フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 太平百物語卷二 二十 本行院(ほんぎやうゐん)の猫女にばけし事 | トップページ | 山彥 伊良子清白 (ハイネの訳詩/参考付加・片山敏彦氏訳「山の声」) »

2019/05/03

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(18) 「駒形權現」(4)

 

《原文》

 淺草駒形堂ノ觀音ハ淺草寺ノ觀音ト昔ハ何カノ關係アリシモノニハ非ザルカ。二百年來ノ江戶人ハ、アマリニ筆豆ニシテ却リテ昔ノ事ヲ不明ニシタル傾キアレド、少ナクモ此堂地ガ往古淺草觀音ノ境内ナリト云フ記事ハ信ズルニ足レリ〔地名辭書〕。【舞々】然ルニコノ淺草寺ノ片脇田原町ニ、近キ頃マデ田村八太夫ト云フ關東ノ舞々ノ總取締居住セリ。舞々ハ所謂陰陽師ノ一分派ニシテ、又神事舞太夫トモ稱ヘ、各地ニ二戶三戶ヅツ村ノ端ニ住ミテ、常ハ普通ノ百姓ト同ジク農商ヲ營ミ、祭禮ノ折バカリ社頭ニ出デテ舞ヲ舞フヲ役トス。又賴マレテ祈禱ヲ爲ス。色々ノ神ノ繪札ヲ配リテ米錢ヲ貰フ。【配札】其女房ハ多クハ例ノ梓巫(アヅサミコ)ニシテ、此モ亦札ヲ配ルヲ以テ職業トスル者ナリ。【竈神】田村八太夫ノ書上ニ依レバ、後世ノ舞々ガ配ル札ハ大黑ノ像、靑襖(スアウ)ト稱スル繪馬及ビ竈神ノ札ノ三種ナリト云フニ〔嬉遊笑覽〕、【猿馬ヲ牽ク繪札】一說ニハ舞々本來ノ家職トシテ配ルハ日曆十二神ノ札及ビ神馬ノ札、梓巫ガ家職トシテ配ルハ繪馬ト稱シテ猿ノ馬ヲ牽ク繪札ナリトモ云ヘリ〔寺社捷徑〕。【三社權現】右ノ如ク配札ノ種類モ更ニ一定セズ、現ニ田村ガ配下タル上州高崎新町(アラマチ)ノ神事舞太夫ノ如キハ、彼等ノ奉仕スル三社權現ノ御札ナリト稱シテ之ヲ村々ニ配リ居タリ〔高崎志〕。【習合神道】三社權現ハ淺草觀音ノ境内ニモ在リ、田村八太夫實ニ此ガ神主タリキ。田村ノ神道ハ昔トシテハ一寸奇拔ナル神道ナリ。天思兼命ノ神傳ナリト稱シテ、白川吉田ニ家ノ支配ヲ受ケズ。別ニ舞太夫梓巫ノ輩ヲ糾合シテ一派ノ習合說ヲ立テ居タリ〔續甲子夜話七十三〕。