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2019/05/09

ツルゲエネフ・生田春月訳「散文詩」始動 /巻頭引用・序(生田)・「田舍」

[やぶちゃん注:底本は大正六(一九一七)年六月十八日新潮社刊の生田春月譯・ツルゲエネフ「散文詩」を国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を視認する形で電子化する。

 私は既に本ブログ・カテゴリ「Иван Сергеевич Тургенев」に於いて、中山省三郎訳(彼のそれは挿絵附きのサイト一括(私のオリジナル注附)版(も作製している)・神西清訳(第一次及び第二次改訳)・上田敏訳をオリジナル注を附して電子化しているが、今回、伊良子清白の全詩篇電子化の作業中にハイネの訳詩を調べる内、たまたまこの生田春月の訳本を国立国会図書館デジタルコレクションで発見、発見した以上は、私の偏愛するイヴァン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ(ラテン文字転写:Ivan Sergeevich Turgenev 一八一八年~一八八三)のそれ(「散文詩」は「猟人日記」に次いで私の若き日からの愛読書である)を電子化せずんばならず、と決したものである。

 生田春月(明治二五(一八九二)年~昭和五(一九三〇)年)鳥取県(現在の米子市)生まれ。本名は生田清平(きよひら)。十歳の頃から詩作を始め、白井喬二らと回覧雑誌を作る。小学校在学中に家業が破産し、高等小学校を二年で中退し、朝鮮など各地を流浪するなかで、『文庫』などに投稿、明治四一(一九〇八)年七月、満十六歳の時に上京、同郷の新進気鋭の評論家生田長江(明治一五(一八八二)年~昭和一一(一九三六)年)宅の玄関番兼書生となる(生田長江(縁戚関係はない)とは出版トラブルや長江の病気(ハンセン病)等の関係から、後に不仲と成り、疎遠となった)。英語・ドイツ語などを独学し、明治四四(一九一一)年には二年前から投稿していた『帝国文学』にほぼ毎号のように詩が連載され(主催者小林愛雄が彼の詩才を認めたことによる)、詩によって初めて報酬を得るようになった。大正三(一九一四)年には『青鞜』同人の西崎花世と結婚、大正六年に第一詩集「霊魂の秋」を、翌年「感傷の春」を刊行、詩人としての地位を確立した。以後、詩人・作家・翻訳家として活躍し、翻訳では特にその研究に生涯を棒げた「ハイネ詩集」始めとして二十五冊の訳書があり、他の詩集に「春月小曲集」「夢心地」「自然の恵み」等がある。作家としての作品には「相寄る魂」がある。昭和五年五月十九日午後十一時過ぎ、神戸発別府行の汽船菫丸から播磨灘(小豆島近く)で覚悟の入水自殺を遂げ、三十八歳の生涯に終止符を打った(以上は所持する昭和五六(一九八一)年(改訂版)彌生書房刊廣野晴彦編「定本 生田春月詩集」の年譜等に拠った)。

 但し、生田自身が序で述べている通り、これは推定でドイツ語及び英語からの重訳である。生田はドストエフスキイ「罪と罰」(共訳)やゴーリキー「強き恋」等があるが、ロシア語はできなかったものと思われる。

 傍点「ヽ」は太字で示す。踊り字「く」は正字化した。

 詩篇ではよほどのことがない限り、注は附さない。上記に示した電子化の中でさんざんやってきたからである。但し、底本の巻末に配された「註釋」に記されたものは、前倒しで、それぞれの詩篇の後に【 】で附した。底本の元の註はこんな感じ(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)であるが、非常に読み難いので、各語の注を分割し、標題や二重線・ダッシュを略して示した。【二〇一九年五月九日始動 藪野直史】]

 

 

……讀者が此の「散文詩」を一息に讀過しないやうにと望みたい。でないと、その結果は恐らく退屈を來して――そして「歐羅巴の使ひ」はその手から取落されてしまふであらう。むしろ一篇づつ讀んで頂きたい、今日はこれ、明日はあれと云ふ風に――さうしたならば、多分その中から何物かゞその胸に刻み込まれるであらうと思ふ……

         ツルゲエネフの書翰から

 

[やぶちゃん注:以上は見開き表紙の次の次ページに、枠で囲まれて記されてある。]

 

 

     

 

 ツルゲエネフの散文詩は詩の衣裳をまとうた哲學である。近代文學の生んだ最も警拔な詩である、しかして又此の憂鬱な露西亞の天才の一生の懺悔である。その中にはツルゲエネフの全作品を一貫してゐる凡ての特色がコンデンスされてゐると云つてよい。さればこの小篇は既に屢々多くの人によつて譯せられた。今此の飜譯は、徒らに屋下屋を架するものかも知れない。たゞ私一個としては此の我が熱愛する詩集の譯書を、自ら出すべき機會を與へられたのを感謝するだけである。そして私の志したのは、これに詩的な流麗な日本文の着物を着せて、眞に散文詩の名に背かざらしめんとするにあつたが、これは私にとつては不遜な無謀なことだつたかも知れない。

