古學雜誌二卷十號拙稿「勝善神」〕、恐クハ生死二樣ノ信仰ヲ調和セントシタル努力ノ結果ナランカ。【馬醫】猿牽ハ予輩ノ信ズル所ニテハ以前ハ馬醫ヲ兼ネ居タリ。【白樂天】而シテ理想ノ馬醫即チ伯樂ハ能ク死馬ヲ活スコトヲ得タリト信ゼラレシ故ニ、後世ノ俗人ハ又之ト誤解シテ白樂天ヲ崇拜シタリ〔猿屋傳書〕。薩摩國薩摩郡山崎村大字山崎荒瀨ノ馬頭觀音ハ、觀音ト稱シナガラ小サキ祠ニシテ其正體モ二箇ノ石像ナリ。昔玄心玄參ト云フ兄弟ノ馬醫アリ。串木野村ノ人トモ又市來(イチク)ノ者トモ謂フ。死馬ノ既ニ皮ヲ剝ガレタルヲ見テ、此馬尙生氣アリト言ヒ、紙ヲ以テ之ヲ包ミ藥ヲ飮マシムルニ馬忽チ蘇生ス。里人之ヲ見テ必ズ魔法ノ所爲ナラント思ヒ、後ノ害ヲ慮リテ兩人ヲ殺シ、而モ祟ヲ畏レテ之ヲ馬頭觀音ニ祀リタリ。其祭ノ日ハ六月十八日ニテ、夥シキ人馬遠近ヨリ參詣スト云フ〔三國名勝圖會〕。【馬神祭式】羽後南秋田郡北浦町附近ニテハ、以前ハ厩ノ柱ニ鳥居ヲ描キ置ク風習アリキ。馬醫ガ始メテ二歲駒ノ鍼ヲスル時ニ、其血ヲ以テ藁又ハ其駒ノ鬣ニ浸シ、此ノ如キ鳥居ヲ描キテ馬ノ神ヲ祭リシモノナリ〔眞澄遊覽記二十九〕。【鞍塚】近江阪田郡鳥居本村大字原ノ八幡山ノ麓ニ、馬塚鞍塚ノ二ツノ塚ト太子堂トアリ。【聖德太子】此山ノ寶瑞寺俗ニ八幡堂ト稱スル寺ノ緣起ニ依レバ、抑此八幡ハ聖德太子ノ勸請シタマフ所ナリトハ誠ニ驚クべキ事實ナリ。太子ハ何カノ都合ヲ以テ此邊マデ來テ佛敵ト戰ハレシガ、其戰場ニ於テ御乘馬ノ駿足斃レ死ス。【卒都婆】今モ路ノ側ニ有ル二ツノ塚ハ、即チ太子ガ其馬ト鞍トヲ埋メタマヒシ故跡ニシテ、塚ノ上ニ卒都婆ヲ立テヽ供養セシガ故ニ、此地ヲ一ニ又卒都婆ノ里トモ謂フ。然ルニ此馬ノ魂魄永ク留マリ、邑里ニ化現シテ人民ヲ惱マスコト甚シ。之ヲ患ヒテ天朝ニ奏聞スレバ、唯佛力ノミ其災ヲ止ムべシトアリテ、寶瑞寺ヲ建立シタマヒ、千僧ヲ聚メテ施餓鬼ヲ行ヒ且ツ馬千疋ノ布施アリ。【八月十五日】乃チ後ノ例ト爲ツテ八月十五日ニハ此供養ガ執行ハレ、年々馬千疋ノ用途ハトテモ此地方ニテ調ハヌ故ニ、太子ノ臣下ニ橘猪助法名ヲ道專ト云フ者、命ヲ蒙リテ奧州越路ニ下リ其馬ヲ集メタリ。【三人ノ子】道專ニ三人ノ子アリ。長男ハ太子ニ仕ヘ、次男ハ近江ニ下リテ右ノ施餓鬼ノ奉行人トナリ、更ニ奧ノ馬千疋ノ運上ヲ勤メタリト云フ。又一說ニハ、橘猪助ハ病馬ヲ治スルノ法ヲ太子ヨリ受傳ヘテ此村ニ居住ス。後ニ佐藤太郞兵衞入道多入ト稱セシハ實ニ此人ニテ、彥根ノ井伊家ニ奉公セシ佐藤宗兵衞ノ家ハ其子孫ナリト謂ヘリ〔淡海木間攫〕。今此緣起ノ中ニ、若シ眞實ノ部分アリトスレバ、ソハ佐藤ト云フ馬醫ノ家ニ太子ヲ開祖トスル馬ノ神ノ信仰ノ傳ヘラレシ事ト、其家ガ八幡堂ト結合シテ近村ヲ感化シツヽアリシ事グラヰナルべシ。馬醫ノ神馬ニ隨伴スルコトハ古キ慣習ナリ。【馬醫ハ神職】延喜式ヲ見ルニ、平野園韓神其他ノ官社ニ所謂櫪飼馬(イタガヒノウマ)ヲ奉獻スルニハ、必ズ馬寮附屬ノ馬醫ヲ差添ヘタリシモノナリ〔左馬寮式〕。其目的ハ途次ノ急病ナドノ用意ノミトモ思ハレズ、何カ格段ノ仔細アリシコトヽ見ユレバ、神馬ヲ重要視セシ古代ノ信仰ニ馬醫ノ干與シタルモノト想像スルハ不當ニハ非ズ。但シ後世盛ニ馬ノ死靈ヲ說クニ至リテ、之ニ雷同スルコトハ馬醫トシテハ少々見德ガ惡キ爲ニ、所謂白樂天ノ後裔ノミハイツ迄モ馬ノ死セザルコト、又ハ一旦死シタレドモ忽チ蘇生シタルコトナドヲ說キテ、彼等ガ地步ヲ占メントセシナランカ。何レニシテモ聖德太子ガ、僅カナル因緣ノ爲ニ馬ノ祖神トシテ擁立セラレタマヒ、其御馬ノ國々ヲ牽キ廻サルヽハ、思ノ外ノ事ナリケリ。

 

《訓読》

 馬の神の信仰は、必ずしも、死靈にのみは限られてあらず。諸國の駒ケ嶽に活(い)きたる神馬の往來を見ると云ふごとく、越前の穴馬谷(あなまだに)などにも、穴の中に馬ありて、時として谷の口の鹽井(しほゐ)の水を來て飮むと云ふ說あり〔「大野郡誌」〕。【駒と岩屋】多くの巖窟には駒の住むと云ふ口碑、存せり。甲斐西八代郡古關(ふるせき)村大字瀨戶山中の栃木澤(とちのきざは)には、土人が「駒の寢處」と稱する岩穴あり。夏は凉風を起し、冬は暖風を生ずる爲めに、其の中の草のみは、夏、枯れて、冬、繁茂す、と云へり〔「甲斐國志」〕。今ならば、蠶(かひこ)の種紙(たねがみ)でも藏(ざう)し置くべき一つの風穴(ふうけつ)に過ぎざれども、昔の人に取りては濫(みだり)に近づくべからざる靈地なりしなり。【生駒】此等は所謂、「活馬(いこま)の神」の信仰の殘片にして、起原、頗(すこぶ)る古きものなるべきも、塚穴を以つて、悉く葬處と看做す後世となりては、追々と此れをも死馬の幽靈と考ふるがごとき傾向を生ぜしがごとし。多くの馬塚は恐らくは掘つて見れば、何も無く、唯の祭場たる封土(もりつち)に過ぎぬなるべし。馬を一疋埋(うづ)むるは、決して容易の業(わざ)に非ず。故に塚の形の、あまりに小さき場合のごときは、是非無く馬骨を集めて之れを埋めたり、などと云ふなり。陸奧上北郡六ケ所村大字出戶(でど)の口碑に至りては、更に一段の荒唐(こうたう)を加ふ。【巨馬】曰はく、昔、此の村に、常の馬を四つ五つも合せしほどの、大馬(おほうま)、出現して、人を追ひ、牧の馬を、食(くら)ふ。其の大馬の出でたる故に大字「出戶」、之れを捕へて檢分せし故に大字「高架(たこほこ)」、馬の形が平かなりし故に大字「平沼」の地名は生じたり。【七座】又、之れを射殺(いころ)して埋(うづ)めし塚を「七くら」と云ふは、馬の背、長くして、鞍を七つ置くほどなりし故なり、とも傳へたり。【大骨】其の後、領主の命ありて、此の塚を發(あば)き、白骨を取り出だし見るに、背骨の周圍、二尺に餘れり云々〔「眞澄遊覽記」八〕。思ふに「なゝくら」は「七座(なゝくら)」にして、北斗七星の崇拜に基づく名なるべし。【妙見】龍馬を妙見に配することは、前の磐城相馬の例もあるなり。此くのごとき巨大の白骨なるを、如何にして鯨か何かの物に非ざることを確かめ得たりしか、怪しき話なりと言ふべし。此こまで話が進みて來たれば、死馬の祟りよりも、活馬(いきうま)の威力の大なることを認めざる能はず。かの奧州の蒼前神(そうぜんしん)の神體たる白馬は立往生をせし馬なりと謂ひ、或いは、猿牽(さるひき)の傳書の中に、『葦毛は死して、復た、蘇りし馬』などと云ふがごときは〔『考古學雜誌』二卷十號拙稿「勝善神(そうぜんしん)」〕、恐らくは生死(しやうじ)二樣の信仰を調和せんとしたる努力の結果ならんか。【馬醫】猿牽は予輩(よはい)の信ずる所にては、以前は、馬醫を兼ね居たり。【白樂天】而して、理想の馬醫、即ち、伯樂は能く死馬を活(いか)すことを得たり、と信ぜられし故に、後世の俗人は又、之れと誤解して白樂天を崇拜したり〔「猿屋傳書」〕。薩摩國薩摩郡山崎村大字山崎荒瀨の馬頭觀音は、觀音と稱しながら、小さき祠(ほこら)にして、其の正體も二箇の石像なり。昔、玄心・玄參と云ふ兄弟の馬醫あり。串木野村の人とも、又、市來(いちく)の者とも謂ふ。死馬の既に皮を剝がれたるを見て、「此の馬、尙ほ、生氣あり」と言ひ、紙を以つて、之れを包み、藥を飮ましむるに、馬、忽ち、蘇生す。里人、之れを見て、『必ず、魔法の所爲(しよゐ)ならん』と思ひ、後の害を慮(おもんぱか)りて、兩人を殺し、而も、祟りを畏れて、之れを馬頭觀音に祀りたり。其の祭の日は六月十八日にて、夥(おびただ)しき人馬、遠近より參詣すと云ふ〔「三國名勝圖會」〕。【馬神祭式(うまがみのさいしき)】羽後南秋田郡北浦町附近にては、以前は厩の柱に鳥居を描き置く風習ありき。馬醫が始めて二歲駒の鍼(はり)をする時に、其の血を以つて、藁、又は、其の駒の鬣(たてがみ)に浸し、此くのごとき鳥居を描きて、馬の神を祭りしものなり〔「眞澄遊覽記」二十九〕。【鞍塚】近江阪田(さかた)郡鳥居本(とりゐもと)村大字原の八幡山の麓に、馬塚・鞍塚の二つの塚と太子堂と、あり。【聖德太子】此の山の寶瑞寺、俗に八幡堂と稱する寺の緣起に依れば、抑(そもそも)、此の八幡は聖德太子の勸請したまふ所なりとは、誠に驚くべき事實なり。太子は何かの都合を以つて、此の邊りまで來たつて、佛敵と戰はれしが、其の戰場に於いて、御乘馬の駿足、斃れ死す。【卒都婆(そとば)】今も、路の側に有る二つの塚は、即ち、太子が其の馬と鞍とを埋(うづ)めたまひし故跡にして、塚の上に卒都婆を立てゝ供養せしが故に、此の地を、一つに又、「卒都婆の里」とも謂ふ。然るに、此の馬の魂魄、永く留まり、邑里(いうり)に化現(けげん)して、人民を惱ますこと、甚だし。之れを患(うれ)ひて、天朝に奏聞(そうもん)すれば、「唯(ただ)佛力のみ其の災ひを止(とど)むべし」とありて、寶瑞寺を建立したまひ、千僧を衆(あつ)めて施餓鬼を行ひ、且つ、馬千疋の布施あり。【八月十五日】乃(すなは)ち、後の例と爲つて、八月十五日には此の供養が執り行はれ、年々(としどし)馬千疋の用途は、とても此の地方にて調はぬ故に、太子の臣下に橘猪助(たちばなのゐのすけ)、法名を道專(だうせん)と云ふ者、命を蒙りて、奧州越路に下り、其の馬を集めたり。【三人の子】道專に三人の子あり。長男は太子に仕へ、次男は近江に下りて右の施餓鬼の奉行人となり、更に奧の馬千疋の運上を勤めたりと云ふ。又、一說には、橘猪助は、病馬を治するの法を太子より受け傳へて、此の村に居住す。後に、佐藤太郞兵衞入道多入と稱せしは實に此の人にて、彥根の井伊家に奉公せし佐藤宗兵衞の家は其の子孫なりと謂へり〔「淡海木間攫(あふみこまざらへ)」〕。今、此の緣起の中に、若(も)し眞實の部分ありとすれば、そは、佐藤と云ふ馬醫の家に太子を開祖とする馬の神の信仰の傳へられし事と、其の家が八幡堂と結合して、近村を感化しつゝありし事ぐらゐなるべし。馬醫の神馬に隨伴することは古き慣習なり。【馬醫は神職】「延喜式」を見るに、平野・園韓神(そのからのかみ)其の他の官社に、所謂、「櫪飼馬(いたがひのうま)」を奉獻するには、必ず、馬寮(めれう)附屬の馬醫を差し添へたりしものなり〔「左馬寮式」〕。其の目的は途次(とじ)の急病などの用意のみとも思はれず、何か格段の仔細ありしことゝ見ゆれば、神馬を重要視せし古代の信仰に馬醫の干與(かんよ)[やぶちゃん注:「關與」に同じい。]したるものと想像するは不當には非ず。但し、後世、盛んに馬の死靈を說くに至りて、之れに雷同することは、馬醫としては、少々、見德が惡き爲に、所謂、白樂天の後裔のみは、いつまでも馬の死せざること、又は、一旦、死したれども忽ち蘇生したることなどを說きて、彼等が地步を占めんとせしならんか。何れにしても、聖德太子が、僅かなる因緣の爲めに、馬の祖神(そしん)として擁立せられたまひ、其の御馬(おんうま)の國々を牽き廻さるゝは、思ひの外の事なりけり。

[やぶちゃん注:「越前の穴馬谷(あなまだに)」既出既注

「谷の口の鹽井(しほゐ)」前注のリンク先を見て貰いたいが、ここは嘗つてあった村落が九頭竜ダムの湖底に沈んでおり、そこから移した新しい「穴馬神社」もあるのであるが、そう考えるなら、この谷も、岩塩性の塩水井戸も湖底に沈んでしまっている可能性が高い。なお、馬は人間と同じく、汗をかく数少ない動物であり、発汗によって塩分が失われるため、塩水や塩を好む。

「甲斐西八代郡古關村大字瀨戶山中の栃木澤(とちのきざは)」現在の南巨摩郡身延町(ちょう)瀬戸はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「蠶(かひこ)の種紙(たねがみ)」蚕卵紙(さんらんし)。蚕蛾に卵を産み付けさせた紙。「蚕種紙」とも言う。半紙を十枚位合わせた厚地の和紙を用いる。蚕卵紙は、幕末から明治初年にかけて、当時のヨーロッパに微粒子病が蔓延して健全な蚕種を海外に求めたため、本邦の重要な輸出品となったが、この盛況は同時に蚕種の粗製濫造の弊害を激化し、輸出は明治八(千八百七十五)年頃から減少していった。蚕卵紙の生産は長野・埼玉・山形・群馬・福島の諸県に多く、その生産販売に関する者は富農層に多かった(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。この洞窟は、その叙述から、夏冬の温度・湿度がある程度、一定であると考えられ、蚕卵紙の質を守るのによいということであろう。

「陸奧上北郡六ケ所村大字出戶(でど)」青森県上北郡六ヶ所村出戸おぞましいウラン濃縮工場の北直近である。巨大な人馬を襲う怪獣のような妖馬は、実に、今でこそ出現しておかしくない場所となってしまったのではないか?

「高架(たこほこ)」不詳。

「平沼」六ヶ所村の出戸のずっと南の方に、青森県上北郡六ヶ所村平沼高田の地名が残る。地図を西北方向に動かすと、田面木沼(たもぬぎま)の北に下っている平沼川も現認出来るから、この附近である。

『之れを射殺(いころ)して埋(うづ)めし塚を「七くら」と云ふ』不詳。この塚の位置は是非とも知りたいねえ。識者の御教授を乞う。さても、当然、矢で射殺したのだろうな。因みに、米軍内では有意な核事故に対して、縁起でもない不吉な軍事用コード・ネームがいろいろついているのはご存じか? 例えば――「巨馬」ならざる「Faded Giant」(消えた巨人)――或いは――Broken Arrow」(折れた矢)――だ。あそこは原子エネルギ再生施設で核兵器じゃないって? あそこにはフランスから厄介払いされたプルトニウムをふんだんに含む極めて危険な高エネルギ廃棄物が貯蔵され、再処理施設ではプルトニウムをそうしたものから抽出することになっている(が、一度も再処理なんかされていないんだ、机上の論理の再処理システムそのものが実は実際には出来ない相談なのだ)は知っているね? 而して、IAEA(国際原子力機関:International Atomic Energy Agency)が、現在只今、世界で一番、核兵器を有意に製造可能な国として最も警戒している国は、どこか、知っているかね? 朝鮮民主主義人民共和国? いやいや! 日本なんだよ! 日本が国内外に保有している「高エネルギ廃棄物」と呼んでいる物質はだね、その気さえあれば、即座に軍事転用されて、核兵器を多量に製造できるからなんだよ……

「北斗七星の崇拜」平凡社「世界大百科事典」によれば、「史記」の「天官書」などの記述によれば、北極星は「天帝太一神」の居所であり、この星を中心とする星座は、天上世界の宮廷に当てられて「紫宮」「紫微宮」と呼ばれ、漢代には都の南東郊の「太一祠」に於いて、しばしば「太一神」の祭祀が行われた。その後、讖緯(しんい)思想(前漢から後漢にかけて流行した未来予言説。「讖」は未来を占って予言した文、「緯」は経書(けいしょ)の神秘的解釈の意で、自然現象を人間界の出来事と結びつけ、政治社会の未来動向を呪術的に説いたもの。日本にも奈良時代に伝わり、後世まで大きな影響を与えた)の盛行につれて、後漢頃には「北辰北斗信仰」が星辰信仰の中核を成すようになり、「北辰」は「耀魄宝(ようはくほう)」と呼ばれ、群霊を統御する最高神とされた。これを受けた道教では、「北辰」の神号を「北極大帝」「北極紫微大帝」「北極玄天上帝」などと称し、最高神である玉皇大帝の命を受けて星や自然界を司る神として尊崇した。これは同時に、人間の命運は生年の干支で決まる「北斗」の中の「本命星」の支配下にあるとする考え方も定着し、「北斗神」が降臨し、行為の善悪を司察し、寿命を記した台帳に記入すると考えられるようになり、「庚申」や「甲子」の日に「醮祭(しょうさい)」(星祭(ほしまつり))をすることで、長寿を得、災厄を免かれるとも考えられた。この「北斗信仰」は早く日本にも流入し、平安以来、宮中での「四方拝」に天皇自らが「本命星」を拝し、その神名を称えた。また、「北斗信仰」は当時の密教でも重視され、北極・北斗の本地とされる「妙見菩薩」を祀る妙見堂が各地に建てられた、とある。

「磐城相馬の例」先行する、こちら

「此くのごとき巨大の白骨なるを、如何にして鯨か何かの物に非ざることを確かめ得たりしか、怪しき話なりと言ふべし」こういう皮肉を言うなら、柳田先生の嫌いな古墳が、どうして、発掘もされないのに、大昔の天皇の陵墓に非学術的に、あんなに、やすやすと同定比定されてきたんでしょうかね? そうそう、それに先生の嫌いな古墳の中でも民俗社会と接点を持たなくなった古墳なんぞは、考古学者が五月蠅く言う前に、先生が御存命の頃から不動産業者が完膚なきまでに、大方、破壊してしまいましたよ、よかったですねぇ、柳田先生。

「『考古學雜誌』二卷十號拙稿」「勝善神(そうぜんしん)」明治四五(一九一二)年六月発行の『考古學雜誌』発表。現在の「ちくま文庫」版の私が参考にしている、本「山島民譚集」の含まれている「柳田國男全集」第五巻に「勝善神」として載る。私は電子化する予定はない。悪しからず。

「薩摩國薩摩郡山崎村大字山崎荒瀨の馬頭觀音」現在、同地区の鹿児島県薩摩郡さつま町山崎の村社保食(うけもち)神社に合祀されて祀られてある。「鹿児島県神社庁」公式サイト内の当該神社の解説に、『由緒創建は不詳となっているが、往古、境内に飯富大明神が祀られており明治初年廃仏毀釈の時、郷社飯富神社に合祀され、馬頭観音堂及び其の付近の石塔を整理して保食神社と創建した』とあり、しかも何と、この神社、通称「馬頭観音」とあるのである。まずは、よかった。ちょっとその二像を見てみたい気がしてきた。

「串木野村」鹿児島県いちき串木野市

「市來(いちく)」上記地区のこの附近。但し、現行は「いちき」である。

「其の祭の日は六月十八日」現在も行われているかどうかは不明。

「近江阪田(さかた)郡鳥居本(とりゐもと)村大字原の八幡山の麓に、馬塚・鞍塚の二つの塚と太子堂と、あり」現在の滋賀県彦根市鳥居本町はここであるが、その南域外直近の彦根市原町にある原八幡神社の境内に「寶瑞寺」はあったものの、「サンライズ出版」公式サイト内の『歌枕に残る「不知哉川」』に、『聖徳太子建立の伝承を持つ永光山宝瑞寺がありましたが、明治の神仏分離で廃寺となりました。その後、中興開山の墓石などわずかにその姿をとどめていましたが、近年の神社境内の整備に際して供養塔が建立されました』とあった。しかし、「原町マップ」PDF)を見ると、再建と思われるものの、同神社境内には「太子堂」があり、聖徳太子像が『二体安置されているお堂で、過去にこの町から出征され、戦死された方々の霊を慰めて』いるとし、さらに、宝瑞寺を偲ぶよすがとして「宝瑞庵」なるものがあって、『聖徳太子と守屋連』(もりやのむらじ)『との戦いで戦死した多くの人馬を供養するため』、『太子はこれを悼み』、『「馬塚・鞍塚」を築き』『供養』したという解説があり、同マップの右下には大きく『原八幡神社神馬』のイラストがあるから、伝承はしっかり残されていることが判った。ただ、考えてみると、この聖徳太子の馬が妖馬となって害を成すというのは、仏法布教に太子自身の伝承にとっては根本的に(寺院建立と祭祀によって鎮魂するという結末を迎えたとしても)玉に傷であって、私にはどうも腑に落ちない。これは或いはそれ以前の全く異なる馬に纏わる怨霊伝承があったものを強引に纏めてしまったものではないかとさえ思えてくるのである。

「橘猪助(たちばなのゐのすけ)、法名を道專(だうせん)と云ふ者」不詳。

「道專に三人の子あり。長男は太子に仕へ、次男は近江に下りて右の施餓鬼の奉行人となり、更に奧の馬千疋の運上を勤めたりと云ふ」「更に」三男が「奧の馬千疋の」実際的「運上」の差配「を勤めたりと云ふ」ではないのか?

「佐藤太郞兵衞入道多入」不詳。

「彥根の井伊家に奉公せし佐藤宗兵衞」不詳。

「延喜式」「弘仁式」・「貞観式」以降の律令の施行細則を取捨し、集大成したもの。全五十巻。三代式の一つ。延喜五(九〇五)年、醍醐天皇の勅により藤原時平・忠平らが編集。延長五(九二七)年に成立し、康保四(九六七)年に施行された。

「平野」京都府京都市北区平野宮本町にある平野神社。ウィキの「平野神社」によれば、『

平安京遷都から遠くない時期に創建されたものと考えられて』おり、「延喜式」の「神名帳」では、『山城国葛野郡に「平野祭神四社 並名神大 月次新嘗」として、名神大社に列するとともに月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている』とある。

「園韓神(そのからのかみ)」平安京宮内省内に祀られていた園神と韓神。園・韓神は平安京造営以前よりこの地にあり、帝王を守らんとの神託により、他所に移さずに祀られた。「延喜式」の「神名帳」には『宮内省に坐(いま)す神三座』として、『園神社・韓神社二座』とあり、孰れも官幣の大社であった。韓神は「古事記」の「上巻(かみつまき)」には、大年神(おおとしのかみ)の子と見えているが、園神は大物主神、韓神は大己貴神と少彦名神の二神で。これらの神は疫病から守る神ともされている。

「櫪飼馬(いたがひのうま)」「櫪」は「飼葉桶(かいばおけ)」或いは「馬小屋」「厩」の意で、放し飼いのものに対して、厩で飼養した、則ち、ここでは神馬として奉納するために特別に飼った馬を指す。既に出た「馬櫪神(ばれきじん)」への奉納馬。

「馬寮(めれう)」律令制の官司の一つ。「まりょう」とも「うまのつかさ」とも読み、唐名では「典厩(てんきゅう)」に当てる。左右二寮あり、厩にいる官馬の飼育・調教・御料の馬具・飼葉の穀草の配給・飼部(しぶ)の戸口の名籍(みょうじゃく:名簿。地位・姓名・年齢などを書き記したもの)を司った。職員には頭(かみ)一名・助(すけ)一名・大允(だいじょう一名・少允一名・大属(だいさかん)一名・少属一名の四等官の他、その下に、馬医二名・馬部(めぶ)六十名・使部(つかいべ)二十名・直丁(じきちょう)二名や、雑戸(ざっこ)の飼丁(しちょう)が所属した。後には令外の官として馬寮御監(みげん)や史生(ししょう)が置かれた(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「見德」公的・準公的な意味での認識(ここでは「見栄え」)のこと。]

淸泉 すゞしろのや(伊良子清白)

 

淸 泉

 

 

  さゝの葉

 

君かさしたる盃を、

われもかへして酌みつれど、

敷かさなればおのづから、

さためがたくも成りにたり。

 

くれなゐ深くわが頰の、

もゆるばかりにおもふまで、

醉ひに醉ひたる折なれば、

物をもわかずなれるかな。

 

われはわすれぬ君ゆゑに、

都の空をあとに見て、

かゝる深山の奧ふかく、

 

柴かる賤とやつれしも。

われはわすれぬ夜もすがら、

花ちる陰にたゞずみて、

君かかきなす琴の音に、

こがれよりつるいにしへも。

 

 

  園生の淸水

 

園生の淸水ながれては、

君かみ他におつるとき。

花の姿のうつるやと、

にごしもやらぬわが心。

 

中の柴垣ひまあらみ、

ながれてくぐる眞淸水に、

せめて一夜はみをかへて、

君と相見んすべもがな。

 

 

  ふりわけ髮

 

今日や皈るとわが君の、

浦の洲崎にたちいでゝ、

松の葉越にわが船の、

見ゆるをいつとまつならむ。

 

松の老木にみをよせて、

わかれしあとをかたりなば、

つもるはなしのつきずして、

そこにぞやがて暮れぬべき。

 

ひいな飾りしわらはべの、

むかしのさまもわすれねど、

花にもまさるおもばせの、

今のすがたやいかならむ。

 

菫菜つまんと春の野に、

君をさそはゞそのかみの、

わらべあそびをそのまゝに、

うなづきますやはぢらはで。

 

あはれたらちの父母が、

ふりわけ髮のいにしへに、

結びたまひし妹と背の、

まことのちぎり結ばんと。

 

めさせ給ひし玉章に、

學のまどもあとにして、

都の空を立ちはなれ、

皈ると君は知りますや。

 

 

  峯のまつかぜ

 

みねの松風吹きたえて、

たぎち流るゝ瀧津瀨の、

音たちあくるあけぼのゝ、

谷閒がくれのひとついほ。

 

朝たちさわぐ群島の、

羽うつかぜに霧はれて、

みねのあなたにあかあかと、

のぼる朝日のうらゝかさ。

 

筧の淸水くみあげて、

口そゝぐまに我妹子の、

かしぐ朝飯のうす煙、

松の木のまに立ちのぼる。

 

手に手をとりてわぎ妹子と、

こゞしきみちを行きゆけば、

ふみもならはぬいにしへの、

わがみの上をしのばれて。

 

思へば君をわぎ妹子と、

はじめてよびしその折よ、

君はいたくもはぢらひて、

おもてを袖におほひしよ。

 

むかしはわれも九重の、

玉のうてなにときめきて、

雲の上なるまじらひに、

限もしらず榮えしが。

 

小柴かるてふ山がつの、

君のすがたを見てしより、

大内山をぬけいでゝ、

わりなき道にやつれてき。

 

山わけ衣袖さむみ、

なれてもつらき山賤に、

おのが姿をかへてより、

ひさしくなりぬいつしかに。

 

峰の妻木をこるひまに、

日影は西にかたふきて、

ひろひ集めし枯柴を、

背負ひて皈る谷のみち。

 

今日の一日もくれはてゝ、

谷の小川のさゝやぎも、

尾上の松のおとなひも、

夕暮ふかくなりにけり。

 

ゆあみも終へて我妹子と、

圍爐裏の焚火かこみつゝ、

へたてぬ中をかたりあふ、

わかかくれ家のたのしさよ。

 

[やぶちゃん注:本篇は明治三〇(一八九七)年二月十一発行の『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。初篇「さゝの葉」の第一連終行の「さためがたく」はママ。]

水馴棹 蘿月(伊良子清白)

 

水 馴 棹

 

さゞれ浪こす磯崎の、

   淸き渚にほど近く、

濱の御殿と名によびて、

   玉の宮居ぞたてるなる。

 

塵だにすえぬ高殿に、

   小簾まき上げてすめ御子が、

あつささけさせ給ふなる、

   今年の夏もふけにけり。

 

軒の濱荻風見えて、

   夕べ涼しくなりぬれば、

月にうかれて皇子の、

   やがてひとりぞいでたゝす。

 

さすもさやけき月影に、

   濱の眞砂もかゞやきて、

御裳の裾をぬらしつゝ、

   しづかに浪もよするなり。

 

吹かせ給へる笛の音の、

   いよいよ淸くなりなべに、

おもほす事もなかるらむ、

   更くるもしらに行かすなり。

 

磯馴まつのかげ白く、

   蘆の花咲く岸の邊に、

海士の小舟ぞたゞよへる、

   淸き少女の棹とりて。

 

賤のをとめよその舟に、

   まろものせてとの給へば、

綾の御袖のま近きに、

   少女はいとゞかしこみて。

 

    *  *  *  *

 

浪のまにまに棹させば、

   吹くや御裳の風きよく、

夏をよそなる月影に、

   なびく玉藻も見ゆるなり。

 

吹かせ給へる笛の音は、

   ふけ行くなべに聲澄みて、

雲井に遠き久方の、

   月のみやこに通ふなり。

 

ちりのこの世は忘られて、

   げにおもしろき月のかげ。

あはれ少女よ二人して、

   千代もながめむすべもがな。

 

きくにかしこきすめみ子の、

   ふかきことばを賤の女は、

樟とる手さへわすられて、

   夢かとのみやたどるらむ。

 

    *  *  *  *

 

八重の潮路の末遠き、

   はなれ小島の松陰の、

蘆のとま屋にたゞ二人、

   海士の妹背ぞすまふなる。

 

浦邊づたひに妹と背が、

   あゆめる影もむつまじく、

手に手をとりて今日もまた、

   語らひながらかへり行く。

 

背なる男の子はふるびたる、

   笛とりいでゝ吹きなせば、

しめるか聲のたえだえに、

   さびしき節もきこゆなり。

 

思ひかけきや九重の、

   玉のうてなの笛の音を、

人げたえたる荒磯の、

   浪のしらべに合はすとは。

 

あはれ我妹子しばしきけ、

   一年夏のわびしきに、

大内山をあとにして、

   濱の御殿に行幸しぬ。

 

さやけき月のをかしきに、

   うかれいでたるその夕べ、

君と二人が船うけて、

   すゞみし折は夢なれや。

 

にわかに風の吹きあれて、

   雨さしそはる夜もすがら、

行ゑもしらず流れきて、

   いつしかつきぬ離れじま。

 

汐風さむき小衾に、

   語りあかしてしのぶれば、

わが故鄕の戀しくて、

   袖になみだのこぼれけり。

 

玉のうてなも百敷も、

   たかき位もわすられて、

昔の人にあらねども、

   賤の手業にやつれてき。

 

朝は山に妻木こり、

   夕べはうみに釣たれて、

いつしかすぐる年月を、

   馴るゝともなく馴れにけり。

 

君のこゝろのうれしさに、

   かたみにかはす眞心を、

結びそめたる妹と背の、

   戀てふ中となりにけり。

 

かゝる島邊にながれきて、

   二人くらすも前の世に、

君を戀ふてふ妹と背の、

   ふかき緣やありつらむ。

 

あはれわき妹子とことはに、

   流肌るゝ水のかはりなく、

ちぎりかはしてこの島に、

   二人くらさむ老ゆるまで。

 

こをうちきゝて少女子は、

   花のすがたもなまめきて、

ゑむもやさしきかほぼせに、

   くれなゐ深くにほふなり。

 

いま一ふしと吹きさすや、

   笛のしらべもいやすみて、

夕ぐれ淸き浦風に、

   磯うつ浪の音たかし。

 

とまやの軒にたゞずみて、

   海原遠くながむれば、

濱松が枝にいざよびて、

   今しものぼる月の影。

 

[やぶちゃん注:ここより明治三〇(一八九七)年パートに入る。四月に京都医学校三年に進級、また、この年中に刊行された医学校校友会会誌の創刊号の編集に加わっている。この年の十月四日で満二十歳。本篇は明治三十年一月十日発行の『靑年文』掲載。署名は「羅月」。

 第二連「すめ御子」の「すめ」は接頭語で、神や天皇に関わる語に付いて、尊(たっと)んで褒めたたえる意を添える。]

和漢三才図会巻第三十九 鼠類 隱鼠(ぶたねずみ) (幻獣)

Butanezumi

 

ぶたねすみ 鼹鼠 偃鼠 鼠母 鼳【音菊】

隱鼠

 

本綱隱鼠在山林中而獸類非鼠之儔大如水牛形似猪

灰赤色脚類象而驢蹄口鋭胸前尾上白色有力而鈍性

畏狗見則主水災【梁書云倭國有山鼠如牛又有大蛇能吞之蓋日本未聞有如此者其何物耶】

 

 