【濱成兄弟】田村派ノ主張ニテハ、淺草ノ三社權現ノ祭神ハ往古宮戶川ノ流ニ於テ一寸八分ノ觀音像ヲ感得セシ檜熊濱成武成三人ノ兄弟ナリト稱スレドモ、之ヲ信用スルハ餘程ノ骨折ナリ。檜熊ハ元來濱成武成兩人ノ苗字デアル筈ナリ。無理ニ三ツニ切リテ三社ニ附ケ合セタル形アリ。之ニ比ブレバ高崎ノ三社權現ニ於テ三社トハ荒神ト駒形ト大黑トナリト云フ方寧ロ無頓著ニシテ面白シ。勿論此トテモ驚クニ堪ヘタル烏合ノ衆ナレドモ、之ニ由リテ元祿以後田村氏ノ定メタル三種ノ配札ナルモノノ中、靑襖ノ像ト云フ繪札ノ、モト駒形信仰ヨリ出デタルモノラシキコトヲ想像シ得ル便リトハナル也。【大黑】高崎ノ三社神中ノ大黑、田村ノ三種ノ配札中ノ大黑ノ像ハ取分ケテ不調和ノ感アレドモ、此ハ舞太夫ノ徒ガ其商賣敵タル惠比須願人(エビスガンニン)ト稱スル別派ノ太夫ニ對抗スル爲ノ一策トモ考フルコトヲ得べシ。元祿頃ノ册子ニ舞々ガ歲ノ暮ニ困リ、當時流行ノ大黑舞太夫ニ早變リシテ錢儲ケヲシタル話モ思ヒ合サルヽナリ〔嬉遊笑覽〕。大黑ハ以前ノ摩多羅神ノ思想ヨリ推スモ必ズシモ臺所ト緣無シトハ言ヒ難シ。【竈神】荒神ト駒形トニ至リテハ竃ヲ中ニ置キテ正シク攻守同盟ノ間柄ナリ。確カナルコトハマダ知ラザレド、カノ靑襖ノ像ナルモノモ、或ハ「エビスサマノカオカクシ」トモ云ヒテ、後ニハヤハリ貰ヒ受ケテ竃ノ側ニ貼置クべキモノナリキト云ヘリ〔山中笑翁談〕。竈ト馬トノ深キ關係モ、或ハ同ジ陰陽師ガ古クヨリ二種ノ札ヲ一緖ニ取扱ヒ來タリシガ爲ニ、イツト無ク理窟ヲ附シテ之ヲ結ビ合セタル者トモ見ルコトヲ得。何レニシテモ舞々ノ如キ特殊ノ巫祝ガ駒形信仰ノ傳播ニ參與シテアリシコトハ注意スべキ事實ナリ。今日ハ箱根以西ノ國々ニ於テハ、馬ノ神ノ崇拜ハ盛ナレドモ駒形ノ名ハ關東ホドニハ行ハレテアラズ。【駒形神人】然ルニ南北朝時代ノ記錄ニハ山城男山ノ八幡宮ニモ駒形神人ナル者ノ有リシコトヲ傳フ〔園太曆正平元年八月十二日條〕。而シテ男山ノ八幡ハモト九州ヨリ上リタマヒシ神ナリ。此故ニ陸中ノ駒形神社ノ現況ヲ以テ昔ノ駒形ノ眞相ヲ類推セントスルハ、返ス返スモ道理ナキコトニテ、「オコマサマ」ノ特色ハ必ズシモ之ヲ全國ノ馬ノ神ニ伴フモノトスル能ハザルモ亦明白ナリ。

