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2019/05/22

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(22) 「馬塚ハ馬ノ神」(4)

 

《原文》

 馬ノ神ノ信仰ハ必ズシモ死靈ニノミハ限ラレテアラズ。諸國ノ駒ケ嶽ニ活キタル神馬ノ往來ヲ見ルト云フ如ク、越前ノ穴馬谷(アナマダニ)ナドニモ穴ノ中ニ馬アリテ、時トシテ谷ノ口ノ鹽井ノ水ヲ來テ飮ムト云フ說アリ〔大野郡誌〕。【駒ト岩屋】多クノ巖窟ニハ駒ノ住ムト云フ口碑存セリ。甲斐西八代郡古關村大字瀨戶山中ノ栃木澤(トチノキザハ)ニハ、土人ガ駒ノ寢處ト稱スル岩穴アリ。夏ハ凉風ヲ起シ冬ハ暖風ヲ生ズル爲ニ、其中ノ草ノミハ夏枯レテ冬繁茂スト云ヘリ〔甲斐國志〕。今ナラバ蠶ノ種紙デモ藏シ置クべキ一ノ風穴ニ過ギザレドモ、昔ノ人ニ取リテハ濫ニ近ヅクべカラザル靈地ナリシナリ。【生駒】此等ハ所謂活馬(イコマ)ノ神ノ信仰ノ殘片ニシテ、起原頗ル古キモノナルべキモ、塚穴ヲ以テ悉ク葬處ト看做ス後世トナリテハ、追々ト此ヲモ死馬ノ幽靈ト考フルガ如キ傾向ヲ生ゼシガ如シ。多クノ馬塚ハ恐クハ掘ツテ見レバ何モ無ク、唯ノ祭場タル封土(モリツチ)ニ過ギヌナルべシ。馬ヲ一疋埋ムルハ決シテ容易ノ業ニ非ズ。故ニ塚ノ形ノアマリニ小サキ場合ノ如キハ、是非無ク馬骨ヲ集メテ之ヲ埋メタリナドト云フナリ。陸奧上北郡六ケ所村大字出戶ノ口碑ニ至リテハ更ニ一段ノ荒唐ヲ加フ。【巨馬】曰ク昔此村ニ常ノ馬ヲ四ツ五ツモ合セシホドノ大馬出現シテ、人ヲ追ヒ牧ノ馬ヲ食フ。其大馬ノ出デタル故ニ大字出戶、之ヲ捕ヘテ檢分セシ故ニ大字高架(タコホコ)、馬ノ形ガ平カナリシ故ニ大字平沼ノ地名ハ生ジタリ。【七座】又之ヲ射殺シテ埋メシ塚ヲ「七クラ」ト云フハ、馬ノ背長クシテ鞍ヲ七ツ置クホドナリシ故ナリトモ傳ヘタリ。【大骨】其後領主ノ命アリテ此塚ヲ發キ白骨ヲ取出シ見ルニ、背骨ノ周圍二尺ニ餘レリ云々〔眞澄遊覽記八〕。