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2019/05/23

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(23) 「甲斐ノ黑駒」(1)

 

《原文》

甲斐ノ黑駒 駿府ノ猿屋ガ祕傳ノ卷物、サテハ江州小野庄ノ馬醫佐藤家ノ由緖書ノ外ニモ、聖德太子ヲ以テ馬ノ保護者トスル傳說ハ弘ク行ハレタリシガ如シ。古クハ天平神護元年ノ五月、播磨賀古郡ノ人馬養造人上(ウマカヒノミヤツコヒトガミ)ノ款狀ニ、此者ハ吉備都彥ノ苗裔、上道臣息長借鎌(カミツミチノオミオキナガノカリカマ)ノ後ナルニ、其六世ノ孫牟射志(ムサシ)ナル者、能ク馬ヲ養フヲ以テ上宮太子之ヲ馬司ニ任ジタマヒ、此ガ爲ニ庚午ノ戶籍ニハ誤リテ馬養造(ウマカヒノミヤツコ)ニ編セラルト稱セリ〔續日本紀〕。此君馬ヲ愛シタマフト云フコトハ久シキ世ヨリノ傳說ニシテ、難波ノ四天王寺ニ甲斐黑駒ノ影像ヲ安置シ〔台記久安二年九月十四日條〕、或ハ此馬ノ太子ノ御柩ニ殉ジタル物語ヲ傳ヘ〔元亨釋書〕、或ハ又秦川勝ガ黑駒ノ口ヲ取リテ太子ノ巡國ニ隨ヒマツリシ由ヲ言ヘリ〔花鳥餘情〕。而シテ猿屋ノ徒モ亦自ラ秦氏ノ末ナリト稱スルナリ。近世ニ及ビテモ大和ノ橘寺若狹ノ馬居寺、安房ノ檀特山小松寺等、太子ト黑駒トノ關係ヲ語リ傳フル例甚ダ多シ。【太子講】東國ニテハ武藏甲斐ノ間ニハ太子講ト稱スル月祭アリ。常陸北部ニテハ太子塚ト刻セシ石塔到ル處ノ路傍ニ在リ。此モ亦馬ノ斃レシ跡ナドニ造立スルコト、馬頭觀音勢至菩薩ノ立石或ハ駒形權現ノ祠ナドト其趣ヲ一ニセリ。陸中岩谷堂(イハヤダウ)町ノ太子ノ宮ノ如キモ、亦馬ノ祈願ノ爲ニ勸請セシモノナルべシ。【達磨大士】或ハ鎭守府將軍秀衡ガ奈良ノ都ノ俤ヲ移セシトモ傳ヘラレ、其地ヲ片岡ト稱シ岡ノ片岨ニハ太子ノ宮ト竝ビテ又達磨尊者ノ社アリキ〔眞澄遊覽記十〕。