 

《訓読》

 淺草駒形堂の觀音は、淺草寺の觀音と昔は何かの關係ありしものには非ざるか。二百年來の江戶人は、あまりに筆豆にして、却(かへ)りて、昔の事を不明にしたる傾きあれど、少なくも、此の堂地が、往古、淺草觀音の境内なりと云ふ記事は信ずるに足れり〔「地名辭書」〕。【舞々(まひまひ)】然るに、この淺草寺の片脇、田原町に、近き頃まで、田村八太夫と云ふ關東の「舞々」の「總取り締り」、居住せり。「舞々」は、所謂、陰陽師の一分派にして、又、「神事舞太夫(じんじまひいたいふ)」とも稱へ、各地に二戶三戶づつ村の端に住みて、常は普通の百姓と同じく、農商を營み、祭禮の折りばかり、社頭に出でて舞を舞ふを役とす。又、賴まれて祈禱を爲す。色々の神の繪札を配りて米錢を貰ふ。【配札(くばりふだ)】其の女房は多くは例の梓巫(あづさみこ)にして、此れも亦、札を配るを以つて職業とする者なり。【竈神】田村八太夫の書上(かきあげ)に依れば、後世の「舞々」が配る札は「大黑の像」、「靑襖(すあう[やぶちゃん注:現代仮名遣「すおう」。])」と稱する繪馬及び「竈神」の札の三種なりと云ふに〔「嬉遊笑覽」〕、【猿馬を牽く繪札】一說には、「舞々」、本來の家職として配るは、「日曆十二神」の札及び「神馬」の札、梓巫が家職として配るは、「繪馬」と稱して、「猿の馬を牽く繪札」なりとも云へり〔「寺社捷徑」〕。【三社權現】右のごとく配札の種類も更に一定せず、現に田村が配下たる上州高崎新町(あらまち)の「神事舞太夫」のごときは、彼等の奉仕する「三社權現の御札」なりと稱して、之れを村々に配り居(ゐ)たり〔「高崎志」〕。【習合神道】三社權現は淺草觀音の境内にも在り、田村八太夫、實に此れが神主たりき。「田村の神道」は、昔としては、一寸(ちよつと)、奇拔なる神道なり。天思兼命(あめのおもひかねのみこと)の神傳なりと稱して、白川(しらかは)・吉田に家の支配を受けず。別に舞太夫・梓巫の輩(やから)を糾合(きうがふ)[やぶちゃん注:現代「きゅうごう」。「糾」は「縄を縒(よ)り合せる」の意で、 ある目的の下に人々を呼び集めること。一つに結集すること。]して一派の習合說を立て居(ゐ)たり〔「續甲子夜話」七十三〕。【濱成兄弟】田村派の主張にては、淺草の三社權現の祭神は、往古、宮戶川(みやとがは)[やぶちゃん注:現在の隅田川の一部、浅草近辺を流れる部分の古名。]の流れに於いて、一寸八分[やぶちゃん注:五センチ四ミリ。]の觀音像を感得せし檜熊(ひのくま)・濱成(はまなり)・武成(たけなり)三人の兄弟なりと稱すれども、之れを信用するは餘程の骨折りなり。檜熊は、元來、濱成・武成兩人の苗字である筈なり。無理に三つに切りて、三社に附け合はせたる形あり。之れに比ぶれば、高崎の三社權現に於いて三社とは、荒神(あらがみ)と駒形と大黑となり、と云ふ方(はう)、寧ろ、無頓著にして面白し。勿論、此れとても驚くに堪へたる烏合の衆なれども、之れに由りて、元祿以後[やぶちゃん注:一六八八年以降。]、田村氏の定めたる三種の配札なるものの中、「靑襖(すあう)の像」と云ふ繪札の、もと、駒形信仰より出でたるものらしきことを想像し得る便(たよ)りとはなるなり。【大黑】高崎の三社神中の大黑、田村の三種の配札中の大黑の像は、取り分けて不調和の感あれども、此れは、「舞太夫」の徒が、其の商賣敵(しやうばいがたき)たる「惠比須願人(えびすがんにん)」と稱する別派の「太夫」に對抗する爲めの一策とも考ふることを得べし。元祿頃[やぶちゃん注:一六八八年~一七〇四年。]の册子に、「舞々」が歲の暮に困り、當時、流行の「大黑舞太夫」に早變りして錢儲けをしたる話も思ひ合はさるゝなり〔「嬉遊笑覽」〕。大黑は、以前の摩多羅神(またらじん)の思想より推(お)すも、必ずしも臺所と緣無しとは言ひ難し。【竈神(かまどがみ)】荒神(あらがみ)と駒形とに至りては、竃を中に置きて、正しく攻守同盟の間柄なり。確かなることはまだ知らざれど、かの靑襖(すあう)の像なるものも、或いは「えびすさまのかおかくし」とも云ひて、後には、やはり、貰ひ受けて、竃の側(そば)に貼り置くべきものなりきと云へり〔山中笑翁談〕。竈と馬との深き關係も、或いは、同じ陰陽師が古くより二種の札を一緖に取り扱ひ來たりしが爲めに、いつと無く、理窟を附して、之れを結び合はせたる者とも、見ることを得。何れにしても、「舞々」のごとき特殊の巫祝(ふしゆく)が、駒形信仰の傳播に參與してありしことは注意すべき事實なり。今日は箱根以西の國々に於いては、馬の神の崇拜は盛んなれども、駒形の名は關東ほどには行はれてあらず。【駒形神人】然るに、南北朝時代の記錄には山城男山(をとこやま)の八幡宮[やぶちゃん注:京都府八幡市八幡高坊にある石清水八幡宮(グーグル・マップ・データ)の旧称。]にも、駒形神人(こまがたしんじん)なる者の有りしことを傳ふ〔「園太曆(ゑんたいりやく)」正平元年[やぶちゃん注:北朝の貞和二年でユリウス暦一三四六年。]八月十二日條〕。而して男山の八幡は、もと、九州より上りたまひし神なり。此の故に、陸中の駒形神社の現況を以つて昔の駒形の眞相を類推せんとするは、返(かへ)す返(がへ)すも道理なきことにて、「オコマサマ」の特色は、必ずしも之れを全國の馬の神に伴ふものとする能はざるも、亦、明白なり。