思フニ「ナヽクラ」ハ七座(ナヽクラ)ニシテ北斗七星ノ崇拜ニ基ク名ナルべシ。【妙見】龍馬ヲ妙見ニ配スルコトハ前ノ磐城相馬ノ例モアルナリ。此ノ如キ巨大ノ白骨ナルヲ、如何ニシテ鯨カ何カノ物ニ非ザルコトヲ確メ得タリシカ、怪シキ話ナリト言フべシ。此迄話ガ進ミテ來レバ、死馬ノ祟ヨリモ活馬ノ威力ノ大ナルコトヲ認メザル能ハズ。カノ奧州ノ蒼前神ノ神體タル白馬ハ立往生ヲセシ馬ナリト謂ヒ、或ハ猿牽ノ傳書ノ中ニ葦毛ハ死シテ復蘇リシ馬ナドト云フガ如キハ〔考古學雜誌二卷十號拙稿「勝善神」〕、恐クハ生死二樣ノ信仰ヲ調和セントシタル努力ノ結果ナランカ。【馬醫】猿牽ハ予輩ノ信ズル所ニテハ以前ハ馬醫ヲ兼ネ居タリ。【白樂天】而シテ理想ノ馬醫即チ伯樂ハ能ク死馬ヲ活スコトヲ得タリト信ゼラレシ故ニ、後世ノ俗人ハ又之ト誤解シテ白樂天ヲ崇拜シタリ〔猿屋傳書〕。薩摩國薩摩郡山崎村大字山崎荒瀨ノ馬頭觀音ハ、觀音ト稱シナガラ小サキ祠ニシテ其正體モ二箇ノ石像ナリ。昔玄心玄參ト云フ兄弟ノ馬醫アリ。串木野村ノ人トモ又市來(イチク)ノ者トモ謂フ。死馬ノ既ニ皮ヲ剝ガレタルヲ見テ、此馬尙生氣アリト言ヒ、紙ヲ以テ之ヲ包ミ藥ヲ飮マシムルニ馬忽チ蘇生ス。里人之ヲ見テ必ズ魔法ノ所爲ナラント思ヒ、後ノ害ヲ慮リテ兩人ヲ殺シ、而モ祟ヲ畏レテ之ヲ馬頭觀音ニ祀リタリ。其祭ノ日ハ六月十八日ニテ、夥シキ人馬遠近ヨリ參詣スト云フ〔三國名勝圖會〕。【馬神祭式】羽後南秋田郡北浦町附近ニテハ、以前ハ厩ノ柱ニ鳥居ヲ描キ置ク風習アリキ。馬醫ガ始メテ二歲駒ノ鍼ヲスル時ニ、其血ヲ以テ藁又ハ其駒ノ鬣ニ浸シ、此ノ如キ鳥居ヲ描キテ馬ノ神ヲ祭リシモノナリ〔眞澄遊覽記二十九〕。【鞍塚】近江阪田郡鳥居本村大字原ノ八幡山ノ麓ニ、馬塚鞍塚ノ二ツノ塚ト太子堂トアリ。【聖德太子】此山ノ寶瑞寺俗ニ八幡堂ト稱スル寺ノ緣起ニ依レバ、抑此八幡ハ聖德太子ノ勸請シタマフ所ナリトハ誠ニ驚クべキ事實ナリ。太子ハ何カノ都合ヲ以テ此邊マデ來テ佛敵ト戰ハレシガ、其戰場ニ於テ御乘馬ノ駿足斃レ死ス。