ぶたねずみ 鼹鼠〔(えんそ)〕 偃鼠〔(えんそ)〕

      鼠母 鼰〔(けき〕【音「菊」。】

隱鼠

[やぶちゃん注:「〔(けき〕」の音には「ケキ」の他には「ギヤク」「キヤク」しかなく、音を「菊」とするのは不審である。「本草綱目」では反切で「古役」とする。「広韻」の反切は「古聞」であるから、これはこの「聞」を「菊」と良安が誤った可能性が考えられるか。

 

「本綱」、隱鼠、山林の中に在りて、獸の類ひにして、鼠の儔(ともがら)[やぶちゃん注:仲間。]に非ず。大いさ、水牛のごとし。形、猪に似る。灰赤色。脚、象に類して、驢〔(ろば)〕の蹄〔(ひづめ)〕。口、鋭く、胸の前・尾の上、白色。力、有りて、而〔れども〕鈍し。性、狗を畏る。〔この姿を〕見るときは、則ち水〔の〕災〔ひ〕を主〔(つかさど)〕る[やぶちゃん注:この動物が姿を表わすと甚大な水害が齎される。]【「梁書」に云はく、『倭國、山鼠有り、牛のごとし。又、大蛇、有り、能く之れを吞む』〔と〕。蓋し、日本に、未だ、此くのごとき者有るを聞かず。其れ、何物(〔も〕)〔なる〕や。】。

[やぶちゃん注:前「鼢(うころもち)」でフライングした通り、こっちについては幻獣(そもそもがだ! 時珍自身が「鼠の類じゃない」と言っているのだ!)としか言いようがないのだが、しかし、最後でなんと! 日本にこれに類した「山鼠」というのがいるっ言(つ)うじゃないの!?! ここまでくれば、取り敢えず、拘って調べるしかあるまい、と、「隱鼠」で画像検索を掛けると、一見、毛のない(実はある。後述)、上顎前歯二本がイヤミのように出歯った、なんとも「キモ可愛い」と言うしかない小さなネズミがワンサカ出てくるので、さらにこれを中文サイトで調べてみたところ、まさに「裸鼴鼠」とし、学名を「Heterocephalus glaber」としてあった。これは齧歯(ネズミ)目 Hystricomorpha 亜目ヤマアラシ顎下目デバネズミ科ハダカデバネズミ属ハダカデバネズミ Heterocephalus glaber と判明した(一属一種)ウィキの「ハダカデバネズミ」によれば(太字は私が附した)、分布はエチオピア・ケニア・ジブチ・ソマリアで、体長は十・三~十三・六センチメートル、尾長は三・二~四・七センチメートル、体重は九~六十九グラムで、『体表には接触に対して感度の高い細かい体毛しか生えていない』。『属名Heterocephalusは「変わった頭部、変な頭部」の意』で、『種小名glaberは「無毛の、毛のない」の意で』、『和名や英名(naked=裸の)とほぼ同義。口唇が襞状で』、『門歯の後ろで閉じるようになっており、穴を掘るときに土が口内に侵入するのを防いでいる』。『体毛が無いことや』、『環境の変動が少ない地中で生活するためか、体温を調節する機能がなく』、『体温も低い』。『完全地中棲』で、十匹以上二百九十匹以下(平均七十五~八十匹)もの、『大規模な群れ(コロニー』(colony)『)を形成し』て生活している。『後述するように』、『本種は哺乳類では数少ない真社会性の社会構造を持つ(哺乳類で真社会性を持つものは他に』同じデバネズミ科 Bathyergidae の『Cryptomys damarensis』(デバネズミ科 Fukomys 属ダマラランドデバネズミ Fukomys damarensis)『が知られる』『)。群れの中で』一『つのペアのみが繁殖を行い、群れの多くを占める非繁殖個体のうち』、『小型個体は穴掘りや食料の調達を、大型個体は巣の防衛を行う』。『門歯で穴を掘り、後肢を使い掘った土を後ろへ掻き出す』。『地表へ土を排出する際も、後肢を使い勢いよく』、『土を蹴り出す』。『複数の個体により』、『穴掘り・トンネル内の土の運搬・地表への土の排出を分担して行う』。六十 ~七十匹のコロニーでは、実に長さ約三キロメートルに『達する巣穴も確認されている』。『地中は温度の変動が少ないが』、『体温が低くなると』、『密集したり、逆に体温が高くなると』、『トンネルの奥へ避難する』。『植物食で、地下植物や植物の根を食べる』。『幼獣は成獣の排泄物も食べる』。『捕食者はヘビ類が挙げられ、掻き出した土の匂いを頼りに巣穴に侵入したり』、『土を掻き出している最中の個体を捕食する』。『群れの中でもっとも優位にある』一『頭の雌(繁殖メス)と』、一『頭または数頭の雄のみが繁殖に参加する。妊娠期間は』六十六~七十四日で、『飼育下では』八十『日の間隔を空けて』、『幼獣を産み』、一『回に最大』二十七『頭の幼獣を産んだ例がある』『野生下・飼育下でも年に』四~五『回に分けて』五十『匹以上の幼獣を産む』。『繁殖メスが死んだ場合は』、『巣内が平和であれば』、『複数のメスの性的活性が活発化するものの、そのうち』、一『匹のメスのみが急に成長し』、『争いも起こらず』、二~三『週間ほどで繁殖を行い』、『新しい繁殖メスになる』。『そのため』、『繁殖メスによる化学物質(フェロモン)が群れ全体に作用し』、『他の個体の繁殖が抑制されていると考えられ、集団で排泄を行う便所での尿や』、『巣内での集合場所で密着することで』、『フェロモンを発散している可能性が示唆されている』。『授乳は繁殖メスのみが行うが、幼獣の世話は群れの他個体も参加して行われる』。『飼育下の寿命は』十五『年以上で、繁殖メスでは最長で』二十八年二ヶ月の『生存記録もある』(これは齧歯類では特異的に驚異的長命と言える)。『巣の中で産まれた個体は同じ巣に留まってワーカーや繁殖個体になることが多いので、巣内で近親交配が繰り返されることになる。そのため』、『巣内の個体間の血縁度が非常に高くなる』。『これが本種の真社会性の進化を促したとする説がある(血縁選択による血縁利他主義の進化)一方で』、『親による操作説のほうが上手く説明できる証拠も示されており(女王による監視など)、議論が続いている』。『老化に対して』は『耐性があり、健康な血管機能を維持できる』。『その長寿の理由は議論されているところではあるが、生活環境が厳しい時に代謝を低下させる能力があり、それが酸化による損傷を防いでいると考えられる』。『その驚異的な長寿ゆえ、ハダカデバネズミのゲノム解析に努力が払われている』。『ハダカデバネズミは』癌『に対して高い耐性を示し、ハダカデバネズミに』癌『が発見されたことはなかった。このメカニズムは、一定のサイズに達した細胞群に新たな細胞を増殖させない「過密」遺伝子として知られているp16という遺伝子が』、癌『を防いでいるものである。ハダカデバネズミも含めたほとんどの哺乳類は、p16が活動するよりもかなり遅れた時期に活動する細胞の再生を阻害するp27と呼ばれる遺伝子を持っている。ハダカデバネズミにおいては、p16p27の共同作用が』、癌『細胞の形成の阻害としての二重防壁を形成している』。『ハダカデバネズミの産生するヒアルロン酸ががんに対する耐性の一因であるという報告もある。ハダカデバネズミのヒアルロン酸はヒトやマウスなどの他の哺乳類に比べ』、五『倍以上高分子で』、『さらに密度が高く、High-Molecular-Mass Hyaluronan (HMM-HA) と名付けられた。このHMM-HAのノックアウト、もしくはヒアルロン酸分解酵素の過剰発現により』、癌『感受性になることから、HMM-HAのがん耐性に対する関与が報告されている』。『現在では飼育個体においてハダカデバネズミの』癌『の症例が発見されている。ただし、この事はハダカデバネズミの高い』癌『耐性を否定するものではない』。さらに、二〇一七年四月に『科学誌『サイエンス』電子版に発表された研究結果によると、ハダカデバネズミは酸素がない環境で』十八『分も耐え、大きなダメージも残らなかったという』。『無酸素状態になった際、通常の酸素呼吸とは別の仕組みでエネルギーを生み出したとみられ』、『研究チームは「心臓病などで、無酸素状態になった際に起こる損傷を防ぐ治療につながる可能性がある」としている。チームはマウスとハダカデバネズミを使い、それぞれ酸素濃度が』五%と〇%(無酸素)の『状態において』、『様子を観察した。その結果、マウスはいずれの条件下でも間もなく死んだのに対し、ハダカデバネズミは酸素濃度』五%は五時間、無酸素下でも十八分間、『耐えることができた』。無酸素下では『心拍数は大きく低下し』、一『分間に』五十『回程度になったとい』い、また、『無酸素状態では、ハダカデバネズミの体内で糖類の一種の果糖が増えていることが確認できた。通常時のエネルギー源であるブドウ糖の代わりに』、『果糖を使って、脳や心臓といった生存に関わる組織にエネルギーを供給していると考えられる』とある(彼ら、侮れん!!!)。と言っても、サイズ、小さ! 本種のモデルになるには小さ過ぎるし、だいたいからして中国におらんて!……因みに、とある御仁はこれをかの「トトロ」の実在証拠とされておられたことを言い添えておく。但し、残念乍ら、私の尊敬する手塚治虫先生の追悼すべき記事に於いて、アニメーションをだめにしたとする批判(しかし概ねその理屈は正しいのだが)のみを語って平気の平左であった忌まわしい宮崎駿を私は永久に認めない人間である。悪しからず

「梁書」南朝梁の正史。盛唐の姚思廉撰。全五十六巻。六三六年頃の成立。記述は公平で、引用文以外は叙事に適した古文を用いている。梁代の研究に最も重要な書物とされる。当該箇所は「巻第五十四」の「列傳第四十八 諸夷海南諸國 東夷 西北諸戎」の一節。太字は私が附した。

   *

倭者、自云太伯之後、俗皆文身。去帶方萬二千餘里、大抵在會稽之東、相去絕遠。從帶方至倭、循海水行。歷韓國、乍東乍南、七千餘里始度一海。海闊千餘里、名瀚海、至一支國。又度一海千餘里、名未盧國。又東南陸行五百里、至伊都國。又東南行百里、至奴國。又東行百里、至不彌國。又南水行二十日、至投馬國。又南水行十日、陸行一月日、至祁馬臺國。卽倭王所居。其官有伊支馬、次曰彌馬獲支、次曰奴往鞮。民種禾稻籥麻、蠶桑織績。有姜・桂・橘・椒・蘇、出黑雉・眞珠・靑玉。有獸如牛、名山鼠。又有大蛇吞此獸。蛇皮堅不可斫、其上有孔、乍開乍閉、時或有光、射之中、蛇則死矣。物產略與儋耳、朱崖同。地溫暖、風俗不淫。男女皆露紒。富貴者以錦繡雜采爲帽、似中國胡公頭。食飮用籩豆。其死、有棺無槨、封土作塚。人性皆嗜酒。俗不知正歲、多壽考、多至八九十、或至百歲。其俗女多男少、貴者至四五妻、賤者猶兩三妻。婦人無淫妒。無盜竊、少諍訟。若犯法、輕者沒其妻子重則滅其宗族。

   *]

薔薇 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    薔  薇

 

 八月の末……秋はもう迫つてゐた。

 太陽は沈みかけてゐた。はげしい驟雨(ゆふだち)が雷鳴(かみなり)も電光(いなびかり)も伴はないで、今しも此の廣野を颯と過ぎて行つた。

 家の前の庭園は夕紅(ゆふやけ)の光と雨後(うご)の行潦(にはたづみ)とにすつかり燃え立つて、水蒸氣をあげてゐた。

 彼女は客間の卓子(テエブル)に向つて、ぢつと思ひに耽つて、半ば開かれた扉から庭園(には)を眺めてゐた。

 私はその時彼女の心に思つてゐることを知つてゐた。私は彼女が暫しではあつたが烈しい苦鬪ののち、この瞬間に最早その打克つことの出來ない或る感情に屈服してしまつたことを知つてゐた。

 突然彼女は立上つて、急いで庭園(には)に出て行つて、見えなくなつてしまつた。

 一時間たつた……また一時間。彼女は歸らなかつた。

 そこで私は立上つて、外(そと)へ出て、彼女が通つて行つた並本道ヘ―其處を行つたに違ひない――向つた。

 あたりはとつぷり暮れて、もう夜(よる)になつてゐた。けれども步道(みち)の濡れれた砂の上に私は何だか圓いやうなものを認めた――それは暗を透してさへくつきり紅(あか)かつた。

 私は身を屈(かゞ)めた。それは鮮かな咲き立ての薔薇であった。二時間前彼女の胸に見たその薔薇であった。

 私はそつとその泥の中に落ちてゐた花を拾(ひろ)ひ上げて、そして客間に戾つて、それを卓子(テエブル)の彼女の椅子の前に置いた。

 するととうとう彼女も歸つて來た。輕い足どりで部屋一杯に橫ぎつて、卓子に向つて腰をかけた。

 彼女の顏は一層蒼(あを)く、また一層生々(いきいき)してゐた。いくらか小さく見える彼女の眼は嬉しさにどぎまぎしたやうに、伏目がちに忙しげにあたりを見廻してゐた。

 彼女は薔薇を見ると、それを取上げて、くしやくしやになつて汚(よご)れたむ花瓣(はなびら)を眺め、私を眺めた。そしてその眼は急にぢつと据わつて、淚が輝いた。

『何故(なぜ)泣くのです?』と私は訊(き)いた。

『まあ此の薔薇を御らんなさい。こんなになつてしまひましたわ』

 その時私は何か意味深いことを言はうと思ひ附いた。

『あなたの淚はその泥を洗ひませう』と私は意味ありげに言つた。

『淚は洗ひはしません、燒いちまひますわ』と彼女は答へた、そして壁煖爐(カミン)の方へふり向いて、消えかゝつてゐる焰(ほのほ)の中に蕎薇を投(な)げ込(こ)んだ。

『火は淚よりもよく燒きますわね』と彼女は氣輕に叫んだ。そして彼女の愛らしい眼は、やつぱり淚で輝いてはゐたが、氣輕に樂しさうに笑つた。

 私は思つた、彼女もまた火の中にゐたのであると。

    一八七八年四月

 

[やぶちゃん注:「壁煖爐(カミン)」Kamin。ドイツ語「カミーン」で、壁に据え付けた煙突附きの暖炉を指す。これによって、本篇は「序」で生田が言っているドイツ人と思われる翻訳家(恐らくはヴィルヘルム・ランゲ(Wilhelm Lange))のドイツ語訳を用いているものと判る。]

太平百物語卷五 卅九 主部隼太化者に宿かりし事

501

 

太平百物語卷之五

   ○卅九 主部隼太(とのべはやた)化者に宿かりし事

 伊豫の國に主部隼太といふ者あり。

 川(かはの江(ゑ)といふ所より、松山に用ありて行(ゆく)とて、東空(しのゝめ)の比(ころ)、宿(たど)を立出(たちいで)て、道を急ぎけるが、凡(およそ)、四、五里も行とおもへば、俄に、日、暮たり。

 隼太、おもふ樣、

『日は未(いまだ)午(むま)の刻には過(すぐ)べからず。然(しか)るに、かく、日の暮ける事のふしぎさよ。』

とおもひ、向かふの方(かた)をみれば、農人(のふにん[やぶちゃん注:ママ。])の家(いへ)と見へて、灯(ともしび)の光、幽(かすか)に見へけるを便りて、表を叩きければ、内より、あやしげなる老女、立(たち)いで、

「たぞ。」

と答へしまゝ、

「さん候ふ。是は旅人にて候ふが、未(いまだ)日は高く侍ると思ひしに、俄に暮たり。此所に一夜(いちや)を明(あか)させたび候へ。」

といふ。

 老女、きゝて、

「子細候はじ。此方(こなた)へ入らせ玉へ。」

とて、頓(やが)て宿をかしけり。

 隼太、悅び、内に入りて休らひけるが、しばらくありて、隼太がふしける後(うしろ)の壁、

「めりめり。」

と。ゆるぎ出(いだ)し、そこらの柱より、臥居(ふしゐ)たる床(ゆか)に至るまで、殘りなくゆるげば、

「扨は、地震にや。」

と、暫くは、こらへけれども、次第次第に强くなりて、はや、臺所の方(かた)は、柱、たふれ、やね、落(おち)ければ、

「こは、いかに。」

と、迯出(にげいで)んとするに、納戶も崩れ、隼太が傍(そば)の柱も倒れかゝりて、天井、終に隼太が上に落たりければ、今は、なかなか動くべきやうもなくて、聲をばかりに泣(なき)さけび、

「やれ、人々よ、助け給へ。」

と、わめきければ、往來(ゆきゝ)の人々、これを聞付(きゝつけ)、立(たち)より見るに、とある三昧(さんまい)[やぶちゃん注:「三昧場(さんまいば)」。墓場のこと。本来は僧が中に籠って死者の冥福 を祈るため、墓の近くに設ける堂であるが、そこから転じて、墓所や葬場を指すようになった。]に、卒都婆木(そとばぎ)おほく、引かづき、泣ゐたりしかば、ありあふ人々、あきれ果て、やうやうに助けおこせば、隼太、茫然として、そこらをみるに、皆々、墓所(はかしよ)にて、「柱」と見しは、「そとば木」にて、「夜(よる)」とおぼへしも、其まゝ元の「日昼(につちう)」となりければ、隼太は大きに打驚(うちおどろ)き、もと來(き)し道に助け出(いだ)され、夫(それ)より、松山へは行かずして、引返(ひつかへ)し、川の江に歸りしとなり。

「此者、日ごろ、おほくの人をたぶらかしける、をきつねの、惡(にく)みて、かく惱ましける。」

とぞ申し合(あひ)ける。

[やぶちゃん注:「川の江」現在の愛媛県四国中央市川之江町(かわのえちょう)(グーグル・マップ・データ)及びその周縁地区。松山へは実測で九十キロメートル弱。

「四、五里」川之江からだと、実測では四国中央市土居(どい)町(グーグル・マップ・データ)かその手前の土井町野田附近となる。

「此者、日ごろ、おほくの人をたぶらかしける、をきつねの、惡(にく)みて、かく惱ましける」という種明かしは、何故、牡狐(おぎつね)が主部隼太を憎んだのかが示されておらず、不全である。]

太平百物語卷四 卅八 藥種(やくしゆ)や長兵衞(ちやうびやうゑ)金子(きんす)をひろひし事

   ○卅八 藥種や長兵衞金子をひろひし事

 泉州界(さかい)[やぶちゃん注:ママ。固有名詞地名の大坂の堺のこと。]に藥種屋長兵衞といふ人、有(あり)。

 生得(しやうとく)、律義(りちぎ)なる人にて、常に此所の天神を崇敬(そうぎやう)し、每朝(まいてう)、怠る事なく社參しけるが、或日の事なりし、每(いつも)のごとく、未明に起き出でて參詣し、神前にぬかづき、歸らんとせしが、道の傍(かたはら)に、淺黃縞(あさぎしま)のさい布壱つ、落(おち)てあり。取り上げ見れば、金子(きんす)なり[やぶちゃん注:ずしりと持ち持ち重りのするのは明らかに多額の金子が入っていると見たのである。]。

『こは、誰(たれ)人の落しつらん。』

とおもひながら、先(まづ)取歸(とりかへ)り、改め見れば、五十兩包(つゝみ)にして、二つあり。

 長兵衞、思ひけるは、

『我、はからずも大分(だいぶん)の小判を拾ひたり。これ、我(わが)幸(さいわい[やぶちゃん注:ママ。])に似たれども、落せし人の難義(なんぎ)[やぶちゃん注:ママ。]をおもへば、我(わが)悅びの十倍ならん。所詮、御(おん)奉行所へ訴へ、町中(まちぢう[やぶちゃん注:ママ。])に御觸(おふれ)を願ひ、辻小路(つぢかうじ[やぶちゃん注:ママ。])に札(ふだ)を出(いだ)さば、金主(かねぬし)出來(いできた)らん事は有(ある)まじ。』

と、おもひ定め居(ゐ)る所に、常々こゝろやすく出入する五介といふ者、來(きた)りければ、長兵衞、此事を五介に語るに、五介がいふやう、

「それは心得ぬ事かな。左程の金子を、落すべき物、ならず。まづ、其金子を見せ玉へ。」

といふに、頓(やが)で[やぶちゃん注:ママ。]取出(とりいだ)し見せければ、五介、能(よく)々見定め、大きに笑つていはく、

「これ、誠の小判なるまじ。御身、常々律義(りちぎ)なる人ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]狐のたぶらかしける物なり。見給へ、明日(あす)も、又、不思議あらん。若(もし)、さもなくば、誠の金子ならめ。先(まづ)、一兩日(りやうにち)御待(まち)あつて、奉行所へ訴へ玉へ。」

といふに、長兵衞も、

『いか樣。』

とおもひて、其日の訴へ、延引せり。

 翌(あく)れば、長兵衞、例のごとく、疾(とく)起出(おきいで)て、

『天滿宮(てんまんぐう)へ參らん。』

と思ひ、表の戶口を開けば、檜臺(ひのきだい)の上に、何やらん、杉原(すぎはら)にて包みたる物あり[やぶちゃん注:「檜臺」ヒノキ材を平たい台状に削り出した台板であろう。檜材は当時は高級品であった。「杉原」杉原紙のこと。播磨 国杉原谷(現在の兵庫県多可郡多可町)原産の和紙。コウゾを原料とした高級品で、奉書紙よりも薄く柔らかい。鎌倉時代以降、慶弔・目録・版画などに用いられ、贈答品としても重宝された。但し、近世には各地で生産された。]。

 長兵衞、あやしくおもひながら、取入置(とりいれおき)て、天神宮(てんじんぐう)へ參詣し、急ぎ、歸り、五介を呼寄(よびよせ)、此体(てい)を語りて、さし出(いだ)し、みせければ、五介、是をみて、

「さればこそ。」

と、まづ、杉原の包を明(あけ)て見るに、内には芥(あくた)に馬(むま)の糞(ふん)をつゝみ、砂にまじへて包み置きたり。

 五介、長兵衞にいひけるは、

「御覽候へ。昨日(きのふ)、わがいひしに違(たが)はず。是、狐の所爲(しわざ)に極(きはま)りたり。昨日の金子も、はやく出(いだ)し玉へ。久しくおかば、いかなる災ひかあらん。某(それがし)、何方(いづかた)へも捨(すて)まいらせ申さん[やぶちゃん注:「まいらせ」はママ。]。」

と、いふ。

 長兵衞、よろこび、頓(やが)て財布を取出、五介に渡し、

「能(よき)にはからひたび玉へ。」

と賴めば、

「御心安(こゝろやす)かれ。」

とて、金子百兩と檜臺とを受け取りて、出でける。

 長兵衞は心をやすんじ、

「災(わざはひ)あらじ。」

と悅びけるが、後(のち)に能(よく)々きけば、金子は誠の金子にて、檜臺と杉原包は、五介が金子を橫取(よこどり)せん爲(ため)の工(たくみ)なりとぞ聞へける。

 然(しかれ)ども、道に背(そむき)たる事なれば、此五介、俄に癩病(らいびやう)を煩らひ出(いだ)して、彼(かの)金子も、いつしか療治の爲に消(きへ[やぶちゃん注:ママ。])はて、次㐧に、形(かた)り、くづれ、剩(あまつさ)へ、狂氣となり、每日、町小路(まちかうぢ)を裸になりて、くるひ步(あり)きしが、終に、苦しみ、死(しゝ)ける。

 これを聞く人、

「誠に眼前の天罸(てんばつ)なり。」

とて、皆々、眉をひそめて、恐れあひけるとぞ。

 

 

太平百物語卷之四終

[やぶちゃん注:今回は本文ブラウザでの標題の不具合を考えて、タイトルの方にルビを配した。悪事の因果応報譚(それも差別されたハンセン病罹患という差別的な不快なそれ)を最後に附け足してあるが、これは偶発に基づく擬似怪談であって、差別助長の点も大きく働き、私は本書の中では特異的に全く評価しない。

「五十兩包(つゝみ)にして、二つあり」本書は享保一七(一七三三)年板行で江戸中期初めであるから、現在の一両は時代換算サイトでは九万円から十万円相当と考えられてあるので、九百万円から一千万円相当となる。

「癩病」現在は「ハンセン病」と呼称せねばならない。抗酸菌(細菌ドメイン放線菌門放線菌綱コリネバクテリウム目 Corynebacteriales マイコバクテリウム科 Mycobacteriaceae マイコバクテリウム属Mycobacteriumに属する細菌の総称。他に結核菌・非結核性抗酸菌が属す)の一種である「らい菌」(Mycobacterium leprae)の末梢神経細胞内寄生によって惹起される感染症。感染力は低いが、その外見上の組織病変が激しいことから、洋の東西を問わず、「業病」「天刑病」という誤った認識・偏見の中で、今現在まで不当な患者差別が行われてきている(一九九六年に悪法「い予防法」が廃止されてもそれは終わっていない)。歴史的に差別感を強く示す「癩病」という呼称の使用は完全に解消されるべきと私は考えるが、何故か菌名の方は「らい菌」のままである。おかしなことだ。ハンセン菌でよい(但し、私がいろいろな場面で再三申し上げてきたように、単なる「言葉狩り」をしても、各人の意識の変革なしには差別は永久になくならない)。ともかくも、コーダの部分はハンセン病への正しい理解を以って批判的に読まれることを強く望むものである。]

2019/05/21

和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼢(うころもち)・鼧鼥 (モグラ・シベリアマーモット)

Ugoromoti

 

 

うころもち 田鼠 鼹鼠

      隱鼠

【音焚】

     【別有名隱鼠

      者同名異種】

      【和名宇古

       呂毛知】

 

本綱鼢狀如鼠而大脚短尾長寸許目極小項最短其身

肥多膏黒色尖鼻甚強常穿地中而行能壅土成坌見日

月則死月令季春田鼠化爲鴐八月鴐爲鼠是二物交化

如鷹鳩然也鴐乃鶉類也伯勞化鼢櫛魚化鼢則鼢之化

不獨一種也

△按鼢狀似鼠而肥毛帶赤褐色頸短似野猪其鼻硬白

 長五六分而下觜短眼無眶耳無珥而聰手脚短五指

 皆屈但手大倍於脚常在地中用手掘土用鼻撥行復

 還舊路時仰食蚯蚓柱礎爲之傾樹根爲之枯焉聞人

 音則逃去早朝窺撥土處從後掘開從前穿追則窮迫

 出外見日光卽不敢動竟死又畏海鼠

肉【鹹寒】 治癰疽爛瘡痔瘻瘡疥小兒食之殺蚘蟲【皆燔之食】

 今俗用鼢手搔疥癬治者有所以也乎

――――――――――――――――――――――

鼧鼥

[やぶちゃん注:以下の二行分は原典では項目の下に一字空けで記載されている。]

 土撥鼠荅刺不花○本綱生西蕃山澤間穴土

 爲窠形如獺夷人掘取食之其皮可爲裘甚暖

 濕不能透

△按鼧鼥乃鼢之類而大者生西域

 

 

うころもち 田鼠 鼹鼠〔(えんそ)〕

      隱鼠〔(いんそ)〕

【音「焚〔(フン)〕」。】

     【別に「隱鼠」と名づくる有り。

     〔然れども、〕同名異種の者なり。】

      【和名「宇古呂毛知」。】

[やぶちゃん注:「うころもち」の「こ」には、原典、濁点の痕跡のようなものが見えなくもないが(ドット状の小点なので単なる汚損の可能性が高い)、清音表記も通していたので、「うころもち」とする。]

 

「本綱」、鼢、狀、鼠のごとくにして、大なり。脚、短く、尾の長さ寸許り。目、極めて小さし。項〔(うなじ)〕、最も短く、其の身、肥えて膏〔(あぶら)〕多し。黒色。尖りたる鼻、甚だ強し。常に地中を穿ちて行き、能く土を壅〔(よう)〕し[やぶちゃん注:塞ぎ。]、坌〔(ふん)〕[やぶちゃん注:ここは掘り返すことで生じたこんもりとした小さな盛り上がりを指す。]を成す。日月を見るときは、則ち、死す。「月令〔(がつりやう)〕」に、『季春[やぶちゃん注:陰暦三月。]、田鼠〔(もくらもち)〕、化して鴐(かやくり)と爲り、八月に、鴐、鼠と爲る』〔と〕。是れ、二物〔の〕交(こもごも)化して〔→すは〕、鷹〔と〕鳩〔とに〕然り。鴐は乃〔(すなは)〕ち「鶉〔(うづら)〕」の類ひなり。伯勞〔(もず)〕、鼢に化し、櫛魚〔(たびらこ)〕、鼢に化〔せば〕、則ち、鼢の化、獨り、一種ならざるなり。

△按ずるに、鼢、狀、鼠に似て、肥え、毛は赤褐色を帶ぶ。頸、短きこと、野猪(ゐのしゝ)に似て、其の鼻、硬く白く、長さ、五、六分にして、下の觜〔(くちさき)〕、短く、眼に眶(まぶた)無く、耳に珥(〔みみ〕たぶ)無く、而〔れども〕聰(みゝと)し[やぶちゃん注:耳がよい。「東洋文庫」は『聰(さと)い』と訳すが、原文に即した訳とは言い難いので採れない]。手・脚、短く、五指、皆、屈(かゞ)まり、但し、手の大(ふと)さ、脚より倍し、〔→す。〕常に地中に在りて、手を用ひて土を掘り、鼻を用ひて撥(ひら)き行き、復た、舊路に還る。時に仰(あをむ[やぶちゃん注:ママ。])きて、蚯蚓〔(みみず)〕を食ふ。柱礎、之れが爲めに傾き、樹〔の〕根、之れが爲めに枯るる。人の音を聞けば、則ち、逃げ去る。〔人〕、早朝、土を撥〔(あば)〕く處を窺〔ひて〕、後(しりへ)より掘り開き、前より穿〔(うが)ちて〕追ふときは、則ち、窮迫して、外に出で、日光を見るときは、卽ち、敢へて動かず、竟〔(つひ)〕に死す。又、海鼠(とらご)[やぶちゃん注:ナマコ。]を畏る。

肉【鹹、寒。】 癰疽〔(ようそ)〕・爛瘡・痔瘻・瘡疥〔(さうかい)〕を治す。小兒、之れを食へば、蚘蟲〔(かいちう)〕を殺す【皆、之れを燔〔(あぶ)りて〕食す。】。今、俗、鼢の手を用ひて、疥癬(ぜにかさ)、搔きて治すといふ者、所以(ゆへ[やぶちゃん注:ママ。])有るなり〔とする〕か。

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鼧鼥〔(たはつ)〕

「土撥鼠〔(どはつそ)〕」。「荅刺不花〔(たうらふくは)〕」。[やぶちゃん注:以上は異名なので、ここで改行した。]

○「本綱」、西蕃〔(せいばん)〕[やぶちゃん注:明代から中華民国期にかけて、甘粛・四川・雲南地方の漢民族が隣接するカム地方(チベット東部地方。元・明代の地理史料では「アムド」(チベット高原東北部を構成する地方の一つ)とともに「吐蕃(とばん)」の「朶甘(だかん)」と一括して呼ばれた。現在は中華人民共和国チベット自治区東部・青海省東南部・四川省西部・雲南省北西部に分割されている)のチベット系民族を指して用いた蔑称。]の山澤の間に生ず。土に穴〔ほりて〕窠〔(す)〕を爲〔(つく)〕る。形、獺〔(かはうそ)〕のごとし。夷人、掘り取りて、之れを食ふ。其の皮、裘〔(かはごろも)〕に爲〔(つく)〕るべし。甚だ暖かにして、濕、透(とほ)すこと能はず。

△按ずるに、鼧鼥は、乃ち、鼢(うころもち)の類ひにして、大なり者〔なり〕。西域に生ず。

[やぶちゃん注:概ね(特に良安の記載)、哺乳綱トガリネズミ形目 Soricomorphaモグラ科 Talpidae のモグラ類と認識してよいが、この「鼢」は中国では全くの別な種をも指す(後述)ので注意が必要である。先に言っておくと、本邦での「モグラ」類の呼称は「うころもち」「うごろもち」の他にも、小学館「日本国語大辞典」の「うごろもち」の方言の部分によれば、「おごらもち」「おごろもち」「おもろもち」「おんごこもち」「んごろもち」が挙げられ、別見出しでモグラの異名として「うごろ」を挙げ、その方言に「おごろ」「おんごら」「おんごろ」を示す。他にも調べてみると「おんごろもち」「おぐろもち」「おぐらもち」など多様である。恐らく「うころ」「うごろ」は、「土地が有意に高く盛り上がる」の意の「うごもつ」「うぐもつ」(墳つ)が語源と思われ、その名詞形で既に「墳(うぐろもち)」が古くに存在するから(観智院本「類聚名義抄」(十一世紀末から十二世紀頃に成立した原本の鎌倉末期の書写。原撰本を増補改編した系統の一本)に所収)、モグラが持ち上げて形成された小さな、まさに土饅頭(墳)状のあれから生まれた名と考えて間違いない。

 まず、本邦産種を挙げる。ウィキの「モグラ」によれば、本邦には四属七種が棲息し、そのすべての種が日本固有種とされている。

Talpinae亜科Urotrichini族ヒメヒミズ(日不見)属ヒメヒミズ Dymecodon pilirostris(本州・四国・九州に分布。以下同じ)

頭胴長は約七~八センチメートルと、非常に小型。以下のヒミズと競合する生息域では個体数が減少する傾向にあり、現在では主に、ヒミズの進出し難い、標高の高い岩礫地に棲息している。はっきりしたトンネルは掘らず、落ち葉の下などで単独で生活している。一属一種。

Talpinae亜科Urotrichini族ヒミズ属ヒミズ Urotrichus talpoides(本州・四国・九州・淡路島・小豆島・対馬・隠岐など)

落ち葉や腐食層に浅いトンネルを掘り、夜間には地表も歩き回るという半地下性の生活を営んでいる。一属一種。

Talpinae亜科Talpini族ミズラモグラ(角髪土竜。因みに、本邦で「もぐら」を意味する、「土竜」は「もぐら」の掘ったトンネル部が竜のように見えたために当てられたものであろうが、中国では「地龍」と書いて「もぐら」に食われる「ミミズ」を指す語である。古い時代に「ミミズ」を示す「地龍」「土龍」が本邦に入ってきた際、穴のスケールから誤解して「もぐら」に当ててしまった可能性が高い)属ミズラモグラ Euroscaptor mizura(本州の青森県から広島県にかけて)