[やぶちゃん注:「淺草寺の片脇、田原町」この中央附近(グーグル・マップ・データ)。駒形橋西橋詰西南西直近。

「田村八太夫」小学館「日本大百科全書」の「神事舞(じんじまい)」に、『神事のときに舞う舞。仏事のときに舞う舞に対していい、特別に神事舞という定まった舞があるわけではない。舞楽』・田楽・『風流(ふりゅう)』・能・『獅子舞(ししまい)』・『神楽(かぐら)など』、『神事の際に舞われた場合にはすべて』、「神事舞」と『いい、同じ芸能でも神事以外の場所で舞われた場合には』、「神事舞」とは『いわない。芸能全体をさすときには』、「神事芸能」と『よび、舞に重点を置いてよぶときには』、「神事舞」と『いう。また、近世後期、江戸・浅草に住した田村八太夫』及び『その系統の人々を』「神事舞太夫」と『いい、彼らによって舞われた里神楽や曲舞(くせまい)も』「神事舞」と』いった。宮崎県東臼杵(ひがしうすき)郡椎葉(しいば)村不土野(ふどの)』(ここ。グーグル・マップ・データ)『の神楽では、神楽を始める最初に式三番(しきさんば)といって神聖視されている舞』を『数番を演ずるが、それを』「神事舞」と『いっている』とある(下線太字は私が附した)。

「靑襖(すあう)」絵馬や御札としてのそれは不詳。小学館「日本国語大辞典」にも不載で、ネット検索でも掛かってこない。後注で示すように「嬉遊笑覧」や松浦静山の「続篇甲子夜話」にも出るであるが、画像なども見当たらない。お手上げ。識者の御教授を乞う。これが如何なる物であるかが判らないと、柳田國男の「田村氏の定めたる三種の配札なるものの中、「靑襖(すあう)の像」と云ふ繪札の、もと、駒形信仰より出でたるものらしきことを想像し得る便(たよ)りとはなるなり」という根拠が今一つ私にはピンとこないのである。

「嬉遊笑覽」国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)が江戸後期相当の風俗習慣・歌舞音曲などについて書いた随筆。文政一三(一八三〇)年刊。その「巻五下」の掉尾に(所持する岩波文庫二〇〇四年刊を用いたが、恣意的に漢字を正字化した)、

   *

○神事舞とは、江戸處々の神社にて祭祀ある時、狂言をするに、さまざまの假面を着る。十二座・廿五座などゝてあり。田村八大夫[やぶちゃん注:ママ。]は、その内の頭たるもの也。その狂言を俗に神樂といふ。是には旋る伎[やぶちゃん注:「まはるぎ」か。トンボを打つことか?]なし。文政七年[やぶちゃん注:一八二四年。]の頃、其徒の内に、旋る伎をするもの、いづくよりか來りて、兩國廣小路にて觀せものにしたり。其頃、神田明神祭禮に、練物の内に雇はれて出。八大夫が配下の者也。八大夫は、『享保十三年[やぶちゃん注:一七二八年。]中三月十一日々記』に、「神事舞大夫、當四月朔日より七月晦日迄、町中相對勸化御免之趣申渡」とあり。其頃よりして今に靑襖の札といふものを、江戸町々の番屋に配り、初穗をとる事也(此事猶考あり。後にいふべし)。享保十二年丁未三月、菊岡沾凉、湯嶋天神社地にて萬句合[やぶちゃん注:「まんくあはせ」。]したる時、連歌師文裳「十二座のおどけや花の神慮」[やぶちゃん注:下五は「かみごころ」と訓じているか。]とあり。廿五座已後に增たるなるべし。

   *

「日曆十二神」不詳。「ひごよみじゅうにしん」(現代仮名遣)と読んでおく。その日の干支の十二支に仏教の十二神将を割り当てたものか?