【卒都婆】今モ路ノ側ニ有ル二ツノ塚ハ、即チ太子ガ其馬ト鞍トヲ埋メタマヒシ故跡ニシテ、塚ノ上ニ卒都婆ヲ立テヽ供養セシガ故ニ、此地ヲ一ニ又卒都婆ノ里トモ謂フ。然ルニ此馬ノ魂魄永ク留マリ、邑里ニ化現シテ人民ヲ惱マスコト甚シ。之ヲ患ヒテ天朝ニ奏聞スレバ、唯佛力ノミ其災ヲ止ムべシトアリテ、寶瑞寺ヲ建立シタマヒ、千僧ヲ聚メテ施餓鬼ヲ行ヒ且ツ馬千疋ノ布施アリ。【八月十五日】乃チ後ノ例ト爲ツテ八月十五日ニハ此供養ガ執行ハレ、年々馬千疋ノ用途ハトテモ此地方ニテ調ハヌ故ニ、太子ノ臣下ニ橘猪助法名ヲ道專ト云フ者、命ヲ蒙リテ奧州越路ニ下リ其馬ヲ集メタリ。【三人ノ子】道專ニ三人ノ子アリ。長男ハ太子ニ仕ヘ、次男ハ近江ニ下リテ右ノ施餓鬼ノ奉行人トナリ、更ニ奧ノ馬千疋ノ運上ヲ勤メタリト云フ。又一說ニハ、橘猪助ハ病馬ヲ治スルノ法ヲ太子ヨリ受傳ヘテ此村ニ居住ス。後ニ佐藤太郞兵衞入道多入ト稱セシハ實ニ此人ニテ、彥根ノ井伊家ニ奉公セシ佐藤宗兵衞ノ家ハ其子孫ナリト謂ヘリ〔淡海木間攫〕。今此緣起ノ中ニ、若シ眞實ノ部分アリトスレバ、ソハ佐藤ト云フ馬醫ノ家ニ太子ヲ開祖トスル馬ノ神ノ信仰ノ傳ヘラレシ事ト、其家ガ八幡堂ト結合シテ近村ヲ感化シツヽアリシ事グラヰナルべシ。馬醫ノ神馬ニ隨伴スルコトハ古キ慣習ナリ。【馬醫ハ神職】延喜式ヲ見ルニ、平野園韓神其他ノ官社ニ所謂櫪飼馬(イタガヒノウマ)ヲ奉獻スルニハ、必ズ馬寮附屬ノ馬醫ヲ差添ヘタリシモノナリ〔左馬寮式〕。其目的ハ途次ノ急病ナドノ用意ノミトモ思ハレズ、何カ格段ノ仔細アリシコトヽ見ユレバ、神馬ヲ重要視セシ古代ノ信仰ニ馬醫ノ干與シタルモノト想像スルハ不當ニハ非ズ。但シ後世盛ニ馬ノ死靈ヲ說クニ至リテ、之ニ雷同スルコトハ馬醫トシテハ少々見德ガ惡キ爲ニ、所謂白樂天ノ後裔ノミハイツ迄モ馬ノ死セザルコト、又ハ一旦死シタレドモ忽チ蘇生シタルコトナドヲ說キテ、彼等ガ地步ヲ占メントセシナランカ。何レニシテモ聖德太子ガ、僅カナル因緣ノ爲ニ馬ノ祖神トシテ擁立セラレタマヒ、其御馬ノ國々ヲ牽キ廻サルヽハ、思ノ外ノ事ナリケリ。

