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2019/05/29

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(25) 「神々降臨ノ跡」(1)

 

《原文》[やぶちゃん注:見出し下冒頭三字空けはママ。]

神々降臨ノ跡   前ニ駒形ト云フ神ノ名ノ本意ヲ駒ノ足型ニ基ケリト言ヒシガ、此解釋ノ丸々ノ臆說ナラザルコトハ、甲州穴山村ノ駒形石ナド之ヲ證スルニ足レリ。【駒形杉】遠江濱名郡龍池村大字八幡ノ八幡社ニ一ノ駒形杉アリ。元龜三年德川武田合戰ノ折ニ、白衣ノ老翁白馬ニ跨リテ此木ノ梢ヨリ空ニ昇ルト濱松勢ノ眼ニ見エタリ。軍終リテ後杉木ヲ檢スルニ、馬蹄ノ跡最モ明白ナリキ〔曳馬拾遺〕。即チ八幡大菩薩ガ未來ノ大將軍ヲ助ケラレタル證據ナリシナリ。【足形ノ社】相州足柄上郡岡本村大字駒形新宿ノ駒形權現ハ又足形ノ社トモ稱ス。神體ハ地上二尺バカリノ一箇ノ岩ニシテ、其面ニ馬ノ足形アリ。足ヲ煩フ者ノ祈願スル神ナリキ〔新編相模風土記〕。土佐長岡郡西豐永村大字柳野影ノ宮ノ神ヲ馬足大明神ト云フ。例祭ハ九月吉日〔諸神社錄〕、未ダ其由來ヲ知ラズ。更ニ步ヲ進メテ馬頭觀音ヲ駒形ノ本地佛ト假定スルナラバ、武藏北足立郡平方村大字平方ノ孤峯山馬蹄寺寶池院ノ本尊ガ馬頭觀音ナリシ事實モ亦一箇ノ證ナリ。此寺ハ古クハ馬蹄菴ト稱シ、吾妻左衞門是好ト云フ芝居ニデモ出サウナ名前ノ武士ガ、【三輪】其伯父三輪莊司ノ菩提ノ爲ニ建立セシ淨土寺ナリ〔新編武藏風土記稿〕。莊司死シテ後馬ニ生レ變リ、人ノ如ク物言ヘリトノ傳說モアレバ、此馬モ亦蹄ノ痕ヲ石ニ印セシコトナルべシ。【觀音石】長門大津郡深川村江良ノ觀音石ハ、【圓相】一間[やぶちゃん注:一メートル八十二センチメートル弱。]四方ホドノ石ノ面ニ圓相アリテ、其中ニ人ノ足ト馬ノ蹄多ク存セリ。昔ヨリ此石ヲ觀音ノ正體トシテ拜スト云ヘバ〔長門風土記〕、此モ亦一ツノ馬頭觀音ナリケリ。此等ノ事實ヲ考ヘ合ストキハ、駒形ハ即チ馬ノ足型ノコトニテ、神馬ノ奇瑞ノ顯著ナルガ爲ニ、特ニ馬ノ爲ノ祈願ニ有效ナリト考フルニ至リ、終ニ他ノ馬ノ生靈死靈ヲ祭ルノ信仰ト合體シタルモノナルべシ。

 

《訓読》

神々降臨の跡   前に駒形と云ふ神の名の本意を駒の足型に基けりと言ひしが、此の解釋の、丸々の臆說ならざることは、甲州穴山村の駒形石など、之れを證するに足れり。【駒形杉】遠江濱名郡龍池村大字八幡の八幡社に一つの駒形杉あり。元龜三年[やぶちゃん注:一五七三年。]、德川武田合戰の折りに、白衣(びやくえ)の老翁、白馬に跨りて、此の木の梢より空に昇ると、濱松勢の眼に見えたり。軍(いくさ)終りて後、杉木を檢(けみ)するに、馬蹄の跡、最も明白なりき〔「曳馬拾遺」〕。即ち、八幡大菩薩が、未來の大將軍を助けられたる證據なりしなり。【足形の社】相州足柄上郡岡本村大字駒形新宿の駒形權現は、又、「足形の社」とも稱す。神體は地上二尺ばかりの一箇の岩にして、其の面に馬の足形あり。足を煩ふ者の祈願する神なりき〔「新編相模風土記」〕。土佐長岡郡西豐永村大字柳野影の宮の神を「馬足(ばそく)大明神」と云ふ。例祭は九月吉日〔「諸神社錄」〕、未だ其の由來を知らず。更に步みを進めて、馬頭觀音を駒形の本地佛と假定するならば、武藏北足立郡平方村大字平方の孤峯山馬蹄寺寶池院の本尊が馬頭觀音なりし事實も亦、一箇の證なり。此の寺は、古くは「馬蹄菴(ばていあん)」と稱し、吾妻左衞門是好と云ふ、芝居にでも出さうな名前の武士が、【三輪】其の伯父三輪莊司の菩提の爲めに建立せし淨土寺なり〔「新編武藏風土記稿」〕。莊司、死して後、馬に生れ變り、人のごとく物言へり、との傳說もあれば、此の馬も亦、蹄の痕(あと)を石に印(しる)せしことなるべし。【觀音石】長門大津郡深川村江良(えら)の觀音石は、【圓相(ゑんさう)】一間四方ほどの石の面に圓相ありて、其の中に人の足と、馬の蹄、多く存せり。昔より、此の石を觀音の正體として拜すと云へば〔「長門風土記」〕、此れも亦、一つの馬頭觀音なりけり。此等の事實を考へ合はすときは、「駒形」は、即ち、「馬の足型」のことにて、神馬の奇瑞の顯著なるが爲めに、特に馬の爲めの祈願に有效なり、と考ふるに至り、終に、他の馬の生靈・死靈を祭るの信仰と合體したるものなるべし。