「高崎新町(あらまち)」現在の群馬県高崎市あら町か(グーグル・マップ・データ)。この附近は江戸前期に加賀藩前田氏によって当地を通る街道(加賀街道)が開かれて宿場町が形成され、江戸中期には中山道の正式な宿場となった。

「三社權現は淺草觀音の境内にも在り」浅草寺本堂右隣にある東京最古とされる浅草神社(あさくさじんじゃ)(グーグル・マップ・データ)。現在も通称で三社権現と呼ぶ。ウィキの「浅草神社」によれば、『浅草寺の草創に関わった土師真中知(はじのまつち)、檜前浜成(ひのくまのはまなり)、檜前竹成(ひのくまのたけなり)を主祭神』『とし、東照宮(徳川家康)・大国主命を合祀する。檜前浜成・竹成の他のもう一柱の主祭神については諸説ある』『が、浅草神社では土師真中知であるとしている。この三人の霊をもって「三社権現」と称されるようになった』。『社伝によれば、推古天皇』三六(六二八)年の三月十八日、『漁師の檜前浜成・檜前竹成の兄弟が宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていたところ、網に同じ人形の像が繰り返し掛かった。兄弟がこの地域で物知りだった土師真中知に相談した所、これは聖観音菩薩像であると教えられ、二人は毎日観音像に祈念するようになった。その後、土師真中知は剃髪して僧となり、自宅を寺とした。これが浅草寺の始まりである。土師真中知の没後、真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って』、『真中知・浜成・竹成を神として祀ったのが当社の起源であるとしている』。『実際には、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて、三人の子孫が祖先を神として祀ったものであると考えられている。ご神体として前述三氏を郷土神として祀っている』『明治の神仏分離により』、『浅草寺とは別法人になり、明治元年に三社明神社に改称、明治』五(一八七二)年に『郷社に列』した翌年、『現在の浅草神社に改称した』とある。

「天思兼命(あめのおもひかねのみこと)」一般には「思金神」「思兼神」で呼ぶことが多い。高御産巣日神(たかみむすびのかみ:高木の神格化か)の子。ウィキの「オモイカネ」によれば、『最も有名な話では、岩戸隠れの際に、天の安原に集まった八百万の神に天照大御神を岩戸の外に出すための知恵を授けたこととされている。国譲りでは、葦原中国に派遣する神の選定を行っている。その後、天孫降臨で邇邇芸命に随伴した』。異名の一つ。八意思兼神(やごころおもいかねのかみ)の『「八」を「多い」、「意」を「思慮」と解し、「八意」は思金神への修飾語、「思」を「思慮」、「金」を「兼ね」と解し、名義は「多くの思慮を兼ね備えていること」と考えられる』とある。

「白川」花山天皇の子孫で神祇伯を世襲した白川家。それによって受け継がれた神道の一流派を「白川神道」或いは「伯家(はっけ)神道」と呼ぶ。古来より、専ら、朝廷に伝わる祭祀の作法を口伝によって受け継いできた。詳しくはウィキの「伯家神道」を参照されたい。

「吉田」室町時代、京都吉田神社の神職吉田兼倶(かねとも)によって大成された神道の一流派「吉田神道(よしだしんどう)」を受け継いだ吉田家。反本地垂迹説(神本仏迹説)を唱え、本地で唯一なるものを神として森羅万象を体系づけ、汎神教的世界観を構築したとされる。詳しくはウィキの「吉田神道」を参照されたい。

『「續甲子夜話」七十三』以下。私は「甲子夜話」の電子化注を行っているが、遅々として進まぬ。当該条は「続篇甲子夜話」の「巻第七十三」の「梓神子(アヅサミコ)之事付(つけたり)追記」」以下。同電子化ポリシーに合わせて平凡社「東洋文庫」版を参考に恣意的に正字化して示す。【 】は割注(時間を食うので詳しい注は附さない)。

   *

都下に梓神子と云者あり。是も昔よりのことと聞こへし。「葵上」の謠に、爰に照日(テルヒ)の神子(ミコ)と申て、正き梓(アツサ[やぶちゃん注:ママ。])の上手の候を召、生靈死靈のさかひを梓に懸させ申さばやと存候。頓て梓に御懸候へ」など云へり。又、只今梓の弓の音にひかれて現れ出たるをば、何なる者とか覺しめす。是は六條の御息所の怨靈なりなど謠ふ。さて今江都に有る梓神子は、其頭を田村八大夫と稱す。これ神道佛寺の配下にも非ず。自から一家の者なり。又其始を尋るに彼業の者この八大夫、龜井戶に居る同職八木左京なる者の話略に【この語略の中、鄙野且辨じ難き言あり。因て、唯聞くまゝに記して一々其說を成さず】、

