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2019/05/31

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(26) 「神々降臨ノ跡」(2)

 

《原文》

 サテ當初駒ノ足跡ヲ崇敬スルニ至リシ動機ニ付キ、尙一段ノ考察ヲ試ミント欲ス。蓋シ駒形ハ元來定マリタル一種ノ神ノ名稱ニハ非ズシテ、實ハ各地ノ祭神ニ共通ナル威靈ノ徵(シルシ)ナリシヲ、特ニ之ニ由リテ神ニ名ヅケタリシ社ノミガ中ニ就キテ有名トナリシナリ。サレバ奧州又ハ箱根ノ駒ケ嶽トハ些カモ關係無キ諸國ノ社ニモ、駒形石ノ少ナカラザルハ前ニ既ニ言ヘルガ如シ。【白山權現】江州愛知郡押立村ノ客人宮(マラウドミヤ)ハ押連莊(オシタテノシヤウ)十七鄕ノ總氏神ナリ。此社ノ神ハ加賀ノ白山大權現ニシテ、往古神馬ニ召シテ此地ニ飛移リタマヘリトテ、社ノ近邊ヨリ森ノ北ヲ流ルヽ小川ノ岸ニ掛ケテ、其駒ノ足跡多ク殘存ス〔淡海木間攫〕。客人社ノ白山菊理比賣神ナルコト、及ビ此神ノ北國ヨリ飛ビタマヒシコトハ、共ニ日吉二十一社ノ古傳ノ中ニ見ユルコトニテ、ソレ故ニ客人ト稱スト云フ說アリ。而モ此押達莊ノ地ハ夙ニ日吉ノ客人社ノ所領ニシテ且ツ氏子ナリ。續古今集ニ載セラレタル押達宮奉納ノ歌ニ

  爰ニ又宮ヲ分チテヤドスカナ越ノ白根ヤ雪ノフル里

トモアレバ〔地名辭書〕、右ノ緣起ノ如キモ恐クハ却リテ比叡ノ麓ヨリ飛移リシモノナルべシ。但シ日吉ノ本社ニ在リテハ未ダ馬蹄ノ傳說アルコトヲ聞カザルナリ。【客人權現】思フニ客人トハ即チ客神ニシテ元ハ外國ヨリ來タリシ神ナルべシ。之ヲ白山ノ神ニ托セシハ深キ仔細ノアルコトナランモ、今之ヲ推測スルコト能ハズ。紀州ノ熊野モ古キ神ナレドモ亦震旦ヨリ飛來タマヘリト云フ說アリ〔簠簋内傳〕。【熊野】東國ニ數多キ熊野ノ勸請社ノ中ニハ、馬蹄ノ口碑亦少ナカラザルコトナラン。【鞍石】自分ノ知レル限リニテハ、武州西多摩郡小宮村大字乙津(オツ)ノ熊野神社ニ、鳥居場ヨリハ四五町ノ上手(カミテ)道ノ左ニ馬蹄石ト鞍石アリ。熊野權現馬ニ乘リテ此處ヲ通ラレシ折ノ跡ナリト云フ〔新編武藏風土記稿〕。山城男山ノ八幡ニ駒形神人ナル者ノ住セシコトハ前ニモ述べシガ、此山中ニモ八幡神ノ神馬ノ足跡アリ〔神名帳頭注〕。八幡モ最初ハ白山熊野ト同ジク、遠方ヨリ降臨セラレシ神ナリ。遠江龍池村ノ八幡ニ駒形杉ヲ說クガ如キハ、或ハ戰後ノ人心ヲ利用シテ古緣起ノ燒直シヲ試ミタルモノトモ見ルヲ得べキナリ。

 

《訓読》

 さて、當初、駒の足跡を崇敬するに至りし動機に付き、尙、一段の考察を試みんと欲す。蓋し、駒形は、元來、定まりたる一種の神の名稱には非ずして、實は各地の祭神に共通なる威靈の徵(しるし)なりしを、特に之れに由りて神に名づけたりし社のみが、中に就きて有名となりしなり。されば、奧州又は箱根の駒ケ嶽とは些(いささ)かも關係無き諸國の社にも、駒形石の少なからざるは、前に既に言へるがごとし。【白山權現】江州愛知(えち)郡押立村の客人宮(まらうどみや)は押連莊(おしたてのしやう)十七鄕の總氏神なり。此の社の神は加賀の白山大權現にして、往古、神馬に召して、此の地に飛び移りたまへりとて、社の近邊より森の北を流るゝ小川の岸に掛けて、其の駒の足跡、多く殘存す〔「淡海木間攫」(あふみこまざらへ)〕。客人社の白山菊理比賣神(はくさんきくりひめがみ)なること、及び、此の神の北國より飛びたまひしことは、共に、日吉(ひえ)二十一社の古傳の中に見ゆることにて、それ故に「客人」と稱すと云ふ說あり。而(しか)も、此この押達莊の地は夙(つと)に日吉の客人社の所領にして、且つ、氏子なり。「續古今集(しよくこきんしふ)」に載せられたる押達宮奉納の歌に、