本州からしか発見されておらず、棲息数は少ない。

Talpinae亜科Talpini族モグラ属 Mogera(この属名和名は、これを命名記載したフランスの地質学者・古生物学者ニコラス・オーギュスト・ポメール(Nicolas Auguste Pomel 一八二一年~一八九八年:一八四八年命名で弘化五・嘉永元年に当たるが、彼は日本には来ていないものと思われる)が又聞きの日本語「Mogura」を聞き違えたか、記載の際にスペル・ミスしてしまったことで今日に至っている)アズマモグラ Mogera imaizumii(本州(基本的に中部以北であるものの、紀伊半島・広島県などに孤立した小個体群が棲息している)・四国(剣山及び石鎚山)・小豆島・新潟県粟島)

主に東日本に分布する。

モグラ属コウベモグラ Mogera wogura(本州(中部以南)・対馬・種子島・屋久島・隠岐など)

西日本に生息する大型種で、アジア大陸に近縁種が分布している。

モグラ属サドモグラ Mogera tokudae(本州(越後平野)・佐渡島)

農業基盤整備事業等による環境の改変のため、越後平野の主要な生息地が大型モグラの生息に不利な環境となり、小型種のアズマモグラが侵入するとともに、エチゴモグラは分布域を縮小しつつある。

モグラ属センカクモグラ Mogera uchidai(尖閣諸島)

一九七六年に採取され、一九九一年に新種認定された。模式標本は尖閣諸島に属する約四平方キロメートルしかない魚釣島の海岸近くの草地で捕獲された♀の一体で、それのみしか確認されていない。環境から見て、棲息数は非常に少ないと考えられているが、一九七八年に魚釣島に持ち込まれたヤギの大増殖による環境破壊のため、存続が危ぶまれている。

 以下、「モグラ」の汎論的記載。棲息域はヨーロッパ・アジア・北アメリカで、『南半球では確認されていない』。大きさは大型のTalpinae亜科Desmanini族ロシアデスマン属ロシアデスマン Desmana moschata では十八~二十二センチメートル、小型種では既に書いたヒメヒミズを見られたい。全体に、『体型は細長く、円筒形』で、一般には、『全身が細かい毛で覆われ、鼻先だけが露出している。触覚が発達し、鼻面や尾などに触毛がある』。やや細かに見ると、モグラ属の『モグラ類は短い体毛、ヒミズ類は粗い体毛と下毛、デスマン類は防水性の密な下毛と油質の上毛で被われる』。『主に森林や草原の地中に生息するが、デスマン類は水生で河川や湖に生息する』。『眼は小型で体毛に埋まり、チチュウカイモグラ』(Talpinae亜科Talpini族ヨーロッパモグラ属チチュウカイモグラ Talpa caeca)『などのように皮膚に埋もれる種もいる』。『明度はわかるものの、視覚はほとんど発達しない』。『ヒミズ類の一部を除き耳介はない』。『鼻面は長く管状で、下唇よりも突出する』。『鼻面には触毛を除いて体毛はなく、ホシバナモグラ』(Scalopinae亜科Condylurini族ホシバナモグラ属ホシバナモグラ Condylura cristata)『では吻端に肉質の突起がある』。『モグラ類は前肢が外側をむき』、『大型かつ』、『ほぼ円形で』、五『本の爪があり』、『土を掘るのに適している』。『これらは地下で穴を掘って暮らすための適応と考えられ』。『また、前足は下ではなく』、『横を向いているため、地上ではあまり』前足を効率よく運動させることが出来ない。但し、水辺での生活を好む『デスマン類では』、『前肢の指に半分ほど、後肢の趾の間には水かきがあり』、『指趾に剛毛が生え』、『水をかくのに』都合がいいように適応している。『陰茎は後方に向かい、陰嚢』は持たない。『単独で生活し、それぞれの個体が縄張りを形成する』。『主に周日行性で』一『日に複数回の活動周期がある種が多いが、デスマン類は夜行性傾向が強い』。『主に昆虫、ミミズなどを食べる』が、水辺を好む『デスマン類は魚類や両生類などの大型の獲物も捕食する』。『食物を蓄えることもある』。『年に』一『回だけ』二~七『匹』『の幼獣を産む』。『モグラは地下にトンネルを掘り、その中で』主に『生活する。ただし、掘削作業は重労働であるため』、『積極的に穴掘りを行うわけではなく、主となるのは』、『既存のトンネルの修復や改修である。地表付近にトンネルを掘ったり、巣の外へ排出された残土が積みあがるなどの理由で、地上には土の盛り上がった場所ができる。これを「モグラ塚」という』。『地中に棲むミミズや昆虫の幼虫を主な食物としている。多くの種に見られる狩猟法は、一定の範囲内に掘られたトンネルに』、『偶然』に出くわしてしまった『獲物を感知・採取するという方法である。そのため、モグラのトンネルは巣であるのと同時に狩猟用の罠と』も『なっている』。『モグラが地上で死んでいる例が時々見られ』ることから、『「太陽に当たって死んだ」とされ、モグラは日光に当たると死ぬと言われ』、ここでも、時珍も良安も口を揃えてまことしやかに「日光に当たると死ぬ」と記しているが、これは全くの誤りである。ろくに観察もせず、モグラは地中にのみ住み、地上には出てこない、だから、太陽に当たると死ぬ(陰陽五行説風に言えば完全な「陰気」の)生物と誤解されてきただけで、実際には、モグラはしばしば昼間でも地上に現われるのである。『人間が気付かないだけである。死んでいるのは、仲間との争いで地上に追い出されて餓死したものと考えられ』、『モグラは光を認識しないため、明るいところで飼育することも可能である』(実際に私も、熱帯魚用の水槽の中で飼育されていて、地表で餌を摂餌しているのを見たことがある)。『実際、モグラは非常な大食漢で、胃の中に』十二『時間以上』、『食物が無い』状態になると、『餓死してしまう。この特性を知らないでモグラを飼い、餌を与えきれずに死なせてしまうことが少なくない』。『なお、餌が手に入らなかった場合の対策として、唾液に麻酔成分が含まれており』(現行の知見では人間には無毒であるらしい)、『それによって獲物を噛んで仮死状態にして巣に貯蔵しておくという習性を持つものが存在する』。『地中での生活が主であるが』、『実は泳ぎが上手く、移動中やむなく水辺に当たった場合などは』、『泳いで移動をする』とある。

 さて、冒頭に述べた問題点に移る。同ウィキには実は、中国語では広義の「モグラ」類は「鼴」「鼴鼠」「鼢」「鼢鼠」と漢字表記するとあるのだが、学名としての「鼢」は、『齧歯目のモグラネズミ(モグラネズミ属 Myospalax)を指す』とあるのである(太字は私が附した)。これは体型がモグラに似ているものの、

齧歯(ネズミ)目ネズミ亜目ネズミ下目ネズミ上科メクラネズミ科モグラネズミ属 Myospalax

で全く縁遠い生物種なのである。しかも彼らは中国からモンゴル東部・シベリア南部にかけて八種も分布しているグーグル画像検索「Myospalaxを掲げておくが、「本草綱目」の時珍を始めとする中国の古い本草学者たちが「モグラ」と「モグラネズミ」を混同して可能性は高いしかし……だ……この画像群、凝っとよく見ていると、「モグラネズミ」の皮革は……、これ、如何にも暖かそうじゃないかい!? それに……よく肥えていてモグラより遙かにデカいぞ! 食いでもありそうじゃないかい?! 或いは「鼢」はやっぱり「もぐら」で、実は後に出る「鼧鼥〔(たはつ)〕」こそがこの「モグラネズミ」じゃないのか!?――と行ってメデタシメデタシと纏めたいところなのだが――「鼧鼥」――は残念ながら、別種である(後述)。

「別に「隱鼠」と名づくる有り。〔然れども、〕同名異種の者なり。」次の独立項「隱鼠(ぶたねずみ)」のこと。別名も「鼹鼠」が一緒で、他に「偃鼠」「鼠母」「鼰【音「菊」。】」おある。たまには句読点と記号だけのもので、お目にかけましょうか。

   *

「本綱」、隱鼠、在山林中、而獸類、非鼠之儔。大、如水牛。形、似猪。灰赤色。脚類象、而驢蹄。口鋭、胸前尾上、白色。有力、而鈍。性、畏狗。見、則、主水災【「梁書」云、『倭國、有山鼠如牛。又、有大蛇、能吞之。蓋、日本未聞有如此者。其何物耶。】。

   *

私が既に実在生物の同定比定をする気を始める前からなくしているのがお判り戴けましょうぞ。

「月令〔(がつりやう)〕」「礼記」の「月令」(がつりょう)篇(月毎の自然現象・古式行事・儀式及び種々の農事指針などを記したもの。そうした記載の一般名詞としても用いる)。以下は実は「鼠」の項に既に出て、既注なのだが、再掲すると、

   *

桐始華、田鼠化爲鴽、虹始見、萍始生。

   *

この「鴽」には東洋文庫訳では割注で、『家鳩もしくはふなしうずら』とする。ところが、既に電子化注した「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鶉(うづら)(ウズラ)」には「鴽」に良安は「かやくき」というルビを振っているのである(但し、そこでも東洋文庫版は『ふなしうずら』と訳ルビしてある)。現行ではフナシウズラは「鶕」で、鳥綱チドリ目ミフウズラ(三斑鶉)科ミフウズラ属ミフウズラ Turnix suscitator の旧名であり、「ウズラ」とはつくものの、真正のキジ目キジ科ウズラ属ウズラ Coturnix japonica とは全く縁遠い種である。中国南部から台湾・東南アジア・インドに分布し、本邦には南西諸島に留鳥として分布するのみである。されば、そこで良安が「かやくき」と和名表記したそれは、種としての「フナシウズラ」ではないと私は考えた。「かやくき」は、調べてみると、「鷃」の漢字を当ててあり、これはウズラとは無関係な(この漢字を「うずら」と読ませているケースはあるが)、スズメ目スズメ亜目イワヒバリ科カヤクグリ属カヤクグリ Prunella rubida の異名であることが、小学館「日本国語大辞典」で判明した。しかも上記の「鶉」の次の項が「和漢三才図会」の「鷃(かやくき)」なのであった(但し、そこには『鷃者鶉之屬』(「本草綱目」引用)とはある)。この日中の同定比定生物の齟齬のループから抜け出るのはなかなかに至難の技ではある。軽々に比定は出来ない。なお、「田鼠」について、ミクシィのさる中国語に堪能な方の過去記事に、『中国で、「田鼠」が「もぐら」を指したことはないよう』だ、とあったのには、びっくりした。「本草綱目」にちゃんと出てるし、「礼記」の「月令」のこの「田鼠」がその片の言うように、現行中国語と同じ「東方田鼠」、大量発生して甚大な被害を齎す「野ネズミ」である、齧歯(ネズミ)目ネズミ上科キヌゲネズミ科ハタネズミ亜科ハタネズミ属オオハタネズミ Microtus fortis を指すのだとしたら、「礼記」の「月令」も地に落ちたもんだと私は思う。だったら、「月令」の注には、私だったら、「鴽」に化した後に全部狩り取って食べて仕舞えば、鼠害を免れしむと絶対に書くだろう。

「是れ、二物〔の〕交(こもごも)化して〔→すは〕、鷹〔と〕鳩〔とに〕然り」この全く異なった生物の、突然に発生する交換的化生説は、鷹と鳩との間に生ずる「それ」と全く同じこと(現象)である。これによって、「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鷹(たか)」の腑に落ちなかった箇所、則ち、そこの本文(「本草綱目」の引用のみ)の終りの箇所、

   *

蓋し、鷹と鳩とは「氣」を同じくし、「禪化〔(ぜんか)〕」する。故に得て、「鳩」と稱す。

   *

の意味が判然と腑に落ちた。やはり、鷹もある時、鳩になり、鳩もある時、鷹に変ずる、というのである。

「伯勞〔(もず)〕」私の好きな、スズメ目スズメ亜目モズ科モズ属モズ Lanius bucephalus「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鵙(もず)(モズ)」を参照されたい。但し、そこにはこの化生についての言及はない。

「櫛魚〔(ふな)〕」「東洋文庫」訳はこの読みを『ふな』とするが、この熟語は狭義のコイ目コイ科コイ亜科フナ属Carassius を指してはいない。私の古い「和漢三才圖會 卷第四十八 魚類 河湖有鱗魚」の「※(たびらこ)」(「※」=「魚」+「節」)があり、その本文は以下である。

   *

「本綱」に、『※〔(たびらこ)〕は鯽〔(ふな)〕と同じくして、味、同じからず。功も亦、及ばず。狀、鯽〔(ふな)〕に似て、小さく、且つ、薄く、黑くして、揚赤[やぶちゃん注:赤みがかっているの意か。]。其の形、三つを以つて率と爲す。一つは前、二つは後、婢妾〔(ひせふ)〕のごとく、然り。故に婢と名づけ、妾と名づく』と。又、時珍曰はく、『孟詵〔(もうしん)の〕「※は是れ、櫛の化し、鯽は是れ、稷米〔(きび)〕の化して成る」と言ふは、殊に、謬説〔(べうせつ)〕なり。惟だ、鼢鼠(うくろもち)、※に化し、※、鼢鼠に化すとは、「霏雪錄〔(ひせつろく)〕」の中に嘗つて之れを書す。時珍も亦、嘗つて之れを見る。此れ亦、生生化化の理〔(とこわり)〕なり。鯽・※、子、多し。盡く、然るには、あらざるのみ』と。

△按ずるに、※は鯽に似て、脊、黑く、腹、白し。形、薄く匾〔(ひらた)〕く、やや團〔(まる)〕し。大抵、二、三寸ばかり。恰(あたか)も木〔(こ)〕の葉に似、又、櫛に似る。其の小なる者は、腹〔の〕尾に近き處、微赤〔にして〕、味、美ならず。鯽を襍(まじ)へて[やぶちゃん注:「混じへて」。混ぜて。]之れを販〔(ひさ)〕ぐ。或いは、腌(しほづけ)に爲して食ふ。蓋し、櫛及び鼢鼠、化して※と成るの兩説、並びに信じ難し。新たに池を掘り、雨水、春夏の陽氣を感ずるときは、卽ち鯽・※、自生して、牝・牡、有り。復た、一孕〔(ひとはらみ)〕に數百の*(こ)を生ず。鯉・鰌〔(どぢやう)〕も亦、皆、此くのごとし[やぶちゃん字注:「*」=「魚」+「米」。]。

   *

とあることから、本種は一応、淡水魚である、コイ科タナゴ亜科タナゴ属のアカヒレタビラAcheilognathus tabira subsp.2に同定した。これを変更するつもりは、今は、ない。グーグル画像検索「Acheilognathus tabira subsp.2をリンクさせておく。

「鼢の化、獨り、一種ならざるなり」モグラへの交換(推定。必ずしも双方向交換ではないのかも知れない)化生は複数の種(「鴽」・「伯勞」・「櫛魚」)がいるのだ、というのだから、スゴイノダ!

「海鼠(とらご)」勿論、あの棘皮動物門ナマコ綱 Holothuroidea のナマコ類である。本邦の民俗風俗を知っていれば、少しも唐突ではない。モグラは実は譚海 卷之三を田畑を食い(ここは誤認)荒らす(ここは正しい)害獣としてすこぶる嫌われたのである(今も畑地に風車を指す御仁らはその振動をモグラが嫌うと信じておられるということは、モグラをやはり害獣と考えておられるわけである)。私の古い仕儀だが、「耳囊 卷之四 田鼠を追ふ呪の事」をまず読まれたい。次に、私の『海産生物古記録集■6 喜多村信節「嬉遊笑覧」に表われたるナマコの記載』がよかろう。その「鼹鼠うち」(所謂、「もぐら打ち」の農耕行事)で、ナマコを用いて《害獣》とされてしまったモグラに対する本邦の民俗行事が明らかとなろう。次いで、『海産生物古記録集■7 「守貞謾稿」に表われたるナマコの記載』を読まれれば、まずは行事の理解は完璧と思う。更に興味のある方は、私の「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海鼠」を読まれんことをお薦めするが、ここまで来ても、何故、「ナマコ」なのかは、今一つ、判然としないかも知れない。私の敬愛する海洋生物生理学者であられる本川達雄氏の「世界平和はナマコとともに」(二〇〇九年阪急コミュニケーションズ刊)にも書かれてあるが、ナマコの持つ「サポニン」(saponin:広く植物界に存在するサポゲニンという多環式化合物と糖とが結合した配糖体で、「sapo」はラテン語で「石鹸」の意であり、発泡・溶血作用を持ち、対象個体の大きさによるが、小・中体型の動物体には有毒作用として働く)をモグラが嫌がるからという科学的説明はまず挙げられるものの、折口信夫の民俗学的考証によれば、「なまこ」の「なま」とは異界から来訪する「まれびと」、即ち、霊力を持つ神と認識されたものであると推理し(確かに、ナマコは一般人から見れば、目鼻を持たず、前後も不詳で、強烈な再生能力を持つ(半分に切っても、内臓を除去しても再生する。というより、自ら天敵から逃れるために、内臓を自ら吐き出したり、吹き出させたりする「吐臓」行動を行いさえする)から、そう考えても不思議ではない)から、折口の謂いは決して不思議ではなく、『モグラぐらい、簡単に撃退する力がある』と考えたとしても、強ち、的外れではないとは言える。

「癰疽」悪性の腫れ物。「癰」は浅く大きく、「疽」は深く狭いそれを指す。

「爛瘡」広義の皮膚の炎症疾患、蕁麻疹から激しい糜爛性皮膚炎までも指す。

「瘡疥」主に小児の顔に硬貨大の円形の白い粉をふいたような発疹が出来る皮膚病。数個以上できることが多い。顔面単純性粃糠疹(ひこうしん)。所謂、「はたけ」である。

「蚘蟲〔(かいちう)〕」線形動物門双腺綱旋尾線虫亜綱回虫(カイチュウ)目回虫上科回虫科回虫亜科カイチュウ属ヒトカイチュウ(人回虫) Ascaris lumbricoides を代表とする、ヒトに寄生する(他の動物の寄生虫による日和見感染を含む)寄生虫類。「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蚘(ひとのむし)」を参照されたい。小児の心因性を含む各種の症状の主原因の一つとして、カイチュウは大いにその主因と考えられていた(実際にはカイチュウのはかなりの量が寄生しても無症状である)。

「疥癬(ぜにかさ)」皮膚に穿孔して寄生するコナダニ亜目ヒゼンダニ科Sarcoptes 属ヒゼンダニ変種ヒゼンダニ(ヒト寄生固有種)Sarcoptes scabiei var. hominis によって引き起こされる皮膚疾患。

「鼧鼥〔(たはつ)〕」「土撥鼠〔(どはつそ)〕」「荅刺不花〔(たうらふくは)〕」齧歯目リス亜目リス科マーモット属シベリアマーモット Marmota sibiricaウィキの「シベリアマーモット」によれば、『生息地ではタルバガンとも呼ばれる』(「荅刺不花〔(たうらふくは)〕」は明らかにその漢音写であろう)。棲息地は中国の黒竜江省・内モンゴル自治区やモンゴル・ロシア(トゥヴァ共和国及びザバイカル)で、体長は五十~六十センチメートル、体重は六~八キログラムで、尾長は体長の五十%以下。体重は最大で九・八キログラムに達する。標高六百から三千八百メートルにある草原・ステップ・低木林・半砂漠などに棲し、『ペアと幼獣(分散前の個体と新生児)からなる家族群(環境が悪ければ不定的で』三~六『匹、環境がよければ』、十三~十八『匹に達する)を構成して生活する』、九『月から巣穴で』五~二十『匹が集まって冬眠するが、冬眠の期間は夏季の栄養状態や秋季の天候により』、『変動がある』。『食性は植物食で、主に草本を食べるが』、『木の葉なども食べる』、『捕食者はアカギツネ、ハイイロオオカミ、ヒグマ、ユキヒョウ、ワシタカ類などが挙げられる』。『冬眠から開けた』四『月に交尾を行』う。『妊娠期間は』四十~四十二日で、五『月下旬に』一『回に最大』八『匹(主に』四~六『匹)の幼獣を産む』。『生後』二『年で性成熟するが、通常は生後』三『年で分散する』。『モンゴルでは遊牧民が肉を食用とする』。『マルコ・ポーロも』「東方見聞録」の『中でタルタール人の食文化について「この辺り至る所の原野に数多いファラオ・ネズミも捕まえて食料に給する」と記述しており、この「ファラオ・ネズミ」はおそらくタルバガンだと考えられている』。『薬用とされることもあり、油が』、『伝統的に火傷や凍傷、貧血などに効果があるとされている』。『毛皮も利用され』る。『タルバガンは草原の地面に穴を掘るため、土壌の通気性を良くする役目を果たしていると』もされる。しかし乍ら、『腺ペストを媒介し、本種が原因とされるペストの流行で』一九一一年で約五万人が、一九二一年には約九千人が死亡している。『ペストに感染した本種の肉を』『人間が食べることでも感染する』。『そのため、生息地で衰弱したタルバガンの生体や死体を見つけても、近寄らない、触らない等の注意が必要である。また』、『現地の人に勧められても、タルバガンを食べない』ということも『必要で』あり、待遇への『心証を悪くしたくない』との理由から、『どうしても食べなければならない場合』には、『良く火を通してから、少量だけ』、『食べる』ことが肝要である。『モンゴルは数少ないペスト発生国であり、どこかで』、『毎年のように発生し、死者も出る。モンゴルではタルバガンが主な感染源とされて』おり、『ペスト患者が出ると、その感染拡大を防ぐために』、『集落や町全体を封鎖することも』、『度々』、『行われている。齧歯類全般、特に野生のものについては』『ペスト菌の保有を前提として』対処する必要がある。かのおぞましき日本の七三二『部隊は』、『タルバガンを生物兵器ペストノミの生産に利用した』事実が知られている。『毛皮目的の乱獲、ペストの媒介者としての駆除などにより』、『生息数は激減し』ており、一九九〇年代、生息数が一気に約七十%も『減少したと推定されて』おり、『モンゴルでは』一九〇六年から一九九四年の八十八年間に、少なくとも、一億二百四十万枚のシベリアマーモット毛皮が狩猟・調達されたとされる。『モンゴルでは法的に保護の対象とされているが、実効的な保護対策は行われていない』とある。

「獺〔(かはうそ)〕」本邦のそれは日本人が滅ぼしたユーラシアカワウソ亜種亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ)(カワウソ)」を参照されたい。

「濕」湿気。]

忍ぶ戀 羅月(伊良子清白)

 

忍 ぶ 戀

 

やなぎの糸の下た蔭に、

戀ひしき妹の聲すなり、

こゝろの駒は狂へども、

流石に思ひとがめつゝ、

えも云び寄じ割なくも、

思ひを碎くばかりにて。

 

ものゝ歸さに妹が家の、

軒にしばしと佇ずめば、

よもやと思ふ妹はしも、

打ち笑みつゝも恥ひて、

窓のとぼそを鎖しけり、

けしき斗りは鎖しえで。

 

へたてぬ心知りつゝも、

何とてかくも隔てして、

むねにあまれる一端も、

明かさで仇に過すらん、

云ぬ戀路のなかなかに、

忍ぶ思ひのますものを。

 

[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年十一月『新聲』掲載。署名は「羅月」。底本ではこれが同年(満十九歳)最後の詩篇。]

稻舟 すゞしろのや(伊良子清白)

 

稻 舟

 

花の姿もうちしをれ、

匂へるまみもいと重く、

ぬぐふ袂もくつるまで、

なげく少女や誰ならむ。

 

閨もるかぜもいと寒み、

火影もいたくまたゝきて、

いたはりしらぬ小男鹿の、

妻こふ聲もきこゆなり。

 

かくとも知らばいかで我、

契むすばむかの君に、

契むすびてうらむなる、

おのが心ぞうらまるゝ。

 

ひきてかへらぬ梓弓、

いで羽のくにを出てより、

うき藻の草のうきてのみ、

うき世の上をたゞよひつ。

 

人のこゝろの裏表、

かへすかへすも見るまゝに、

筆のすさびのをりをりは、

戀のあはれもかきやりつ。

 

文にそへたる姿繪に、

京わらべのさがなさは、

よしなし言の言草を、

うたひはやしつ嘲りつ。

 

その折なれやかの君の、

やさしかりつる一言に、

いなにはあらぬ稻舟の、

いなみかねけり契をも。

 

えやは知るべきかくとだに、

君の心のつれなさを、

つれなき折に見てしより、

春は物うくなりにけり。

 

多くはいはじかなしさを、

幸なきわれは末つひに、

秋よりさきにすてらるゝ、

扇のつまとなりけるよ。

 

やがて歸りし故鄕も、

思ふ思のしげゝれば、

枕につきし其日より、

病さらぼひぬかくまでに。

 

君と二人がかきやりし、

峯を殘んの月影は、

かなたの空にきえて行く、

おのが今はのすがたなり。

 

あはれ幸なき少女子が、

つれなき人をうらみかね、

きえてうせきときゝまさば、

はかなき我と思ひてや。

 

深きなげきやそはりけむ、

淚のつゆのいやますに、

はては思ひにたへかねて、

さぐりもよゝとなきそめぬ。

 

夜や更けぬらし燈火の、

またゝく影も細りつゝ、

遠くなり行く小男鹿の、

聲はきこえずなりにけり。

 

[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年十一月『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。]

太平百物語卷四 卅七 狐念仏に邪魔を入し事

 

   ○卅七 狐念仏に邪魔を入し事

 江戶牛込の片ほとりに、太郞市とて独り住(ずみ)の職人有(あり)けるが、淨土宗にて、殊に信心なる男(おのこ[やぶちゃん注:ママ。])なれば、朝暮(てうぼ)、佛前にむかひて、念仏、怠る事なし。

 或夜、いつものごとく、念仏して居(ゐ)たりしが、後(うしろ)より誰(たれ)ともなく、念仏を唱ふる者、あり。

 太郞市、

『たれやらん。』

とおもひ、後を見やるに、人、なし。

 又、念仏すれば、同じく申すほどに、

『扨は、わが心の迷ひならめ。』

と、一心不乱に申しければ、うしろの念仏、次第次第に大音(だいおん)になりて、後(とち)には十人斗(ばかり)も唱へける程に、太郞市、ふしぎに思ひ、急に、うしろを歸りみれば、何やらん、

「ばさり。」

と、物音して、目にさへぎる物は、なし。

『こは、いかに。』

と、おもひ、心ならねば[やぶちゃん注:ここは、「如何にも不気味にして心落ち着かぬので」の意。]、明(あく)るを待ちて、急ぎ、旦那寺に行(ゆき)、住持に「此よし」告(つげ)申せば、和尙、しばらく思惟(しゆい)して申されけるは、

「これ㙒干(やかん)[やぶちゃん注:妖狐。]の所爲(しわざ)ならめ。我、はからふ子細あれば、今宵、御身の方に、ひそかに、行(ゆく)べし。」

との仰せ、

「有がたし。」

とて、太郞市は悅び、かへりぬ。

 和尙、則(すなはち)、夜(よ)に入て、太郞市が宅(たく)に來(きた)られ、一間所(ひとまどころ)に隱れて、樣子を窺ひ居(ゐ)らるれば、太郞市、每(いつも)のごとく念仏しけるに、実(げに)も、太郞市がいふに違はず、うしろより、同音に唱ふ者、あり。

 始(はじめ)の程は、一、兩人の聲なりしが、後(のち)には數(す)十人の聲となりて、責(せめ)念仏[やぶちゃん注:鉦(かね)を鳴らしながら高い声で激しい調子に唱える念仏。ここのシークエンスでは鉦の音の幻聴音も入れた方が効果的である。]、しきりなりし所を、和尙、能(よく)々見すまし、此者どもが後(うしろ)に廻り、

「南無阿彌陀仏。」

と、一聲(ひとこゑ)、落ちかゝるやうに、大音聲(だいおんじやう)に申さるれば、此一聲に肝を消し、俄に狐の化(ばけ)を顯し[やぶちゃん注:元の狐の姿を露見させてしまい。]、飛がごとくに迯失(にげうせ)たり。

 和尙、

「さればこそ。」

と、太郞市にむかひ、申されけるは、

「此後(のち)、又も來(きた)るまじ。心やすく、念佛し玉へ。」

とて、歸寺(きじ)せられしが、狐ども、こりけるにや、それよりして、ふたゝび來らざりけるとぞ。

[やぶちゃん注:前にも「太平百物語卷三 廿二 きつね仇をむくひし事」で指摘したように、特異点の江戸ロケーションの怪談である。リンク先の話の浅草の一部が被差別民のアジールであったように、ここも江戸の東の辺縁である。やはり、この作者菅生堂人恵忠居士には何か江戸を忌避する意識が強く働いていると言ってよいように思うのである。

「江戶牛込」現在の東京都新宿区東部の地名であるが、当時は、谷の多い武蔵野(山手)台地からなる一帯で、古くより「牛込」の地域名は早稲田から戸山原方面にかけて呼称された広域地名で(この附近。グーグル・マップ・データ)、江戸市中の東端に当たり、東は、かく狐も住む野原であった。太郎市の家はその「片ほとり」とあるから、まさにその西の草原に近い位置にあったものと考えてよく、野狐も出入りし易かったのであろう。]

太平百物語卷四 卅六 百々茂左衞門ろくろ首に逢し事

Rokurokubi

  

   ○卅六 百々(どゞ)茂(も)左衞門ろくろ首に逢(あひ)し事

 若狹の國に百々茂左衞門といふ侍あり。

 或時、夜更(ふけ)て、士町(さぶらひまち)をとをられけるが[やぶちゃん注:ママ。]、水谷(みづのや)作之丞といふ人の、やしきの高塀(たかへい)の上に、女の首斗(ばかり)、あちこちとせし程に、怪しくおもひ、月影に、能く[やぶちゃん注:「よく」。]すかし見れば、則[やぶちゃん注:「すなはち」。]、作之丞召使ひの腰元なりしが、茂左衞門を見て、

「にこにこ。」

笑ひければ、茂左衞門、いよいよ、ふしぎをなし、持(もち)たる杖にて、頭(かしら)を、そと、突きたりしが、是に恐れて、迯吟(にげさまよ)ふ風情(ふぜい)にて、やがて、高塀の内にぞ、落(おち)たり。

 茂左衞門、深更(しんかう)[やぶちゃん注:深夜。]の事なれば、不審(いぶかし)ながら、其儘にして、歸宿しける。

 此腰元、能(よく)臥居(ふしゐ)たるが、

「あつ。」

と叫び、苦しみければ、傍(そば)に臥たる下女、此音に驚き覚(さめ)て、

「如何(いかゞ)し玉ひける。」

とゝへば、此腰元、胸、押(おし)さすり、語りけるは、

「扨も、恐しき夢を見侍る。每(いつ)も心安く旦那殿と語り給ふ百々茂左衞門殿の、此門前を通りたまふに行逢(ゆきあひ)しに、わらはを見て、嶲(たづさ)へ給ふ杖を以て、わが頭(かいら)を、さんざん、打ち給ふ程に、余り苦しく、堪(たへ)がたさに、にげ走ると思ひしが、夢にてこそ侍べりつれ。」

と語りける。

 此事、作之丞耳(みゝ)にも入(いり)しが、

「夢は、跡かたなき物なれば、さる事もあらん。」[やぶちゃん注:「夢などというものは、所詮、他愛もない、意味なき幻しのものであるから、そんなこともあるであろうよ。」。]

と、いひて止(やみ)けるに、其(その)翌(あけ)の日、茂左衞門、來り、世上の物語などして後(のち)、ひそかに、作之丞傍(そば)に寄(より)、腰元が事を、「しかじか」のよし、語りければ、作之丞も、此腰元が物語も、少(すこし)も違(たが)はねば、

『扨は。世にいひ傳ふ「ろくろ首」ならめ。』

と、淺ましく、不便(びん)の事に思ひて、ひそかに此女を一間に招き、「此よし」を告(つげ)しらせ、能(よく)々さとしければ、此女、いと恥かしき事におもひ、直(すぐ)に主人に御いとまをこひ、髻(もとゞり)おし切(きり)、尼となり、前生(ぜんじやう)のかいぎやう[やぶちゃん注:「戒行」。戒律を守って修行すること。]、拙(つたな)き事を歎きて、一生、佛に仕へ、身罷(まか)りけるとぞ。

[やぶちゃん注:以上は「轆轤首(ろくろくび)」譚では極めて多く見出される常套的な轆轤首譚の典型的な一つである。本書は享保一七(一七三三)年刊であるが、恐らく、最も古い本邦を舞台とした酷似する類型話は近世初期の怪談話の古形をよく伝える「曽呂利物語(そろりものがたり)」(著者未詳。寛文三(一六六三)年刊の全五巻から成る仮名草子奇談集)の「二 女のまうねんまよひありく事」(女の妄念迷ひ步く事)であろうし、それを受けた「諸国百物語」(著者未詳。延宝五(一六七七)年刊。「百物語」系怪談本で百話を完遂していて現存する近世以前のものは、この「諸國百物語」ただ一書しか存在しない(リンク先は私の挿絵附き完全電子化百話(注附き))の「諸國百物語卷之二 三 越前の國府中ろくろくびの事」が、総ての本邦を舞台とした本パターンの源流と言えるであろう。以降のヴァリエーションは私の「柴田宵曲 妖異博物館 轆轤首」でかなり電子化して示してあるので参照されたい。最も新しい私の轆轤首の注記載は江戸前期の文人山岡元隣による怪談本(貞享三(一六八六)年刊の著者没後の板行であり、元隣は寛文一二(一六七二)年没であるから、彼の見解は「轆轤首」が盛んに変形される前の、その原型に近いものを考証していることから、見逃し難い内容を持つ)「古今百物語評判卷之一 第二 絶岸和尚肥後にて轆轤首見給ひし事」であり、そこで元隣も明らかにしている通り、轆轤首のルーツは中国の「尸頭盤」「飛頭盤」である(私の注は中国の原典も示してある)。なお、こちらで、江戸イラストレーターで、主人公と同じ姓の百々敬子氏が描かれた本話の十一コマの漫画が見られる。

「士町(さぶらひまち)」侍町(さむらまち)。当時のそれは亀山城山麓の東から北西部及び反対の南から南西部にあったものと推定される(グーグル・マップ・データの亀山城周辺。以上の位置はグーグル・マップ・データの史跡配置及び「図説福井県史 近世四 城下町のかたち(一)」の記載に拠った)。]

2019/05/20

うかれ魂 すゞしろのや(伊良子清白)

 

うかれ魂

 

おくつきどころ小夜更けて、

おきそふ露の色寒く、

生ひしげりたる夏草に、

もゆる螢もかすかなり。

 

法の燈とてらすなる、

月の光も影更けて、

苔路を風の吹くなべに、

こゝらの墓もゆらぐめり。

 

うらさびまさる夜もすがら、

佛の御名を唱へつゝ、

おくつきのべにぬかづきて、

なげきかなしむをのこあり。

 

暮れ行く春にともなひて、

こゝにうもれしこひ妻を、

こがれこがれていつしかに、

もの狂はしくなりしとや。

 

ひとつ蓮葉(はちす)にゐならびて、

二世の契を結ばむと、

ほとけに禱みしちかひさへ、

妻はわすれていそぎけむ。

 

のこる恨の長くして、

御寺のにはにあかしつゝ、

こゝろのかぎりいのれども、

妻はふたゝび皈りこず。

 

あはれかなしやわが妻は、

ふたゞび世にはかへりこず。

われのみひとりのこりゐて、

はかなき戀にしづむなり。

 

かなしやあなとなき伏せば、

かすけき聲に遠くゆも、

さななげきそよわが背子と、

いふ聲風にたぐひきて。

 

見かへりすれば奧城の、

小草の陰ゆぬけいでゝ、

妻のおもわはまぼろしの、

たゞよふ中にうかぶなり。

 

ゆめかうつゝか戀妻は、

なげくをのこの手をとりて、

たまへとばかりあともなく、

おくつきのべにさそふなり。

 

うつし心もきえはてゝ、

ものもおぼえずなるなべに、

魂はむくろをぬけいでゝ、

雲井はるかにかけり行く。

 

一ひらくだる白雲に、

うちのせられて行くほども、

天津御空のあなたより、

淸淨き光のわきいでゝ。

 

雪にまがひてふりかゝる、

蓮の花もかぐはしく、

のどけき風に物の音の、

妙なるふしもきこゆなり。

 

白がね流す天の川、

みぎはに立ちてひれふれば、

まさごの上にいつ色の、

橋の姿もうつるなり。

 

天の羽衣匂ふまで、

おもわたえなる久方の、

天津少女にさそはれて、

玉のうてなを來て見れば、

 

たなびきかくす紫の、

雲の光もまばゆくて、

軒端をめぐるあし鶴の、

一聲高くひゞくなり。

 

けはひまぢかき御佛の、

あまねき法のみめぐみに、

障(さは)りの雨のあともなく、

迷ひの雲もはるゝなり。

 

をのこはものゝ尊さに、

ことばもなくておろがめば、

やさしき聲にみ佛は、

をのこも妻もきけよかし。

 

こゝは佛の國なれば、

心にかゝる塵もなし。

幾千代かけて妹と背の、

まことの契むすべかし。

 

こひしき妻と袖並めて、

淸淨きうてなの上ながら、

かたみにかたるうれしさは、

前の世いつかわすられて。

 

あくごもあらずあるほどに、

ほのぼのあくるいなのめの、

雲のまぎれにまぎれつゝ、

妻の姿はきえにけり。

 

うすく殘れる有明の、

月のひかりにながむれば、

おくつきどころ風吹きて、

見しはゆめぢか天津くに。

 

八重立つ峯のあなたより、

妻のおもわのあらはれつ、

よばむとすれば影きえて、

聲のみ背子とさけぶなり。

 

[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年十月『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」(現在知られる本署名の初出)。全体のシチュエーションも対象映像も朧げで、私は今一つと感ずる。

 標題は「うかれたま」或いは「うかれだま」か?