後世ノ俗說ニテハ達磨ニ御脚ガアルモノカナド云フニ、時トシテ馬ノ神ニ祀ラルヽハ珍シキ事ナリ。猿牽ノ仲間ニ在リテモ家藝ノ祖神トシテ達磨ヲ祀レリ。彼等ハ或ハ太子ノ調馬術モ亦片岡ノ飢人ヨリ學ビ得タマヒシ如ク說クナランモ、ソハ信ズべカラザル後世ノ附會ニシテ、其梶原ハ單ニ古代ノ駿馬傳說ガ聖德太子ト云フ日本ノ理想的人物ト因緣ヲ有セシ結果ニ他ナラザルべシ。最モ古キ記述ニ依レバ、太子ノ愛馬ハ四脚雪ノ如ク白ク極メテ美シキ黑駒ナリキ。推古女帝ノ第六年ノ始ニ、諸國ヨリ獻上セシ數百頭ノ中ニ於テ、太子ハ能ク此黑駒ノ駿足ナルコトヲ見現ハシタマフ。【黑駒巡國】同ジ年ノ秋太子ハ黑駒ニ召シ、白雲ヲ躡ミテ富士山ノ頂ニ騰リ、ソレヨリ信濃三越路ヲ巡リテ三日ニシテ大和ニ歸ラセタマフ〔扶桑略記〕。甲斐ノ黑駒ハ此馬ノ名ニハ非ザリシモ、黑駒ハ夙クヨリ甲州ノ名產ニシテ、且ツ駿逸ノ譽高カリシモノナリ〔日本書紀雄略天皇十三年九月條〕。【祥瑞】加之此毛色ノ馬ハ特ニ朝廷ニ於テ祥瑞トシテ迎ヘラルべキ仔細アリキ。例ヘバ聖武天皇ノ天平十年ニ信濃國ヨリ貢セシ神馬ノ如キハ、甲斐ノ黑駒ニヨク似テ更ニ髮ト尾白カリキ。其翌年ノ三月ニ對馬ノ島ヨリ獻上セシハ、靑身ニシテ尾髮白シト見ユ〔續日本紀〕。此等ハ何レモ聖人政ヲ爲シ資服制アルノ御世ニ非ザレバ、現ハレ來ラザル馬ニテ、始ヨリ凡人ノ乘用ニ供スべキ物ニハ非ザリシナリ。故ニ世治マリ天下平カニシテ之ヲ大内ノ庭ニ曳クコトヲ得レバ好シ。【神馬】然ラザルモノハ諸國ニ留マリテ永ク神遊幸ノ乘具ニ供セラレシナルべク、後世池月磨墨ノ二名馬ニ由リテ代表セラレシ二種ノ純色ハ、即チ馬ノ最モ神聖ナルモノト認メラレシ物ナルべシ。尤モ古史ニ見エタル神馬ト云フ漢語ハ、單ニ極端ニ結構ナル馬ト云フ意味ニ用ヰシモノカモ知レザレドモ、邊土ノ人々ニ至リテハ終ニ之ヲ以テ神ノ馬又ハ馬ノ神ト解シ、或ハ木曾ノ駒ケ嶽ニ於テ馬蹄ヲ印セシカトオボシキ土砂ヲ取還リ、或ハ樹ノ枝ナドニ懸リタル馬ノ尾ノ如キ一物ヲ持チ來リテ、厩ノ守護用トスル迄ニハナリタルナリ。

