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2019/06/30

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(64) 封建の完成(Ⅱ)

 

 德川の立法の今一つの人道的方面は、男女兩性の關係に關するその訓諭である。蓄妾は祖先祭祀の繼續に關する理由の爲めに、武士階級には默許されて居たけれども、家康は單に利己的理由の爲めに、此の特權を恣にする事を極めて非難した。『愚昧無識な人間は情婦の爲めに眞の妻を閉却し、かくして最も重要な關係を亂す……此の程度までに墮落した人は信實或は眞面目を缺く武士として常に知られるべきである』。〔愚者は昧ㇾ之爲愛妾本妻大倫溺ㇾ之者は非忠信之士と兼而可知事[やぶちゃん注:手前勝手で訓読する(以下同じ)。「愚者は、之れ、昧(くら)し。愛妾の爲めに本妻を蔑(ないがしろ)にし、大倫を亂し、之れに溺るる者は、忠信の士に非ずと兼ねてより知るべき事。」。]〕輿論によつて非とされて居た寡居は――佛教の僧侶の場合於ける他――同樣に法典も是を非とした。『人十六歲以後は獨棲すべからず。凡そ人たらん者は結婚を自然の第一法則と認む』。〔男女居ㇾ室人之大倫也拾六歲以上獨居すべからず求媒酌而可ㇾ結婚姻之禮子孫相續する時は各先祖之開顏人人天理之本也[やぶちゃん注:「男女(なんによ)、室に居るは、人の大倫なり。拾六歲以上、獨居すべからず。媒酌を求め、而して婚姻の禮を結ぶべし。子孫、相續する時は、各々、先祖の開顏(かいがん)せる(「それでよしと許して、顔を和らげること」を指すか)、人人の天の理(ことわ)りの本なり。」。]〕子なき人は養子する事を强要された。そして遺訓の第四十七條は、男子無き者が、養子せずして死んだ場合、その財産は『親族緣者に顧慮する處なく沒收すべき者』〔無實子養子して相果る者は親疎に拘はらず沒收すべし[やぶちゃん注:「實子、無く、養子、無くして、相ひ果つる者は、親疎(しんそ)に拘はらず、沒收(もつしゆ)すべし。」。]〕なる事を制定した。勿論此の法律は祖先祭祀の擁護の爲めに設けられたもので、それを斷絕する事なく繼續するのが各人の至上の義務と思はれた。併し養子に關する幕府の制規は、各人が困難なく法律上の要求を充たす事を得せしめた。

[やぶちゃん注:〔 〕は底本で同記号で二行割注となっている。無論、訳者戸川秋骨が添えたものである。]

閑居松風・閑居雀  伊良子暉造(伊良子清白) / (伊良子清白十六の夏の今様二首) 

 

   閑居松風

心しつかに暮さんと、のかれてすめる柴の戶に、

峯の松風おとつれて、またもうき世となりにけり。

 

   閑居雀

世のうきふしはたえてなき、竹の庵のむらすゞめ、

千代とさへつる聲々も、いと樂しけにきこゆなり。

 

[やぶちゃん注:以上は、二〇〇三年岩波書店刊「伊良子清白全集」第一巻の俳句パート(伊良子清白の俳句は同書を底本にサイトで「伊良子清白句集」として全電子化済み)の末尾に『【今樣】』(この二首のみ)として載るもの。明治二七(一八九四)年八月十五日発行の『少年文庫』(第十二巻第一号)に載った。署名は本名「伊良子暉造」。清白、満十六歳の夏の詠である。]

野菊 (清白(伊良子清白)によるウーラントの訳詩) / 伊良子清白詩篇全電子化注~完遂

 

野 菊

 

 

  さゝなきしては

 

さゝなきしては鶯の

空音つくるぞきこえける

あざむくなかれ鶯よ

まことの歌をうたへかし

 

しげみの奧は暗くとも

いかに空音はたくむとも

春の鶯聲あげて

何戀ならぬ歌やある

 

 

  秋風白く

 

秋風白くあかあかと

夕日傾く波の上

悲むなかれ海士の子よ

かれの沈むはうみならず

 

なれらの胸に日は入りて

なれらの胸を日は昇る

晝は炎をあげよかし

夜は靜かに眠れかし

 

 

  少女の死を悼みて

 

何を悲む百合の花

なにをはぢらふ花さうび

なにを怖るゝ蓮のはな

夏の夕をただ一人

少女は行きぬうらぶれて

 

打かたぶける百合の花

紅なせる花さうび

色靑ざめし蓮の花

戰(ふる)ひつ泣きつ悲しみつ

夏の夕を語るなり

 

 

  墓場をいでゝ

 

墓場をいでて少女子は

盆(ぼに)の踊にまじりけり

白き衣を身にまとひ

萎(しを)れし花を手にもちて

 

踊の群は散りにけり

月靑白く秋の夜を

死にし少女ぞ踊るなる

むかしのうたをうたひつつ

 

月靑白く秋の夜を

萎れし花ぞ靡(なび)くなる

萎れし花も落ち散りて

少女は死ににけり (Uhland のうたのこゝろを)

 

[やぶちゃん注:明治三六(一九〇三)年十二月十五日発行の『文庫』(第二十四巻第五号)に掲載されたものを完全復元した。署名は「清白」。「少女の死を悼みて」「墓場をいでて」は後の昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」で二篇をそれぞれ独立させて載せている。なお、「盆(ぼに)」は誤りではなく、平安時代、「ぼん」の「ん」の字の使用が一般的に普及していない頃、「に」と表記したもので、盆或いはその折りの供物を指す語として普通に使われているものである。添え辞の「Uhland のうたのこゝろを」というのは、翻案というのではなく、ドイツ語の力を謙遜しての伊良子清白の謂いと採りたい。ドイツ語は解せないので、原詩は指示出来ない。

 清白、満二十六歳、この年は彼にとって波乱の年であった。「春の歌」の私の注を見られたい。

 これを以って二〇〇三年岩波書店刊「伊良子清白全集」第一巻の詩篇パートのオリジナル電子化注を完遂した。]

ウーランド(盾持ちローランドの原作者) 伊良子暉造 /(評論)

[やぶちゃん注:以下は、伊良子清白によるドイツ後期ロマン主義のシュワーベン詩派の代表的詩人であるヨハン・ルートビヒ・ウーラント(Johann Ludwig Uhland 一七八七年~一八六二年)の訳詩「盾持ちローランド」の最後の部分が「下」として発表された明治二八(一八九五)年七月発行の『もしほ草紙』(第三号)に同時に掲載されたウーラントについての評論である。署名は本名の「伊良子暉造」。確信犯の佶屈聱牙な表現部では、かなりの誤字が認められるものの、満十七歳の青年医学生のものとはとても思えない、かなり力(りき)の入った本格的なドイツ近代詩史を踏まえたウーラント論である。「盾持ちローランド」に添える形で特に電子化した。底本は同じく二〇〇三年岩波書店刊の「伊良子清白全集第二巻 散文篇」に拠ったが、この第二巻は第一巻の「詩歌篇」と違って、漢字が新字体になってしまっている。発表時制と文章が歴史的仮名遣の擬古文であることから、恣意的に概ね漢字を正字化して示した。私はドイツ語を解せないので、各所に出るドイツ語にはろくな注を附せなかったことをお断りしておく。判らぬながらも、主にドイツ語ウィキ「Ludwig Uhland」とそのリンク先に拠った。当時のヨーロッパの勢力関係は世界史に冥い私には不明な箇所が多いので自分のために注を附した。五月蠅いが、自身の確認のためであるので悪しからず。なお、中には遂に突き止められなかった詩人がいる。捜し得ないのは清白のカタカナ音写に問題があるものと思われるが、或いはとんでもなく有名な詩人なのかも知れない。お判りになる方は是非御教授あられたい。]

 

 

 ウーランド

   (盾持ちローランドの原作者)

 

   其 小 傳

 

 獨逸の文豪、ルードゥイヒ、ウーランドLudwig Uhand 氏は、一千七百八十七年四月廿六日を以て、本國チエービンゲンに生れぬ。其が兩親といふは極めて熱心なる人物なりしかば、ウーランドも亦此性を享け、一旦事に從ふ時は、一向專念敢へて飽かざるの氣性を有したり。優雅なる敎育に因り、武家氣質の間に成長しゝかば、其氣風自ら快活にして、彼の天才の美玉は益々琢磨せられぬ。生地は名勝舊蹟いと多く、歷史的の事實に富みたる鄕里なりしをもて、廢頽せる古城、剝落する寺院、苔むす奧城處、鎧掛ける老松、など趣味多き山水の間を逍遙して、古代の武者物語、さては名蹟の緣起など慈母の御伽談するを聞き、漫ろに詩的生活を送りぬ、ウーランドは少時よりかの有名なる騎士遊戲 Ritterspiel などをも好みしなるべし。六歲の頃より其鄕の小學校に入りぬ。固より多聞多識、才氣橫溢、の寧馨兒いかでか人後に落ちむや。萬綠叢中の紅一點常に級の首席を占めて、嶄然たる頭角を露はしぬ。特に奇なるは就中文才に長じ、詩は最も得意とする所にして、羅甸[やぶちゃん注:「ラテン」。]の六言詩なとを物しぬ。時の敎師之を驚嘆して、ウーランドの詩才は魔力なり。余は之を添刪する能はず唯だ悅ん之を讀むのみと、曰へり。以て其異常の神童なりしを知るに足るべし。長ずるに從がひて、囊錐いよいよ現はれ、僅々十四歲の弱年にして、Im Tanneheim Bitteum die Frühlings vakang を出しぬ[やぶちゃん注:不詳。ドイツ語サイトのウーラントの書誌記載でもこの書名は見当たらない。不審。]。越えて四年、十八歲に至て、有數の名作、Die Kapelle, Schafers Sonntagslied 等を公になしたり[やぶちゃん注:前者は「チャペル」でウルムリンガー礼拝堂を詠じた一篇。後者は「羊飼いの日曜日の歌」。孰れも一八一五年発表。]。此頃より彼の勉學は非常なるものにて、專ら古代の詩材をあさるに力を盡しぬ。牧者安息日歌の如き僅々三章六十餘言の短詩なりと雖、牧者一天麗らかに晴れ渡り、雲なく風なく、いと長閑なる曠野に塵世を脫して梵鐘の殷々たるを聞きて、專念上帝を拜し、心は六臺萬有と融合する樣、讀者をして自ら、

  Anbetend knie Ich hier

と叫ばしむ[やぶちゃん注:上記のドイツ語は、こちらのウーラントの原詩と訳によって先の「Schäfers Sonntagslied」の一節で、意味は『讃え祈りながら』、『ここにひざまずく』とある。]。純潔髙雅なる詩趣、格調の雙絕なるを見るべし。實にや此短詩が國歌の撰に上ぼりて、國民の賞讚かまびすしき迄なりしこと左もありぬべし、此の如くウーランドの幼時、少年時代を思へば、其遺傳、敎育、鄕地の風景は大に詩才を養ひたるや論なし。「詩人は天成なり、人爲に非ず」てふ古諺は彼に於ては適切にして「詩人は恰も告天子[やぶちゃん注:ヒバリの異名。]に似たり、外物の影響と境遇の勢力とに制せらるゝ事なくして歌ふ者也」といへる格言は甚だ不適當なり、蓋し彼は天然の兒にして人工の子に非らざれば也。

[やぶちゃん注:「寧馨兒」は「ねいけいじ」と読む。「寧馨」は中国の晋・宋時代の俗語で「あのような・このような」の意で、かくも取り立てて讃えるべき「優れた子・神童・麒麟児」を指す。「晋書」の「王衍伝」を出典とする。

「嶄然」の「嶄」は「高く嶮(けわ)しい」の意で、転じて「一段と高く抜きん出ているさま。一際目立つさま」を指す。

「囊錐」「なうすい」と音読みしておく。「嚢中(のうちゅう)の錐(きり)」(現代仮名遣)の略。袋の中の錐はその先が袋の外に突き出ることから、「すぐれた人は多くの人の中にあっても、その才能が自然に外に現れて目立つこと」の喩え。「錐の嚢中に処(お)るがごとし」とも言う。「史記」の「平原君伝」に由来する成句。]

 ウーランドは斯くの如く溢るゝばかりの詩才を有しゝかども、詩によりて麺麭を得んとは願はざりき、兩親の勸告もありし上に、詩は職業となすべからざる事を看破しゝかば、專ら法律學に熱中して、三十歲の頃には早くも一個の法律家となりぬ。然りと雖ももそが螢雪の間も、成業の後も、一日片時詩神を離るゝ事なかりき。ムーゼも彼を護りたるなるべし。これに付きておのれは一言すべき事あり。現今の靑年――文學書生など多く詩を以て衣食を供給せんと欲する者あり。是れ大なる誤といふ可し。蓋し詩の詩たる所以すなはち其高尙深遠なる點は、全く職業以外に立つて超然たる地位を有するに在り。されば衣食と關係し、隨て金錢と關聯したる職業を以て、直に詩を適合せしめむと欲するは無用の徒事なり。是れ詩と職業とは反對の位置にあれば也。若し疑はしくば本邦從來詩人の職業を見よ、王朝の歌人も幕世の俳人も悉く別に職業を有したりき。而して職業のなき詩人は、遠く塵世を解脫して詩を以て職業と迄は爲さざりき、芭蕉西行など此類なり。殊に近世わが帝國は新世界の空氣を吸ふに忙はしく、殖產興業の道に專らなる時代なれば、鶯囀燕舞[やぶちゃん注:「あうてんえんぶ」。天然自然に自由に詠む喩え。]、悠々たる作詩のみに耽るは國家に對しても不忠といふべし。されば將來詩壇に立て天才を發揮せんと欲せば、必ず先づ別に一個の職業に從事せざる可からざる也。ウーランドの如き、實に其理を了解したるものと謂はざる可からず。いさゝか附記するになむ。

[やぶちゃん注:この文章を書いた時、伊良子清白は未だ満十七歳(十月四日生まれ)、この四月に京都医学校に入学したばかりであった。既にして彼自身の将来の実際の在り方も、この時、既にして決していたということが、ここで今、判るのである。]

 ウーランドの詩的生涯は之を分て四期と爲す可し。

 彼に三人の親友あり、ケルネル氏、ヘルデルリン氏、マイエル氏、すなはち是れ也。其他同好の士を集めて一文會を組織しぬ。其機關として一雄誌を日曜每に發刊したり。文學史上シュワーベン詩壇なるものは則ちこれなり。ウーランドは此誌上に敍情詩を連載して、非常の賞讚を博し、世より詩聖ゲーテに並馳すべき名家なりとの好評を獲たりき。これすなはち第一期なり。

[やぶちゃん注:「ケルネル」ドイツのロマン主義詩人で医師・神秘主義者でもあったユスティヌス・アンドレアス・クリスティアン・ケルナー(Justinus Andreas Christian Kerner 一七八六年~一八六二年)。抒情的な民謡調の詩を多く書いたが、次第に神秘的傾向に傾き、霊力・交霊などを信じてその方面の著作も多い。次注のヘルダーリンの診察もしている。

「ヘルデルリン」ドイツの詩人で思想家ヨハン・クリスティアン・フリードリヒ・ヘルダーリン(Johann Christian Friedrich Hölderlin 一七七〇年~一八四三年)。説教師の子として生まれ、テュービンゲン大学で神学生としてヘーゲルやシェリングとともに哲学を学んだ。しかし卒業後は神職に就くことを拒否し、各地で家庭教師をしながら詩作を行い、書簡体小説「ヒュペーリオン」(Hyperion:第一部は一七九七年、第二部は一七九九年に刊行))や多数の賛歌・頌歌を含む詩を執筆した。しかし三十歳頃、統合失調症を発症し、狂人とされ、その後半生は不遇であった。一八〇七年から「ヒュペーリオン」の熱狂的な愛読者であった家具職人エルンスト・フリードリヒ・ツィンマーに引き取られ、死の年までの実に三十七年間、そのツィンマー家の、川に臨んだ塔の中で過ごした(軟禁ではない)のであった。ウィキの「フリードリヒ・ヘルダーリン」には、『生前はロマン派からの評価を受けたものの』、『大きな名声は得られなかったが、古代ギリシアへの傾倒から生まれた汎神論的な文学世界はロマン主義』・『象徴主義の詩人によって読み継がれ、また』、『ニーチェ、ハイデッガーら思想家にも強い影響を与えた』とある。

「マイエル」詩人で弁護士であったカール・フリードリヒ・ハルトマン・メイヤー(Karl Friedrich Hartmann Mayer 一七八六年~一八七〇年)のことかと思われる。

「シュワーベン詩壇」小学館「日本大百科全書」の「シュワーベン詩派」(Schwbische Dichterkreis)によれば、『ドイツ後期ロマン派の一詩派』で、『狭義にはウーラント、J・A・ケルナー、シュワープほか、ウュルテンベルク出身のロマン派詩人仲間をさし、広くはメーリケ、ハウフなども加える。しかしこの名称は、これらの詩人の仕事すべてを包括するには十分ではなく、今日、但し書なしに使用されることはまずない』。一八〇三年、『ウーラントを中心にチュービンゲン大学に形成された学生文学グループが起点となっている。このグループの解消後もウーラント、ケルナーの両者はシュワーベン・ロマン派の旗印のもとに同調者を集めた。彼らは、家郷の風土、詩的伝統を愛し、民謡調のバラード、物語詩などを表現形式として好んだ。アンチ・ロマンの「青年ドイツ派」とは反目し』、『別格扱いのウーラント以外は、ハイネなどの批判を浴びたが、彼らの運動の後代への影響は小さくない』とある。]

 彼が嗜好物なる、古事探究は年を積むに隨て愈佳境に入り文學、言語、小說、傳記、一として讀まざるなく、詩囊益重く、學識いよいよ博きを加へけれども、猶ほ滿足せざりけむ。其の熱心は逬發[やぶちゃん注:「はうはつ(ほうはつ)」で迸(ほとばし)り出ること。]して、ウーランド、其三十二歲の時、佛國巴里に遊び、數月滯在の末其圖書館に入り、諸多の珍書奇籍を獵涉し、大に古學探究の材料を得たり。其熱心なる、手をもおとさむばかりなる嚴冬積雪の日も、火氣なき寒威骨に徹する圖書館の一室に在りて側目もふらず一心に勉學してありしといふ。試に思へ當時、獨佛の間戰端開け(猶後に評論すべし)氷炭[やぶちゃん注:「ひようたん」。相違の甚だしいものを喩えて言う語。]相容れざるの間に非ずや。而して其本國を離れ不倶戴天の敵國に入る其熱心亦甚しと謂ふべし。この熱心の效果は乍ち[やぶちゃん注:「たちまち」。]あらはれて歸國の後、古代佛國詩歌論 Ueber das altfranzösische Epos の好論文と成りぬ[やぶちゃん注:一八一二年作。]。江湖の好評噴々として、洛陽の紙價爲めに價を加ふるに至れり。借問す、日本現今の文學者、日淸戰爭正に酣なるの際深く支那の内地に入り、以て其古蹟を探究するの勇氣あるや否や。

 此時に當り獨佛の葛藤結んで解けず、祖國多難、兵馬悾愡[やぶちゃん注:「こうそう」と読み、「忙しくて思うことが出来ないさま」を指す。なお、この後に読点はない。]社會は正に暗黑の中に棄擲せられたり。老者は黨を組みて、村間を守り、壯者は募に應じて國運に斃るゝの間も、彼の詩筆は一日も休む事なく、堂々整々、Fürs Vaterland を朗吟して獨逸國の森嚴と必勝を歌ひぬ[やぶちゃん注:「Fürs Vaterland」は「祖国のために」。現在のドイツ連邦共和国国歌の原型である「Deutschlandlied」(ドイツの歌)であろう。ウィキの「ドイツの歌」に載る三番の歌詞に「Für das deutsche Vaterland!」(父なる祖国ドイツのために!)とある。]。彼が從軍の希望は、其國ユルテンベルヒの仇敵ナボレヲンに同盟せるの故を以て果さざりしも、粉骨碎身、自個の職分を盡すに餘念なかりき千八百十五年ナボレヲン敗亡して、諸國安康と成りしの后、彼は故鄕の公役に從事して勉勵至らざるなく、其結婚の夜、新婦と客人とをして待つこと多時ならしめたりき、是れやがて其二期なり。

[やぶちゃん注:「ユルテンベルヒ」彼の生地テュービンゲン(Tübingen)は現在のバーデン=ヴュルテンベルク州(Land Baden-Württemberg)であるが、ここは当時はヴュルテンベルク王国(Königreich Württemberg)であった。この一八一五年にドイツ連邦に加盟。]。

 新婦名をエミーと呼び名族の女なり。ウーランドは此結婚に因りて大に幸福なる生活を得、和氣洋々たる家庭をつくり從來自個の性質に適合せざりし公役は之を避けて、公會議所に出ることも少かりき。左れば其境遇は一變して、蜜よりも嗜みたる詩神に近接せざるの日なく、本來の詩人たる境涯を送りぬ。一千八百二十九年、テユービンゲン大學の員外敎授と成り、獨逸文學幷に語學の講延を開きしが、蘊蓄の學識は滾々として盡きざること湧泉の如く、議論明晰、紛糺雜亂の語學を解釋し一糸亂れず。大に學生の好望を獲たり。これやがて第三期なり。

[やぶちゃん注:「エミー」一八二〇年に彼は十二歳下のエミリィエ・アゥグステ・フィッシャー(Emilie Auguste Vischer 一七九九年~一八八一年)と結婚している。裕福な商人の娘であった。]

 其後ウーランドは國會の議長に當選せられ、公共の義務辭するに語なく、且は諸多の有志者の推選もだし難くて、七年の長日月、國會議場に勤務したり。其後はチユービンゲンに住し、其友、カルヽ、マイエル、グスタフ、シユワープと共に互に往來して、作詩を以て樂めり。名聲益々籍甚し、一時はゲーテを壓する計りなりき。

[やぶちゃん注:「カルヽ、マイエル」で既出既注の詩人カール・メイヤーであろう。

「グスタフ、シユワープ」でウーラントやケルナーとともにシュワーベン・ロマン派の代表的詩人であったドイツの詩人グスタフ・ベンジャミン・シュワープ(Gustav Benjamin Schwab 一七九二年~一八五〇年)のこと。チュービンゲン大学で哲学と文学を学んだ。民謡風の小曲・学生歌・物語詩でウーラントの詩業を継ぐとともに、『教養人の朝刊』紙の文芸欄編集者として後輩を育成した。ギリシア・ローマ神話集「古典古代の伝説」(Sagen des klassischen Altertums 一八三八年~一八四〇年)の編者としても知られる。]

 ウーランド甚だ攝生に注意したりと見え、晚年に至りても衰弱の體格見えず、依然矍鑠たる老翁なりしが、親友ケルネルの葬式に臨みて、感冒症に罹り、遂に八十四歲の高齡を以て千八百六十二年十一月三日遠く天國に旅立ちけり。會葬するもの數千人、未だ一面識なきものにして、此大詩人が最終の葬禮に遇はむと欲するもの道路堵[やぶちゃん注:「かき」。垣根。]の如くなりき。其盛榮實に羨む可しと爲す、十七世紀の大文豪、チユービンゲンの麒麟兒はかゝる光榮の裡に消滅せり、亦溟目して可なりといふ可し。これやがて第四期なり。

 余は猶以上の傳記中、彼が性格上に於て一二の觀察を試みむと欲す。

 ウーランドは瓢逸快闊なる人なりき。其詩中にあらはるゝ人物の悉く滑稽的風趣に富める、實に彼自身の陰影なりき。

 ウーランドは專心熱中の人なりき。公務の餘課作詩に耽りたる、古事の探究に敵國に入り嚴冬猶寒風を忘るゝに至り、或は公務に忠勤にして新婦と客人とをして待たしむこと多時ならしめたる等其熱中なる性格は行爲の上にあらはれたりと謂ふ可し。

 ウーランドは愛國の情念に富みたる人なりき。ひたすら祖國の美を謠ひ、士氣を鼓舞せしめたるが如き、或は從軍を願ひて、敵國と戰はむと欲したるが如き、國會議事堂に議長として七年の長月日を勤務したる等以て其の一般を知るに足らむ。

 ウーランドは溫和朴良なる人なりき。夫人エミーに對する愛情、親友ケルネル、ヘルデルリンに對する友情、など懇切深厚なりしを見れば、明白なり。

 批評淺薄、例證甚だ乏しと雖、氏の性格として大差なきを信ずる也。

 

   其 時 代

 

 近古獨逸帝國が英雄割據の狀を呈してより、一たびは佛の食狼、ルードイヒ十四世の爲に國内を擾亂せられ、一たびはコルシカの大怪物ナポレヲンの爲めに、獨立を蹂躪せられ畧んど亡國の慘狀に陷落したりしもの、遠く其源を探究すれば人心の背離に因せずむばあらず、而して人心の背離は國語國文の獨立を失ひたるに因る、蓋し中古の末葉より十七世紀の末葉に至る迄は獨逸文學極衰の時期なりき。當時專ら流行せしは羅甸文にして、一般の學者悉く之に熱中し、誰一人として自個固有の國語を發揮するものなかりき。十六世紀の初葉、熱心なる愛國者ウツテンなる人あり、國語の衰頽を憂ひしきりに獨逸文を以て書を著はさむと心掛けしかど、到底羅甸文もて認むる如く巧妙なる能はざるを悟りて思ひ止りぬ。然るに千古の奇傑、路の崛起[やぶちゃん注:「くつき」。俄かに事が起こること。多数の中から頭角を現わすこと。]するあり、宗敎改革を唱へて從來の弊風を打破し、天主敎を剪除[やぶちゃん注:「せんじよ」で、ここでは本質を見失った教会体制の腐った部分を綺麗に刈り取って除去することを指している。]する一代方便として、基督敎聖書を俗語もて(所謂新高獨逸語)飜譯したりしより、啻に[やぶちゃん注:「ただに」。]聖書の趣旨を一般人民に知らしむるのみならず、自個固有の國語を一般人民の用語に確定するを得たり。蓋し十六世紀の最大著書にして、亦最大現象なりき。然れども文學的散文、韻文、戲曲に至ては他國摸倣の弊風、依然として去らず、當時英國の喜劇など頗る獨逸人の嗜好に適ひ、文學者の之を摸倣するもの甚だ多かりき。十七世紀の初葉、各國に文學會數多設立せられたるが、そがうち、シレシア文學會の創立者なる、マーテン、オビツツ氏は一千六百二十四年を以て、獨逸詩歌書を公にせしが、此趣味豐富なる詩歌集は、忽ち時人の嗜好に投じ、同六十九年迄には第九版を發兌[やぶちゃん注:「はつだ」。発行。]するに至れり。此著述は獨逸に於ける韻文改革の基礎となりて、續々異論を出し、極衰時代を警醒するもの多かりき。惜い哉、氏の改良は唯詩の結構に止り、其精神を改良するに及ばざりしかば、其理想猶他國詩人の餘唾[やぶちゃん注:「よだ」。]に過ぎざりき。飜て當時の散文を見れば、路惕の情熱未だ冷へざるに、或る學者の如きは、趣味の如何を問はずして獨逸的羅甸文を用ゐ、或る學者の如きは佛語、伊太利語、西班牙語[やぶちゃん注:「ポルトガルご」。]、を詞間に插入する風を爲し此際大學校に於ては、歷史、法律、理化學、工藝、其他の諸學の講義錄には羅甸語を用ゐ、卒業論文にもー切羅甸を應用して無趣味、粗雜なること洵に[やぶちゃん注:「まことに」。]甚しかりき。當時戲曲家アンドレアス、グリフヲスなる人あり、憂國の熱情を以て、種々の戲曲を草し、工に[やぶちゃん注:「たくみに」。]當時の弊風を戒めたり。殊に共著「ホルビリクリブリフアツクス」に於ては、軍人の粗野なる風俗を描き、當時の通弊たる國語の混淆を冷嘲せる樣、頗る興味あり乃ち劇中の一人物は學校敎師にして拙き羅甸語を話し、一人は獨逸羅甸混交語を話し、又一人は間違ひたる佛語を話し更に一人は猶太人にしてへブリウ語[やぶちゃん注:ヘブライ語。]と拙き獨逸語とを混淆せり。語學紛亂、國文支離滅裂の時代を活寫せるものと謂ふ可し。加ふるに此時代は獨逸語にも外國語にも誤謬多く、文體粗野にして虛飾に亙り、往々自負誇大の言を加へたるを以て最も厭ふ可しと爲す。要するに上下四百年の間は獨逸文學極衰の時代にして、當時の短哥、長歌、諷詩、通俗說敎文、民間滑稽文等は之を緊要なる歷史として見るを得へきも[やぶちゃん注:「へきも」はママ。]、文學上より觀察すれば、寧ろ斥くべきの現象なりとす。或は曰はむ「哲學神學に關する羅甸文の著作は、續々發兌して枚擧するに暇あらざる可く、學術上の名著述また少からず」と、然り洵に然り、然りと雖も斯る名著述は、國文學殊に韻文學上の進步には寸效なしといひて可なり。鳴呼、斯くもすさみたる荒蕪の田園、天長く之を放置する者ならむや、忽ち一大偉人を下して開墾拓植の任を與えぬ[やぶちゃん注:「與えぬ」はママ。]。

[やぶちゃん注:「ウツテン」宗教改革期にカトリック教会を激しく批判したドイツの思想家ウルリヒ・フォン・フッテン(Ulrich von Hutten 一四八八年~一五二三年)。ウィキの「ウルリヒ・フォン・フッテン」によれば、『現在のヘッセン州フルダ南西のシュテッケルベルク城(現在はシュリュヒテルン市に含まれる)生まれで、騎士身分であった。ドイツ・イタリアの大学で学んだ。ラテン語の詩を書き』、一五一七年には『神聖ローマ皇帝マクシミリアン』Ⅰ『世から桂冠詩人の称号を受け』ている。『ロイヒリン』(Johann Reuchlin:『ヘブライ語研究を行ったためカトリック教会から異端の疑いをかけられた)を擁護し、同志と』「Epistolae obscurorum virorum」(「無名人士の手紙」)『を著し』、そ『の中で聖職者の偽善、腐敗、貪欲さなどを辛辣に批判した』。『一時』、『ルターを支持』した。『また、フッテンの思想的影響を受け、反カトリック的な騎士階層がトリーア大司教領を攻撃した(トリーア大司教は選帝侯を兼ねていた)。しかし、カトリック支持の諸侯から反撃を受け』て『敗退(騎士戦争』:一五二二年~一五二三年)し、『チューリヒのツヴィングリのもとに逃れるが、まもなく病死した』とある。

「高獨逸語」ドイツ語の言語変種で高地ドイツ語(Hochdeutsch)のこと。「ドイツ語高地方言」とも呼ばれる。また、現在の「標準ドイツ語」のことを「高地ドイツ語」と呼ぶ場合もある。「新」はまずは新訳であろうが、所謂、当時の「現代口語」の意味での「新」でもある。]

「マーテン、オビツツ」ドイツの詩人マルティン・オーピッツ(Martin Opitz 一五九七年~一六三九年)。ハイデルベルク・ライデンなどで学び、『成果をもたらす協会』(Die Fruchtbringende Gesellschaft)の一員として「ドイツ語浄化運動」に参加、「アリスタルコス」(Aristarchus:一六一七年)を著わし,「シュレジエン詩派」の中心人物として、また、バロック文学の理論的指導者として同時代人に大きな影響を与えた。「ドイツ詩学の書」(Buch von der deutschen Poeterey:一六二四年)ではアクセントを重視し、フランス詩のアレクサンドランの移入を唱えた。ほかにソフォクレスの「アンチゴネ」の翻訳などもものしている。なお本文の「シレジア」と「シュレジエン」は同じで(Silesia:Schlesien)、中部ヨーロッパのオーデル川上・中流域の地方名。現在、大半はポーランド領(ポーランド名「シロンスク」)で、一部はチェコ領。中世以来、ボヘミア・ポーランドの勢力下にあったが、十二世紀以後、ドイツ人の入植が盛んになり、急速にドイツ化した。十六世紀からはボヘミアとともにオーストリアのハプスブルク家の支配下になったが、十八世紀の「オーストリア継承戦争」の際、プロシアのフリードリヒⅡ世が侵入して占拠し、プロシア領となった。十九世紀後半には商工業が発展してプロシアで最も富裕な地となっていた。以上は総て「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った。

「路惕」これには惑わされた。これで「ルテル」と読む。かの「宗教改革」で知られる聖アウグスチノ修道会所属のマルティン・ルター(Martin Luther 一四八三年~一五四六年)の「ルター」の漢字表記であった。国立国会図書館デジタルコレクションの明治一四(一八八一)年刊の物的爾(ウエルテル)他著の珀爾倔訳・西村茂樹重訳になる「泰西史鑑」下編の巻之一の「第二 馬尓丁路惕(マルチニュスルテル)」を見よ。

「アンドレアス、グリフヲス」バロック期を代表するドイツの詩人で劇作家のアンドレーアス・グリューフィウス(Andreas Gryphius 一六一六年~一六六四年)。「三十年戦争」を背景として無常観・厭世観に基いた作品を残した。ここに出る「ホルビリクリブリフアツクス」はイタリアの即興劇に影響を受けた風刺喜劇で「ホリビリクリブリファックス・トイッチュ 愛人選び」(Horribilicribrifax Teutsch:一六四七年~一六五〇年)である。]

 

  其時代(承前)

 

 偉人とは誰ぞ、十八世紀初葉の文豪、レツシング是れ也。氏空前の大手腕を以て、空前の大事業を成功し、玆に摸倣的精神と、混淆的國語を改良して千古文運の基礎を定めたり。固よりフレデリツヒ大王の功績、オビツツ、ウルフ、ライプニツツ諸氏の遺叢など預て力ありと雖、そもそも亦氏の火眼的[やぶちゃん注:聞いたことがない熟語だ。「炯眼」の誤りか。]敏腕に因らずむば非ざる也。奇拔なる批評は氏の得意とする所にして、摸倣的著作家に對する問答の最も簡單なる比喩(氏は最も比喩に長ぜり)は左の如し。

[やぶちゃん注:「レツシング」ドイツの劇作家・批評家ゴットホルト・エフライム・レッシング(Gotthold Ephraim Lessing 一七二九年~一七八一年)。フランス古典劇の亜流であった従来のドイツ演劇を否定し、ギリシア劇・シェークスピア劇の精神を採り入れることによって、近代的な市民劇の創始者となった。また、演劇の他、美学・神学の評論を通して啓蒙思想を説き、ドイツ市民文化の発展に貢献した。美学評論「ラオコーン」(Laokoon: 一七六六年)はよく知られる。

「フレデリツヒ大王」第三代プロイセン王フリードリヒⅡ世(Friedrich II 一七一二年~一七八六年)。ウィキの「フリードリヒ2世(プロイセン王)」によれば、『優れた軍事的才能と合理的な国家経営でプロイセンの強大化に努め、啓蒙専制君主の典型とされる。また、フルート演奏をはじめとする芸術的才能の持ち主でもあり、ロココ的な宮廷人らしい万能ぶりを発揮した。フランス文化を知り尽くすなど』、『学問と芸術に明るく、哲学者のヴォルテールと親密に交際し、全』三十『巻にも及ぶ膨大な著作』『を著し』、「哲人王」『とも呼ばれ、功績を称えて』「フリードリヒ大王(Friedrich der Große)」と『尊称されている。哲学者イマヌエル・カントはフリードリヒの統治を「フリードリヒの世紀」と讃えた』とある。

「ウルフ」ドイツの哲学者で近世自然法論者のクリスティアン・ヴォルフ(Christian Wolff 一六七九年~一七五四年)であろう。ライプニッツからカントへの橋渡し的存在である。

「ライプニツツ」かの「モナド(単子論)」で知られるドイツの哲学者・数学者ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz 一六四六年~一七一六年)。

 なお、以下の引用は全体一字下げなので、ブラウザ上の不都合を考えて一行字数を減じた。]

 猿、狐に言へらく「余が摸倣し得べからざる

 動物は何か、あらば之れを列擧せよ」狐答ふ

 らく「世に汝に摸倣せんと欲する程輕蔑すべ

 き動物ありや、あらば之を列擧せよ」

痛快なりと謂ふべし、氏の刺戟はいみじう劇し[やぶちゃん注:「はげし」。]かりけむ。獨逸當時の文學界は忽ち亢奮し來りて、所謂文學崛起時代を形成しぬ。

 シヱークスピーヤに對する熱中、オシアン及北方神仙譚に對する狂熱、佛國的模倣は、急劇なる潮流によりて斥けられたり。敬虔のクロプストツクは雄壯劇烈なる國文により、人情、自由、愛國の觀念を謠ひ、溫雅なるウヰーランドはクロプストツクに反對して、優麗婉曲の文辭に因り、オブロン、アガトン、等の名作を出し、深酷なるヘルデルは高妙なる哲學的觀察を以て、神明、戀愛の妙諦を解析しぬ。是より先、ライプチヒ、ハルレ、ヱナ、ゲッチンゲン諸大學の學生間には多くの熱心なる國文獨立論者を出し、外國文學摸擬の弊風を一變して自國美文の發揚を計り、他國文學に對峙せしめむと勉めたり。該世々紀二十年の頃よりライプチヒの敎授ゴツトセツドとチユーリヒの敎授ボートメルとの間に爭論を生じ、甲は佛文學を尊び、乙は英文學を悅び、甲は詩を以て自然の直寫にして思想力の發表に外ならずとなし、ミルトンの失樂園を難じ、乙は之を駁して、詩は想像を主とするもの也と爲し、パラダイスロストを以て最上乘の傑作と定めたり。此論爭は彼のクロブストツクが勇士譚メツシアスの著述より、一層の熱を騰め[やぶちゃん注:「たかめ」。]來り、一時は辨駁の聲囂々たりき。ライプチヒ派にはゲルネルありて、其風韻滑稽人をして舞はしめ、其崇高森嚴人をして危然たらしめたり。ボートメル派にはグライム、ウツの諸氏あり、巧妙なる敍情詩を以て、互に對峙したり。後クロブストツクの之が判決を與ふるに至て、玆に初めて一段落をなし、同時に獨逸文學上一種の改新を與えたりき[やぶちゃん注:ママ。]。降て十八世紀の末葉より十九世紀初葉に於ては、千古の大文學者、大詩人なるゲーテの輩出するあり、敏活淸麗なるシルレルの起るあり。こゝに於てか獨逸文學は大成しぬ。

[やぶちゃん注:「オシアン」Ossian は三世紀頃、イギリスのスコットランド高地地方及びアイルランドに居住した古代ケルト人の英雄フィン(またはフィンガル)の子として生まれ、ターラの宮廷に仕えた勇者で、吟唱詩人として幾多の叙事詩をつくったとされる伝説的人物。十八世紀に至って、スコットランドの詩人マクファーソンが、オシアンの詩をゲール語から散文詩風に英訳したものと称して、「スコットランド高地地方で集めゲール語から訳した古代詩集の断章」(一七六〇年)・「フィンガル」(一七六二年)・「テモラ」(一七六三年)の三編を発表した。さらに好評に応え、一七六五年にこれらを「オシアン作品集」として二巻にまとめるに及び、古代ケルト世界の醸し出すその縹渺たるロマン的情調は、イギリスのみならず、ヨーロッパ各国語にも訳され、ワーズワースをはじめ、ゲーテ」ヘルダー・シラー・シャトーブリアンら、いわゆるロマン派の作家・詩人たちに大きな影響を与えた。しかし、発表当時から、その真偽に関して論議があり、マクファーソンによる偽作とする説もかなり有力であったが、むしろ今日では、「オシアン原作説」はともかく、古代ケルト人の間に語り継がれた英雄叙事的主題を元に、マクファーソン自身が英語・ゲール語両方に亙る知識を縦横に駆使して創作したものと考えられている。二十世紀に於いて、詩人イェーツは「アシーン」(Oisin)の名のもとに、アイルランド文芸復興のシンボルとして歌っている。以上は小学館「日本大百科全書」に拠った。

「クロプストツク」ドイツの詩人フリードリヒ・ゴットリープ・クロプシュトック(Friedrich Gottlieb Klopstock 一七二四年~一八〇三年)。当時支配的であった合理主義的な啓蒙文学に対抗して、敬虔主義に根ざした感情溢れる作品を書いた。特に一七四八年に有力雑誌『ブレーマー・バイトレーゲ』(Bremer Beiträgen:「ブレーメン寄与」)に叙事詩「救世主」(Der Messias:一七四八年~一七七三年)の一部を発表、フランス詩法を排し、ドイツ詩に新しい躍動的な推進力を与えて新境地を開いたものとして、後代の詩人にも多大の影響を与えた。また,抒情詩「チューリヒ湖」(Der Zürchersee:一七五〇年)・「春祭り」(Die Frühlingsfeier:一七五九年)などは青年層に熱狂的に迎えられた。彼は主に叙事詩によって有名になったが、その類い稀な才能が最もよく現れたのは抒情詩であり、また、頌歌も賛美歌に似た荘厳さでよく知られている。以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った。

「ウヰーランド」ドイツの詩人・翻訳家・作家クリストフ・マルティン・ヴィーラント(Christoph Martin Wieland 一七三三年~一八一三年)。ゲーテやシラーなどと並ぶドイツ古典主義時代に於ける重要勝大きな影響力を持った啓蒙主義の一人。

「オブロン」ヴィーラントが一七八〇年に発表した彼の代表作の詩篇「オーベロン」(Oberon)。

「アガトン」ヴィーラントが一七六六年から一七六七年にかけて著わした代表作の物語「アーガトン物語」(Agathon)。

「ヘルデル」ドイツの哲学者・文学者・詩人・神学者ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー(Johann Gottfried von Herder 一七四四年~一八〇三年)。カントの哲学などに触発され、若き日のゲーテや「シュトゥルム・ウント・ドラング」・ドイツ古典主義文学及びドイツロマン主義に多大な影響を残すなど、ドイツの文学と哲学の両面に影響を及ぼした人物。優れた言語論や歴史哲学、詩作を残した他、一世を風靡していたカントの超越論的観念論の哲学と対決し、歴史的・人間発生学的な見地から自身の哲学を展開して、カントの哲学とは違った面で二十世紀の哲学に影響を与えた人物としても知られている。ここはウィキの「ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー」に拠った。