[やぶちゃん注:「遠江濱名郡龍池村大字八幡の八幡社」諸データから見て、私は静岡県浜松市浜北区油一色に現存するこの八幡宮(グーグル・マップ・データ。以下同じ)ではないかと推理している。但し、旧龍池村地区には八幡を冠する神社が現在も複数あり、それらでないとも言えない。伝承を確認出来ない。そもそも糞を漏らして敗走(後注参照)した家康勢が呑気に以下に描写されるような幻想風景をのんびり眺めていられた話は、これ、なかろが! という気は強くしてはくるね。【2019年6月1日追記】T氏より、地名履歴による私の誤認を御指摘戴いたので、以下に引用させて戴く。

   《引用開始》

藪野様は「遠江濱名郡龍池村大字八幡の八幡社」を「静岡県浜松市浜北区油一色」と推定されていますが、「静岡県浜松市浜北区八幡」の八幡神社と思います。場所はこちらです。[やぶちゃん注:私が比定した八幡宮の南東五百五十メートルほどの位置にある。]「静岡県浜松市浜北区油一色」は明治二九(一八九六)年の時点で「遠江濱名郡美島村」であり、明治四一(一九〇八)年の時点で「遠江濱名郡北浜村」です[やぶちゃん注:本「山島民譚集」は大正三(一九一四)年七月刊]。「美島村」は明治二二(一八八九)年四月一日の町村制の施行により、横須賀村・中条村・東美薗村・西美薗村・高畑村・寺島村・油一色村及び豊田郡本沢合村が合併して、長上郡美島村が発足。明治四一(一九〇八)年一月一日に平貴村の一部(貴布祢・沼・道本・小林)と合併して北浜村が発足。同日、美島村は廃止されています(ウィキの「美島村」)。

   

実は私がいい加減に比定材料とした「歴史的行政区域データセット」の「静岡県浜名郡龍池村」を改めてちゃんと見たところが、油一色の「八幡宮」はそこでも実は東の村域線の僅かに外側であったのであった(私はいい加減に旧村域を頭において、この附近の現在の地図を見、その辺りの中心と誤認した附近の本「八幡宮」を比定してしまったのであった)。なお、その「八幡宮」から三百五十メートル南下した位置に「若宮八幡宮」というもある(静岡県浜松市浜北区上善地)が、ここは旧龍池村内(上のリンク参照)で、T氏の比定された「八幡神社」の四百七十メートルほどの位置に当たる。無論、現在の地名も「八幡」であるから、T氏の「八幡神社」が柳田國男の言うそれであることは最早、間違いない。それにしても、最初に述べた通り、この周辺には八幡を祀る社が異様に多い感じを新たにした。これらは、或いは、孰れもこの八幡の八幡神社が元になって分祀されたものかも知れない。いつも有り難い情報を戴くT氏に改めて御礼申し上げるものである。

「德川武田合戰」元亀三年十二月二十二日(一五七三年一月二十五日)に遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった武田信玄と徳川家康・織田信長の間で行われた「三方ヶ原の戦い」。信長包囲網に参加すべく上洛の途上にあった信玄率いる武田軍を徳川・織田の連合軍が迎え撃ったが、敗退した。特に家康が死を覚悟した大敗退・大敗走として知られる。この三方ヶ原から前の「遠江濱名郡龍池村」は東北東に十キロメートル弱ほどの位置にある