 

《訓読》

 馬の神の信仰は、必ずしも、死靈にのみは限られてあらず。諸國の駒ケ嶽に活(い)きたる神馬の往來を見ると云ふごとく、越前の穴馬谷(あなまだに)などにも、穴の中に馬ありて、時として谷の口の鹽井(しほゐ)の水を來て飮むと云ふ說あり〔「大野郡誌」〕。【駒と岩屋】多くの巖窟には駒の住むと云ふ口碑、存せり。甲斐西八代郡古關(ふるせき)村大字瀨戶山中の栃木澤(とちのきざは)には、土人が「駒の寢處」と稱する岩穴あり。夏は凉風を起し、冬は暖風を生ずる爲めに、其の中の草のみは、夏、枯れて、冬、繁茂す、と云へり〔「甲斐國志」〕。今ならば、蠶(かひこ)の種紙(たねがみ)でも藏(ざう)し置くべき一つの風穴(ふうけつ)に過ぎざれども、昔の人に取りては濫(みだり)に近づくべからざる靈地なりしなり。【生駒】此等は所謂、「活馬(いこま)の神」の信仰の殘片にして、起原、頗(すこぶ)る古きものなるべきも、塚穴を以つて、悉く葬處と看做す後世となりては、追々と此れをも死馬の幽靈と考ふるがごとき傾向を生ぜしがごとし。多くの馬塚は恐らくは掘つて見れば、何も無く、唯の祭場たる封土(もりつち)に過ぎぬなるべし。馬を一疋埋(うづ)むるは、決して容易の業(わざ)に非ず。故に塚の形の、あまりに小さき場合のごときは、是非無く馬骨を集めて之れを埋めたり、などと云ふなり。陸奧上北郡六ケ所村大字出戶(でど)の口碑に至りては、更に一段の荒唐(こうたう)を加ふ。【巨馬】曰はく、昔、此の村に、常の馬を四つ五つも合せしほどの、大馬(おほうま)、出現して、人を追ひ、牧の馬を、食(くら)ふ。其の大馬の出でたる故に大字「出戶」、之れを捕へて檢分せし故に大字「高架(たこほこ)」、馬の形が平かなりし故に大字「平沼」の地名は生じたり。【七座】又、之れを射殺(いころ)して埋(うづ)めし塚を「七くら」と云ふは、馬の背、長くして、鞍を七つ置くほどなりし故なり、とも傳へたり。【大骨】其の後、領主の命ありて、此の塚を發(あば)き、白骨を取り出だし見るに、背骨の周圍、二尺に餘れり云々〔「眞澄遊覽記」八〕。思ふに「なゝくら」は「七座(なゝくら)」にして、北斗七星の崇拜に基づく名なるべし。【妙見】龍馬を妙見に配することは、前の磐城相馬の例もあるなり。此くのごとき巨大の白骨なるを、如何にして鯨か何かの物に非ざることを確かめ得たりしか、怪しき話なりと言ふべし。此こまで話が進みて來たれば、死馬の祟りよりも、活馬(いきうま)の威力の大なることを認めざる能はず。かの奧州の蒼前神(そうぜんしん)の神體たる白馬は立往生をせし馬なりと謂ひ、或いは、猿牽(さるひき)の傳書の中に、『葦毛は死して、復た、蘇りし馬』などと云ふがごときは〔『考古學雜誌』二卷十號拙稿「勝善神(そうぜんしん)」〕、恐らくは生死(しやうじ)二樣の信仰を調和せんとしたる努力の結果ならんか。【馬醫】猿牽は予輩(よはい)の信ずる所にては、以前は、馬醫を兼ね居たり。【白樂天】而して、理想の馬醫、即ち、伯樂は能く死馬を活(いか)すことを得たり、と信ぜられし故に、後世の俗人は又、之れと誤解して白樂天を崇拜したり〔「猿屋傳書」〕。薩摩國薩摩郡山崎村大字山崎荒瀨の馬頭觀音は、觀音と稱しながら、小さき祠(ほこら)にして、其の正體も二箇の石像なり。昔、玄心・玄參と云ふ兄弟の馬醫あり。串木野村の人とも、又、市來(いちく)の者とも謂ふ。死馬の既に皮を剝がれたるを見て、「此の馬、尙ほ、生氣あり」と言ひ、紙を以つて、之れを包み、藥を飮ましむるに、馬、忽ち、蘇生す。