 

《訓読》

甲斐の黑駒 駿府の猿屋が祕傳の卷物、さては、江州小野庄の馬醫佐藤家の由緖書の外にも、聖德太子を以つて、馬の保護者とする傳說は、弘く行はれたりしがごとし。古くは、天平神護元年[やぶちゃん注:七六五年。]の五月、播磨賀古(かこ)郡の人、馬養造人上(うまかひのみやつこひとがみ)の款狀(かんじやう)に、『此の者は、吉備都彥(きびつひこ)の苗裔(びやうえい)、上道臣息長借鎌(かみつみちのおみおきながのかりかま)の後なるに、其の六世の孫(そん)、牟射志(むさし)なる者、能く馬を養ふを以つて、上宮太子(じやうぐうたいし)[やぶちゃん注:聖徳太子の異称。]、之れを馬司(むまのつかさ)に任じたまひ、此れが爲めに、庚午(こうご)の戶籍には、誤りて、「馬養造(うまかひのみやつこ)」に編せらる』と稱せり〔「續日本紀」〕。此の君(きみ)、馬を愛したまふと云ふことは、久しき世よりの傳說にして、難波(なには)の四天王寺に、甲斐黑駒の影像(やうざう)を安置し〔「台記(たいき)」久安二年[やぶちゃん注:一一四六年。]九月十四日の條〕、或いは、此の馬の、太子の御柩(おんひつぎ)に殉じたる物語を傳へ〔「元亨釋書」〕、或いは又、秦川勝(はたのかはかつ)が、黑駒の口を取りて、太子の巡國に隨ひまつりし由を言へり〔「花鳥餘情」〕。而して、猿屋の徒も亦、自ら、秦氏の末なりと稱するなり。近世に及びても、大和の橘寺(たちばなでら)、若狹の馬居寺(まごじ)、安房の檀特山小松寺(だんとくざんこまつじ)等、太子と黑駒との關係を語り傳ふる例、甚だ多し。【太子講】東國にては武藏・甲斐の間には、「太子講」と稱する月祭(つきまつり)あり。常陸北部にては、「太子塚」と刻せし石塔、到る處の路傍に在り。此れも亦、馬の斃(たふ)れし跡などに造立すること、馬頭觀音・勢至菩薩の立石(りつせき)或いは駒形權現の祠(ほこら)などと、其の趣を一(いつ)にせり。陸中岩谷堂(いはやだう)町の「太子の宮」のごときも、亦、馬の祈願の爲めに勸請せしものなるべし。【達磨大士】或いは、鎭守府將軍秀衡(ひでひら)が奈良の都の俤(おもかげ)を移せしとも傳へられ、其の地を「片岡」と稱し、岡の片岨(かたそは)には、「太子の宮」と竝びて、又、「達磨(だるま)尊者の社(やしろ)」ありき〔「眞澄遊覽記」十〕。後世の俗說にては、達磨に御脚(おんあし)があるものか、など云ふに、時として、「馬の神」に祀らるゝは、珍しき事なり。猿牽(さるひき)の仲間に在りても、家藝の祖神として達磨を祀れり。彼等は、或いは、太子の調馬術も亦、「片岡の飢人(きじん)」より學び得たまひしごとく說くならんも、そは、信ずべからざる後世の附會にして、其の梶原は、單に古代の駿馬傳說が聖德太子と云ふ日本の理想的人物と因緣を有せし結果に他ならざるべし。最も古き記述に依れば、太子の愛馬は、四脚、雪のごとく白く、極めて美しき黑駒なりき。推古女帝の第六年[やぶちゃん注:五九六年。]の始めに、諸國より獻上せし數百頭の中に於いて、太子は、能く此の黑駒の駿足なることを、見現はしたまふ。【黑駒巡國】同じ年の秋、太子は黑駒に召し、白雲を躡(ふ)みて、富士山の頂(いただき)に騰(のぼ)り、それより、信濃三越路を巡りて、三日にして大和に歸らせたまふ〔「扶桑略記」〕。甲斐の黑駒は、此の馬の名には非ざりしも、黑駒は夙(と)くより、甲州の名產にして、且つ、駿逸の譽(ほまれ)高かりしものなり〔「日本書紀」雄略天皇十三年[やぶちゃん注:四六九年。]九月の條〕。【祥瑞(しやうずい)】加之(しかのみならず)、此の毛色の馬は、特に朝廷に於いて祥瑞として迎へらるべき仔細ありき。例へば、聖武天皇の天平十年[やぶちゃん注:七三八年。]に、信濃國より貢(こう)せし神馬のごときは、甲斐の黑駒によく似て、更に、髮と尾、白かりき。其翌年の三月に對馬の島より獻上せしは、靑身にして、尾・髮、白しと見ゆ〔「續日本紀」〕。此等は何れも、聖人、政(まつりごと)を爲し、資・服・制あるの御世に非ざれば、現はれ來たらざる馬にて、始めより、凡人の乘用に供すべき物には非ざりしなり。故に、世、治まり、天下、平らかにして、之れを大内(おほうち)の庭に曳くことを得れば、好し、【神馬】然らざるものは、諸國に留まりて、永く、神、遊幸(ゆうこう)の乘具に供せられしなるべく、後世、池月・磨墨の二名馬に由りて代表せられし二種の純色は、即ち、馬の最も神聖なるものと認められし物なるべし。尤も、古史に見えたる「神馬」と云ふ漢語は、單に「極端に結構なる馬」と云ふ意味に用ゐしものかも知れざれども、邊土の人々に至りては、終(つひ)に之れを以つて「神の馬」又は「馬の神」と解し、或いは、木曾の駒ケ嶽に於いて、馬蹄を印(しる)せしかとおぼしき土砂を取り還り、或いは、樹の枝などに懸りたる馬の尾のごとき一物を持ち來たりて、厩の守護用とするまでにはなりたるなり。