「相州足柄上郡岡本村大字駒形新宿の駒形權現」「足形の社」【2019年6月1日:改稿】T氏よりメールを頂戴し、これは柳田國男の「大字」の記述ミスであるという御指摘を得た。正しくは「相州足柄上郡岡本村大字炭焼所」(柳田國男の底本表記(小文字右付)に合わせて「大字」を上付とした)で、この当時の足柄上郡岡本村はウィキの「岡本村(神奈川県)」によれば、明治二二(一八八九)年四月に町村制の施行により、炭焼所村・和田河原村・駒形新宿・塚原村・三竹山村・岩原村・沼田村が合併して発足したものであった(本書の刊行は大正三(一九一四)年七月)。「新編相模國風土記」の記載は、巻十八の「村落部 足柄上郡七」冒頭の「苅野庄」の部の「狩野村」・「中沼村」・「三竹山村」(みたけやまむら)・「沼田村」・「岩原村」・「塚原村」・「駒形新宿」・「炭燒所村」(すみやきしょむら)と続く中の「駒形新宿」の条の中に(【 】は二行割注。下線はやぶちゃん)、

   *

○駒形新宿【古滿加多志無之久】 古は塚原村にて、新宿と呼し地なり、【正保[やぶちゃん注:一六四五年から一六四八年まで。第三代将軍徳川家光の治世。]の改に塚原の内新宿と記す、】其後塚原の枝鄕となり、始て駒形新宿と唱ふ、【元祿[やぶちゃん注:一六八八年から一七〇四年まで。第五代将軍徳川綱吉の治世。]の改に、塚原村枝鄕駒形新宿と號す、】炭燒所村鎭守、足形社或は駒形權現といへり、當所其比隣に在をもて駒形の名は負はせしなり、今は全く別村となれり、其年代は傳へず、[やぶちゃん注:以下略。]

   *

とある。則ち、この「駒形新宿」という新村地区は隣りの「炭燒所村」内の鎮守である「足形社」=「駒形權現」社のごく近くに新設された村であったのであり、T氏も指摘されておられるのであるが、後の「炭燒所村」の項に「足形の社」「駒形權現」の由来の本記載(名の由来)が載るのである。当該部を電子化すると、

   *

○炭燒所村【須美也幾之餘牟良】 相傳ふ古は墨八寸生村【須美也幾也宇牟良[やぶちゃん注:「すみやきしやうむら」。]】と書せり、こは彼賴朝秘藏の乘馬磨墨のせし地なれば村名とすと云、【彼馬毛色純黑にして、長[やぶちゃん注:「たけ」。]四尺八寸[やぶちゃん注:約一メートル四十五センチメートル。後注参照。]に及ぶ、故に磨墨と名付、村名も賴朝が名づくる所と傳ふ、今村民次兵衛は彼馬のせし家筋なりと云、】[やぶちゃん注:中略。]

○足形社 又駒形權現とも呼べり。神躰は一巨石にて地中に埋れり、【地上に出る所、長二尺許、橫一尺五寸、】面に凹池あり。【徑六七寸許、深七寸餘、】賴朝の乘馬磨墨の蹄蹟なりと云、例祭は九月朔日、足を病む者祈れば驗あり、【癒れば草履を賽す、又病馬には沓を納むるを例とす、】王傳寺持、[やぶちゃん注:以下略。]

   *

旧村名は「墨(すみ)八寸(やき)生(しょう)村(むら)」で、記されている通り、「八寸(やき)」=名馬(「寸(き)」は馬の丈(たけ)であるが、馬では地面から肩高(乗馬する背の前部)までを指すので注意されたい。その背丈が四尺八寸(すん)もあるものを指すが、これは一般名詞「八寸(やき)」で「大きく逞しい馬」を言う語ととっておく。馬の丈は四尺(一メートル二十一センチメートル)を標準とし、それ以上は寸だけで数え、それを別して「寸(き)」と称した)磨墨が生まれた村という意味である。私(やぶちゃん)が参照して電子化したのは「国立国会図書館デジタルコレクション」の「大日本地誌大系」の第三十六巻のこちら(左ページ)である。T氏より現在の「足形社」は神奈川県南足柄市生駒のこちら、と指示戴いた。そのサイド・パネルの境内画像を見ると、駒形石らしい(かも知れない)石が横たわってはいる。また、そこの解説版(写真)によれば、大正時代までは、ここで競馬も行われていたという(この解説版(南足柄観光協会及び南足柄教育委員会製作)は非常に読み易く、且つ、丁寧に書かれてある)。T氏にはいつも乍ら、深く感謝申し上げるものである。

「土佐長岡郡西豐永村大字柳野影の宮の神」「馬足(ばそく)大明神」現在の高知県長岡郡大豊町のこの附近に駅名や郵便局名で「豊永」を現認出来るから、この辺りか。国土地理院図で見ると、複数の神社をこの辺りに見出すことは出来るが、私に出来るのはここまでだ。悪しからず。「影の宮」と言い、「馬足(ばそく)大明神」(読みは「ちくま文庫」版全集に拠る)と言い、何だか横溝正史張りに慄っとくるんだかねぇ。

「更に步みを進めて」謹厳実直の柳田先生にしてちょいと「駄」洒落れてみましたかねぇ。

「馬頭觀音を駒形の本地佛と假定する」賛成!