 一體、既に屢々譯出せられた書を更に飜譯する者は、多くの利益を有すると共に、またそれに劣らぬ不利を有する。先人の教を受けるのはその利益で、的確な譯語を先入に占められ、なるべくそれを套襲しまいとて苦心をして、反つて無理を來す如きはその不利な點である。曾て、獨人ストロトマン、そのシエレイの詩集(ポエズム)の譯本に序して、先人の勞力をどれ位の程度に利用すべきかの問題を論じて、多くの場合外國詩家の語句を最もよく自國語もて現はす言葉はたつた一つしか無い、故に後人がその虛榮心若くはその義務の誤解によつて、先人の的確な譯語を避けることを妥當ならずとし、自分が先人を凌駕し得ないと思ふ限りは躊躇なくそれを利用した事の告白を恥ちず、自分の譯がどれ位な程度に獨立性を有するかは、これを批評家に一任すると言つた。私もまたその通りである。(なほ此問題に就いては、既に批評家の注意が向けられるぺき時となつてゐると思ふ)從つて私の飜譯が卓越した先人上田敏氏、篤實なる仲田勝之助氏、草野柴二氏等の譯に負ふところ多きは言ふ迄もない。然しながら、先人と意見を異にした點ももとより尠くはない。

 此の譯書のテキストとしたのは、ヰルヘルム・ランゲ及びコンスタンス・ガアネツトの西歐語譯で、遺憾ながら重譯である。なほ卷末に解題と註釋とを添ヘたのは、年若い讀者諸君の手引にと思つての老婆心に過ぎない。

 

  一 九 一 七 年        譯   者

 

[やぶちゃん注:「コンデンス」condense。凝縮すること。濃縮すること。

「ストロトマン」ドイツの詩人・作家・翻訳家アドルフ・シュトロートマン(Adolf Strodtmann 一八二九年~一八七九年)。ハイネの研究者としても知られる。

「シエレイ」イングランドのロマン派詩人パーシー・ビッシュ・シェリー(Percy Bysshe Shelley 一七九二年~一八二二年)。ゴシック・ロマン「フランケンシュタイン」(Frankenstein:正しくは“Frankenstein: or The Modern Prometheus”。一八一八年に匿名で出版)で知られるメアリー・シェリー(Mary Wollstonecraft Godwin Shelley 一七九七年~一八五一年)は彼の妻。

「ヰルヘルム・ランゲ」ドイツ人と思われる翻訳家にヴィルヘルム・ランゲ(Wilhelm Lange 一八四九年~一九〇七年)がいるが、彼か。

「コンスタンス・ガアネツト」日本では「ガーネット夫人」の呼称で知られる、イギリスの翻訳家コンスタンス・クララ・ガーネット(Constance Clara Garnett  一八六一年~一九四六年)。十九世紀ロシア文学、特にチェホフ・ツルゲーネフ。トルストイの作品の名訳で知られ、英米文学・日本文学に大きな影響を与えた。

 この後に「目次」が入るが、省略する。]

 

 

   ツ ル ゲ エ ネ フ 作

    散  文  詩   生 田  春 月譯

 

 

   第 一

  【一八七八年】

 

    田  舍

 

 七月終りの日。このあたり一千ヹルストは露西亞、我が鄕國。

 一體の碧色(みどりいろ)が空中(そらぢゆう)に漲つて、唯一片の雲切れがその面に半ば漂ひ、半ば消えて行く。風もなく、暖かで……空氣はしぽり立ての牛乳(ミルク)のやうだ!

 雲雀(ひばり)は囀り、野鳩(のばと)はくくと啼く。聲も立てず燕は空を飛び交ふ。馬は嘶いたり、ものを嚙んだりする。犬は吠えもしないで尾を振り乍らじつと立つてゐる。

 畑や乾草(ほしくさ)の匂ひ、樹脂(タアル)や獸皮(けがは)の匂ひもほのかにする。麻はすでに滿開で、重苦しい芳香を放つてゐる。

 深いけれどなだらかに下りてゐる谷。兩側には大きな頭をした幹の下で裂けてゐる楊柳の並木がある。小川はこの谷を走つてゐる。その底の小石はきらきらする波間にふるへて見える。遙かの遠方の天と地との境界には大河の靑い筋が輝いてゐる。

 この谷に添うて一方にはきちんとした物置や、ぴつたり戶のしまつた小さな納屋がある。他方には樅(もみ)の樹造りの板葺小舍(いたぶきごや)がが五つ六つある。どの屋根にも鳩小舍のついた高い柱が立つてゐて、どの戶口の上にも鬣の短い鐡製の馬が見える。瑕(きず)だらけな窓硝子(まどがらす)は虹の七色に輝き、窓の扉には花瓶が描かれてゐる。どの家の前にも小さな腰掛が一つづゝきちんと置かれ、小高いところには猫が日向(ひなた)ぼつこをして、逍き通つた耳をそぱたてゝゐる。高い敷居の向には凉しさうな暗い外房(そとべや)が見える.