[やぶちゃん注:「江州小野庄の馬醫佐藤家の由緖書」前段に登場(但し、私は不詳)。

「播磨賀古(かこ)郡」旧兵庫県加古郡。「風土記」では「賀古郡」と書かれてある。旧郡域には現在の加古郡(グーグル・マップ・データ(以下同じ)。稲美町(いなみちょう)と播磨町のみ)の他に、その周縁の、加古川市の一部・高砂市の一部・明石市の一部が含まれる。

「馬養造人上(うまかひのみやつこひとがみ)」(生没年不詳)八世紀中頃の地方豪族。播磨国賀古郡の人で。天平神護元(七六五)年五月に外従七位下。その先祖は、ここに出る通り、第七代天皇孝霊天皇の皇子とされる吉備都彦の後裔、上道臣の一族息長借鎌(それは仁徳天皇(三一三年~三九九年)の頃で、一族は印南野(いなみの:現在の兵庫県南部の明石川と加古川及びその支流美嚢(みの)川に囲まれた三角状台地)に住んだらしい)で、その六世の孫の時、聖徳太子(敏達天皇三(五七四)年~推古天皇三〇(六二二)年)から馬司に任じられたため、「庚午年籍(こうごねんじゃく)」(天智九庚午(かのえうま)年(六七〇年)に作成された戸籍簿。古代に於いては一般の戸籍は六年ごとに作成され、三十年を経ると、廃棄される規定であったが、この「庚午年籍」は永久保存とされた。姓氏を正す原簿として重んじられた。戸籍が制度化されたの大化改新以来では整ったものとして最も古い戸籍で、各階層に、ほぼ全国に棉って施行されたものである)で誤って「馬養造」とされた。「印南野臣(いなみのおみ)」への氏姓変更を願い出て、許されている(以上は「朝日日本歴史人物事典」と「ブリタニカ国際大百科事典」その他を綜合した)。

「款狀(かんじやう)」古代から中世にかけての古文書様式の一つ。古くは「申文(もうしぶみ)」と呼び、鎌倉時代頃から「款状」と言うようになった。「款」は「偽りなく誠を尽くす」の意。官人や僧侶などが、位階や官職の叙任・昇進を望むために自己の経歴・功績或いは祖先のことを書いた自薦文書。他に訴訟の趣旨を記した嘆願書をも、かく呼ぶ。

「續日本紀」天平神護元(七六五)年五月庚戌二十日の条に以下のように出る。

   *

庚戌。播磨守從四位上日下部宿禰子麻呂等言。部下賀古郡人外從七位下馬養造人上款云。人上先祖吉備都彥之苗裔。上道臣息長借鎌。於難波高津朝庭。家居播磨國賀古郡印南野焉。其六世之孫牟射志。以能養馬、仕上宮太子、被任馬司。因斯。庚午年造籍之日。誤編馬養造。伏願。取居地之名。賜印南野臣之姓。國司覆審。所申有實。許之。

   *

「秦川勝(はたのかはかつ)」(生没年不詳)六世紀末から七世紀前半にかけて活躍した厩戸皇子(聖徳太子)の側近。山背国葛野(現在の京都市)の人。葛野秦造河勝・川勝秦公とも書く。山背国の深草地域(京都市伏見区)及び葛野地域に居住する秦氏の族長的地位(太秦)にあり,その軍事力や経済力を背景に、早くから厩戸皇子の側近として活躍、「上宮聖徳太子伝補闕記」は、用明二(五八七)年の物部守屋の追討戦に「軍政人」として従軍、厩戸皇子を守護して、守屋の首を斬るなどの活躍を伝え、秦氏の軍事力が上宮王家の私兵として用いられたことが知られる。推古一八(六一〇)年には、来日した新羅・任那使人らの導者となった。また、秦氏の氏寺として蜂岡寺(京都市右京区太秦蜂岡町の広隆寺)を造営するが、推古三十年に於ける聖徳太子の病気回復(或いは追善供養)を契機として、推古十一年に太子から授かった仏像を安置するために建立したものと伝えられる。現存する伽藍は平安末期以降の再建だが、太子が河勝に授けた朝鮮伝来と伝えられる半跏思惟像(国宝)は有名。皇極三(六四四)年には、不尽(富士)川辺で大生部多(おおふべのおお)が常世神と称して虫を祭り、都鄙の人が、こぞってこれを信仰すると、民の惑わされるを憎んで、大生部多を打ち懲らしたという。これは神仙的な当時の民間信仰や、蘇我氏との関係で微妙な秦氏の政治的立場を議論する史料となっている。物部守屋を討った功により大仁、のちには小徳に叙せられた(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「大和の橘寺(たちばなでら)」既出既注