 第二連初行「法の燈とてらすなる、」は「のりのともしとてらすなる、」か?

 第五連の「禱みし」は「たのみし」か?

 第二十一連頭の「あくご」は、悪意・邪意含んだ言葉、悪口・悪言の謂いか。

 以上、語彙も少し自己陶酔的に上すべってしまって、却って白ける気が私にはする。]

鄙の名月 蘿月(伊良子清白)

 

鄙の名月

 

ひよりを空にあらはして

西にこがるゝ秋のくれ、

まちし三五の夜の月は

今やさしでぬ木の間より、

 

あはれ都のうへ人は

さぞや今宵の月影に

高きうてなに宴(うたげ)して

玉の杯さしかはし

ろをたき女ども侍せて

月に思ひをよするらむ。

 

それとは變る鄙のさま

翁は山のかへるさに

畠(はたけ)の芋のいく本と

たをれる尾花さしそへて

家居をさして急くめり

鳴く蟲の音もよそにして。

 

いぶせき軒のはし近に

月の宴の心して

ゆふげの膳にい向ひつ

醉ふには足らぬ御酒にしも

晝の疲れにいと醉ひぬ

月も朧に見ゆるまで。

 

文にはくらきさと人は

深き思ひもまゝならず

うち見る外の遊びには

口になれたる伐木(きこり)歌

ふしたえだえに謠ふ也

月よりきよき心もて。

 

[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年十月『新聲』掲載。署名は蘿月。この一篇、伊良子清白にしては非常に珍しく、二ヶ所で仮名遣いの不審が見られる。まず、第二連「ろをたき女ども侍せて」の「ろをたき」は「﨟たき」で、正しい歴史的仮名遣は「らふたき」(発音・現代仮名遣でも「ろうたき」)である。また、第三連の「たをれる尾花さしそへて」の「たをれる」は歴史的仮名遣は「たふれる」である(但し、江戸時代より「たをれる」の表記は慣用的にはよく見られる。なお、第四連の「ゆふげの膳にい向ひつ」の「い向ひつ」の「い」は「居」ではなく、動詞を強調する接頭語「い」であるから、誤りではない。]

美人禪 蘿月(伊良子清白)

 

美 人 禪

 

麓におふる松杉の、

枝をかはしてきよらかに、

日蔭もらさず生ひ繁り、

涼しき風のまにまに、

菅なき笛の吹きすさぶ。

 

はるけき谷を流れくる、

水は幾谷落ちあひて、

幾度わきつあひつしゝ、

けしき磐根にくだかれて、

絃なき琴をかなでけり。

 

うき世を外のこの山邊、

おとのふ人もあばらやに、

住める共なくさしこめて、

のどかに暮す人やある、

見ゆる屋根こそ床しけれ。

 

軒端かたむき壁おちて、

僅にのこる庵のさま、

かくても人のあるなるや、

竹の編戶もとざゝねば、

 

まさしく住める人あらん。

あはれ住みいる人や誰れ、

まだうらわかき乙女子の、

麻の衣をまとへども、

ゆかしかりける名殘こそ、

靑き額にのこりけれ。

 

哀れいかにやかくばかり、

人目はなれし山里に、

色香たへなるさ乙女の、

浮世をすてゝわびしくも、

佛につかへまつるらん。

 

かれは悟りし身ならんも、

さすがに思ひ忍びてか、

形見の文かとり出でつ、

淨き衣の袖をしも、

ぬらし汚しぬ淚もて。

 

照りそう日蔭もらさじと、

枝をかはせる木々の音は、

浮世にたちし心しも、

物思ふ身はいかばかり、

哀れになどか埋るらん。

 

谷を流れて幾度か、

われつあひにし水の音は、

佛のつかふ身ながらも、

なき人かこつ心にも、

いかでかあだに過すへき。

 

[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年六月『新聲』掲載。署名は蘿月。]

太平百物語卷四 卅十五 三郞兵衞が先妻ゆうれいとなり來たりし事

Sennsaiyuurei

 

 

    ○卅十五 三郞兵衞が先妻ゆうれいとなり來たりし事

 河内の國に三郞兵衞とて、家、冨(とみ)さかへたる百姓あり。夫婦(ふうふ)の中もむつまじく、心豐かにくらしけるに、此女房、風の心地と煩ひ出(いだ)し、次第次第に重くなり、既に危(あやう[やぶちゃん注:ママ。])かりければ、三郞兵衞、かぎりなくかなしみ、枕下(まくらもと)に寄(より)て、口說きけるは、

「御身、若(も)し世を、はやふし玉はゞ、一人の幼子(やうじ/いときなき[やぶちゃん注:後者左ルビはママ。])、たれありて、養育せん。然(しか)れば、いかなる所へも遺(つかは)し、我は髻(もとゞり)を切(きり)て、世を遁(のが)れん。」

とぞ、かこちける[やぶちゃん注:「託ちける」で「嘆き訴えた」の意。]。

 女房、苦しき床(ゆか)の上に、目をほそぼそと開き、三郞兵衞が顏を、つくづぐうち守り、

「実(げに)や。うき世の習ひながら、假初(かりそめ)にやまふ[やぶちゃん注:ママ。]の床にふし、御身に先達(さきだち)まいらする事の淺ましさよ。去(さり)ながら、愛別離苦の理(ことはり[やぶちゃん注:ママ。])は、知識(ちしき)の御身にも遁(のが)れ玉はぬと聞(きく)なれば、必ず、なげかせ玉ふなよ。我を不便(びん)と思召(おぼしめさ)ば、其御心を改め給ひ、後(のち)の妻を御入(いれ)ありて、跡に殘りしうなひごを守立(もりたて)、此家を續きさしめたび給へ。穴(あな)かしこ、忘(わすれ)させ玉ふな。」

と、是れを此世の限りにて、朝(あした)の霜と消(きへ[やぶちゃん注:ママ。])うせり。

 三郞兵衞は、妻が遺言の不便さに、取分(とりわき)、一子をいたはり育(そだて)けるが、其年も、いつしか暮(くれ)て、明(あけ)の年にもなりければ、一家(け)の人々、打寄(うちより)、とかく、後妻をすゝめける。

 三郞兵衞も、始めのほどは承引もせざりしが、

『一子の爲。』

と思ふより、ぜひなく、後妻を定めける。

 扨、吉日を擇(ゑら)み、一家(いつけ)の人々、打集(あつま)り、祝言(しうげん)の儀式を取り行ひけるが、三郞兵衞、

「用事をかなへん。」

と緣に出で、扨、内に入(いら)んとせし時、ふと、軒の方を見やれば、死失(しにうせ)たりし女房、窓の透間(すきま)より、座敷の体(てい)を、ながめ、ゐける。

 三郞兵衞、大きに驚き、思ふ樣、

『扨は。先妻、未(いまだ)成仏をなさで、中有(ちうう[やぶちゃん注:ママ。])に迷ひけるかや。末期(まつご)に後妻を入れよと勸(すゝめ)しを、誠の心ぞとおもひの外(ほか)、嫉妬の一念、はなれやらず、今宵の祝言をねたみ來たりし淺ましさよ。』

と思ひながら、さあらぬ体(てい)にて内に入しを、先妻のゆうれひ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、これを夢にも、しらず。

 さて、ことぶき[やぶちゃん注:祝言の本式。]も濟(すみ)て、皆々、私宅(したく)に歸れば、三郞兵衞も、後妻もろ共、ふしどに入て、私(ひそか)に後妻に語りけるは、

「我、此度、おことをむかへし事、先妻がわすれ記念(がたみ)の一子、いはけなければ、御身を賴み參らせんと、かくは招き侍りぬ。是、わが心ばかりにもあらず、先妻、すでに遺言せり。然るに、今宵、御身と夫婦の語らひをなす事、眞実(しんじつ)は亡妻(ぼうさい[やぶちゃん注:ママ。])、恨みおもふやらん、宵より、外緣(そとゑん)に彳(たゝずみ)て、此座敷を見入(いれ)しを、我、慥(たし)かに、見屆けたり。然れば、御身の爲(ため)も、よろしからず。御痛(いた)はしく侍(さぶら)へども、今宵、すぐに御いとまを參らするなり。此事、穴(あな)かしこ、人に語り給ふな。」

と、泪(なみだ)にくれて申しければ、此女も三郞兵衞が餘儀なき物語に、いひ出(いだ)すべき言葉なく、さしうつぶひてゐたりしが、俄に氣色(けしき)かはりて、

「のふ[やぶちゃん注:ママ。]、いかに、三郞兵衞殿、只今の御言葉こそ、かぎりなく恨(うらめ)しけれ。我等、末期に申せしごとく、『後妻をはやく入れ給へかし』と、おもふ日數も移り行く。御心ざしは有難きに似たれども、一子が母のなき事をおもへば、悲しくさふらひて、うかびもやらず、夜每(よごと)には、此座敷の緣先まで愛子(いと)が安否を窺ひ來(く)る。然るに、今宵、後妻を迎へ玉ふ有りさま見參らせ、心の内の嬉しさ、なかなか、言葉に盡されず。もはや、此世のおもひ、はれ、速(すみやか)に成佛せん事、うたがひなし。何しに、嫉妬の心を懷き申べき。必(かならず)しも、此女性(によしやう)と夫婦になり、愛子(いと)を守立(まもりたて)たまふべし。わが爲には、月每(つきごと)の忌日(きにち)をとひてたび給へ。さらば、さらば。」

と、いふかとおもへば、後妻は、かしこに倒れふす。

 三郞兵衞は隨喜の泪にくれけるが、臥(ふし)たる女を呼(よび)おこし、有りし次第を語り聞(きか)せ、先妻が願ひに任せ、再び夫婦の酒、酌(くみ)かはしけるに、後妻の心、貞節にて、繼子(まゝこ)を、能く[やぶちゃん注:「よく」。]いたはり、育(そだて)けるほどに、其後は、亡妻がゆうれひも、きたらず、一子も、年經て、成長しければ、跡式(あとしき)を讓り与へ、わが身は、後妻諸共に隱居し、目出度く、世をぞ辞しけるとかや。

[やぶちゃん注:「河内の國」現在の大阪府の東部。

「はやふし玉はゞ」この「はやふし」はママだが、「早くす」の連用形の「早うす」の転訛表現であろう。「早々に去る」で「死ぬ」の忌み言葉として用いていると私はとる。「はや/ふす」で「早臥す」「早伏す」、同じく「早々に死ぬ」の忌み言葉とも考えたが、「伏す・臥す」にそうした「死ぬ」の一般的な換語用法を見出し得なかった。

「かこちける」「託ちける」で「嘆き訴えた」の意。

「知識(ちしき)」仏道に教え導く優れた導師たる名僧を指す。

「用事をかなへん」厠へ行ったのである。

「中有(ちうう)」既出既注

「いはけなければ」「幼(稚)け無し」は年端がゆかず、頼りない感じの意。

「今宵、すぐに御いとまを參らするなり」初夜の晩にこのような異常な理由から、彼女に非常に悪いが、一方的に離縁を申し渡すこととなったため、「參らす」という「やる」の謙譲語を用いて異例に表現しているのである。

「のふ」正しくは「なう」或いはそれの発音通りを表記した「のう」。感動詞で感嘆の声を示す語。「ああっ!」。

「いかに」感動詞で呼びかけの語。「もしもし!」。

「うかびもやらず」成仏することも叶わず。

「愛子(いと)」愛児の意の「愛(いと)し子(ご)」の約。広くは後に専ら「お嬢さん」の意で用いる、主に大坂言葉と認識されている「いとさん」「いとはん」(但し、後者の使用は明治以降であり、古くは男の子にも用いた)の原型であろう。寛政年間(一七八九年~一八〇一年まで)の並木五瓶一世・並木正三二世合作の「色盛八丈鏡(いろざかりはちじょうかがみ)」に使用例がある(一九八四年講談社学術文庫刊の牧村史陽編「大阪ことば事典」に拠る)が、本書は大坂心斎橋の書林河内屋宇兵衛を版元とする享保一七(一七三三)年の新刊であるから、それより五十年以上も前に、既にこの「愛児」の意味の「いと」はあったことが判る。

「必(かならず)しも」「しも」は副助詞で、ここは単に特にその事柄を強調するために附したもの。

「跡式(あとしき)」「後職(あとしき)」。先代の家督・財産を相続すること、又は、その家督や財産。「跡目(あとめ)」に同じ。鎌倉時代以後に生まれた語である。]

2019/05/19

楊貴妃櫻 蘿月(伊良子清白)

 

楊貴妃櫻

 

霞も匂ふみよし野の、

  よし野の奧を分け入れば、

    おぼろ月夜にあこがれて、

      散り行く花もしづかなり。

 

五百重しきたつ白雲は、

  おのづからなる戶ざしにて、

    人は通はぬ岨かげを、

      谷水のみやもるならむ。

[やぶちゃん注:「五百重」は「いほへ(いおへ)」で「幾重にも重なっていること」を意味する万葉語。]

 

神さびたてる神杉の、

  こずゑの靑もしづかにて、

    菅生をわたるやま風も、

      すゞろにさむくひゞくなり。

 

たな引く雲のたえまより、

  あらはれわたる山ざくら、

    たわゝに咲けるひと本に、

      あたりの風もむせぶなり。

 

千年五百とせむかしより、

  花の色香のかはりなく、

    峯のかすみと匂ひては、

      谷間のゆきと消えにけむ。

 

尾の上ににほふ曙も、

  入日にくるゝ夕ばえも、

    吹くやあらしの五日ならで、

      尋ぬるものもなかるらむ。

 

あはれと手折る人もなく、

  たをりてめづるものもなき、

    この一もとはなかなかに、

      匂ふさくらの幸ならむ。

 

深山のはるとにほひつゝ、

  ちりもかゝらぬ一もとよ、

    世をはなれにし仙人の、

      あそぶ陰とや咲きぬらし。

 

谷の小川よこゝろあらば、

  花なさそひそ塵のよに、

    ながるゝ色にあこがれて、

      人やとひこむ花見にと。

 

こむる霞の色深く、

  さかりに匂ふ花の雲、

    木かげにたちてながむれば、

      空行く月もかげうすし。

 

蔦にうもるゝ岩が根の、

  苔のむしろをふみわけて、

    おりしく露をみだしつゝ、

      しづかにあゆむ手弱女は。

 

花の心をぬけいでゝ、

  しばしは月にうかるらむ、

    玉ともまがふおもばせに、

      かざす袂もにほふなり。

 

やなぎの糸のうち垂れて、

  雲にもにたる黑髮に、

    匂ふ一枝をたをりつゝ、

      簪花とかざす﨟たさは。

[やぶちゃん注:「簪花」は「かざし」と当て訓していよう。]

 

月の宮ゐのをとめ子も、

  たつの都のたをやめも、

    おもてやさしと思ふらむ、

      おのが姿にくらべ見て。

[やぶちゃん注:「たつの都」言わずもがな、「竜宮」。]

 

霞吹きとく山風に、

  つもるも惜しき袖の上の、

    花の吹雪をはらひつゝ、

      にほふ木かげをさしよりぬ。

 

「思へば久し八百とせの、

  むかしの夢をさながらに、

    花のうてなのうたゝねに、

      今宵も見つるやさしさよ。

 

散り行く花もとゞまりて、

  しばしは聞きねわが夢を、

    塵うちたえて天地の、

      ひゞきもねぶる頃なれば。

 

雲のころもをぬぎかへて、

  月のみやこをたちはなれ、

    もろこし人とみをかへて、

      ちりのうき世にまじりけむ。

 

御庭になびく靑柳の、

  いとながき日もあかなくに、

    秋の長夜をあかつきの、

      星のひかりにうらみけむ。

 

梶の葉風の吹きたえて、

  棚機のよの靜けきに、

    たかきうてなに居ならびて、

      二人ちかひし言の葉よ。

 

「天にありなばいかで君、

  翼ならぶる鳥となり、

    地にありなばいかでわれ、

      枝さしかはす木とならむ。」

 

夢のうき世のゆめさめて、

  玉の宮居にちりたてば、

    暮るゝ日影を慕ひつゝ、

      蓬がしまにいそぎけむ。

[やぶちゃん注:「蓬がしま」海上上空に浮かぶ仙界島「蓬萊山」のこと。]

 

幾はる秋の月はなに、

  ふりし昔を忍びつゝ、

    遠くうな原見わたせば、

      雲と水とをはてにして。

 

常世のくにの年長く、

  月日はこゝら積れども、

    君にわかれし夕べより、

      音信たえて聞えこず。

 

結びし夢をさながらに、

  ふたゝび見つるこゝちして、

    君のつかひと聞くからに、

      はふりおつるは泪なり。

 

いとまをつぐる仙人に、

  かたみとかざす黑髮の、

    黃金のかざし半より、

      折りてあたへついひけらく。

 

「契かたくばもろこしと、

  遠きとこ世とへだつとも、

    相見る折のなくてやは、

      まちてと君にことづてよ。」

 

汐みつ磯に舟出して、

  よもぎが島をたちはなれ、

    ゆくへいづこと白雲を、

      こぎ分けて行くわだの原。

 

落る夕日におくられて、

  さし出る月をむかへつゝ、

    しほの八百路の八汐路も、

      浪にまかせてわたりきぬ。

 

田子の浦曲に船はてゝ、

  大和島根を見わたせば、

    春やきぬらしうらうらと、

      天津御空もかすむなり。

 

髙みかしこみ天雲も、

  いゆきはゞかる不二のみね、

   ふもとに立ちてながむれば、

     千とせの雪に田鶴ぞなく。

 

春長閑なる東路の、

  八十の里わを行き行けば、

    雲雀は空にさへづりて、

      こてふは野邊にあそぶなり。

 

人こそ知らね久方の、

  天つ少女のおとしけん、

    琵琶の水海そひくれば、

      浪は絲ともきこゆなり。

 

袂をはらふ風かろく、

  志賀の山越こえくれば、

    柳さくらをこぎまぜて、

      都ぞ春のにしきなる。

 

若艸もゆる春日野の、

  飛火ののべを朝たちて、

    鈴菜すゞしろ分けくれば、

      大和國原見ゆるなり。

 

天の香久山うね火山、

  神代のまゝに霞みつゝ、

    かすみの奧にほのぼのと、

      匂ふよし野のやまさくら。

 

大和心と咲きいでゝ、

  世にふたつなき花さくら、

    一枝折らむと分け入れば、

      月は霞みて花ぞ散る。

 

やがて一夜を旅まくら、

  いは根の苔をむしろにて、

    匂ふ木陰の思ひねは、

      夢も花をやめぐりけん。

 

蓬がしまももろこしに、

  歸らむこともわすられて、

   花のうてなにやどらむと、

     塵のころもをぬぎすてつ。

 

國てふくにはさはあれど、

  日本にまさるくにやある、

    花てふはなはさはあれど、

      さくらにまさる花やある。

 

匂ふさくらの花のごと、

  たぐひまれなる敷島の、

    大和島根はむかしより、

      神のつくりし國ならじ。

 

神よりうけしこの國の、

  神の御末のすめらぎは、

    かしこき稜威萬代に、

      とつくにかけてかゞやかむ。

 

幾千代かけて住まばやと、

  花の梢にことどへば、

    吹きくる風におのづから、

      うなづく花もうれしくて。

 

咲き散る春のかはりなく、

  花のこゝろとみをかへて、

    月のみやこをいでしより、

      年の八百年すぎにけり。

 

ちかひしことばなになりし、

  折りたる簪花なになりし、

    まちてといひてことづてし、

      こゝろぞ今は恨なる。

 

今宵も見つるこの夢よ、

  ふりし昔の忍ばれて、

    花にもかたる一ふしは、

      やさしき思きはひなり。

[やぶちゃん注:最終行の「きはひなり」は意味不明。識者の御教授を乞う。]

 

うき世の塵にあこがれて、

  うつろふ色も知らざりき。

    神のみくにのこの月よ、

      さやかに心てらせかし。」

 

語りをはりて靜にも、

  匂ふ木陰をたちまへば、

    天の羽衣耀ぎて、

      月の散りくるごとくなり。

 

妙なる聲を谷間より、

  いらふ木魂の聲遠く、

    おのづからなる八重垣を、

        おりゐる雲ぞつくるなる。

 

世にしづかなる三吉野の、

  よし野の奧の春のよは、

    花の木の間にあこがれて、

      空行く月もやどるなり。

 

苔のむしろにおくつゆに、

  ぬれて立舞ふ﨟たさを、

    うらむか峯の夜嵐も、

      花の吹雪に吹きとぢて。

 

つらなる星の影きえて、

  月のひかりもうすれつゝ、

    花より白むあけぼのゝ、

      天の戶遠くあけそめぬ。

 

花のこゝろにかへるらし、

  妙なる聲のうちたえて、

    おりゐる雲もわかれつゝ、

      たち舞ふ影もきえにけり。

 

さへづりかはす百島の、

  聲をちこちにきこえ來て、

    花のこずゑをさし昇る、

      ひかりも高し朝日影。

 

[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年六月『靑年文』掲載。署名は蘿月。楊貴妃伝説を元に恐らくは徐福伝説などをハイブリッドし、またしても自在に空想を本邦に取材し、変わった幻想抒情詩に仕掛けているのだが、私は詩句自体の響きに酔っている嫌いが強過ぎて、今一つ。しかも展開自体にどうも破綻があるように思う。なお、「楊貴妃櫻」はサトザクラ(日本の固有種であるバラ目バラ科サクラ属オオシマザクラ Cerasus speciosa を主種として交配改良されたした品種原型と思われる)の園芸品種の和名ではあり、花は淡紅色で外部は色濃く、花は直径五センチメートルほどの八重咲き、先端は濃紅色で、奈良興福寺の僧玄宗が愛でたことからの名という(「同盟だからって、何? 僧侶でこれって何よ?!」って感じで、この坊主には私は興味はない)。芽は淡茶色を呈する種の和名ではあるが、ここでそれに限定する必要を私は感じない。]

勞働者と白き手の人 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    勞働者と白き手の人

        對  話

  勞働者。何だつてお前(めえ)は俺等(おいら)のところへやつて來たんだ? 何の用があるんだ? お前は俺等(おいら)の仲間ぢやねえ。……あつちへ行つてしまヘ!

 白き手の人。いや諸君、僕も君等の仲間なんだ!

 勞働者。なに仲間だつて! 途方もねえ! まあ俺の手を見ろ。どうだ穢(きた)ねえだろう。肥料(こやし)の臭ひや瀝靑(ちやん)の臭ひがすらあね――ところでお前のは眞白ぢやねえか。何のにほひがする?

 白き手の人。(手を差出して)嗅(か)いで見てくれ。

 勞働者。(その手を嗅いで)こりやどうだ! 鐡みてえな匂ひだが。

 白き手の人。さうさ、鐡なんだ。僕はまる六年間と云ふもの手錠を嵌(は)められてゐたんだ。

 勞働者。そりや何故(なぜ)だい?

 白き手の人。なに、そりや僕が君等の爲めになるやうに働いたからだ。壓迫されてゐる無智な連中を自由にしてやらうとして、皆に君等を壓制する奴等の

事を說き聞かせて、政府に反抗(てむかひ)したんだ。……すると奴等め、僕を縛りやがつた。

 勞働者。政府(おかみ)でお前(めえ)を縛つたつて? 何だつてまた反抗(てむかひ)なんかしたんだ!

       二 年 の 後

 第一の勞働者。(第二の勞働者に向つて)おい、ピヨトル! 一昨年(おとゝし)だつたか手前(てめえ)と話をした生白(なまつちろ)い手の野郞を覺えてゐるかい?

 第二の勞働者。うん覺えてる……それがどうした?

 第一の勞働者。ところでよ、あの野郞今日絞首(しめくび)になるつてんだ、その布告(おふれ)だ。

 第二の勞働者。また政府に反抗したんだね?

 第一の勞働者。反抗(てむかひ)したんだ。

 第二の勞働者。うむ!……ところでおい、ドミトリイ、一つ彼奴(あいつ)を絞(し)めた繩切れつ端を取つて來ようぢやねえか? そいつを持つてると家に福が來るつて言ふぜ!

 第一の勞働者。そいつあよからう。一つ遣つて見ようぢやねえか、ビヨトル。

    一八七八年四月

 

勞働者と白き手の人、所謂人民の中に行くこと、卽ち革命運動の徒勞を諷したもの。「處女地」の主人公ネヅダノフは革命運動に投じて、農民に說教したが、彼等は彼の言ふ事なんどてんで理解もせず、ただ一緖に酒を飮んだばかりである。ベアリングは革命運動にたづさはつた人達の失敗した農民を理解し農民に融合する事に、ドストエフスキイなどの方が成功したと言つてゐる。】

云々は民間迷信、ああ何等の悲痛な皮肉ぞ。】

[やぶちゃん注:「處女地」ツルゲーネフが一八七七年に発表した最後の長編小説。七十年代ロシア社会を風靡した「ヴ・ナロード」(в народ:「人民の中へ」)の人民主義運動の失敗を扱った作品。反動的・退嬰的な貴族を批判するとともに、急進的革命を皮肉を以って描いたことから、発表当時は左右両陣営から非難を浴びた。主人公は某公爵の庶子で、ペテルブルグ大学の学生にして理想主義的な詩人ネジダーノフ(Нежданов:ラテン文字転写:Nezhdanov)。

「ベアリング」イギリスの作家モーリス・ベアリング(Maurice Baring  一八七四年~一九四五年)。彼は、例えば、一九一〇年に「Landmarks in Russian Literature」(「ロシア文学に於ける画期的な出来事」)なお、本訳詩集は大正六(一九一七)年刊である。

「ベアリングは革命運動にたづさはつた人達の失敗した農民を理解し農民に融合する事に、ドストエフスキイなどの方が成功したと言つてゐる」この文章、日本語がおかしい。「ベアリングは」、『「革命運動にたづさはつた人達が失敗した」それに比べ、遙かに「農民を理解し』、『農民に融合する事に」ついての観点からみれば、「ドストエフスキイなどの方が」はるかに「成功した」』「と言つてゐる」という謂いであろう。

太平百物語卷四 卅四 作十郞狼にあひし事

 

   ○卅四 作十郞狼にあひし事

 大坂北久寶寺町(きたきうほうじまち)に、白粉(おしろい[やぶちゃん注:ママ。])屋作十郞といふ者あり。

 常に佛法をふかく信じけるが、一子、成人しければ、家の業(わざ)を讓りて、日本囘國にぞ出(いで)ける。

 既に西國の方(かた)は廻(めぐ)り仕舞(しまひ)、關東の方に赴きけるが、上總の國、「かぎりの山」といふ所にて、日(ひ)暮(くれ)ぬ。

 然(しかれ)ども、此麓には家居(いへゐ)もはかばかしく見へず。

『いざや、此山を過て[やぶちゃん注:「すぎて」。]、あなたに宿らん。』

とおもひつゝ、たどり行きしが、むかし、重保(しげやす)とかやいひし人の、

   我爲(わがため)にうき事見へばよの中に

    いまはかぎりの山に入なん

[やぶちゃん注:「見へば」はママ。以下同じ。「入なん」は「いりなん」。]

とよみけるよしを、つくづく思ひ出(いづ)るに付(つけ)て、いとゞ我身の上も心ぼそく覚へけるが[やぶちゃん注:ママ。]、元より、命のかぎりを修行する身なれば、足に任せて行く程に、しらぬ山路(やまぢ)をよぢ登り、山ぶところ[やぶちゃん注:「山懷」。]に入(いり)ぬれば、俄に身の毛だちて、物すごく、足の立所(たてど)も、しどろになりぬ。

 作十郞、心におもひけるは、

『我、浮世の除(ひま)をあけ、佛法修行(ぶつはうしゆうぎやう[やぶちゃん注:ママ。])に、身命(しんみやう)を擲(なげうつ)とおもひしに、未(いまだ)煩惱のきづな、切(きれ)ざるにや。』

と淺ましくて、心中(しんぢう)に慚愧(ざんぎ)し[やぶちゃん注:現在は「ざんき」と清音で読むのが一般的。現在は専ら、ただ、「恥じること」の意味で使われるが、本来は仏教語で、しかも「慚」と「愧(ぎ)」とは別の語である。「慚」は「自らの心に罪を恥じること」を、「愧」は「他人に対して罪を告白して恥じること」を指す。或いは「慚」は「自ら罪を犯さないこと」を、「愧」は「他に罪を犯させないこと」とも言う。]、日比(ごろ)、尊(とうと)み奉りし「千手千眼(せんじゆせんげん)の陀羅尼(だらに)」を高らかに唱へて、猶、山ふかく步み行(ゆく)に、道の眞中(まんなか)に大石(たいせき)のごとくなる物ありて、動くやうに見へければ、近く寄(より)てみるに、さも冷(すさま)じき狼にて、眼(まなこ)をいからし、大き成(なる)口をひらき、控(ひかへ)ゐたり。

『こは、いかに。』

と跡(あと)を顧りみれば、いつの間にか來りけん、同じく、劣らぬほどの狼、金(こがね)のごとき眼(まなこ)を光らし、只一口(ひとくち)に喰はん勢ひなり。

 作十郞、前後にはさまれ、今は遁(のが)るべき道なければ、

『我(わが)命、すでに限りの山(やま)に究(きはま)れり。』

と觀念し、肩に掛(かけ)たる笈(おひ)をおろし、心靜(こゝろしづか)に、念佛、四、五遍、唱へ終はり、狼にむかひ、いふやう、

「汝、畜生なりといへ共、わがいふ事を能(よく)聞(きく)べし。われ、此度(このたび)、日本囘國に志し、大方に廻(まは)りしまひ、今、既に關東に赴く所に、圖らずしも、此山にして汝等に出合(いであひ)たり。元來、不惜身命(ふしやくしんみやう)の修行者(しゆぎやうじや)なれば、命は、露(つゆ)よりも猶、かろし。されども、祈願、全(まつた)からずして、おことらが腹中(ふくちう[やぶちゃん注:ママ。])に入らん事、是、一つの歎きなり。畜類ながら、心あらば、此理(ことはり[やぶちゃん注:ママ。])を聞分(きゝわけ)て、わが一命を助くべし。然(しか)るにおゐては[やぶちゃん注:ママ。]、汝等が來世、畜生道を除(のが)るべき經文を誦して、報謝とせん。心なくんば、只今、餌食と(ゑじき)せよ。」

と、眼(まなこ)を塞(ふさぎ)て觀念しゐけるに、前後二疋の狼、さしも惡獸なれども、此理にやふくしけん、怒れる氣色(けしき)、引かへ[やぶちゃん注:「ひきかへ」。]、忽ち、頭(かうべ)をうなだれて、遙(はるか)あなたに退(しりぞき)しかば、作十郞、此体(てい)をみて、

「誮(やさし)くも聞き入れけるかや。今は心安し。」

とて、又、笈を肩にかけ、道を求めて過行(すぎゆけ)ば、雷(いかづち)のごとくなる聲して、二聲、さけびけるこそ、冷(すさま)じけれ。

 夫(それ)より、やうやう山を越(こへ)て[やぶちゃん注:ママ。]、里に出[やぶちゃん注:「いで」。]、とある家に宿を乞ひ、山中(さんちう[やぶちゃん注:ママ。])の有樣を亭(あるじ)に語れば、あるじを始(はじめ)、家内の人々、橫手(よこで)を打(うち)、

「抑(そもそも)、此[やぶちゃん注:「この」。]ふうふ[やぶちゃん注:「夫婦」。オオカミの雌雄のペア。]の狼にあひたる者、一人も生(いき)て歸りし例(ためし)をきかず。殊に御身は、有難き桑門(よすてびと)かな。」

とて、いと念比(ねんごろ)に饗應(もてな)し、夜明(あけ)て、東に心ざし、終に日本國中、おもふまゝに修行して、近き比(ころ)、目出度、往生をとげられけるとかや。

[やぶちゃん注:「大坂北久寶寺町(きたきうほうじまち)」現在の大阪府大阪市中央区北久宝寺町(まち)(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「北久宝寺町」によれば、『かつて船場に久宝寺という寺院があったことに由来するという説と、道頓堀川が開削された際に河内の久宝寺から多くの人夫が来て、この地に集落ができたためという説の』二『つがある』とある。