里人、之れを見て、『必ず、魔法の所爲(しよゐ)ならん』と思ひ、後の害を慮(おもんぱか)りて、兩人を殺し、而も、祟りを畏れて、之れを馬頭觀音に祀りたり。其の祭の日は六月十八日にて、夥(おびただ)しき人馬、遠近より參詣すと云ふ〔「三國名勝圖會」〕。【馬神祭式(うまがみのさいしき)】羽後南秋田郡北浦町附近にては、以前は厩の柱に鳥居を描き置く風習ありき。馬醫が始めて二歲駒の鍼(はり)をする時に、其の血を以つて、藁、又は、其の駒の鬣(たてがみ)に浸し、此くのごとき鳥居を描きて、馬の神を祭りしものなり〔「眞澄遊覽記」二十九〕。【鞍塚】近江阪田(さかた)郡鳥居本(とりゐもと)村大字原の八幡山の麓に、馬塚・鞍塚の二つの塚と太子堂と、あり。【聖德太子】此の山の寶瑞寺、俗に八幡堂と稱する寺の緣起に依れば、抑(そもそも)、此の八幡は聖德太子の勸請したまふ所なりとは、誠に驚くべき事實なり。太子は何かの都合を以つて、此の邊りまで來たつて、佛敵と戰はれしが、其の戰場に於いて、御乘馬の駿足、斃れ死す。【卒都婆(そとば)】今も、路の側に有る二つの塚は、即ち、太子が其の馬と鞍とを埋(うづ)めたまひし故跡にして、塚の上に卒都婆を立てゝ供養せしが故に、此の地を、一つに又、「卒都婆の里」とも謂ふ。然るに、此の馬の魂魄、永く留まり、邑里(いうり)に化現(けげん)して、人民を惱ますこと、甚だし。之れを患(うれ)ひて、天朝に奏聞(そうもん)すれば、「唯(ただ)佛力のみ其の災ひを止(とど)むべし」とありて、寶瑞寺を建立したまひ、千僧を衆(あつ)めて施餓鬼を行ひ、且つ、馬千疋の布施あり。【八月十五日】乃(すなは)ち、後の例と爲つて、八月十五日には此の供養が執り行はれ、年々(としどし)馬千疋の用途は、とても此の地方にて調はぬ故に、太子の臣下に橘猪助(たちばなのゐのすけ)、法名を道專(だうせん)と云ふ者、命を蒙りて、奧州越路に下り、其の馬を集めたり。【三人の子】道專に三人の子あり。長男は太子に仕へ、次男は近江に下りて右の施餓鬼の奉行人となり、更に奧の馬千疋の運上を勤めたりと云ふ。又、一說には、橘猪助は、病馬を治するの法を太子より受け傳へて、此の村に居住す。後に、佐藤太郞兵衞入道多入と稱せしは實に此の人にて、彥根の井伊家に奉公せし佐藤宗兵衞の家は其の子孫なりと謂へり〔「淡海木間攫(あふみこまざらへ)」〕。今、此の緣起の中に、若(も)し眞實の部分ありとすれば、そは、佐藤と云ふ馬醫の家に太子を開祖とする馬の神の信仰の傳へられし事と、其の家が八幡堂と結合して、近村を感化しつゝありし事ぐらゐなるべし。馬醫の神馬に隨伴することは古き慣習なり。【馬醫は神職】「延喜式」を見るに、平野・園韓神(そのからのかみ)其の他の官社に、所謂、「櫪飼馬(いたがひのうま)」を奉獻するには、必ず、馬寮(めれう)附屬の馬醫を差し添へたりしものなり〔「左馬寮式」〕。其の目的は途次(とじ)の急病などの用意のみとも思はれず、何か格段の仔細ありしことゝ見ゆれば、神馬を重要視せし古代の信仰に馬醫の干與(かんよ)[やぶちゃん注:「關與」に同じい。]したるものと想像するは不當には非ず。但し、後世、盛んに馬の死靈を說くに至りて、之れに雷同することは、馬醫としては、少々、見德が惡き爲に、所謂、白樂天の後裔のみは、いつまでも馬の死せざること、又は、一旦、死したれども忽ち蘇生したることなどを說きて、彼等が地步を占めんとせしならんか。何れにしても、聖德太子が、僅かなる因緣の爲めに、馬の祖神(そしん)として擁立せられたまひ、其の御馬(おんうま)の國々を牽き廻さるゝは、思ひの外の事なりけり。