「ハルレ」ハレ大学(Universität Halle)。ドイツ東部のハレ市にある大学。一六九四年、プロイセン王フリードリヒⅢ世により創設され、学問・思想の自由を大学の本質として重んじた。一八一七年、ウィッテンベルク大学と合併して「マルティン=ルター大学ハレ‐ウィッテンベルク」となった。「ハレ」は「ハルレ」とも音写表記する。

「ヱナ」イエナ大学。現在の「フリードリヒ・シラー大学イェーナ」(Friedrich-Schiller Universitt Jena)。ドイツ中央よりやや東側に位置する、チューリンゲン州の都市イエナにある。ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒにより一五四八年に設立されたアカデミーを創建起源とし、一五五八年、ドイツ皇帝から大学としての認可を得た。十八世紀末から十九世紀初頭にかけて最も栄え、哲学部を中心にシラーやヴィルヘルム・フンボルト、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル、ゲーテらが教授陣として活躍した。

「ゴツトセツド」ドイツ啓蒙主義の文学者ヨハン・クリストフ・ゴットシェート(Johann Christoph Gottsched 一七〇〇年~一七六六年)。ウィキの「ヨハン・クリストフ・ゴットシェート」によれば、『ケーニヒスベルクに牧師の子として生まれ、ザクセンに移住して』一七三四『年からライプツィヒ大学で詩学・哲学の教授として、フランスの合理主義思想を鼓吹した。哲学ではゴットフリート・ライプニッツやクリスティアン・ヴォルフの系譜をひく。当時のバロック風の歪曲・誇張された傾向に対してドイツの演劇・文学・言語の革新を志した。ゴットシェートは「文学の革新は全ドイツの共同の栄誉を目標とすべきである」と考えていたが、当時のドイツ文学は取るに足らぬ伝統しかないために、フランスのピエール・コルネイユとジャン・ラシーヌや』、『詩学ではニコラ・ボアロー=デプレオーを〈良き趣味〉の手本として推奨した。劇場が正統派ルター派にとっては悪魔の説教壇であった時代で、演劇に関心を持ち、俳優の地位と演目内容の向上、さらに近代標準語の純化と普及に功績があった』。一七二七年から一七四〇年『頃の名声は非常に高かったが、チューリヒの大学教授でイギリスのミルトンを模範とすべきと主張するボードマー』(次注)『やブライティンガーと論争をし、それを境としてゴットシェートの名は学問を鼻にかける愚物の代名詞となり、軽蔑にさらされる』こととなった。

「ボートメル」スイスの文献学者ヨハン・ヤーコプ・ボードマー (Johann Jakob Bodmer 一六九八年~一七八三年)。ウィキの「ヨハン・ヤーコプ・ボードマー」によれば、『大学で神学を学び、商人の修業を経た後、スイスの歴史と政治の教授としてチューリヒのギムナジウムに勤める。彼の活動で重要なのものは、中高ドイツ語文学の再発見と、ホメロスおよびジョン・ミルトンの翻訳である。他方、彼が、ホーエンエムス城の図書館でニーベルンゲンの歌の写本Cを実際に発見したヤーコプ・ヘルマン・オーベライトから、その栄誉を奪ったことも知られる』。『ボードマーがドイツ語文学の歴史にはたした決定的な貢献は、彼が友人のヨーハン・ヤーコプ・ブライティンガーとともに、ドイツ語文学の「文壇の法王」だったヨハン・クリストフ・ゴットシェートに対して行った論争である。ボードマーは』一七四〇年の著書「ポエジーにおける不思議なものに関する批判的論考」(Critische Abhandlung von dem Wunderbaren in der Poesie)で『自分の文学理論の原則を表明している。彼は、ゴットシェートが推奨するフランスの手本に対し、ミルトンのイギリス感覚主義を好意的に扱い、そして古典崇拝に対して、中世を高く評価した。これによって彼はロマン主義に決定的な影響を与えることになった。ボードマー、ブライティンガー、ゴットシェートの間で繰り広げられた論争は、ある意味、フランスでの「新旧論争」のドイツ語版であった』とある。

「ミルトンの失樂園」イングランドの詩人で共和派の運動家であり、オリバー・クロムウェルを支持したジョン・ミルトン(John Milton 一六〇八年~一六七四)が一六六七年に発表した「旧約聖書」の「創世記」をテーマとした壮大な初期近代英語の叙事詩「Paradise Lost」。

「勇士譚メツシアス」ウィキの「フリードリヒ・ゴットリープ・クロプシュトック」によれば、クロプシュトックがまだイエナ大学の神学生だった頃、そこで最初の「救世主」(Messias)の最初の三つの歌を散文で作成、一七四六年にライプツィヒに移った後の一七四八年、「救世主」の三つの歌が出版された。『ドイツ文学の新しい時代』が始まるとともに、『著者の名前はすぐに知られるようになった。ライプツィヒで彼はたくさんの頌を書い』ている。一七四八年に『大学を離れて、ランゲンザルツァで親戚の家族の家庭教師になった』が、『従姉妹への報われぬ恋が彼の平安をかき乱した』。それもあって、一七五〇年、『「失楽園」の訳者ボードマーから、チューリッヒへの誘いを受け』て移り、『ここで、クロプシュトックは最初』は『あらゆる親切と尊敬をもって扱われ、かれの精神は急速に回復した。しかしながらボードマーは、救世主の作者の若い詩人が、強くこの世に関心を持つ男であることを知って失望し』、二『人の友情には亀裂が走った』。『この危機の時に、デンマーク王フレデリク』Ⅴ『世から』『大臣の推薦によって、「救世主」の完成を見込んで』、『コペンハーゲンに年俸』四百『ターラーで定住するという誘いを受け、彼はその提案を受けた。クロプシュトックがコペンハーゲンへ向かう途中、ハンブルクでマルガリータ・モラーに出会った』。一七五四『年に彼の妻になるマルガリータは、彼の詩の熱狂的な崇拝者だった。彼の幸せは短く、彼女は』一七五八『年に死去し』てしまう。『彼女を失った彼の嘆きは、「救世主」の』十五『曲目の悲しみの表現に見られる』という。『詩人は妻の著作集を出版し』、『それらは、優しさと感受性と深い宗教的精神の証拠を与え』たものの、『クロプシュトックは悲観主義に陥り、アイデアは失われ、詩は一層あいまいに不明瞭になった』とある。

「ゲルネル」不詳。

「グライム」後にドイツ啓蒙主義の代表者となる詩人で作家のヨハン・ヴィルヘルム・ルートヴィヒ・グライム(Johann Wilhelm Ludwig Gleim 一七一九年~一八〇三年)。

「ウツ」不詳。

「シルレル」ゲーテと並ぶドイツ古典主義(Weimarer Klassik)の代表者で詩人・歴史学者・劇作家・思想家であったヨハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラー(Johann Christoph Friedrich von Schiller 一七五九年~一八〇五年)。]

 獨逸文學は此の如くにして其獨立を得、進で[やぶちゃん注:ママ。]他國を凌駕したり、加ふるに文運の進步と共に他國の名著述は悉く輸入せられ、此輸入文學は盡く獨逸魂に同化せられて、文學の上にあらわれぬ。ウヰーランドはホレースの手簡文、及び諷詩、ルシアンの全著作、シセルの手簡文、アリストフアンスの喜劇等を飜譯し、又シヱークスピーヤの戲曲類をも巧に譯述したり。シユレーゲルは希臘羅馬歌史を著し、羅甸民族の文學、並にシヱークスピーヤの著述を紹介し、フォスは希臘の古文ホメルを獨譯しぬ。

[やぶちゃん注:「ホレース」古代ローマ時代の南イタリアの詩人ホラティウス(Horatius紀元前六五年~紀元前八年)のことであろう。彼の書簡詩「詩について」(Ars poetica)はアリストテレスの「詩学」と並んで、古典主義詩論に於いて重要視された。

「ルシアン」ギリシャ語で執筆したシリア人風刺作家ルキアノス(Lucianos/英語:Lucian of Samosata 一二〇年乃至一二五年頃~一八〇年以後)。

「シセル」共和政ローマ末期の政治家で文筆家・哲学者のマルクス・トゥッリウス・キケロ(Marcus Tullius Cicero 紀元前一〇六年~紀元前四三年)。

「アリストフアンス」古代ギリシャの喜劇詩人アリストファネス(Aristophanēs 紀元前四四五頃~紀元前三八五頃)。

「フォス」ドイツの詩人・翻訳家ヨハン・ハインリッヒ・フォス(Johann Heinrich Voß 一七五一年~一八二六年)。ウィキの「ヨハン・ハインリッヒ・フォス」によれば、祖父は農奴。『ノイブランデンブルクのギムナジウムに就学の後、一七七二年に学費を家庭教師をして稼ぎながら』、『ゲッティンゲン大学に通い、言語学を学ぶ。「詩人年鑑」り発行に携わり、それで多少の収入を得た。彼の周囲に若い詩人が集まり、それが』「ゲッチンガー・ハイン同盟」となった。「ハイン」(神苑)は、『ギリシアのパルナス山にちなんで名付けられた。ドイツの詩神の憩う場所の意味をもたせたものである』。『ホメーロスの作品を初め』、『ギリシャ・ローマの古典文学をドイツ語に多く翻訳したことで知られる』とある。

「希臘の古文ホメル」「ホメル」は古代ギリシャの紀元前八世紀末のアオイドス(吟遊詩人)であったとされるホメロス(Homerus/英語:Homer)のことであろう。フォスは彼の長編叙事詩「オデュッセイア」(Odyssea:訳一七八一年刊)と「イーリアス」(Ilias:訳一七九三年刊)を始めとして、ギリシャ・ローマの古典文学をドイツ語に多く翻訳したことで知られる。]

 この間に崛起したる詩人こそウーランドなれ。

 此時に當り、歐羅巴各國には一大變動を湧起し來り、政治上由々敷時代とは成りぬ。佛蘭西の天地慘憺たる光景を極め、路易十六世は廢黜せられて死刑に處せられ[やぶちゃん注:「路易」は「ルイ」と読む。Louis XVI(一七五四年~一七九三年)のこと。「廢黜」は「はいちゆつ(はいちゅつ)」で罷免の意。「フランス革命」に於いて「革命広場」(現在の「コンコルド広場」)でギロチンによって斬首刑にされた。]、昔日の榮華一夢に歸し。盟合黨派紛々として亂麻の如く、暴徒四方に起り、物情騷然、人心恟々[やぶちゃん注:「きようきよう」。恐れ慄くさま。]、一日の安きなく、殘忍酷剝[やぶちゃん注:「こくはく」。「刻剥」と同じで、「人を虐(しいた)げ痛めつけること・厳しく惨(むご)いこと」の意であろう。]、英澳[やぶちゃん注:「えいあう(えいおう)」でイギリスと「澳太利亞(オーストリア」。]諸國はしきりに佛國を窺ふの際、天の一角忽ちにして偉人生み、攻むれば取り、戰へば勝ち、連戰連捷、歐州の大半は、悉く彼が兵馬に蹂躪せられぬ。埃及の遠征、議院の解散、施政長、伊太利征討よりして、一躍帝位に昇り、威權赫々、名聲中外に轟き、ナボレヲンを知らざるなきに至れり。獨逸も亦此大怪物の侵略する所と成り、千八百八年バヽリヤ王、ユルテンベルヒ王並に其他の諸侯同盟して、獨逸帝の配下を脫し、ナポレヲンを奉して盟主と爲し、所謂ライン同盟を物しぬ。蓋し是れより先[やぶちゃん注:「さき」。読点が欲しい。]澳帝フランシス一世佛軍に抗する能はざるを知り、自ら屈してナポレヲンの帷幕に來り、和を乞ひ成を行ひ、二萬平方里の地を與えむ[やぶちゃん注:ママ。]ことを約す、ナポレヲン之を許し、バヽリヤ、ユルテンベルヒの二侯に送るに王號を以てしたるもの大に力ありしや論なし。外既に此の如し、獨逸の命運は將に旦夕に迫らむとするに當り、恰も國内騷擾の起るあり、プロイス、オストライヒの鬪爭連年連歲結んで解けず、獨逸國の瓦解は將に其極度に達するに至れり。憂國の士慨世の人は數多起りて此落日の勢を挽囘せんと欲し、愛國の詩人は、祖國歌、飛檄、刀劍詠を歌ひて國民の元氣を振興せんと計れり。ケルネル、アルント、シエンケンドルフ等の諸氏則ち是れ也。蓋し當時獨逸士人の士氣を挽囘し、斃て[やぶちゃん注:「たふれて」。]後止むの決心を誘導し得たる者、是等憂國詩人の賜物なりと謂はざる可からず、既にして佛國衰頽し、威權赫々、旭日を凌ぎたる當年の野心帝も絕海孤島裏一片の煙となりしより、國民の感情は獨逸帝國の合一を望めども、普澳兩國心の覬覦[やぶちゃん注:「きゆ」と読む。身分不相応なことを窺い狙うこと。非望を企てること。]は獨逸帝國の霸權を爭ひ、未だ全く合一をなすに至らず。

 この間に成長したる詩人こそウーランドなれ。

[やぶちゃん注:「バヽリヤ王」ババリア(Bavaria)はドイツ南部のバイエルン(Bayern)地方の英語名。ここは最後のバイエルン選帝侯(在位:一七九九年~一八〇五年)及び初代バイエルン王(在位:一八〇六年~一八二五年)であったマクシミリアンⅠ世(Maximilian I 一七五六年~一八二五年)。

「ユルテンベルヒ王」ドイツ南部のヴュルテンベルク王国(Königreich Württemberg)初代国王(在位:一八〇五年~一八一六年)フリードリヒⅠ世(Friedrich I 一七五四年~一八一六年)。

「ライン同盟」(ドイツ語:Rheinbund/フランス語:Confédération du Rhin)一八〇六年七月にフランス皇帝ナポレオンⅠ世の圧力により、神聖ローマ帝国内の全ドイツ諸侯が名目だけ存続していた帝国を離脱し、フランス帝国と同盟成立したナポレオンを盟主とした国家連合。一八一三年に起きた「ライプツィヒの戦い」でのナポレオンの敗退とともに解体した。

「澳帝フランシス一世」神聖ローマ帝国最後のローマ皇帝(在位:一七九二年~一八〇六年)で最初のオーストリア皇帝としてフランツⅠ世(Franz I 在位一八〇四年~一八三五年)を名乗ったフランツⅡ世(Franz II 一七六八年~一八三五年)。

「アルント」ドイツの愛国詩人で歴史家のエルンスト・アルント(Ernst Moritz Arndt 一七六九年~一八六〇年)。後にフランクフルト国民議会の議員となった。

「シエンケンドルフ」ドイツの愛国詩人マックス・フォン・シェンケンドルフ(Max von Schenkendorf 一七八三年~一八一七年)。ケーニヒスベルク大学に学び、プロシアの参事官となったが、「ナポレオン戦争」に参加するうち、歌曲を創るようになった。決闘によって片腕をなくしていたが、「解放戦争」に参加し、戦後はコブレンツの事務官となった。軍隊と民衆に愛唱された愛国詩「母国語」「自由」などで知られる。]

 

   其 詩

 

 此の如くにしてルードゥイヒ、ウーランドは一方に於ては文學崛起時代に生れ、一方に於ては國運多難の期運に會しぬ。彼の精密なる古詩の硏究は、全く文學崛起時代に一生面[やぶちゃん注:「いち(つ)せいめん」。新しい工夫。新生面。新機軸。]を開きたるものにして、其採究したる中古の言語、文學、小說、傳記は悉く溢れて詩想の上に表はれぬ。蓋し中古の末葉、十七世紀の末葉に至る、上下四百年間、文學極衰の原因は、全く語學を等閑視したるや明かなり。隨て中古の言語、文學、小說、傳記など誰一人硏察して、後世に傳へたるものなく、殊に興味深き言語の如きは全く放擲せられて、瓦礫中に埋沒せられたれば折角の美玉も見る人なしに埋れぬ。ウーランドが畢世の事業として、中古文學硏究に從事したるは洵に悅ぶ可し、換言すれば彼は非常なる國語尊崇家にして、同時に非常なる外國語排斥者なりき。故に彼は一代の責任義務として、寧ろ嗜好餘樂として、全く暗黑中に葬られたる中古の國語硏究に從事しぬ。漢文極盛時代の我國文學が現今に傳らざるもの多きが如く、一時半獨逸、半外國、と成りし獨逸語の、之を遡上りて、檢索する甚だ困難の事業なり。然りと雖文人の一大急務は自國の古文學を發揚するに在り、徒に煙滅埋沒せしむるは抑も亦不忠の行爲と爲さゞるを得ず、獨逸中古の文學は一種の趣味を有するものにして、其末葉こそ奇矯、摸倣の弊に流れたれ、ホーヘンストーフヱン朝の文學(自一千百五十七年至一千二百五十四年)の如き見るべきもの少からず、ニベランゲンリー、ガドランの如き良著作と謂ふ可し、此二作は當時の史詩にして、重に想像を以て成れり。一は勇壯なる戰爭談にして其敍事能く實況を穿ちたり。一は優雅なる史詩にして、戀愛、誠實、貞操、忍耐の分子を以て成立せり。加ふるに當時の稗史は武俠的事實に富み、其傑作パージヴアル及びツリスタン二書の如き兩々其理想文章に於て反するとは云へ、各自特得の長處あるは爭ふ可からず、十四世紀に於ける樂詩亦佳なりとす、要するに中古の文學は勿論進步せざる文學にして多少の短處ありしとはいへ、獨逸文學の一異彩として保存する價値は十分なり。況んや作家の技倆次第如何樣に嶄新に應用せらるゝに於てをや。何の點より論ずるもウーランドの硏究は賞讚せざる可からざる也。

[やぶちゃん注:「ホーヘンストーフヱン朝」ホーエンシュタウフェン(Hohenstaufen)朝は正確には一一三八年から一二〇八年、一二一五年から一二五四年までドイツ国王(皇帝)の地位を占めた中世ドイツの王朝。

「ニベランゲンリー」中高地ドイツ語で書かれた叙事詩「ニーベルンゲンの歌」(Das Nibelungenlied)のこと。英雄で龍殺しのジークフリートの非業の死と、ジークフリートの妻のクリームヒルトの復讐劇を描く。現在、「ニーベルンゲンの歌」は、他の詩篇などとの関わりから一二〇〇年から一二〇五年頃に成立したと考えられているとウィキの「ニーベルンゲンの歌」にあるから、伊良子清白が上記の時期を指定したのは正しい。

「ガドラン」不詳。

「パージヴアル」専ら、中世スペインを舞台とした聖杯伝説を巡るワグナーの楽劇「パルジファル」(Parsifal)で知られるが、これは中世の叙事詩に基づいて、ワグナー自身が再構築して台本をものした。その原型のこと。

「ツリスタン」トリスタン(英語:Tristan)は、中世宮廷詩人たちが広く語り伝えた恋愛物語で騎士トリスタンと主君マルク王妃イゾルデ(Isolde)の悲恋を描く「トリスタンとイゾルデ」や、は中世の騎士道物語「アーサー王物語」などに登場する伝説の人物。ウィキの「トリスタン」によれば、『アーサー王伝説においては「円卓の騎士」の一人となっている』が、『もともと』はトリスタン伝承は全く別の伝説であったものが、後代、『アーサー王物語に』『組み込まれた』ものである。『「トリスタン」という名前がピクト』(Picts:ローマ帝国支配下の頃にカレドニアと呼ばれていたスコットランド地方に居住していたコーカソイド種族)『系であり、またトリスタンの父親の名前もピクト系であることから』、『トリスタンの起源はピクト人の伝承にあるのではないかと思われている。そして、この物語がコーンウォールを経て、ブルターニュへ、そして西洋の各地に移ったと見られる』。『フランス語での名称はトリスタン』、『ドイツ語ではトリスタン』乃至『トリストラント』『とされる』とあるが、同ドイツ語ウィキの標題は「Drystan fab Tallwch」となっている。]

 ウーランドは國家多難、兵馬悾愡の間に成長しゝかば、其軍勢、戰爭に接する每に憂國の熱情は養成せられ、加ふるに彼が天性なる熱心を以てしゝかば、益慷慨の念止み難く、其詩に現はるゝ處多く慷慨の語氣を含みぬ。猶一層彼をして感奮せしめたるは友人ケルネルなりき。ケルネルは前述の如く慷慨悲歌の士にして、刀劍詠、祖國歌などに熱中しゝかばウーランドの同情を動す事多く、自然に感化せられて彼は全然愛國詩人と成りぬ。彼が生國なるユルテンベルヒは仇敵たるナボポレヲンと合一して、獨逸帝國に背きしかば、感憤愈措く能はず、其硏究したる古語を以て巧に國家的觀念を歌ひぬ。其材とする所悉く中古の勇士譚にして、其間彼が天性なる滑稽を含みしかば、時人爭ふて愛讀し、其益する所隨て大なりき。

 惟ふに人逆境に處せされば其言肺腑より出でず。逆境に處るの人初めて眞摯の語あり。國運旦夕に迫り、落旦孤城、極めて逆運に會するの時に非らざれば鬱勃たる國民の聲を聞く能はず當時獨逸の天地最大逆境に望み、十數ケ國の人民、神[やぶちゃん注:「しん」。精神・神経。]昂り氣激し、血燃え情熱し、抑へむと欲するも抑ゆる[やぶちゃん注:ママ。]能はず、鬱勃たる熱情、溢れて鮮血となりぬ。ウーランド一代の才識を、枝の筆に托し、切齒淚を奮て絕叫しぬ。語らむと欲して語る能はず、告げむと欲して告ぐる能はず、鬱然、勃然忽ち破裂して詩と成る所、眞情眞詩、極めて時人を感動せしめ、深く人心の根底に愛國公共の心を植し、南獨逸に帝國合一の氣運を盛ならしめたり。世彼を稱して愛國詩人といふ全く此に存す。

 ウーランドの特色は其詩材を中古の勇士譚に限りたると、語調多く古雅にして質朴なりし事と、趣向は平易にして文字極めて解し易き事と、合せて三つの點に在り。彼が好んで中古の事實に熱中したりし結果は、正しくかゝる勇士讚を推鼓せしめたるに相違なかるべきも、彼の詩材を此に取りしものそもそも亦理由無くむば非らず、蓋中古は獨逸がカルヽ家に統一せられて、豪雄輩出、國運隆盛の時代なり。是れ正しくウーランドがこの山櫻匂ふ如き極盛時代を謠詠して、當時四分五裂せる、獨逸國民の腦裏より、中古統一の獨逸帝國を銘じ國民公共團結の氣風を養成せしめんとしたる所以なり。太平記の軍話は如何に維新志士の心膽に貫徹せられたるよ、八犬傳の忠君愛國主義はいかに幕府末期の民心を沸騰せしめたるよ。吾人はレツシングが比喩的眼孔を知らざるに非らず、クロプストツクが深酷なる同情を知らざるに非らず、ウヰーランドが優雅なる筆致を賞せざるに非らず、ゲーテのフヲスト[やぶちゃん注:「ファウスト」(Faust)。]が絕世の妙作なるを贊せざるに非らず、シルレルがウヰルヘルムテルの愛國談として好談柄なるを知らざるに非らず、しかも猶、十八世紀末葉の文豪として、ゆるすに愛國詩人を以てするもの豈に他あらむや。彼か結構字句の末を解脫して、遠く着眼を精神理想の上に及ぼし、愛國の熱血を漑ぎて[やぶちゃん注:「そそぎて」。]、一字一淚、從て詩と成るもの、遠く他人の企て及ふ[やぶちゃん注:ママ。]所に非らざれば也。古昔蘇東坡評して曰く、古人詩人多し、而れども唯杜子美を以て首と爲す者[やぶちゃん注:「は」。]、豈に其飢寒流落して、而して一日も未だ嘗て國を忘れざるの故に非らずやと。近世の詩家梁川星巖氏、志士の盟主と成り、慷慨の餘、文詩を綴賎して其滿腔の熱血を吐露したるもの、彼等は皆、詩を以て時を傷み、亂[やぶちゃん注:「みだれ」。]を念ふの要具となしたる也。ウーランドの如きは實に獨逸の杜子美、梁巖と謂ふ可し。古聖の世道人心を稗益[やぶちゃん注:「ひえき」。助けや役に立つこと。]するの語、此に於てか全し。一言すればウーランドの詩は氣を以て勝りたるもの也。ウーランド去つて既に三十年、其名聲今に至て衰へず、國民擧てウーランド祭に熱中する者、彼が詩の感化なるを知るに足らむ。

[やぶちゃん注:「梁川星巖」(やながわせいがん 寛政元(一七八九)年~安政五(一八五八)年)は江戸時代後期の漢詩人。名は卯後に孟緯、通称は新十郎、「星巖」は号。美濃国生れ。古賀精里・山本北山に学び、初め、宋詩を学んだ後、唐詩に開眼し、広く元・明・清諸家の精を探り、律・絶を得意とした。妻の紅蘭と、足かけ五年に及んで西遊し、各地の名士と交わり、天保三(一八三二)年、江戸に「玉池吟社」を開いた。後、京で勤王の志士と交わり、「尊王攘夷」を唱えたことで知られる。]

 ウーランドの特色として古語を用ゐたるもの、亦大に理由の存するものあり。飜りて、近世古學の勃興に連れて、加茂、本居諸大家の崛起するあり、其著書、其歌謠が如何に、王政復古を誘導したるを知らば、思ひ半ばに過ぐるものあらむ。ウーランドは奇巧をてらはむが爲に、博識を誇らむが爲に極めて解し難き、古語を混へたるに非ざる也。其古語――其聯感はいみじうめでたき結果を賦與すべきを豫期したれば也、彼の「盾持ちローランド」中に於て一二の例を引けば、Wald をFaun、Die Waffe を Das Waffen、Hell を Degen Rauntt Kwunt、最と最と多なり。格調の何處となく質朴を覺ゆるは、彼が元來の特長にして、到底他人の企て及ふ[やぶちゃん注:ママ。]可からざるの妙處を有す。

[やぶちゃん注:「Wald をFaun」前者は「森」で、後者は「牧神」であるが、こちらのドイツ語「ウィキソース」の原詩では後者は使用していない。どうもリンク先は古語が現代ドイツ語に書き変えられているようだ。

「Die Waffe を Das Waffen」孰れも「武器」の意。伊良子清白の示したものは孰れも定冠詞であるが、こちらの原詩で使用されているのは不定冠詞を附けた「Ein Waffen」(一箇所のみ)である。

「Hell を Degen Rauntt Kwunt」「Hell」は「明るい」の意で、こちらの原詩では「Degen」は一度使われているが、これは「剣」の意だし、「Rauntt」「Kwunt」(孰れも意味不明)に至っては一字も見えない。]

 彼が三特長の外、一個の愛矯として等閑に附す可からざるものあり。そは無邪氣なる詼謔[やぶちゃん注:「諧謔」に同じい。]なり。Siegfried Schwert[やぶちゃん注:「ジークフリートの剣」。]にてジーゲフリードが小童にして太刀を鑄造する、König Karls Meerfahrt[やぶちゃん注:ウーラントの一八一五年の詩篇。「カール王の航海」か。原詩はこちら(ドイツ語「ウィキソース」以下同じ)。]にて諸勇士が陸上に死する時の勇氣にも似ず風波を恐れて進むこと得ざるが如き、可憐なる詼謔、趣味豐富なりと謂ふ可し。「盾持ちローランド」に於ても十分滑稽の分子を含むは諸君の知り給ふ所なるべし。彼の詩が美詞麗文の修飾あるに非ず、幽遠玄妙の哲理あるに非ず、對句比喩の巧妙あるに非らず、然かも讀み去り讀み來りて、念慮轉た[やぶちゃん注:「うたた」。]爽快、手にして放つ能はざるもの、其純朴にして滑稽の趣味に富みたれば也。

 敍情詩のゲーテと並稱せられたることは小傳中に略述しぬ

 Schaers Sonntagslied, Lied eines Armenrs, Des Knaben Berglied, Das Schloß am Meere の如き皆良好の作なり。

[やぶちゃん注:「Schaers Sonntagslied」既出既注の「Schäfers Sonntagslied」。

「Lied eines Armenrs」一八一五年作の「Lied eines Armen」(「貧しい人の歌」)。原詩はこちら

「Des Knaben Berglied」同年の「少年の山の歌」。原詩はこちら。後の「山童歌」もこれであろう。

「Das Schloß am Meere」同年の「海の上の城」。原詩はこちら。]

 Roland Schildtrager の如きは敍事詩中の勇壯なるものなり。艷麗なる者に至りては Die Kapelle, Fruhlingsglaube を推し奔放雄健なるは山童歌に及ぶものなし。

[やぶちゃん注:「Die Kapelle」既出既注。

「Fruhlingsglaube」一八一三年作。「春の信仰」。原詩はこちら。]

 ウーランドは可笑[やぶちゃん注:「をかし」と訓じておく。]の妙味のみを加へしと雖も、亦悲痛慘憺の文字と森嚴崇高の格調を有せざるに非らず。其著 Bertran de Born の如き實に悲痛の極致にして、ベルトランが勃々たる非望心を匿藏し、加ふるに其美妙なる魔力の音樂を以てし、王子王女を誘拐して父王に反せしめ、以て其大望を全ふせむと欲せしかども、事志と違ひ、王子は軍中にべルトランが腕に因りて沒し、殘卒は悉く牢獄につながれ、我が半身の力能く王を破らむと揚言したるベルトランも、今は全身の力其鐵縛を解く能はず、空しく淚をのんで、面縛[やぶちゃん注:「めんばく」。両手を後ろ手にして縛って顔を前に突き出させて晒すこと。後に読点が欲しい。]王の前に立てるの狀。讀者をして思はず扼腕せしむ。に至りては其敍事の森嚴にして崇高なる、ウーランド作中、稀に見る所なり。高樓天に聳へ[やぶちゃん注:ママ。]、玉欄山を壓す、滿園の春花硏を爭ひ、階上の侍臣羅星に似たり。暴王喫然この間に坐すたちまち聽く、洋々奏樂の聲、梁上の塵爲めに舞ひ、花間の黃鶴敢て囀[やぶちゃん注:「てん」と音で読みたい。]せず、一言なく一語なく、寂々寞々唯天上の妙音響くのみ、伶人父子胡弓を取りて一偶に坐す、父歌へば子和し、子歌へは[やぶちゃん注:ママ。]父和す、靈音靜鏦として殿堂に滿ち、寶珠亂墮して玉盤碎く、聽く者情に耐へず、流涕潛然[やぶちゃん注:「さめざめ」と訓ずる場合もあるが、文脈上、それは甚だ脆弱である。「せんぜん」と読んでおく。伏し隠すさま。]、肉血振動、后妃感動措く能はず、乍ち胸間の紅薔薇を取て伶人に按ず、暴王怒號、若伶人を殺す。老樂手大聲呪詛すれば、殿堂折け[やぶちゃん注:「くだけ」と読んでおく。]、花苑荒れ、曠野茫々、一の求むるなし。此詩全篇十六章又傑作と爲す可し。

[やぶちゃん注:「可笑」「をかし」と訓じておく。

「Bertran de Born」は「泉のベルトラン」か。原詩は「Balladen.de」のこちら

「喫然」意味不明。独りどっしりと構えるさまの「屹然」の誤りではないか?

「靜鏦」意味不明。「さうさう」と読んでおく。それは「鏦」は音「ショウ・シュ」では「鉾」・「刺す・突く」・「鐘や鼓を打つ」、或いは音「サウ(ソウ)」では「鏦鏦」「鏦錚(サウサウ)」で「金属が鳴る音の形容」だからである。しかし、こんな熟語はない。伊良子清白は金属製の打楽器の音を「鏦錚」とするところを誤って書いたか、植字工の誤植か。

「潛然」「さめざめ」と訓ずる場合もあるが、文脈上、それは如何にも脆弱で採れない。「せんぜん」と読んでおく。伏し隠すさまである。]

 ウーランド戲曲を草せざるに非らず。Ernst, Herzog von Schwaben, Ludwig der Baier 等は彼の作也。然れども舞臺の配付、臺詞の調合等彼の短處なりき。    (完)

[やぶちゃん注:「Ernst, Herzog von Schwaben」(「エルンスト・シュヴァーベン公」)で一つの題名。一八一五から一八一七年にかけて書かれた作。

「Ludwig der Baier」(「バイエルのルートビヒ」)一八一九年作。幸い、以上の二作については、武田昭氏の論文「ウーラントの二つの戯曲」(PDF)で梗概と解説批評が読める。それによれば、この二篇だけが完成作で、他に二十四もの未完成戯曲があるとある。]

2019/06/29

盾持ちローランド (伊良子暉造(伊良子清白)によるヨハン・ルートビヒ・ウーラントの訳詩)

[やぶちゃん注:以下、底本の「未収録詩篇」の伊良子清白による翻訳詩パート。二篇あるが、孰れもドイツ後期ロマン主義のシュワーベン詩派(Schwbische Dichterkreis)の代表的詩人であるヨハン・ルートビヒ・ウーラント(Johann Ludwig Uhland 一七八七年~一八六二年:生地チュービンゲン大学で法律を修め、パリに遊学、専攻の法学よりも、フランスやドイツの中世文学に傾倒した。弁護士を経て、自由民権の闘士として、州議会やフランクフルト国民議会の代議士となって活躍する一方、詩作と文学の研究をも続け、その学殖を認められて、一時、出身大学でドイツ文学の員外教授となった。ドイツ統一の夢が破れると、ドイツの中世文学や民謡の研究に専念した。その素朴な叙情詩は自然と郷土への親愛感に溢れ、洗練された格調で、人々に共通の心情や体験を詠じた。伝説や史実に拠る叙事的物語詩が特に優れ、「若きジークフリート」「良き戦友」「居酒屋の娘」などは好んで朗読され、歌曲としても愛唱されている。民謡収集・研究の成果である「ドイツ古民謡集」(一八四四年~一八四五年)は詳しい論考・注釈附きの最初の学問的ドイツ民謡集であり、ドイツの伝説や文学史の論著とともに、今なお高く評価されている。ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)のものである。既に先に昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に再録所収された「七騎落」(ウーラントの詩篇による翻案詩)及びウーラントの詩篇に基づく「少女の死を悼みて」「墓場をいでて」(次に出す総標題「野菊」四篇中の最後の二篇をそれぞれ独立させたもの)と、明白にウーラントの訳詩である「森を穿ちて」「ひばり」「狩人のうた」は電子化している。

 本作「盾持ちローランド」は全三十連から成る長詩で、明治二八(一八九五)年の五月・六月・七月発行の『もしほ草紙』(第一号・第二号・第三号)に「上・中・下」に分割して発表したものである。署名は孰れも本名の「伊良子暉造」である。当時、清白は未だ満十七歳(十月四日生まれ)、この四月に京都医学校に入学したばかりであった。『もしほ草紙』第三号には訳詩完結に合わせてかなりの量の原作者についての評論「ウーラント」も載せており、これは本篇を味読する上で有意に価値があると思われるので、次回、全文を電子化する。

本作の原題は最後に伊良子清白が注記している通り、原題は「Roland Schildträger」(カタカナ音写「ローラント・シルト-トレーガァ」で「盾持ちのローラント」。一八一五年刊)で原詩はドイツ語版ウィキソースのこちらにある。中世フランスの伝説の名騎士ローラン(フランス語:Roland(ローラン)/イタリア語:Orlando(オルランド)):中世ルネサンス期の文学作品に於いて「シャルルマーニュの聖騎士((Paladin:パラディン:高位の騎士称号)」(Charlemagne はフランク王国国王・西ローマ皇帝のカール大帝(七四二年~八一四年)のフランスでの呼称)の筆頭として登場する人物で、シャルルマーニュの甥に当たるとされる。イタリア・フランスの武勲詩の中でもその勇猛果敢な活躍が描かれ、十二世紀始めに成立した「ローランの歌」でとみに知られる。詳しくはウィキの「ローラン(シャルルマーニュ伝説)」「ローランの歌」を参照されたい)の少年時代の武勇伝を扱った非常な長篇叙事詩である。世界史に冥い私には、とてものことに注を附けきれないので、表記上の不審箇所以外は略すこととした。悪しからず。]

 

 

盾持ちローランド

 

 

   其一

 

御階の柳うち靡き、

春面白さアーヘンの、

宮居に來鳴く鶯は、

君が千年や祝ふらむ。

菫の花をむしろにて、

雲雀の聲を歌として、

ゆたけき御代の酒うたげ、

御門カルヽは國々の、

たけき武夫召し集へ、

たのしく遊び給ひけり。

 

   其二

 

御心たけき大君の、

集へる人にの給く、

「白金黃金あや錦、

千々の寶も何かせむ。

森陰くらきアルデネル、

光まばゆき天津日の、

てれるが如く照り渡る、

くしく妙なる玉こそは、

世に類なきたからなれ、

その寶こそその森の、

深き巖間にひそみたる、

巨人の手には隱れたれ。

あはれ雄々しき武夫は、

かくも妙なる寶玉を、

尋ねに行くは誰やらむ。」

 

   其三

 

せ丈の高きバイヱルン、

走るに奔きハイモンや、

弓矢に長けしトルビン侯。

くち鬚しげきガリン伯、

相撲につよきリカルドや、

槍に名を得しミロンなど、

いくさのなきを嘆きたる、

つよく雄々しき武夫の、

鎧をかたに駒に鞍、

巨人の方に向はむと、

ねがはぬ者はなかりけり。


   其四

ミロンの子なるローランド、

二葉の松の霜ゆきも、

知らぬ年にてありながら、

父の袂をひきとめて、

言葉をゝしくいひけるは、

「名譽(ほまれ)も玉も積みそえて、

錦着飾る父上の、

今霄の夢ぞ思はるゝ。

あはれ父上願くは、

おのがたのみを容れ給へ、

年幼くてなかなかに、

森の巨人にむかはむは、

かよわき力のおよばじと、

思ひ給へど父上は、

今日の門出の初陣に、

いとめざましく戰はむ、

槍と盾とをたのみにて、

力を添えむ父上に。」

 

   其五

 

あがきそろえて武夫の、

六人はやがて門出しぬ。

彌生の空のうらゝかに、

吹き來る風も長閑にて、

霞の中にほのぼのと、

一きはしるきアルデネル、

森のすがたも見ゆるなり。

駒も早めて武夫の、

かたみに先をきそひつゝ、

越方遠くなるまゝに、

木立も近く見え初めて、

苔の細道はるばると、

旅の行衞ををしへけり。

嵐をたえて姬小松、

かはらぬ綠行末の、

千世をしめたるローランド、

盾と槍とを右左、

こをどりしてぞ勇みける。

 

   其六

 

朝日の上るあしたにも、

夕月てらすゆふべにも、

たゆまずうまず武夫は、

巖間の寶尋ねけり。

蓬茂れる尾上にも、

落葉かさなる谷間にも、

巖のかげも草叢も、

人のすがたはなかりけり。

春の長日をかりくらし、

一夜の友は草枕、

結びもあへず明けて行く、

曉衣くりかへし、

尋ねあぐみて疲れけむ、

さすがに剛きミロンさへ、

日影をさふる柏樹の、

木の下かげにねぶりけり。

 

   其七

 

折しもあれや遠近の、

木の葉の數も見ゆるまで、

光りまばゆく照り渡り、

木の間を走る小男鹿の、

うは毛のつゆも見ゆるなり。

御空の雲はさながらに、

錦を織りしごとくにて、

谷の小川にうつりては、

黃金の浪をくだくなり。

奇しき光はいやましに、

光まばゆくなりにけり。

心雄々しきローランド、

さとき眼のいち早く、

山のそば路下りくる、

怪しきかげを見とめけり。

 

   其八

 

幼心にローランド、

心靜かに思ふやう、

「あはれ奇しき光かな。

この光こそやがてかの、

世に類なき寶なれ。

さまし奉らんか父上を、

いかにかせまし父上を、

いなわが父はねふるとも、

刀も盾もさめてあり。

駒もねぶらでつなぎたり。

槍もち添えてわれ行かむ。

われも眠りて醒めたれば。」

 

   其九

 

心雄々しく定めたる、

年いとけなき武夫は、

父の燒太刀腰に帶き、

槍を左に盾を右手、

ひたすら父をさまさじと、

駒のあがきもゆるやかに、

森の木の間をあゆませぬ。

手綱をとりてとめくれば、

松の木立の疎らにて、

落つる雫もおのづから、

黃金を散らすごとくなり。

谷の小川の岨みちを、

つたひつたひて行く程に、

光はいよゝ近きて、

巨人の姿あらはれぬ。

大音聲にローランド、

名のりをあげて呼ひけり。

[やぶちゃん注:「近きて」「ちがづきて」であろう。]

 

   其十

 

いはの峽間につきしとき、

巨人はひくき聲音にて、

いと冷やかに笑ひけり。

笑ひながらもいへるよう、

「峯の砂路にこぼれたる、

藤の木の實のたねよりも、

なほさゝやけき童べ子の、

なにをせむとてなれはかく、

深山路遠くきたるらむ。

なれの騎りたる駒を見よ、

木の間にすくふさゝがにの、

とわたるさまにことならず。

なれの帶びたる太刀を見よ、

秋野の末のかまきりか、

斧をふるふにさも似たり。

笹にもたぐふ其やりと、

紙よりうすきその盾と、

何をせんとて汝はかく、

深山路深く來るらむ、

あかるき中に歸り行け、

道しるべせむなれの爲め。」

 

   其十一

 