「白粉(おしろい)屋作十郞」屋号通りの職種であるとすれば、白粉の製造業或いは問屋か。ウィキの「おしろい」によれば、日本では、七世紀頃に『中国から「はらや」(塩化第一水銀)、「はふに」(塩基性炭酸鉛)という白紛がもたらされ、国産化された』。『白粉に鉛白が使用されていた時代、鉛中毒により、胃腸病、脳病、神経麻痺を引き起こし死に至る事例が多く、また日常的に多量の鉛白粉を使用する役者は、特にその症状が顕著であった(五代目中村歌右衛門など)。また、使用した母親によって胎児が死亡や重篤な障害を蒙る場合もあった(大正天皇の脳症も生母ら宮中の女性が使用していた鉛白が原因との説がある』『)。胸元や背中に至るまで、幅広く白粉を付けるのが昔の化粧法として主流であったからである。昭和九(一九三四)年には『鉛を使用した白粉の製造が禁止されたが、鉛白入りのものの方が美しく見えるとされ、依然かなりの需要があったという』とある。

「上總の國」「かぎりの山」不吉な名であるが、サイト「BOSO LEGEND」の「十市姫と限りの山(筒森神社)」によれば、現在の千葉県夷隅郡大多喜町筒森にある筒森神社(グーグル・マップ・データ)から見える山とし、「壬申の乱」で敗れた大友皇子(大化四(六四八)年~天武天皇元年(六七二)年:弘文天皇とも称するが、即位していたかは定かでない)は琵琶湖の近くで縊死して自害したことになっているが、別伝承として、密かに大津の都を遁(のが)れ、上総の地に落ち延びたとするものがあり、ウィキの「弘文天皇」によれば、『壬申の乱の敗戦後に、妃・子女や臣下を伴って密かに落ち延びた」とする伝説があり、それに関連する史跡が伝わっている』。特に千葉県の『君津市やいすみ市、夷隅郡大多喜町には、大友皇子とその臣下たちにまつわる史跡・口伝が数多く存在しており』、十七『世紀前半に書かれたと考えられている地誌』「久留里記」(編者未詳)や、宝暦一一(一七六一)年に『儒学者の中村国香が編纂した』「房総志料」『に記載がみえる』とある。サイト「BOSO LEGEND」の「十市姫と限りの山(筒森神社)」に齊藤弥四郎による、大友皇子と、その后妃十市皇女(とおちのひめみこ 白雉四(六五三)年?(大化四(六四八)年説もある)~天武天皇七(六七八)年:特に)の悲劇の伝承が語られてある(筒森神社の主祭神は十市皇女)ので、是非、参照されたい。また、そこでは、ここで「重保」(不詳。あり得そうなのは、賀茂重保(かものしげやす 元永二(一一一九)年~建久二(一一九一)年:京都の賀茂別雷(かもわけいかずち)神社(通称は上賀茂神社)神主で歌人としても有名。治承二(一一七八)年に藤原俊成を判者に迎えて「別雷社歌合」を開き、賀茂神社の歌壇を形成した)であろうが、以下に見る通り、これは彼の歌ではない)の作として後に出る和歌は、生き延びよ、と大友皇子から突き放された身重の十市皇女が、山中に分け入り、大多喜で一番高い石尊山(せきそんさん:前のリンクはグーグル・マップ・データ。ピークは千葉県君津市黄和田畑。東北一・九キロメートル位置に御筒大明神(筒森神社)が見える。国土地理院図では山名が確認でき、標高は八百四十七・八メートル)に辿り着いた際に詠んだとする

 わがために憂きこと見えば世の中に

   今は限りの山に入りなむ

一種であることが判る。作者が何故、このような錯誤をしたのかは不明。識者の御教授を乞う。

「千手千眼(せんじゆせんげん)の陀羅尼(だらに)」通称で「大悲心陀羅尼」と呼ばれ、正式には「千手千眼観自在菩薩広大円満無礙(むげ)大悲心陀羅尼」と言ういい、「なむからたんのー、とらやーやー」という出だしで知られる、日本では特に禅宗で広く読誦される基本的な陀羅尼の一つ。陀羅尼とは、仏教に於いて用いられる呪文の一種で、比較的長いものを指す語。通常は意訳せずにサンスクリット語原文を漢字で音写したものを各国語で音読して唱える。以下に見る通り、これは経典中の一部分を抽出したもの。ウィキの「大悲心陀羅尼」によれば、『禅宗依用のものは最初の漢訳とされる伽梵達摩』(がぼんだつま/だるま:生没年不詳。中国名は尊法。唐代の西インド出身の訳経僧)訳の「千手千眼観自在菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼經」の『陀羅尼の部分(当然のことながら梵語の音写)を取り出したものとされる』。「宋高僧伝」では『訳出を唐高宗の永徽年間』(六五〇年~六五五年)~顕慶年間(六六一年~六五六年)『と推測している。また』、『サンスクリット本は』存在せず、『偽経ともいわれる』とある。リンク先には全文の漢字表記と平仮名訓読文がある。

「狼」我々が絶滅させてしまった哺乳綱食肉目イヌ亜目イヌ科イヌ亜科イヌ属タイリクオオカミ亜種ニホンオオカミCanis lupus hodophilax(カニス・ルプス・ホドピラクス:北海道と樺太を除く日本列島に棲息していた)。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狼(おほかみ)(ヨーロッパオオカミ・ニホンオオカミ・エゾオオカミ)」を参照されたい。オオカミは雌雄のペアを中心とした平均四~八頭ほどからなる社会的な群れ(パック:pack)を形成し、群れはそれぞれ縄張りを持ち、特に大型の獲物を狩る時は雌雄のペアやそうした群れで狩うので、この挟み撃ちは決して架空ではない。

「不惜身命(ふしやくしんみやう)」仏道修行のためには身も命も惜しまず、死をも厭わない決意の謂い「法華経」の「譬喩品(ひゆぼん)」などにある語。

「怒れる氣色(けしき)、引かへ[やぶちゃん注:「ひきかへ」。]」怒り猛っていた表情や様子が、一転して変わって。

「雷(いかづち)のごとくなる聲して、二聲、さけびけるこそ、冷(すさま)じけれ」先の牡牝の狼のそれぞれの遠吠えと読めるが、怪異のコーダの上手いSE(サウンド・エフェクト)である。

「橫手(よこで)を打(う)」つ、とは、思わず、両手を打ち合わせることで、意外なことに驚いたり、深く感じたり、また、「はた!」と思い当たったりしたときなどにする動作を指す。室町末期以降の近世語。

「桑門(よすてびと)」「太平百物語卷二 十七 榮六娘を殺して出家せし事」で既出既注。]

2019/05/18

新しき美(は)しき恋人

 

Kanade



六十二歳にもなって――新しい超弩級に美しい恋人が出来た! それも教え子夫婦の子だ!! これはヤバシヴィッチのヤブノヴィッチだ!!! これは政治的道義的大問題だ!!!! でも――凝と見詰め合って笑い合ったのだっツ!!!!! しかし――絶対の詩神(ミューズ)よ!!!!!! こればかりは!!!!!!! どうか許してくだされいぃっツ!!!!!!!!


[やぶちゃん注:今日、私の最も今に近しい教え子夫婦(ただちょっと教えただけなのだけれど。でも、私には確かな忘れ難い「教え子」である)と横浜で会食した。十ヶ月の彼らの娘に逢った――それはそれは……名立たる詩人たちに詩を作らせずんばならざる可愛い娘であった。それを語らずには、私は生きている価値がないほどに美(は)しき娘であったのだ!…………]

[やぶちゃん追記:思えば僕は生まれて、このかた、ほんとうの赤子抱いたことが――なかった……だから……彼女は――真に――ミューズ――であったのである…………しかし、よく見ると、私の眉間には皺が寄っている……でも……それは彼女が、ものを食べる時(僕は、今日、ただ一度だけれど、御夫婦に勧められて、彼女に匙で離乳食をも食べさせたのでもあったのであった)寄せる眉間の皺と全く同じではなかったか!?! それを見た時、私は宮澤賢治よろしく、『「この子」やそれに繋がる子らの「幸い」を私たちは確かに担って行かねばならぬのは――この私ら――ではないのか?』と、遅ればせながら、思うたのであった……

髑髏 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    髑  髏

 

 壯麗な、燦爛たる廣間。紳士淑女の群れ。

 すべての知は活氣附いて、談話(はなし)ははずんでゐる。……賑かな談話(はなし)の對照は或る有名な唱歌女(シンガア)である。彼等は彼女を神聖だ、不朽だと呼んだ。……『あゝ、實にすばらしいものだつた、彼女が昨日やつた最終の顫音(トリルレル)は!』

 すると突然――丁度魔法使ひの杖を振つたやうに――すべての頭から、すべての顏から、綺麗な皮膚の蔽ひが滑り落ちてしまつて、忽ち白々(しろじろ)とした髑髏があらはれ、むき出しになつた顎や齒齦(はぐき)鉛色に光つた。

 恐る恐る私はその顎や齒齦(はぐき)の動くのを見た。そのごつごつした骨の球が、ランプや蠟燭の光にきらめいたりぐるぐる廻つたりするのを見た。又その球の中に他の一壮層小さな球が廻つてゐるのを見た。それは何の意味も無い眼の球だ。

 私は恐ろしくて自分の顏に觸れないように、また鏡にも向はないようにしてゐた。

 髑髏はやつぱりぐるぐる廻つてゐる。……そして初めのやうな騷ぎをして、小さな紅(あか)い布(きれ)みたやうな舌を剝き出された喬の間からべろべろ覗かせながら喋(しやべ)つてゐる、『實にすばらしい、實に及びもつかぬ.不朽な……さうだ、不朽な……唱歌女(シンガア)のやつたあの最後の顫音(トリルレル)は!』

    一八七八年四月

 

唱歌女(シンガア)、オペラの歌うたひ、柴田環、原信子などと云ふ人がそれに當る。】

顫音は音樂上の言葉、聲をふるはせて長く引つぱる唱ひ方をいふ。】

[やぶちゃん注:「顫音(トリルレル)」恐らく生田はこの篇を「序」に出る「ヰルヘルム・ランゲ」(ドイツ人と思われる翻訳家ヴィルヘルム・ランゲ(Wilhelm Lange 一八四九年~一九〇七年)か)のドイツ語訳を元にしているものと思われる。トリル(trill:音楽用語。「音をふるわす」の意で、装飾音の一種。通常は略して「tr.」と記入のある主要音と、その二度上の補助音とを交互に急速に反復することを指し、主要音から始まるのが普通。三度以上の音程とそれを行う場合は「トレモロ」(イタリア語:tremolo)と呼ぶ)はドイツ語で「Triller」(発音カタカナ音写:トゥリラァ)と書くから、生田はこれを綴り字から、かく音写したものと思われるからである。

「柴田環」三浦環(みうらたまき 明治一七(一八八四)年~昭和二一(一九四六)年)は日本で初めて国際的な名声を得たオペラ歌手で、十八番(おはこ)であったプッチーニ(Giacomo Antonio Domenico Michele Secondo Maria Puccini 一八五八年~一九二四年)の「蝶々夫人」(Madama Butterfly:一九〇四年初演)の「蝶々さん」と重ね合わされて、国際的に有名であった。東京生まれ。元の姓は「柴田」で、明治三三(一九〇〇)年の東京音楽学校入学直前に父の勧めで陸軍軍医藤井善一と結婚して「藤井環」と称したが、後、離婚(明治四〇(一九〇七)年)し、大正二(一九一三)年に柴田家の養子であった医師三浦政太郎と再婚した。本書は大正六(一九一七)年六月刊であるが、彼女は三浦と結婚後、「三浦」姓を、終生、名乗っていたようである。詳しくは参照したウィキの「三浦環」を読まれたい。

「原信子」(明治二六(一八九三)年~昭和五四(一九七九)年)は国際的なオペラのソプラノ歌手。青森県八戸市出身で明治三六(一九〇三)年から三浦環に師事した。大正七(一九一八)年には「原信子歌劇団」を結成し、浅草で大衆的なオペレッタを次々と上演、田谷力三・藤原義江らとともに、所謂、「浅草オペラ」の一時代を築いたが、翌大正八年に突然の引退宣言をし、本格的にオペラを学ぶために渡米、マンハッタン・オペラに出演する幸運に恵まれ、その後、カナダを経由してイタリアに留学、そこでサルヴァトーレ・コットーネ(Salvatore Cottone)に師事し、また、プッチーニやピエトロ・マスカーニ(Pietro Mascagni 一八六三年~一九四五年:オペラ作曲家・指揮者)の知遇も得た。一九二八年(昭和三年)から一九三三年までの間、日本人で初めてミラノの「スカラ座」に所属し出演した。昭和九(一九三四)の帰国後は「原信子歌劇研究所」を創設、晩年まで、声楽家として多くの著名な歌手を育てた。詳しくは参照したウィキの「原信子」を読まれたい。孰れも今や、却って「註釋」に注が要るものとなってしまった。]

雀 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    

 

 私は獵から歸つて、庭園の並木道を步いてゐた。犬は前を走つてゐた。

 突然犬は刻み足になつて、獲物を嗅(か)ぎ附けたやうに忍んで步き出した。

 私は並木道を見遣つて、嘴(くちばし)の黃色(きいろ)な頭(あたま)の上に毧毛(わたげ)の生えた一羽の子雀を認めた。巢から落ちたのだ(風はひどく並木の樺の樹をゆすぶつてゐた)そして其處にぢつとすくんだ儘、彼はまだ生え切らない翼を徒らにばたばたさせてゐた。

 犬がそつとそれに近づいて行つた時、突然直ぐ傍らの樹から、喉の黑い親雀が丁度小石のやうに犬のつい鼻先きに飛び下りた。そして全身ぶるぶる顫へながら、あはれな絕望の叫びを舉げて、彼は齒列(はなみ)のきらめく開いた口の方ヘ二三度飛びかゝつた。

 彼は助けようと思つて、身をもつて雛をかばつたのだ……けれども其の小さな全身は恐怖のために戰(をのゝ)き、其の聲は怪しう嗄(しわが)れてゐた。恐ろしさに氣を失ひながらも、彼は身を投げ出したのだ!

 彼の眼には犬はどんなにか大きた怪物(くわいぶつ)に見えたに違ひない。それでも、彼は安全な高い枝に止まつてゐる事は出來なかつた……その意志よりも强い力が彼を飛ぴ下りさせたのだ。

 私のトレソルはぢつと立止つてゐたが後退(あとしざ)りした。……彼もまた此の力を認めたに違ひない。

 私は急いで面食(めんくら)つてゐる犬を呼んで、敬虔の念に打たれて立去つた。

 さうだ、笑つてはならない。私はこの小さな悲壯(ヒロイツク)な鳥に對して、その愛情の衝動に對して、たしかに敬虔の念に打たれた。

 私は思つた、愛は死よりも死の恐怖よりも强い。たゞそれに依つてのみ、愛に依つてのみ、人生は維持され、進步するものであると。

    一八七八年四月

 

、ツルゲエネフの愛と云ふ思想を最もよく現したもの。彼の厭世主義の特質は人生の虛無を說くと共に、愛のみを眞實としたところにある。】

さゞれ石 しづ子(伊良子清白/女性仮託)

 

さゞれ石

 

 

  ゆ め

 

浮世の中の物ことを、

 さやかに見する夢こそは、

  浮世の中を隈もなく、

   うつせし神のうつしゑを、

    示すしはしの業ならめ。

 

犯せる罪も祕事も、

 さながら見ゆるかしこさよ。

  闇とは云へとなかなかに、

   あやめも分かぬ夜半こそは、

    心をてらす光なれ。

 

 

  梅の一枝

 

餘りにいものこひしきに、

 軒端の梅の一枝を、

  手折りて贈るわりなさよ。

 

いはぬはいふにいやまして、

 深きおもひのあるものを、

  戀とはいもの知らさらむ。

 

 

  ほの見しかげ

 

ほの見し影のしたはれて、

 かくまで人のこひしきは、

  いかなる故の在やらむ。

 

をかしきおのが心かな。

 こひしきからにこひしきを、

  何今さらにあやしまむ。

 

 

  おのが心

 

かなしと君はの給へど、

 つらしと君はの給へど、

うらむ君よりうらまるゝ、

 おのが心のくるしさを、

あはれと君もくめよかし。

 

 

  あ ざ み

 

神より享けしそのまゝの、

 わが眞心をいつはりて、

  ゑまひの色に咲きもせば、

   針ある草と知らずして、

    人やつむらん花あざみ。

 

 

  別れのあと

 

わかれのあとのさびしさは、

 よそへて何を君と見む。

園生の花を君と見ば、

 つれなき風にちりもせむ。

空行く月を君と見ば、

 あへなく雲にかくるらむ。

君のこゝろのやさしさは、

よそへむものもなきものを、

 なにおろかにも思ひけむ。

 

 

  櫻とすみれ

 

おつれば一つ土なるを、

 さくら董と花ゆゑに、

  へだてあるこそうらみなれ。

  夜すがら何をかたるらむ、

  野川に星のかげ見えつ。

ひゞきは松の音にかよふ。

 

[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年四月『靑年文』掲載。署名は特異的に女性仮託で「しづ子」である。]

禿筆餘興 伊良子暉造(伊良子清白)

 

禿筆餘興

 

 

  玉 章

 

おぼろに匂ふ春の夜の、

月の光も影更けて、

ねられぬ夜半の小衾に、

はかなく物を思ひつゝ。

 

思ひあまりてきえぎえの、

閨の燈火かゝげつゝ、

かくとはすれど玉章に、

おつるなみだをいかにせむ。

 

思へばむかし君とわれ、

櫻をかざし月をめで、

春の長日も秋の夜も、

みじかしとこそ契りしか。

 

いなみてもなほたらちねの、

ことわり過ぎしかなしびに、

思はぬ人を見てしより、

たのしき夢は破れてき。

 

草刈る賤にみをなして、

埴生の小屋に住ふとも、

君と二人が暮しなば、

玉のうてなにまさるらむ。

 

おもてにゑみをよそひても、

うらにはうきをつゝみつゝ、

心もとけぬ朝ゆふは、

都もひなにことならず。

 

常盤の松のとはにこそ、

きよき操もちかひしが、

うつろふ花のときのまに、

かはるこゝろを思ひきや。

 

久しきあとのかたみにと、

二人うつしゝ面影も、

かはらで殘るうつしゑよ、

かはる心をうらむらむ。

 

うつゝも夢もあはぬみは、

ねてもさめてもくるしきに、

君とへだてのうき雲は、

なみだの雨とそゝぐなり。

 

君がたまひし玉章は、

ことわり深くきこえたり、

うらむみよりもうらまるゝ、

心を君ははからずや。

 

つま重ねにし小夜ごろも、

こはいひとかむすべもなし、

君をし思ふまこゝろは、

たゞ末かけてかはらじな。

 

筆ををさめてうちぬれば、

誰しのべとやをしふらむ、

關の戶近き梅が香の、

枕に深くかをるなり。

 

 

  百合と蝶

 

姉と妹がうちつれて、

あそぶ野川の片岸に、

一もと咲ける百合の花。

 

妹の少女うれしげに、

母がめでますこの花の、

一枝はつどに手折りてむ。

 

姉の少女はとゞめつゝ、

ねぶるこてふのさむるまで、

靜けき夢なやぶりぞよ。

 

二人ながむる水のもに、

花はちりてぞうかびける、

うかぶを蝶もしたひつゝ。

 

世に情ある少女子が、

かふき言葉を咲く花と、

蝶はいかにや思ひけむ。

 

 

  

 

櫻狩してかへるさの、

山の下遣道わがくれば、

谷をへだてし藁やより、

樓織るおさの音ぞする。

 

折しも月のをかしきに、

笛とりいでゝ吹きなせば、

藁やのはたはとだえして、

岸に少女ぞたてるなる。

 

[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年三月二十五日発行の『文庫』第二巻第四号掲載。署名は本名の伊良子暉造。

「かふき言葉を咲く花と、」の一句意味不祥。「歌舞伎」では、今一つ、私は意味が採れぬ。識者の御教授を乞う。]

2019/05/17

二つの四行詩 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    二つの四行詩

 

 昔、一つの町があつた。その町の人達は詩を熱愛してゐたので、何週間も立派た新しい詩が現れないで過ぎると、かやうな詩の不作(ふさく)を公(おほやけ)の不幸と考へた。

 そんな時には、彼等は一番惡い着物を着て、頭に灰をふりかけ、群をなして廣場に集まつて、淚を流して、叡等を見捨てた詩神(ミユウズ)を悲しみ訴へるのであつた。

 或るかうした不幸な日に、靑年詩人のヂユニアスは、悲嘆に暮れてゐる公衆の押し合ひへし合ひしてゐる廣場にやつて來た。

 急ぎ足で彼は此の爲めに造られてゐる高壇(フオーラム)にのぼつて、一つの詩を朗讀したいとの合圖をした。

  係官(リクタア)は直ぐに束桿(フアシイズ)を振廻した。『しツ! 謹聽!』と彼らは聲高く叫んだ。群集は片唾(かたづ)を呑んで靜まり返つた。

『友よ! 同志よ!』とヂユニアスは高いが、然し、あまり落着きのない聲ではじめた――

 

  『友よ! 同志よ 詩神(ミユウズ)を愛する者よ!

   汝等、美と優雅(みやび)とを崇(あが)むる者よ!

   暫しも憂愁(うれひ)に心を惱まさるるなかれ、

   汝等の心の願ひは滿たされん、然して光は暗を逐ひやらん。』

 

 ヂユニアスはやめた……すると彼に應(こた)へて廣場の八方から叱聲(ヒツス)や嘲笑のどよめきが起つた。

 彼に向つた顏は皆憤激に燃え、眼は皆忿怒にきらめき、腕は皆舉げられて、威嚇(ゐかく)の拳(こぶし)を振つた。

 「彼奴(あいつ)、あんなことで我々をごまかさうと思やがつたんだ!』と怒の聲が怒鳴つた。『あの下らない平凡詩人(へぼしじん)を高壇(フオーラム)から引きずり下せ! 馬鹿者を引つ込ませろ! この馬鹿野郞にや腐れ林檎と腐れ玉子で澤山だ! 石を取つてくれ――そこの石を!』

 ヂユニアスは一目散に高壇(フオーラム)を飛下りて逃げ出した。……けれどもまだ家へ行き着かないうちに、熱狂した拍手喝采や讃嘆の叫聲やどよめきを耳にした。

 不思議に堪へず、ヂユニアスは、人に氣附かれないやうに注意して。(荒れ狂つた獸(けもの)を怒らすのは危險であるから)廣場へ引返した。

 そして彼は何を見たか?

 群集の上高く、彼等の肩の上に、平たい黃金の楯に乘つて、紫の寬袍(クレミス)を纒ひうち靡く髮に月桂冠を頂いて立つてゐたのは彼の競爭者なる靑年詩人ヂユリアスであつた。……そしてまはりの群衆は叫び立てた、『萬歲! 萬歲! 不朽のヂユリアス萬歲! 彼は我々の悲みを、我々の非常な苦みを慰めた! 彼は蜜よりも甘い、鐃鈸(にょうばち)の音よりも調子のいゝ、薔薇よりも匂はしい、蒼空よりも淸らかな詩を我々に與ヘた! 彼を凱旋式をして連れて行き、彼の靈妙な頭に香(かう)の柔かな匂ひを注ぎかけ、彼の額を棕梠(しゆろ)の葉でしづかに煽ぎ、彼の足もとに亞剌比亞のあらゆる沒藥(もつやく)の香りをふり撒け! ヂユリアス萬歲!』

 ヂユニアスは熱狂して讃歌を叫んでゐる者の一人のところへ行つた。『市民の方、私(わたし)に敎へて下さい! ヂユリアスは一體どんな詩で貴下方を喜ばせたのです! 私は殘念にも彼が詩を讀んだときに廣場に居合はさなかつたんです! どうか御忘れでなけりや私に云つて聞かして下さい!』

『あんな詩がどうして忘れられるものですか!』と問はれた人は力を籠めて答へた。『私をどんな人問だと思つたんです! まあ聞きなさい――聞いて喜びなさい、一緖に喜びなさい!』

『詩神(ミユウズ)を愛する者よ!』かく、かの崇(あが)められてゐるヂユリアスははじめたのだ……

 

  『詩神(ミユウズ)を愛する者よ! 同志よ! 友よ!

   美と優雅(みやび)と音樂を崇(あが)むる者よ!

   汝等の心を暫しも憂愁(うれひ)に脅かさるゝなかれ!

   願ひてし時は來れり! 然して晝は夜を逐ひやらん!』

 

『君、すばらしい詩ちやないか!』

『こりや驚いた!』とヂユニアスは叫んだ。『そりや私の詩ぢやないか! ヂユリアスは私が詩を讀んだ時に群集の中にゐたに違ひない、それを聞いて、一二句言ひ廻しを變へて、しかも拙(まづ)くして繰返したのだ!』

『ははア! わかつた……貴樣はヂユニアスだな』と彼の呼び止めた市民は顏を蹙(しか)めて言つた。『貴樣は嫉妬深い奴だ、でなきや馬鹿だ!……まあ考へて見ろ、みじめな奴、ヂユリアスが「然して晝は夜を逐ひやらん!」と歌つたのはどんなに莊嚴(そうごん)だか。それに貴樣のは何だ、「然して光は暗を逐ひやらん!」だつて、馬鹿な、何の光だ? 何の暗だ?」

『然しそれは同じ事ぢやありませんか?』とヂユニアスは言ひはじめた……

『もう一言(ひとこと)言つて見ろ』とその市民は彼を遮つた、『俺は皆(みな)を呼ぶぞ……皆は貴樣を八つ裂きにしつちまふぞ!』

 ヂユニアスは賢くもさからはなかつた。するとその話を聞いてゐた白頭の老人が此の不幸な詩人のそばへ寄つて、彼の肩に手を置いて言つた、

『ヂユニアス! お前は自分の思想を歌つた、然し時機(とき)がよくなかつた。彼は他人(ひと)の思想を歌つた、然し時機(とき)がよかつた。そこで彼は成功した。その代りお前には良心の慰安(なぐさめ)が殘されてゐる。』

 然し我々のヂユニアスの良心が全力を盡して(實を云へばあまり成功はしなかつたが)傍(かたはら)に押し除(の)けられてゐる彼を慰めてゐる間に――遠方では、稱讃と歡呼の叫びの中に、紫金(しこん)に輝く太陽の勝利の光輝(かゞやき)に包まれて、額に月桂樹(ロオレル)の影を帶び、沒藥の香ひの雲に取圍まれ、あだかも本國へ凱旋する皇帝のやうに、重々しげにまた誇らはしげに、ヂユリアスの毅然たる姿は悠然と動いて行つた……そして棕梠(しゆろ)の長い枝は彼の前に上つたり下つたりしてゐた、あだかもその靜かな戰(そよ)ぎ、愼(つゝ)ましやかな會釋(ゑしやく)によつて、魅せられてゐる市民の心に絕えず湧き返るかの讃嘆の情を云ひあらはさうとするかのやうに!

    一八七八年四月

 

二つの四行詩、この篇は羅馬時代のこととして書いてある。】

詩神、ミユウズは希臘神話にある、本來は音樂や踊や歌唱を司る女神でクリオ、ウラニア等九人である。】

フオラムは古羅馬心公會堂である。】[やぶちゃん注:「フオラム」はママ。]

【リクタアは羅馬の役人。】

束桿は棒を束ねた中に斧鉞を包んだもので、羅馬の高官の權力の標とされてゐたもの。】

[やぶちゃん注:「ヂユニアス」原文は「Юний」。これはラテン語の「Junius」で、これは恐らく実在した古代ローマの風刺詩人・弁護士であったデキムス・ユニウス・ユウェナリスDecimus Junius Juvenalis(五〇年?~一三〇年?)がモデルであろう。暴虐であったローマ帝国第十一代皇帝ティトゥス・フラウィウス・ドミティアヌスTitus Flavius Domitianus(五一年~九六年)治下の荒廃した世相を痛烈に揶揄した詩を書き、「健全なる精神は健全なる身体に宿る」の格言で有名な詩人である(但し、この格言は誤解されており、ユウェナリス自身の謂いは、腐敗した政治の中で、堕落した生活を貪る不健全な人(=肉体)に、健全な魂と批判精神を望むものであった、ということはあまり知られていない)。ちなみに彼は「資本論」にも言及されている。

「高壇(フオーラム)」英語「forum」の音写「フォーラム」。ドイツ語も同じ綴りだが、「フォールム」で以下の原語に近い。元はラテン語の「Forum」(フォルム)で古代ローマ都市の天上のない集会場・公共広場のこと。

「係官(リクタア)」ラテン語の「Lictor」(リクトル:英語も同じ綴り。ドイツ語では「Liktor」となる)。古代ローマに於ける役職の一つで、インペリウム(ラテン語:Imperium:古代ローマにあってローマ法によって承認された「全面的命令権」のこと)を有する要人の護衛を主な任務とした護衛武官を指す。

「束桿(フアシイズ)」このルビはラテン語の「fasces」(ファスケース:「束」を意味するラテン語「fascis」(ファスキス)の複数形の英語読みであろう。通常は、斧の周りに木の束を結びつけた一種の身分表象のための所持具を指す。ウィキの「ファスケス」によれば、『古代ローマで高位公職者の周囲に付き従ったリクトル』(前注参照)『が捧げ持った権威の標章として使用され』、二十『世紀にファシズムの語源ともなった。日本語では儀鉞(ぎえつ)や権標、木の棒を束ねていることから』、『束桿(そっかん)などと訳される』とある。

「叱聲(ヒツス)」ルビ不審。しかし、思うに、このルビ、英語の「hysteric」の語幹部を名詞のように使用したものではなかろうか? 和声英語では「ヒスを起こす」という謂い方が今も生きているからである。なお、以上のカタカナのルビ附けの音写から見て、生田は「序」で述べた、イギリスの翻訳家コンスタンス・クララ・ガーネット(Constance Clara Garnet)の英訳をここでは底本に用いているように思われてくるのである。

「寬袍(クレミス)」長寛衣の意の「クレミス」なる外国語は不詳。識者の御教授を乞う。

「ヂユリアス」原文は「Юлий」。これはラテン語の「Julius」で、ローマ人にはありがち名であり、私は特定人物ではなく、「ユニウス」の詩の剽窃をする者としての「ユニウス」に似せた名と捉えている。

「鐃鈸(にょうばち)」楽器のシンバル。

「棕梠(しゆろ)」限定すると、単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科シュロ属 Trachycarpus であるが、ヤシ科 Arecaceae に属する種群を纏めて指す語でもあり、ここはそちらがよい。

「亞剌比亞」「アラビア」。

「沒藥(もつやく)」ムクロジ目カンラン科ミルラノキ(コンミフォラ)属 Commiphoraの棘を持つ低木から分泌される、赤褐色のゴム樹脂。「ミルラ」(myrrh)とも呼ばれる。アラビア語 「murr」(苦い)が語源で、苦いが、かぐわしい香りを有する。おもな種類に「ヘラボール」と「ビサボール」があり、「ヘラボール没薬」はエチオピア・アラビア・ソマリア原産のモツヤクジュ Commiphora myrrha から、「ビサボール没薬」はそれによく似た外見のアラビアモツヤクジュ Commiphora erythraea からそれぞれ得られる。モツヤクジュは樹高三メートル以下で、乾燥した岩場に植生する。モツヤクジュが自然に割れたり、樹皮を叩いて傷をつけたりすると、樹液が分泌され、空気に触れて固まったものを集めて没薬とする。没薬は古くから珍重され、中東や地中海地域では高価な香料・香水・化粧品の原料のほか、塗布剤や防腐剤に使用された。中世ヨーロッパでも貴重だったが、今日では安価で、主に歯磨き剤・香水・精油の原料及び医薬品の保護剤として利用される。軽い殺菌・収斂・駆風作用を持ち、胃腸内のガスを排出させる駆風薬や口腔内の炎症を和らげるチンキ剤として使用される。没薬から抽出した精油は香りの強い香水の原料になる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

太平百物語卷四 卅三 孫六女郞蜘(ぢやらうぐも)にたぶらかされし事

Jyorougumo

   ○卅三 孫六女郞蜘(ぢやらうぐも)にたぶらかされし事

 作州高田に孫六とて、代々、家、冨(とみ)、田畠(たばた)、數多(あまた)持(もち)たる鄕士(がうざぶらひ)ありけるが、本宅より十五丁斗(ばかり)[やぶちゃん注:一キロ六百三十六メートルほど。]を放(はな)れて、別埜(したやしき)をしつらひ、折ふしは此所に行(ゆき)て、心をなぐさめける。

 折しも水無月[やぶちゃん注:陰暦六月。]なかばにて、殊なふ夏日(かじつ/なつのひ)堪(たへ)がたかりければ、每日こゝに來りて、納凉(なうりやう/すゞみ[やぶちゃん注:前者はママ。])しけるが、竹緣(ちくゑん)に端居(はしゐ)して、床下(しやうか/とこのした)を流るゝ水の淸きに、こゝろをすまして、かくぞ詠じける。

  せきゐるゝ岩間の水のすゞしさを

   わがこゝろにもまかせつるかな

[やぶちゃん注:「ゐるゝ」はママ。]

 あまりに心能(よく)おぼへて[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、そよ吹(ふく)風に睡眠(すいめん[やぶちゃん注:ママ。])の催しけるに、何國(いづく)よりか來りけん、年の比(ころ)五十(いそじ[やぶちゃん注:ママ。])斗なる女、身には五色(ごしき)の衣裳を著し、孫六が前に來たる。

 孫六、あやしく思ひ、

「いかなる人ぞ。」

と尋ければ[やぶちゃん注:「たづねければ」。]、老女のいはく、

「我は此あたりに住(すむ)者なり。御身、常々此所に來りて、四季おりおりの[やぶちゃん注:ママ。]詠(ながめ)も無下(むげ)ならず。殊更、今の御口ずさみを聞まいらせ、一人の我が娘、御身をふかくおもひ焦(こが)れ侍るなり。子をおもふ親のならひ、あまり不便(びん)に候へば、情をかけてやり給へ。いざや、わが住(すむ)方に伴ひ參らせん。いざゝせ玉へ。」

といふに、孫六も怪しながら、心そゞろに伴ひ行(ゆけ)ば、大き成(なる)樓門に至りぬ。

 内に入れば、所々に大小の門戶(もんこ)ありて、遙に奧の方(かた)に至り、むかふをみれば、其結構、こと葉に述(のべ)がたし。

 老女、孫六に向ひ、

「しばらく、爰に御待あれ。」

といふて、おくに、いりぬ。

 孫六、心におもふやう、

『こは、そもいかなる人の住家(すみか)やらん。心得ぬ事かな。』

と、且(かつ)、うたがひ、且、あやしみゐる所に、十六、七斗なる、さも美しき女の、身には錦の羅(うすもの)に、五色に織(おり)たる綾をまとひ、髮はながくて、膝(ひざ)をたれ、いと、たをやかに、只一人、步み來(きた)る。