[やぶちゃん注:「越前の穴馬谷(あなまだに)」既出既注

「谷の口の鹽井(しほゐ)」前注のリンク先を見て貰いたいが、ここは嘗つてあった村落が九頭竜ダムの湖底に沈んでおり、そこから移した新しい「穴馬神社」もあるのであるが、そう考えるなら、この谷も、岩塩性の塩水井戸も湖底に沈んでしまっている可能性が高い。なお、馬は人間と同じく、汗をかく数少ない動物であり、発汗によって塩分が失われるため、塩水や塩を好む。

「甲斐西八代郡古關村大字瀨戶山中の栃木澤(とちのきざは)」現在の南巨摩郡身延町(ちょう)瀬戸はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「蠶(かひこ)の種紙(たねがみ)」蚕卵紙(さんらんし)。蚕蛾に卵を産み付けさせた紙。「蚕種紙」とも言う。半紙を十枚位合わせた厚地の和紙を用いる。蚕卵紙は、幕末から明治初年にかけて、当時のヨーロッパに微粒子病が蔓延して健全な蚕種を海外に求めたため、本邦の重要な輸出品となったが、この盛況は同時に蚕種の粗製濫造の弊害を激化し、輸出は明治八(千八百七十五)年頃から減少していった。蚕卵紙の生産は長野・埼玉・山形・群馬・福島の諸県に多く、その生産販売に関する者は富農層に多かった(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。この洞窟は、その叙述から、夏冬の温度・湿度がある程度、一定であると考えられ、蚕卵紙の質を守るのによいということであろう。

「陸奧上北郡六ケ所村大字出戶(でど)」青森県上北郡六ヶ所村出戸おぞましいウラン濃縮工場の北直近である。巨大な人馬を襲う怪獣のような妖馬は、実に、今でこそ出現しておかしくない場所となってしまったのではないか?

「高架(たこほこ)」不詳。

「平沼」六ヶ所村の出戸のずっと南の方に、青森県上北郡六ヶ所村平沼高田の地名が残る。地図を西北方向に動かすと、田面木沼(たもぬぎま)の北に下っている平沼川も現認出来るから、この附近である。

『之れを射殺(いころ)して埋(うづ)めし塚を「七くら」と云ふ』不詳。この塚の位置は是非とも知りたいねえ。識者の御教授を乞う。さても、当然、矢で射殺したのだろうな。因みに、米軍内では有意な核事故に対して、縁起でもない不吉な軍事用コード・ネームがいろいろついているのはご存じか? 例えば――「巨馬」ならざる「Faded Giant」(消えた巨人)――或いは――Broken Arrow」(折れた矢)――だ。あそこは原子エネルギ再生施設で核兵器じゃないって? あそこにはフランスから厄介払いされたプルトニウムをふんだんに含む極めて危険な高エネルギ廃棄物が貯蔵され、再処理施設ではプルトニウムをそうしたものから抽出することになっている(が、一度も再処理なんかされていないんだ、机上の論理の再処理システムそのものが実は実際には出来ない相談なのだ)は知っているね? 而して、IAEA(国際原子力機関:International Atomic Energy Agency)が、現在只今、世界で一番、核兵器を有意に製造可能な国として最も警戒している国は、どこか、知っているかね? 朝鮮民主主義人民共和国? いやいや! 日本なんだよ! 日本が国内外に保有している「高エネルギ廃棄物」と呼んでいる物質はだね、その気さえあれば、即座に軍事転用されて、核兵器を多量に製造できるからなんだよ……