「深山路ふかく尋ね入る、

年いとけなきローランド、

いづこをさして歸るべき。

みちしるべこそなかなかに、

汝にこそせめ汝の爲め、

笑ふをやめていざや來よ。

父の傳へしこの槍の、

斬味見せむ今日こそは、

いざやよみ路の道しるべ、

太刀は硏ぎたり燒太刀は、

駒は勇めりあら駒は、

あら面白の今日の日や、

來れや來れ疾(と)く早く。」

 

   其十二

 

巨人の姿見てあれば、

怒りの眼血にあへて、

逆立つ髮のふり亂れ、

こぶしかためし其樣は、

鬼の長(をさ)にもにたりけり。

折しも空のかきくれて、

あやめもわかぬ木下闇、

折々まじる稻妻の、

はためくさまも物凄し。

星かと見ゆる寶玉の、

きらめく方をめあてにて、

槍をすごきてなげ付けぬ。

なげつと思ふひまもなく、

あやしの盾はさかしまに、

飛び來るやりをはねつけぬ。

 

   其十三

 

さとく雄々しきローランド、

手早く太刀をぬき放ち、

盾とたからをこゝろにて、

巨人のすきをうかがびぬ。

さらぬもくらき木下蔭。

嵐の音もそはりきて、

春ともわかぬ物すごさ。

聲をたよりにかけ合す、

太刀の稻妻ひらめきて、

またゝくひまもあらばこそ、

あなやとさけぶ一擊に、

血汐の瀧の沸きあがり、

いはほの上におちつらむ、

あやしき物のびゞきして、

巨人のうではたゝれけり。

 

   其十四

 

たゝれしうでと諸共に、

盾も寶もちりうせて、

怪しく奇(く)しき光さへ、

いつしか分かずなりにけり。

嵐のおとの靜まりて、

村雲遠く立ち別れ、

うらゝに晴るゝ禰生空、

なくなる鳥の聲そえて、

谷の小川の音淸し。

たえなる盾と寶玉は、

巖の上にすてられぬ。

あやしき迄にいたみけむ、

流るゝ血汐にたえかねて、

霜野にすだく蟲の聲、

巨人のいきはたえにけり。

 

   其十五

 

せわしきいきの絕間なく、

年いとけなき武夫は、

うす紅いろの面ばせに、

えならぬ笑みをうかべつゝ、

いくたびとなく行きかへり、

こおどりしては謠ひつゝ、

さては刀をふりかざし、

巨人の髮を手握りて、

右にひだりに前うしろ、

硏ぎたるまゝにこゝかしこ、

太刀にまかせて斬りつけぬ。

血汐のながれみなぎりて、

谷の小川をそめてけり。

[やぶちゃん注:「こおどり」はママ。]

 

   其十六

 

あやしき盾にかくれたる、

妙なる玉をしつかにも、

右のかくしにかくし入れ、

出しては入れつまた出しつ、

まばゆき光をよろこびぬ。

小川の岸を折れ下り、

裳裾の血汐うちそゝぎ、

かわきしのどをうるほしつ、

心もきよくなりぬれば、

太刀をさや帶き盾をもち、

ゆん手に槍をかいこみて、

駒のあがきもゆるやかに、

森の木の間をかへりきぬ。

柏の木蔭すゞしくて、

うまいの夢のさめやらず、

ミロンはなほも眠りけり。

さすがにたけき童子も、

いとゞいぐさにつかれけむ、

父のかたへを小床にて、

やがて夢路をたどりけり。

[やぶちゃん注:「しつかにも」はママ。「しっかりと」の意であろう。]

 

   其十七

 

柏の廣葉のうちそよぎ、

夕風淸く吹き初めて、

ほのめきいづる三日月の、

細きひかりもあはれなり。

おつる雫に夢さめて、

草の小床をおきはなれ、

森かげ遠くながむれば、

夕といへる手弱女は、

御空靜かに下りつゝ、

薄墨いろの衣手は、

こなたかなたに廣ごりて、

行くべき方も見えわかず、

いぬるわが子をよびさまし、

「はや日も暮れぬ月くらし、

いは間のたから尋ねむは、

今宵をおきていつかある。」

ミロンはをゝしくよばひけり。

[やぶちゃん注:「夕といへる手弱女は」は「ゆふべと言へる手弱女(たをやめ)」で、「『夕(ゆう)べ』という『手弱女(たおやめ)』」、夜を女性に擬人化したもの。]

 

   其十八

 

さゞめく川をたよりにて、

くらき木の間のつゞら折、

右にひだりに行き曲り、

しげる蓬をふみ分て、

二人は遠くたどり來ぬ。

流るゝ星の影見えて、

木立まれなる細みちを、

つたひつたひて來る程に、

月のひかりは暗けれど、

さやかにそれと見とめけり、

あけにそみたる岩が根に、

巨人のからはたふれたり。

 

   其十九

 

年いとけなきローランド、

あたりの樣をながめつゝ、

いともあやしく思ひけり。

巨人の左手は影もなく、

あやしき盾も散りうせて、

よろひも太刀もなかりけり、

針の黑髮たにぎりて、

うちにうちたるかうべさへ、

ありし姿のあともなく、

形見に殘るものとては、

あけにそみたるからなれば。

 

   其二十

 

「深山のおくの森かげに、

杣やま人の切りすてし、

其切株のひろさにて、

幹のすがたぞ思はるゝ。

いふにもまさるこのからは、

森の巨人の名殘なり。

あはれしばしのうたゝ寐に、

名譽も玉もうしなひぬ。

末のうき世の末かけて、

悲しきことのきはみなり。」

ミロンは空をうちあふぎ、

泪に袖をしぼりけり。

 

   其二十一

 

百鳥千鳥囀へつりて、

霞長閑けきアーヘンの、

春の宮居のうつくしさ、

玉の高殿まばゆくて、

天津都を見るばかり。

御門カルヽは白金の、

欄干ちかくたゞずみて、

彼方を遠く眺めつゝ、

「きのふも今日も歸らぬは、

いかにあへなく成りつらむ。

世に武夫のいさましく、

猛夫の中のかの六人、

いづこをさしてたどるらむ。

あなや彼處にきらめくは、

走るに奔きハイモンの、

槍の穗先にあらざるか。」

[やぶちゃん注:「囀へつりて」はママ。]

 

   其二十二

 

しぼれし面わ何となく、

うきをふくめるさま見えて、

駒の手綱も力なく、

御門のまゑを伏し拜み、

血にまみれたる生かうべ、

槍の穗先に貫きぬ。

「たどるも暗き森中に、

眩ゆき玉はあさり得で、

よしなきものゝ生かうべ、

捧くることの耻かしや、

さはさりながらこれもまた、

森の巨人の名殘なり。

これに代えてもいかでわが、

重きつみをもゆるしませ。」

[やぶちゃん注:「まゑ」はママ。「生かうべ」は「なまかうべ」で「生首」のことであろう。「され(しやれ)かうべ」では骨になってしまうから「血にまみれたる」に齟齬する。]

 

   其二十三

 

たけにもあまる手束弓、

張りしまゝにて荒駒の、

あがきをいたく疾めつゝ。

弓矢をほこるトルビンの、

血汐したゝる黑金の、

巨人の右手をさし出し、

先きにはめたる手袋を、

笑ひながらに外づしつゝ。

「しばし御門も見給へよ、

いみじき形見にはべらずや、

世に二つなきこの重荷、

駒のつかれも思はずて、

こゝまで運び候ひぬ。」

 

   其二十四

 

雲をしのぐとたゞゆべき、

高き背丈にくらべては、

類まれなるバイヱルン、

巨人の棒をうちふりて。

御門の方をなかめつゝ、

「土產を見給へこの土產を、

きらめきわたるこの土產は、

おのが丈にもくらぶべき、

長くするどき黑金よ、

寶は得ずていたづらに、

汗とつかれをになひ來ぬ。

うま酒一つたまはれよ、

それこそおのが寶なれ。」

[やぶちゃん注:「たゞゆ」はママ。「讚(稱・頌)(たた)ゆ」(但し、だったら「たたふ」が正しい)であろう。]

 

   其二十五

 

流石に駒もつかれけむ。

徒步のまゝにてリカルドは、

轡をとりてあゆみつゝ、

相撲につよき右の手に、

巨人の太刀を携えつ、

かぶとを腰に結び付け、

御門の方にさしよりぬ。

「森の中にて尋ねなば、

なほ物の具は多からむ。

探らまほしく思ひしも、

いとゞ重荷にかなはずて、

兜と太刀をあさりきぬ。」

[やぶちゃん注:「携え」はママ。]

 

   其二十六

 

くち鬚多きガリン伯、

うれしき事やあるならむ。

遠き方より聲あげて、

巨人の盾をうちふりぬ。

「ガリンは盾をさしあげぬ。

やがて寶もあるならむ。

うれしき聲にとめ來るは、

はやもほまれも歌ふらむ。」

御門カルヽはのたまひぬ。

「あはれ話をきゝ給へ、

岩のそばにてゆくりなく、

おのれは盾を拾ひ來ぬ。

玉はいづこと尋ねしも、

すでに剝がれて候ひき。」

ガリンはやがて答へけり。

 

   其二十七

 

いと勇ましく立出し、

門出の夢はいつしかに、

さめてはかなきアルデネル、

森の木陰のうたゝねに、

名譽も玉も失ひて、

鎧の袖もいとゞ猶、

包みかねたるうき思ひ、

ミロンは首をかたむけつ、

物思はしげなる面もちに、

くもりがちなる眼さしは、

かなしき數をこむるらむ。

父にはかへてローランド、

いと笑ましげにほゝえみつ、

鋭き槍はひだり手に、

盾は右手にたづさえぬ。

 

   其二十八

 

宮居に近く成りしとき、

御門カルヽはうれしげに、

ミロンの方を見給ひぬ。

はぢらふ父は後にして、

心をゝしきローランド、

盾にえりたるくさぐさの、

黃金の飾り剝き去りつ、

かくしの中にひそみたる、

寶をそれに代へければ、

妙なる玉はたちまちに、

朝日の光放ちけり。

 

   其二十九

 

ミロンの盾にさやかなる、

玉のひかりをながめつゝ、

御門カルヽはうれしげに、

手をさしあげてのたまはく、

「あはれミロンあはれミロン、

ミロンのためにことほがむ、

槍に長けたるミロンこそ、

森の巨人とたゝかひて、

血汐の果のいさをしに、

寶を得たる猛夫なれ。

あはれミロンあはれミロン、

ミロンのためにことほがむ。

今日のいさをの名譽には、

なれこそやがてかしらなれ。」

 

   其三十

 

まばゆき玉の面影に、

ミロンはいたくあやしみぬ。

「つばらに語れローランド、

いづこの誰にその玉を、

なにの緣に貰ひたる。

類まれなるその玉を、

いかなる人の携えし。」

「父君父君ゆるしませ、

今は語らむ神かけて、

君がうまいのそのひまに、

われは巨人をたふしたり。」

[やぶちゃん注:「携え」はママ。

 以下、伊良子清白の注は底本では全体が本文で一字下げで、ポイントも小さい。]

本詩は獨乙詩人ヨハン、ルードゥイッヒ、ウーランドの作也。原詩 Roland Schildtrager といふ。氏最も滑稽に長じ、其詠ずるところ、多くは中古の勇士譚にあり。本詩も亦その一なり。予今や之を譯す、意を一篇の趣向にとりて、敢へて字句章段の上に及ぼさず。蓋し直譯的文字却て原詩の眞面目を失すれば也。譯詩多く拙劣の文字、一意の條をたまはば幸甚。

2019/06/28

題詩 / (毛布小林)に寄す / (毛布小林)を送る   伊良子清白

 

[やぶちゃん注:以下の三篇は昭和一九(一九四四)年六月五日刊の小林政治著「毛布五十年」という私家版の書籍に載る伊良子清白名義の詩篇である。「題詩」の「躍てゐた」はママ。しかし……かの珠玉の詩集「孔雀船」の詩人の最後の詩篇がこの戦意高揚詩染みたものであったというのは……如何にも淋しい…………

 小林政治(明治一〇(一八七七)年~昭和三一(一九五六)年)ペン・ネームを天眠と称した元小説家で、伊良子清白と同じ『青年文』『文庫』『明星』『よしあし草』といった文芸誌の常連であったが、早くに創作活動から離れ、毛布商人として成功した。与謝野鉄幹とは終生の盟友であったという。日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」によれば、十五歳で大阪へ奉公に出、二十二歳で毛布問屋を開業後、「大阪変圧器」を設立するなど、実業家として活動、その傍ら「小林天眠」のペンネームで小説を書き、明治二九(一八九六)年に『少年文集』に小説「難破船」を発表、翌年には「浪華青年文学会」を結成して『よしあし草』創刊に協力。『よしあし草』『関西文学』『新小説』『万朝報』などに小説を書いた。また与謝野寛・晶子夫妻の後援者(パトロン)として、晶子に「源氏物語」の全釈をさせるなどし、文人らの物質的援助をしたとあった。

 この年、伊良子清白は満六十七。なお、本篇を以って底本の創作詩篇のパートは終わっている。則ち、生前に公表された詩篇としては、これが現在知られる最後のものとなる。

 伊良子清白は依然として鳥羽小浜で開業医を続けていたが、この翌昭和二十年七月、三重県度会郡七保(ななほ)村大字打見(うちみ)(現在の三重県度会郡大紀町(たいきちょう)打見(グーグル・マップ・データ))へ疎開し、村医として七保村診療所を営んだ。敗戦後の昭和二一(一九四六)年一月十日、七保櫃井原(ひついばら)に於いて、急患の往診途上、脳溢血を起こして倒れ、逝去した。村民はこぞってその死を悼み、十二日、村葬により、「諦翁観山居士」として打見の墓所に葬られた(以上は底本全集年譜に拠った)。満六十八歳と三ヶ月の生涯であった。

 

 

題 詩

 

三代功業の千生瓢簞が

輝くあなたの老後を飾る

あの沸きかへるやうな心齋橋筋の人波に

小林商店の看板は躍てゐた

 

船場の町の發祥地の毛埃は

走り步きの前垂の紐にたまり

たゝかふ上方商人の意欲が

大阪經濟界の側面史を描いた

 

大東亞の島陸山谷都市港灣

「毛布五十年」の展望は賑はふ

「小林產業株式合社」の發足を

次の縹緲の世界が謳ふであらう

 

 

(毛布小林)に寄す

 

   

飛行機獻(さゝげ)る

百機、千機、萬機

一億(おく)國民の赤誠(せきせい)が

今日(けふ)の今日(けふ)から

米英擊滅(げきめつ)の焰(ほのほ)となり

大東亞建設(けんせつ)の底力(そこぢから)となる

新(あたら)しい血

新(あたら)しい肉

美(うつく)しい獻(さゝ)げもの

淸(きよ)い飛行機

光る愛國飛行機を

限りなくたてまつる

   

飛行機獻(さゝげ)る

百機、千機、萬機

陛下の赤子(せきし)が

陛下(へいか)にたてまつる獻げもの

こんなうれしいことが

 世界の何處(どこ)にあるか

こんな有難(ありがた)いことが世界(せかい)の

 どこの國にあるか

百姓、商人、工員、

勤め人、家妻(いへづま)

老(お)いも若きも男も女も

手に手に

まごころの獻(さゝ)げ物いたす

日本は强い

   

飛行機獻る

わが友小林政治君は

かしこみて「毛布小林」を

 たてまつる

光る愛國飛行機を獻る

今日(けふ)の今日(けふ)から

皇軍(みいくさ)のため、國のため

「毛布小林」は强い

輝(かゞや)く翼(つばさ)

轟(とゞろ)く爆音(ばくおん)

新(あたら)しい雲

新しい風(かぜ)

陛下(へいか)の飛行機「毛布小林」は征(ゆ)く

貴い姿

たのもしい形容(かたち)

全身感激(かんげき)に滿(み)ちて

意氣に燃(も)えて

「毛布小林」は征(ゆ)く

 

 

(毛布小林)を送る


   

ほざく月產一萬機

何んの蚊蜻蛉輪破れ笠

手まひまいらぬ荒料理

今に日本の底力

思ひしらせる時が來る

   

勇士は睨む空の雲

前にうしろに蹴散らかす

凄い一機が體當り

送れ飛行機前線に

一億決死の意氣込(いきごみ)で

   

不二の朝雲今朝(けさ)晴れて

光る愛國新鋭機

「毛布小林」魁けて

爆音高し轟々と

征(ゆ)くよ戰線まつしぐら

   

遠いヒマラヤ印度洋

ガダルカナルやアッツ島

恨を晴らす太平洋

東亞の曙來(く)るまでは

「毛布小林」たのんだぞ

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(47) 「光月の輪」(2) / 山島民譚集~完遂

 

《訓読》

 【竈】更ニ今一タビ馬蹄ト竃トノ因緣ヲ說クべシ。馬ノ前蹄ノ上ニ兩空處アリ名ヅケテ竃門(ソウモン)ト謂フ。凡ソ善ク走ルノ馬、前蹄ノ痕地ニ印スルトキニ、後蹄ノ痕反リテ其先ニ在リ。故ニ軍中ニ良馬ヲ稱シテ跨竈トハ云フナリ〔一話一言所引獅山掌錄〕。兩空ト云フコト自分ニハ解セザレドモ、馬ノ足跡ノ三邊著クシテ中空洞ナルハ誠ニ竃ノ形トヨク似タリ。之ニ由リテ猶想像スレバ、馬醫等ガ馬ノ蹄ヲ磨ギシ岩ヲ靈地トシテ尊崇スルヤ、其形狀ノ如何ニモ家々ノ竃ト似タルヨリ、竃ノ神ト馬ノ神トハ同一又ハ深キ關係アリト信ズルニ至リシニハ非ザルカ。若シ然リトスレバ、後年新ニ馬ノ爲ノ手術場ヲ選定スルニ、亦力メテ地形ノ竃ニ似タル處ヲ求メ、或ハ廣敞ノ地ナラバ圓ク之ヲ劃シテ其三方ヲ圍ヒ、恐クハ南ノ一方ヨリ馬ヲ曳キ入ルヽコトヽナセシナラン。【ソウゼン場】越後南蒲原地方ニテハ馬ノ蹄ヲ切ル爲ニハ特定ノ用地アリ、之ヲ名ヅケテ「ソウゼン場」ト云フ〔外山且正君談〕。【勝善神】「ソウゼン」ハ即チ前章ニ述べタル蒼前神又ハ勝善神ニテ、今モ猿屋ノ徒ガ祀ル神ナリ。關東地方ノ村々ニモ、山野ノ片端ニ此種ノ一地區ヲ構フルモノ多ケレドモ、普通ニ之ヲ何ト呼ブカヲ知ラズ。信州小田井ノ光月ノ輪ハ、中仙道ノ通衢ニ近クシテ夙ニ其奇ヲ說ク者多シ。所傳既ニ失ハルト雖亦一箇ノ蒼前場ナルニ似タリ。今ノ北佐久郡御代田村ト岩村田町ノ境ハ以前ハ原野ナリ。往來ヨリ些シ脇ニ、一町バカリ眞丸ニ幅二尺ホドノ道輪ノ如クニ附キタリ。大勢ノ足ヲ以テ蹈ミ附ケタルガ如シ。輪ノ内外ハ夏草ナドノビヤカニ生ヒ茂リタルニ、道トオボシキ處ノミ草悉ク偃シタリ。之ヲ光月輪ト稱ス。俗談ニ所ノ氏神夜每ニ馬ヲ責メタマフ處ナリ、折トシテ轡ノ音ナド聞ユト云ヘリ〔本朝俗諺志一〕。此說ハ諸書若干ノ異同アリ。或ハ輪ノ中ノ草夏ニ入レバ枯ルト云ヒ〔和訓栞〕、或ハ草全ク生ゼズ雪モ亦此中ニハ積ラズ、【權現】木幡山ノ權現夜ハ出デテ此地ニ遊ビタマフト云ヒ〔和漢三才圖會〕、或ハ雪ノトキ輪ノ處ノミ低ク見ユト云ヒ、其附近別ニ一輪アリテ馬ヲ其中ニ乘リ入ルレバ必ズ死ストテ人之ヲ怖シガルト稱ス〔百卷本鹽尻二十五〕。輪ノ大サ及ビ數ニ就キテモ區區ノ說アリ、而モ今ハ既ニ跡ヲ留メザルガ如キナリ。【カウゲ】光月ノ輪ノ「クワウゲツ」ハ芝原ヲ「カヾ」又ハ「カウゲ」ト呼ブ古語ヨリ出デ、之ニ月ノ輪ヲ思ヒ寄セシモノナルべキモ、何ガ故ニカヽル地貌ヲ呈スルニ至リシカハ之ヲ解說スル能ハズ。近年東京ノ近郊ニ數多起リタル競馬場、賭事ノ禁令ヲ勵行スルニ及ビテバタバタト廢業シ、其址多クハ大正ノ新月ノ輪トナリタル例アレド、山上ノ農鳥又ハ農牛ヲ見テモ明ラカナル如ク、前代傳フル所ノ者ハ皆天然ノ一現象ナルべシ。甲州南都留郡盛里村ト北都留郡大原村トノ境ノ山ニ、賴朝公ノ大根畝(ウネ)ト呼ブ處アリ。頂ヨリ麓マデ數峯起伏シテ畝ノ如シ。其間ニ草ノ圓ク枯ルヽ所數所アリ。徑四五尺遠望スレバ環ノ如シ。【螺】其下ニ螺ノ潛メル爲此ノ如シト云フ。巖ノ上ニ天狗松アリ、之ヲ伐レバ災アリ〔甲斐國志三十六〕。同國北巨摩郡多麻村小倉ノ上ニ赭山アリ。黑キ岩斑ヲ爲スニヨリ名ヅケテ斑山(マダラヤマ)ト云フ。地中ニ螺ヲ棲マシムルガ故ニ草木ヲ生ゼズト傳ヘタリ〔同上二十九〕。同郡淸哲村靑木組ノ太日向山ニハ、山ノ草ノ圓形ニシテ黑ク見ユル處二所アリ。【山癬】之ヲ山癬(ヤマタムシ)ト云フ。圓形ノ大キサハ四十步バカリ、近ヅケバ見エズ、遠ク望メバ瞭然タリト云フ〔同上三十〕。今モアリヤ否ヤヲ知ラズ。「ホラ」ト云フ動物ガ地中ニ住ムト云フハ甚ダ當ニナラヌ話ナリ。法螺ト云フハモト樂器ナレド、之ヲ製スべキ貝ヲモ亦「ホラ」ト呼ビ、山崩レヲ洞拔ケナドヽ云フヨリ、ソレヲ此貝ノ仕業ト思フニ至リシナリ。此ノ如キ思想ハ疑モ無ク蟄蟲ヨリ起リシナランガ、大鯰白田螺ノ類ノ元來水底ニ在ルべキ物、地中ニ入リテ住ムト云ヒシ例少ナカラズ。備前赤磐郡周匝(スサイ)村ノ山ニハ、山腹ニ之ニ似タル圓形ノ地アリテ、一町或ハ二町ノ間夏ニ入レバ草枯ル。【蛇食】土人之ヲ蛇食(ジヤバミ)ト名ヅケ其地蛇毒アリテ此ノ如シト云ヘリ〔結毦錄[やぶちゃん注:底本では「結耗錄」であるが、これは誤字或いは誤植で、「結毦錄」(「けつじろく」と読む)が正しいので、特異的に訂した。]〕。土佐ニ於テ土佐郡秦村大字秦泉寺ノ中ニ、一所圓クシテ草ノ生ゼザル所アリ。【地下ノ寶】土人之ヲ解說シテ凡ソ土中ニ金銀アレバ草生ゼザルナリト云ヘリ〔土佐海續編〕。此等ノ土地ハ古今共ニ必ズシモ馬ノ祭場トシテハ用ヰラレズ。唯其外觀ノ如何ニモ顯著ナルガ故ニ、苟クモ駒形信仰ノ行ハルヽ地方ニ於テハ、終ニ之ヲ輕々ニ看過スル能ハザリシナルべシ。加賀ノ白山ノ上ニハ花畠平ト云フ地アリ。【サヘノカハラ】其一部ヲ「サヘノカハラ」ト云ヒ、其北ヲ角力場ト云フ。八九尺ノ間圓形ニシテ自然ニ角力場ヲ爲セリ〔白山遊覽圖記二〕。出羽ノ莊内ノ金峯山ノ峯續キニ鎧峯アリテ、山中ニ天狗ノ相撲取場ト云フ禿アリ。常ニ綺麗ニシテ草木ヲ生ゼズ〔三郡雜記下〕。陸中ノ大迫(オハザマ)ノ山ニ於テ龍ガ馬場ト云ヒシハ恐クハ之ト似タル處ナルべシ。【鏡】薩摩薩摩郡東水引村大字五代ノ鏡野ト云フハ、神代ニ天孫八咫鏡[やぶちゃん注:ここも底本は「八呎鏡」であるが、流石に誤植と断じて特異的に訂した。]ヲ齋キ祀リタマフ處ト稱ス。此原野ノ内ニ周圍一町バカリ、正圓ニシテ草ノ色他處ニ異ナル一區アリ。四季共ニ茂リテ霜雪ニモ枯レズ。又年々ノ例トシテ此野ヲ燒クニ、圓キ處ノミハ燒ケズト云ヒ、邑人常ニ之ヲ尊ビテ牛馬ヲ放チ繫グコト無シ〔三國名勝圖會〕。【池ケ原】美作勝田郡高取村大字池ケ原ノ月ノ輪ト云フ地モ、平地ニシテ狀況ヨク小田井ノ光月輪ト似タリ。往古ヨリ不淨アレバ牛馬損ズト言傳ヘテ、牛馬ニ草モ飼ハズ、永荒(エイアレ)減免ノ取扱ヒヲ受クル荒地ナリ〔東作誌〕。往來筋ニ接近シテ人ヨク之ヲ知ル。【月】時トシテ月影澤一面ニ見ユルコトアリト云ヘバ低濕ノ地ナルガ如ク、村ノ名ヲ池ケ原ト呼ブニ由ツテ案ズレバ、以前ノ池ノ漸ク水アセタルモノカ。東京ノ西郊ナドニハ、所謂井ノ頭ノ泉涸レテ、羅馬ノ劇場ノ如キ形ヲシテ殘レルモノ處々ニ在リ。信濃美作ノ月ノ輪モ亦此類ナリトスレバ、草ノ生長、霜雪ノ消エ積ル有樣、自然ニ他ト異ナルモノアリト云フモ怪シムニ足ラザルノミナラズ、之ヨリ推及ボシテ更ニ第二ノ奇跡、【ダイダラボウシ】「ダイダラボウシ」ノ足跡ヲモ解釋シ得ルノ見込ミアルナリ。

 

《訓読》

 【竈(かまど)】更に、今一たび、馬蹄と竃との因緣を說くべし。馬の前蹄の上に兩空處あり、名づけて竃門(そうもん)と謂ふ。凡そ善く走るの馬、前蹄の痕、地に印するときに、後蹄の痕、反(そ)りて其の先に在り。故に軍中に良馬を稱して「跨竈(こそう)」とは云ふなり〔「一話一言」所引「獅山掌錄」〕。兩空と云ふこと、自分には解せざれども、馬の足跡の三邊、著(しる)くして[やぶちゃん注:非常にくっきりとしていて、しかも。]、中、空洞なるは、誠に竃の形と、よく似たり。之れに由りて、猶ほ想像すれば、馬醫等が馬の蹄を磨(と)ぎし岩を靈地として尊崇するや、其の形狀の、如何にも家々の竃と似たるより、「竃の神」と「馬の神」とは同一、又は、深き關係ありと信ずるに至りしには非ざるか。若し然りとすれば、後年、新たに馬ノ爲めの手術場を選定するに、亦、力(つと)めて、地形の竃に似たる處を求め、或いは廣敞(くわうしやう)[やぶちゃん注:現代仮名遣「こうしょう」で「高くて広々としているさま」の意。]の地ならば、圓(まろ)く之れを劃(かく)して、其の三方を圍(かこ)ひ、恐らくは南の一方より馬を曳き入るゝことゝなせしならん。【そうぜん場】越後南蒲原地方にては、馬の蹄を切る爲には特定の用地、あり。之れを名づけて「そうぜん場」と云ふ〔外山且正君談〕。【勝善神】「そうぜん」は、即ち、前章に述べたる「蒼前神(さうぜんしん)」又は「勝善神(しやうぜんしん)」にて、今も猿屋の徒が祀る神なり。關東地方の村々にも、山野の片端に此の種の一地區を構ふるもの、多けれども、普通に之れを何と呼ぶかを、知らず。信州小田井の「光月(くわうげつ)の輪」は、中仙道の通衢(つうく)[やぶちゃん注:四方に通じた交通の便の良い道路。往来の多い街道。]に近くして、夙(つと)に其の奇を說く者、多し。所傳、既に失はると雖も、亦、一箇の「蒼前場」なるに似たり。今の北佐久郡御代田村と岩村田町の境は以前は原野なり。往來より些(すこ)し脇に一町ばかり[やぶちゃん注:約百九メートル]、眞丸(まんまる)に、幅二尺ほどの道、輪のごとくに附きたり。大勢の足を以つて蹈み附けたるがごとし。輪の内外は夏草などのびやかに生ひ茂りたるに、道とおぼしき處のみ、草、悉く偃(ふ)したり[やぶちゃん注:「伏されてある・倒されている」の意。うっひゃあぁつっ! ミステリー・サークルそのものじゃんか!! 面白れええぞ!。之れを「光月輪(くわうげつのわ)」と稱す。俗談に、『所の氏神、夜每に、馬を責めたまふ處なり。折りとして、轡(くつわ)の音など聞ゆ』と云へり〔「本朝俗諺志」一〕。此の說は諸書、若干の異同あり。或いは、『輪の中の草、夏に入れば、枯るる』と云ひ〔「和訓栞」(わくんのしほり)〕、或いは、『草、全く生ぜず、雪も亦、此の中には積らず。【權現】木幡山(こばたやま)の權現、夜は出でて、此の地に遊びたまふ』と云ひ〔「和漢三才圖會」〕、或いは、『雪のとき、輪の處のみ、低く見ゆ』と云ひ、『其の附近、別に一輪ありて、馬を其の中に乘り入るれば、必ず死すとて、人、之れを怖ろしがる』と稱す〔百卷本「鹽尻」二十五〕。輪の大きさ及び數に就きても、區區の說あり、而も今は既に跡を留めざるがごときなり。【かうげ】「光月の輪」の「くわうげつ」は、芝原を「かゞ」又は「かうげ」と呼ぶ、古語より出で、之れに「月の輪」を思ひ寄せしものなるべきも、何が故にかゝる地貌(ちぼう)を呈するに至りしかは、之れを解說する能はず。近年、東京の近郊に數多(あまた)起こりたる競馬場、賭け事の禁令を勵行するに及びて、ばたばたと廢業し、其の址、多くは、大正の新「月の輪」となりたる例あれど、山上の「農鳥(のうとり)」又は「農牛(のううし)」[やぶちゃん注:『甲州南都留郡盛里村と北都留郡大原村との境の山に、「賴朝公の大根畝(うね)」と呼ぶ處あり。頂きより麓まで、數峯、起伏して畝のごとし。其の間に草の圓く枯るゝ所、數所あり。徑(わた)り四、五尺、遠望すれば、環のごとし。【螺】其の下に「螺(ほら)」の潛(ひそ)める爲め、此くのごとし、と云ふ。巖(いわほ)の上に天狗松あり、之れを伐れば、災ひあり〔「甲斐國志」三十六〕。同國北巨摩郡多麻村小倉(こごい/こごえ[やぶちゃん注:「ちくま文庫」版全集は「こごい」と振るが、歴史的仮名遣でこれで正しいかどうかは不明。なお、現在の住所表示では「こごえ」。ただ、旧呼称は確かに「こごい」であったことは研究者の著作によって明らかではある。])の上に赭山(あかやま)あり。黑き岩、斑(まだら)を爲すにより、名づけて「斑山(まだらやま)」と云ふ。地中に「螺(ほら)」を棲ましむるが故に、草木を生ぜず」と傳へたり〔同上二十九〕。同郡淸哲村靑木組の太日向山には、山の草の圓形にして黑く見ゆる處、二所あり。【山癬】之れを「山癬(やまたむし)」と云ふ。圓形の大きさは四十步(ぶ)[やぶちゃん注:約百三十二平方メートル。畳換算で八十畳敷き相当。]ばかり、近づけば見えず、遠く望めば、瞭然たりと云ふ〔同上三十〕。今もありや否やを知らず。「ほら」と云ふ動物が地中に住むと云ふは、甚だ當てにならぬ話なり。法螺(ほら)と云ふはもと樂器なれど、之れを製すべき貝をも亦、「ほら」と呼び、山崩れを洞拔けなどゝ云ふより、それを此の貝の仕業と思ふに至りしなり。此くのごとき思想は疑ひも無く、蟄蟲(ちつちゆう)[やぶちゃん注:ここは広義の本草学で謂う脊椎動物の両生類・爬虫類を加えて無脊椎動物以下の広義の「虫」類の内でも、特に地中に潜り潜む(冬眠や夏眠とは限らなくてよい。土中で孵化して地面から出現する種も含まれる)種類を指している。観察上は蛙・蛇・陸生貝類やミミズ・蟻・蟬或いはモグラなども皆、「蟄蟲」となろう。]より起りしならんが、大鯰(おほなまづ)・白田螺(しろつぶ)の類ひの、元來、水底に在るべき物、地中に入りて住む、と云ひし例、少なからず。。【蛇食(じやばみ)】備前赤磐郡周匝村(すさいそん)の山には、山腹に之れに似たる圓形の地ありて、一町或いは二町[やぶちゃん注:約二メートル十八センチメートル。]の間、夏に入れば、草、枯(か)る土人、之れを「蛇食(じやばみ)」と名づけ、其の地、蛇毒ありて此くのごとしと云へり〔「結毦錄(けつじろく)」〕。土佐に於いて、土佐郡秦(はだ)村大字秦泉寺(じんぜんじ)の中に、一所、圓くして草の生ぜざる所あり。【地下の寶】土人、之れを解說して、『凡そ、土中に金銀あれば、草、生ぜざるなり』と云へり〔「土佐海」續編〕。此等の土地は、古今共に、必ずしも馬の祭場としては用ゐられず。唯だ、其の外觀の如何にも顯著なるが故に、苟(いやし)くも駒形信仰の行はるゝ地方に於いては、終に之れを輕々に看過する能はざりしなるべし。加賀の白山の上には花畠平と云ふ地あり。【さへのかはら】其の一部を「さへのかはら」と云ひ、其の北を「角力場(すまふば)」と云ふ。八、九尺の間、圓形にして自然に角力場を爲せり〔「白山遊覽圖記」二〕。出羽の莊内の金峯山の峯續きに鎧峯(よろひみね)ありて、山中に「天狗の相撲取場」と云ふ禿(はげ)あり。常に綺麗にして草木を生ぜず〔「三郡雜記」下〕。陸中の大迫(おはざま)の山に於いて「龍が馬場」と云ひしは、恐らくは之れと似たる處なるべし。【鏡】薩摩薩摩郡東水引村大字五代の鏡野と云ふは、神代に、天孫、八咫鏡(やたのかがみ)を齋(いつ)き祀りたまふ處と稱す。此の原野の内に周圍一町ばかり、正圓にして、草の色、他處に異なる一區あり。四季共に茂りて、霜雪にも枯れず。又、年々の例として此の野を燒くに、圓き處のみは燒けずと云ひ、邑人(むらびと)、常に之れを尊(たつと)びて、牛馬を放ち繫ぐこと無し〔「三國名勝圖會」〕。【池ケ原】美作勝田郡高取村大字池ケ原の「月の輪」と云ふ地も、平地にして狀況よく小田井の「光月の輪」と似たり。往古より、不淨あれば牛馬損ず、と言ひ傳へて、牛馬に草も飼はず、永荒(えいあれ)・減免の取り扱ひを受くる荒地なり〔「東作誌」〕。往來筋に接近して、人、よく之れを知る。【月】時として、月影、澤一面に見ゆることありと云へば、低濕の地なるがごとく、村の名を「池ケ原」と呼ぶに由つて案ずれば、以前の池の、漸(やうや)く、水、あせたるものか。東京の西郊などには、所謂、「井の頭」の泉、涸れて、羅馬(ローマ)の劇場のごとき形をして殘れるもの、處々に在り。信濃・美作の「月の輪」も亦、此の類ひなりとすれば、草の生長、霜雪の消え積る有樣、自然に他と異なるものありと云ふも、怪しむに足らざるのみならず、之れより推し及ぼして、更に第二の奇跡、【だいだらぼうし】「だいだらぼうし」の足跡をも、解釋し得るの見込みあるなり。

[やぶちゃん注:「馬の前蹄の上に兩空處あり、名づけて竃門(そうもん)と謂ふ」これは中国由来だね。中文サイトの「跨竈」を見られよ。馬蹄の後は確かにその通り! しかし、「自分には解せざれども」に諸手を挙げて、賛成! 蹄は竈の形に確かに似ている。しかし、その二つの空隙は確かに判らんね。

「越後南蒲原地方」旧南蒲原郡。ウィキの「南蒲原郡」の地図で旧域を確認されたいが、現存する南蒲原郡(グーグル・マップ・データ。以下同じ。なお、この表示域が概ね旧郡域)の他、三条市全域・長岡市の一部・加茂市の一部・見附市の一部・燕市の一部が含まれた。

「勝善神(そうぜんしん)」「蒼前神(さうぜんしん)」「勝善神(しやうぜんしん)」既出既注或いは「蒼前神」「勝善神」孰れも歴史的仮名遣を無視して「そうぜんしん」と読むのかも知れない。少なくともリンク先で引用した「ブリタニカ国際大百科事典」の「蒼前様(そうぜんさま)」の解説はそのように読めるからである。但し、「ちくま文庫」版は「勝善神」に『しょうぜんしん)』のルビを振っている。

「信州小田井」面倒なことに、長野県佐久市小田井と、長野県北佐久郡御代田町小田井が現存するが、以下の叙述から見て前者である。

「北佐久郡御代田村と岩村田町の境」長野県北佐久郡御代田町御代田の東西で、長野県佐久市岩村田の東北で、長野県佐久市小田井は接する。小田井は御代田を中に挟んで飛び地であるが、この謂い方と現在の地割から見ると、小田井の東の飛び地にそれはあったか。

「『草、全く生ぜず、雪も亦、此の中には積らず。【權現】木幡山(こばたやま)の權現、夜は出でて、此の地に遊びたまふ』と云ひ〔「和漢三才圖會」〕「和漢三才図会」の「巻第六十八」の「信濃」の以下。所持する原本画像から電子化する。

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小田井 廣野也此野草芝中自成輪形而草不生雪亦

 不降積其輪大尺許經一町許呼曰髙月輪未知其所

 以也相傳曰向山名木幡山其峯在權現社此神乘馬

 夜出遊于此

○やぶちゃんの書き下し文

小田井 廣き野なり。此の野、草芝の中、自(おのづ)から、輪の形を成す。草、生えず。雪も亦、降り積もらず。其の輪、大いさ尺許り。經(さしわたし)一町許り。呼んで「髙月輪(かうげつのわ)」と曰ふ。未だ其の所以を知らざるなり[やぶちゃん注:どうしてそうなるのかという理由は判らない。]。相ひ傳へて曰ふ、『向ふの山を「木幡山」と名づく。其の峯に、權現の社、在り。此の神、馬に乘り、夜、出でて此に遊ぶ』と。

   *

「木幡山」は確認出来ないが、良安は「向ふの山」と言っており、私の比定地が正しいとすれば、まさに湯川の対岸の長野県佐久市横根のここがそれらしく見える(国土地理院図)。南山麓に神社も確認出来、また、この「峯」を南東に登ると、千百五十五メートルの「平尾富士」があり、山頂には神社もある。如何にもこれっぽい感じはする。

「雪のとき、輪の處のみ、低く見ゆ」そんなの、全然、不思議じゃないぜ、柳田先生。

『近年、東京の近郊に數多(あまた)起こりたる競馬場、賭け事の禁令を勵行するに及びて、ばたばたと廢業し、其の址、多くは、大正の新「月の輪」となりたる例あれど』出ました! 柳田先生の落語!