 孫六、此体(てい)をみるより、心も消入(きへいり[やぶちゃん注:ママ。])、玉(たま)しゐ[やぶちゃん注:ママ。]も空に飛(とぶ)心地して守り居(ゐ)ければ、頓(やが)て孫六が傍(そば)に寄(より)、少(すこし)面はゆげに打ゑみていひけるは、

「誠に。御身をしたひ參らせ事は、はや、幾(いくばく)の月日也(なり)。其念力(ねんりき)の通じまいらせ、かく、まみへける嬉しさよ。今よりして、夫婦となり、行末久(ひさ)に、契りてたばせ候へ。」

と、おもひ入て[やぶちゃん注:「いりて」。]申にぞ、孫六、答へて申しけるは、

「誠に御心ざし有がたく候へども、我等如きいやしき身、などて、夫婦となり申すべき。其上、我は定(さだま)る宿(やど)の妻、あり。此事、おもひも寄(より)奉らず。いつしか見參らせし事もなきに、白地(あからさま)なる御志、疎(おろそ)かには承らず。夫婦の緣こそ拙(つたな)くとも、御心ざしは、忘れ奉らず。」

と、いと眞実(まめやか)に斷りければ、此姬(ひめ)、恨みたる顏(かほ)ばせにて、

「扨々、心づよき仰(おほせ)かな。我、御身を焦(こがれ)し事、母人、不便に覚し召(めし)、御身の別埜(したやしき)に來り玉へば、いつも緣のほとりまで行(ゆき)給ひ、御身の傍(そば)を放(はな)れ玉はず。然るに、一昨日(おとゝひ)の暮方、わが母を、御身、烟筒(きせる)を以(もつ)て、打ち殺さんとし玉ひしを、辛じて、命、助(たすか)り歸り玉ふ。加程(かほど)に心を盡し給ふも、子をおもふ心の闇(やみ)ならずや。角迄(かくまで)切なる我思ひを、晴(はら)させ玉へ。」

と、かきくどけば、孫六も岩木(いはき)ならぬおもひながら、元來、正直なる男なれば、所詮、わが一生そひはつる事もならぬ身の、かく、止(や)ん事なき御息女に、一夜(ひとよ)の枕をかはさんも、本意(ほんゐ[やぶちゃん注:ママ。])ならず。いろいろにすかし申せど、

「兎角、御身に、はなれず。」

と、すがり付(つけ)ば、孫六、今は、もて扱(あつか)ひ、あなた此方と逃げるとおもへば、有(あり)し家形(やかた)は消(きへ)うせて、元の竹緣にてありければ、孫六、忙然と[やぶちゃん注:ママ。]あきれ、

『夢か。』

と思へど、覚めたる氣色(けしき)もなく、

『正(まさ)しき事か。』

とおもへば、露(つゆ)形(かたち)も、なし。

 餘りのふしぎさに、從者(ずさ/めしつかひ)を呼(よび)て、

「われ、此所に假寢(かりね)せしや。」

とゝへば、

「さん候ふ。半時(はんじ)[やぶちゃん注:現在の一時間。]斗も御寐(ぎよしん)なり候ふ。」

と、いふ。

 孫六、奇異の思ひをなし、あたりを能(よく)々見廻せば、ちいさき女郞蜘[やぶちゃん注:ママ。]、そこらを靜(しづか)に、步みゆきぬ。

 上の方(かた)を見やれば、軒には數多(あまた)の蛛ども、さまざまに巣をくみて、歷然たり。

 孫六、つくづく案じみるに、一昨日(おとゝひ)の暮方(くれかた)、烟筒(きせる)にて追ひたりしも、陰蛛(ぢやらうぐも)なり。

「扨は。此蛛、我が假寢の夢中に、女と化(け)し、われをたぶらかしけるならん。恐しくも、いまはしき物かな。」

とて、從者(ずさ/めしつかひ)にいひ付(つけ)て、悉く、巣をとらせ、遙(はるか)の㙒辺[やぶちゃん注:「のべ」。]に捨(すて)させければ、其後は、何の事もなかりしとかや。

[やぶちゃん注:「女郞蜘(ぢやらうぐも)」節足動物門 鋏角亜門蛛形(クモ)綱蛛形(クモ)目クモ亜目クモ下目コガネグモ上科ジョロウグモ科ジョロウグモ属ジョロウグモ Nephila clavata。ご存じのこととは思うが、非常に攻撃的でしかも視力も低く、交尾の際に相手の♂を餌と誤認して捕食してしまうこともある。ウィキの「ジョロウグモ」によれば、『視覚はあまりよくないため、巣にかかった昆虫などの獲物は、主に糸を伝わる振動で察知するが、大型の獲物は巣に近づいて来る段階で、ある程度視覚等により捕獲のタイミングを整え、捕獲している。巣のどこにかかったのか、視覚では判別しづらいため、巣の糸を時々足で振動させて、そのエコー』(echo:反響振動)『により、獲物がどこに引っかかっているのか調べて近づき、捕獲している。捕獲された獲物は、毒などで動けないよう』に『処置をされたあと、糸で巻かれて巣の中央に持っていかれ』、『吊り下げられ』て『数日間かけて随時』、『捕食される。獲物は多岐にわたり、大型のセミやスズメバチなども捕食する。捕食は頭から食べていることが多い。成体になれば、人間が畜肉や魚肉の小片を与えても』、『これも食べる』。『雄は雌の成熟前から雌の網に居候し、交接のタイミングを待つ』、『交接の』八十%『以上は雌の最終脱皮をしている間に行われ、それ以外では』、『雌の摂食時に行われる。これらの時期は、雌の攻撃性が弱くなっているため、雄も安全に交接を行える』からである(それ以外の目的もある。後述される)。『他方で複数の雄と交接した雌では、その卵塊の』八十%『が最初に交接した雄の精子で受精したものであることがわかっており、雌が成体になる最終脱皮を交接の機会とすることはその意味でも有効である』。『雌の網には複数の雄が見られるが、これらの雄の間で闘争が行われることも知られる。先入の雄はそれ以降に侵入しようとする雄を排除しようと行動し、体格が違う場合は』、『大きい方が勝つ。同程度の場合、闘争が激化し、噛み付くことで足を奪われる雄が珍しくない。闘争の結果』、『振り落とされた雄が網に引っかかり、それを雌が食べてしまう例も見られる』。『また』、『ジョロウグモでは、交接した雄がそのまま網に居残ることが知られる。これはより多くの子孫を残すため、交接相手の雌と他の雄との交接を防ぐ目的での行動と考えられている。同属の別種では雄は』一『頭の雌との交接で全精子を消費することが知られている。本種もそうであれば、交接した雄が他の雌を探しに行く意義はなくなる』とある。

「作州高田」当時の美作国真島郡勝山(現在の岡山県真庭市勝山(グーグル・マップ・データ))にあった勝山城は、別名を高田城と称したから、その附近である。

「鄕士(がうざぶらひ)」江戸時代の武士階級(士分)の下層に属した者。武士の身分のまま農業に従事した者や武士の待遇を受けていた農民を指す。平時は農業、いざという時には軍務に従った。郷侍。

「いざゝせ玉へ」「いざ」感動詞で誘いを示し、「させたまへ」尊敬の助動詞「さす」の連用形に尊敬の補助動詞「たまふ」の命令形で、この全体の形で連語としてよく使用され、「~なさいませ・お出掛けなさいませ・~お出でなさいませ」という尊敬の意を以って相手を誘(いざな)って行動を促す意を表わす。

「もて扱(あつか)ひ」この場合は「取り扱いに困る・持てあます」の意。]

勿來の關 伊良子暉造(伊良子清白)

 

勿來の關

 

利根の松原一夜ねて、

駒もいなゝくいなの原、

葉山しげ山ほのかにも、

知らぬ筑波も見なの川。

 

霞の浦のうらうらと、

浪もしつけき鹿島潟。

ぬれ行くほどに日も暮れて、

勿來の關のゆふまぐれ。

 

花の木かげに駒とめて、

はらふもしばし袖の雪。

うたひいでたる武夫が、

三十一文字のやまと歌。

 

春もくれ行く東路の、

誰が關守のゆるしけむ。

風を勿來とおもひしに、

みちも袂に散るやまさくら。

 

ほこを枕にうたひけむ、

もろこし人も思はれて、

君がこゝろのゆかしさは、

千代のあとまで匂ひけり。

 

たが薄墨のなごりかも、

寫しとめたるこのかたよ。

かきて流しゝ水莖も、

ふりし昔をしのぶ草。

 

[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年三月三日刊行の少年園刊『詞藻 新體詩集』に前の「月下吹笛」とともに掲載。署名は本名の伊良子暉造。]

月下吹笛 伊良子暉造(伊良子清白)

 

月下吹笛

 

袖引きとめて關守が、

とめしつらさをなさけにて、

花にやどかる須磨の里、

今宵は笛にあかさばや。

 

蘆分小舟棹とりて、

浪のまにまに漕ぎくれば、

網手かけたる海士が軒、

小松がくれに月さしぬ。

 

しばし岸根に舟とめて、

手折るも一枝吹風に、

散るや木末のひまとめて、

月も洩れくる磯さくら。

 

霞にくもるはるの夜は、

須磨も明石も名のみにて、

ほのかに見ゆるいさり火に、

今宵は速きあは路しま。

 

故鄕人はうらむとも、

一よはゆるせ笛竹の、

天つ御空に通ふらむ、

雲もたゞよふこゝちして。

 

おぼろに匂ふ夜もすがら、

すみ行くものは調にて、

あはすもゆかしおのづから、

波のつゞみに松の琴。

 

[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年三月三日刊行の少年園刊『詞藻 新體詩集』に次の「勿來の關」とともに掲載。署名は本名の伊良子暉造。]

髙根の雲 蘿月(伊良子清白)

 

髙根の雲

 

昇る朝日の影そへて、

    玉のいさごもいちじるく、

光かゞやく九重の、

    雲井のにはの朝ぼらけ。

百の司の袖とめて、

    こゝら御階のさくら散る。

 

霞のほらの名におひて、

    かすみこめたる大内の、

やまの尾上をうちわたす、

    みどりも深き老松の、

ぅれ吹く風に友鶴の、

    朝聲ゆたにきこゆなり。

 

ふとしきたてる宮柱、

    黃金しろがねちりばめて、

とばりの錦くれなゐの、

    八汐織りかく色深く、

すきもれ來てはそら焚の、

    けぶりぞ遠くかをるなる。

 

いでたち給ふ大君の、

    御衣の袖のまばゆきに、

豐榮のぼる朝日子の、

    玉の御階にさしそへて、

おりゐる雲もほのぼのと、

    御空に遠くわかるなり。

 

つゞれの袂かた布きて、

    若草もゆる御園生の、

あしたの露にひれ伏して、

    御門をまてる少女子が、

かたへにそへし妻琴も、

    なかばは塵にうづもれて。

 

やなぎの髮もなよやかに、

    黃楊の插櫛さしそへて、

霞を洩るゝ夕月の、

    ひかり耀くおもばせは、

木末の花もあこがれて、

    眞袖のうへに散くなり。

 

ほのぼの匂ふ大宮の、

    御庭のあたり吹風に、

御けしの袂はらはせて、

    のらすもかしこき大君の、

玉の御聲のま近きに、

    いよいよ少女はぬかづきて。

 

「きゝてや少女なれをしも、

    こゝによびしはよそならず。

一とせ風のこゝちして、

    やまふの床につきしより、

こゝらのくすし集へても、

    朕がなやみはかひなくて。

 

久しき世より皇國の、

    しづめとなりし大神の、

夢のたゝぢにつげましゝ、

    大御をしへの言のはよ。

さめてのあとも尊きに、

    なれをばこゝによびにたり。

 

こやうつくしの少女子や、

    神のをしへのさながらに、

朕がしるなる卷美之(まきみし)の、

    安兒名(あこな)にあらばなやみさへ、

やがていゆでふ一さしを、

    はやもきかせよ琴とりて。」

 

「あはれかしこき御言はや、

    塵にうもるゝこの琴も、

ためしまれなる大君の、

    御階の下にかなでなば、

神の彈くなる音にいでゝ、

    のこるほまれとなりやせむ。

 

かしこまりぬ」といらへつゝ、

    きざしの下の圓座に、

つもれる琴の塵ひぢを、

    はらふもしばし手弱女が、

玉にもまさるおゆびもて、

    妙なる音にひきいでぬ。

大宮人もそでなめて、

    百のつかさもうちつらね、

妙なる聲にきゝほれて、

    うつるもしらに春の日の、

日影もたかくなるなべに、

    しらべも深くなりまさる。

 

ま垣にすがる夕霜に、

    みだるゝ蟲のこゑ細く、

しでうつ五日もうらさびて、

    遠のきぬたをさながらに、

うらむる靑もうちそへて、

    御けしの露をさそふなり。

 

松のうれ吹く浦風に、

    千鳥しばなく聲もして、

糸よりほそく春雨の、

    軒端そぼふるあはれさは、

むせぶ調もたえだえに、

    ぬらさぬ袖やなかるらむ。

 

うつし心もかきくれて、

    むねのゆらぎもます程に、

くるし氣をさへうちそへて、

    たまりかねたる白玉の、

つゝむにあまる袖のうへ、

    君も司もくづをれて。

 

「あまりに琴のかなしきに、

    たえもやしなむ玉の緖の、

たゆるばかりに露けきを、

    いざ彈きかへておもしろく、

をゝしき歌をきかせよ」と、

    君の御言もしめりつゝ。

 

こを聞くなべに手弱女は、

    花の姿もうちしをれ、

いらへもしらに沈みつゝ、

    かくると見れば細襷。

ゆるむか糸をひきしめて、

    かはる調に彈きいでぬ。

 

五百津いは瀨を流れきて、

    瀧はも淵におつるらむ。

八百の潮路をわたりきて、

    浪はも岸に碎くらむ。

木の葉吹きまく山おろし、

    吹くにもにたり音たかく。

 

百千の鍛工ひとときに、

    うつらむ太刀の響して、

弦五日たかき鳴弭の、

    をゝしき聲もそふなべに、

をさまる塵もうち舞ひて、

    御空の雲もまよふなり。

 

こゝろたはれて諸人の、

    御階の床を音たてゝ、

御前もしらにたち舞へば、

    あやの袂の追風に、

かとりの絹のひまとめて、

    こゝらの蝶もあそぶめり。

 

高き御座をおりたちて、

    あやにかしこき大君も、

にほふ御衣の雲の袖。

    かへさせ給ふ折しもや、

少女が彈ける妻琴の、

    いとはたちまちたちきれぬ。

 

さながらきれし妻琴の、

    しらべはたえてこゝら散る、

花の袂もをさまれば、

    なみゐる臣の聲もなく、

あたり靜けくなり行きて、

    御庭に風の音たかし。

 

御心たけき大君の、

    たかき御聲におどろきて、

あふげばかはる御けしきに、

    御衣の袖にあらゝけく、

はらはせ給ふかしこさは、

    なぐさめまつる臣もなし。

 

きざしの下の手弱女は、

    きれたる琴をかき抱き、

さぐりもよゝとなげきつゝ、

    おりたち給ふ大君の、

御裾のあたりひれ伏して、

    うらみを絲にかこつなり。

 

か黑き髮もふりみだれ、

    插頭の櫛もちりぼひて、

花の姿もうつろへば、

    玉の御劍霜散りて、

一すぢ寒き稻妻の、

    ひらめきわたる折しもや。

 

たちまち空に雲わきて、

    あやめも分かずなるなべに、

はたゝく神もなりわたり、

    天津日影もかくろひて、

篠つく雨のたきつ瀨に、

    あたりは見えず成りにけり。

 

すさぶ嵐も吹そひて、

    とばりの錦ちりぢりに、

散り行くあとは百敷の、

    玉の宮居もあらはにて、

黃金の柱くだけつゝ、

    御垣のかべもくづるなり。

 

百千の寶散りぼひて、

    こひぢと成れる庭もせの、

土はらゝかしふりいでゝ、

    なゐさへいたくなるまゝに、

半ばくづれし大殿は、

    西に東にゆらめきて。

 

しづむ入日の色寒く、

    荒野の原となりぬれば、

あへなき花のときめきも、

    いづれのがれぬ秋風に、

夕をまたぬかげろふの、

    夢のみあとに殘るらむ。

 

高根の嵐吹くなべに、

    かをりも妙に花ふりて、

むらさき匂ふ空もせの、

    豐はた雲の上たかく、

琴をかたへに耀ぎて、

    天津少女ぞたてりける。

 

[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年一月十日発行の『靑年文』掲載。署名は蘿月。伊良子清白数え二十、この年の十月四日で滿十九となった。京都医学校二年生。「卷美之(まきみし)の」「安兒名(あこな)」という名は知らぬが、なかなか面白い幻想時代詠ではある。]

野末の菊 伊良子暉造(伊良子清白)

 

野末の菊

 

 

 友人の山陽にあそぶを送る

 

暮れ行く秋にあこがれて、

  都の空をたちはなれ、

君が行きますこの門出。

   軒の柳のくりかけて、

     しばし留めむすべもがな。

 

尋ねますらむ歌枕、

  君がこゝろのゆかしさは、

三十一文字にから歌に、

   その言の葉のいろ深く、

     匂はぬ折もなかるらむ。

 

友なき宿もあるものを、

  村雨そゝぐさびしさに、

ぬるゝ袂をくりかへし、

   君を思ひてうたゝねの、

     結ぶ夢路やいかならむ。

 

千草にさやぐ霜白く、

  空行く月も更けにけり。

歸る家路や寒むからじ、

   今宵はこゝに宿りませ、

     かたり明かさむ夜もすがら。

 

 

 茅屋夜坐

 

秋吹風も芭蕉葉に、

  二聲三聲音信れて、

    この菅の根の長き夜を、

      今宵はとはむ友もなし。

 

あれ行くまゝにまかせてし、

  そのませ垣のへだてなく、

    うばらの花の匂ひきて、

      襤褸の袖に通ふなり。

 

壺なる酒もつきにけり、

  虫のなく音も更けにけり、

    肱をまくらにいざやまた、

      夢のこのよの夢を見む。

 

[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年十二月二十五日発行の『文庫』第一巻第六号掲載。署名は本名の伊良子暉造。この年、十八歳最後の発表詩篇。

「音信れて」「おとづれて」。

「菅の根の」「すがのねの」は万葉以来の枕詞。単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科スゲ属 Carex(種が多く、世界で二千を超え、本邦でも変種を含めて二百種を超える)の菅(すが/すげ:同属の内、和名に付随するものでは総て「スゲ」)の根は、長く乱れ、蔓延(はびこ)ることから、「長(なが)」・「乱る」・「思ひ乱る」に、また、同音「ね」の繰り返しで「ねもころ」(懇ろ)に掛かる。

「ませ垣の」「まがき」に同じ。「籬垣」「笆垣」で、竹や木で作った目の粗い低い垣根。多く庭の植え込みの周りなどに設ける。目が粗いから後の二行に続く。

「うばら」「茨」。「いばら」。棘を持ったバラ亜綱バラ目バラ科バラ亜科バラ属 Rosa のノイバラ Rosa multiflora やテリハノイバラ Rosa luciae の野生種の野薔薇(野茨)の類い。]

2019/05/16

太平百物語卷四 卅二 松浦正太夫猫また問答の事

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   ○卅二 松浦正太夫猫また問答の事

 備中に松浦正太夫といふ侍あり。常に武勇を逞(たくまし)ふして、甚(はなはだ)殺生を好み、おほく獸(けだもの)の命(いのち)を取事、數年(すねん)なりし。

 一夜(あるよ)の事なりき。

 いつものごとく、夫婦、奧の間に臥居(ふしゐ)けるに、女房、俄に物に襲(おそは)れ、わなゝきければ、正太夫、おどろき覚(さめ)て、其体(てい)をみるに、居間を、手足にて、這步(はひあり)き、口ばしり、いひけるは、

「扨も、御身は情なき者かな。われ、おことの爲に仇(あだ)となりし事もなきに、能(よく)も殺せし。此恨み、はれやらねば、今、汝が妻の皮肉に入たり[やぶちゃん注:「いりたり」。]。見よ見よ、十日の内には責殺(せめころ)さんぞ。」

と、正太夫を白眼付(にらめつけ)ければ、家内(かない)の者は此体(てい)を見て、恐れあへるぞ理(ことは[やぶちゃん注:ママ。])りなる。

 され共、正太夫は心剛(こゝろがう)なる男なれば、打笑つて、いはく、

「おのれ、今、わが妻に取(とり)つき、樣々に口ばしれども、我、今迄殺せし惡獸(あくじう)、かぎりなければ、いかなる獸(けだもの)やらんもしらず。我、常に殺生を好むといへども、あへて咎(とが)なきを、殺さず。まづ、おのれは、何といふ獸(けだもの)ぞ。名乘るべし。」

と、いふに、伏したる女房、

「すつく。」

と、立(たち)、

「何。咎なきは殺さぬとや。われは、生駒八十介(いこまやそすけ)殿に、久しく育てられし、猫なり。昨日(きのふ)の暮方(くれがた)、何心なく緣先に伏(ふし)ゐたりしを、おこと、後(うしろ)に來たりて、情なくも、さし殺しぬ。かく、無罪の殺生をしながら、何とて、僞るや。」

と、

「はつた。」

と、ねめ付(つく)れば、正太夫、これを聞き、大きに怒つていふ樣、

「扨は。己(おのれ)は八十介が家の古猫(ねこ)なるや。おのれこそ、ちかき比(ころ)、さまざまに變化(へんげ)して、人を惱ませし事、限りなし。我、此事を慥(たしか)に、知る。此故に、昨暮(さくぼ)、折を得て、害しぬ。然るに、其恨(うらみ)をなさんため、妻を苦しめ、殺さん事、甚(はなはだ)以て、いはれ、なし。誠(まこと)、恨みをなさんとならば、など、我に付て仇を報ぜんや。」

と、いへば、答へていふやう、

「我も左はおもへど、おこと、心剛なるゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、いかに窺へども、其間(そのひま)を得ず。此故に、妻に付し。」

と、いふ。

 正太夫、笑つていはく、

「畜生なればとて、比興至極の仕業(しわざ)かな[やぶちゃん注:「比興」は卑怯の意がある。]。既に己(おのれ)が產(うみ)たる子猫、八十介(やそすけ)方に數多(あまた)あれども、咎(とが)なければ、殺さず。然るに、恨みなきわが妻を苦しめ殺さん事、人間の道にして、殊にはづる所なり。よしよし、我が妻を殺すならば、我、又、汝の產たる子猫ども、なぶり、さいなみ、殺すべし。我、是れを殺す心はなけれども、おのれ、道に違(たが)ふゆへに、われ、又、止む事を得ざるなり。」

と、理を盡していひければ、俄におどろく風情にて、

「あら、かなしの仰せやな。然らば、御身の妻を殺すまじ。子共が命を助け玉へ。」

と、身をちゞめ、歎きしかば、正太夫、打點頭(うちうなづ)き、

「さあらば、遺恨をはらして、此所を、はやはや、離魂(りこん)すべし。我、汝が爲に成仏得脫(じやうぶつとくだつ)の法事をなして得さすべし。然るにおゐては[やぶちゃん注:ママ。]、前生(ぜんしやう)の惡行(あくぎやう)、滅して、仏果を得べし。」

と、いひければ、

「扨々、有難きおほせやな。われ、畜生と生まれながら、人間に近付(ちかづき)、其家の寵愛ふかしといへども、更に恩顧を、しらず。剩(あまつさへ)年經るに從ひ、變化(へんげ)自在をなす。妙所(みやうしよ)に至れば、人を苦しめ、たぶらかす。是れ、倂(しかしながら)、わが生得(しやうとく)の因緣なれば、奈何(いかん)ともする事、なし。必ず、年經りたる猫は、われに限るべからず。然るに、今、有り難き示しによつて、邪氣偏執(へんしう)の角(つの)も折れぬ。必ず、御言葉を違(たが)へ玉はず、畜生道を遁(のが)るべき法事をなしてたび玉へ。今は、いとまを申なり。」

と、いひも終らず、緣先へ、

「つかつか。」

と出る[やぶちゃん注:「いづる」。]、と、おもへば、妻は、かしこに倒れしを、人々、助け抱き入(いる)れば、むかふの方の叢(くさむら)に、火の魂(たま)、飛(とん)で、炎(ほのほ)を顯はし、消(きへ[やぶちゃん注:ママ。])うせぬ。

 それより、正太夫は約束のごとく、跡を念比(ねんごろ)に吊(とぶら)ひやりければ、其後(そのゝち)は、何の災(わざはひ)もなくして、此正太夫、次第に立身しければ、

「扨は。此猫が佛果を得たる有難さに、災(わざはひ)變じて、此家(いへ)に幸(さひはひ)を守るならん。」

と、皆(みな)人、いひあへりけるとなり。

[やぶちゃん注:「備中」現在の岡山県西部。

「松浦正太夫」不詳。

「生駒八十介」不詳。]

和漢三才図会巻第三十九 鼠類 麝香鼠(じやかうねづみ)(ジャコウネズミ)

Jyakounezumi

 

 

じやかうねすみ

麝香鼠

 

△按肥州長崎有異鼠俗呼曰麝香鼠大如家鼠之小者

 而喙尖毎出庭砌厨下竊食物其體有臭氣而不可近

 猫亦惡臭不欲捕之其香雖不似于麝而有謂靈猫號

 麝香猫對之名爾矣近世來於外國惟有長崎未蕃息

 于余國者何耶

 

 

じやかうねずみ

麝香鼠

 

△按ずるに、肥州長崎、異鼠、有り。俗に呼んで「麝香鼠」と曰ふ。大いさ、家鼠の小さき者のごとく、喙〔(くちさき)〕、尖る。毎〔(つね)〕に庭〔の〕砌〔(みぎり)〕[やぶちゃん注:軒先の雨滴の落ちる際(きわ)。]・厨〔(くりや)の〕下に出でて、食物を竊〔(ぬす)〕む。其の體〔(からだ)〕、臭〔き〕氣〔(かざ)〕有りて、近づくべからず。猫も亦、臭きを惡〔(にく)〕みて、之れを捕ることを欲さず。其の香、麝に似ずと雖も、「靈猫」を謂ひて「麝香猫」と號〔(なづ)〕くる有〔るを〕、之れに對して〔も〕名づくるのみ。近世、外國より來たり、惟だ、長崎に〔のみ〕有りて、未だ、余國に蕃息〔(はんしよく)〕[やぶちゃん注:繁殖。]せざるは何ぞや。

[やぶちゃん注:モグラ(食虫類)の仲間である哺乳綱獣亜綱トガリネズミ目トガリネズミ科ジャコウネズミ属ジャコウネズミ Suncus murinusウィキの「ジャコウネズミ」を引く。『ネズミ類ではないことを強調するため』、種名の「スンクス」で呼ばれることも多い。なお、『英文学の翻訳で齧歯目のマスクラット』(齧歯(ネズミ)目ネズミ科ハタネズミ亜科マスクラット属マスクラット Ondatra zibethicus:英名「Muskrat」。アメリカ合衆国・カナダに自然分布し、ヨーロッパ・ロシア・日本などに移入。沼などに棲息する三十センチメートルほどの大型の黒いネズミで臭腺(肛門腺)を有する)『をジャコウネズミと翻訳していることがままあるため、注意を要する』。『東南アジア原産だが、アフリカ東部やミクロネシア等にも人為的に移入している。日本では長崎県、鹿児島県及び南西諸島に分布するが、長崎県及び鹿児島県の個体群は帰化種、南西諸島の個体群は自然分布とされているが』、『はっきりとしていない』。サバンナや『森林、農耕地、人家等に生息する』。体長十二~十六センチメートル、尾長六~八センチメートル、体重は♂で四十五~八十グラム、♀で三十~五十グラム。♀よりも♂の『方が大型になる。腹側や体側に匂いを出す分泌腺(』麝香『腺)を持つことからこう呼ばれる』(良安も書いている通り、かなり臭いらしい)。『吻端は尖る。尾は太短く、まだらに毛が生え、可動域は狭い』。『食性は肉食性の強い雑食性で昆虫類、節足動物、ミミズ等を食べるが』、『植物質を摂取することもある。よく動くが、その動作は機敏とは言い難い。繁殖形態は胎生で』、一『回に』三~六『匹の幼体を出産する。子育ての時には』、『幼体は別の幼体や親の尾の基部を咥』(くわ)『え、数珠繋ぎになって移動する(キャラバン』(caravan)『行動)』(キャラバン行動は生後五日から二十二日齢辺りまでしか見ることができないと飼育者の記事にあった。動画は短いが、mekadalab氏の「ジャコウネズミhouse shrew / キャラバン行動Caravan behaviorpart 1)」がよく、FLY MEDIA氏の「毛の生えたムカデ? よく見て ネズミのキャラバン」(中国のものを転載しているようだが)も必見)。『日本産のものを亜種リュウキュウジャコウネズミ』(Suncus murinus temmincki)『とする説がある』。『人間の貨物等に紛れて分布を拡大しており、アフリカ東部やミクロネシアなどにも分布する。日本に分布する亜種リュウキュウジャコウネズミの起源は古く、史前帰化動物と考えられている』。「吐く実験動物」として『利用される。実験動物としてイヌ、ネコなどは嘔吐するが』、『大型であり、ウサギ、ラット、マウスは小型で飼育しやすいが』、『嘔吐しない。ジャコウネズミは小型で、薬物や揺らすことで吐くため』、『嘔吐反射の研究に用いられるようになった。『肝硬変の実験のためエタノールを与えて飼育している際、吐いているスンクスを発見し』、『応用されることとなった』。『台湾では、人家の近くによく見られ「銭鼠」とよばれる』とある。

「靈猫」食肉目ネコ型亜目ジャコウネコ科 Viverridae のジャコウネコ(麝香猫)類の異名。ジャコウネコは「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 靈貓(じやかうねこ)(ジャコウネコ)」を参照。但し、ジャコウネコは本邦にいないし、先生も含めて、当時、見たことがある人は、まず、おりません。私でさえ六十二年の間、一度もジャコウネコもジャコウネズミも生で生きたそれを見たことはないのです。そういう状況下でこういう風に判ったように記載するのは、あんまり意味を持たないと私は思うのですがね、如何ですか? 良安先生?]