習合(シフカフ)神道、神事舞大夫、梓神子は、神代天思兼命の神傳にして、古來より吉田、白川兩家の支配を受けずして、獨り職業相續する中、嘗て右大將賴朝卿の治世、其頭を鶴若孫藤次なる者に命じられ、是より實朝薨じ、北條執權のとき、頭を天野(テンノ)十郞と云しが、夫よりしては其次第混亂して年月移れるを、御當家御入國のとき、三州より幸岩勘右衞門と云者御供にて、梓の頭仰付られ、幸岩を幸松と更むべしと有りて、知行五百石を給はり、於玉ケ池のあたりに宅せしが、其後幸松勘大夫と稱せし者、身持宜しからず迚隱居仰付。子未だ幼ければ、田村八大夫の先祖へ後見すべしと命有りしに、彼の幸松が子も亦身持宜しからずして、家絕へ[やぶちゃん注:ママ。]、其職も無かりしが、其後古來の傳授廢業のことを歎き申上たれば、再び興業の 旨を寺社奉行戸田能州【これ元祿の頃なり。憲廟のとき】申渡し有て、八大夫の後祖支配頭に仰付られ、今に相續すと。

この田村、代々家督のときは、寺社奉行の内寄合に於て申渡し有り。

    右御免許の次第

 男子社役へ  職札  裝束免許

 女子梓神子へ 法令書 法服免許

 又、右職業の者は、男女とも武家に屬するゆゑ、評定所にては上訴訟へ出、奉行所評席にては、上椽通りの取扱なりと。

竈神靑襖(スアフ)札と稱るもの、古來より年々正五九月に、御府内御免にて、配り札のため、名代の者巡行すると云。

淺草三社權現の神主(カンヌシ)役を兼帶すること、以前よりのことと云。

正月五日流蛸嶋【この流鏑馬、何(イ)かなる式にや。定めし淺草寺境内にて興行することならん。委しくは聞かまほし】。三月十七日十八日、境内を神輿(ミコシ)渡すとき、この神靈移し神靈還しと云ことありて、この神事を八大夫勤ると云【神輿とは、三社の御輿ならん】。

六月十五日、天下泰平の神樂と謂を行ふ。この神樂を俗に天下天(テンガテン)と稱す。このとき舞大夫の用ゆる翁面に、元久二年と記しあり。古物なり【考るに源實朝の時代】。かの習合神道の舞神樂は、一切他には無し。每年六月八日一七日潔齋して、社人八大夫宅に寄り、行入(ギヤフニフ)祓神樂と云を執行す。當日に淺草寺へ一同に會し、玄關より社人馬上にて出、觀音堂前の神樂殿にて神樂す。

前記せし嶋若孫藤次の家は、今は鶴岡八幡の社附にて、かの神事のときは前驅の役を勤ること佳例にして、又彼の家傳に、北條時政の執達梶原景時の筆なる、賴朝卿袖判の文書有りと云。この家も今は田村が配下になりしと。

又梓神子になる女は、七歲の頃より十三歲までの中、

修法の次第を皆傳せざれば、神子の業つとまらずと云。

右の略は、上屋鋪の臣中村某、天保卯年冬より、翌辰年春までに聞けるなり。

   追記

正月五日流鏑馬のこと、何かなる式やと聞かまほしけれど、由しも無かりしに、淺草寺の僧は觀たるべしと。堂守れる者に問たれば、云には、早春五日の爽旦なれば、誰も來ること稀にして、知る人も少なり、其次第は、三社の神前に於て行ふ。射手は社人一騎にして、烏帽子に淨衣着、檜的を竹に挾たるを人持て、東方と明方[やぶちゃん注:「あきのはう」で、所謂、「恵方」、その年の福徳を司るとされる歳の徳神がいるとする方角で、年によって方角が異なる。]と鬼門とに、三所に向ひて射る。弓は社人のことゆゑ、弱きまゝ、若し矢觸ても恐れなきを專とせりと。實に名のみにして神前の禮なり。武門の法式にあらず。

   *

「高崎の三社權現」これは現在の群馬県高崎市赤坂町にある高崎神社(グーグル・マップ・データ)のことを指しているものと思う。但し、ここの最初に奉斎されたのは実際には熊野三社であるらしい。