『甲州南都留郡盛里村と北都留郡大原村との境の山に、「賴朝公の大根畝(うね)」と呼ぶ處あり』「甲州南都留郡盛里村」は山梨県都留市盛里で、「北都留郡大原村」は山梨県大月市猿橋町であるから、現在の九鬼山であろう。標高九百七十メートルで、大月市の百蔵山で生まれた桃太郎が鬼退治にやってきた山と言う伝承を持ち、東北東六百メートル弱の位置に「天狗岩」もある。登山サイトを見ると、この天狗岩から北西に下る尾根辺りを「賴朝公の大根畝」と称したらしい。この辺りが頼朝の狩場であったという伝承があることに由るらしい。

『同國北巨摩郡多麻村小倉(こごい/こごえ[やぶちゃん注:「ちくま文庫」版全集は「こごい」と振るが、歴史的仮名遣でこれで正しいかどうかは不明。なお、現在の住所表示では「こごえ」。ただ、旧呼称は確かに「こごい」であったことは研究者の著作によって明らかではある。])の上に赭山(あかやま)あり』山梨県北杜市須玉町(すたまちょう)小倉(こごえ)。これは「甲斐国志」の巻之二十九の「山川部第十」にある。リンク先の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認して以下に電子化する。カタカナを平仮名に代え、句読点や濁点を加えて読み易くした。傍点「ヽ」は太字にした。

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一〔斑  山〕東は塩川[やぶちゃん注:原典は「鹽」とごちゃついた字体。現行も「塩川」。]、西は玉川[やぶちゃん注:現行では「須玉川」。]に界し、南は東向、大蔵、小倉諸村に跨り、北は津金山に續き、頗る高大にして兀山[やぶちゃん注:「こつざん」。禿げ山。]なり。赭土の間に、往々、黑岩ありて斑文[やぶちゃん注:「はんもん」。斑紋。]をなす。故に名づく。今、訛して曼荼羅山、萬鳥山、眞鳥山なども云へり。土俗、云、地中に螺(ほら)を棲ましむるに因りて、草木を生ぜずと。○東向村御林 長百五拾間、橫五拾四間[やぶちゃん注:縦二百七十二・七メートル、横約九十八メートル。]。

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「同郡淸哲村靑木組の太日向山」山名の読み不詳。この名では現認出来ないが、「同郡」(旧北巨摩郡)となれば、山梨県北杜市白州町白須の日向山(ひなたやま)か。

『之れを製すべき貝をも亦、「ほら」と呼び、山崩れを洞拔けなどゝ云ふより、それを此の貝の仕業と思ふに至りしなり』「之れを製すべき貝をも亦、「ほら」と呼」ぶ、とは本末転倒。腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目フジツガイ科ホラガイ属ホラガイ Charonia tritonis は古くからオセアニア・東南アジア・日本で楽器(本邦では平安時代に既に見られる)として使用され、本邦では特に修験道の法具に用いた。ホラガイについては私の『毛利梅園「梅園介譜」 梭尾螺(ホラガイ)』を参照されたい。ここに書かれた崩落や地震が法螺貝が起こすという話は、一般の方は非常に奇異に感じられるであろうが(地震と地下の「大鯰」伝承はご存じでも)、民俗伝承上ではかなり知られたものである。例えば、私の「佐渡怪談藻鹽草 堂の釜崩れの事」や同書の「法螺貝の出しを見る事」を参照されたい。これはホラガイが熱帯性で生体のホラガイを見た日本人が殆んどいなかったこと、修験者・山伏がこれを持って深山を駆けたこと等から、法螺貝は山に住むと誤認し、その音の異様な轟きが、山崩れや地震と共感呪術的に共鳴したものとして古人に認識されたためと私は考えている。

「白田螺(しろつぶ)」「ちくま文庫」版は『しろたにし』とルビするが採らない。私はこれは「白い」「田」=陸地に居る「螺」(つび・つぶ:巻貝の総称)で、実はホラガイのやや小型化した妖怪(同じく崩落や地震を起こす)を指すと考えるからである。この読みに異論のある向きは、例えば「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」の「シロツブ」を見られたい。そこでは「越後野志」巻十四を引用元として、かく訓じている(但し、その場合のそれはアルビノのタニシ(腹足綱原始紐舌目タニシ科 Viviparidae)ではある)。無論、陸生貝類(有肺類)の誤認としてもよいが、純陸生のそれは日本本土では大型の個体は極めて少なく、しかもそのアルビノとなると、まず、ここで比定候補に挙げるべきものはない。

「備前赤磐郡周匝村(すさいそん)」「そん」はウィキの「周匝村」に拠った。それによれば、現在の岡山県赤磐(あかいわ)市河原屋(かわらや)・草生(しそう)・周匝(すさい)・福田(リンク先で河原屋地区から時計回りで川沿いに展開するのが判る)に当たるとある。草生地区(航空写真)は名前がそれらしくは見える。

「蛇食(じやばみ)」小学館「日本国語大辞典」に、山野で直径五~十メートルほどの円形に草木が生えない場所とあり、「俚言集覧」(十九世紀前期に成立したと考えられる国語辞書。福山藩の漢学者太田全斎が自著の「諺苑(げんえん)」を改編増補したものと見られる。全二十六巻。これは先行する国学者石川雅望(まさもち)の古語用例集「雅言集覧」に対するものとして企画したもので、口語・方言を主として扱い、諺も挙げてある。現行では後の幕末に井上頼圀・近藤瓶城(へいじょう)が五十音順に改めて増補刊行した「増補俚言集覧」(全三冊)が一般に使用される。江戸期の口語資料として重要。以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)に載ることが記されてある。

「結毦錄(けつじろく)」儒者で博物学的本草学者でもあった松岡恕庵(寛文八(一六六八)年~延享三(一七四六)年:名は玄達)が宝暦九(一七九六)年刊の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁の画像を視認して以下に電子化する。同前の仕儀に記号も加えて読み易くした。但し、読みは一部に留めた。

    *

  「蛇ばみ」の事

備前周斉周匝(すさい)村と云村あり。その邉(あだり[やぶちゃん注:ママ。])の山に、夏に至れば、俄に山の半腹(はんふく)の処、一處[やぶちゃん注:両漢字表記の違いはママ。]、月暈(かさ[やぶちゃん注:「暈」ののみへのルビ。])の如く、一町餘も、草、枯れて、圓(まどか)にして、草、生(しやう)ぜず。春時は、草、生ずれども、夏に至れば枯(か)る。毎年(まいねん)此(かく)のごとし。土人、「蛇(じや)ばみ」と云。村田生[やぶちゃん注:不詳。松岡の門弟の学生か。]、物語に、『信州、「武藏野(むさしの)」と云[やぶちゃん注:「いふ」。]処あり。野中、夏に至れば、右の説の如く、圓(まろ)く圍(かこ)みの中(うち)、草を生ぜず。六、七十間(けん)[やぶちゃん注:百八~百二十七メートル。]、或いは半町[やぶちゃん注:五十九センチメートル。]餘(よ)も、かくのごとし。土人、「月の輪(わ)」と云』と。

    *

「土佐郡秦(はだ)村大字秦泉寺」高知県高知市東秦泉寺(ひがしじんぜんじ)・北秦泉寺・中秦泉寺附近(西に向かって展開している)であろう。

『加賀の白山の上には花畠平と云ふ地あり。其の一部を「さへのかはら」と云ひ、其の北を「角力場(すまふば)」と云ふ』私は白山に登ったことがないのでよく判らぬが、「ヤマケイ・オンライン」のこちらの「白山」の地図の東北部に「お花松原」があり、その西北には「地獄谷」が、白山方向に戻れば、「血の池」もあるので「さへのかはら」(賽の河原)も当然あろう。「角力場」は現認出来ない。

「出羽の莊内の金峯山の峯續きに鎧峯(よろひみね)」山形県鶴岡市砂谷のここ金峯山はその東北(直線で一・三キロメートルで、登山実測例では一時間かかる)のここ

「天狗の相撲取場」確認出来ない。なお、この手の有意な空隙地をかく呼称するケースは日本各地に見られる。

『陸中の大迫(おはざま)の山』岩手県花巻市大迫町(おおはさままち)大迫はここ(国土地理院図)。大迫を冠する地区は広いが、ここが本家っぽいから、この北後背地の何れかのピークか。

「薩摩薩摩郡東水引村大字五代の鏡野と云ふは、神代に、天孫、八咫鏡(やたのかがみ)を齋(いつ)き祀りたまふ處と稱す」この地名は確かに現在の薩摩川内(さつませんだい)市五代町(ちょう)なのであるが、かなりややこしい感じがする。何故なら、この八咫鏡を祭神としていた鏡山(かがみやま)神社は、五代町に西で接する鹿児島県薩摩川内市小倉町にあったのであるが(ここは伝承では邇邇杵尊が当地の国津神の抵抗にあった際に、八咫鏡を隠した場所と伝わる)後に小倉町の八尾神社に合祀されて廃絶している。ところがこの八尾神社というのは、現在は鹿児島県薩摩川内市宮内町(五代町東で隣接)の新田神社の境外末社になっているのである。従って、この三つの町が候補地になろか。しかし、最後の新田神社は合祀の結果であるから、もう除外してよい。そうすると、現在の小倉町か五代町が比定候補地となる。私は心情的には、失われた小倉町にあった鏡山神社の跡地(位置不明)附近を比定したくはなる(以上はウィキの「新田神社(薩摩川内市)」を参考にはした)。「鏡野」なんて素敵な名なのになぁ。【二〇一九年六月三十日追記】最後の最後までお世話になってしまった。T氏より昨日メール来信。

   《引用開始》

六か月に渡る「山島民譚集」有難うございます。

余計な御世話として、「薩摩薩摩郡東水引村大字五代の鏡野」の貴下註が面白く、『三國名勝圖會』の当該巻十三・十四の「薩摩國高城郡」の「水引」を読んでみました。

   *

鏡野【地頭館より酉方、四十町許、】 宮内村五代にあり、傳へ稱す、高古瓊々杵尊天降玉はんとするや、天照大神の御形見として親から皇孫に授け玉へる八咫(タ)鏡を齋き奉り玉ふ所なり、故に其名を鏡野といふ、今此原野の内周廻一町許、正圓(マンマル)の内艸の色他所に異りて四季共に生え茂り、霜雪にて枯るゝことなし、是其靈蹟なる故なりといへり、又年々火を以て、此野を燒ける例なるに、此一圓の所のみは、曾て燒る事なし、世人此傳を知らざる者見ても、艸色の異なるに驚くべし、邑人も常に尊ひ崇めて、牛馬を放ち繋がず、

[やぶちゃん注:以下、漢詩は一行二句表示であるが、ここのみ私が原典の訓点を加えて、その分、格好が悪くなったので、一段組みに直した。]

  鏡野叢       釋不石

 平野周遭似鏡圓

 春風春雨草綿々、

 人放火無煙起

 拍手同歌大有年、

   *

文章では、これだけですが、同じ巻十三にある図を見ると、「一之磧觀音堂」に「鏡野」と「小倉」(コクラ)の家並み及び川内川が描かれています。

推測するに、小倉川が川内川に流れ込む当たりの家並みが描かれ、其の奥に「鏡野」をもつ山があります。五代町と小倉町とは高城川右岸の山の稜線で区切られています。この位置関係をもとに国土地理院地図で見ると、七迫(ななさこ)の北にある「標高106.1」の山が「鏡野」を持つ山の候補となります(この山の北北東奥の「標高114」では川内川から見ると、手前のこの「標高106.1」が邪魔になるように思われます)。この山(奧の山でも)であれば、「五代」の人は五代、「小倉」の人は小倉と言ってもおかしくないと思います。

一番の収穫は「巻十三の図」に尽きます。

   《引用終了》

いや! この図はほんまに! ええなあ! 完結のT氏からのプレゼントや! みんな! 見なはれや!

『美作勝田郡高取村大字池ケ原の「月の輪」と云ふ地』岡山県津山市池ケ原。北を肘川が貫通し、池沼が有意に多い湿潤な一帯であることが、地図からもよく判る。「月の輪」も残したかった地名だなぁ。

「不淨あれば牛馬損ず」「永荒(えいあれ)・減免の取り扱ひを受くる荒地」……窪地……馬が死ぬ……永く荒れ果てた地で、年貢の対象からも外されてきた、異常な不可触禁忌の一帯……これを読んだ時、私は妖怪「だり」を直ちに想起した。……窪地で、そこにいると突然、身体が不自由になり、動けなくなる。それを妖怪「だり」の仕業とする記載を遠い昔に読んだ。ウィキの「ヒダル神」に、『人間に空腹感をもたらす憑き物で、行逢神または餓鬼憑きの一種。主に西日本に伝わっている』。『北九州一帯ではダラシと呼ばれ、三重県宇治山田や和歌山県日高や高知県ではダリ、徳島県那賀郡や奈良県十津川地方ではダルなどと呼ばれる』とあるものである。八甲田山では一九九七年、野外演習中の陸上自衛隊員三人が窪地で昏倒して死亡する事故があった。 その原因については二酸化炭素或いは硫化水素の滞留による中毒による窒息死が推定されたように記憶している。ウィキの「ヒダル神」にも『植物の腐敗で発生する二酸化炭素』中毒起因説が仮定の一つとして挙げられてある(酸素(純粋酸素は極めて強毒である)ほどではないが、二酸化炭素も有毒気体である)。この〈ミステリー・サークル〉は、実はそうした自然が自ずと形成した危険地帯だったのではなかったか? と私が思ったことを、ここに最後に言い添えておきたい気がした。

 以上を以って、本「山島民譚集」の本文は終わる。以下、この後、底本ではここから「目次」が載るが、略す。次に奥附を字配・ポイントを無視して電子化しておく。]

 

 

山島民譚集

  ―日本文化名著集―

 

昭和十七年十一月廿五日 印 刷

昭和十七年十一月三十日 發 行

      五千部發行

  • 定價 貮 圓

 

出文協承認

 50.441

 (検印)

[やぶちゃん注:以上の三行は上部横書(上記通りの左から右書き)。検印は「柳」の一字で、下地添付紙は「丸に違い矢」の紋が印刷されたもの。]

 

著 者  柳 田 國 男(やなぎたくにを)

發行者  矢 部 良 策

     大阪市北區樋上町四五番地

印刷者  井 村 雅 宥

     大阪市浪速區稻荷町二丁目九三五

        (會員番號西大一一九二)

配給元  日本出版配給株式會社

發行所  株式会社 創 元 社

     (會員番號第一一五、五〇一號)

     大阪市北区樋上町四五番地

     振替大阪五七〇九九番

     電話北三六八六・三七〇八番

 

[やぶちゃん注:以上を以って柳田國男「山島民譚集」(初版は大正三(一九一四)年七月甲寅(こういん)叢書刊行会刊(「甲寅叢書」第三冊))の再版版である昭和一七(一九三二)年創元社刊(「日本文化名著選」第二輯第十五)の全電子化注を終わる。

 結局、年初から五ヶ月半もかかってしまった(当初は、せいぜい三ヶ月ぐらいの短期で仕上げるつもりだった。やはり注に拘り過ぎたのが元凶であった)。

 なお、本作には「ちくま文庫」版全集第五巻で「山島民譚集㈡(初稿草案)」と「山島民譚集㈢(副本原稿)」という二篇の〈続篇〉稿が載る。実際、内容的には本書の続篇として確かに読めるものではあるのだが(特に「山島民譚集㈡(初稿草案)」は初っ端から『第三 大太法師』のタイトルで突然『二一 いろいろの物の足跡』という柱から始まるのは、完全に「山島民譚集」の続編として始まる(柱数字の「二一」は不明。或いは本「山島民譚集」の小項目見出しを整理して数を減らし、さらに書式(後述)も全部書き変えるつもりであったものと思われる)、何より書法が全く異なり(平仮名漢字交じりの完全口語表現)、個人的に読んで受ける印象は続篇の額縁を附けた全くの別物という感じである。しかも草稿或いは推敲原稿であり、注記号があって注がない箇所が殆んどであったりと、作品として読むには不備不満が多い(電子化し出したら、その不完全で不満な箇所に、これまた、過剰な注を附けたくなるに違いない)。されば、今は全く食指が動かぬ。少なくとも、本年中にこれらに手を着けるつもりは全くないこと、将来的にやるとしても、全く注を附けないものとなろうことを言い添えておく。

 さても。ここまでお付き合い戴けた数少ない読者の方々、取り分け、たびたび多くの注での誤認や不明箇所を御指摘戴いたT氏には心から感謝申し上げるものである。藪野直史]

2019/06/27

私のアドレスで私自身に詐欺メールがあったので注意されたい(恐らくニフティのアドレスを持つ人へランダムに)

如何にも妙な文字列の意味を成さない題名だし(第一、ご丁寧にそこにも私のアドレスの文字列の一部が入っている。恐らくニフティの複数のアドレス・ナンバーを機械合成したものらしい。恐らくはそれをまた機械的に差出人として合成したものなのかも知れない)、私のメールの書き方を知っている人間は120%添付ファイルを絶対に開けないから大丈夫だろうが、取り敢えず言っておく。私は私から知らない人にメールは送らない(送ったこともない。私はメールを送ってやりとりしたくなるような未知の対象者は零に等しい)。そもそもがブログ記事のコメントをなしにしているのもそうした煩わしさを絶対的に拒否するためだからだ。そもそもこいつ、私に送るのはどうかしている。隠棲している私は私自身にそのアドレスでデータ送信することは、十四年間、一度としてなかったし、その詐欺メールはそのまま迷惑ホルダー行きであったし、私もその奇体なメールを開けて見るほど御目出度い馬鹿じゃないからだ。自動生成なら、その愚昧を哀れに思うのもまたさらに馬鹿馬鹿しいか。なお、このことについての問い合わせのメールも総て詐欺メールとして拒否するので、屋上屋の詐欺を仕掛けても無駄である、と言い添えておこう。

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(46) 「光月の輪」(1)

 

《原文》

光月ノ輪  蓋シ左右ノ馬寮ガ諸國ノ官牧ヲ支配セシ時代ニハ、儼然トシテ馬師馬醫ノ職アリキ。【馬學退步】彼徒行フ所ノ相馬ノ術醫養ノ法、之ヲ我々ノ理學ニ由リテ判ズレバ、固ヨリ「マジツク」ノ域ヲ脫スル能ハザルモノ多カリシナランモ、而モ學說ニ由來アリ推理ニ系統アリテ、幸ニ漸次ノ實驗ヲ以テ之ヲ補正スルヲ得シナラバ、終ニハ一科ノ技藝トシテ、永ク世用ヲ完ウスルモノトナリシヤ必セリ。惜シキカナ王制中ゴロ弛ミ法規行ハレズ、官ニ屬セシ術者四散シテ草莽ニ入リシヨリ、又其技ヲ究ムルノ機會無ク、僅カニ土民ガ馬ヲ愛スルノ情ニ賴リテ、生ヲ支ヘ職ヲ世(ヨヽ)ニスルヲ得ルノミナレバ、符呪ヲ以テ未熟ヲ補ヒ神異ヲ說キテ平凡ヲ蔽フノ傾キ、世降ルト共ニ愈盛ナリシナルべシ。サレバ彼ノ馬洗ト稱シテ馬ヲ沼川ノ水ニ入ルヽ風習ト、【野飼】野飼又ハ夏越ナドト云ヒテ一定ノ日家畜ヲ水邊ニ繫ギ置ク儀式ト、水神ヲ誘ヒテ牝馬ニ種付セントスル迷信トハ、何レカ起原何レカ變遷ト決スべキ。必ズシモ尋常進化ノ理法ヲ以テ輕々ニ推論スルコトヲ得ザルナリ。例ヘバ駒ケ池ノ跡ト稱スル地、大阪生魂神社ノ東、南谷町筋ニ殘レリ。【聖德太子】聖德太子駒ノ足ヲ濯ギタマヒシ處ト傳フ〔浪華百事談二〕。同ジ名ノ池ハ又天王寺ノ境内ニモアリキ〔同上七〕。太子ノ此地方ニ關係アルコトハ古來ノ說ナレドモ、此場合ニ於テハ單ニ所謂厩師ノ開祖某ト云フニ過ギザルべシ〔猿屋傳書〕。彼等ガ職トスル所、時々厩ニ來タリテ祈禱ヲ爲スニ止マラズ、或ハ一定ノ水邊ニ居ヲ占メテ農家ノ爲ニ馬ノ治療ヲ引受ケテアリシコトモ、略之ヲ想像シ得ルナリ。【猿橋】甲州ノ猿橋ハ近國ノ猿牽共集リ來リ、勸進シテ其架換ノ費ヲ辨ズルコト古クヨリノ風ナリキト聞ク。此橋下ノ碧潭モ亦恐クハ馬ノ醫術ト因緣アルモノナラン。馬蹄石ノ由來ノ如キモ必ズシモ解キ難キ謎ニハ非ズ。既ニ一區ノ靈場ヲ指點シテ馬ノ保護者ノ宅スル處ナリトスル風アル以上ハ、【駒爪石】附近ノ岩石ノ天然ノ形狀略馬蹄ニ髣髴スルモノヲ覓メ出シテ、之ヲ神變ノ現出セシメタル所ト推測スルハ、必ズシモ巫覡ノ詭辨ヲ煩ハスコトヲ要セズト雖、少ナクモ一部分ノ駒岩ニ在リテハ、更ニ一段ト顯著ニ、恐クハ實際傳說製作者ノ眼前ニ於テ、馬ノ跡ヲ其岩ノ上ニ印スルノ現象アリシナラン。此說甚ダ奇ヲ衒フニ似タレドモ然ラズ。石ヲ以テ馬ノ蹄ヲ磨スルハ古代普通ノ風習ナレバ、村ニ住スル馬醫等ノ其仕事ヲ托セラルヽ者、馬ヲ神前ノ岩上ニ曳キ來リ、特ニ之ガ爲ニ淨メ置キタル場處ニ繫ギテ、每囘同ジ窪ニ於テ馬ノ蹄ヲ磨ギシヨリ、終ニハ神馬ノ蹄ノ跡ト云フ物ヲ生ジタリトスレバ、諸處ノ口碑ノ多數ハ何等ノ誇張無キ歷史トシテ之ヲ受ケ入ルヽコトヲ得ルナリ。【馬蹄砥】延喜ノ左馬寮式ニ、季每ニ請フベキ馬藥ノ中ニ、每年馬蹄ヲ作ルノ料砥二顆トアリ〔延喜式四十八〕。右馬寮亦之ニ準ズ。安房日向等ノ馬蹄硯ハ勿論天產ニシテ、其生成ノ由來ハ岩石學者ノ說明ヲ乞フべキモノナランモ、他ノ一方ニ右ノ如キ砥石ノ古クナリテ形相似タルモノ、磊々トシテ到ル處人ノ目ニ見馴レタリトスレバ、比較ニヨリテ此ノ如キ名ヲ附與スルコトノ、決シテ不自然ナル事態ニ非ザリシヲ知ルナリ。

 

《訓読》

光月(くわうげつ)の輪  蓋し、左右の馬寮(めりやう)が諸國の官牧を支配せし時代には、儼然(げんぜん)[やぶちゃん注:「厳然」に同じ。動かし難い威厳のあるさま。]として馬師・馬醫の職ありき。【馬學退步】彼の徒(と)、行ふ所の相馬の術[やぶちゃん注:馬の相(そう)を見ること。]・醫養の法、之れを我々の理學に由りて判ずれば、固より「マジツク」の域を脫する能はざるもの多かりしならんも、而も學說に由來あり、推理に系統ありて、幸ひに漸次の實驗を以つて之れを補正するを得しならば、終には一科の技藝として、永く世用(せよう)を完(まつと)うするものとなりしや、必(ひつ)せり。惜しきかな、王制、中ごろ、弛(ゆる)み、法規、行はれず、官に屬せし術者、四散して草莽(さうまう)に入りし[やぶちゃん注:野に下ってしまった。これもまた、馬の縁語になっていますね、柳田先生。]より、又、其の技を究むるの機會無く、僅かに土民が馬を愛するの情に賴りて、生を支へ、職を世(よゝ)にするを得るのみなれば、符呪(ふじゆ)[やぶちゃん注:怪しげな呪(まじな)いや、御札・御守りの類い。]を以つて未熟を補ひ、神異を說きて、平凡を蔽ふの傾き、世降ると共に、愈々、盛んなりしなるべし。されば彼の馬洗と稱して馬を沼川の水に入るゝ風習と、【野飼】野飼又は夏越(なごし)などと云ひて、一定の日、家畜を水邊に繫ぎ置く儀式と、水神を誘ひて牝馬に種付(たねづけ)せんとする迷信とは、何れか起原、何れか變遷と決すべき。必ずしも尋常進化の理法を以つて輕々に推論することを得ざるなり。例へば、駒ケ池の跡と稱する地、大阪生魂(いくたま)神社の東、南谷町(みなみたにまち)筋に殘れり。【聖德太子】聖德太子駒の足を濯(すす)ぎたまひし處と傳ふ〔「浪華百事談」二〕。同じ名の池は又、天王寺の境内にもありき〔同上七〕。太子の此の地方に關係あることは古來の說なれども、此の場合に於いては、單に所謂、厩師の開祖某と云ふに過ぎざるべし〔「猿屋傳書」〕。彼等が職とする所、時々、厩に來たりて祈禱を爲すに止まらず、或いは一定の水邊に居を占めて、農家の爲に馬の治療を引き受けてありしことも、略(ほ)ぼ之れを想像し得るなり。【猿橋】甲州の猿橋は、近國の猿牽共、集まり來たり、勸進して、其の架換(かけかへ)の費(つひへ)を辨ずること、古くよりの風なりきと聞く。此の橋下の碧潭も亦、恐らくは馬の醫術と因緣あるものならん。馬蹄石の由來のごときも、必ずしも解き難き謎には非ず。既に一區の靈場を指點(してん)して馬の保護者の宅(たく)する處なりとする風ある以上は、【駒爪石】附近の岩石の天然の形狀、略ぼ馬蹄に髣髴するものを覓(もと)め出だして、之れを神變の現出せしめたる所と推測するは、必ずしも巫覡(ふげき)の詭辨を煩はすことを要せずと雖も、少なくも、一部分の駒岩に在りては、更に一段と顯著に、恐らくは、實際。傳說製作者の眼前に於いて、馬の跡を其の岩の上に印するの現象、ありしならん。此の說、甚だ奇を衒(てら)ふに似たれども、然らず。石を以つて馬の蹄を磨するは、古代普通の風習なれば、村に住する馬醫等の其の仕事を托せらるゝ者、馬を神前の岩上に曳き來たり、特に之れが爲めに淨め置きたる場處に繫ぎて、每囘、同じ窪(くぼ)に於いて、馬の蹄を磨ぎしより、終には「神馬の蹄の跡」と云ふ物を生じたりとすれば、諸處の口碑の多數は、何等の誇張無き歷史として、之れを受け入るゝことを得るなり。【馬蹄砥】「延喜」の「左馬寮式(さまりやうしき)」に、季每(ごと)に請ふべき馬藥の中に、每年、馬蹄を作るの料砥(りやうし)[やぶちゃん注:砥石として準備しておく物。]二顆(か)とあり〔「延喜式」四十八〕。右馬寮(うまりやう)、亦、之れに準ず。安房・日向等の馬蹄硯は、勿論、天產にして、其の生成の由來は、岩石學者の說明を乞ふべきものならんも、他の一方に、右のごとき、砥石の古くなりて、形、相ひ似たるもの、磊々(らいらい)として[やぶちゃん注:石が多く積み重なっているさま]、到る處、人の目に見馴れたりとすれば、比較によりて、此くのごとき名を附與することの、決して不自然なる事態に非ざりしを知るなり。

[やぶちゃん注:「光月(くわうげつ)の輪」次の本書の最終段落で語られるので、ここでは注しない。

「夏越(なごし)」既出既注

「駒ケ池の跡と稱する地、大阪生魂(いくたま)神社の東、南谷町(みなみたにまち)筋に殘れり。【聖德太子】聖德太子駒の足を濯(すす)ぎたまひし處と傳ふ」「大阪生魂神社」は現在の大阪府大阪市天王寺区生玉町にある生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)のこと(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「生魂」(いくたま)は通称。「南谷町(みなみたにまち)筋」柳田國男は「生魂(いくたま)神社の東」と言っているが、調べた限りでは正確には旧南谷町は神社の東北に当たるように思われる。現行、この遺跡はない模様であるが、この画面の上右半分辺りにあったものかと私は推定する。

「同じ名の池は又、天王寺の境内にもありき」聖徳太子建立七大寺の一つとされる大阪市天王寺区四天王寺にある荒陵山(あらはかさん)四天王寺。「天王寺」は四天王寺の略称。生國魂神社の南南東一キロほどとごくごく近いことから、この「聖徳太子駒洗いの池」は同一伝承の分化に過ぎないのではなかろうか。私は寺の中にちんまりあったそれより、上記の方が原型のようには感ずる。因みに「き」の過去形が気になっていた。現在の同寺の境内には現存しないようである。なお、ウィキの「四天王寺」によれば、同寺は『天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗』(教学上にそれ。三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗(以上を「南都六宗」と呼ぶ)・天台宗・真言宗)『兼学の寺であった』。『日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から』、昭和二一(一九四六)年、『「和宗」の総本山として独立している』とある。「四天王寺」公式サイト内の解説を見たところ、『戦前までは長らく天台宗に属していましたが、近年では日本の宗派の種類が増えていたこともあり、建立当初の基本に戻るべく、どの宗派の方でも四天王寺をご参詣いただける様にと願いを込めて』、上記の敗戦の翌年に『天台宗から独立し、十七條憲法の第一條「和を以って貴しとなす」の「和」をいただいて』昭和二四(一九四九)年に独自の『「和宗」となりました』とあった。

「甲州の猿橋」山梨県大月市猿橋町猿橋にある桂川に架かる刎橋(はねばし:両岸の懸崖から刎ね木を何段にも重ね、それで橋桁を受けるもの)として知られる「甲斐の猿橋」。因みに、現在のものは昭和五八(一九八三)年着工で翌年の八月に完成したもので、総工費は三億八千三百万円である(リンク先のサイド・パネルの大月市教育委員会の説明板に拠る)。その事実確認や費用の単純換算比較は出来ぬにしても、嘗つての猿回しの芸をした人々の隆盛がいよよ偲ばれるではないか。私は幼稚園児だった頃(私は昭和三二(一九五七)年二月生まれである)、練馬の大泉学園の日蓮宗倍光山(ばいこうざん)妙延寺の縁日で見たのが、一度、絶滅した猿回しの最後であった。]

2019/06/26

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(45) 「磨墨ト馬蹄硯」(2)

Surusumitoukotu

 熊谷氏ノ馬ノ首

駿國雜志卷二十五ヨリ

[やぶちゃん注:以上は底本のキャプション。「駿國雜志」江戸後期の旗本阿部正信(生没年不詳:忍藩主阿部正能の次男正明より分かれた家系で、旗本正章(知行六千石)の子。通称は大学。文化一四(一八一七)年九月、駿府加番となり、駿府城の守衛等を担った。任期は一年であったが、在任中から、また、江戸に戻ってからも、駿河国七郡の歴史・風土等を調査した)が榊原長俊の著した「駿河国志」を元として天保一四(一八四三)年に完成させた全四十九巻の駿河国の地誌。底本や「ちくま書房」版は画像が著しく悪いので、国立国会図書館デジタルコレクションの静岡の明治四五(一九一二)完刊の吉見書店刊の同書の刊行本の第八冊(附図集成巻)のこちらからトリミングし、汚損を清拭して示した。

 

第百三十二圖

 磨墨首骨の図

  (巻之廿五

   九  二)

[やぶちゃん注:原典図のキャプションを電子化する。まずは右上キャプション。最後の( )は割注状に大きな一つの丸括弧の中に二行書き。柳田國男の「山島民譚集」では「磨墨首骨の図」(「図」は或いは「圖」にも見える)の一行のみで前後は全くない。以下では、しかし私は有意な異同は認めない。

 

図の如く苧縄を

以て耳穴より引

通し上を結ひ梁

の臍に掛たり

[やぶちゃん注:左上。「苧縄」は「をなは(おなわ)」で、麻糸を縒り合わせて作った縄のこと。「梁の臍」「はりのほぞ」。梁(構造物の上部からの荷重を支えるため、または柱を繫ぐために架け渡す水平材。特に、桁(けた:柱の上に懸け渡した横木)に対して直角に渡されたものを指す)の材を接合するための突起のこと。]

 

耳穴[やぶちゃん注:図の上部左右に二箇所。]

眼穴[やぶちゃん注:図の眼窩の左右に二箇所。]

齒[やぶちゃん注:図の下部の左右と最下部で三箇所。]

 

眼穴竪一寸七分

横一寸八分計

[やぶちゃん注:右下。「一寸七分」五・一五センチメートル。「一寸八分」四・八五センチメートル。]

 

首大さ先の尖より前歯迠

長一尺四寸牙歯迄八寸

[やぶちゃん注:左下。「一尺四寸」四十二・四二センチメートル。「八寸」二十四・二四センチメートル。]

 

《原文》

 【硯ノ水】大ナル磐石ノ上ノ窪ミ、通例稱シテ神馬ノ足跡トスルモノノ中ニ、若シ絕エズ一泓ノ水ヲ湛フル處アレバ、人ハ又之ヲ硯ノ水ト名ヅケテ尊敬シタリシコト其例甚ダ多シ。昔ノ田舍者ハ本書ノ著者ノ如ク徒書(ムダガキ)ノ趣味ハ解シ居ラザリシ故ニ、硯ト言ヘバ經文トカ證文トカ、イヅレ重要ナル物ヲ認ムべキ道具ト考ヘタリシナリ。之ト靈馬ノ足跡トガ結合スレバ一通リヤ二通リノ有難サニ非ザリシハ勿論ノ話ナリ。從ヒテ磨墨ト云フ馬ガ其名ヨリモ實ヨリモ萬人ノ仰グべキモノトナリ得タリシハ想像シ易キコトニテ、斯ル名ヲ選定シタル昔ノ誰カハ智者ナリト謂フべシ。石見那賀郡石見村大字長澤ニハ、馬蹄ノ形ニ似タル石ヲ神體トスル社アリキ〔石見外記〕。石見國ハ硯ニ似タリ竹生島ハ笙ノ如シナドト云フ古諺モアレバ、此モ硯ノ水ノ信仰ト多少ノ因緣アリシカト思ハル。【駒形神】駿河安倍郡大里村大字川邊ノ駒形神社ノ御正體モ亦一箇ノ馬蹄石ナリ〔駿國雜志〕。此ハ多分安倍川ノ流ヨリ拾ヒ上ゲシ物ニテ、元ハ亦磨墨ノ昔ノ話ヲ傳ヘ居タリシナラン。此地方ニ於テ磨墨ヲ追慕スルコトハ極メテ顯著ナル風習ニシテ、此村ニモ彼村ニモ其遺跡充滿ス。前ニ擧ゲタリシ多クノ馬蹄石ノ外ニ、【馬ノ首】安倍川ノ西岸鞠子宿(マリコノシユク)ニ近キ泉谷村ノ熊谷氏ニテハ、磨墨ノ首ノ骨ト云フ物ヲ數百年ノ間家ノ柱ニ引掛ケタリ。其爲ニ此家ニハ永ク火災無ク、且ツ病馬悍馬ヲ曳キ來タリテ暫ク其柱ニ繫ギ置クトキハ、必ズ其病又ハ癖ヲ直シ得べシト信ゼラレタリ〔同上〕。之ニ由リテ思フニ、諸國ニ例多キ駒留杉鞍掛松駒繫櫻ノ類ハ恐クハ皆此柱ト其性質目的ヲ同ジクスルモノニシテ、之ヲ古名將ノ一旦ノ記念ニ托言スルガ如キハ、此素朴ナル治療法ガ忘却セラレテ後ノ話ナルべシ。陸中紫波郡東長岡ノ美々鳥(ミヽドリ)稻垣氏ノ邸内ナル老松ハ、昔此家ノ先祖山ニ入リテ草ヲ刈ルニ、其馬狂フトキ之ヲ此木ヘ繫ゲバ必ズ靜止スルニヨリ、之ヲ奇ナリトシテ其庭ニ移植スト云ヘリ〔大日本老樹名木誌〕。此說頗ル古意ヲ掬スルニ足レリ。更ニ一段ノ推測ヲ加フレバ、此種ノ靈木ハ亦馬ノ靈ノ寄ル所ニシテ、古人ハ之ヲ表示スル爲ニ馬頭ヲ以テ其梢ニ揭ゲ置キシモノニハ非ザルカ。前年自分ハ遠州ノ相良ヨリ堀之内ノ停車場ニ向フ道ニテ、小笠郡相草村ノトアル岡ノ崖ニ僅カナル橫穴ヲ掘リ、【馬頭神】馬ノ髑髏ヲ一箇ノ石塔ト共ニ其中ニ安置シテアルヲ見シコトアリ。ソレト熊谷氏ノ磨墨ノ頭ノ骨ノ圖トヲ比較スルニ、後者ガ之ヲ柱ニ懸クル爲ニ耳ノ穴ニ繩ヲ通シテアル外ハ些シモ異ナル點無ク、深ク民間ノ風習ニ古今ノ變遷少ナキコトヲ感ジタル次第ナリ。羽前ノ男鹿半島ナドニハ、今モ家ノ入口ニ魔除トシテ馬ノ頭骨ヲ立テ置クモノアリ〔東京人類學會雜誌第百八號〕。百五六十年前ノ江戶人ノ覺書ニ、羽前ノ芹澤ト云フ山村ヲ夜分ニ通行セシ時、路傍ノ林ノハズレニ顏ノ長ク白ク眼ノ極メテ大ナル物ノ立ツヲ見テ、化物カト驚キテ更ニヨク檢スレバ、竹ノ尖ニ馬ノ髑髏ヲ插ミ古薦ヲ纏ハセタル山田ノ案山子ナリシ事ヲ記セリ〔寓意草下〕。此モ只ノ鳥威シナランニハ斯ル手數ヲモ掛クマジケレバ、何カ信仰上ノ目的アリシモノト考ヘラルヽナリ。今些シ古キ處ニテハ、攝州多田鄕ノ普明寺ノ什物ニ馬頭アリ。【多田滿仲】多田滿仲曾テ龍女ノ爲ニ大蛇ヲ退治シ、其禮トシテ名馬ヲ贈ラル。【馬塚】滿信ノ代ニ此馬死シ之ヲ塚ニ埋ム。文明二年ノ頃ニ至リ馬塚ニ每夜光明ヲ放ツ。和尙之ヲ禮スレバ馬首出現ス。【龍馬神】之ヲ金堂ニ納メテ龍馬神トスト云ヘリ〔和漢三才圖會七十四〕。馬首出現トノミアリテハ漠然タル不思議ナレド、實ハ寺僧ガ塚ヲ發キテ頭骨ヲ得來リシナリ。村民駒塚山頂ノ光物ヲ怖レテ戶ヲ出ルコト能ハザリシニ、之ヲ金堂ニ鎭祭シテ其妖熄ムト見エタリ〔攝陽群談三〕。【馬鬼】思フニ死馬ノ骨ヲ重ンズルノ風、今人ハ古人ノ如クナラザリシガ故ニ、終ニ信ズべカラザル馬鬼ノ說ヲ起シ、或ハ南部ノ高架(タカホコ)ニ七鞍ノ大馬ヲ說キ、サテハ豐後直入郡朽網鄕(クダミガウ)ノ嵯峨天皇社ニ、神馬黑嶽山ニ入リテ鬼ト爲ルコトヲ傳フルガ如キ〔太宰管内志〕、寧ロ國内ノ馬蹄遺跡ヲシテ其眞ヲ誤ラシムルノ傾キ無シトセズ。古伯樂道ノ名譽ノ爲、返ス返スモ悲シミ且ツ歎ズべキコトナリ。

 

《訓読》

 【硯の水】大なる磐石(ばんじやく)の上の窪み、通例、稱して「神馬の足跡」とするものの中に、若(も)し、絕えず一泓(いちわう)[やぶちゃん注:現代仮名遣「いちおう」。有意な大きさの水溜り。]の水を湛ふる處あれば、人は、又、之れを「硯の水」と名づけて尊敬したりしこと、其の例、甚だ多し。昔の田舍者は本書の著者のごとく徒書(むだがき)の趣味は解し居(を)らざりし故に、硯と言へば、經文とか證文とか、いづれ、重要なる物を認(したた)むべき道具と考へたりしなり。之れと靈馬の足跡とが結合すれば、一通りや二通りの有り難さに非ざりしは、勿論の話なり。從ひて、磨墨と云ふ馬が、其の名よりも實(じつ)よりも萬人の仰ぐべきものとなり得たりしは想像し易きことにて、斯(かか)る名を選定したる昔の誰かは、智者なりと謂ふべし。石見那賀郡石見村大字長澤には、馬蹄の形に似たる石を神體とする社ありき〔「石見外記」〕。石見國は硯に似たり、竹生島は笙(しやう)のごとし、などと云ふ古諺(こげん)もあれば、此れも硯の水の信仰と多少の因緣ありしかと思はる。【駒形神】駿河安倍郡大里村大字川邊の駒形神社の御正體(みしやうたい)も亦、一箇の馬蹄石なり〔「駿國雜志」〕。此れは多分、安倍川の流れより拾ひ上げし物にて、元は亦、磨墨の昔の話を傳へ居(ゐ)たりしならん。此の地方に於いて、磨墨を追慕することは、極めて顯著なる風習にして、此の村にも彼の村にも、其の遺跡、充滿す。前(さき)に擧げたりし多くの馬蹄石の外に、【馬の首】安倍川の西岸鞠子宿(まりこのしゆく)に近き泉谷村の熊谷氏にては、「磨墨の首の骨」と云ふ物を、數百年の間、家の柱に引き掛けたり。其の爲めに、此の家には、永く、火災無く、且つ、病馬・悍馬(かんば)[やぶちゃん注:性質の激しい荒馬。]を曳き來たりて、暫く其の柱に繫ぎ置くときは、必ず其の病ひ又は癖を直し得べしと信ぜられたり〔同上〕。之れに由りて思ふに、諸國に例多き駒留杉・鞍掛松・駒繫櫻の類ひは、恐らくは皆、此の柱と、其の性質・目的を同じくするものにして、之れを古名將の一旦の[やぶちゃん注:ある時のただ一度の。]記念に托言するがごときは、此の素朴なる治療法が忘却せられて後の話なるべし。陸中紫波郡東長岡ノ美々鳥(みゝどり)稻垣氏の邸内なる老松は、昔、此の家の先祖、山に入りて草を刈るに、其の馬、狂ふとき、之れを此の木へ繫げば、必ず靜止するにより、之れを奇なりとして、其の庭に移植すと云へり〔「大日本老樹名木誌」〕。此の說、頗る古意を掬(きく)する[やぶちゃん注:汲み取って(推し量って)理解する。]に足れり。更に一段の推測を加ふれば、此の種の靈木は亦、馬の靈の寄る所にして、古人は之れを表示する爲めに、馬頭を以つて、其の梢に揭げ置きしものには非ざるか。前年、自分は遠州の相良(さがら)より堀之内の停車場に向ふ道にて、小笠郡相草(あいくさ)村のとある岡の崖に僅かなる橫穴を掘り、【馬頭神】馬の髑髏(どくろ)を、一箇の石塔と共に其の中に安置してあるを見しことあり。それと熊谷氏の「磨墨の頭の骨の圖」とを比較するに、後者が之れを柱に懸くる爲めに耳の穴に繩を通してある外は些しも異なる點無く、深く民間の風習に古今の變遷少なきことを感じたる次第なり。羽前の男鹿半島などには、今も家の入口に魔除けとして、馬の頭骨を立て置くものあり〔『東京人類學會雜誌』第百八號〕。百五、六十年前の江戶人の覺書に、羽前の芹澤と云ふ山村を、夜分に通行せし時、路傍の林のはずれに、顏の長く、白く、眼の極めて大なる物の立つを見て、「化物か」と、驚きて、更によく檢(けみ)すれば、竹の尖(さき)に馬の髑髏を插み、古薦(ふるごも)を纏はせたる「山田の案山子(かかし)」なりし事を記せり〔寓意草下〕。此れも只だの鳥威(とりをど)しならんには斯(かか)る手數をも掛くまじければ、何か信仰上の目的ありしものと考へらるゝなり。今、些(すこ)し古き處にては、攝州多田鄕の普明寺(ふみやうじ)の什物に馬頭あり。【多田滿仲】多田滿仲、曾つて龍女の爲めに大蛇を退治し、其の禮として名馬を贈らる。【馬塚】滿信の代に、此の馬、死し、之れを塚に埋む。文明二年[やぶちゃん注:一四七〇年。]の頃に至り、馬塚に、每夜、光明を放つ。和尙、之れを禮すれば、馬首、出現す。【龍馬神】之れを金堂の納めて「龍馬神」とすと云へり〔「和漢三才圖會」七十四〕。馬首出現とのみありては漠然たる不思議なれど、實は寺僧が塚を發(あば)きて頭骨を得來りしなり。村民、駒塚山頂の光物を怖れて戶を出づること能はざりしに、之れを金堂に鎭祭して、其の妖、熄(や)む、と見えたり〔「攝陽群談」三〕。【馬鬼】思ふに、死馬の骨を重んずるの風、今人(きんじん)は古人のごとしくならざりしが故に、終に信ずべからざる馬鬼の說を起こし、或いは南部の高架(たかほこ)に七鞍の大馬を說き、さては、豐後直入(なほいり)郡朽網鄕(くだみがう)の嵯峨天皇社に、神馬、黑嶽山に入りて鬼と爲ることを傳ふるがごとき〔「太宰管内志」〕、寧ろ、國内の馬蹄遺跡をして其の眞を誤らしむるの傾き、無しとせず。古伯樂道の名譽の爲め、返す返すも、悲しみ、且つ、歎ずべきことなり。

[やぶちゃん注:「石見那賀郡石見村大字長澤」島根県浜田市長沢町(ちょう)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。 現在、町内には長澤神社しか見当たらないが、それが「馬蹄の形に似たる石を神體とする社」の後身なのかどうか(或いはここに合祀されているとか)は判らない。引用が過去形だし。

「石見國は硯に似たり」石見国の形を馬鹿正直に古地図で見えも始まらない。「石見」の二字を結合して「硯」に似たりと言っている言葉遊びの類いである。

「竹生島は笙(しやう)のごとし」島の形が雅楽器の笙に似ている(とは私は思わない)ことから「笙」を分解して「竹生」島となったという、これまたまことしやかな島の名の語源説の一つだが、寧ろ、古来より「神を斎(いつ)く島」であったその「いつくしま」が「つくぶすま」と訛り、「ちくぶしま」となったとする説の方が遙かに腑に落ちる。

「駿河安倍郡大里村大字川邊の駒形神社」駿府城址の南西の静岡県静岡市葵区駒形通にある駒形神社であろう。安倍川の左岸で川にも近い。

「安倍川の西岸鞠子宿(まりこのしゆく)に近き泉谷村」静岡県静岡市駿河区丸子泉ヶ谷(いずみがや)(国土地理院図。右下方が丸子市街地が旧鞠子宿)。地図で見ると、山家と見えるが、実はここにある臨済宗吐月峰柴屋寺(とげっぽうさいおくじ)は今川家七代当主に仕えた連歌師宗長(宗祇の弟子)が、京の銀閣寺を模した庭園を築き、四季の風物を眺め、余生を送った場所として知られ、借景や枯山水で国の名勝史跡にも指定されており、庵の前庭には北斗七星を模して配置した「七曜石」があって、古くから大名や文人が訪れた場所であった。

「陸中紫波郡東長岡ノ美々鳥(みゝどり)」岩手県紫波郡紫波町東長岡耳取(みみどり)であろう。「美々鳥」の方が美しいのになぁ。

「稻垣氏の邸内なる老松……」「大日本老樹名木誌」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁)。

「遠州の相良(さがら)より堀之内の停車場に向ふ道」「小笠郡相草(あいくさ)村」静岡県牧之原市相良がここで、「堀之内の停車場」というのは静岡県菊川市堀之内の東海道本線の菊川駅であろう。旧相草村は確かにその間(南東から北西に御前崎の根の部分を突っ切る形となる)の現在の菊川市南東部に当たるのであるが、この辺りは旧地名がごっそり消失してしまっており、この辺りとしか言いようがない。

『それと熊谷氏の「磨墨の頭の骨の圖」とを比較するに、後者が之れを柱に懸くる爲めに耳の穴に繩を通してある外は些しも異なる點無く、深く民間の風習に古今の變遷少なきことを感じたる次第なり』と言うか、馬の頭骨が極端に違ってたら、それこそ化け物でげしょう?!