「北斗七星の崇拜」平凡社「世界大百科事典」によれば、「史記」の「天官書」などの記述によれば、北極星は「天帝太一神」の居所であり、この星を中心とする星座は、天上世界の宮廷に当てられて「紫宮」「紫微宮」と呼ばれ、漢代には都の南東郊の「太一祠」に於いて、しばしば「太一神」の祭祀が行われた。その後、讖緯(しんい)思想(前漢から後漢にかけて流行した未来予言説。「讖」は未来を占って予言した文、「緯」は経書(けいしょ)の神秘的解釈の意で、自然現象を人間界の出来事と結びつけ、政治社会の未来動向を呪術的に説いたもの。日本にも奈良時代に伝わり、後世まで大きな影響を与えた)の盛行につれて、後漢頃には「北辰北斗信仰」が星辰信仰の中核を成すようになり、「北辰」は「耀魄宝(ようはくほう)」と呼ばれ、群霊を統御する最高神とされた。これを受けた道教では、「北辰」の神号を「北極大帝」「北極紫微大帝」「北極玄天上帝」などと称し、最高神である玉皇大帝の命を受けて星や自然界を司る神として尊崇した。これは同時に、人間の命運は生年の干支で決まる「北斗」の中の「本命星」の支配下にあるとする考え方も定着し、「北斗神」が降臨し、行為の善悪を司察し、寿命を記した台帳に記入すると考えられるようになり、「庚申」や「甲子」の日に「醮祭(しょうさい)」(星祭(ほしまつり))をすることで、長寿を得、災厄を免かれるとも考えられた。この「北斗信仰」は早く日本にも流入し、平安以来、宮中での「四方拝」に天皇自らが「本命星」を拝し、その神名を称えた。また、「北斗信仰」は当時の密教でも重視され、北極・北斗の本地とされる「妙見菩薩」を祀る妙見堂が各地に建てられた、とある。

「磐城相馬の例」先行する、こちら

「此くのごとき巨大の白骨なるを、如何にして鯨か何かの物に非ざることを確かめ得たりしか、怪しき話なりと言ふべし」こういう皮肉を言うなら、柳田先生の嫌いな古墳が、どうして、発掘もされないのに、大昔の天皇の陵墓に非学術的に、あんなに、やすやすと同定比定されてきたんでしょうかね? そうそう、それに先生の嫌いな古墳の中でも民俗社会と接点を持たなくなった古墳なんぞは、考古学者が五月蠅く言う前に、先生が御存命の頃から不動産業者が完膚なきまでに、大方、破壊してしまいましたよ、よかったですねぇ、柳田先生。

「『考古學雜誌』二卷十號拙稿」「勝善神(そうぜんしん)」明治四五(一九一二)年六月発行の『考古學雜誌』発表。現在の「ちくま文庫」版の私が参考にしている、本「山島民譚集」の含まれている「柳田國男全集」第五巻に「勝善神」として載る。私は電子化する予定はない。悪しからず。

「薩摩國薩摩郡山崎村大字山崎荒瀨の馬頭觀音」現在、同地区の鹿児島県薩摩郡さつま町山崎の村社保食(うけもち)神社に合祀されて祀られてある。「鹿児島県神社庁」公式サイト内の当該神社の解説に、『由緒創建は不詳となっているが、往古、境内に飯富大明神が祀られており明治初年廃仏毀釈の時、郷社飯富神社に合祀され、馬頭観音堂及び其の付近の石塔を整理して保食神社と創建した』とあり、しかも何と、この神社、通称「馬頭観音」とあるのである。まずは、よかった。ちょっとその二像を見てみたい気がしてきた。

「串木野村」鹿児島県いちき串木野市

「市來(いちく)」上記地区のこの附近。但し、現行は「いちき」である。

「其の祭の日は六月十八日」現在も行われているかどうかは不明。

「近江阪田(さかた)郡鳥居本(とりゐもと)村大字原の八幡山の麓に、馬塚・鞍塚の二つの塚と太子堂と、あり」現在の滋賀県彦根市鳥居本町はここであるが、その南域外直近の彦根市原町にある原八幡神社の境内に「寶瑞寺」はあったものの、「サンライズ出版」公式サイト内の『歌枕に残る「不知哉川」』に、『聖徳太子建立の伝承を持つ永光山宝瑞寺がありましたが、明治の神仏分離で廃寺となりました。その後、中興開山の墓石などわずかにその姿をとどめていましたが、近年の神社境内の整備に際して供養塔が建立されました』とあった。しかし、「原町マップ」PDF)を見ると、再建と思われるものの、同神社境内には「太子堂」があり、聖徳太子像が『二体安置されているお堂で、過去にこの町から出征され、戦死された方々の霊を慰めて』いるとし、さらに、宝瑞寺を偲ぶよすがとして「宝瑞庵」なるものがあって、『聖徳太子と守屋連』(もりやのむらじ)『との戦いで戦死した多くの人馬を供養するため』、『太子はこれを悼み』、『「馬塚・鞍塚」を築き』『供養』したという解説があり、同マップの右下には大きく『原八幡神社神馬』のイラストがあるから、伝承はしっかり残されていることが判った。ただ、考えてみると、この聖徳太子の馬が妖馬となって害を成すというのは、仏法布教に太子自身の伝承にとっては根本的に(寺院建立と祭祀によって鎮魂するという結末を迎えたとしても)玉に傷であって、私にはどうも腑に落ちない。これは或いはそれ以前の全く異なる馬に纏わる怨霊伝承があったものを強引に纏めてしまったものではないかとさえ思えてくるのである。