  爰(ここ)に又宮を分ちてやどすかな

     越(こし)の白根や雪のふる里

ともあれば〔「地名辭書」〕、右の緣起のごときも、恐らくは、却りて、比叡の麓より飛び移りしものなるべし。但し、日吉の本社に在りては、未だ馬蹄の傳說あることを聞かざるなり。【客人權現】思ふに、「客人」とは、即ち、「客神(まらうどがみ)」にして、元は外國より來たりし神なるべし。之れを白山の神に托せしは、深き仔細のあることならんも、今、之れを推測すること、能はず。紀州の熊野も、古き神なれども、亦、震旦(しんたん)より飛び來たまへりと云ふ說あり〔「簠簋内傳」(ほきないでん)〕。【熊野】東國に數多き熊野の勸請社の中には、馬蹄の口碑、亦、少なからざることならん。【鞍石】自分の知れる限りにては、武州西多摩郡小宮村大字乙津(おつ)の熊野神社に、鳥居場よりは四、五町[やぶちゃん注:四百三十六から六百四十六メートル半。]の上手(かみて)道の左に「馬蹄石」と「鞍石」あり。熊野權現、馬に乘りて、此處(ここ)を通られし折りの跡なり、と云ふ〔「新編武藏風土記稿」〕。山城男山の八幡に、「駒形神人」なる者の住せしことは前にも述べしが、此の山中にも八幡神の神馬の足跡あり〔「神名帳」頭注〕。八幡も、最初は白山・熊野と同じく、遠方より降臨せられし神なり。遠江龍池村の八幡に駒形杉を說くがごときは、或いは戰後の人心を利用して、古緣起の燒き直しを試みたるものとも見るを得べきなり。

[やぶちゃん注:「江州愛知(えち)郡押立村の客人宮(まらうどみや)」「歴史的行政区域データセット」の「滋賀県愛知郡東押立村」の域内からグーグル・マップ・データ(以下同じ)を示すと、滋賀県東近江市のここら一帯となるが、改名したか、合祀したか、それらしい神社を現認出来なかった。ただ一つ気になるのは、柳田國男はこの奇体な名の神社は「押連莊(おしたてのしやう)十七鄕の總氏神」と言っていることで、調べる内に、旧押立村の南西に隣接する東近江市北菩提寺町に押立神社があり、その西北西直近には白山神社がある(示した地図の中央に配した)ことである。私の探索はこれが限界。【同日午後三時:追記】公開当日中に何時ものT氏より情報来信、

   《引用開始》

「近江愛智郡志」巻四 の「第六節 西押立村」の「押立神社」の項に[やぶちゃん注:リンク先は「国立国会図書館デジタルコレクション」の当該ページ。「近江愛智郡志」同巻は昭和四(一九二九)年近江愛智郡教育会編・刊。]、『押立神社は西押立村大字北菩提寺に鎭座す祭神火靈命伊邪那美命なり。當社は明治維新以前は客人大明神と稱し又押立二社大明神と號す。押立山の押立明神と二社鎭座の宮なるによれり。客人の神は山王七社中の一神にして此の神は押立庄内の地が延曆寺領たりし時山王七社中の客人社を分祀せしを創始とす』とありますから、貴下御推察の通りです。

   《引用終了》

とあった。まずは、安堵。

「白山菊理比賣神(はくさんきくりひめがみ)」「古事記」には登場せず、「日本書紀」も一書に、それも一度だけ出てくるのみの女神。詳しくはウィキの「菊理媛神」を見られたいが、シャーマンがモデルである可能性が濃厚。

「日吉(ひえ)二十一社」滋賀県大津市坂本の現在の日吉(ひよし)大社に所属する二十一の神社の総称。上・中・下の各社に、それぞれ七社ずつが区分されてあるので、合計で二十一社になる。「日吉」は二次世界大戦以前は「ひえ」と読んでいた