「羽前の男鹿半島などには、今も家の入口に魔除けとして、馬の頭骨を立て置くものあり」どうも昨今はこの風習は廃れたようで、ネット検索に掛かってこない。淋しい。

「羽前の芹澤」山形県長井市芦沢か。

「攝州多田鄕の普明寺(ふみやうじ)」兵庫県宝塚市波豆(はず)字向井山ここは旧摂津国である)にある曹洞宗慈光山普明寺(ふみょうじ)。ウィキの「普明寺(宝塚市)」によれば、『平安時代中期に多田庄の領主であった源満仲の四男頼平が開山したと伝わる』。『当初』、『真言宗の寺院であり、長徳年間』(九九五年~九九八年)『には一条天皇の勅願寺となって寺領を有し栄えたと伝わる。しかし、鎌倉期以降は多田源氏の没落により』、『寺勢が傾き』、『衰退したという』。『江戸時代の初期には廃寺同様となっていたが、寛文年間』(一六六一年~一六七二年)の頃に『曹洞宗の寺院として再興され』た。現在も『源満仲が龍女の頼みで大蛇を退治したときに授けられたと伝えられる、二本の角を持つ馬の頭骨』が『寺宝として』あり、『雨乞いに使われる』とある。「多田滿仲」は既出既注「宝塚市」公式サイト内の「宝塚の民話」の「普明寺の龍馬神」が、満仲と龍女の話から、ここで語られる普明寺住職玉岩和尚(室町時代の文明二年のこととするから彼は真言僧である)のものまでも総てしっかり語れていて、必見!

『「和漢三才圖會」七十四』巻第七十四「攝津」の「川邊郡」のここ(標題。左下最後の一行のみ)とここ。国立国会図書館デジタルコレクションの明三五(一九〇二)年の版本。什物の「馬頭」の部分のみを所持する原本で電子化する。

   *

馬頭【什物】康保四年冬滿仲公入能勢山遊獵時夢龍

女來曰川下池有大蛇與我爲仇數年願君退治矣爲

贈一龍馬也果一馬在側滿仲以爲奇異乘其馬伐喪

大虵焉滿仲逝去後至滿信【滿仲之孫】甚愛之馬亦死焉藤

原仲光【家臣】埋馬屍於山岳上建一宇號駒塚山峯堂

後土御門院文明二年三月十八日以後毎夜駒塚有

光輝於普明寺住持玉岩和尚到駒塚誦普門品忽震

雷而馬首出現焉和尚携還納金堂以爲龍馬神

○やぶちゃんの書き下し文

馬頭【什物。】 康保四年[やぶちゃん注:九六七年。]の冬、滿仲公、能勢(のせ)の山に入り、遊獵する時、夢に、龍女、來たりて曰はく、「川下の池に大蛇有り。我と仇(あだ)を爲すこと、數年なり。願はくは、君、退治したまへ。爲めに一龍馬を贈る」と。果して、一馬、側らに在り。滿仲、以つて奇異と爲して、其の馬に乘りて大虵(だいじや)を伐(う)ち喪(ほろぼ)しぬ。滿仲逝去の後、滿信【滿仲の孫。】に至り、甚だ之れを愛すも、馬も亦、死せり。藤原の仲光【家臣。】、馬の屍(しかばね)を山岳に埋み、上に一宇を建て、「駒塚山(くちやうさん)峯の堂」と號す。後土御門院の文明二年三月十八日以後、毎夜、駒塚に光有り、普明寺に輝く。住持玉岩和尚、駒塚に到りて、「普門品」を誦すに、忽ち、震雷して、馬の首、出現す。和尚、携(たづさ)へ還り、金堂の納む。以つて「龍馬神」と爲す。

   *

ここに出る能勢の山」は兵庫県川西市及び大阪府豊能郡豊能町(とよのちょう)・能勢町及び京都府に跨る妙見山の異名で、山頂には嘗つて行基建立と伝える為楽山大空寺があったが、鎌倉時代に入ると、源満仲を遠祖とする能勢氏が領主となり、その地に妙見菩薩を祀ったとされる。その後、江戸初期に当時の領主能勢頼次の帰依を受けた日乾(後の日蓮宗総本山身延山久遠寺二十一世)の手によって新たな妙見菩薩像が彫られ、大空寺趾に建立した仏堂に祀ったのが現在の能勢妙見堂である(ここはウィキの「妙見山(能勢)」に拠った)。この山、馬との強い絡みがあることが判る。

「南部の高架(たかほこ)に七鞍の大馬を說き」既出既注。未だに「高架」は限定的にはどこだか判りませんが。

「豐後直入(なほいり)郡朽網鄕(くだみがう)の嵯峨天皇社」大分県竹田市久住町大字仏原の宮處野(みやこの)神社。ここは嵯峨天皇を祭神の一柱としていることから、旧称を「嵯峨宮樣」と呼ばれていた。こちらの解説によれば、原型は『景行天皇がこの地方の土蜘蛛を征伐した際の行宮跡に天皇をお祭りしたことに始まると伝えられて』おり、『その後、平安時代に直入擬大領の女『腎媛』が嵯峨天皇の采女とな』って、『上皇崩御の後、故郷来田見に帰り』、『剃髪し』て『尼となり、恩賜の品を産土の境内に埋め』、『日夜勤仕する。女の兄はこれを見て哀れみ』、『景行官の傍らに神宮を造営した。これが現在の神社の起源で『嵯峨宮様』と呼ばれ』、『永くこの地方の人々に崇敬され、明治になって宮処野神社と改称された』とある。

「黑嶽山」同神社の後背地と思われるが、不詳。

「太宰管内志」以上は同書の中巻の「豐後之四」の「直入郡」の「○嵯峨天皇社」(国立国会図書館デジタルコレクションの明四三(一九一〇)年日本歴史地理学会刊の版本)に書かれてある。えぇい! 序でだ! 視認して電子化するわな! 句読点や推定訓読を施して読み易くした。

   *

 ○嵯峨天皇社

〔社記略〕に、豐後國直入郡朽網鄕市村嵯峨、毎年十月十五日、當社に於いて神保會を行ふ。神官日野姓、此社に仕ふ。大友家、代々、神馬を献ず。大友政親[やぶちゃん注:文安元(一四四四)年~明応五(一四九六)年。室町・戦国時代の守護大名。豊後国大友氏第十六代当主。]の時に當り、神馬、放失し、畢んぬ。大友義鑑[やぶちゃん注:よしあき。戦国大名。文亀二(一五〇二)年~天文一九(一五五〇)年。同第二十代当主。]の時に至り、彼の馬、鬼に現じ、黑嶽山に住みて、晝夜を分かたず往來の人及び六畜[やぶちゃん注:馬・牛・羊・犬・豕・鶏の家畜。]等を取り食らふ。義鑑、此の事を聞き、將に黑嶽に狩らんとす。大友家臣大久保藏人(くらうど)・城後(じやうご)因幡二人、此の事を乞ひ請け、夜中、黑嶽の麓に到り、今の水越大草場に於いて、之れを待つ。黑嶽の上より、馬鬼、飛び來たり、城後を襲ふ。城後、長刀(なぎなた)を以つて、之れを貫き、大久保も亦、矢を放つ。羽を呑み、馬鬼、遂に死すとあり。〔森氏[やぶちゃん注:不詳。]云はく、〕嵯峨天皇社の祭を「かたげ市」といふ。祭の夜に參詣するもの、男女、みだりにあふことあり〔万葉集九卷〕に、『筑波嶺(つくばね)に登りて嬥歌會(かがひ)[やぶちゃん注:上代の東国地方で歌垣(うたがき)を指す語。]を爲(せ)し日に作れる歌』、『嬥歌は東(あづま)の俗語(くによりのこと)に「賀我比(かがひ)」と曰ふ』[やぶちゃん注:以上は一七五九番の前書と、後書の原注。]とあり、是れ、彼(か)の「嬥歌會」の遺風なるべしといへり。嬥歌會の事は日田郡五馬媛(いつまひめの)社の件(くだり)にも云へるを、かんむがふべし【嵯峨天皇の社の馬鬼の事は〔九州治亂記〕にも見えたり。さて、「かたげ市」と云ふは、かの神保會の事なるか、いまだ委しくも考へず。】。

   *

現在も宮處野神社の秋季大祭を「神保会(じんぼえ)」と称し、現行では毎年十月第二土曜日に行われている。先に引いたこちらの解説によれば、『県選択無形民俗文化財』に指定されており、これは『新任国司が有名神社へ神宝を奉った祭儀を』指す、「神宝会」に『由来すると云われている』とある。「五馬媛(いつまひめの)社の件」はここであるが、そこでも九月の祭礼の間、市が立っている間は、毎夜、男女が契る(野合であろう)ことが自由で、女性でも未婚既婚を問わず、既婚者の夫もこれを咎めないとあり(夫も他の女と交合するからとある)、それをやはり「かたげ市」と称するとする(古称は「かがひ市」であったかと推定している)。しかも、その最後の割注で筆者は、『こゝの方言にも男より、しひて女に交はるを「カタゲル」といふなり。是れなるべし』とも述べている。これは思うに「神保会」=「かがひ市」「かたげ市」なのではなく、神保会の「ハレ」の時空間に於ける神人交合の写しであり、これは近現代まで各地で「八朔の祭り」などと称して盛んに行われていたものである。それを「かがい」と呼んだのは如何にもお洒落ではないか。それで子供ができたらどうするかって? それは自分らの子と夫が認知するか、或いは「神の子」として秘かに処分するか、或いは「神の子」として村が責任を持つて共同で育てるのである。――自分の子を平気で捨てたり、虐待の末に殺す輩が跋扈している現代と――どっちが野蛮か――よく考えてみるがよかろう。]

サイト「鬼火」開設十四周年記念 伊良子清白句集(附・縦書版)

本日のサイト「鬼火」の開設十四周年記念として「伊良子清白句集」縦書版も附けた)を公開した。

2019/06/25

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(44) 「磨墨ト馬蹄硯」(1)

 

《原文》

磨墨ト馬蹄硯   源平合戰ノ語部(カタリベ)ガ磨墨ト云フ駿馬ヲシテ天下ニ有名ナラシメタルハ、亦誠ニ深キ用意ノ存スルモノアリシニ似タリ。此命名ハ察スル所單ニ毛ノ色ノ黑カリシ爲ト云フノミニ非ズ。東上總ノ硯村ノ口碑ガ之ヲ想像セシムル如ク、石上ニ印シタル馬蹄ノ跡ヲ以テ硯ニ譬フルコト常ノ習ヒナリシガ故ニ、乃チ此ニ思ヒ寄セタリシモノナリ。太夫黑ヲ一ニ薄墨ト稱ストアルモ同ジク此因緣無シトハ言ヒ難シ。何トナレバ此馬出デタリト稱スル房州太夫崎ノ海岸ニハ亦多クノ馬蹄石ヲ產スルナリ。即チ巨巖ノ表面ニ跡ノ存スルモノトハ別ニ、此ハ馬蹄ノ形ヲ打込ミタル石ノ小片ニシテ、世人之ヲ採リテ硯ニ製スル者少ナカラズト云フ〔千葉縣古事志〕。蓋シ其一端ノ深ク凹メル部分ヲ硯ノ海トスルトキハ、多分ノ工作ヲ加ヘズシテ之ヲ圓キ硯ニ用ヰ得べケレバナリ。日向ノ鵜戶濱(ウドノハマ)ニモ馬蹄石ヲ出ス。【自然硯】土地ノ人ハ之ヲ自然硯ト稱ス〔雲根志後篇〕。土佐ノ國產ニモ亦馬蹄石アリ。前年之ヲ墺太利ノ博覽會ニ出品セシコトアリ〔南路志續編稿草二十三〕。【陰陽石】甲州ノ駒ケ嶽ニモ所謂陰陽石ヲ多ク產ス。其陰石ノ一種ニ同ジ形ヲセシ物ヲ又馬蹄石トモ云ヘリ〔雲根志後篇〕。駿河ノ安倍川ノ溪ヨリ馬足石ト云フ硯石ヲ產セシハ古キ世ヨリノ事ナリ〔渡邊幸菴對話〕。同ジ川ノ支流藁科(ワラシナ)川ノ附近ニモ往々ニシテ小サキ馬蹄石ヲ出ス。或ハ片面或ハ兩面、恰モ馬蹄ヲ以テ踐ムガ如ク、色黑クシテ甚ダ堅キ美石ナリ、之ヲ割レバ石中ハ殘ラズ金星ナリ〔雲根志後篇〕。之ヲ硯トシテ願ヒ事ヲ書ケバ成就スト云フ俗信アリキ〔駿國雜志〕。蓋シ必ズシモ斯ル奇形ノ自然石ヲ以テ製セズトモ、圓キ硯ナラバ形似タルガ故ニ之ニ馬蹄ト銘ヲ打ツハ有リ得べキコトナリ。唯其硯ニ何カノ奇特ヲ附會セントスルニ至リシハ、ヤハリ亦神馬ノ崇敬ニ基スルモノト認メザルべカラズ。大和當麻寺(タエマデラ[やぶちゃん注:ママ。不審。誤植と断じ、訓読では現行通り、「たいまでら」に訂する。])ノ什物ノ中ニ、小松内大臣ガ法然上人ニ寄進シタリト云フ松蔭ノ硯ハ、硯筥ノ蓋ニ馬蹄ト書シテ野馬ノ繪ヲ蒔キタリ。硯ノ形ノ似タルガ故ニ馬蹄トハ名ヅケシナラント云ヘリ〔其角甲戌紀行〕。鎌倉鶴岡ノ八幡宮ニモ之ト同樣ノ馬蹄硯アリ〔集古十種〕。又別ニ源賴朝所持ノ品ト稱シ、上ニ雲ト片破月トヲ彫刻シタルモノアリ〔同上〕。【池月磨墨】天長元年ノ銘文アルニモ拘ラズ、何故カ人ハ之ヲ池月磨墨ノ硯ト名ヅケタリ。秩父吾野ノ子(ネノ)權現社ノ神寶ニモ一ノ馬蹄石アリシガ〔新編武藏風土記稿〕、此ハ硯ニ用ヰラレタリシヤ否ヤヲ知ラズ。

 

《訓読》

磨墨と馬蹄硯   源平合戰の語部(かたりべ)が、磨墨と云ふ駿馬をして、天下に有名ならしめたるは、亦、誠に深き用意の存するものありしに似たり。此の命名は、察する所、單に毛の色の黑かりし爲めと云ふのみに非ず。東上總の硯(すずり)村の口碑が之れを想像せしむるごとく、石上に印したる馬蹄の跡を以つて、硯に譬ふること、常の習ひなりしが故に、乃(すなは)ち、此れに思ひ寄せたりしものなり。太夫黑を一(いつ)に薄墨と稱すとあるも、同じく此の因緣無しとは言ひ難し。何となれば、此の馬、出でたりと稱する房州太夫崎の海岸には亦、多くの馬蹄石を產するなり。即ち、巨巖の表面に跡の存するものとは別に、此れは馬蹄の形を打ち込みたる石の小片にして、世人、之れを採りて、硯に製する者、少なからずと云ふ〔「千葉縣古事志」〕。蓋し、其の一端の深く凹める部分を硯の海とするときは、多分の工作を加へずして、之れを圓(まろ)き硯に用ゐ得べければなり。日向の鵜戶濱(うどのはま)にも馬蹄石を出だす。【自然硯(しねんけん)】土地の人は之れを「自然硯」と稱す〔「雲根志」後篇〕。土佐の國產にも亦、馬蹄石あり。前年、之れを墺太利(オーストリー[やぶちゃん注:読みは「ちくま文庫」版に従った。])の博覽會に出品せしことあり〔「南路志續編稿草」二十三〕。【陰陽石】甲州の駒ケ嶽にも、所謂、陰陽石を多く產す。其の陰石の一種に、同じ形をせし物を、又、馬蹄石とも云へり〔「雲根志」後篇〕。駿河の安倍川の溪より、馬足石と云ふ硯石を產せしは古き世よりの事なり〔渡邊幸菴對話〕。同じ川の支流藁科(わらしな)川の附近にも、往々にして小さき馬蹄石を出だす。或いは片面、或いは兩面、恰かも馬蹄を以つて踐(ふ)むがごとく、色、黑くして、甚だ堅き美石なり。之れを割れば、石中は、殘らず金星なり〔「雲根志」後篇〕。之れを硯として、願ひ事を書けば、成就す、と云ふ俗信ありき〔「駿國雜志」〕。蓋し、必ずしも斯(かか)る奇形の自然石を以つて製せずとも、圓き硯ならば、形、似たるが故に、之れに「馬蹄」と銘を打つは、有り得べきことなり。唯だ、其の硯に何かの奇特(きどく)を附會せんとするに至りしは、やはり亦、神馬の崇敬に基(もとゐ)するものと認めざるべからず。大和當麻寺(たいまでら)の什物(じふもつ)の中に、小松内大臣が法然上人に寄進したりと云ふ「松蔭の硯」は、硯筥(すずりばこ)の蓋(ふた)に「馬蹄」と書して野馬の繪を蒔(ま)きたり。硯の形の似たるが故に「馬蹄」とは名づけしならんと云へり〔其角(きかく)「甲戌紀行(かふいぬきかう)」〕。鎌倉鶴岡の八幡宮にも、之れと同樣の馬蹄硯あり〔「集古十種」〕。又、別に源賴朝所持の品と稱し、上に雲と片破月(かたわれづき)とを彫刻したるものあり〔同上〕。【池月磨墨】天長元年[やぶちゃん注:八二四年。]の銘文あるにも拘らず、何故か人は之れを「池月磨墨の硯」と名づけたり。秩父吾野(あがの)の子(ねの)權現社の神寶にも一つの馬蹄石ありしが〔「新編武藏風土記稿」〕、此れは硯に用ゐられたりしや否やを知らず。

[やぶちゃん注:「東上總の硯(すずり)村」既出既注。千葉県いすみ市下布施(しもぶせ)硯https://maps.gsi.go.jp/#16/35.238337/140.355556/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
国土地理院図。何故かリンクが不具合を起こすので、URLで示した(見える部分だけを左ペーストし、そのままティルト・アップ)

「房州太夫崎」既出既注千葉県鴨川市江見太夫崎(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「日向の鵜戶濱(うどのはま)」鵜戸神社のある宮崎県日南市宮浦の浜と思われるが、不詳。浜なら、南の根の湾奧であろうが、浜で「馬蹄石を出だす」というのはおかしいから、鵜戸神社周辺の岬の南・北・東の何れかの海岸線(航空写真を見ると、総て非常に荒い岩礁性海岸である)と推定する。これは「雲根志」の後篇の巻之三の「二」の「馬蹄石(ばていせき)」で、その一部に『日向國ウトノ濱にて自然硯(しねんけん)と云』(これだけである)とあったので、その読みで振った(引用底本は思潮社の「復刻 日本古典全集」版(昭和五四(一九七九)年刊)に拠った。以下同じ)

「南路志續編稿草」書名注は附けない約束だが、これは文化一二(一八一五)年の高知地誌大叢書「南路志」(高知城下朝倉町に住む武藤到和・平道父子が中心となって編纂した百二十巻にも及ぶ高知地誌の大叢書)を受ける形で、明治以降、高知県史誌編輯係によって編せられた近代のものと思われ(高知県文化財団埋蔵文化センターの公式報告書の注データから推定)、書誌学的には「南路志」自体とのダイレクトな連関性を私は認めたくないので、『「南路志續編」稿草』とはせず、全体を鍵括弧で括って差別化した。

『甲州の駒ケ嶽にも、所謂、陰陽石を多く產す。其の陰石の一種に、同じ形をせし物を、又、馬蹄石とも云へり〔「雲根志」後篇〕』前注と同じ「雲根志」後篇巻之三の「二」の「馬蹄石」の一節。『大井川安部(あべ)川』(ママ)『にもこれを出す甲州駒嶽(こまがたけ)に同形同品のものあり此兩所ともに陰陽石(いんやうせき)をす馬蹄石(ばていせき)陰石の一種也陽石別條に出す考知るべし』(以下、前に引いた日向のそれに続く)とある。

「駿河の安倍川」安倍川(あべかわ)は静岡県静岡市葵区及び駿河区を流れる。ウィキの「安倍川」によれば、『清流としても有名で』、『その伏流水は静岡市の水道水にも使われて』おり、また『大河川でありながら』、『本流・支流にひとつもダムが無い珍しい川である』とあり、また、『「安部川」や「あべがわ」の表記もあるが、これらは誤りである』とある。ここ

『同じ川の支流藁科(わらしな)川の附近にも、往々にして小さき馬蹄石を出だす。或いは片面、或いは兩面、恰かも馬蹄を以つて踐(ふ)むがごとく、色、黑くして、甚だ堅き美石なり。之れを割れば、石中は、殘らず金星なり〔「雲根志」後篇〕』前注と同じ「雲根志」後篇巻之三の「二」の「馬蹄石」の冒頭。『相摸國府中藁科品』(ママ)『河(わらしながは)は大井(おほゐ)河の水上(みなかみ)なり此近邊に馬蹄石(ばていせき)あり大石に多し小石には稀なり或は片面にあり或は兩面踐(ふ)むが如し其堅き美石也是を破(やぶれ)は』(ママ)『石中不殘(のこらず)金星(きんせい)あり此邊の山中又河中に在』(で前注の大井川に続く)とある。抄録で面白くないってか? それじゃよ、全部やっといてやろうじゃあねえか! 句読点・送り仮名・濁点その他を振って訓読し、読み易くしといてやったっけな!

   *

     馬蹄石(ばていせき) 

相摸國府中、藁科品河(わらしながは)は大井(おほゐ)河の水上(みなかみ)なり。此の近邊に馬蹄石(ばていせき)あり。大石に多し。小石には稀なり。或いは片面にあり、或は、兩面、踐(ふ)むが如し。其れ、堅き美石なり。是れを破(やぶれ)ば、石中、殘(のこら)ず金星(きんせい)あり。此の邊りの山中、又、河中に在り。大井川・安部(あべ)川にも、これを出だす。甲州駒嶽(こまがたけ)に、同形同品のものあり。此の兩所、ともに陰陽石(いんやうせき)をす。馬蹄石(ばていせき)、陰石の一種なり。陽石、別條に出だす考へ、知るべし。日向國、「ウトノ濱」にて、「自然硯(しねんけん)」と云ふ。近江國石部宿(いしへのしゆく)の北、菩提寺(ぼだいじ)村の山中にあり、少し輭(やはらか)にて鼠色(ねずみいろ)なり。石、性、馬瑙[やぶちゃん注:ママ。](めのう)に似たり。里人云はく、『良弁僧都(りやうべんそうづ)、乘り給へる馬の足跡なり』と。同國石山寺子安(こやす)堂の下に馬蹄石あり。又、河内國下(しも)の太子(たいし)に、馬蹄石、有り。讚岐國陶村(すゑむら)にもあり。又、相摸國狐崎(きつねざき)に梶原(はじはら)が馬の足跡(あしあと)石といふものあり。大石上に、馬蹄、踏(ふむ)がごとし。又、大和國初瀨(はつせ)近邊、橫野(よこの)の石、越前江畑(ゑばた[やぶちゃん注:活字に不審があるが(実際には「ゐ■た」で判読不能)、これで採った。])といふ所の、江畑川の中なる大石、皆、馬蹄。數箇所あり。漢書に廣武(くはうぶ)の馬蹄谷(ばていこく)、馬(ば)蹄、石、踐(ふ)むがごとし、といへるも、今と同じかるべし。

   *

「大和當麻寺(たいまでら)」言わずもがな、奈良県葛城市當麻の二上山當麻寺。現在は真言宗と浄土宗の並立寺院。

の什物(じふもつ)の中に、小松内大臣が法然上人に寄進したりと云ふ

「松陰の硯」公式サイト「當麻寺奥院」(浄土宗側運営)のこちらに、「平家物語」に由来が登場する「松蔭硯」の写真有り。私はこれ以上調べる気は、ない。悪しからず。

「蒔(ま)きたり」「蒔絵にしてある」の意。「蒔絵」とは器物の表面に、漆で文様を描いて金・銀などの金属粉や色粉を散らし埋め込んだ日本独自の漆工芸。多様な手法があり、奈良時代に始まる。

『其角(きかく)「甲戌紀行(かふいぬきかう)」』宝井其角が元禄七(一六九四)年九月に紀州・摂州を中心に遊歴した際の日記風の糞のような短文。ここ(国立国会図書館デジタルコレクションの「紀行文集 続」(明治四二(一九〇九)年博文館刊「続帝国文庫」版)の当該記載)で読める。おう! これも次いでだ! 電子化しといてやろうじゃねえか!(歴史的仮名遣の誤りは総てママ)

   *

當朝寺(たへまでら)。奥院(をくのいん)にとまりて。

  小夜しぐれ人を身にする山居哉

當院にて靈寳(れいはう)什物(じうもつ)さまざまあり、中にも小松殿(こまつどの)、法然(ほうねん)上人へまゐらせられる松陰(まつかげ)の硯あり。箱の上に馬蹄(ばてい)と書(かい)て野馬(やば)を書けり。硯の形が蹄(ひづめ)に似たるゆゑなるべし。

  松陰のすゞりに息(いき)をしぐれ哉

   *

ロケーション・クレジットは記載から、九月二十四日より後の二十八日以前の近日。

『鎌倉鶴岡の八幡宮にも、之れと同樣の馬蹄硯あり〔「集古十種」〕』これかしらん(国立国会図書館デジタルコレクション)。「新編鎌倉志」の巻第一の鶴岡八幡宮の「神寶」にある(リンク先は私の電子化注)、

   *

硯箱(スヾリハコ) 壹合。梨地(ナシヂ)蒔繪(マキヱ)、籬(マガキ)に菊(キク)を金具(カナグ)にす。内に水入(ミヅイレ)筆管あり。共に銀にて作る。

   *
とあるのはこれであろう。

「源賴朝所持の品と稱し、上に雲と片破月(かたわれづき)とを彫刻したるものあり」こちら(国立国会図書館デジタルコレクション。左ページ。「天長元年」、読めますな)かな。

「秩父吾野(あがの)の子(ねの)權現社」埼玉県飯能市大字南にある天台宗大鱗山雲洞院天龍寺。通称、子権現(ねのごんげん)天龍寺で知られ、足腰守護を謳っているから、馬蹄石があって(あったとして)もおかしくはない。公式サイトはこちらであるが、「馬蹄石」の記載はない。]

序に代へて 伊良子清白 /(歌集の序の代わりとした詩篇)

 

序に代へて

 

 

   

 

若き人達集(つど)ひて、

涼しき夏の濱邊に、

オリンポスの神々の如(ごと)、

若やかなる饗宴を開きぬ。

靑き髮微風に縺れ、

微笑(ほゝゑみ)の唇忘我の花匂へり。

殘燻未だ山の端に薄く、

蒼茫として萬波一頃(けい)を湛ふ。

島の上投げ揚げられし月の球は、

おどけたる樣(さま)に空に浮び、

雲の林水脈(みを)曳きて、

あるかなきかに漂ふ。

 

   

 

此時我は思ふ。

⦅あはれ、人生の哀求(あいぐ)は、

血の夕暮、淚の曉を過ぎて、

なほ滿し難し。

何故の生死(いきしに)ぞ!、

かの永遠をおもふて、

寂しさ限りなし。

刹那(せつな)の蝶を眼前に追ひ、

愁(うれ)ひの市(まち)に幻(まぼろし)を繫ぐ。

ああ朱(あか)き陽(ひ)は虞淵(ぐゑん)に沒りぬ。

われは老いて之を知る、

われは哭(な)きて人に告ぐ、

紅顏の因緣(いはれ)を、

欒園の悲哀(ひあい)を。

死者よ、紺碧の氷河を越えて去れ。

嬰兒(みどりご)よ、月界の崫(いはや)を開きて來れ。

すべてはとどまらず、すべては慌(あわただ)し、

滅(ほろ)びの奏鳴曲(ソナタ)!、

時の妖魔(あやかし)蒼ざめて立つ。

パンドーラの小筐(ばこ)の紐は美し⦆と。

 

   

 

おお、黃金の牡牛よ、

偉大の肉體よ、

健康の立像よ

淸艶の薔薇(せうび)に

聖愛の祠(ほこら)を齋(いつ)きて

光耀(くわうゑう)の白鳥(はくてう)は

魂(たましひ)の故鄕(ふるさと)に翔(かけ)る。

ああ、今し滿ちきたる新潮(にひじほ)の音、勝利の響

とうとうとして、トリトン螺(ら)を吹く。

(饗宴の莚(むしろ)、酣なりや)

 

[やぶちゃん注:昭和一六(一九四一)年二月二十五日志支良社刊の「志支浪歌集」。署名は「伊良子清白」。「!、」の読点はママ。「虞淵(ぐゑん)」と後の「光耀(くわうゑう)」のルビの「ゑ」は孰れもママ。「小筐(ばこ)」の「ばこ」は「筐」一字へのルビ。本歌集は清白が特別同人となっていた三重歌壇の代表的歌人印田巨鳥(いんだきょちょう 明治二七(一八九四)年~昭和五四(一九七九)年)の主宰した歌誌『志支浪』(しきなみ)の単行アンソロジー歌集である。但し、この月を以って同誌は休刊しているから(戦後に復刊している)、その名残の集大成とも言うべきものであろう。清白は本書に「歸鄕」と総標題した十二首の新作短歌を発表している。なお言っておくと、私は大の短歌嫌いなので、向後、伊良子清白の短歌群を電子化する意思は残念ながら全くない。悪しからず。それはまた、私のような好事家で短歌好きの方がやってくれることを期待されよ。但し、詩篇電子注化も残すところ五篇なので、近々、伊良子清白の全俳句は電子化するつもりではある。

「頃(けい)」は本来は中国古代からの田畑の面積単位で百畝相当(時代によって大きさは異なる)であるが、ここは「萬頃」(ばんけい)の熟語で「水面が広々としていること」を指す。

「虞淵(ぐゑん)」(歴史的仮名遣は「ぐえん」でよい)は中国の伝説上の、太陽の没するところとされる場所。]

2019/06/24

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(43) 「水邊ニ牧ヲ構ヘテ龍種ヲ求ム」(4)

Tatunosutego

海馬  タツノステゴ

 日東魚譜卷四ヨリ

[やぶちゃん注:図は「ちくま文庫」版の挿絵をトリミングしたもの。キャプションは原典では右から左書き。「日東魚譜」(原本は全八巻)は本邦(「日東」とは日本の別称)最古の魚譜とされるもので、魚介類の形状・方言・気味・良毒・主治・効能などを解説する。序文には「享保丙辰歳二月上旬」とある(享保二一(一七三六)年。この年に元文に改元)。但し、幾つかの版や写本があって内容も若干異なっており、最古は享保九(一七一九)年で、一般に知られる版は享保一六(一七三一)年に書かれたものである(以上は主に上野益三「日本動物学史」平凡社一九八七年刊に基づく『東京大学農学部創立125周年記念農学部図書館展示企画 農学部図書館所蔵資料から見る「農学教育の流れ」』の谷内透氏のこちらの解説に拠ったが、それよりも序についてみると、もっと古い版がある模様である)。多様な写本類については「Blog版『MANAしんぶん』」の「日東魚譜について」が詳しい。著者神田玄泉(生没年不詳)は江戸の町医。出身地不詳。玄仙とも。他の著作として「本草考」「霊枢経註」「痘疹口訣」などの医書がある(事蹟は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの書写版では「巻三」所収で、明らかに図が異なる私のブログ・カテゴリ「日東魚譜」のこちらで本文を含めて全電子化訓読と注を施しておいたので是非参照されたい。

 

《原文》

 肥前五島ノ生月島ハ式ニ所謂生屬牧(イケヅキノマキ)ノ故地ナリシト共ニ、後世マデモ海ニ臨メル一箇ノ產馬地ナリキ。甲子夜話ノ記スル所ニ依レバ、此島ノ岸壁ニ生ズル名馬草ト云フ植物ハ、牝馬之ヲ食ヘバ必ズ駿逸ヲ生ム。故ニ之ヲ求メントシテ足ヲ誤リ屢崖落ヲシテ死スル馬アリト〔續甲子夜話五十七〕。悲シイ哉馬ヤ、汝モ亦人ノ親ト其痴ヲ競ハンコトヲ欲スルナリ。但シコノ絕壁ノ端ニ生ズト云フ名馬草ハ果シテ如何ナル草カ、自分ハ唯寡聞ヲ恥ヅルノミナレドモ、【神馬草】此ト些シク名ノ似タル海邊ノ植物ニ神馬草ト云フ物ハアリ。萬葉集ナドニ所謂莫告藻(ナノリソ)、今モ正月ノ注連飾ニ用ヰル「ホダハラ」又ハ「ホンダハラ」ハ即チ是ナリ。「ナノリソ」ヲ神馬草ト書クハ、神ノ馬ナレバ騎ル勿レト云フコト、即チ莫騎(ナノリソ)ノ意ニ托シタルモノナリト云フ說アリ〔倭名砂〕。前ニ擧ゲタル重之ノ歌ノ