「若狹の馬居寺(まごじ)」福井県高浜町にある真言宗本光山馬居寺(まごじ)。本尊馬頭観音。ウィキの「馬居寺」によれば、『もと西光寺と号し、中世には東寺の末寺であったことが古文書から知られるが創建の事情・時期等については不明である。本尊の馬頭観音像は平安時代末期』、十二『世紀にさかのぼる作と見られ、遅くともその頃には寺観が整っていたものと見られる』。『寺伝では推古天皇』二七(六一九)年、『聖徳太子の開創と言い』、延宝三(一六七五)年成立の「若州管内社寺由緒記」にも『聖徳太子の創建を伝えるが、伝承の域を出ない。縁起によれば、「あるとき』、『太子は摂政の御役目を帯びて御愛馬』「甲斐の黒駒」に『召され、当地方御巡行の道すがら、馬を下り海辺に歩を進めて、しばし御休息をとられた。ちょうどそのとき』、『彼方』の『山上に御愛馬のいななく』の『を聞かれた。それと刻を同じくして、時ならぬ一大光明がそのあたりに輝くのを見』給い、「ここそ自分が日頃から求めていた霊地である」『として、太子自ら』、『馬頭観世音菩薩像を御刻みになり、堂を建て、ここにその像を安置し』た、とある。

「安房の檀特山小松寺(だんとくざんこまつじ)」千葉県南房総市千倉町大貫にある真言宗檀特山小松寺。本尊薬師瑠璃光如来。公式サイトも見たが、聖徳太子や黒駒との関係は記されていないが?

「太子講」聖徳太子を讃仰する宗教講、又は、大工・左官などの建築関係の職人たちが、それぞれ同業者集団として結束を図るために、聖徳太子を守護神として行う職業講。浄土真宗では、親鸞が和国の教主と讃えた聖徳太子の奉賛が盛んで、存覚(正応三(一二九〇)年~応安六/文中二(一三七三)年:かの覚如の長男。父に従って各地に布教するが、父と義絶・和解を繰り返した)の定めた太子講式に則って行われた。また、聖徳太子が寺院建築史上、大きな存在であったところから、江戸時代には、職人、殊に大工・左官・鍛冶屋・屋根葺・桶屋などが「工匠の祖」として祭るようになり,忌日の二月二十二日に「太子講」を行った(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「勢至菩薩」仏菩薩を十二支に割り当てた際に「午(うま)」年の守り本尊とされる。

『陸中岩谷堂(いはやだう)町の「太子の宮」』岩手県奥州市江刺区岩谷堂はここだが、「太子の宮」というのは見当たらない。地区外東北直近に玉崎駒形神社というのを見出せ、複数の資料を確認したところ、牛馬を守る守護神ではあるが、聖徳太子とは関係がないので、違う。

『「太子の宮」と竝びて、又、「達磨(だるま)尊者の社(やしろ)」ありき』仏法の布教を志した聖徳太子にして、その愛馬「黒駒」は、それに感応した「達磨大師」が「化身」したものだとする伝承がある。また、以下に出る「飢人」伝説の本性を達磨大師とする伝承もある(後注参照)

「片岡」「片岡の飢人」ウィキの「片岡山伝説」によれば、『片岡山伝説』『または飢人伝説(きじんでんせつ)とは』、「日本書紀」推古天皇の条に『収載された飛鳥時代の説話。聖徳太子と飢人(飢えた人)が大和国葛城(現在の奈良県北葛城郡王寺町)の片岡山で遭遇する伝説で』、『古代における太子信仰のひとつのあり方を示す伝説として注目される』。「日本書紀」のそれは、推古天皇二一(六一三)年十二月『庚午朔、聖徳太子が片岡(片岡山)に遊行したとき、飢えた人が道に臥していたので、姓名を問うたが返事がなかった』。『太子はこれを見て飲食物を与え、また、自分の衣服を脱いでその人を覆い』、『「安らかに寝ていなさい」と語りかけ、次の歌を詠んだ』。