和漢三才図会巻第三十九 鼠類 食蛇鼠(へびくいねづみ)(フイリマングース)

Hebikuhi

 

へびくいねすみ

食蛇鼠

[やぶちゃん注:「へびくいねすみ」の「い」はママ。]

 

△按唐書云罽賔國貢異鼠其喙尖尾赤色能食蛇

 凡蛇毎好食蛙及鼠而復有食蛇鼀食蛇鼠

[やぶちゃん注:「鼀」は原典では「黽」の上部が「土」であるが、意味(「カヘル」とルビする)と「東洋文庫」訳の使用漢字から、これで示した。]

 

 

へびくいねずみ

食蛇鼠

 

△按ずるに、「唐書〔(たうじよ)〕」に云はく、『罽賔〔(けいひん)〕國[やぶちゃん注:「東洋文庫」割注に『カシミール。西域の国名。印度の北部にあった』とある。]、異鼠を貢ぐ。其の喙〔(くちさき)〕、尖り、尾、赤色、能く蛇を食ふ』〔と〕。

 凡そ、蛇、毎〔(つね)〕に、好んで、蛙及び鼠を食ふ。而るに、復た、蛇を食ふ鼀(かへる)、蛇を食ふ鼠、有り。

[やぶちゃん注:蛇を食うとする記載と、尖った口吻部、また、貢献されたのがインド北部(但し、中国南部にも棲息する。後注参照)であることから、食肉目マングース科エジプトマングース属フイリマングース Herpestes auropunctatus に同定してよい。「蛇食鼠」は江戸時代に既にマングースの異名として本草書に載る。ウィキの「フイリマングース」によれば、ミャンマー・中国南部・バングラデシュ・ブータン・ネパール・インド・パキスタン・アフガニスタン・イランを原産地とし、現在では西インド諸島・ハワイ・フィジー・プエルトリコ・日本(沖縄本島・奄美大島)などに外来種として人為移入されて分布する。頭胴長は二十五~三十七センチメートルで、体重は三百グラムから一キログラム。『雌の方が小型』で、『近縁のジャワマングース』(Herpestes javanicus:ベトナム・カンボジア・ラオス・タイ・マレーシア・インドネシア原産)『と比べて、体は全体的に小さい』。『体形は細長く、四肢が短い』。『体色は黒褐色から黄土色』。『雌雄ともに肛門付近に臭腺があって悪臭を放つ』。『見た目が似ているため、テンやイタチ類、ニホンアナグマと間違われることがある』。『農地、自然林、湿地、草地、海岸、砂漠、都市などの開放的な環境を好む』。『原産地は温暖な気候で』摂氏十~四十一度が『生息に適した環境温度と考えられている』。『行動圏は』二~十八『ヘクタールで雄の方が広く、重複する』。『他の同程度の大きさの哺乳類と比べて行動圏は非常に狭いため、必然的に生息密度は高くなる』。『雑食性で哺乳類、鳥類、爬虫類、昆虫、果実まで何でも食べる』。『日本に定着しているフイリマングースの消化管内容物と糞の解析から、昆虫類が主な餌資源であることが判明している』。『木を登ったり、穴を掘ったりする行動はしない』。『水を避ける傾向があり』、『水深』五センチメートル以深の『水には積極的に入らない』。一~九月に『交尾し、妊娠期間は』七『週間程度』で、三~十一月の間に、年二回、出産し、一度に二、三匹の『仔を産む』。『寿命は』二『年以下』。『かつてはインドネシアやマレーシアに分布するジャワマングース』(Herpestes javanicus)『と同種として分類されていたが、DNA解析によって別種であることが判明した』。『フイリマングースのタイプ標本地はネパール』。『このようにマングース類の分類は、科学的な検証がなされないまま、かなり混乱してきた歴史がある。沖縄に導入されたマングースも、ジャワマングースとして同定されていただけでなく、ハイイロマングース(Herpestes edwardsii)やインドトビイロマングース(Herpestes fuscus)とする諸説が混在していた』。『中国のレッドリストでは危急種に指定されている』。『西インド諸島を始めとする世界各地の島々では大規模なサトウキビ農園の害獣となるネズミ類を駆除するため、生物的防除の一環としてフイリマングースが導入された』。『最初に導入されたのはジャマイカであり』、一八七二『年に』九『頭のフイリマングースが持ち込まれた』。『フイリマングースはネズミ駆除以外にも、毒蛇の天敵としても注目された』。『毒蛇対策としてフイリマングースが導入された地域は、西インド諸島のマルティニーク、セントルシア、アドリア海の島々などがある。日本の南西諸島でもネズミ対策』『に加えて、ハブ対策』『を目的として導入された。その時点ではマングースが素早い身のこなしでハブを攻撃するだろうと考えられていた』。『沖縄本島では』一九一〇『年に、動物学者の渡瀬庄三郎の勧めによって、ガンジス川河口付近で捕獲された』十三~十七『頭の個体が那覇市および西原町に放たれた』。『また、続いて』一九七九『年には沖縄本島から奄美大島へ導入が行われた』。二〇〇九『年には鹿児島市でも生息が確認されたが、実際は』三十『年以上前から生息していたと考えられている』。『渡名喜島、伊江島、渡嘉敷島、石垣島にも導入されたが、定着しなかった』。『フイリマングースは水が苦手で泳ぎがうまくないため、定着した島から別の島へ自力で移動することはほとんどない』。『しかし、近年では定着地の周辺の島々で、物資に紛れ込むなどの原因で非意図的な分布拡大が起きている。カウアイ島では』二〇〇四『年に、サモアでは』二〇一〇『年に目撃例がある』。『フイリマングースは少なくとも世界の』七十六もの島嶼に『定着している』。『ただし、世界の島々に定着しているマングース全てがフイリマングースであるとは限らず、フィジー諸島ではフイリマングースとは別種のインドトビイロマングースの定着が遺伝子解析から明らかになっている』。『害獣対策として期待されたフイリマングースだが、実状はあまり毒蛇やネズミを食べなかった』し、『フイリマングースの手が届かないような場所を住処とする、樹上性のクマネズミ』(ネズミ科クマネズミ属クマネズミ Rattus rattus)『が増加してしまった』。『一方で、その地域の自然を代表する希少な生物が捕食されてしまい、生態系が破壊される』深刻な『事態になっている』。『生態系だけでなく、経済社会や人間の健康にも大きな影を落としている。例えば、その獰猛な食性のために沖縄本島では養鶏に甚大な被害を与え、関係者を悩ませて』おり、『さらに、マンゴー、タンカン、バナナ、ポンカンなどへの農業被害も報告されている』。『また、フイリマングースは人間にとって危険な病気をばらまくことにも関与して』おり、『人獣共通感染症のレプトスピラ症』(細菌ドメインのスピロヘータ門スピロヘータ綱レプトスピラ目レプトスピラ科 Leptospiraceaeに属するグラム陰性菌のレプトスピラ(Leptospira)やレプトネマ(Leptonema)及びツルネリア(Truneria)の病原株を原因とする急性熱性疾患症状を呈する感染症で重症型での死亡率は五~五十%とされる)『の原因となる病原性レプトスピラを媒介』し、『西インド諸島では』。『狂犬病ウイルスの媒介が問題視されている』とある。勝手な人の思い込みで移入されたものであって彼らには何の罪はない。何とも可哀想である。

「唐書〔(たうじよ)〕」「新唐書」唐代の正史。五代の後晋の劉昫の手になる「旧唐書(くとうじょ)」と区別するために「新唐書」と呼ぶが、単に「唐書」と呼ぶ場合はこちらを指す。北宋の欧陽脩・曾公亮らの奉勅撰。全二百二十五巻。一〇六〇年成立。「列伝第一百四十六上 西域上」に、貞観年中の記載に、

   *

處羅拔至罽賓、王東向稽首再拜、仍遣人導護使者至天竺。十六年[やぶちゃん注:六四二年。]、獻褥特鼠、喙尖尾赤、能食蛇、螫者嗅且尿、瘡卽愈。

   *

とあるのを指すか。

「鼀(かへる)」この漢字は特に「蟾蜍(せんじょ/ひきがえる)」、則ち、両生綱無尾目ナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属 Bufo のヒキガエル類を指す。]

和漢三才図会巻第三十九 鼠類 蟨鼠(けつそ)・鼵(とつ)(前者はトビネズミ)

Ketuso

 

 

けつそ

蟨鼠

 

本綱蟨頭目毛色皆似兎而爪足似鼠前足僅寸許後足

近尺尾亦長其端有毛一跳數足止卽蟨仆

[やぶちゃん注:「數足」は「本草綱目」では「數尺」。訓読ではそう訂する。]

孔叢子云北方有獸名蟨食得甘草必齧以遺蛩蛩駏驉

二獸見人來必負蟨以走二獸非愛蟨也爲其得甘艸以

遺之蟨非愛二獸也爲假足也蛩蛩【一名卭卭】靑色似馬獸也

駏驉【一名距虛】似驘而小獸也

――――――――――――――――――――――

【音突】

[やぶちゃん注:以下は原典では、上記項目の下に一字空け三行で載る。]

本綱首陽山西南鳥與鼠同穴其鳥曰䳜狀如

家雀而黃黒色其鼠曰鼵如家鼠而色小黃尾

短鳥居穴外鼠居穴内【圖見山禽部】

 

 

けつそ

蟨鼠

 

「本綱」、蟨、頭・目・毛色、皆、兎に似て、爪・足、鼠に似る。前足、僅か寸許〔り〕。後足、尺に近く、尾も亦、長く、其の端に、毛、有り。一跳び、數尺にして、止るときは、卽ち、蟨(つまづ)き、仆〔(たふ)〕る。

「孔叢子」に云はく、『北方に獸有り、「蟨」と名づく。甘草を食ひ得る〔も〕、必ず、齧りて、以つて、遺(のこ)す。「蛩蛩〔(きようきょう)〕」・「駏驉〔(きよきよ)〕」、二獸、人〔の〕來たるを見ては、必ず、蟨を負ひて、以つて、走る。二獸、蟨を愛するに非ず、其れ、甘艸を得て、以つて、之れを遺すが爲めなり。蟨〔も亦〕二獸を愛するに非ず、〔その〕足を假りんが爲めなり。蛩蛩【一名「卭卭〔(きようきよう)〕」。】は靑色、馬に似たる獸なり。駏驉【一名「距虛」。】は驘〔(らば)〕に似て、小獸なり』〔と〕。

――――――――――――――――――――――

【音「突」。】

「本綱」、首陽山の西南に、鳥と鼠と穴を同〔じうす〕。其の鳥、「䳜〔(よ)〕」と曰ひ、狀、家雀に似て、黃黒色。其の鼠、「鼵」と曰ひ、家鼠のごとくにして、色、小〔(すこ)し〕黃。尾、短し。鳥は穴の外に居し、鼠は穴の内に居す【圖、山禽部に見ゆ。】。

[やぶちゃん注:齧歯(ネズミ)目ネズミ上科トビネズミ科 Dipodidae のトビネズミ(跳鼠)であろう。ウィキの「トビネズミ」によれば、トビネズミ科には十一属三十種が属し(ミユビトビネズミ属 Jaculus・イツユビトビネズミ属 Allactaga 等)、体長は四~二十六センチメートルで、『北アフリカから東アジアにかけて、砂漠などの乾燥地帯に生息する。後ろ足が長く、二本足で立ち、カンガルーのように跳躍して移動する』。『一跳びで』三メートル『程度』、『跳躍できる』(時珍は跳躍距離を約一「尺」(三十センチメートル)とするが、機械的に体長を最小の四センチメートルとして比例計算すると、飛距離四十六センチメートルになり、時珍は体調をさらに小さい約一「寸」(三センチメートル)とするのだから腑に落ちる範囲である)。『体長と同程度の長いヒゲをもつ。高く飛び上がったとき以外は、このヒゲが地面に触れており、障害物や食物の有無など』、『地表の様子を触覚から探知している。夜行性であり、気温の高い昼間は地中に掘った巣穴の中で休み、涼しくなった夜間に外に出て、食物を摂る。主な食物は植物の若芽、根、種子などである。乾燥した環境に強く、ほとんど水分を摂らずに生活できる。体内の水分消費を最小限にするよう、尿は濃縮され、強い酸性を示す』とある。なお、今一つ、本文記載によく似た現生種として齧歯目ウロコオリス下目 Anomaluromorphaトビウサギ科トビウサギ属トビウサギ Pedetes capensis がおり(一属一種)、形状や運動性能及び植物食の強い雑食性もぴったりなのだが、残念ながら、トビウサギはアフリカ大陸東部と南部にしか棲息しない。

「孔叢子」「くざうし」とも読む。孔子やその弟子の言行を書き記した書で全三巻。漢の孔鮒の編とされるが、後世の偽作。

「甘草」マメ目マメ科マメ亜科カンゾウ属 Glycyrrhiza

「蛩蛩〔(きようきょう)〕」「卭卭〔(きようきょう)〕」「駏驉〔(きよきよ)〕」「距虛」中文サイトを見ると、孰れも伝説上の獣とし、一説に相互に区別がつかないほど似ているとも、同一の獣ともあり、この蟨鼠のこととともに記されある、というか、概ね、どこもその記載ばかりである。「百度百科」の「蛩蛩距虚」などには、明らかに比翼鳥よろしく、左右に半身状態で寄り添う二匹で一匹の奇体な四足獣の図像さえ掲げられてある(これ)。但し、次注も参照。

「驘〔(らば)〕」雄のロバと雌のウマの交雑種の家畜である奇蹄目ウマ科ウマ属ラバ Equus asinus × Equus caballus「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 騾(ら)(ラバ/他にケッティ)」参照。ところが、そこには「牡牛、馬と交〔はりて〕生〔まれし〕者を、「驢」と爲す」とある。ウシとウマの間に出来るとする「驢」などという交雑種は昔も今も存在しないのだが、どうも「驢」とこの「」は字が似通っていて怪しいのだ。

「鼵」鳥鼠同穴ときて、以下の通りに実在地名まで出されても、ここに至っては、比定同定する気は私には全くない。悪しからず。検索しても中文サイトでもそれらしい奴らは見えてこない。

「首陽山」周初に伯夷・叔斉が隠れて餓死したと伝えられる山。その所在地は山西省永済市南の雷首山の他、諸説ある。

「䳜〔(よ)〕」「鵸鵌」に同じい。次注リンク先を参照。

「圖、山禽部に見ゆ」「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鵸鵌(三ツがしらの鳥)(三頭六尾の雌雄同体の妖鳥)」の図を指している。何をか謂わんや、だ。]

和漢三才図会巻第三十九 鼠類 䶄鼠(まだらねずみ) (ハツカネズミ品種ジャパニーズファンシーマウス)

Madaranezumi

 

 

まだらねずみ 䶃【音含】

【音平】

 

本綱【一名䶃】有班文

△按近頃有三色鼠常色有白與柹班以爲珍物或有染

 成僞者但如鼨鼠豹文者未聞出于本朝

 

 

まだらねずみ 䶃【音「含」。】

【音「平」。】

 

「本綱」【一名「䶃」。】、班文、有り[やぶちゃん注:「班文」は「斑文(紋)」の良安の書き癖。]。

△按ずるに、近頃、三色の鼠、有り。常の色に白と柹〔(かき)〕との班〔(まだら)〕有り、以つて珍物と成す。或いは、染め成して僞る者、有り。但し、「鼨鼠〔(とらふねずみ)〕」の豹文のごとき者、未だ本朝に出ることを聞かず。

[やぶちゃん注:これは正に先行する鼠」で注した、ネズミ科ハツカネズミ属ハツカネズミ Mus musculus の白黒斑(まだら)の変異体或いはそのように改良した品種であろう。そこでウィキの「ハツカネズミ」の「実験用マウス」の項の最後から引いた通り、『日本でも、江戸時代から白黒まだらのハツカネズミが飼われていた。ニシキネズミとも呼ばれる。この変種は日本国内では姿を消してしまったが、ヨーロッパでは「ジャパニーズ」と呼ばれる小型のまだらマウスがペットとして飼われており、DNA調査の結果、これが日本から渡ったハツカネズミの子孫であることがわかった。現在は日本でも再び飼われるようになっている』とあり、これは現在、正確には「ジャパニーズファンシーマウス」(japanese fancy mouse)と呼ばれ、俗に「パンダマウス」とも呼ばれており、画像と本挿絵とが、よく一致する。グーグル画像検索「japanese fancy mouseを見られたい。

和漢三才図会巻第三十九 鼠類 火鼠(ひねずみ) (幻獣)

Hinezumi

 

ひのねすみ 火浣布【用皮作之】

火鼠

 

本綱火鼠出西域及南海火州其山有野火春夏生秋冬

死鼠產于中甚大其毛及草木之皮皆可織布汚則燒之

卽潔名火浣布

 

 

ひのねずみ 火浣布〔(くわくわんぷ)〕

      【皮を用ひて、之れを作る。】

火鼠

 

「本綱」、火鼠、西域及び南海〔の〕火〔の〕州〔(しま)〕に出づ。其の山、野火、有り、春夏、生じ、秋冬、死〔(や)む〕[やぶちゃん注:終熄する。]。鼠、〔その〕中に產す。甚だ大きく、其の毛及び〔かの地の〕草木の皮、皆、布に織るべし。汚(よご)れるときは、則ち、之れを燒けば、卽ち、潔〔(きよ)〕し。「火浣布」と名づく。

[やぶちゃん注:南方の火山中に棲息するとする鼠の幻獣。「火浣布」は「火で浣(あら)う布」の意で、中国で石綿(オランダ語 asbest(アスベスト)/英語 asbestos(アスベストス:蛇紋石や角閃石が繊維状に変形した天然の鉱石で無機繊維状鉱物の総称)のことを、この火鼠の毛で織った布と称して名づけたもの。お馴染みの「竹取物語」にも「かくや姫」が「右大臣あべのみむらじ」に出す難題として「もろこし」にあるという「火鼠(ひねずみ)の皮衣(かわごろも)」を要求して、怪しい中国人に依頼して大金を以って手に入れるも、「かくや姫」の目の前で美事に焼けて灰となっている。中国では、周の穆(ぼく)王(紀元前九七六年~紀元前九二二年)が西戎(せいじゅう)を征伐した際、西戎がこの布を献上したという話が「列子」(戦国時代の道家の思想家列子(名は禦寇(ぎょこう))作とされる書であるが、現行本は前漢末(紀元前後)から晋代(二六五年~四二〇年)にかけて書かれた偽作と考えられている)に見え、後漢の政治家梁冀(りょうき ?~一五九年)は火浣布の衣装を着けて宴席に臨み、わざと酒で汚したうえ、火に投げこませ、衆目を驚かせたという。しかし、魏の文帝(曹丕(そうひ)/在位:二二〇年~二二六年)は「そのようなものが存在するはずはない」と自身の文学書「典論」の一節に記し、「典論」は次代皇帝の明帝(曹叡/文帝曹丕長男/在位:二二六年~二三九年)によって石に刻まれたが(石本と呼ぶ)、数年経って、西域からこの「火浣布」の献上があったため、天下の笑いものとなったという。本邦では、平賀源内が明和元(一七六四)年に石綿で同様な織物を製して「火浣布」と名づけた(以上は複数の百科事典他を参考にした。因みに本「和漢三才図会」は正徳二(一七一二)年の成立で、源内のそれは五十二年後のことである)。]

東方の傳說 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

     東 方 の 傳 說

 

 誰かバグダツドで宇宙の太陽ヂヤフアルを知らない者があらう?

 何十年も昔のこと、或日ヂヤフアルは(彼はまだ靑年であつた)バグダツドの

郊外をぶらぶら步いてゐた。

 突然嗄(しやが)れた叫び聲が彼の耳に附いた。誰かゞ懸命に助けを呼んでゐるのだ。

 ヂヤフアルは同年配の靑年の中で思慮分別の備(そなは)つてゐるので聞えてゐたか、彼の心は慈悲深く、またその膂力(りよりよく)を恃(たの)んでゐた。

 彼は聲する方へ馳せ附けて、一人の弱々(よわよわ)しい老人が、二人の追剝(おひはぎ)に市(まち)の城壁に壓(お)し附けられてゐるのを見た。

 ヂヤフアルは劍を拔いて、惡漢に飛びかゝつて行き、一人を殺し、他の一人を追つ拂つた。

 かうして救はれた老人に、救つてくれた人の足下に跪(ひざま)づいて、その着物の裾(すそ)に接吻しながら叫んだ、『勇ましい若い衆、貴下のお志(こゝろざし)はきつとお酬いします。私(わし)は見かけこそみすぼらしい乞食だが、それは見かけだけで、私(wし)はたゞの人間ぢやない。明日(あす)の朝早く本市猫場(ほんいちば)にお出でなさい。泉水のところで待つてゐませう。私(わし)の言ふ事をゆめ疑ひなさるな』

 ヂヤフアルは考へた、『成程此人は見かけは乞食だ。然しどんな事だつてあり得るものだ。一つ試(ため)して見よう』それで彼は答へた、『御老人、承知しました、まゐりませう』

 老人は彼の顏をぢつと見て、そして行つてしまつた。

 翌朝、まだ日の出ぬうちに、ヂヤフアルは市場へ出かけた。老人は泉の大理石の窪みに臂を附いて、ちやんと彼を待つてゐた。

 彼は無言のまゝヂヤフアルの手を取つて、高い壁でぐるりと圍まれた小さな園の中へ連れて行つた。

 比の園の眞中(まんなか)の綠の芝生の上には一本の奇妙な樹が生えてゐた。

 それは扁柏(サイプレス)に似てゐたが、たゞその葉は空色をしてゐた。

 三つの果實が――三つの林檎が――上の方に曲つた細い枝になつてゐる。一つは中位の大きさで、長くて、乳白色(にうはくしよく)をしてゐた。二つめのは大きくて、圓くて、鮮紅色(せんこうしよく)をしてゐた。三つめのは小さくて、皺ばんで、黃色がかつてゐた。

 風も無いのに樹はさらさら鳴つてゐた。風鈴のやうな鋭い悲しげな音である。まるで樹がヂヤフアルの來たのを知つてゐるかのやうだ。

『お若(わか)い衆(しう)!』と老人は言つた、『此の林檎の中どれか好きなのを取りなされ。若し白いのを取つて食(た)べれば、貴下(あなた)は人間中で一番賢い人になれる。紅いのを取つて食べると、猶太人口スチヤイルドのやうな金持になれる。また黃色なのを取つて變べれば、お婆さん達に好かれる。さあどつちかに定(き)めなされ! ぐづぐづしてはゐられない。一時間の中に林檎は凋(しぼ)んで、この樹もひとりでにしんとした地の底に沈んでしまふから』

 ヂヤフアルは首(かうべ)を垂れて考へ込んだ。『どうしたものかしら?』と彼は小聲で言つた、自分自身に相談するやうに。『餘り賢くなると多分生きてゐるのが厭(い)やになるだらう。誰よりも金持になると人に嫉(ねた)まれるだらう。さうだ、三つめの

しぼんだ林檎を取つて食べた方がよからう!』

 そこで彼はそのやうにした。すると老人は齒の無い口で笑つて言つた、『賢い若い衆だ! お前は一番いゝのを選んだ! 白い林檎がお前に何の役に立つ? それでなくてもお前はソ口モンよりも賢いのだ。紅い林檎も用はあるまい……それが無くたつて金持にやなれる。たゞお前の富は誰も嫉(ねた)みはしないものだが』

『御老人、話して下さい』とヂヤフアルは昂奮して言つた、『祝福せられたる我が囘教(ケエリフ)王の尊き母君は何處にお出でになりますか?』

 老人は恭しく腰を屈(かゞ)めて、若者にその道を示してやつた。

 誰かバグダツドで、宇宙の太陽、偉大たる、高名なるヂヤフアルを知らない者があらう!

    一八七八年四月

 

東方とは小亞細亞から波斯阿拉比亞[やぶちゃん注:「ペルシヤ」・「アラビア」。]等をさす。アラピアン・ナイトの舞臺になつてゐる土地が東方だと思へばよい。支那は極東だ。】【バクダツド、アラビアン・ナイトでお馴染の土地。囘教王はこの地にゐた。】

太人ロスチヤイルド、有名な世界的大富豪、その家は歐洲各國にまたがつてある。】

ソ口モン、舊約聖書にある玉樣、賢人ダピデ王の子で、賢人である。】

囘教王の母、基督教の聖母マリアに當る。】

[やぶちゃん注:◎「膂力(りよりよく)」現代仮名遣「りょりょく」と読む。本来は背骨の力、そこから、全身の筋骨の力の意となる。

「ヂヤフアル」原文は“Джиаффара”で、ラテン文字表記に直すと“Dzhiaffara”である。この詩のエピソードは「アラビアン・ナイト」第十九話にある「三つの林檎の物語」に想を得ているものと思われ(話は全く異なり、三つの林檎の役割も違うが、リンゴが葛藤のシンボルとして登場する点では共通する)、「ジャッファル」が、その主人公由来であるならば、同じ「アラビアン・ナイト」第九百九十四夜から第九百九十八夜「ジャアファルとバルマク家の最後」に、その悲劇的な最期も描かれているところの、実在したヤフヤー・イブン=ジャアファル(ibn Yahya Ja'far 七六六年?~八〇三年)である。アッバース朝の宰相ヤフヤー・イブン=ハーリドの次男で、父ヤフヤー・兄ファドルとともに、アッバース朝第五代カリフであったハールーン・アッ=ラシードに仕えた人物である。

「扁柏(サイプレス)」球果植物門マツ綱マツ目ヒノキ科ヒノキ亜科イトスギ属 Cupressus のイトスギ類を指す。]

磯馴松 蘿月(伊良子清白)

 

磯 馴 松

 

もしほの煙末きれて、

  いさり火遠き磯さきの、

    松の村立ほのかにも、

      三保の浦曲のうらづたひ。

 

綾につゝめる玉のごと、

  おぼろに匂ふ春のよの、

    月のひかりをしるべにて、

      淸き渚をそひ行けば。

 

雲井にたかき不二の根の、

  雪よりしろき白浪に、

    ころもの袖をぬらしつゝ、

      しづかに立てる少女あり。

 

人まつさまのしかすがに、

  うれひの雲はかゝれども、

    月のおもわの淸けさは、

      うき世の塵のあともなし。

 

晴るゝ御空によそひして、

  みどりも深き和妙の、

    衣のそでもにごらかに、

      こぼるゝ色もにほひつゝ。

 

つげの玉櫛さしかへて、

  か黑き髮をけづりつゝ、

    かたへに匂ふ一枝を、

      簪花に手折る﨟たさよ。

 

こゝろみだれてちる浪は、

  袖に裳裾にくだけつゝ、

    玉ゆりこぼす白玉を、

      はらふもしばしそぼぬれて。

 

折しも浦のあなたより、

  妙なる聲にわか人の、

    わき妹と速くよびかけて、

      少女の方にさし寄りぬ。

 

霞のころもすき見えて、

  色香たえなるした染の、

    花にもたぐふおもばせに、

      あたりの風も薰りつゝ。

 

世にふさはしき妹とせの、

  袂つらねて行く影を、

    うらむか沖津白浪も、

      中のへだてに打よせて。

 

葦間にねぶる葦田鶴の、

  夢よりさむる聲もして、

    羽がきひくゝなるまゝに、

      二人も遠くなりにけり。

 

鹽げに匂ふ花貝の、

  咲ける眞砂にあとつけて、

    袂もかをる浦風に、

      松を洩れ來る聲聞けば。

 

「三とせの春はゆめなれや、

  しのぶもゆゝしすめらぎの、

    月のみやこのたか殿に、

      君がかへしゝ舞の袖。

 

うれ吹く風に散る花の、

  雪をめぐらす一さしに、

    うつし心もかきくれて、

      天津御空に迷ひつゝ。

 

軒にかゝげし玉だれの、

  小簾のほのかに見てしより、

    うごき初めたるわが心、

      君のすがたにあこがれて。

 

こゝらかきやる藻鹽草、

  拾ふみるめもまれなれば、

    葦吹く風のそよとだに、

      君のかへしはなかりけり。

 

まれらに逢はむことをなみ、

  尋ねぞわたる思ひ森の、

    夢のうき橋うつゝにも、

      ゆかしき人を忍びつゝ。

 

まごゝろごめて天地に、

  いのるも久し七かへり、

    ならの社に引く注繩の、

      朽ちても君はつれなくて。

 

つれなき君を戀ひわびて、

  やまふの床につきしより、

    いそぐ冥途はうらまねど、

      魂や迷はむ人ゆゑに。

 

千束につもる錦木の、

  形見とながす水莖に、

    君がたまひし玉章よ、

      いく藥えしこゝちして。

 

かたみとかはす言の葉に、

  とけし心は見えながら、

    結ぶ契を知らずして、

      夢に逢ひしもいくそたび。

 

逢はぬを逢ふにかへてまし、

  うらむる程はうれしきに、

    君がわびつるこひ草の、

      さはりも繁き人がきを。

 

わきてながるゝ中川の、

  中の逢瀨は絕えはてゝ、

    わたるにぬるゝ露けさは、

      袂に浪もかゝりつゝ。

 

心ひかるゝ靑柳の、

  思ひみだれて君とわれ、

    末の契にあこがれて、

      月の都をぬけいでぬ。

 

星の林にふな出して、

  行くもはるけき空の海、

    くもの浪だつ明暮も、

      人やりならぬ旅のそら。

 

千々の寶も百敷も、

  玉のみやこもふりすてゝ、

    塵のうき世にいそぎつゝ、

      田子の浦邊に舟はてつ。

 

あふげばたかき不二の根の、

  ふもとの野べの草がくれ、

    君と相見るうれしさに、

      習はぬ賤にみをかへて。

 

いばらからだち軒もせに、

  こゝらこめたるいぶせさは、

    洩るゝに如き月影の、

      さやけきよはもくらくして。

 

末の松山浪こえて、

  さゝれは巖と成りぬとも、

    契るまことはかはらじと、

      かたみに深くちかひつゝ。

 

埴生の小屋の明くれも、

  君のこゝろのやさしさに、

    つゞれも綾のこゝちして、

      年の三とせも暮れはてぬ。

 

いつまで老いむ塵の世に、

  はしきわぎ妹もあるものを、

    かへるにつらき久方の、

      こひしきものは故鄕の。

 

行衞も見えず立こむる、

  天津御空の八重がすみ、

    靉靆く方に聲もして、

      鴈金遠くわたるなり。

 

雲井にまよふ白雲も、

  なが故鄕にかへるらむ、

    いぬるか行くか春風の、

      御空に吹くもこひしくて。

 

妹よ」とさそふ羽衣に、

  なみだのみをのたえまなく、

    さぐりもよゝとなげきつゝ、

      沈むが聲もかすかにて。

 

折しもかゝる一ひらに、

  月の光はかきくれて、

    うき雲まよふ遠近の、

      あやめもわかず成りぬれば。

 

さながらまがふ稻妻に、

  雲井のあたり見るほども、

    まばゆく匂ふ紫の、

      千々の光のわきいでゝ。

 

雪にたぐびてふりまがふ、

  御空の花もかぐはしく、

    妙なる琴もきこえきて、

      二人は見えずなりにけり。

 

しのゝめしらす橫雲の、

  磯山遠く立ちわかれ、

    沖の片帆の影見えて、

      浪路はるかに明け初めぬ。

 

のぼる朝日もさしそへて、

  てるばかりなる羽衣の、

    うれ吹く風になびきつゝ、

      二ひらかゝる磯馴松。

 

[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年十二月十日の『靑年文』掲載。署名は蘿月(現在知られる本署名の初出。「竹取物語」を中心に「天の羽衣」伝承などを隠し素材としつつ、心機一転、物語詩の創作を志し、自由に飛翔させようとした文語定型詩と思われる。悪くはないが、描写に酔い過ぎていて、構成と展開の具体な映像が今一つ鮮明でない恨みがある。

「和妙」「にきたへ(にきたえ)」(後世に「にぎたへ」と濁音化)。「織り目の細かい布」「打って柔らかくして晒した布」を指す万葉語。

「簪花」「かざし」と訓じていよう。

「葦田鶴」「あしたづ」。葦間の鶴。

「花貝」種としては先行する「草枕」の私の注を参照されたいが、ここは単に美しい砂浜に寄せる貝(貝殻)でよい。

「小簾」「をす」小さな簾(すだれ)。或いは「お」を美称ととって、簾。「おす」は誤読の慣用読みなのでとらない。

「みるめ」緑藻植物門アオサ藻綱ミル目ミル科ミル属ミル Codium fragile。「見る目も稀なれば」に掛ける。

「いく藥えしこゝちして」「いく」は「幾」であろうが、「生く」を掛けていよう。

「靉靆く」「たなびく」。]

熱血餘韻 伊良子(伊良子清白)

 

熱血餘韻

 

凱旋門とは、

何事ぞ。

戰勝會とは、

なに事ぞ。

凱旋あげて、

謳ふべき、

時は來らず、

國民よ。

凱旋あげて、

謳ふべき、

時は來るらむ、

言はずとも。

今日しも謳ふ、

その歌よ、

今年も暮れて、

また暮れて、

また來む春は、

その歌も、

いかなる歌に、

かはるらむ。

うれしかるらむ、

今日の日は、

しかはあれども、

國民よ。

うれしき事は、

なかなかこ、

悲しき事と、

知らざるか。

遼東千里、

武夫の、

かばねはいかに、

朽つるらむ。

勃海灣外、

ますらをが、

功績はいかに、

のこるらむ。

山川草木、

かはらねど、

かはりしものは、

世のさまよ。

かはりし樣は、

誰がためぞ。

いつか忘れむ、

忘るべき。

恨ぞのこる、

あるたい山、

黑龍江を、

さかのぼり、

しべりやかけて、

ひたぜめに、

攻めて進まむ、

遠くとも。

花さきにほふ、

その春も、

秋と荒さむ、

時のまに、

敵の城樓に、

朝日子の、

御旗をたてゝ、

その下に、

まこと謳はむ、

凱旋を。

まこと祝はむ、

戰勝を。

死ぬも生くるも、

國のため、

よしや死ぬとも、

益荒雄が、

千度百度、

いきかはり、

護國の鬼と、

あらはれて、

雨に嵐に、

荒浪に、

碎きて見せむ、

敵の城。

刀はよしや、

持ずとも、

こゝろの劔、

とぎすまし、

日本をのこと、

知らざるか。

枕を蹴て、

おきたてば、

夢なりけりな、

思ひ寐の、

さめてあとなき、

その夢も、

夢と思ふな、

國民よ。

今日しも謳ふ、

凱旋門、

今日しも祝ふ、

戰勝會。

夢にあらずや、

これこそは。

軒にかゝげし、

日の丸の、

御旗の風の、

聲を聞け、

「血汐に染まで、

止むべしや、

その血しほこそ、

北極の、

深雪を染むる、

血汐なれ。」

鍊兵場の、

かなたより、

ひゞく喇叭の、

こゑを聞け。

「火にも水にも、

氷にも、

いかでかはらむ、

このしらべ、

進軍喇叭、

その外に。」

凱旋門とは、

何事ぞ、

戰勝會とは、

何事ぞ、

凱旋あげて、

謳ふべき、

時は來らず、

國民よ。

凱旋あげて、

謳ふべき、

時は來るらむ、

言はずとも。

 

[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年十月二十五日の『もしほ草子』掲載。署名は姓のみの「伊良子」。前の『文庫』の「暉造の詩」発表から十日後の別雑誌への投稿であるから、やはり相応の自信作の愛国憤激の叙事的詩篇として読める。「日清戦争」は、この年の三月上旬に日本が遼東半島全域を占領して実質上の日本の勝利となり、三月三十日に「日清休戦条約」が、四月一七日に「日清講和条約」が調印(五月八日発効)したが、四月二十三日にロシア・フランス・ドイツが清への遼東半島返還を要求(所謂、「三国干渉」)、五月四日に伊藤内閣が遼東半島返還を閣議決定し、翌日に三国へ通達した。五月二十九日、日本軍が割譲された台湾北部への上陸を開始し、六月十七日、日本は台湾に台湾総督府を設置、八月六日、「台湾総督府条例」によって台湾に軍政が敷かれていた。本篇には欧米列強の圧力に対する憤り、特に北の遠望にロシアへの敵愾心を剥き出しにしている。十八歳の熱血日本浪漫主義者の面目というところだが、どうも憤怒の言葉ばかりが上滑りし、「暉造の詩」の闡明を意識し過ぎ、気張り過ぎて却って中身が羅列の空という感じがする。

「凱旋門」この年の五月下旬に「日清戦争」勝利を祝うために日比谷に巨大なハリボテの「凱旋門」が建造されている。長さ約百十メートル、中央に三十メートル越えの塔が立ち、前後に貫通門のアーチが付随するが、木造の基礎に全体を杉の葉で覆ったチャチなものであった。サイト「日本の凱旋門 ハリボテの帝国」の「日比谷の凱旋門(日清戦争)」に写真と絵がある。建造計画を伝える『東京日日新聞』の記事が同年五月二十一日で、リンク先の最後にある、作家『樋口一葉も、凱旋門を取り壊す当日、慌てて見学に行きました。しかし、たまたま天皇の還御の行列に当たり、ようやくたどり着いところ』、「やがて凱旋門ちかく來れば、もはや取崩しに取かゝれりとおぼしく、取おろしたる杉の葉など、こゝかしこに山とつまれぬ。さしも大きなるものを、時のまにいかで取づし得べき。櫻田門に向ひし方(かた)計(ばかり)は杉の葉なごりなく成て、組あげたる材木のみいと高々とあほがれる」(日記「水の上」同年六月一日の条。所持する小学館の全集を参考に独自に引いた)『という状況で、ほとんど木材しか見られませんでした』とあるから、実際に建っていた期間は十日未満であったと思われる。

「あるたい山」西シベリアとモンゴルに跨るアルタイ山脈。モンゴル語で「金の山」を意味する。

「敵の城樓に」「かたきのしろに」と読んでいるか。]

2019/05/15

和漢三才図会巻第三十九 鼠類 水鼠(みづねずみ) (ミズネズミ)

Mizunezumi

 

 

みつねすみ ※【音沉】

水鼠

[やぶちゃん注:「※」=「鼠」+(「沉」-「氵」)。]

 

本綱水鼠似鼠而小食菱芡魚蝦或云小魚小蟹所化也

△按?水鼠也有溪澗狀小色稍白或灰黃赤斑而善走

 水食水草魚蝦

著聞集云安貞比豫州矢野保浦有島名黒島離人家凡

一里許有漁人名桂硲大工一日網數百匹之鼠而鼠皆迯

失焉平日彼島鼠多而食瓜菜故無敢作圃是海中之鼠

所爲矣一異也

――――――――――――――――――――――

氷鼠 東方朔云生北荒積氷下皮毛甚柔可爲席臥之

 却寒食之已熱

 

 

みづねずみ ※【音「沉〔(チン)〕」。】

水鼠

[やぶちゃん注:「※」=「鼠」+(「沉」-「氵」)。]

 