  チハヤフルイヅシノ宮ノ神ノ駒ユメナ乘リソネ祟リモゾスル

ト云フ例モアレド、些シク信ジニクキ口合ナリ。又一說ニハ神功皇后征韓ノ御時、船中ニ馬ノ秣無クシテ海ノ藻ヲ採リテ之ニ飼フ。其時ヨリ此草ヲ神馬草ト呼ブト云ヘリ〔下學集、言塵集其他〕。羽後ノ古名所蚶潟(キサカタ)ノ浦ニテハ、皇后此渚ニ御船寄セタマヒシ時此事アリキト稱ス〔齶田乃苅寢〕。海草ヲ以テ馬ヲ養フト云フコトハ疑ハシケレド、例ヘバ馬醫ノ藥ノ料トスト云フガ如キ、何カ然ルべキ仔細ノ古クヨリ存セシ爲此名アルナランカ。要スルニ海ハ永古ノ不可思議ナリ。人ハ朝夕其渚ニ立チ盡スト雖、終ニ蒼波ノ底ニ在ル物ヲ知リ得ズ。【海ノ寶】故ニ萬ノ寶ハ海ヨリ出デテ海ニ復ルト考フル者多カリシナリ。殊ニ日本ノ如キ島國ノ人ハ斯ク思ハザリシナラバ却リテ不自然ナリ。近キ歷史ニ於テモ、例ヘバ鹿兒島縣ノ今ノ馬ノ種ハ異國ノ名馬ニ由リテ之ヲ改良スト稱ス。或年タシカ海門嶽ノ沖合ニ於テ歐羅巴ノ船一ツ難船ス。乘客ハ皆死歿シ、馬二頭陸地ヲ目掛ケテ泳ギ著キタリシヲ、取繫ギテ之ヲ領主ノ牧ニ放セリ云々。アマリ古キ代ノ事ニモ非ズト云ヘド、心カラカ聊カ傳說ノ香ヲ帶ビタル話ナリ。【海馬】海ノ中ニハ又海馬ト云フ物アリ。海馬ニハ大小全ク別箇ノ二種類アリ。大ハ即チ「トヾ」トモ云フ獸ニテ、北蝦夷ノ海馬島(トドジマ)其他、洋中ノ孤島ニ住ム物ナリ。土佐駒ノ高祖父ト稱スル海鹿ハ海驢(アシカ)ニ非ザレバ即チ此物ナルべシ。小サキ方ハ名ヲ龍ノ落子ナドトモ云フ一種ノ蟲ナリ。薩州上甑島串瀨戶ノ甑島大明神ノ社ニテハ、九月九日ノ祭ノ日ニ蜥蜴ニ似タル奇魚必ズ渚ニ飛上ル。土人之ヲ名ヅケテ龍駒ト云フト云ヘリ〔三國名勝圖會〕。漢名ヲ海馬トモ水馬トモ書キ、我邦ニテハ「アサノムシ」、「シヤクナギ」又ハ「タツノステゴ」ナドト云フ物ハ此ナリ。【子安ノ守】乾シ貯ヘテ婦人ノ產ヲスルトキ、之ヲ手中ニ持タシムレバ產輕シト云フ〔大和本草〕。沖繩ニテ「ケーバ」ト云フ物モ、首ハ馬ノ如ク身ハ蝦ノ如シ安產ノ守トスト云ヘバ同ジ物ナリ〔沖繩語典〕。此等ノ學說ハ其漢名ト共ニ支那ヨリ渡來セシモノトモ云フべシ。例ヘバ證類本草ニハ異物志ヲ引キテ、海馬ハ西海ニ生ズ大小守宮蟲ノ如ク形ハ馬ノ形ノ若シ云々、婦人難產ヲ主ル、之ヲ身ニ帶ブト云ヒ、神驗圖經ニハ頭ハ馬ノ形ノ如シ蝦ノ類ナリ、婦人將ニ產セントシテ之ヲ帶ブ、或ハ手ニ之ヲ持チ或ハ燒末シテ飮服スルモ亦可ナリト謂ヒ、異魚圖ニ之ヲ收メ暴乾シテ雌雄ヲ以テ對ト爲ス、難產及ビ血氣ヲ主ルト云ヘルガ如キ〔古名考五十三所引〕皆彼國ノ說ナリ。サレド日本ニテモ源平ノ時代ニ、貴人御產ノ後御乳付ノ具御藥ナドト共ニ海馬六ヲ箱ニ納レテ獻上セシコト見ユレバ〔同上所引山槐記治承二年十一月十二日條〕、古クヨリ此信仰ハアリシナリ。此物越後ヨリ羽前ノ海岸ニ掛ケテハ之ヲ龍ノアラシ子ト云フ。浦々ノ小魚ニ交リテ稀ニ漁夫ノ網ニ入ル。形ハ一寸四五分ヨリ二寸ホド、頭ハ馬ニヨク似テ腰ハ曲リテ蝦ノ如ク尾ハ蜥蜴ト同ジ。雄ハ靑ク雌ハ黃色ナリ〔越後名寄十七〕。【鳥海山】出羽ノ鳥海山ハ頂上ニ鳥海ト云フ湖水アリ。不思議ナルコトニハ海馬亦此湖水ニモ住シ、全ク海ニ居ル龍ノ荒兒ト同物ナリ。或ハ海氣ノ雨ヲ釀ストキ此物雲ニ乘リテ空ニ騰リ山山ノ岩際ニ下ルナラント謂ヘリ。此地方ノ田舍人モ之ヲ難產ノ女ノ手ニ持タシム〔莊内物語附錄〕。古書ニハ之ヲ記シテ鳥海山頂ノ池ニ長サ六七寸ノ龍アリト云ヘリ。常民ハ敢テ登ラズ行人等獨リ往キテカノ龍ヲ取來ル。一年バカリノ内ハ生アリト見エテ、座敷ニ置キテ扇ニテアオゲバヒラリヒラリト竪橫ニナリテ畫ニ描ケル龍ノ如ク飛ブ。一年過ギテハ死スルニヤ扇ギテモ舞ハズト云ヘリ〔觀惠交話上〕。龍ト馬トハ兎ニ角ニ因緣深シ。【白馬釣龍】朝鮮ノ古傳ニテモ、扶餘縣ノ釣龍臺ハ昔蘇定方百濟征討ノ時、江頭ニ風雨ヲ起ス物ヲ退治セントテ、白馬ヲ餌トシテ淵ニ一龍ヲ釣リ得タリ。故ニ江ヲ白馬江ト名ヅケ岩ヲ釣龍臺ト云フコト、前章ニ一タビ之ヲ說キタリ〔東國輿地勝覽十八〕。龍ノ吟ズル聲ハ馬ノ嘶クニ似タリト云フ說アリ。帝釋天乘リタマフ龍馬ヲ伊羅波(イラハ)ト云フ。鼻長クシテ馬ノ如クナル龍ナリ〔塵添壒囊抄〕。況ヤ龍ハヨク牝馬ニ其胤ヲ假スコトアレバ、頭ノ馬ニ似タル海中ノ動物ヲ龍ノ捨子ナドト呼ブハ必ズシモ珍シカラズ。【甑及ビ竃】唯薩摩ノ甑島ノ神ガ年々此物ヲ贄ニ召シタマフト云フハ注意スべキ話ナリ。甑ハ即チ釜ノコトニテ釜ト竃トハドコ迄モ馬ト因緣アリ。而シテ此神ノ社頭ニモ亦甑ノ形ヲシタル一靈石ノ存スルモノアリシ也。

 

《訓読》

 肥前五島の生月島は「式」[やぶちゃん注:「延喜式」。]に、所謂、「生屬牧(いけづきのまき)」の故地なりしと共に、後世までも、海に臨める一箇の產馬地なりき。「甲子夜話」の記する所に依れば、『此の島の岸壁に生ずる「名馬草」と云ふ植物は、牝馬、之れを食へば、必ず、駿逸を生む。故に之れを求めんとして足を誤り、屢々、崖落(がけおち)をして死する馬あり』と〔「續甲子夜話」五十七〕[やぶちゃん注:こちらで原文全文を電子化済み。]。悲しい哉(かな)、馬や、汝も亦、人の親と其の痴を競はんことを欲するなり。但し、この絕壁の端に生ずと云ふ「名馬草」は果して如何なる草か、自分は、唯だ、寡聞を恥づるのみなれども、【神馬草(なのりそ)】此れと些(すこ)しく名の似たる海邊の植物に「神馬草」と云ふ物はあり。「萬葉集」などに、所謂、「莫告藻(なのりそ)」、今も正月の注連飾(しめかざ)りに用ゐる「ほだはら」又は「ほんだはら」は、即ち、是れなり。「なのりそ」を「神馬草」と書くは、『神の馬なれば、騎(の)る勿れ』と云ふこと、即ち、「莫騎(なのりそ)」の意に托したるものなりと云ふ說あり〔「倭名砂」〕。前に擧げたる重之の歌の[やぶちゃん注:ここ。そこで私は不等毛植物門褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科 Sargassaceae(或いはホンダワラ属 Sargassum)の話を柳田國男に先んじてやってあるので、その注とリンク先の「大和本草卷之八 草之四 海藻(ナノリソ/ホタハラ)(ホンダワラ)」の本文と私の注を参照されたい。ここでは繰り返さない。]

  ちはやふるいづしの宮の神の駒ゆめな乘りそね祟りもぞする

と云ふ例もあれど、些しく信じにくき口合(くちあひ)[やぶちゃん注:「話を持って行くそのやり方」の意。]なり。又、一說には、神功皇后、征韓の御時、船中に馬の秣(まぐさ)無くして、海の藻を採りて之れに飼ふ。其の時より、此の草を「神馬草」と呼ぶと云へり〔「下學集」・「言塵集」其の他〕。羽後の古名所、蚶潟(きさかた)の浦にては、皇后、此の渚(なぎさ)に、御船、寄せたまひし時、此の事ありきと稱す〔「齶田乃苅寢(あきたのかりね)」〕。海草を以つて馬を養ふと云ふことは疑はしけれど、例へば、馬醫の藥の料とすと云ふがごとき、何か然るべき仔細の古くより存せし爲め、此の名あるならんか。要するに、海は永古の不可思議なり。人は朝夕、其の渚に立ち盡すと雖も、終に蒼波(さうは)の底に在る物を知り得ず。【海の寶】故に、萬(よろづ)の寶は、海より出でて、海に復(かへ)ると考ふる者、多かりしなり。殊に日本のごとき島國の人は斯く思はざりしならば、却りて不自然なり。近き歷史に於いても、例へば、鹿兒島縣の今の馬の種は異國の名馬に由りて之れを改良す、と稱す。或る年、たしか海門嶽(かいもんだけ)の沖合に於いて、歐羅巴(ヨーロツパ)の船一つ、難船す。乘客は皆、死歿し、馬二頭、陸地を目掛けて泳ぎ著(つ)きたりしを、取り繫ぎて、之れを領主の牧に放せり云々。あまり古き代(よ)の事にも非ずと云へど、心からか、聊(いささ)か傳說の香を帶びたる話なり。【海馬(かいば)】海の中には、又、「海馬」と云ふ物あり。海馬には、大小、全く別箇の二種類あり。大は、即ち、「とゞ」とも云ふ獸(けだもの)にて、北蝦夷の海馬島(とどじま)其の他、洋中の孤島に住む物なり。土佐駒(とさごま)の高祖父と稱する「海鹿」は海驢(あしか)に非ざれば、即ち、此の物なるべし。小さき方は、名を「龍(たつ)の落し子」などとも云ふ、一種の蟲[やぶちゃん注:ここは広義の本草学で謂う脊椎動物の両生類・爬虫類を加えて無脊椎動物以下を総称する「むし」である。]なり。薩州上甑島(かみこしきじま)串瀨戶の甑島大明神の社にては、九月九日の祭りの日に、蜥蜴(とかげ)に似たる奇魚、必ず、渚に飛び上る。土人、之れを名づけて「龍駒」と云ふと云へり〔「三國名勝圖會」〕。漢名を「海馬」とも「水馬」とも書き、我が邦にては「あさのむし」・「しやくなぎ」又は「たつのすてご」などと云ふ物は、此れなり。【子安(こやす)の守(まもり)】乾し貯へて、婦人の產をするとき、之れを手中に持たしむれば、產、輕しと云ふ〔「大和本草」〕[やぶちゃん注:私の「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海馬」で全文電子化注済み。]。沖繩にて「けーば」と云ふ物も、『首は馬のごとく、身は蝦(えび)のごとし。安產の守とす』と云へば、同じ物なり〔「沖繩語典」〕。此等の學說は、其の漢名と共に、支那より渡來せしものとも云ふべし。例へば、「證類本草」には「異物志」を引きて、『海馬は西海に生ず。大小、守宮蟲(やもり)のごとく、形は馬の形のごとし』云々、『婦人難產を主(つかさど)る。之れを身に帶ぶ』と云ひ、「神驗圖經」には、『頭は馬の形のごとし。蝦の類なり。婦人、將に產せんとして、之れを帶ぶ、或いは、手に之れを持ち、或いは、燒末(しやうまつ)にして飮服するも亦、可なり』と謂ひ、「異魚圖」に之れを收め、暴(さら)し乾して、雌雄を以つて對(つい)と爲す。難產及び血氣を主る』と云へるがごとき〔「古名考」五十三所引〕、皆、彼の國の說なり。されど、日本にても、源平の時代に、貴人御產の後(のち)、御乳付(おちつけ)[やぶちゃん注:生まれた子に初めて母乳を飲ませること。]の具・御藥などと共に、海馬六つを、箱に納(い)れて獻上せしこと見ゆれば〔同上所引「山槐記」治承二年十一月十二日條[やぶちゃん注:ユリウス暦一一七八年十二月二十二日(グレゴリオ暦換算では十二月二十九日)。]〕、古くより、此の信仰はありしなり。此の物、越後より羽前の海岸に掛けては、之れを「龍のあらし子」と云ふ。浦々の小魚に交りて、稀に漁夫の網に入る。形は、一寸四、五分より、二寸ほど、頭は馬によく似て、腰は曲りて蝦のごとく、尾は蜥蜴と同じ。雄は靑く、雌は黃色なり〔「越後名寄」十七〕。【鳥海山】出羽の鳥海山は、頂上に「鳥海」と云ふ湖水あり。不思議なることには、海馬、亦、此の湖水にも住し、全く海に居る龍の「荒兒(あらしご)」と同物なり。或いは、海氣の、雨を釀(かも)すとき、此の物、雲に乘りて、空に騰(のぼ)り、山山の岩際に下るならん、と謂へり。此の地方の田舍人も、之れを難產の女の手に持たしむ〔「莊内物語」附錄〕。古書には、之れを記して、『鳥海山頂の池に、長さ、六、七寸の龍あり』と云へり。常民は敢へて登らず、行人(かうじん)[やぶちゃん注:旅人。他国の人。]等(ら)獨り往きて、かの龍を取り來たる。一年ばかりの内は生(せい)ありと見えて、座敷に置きて扇にてあおげば、「ひらりひらり」と、竪橫になりて、畫(ゑ)に描(か)ける龍のごとく、飛ぶ。一年過ぎては死するにや、扇(あふ)ぎても舞はず、と云へり〔「觀惠交話」上〕。龍と馬とは、兎に角に、因緣、深し。【白馬釣龍】朝鮮の古傳にても、扶餘縣の釣龍臺は、昔、蘇定方(そていはう)、百濟征討の時、江頭に風雨を起す物を退治せんとて、白馬を餌(ゑさ)として淵に一龍を釣り得たり。故に江を「白馬江」と名づけ、岩を「釣龍臺」と云ふこと、前章に一たび之れを說きたり[やぶちゃん注:ここで既出既注。]〔「東國輿地勝覽」十八〕。龍の吟ずる聲は、馬の嘶くに似たり、と云ふ說あり。帝釋天、乘りたまふ龍馬を「伊羅波(いらは)」と云ふ。鼻、長くして、馬のごとくなる「龍」なり〔「塵添壒囊抄(じんてないなうしやう)」〕。況んや、龍は、よく、牝馬の其の胤(たね)を假(か)す[やぶちゃん注:仮りに与える。]ことあれば、頭の馬に似たる海中の動物を「龍の捨て子」などと呼ぶは、必ずしも珍しからず。【甑及び竃(かまど)】唯だ、薩摩の甑島の神が、年々、此の物を贄(にへ)に召したまふと云ふは、注意すべき話なり。「甑」は、即ち、「釜」のことにて、「釜」と「竃」とはどこまでも馬と因緣あり。而して、此の神の社頭にも亦、「甑」の形をしたる一靈石の存するものありしなり。

[やぶちゃん注:「名馬草」不詳。「平戸市生月町博物館 島の館」公式サイト内の「生月学講座」第三十六の「御崎の牧」には、

   《引用開始》

 生月島北端の御崎地区は、古くは「牧」と呼ばれていました。奈良時代に編纂された『肥前国風土記』によると、昔このあたりに住んでいた者達は、容貌は「隼人」と呼ばれる現在の鹿児島県辺りにいた種族に似ていて、騎射、すなわち馬に乗って弓矢を用いる事を好むとあり、相当古い時代から馬が飼われていた事が分かります。『風士紀』松浦郡値嘉郷の条にも、当時、値嘉島と呼ばれた平戸諸島は牛・馬に富むとされています。また平安時代の延長5年(927)に完成した法令書の『延喜式』の兵部省諸国馬牛牧条にある肥前国六牧の一つに、「肥前国生属(いきつき)馬牧」という牧場の名前が出てきますが、恐らくは生月に置かれた牧場を指すと考えられ、その最有力の候補地が御崎です。

 さらにここに中世に牧場が置かれた傍証として、源平合戦の頃、源頼朝が飼っていた当時最高の名馬と言われた池月(いけづき)がここで生まれ育ったという伝説があります。平安時代の終わり頃、関東に拠る源頼朝と、一足先に平家を破って京都を押さえた源(木曽)義仲との間で戦いが起こりますが、『平家物語』によると、寿永3年(1184)に頼朝の軍勢が関東から京都に攻め上り、義仲の軍勢と琵琶湖から流れ出る宇治川を挟んで睨み合いになります。その時、頼朝の家来である佐佐木高綱は、頼朝から譲り受けた池月に騎乗し、もう一頭の名馬・磨墨に騎乗する梶原景季と競争した末に、見事川を泳ぎきって先陣を果たし戦闘を勝利に導きます。「生月人文発達史」は後世の文書ですが、「生月の牧の地は上古より馬牧場であった。西部絶壁の所に名馬草と称する草がある。容易に食べることは出来ないが、これを食べる馬は名馬となる。かの池月もこの草を喰い、また鯨島に泳ぎ渡り同所の牧草を喰ったので名馬となり、頼朝の所望に依って献上した」とあります。池月が生まれ育ったとする伝説は全国に分布しており、直ちに史実云々とする事は難しい所はありますが、馬の飼育が盛んだった所に伝説が残っている事は間違いないようです。なお、池月の名が訛って「生月」になったという説がありますが、源平合戦より遡ること350年の承和6年(839)に、唐(現在の中国)から帰国した遣唐使船が肥前国松浦郡にある生属島に着いたという記事が、貞観11年(869)に編纂された『続日本後紀』に掲載されていることから、以前から用いられていた事は確かです。

 御崎の牧は、松浦党に属する一部、加藤、山田の三氏が生月島を支配した中世や、有力なキリシタン領主である籠手田氏、一部氏が支配した戦国時代にも、これらの領主が保有する軍事力に伴って軍馬用の牧が設けられたと思われます。「生月人文発達史」によると、籠手田氏、一部氏が退去した後、平戸藩の直接統治となった江戸時代にも、御崎は御料馬牧場という藩営の牧場として使用されましたが、文政9年(1826)に平戸島の春日に牧場を設けたのに伴い、生月の馬牧は廃止されたとあるので、それに伴って島内の壱部、堺目、元触集落から移住・入植が行われ、御崎集落が成立したと考えられます。そのため、かくれキリシタンの組織もそれぞれの出身集落に属しており、また集落内には神社を持たず、やはり出身集落によって白山、住吉両神社に属しているそうです。

   《引用終了》

引用文中に出る「御崎」は長崎県平戸市生月町(いきつきちょう)御崎(みさき)で、生月島の北端のここ(グーグル・マップ・データ)。「鯨島」は「げじま」と読むようで、その先端から五百メートル弱東北の直近の海上にある島。無人島。少なくとも、ここで語られている草は海藻ではなく、陸性の植物であるようにしか私には思われない。気になる。モデルとなる実在する草があるのではなかろうか?

『神功皇后、征韓の御時、船中に馬の秣(まぐさ)無くして、海の藻を採りて之れに飼ふ。其の時より、此の草を「神馬草」と呼ぶと云へり』「大和本草卷之八 草之四 海藻(ナノリソ/ホタハラ)(ホンダワラ)」の本文と私の注を参照。

「蚶潟(きさかた)の浦にては、皇后、此の渚(なぎさ)に、御船、寄せたまひし時、此の事ありきと稱す」「蚶潟(きさかた)の浦」とは無論、方向の真逆な秋田県にかほ市の象潟(きさかた)である。現在は水田の中に百二の小丘が散在する平地の陸地だが、かつてはここは広大な潟湖であったことは、芭蕉の「奥の細道」御存じのことと存ずる。『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 49 象潟 象潟や雨に西施がねぶの花』の私の注などお読みあれ。文化元(一八〇四)年に発生した象潟地震(マグニチュード7クラスと推定される)で海底が隆起して広汎に陸地化が起こり、その後は干拓事業による水田開発の波に呑まれて「象潟」は消えてしまったのである。また、「蚶」の字が気になる方はやはり私の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 蚶(アカガイ)」の注をどうぞ。また、そこでは神功皇后の話もしてある。それは当地にある曹洞宗皇宮山蚶満寺(かんまんじ)の「縁起」に載る伝承で、神功皇后が三韓征伐の帰路(前の伝承は往路であった)、大時化(おおしけ)に遭遇して象潟沖合に漂着、小浜宿禰が引き船で鰐淵の入江に導き入れたが、その時、皇后は臨月近かったことから、清浄の地に移したところ、無事に皇子(のちの応神天皇)を産み終え、その後も象潟で半年を過ごし、翌年四月に出帆して筑紫の香椎宮に向かったという。ここはホンダワラを秣にしたのは、その折りのことと言うらしい。広大な潟で秣がなかったっていうのかなぁ? ただ、漂着する途中の日本海上でというのなら、これ、すこぶる腑に落ちるのだ。何故なら、ホンダワラ類は外洋表面を気泡を用いて漂流する「流れ藻」としても知られるからである。

「海草を以つて馬を養ふと云ふことは疑はしけれど、例へば、馬醫の藥の料とすと云ふがごとき、何か然るべき仔細の古くより存せし爲め、此の名あるならんか」ホンダワラ類を馬が食うかどうかは知らない。しかし、ホンダワラ類は「玉藻(たまも)」(貴重な(「玉」)塩を産む藻)・「馬尾藻(ばびそう)」(藻形の類似から)・「銀葉草」等とも称し、各地で食用とされ、私も佐渡産のそれは大好物で丼で何杯も食べてしまう。しかも、馬にとって塩の欠乏は致命的で、死に至ることも稀ではない。さすれば、乾して塩分を落とさないままのホンダワラ類(例えば、最近は関東でも流通している東北の「ギバサ」ホンダワラ属アカモク Sargassum horneri)を与えれば、馬は食うと私は大真面目に思うのである。そこで笑ってる奴よぉ! 「岩手アカモク生産協同組合」公式サイト内のこの記事を見いや! 『千数百年以上にわたって出雲大社を守ってきた出雲の国造家では、力祝(杵でこねた程度の餅)にホンダワラを巻き上げます。歳徳神の馬に献ずるという意味で、神馬藻(ホンダワラ・アカモク)を用います。小笠原流家元が、年賀のお客に献ずる前菜は、三宝にホンダワラ又は布を敷き、その上に梅干、田作、干柿、勝栗等をのせた蓬莱盤です』。『現在の東京でも、門飾りにホンダワラを〆縄に使っているのを見ることができます』。『江戸時代初期にかけて全国各地で特産とされていた海藻を一覧できる書物に「毛吹草」(寛永』一五(一六三八)年『があります』が、『その中で紹介されたホンダワラは、和泉神馬藻(大阪)・「石津神馬藻」です。その当時は和泉(大阪)の特産品とされていました』とあった後に、『また、「疲れきった馬に海水と海藻あかもくを食べさせた。次の朝には元気になっていた」という神馬の由来にもなっています』とあるだに!!!(太字はやぶちゃん)

「或る年、たしか海門嶽(かいもんだけ)の沖合に於いて、歐羅巴(ヨーロツパ)の船一つ、難船す」「海門嶽」は「開聞岳」だ。私もこの話、事実(馬が生き残った話は知らない)として聴いたことが確かにあるのだが、今、調べてみても、事実史料が見当たらない。識者の御教授を乞うものである。

「とゞ」一属一種の食肉目アシカ科トド属トド Eumetopias jubatus。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 胡獱(とど)(トド)」を参照されたい。

「海馬島(とどじま)」「かいばとう」とも。宗谷海峡のここにある島。ウィキの「海馬島(樺太)」によれば、樺太島(サハリン島)の南西沖にあり、晴れた日には、『宗谷岬や利尻島・礼文島からも見ることができる。現在は無人島となっているが、日本領時代には集落が存在した。別称として探検家ラ・ペルーズの命名によるモネロン(Moneron)島があり、ロシア語による名称(Остров Монерон)の由来となっている。現在はサハリン州の一部としてロシアが統治している』。『古くは正保日本図において「いしよこたん」として描かれており、元禄』一三(一七〇〇)年の「松前島郷帳」では『西蝦夷地の離島として「いしよこたん」が記されている。寛政』二(一七九〇)年の最上徳内の「蝦夷国風俗人情之沙汰」では、『「トヾシマ」についてナヨシ』(名好郡は樺太島中部のこの附近であるが、測定起点位置がおかしいから、これは広義に南樺太のことを言っているようである。但し、海馬島は最短でも樺太からは五十キロメートル弱はある)『から南に』六『里ないしは』七『里離れた海上にある島としている』。その後の記載では「モシロヽ」「トヽモシリ」『として記されており、別名として「イシヨコタン」をあげ』、嘉永七(一八五四)年刊の「蝦夷闔境輿地全図」に『おいても「トヽモシリ」として見える』。明治四二(一九〇九)年発行の「東亜輿地図」では「トドモシリ島」として記載されている』。『島内にのみ見られる種を含む』三百八十『種類の植物が自生しており、海馬島特殊植物群落地帯として樺太庁の天然記念物に指定されていた。礼文島とは海底山脈によってつながっている』。『日本統治時代には本斗郡海馬村に属しており』、昭和一六(一九四一)年時点で七百五十一人の『居住者がいた』。昭和二〇(一九四五)年八月、不当なソ連軍の侵攻に『よって占領され』たが、『島民は略奪や暴行を恐れ』、『すでに島を脱出していた』とある。理解されている方が少ないが、南樺太の領有権の帰属先は如何なる条約に於いても「未定」のままなのであって、ロシアの所有権は国際的に認められていない。

『土佐駒(とさごま)の高祖父と稱する「海鹿」』ここで既出既注。そこでは柳田國男は「海鹿」に「あしか」と振っている。

「海驢(あしか)」食肉目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科アシカ亜科 Otariinae のアシカ類。詳しくは「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 海獺(うみうそ)(アシカ類・ニホンアシカ)」及び次項の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 海鹿(あしか)(前と同じくアシカ類・ニホンアシカ)」を見られたい。但し、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 胡獱(とど)(トド)」では「海驢」の異名としているので、柳田國男のこの謂いは和名漢字名としては混乱を招くだけである。但し、現行でも混同使用は相変わらず続いているから、柳田を批判は出来ない。

「薩州上甑島串瀨戶の甑島大明神の社」グーグル・マップ・データではここ(鹿児島県薩摩川内市上甑町中甑)だが、サイド・パネルの画像で見ると、恐るべきおいそれとは行けそうに見えないとんでもない場所に巨岩がそそり立っていて海に面したその前に鳥居がポツンとあるだけである。というより、実はこの明神は鳥居しかないのである(「串瀨戶」はこの位置から、岬(串)と瀬戸のカップリングが実に相応しい名称であることは判る)。薩摩川内市観光物産協会のサイト「薩摩川内市観光ガイド こころ」の「甑大明神」によれば、『甑』(「こしき」とは穀物を蒸す用器で、甕(かめ)に似た器の底に一つ或いは二つ以上の穴を開け、これを湯沸しの上に重ねて穴を通って上る湯気によって穀物を蒸す仕組みとなっているものを指す。弥生時代以来、使われるようになり、平安以降は木製の桶や曲げ物の甑が普通となって、江戸時代に「蒸籠(せいろう)」に引き継がれた。中国・東南アジアにも甑があって朝鮮の楽浪郡の遺跡からも発見されている。これらの孰れかが日本に伝来したものと思われるものの、その経路は実は明らかではない)『形の大岩が御神体で』、『祭日は、旧暦』九月九日とあり、『元来、甑大明神には社殿はなく、岩そのものを神として拝してい』たのであり、『祭儀も甑岩の近くにある平岩の上で行われてい』たとあって、この大岩がまさに『「甑島」地名発祥の地といわれてい』るとあった。ロケーションも祭りもともに個人的に激しく惹かれる。但し、現在はここから一・五キロメートルほど離れた中甑湾奧の集落にある甑島神社が通常参拝の遥拝所となっている。

「龍駒」「りゆうのこま」と訓じておく。これだと、伊予でのタツノオトシゴの異名方言でもある。

「三國名勝圖會」巻第三十「甑島郡」の「甑島」の神社パートの冒頭にある「甑島大明神」の条。ここここ(間に見開きで二コマ分、同島の浦の図が二葉入っている)。

と云ふと云へり〔「三國名勝圖會」〕。

『漢名を「海馬」とも「水馬」とも書き』他の中国の本草書の漢名では「朝雲」「水鴈」「海蛆」「海蠍子」等がある。小野蘭山(口授)「重訂本草綱目啓蒙」第四十巻の「海馬」に拠る(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁。次注も典拠は同じ)。

『我が邦にては「あさのむし」・「しやくなぎ」又は「たつのすてご」などと云ふ』他に「かいば」(「海馬」讃岐)・「みつちのこ」(「蛟之子」。讃岐)・「りゆうぐうのこま」(「龍宮之駒」。豊後)・「りゆうのこま」(「龍之駒」。豊後・伊予)・「たつのおろしご」(「龍之降子」。土佐)・「りゆうぐうのをば」(「龍宮之姨」か)・「じやのこ」(「蛇之子」か。この場合は「蛇」は「龍」の前段階のこと。加賀)・「うみうま」(長門)・「をくじのまへ」(意味不明。仙台)。「あさのむし」は不詳。「しやくなぎ」(しゃくなぎ)は私の「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海馬」を参照。

『沖繩にて「けーば」』不審。調べてみると、使用頻度は低いらしいが、「うみんまぐゎー」(「海馬子」か?)である。そもそも母音の口蓋化で「けー」はやや不審であった。しかし確かに「沖繩語典」のここ(国立国会図書館デジタルコレクション)にそう出ている(「海馬」を当てている)。でも、どうもおかしいと感じる。そこでさらに調べたところ、しかし、或いはこれは「沖繩語辞典」の誤りなのではないか? と思うに至った。何故なら、琉球王府公用語の中に「けーば」を見出したからで(「琉球大学博物館 風樹館」のここ)、しかもそれは哺乳綱カイギュウ目ジュゴン科ジュゴン属ジュゴン Dugong dugon のことなのだ。さてもだったら、少なくとも「首は馬のごとく」は大当たりで、「身は蝦(えび)のごとし」だってスケールは違うが、スタイルは拡大相似形だ。流石にデカすぎて「安の」御「守」り「とす」るわけにはゆかないけれども、古来、ジュゴンは沖縄で子育てをする海洋動物として知られていたはずで、それ(例えば骨)は安産のシンボルともなろうと思うのだ。大方の御叱正を俟つものではある。

「證類本草」本草書。本来は北宋末の一〇九〇年頃に成都の医師唐慎微が「嘉祐本草」と「図経本草」を合冊し、それに約六百六十項の薬と、多くの医書・本草書からの引用文を加えて作った「経史証類備急本草」の通称。しかし、「証類本草」の語は未刊のまま終わったらしい唐慎微の書を元に、一一〇八年に艾晟(がいせい)手を加えたものの刊本である「大観本草」と、さらに一一一六年に曹孝忠らがそれを校正して刊行した「政和本草」を加えた、内容的に殆んど同一の三書の総称として用いられることの方が多い。

「異物志」漢の学者楊孚が南方地域の変わった事物を記載した書か。

「守宮蟲(やもり)」爬虫綱有鱗目トカゲ亜目ヤモリ下目ヤモリ科 Gekkonidae のヤモリ類。

「神驗圖經」不詳。

「燒末(しやうまつ)」焼いて砕いて粉末にしたもの。

「異魚圖」大陸のそれでは、不詳。仄峰に渡辺崋山筆の天保一一(一八四〇)年があるが、文脈上、違う。

『出羽の鳥海山は、頂上に「鳥海」と云ふ湖水あり』現在の鳥海山頂上から西方に下った最も古い登山路の中間の御浜(おはま)小屋(七合目)の南方下にある、標高千五百九十メートルのカルデラ湖である鳥海湖のことであろう(山形県飽海郡遊佐町(ゆざまち)吹浦(ふくら)所在)。但し、山頂ではない。鳥海山の標高は二千二百三十六メートル(新山ピーク)であるが、直線でも西へ三キロほど離れる。平均直径二百メートルほどの小さなものだが、人気のある景勝地である。本文の記す、「古書には、之れを記して、『鳥海山頂の池に、長さ、六、七寸の龍あり』と云へり。常民は敢へて登らず、行人(かうじん)等(ら)獨り往きて、かの龍を取り來たる」とか、それは『一年ばかりの内は生(せい)ありと見えて、座敷に置きて扇にてあおげば、「ひらりひらり」と、竪橫になりて、畫(ゑ)に描(か)ける龍のごとく、飛ぶ。一年過ぎては死するにや、扇(あふ)ぎても舞はず』というわけの判らぬ似非フェアリー話は真面目に考証するのも馬鹿馬鹿しいが、しかし、ネットを調べると、複数の登山者の記載にここで「魚影を見た」とあるのを見かけた。高地の火山性湖には普通は魚は棲息しない。しかもここは冬は氷結し、残雪もかなりの期間残ようで、相応に生物には過酷な環境である(周囲の高山性植物種は多種で非常に多様性に富んでいるようだが)。誰かが違法に放った(国定公園内である点でも違法)ものか、両生類の誤認の可能性はあろう。或いは、根拠も資料もないのだが、嘗つて(或いは今も)ここに小型のサンショウウオ類の一種が棲息していた(いる)と仮定するなら、ここにタツノオトシゴ(サンショウウオを龍と比喩するのは如何にも自然である。西欧の高地系のサンショウウオは古伝承でサラマンダーやドラゴンに比喩されているからである)にに似た生き物がいたとするここの古い記載は虚言ではない可能性もあるように思われる。高地性サンショウウオ類は極めて限定された地域にしか棲まない(棲めない)種が多くおり、少しでも環境が変わったり、人為的に有意な数が捕獲されれば(サンショウウオ類は黒焼きにして精力がつくと古くから薬餌されてきた歴史がある)、簡単に絶滅してしまうのである。

「扶餘縣の釣龍臺」既出既注であるが、補足しておくと、崔仁鶴の「朝鮮伝説集」(日本放送出版協会)の要約が、ここに「白馬江と釣龍台」(韓国の忠清南道扶余郡)として以下のようにある。

   《引用開始》

唐の将軍蘇定方が、大軍を率いて、百済の都を陥落させた後のこと。戦勝を祝う中、大王浦にあった唐の兵船が突然流れ出し、いきなり吹き出した颱風で皆川に沈んでしまう、という事件が起きた。

蘇定方が日官(暦法官)に伺うと、日官は百済の守護神である江龍の怒りだと告げた。ではその退治法はないかと蘇が問うと、日官は、龍は白馬が大好きだから、それを餌にして釣り上げればよい、と答えた。

さっそく蘇は兵たちに命じて鉄の釣針に太い鉄線の釣糸を用意し、白馬を餌にして川の岸にある岩の上に座ってそれらを川に投げ入れた。はたして日官の言ったように、程無く白馬を捕ろうとした龍が釣れ、蘇らに捕らえられてしまった。

このような出来事があったので、蘇定方が龍を釣った場所を釣龍台といい、さらに錦江の扶余一帯の川を、白馬を餌に龍を釣ったとして、白馬江と呼ぶようになったのだという。

   崔仁鶴『朝鮮伝説集』(日本放送出版協会)より要約

   《引用終了》

以下も既出既注であるが、新たに附しておくと、「蘇定方(そていはう)」(五九二年~六六七年)は初唐の武将。定方は字。冀州武邑(河北省))の人で、太宗の貞観(六二七年~六四九年)頃より突厥・高句麗への外征や、西突厥の叛臣の阿史那賀魯の討伐で功を挙げた。六六〇年には左武衛大将軍として新羅の要請を受け、水軍を率いて百済の義慈王らを滅ぼした。翌年、遼東道行軍大総管として高句麗に進撃し、八月、平壌城を包囲している。帰国後には涼州安集大使として吐蕃や吐谷渾(とよくこん)を平定している。

「白馬江」既出既注。現在の大韓民国忠清南道扶余郡。「白馬江」(はくばこう)はこの郡域を東北から南西に貫通している川の部分名であろうと思われる。「釣龍臺」(ちょうりょうだい)の位置はハングルは読めないので判らない。なお、この伝承はサイト「龍学」の「白馬江と釣龍台」に詳しい。

『帝釋天、乘りたまふ龍馬を「伊羅波(いらは)」と云ふ。鼻、長くして、馬のごとくなる「龍」なり』帝釈天(たいしゃくてん)は梵天(ぼんてん)と並び称される仏法守護の主神。十二天の一つとして東方を守る。忉利天(とうりてん)の主で、須弥山(しゅみせん)上の喜見城に住むとされる。四天王は彼に仕えるともされる。もとヒンズー教の英雄神で神の代表者であったインドラが仏教に取り入れられたもの。東大寺・唐招提寺などに彫像があるが、柳田國男が言っているのは、もしかして、東寺の講堂にある、平安前期の密教系の作像と推定されている、「白象」に乗った木像帝釈天像の、「象」を「龍馬」と誤認したものではなかろうか?

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(42) 「水邊ニ牧ヲ構ヘテ龍種ヲ求ム」(3)

 

《原文》

 遠州御前崎モ近海ニ著シキ大岬ナリ。突端ノ駒形大明神ハ是レ亦昔ノ牧馬ノ名殘ナランカト思ハル。此權現ノ古キコトハ一ノ證據アリ。【駒形三社】前ニ擧ゲタル伊豆ノ輕井澤ノ駒方神ノ如キ、手近ノ箱根ノ社トハ却リテ關係無ク、日下開山鎌倉彌左衞門、三國相傳橫須賀與惣右衞門ト云フ兩人ノ舍人司、遠州白和駒方(シロワコマガタ)ノ書ヲ以テ駒方祝(ハフリ)ヲ行フト言傳ヘ、其三社ノ御正體ハ中央白和王ニ右鵲王左鵲王ヲ合セ祀ルト云ヘリ〔伊豆志〕。白和ハ今ノ白羽村ニテ即チ御前崎ノ鄰村ナリ。御前崎ト海ヲ隔テヽ相對スル駿河ノ三保ニモ、安藝ノ馬島ト同ジク亦馬ヲ愛惜スル神ヲ祀レリ。今日ハ單ニ謠ノ羽衣トノミ聯想セラルヽ土地ナレドモ、三穗明神ハ實ハ熱心ナル馬ノ神ニテ深ク馬ヲ愛セラレ、【野飼】神前ノ松原ニハ野馬常ニ遊ビ居タリキ。此松原モ到頭開墾セラレテ桃ヤ甘蔗ノ畠ト成リ、舊領主德川公爵ヲシテ歎息セシメタリト云フ程ナレドモ、昔ハ此半島ノ風趣ヲ添フルモノハ松陰ニ遊ベル野馬ノ群ナリシナリ。村々ノ農家ニ於テハ馬疾ムトキハ此濱ニ曳キ來リ、神ノ保護ノ下ニ放牧シ置ケバ必ズ平癒スト信ジタリ〔駿國雜志〕。思フニ此慣習ハ必ズ諸國ノ野飼馬洗ナドノ行事ト關聯スル所アルナルべシ。昔ハ人間ノ醫藥モ尋常草根木皮ノ外ニ出デズ。病馬ヲ治スルノ術ニ於テ獨リ大奇法ノ存スルモノアランヤ。多クハ伯樂ガ神傳ニ託シテ其道ヲ靈祕ニシ、モシクハ村老ガアマリニ手段ノ平凡ナルヲ訝リテ之ヲ信心ノ力ニ歸スルガ如キ、何レモ極メテ自然ナル徑路ト言フべキモ、要スルニ新鮮ナル草ト水トヲ得テ休養セバ、普通ノ病馬ハ大抵其健康ヲ復スルコトヲ得シナランノミ。三河寶飯郡ノ小松原ト云フ處ノ、觀音寺ノ本尊馬頭觀音ハ行基ガ作ナリ。【初午】每年二月初午ノ日ニ參詣スル者、此山ノ隈笹ノ葉ヲ得テ歸ル。馬ノ煩フ時御影ヲ厩ニ揭ゲ此笹ヲ以テ飼フトキハ忽チ癒ユ〔諸國里人談四〕。【熊野神】長門阿武郡宇田鄕村大字惣鄕ノ熊野神社ハ、境内ニ一ノ馬蹄石アリ。牛馬熱ニ苦シム者アルトキハ、一束ノ草ヲ刈リ來リテ此石ノ上ニ置キ退キテヨク祈リ、サテ其草ヲ以テ病畜ニ飼フトキハ則チ治スト云フ〔長門風土記〕。美濃惠那嶽(エナダケ)ノ笹ノ葉ハ既ニ之ヲ述ブ。此等無名ノ植物モ只一步ヲ進メバ又カノ狐ケ崎ノ矢筈ノ笹ナリ。伊賀阿山郡布引村大字中馬野(ナカバノ)左妻(ヒダリツマ)ニハモト左妻岩屋アリ。中古洪水ニ沒シテ今其處ヲ知ラズ。【窟ノ神】昔此巖窟ニ馬ヲ愛スル神イマシテ、屢橫根山ノ溪流ニ馬ヲ洗ヒタマフ。馬洗淵ノ今モ存セリ。其神人間ニ應接スルコト里俗ノ口碑ニ殘リ、葛城一言主ノ談ニ類ス。福地某ナル者曾テ此邑ニ在リテ馬ヲ獻ジ、古來此地ノ名馬ヲ出スコトヲ申スニ因リテ牧馬ノ命ヲ蒙リヌ。又伊賀次郞重國モ名馬ヲ本村ヨリ獻ジタリト言ヘバ、馬野ノ名空シカラザルニ似タリ〔三國地誌〕。【竈神】三保明神ノ馬ヲ愛シタマフコト誠ニ其由來ヲ知リ難シト雖、此地ハ鹽燒ク濱ナレバ夙ニ竃ノ神ノ信仰起リ、興津彥興津媛ノ說ナドニ感化シテ中世三社ノ神靈ヲ仰グニ至リシニハ非ザルカ。或ハ又單ニ一箇水ニ臨メル牧トシテ、深クモ牧神ノ德ヲ仰グニ至リシモノカ。後世ノ硏究ヲ須ツノ他ナキナリ。此半島ト相對シテ愛鷹山(アシタカヤマ)ニハ人ノ飼ハヌ野馬アリ。即チ愛鷹明神ノ神馬ナリト云ヘリ。非常ノ駿足ニテ人ハ容易ニ其姿ヲ見ルコト能ハズ〔駿國雜志〕。【九十九】或ハ傳フ、三保ト愛鷹トハ不思議ノ交通アリ野馬ノ數雙方ヲ合セテ常ニ九十九匹、曾テ增減アルコト無シ。三保ニ多ケレバ愛鷹ニ少ナク、愛鷹ニ多ケレバ三保ニ少ナシト云ヘリ〔本朝俗諺志〕。人モ知ル如ク愛鷹山ハ近キ世迄ノ幕府ノ牧場ナリキ。牧場ノ一方ガ高山ニ續キシ爲ニ、野飼ノ駒ノ逸出シ點檢ニ洩レタル者モ多カリシナラン。唯東海道ヲ越エ海ヲ隔テタル半島ノ松原ニ通フト云フニ至リテハ、即チ甲斐ノ黑駒同樣ノ神話ト見ザル能ハザルナリ。【馬神根原】勿論牧童ノ保護ヲ離レテ而モ熊狼ノ害ヲ免レ得シ程ノ野馬ナリトスレバ、必ズ荒ク且ツ逞シキ逸物ニ相違ナケレバ、稀ニ之ヲ思ヒ掛ケヌ谷間ナドニテ見タル人ハ、自然ニ神馬又ハ之ヲ率ヰル馬ノ神ノ信仰ヲ起シ、一方ニハ各自ノ凡馬ノ安全ヲ禱ルト共ニ、他ノ一方ニハ其蹄ノ跡ナドヲ尊崇セズニハ居ラレザリシナルべシ。

 