「武藏北足立郡平方村大字平方の孤峯山馬蹄寺寶池院」埼玉県上尾市平方にある浄土宗の孤峯山寶池院馬蹄寺。いつも大変お世話になっている東京都・首都圏の寺社情報サイト「猫の足あと」の「馬蹄寺」によれば、『鎌倉時代に吾妻左衛門是好が、その伯父三輪庄司好光の菩提を弔うために、知道を庵主として小名大門に馬蹄庵と称して創建したといい』、『天文年中』(一五三二年~一五五五年)、『感誉存貞上人が浄土宗寺院として中興、天正』一八(一五九〇)年に『当地へ移転したと』される。(『感誉存貞上人は、川越蓮馨寺を開山した他、芝増上寺』十『世となった名僧で、当寺の山号院号は川越蓮馨寺と同じ』)。『江戸期には徳川家光より寺領』十五『石の御朱印状を拝領して』いたとある。現在の本尊は阿弥陀如来像であるが、「新編武蔵風土記稿」の平方村の本馬蹄寺の縁起によれば(漢字の幾つかを正字化させて貰った)、『淨土宗、入間郡河越蓮馨寺の末、孤峯山寶池院と號す、寺領十五石の御朱印を賜ふ、昔は小名大門にありしが、天正十八年ここに移せりと、寺傳の略に云昔當所に吾妻左衛門是好と云る者あり、其伯父なりける三輪庄司好光と云ものの爲に草菴を建て、知道と云僧を庵主となし、伯父の菩提を弔ひけり』。『其頃は馬蹄庵と號し、馬頭観音を安ぜしと云、此餘三輪庄司が馬と化して人語をなし、及び蹄を折しことあるより』、『寺號となせしとなり、さまざまの事を書つづれど』、『怪談に亘れば』、『取らず、遙の後』、『天文年中』、『感譽といへる僧當寺を再興し、山號寺號を銘して淨土の道場とせり、よりてこれを開山とすと云、又本寺の傳へにては、川越の城主大道寺駿河守政繁が母常に佛道を傾慕し、己が甥山角某の第二子を僧として、感譽上人と號し、平方村に一寺を草創せしむ』に『よりて』、『かの法尼が謚をとりて蓮馨寺と號せり、其境内御嶽の社あるにより孤峯山と號し、又』、『丸池と云あるをもて寶池院と名付、是より冬夏の法幢』、『怠りなく』、『僧俗』、『群詣しけり、其後永祿六年上人』、『江戶緣山へ轉住し、夫より諸刹を開建して遂に當寺に歸れり』。『此頃』、『川越城主の指揮によりて、蓮馨寺を今の所へ引移せしにより、其跡へ』、『この馬蹄寺を建立すと云、何れの是なるべきやは詳にせざれど、三輪庄司が馬と化せしなど云は妄誕なること齒牙をまたずして、明かなり』。『本尊三尊の彌陀を安ず』。『鐘楼。明曆三年鑄造の鐘をかく』。『觀音堂。馬頭観音を安ず』。『是』、『當寺往古の本尊なり、堂の傍に天文中の古碑二基立り』。『共に月待供養塔にて、灌律師賢秀阿闍梨、某十郎定重・彦五郎吉次助三など彫れり』とあるので、大いに納得!

「莊司、死して後、馬に生れ變り、人のごとく物言へり」これ! いいねえ!! どこかに伝承として残ってないのかなあ!!!

「長門大津郡深川村江良(えら)の觀音石」山口県長門市東深川江良gomen氏のブログ「山へgomen … 山口県の山歩き記録」の「観音石・江良山(長門市東深川)[県北部の山]」でアプローチから「観音石」の画像まで総て丁寧な逐次写真で確認出来る。地図もあり!

「此等の事實を考へ合はすときは、「駒形」は、即ち、「馬の足型」のことにて、神馬の奇瑞の顯著なるが爲めに、特に馬の爲めの祈願に有效なり、と考ふるに至り、終に、他の馬の生靈・死靈を祭るの信仰と合體したるものなるべし』無条件で賛成します! 柳田先生!]

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