「惠比須願人(えびすがんにん)」夷願人で所謂、宗教者から零落した「願人坊主」の一派か。「願人坊主」とは僧形の大道芸人で、本来は、依頼者に代わって寺社を代参したり、願掛けや講中の代待(だいまち)・代垢離(だいごり)をした宗教的代願職を行う者を指した(元来は江戸東叡山寛永寺の支配下で僧侶の欠員を待って僧籍に入ることを願っていた者たちを指すとする説もある)。江戸時代には藤沢派(羽黒派)と鞍馬派の二派があり、江戸の市街地で集団生活をしていた。元禄頃(一六八八年~一七〇四年)になると、馬喰(ばくろう)町や橋本町に住み、天保頃(一八三〇年~一八四四年)には芝新網町・下谷山崎町・四谷天竜寺門前附近に居住していた。判じ物や各種の怪しげな祈祷・庚申の代待等を請け負って行う一方、諸芸を見せては乞食(こつじき)した。「半田行人(はんだぎょうにん)」「金毘羅行人」「すたすた坊主」「まかしょ」「わいわい天王」「おぼくれ坊主(ちょぼくれ、ちょんがれ)」「阿呆陀羅経(あほだらきょう)」「住吉踊り」などの多様な異名があり、これらの名が彼らが見せて物貰いをした大道芸の多種多様であったことを物語っている。それらの芸は、滑稽・諧謔に富み、卑俗なものであったため、民衆に親しまれた。門付(かどづけ)の祭文(さいもん)も語り、後の「浪花節」や「かっぽれ」に影響を与え、歌舞伎にもその風俗芸能が取り入れられた(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。そうした中の恵比須の格好をして予祝った連中のことであろう。次注の「嬉遊笑覧」の引用も参照されたい。そこにも「非人」とある通り、被差別民であった。

「元祿頃[やぶちゃん注:一六八八年~一七〇四年。]の册子に、「舞々」が歲の暮に困り、當時、流行の「大黑舞太夫」に早變りして錢儲けをしたる話も思ひ合はさるゝなり〔「嬉遊笑覽」〕」やはり同じく「巻五下」に出る。前と同じ仕儀で示す。【 】は割注のような小字部分。

   *

○大黑舞は「滑稽雜談」に、「悲田寺四ケ所の垣外の類、大黑天の姿を摸し、面をかぶり、頭巾を着て、民間の門々に歌ひ舞ふ。年々嘉祝の詞を以て新作して唄ふ故に、此唱歌をも大黑舞といふ」といへり。按るに、大黑舞は左義長より起る(左義長の條見倂すべし)。「海音が淨るり」に、「傾城ごとの起りより、大黑まひの鳥追のと世上のさたにものつたれば」といへるをみれば、其時の世間の事を作り唄ひたりとみゆ。「歌舞妓事始」に、大坂の芝居の事をいひて、「正月に至て大黑舞といふものを兩人出てまふ。もと是美濃國より出る。民家にて春のことぶきをなす。これをうたふ」といへり。美濃國の舞まひの事、前條にいへり。是なるべし。又、「世間胸算用」に、「隣には舞まひ住けるが、元日より大黑まひに商賣をかへければ、張貫の面・槌ひとつにて、正月中は口過[やぶちゃん注:「くちすぎ」。糊口を糊すること。]すれば、えぼし・びたゝれ・大口はいらず」といふことみゆ【茄子の枯るゝを、むかしよりまふといふ。今も物終るを仕舞といへり。まふとは仕まふの略と聞ゆ。然るに、その枯れぬまじなひに錢を一文その木につるす。是はむかし、舞まひ一錢にては舞はぎりし故也】。「梅津の長者物語繪詞」に、「大黑がまふ處、一に俵をふまへ云々」あり。「夷曲集」序に、「大黑の能をきくに、一に俵をふまへ、二ににつこと笑ひ、三に三界の福壽を、袋一はいにいれ云々」。「雅筵醉狂集(がえんすいきやうしふ)」【大黑の扇を持て、米五俵ふまへたる處の繪】、「ふくろより扇めづらし米五俵五ついつもの圖にはかはりて」。此かぞへ歌古きを知べし。其磧(きせき)が「賢女の心粧」に、京師河東裏借屋のとをいふに、「夫は粟島大明神の御影で過れば、女はおふく[やぶちゃん注:「おたふく」の脱字か。]の面をかけて、大黑舞に出て、女夫ゆるりと暮せば云々」。江戶にはたまたま夷子(えびす)・大黑のまねして來る乞丐(こつがい)あれ共、定りたる時はなし。たゞし吉原町へ、正月六日より大よそ二月初迄も大黑舞とて非人共來て、種々の物まねをなす。大黑舞はかたばかりにて、芝居狂言の學び也。是も近世の始りごとなり。

