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2019/05/31

鳩 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    

 

 私はゆるく傾斜をなした岡の頂上(いたゞき)に立つてゐた。眼の前には黃金(こがね)いろ白銀(しろがね)いろにきらめく海のやうに熟した大麥が連なつてゐた。

 然しこの海の上には小波(さゞなみ)一つ起らず、大輩は息づまりさうでそよとの風もない。大暴風雨(おほあらし)が來ようとしてゐるのだ。

 身のまはりに太陽はまだどんよりした光を投げてゐたが、大麥の彼方(かなた)の、あまり遠くもないところに、嗜碧色の雨雲(あまぐも)が重苦しい塊(かたまり)をなして、地平線のまる半分を蔽うてゐた。

 萬象寂としてゐる……最後の日光の不氣味(ぶきみ)なきらめきのもとに、あらゆるものが色を失つてしまつた。鳥一羽影も見せず啼きもしない。雀までが身をひそめた。ただ何處か近くで山牛蒡(やまごぼう)の葉が絕えずぱさぱさ云つて咡いてゐる[やぶちゃん注:「咡いて」は「ささやいて」。]。

 生垣(いけがき)の苦蓬(にがよもぎ)は何と云ふ强い香ひだらう! 私はかの暗碧色の塊を見やつた……すると漠然たる不安の念が私の胸を襲うた。『さあやつて來い、早く、早く!」と私は考へた、『金の舵よ、閃け、雷(かみなり)よ、鳴れ! 動け、急げ、篠つく雨となれ、意地惡の雨雲よ。此の待ちのぞむ息苦しさを切上げてくれ!』

 けれども雨雲は動かなかつた。それは依然として、ひつそりした地上を壓し附けてゐた……そしてただ一層かたまり、一層暗くなる許(ばか)りのやうに思はれた。

 折りしも、その物凄い暗碧の空を、何か白い手巾(ハンケチ)か雪の塊(かたまり)のやうなものが、すうと眞直(まつすぐ)に飛んでゐるのが見えた。それは村の方から飛んで來る一羽の白い鳩であつた。

 鳩は飛んだ、まつすぐに飛んだ……そして森の中へ飛び込んでしまつた。暫らく經(た)つた――やつぱり恐ろしい程ひつそりしてゐる……然し見よ! 二つの白い手巾(ハンケチ)が空に閃いてゐる、二つの白い雲の塊(かたまり)がひらひらと歸つて行く、二羽の白鳩は相並んで家路をさして飛んで行く。

 そして今やつひに暴風雨(あらし)は來つた、騷然たる聲が起つた!

 私はやつとの事で歸つて行けた。風は吼えたけつて狂ひ廻る。その前を疾走する低い赤い雲は引きちぎられたやうに見える。すべての物はごつちやになつて渦卷いてゐる。篠突く雨は直立した木の下をすさまじく漲り流れ、電光(いなづま)は靑い火をはなつて目を眩(くらま)し、雷鳴(かみなり)は砲聲のやうに颯と轟き渡つて、空氣は硫黃(ゐわう)の匂ひに滿たされた。

 しかし差出た軒下、屋根窓の緣(ふち)に、二羽の白鳩は互によりそつてとまつてゐる。一羽はその配偶(はいぐう)を呼びに行つたあの鳩で、一羽はそれに連れ歸られて、恐らく破滅から救はれた方の鳩であつた。

 彼等は羽根(はね)をさか立てて、互に翼をくくつけてゐる。

 彼等は幸福である! そして彼等を見る私もまた幸福である……私はただ一人であるけれども……いつもの通りただ一人であるけれども。

    一八七九年五月

 

たゞ一人云々、ツルゲエネフは一生結婚しないでしまつた人である、一度農奴の女と一緖になつて子供さへ出來たが、のち佛羅西へ行つて孤獨に終つた。】

[やぶちゃん注:「硫黃(ゐわう)」のルビはママ。正しい歴史的仮名遣は「いわう」。]

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