   *

斯那提流 箇多烏箇夜摩爾 伊比爾惠弖 許夜勢屢 諸能多比等阿波禮 於夜那斯爾 那禮奈理鷄迷夜 佐須陀氣能 枳彌波夜祗 伊比爾惠弖 許夜勢留 諸能多比等阿波禮

(しなてる 片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こや)せる その旅人(たびと)あはれ 親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢ゑて臥(こや)せる その旅人(たびと)あはれ)

   *

『翌日、太子が使者を遣わして』、『その人を見に行かせたところ、使者は戻って飢者がすでに死んでいたことを告げた』。『太子は大いに悲しんで、飢人の遺体をその場所に埋葬して墓を固く封じさせた。数日後』、『太子は、近習の者を召して「過日』、『埋葬した人は普通の人ではない。きっと真人(ひじり)にちがいない」と語り、墓を見に行かせた』。『使いが戻って来て』、『「墓を動かした様子はありませんでしたが、棺を開いてみると』、『屍も骨もありませんでした。ただ』、『棺の上に衣服だけがたたんで置いてありました」と告げた』。『太子は』、『再び』、『使者を遣わして、自分がかつて与えたその衣服を持ち帰らせ、以前のように身に着けた。人々は大変』、『不思議に思い、「聖(ひじり)は聖を知るというのは、真実だったのだ」と語って、ますます太子を畏敬した』(中略)。『ここで注目されるのは、この説話における「聖人」(聖・真人)の概念の多面的・重層的な性格で』、『第一に「ひじり」はもともと日本古来の古代宗教(古い形態の神道)における霊的能力者を意味していたのであるが、そこに中国の「聖」の概念が重ねられ』ていること、『「聖人」はまた、儒教における絶対的な帝王であり、仁を身につけ礼の実践に努める「君子」よりさらに上の、最高の道徳的人格者である』こと、『さらに』、『「聖人」はまた』、『仏教にあっては絶対者であるブッダ、すなわち悟りをひらいた仏の姿にほかならない』という点である。『そのうえ、「凡人に非』ずして、『必ず真人ならむ」や「聖の聖を知る、それ実なるかな」などの記述にみられるように、道教における「真人」、すなわち道の奥義(宇宙の根源)を悟り、自由の境地を得て仙人となった理想的人間像が重ねられ』ている。『「真人」はまた』、『仏教にあっては仏陀である』。『さらに、墓をみたら』、『死体がなかったという逸話は、神仙思想における「尸解」にかかわりをもっている』(そうそう。道家思想に於ける完全なる存在は「真人」と言うのだ)。『いったん死んだ様態を呈して墓から抜けて昇天するのは、不老不死を得た仙人』則ち、『「尸解仙」なのであり、これまた道教に深いかかわりを有している』(但し、この登仙法は最もレベルの低いものである)。『要するに、以上述べたような多面的・重層的な聖人性こそが太子にふさわしいものと考えられ、どの宗派や教義の立場からしても太子が聖人であるということを説話は示しているのである』。また、『この説話に対して後世、実は、この飢人こそ、禅宗の始祖として知られる』達磨大師(?~五二八年)『その人であったという話が付加される』(以下太字は私が附した)。『これは一見、はるか後の禅宗の徒による牽強付会のようにもみえるが、実は奈良時代末に敬明によって編まれた』「上宮太子伝」に『注記として記されたものであり、同時にこれは、太子が隋の南嶽慧思』(えし 五一五年~五七七年:天台智顗の師で、天台宗二祖とされる)『の生まれ変わりであるという説と密接にからんでいる』。『南嶽慧思は天台宗を開いた天台智顗の師であり、天台宗では第二祖とされる高僧で、特異の禅定と法華信仰をもって知られるが、その慧思が日本の王家に生まれ変わって太子となったという説が奈良時代末期の文献にみられる』。『そして慧思に日本への生まれ変わりを勧めたのが』、『当時インドより中国にやって来た達磨であるとされる。