「本綱」、水鼠は鼠に似て、小さく、菱・芡(みづふき)・魚・蝦〔(えび)〕を食ふ。或いは云はく、小魚・小蟹の化する所なり〔と〕。

△按ずるに、※は水鼠なり。溪澗〔(けいかん)〕[やぶちゃん注:渓谷。谷川。]に有り。狀、小さく、色、稍〔(やや)〕白或いは灰黃〔に〕赤斑して、善く水を走る。水草・魚・蝦を食ふ。

「著聞集」に云はく、『安貞の比〔(ころ)〕[やぶちゃん注:一二二八年~一二二九年。鎌倉幕府第三代執権北条泰時の治世。]、豫州矢野保の浦に、島、有り。黒島と名づく。人家を離るること、凡そ一里許り。漁人、有り。「桂硲(〔かつら〕だに)の大工」と名づく。一日〔(あるひ)〕、數百匹の鼠、網〔(あみ)するも〕、鼠、皆、迯〔(に)げ〕失〔せたり〕。平日〔より〕彼〔の〕島に〔は〕鼠、多くして、瓜・菜を食ふ故、敢へて圃(はたけ)を作ること無〔けれど〕、是れ、海中の鼠の所爲〔(しよゐ)〕か。一〔つの〕異なり』〔と〕。

――――――――――――――――――――――

氷鼠〔(こほりねずみ)〕 東方朔〔(とうばうさく)〕が云はく、『北荒〔(ほくくわう)〕の積氷の下に生ず。皮毛、甚だ柔かなり。席〔(むしろ)〕と爲すべし。之れに臥して、却つて寒〔く〕、之れを食ひて、熱を已(や)む。

[やぶちゃん注:「水鼠」はちゃんと実在し、和名もそのままである。齧歯(ネズミ)目Rodentia の中でも、多くのものが水生に適応しているネズミ科ネズミ科ミズネズミ亜科 Hydromyinae のに属するミズネズミ類で、実に十三属約二十種からなる。オーストラリア・ニューギニア・フィリピンに分布し、体の大きさは変異に富み、体長八~三十五センチメートル、尾長は八~三十五センチメートル、体重は十七グラムから一キロ三百グラムと幅広い。臼歯は単純で鉢形を呈し、上下顎(じようかがく)の第三臼歯はないか或いは痕跡的である。水生に特化した種では後足に蹼(みずかき)が発達している(ここまでは平凡社「世界大百科事典」に拠った)。中でも代表的な種はミズネズミ属オオミズネズミ Hydromys chrysogaster(オーストラリアミズネズミ・ビーバーネズミの別称もある)で、オーストラリア東部・タスマニア及びニューギニアに分布している。ウィキの「オオミズネズミ」によれば、頭胴長二十九~三十九センチメートル、尾長二十三~三十五センチメートル、体重六十五グラムから一キロ二十五グラムにも達する。『幅が広く水かきの発達した後脚、灰色がかった褐色の毛皮、豊かな頬ヒゲ、先端が白い太く黒味がかった尾を持つ。 耳は普通のネズミに比べ、体の割に小さめ』である。『住環境として常に水が豊富にある地域を必要とし、それも完全に手付かずの環境より、ある程度』、『人間の手が入った環境を特に好む』。『巧みに泳ぐ事が出来、その様子から時折』、『カモノハシ』(哺乳綱原獣亜綱単孔目カモノハシ科カモノハシ属カモノハシ Ornithorhynchus anatinus)『と誤認される事がある』。『食性は肉食。主に淡水性の巻貝や小魚、時にカエル、カメ、水鳥やハツカネズミ、コウモリを捕食する。カラスガイ』(斧足(二枚貝)綱古異歯亜綱イシガイ目イシガイ超科イシガイ科イケチョウ亜科カラスガイ属カラスガイ Cristaria plicata 或いは同属)『などは捕まえた後、陽だまりの岩の上に置いて、太陽光による熱射で殻が開き、中身が取り出しやすくなるのを待つ習性がある』とある。英文ウィキの同種の画像をリンクさせておく。オーストラリアでは「Rakali」(「ラカリ」か)と呼ばれている。但し、本邦には棲息しないので、良安が行っているのは単なるドブネズミ(齧歯目リス亜目ネズミ下目ネズミ上科ネズミ科クマネズミ属ドブネズミ Rattus norvegicus以外の何者でもない。ドブネズミは下水の周りや河川・海岸・湖畔・湿地など、湿った環境を好む。水中に飛び込んで巧みに泳ぐことも出来る(但し、通常は人家から遠く離れた場所ではあまり見られない)。

「菱」双子葉植物綱フトモモ目ミソハギ科ヒシ属ヒシ Trapa japonica

「芡(みづふき)」「水蕗」でスイレン目スイレン科オニバス(鬼蓮)属オニバス Euryale ferox の異名。一属一種。ウィキの「オニバス」によれば、『アジア原産で、現在ではアジア東部とインドに見られる。日本では本州、四国、九州の湖沼や河川に生息していたが、環境改変にともなう減少が著し』く、『かつて宮城県が日本での北限だったが』、『絶滅してしまい、現在では新潟県新潟市が北限となっている』。なお、私たちが小さなころから写真で見慣れた、子供が乗っている巨大な蓮は、スイレン目スイレン科オオオニバス(大鬼蓮)属オオオニバス Victoria amazonica で、和名は酷似するが、別種である。

「小魚・小蟹の化する所なり」あちゃあ、時珍先生、やらかっしゃいましたねぇ。

「著聞集」鎌倉時代に伊賀守橘成季によって編纂された世俗説話集「古今著聞集」の別名。以下は最終巻である「巻第二十 魚虫禽獣」の中の「伊豫國矢野保の黑島の鼠、海底に巢喰ふ事」であるが、かなり端折って、自分勝手に纏めてしまった引用である。私は既に「諸國里人談卷之五 黑嶋鼠」詳細な電子化注をしているので、総てはそちらを参照されたい

「桂硲(〔かつら〕だに)の大工」う~ん、「古今著聞集」原典では「かつらはざまの大工」なんですけど、良安先生? 上記リンク先でも注しおいたが、新潮日本古典集成の「古今著聞集 下」(昭和六一(一九八六)年刊/西尾・小林校注)の頭注によれば、『島内に住み、大工を兼業していた漁師か。伝未詳』とある。

「是れ、海中の鼠の所爲〔(しよゐ)〕か」上記リンク先の原文にある最後の箇所、『すべて、かの島には、鼠、みちみちて、畠のものなどをも、みな、くひ失しなひて、當時までもえつくり得侍らぬとかや。陸(くが)にこそあらめ、海の底まで鼠の侍らん事、まことにふしぎにこそ侍れ』であるが、言い方がちゃんとした纏めになっていない。「陸にこそ鼠はいるというのは普通のことであるけれども、まさか、海にまで鼠がおるなどと申すことは、これ、まっこと、不思議なことで御座るのじゃて」である。

「氷鼠〔(こほりねずみ)〕」「氷鼠」の標題が大きくもなく、そのまま本文に続いているのはママ。特異点ではある(或いは良安はこの存在を疑問視した可能性もあるか)。以下の「積氷の下」というのを北の氷山のある海域と採り、皮が敷皮となるとするなら、食肉目イタチ科カワウソ亜科ラッコ属ラッコ Enhydra lutris かなぁと私は無責任に夢想するのだが、しかし、「獵虎」(海獺)は既に「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獵虎(らつこ)(ラッコ)」で独立項だし、思うに、宮澤賢治に「氷河鼠(ひょうがねずみ)の毛皮」という童話があり(リンク先は「青空文庫」のそれ)、例の仮想のベーリング行の列車に乗ってイーハトヴを出発した人々の話である。賢治は「銀河鉄道の夜」でラッコを登場させているから、「氷河鼠」はラッコではあり得ないということだ。賢治はラッコを「氷鼠」なんて言わない。だから、ラッコじゃないと言える。……何、笑ってんの?……賢治はあんたより遙かに科学者なんだよ?……そんじゃさ! 因みに、実は「氷鼠」の和名異名を持つ生物が現存するんだけど、知ってた? あんた? 齧歯目ヤマネ科ヤマネ属ヤマネ Glirulus japonicus だよ! こりゃ、私も雪山で逢ったことがあるけれど、これもまた、納得の和名じゃあねえか! それにこれなら、「積氷」を「積もった雪」に読み換えるなら、候補としてもいいじゃないか! だははは! しかし、北方種で毛皮が採取出来るとなると、他の候補も挙げられそうだ。例えば、齧歯目ネズミ科ハタネズミ亜科マスクラット属マスクラット Ondatra zibethicus(アメリカ合衆国・カナダに自然分布。ヨーロッパ・ロシア・日本等に人為移入)や、齧歯目ヤマアラシ亜目テンジクネズミ上科ヌートリア科ヌートリア属ヌートリア Myocastor coypus がいるな(南アメリカを原産地とするが、毛皮を取るために人為移入したものが野生化して北アメリカ・ヨーロッパ・日本を含むアジアに分布)。しかしだ、マスクラットやヌートリアは明代の中国にはおらんし、その周縁にもおらんのや! されば、彼らは退場やて! というわけで、私は「氷鼠」は架空の「鼠」と結論づけたい。大方の御叱正を俟つ、がね。

「東方朔〔(とうばうさく)〕」(紀元前一五四頃~紀元前九二頃)は前漢の文人。字(あざな)は曼倩(まんせん)。平原厭次(現在の山東省恵民県)の人。諧謔・風刺の才に優れたことから、武帝に寵愛されたものの、政治的信頼は得られなかった。西王母の仙桃を盗んで食べ、仙人となって八千年の長寿を得たなど、数々の神仙的逸話で知られる。

「北荒〔(ほくくわう)〕」中国の国境外の未開地。

「積氷」ツンドラか流氷か。

「席〔(むしろ)〕」敷物。

「之れに臥して、却つて寒〔く〕、之れを食ひて、熱を已(や)む」まあ、「氷鼠」だからね……。]

太平百物語卷四 卅一 女の執心永く恨みを報ひし事

太平古物語卷之四

   ○卅一 女の執心永く恨みを報ひし事

 備後の國尾道に小左衞門といふ者(ひと)あり。代々、冨有(ふゆう)の家にてありける。

 其親を觀勇(くはんゆう)と申せしが、此觀勇の父、故なくして、竹といひし召遣ひの女を、罪なきに罪におとし、剩(あまつさへ)、食物(しよくもつ)をたちて、なぶり殺しにせられけるが、此竹、死せんとせし時、苦しき眼(まなこ)を開きて、いひけるは、

「此恨(うらみ)、必ず、此家(いへ)のあらんかぎりは、おもひしらせん。」

と叫びて果(はて)しが、其死㚑(しりやう)、觀勇が父に付(つい)て、終に殺しけるに、猶も、末期(まつご)の言葉のごとく、又、觀勇をも惱(なやま)しける。

 觀勇、次第によはり、今はの限りとなりて、一子小左衞門を招きて申しけるは、

「われ、常に佛神(ぶつじん)を祈り、此災(わざはひ)を遁(のが)れんとすれ共、終に又、竹が爲に命を失ふなれば、汝、此家を相續し、能(よ)く能く佛神を信じ、貧しきものに慈悲を与へ、此災を遁るべし。」

と云終(いひおは)りて、死しけり。

 小左衞門、ぜひもなくなく[やぶちゃん注:ママ。「是非も無く」と「泣く泣く」を掛けたものととっておく。]、父を㙒邊におくり、追善殘る所なくして、一周忌をも念比(ねんごろ)に營み侍りしが、其翌(あけ)の朝、座敷に出(いで)て、前裁(せんざい)を詠(なが)め居(ゐ)けるに、疊より壁・柱等(とう)に至る迄、血、おほく、ながれかゝりてあり。

 小左衞門、

『こは、いかに。』

と思ひながら、私(ひそか)にこれを拭(のご)ひ取りて、家來の者にも、ふかくかくし居たりしが、次の日、何となく居間をみるに、爰(こゝ)も又、疊より板數に至るまで、夥しく、血に染(そみ)たり。

 小左衞門、大きにあやしみ、今は力なく、家來を招きて、「しかじか」のよしを語れば、家内(かない)の者、おどろき、其邊(そのあたり)見るに、血の付たる所、少しもなければ、此よしをいふに、小左衞門、腹を立(たて)、

「何条(なんでう)、これほどに血の付たるを、汝抔(なんぢら)が眼(め)には見へざるや[やぶちゃん注:ママ。]。はやく、拭(のご)ひ取るべし。」

と、いふにぞ、是非なく、小左衞門が差圖(さしず)に任(まか)せ、爰(こゝ)かしこ、ふけば、小左衞門、みて、

「雜巾(ざうきん)までも血にしたゝりぬ。取替(とりかへ)て、拭(のご)ふべし。」

と、いふ。

 元來、血なければ、雜巾も、ぬれず。

 されども、主命、(しうめい[やぶちゃん注:ママ。])黙(もだ)しがたく、取かへて、ぬぐへば、又、臺所に出(いで)て、同じく、前の如くに、いひ付(つけ)ぬ。

 それより、日每に、かく、いひ付けるまゝ、家來の者ども、あきれはて、

「こは、只事ならず。偏へに昔の竹が遠恨(ゑんこん/とをきうらみ)ならめ。」

と、私(ひそか)におそれ合(あひ)けるが、後(のち)には家來の者も、次第に疎み去(さり)て、終には小左衞門一人となり、自身、家内をふき廻りしが、日每に、血かさ、增(まさ)りて、小左衞門が座する所も、皆々、血に染(そみ)ければ、衣類にも、こぼれかゝりしを、

「ひた。」

と、引きさき、捨てぬ。

 此よし、一家(いつけ)[やぶちゃん注:一族の親類縁者。]の人々、聞きて、淺ましくおもひ、訪ひ來たれば、小左衞門いはく、

「誠に一類とて、能(よく)ぞ尋(たづね)給ひける。御志しは過分ながら、御らんのごとく、家内(かない)、血に漲(みなぎ)りて、尺寸(せきすん)の間(ま)も坐(ざ)し給ふ所、なし。早く歸り給ふべし。」

と、いふ。

 然(しかれ)ども、他(た)の人々、更に一滴も、血をみる事、なく、只、小左衞門が目にのみ、家内、何方(いづかた)も、血ならずといふ事なし。

「此上は、とに角に、小左衞門、心に背(そむ)かんも、いかゞなり。」

とて、皆々、歸りしが、余り、痛ましくて、食物(しよくもつ)、奇麗(きれい)にこしらへさせ、使(つかひ)の者にいはせけるは、

「此器物(うつはもの)は、能(よく)々改め、淸淨(しやうじやう)にさふらふ。きこし召(めし)候へ。」

と、つかはしければ、小左衞門、悅び見て、

「實(げに)々、奇麗なる食物かな。」

とて、少々、喰(くらひ)ける内に、はや、血、こぼれかゝりぬれば、もはや、喰ふ事、叶はず。

「淸めすゝがん事も、此方(こなた)にては思ひもよらず。」

とて、皆々、歸しぬ。

 かくする事、既に一年斗(ばかり)にして、終に、やせ衰へて、身まかりぬ。

 子孫なければ、其家(そのいへ)、斷絕しけり。

 誠に、無罪の者を殺したる恨(うらみ)によつて、親子三代、とり殺しけるこそ、恐ろしけれ。

[やぶちゃん注:以下は、全体が明らかに少し小さな字で書かれてあって、しかも全体が本文文字で二字分(ぶん)下に記されてある(ブログ・ブラウザの不具合を考えて引き上げてある)。無論、本文同様、実際には改行はなく、ベタで書かれてある。]

 或人のいはく、

「世上に『播磨の皿(さら)屋しき』といひ傳へしは、実は、此所の事なりける。」

とぞ。

[やぶちゃん注:実は原本では本文標題は「卅四」と誤記している。流石におかしいので訂した。またしても(「太平百物語卷三 廿八 肥前の國にて龜天上せし事」にもあった)最後の添書きが何とも面白い装置として働いている。殺された下女の名は「竹」で、これは「播州皿屋敷」の「菊」に応じており、「播州皿屋敷」のみならず、現存する皿屋敷譚の最古のもの(但し、そこでは皿ではなく、主君から拝領した五つ一組の鮑の貝盃)とされる、室町末期に永良竹叟(ながらちくそう)が書いた「竹叟夜話」(天正五(一五七七)年成立)の作者の名前と書名にも響き合う。食事を与えずに、なぶり殺しするというのは、「食物」で「皿」と縁語になっており、それが実際に後半分では血がしたたる「器物」=「皿」として行間に浮かび上がるのである。しかも、作者が最後の添書きで言いたかった真相はと言えば、

元の話は実は

――「皿」屋敷――ではなく

――「血」まみれの――「血」屋敷

であったのだ!……という「チョン!」(「血」一画目の点)という柝(き)が入って終わる、なかなかに手の込んだ仕掛けなのである。私は幼少期よりかねがね、「皿屋敷」譚の、例の、「一ま~い、二ま~い、……」という皿数えの声の妖気というのが、何と言うか、所謂、怪異の鋭い迫力としては、いやに間延びしていて、上質の怪奇シークエンスとは思えないと感じ続けてきた。寧ろ、「皿屋敷」譚の読者・観客の期待部分は、下女を猟奇的にいたぶって惨殺するシークエンスなのではないかとさえ思っているのである。本話のそれは、「罪なき罪」と、前振りの動機部分を思いっきりよくカットし、飢えさせた上で嬲り殺しとする残虐の極致という点でしっかりとそこをも押さえあり、血に塗(まみ)れた屋敷が小左衛門にのみ現出するというマクベス夫人もびっくりの、重篤な精神疾患か脳梅毒のような幻覚と、そのために遂に物を食うこと出来なくなって飢えたままに無残に衰弱死するという顚末は、「皿屋敷」より遙かに残虐でしかも怪異に富んでいて、よい、と思うのである。]

愚物 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    愚  物

 

 一人の愚物があつた。

 長いこと彼は平和に滿足に暮してゐた。ところが自分が世間からつまらぬ愚物だと目せられてゐると云ふ噂がだんだんと彼の耳へ入つて來出した。

 そこで愚物は悲しくたつて、どうしたら此の面白からぬ噂の跡を絕やしてしまへるだらうかと打沈んで思案しはじめた。

 とうとういゝ思ひ附が彼の鈍い小さな頭腦(あたま)にふいと浮んだ……そこで早速彼はそれを行(や)つて見る事にした。

 街(まち)へ出ると一人の友達が彼に出會つて、或る有名な畫家を賞めそやした……

『待ちたまへ!』と愚物は叫んだ、『その畫家はずつと前に時代後(じだいおく)れになつてゐるんだ……君はそれを知らないのか? まさか君がさうだとは思はなかつた……君はすつかり時勢に後れてゐる」

 その友達は驚いて、直ぐ愚物に同意した。             ゛

『僕は今日すばらしい。書物(ほん)を讀んだよ!』とまた違つた友達が彼に言つた。

『待ちたまへ!』と愚物は叫んだ、『君はそれでよく恥しくないのかね。あの書物(ほん)は一文の價値(ねうち)も無いんだ。誰だつてずつと前に讀み捨てたものなんだ。君やそれを知らんのか? 君や全く時勢後れだよ」

 此の友達も驚いて、愚物に同意した。

『何てすばらしい男だらう、僕の友建のNN(なにがし)は!』と三人目の友達が愚物に言つた。『實際鷹揚(おうよう)な男だよ!』

『待ちたまへ!』と愚物は叫んだ。『NN(なにがし)は有名な惡黨だ! 親戚中を騙(かた)り步いた奴だ。そりや誰でも知つてる事だ。君は全く時勢に後れたね!』

 此の三番目の友達も驚いて、愚物に同意してその友達を捨てた。かうして誰であらうが何であらうが。自分の前で賞められるものなら、愚物はきつと例の返答をした。

 時によると彼は非難の調子でかう附け足した、『ぢやまだ君はオーソリチイを信じてゐるのか?』

『意地の惡い惜々しい奴だ!』友達は愚物の事を言ふやうになつた。『然し何と云ふ頭腦(あたま)だらう!』

『そして何と云ふ辯舌だらう!』と他の者は附け足すのであつた、『さうだ、たしかに天才だ……』

 つひには或る雜誌の主筆が愚物に評論欄を引受けてくれと言つて來た。

 そこで愚物は例の態度例の表白を少しも變へないで、何事をも何人をも批評するやうになつた。

 今や、曾つてはオーソリチイを擊破した彼が、自らオーソリチイとなつた。そして靑年は彼を尊敬し、彼を畏(おそ)れた。

 可哀想(かあいさう)な靑年はさうする外に何をする事が出來よう? 元來、人は何人をも尊敬してはならぬ筈だ……がこの場合には、若し人が彼を尊敬しなけれぱ全く時勢後(じせいおくれ)れになつてしまふのだ!

 臆病者の間には幾多の愚物が時めいてゐる。

    一八七八年四月

 

愚物、當時の文學界に對する諷刺である。何處でも批評家にはこんな愚物が多いと見える。】

NN、[やぶちゃん注:間の読点はママ。]羅甸語[やぶちゃん注:「ラテンご」。]のNomen nescio の略語、名前知らずの義、人の名前を舉げたくない場合に用いる。】

オーソリチイ、權威者の義である。】

[やぶちゃん注:「Nomen nescio」は「ノーメン・ネスキオー」と発音し、「Nomen」はラテン語で「名」、「nescio」は「知らない・認識しない」の意。生田が訳す通り、匿名にした「何某(なにがし)」的謂い。]

廢社晚秋 伊良子暉造(伊良子清白)

 

廢社晚秋

 

神杉に、

雲たちまよひ、

山の井に、

紅葉ぞうかぶ、

秋くれて、

やしろは荒れぬ。

古すだれ、

蝙蝠とびて、

神鈴を、

啄木鳥ならす。

かしは手に、

山ひここたへ、

山彥を、

月ぞきくなる。

狐火か、

峰のおちこち、

旅人の、

心なやます。

たえかねて、

行かむとすれば、

朽ちはつる、

谷のかけ橋、

はらはらと、

木の葉みだれて、

梟のなく。

 

[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年十月二十五日の『文庫』第一巻第四号掲載。署名は本名の伊良子暉造。前の「暉造の詩」発表の次号(十日後)のそれであるから、相応の自信作の詩篇として読める。幻妖世界への積極的な踏み込みがなかなかよいが、鏡花的域を出てはおらず、滝沢残星秋暁もそう感じたかななどと思ったりする。

暉造の詩 伊良子暉造(伊良子清白)

 

暉造の詩

 殘星ぬしの評言に付きて、憤激する所あり乃ち一詩を作る。

 

いづれか早きざれかうべ。

丈夫いつ迄存生へむ。

血あり肉あり歌はずば、

歌ふべき日はなかるらむ。

 

暉造生れて十九年。

ミユーズの神に招かれて、

詩國の放に來てしょり、

あと見かへれば早や三年。

のぼる山路を越えかねて、

 

人のつゑのみすがりしよ。

堂々六尺ますらをの、

女々しきことをしてけりな。

 

なみだに破れよ古硯。

男子生れてこのなみだ。

岩をも透すわが望。

人生殘す三十年。

 

諸君しばらく待ちたまへ、

暉造これより奮ひ立ち、

天地の聲をふところに、

登りて見せむ魁に。

 

血あり肉ある暉造は、

日本をのこの一人なり。

劔をぬきてうそぶけば、

風に聲あり硏ぐべし。

 

硏き硏きてひからずば、

たふれて止まむざれかうべ。

ざれしかうべを見給はゞ、

かの暉造がかばねなり。

 

[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年十月十五日発行の『文庫』第一巻第三号に掲載。署名は本名の伊良子暉造。木村喜代子氏の論文「伊良子清白」(昭和四〇(一九六五)年(?)。「Osaka Shoin Women's University Repository」所収のもの(但し、部分)がPDFでダウン・ロード可能)に、この詩篇についての記載があり、「殘星」は『滝沢秋暁の号。秋暁は長野県の人。上野美術学校に通い』、『『少年文庫』の編集をしていた』とある。彼については「秋和の里 清白(伊良子清白)(初出形)」で注したのを再掲すると、『上田市関連ソング 「秋和の里」について』に、『明治の末期、日本の文学界きっての文人滝沢秋暁(本名』は彦太郎。『文庫』派)『が種々の事情で東京の文学界を去り、故郷秋和村(現上田市秋和)に隠遁していることを知った文学界駆け出しの伊良子清白が、越後出張のおり』、『表敬訪問』して『歓迎され』、『秋暁の家に泊めてもらうことになった。そのお礼にと後日贈った詩である』とある。記者で作家の滝沢秋暁(しゅうぎょう 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)は、早くから『少年文庫』などに投稿し、明治二十年代から小説「田毎姫」・詩「亡友の病時」・評論「勧懲小説と其作者」「地方文学の過去未来」などを発表、明治二八(一八九五)年には『田舎小景』を創刊したが、画道を志して上京、『少年文庫』の記者となった。しかし翌年、病を得て帰郷、家業の蚕種製造に従事する傍ら、小説「手術室の二時間」などを発表した。著書に「有明月」「愛の解剖」「通俗養蚕講話」などがある(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。伊良子清白より二歳年上である。さて、木村氏の論文には、『近年、みすず書房より刊行された河井酔茗夫人島本久恵氏の著書『長流』(全八巻)には文庫派詩人の群像が描かれているが、そのうち主に四巻・五巻には清白について詳しく書かれている。それを読むと、詩への情熱に燃える清白と、生活に忠実な清白が入れかわり立ちかわり現われてくる。そういう清白を島本氏は』「漂泊の人」『という代名詞を以て呼んでいる。いま少し、彼の』「漂泊ぶり」『を辿ってみよう』と述べられた後に以下のようにある(一部、拗音・促音が小文字になっていないのを直した。注記号は省略した)。

   《引用開始》

 明治二十八年『文庫』㐧一号に発表した短詩五篇長詩一篇[やぶちゃん注:不審。「草枕」(四篇構成)・「四季の鳥」(四篇構成)・「初花を指すから、短詩八篇長詩一篇である。]に対して残星が「詞意共にいみじき作と見たれども先人踏襲の跡あるは、少し憾むべき事ならずや」と評した。また同誌㐧二号に発表した詩四篇[やぶちゃん注:「花籠」(四篇構成)を指す。]に対しても残星が「老練服すべし、又曰く毎度ながら君が他に私淑するあるを惜む、堂々たる六尺の男子豈に永く他が胯下[やぶちゃん注:「こか」。股の下。股座(またぐら)。]に堪ふべけんや」との評を下したが、清白はそれに対して『文庫』㐧三号に、「残星ぬしの評言に付きて憤激する所あり乃ち一詩を作る」[やぶちゃん注:ママ。]と前置して、「暉造の詩」を発表している。

   《引用終了》

として、本篇の最終第五・六・七連を引用された上で(引用は新字表記(「劒」は「剣」)。但し、句読点が一切ないこと、最終連中二行「のたふれて止まむざれかうべ。」/「ざれしかうべを見給はゞ、」が「たふれて止まむされこうべ」「されしかうべを見給はゞ」と異なっている。またある一部も異なるが、それは後述する)

   《引用開始》

 この詩には詩への焦燥と発奮を制しかねている若き清白の姿が歴々と現れてくる。が、その後、京都の医学校に在学中、河井酔茗に次のような手紙を書いている。

[やぶちゃん注:以下、底本では引用は全体が二字下げであるが、ブログ・ブラウザの関係で引き上げた。]

親愛なるわが友よ、われは君の懇篤なる忠告によりて豁然開悟するところありき。君よ君よわれは永久に詩を廃せざるべし、われの詩才なきはいふもはづかし、されど、詩才なきに失望して詩を廃するがごとき愚をなさゞる可し、われは自己の力に安んじ悠々として詩にあそぶこと夫れ山水にあそぶがごとくならむ、われはますます刀圭[やぶちゃん注:「たうけい(とうけい)」でもと「薬を調合するための匙」を指し、転じて医術・医者の意となった。]の業に勉むべし、詩は以て其余暇の雅具に供せん、あゝわれはおろかなりし、他人と競争せんとして其力足らざりしをかなしみしは、詩人たらんと欲して其才なきをかなしみしは、今や煩悩のこゝろをいでて菩提のさかひに近づくを得たり(後略)

 ここには最早、あの若き清白の姿は見られない。しかし、彼はこの書簡に於いていうように詩を「余暇の雅具に供」したのであろうか。否、彼は文学を専攻するため上級学校へ進もうとし、そのため父と争ったこともあり、この手紙を書いて後、明治三十三年一月には、遂に文学に専念するため家業の医業を継ぐことを弟の道寿に譲り、上京した。尤も、その時も、生計の道は飽くまで医業に求めていたのであるが……。彼は古典より現代に至る小説、翻訳もの、新体詩などあらゆる文学に関心を寄せている一方、実際に京都在住時代には『少年文庫』を主として、『よしあし草』『青年文』『もしほ草紙』などに作品を寄せ、上京してからは『明星』の編輯に携わっている。彼はまたよく詩を論じたようである。例えば、明治三十三年一月三日の浜寺(大阪府)の鶴の家に於ける『よしあし草』の新年会の席上、彼は鏡花の幻覚を取り上げ、それを医学上から立論して、それはのちの語り草となったりしていることや、また同年二月二十一日付鉄南宛書簡は彼が与謝野鉄幹と、万葉や業平、西行より新体詩に至るまで議論したことを伝えていること、あるいはまた、その年の八月十六日には酔茗の本郷の下宿で溝口白羊と会い、白羊は抒情詩、彼は叙事詩の立場で詩を論じているなどである。

 しかし、明治三十七年頃より、清白は父の浪費や病院事業の困難という事情の下で、だんだん文庫から離れてゆく。同年八月二十一日付の酔茗宛の手紙は、旅先の米子より送られたものであるが、そこで彼は詩から遠のきつつある我が身の寂しさを語っている。

[やぶちゃん注:同前。]

(前略)近頃の心の悶えは一入に御座候へかかる価なき生活は或る罪悪をつくりつつあるにひとしく候、(略)職業は授けられたるものに候へば、之を避くるは神の意志に背くものに候、ソレ故小生はいかにしてか心の安きを得んと苦しみ居候、(略)文庫にも怠り居候はさきにも申し上げ候通り心の衰へたる為に候、若うして力無きは笑ふべききはみに候(後略)

 しかしそれから半年後、明けて明治三十八年初頭には「月光日光」「漂泊」を創作し、九月には「淡路にて」「戯れに」「花柑子」「かくれ沼」「安乗の稚子」を『文庫』に発表する。これらはすべて、『孔雀船』に収められた彼の代表作である。ちょうど六月に彼は結婚しており、彼にとってこの年は会心の年であったに違いない。そしてそれまでの仕事の集大成という意味で、彼は二百編近くの作品の中から十八篇を自ら厳選して、詩集を発刊する計画をした。それが明治三十九年五月に刊行された、彼にとって唯一の詩集―彼の名声を高めたのはこの一冊の本である―『孔雀船』であるが、彼はその刊行に先立ち、四月二十九日、在京詩作生活に終止符を打って島根県の浜田へ細菌検査所検査主任として赴任する。そして翌年七月の「七騎落」の発表を最後に、完全に詩壇を去ったのである。[やぶちゃん注:以下、略。]

   《引用終了》

なお、本文中の「鉄南」について木村氏は、『堺の覚応寺の嗣子で、本名河野通該、当時錦西小学校の教師をしていた。『よしあし章』の同人』と注しておられる。「溝口白羊」(明治一四(一八八一)年~昭和二〇(一九四五)年)は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」によれば、大阪出身で、本名は駒造。早稲田大学専門部法律科卒。『文庫』などに詩を発表して注目されたが、「不如帰の歌」など多くの流行小説の通俗詩化に励み、詩壇を離れた。詩集「さゝ笛」(明治三九(一九〇六)年、詩文集「草ふぢ」(明治四十年)、編書に尼港(にこう)事件(ロシア革命後の大正九(一九二〇)年三月から五月にかけてアムール川河口の港町ニコラエフスク(尼港)で駐留していた旧日本軍や在留邦人約七百人及び資産家階級のロシア人数千人がバルチザン(不正規軍)に虐殺された事件。ソ連政府は事件後、責任者を処刑し、賠償を求めた日本は北樺太を保障占領した。ここは朝日新聞掲載の「キーワード」に拠る)の記録「国辱記」(大正九(一九二〇)年)などがあるとある。清白より四つ歳下である。木村氏の論文によって本篇を十全に味わうことが出来た。心より感謝申し上げる。

 なお、第六連「硏ぐべし」はママであるが、「風かぜにこゑあるとぐべし」では韻律がおかしい。しかも次の連の頭の「硏き硏きてひからずば、」では明らかに「みがきみがきて」と読んでいると読めるから、この「硏ぐべし」は初出時の誤植ではなかろうか? 因みに、木村喜代子氏の論文「伊良子清白」の引用では、「研くべく」となっている。暫くママで示しておく。

「存生へむ」「ながらへむ」。

「魁に」「さきがけに」。]

ひと雫 伊良子暉造(伊良子清白)

 

ひ と 雫

 

流れてたえぬいくすぢの、

川はいづこにおつるらむ、

大うな原のひとしづく、

千々の川こそこもるらめ。

 

[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年十月の『靑年文』掲載。署名は本名の伊良子暉造。]

花籠 伊良子暉造(伊良子清白)

 

花 籠

 

 

  春 か ぜ

 

君がためにと駒たてゝ、

一枝折りつる靑やぎの、

いとの心は知らねども、

名殘やをしきはる風も、

行衞したひてゆるやかに、

君が小枝のうへぞ吹く。

 

 

  きよき心

 

すむも濁るもすがたのみ、

神のをしへし一すぢの、

すぐなる道をたどりなば、

濁り行く世もにごりなき、

淸きこゝろのかはらめや。

 

 

  旅ごろも

 

深きゆかりのありつらむ、

きみと契りしうれしさに、

たのむ緣もいつかまた、

門出をおくる御軍の、

兄子がきまする旅ごろも、

もつれがちなる片糸の、

針のはこびもおそくして。

 

 

  しほり戶

 

鴈のおとづれ末かけて、

契るまことはかはらじと、

きみが贈りし玉章を、

枕にむすぶうたゝねの、

夢もゆかしき閨のうち。

こゝろもあやに栞戶を、

おしあけ方にながむれば、

いとゞ思の結ぼれし、

軒のやなぎのうち解けて、

君のかざしに手折りけむ。

もとの心をわすれずに、

かをるもうれし梅のはな。

 

[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年九月の『靑年文』掲載。署名は本名の伊良子暉造。]

2019/05/14

怪力亂神

今さら乍ら言っておく。

あの孔子が「怪力亂神を語らず」と言ったのは取りも直さず孔子が「怪力亂神」が好きだったからである。今の中国人も日本人もそれを全く理解していない。いや――孔子は「怪力亂神」が現実を支配していることを実は痛いほど理解していたのだ。

私は

「歌」を歌うという時、恐らく自分は「無原罪」だと思っている「彼等」を、そうさ、私は何処かで何時も胡散臭く感じている――