 私は馬衣(うまかけ)を擴(ひろ)げて谷の外側(そとがは)に橫はつた。あたりには息づまるばかりの香ひを放つ刈り立ての草が積み上げられてある。拔目のない農夫達はその草を小舍の前に擴げて、もつと日光に乾(かわか)して、それから納屋に收めようと云ふのだ。その上ならばよく寢られることであらう。

 積草(つみぐさ)の中からは縮れ髮の子供の頭がのぞいてゐる。鷄冠(とさか)のある鷄は乾草(ほしぐさ)の中に蠅や小さな甲蟲を探す。まだ鼻の白い子犬は網のやうになつた草の中にころげ廻つてゐる。

 ブロンドの髮の毛をした若者達はさつぱりした上衣に帶を低くしめ、重たい靴を穿いて、馬具をはづした車に寄りかゝつて、白い齒を光らして、冗談を言ひ合つてゐる。

 丸顏の若い女が窓から覗(のぞ)いて、若者の冗談や、乾草の中で子供達のふざけ廻つてゐるのを笑つてゐる。

 今一人の若い女は逞しい腕でもつて濡れた大釣瓶を井戶から汲み上げてゐる……釣瓶(つるべ)は搖れ動いて、光つた長い滴(しづく)を底へ垂らしてゐる。

 私の前には新しい縞の袴(はかま)と新しい靴とをつけた婆さんが立つてゐる。

 日に燒けた瘠せた頸には大きな空洞(くうどう)の玉を三列に卷いて、赤い玉を染めた黃色な手拭で白髮頭(しらがあたま)を包み、それが曇つた眼の上にすべり落ちてゐる。

 けれどもその老眼には人を迎へる笑ひがあり、その皺の寄つた顏中には笑みをたたへてゐる。この婆さんは七十臺には手が屆いてゐるに違ひない……それでも未だ昔の美しい面影は窺はれる。

 日に僥けた指をひろげて、婆さんは右手に穴倉から出したばかりの冷たいクリイム入りの牛乳の椀を差出してゐる、椀の外側は雫(しづく)で蔽はれて眞珠の紐を垂れたやうである。左手の掌には溫い麺麭(ぱん)の大きな塊(かたまり)を私に持つて來て、『旅のお方、ようこそお出でになりました、どうぞこれを召上つて下さい!』と云ふやうだ。

 雄鷄が俄かにうたひ出して、忙しげに羽搏(はゞた)きすると、小舎に閉ぢ籠められてゐた犢(こうし)が懶(ものう)げにそれに答へる。

 『こりやすばらしい燕麥(からすむぎ)だ!』と私の馭者の言ふのが聞える……あゝ、廣々とした露西亞の田舍の滿足よ、平和よ、豐饒(はうねう)よ!深い平和よ、幸福な生活よ!

 すると何がなしにこんな考へが浮んで來た、コンスタンチノオプルの聖(セント)ソフイア寺院の圓頂閣(ゑんちやうかく)の上に十字架を建てようとか、その外我々都會の者が懸命(むき)になつてゐる事が、此處で我々に何の價値があらうぞ!

    一八七八年二月

 

ヹルスト[やぶちゃん注:“верста”の訳語。約一・〇七キ口メートル。]、露西亞の里程で、一哩[やぶちゃん注:一マイル。一キ口八百五十二メートル。]の三分の二に當る。】

コンスタンチノオプル、昔のビサンチン、今の土耳其[やぶちゃん注:「トルコ」。現行も正しい漢字表記はこれ。]の首府。この結末は、當時アクザコフ[やぶちゃん注:思想家コンスタンティン・セルゲーエヴィチ・アクサーコフ(Константи́н Серге́евич Акса́ков/ラテン文字転写:Konstantin Sergeyevich Aksakov 一八一七年~一八六〇年)父セルゲイは小説家、弟イヴァンは評論家・詩人として孰れも知られる。]等のスラヴ主義者、國粹主義者が盛んに此地の領有を說いていたこと、及び露西亞が多年宗教上政治上の關係からダアダネルス海峽た土耳其の土地に垂涎してゐることを念頭に置いて讀まれたい。】

聖ソフイヤ寺院云々、囘教徒なる土耳人の手から取り返さうと云ふのである。】

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