とするならば、片岡山での邂逅はこの』二『人の再会であったという意味が付託される』のである。まあ、『太子が用明天皇の皇子として飛鳥の地に誕生した時点においては』、『慧思はまだ中国に生存していたのであるから、「生まれ変わり」』など『ありえないわけではあるが、この説をさかんに普及させたのは』、『唐からの渡来僧として著名な鑑真の弟子たち、すなわち』、『唐より鑑真に同行した思託らをはじめとする律宗教団の人びとであったと考えられる』。『そして、最澄以降、天台宗が日本に定着していく過程で、この説は大きな役割を果たしたと考えられる』。『また、小野妹子が』、『太子の命により遣隋使として煬帝のもとに派遣されたとき、太子の命で』、『太子が未だ慧思であった際に用いた』「法華経」を『受け取りに出かけたという説もこれに加わる』。この「片岡山飢人説話」は、九『世紀初頭に薬師寺の僧景戒によって編纂された仏教説話集』「日本霊異記」上巻にも確認でき、『当時から広く知られた説話であったことがうかがわれる』。『同書の説話の末尾には「誠に知る聖人は聖を知り、凡夫は知らず、凡夫の肉眼には賤しき人と見え、聖人の通眼には隠身と見ゆ」と付言され』、「日本書紀」『記述の説話以上に仏教色の強い内容となっている』。『ところで』「日本書紀」に『おいては、太子の仏教上の師である高句麗僧の慧慈が、太子の死をしきりに悼み、また「聖なる人」「大聖」と述べているが、さらに「三宝を恭み敬いて、黎元の厄を救う、是実の大聖なり」と述べたことを』も『記している』。『ここにおける「聖」とは、上述のとおり解脱して悟りを得た者(仏)を意味しており、単に能力・識見にすぐれた人物というだけで』は『なしに、平安時代には救世観音の化身であるという説も生じるなど、常人を越えた異能の人として崇敬されている』。『こうした諸説が成立する背景としては、太子が日本仏教の興隆に深くかかわったという歴史的事実を踏まえていることは言うまでもないが、一方ではすでに』、「日本書紀」に記された時点で、殊更に『異能の人として書き記されていることと無縁ではないと考』えられるのである。『聖徳太子の活躍は、古代日本が律令国家として発展していく第一歩を踏み出した時期であり、推古天皇の摂政兼皇太子として朝廷権力の中枢にあって諸改革を進めた時期に相当している』。しかし、「日本書紀」の『記述では、太子の政治活動は』、『推古朝の前半期に偏っており、必ずしも後半期には充分に及んでいない』。『これについて、米田雄介は、聖徳太子の後半期の政治的社会的地位が前半期に比較して相対的に低下しているのではなく、太子は蘇我氏に擁されながらも、一方では蘇我氏に屈服していないという立場と目され、反蘇我氏の諸勢力のなかからも蘇我氏を統制しうる象徴的な存在としておおいに期待され、それゆえに脱世俗的な存在として聖化されたものであろうと推定している』。『聖徳太子伝説の形成により、太子に対する崇拝・信仰は時代が下るとともにさかんになっていった。摂津国の四天王寺や河内国磯長(大阪府南河内郡太子町)の「太子廟」などは古くより数多の参詣者を集める一種の聖地である』。『太子信仰の実例については枚挙にいとまがないが、鎌倉時代、浄土真宗の開祖とされる親鸞が仏教者として初めて公然と妻帯することを決意したのも』、『聖徳太子からの夢告によるものと』するのは頓に知られている。

「聖人、政(まつりごと)を爲し、資・服・制ある」「資・服・制ある」はよく判らぬ。「資」は食物を始めとした、総ての人民を養う豊かな財物の豊富な貯えか。「服」は総ての民草がその政道に心からほっとし、得心して従うことか。「制」は秩序ある世界を維持する仁徳に則った法制度か。

「大内(おほうち)」宮中。]

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