「橘猪助(たちばなのゐのすけ)、法名を道專(だうせん)と云ふ者」不詳。

「道專に三人の子あり。長男は太子に仕へ、次男は近江に下りて右の施餓鬼の奉行人となり、更に奧の馬千疋の運上を勤めたりと云ふ」「更に」三男が「奧の馬千疋の」実際的「運上」の差配「を勤めたりと云ふ」ではないのか?

「佐藤太郞兵衞入道多入」不詳。

「彥根の井伊家に奉公せし佐藤宗兵衞」不詳。

「延喜式」「弘仁式」・「貞観式」以降の律令の施行細則を取捨し、集大成したもの。全五十巻。三代式の一つ。延喜五(九〇五)年、醍醐天皇の勅により藤原時平・忠平らが編集。延長五(九二七)年に成立し、康保四(九六七)年に施行された。

「平野」京都府京都市北区平野宮本町にある平野神社。ウィキの「平野神社」によれば、『

平安京遷都から遠くない時期に創建されたものと考えられて』おり、「延喜式」の「神名帳」では、『山城国葛野郡に「平野祭神四社 並名神大 月次新嘗」として、名神大社に列するとともに月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている』とある。

「園韓神(そのからのかみ)」平安京宮内省内に祀られていた園神と韓神。園・韓神は平安京造営以前よりこの地にあり、帝王を守らんとの神託により、他所に移さずに祀られた。「延喜式」の「神名帳」には『宮内省に坐(いま)す神三座』として、『園神社・韓神社二座』とあり、孰れも官幣の大社であった。韓神は「古事記」の「上巻(かみつまき)」には、大年神(おおとしのかみ)の子と見えているが、園神は大物主神、韓神は大己貴神と少彦名神の二神で。これらの神は疫病から守る神ともされている。

「櫪飼馬(いたがひのうま)」「櫪」は「飼葉桶(かいばおけ)」或いは「馬小屋」「厩」の意で、放し飼いのものに対して、厩で飼養した、則ち、ここでは神馬として奉納するために特別に飼った馬を指す。既に出た「馬櫪神(ばれきじん)」への奉納馬。

「馬寮(めれう)」律令制の官司の一つ。「まりょう」とも「うまのつかさ」とも読み、唐名では「典厩(てんきゅう)」に当てる。左右二寮あり、厩にいる官馬の飼育・調教・御料の馬具・飼葉の穀草の配給・飼部(しぶ)の戸口の名籍(みょうじゃく:名簿。地位・姓名・年齢などを書き記したもの)を司った。職員には頭(かみ)一名・助(すけ)一名・大允(だいじょう一名・少允一名・大属(だいさかん)一名・少属一名の四等官の他、その下に、馬医二名・馬部(めぶ)六十名・使部(つかいべ)二十名・直丁(じきちょう)二名や、雑戸(ざっこ)の飼丁(しちょう)が所属した。後には令外の官として馬寮御監(みげん)や史生(ししょう)が置かれた(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「見德」公的・準公的な意味での認識(ここでは「見栄え」)のこと。]

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