   *

ここで喜多村が引いた、井原西鶴作の浮世草子で町人物の代表作とされる「世間胸算用(せけんむねさんよう)」は元禄五(一六九二)年刊である。同書の副題はそれこそ「大晦日は一日千金」である。引用は「巻一」の第二話「長刀(なぎなた)は昔の鞘」の一節。確認した新潮社日本古典集成の頭注では「舞々」について、『幸若舞(こうわかまい)の大道芸人。烏帽子(えぼし)・直垂(ひたたれ)・大口(おおぐち)の袴(はかま)を着け、幸若の詞章を唱えながら舞う』とする。

「摩多羅神(またらじん)」ウィキの「摩多羅神」を引く。或いは「摩怛利神(またりしん)」とも称し、『天台宗、特に玄旨帰命壇』(げんしきみょうだん:嘗つて天台宗に存在した一派。後に淫祠邪教扱いされ、江戸時代には廃絶したとされる)『における本尊で』、「阿弥陀経」及び『念仏の守護神ともされる。常行三昧堂(常行堂)の「後戸の神」として知られる』。「渓嵐拾葉集」(鎌倉末の仏教書。比叡山西塔北谷の別所黒谷にいた光宗(こうしゅう 建治二(一二七六)年~観応元/正平五(一三五〇)年の著)の第三十九『「常行堂摩多羅神の事」では、天台宗の円仁が中国(唐)で五台山の引声念仏を相伝し、帰国する際に船中で虚空から摩多羅神の声が聞こえて感得、比叡山に常行堂を建立して勧請し、常行三昧を始修して阿弥陀信仰を始めたと記されている』。『しかし摩多羅神の祭祀は、平安時代末から鎌倉時代における天台の恵檀二流によるもので、特に檀那流の玄旨帰命壇の成立時と同時期と考えられる』。『この神は、丁禮多(ていれいた)・爾子多(にした)の二童子と共に三尊からなり、これは貪・瞋・癡の三毒と煩悩の象徴とされ、衆生の煩悩身がそのまま本覚・法身の妙体であることを示しているという』。『江戸時代までは、天台宗における灌頂の際に祀られていた。民間信仰においては、大黒天(マハーカーラ)などと習合し、福徳神とされることもある。更に荼枳尼天を制御するものとして病気治療・延命の祈祷としての「能延六月法」に関連付けられることもあった』。『また一説には、広隆寺の牛祭の祭神は、源信僧都が念仏の守護神としてこの神を勧請して祀ったとされ、東寺の夜叉神もこの摩多羅神であるともいわれる』。『一般的にこの神の形象は、主神は頭に唐制の頭巾を被り、服は和風の狩衣姿、左手に鼓、右手でこれを打つ姿として描かれる。また左右の丁禮多・爾子多の二童子は、頭に風折烏帽子、右手に笹、左手に茗荷を持って舞う姿をしている。また中尊の両脇にも竹と茗荷があり、頂上には雲があり、その中に北斗七星が描かれる。これを摩多羅神の曼陀羅という』。『なお、大黒天と習合し』、『大黒天を本尊とすることもある』とある。

「園太曆(ゑんたいりやく)」中園太政大臣と称された南北朝時代の公卿洞院公賢(きんかた 正応四(一二九一)年~延文五/正平一五(一三六〇)年:北朝方の重鎮として光厳院の院執事となり、左大臣・太政大臣を歴任した)の日記。

「男山の八幡は、もと、九州より上りたまひし神なり」石清水八幡宮は平安前期の貞観元(八五九)年に南都大安寺の僧行教(空海の弟子)が豊前国宇佐神宮(現在の大分県宇佐市)にて受けた「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との神託により、翌年に清和天皇が社殿を造営したのが創建とされる。]

« 太平百物語卷二 二十 本行院(ほんぎやうゐん)の猫女にばけし事 | トップページ | 山彥 伊良子清白 (ハイネの訳詩/参考付加・片山敏彦氏訳「山の声」) »