《訓読》

 遠州御前崎も近海に著しき大岬なり。突端の駒形大明神は、是れ亦、昔の牧馬の名殘ならんかと思はる。此の權現の古きことは一つの證據あり。【駒形三社】前に擧げたる伊豆の輕井澤の駒方神のごとき、手近の箱根の社とは、却りて、關係無く、日下開山(ひのしたかいさん)鎌倉彌左衞門、三國相傳橫須賀與惣右衞門と云ふ兩人の舍人司(とねりのつかさ)、遠州白和駒方(しろわこまがた)の書を以つて、「駒方祝(はふり)」を行ふと言ひ傳へ、其の三社の御正體(みしやうたい)は、中央、白和王(しろわわう)に、右鵲王(うじやくわう)・左鵲王を合はせ祀ると云へり〔「伊豆志」〕。白和は今の白羽村にて、即ち、御前崎の鄰村なり。御前崎と海を隔てゝ相ひ對する駿河の三保にも、安藝の馬島と同じく、亦、馬を愛惜する神を祀れり。今日は、單に謠(うたひ)の「羽衣」とのみ聯想せらるゝ土地なれども、三穗明神は實は熱心なる馬の神にて、深く馬を愛せられ、【野飼】神前の松原には、野馬、常に遊び居たりき。此の松原も到頭、開墾せられて、桃や甘蔗(かんしよ)の畠と成り、舊領主德川公爵をして歎息せしめたりと云ふ程なれども、昔は此の半島の風趣を添ふるものは、松陰に遊べる野馬の群れなりしなり。村々の農家に於いては、馬、疾(や)むときは、此の濱に曳き來り、神の保護の下に放牧し置けば、必ず平癒すと信じたり〔「駿國雜志」〕。思ふに、此の慣習は、必ず、諸國の「野飼」・「馬洗」などの行事と關聯する處あるなるべし。昔は人間の醫藥も、尋常、草根・木皮の外に出でず。病馬を治するの術に於いて、獨り大奇法の存するものあらんや。多くは伯樂が神傳に託して其の道を靈祕にし、もしくは、村老が、あまりに手段の平凡なるを訝りて、之れを信心の力に歸するがごとき、何(いづ)れも極めて自然なる徑路と言ふべきも、要するに、新鮮なる草と水とを得て休養せば、普通の病馬は大抵、其の健康を復することを得しならんのみ。三河寶飯(ほい)郡の小松原と云ふ處の、觀音寺の本尊、馬頭觀音は、行基が作なり。【初午】每年二月初午の日に參詣する者、此の山の隈笹の葉を得て歸る。馬の煩ふ時、御影(みえい)を厩に揭げ、此の笹を以つて飼ふときは、忽ち、癒ゆ〔「諸國里人談」四〕。【熊野神】長門阿武郡宇田鄕村大字惣鄕(さうがう)の熊野神社は、境内に一つの馬蹄石あり。牛馬、熱に苦しむ者あるときは、一束の草を刈り來りて、此の石の上に置き、退(しりぞ)きて、よく祈り、さて、其の草を以つて病畜に飼ふときは、則ち、治すと云ふ〔「長門風土記」〕。美濃惠那嶽(えなだけ)の笹の葉は既に之れを述ぶ。此等、無名の植物も。只だ一步を進めば、又、かの狐ケ崎の矢筈(やはず)の笹なり。伊賀阿山郡布引村大字中馬野(なかばの)左妻(ひだりつま)には、もと、左妻岩屋あり。中古、洪水に沒して、今、其の處を知らず。【窟(いはや)の神】昔、此の巖窟に馬を愛する神いまして、屢々、橫根山の溪流に馬を洗ひたまふ。馬洗淵の今も存せり。其の神、人間に應接すること、里俗の口碑に殘り、葛城一言主(かつらぎひとことぬし)の談に類す。福地某なる者、曾つて、此の邑(むら)に在りて、馬を獻じ、古來、此の地の名馬を出すことを申すに因りて牧馬の命を蒙りぬ。又、伊賀次郞重國も名馬を本村より獻じたりと言へば、馬野の名、空しからざるに似たり〔「三國地誌」〕。【竈神】三保明神の馬を愛したまふこと、誠に其の由來を知り難しと雖も、此の地は鹽燒く濱なれば、夙(つと)に竃の神の信仰起り、興津彥(おきつひこ)・興津媛(おきつひめ)の說などに感化して、中世、三社の神靈を仰ぐに至りしには非ざるか。或いは又、單に一箇水に臨める牧として、深くも牧神の德を仰ぐに至りしものか。後世の硏究を須(ま)つの他なきなり。此の半島と相ひ對して、愛鷹山(あしたかやま)には人の飼はぬ野馬あり。即ち、愛鷹明神の神馬なりと云へり。非常の駿足にて、人は容易に其の姿を見ること能はず〔「駿國雜志」〕。【九十九】或は傳ふ、三保と愛鷹とは不思議の交通あり、野馬の數、雙方を合はせて、常に九十九匹、曾つて增減あること、無し。三保に多ければ、愛鷹に少なく、愛鷹に多ければ、三保に少なし、と云へり〔「本朝俗諺志」〕。人も知るごとく、愛鷹山は近き世までの幕府の牧場なりき。牧場の一方が高山に續きし爲めに、野飼の駒の逸出し、點檢に洩れたる者も多かりしならん。唯だ、東海道を越え、海を隔てたる半島の松原に通ふと云ふに至りては、即ち、甲斐の黑駒同樣の神話と見ざる能はざるなり。【馬神根原】勿論、牧童の保護を離れて、而も熊・狼の害を免れ得し程の野馬なりとすれば、必ず、荒く、且つ、逞しき逸物に相違なければ、稀に之れを思ひ掛けぬ谷間などにて見たる人は、自然に神馬、又は、之れを率ゐる馬の神の信仰を起こし、一方には各自の凡馬の安全を禱ると共に、他の一方には、其の蹄の跡などを尊崇せずには居られざりしなるべし。

[やぶちゃん注:「遠州御前崎も近海に著しき大岬なり。突端の駒形大明神は、是れ亦、昔の牧馬の名殘ならんかと思はる」既出既注。以下の叙述もそちらの私の注を参照されたい。

「前に擧げたる伊豆の輕井澤の駒方神」ここ

「日下開山(ひのしたかいさん)」天下無双の強者、また、技量の優れた者のこと。現在はは主に横綱力士の代名詞である。天和二(一六八二)年、江戸幕府は武芸者・芸能者らが「天下一」の呼称を乱用するので、その使用の禁止令を布告したが、その後は「天下」と同義語の「日の下」を冠し、「日下開山」と言い換えるようになった。元禄年間(一六八八年~一七〇四年)に勧進相撲の興行の際、抜群の強さを見せた大関や、何年も負けたことのない力士を「日下開山」又は「日下相撲開山」と褒めそやしたことから、後に横綱力士を指すようになった(小学館「日本大百科全書」に拠る)。ここは尊大な自称尊称であろう。

「鎌倉彌左衞門」不詳。

「三國相傳」本来は「三国伝来」と同義で、天竺(インド)から中国又は朝鮮に伝わり、さらに日本に伝来してきた仏法を指す。前の「日下開山」と同じく神仏習合時代の自称尊称であろう。

「橫須賀與惣右衞門」不詳。「よそゑもん」と読んでおく。

「舍人司(とねりのつかさ)」ここは単に下級官人としての神職を指していよう。

「遠州白和駒方(しろわこまがた)」既注の御前崎市白羽(しろわ)に鎮座していた白羽神社元宮、現在の白羽神社のことであろう。

「書」神託の書と礼式の謂いと採り、それを私は「駒方祝(はふり)」という固有的名詞表現として採って鍵括弧を附した。

「白和王(しろわわう)に、右鵲王(うじやくわう)・左鵲王を合はせ祀る」「静岡県神社庁」公式サイト内の白羽神社の由緒書きには、承和四(八三八)年二月に元宮である『岬の駒形神社より』ここへ遷ったとあり、「延喜式」に載る「白羽官牧」の『地と伝えられ、旧社地の駒形神社は、往古沖で遭難した九十頭の馬の内一頭が岸にたどりついた地とされる。残りの馬は沖の御前岩(駒形岩)と化したと云う。式内服織田(はとりだ)神社とも云われ、旧』県『社として古くより信仰が厚い社である。また当社は、往古は馬をお祀りしていた。これは、龍神信仰によるもので、海辺では名馬が育つと信じられたため』であるとある。『また、当社附属の神宮寺もあり、神社所蔵の棟札に神宮寺社僧の名前が見え、当時社僧を置かれていたことが知れる。当社は延喜式に云う白羽官牧に発生した牧場(馬)の守護神として古来より馬持ちの参詣する者が多いために、祭典を白羽馬祭と称し、遠近より参詣の馬は何れも装飾の美を競い、境内は馬と人で埋まったと云う。近代、農業が機械化され、馬の姿すら見られなくなったが、馬は疾走中といえども絶対に人を踏むことのない霊獣であり、自動車交通安全にと信仰が変わっている』ともある。ここに出るのは、その古いプロトタイプに近い祭神像或いはその御影の名指しと思われる(現在の祭神はリンク先を見られたい)。

『今日は、單に謠(うたひ)の「羽衣」とのみ聯想せらるゝ土地』インキ臭い学者の如何にもな謂いだな。専ら「羽衣伝説」でのみ知られる、でよかろうが。

「三穗明神」、静岡県静岡市清水区三保にある御穂(みほ)神社。。「みほ」の字は他に「御廬」「三穂」「三保」にも作る。ウィキの「御穂神社」によれば、『三保の松原には「羽衣の松」があり、羽衣の松から御穂神社社頭までは松並木が続くが、この並木道は羽衣の松を依代として降臨した神が御穂神社に至るための道とされ』、『「神の道」と称される』。『現在でも』、『筒粥神事では』、『海岸において神迎えの儀式が行われるが、その際に神の依りついたひもろぎは』、『松並木を通って境内にもたらされる』。『これらから、御穂神社の祭祀は海の彼方の「常世国」から神を迎える常世信仰にあると考えられている』とある。古くより祭神は大己貴命(大国主)と三穂津姫命(みほつひめのみこと)とされるが、私はこの馬を愛する神とはこの二神とは無縁で、まさにその神迎えのアプローチの長いことから、そこに神の騎る神馬が必要だったのではなかったかと推理している。さればこそ、以下の「神前の松原には、野馬、常に遊び居たりき」が自然に腑に落ちるのである。

「甘蔗(かんしよ)」これは同じ発音の「甘藷」(サツマイモ)の誤りであろう。「甘蔗」と書く場合はサトウキビ(単子葉植物綱イネ目イネ科サトウキビ属サトウキビ Saccharum officinarum)を指す。ウィキの「サトウキビ」によれば、『世界におけるサトウキビの商業栽培の最北限は、四国から伝播した遠州横須賀地区(静岡県掛川市南西部)とみられる』とあるものの、同地区は三保よりも以南である。或いは一時期、ここで植栽が試されたのかも知れないが、そのような資料を確認出来ない。

「舊領主德川公爵」徳川宗家第十六代当主(元は田安徳川家第七代当主)で静岡藩(明治二年八月七日(天保暦。グレゴリオ暦では一八六九年九月十二日)に成立したが、二年後の明治四年七月十四日(一八七一年八月二十九日)に「廃藩置県」により廃藩となった。日本のグレゴリオ暦導入は一八七三年一月一日に当たる明治五年十二月三日を明治六年一月一日とした時に始まる)初代藩主であった徳川家達(いえさと 文久三(一八六三)年~昭和一五(一九四〇)年)。従一位大勲位公爵。世間では「十六代様」と呼ばれた。第四代から第八代までの貴族院議長・ワシントン軍縮会議全権大使・昭和一五(一九四〇)年開催予定であった東京オリンピックの組織委員会委員長・第六代日本赤十字社社長・学習院評議会議長・日米協会会長などを歴任した。大正期には組閣の大命も受けたが、拝辞している(ここはウィキの「徳川家達」その他に拠った)。

「三河寶飯(ほい)郡の小松原と云ふ處の、觀音寺の本尊、馬頭觀音」これは愛知県豊橋市小松原町(ちょう)坪尻にある臨済宗小松原山東観音寺(とうかんのんじ)であろう。ここは「小松原観音」とも呼ばれ、本尊は馬頭観音菩薩である。「行基が作なり」とあるのは当寺の伝承で天平四(七三二)年に行基が夢告を受け、翌年にこの小松原の海岸で一株の霊木を感得し、これを以って馬頭観音像を刻み、堂宇を建立したのを起源とすることから謂いに過ぎず、現在の本尊(御正体)は金銅馬頭観音像で銘は文永八(一二七一)年である。

「每年二月初午の日に參詣」現在も行われている。個人サイトと思われる「東三河を歩こう」の「馬頭観音二の午祭」のページに、『東観音寺のご本尊の馬頭観音のお祭りで、旧暦』二『月の午の日に開催され、本堂ではご祈祷が行われ、牛馬の飼い主が祈願を行う』。『境内では植木市・金魚市の他、多くの屋台が並』び、『また、この祭礼には、豊橋の民話「二ノ午大祭の絵馬」が伝えられている』(リンク先は同サイトの別ページ。荒馬鎮静の話なのでリンクさせておいた)。

『「諸國里人談」四』「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」の画像の、ここここ

「長門阿武郡宇田鄕村大字惣鄕(さうがう)の熊野神社」山口県阿武郡阿武町惣郷はここ。現在、熊野神社はないが、熊野三所権現を祀る御山(おやま)神社があるから、ここであろうか(この神社の東北の同地区内に今一つの御山神社があるが、諸データとグーグル・マップ・データの画像を見る限りでは前者かと思われる)。「馬蹄石」は確認出来ない。

「美濃惠那嶽(えなだけ)の笹の葉は既に之れを述ぶ」こちら

「かの狐ケ崎の矢筈(やはず)の笹」こちら

「伊賀阿山郡布引村大字中馬野(なかばの)左妻(ひだりつま)」三重県伊賀市中馬野。同地区を貫通する川が左妻川である。

「橫根山」不詳。国土地理院図を見ると、同地区や周辺には複数のピークはある。

「馬洗淵」北のピークを超えた直近の伊賀市奥馬野地区に「馬野溪」ならある(国土地理院図)。

「葛城一言主(かつらぎひとことぬし)」ウィキの「一言主」を引く。「古事記」の「下つ巻」に『登場するのが初出で』、雄略天皇四(四六〇)年、『雄略天皇が葛城山へ鹿狩りをしに行ったとき、紅紐の付いた青摺の衣を着た、天皇一行と全く同じ恰好の一行が向かいの尾根を歩いているのを見附けた。雄略天皇が名を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えた。天皇は恐れ入り、弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服を脱がさせて一言主神に差し上げた。一言主神はそれを受け取り、天皇の一行を見送った、とある』。少し後の「日本書紀」では、『雄略天皇が一言主神に出会う所までは同じだが、その後共に狩りをして楽しんだと書かれていて、天皇と対等の立場になって』おり、さらに『時代が下がっ』た「続日本紀」の巻二十五では、『高鴨神(一言主神)が天皇と獲物を争ったため、天皇の怒りに触れて土佐国に流された、と書かれている。これは、一言主を祀っていた賀茂氏の地位がこの間に低下したためではないかと』も『言われている』。さらに、弘仁一三(八二二)年成立の景戒(生没年不詳:奈良時代の薬師寺の僧)が書いた日本最初の説話集「日本霊異記」では、『一言主は役行者(これも賀茂氏の一族である)に使役される神にまで地位が低下しており、役行者が伊豆国に流されたのは、不満を持った一言主が朝廷に讒言したためである、と書かれている。役行者は一言主を呪法で縛り』、「日本霊異記」『執筆の時点でも』、『まだそれが解け』てい『ないとある』。『また、能の』「葛城」では『女神とされている』。『葛城山麓の奈良県御所市にある葛城一言主神社が全国の一言主神社の総本社となって』おり、『地元では「いちごんさん」と呼ばれており、一言の願いであれば』、『何でも聞き届ける神とされ、「無言まいり」の神として信仰されている』。『このほか』、「続日本紀」で流されたと『書かれている土佐国には、一言主を祀る』とされる『土佐神社があり』、『土佐国一宮になっている』。『名前の類似から、大国主命の子の事代主神と同一視されることもある』とある。

「伊賀次郞重國」「長秋記」の天永二年(一一一一)八月二十一日の条に、上皇(白河法皇か)相撲御覧の際に相撲人の「三番、左、淸原重國」として見える伊勢平氏の清原重国は「伊賀住人、字首持、義親首入洛、仍此名流ㇾ世。」とあり、『彼が』源『義親』(河内源氏三代目棟梁源義家の嫡男であったが、対馬守に任ぜられた際に九州で略奪を働いて官吏を殺害したため、隠岐国へ流された。しかし脱出して出雲国へ渡り、再び官吏を殺して官物を奪ったため、平正盛(清盛の祖父)の追討を受けて誅殺された)『の首を持った五人の下人の一人だったことがわかる。おそらく伊賀国にあった正盛の私領を通じた郎等だろう』とある(個人サイト「千葉一族」のこちらに拠ったが、史料は論文等で確認して添えた)が、この人物か?

「興津彥(おきつひこ)・興津媛(おきつひめ)」ウィキの「かまど神」によれば、『日本の仏教における尊像』三宝荒神(日本特有の仏教における信仰対象の一つで、仏法僧の三宝を守護し、不浄を厭離(おんり)する仏神)は、『かまど神として祀られることで知られる。これは、清浄を尊んで不浄を排する神ということから、火の神に繋がったと考えられている』。『また』、『近畿地方や中国地方では、陰陽道の神・土公神がかまど神として祀られ、季節ごとに』、『春はかまど、夏は門、秋は井戸、冬は庭へ移動すると考えられている』。『神道では三宝荒神ではなく、竈三柱神(稀に三本荒神)を祀る。竈三柱神はオキツヒコ(奥津日子神)・オキツヒメ(奥津比売命)・カグツチ(軻遇突智、火産霊)とされる。オキツヒコ・オキツヒメが竈の神で、カグツチ(ホムスビ)が火の神である』とある。

「愛鷹山(あしたかやま)」静岡県東部にある、富士山の南隣りに位置する火山。最高峰は標高千五百四・二メートルの越前岳であるが、狭義には南方にある千百八十七・五メートルの愛鷹山峰(国土地理院図)を指す。三保の松原の東北で対するが、頂上からは直線でも富士市を挟んで約三十六キロメートル離れている。

「愛鷹山は近き世までの幕府の牧場なりき」料理店「どんぶる家 伊豆海」のサイトの「沼津の歴史・文化の紹介 愛鷹三牧場 愛鷹牧の歴史」に、

   《引用開始》

古代の律令制国家のもと、全国各地に牧が置かれ、牛や馬が飼育された。

最初、牧は兵部省の管轄の下、国司が管理してきたが、十世紀初頭の駿河国には、岡野馬牧、蘇弥奈馬牧という二つの牧が置かれていた。岡野の岡宮、蘇弥奈は比奈という後世の地名に継承されたとも言われ、現在の沼津市から富士市にかけての愛鷹山南麓ではないかと推定されている。古代末期から中世へと時代が移り、律令制が衰退していくと、牧も私牧・荘園化していくことにより愛鷹山の牧の施設・機能もなくなった。しかし、野生の馬は、生き続け、愛鷹山頂を本宮とする愛鷹明神の神主奥津家がそれを保護し、今川氏や武田氏からも神領・神馬の安堵を受け近世に至った。

近世に入ると、諸藩では独自に牧を設置・経営したが、江戸幕府自身も小金五枚、佐倉七枚、安房国の嶺五枚、駿河国の愛鷹三枚という合計二十箇所の牧を経営した。

古代・中世以来放置されていた愛鷹山の野馬に江戸幕府が最初に目を付けたのは、房総において牧の準備・新設を進めていた享保期のことであった。

しかし、愛鷹明神神主奥津氏や農民たちは愛鷹山野馬が建久五年(1194)に源頼朝によって奉納された九十九頭の神馬に由来すること、今川義元・武田信玄・川毛惣左衛門・井出志摩守正次ら歴史の支援者たちも神馬・神領を安堵してきたことなどを理由に、牧設置に反対の意向を示したことにより上の歳月が流れた。

寛政八年(1796)同年十一月、幕府は神罰が下ることを恐れ執行に反対する奥津神主の主張を退け、牧の開設を断行した。

元野・尾上・霞野三牧の用地選定を行った、その年十二月から翌年二月にかけて、土手の築造をはじめとする牧場施設の建築が地元農民たちによって行われ寛政九年(1797)三月、はじめての捕馬が実施されたのである。

明治維新後は一部が明治政府に引き継がれ御料牧場になったほか、開墾され農地や宅地になったり、軍隊の演習場になったりした。

[やぶちゃん注:ここに「駿州愛鷹牧捕獲馬之図」(世古明夫氏所蔵)がある。]

愛鷹三牧場

愛鷹三牧場は、今から二〇〇年ほど前の寛政九年、江戸幕府によって設置された馬の三つの牧場で、明治初年に廃止されたため、期間はわずか八〇年ほどでしたが、江戸幕府の直営した全国的にも数少ない牧場でした。

牧場が出来る前の愛鷹山麓には、源頼朝が奉納した神馬が、半ば野生化し野馬となり数百頭が疾駆していました。この周辺もかつては三牧馬の一つがあった所です。

   《引用終了》

この解説で「九十九」の名数の意味が腑に落ちた。感謝申し上げる。]

種子 伊良子清白

 

種 子

 

初冬の

晴れたる緣に

夕顏の種子(たね)を干し

厚き紙に包み

机の抽斗(ひきだし)に深く藏めぬ

 

落葉して

冬の眠に入る

木々と共に

夕顏の種子は

生きてあり

 

大地柔らぎて

夕顏の播かるる日

一粒の種子は

夢よりさめて

靜かに

眼(まなこ)開かん

 

  また

 

稚子の齒ににたる

うす白(じろ)き

夕顏の種子を

掌(たなぞこ)にのせ

動かせば

つぶやく音して

寄りあひぬ

 

  また

 

深山幽谷に

落ちる木の實が

岩の上で

ころがるやうに

わたしのてのひらに

夕顏のたねは

あそんでゐる

 

[やぶちゃん注:昭和一六(一九四一)年一月一日発行の『女性時代』(第十二年第一号)。署名は「伊良子清白」。伊良子清白、当年満六十四。同年十二月八日、太平洋戦争勃発。]

學歌 伊良子清白 / 現在の京都府立医科歯科大学(伊良子清白の出身校の後身)の公式学歌

 

學 歌

 

   一

比叡(ひえ)は明(あ)けたり鴨(かも)の水(みづ)

學城(がくじやう)立(た)てり儼(げん)として

眞理(まこと)の證(あかし)神祕(くしび)の扉(と)

生命(いのち)の燭火(ともし)常(とこ)照(て)りて

星(ほし)の群花(むればな)地(つち)を灼(や)く

   二

鐘鳴(かねな)る白晝(まひる)かうかうと

橘井(きつせい)の健兒(けんじ)眉(まゆ)昂(あが)る

制霸(せいは)の業(げふ)を受(う)け繼(つ)がん

豪邁(がうまい)の歌(うた)鑠石(しやくせき)の

巷(ちまた)の風(かぜ)に轟(とゞろ)きぬ

   三

見(み)よ夕暮(ゆふぐれ)の空(そら)の月(つき)

靑蓮(せいれん)の花(はな)今(いま)咲(さ)きて

圓(まど)に匂(にほ)ふ史(ふみ)の色(いろ)

永久(とは)の學府(がくふ)の榮光(かゞやき)は

綠(みどり)の旗(はた)の虹(にじ)の橋(はし)

   四

神(かみ)と澄(す)むもの雪(ゆき)祭(まつ)り

醫道(いだう)古賢(こけん)の敎(をしえ)あり

生贄(いけにへ)の日(ひ)の曙(あけぼの)に

燃(も)ゆる血潮(ちしほ)を捧(さゝ)げ來(き)ぬ

仁慈(めぐみ)の愛(あい)の赫灼(あかあか)と

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年作の母校京都医学校の後身である京都府立医科歯科大学の学歌作詞の依頼を受けて、八月に完成したもの。署名は「伊良子清白」。作曲は服部正。「をしえ」はママ。本年、清白、満六十三。同大学「学生便覧」(PDF)の六十八ページに楽譜附きで載る。なお、校歌は別にあり、金子伊昔紅(いせきこう)作詞で(俳人金子兜太の父で医師で俳人)、次のページに載る(但し、金子伊昔紅の名を「金子伊音紅」と誤っている)こちらで全曲を混声合唱とオーケストラで聴くことが出来る(それによればこの曲は通称「比叡は明けたり」と呼ばれているらしい)。京都府立医科大学校史パンフの一部と思われるものの、第五章「激動の医科大学――戦争と民主化の渦にもまれて」(PDF)の最後にも載るが(作詞・作曲の次行に皇紀で『紀元二千六百年九月』と附すから、公式に学校・学生へ披露されたのは翌九月であったことが判る)、ここでは「教」のルビが正しく「をしへ」となっているものの、一番の「燭火(ともし)」が「独火」と致命的に誤っている

 同大学公式サイトの沿革によれば、同校は、京都市民らの請願を受けた僧侶が発起人となり、寺院・町衆・花街などから寄附を募って設立、運営を京都府に乞い、明治五(一八七二)年十一月、京都東山の名刹粟田口にある青蓮院内に仮療病院を設け、患者の治療を行う傍ら、医学生を教育したものが発祥であった。明治一三(一八八〇)年七月に現在地である上京区河原町通広小路上る梶井町に療病院を移転し、明治十五年、「文部省達第四号医学校通則」に準拠し「甲種医学校」と認定された(伊良子清白は明治三二(一八九九)年にここを卒業した)。後、明治三六(一九〇三)年六月に「専門医学令」により「京都府立医学専門学校」となり、大正一〇(一九二一)年十月には「大学令」により「京都府立医科大学」を設置(同時に予科を開設)している。

「學歌」とは校歌とは異なり、学生たちの歌のニュアンスなのであろうか。

「橘井(きつせい)」医者のこと。西晋・東晋期の葛洪(かっこう)著と伝えられる神仙書「神仙伝」に、漢の蘇仙公が死に臨んで母に遺言して、「来年は疫病が流行するが,庭の井戸水と軒端の橘の葉とを用いれば、病を治すことができる」と告げ,果たしてその通りとなった。この故事から転じて「橘井」を医師の敬称となった。因みに、京都府立医科大学の校章には「橘の葉」がデザインされており、現在の「京都府立医科大学リポジトリ」の名は「橘井(きっせい)」である。

「鑠石(しやくせき)」石をも溶かす暑さを言う。この四番歌は恐らくは四季をイメージしているもので、とすれば「二」は夏で、苛烈な京の夏の暑さを意識しつつ、医学生の医道研鑚への熱意を掛けたものと私はとる。]

2019/06/23

ゆく春三章 伊良子清白

 

ゆく春三章

 

 

  ほのぼの遠き

 

ほのぼの遠き海の果

白帆はすぎて春山幾日(いくひ)

椿は落ちぬ音もなく

岩の峽間(はざま)の波のうへ

 

躑躅(つゝじ)花燃え山煙り

鷗(かもめ)叫びて海靑し

いそのこちごち霞立つ

春のわかれの浪の音

 

 

  東の、東の

 

東(ひんがし)の、東(ひんがし)の

見えざる遠(とほ)に伊豆はあり

伊豆の七島(なゝしま)まぼろしの

沖のとよもす潮騷(しほさゐ)は

そなたよりこそきこえくれ

牡丹繪がける鰹舟

燒津(やいづ)のふねも往くらんか

 

 

  磯のかけぢの

 

磯の懸路(かけぢ)の

夜の空は

星影淡(あは)く

波靜か

漕ぎ囘(た)む舟の

櫓の軋(きし)み

夜網揚ぐるか

岸づたひ

ぬすむがごとき

水の音

 

[やぶちゃん注:昭和一四(一九三九)年六月一日『花椿』(第三巻第六号)に掲載。署名は「伊良子清白」。この年、伊良子清白六十二歳。

「懸路(かけぢ)」原義は「険しい道」であるが、近世、崖の中腹に懸けた桟道の意でも用いた。ここは後者で私はとる。

「囘(た)む」マ行上二段活用の上代よりの古い自動詞。「ぐるりと巡る」の意。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(41) 「水邊ニ牧ヲ構ヘテ龍種ヲ求ム」(2)

 

《原文》

 駿馬ノ龍ヲ父トスルコト、近世ニ於テモ正シク其實例アリキ。【龍ケ池】羽前東田川郡淸川村ノ對岸ニ龍ケ池アリ。【鞍淵】此水ハ山中ノ靑鞍淵ト地下ニ相通ズト傳ヘラレ、曾テ領主ガ池水ヲ切落サントセシ時ニモ、掘ルニ從ヒテ底愈窪ミ、漫々トシテ終ニ其深サヲ減ゼザリキ。此池ニモ龍アリテ住ムガ故ニ、池ノ空ニ龍ノ形ヲシタル雲ノ折レ棚引クヲ見ルコトアリ。【野飼】酒井侯忠眞ノ治世ニ、成澤村ノ農長右衞門ガ家ノ女馬、此池ノ岸ニ野飼スル間ニ龍ノ子ヲ孕ミタリ。生レシ駒ハ鹿毛ノ駿逸ナリキ。忽チニ藩主ノ乘馬トナリ後ニ之ヲ公儀ニ獻ズト云フ〔三郡雜記下〕。士佐ノ果下馬(トサゴマ)ハ體コソ小サケレ、健カニシテ且ツ鋭キコトヨク彼國ノ人物ニ似タリ。其開祖モ亦水邊ノ牧ヨリ出デシモノニテ、一說ニハ牝馬ノ海鹿(アシカ)ト交リテ生ミシ子ナリト稱シ、ソレ故ニ性質チト順良ナラズトモ評セラル〔有斐齋剳記〕。此等ノ事實ヲ參酌シ、兼テ又多クノ池月ガ池ノ邊ヨリ生レ出シコトヲ思ヒ合ストキハ、我邦ニテ延喜式以來ノ諸國ノ牧場ノ海ニ臨メル地ニ多カリシハ、決シテ單ニ土居ヤ圍障ノ經費ヲ節約センガ爲ノミニ非ザリシコトヲ疑フ能ハズ。即チ斯クスレバ良キ駒ヲ產スべシト云フ經驗乃至ハ理論ノ確乎タルモノアルニ非ザレバ、島地岬端ヲ求ムルコト此ノ如ク急ナルべキ理無キナリ。俗說ノ傳フル所ニ依レバ、馬ハ應神天皇ノ御代ニ高麗國ヨリ初メテ之ヲ貢獻ス。【生駒山】之ヲ飼フべキ途ヲ知ラズ、山ニ放チタルニ依リテ其山ヲ生駒山ト云フ。其後高麗ヨリ人渡リテ申ス、岩石峯海ノ邊鹽風ニ當ル處ニ放チ飼ヘバ駿馬トナリテヨシト申ス。依リテサアリヌべキ處ヲ尋ネ、但馬國ノ海峯ニ斯ル處ヲ求メ得テ馬ヲ追放ツ。其後子ドモ多ク生レテ馬此國ニ充滿シケリ。故ニ多馬(タマ)ノ國ト號ス云々〔但馬考所引國名風土記〕。【島ノ牧】島ノ牧ニ至リテハ近世ニモ例甚ダ多シ。羽前ノ海上ニ飛島ナリシカ粟島ナリシカ、今モ共有ノ野馬山ニ多ク居リ、島人其用アル時ノミ繩ヲ携ヘ行キテ之ヲ捕ヘテ使ヒ、用終レバ復之ヲ放ツト云フ話ヲ聞キシコトアリ。伊豆ノ大島ニテハ里ニ飼フハ牛ノミナレドモ、八代將軍ノ時ニ放牧セシ野馬ノ子孫、三原山ノ中腹ニ永ク住ミテアリシト云ヘリ。津和野ノ龜井伯ノ始祖龜井琉球守玆矩ハ雄圖アル武將ナリキ。曾テ大船ヲ購ヒテ明國安南暹羅ナドト貿易セシ頃、多クノ驢馬野牛ヲ舶載シ來リテ之ヲ因幡湖山池(コナンイケ)ノ靑島ニ放牧ス。其種永ク盡キズ、寬永年中ニ至リテ尙其姿ヲ見タリト云フ〔漫遊人國記〕。瀨戶内海ニハ島ノ牧殊ニ多カリキ。熊谷直好ノ歸國日記ニ

  赤駒ニ黑ゴママジリ遊ビ來ル島ノ松原面白キカナ

ト詠ジタルハ、今ノ何島ノ事ナリヤハ知ラザレドモ、安藝ノ海中ニモ馬島ト稱シテ野馬ノ多キ一島アリキ。但シ之ヲ取還ラントスル者アレバ、其舟必ズ覆沒スト云ヘバ〔有斐齋剳記〕、世用ニ於テハ益無キナリ。播州家島(エジマ)ノ南方十五町ノ處ニモ、寬文ノ頃一ノ馬島アリテ牧ヲ設ケラル〔西國海邊巡見記〕。安藝賀茂郡阿賀町ヨリ一里ノ海上ニ、情島(ナサケジマ)ト云フ大小二箇ノ島アリ。大情ノ方ハ承應三年ニ藩ノ牧場ト定メラレ之ニ十匹ノ馬ヲ放ス。追々ニ繁殖シテ明曆ノ頃ニハ二十餘頭ニ達シタリ。後年其數ノ減ズルヲ以テ文化十四年ニハ更ニ一頭ノ月毛ヲ放ス。此月毛ハ廣島ノ東照宮ノ祭ノ神馬ナリキ。後ニ又牝馬二匹ヲ以テ其牧ニ加ヘタリト云ヘリ〔藝藩通志〕。讚州高松藩ニテハ慶安年中ニ大内郡ノ大串山ト云フ處ニ馬牧ヲ開キ馬ヲ放ス。大串山ハ島ニ非ズ、一里バカリ海中ニ突出スル半島ナリ。陸續キノ一面ニハ塹ヲ掘リテ馬ノ逸出スルヲ防ギタリ。此牧ハ良馬ヲ出サザリシガ故ニ終ニ之ヲ罷ムトアリテ〔讚岐三代物語〕、爰ニモ明カニ龍神信仰ノ末法ヲ示セリ。此序ニ申サンニ、大串山ノ串ハ半島又ハ岬ノコトナリ。地方ニ由リテハ之ヲ久慈又ハ久枝トモ書ケド、是レ恐クハ二字ノ嘉名ヲ用ヰシモノニテ、紀州ノ串本、長門ノ小串其他、串ト書スル例モ多シ。串ハ朝鮮語ニテモ亦半島若シクハ岬ヲ意味シ、本來「コツ」ノ語音ニ宛テタル漢字ナランカト云ヘリ。而シテ朝鮮ニテモ島又ハ串(コツ)ヲ馬牧トスルハ最モ普通ノ慣習ナリシナリ。其例ヲ擧グレバ限無シト雖、中ニモ大ナルハ全羅道大靜縣ノ加波島、慶尙道熊川縣南海ノ加德島、同ジク長髻縣ノ冬乙背串、忠淸道ニテハ瑞山郡ノ安眠串、奉安郡ノ和靈山串、大小山串梨山串薪串ノ四串、河川郡ノ金宅串、唐津縣ノ西ニ在ル孟串ノ如キモ皆古來ノ牧ナリキ〔東國輿地勝覽〕。獨リ日本内地ノミノ風習ニハ非ザリシコトハ此ダケニテモ容易ニ察スルコトヲ得ルナラン。

 

《訓読》

 駿馬の龍を父とすること、近世に於いても正(まさ)しく其の實例ありき。【龍ケ池】羽前東田川郡淸川村の對岸に龍ケ池あり。【鞍淵】此の水は山中の靑鞍淵と地下に相ひ通ずと傳へられ、曾つて領主が池水を切り落とさんとせし時にも、掘るに從ひて、底、愈々、窪み、漫々として、終に其の深さを減ぜざりき。此の池にも龍ありて住むが故に、池の空に龍の形をしたる雲の、折れ棚引くを見ることあり。【野飼】酒井侯忠眞(ただざね)の治世に、成澤村の農長右衞門が家の女馬、此の池の岸に野飼する間に、龍の子を孕みたり。生れし駒は鹿毛(かげ)の駿逸なりき。忽ちに藩主の乘馬となり、後に之れを公儀に獻ずと云ふ〔「三郡雜記」下〕。士佐の「果下馬(とさごま)」は體こそ小さけれ、健かにして、且つ、鋭きこと、よく彼の國の人物に似たり。其の開祖も亦、水邊の牧より出でしものにて、一說には牝馬の海鹿(あしか)と交りて生みし子なりと稱し、それ故に、性質、ちと、順良ならずとも評せらる〔「有斐齋剳記(いうびさいたうき)」〕。此等の事實を參酌し、兼ねて又、多くの池月が池の邊より生れ出でしことを思ひ合すときは、我が邦にて「延喜式」以來の諸國の牧場の海に臨める地に多かりしは、決して單に土居(どゐ)や圍障(ゐしやう)の經費を節約せんが爲めのみに非ざりしことを疑ふ能はず。即ち、斯くすれば、良き駒を產すべしと云ふ經驗乃至は理論の確乎たるものあるに非ざれば、島地(しまち)・岬端(こうたん)を求むること此くのごとく急なるべき理(ことわ)り、無きなり。俗說の傳ふる所に依れば、馬は應神天皇の御代に高麗國(こうらいこく)より初めて之れを貢獻す。【生駒山】之れを飼ふべき途(みち)を知らず、山に放ちたるに、依りて其の山を生駒山と云ふ。其の後、高麗より、人、渡りて申す、「岩石峯海の邊、鹽風に當たる處に放ち飼へば、駿馬となりてよし」と申す。依りて、さありぬべき處を尋ね、但馬國の海峯に斯る處を求め得て、馬を追ひ放つ。其の後、子ども、多く生れて、馬、此の國に充滿しけり。故に「多馬(たま)の國」と號す云々〔「但馬考」所引「國名風土記」〕。【島の牧】島の牧に至りては、近世にも、例、甚だ多し。羽前の海上に飛島(とびしま)なりしか粟島(あはしま)なりしか、今も共有の野馬、山に多く居り、島人、其の用ある時のみ、繩を携へ行きて、之れを捕へて使ひ、用終れば、復た之れを放つ、と云ふ話を聞きしことあり。伊豆の大島にては、里に飼ふは牛のみなれども、八代將軍の時に放牧せし野馬の子孫、三原山の中腹に永く住みてありしと云へり。津和野の龜井伯の始祖龜井琉球守玆矩(これのり)は雄圖ある武將なりき。曾つて大船を購ひて、明國・安南[やぶちゃん注:現在のヴェトナム。]・暹羅(しやむ)[やぶちゃん注:シャム。現在のタイ。]などと貿易せし頃、多くの驢馬・野牛を舶載し來たりて、之れを因幡湖山池(こさんいけ)の靑島に放牧す。其の種、永く盡きず、寬永年中[やぶちゃん注:一六二四年~一六四五年。]に至りて尙、其の姿を見たりと云ふ〔「漫遊人國記」〕。瀨戶内海には島の牧、殊に多かりき。熊谷直好(くまがいなほよし)の「歸國日記」に

  赤駒に黑ごままじり遊び來る島の松原面白きかな

と詠じたるは、今の何島の事なりやは知らざれども、安藝の海中にも馬島と稱して野馬の多き一島ありき。但し、之れを取り還らんとする者あれば、其の舟、必ず覆沒すと云へば〔「有斐齋剳記」〕、世用(せよう)に於いては、益、無きなり。播州家島(えじま)の南方十五町[やぶちゃん注:一キロ六百四十メートル程。]の處にも、寬文[やぶちゃん注:一六六一年~一六七三年。]の頃、一つの馬島ありて、牧を設けらる〔「西國海邊巡見記」〕。安藝賀茂郡阿賀町より一里の海上に、情島(なさけじま)と云ふ大小二箇の島あり。大情の方は承應三年[やぶちゃん注:一六五四年。]に藩の牧場と定められ、之れに十匹の馬を放す。追々に繁殖して、明曆[やぶちゃん注:一六五五年~一六五八年。]の頃には二十餘頭に達したり。後年、其の數の減ずるを以つて、文化十四年[やぶちゃん注:一八一七年。]には更に一頭の月毛を放す。此の月毛は廣島の東照宮の祭の神馬なりき。後に又、牝馬二匹を以つて其の牧に加へたりと云へり〔「藝藩通志」〕。讚州高松藩にては、慶安年中[やぶちゃん注:一六四八年~一六五二年。]に大内郡の大串山と云ふ處に馬牧を開き、馬を放す。大串山は島に非ず、一里ばかり海中に突出する半島なリ。陸續きの一面には塹(ほり)を掘りて、馬の逸出するを防ぎたり。此の牧は良馬を出ださざりしが故に、終に之れを罷むとありて〔「讚岐三代物語」〕、爰にも明らかに龍神信仰の末法を示せり。此の序でに申さんに、大串山の「串」は「半島」又は「岬」のことなり。地方に由りては之れを「久慈」又は「久枝」とも書けど、是れ、恐らくは二字の嘉名を用ゐしものにて、紀州の串本、長門の小串其の他、「串」と書する例も多し。「串」は、朝鮮語にても亦、「半島」若しくは「岬」を意味し、本來、「コツ」の語音に宛てたる漢字ならんかと云へり。而して朝鮮にても、「島」又は「串(コツ)」を馬牧とするは、最も普通の慣習なりしなり。其の例を擧ぐれば限り無しと雖も、中にも大なるは、全羅道大靜縣の加波島、慶尙道熊川縣南海の加德島、同じく長髻縣の冬乙背串(とうつはいこつ)、忠淸道にては瑞山郡の安眠串、泰安郡の和靈山串、大小山串・梨山串・薪串の四串、沔川(べんせん)郡の金宅串、唐津縣の西に在る孟串のごときも皆、古來の牧なりき〔「東國輿地勝覽」〕。獨り日本内地のみの風習には非ざりしことは此れだけにても容易に察することを得るならん。

[やぶちゃん注:「羽前東田川郡淸川村の對岸に龍ケ池あり」山形県東田川郡庄内町清川はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。最上川左岸の集落で、対岸の山の中腹に池が現存する(少し外れた北西にも別に小さな池沼があるが、航空写真に切り替えて見ると干上がっている可能性が濃厚であり、国土地理院図(後掲)ではこの小さな池自体が確認出来ない。雰囲気からすると、谷筋を堰堤で仕切った人工の滞水域のようにも見えるが、後の「成澤村」の注をも参照されたい)。但し、こちら側(最上川右岸)は山形県酒田市成興野(なりこうや)須郷(すごう)であり、調べても池の名は判らない(しかし有意な池であるから、名はあるはずである)。「山中の靑鞍淵」も判らぬが、池があるその上のピークは低く、流れも北の谷になるので、或いは、東北部に聳える山塊の大きな複数の谷(国土地理院図)の孰れかの淵を指すものかも知れない。

「曾つて領主が池水を切り落とさんとせし時にも、掘るに從ひて、底、愈々、窪み、漫々として、終に其の深さを減ぜざりき。此の池にも龍ありて住むが故に、池の空に龍の形をしたる雲の、折れ棚引くを見ることあり」この話、私は以前、全く別の江戸の奇談集で確かに読んだ記憶があるのだが、思い出せない。思い出した時は追記する。

「酒井侯忠眞」出羽庄内藩第四代藩主酒井忠真(寛文一一(一六七一)年~享保一六(一七三一)年)。天和二(一六八二)年に父忠義の死により家督を相続した。元禄六(一六九三)年には側用人に就任している。

「成澤村」ロケーションの続きから、国土地理院図で調べると、山形県酒田市成興野の北に成沢の地名を見出せる。ところが、この地区を北から流れる「又右ェ門川」(柳田國男の言う「農長右衞門」の名が冠された川だ)の中途部分が先のグーグル・マップ・データで確認出来る池のような溜まりなのである。ちょっと悩ましいが、しかし、ここは谷の途中が堰き止められたようなもので、地形的に見ても周囲に平地が殆んどない。駒を野飼いするスペースを池の周囲が有するのは、圧倒的に先の、ここの東南東にある大きな方であるから、私の同定は変更しない。

「果下馬(とさごま)」広義の「果下馬(かかば)」は所謂、現在のポニー(pony:肩までの高さが百四十七センチメートル以下の小さな馬)の元になった品種の一つ。柳田國男が振っている「とさごま」=土佐馬は小柄な馬で、山の坂道を良く歩くとされたが、既に純血種は絶滅してしまっている。個人サイトらしき「Private Zoo Garden」の「カカバ(果下馬)」によれば、中国広西チワン自治区原産で、丈は一メートルから一メートル二十センチメートルほどで、『毛色は茶褐色、赤茶色、乳白色などで、顔は広く、ロバに似た感じがする』。『古くは騎馬用などにも用いられたようであるが、婦女子の乗馬用などにも好まれていたようである』。『カカバは丈夫でおとなしい性格のため、近年まで使役動物としても用いられてきたが、現在では在来のものが少なくなっている』。『主に青草などを食べ、習性などはポニーの仲間と同じと思われる』。『カカバは「果下馬」と書かれるが、この名前は、体が小さいので』、『果樹の木の下を通り抜けることが出来るということ』に由来するとある。『また、現在、韓国で天然記念物に指定されている「済州馬」は、カカバと同種であると思われ、かつてカカバは朝鮮半島にも生息していたと考えられている』。『国内にもノマウマ (野間馬) などの小型の在来馬が生息しているが、いずれも生息数は少なく、保護されている』とある。貝原益軒の「大和本草」の巻之十六の「獸類」の「猿」と「貒(まみ)」(タヌキ)の間に「果下馬」がある。私のブログ・カテゴリ『貝原益軒「大和本草」より水族の部』のポリシーに従って電子化する。底本は「学校法人中村学園図書館」公式サイト内にある宝永六(一七〇九)年版の貝原益軒「大和本草」PDF版を視認してタイプした(リンク先は目次のHTMLページ)。

   *

【外】大明一統志曰果下馬肇慶府瀧水縣出

 者爲最高不踰三尺長者有兩脊骨號雙脊馬健

 而能行是土佐駒ナルヘシ土佐駒ハ草ヲ食シテ能重

 キヲ䭾フ不要飼穀甚便于民用又范石湖カ桂海

 獸志ニモノセタリ與一統志所載略同是一統志ヨリ

 古書ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

【外】[やぶちゃん注:この「外」とは、本書が主に拠るところの明の李時珍の「本草綱目」には載せないが、他の中国の本草書には載る種の謂いである。]

「大明一統志」に曰はく、『果下馬、肇慶府瀧水〔(らうすい)〕縣に出づる者、最と爲す。高さ三尺の長〔(たけ)〕に踰〔(こ)〕ゑざる[やぶちゃん注:ママ。]者、兩〔つながら〕、脊骨、有り、「雙脊馬」と號す。健かにして能く行く』〔と〕。是れ、「土佐駒」なるべし。土佐駒は草を食して、能く重きを䭾(を)ふ[やぶちゃん注:ママ。「負ふ」「擔ふ」であるから歴史的仮名遣は「おふ」でよい。]。穀を飼〔(かひばと)する〕ことを要せず、甚だ民用に便〔(びん)〕:なり。又、范石湖が「桂海獸志」にものせたり。「一統志」の載する所と、略〔(ほぼ)〕同じ。是れ、「一統志」より古書なり。

   *

・「大明一統志」は明の勅撰の地理書。一四六一年完成。全九十巻。

・「范石湖」南宋の政治家で詩人で「南宋四大家」の一人に数えられる范成大(一一二六年~一一九三年)の号。「桂海獸志」は恐らく彼が書いた桂林・広西の民俗誌の「桂海虞衡志」の中の獣類パートを指すものと思われる。

「海鹿(あしか)」食肉目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科アシカ亜科 Otariinae のアシカ類。詳しくは「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 海獺(うみうそ)(アシカ類・ニホンアシカ)」を見られたい。そこでも、アシカを「頭は馬のごとく」とか言っているが、全然違うっうの!