「續古今集(しよくこきんしふ)」「続古今和歌集」は鎌倉時代の勅撰集。二十一代集の第十一番目。全二十巻。正元元(一二五九)年に後嵯峨院の院宣により藤原為家・基家・家良・行家・光俊が撰し、文永二(一二六五)年に成立。歌数約千九百首。

「押達宮奉納の歌」「爰(ここ)に又宮を分ちてやどすかな越(こし)の白根や雪のふる里」「続古今和歌集」の「巻七 神祇」にあるかの九条(藤原)良経の一首。但し、「日文研」の「和歌データベース」を見ると、

 ここにまたひかりをわけてやとすかなこしのしらねやゆきのふるさと

で、「宮」ではなく、「光」である。確かに一読した時、かの私が特異的に好きな「秋篠月清集」の名歌人にしては、やけに事実をマンマを詠んでいて「何だかな」って気がした。「光」がよかろうぞ。【同日午後三時:改稿・追記】T氏に御教授頂いた「国立国会図書館デジタルコレクション」の「近江愛智郡志」巻四 の「第六節 西押立村」の「押立神社」の項のこちらに、「續古今和歌集」からの引用として(そこに『後京極攝政前太政大臣』とあるのは九条良経の通称)

 爰にまた、光をわけてやどすかな、越の白根や雪の古里。

とあった。やはり「光」。「宮」とする一本があるのかも知れぬが(でなければ、柳田國男の凡ミス)、やっぱ、これ、「光」で、しょう。

「震旦(しんたん)」古代中国の異称。古代インド人が中国をチーナ・スターナ(「『秦』の土地」の意)と呼んだのに由来する。古くは「しんだん」とも濁った。

「簠簋内傳」(ほきないでん)」書名注は附さない約束だが、私は完全な偽書と考えているので特に注しておく。全五巻。「金烏玉兎集」とも呼ぶ。陰陽師安倍晴明作とされるが、祇園社(八坂神社)に拘わる人物による偽作とする説が強く、成立も南北朝から室町時代と推定されている。中天竺の吉祥天源王舎城の牛頭天王が、巨旦(こたん)大王の妨害に苦しみながらも、蘇民将来の助力を得て、后をめとるという筋を源流として、天文・暦数の百科辞書的な項目をそれに関係づけている(平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。

「武州西多摩郡小宮村大字乙津(おつ)の熊野神社」現在の東京都あきる野市乙津はここだが、地区内に熊野神社は現認出来ない。「新編武藏風土記稿」も少し見たが、それらしく見える地名と熊野社を見つけたものの、伝承が記されていないから、違う。【同日午後三時:削除・追記】やはりT氏の情報。

   《引用開始》

「新編武藏風土記稿」の「乙津村熊野神社」の記載[やぶちゃん注:「国立国会図書館デジタルコレクション」のここ。「巻之百十下 多摩郡之二十二下 小宮領」の中の「乙津村」に伝承ともに記載があった。私の見落としであった。]に「村の北の方光明山にあり。入口羊腸の坂ありて……(以下略)」

とあり、そこで、「あきる野・光明山」で探すと、

「全国熊野神社参詣記」の「東京都の熊野神社」に、高明神社(東京都あきる野市乙津二一二三)がヒットし、そこに「由緒 古くは熊野三社権現と称した。光明山上にあったが平成三年[やぶちゃん注:一九九一年。]現在地に遷座した。」

さらに、こちらには、遷座前の跡地の写真がアップされています。

残念ながら、江戸時代の熊野神社(高明神社)鳥居場下の高岩、馬蹄石・鞍石は、消えてしまったようです。

   《引用終了》

高明神社の位置はこちらで、旧地光明山(標高七百九十八メートル)はここ(山名が出る国土地理院図で示した。そこでは高明神社の表示がないが、「乙津」地区の寺院記号の北西直近である。ここは昔はこの山上の熊野神社に参詣するための登り口であったことが判る。なお、「東京都神社庁」のデータで調べると少なくとも高明神社の「高明」は「こうみょう」と読む。

『山城男山の八幡に、「駒形神人」なる者の住せしことは前にも述べし』ここ

「遠江龍池村の八幡に駒形杉を說くがごときは、或いは戰後の人心を利用して、古緣起の燒き直しを試みたるものとも見るを得べきなり」私は諸手を挙げて賛成する。]

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