「土居(どゐ)」土塁。

「圍障(ゐしやう)」垣根・塀・柵。孰れも、所謂、人工のテキサス・ゲート。

「馬は應神天皇の御代に高麗國(こうらいこく)より初めて之れを貢獻す」これっておかしいだろ! 「古事記」の素戔嗚尊が機屋に投げ込んだんは何の皮やねん!! 但し、ウィキの「馬」によれば、『先史時代の日本には乗馬の歴史はなく、大陸から伝来した文明、文化とされる。日本に馬が渡来したのは古くても、弥生時代末期』(紀元後三世紀中頃)『ではないかといわれ』、四『世紀末から』五『世紀の初頭になって』、『漸く乗馬の風習も伝わったとされる』とある。因みに、応神天皇の在位期間は機械換算で二七〇年から三一二年。しかして以上は「日本書紀」の応神天皇十五(二八四)年八月六日の記載に無批判に拠ったもの。

   *

十五年秋八月壬戌朔丁卯。百濟王遣阿直岐。貢良馬二匹。卽養於輕坂上厩。因以以阿直岐令掌飼。故號其養馬之處曰厩坂也。阿直岐亦能讀經典。卽太子菟道稚郞子師焉。於是天皇問阿直岐曰。如勝汝博士亦有耶。對曰。有王仁者。是秀也。時遣上毛野君祖荒田別。巫別於百濟。仍徴王仁也。其阿直岐者。阿直岐史之始祖也。

   *

「羽前の海上」「飛島(とびしま)なりしか粟島(あはしま)なりしか」山形県酒田市飛島なら羽前。新潟県岩船郡粟島浦村の粟島は羽前ではない。馬の話もネットでは掛かってこない。ただ、柳田國男がいい加減な誤認で粟島を出したものではないようには思う。粟島と飛島は対馬海流の影響下にあり、南方系の文化北上のルートとしてダイレクトに繋がっているからである。但し、だから、これらの島に南の馬が運ばれてきたなどと軽々に言おうと言うのではない。

「津和野の龜井伯の始祖龜井琉球守玆矩(これのり)」(弘治三(一五五七)年~慶長一七(一六一二)年)は戦国大名で、因幡鹿野(しかの)藩初代藩主。父は尼子氏家臣であった湯左衛門尉永綱。武蔵守。尼子氏の滅亡後、諸国を流浪し、天正元(一五七三)年、因幡国に来住、尼子氏再興を図る旧臣山中鹿之介幸盛に従って各地に転戦、同二年、幸盛の養女を妻に迎え、同じく尼子氏旧臣で幸盛の外舅に当たる亀井秀綱の家号を継いだ。後、幸盛とともに織田信長に属し、幸盛が死去すると、その部下を率いて羽柴(豊臣)秀吉に属した。同八年、因幡国に入り、鹿野城(現在の鳥取県気高郡鹿野町)に籠って毛利軍と戦い、秀吉の鳥取(久松山)城攻略に貢献、同国気多郡に一万三千八百石を与えられ、鹿野城主となる。その後、九州征討・朝鮮出兵にも従軍し、秀吉から琉球征服の朱印を得て、前代未聞の「琉球守」を称した。慶長五(一六〇〇)年の「関ケ原の戦い」では、家康方に属し、同国高草郡を宛がわれ、計三万八千石を領した。気多郡日光池や高草郡湖山池の干拓を手掛け、千代川左岸に延長二十二キロメートルにも及ぶ「大井手用水」を設けた。また、南方種の稲を栽培させ、桑・楮(こうぞ)の植樹に努めるなど、産業振興を図るとともに、文禄年間(一五九二年~一五九六年)から伯耆国日野郡に銀山を経営した。また、慶長一二(一六〇七)年から、三度に亙ってサイヨウ(現在のマカオ周辺)やシャム(タイ)に貿易船を派遣、家康とシャム国王の仲介にも努めている(以上は主文を「朝日日本歴史人物事典」よった。さて、以下、ウィキの「亀井茲矩」によれば、『茲矩は東アジアへの関心に影響されてか、秀吉が中国大返しによって姫路城に戻った』六月七日の『翌日、毛利と講和したため』、『茲矩に約束していた出雲半国の代わりに恩賞となる別国の希望を聞いたところ』、『「琉球国を賜りたい」と答えたため、秀吉は「亀井琉球守殿」と書いた扇を茲矩に授けたという』。『琉球守』と『は律令にないユニークな官職名であり、茲矩も琉球征伐を秀吉に申し出て』、『一度は許可されている。しかし豊臣政権として』は『琉球政策は島津氏を取次とする支配体系と』決した『ため、権益を有する島津家からの妨害もあって』、『茲矩の官職名は九州征伐の頃から小田原征伐の頃にかけて武蔵守となっている。その後、台州守の号を称したが、これは現在の中』『国浙江省の台州市のことである。ただし、文禄・慶長の役で明攻略が挫折した以降は』、『再び武蔵守を名乗っている』とある。

「因幡湖山池(こさんいけ)の靑島」鳥取県鳥取市北部にある、「池」と名に付く湖沼の中では日本最大の広さを持つ汽水湖湖山池(こやまいけ)の南部に浮かぶ最大の無人島青島。陸地からは五百メートルも離れておらず、現在は青島大橋で陸と結ばれている。

「熊谷直好(くまがいなほよし)」(天明二(一七八二)年~文久二(一八六二)年)は江戸後期の周防国岩国藩士で歌人。鎌倉初期の名将熊谷直実の第二十四世を称した。ウィキの「熊谷直好」によれば、もとは『萩藩藩士となった安芸熊谷氏分家の出身』。先祖の一人『熊谷信直の五男』『熊谷就真』(なりざね)『が熊谷騒動(毛利家による熊谷本家・熊谷元直の粛清事件)に連座』して『萩を追われ』、『岩国に一時』、『滞在し』た。『のち』、『一族が赦された際、就真の子』『正勝は萩に戻らず』、『岩国藩士となった』が、その『子孫が直好であ』った。十九歳の時、『上洛して香川景樹に師事、桂門』一千『人中の筆頭と称された。香川景樹の桂園十哲の一人にも数えられ』たが、文政八(一八二五)年、『香川家の扶持問題に絡んで脱藩している。京都に住んだが、その後』、『大阪へ移っ』て歌業に専念した。『歌集に「浦のしお貝」、著書に「梁塵後抄」「法曹至要抄註釈」「古今和歌集正義序註追考」など』がある。「歸國日記」も「赤駒に」の一首も不詳。

「安藝の海中」「馬島」広島県呉市三津口湾に馬島(まじま)という無人島はある。ここかどうかは知らぬ。

「播州家島(えじま)の南方十五町」、瀬戸内海東部の播磨灘(姫路市から沖合約十八キロメートル)にある家島(いえしま)諸島。東西二十六・七キロメートル、南北十八・五キロメートルに亙って大小四十余りの島嶼で構成されている(現在は諸島全域が兵庫県姫路市に属する)が、この家島は主島「家島」を含めて地元では「いえしま」ではなく、「えじま」と呼ばれるウィキの「家島諸島」にある。ここで言う「一つの馬島」は、示された方角と距離と牧を設け得る島の大きさから見て無人島「矢ノ島」しかない(航空写真をリンクさせたが、しかし、およそ現況は馬の飼えるような状態にはない)

「安藝賀茂郡阿賀町より一里の海上に、情島(なさけじま)と云ふ大小二箇の島あり」大情島(有人島)と無人島の小情島がある。広島県呉市阿賀町。なお、ここについては、ウィキの「情島」に、『江戸時代、広島藩はこの島に放牧場を設けた』。『そして阿賀の農民に管理させるため移住させている』とあった。但し、『昭和初期で人口約』百四十人で『柑橘栽培に従事してい』たが、『太平洋戦争時には』『大日本帝国海軍呉鎮守府が接収し』、『竜巻作戦(特四式内火艇)や伏龍の秘密訓練場となった』。『大戦末期には浮砲台として日向がこの沖に置かれ、呉軍港空襲により大破』した『戦後、帰ってきた元島民により』、昭和二二(一九四七)年時点では人口二百七人にまで伸びたものの、『以降』、『減少を続け』、二〇一〇年『現在で人口は』六世帯九人、高齢化率八十八・九%、『平地自体』が『極端に狭いという地形的制約から』、『今後の人口増を望むことが難しく、将来的には集落維持が困難になることが懸念されている』。『上水道施設は存在しておらず、各家庭』、『井戸を用いている』。『周辺は小型底引き網の漁場で』、『住民はいわゆる半農半漁』ではあるものの、『島内の漁業従事者は』二〇一〇年現在、ただ一人、農家は三世帯あるものの、『あくまで自給的なものに留まっている』ありさまである。

「讚州高松藩」「大内郡の大串山」この香川県東かがわ市の海岸線の二箇所の突出部の孰れか。西の鹿浦越岬の突出部或いは西の引田城跡(近くに「大池」「大安戸」と「大」の附く地名がある)辺りか? 「大串」の古称の名残がないために孰れとも言い難い(どちらも根を内陸の海浜線の平均線上からは岬まで一里ほどになり、それぞれ山を成している)。地元の郷土史研究家の御教授を乞う。

「二字の嘉名」発音を分解して二字を縁起の好さそうな当て字とすること。

『「串」は、朝鮮語にても亦、「半島」若しくは「岬」を意味し、本來、「コツ」の語音に宛てたる漢字ならんか』現代韓国語で「串」は「꼬치」(ッコチ)で、「岬」は「갑」(カプ)だが、「~岬」のように地名の末尾に附けるときは、「곶」(ゴッ)。

「全羅道大靜縣の加波島」韓国語音写で「カバド」。ここ

「慶尙道熊川縣南海の加德島」「カドクド」。ここ

「長髻縣の冬乙背串(とうつはいこつ)」この岬附近らしい。以下、地図上でのハングルは私には判らないので、大まかな位置推定であって大間違いかも知れぬのでご注意あれ。

「忠淸道にては瑞山郡の安眠串」この附近か

「泰安郡の和靈山串」「大小山串・梨山串・薪串の四串」孰れもこの半島の一画か。

「沔川(べんせん)郡の金宅串」「唐津縣の西に在る孟串」この半島部の北の先の附近か。よく判らぬ。悪しからず。]

岩波文庫本のはしに 清白(伊良子清白) / 岩波文庫版詩集「孔雀船」の序

     岩波文庫本のはしに

 阿古屋の珠は年古りて其うるみいよいよ深くその色ますます美(うる)はしといへり。わがうた詞拙く節(ふし)おどろおどろしく、十年(とゝせ)經て光失せ、二十年(はたとせ)すぎて香(にほひ)去り、今はたその姿大方散りぼひたり。昔上田秋成は年頃いたづきける書深き井の底に沈めてかへり見ず、われはそれだに得せず。ことし六十(むそ)あまり二つの老を重ねて白髮(しらが)かき重り齒脫けおち見るかげなし。ただ若き日の思出のみぞ花やげる。あはれ、うつろなる此ふみ、いまの世に見給はん人ありやなしや。

   ひるの月み空にかゝり
   淡々し白き紙片(かみびら)
   うつろなる影のかなしき
   おぼつかなわが古きうた
   あらた代の光にけたれ
   かげろふのうせなんとする

  昭 和 十 三 年 三 月
               淸 白 し る す

[やぶちゃん注:昭和一三(一九三八)年四月五日岩波文庫刊の詩集「孔雀船」に添えられた再序。かの献辞「故鄕の山に眠れる母の靈に」の次の次(左ページ)に記され、既に電子化した昭和四年三月クレジットの梓書房版の詩集「孔雀船」再版の「小序」が次の次(左ページ)に記されてある。
 ここでは底本は岩波版全集ではなく(そちらは漢字が新字)、所持する岩波文庫の原本を用いた。]

鄕軍勇士におくる歌 伊良子清白

 

鄕軍勇士におくる歌

 

   

聖戰すでに酣に

皇軍の意氣天を衝く

君等を送りて早(はや)幾(いく)日

凱歌は故國に轟けり

   

醜賊未だ平がず

山河(が)草木掃蕩の

神軍さながら火(ひ)の如し

潰滅期(き)して待たんのみ

   

外力(ぐわいりよく)依存(いぞん)あるはまた

長期抗戰敵は吼ゆ

堂々威武の進擊に

四百餞州の空(そら)朗(ほがら)

   

斷乎の決意邁進の

一路は前に橫たはる

堅忍持久膺懲(ようてう)の

皇師(し)はいよいよ猛からん

   

祖國日本の興廢は

君等の肩にかゝるなり

戰線銃後團々と

一つに燃ゆる焰かな

 

[やぶちゃん注:昭和一三(一九三八)年二月三日附『伊勢新聞』に掲載。底本は総ルビに近いが、五月蠅いので、パラルビとした。「膺懲(ようてう)」はママ(歴史的仮名遣では「ようちよう」でよい)。「皇師(し)」は「皇」にルビなくして「し」は「師」一字のみへのルビである。署名は「伊良子清白」。この年、伊良子清白、満六十一。四月五日に岩波文庫版の詩集「孔雀船」が刊行されている。その序「岩波文庫本のはしに」はこの後で電子化して示す。

「膺懲(ようてう)」敵や悪者を打ちこらしめること。この場合の「膺」は「胸」ではなく、「負わせる」の意。但し、この時、この熟語は特殊な限定的意味を持っていた。則ち、「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」(「暴戻(ぼうれい)支那(しな)ヲ膺懲(ようちょう)ス」(「暴虐な中国を懲らしめよ」)を短縮した四字熟語)で、これはこの前年に勃発した「日中戦争」(一九三七(昭和一二)年七月七日に発生した「盧溝橋事件」に端を発する「支那事変」)に於ける大日本帝国陸軍のスローガンであったからである。ウィキの「暴支膺懲」によれば、『大本営が国民の戦闘精神を鼓舞するために利用したスローガンでもあ』り、『盧溝橋事件および通州事件』(昭和一二(一九三七)年七月二十九日に中国の通州(現在の北京市通州区)に於いて、中国人部隊の冀東(きとう)防共自治政府保安隊が、日本軍の通州守備隊・通州特務機関及び日本人居留民を襲撃殺害した事件)『以降は特に用いられるようになり、「暴支膺懲国民大会」が数多く開催された。同年』七月二十一日にはファッショ政党『日本革新党が日比谷公会堂で開催した』『ほか』、九月二日に『東京府東京市(当時)の芝公園で開催された対支同志会主催・貴族院及び在郷軍人会、政財界後援による暴支膺懲国民大会では「抗日絶滅」や「共匪追討」がスローガンとなっており、政財界・言論界の人物が登壇したという』。『対米英開戦後(太平洋戦争中)は「鬼畜米英」が前置されるようになり、合わせて「鬼畜米英、暴支膺懲」となった』とある。さすれば、この表題もそれに合わせた如何にもなものであることが判る。「鄕軍勇士」は一語ではない。「鄕軍」は「在郷軍人」であり、「勇士」は中国の戦線にいる兵隊を指しているのである。]

2019/06/22

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(40) 「水邊ニ牧ヲ構ヘテ龍種ヲ求ム」(1)

 

《原文》

水邊ニ牧ヲ構ヘテ龍種ヲ求ム   池月磨墨ハ名馬ノ最モ高名ナルモノニハ相違ナキモ、弘ク其名ノ諸國ノ傳說ニ採用セラルヽニ至リシ原因ハ別ニ又存ス。先ヅ第一ニ池月ハ池ヨリ生レシ者、即チ水ノ神ノ子ナリト想像セシムルニ最モ似ツカハシキ名前ナリ。池月ハ太ク逞シキ黑栗毛ナル馬ノ、尾ノ先チト白カリケルトアル昔ノ記錄ハ、各地ノ古傳之ヲ認メザル者多シ。事ノ外ノ荒馬ニシテ生類ヲ好ミテ食ヒケル故ニ生唼(イケズキ)ト云フトノ說ハ、殊ニ牽强附會ノ感アリ。其議論ハ兎モ角モ、其名ヲ耳ニ聞キテ先ヅ思フハ白クシテ光アル馬ノ毛ノ水ノ月ト緣アルコト、更ニ步ヲ進ムレバ龍馬ハ龍ノ胤ト云フ古來ノ俗信ナリ。此思想ハ申スマデモ無ク支那カラノ輸入ナレド、而モ日本ノ土ニ移シテ後ニモ國相應ノ美シキ花ヲ開ケルナリ。【長者】例ヘバ陸中鹿角郡小豆澤(アヅキザハ)ノダンブリ長者ノ如キハ、家富ミテ數百頭ノ馬ヲ山ニ放牧ス。山上ニハ池アリテ龍下リ住メリ。長者ガ駒此池ノ水ヲ飮ミテ龍馬ト成リシガ故ニ、今モ其故跡ヲ龍馬嶺ト云フ〔鹿角志〕。池月產地ノ一トシテ傳ヘラルヽ羽後ノ木直(キヅキ)ニテハ、昔百姓ノ家ニ一頭ノ牝馬ヲ飼ヘリシガ、夜ニ入リテ厩ノ中物騷ガシキコト屢ナリ。灯火ヲ挑ゲ行キテ見ルニ何物ノ影モ無カリシガ、朝每ニ厩ノ周ニ必ズ新ナル蹄ノ跡アリ。副馬嶽(ソウマガダケ)ノ神馬飛降リテ此家ノ牝馬ガ處ニ夜遊ビニ來リシナリト云ヘリ。其後此牝馬ニ七寸ノ駒生レタリ。池月ナリト傳ヘラレシハ此駒ノコトナルガ如シ。非常ノ荒駒ナレバ山ニ杙ヲ打チテ之ヲ繫グ。【ツクシ】仙北ノ名山大ツクシ小ツクシノ二峯ハ、即チ此杙ノ化シテ成レル山ニテ、「ツクシ」トハ杙又ハ標木ノコトナリト云ヘリ〔月乃出羽路四〕。厩ノ戶口ニ新シキ蹄ノ跡ト云フ話ハ我邦バカリノ物語ニハ非ズ。支那ニテモ大昔ヨリワザト牝馬ヲ水際ニ放チテ龍ノ出來心ヲ誘ヒシ例アリト聞ク。水中ノ靈物ガウマウマト人間ノ誘惑ニ罹リシ場合ニハ、必ズ其足跡ヲ岸上ノ砂ニ遺シタリトナリ〔南方氏神足考〕。磨墨太夫黑ノ徒ガ時トシテ巖窟ノ奧ヨリ飛出セリト傳ヘラルヽモ、思フニ亦龍馬ガ文字通リニ龍ヲ父トシテアリシコトヲ示スモノニテ、即チ神馬ハ河水ノ精ナドト云フ思想ヨリ一轉シテ、之ヲ龍ノ變形又ハ龍ノ子ト考フルニ至リシナランノミ。

 

《訓読》

水邊に牧を構へて龍種を求む   池月・磨墨は名馬の最も高名なるものには相違なきも、弘く其の名の諸國の傳說に採用せらるゝに至りし原因は、別に又、存す。先づ第一に池月は池より生れし者、即ち、水の神の子なりと想像せしむるに最も似つかはしき名前なり。「池月は太く逞しき黑栗毛なる馬の、尾の先、ちと白かりける」とある昔の記錄は、各地の古傳、之れを認めざる者、多し。事の外の荒馬にして、生類(しやうるい)を好みて食ひける故に生唼(いけずき)[やぶちゃん注:今まで注していないが、ここで言っておくと、「唼」(この場合の音は「サフ(ソウ)」は「啜る・啜り込んで食う・啄む」の意。]と云ふとの說は、殊に牽强附會の感あり。其の議論は兎も角も、其の名を耳に聞きて先づ思ふは、白くして光ある馬の毛の、水の月と緣あること、更に步を進むれば龍馬は龍の胤(たね)と云ふ古來の俗信なり。此の思想は、申すまでも無く、支那からの輸入なれど、而も日本の土に移して後にも國相應の美しき花を開けるなり。【長者】例へば陸中鹿角(かづの)郡小豆澤(あづきざは)の「だんぶり長者」のごときは、家、富みて、數百頭の馬を山に放牧す。山上には池ありて、龍、下り住めり。長者が駒、此の池の水を飮みて龍馬と成りしが故に、今も其の故跡を「龍馬嶺」と云ふ〔「鹿角志」〕。池月產地の一つとして傳へらるゝ羽後の木直(きづき)にては、昔、百姓の家に一頭の牝馬を飼へりしが、夜に入りて、厩の中、物騷がしきこと、屢々なり。灯火を挑(かか)げ、行きて見るに、何物の影も無かりしが、朝每に厩の周りに、必ず新たなる蹄の跡あり。副馬嶽(そうまがだけ[やぶちゃん注:ママ。])の神馬、飛び降(くだ)りて、此の家の牝馬が處に夜遊びに來りしなりと云へり。其の後、此の牝馬に七寸(しちき)[やぶちゃん注:既注であるが、再掲しておくと、国産馬の標準は四尺(一・二一メートル)が「一寸(いつき)」であるから、「七寸」は一メートル四十二センチメートルとなり、国産馬では有意に異常に大きい。]の駒、生れたり。池月なりと傳へられしは此の駒のことなるがごとし。非常の荒駒なれば、山に杙(くひ)[やぶちゃん注:「杭」の同じい。]を打ちて、之れを繫ぐ。【つくし】仙北の名山「大つくし」「小つくし」の二峯は、即ち、此の杙の化して成れる山にて、「つくし」とは、杙、又は、標木のことなりと云へり〔「月乃出羽路」四〕。厩の戶口に新らしき蹄の跡と云ふ話は、我が邦ばかりの物語には非ず。支那にても、大昔より、わざと牝馬を水際に放ちて、龍の出來心を誘ひし例ありと聞く。水中の靈物が、うまうまと人間の誘惑に罹(かか)りし場合には、必ず、其の足跡を岸上の砂に遺したりとなり〔南方氏「神足考」〕。磨墨・太夫黑の徒が、時として巖窟の奧より飛び出だせりと傳へらるゝも、思ふに、亦、龍馬が、文字通りに龍を父としてありしことを示すものにて、即ち、神馬は河水の精などと云ふ思想より一轉して、之れを龍の變形、又は、龍の子と考ふるに至りしならんのみ。

[やぶちゃん注:「陸中鹿角(かづの)郡小豆澤(あづきざは)」現在の秋田県鹿角市八幡平小豆沢(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「だんぶり長者」秋田県と岩手県に跨る伝説。ウィキの「だんぶり長者」によれば、『主に、盛岡藩の鹿角郡の伝承であり、米代』(よねしろ)『川の名前の由来や、大日霊貴』(おおひるめむち)『神社の縁起を伝えている』。『昔、出羽国の独鈷(とっこ)村(現在の秋田県大館市比内町独鈷)に気立ての良い娘がいた』。『ある夜、娘の夢に老人が現れ』、『「川上に行けば夫となる男に出合うだろう」と告げる。お告げ通り、娘は川上の小豆沢(現在の鹿角市八幡平小豆沢)で一人の男に出合い、夫婦となって貧しいながら』、『仲睦まじく暮らした。ある年の正月、また老人が夢に現れ』、『「もっと川上に住めば徳のある人になるだろう」と告げる。夫婦は川をさかのぼり』、『現在の米代川の源流に近い田山村(現在の岩手県八幡平市田山)に移り住み、よく働いた』。『ある日、夫が野良仕事に疲れうとうとしていると、一匹のだんぶり(とんぼ)が飛んできて、夫の口に尻尾で』二、三度、『触れた。目を覚ました夫は、妻に「不思議なうまい酒を飲んだ」と話し、二人でだんぶりの後を追った。そして、先の岩陰に酒が湧く泉を発見する。酒は尽きることがなく、飲めばどんな病気も癒された』。『夫婦はこの泉で金持ちとなり、多くの人が夫婦の家に集まってきた。人々が朝夕に研ぐ米の汁で川が白くなり、いつしか川は「米代川」と呼ばれるようになった。夫婦には秀子という一人娘がいた。優しく美しい乙女に成長し、やがて継体天皇に仕えて、吉祥姫と呼ばれた。夫婦も天皇から「長者」の称号を与えられ、「だんぶり長者」として人々に慕われた』。『年月が過ぎ、夫婦がこの世を去ると、酒泉はただの泉になった。両親の死を悲しんだ吉祥姫は都から戻り』、『小豆沢の地に大日霊貴神社を建てて供養した。この姫も世を去ると、村人達は姫を大日霊貴神社の近くに埋葬し、銀杏の木を植えた。これが、大日霊貴神社の境内にあった大銀杏と言われている』とある。佐藤友信氏の「だんぶり長者」について解説された「暁(あけ)の方から(4)」PDF)に、本伝承と龍馬の話が載る。

   《引用開始》

 『大日堂舞楽』に掲載されている「だんぶり長者物語」には「竜馬」というのが出てきます。だんぶり長者は霊泉のお礼に角が一本生えた黒馬をもらい、これを近くの山に放しておいたところ、日に数百里を走る馬が生まれたということです。この山には大きな沼があり時々天から竜が降りてきて水を飲むのですが、その水を飲んだ馬たちが「竜馬」になったのです。そこは「竜馬ヶ森」と呼ばれたとありますがその名は今はなく、代わりに「竜ヶ森」という山が青森・岩手・秋田三県に五つあります。青森県の田子町に一つ、岩手県八幡平市に二つ、大館市の北秋田市と鹿角市の境に一つずつです。

 物語では「南部馬」の優秀さを竜の血を引いているとでも言わんばかりですが、そこにはちゃんとした根拠があるようです。まず奥州藤原氏は毎年貢馬(くめ)として朝廷に糠部駿馬(ぬかのぶしゅんめ)を贈ったとあります。また戦国時代の武将たちは競って南部馬を求めたとありますから、その優秀さは折紙付きだったのです。その主産地が糠部というところだったようですが、ここは青森県の東部と岩手県の北部にかけての一戸から九戸の地名のあるところです。とくに三戸・五戸・七戸は名馬の産地として名高かったようです。そしてこの糠部と鹿角は境界を接して隣り合っていたのです。

 天明8(1788)年の徳川幕府の巡見使に随行した地理学者の古川古松軒(こしょうけん)は、来満峠から大湯を通って鹿角入りしたときに、「南部の地、辺鄙ながら馬のよきには皆みな驚きしことにて、日々数百疋の馬を見ることなるに見苦しき馬はさらになし。何れを見ても、一疋ほしきことなりとおもわぬ人もなし。東海道・中国筋の馬とは違いて、幾疋一所に置きてもはね合い喰い合うこともなく、乗りよく人などに喰いつくということを知らぬ体なり。南部立ての馬を以て海道第一と称せることもっとも道理なり」とその旅日記『東遊雑記』において絶賛していたようです。(関友征「葦名神社と南部馬」鹿角市文化財保護協会発行『上津野』No.37 より)

 巡見使一行は南部入りしてからずっと名馬の産地を通ってきていますので、この部分は鹿角も含めてこれまでの印象をまとめたものと考えられます。古川古松軒の印象を推測してみると、「南部入りしてからいい馬を随分たくさん見てきたが、ここにもこんなにいるとは驚きだなあ。どれを見ても見事な馬ばかりで見苦しい馬など一疋だっていやしない。どれでもいいから一疋欲しいなあ。私だけでなくみんなそう思っているようだな。ホントここの馬は日本一だ。」となるのではないでしょうか。ちなみに古川古松軒はめったに褒めることのない人だったそうですから、この賛辞は価値があります。

 ただ鹿角は鉱山資源も厳しく管理され馬改めも相当厳しかったようですから、名馬の産地と公にすることができなかったのではないでしょうか。昨年大湯ストーンサークル館で芦名神社の絵馬が公開されましたが、『上津野』を見ると、これは郷土史学習会による十年近くにわたる継続調査の集大成であったようです。これらを見ると鹿角の馬文化の奥深さがひしひしと感じられます。

 前回お伝えした八戸・三戸の「えんぶり」にも馬の烏帽子(えぼし)をかぶった太夫の舞がありました。ここから八戸・三戸から鹿角に至る幕府巡見使の通り道に沿って、南部馬の主産地と馬文化があったと思われます。「だんぶり長者物語」の黒馬は名久井郡から贈られたとあります。名久井は三戸郡にありますので、鹿角を経由して田山・盛岡方面に展開したとは考えられないでしょうか。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

「龍馬嶺」不詳。秋田県秋田市上新城白山に竜馬山(りゅうばさん)が、秋田県由利本荘市北ノ股に竜馬山(りゅうばさん)があるが(国土地理院図)、先の鹿角からはひどく離れているから違う。

「羽後の木直(きづき)」秋田県大仙市の木直(きじき)地区

「副馬嶽(そうまがだけ)」不詳。但し、『「月乃出羽路」四』の当該部はここ(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)であるが、そこ(右ページ一行目から始まる『○木直村』の条)には『副河の岳』とある。

『仙北の名山「大つくし」「小つくし」の二峯』前注の指示した箇所には、『小杙(こづくし)大杙(をづくし)とて、今化(くゑし[やぶちゃん注:ママ。])て小山、小岑となれるあやしの物語もあれど、七寸(しちき)村と云ひつるよしは云々』とある。となれば、現在の木直地区の近くとなり、地図を見ると、秋田県大仙市南外(木直の南東直近)に「土筆(つくし)森山」と「土大(どだい)森山」があり(国土地理院図)、これではないかと私は思うのだが、如何?

「支那にても、大昔より、わざと牝馬を水際に放ちて、龍の出來心を誘ひし例ありと聞く。水中の靈物が、うまうまと人間の誘惑に罹(かか)りし場合には、必ず、其の足跡を岸上の砂に遺したりとなり〔南方氏「神足考」〕」割注のそれは南方熊楠の「神跡考」の誤り。但し、これは柳田國男の誤りではなく、南方熊楠自身の誤りであるが、彼はたびたびこの誤りを犯しており、その原論文は英文「Footprints of Gods, &c.」(Notes & Queries 10s. ii. Jul. 23, 1904)であって、彼自身は誤りとは認識していないものと思う(邦訳題は南方熊楠によって「神跡考」とされているので書誌上では、やはり誤りであるが)。「南方熊楠より柳田国男宛(明治四四(一九一一)年九月二十二日書簡)」を参照。所持する「南方熊楠選集」第六巻の邦訳によれば(同論文「Ⅱ」に出る)、

   *

また貴州では、人が竜駒を得ようとして牝馬を浜辺につれて来て交わらせるうち、そのたびに竜の足跡が現われるという(『淵鑑類函』二六巻二〇丁目)。

   *

という一文がそれ。「淵鑑類函(えんかんるいかん)」は清の康熙帝の勅撰で編纂された類書(百科事典)で一七一〇年成立。全四百五十巻で、書名は「古今の類書の奥深いもの」という意味。本書は詩文を作る際の用例集としても用いられ、江戸時代に日本にも伝えられた。中文サイトから原文を引く(巻二十六の「育龍駒」一節。巻二百三十五にも似たような文脈が出るが、「貴州」のはないのでこちらと採る。漢字の一部を恣意的に正字化した。引用元は全くの白文なので、句読点は私が勝手に附した。当てに成らぬ)。

   *

育龍駒 福建侯官縣有五花石坑、去夀山十許里、其石有、紅者綠者紫者惟艾綠色者最少。春貴州、養龍坑在兩山之中泓澄淵深蛟龍藏其下當。始和夷人立栁坑畔擇牝馬之貞者繫之已而。雲霧晦冥類有物蜿蜒跨馬腹上迨開霽。視馬傍之沙有龍跡者、是與龍遇矣。至產必生龍駒。明洪武間、夏幽主明昇獻良馬十匹一正白色乃得之於此者、振鬛一鳴萬馬辟易上乘之行夕月之禮於淸涼山正如躡雲而馳一塵不驚、賜名飛越峯命學士宋濓爲贊繪形藏焉。

   *

「うまうまと」は、これまた、柳田國男のオツでない洒落である。]

南嶋小曲――博歌(ホアコア)に擬す―― 伊良子清白

 

南嶋小曲

  ――博歌(ホアコア)に擬す――

[やぶちゃん注:「博歌(ホアコア)」不詳。現代の標準中国音では「bó gē」(ポォー・グゥー(ァ)」。閩南語の台湾方言の音写なのかも知れない。「博」の意からは「流行歌」とか「広く知られた民謡」等を想起するが、判らぬ。識者の御教授を乞う。第三連終行の「惚(と)れる」はママ。]

 

   

わしが寢てゐる寢藁の上に

朱塗の棺桶吊てある

わしが死んだら納れてくれ

あの娘の髮も一撮(つま)み

   

水を汲まうに桶は漏る

に出ようも破れ沓

あの娘はおいらの齒がたたぬ

ことしや全く旱魃だ

   

沖に白帆の耳が生え

山に林の耳が生え

お庭に草の耳が生え

お前の胡琴にきき惚(と)れる

   

刺竹(しちく)の刺(はり)ほど刺がある

刺竹の節ほど節が多い

節は多い程刺はあるほど

竹の性は上等だ

[やぶちゃん注:単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科ホウライチク属シチク Bambusa blumeana。中国南部原産の竹の一種。本邦では沖縄・九州などで防風用に人家に栽植され、高さは三メートルから二十メートルにもなる。幹の表面は当初は緑色で、二年目から黒紫色に変わり、やがて黒色となる。葉は長さ七~一二センチメートルの披針形を成し、縁に細かな鋸歯を有する。よく分枝し、特に下方の小枝は退化して頑丈な刺(とげ)になる。「トゲダケ」の異名もある。]

   

白頭雀(べたこ)が啼いて

苦楝(ぐれん)が咲いて

春に成つたで

滿地(まんち)の草が

わしの思で

萠え出した

[やぶちゃん注:「白頭雀(べたこ)」台湾の回想を含んだ仮想ロケーションと考えられることから、台湾原産のスズメ目ヒヨドリ科シロガシラ属シロガシラ亜種タイワンシロガシラ Pycnonotus sinensis formosae としておく。同シロガシラ種は中国南部を中心に多く棲息しており、本邦では南西諸島に限定的見られるが、とすると、純粋な日本語の異名である可能性は低いと思い、調べてみたこところ、中文ウィキの同種のページ「白頭鵯」を見ると、「白頭鵠仔」の異名を掲げ、『臺灣話:pe̍h-thâu-khok-á』とあり、これはこの発音はこの「べたこ」に非常によく似ているように思われた。

「苦楝(ぐれん)」ムクロジ目センダン(栴檀)科センダン属センダン Melia azedarach。本邦でも異名を「オウチ」(楝)と呼ぶが、中文ウィキの同種のページ標準漢名を「苦楝」とする。本邦でも、生薬として樹皮を「苦楝皮(くれんぴ)」と呼んで駆虫内服剤(虫下し)に、果実を「苦楝子(くれんし)」としてひび・あかぎれ・霜焼けの外用、或いは、整腸・鎮痛薬として内服薬として用いる。]

   

晚(ばん)から朝まで月來香(げつらいこう)

ぶんぶん匂つて眠られぬ

あの娘の夢をおれは見る

さめてゐながらおれは見る

[やぶちゃん注:「月來香(げつらいこう)」ナデシコ目サボテン科クジャクサボテン属ゲッカビジン Epiphyllum oxypetalum の異名。]

   

牡丹は花の王といふ

男の癖に氣が弱く

女のやうにはにかみで

さいた牡丹がなぜこはい

   

白い月餅(げつぺい)露がおく

橋の袂や藪の前

十五夜お月さんまんまるい

あの娘も妙齡(としごろ)月の餅

[やぶちゃん注:「月餅(げつぺい)」言わずと知れた中国菓子であるが、起原伝承は知らなかった。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、十三世紀初頭、蒙古からの侵入軍を撃退するため、「八月十五日の名月の夜を期し、総攻撃をかける」という秘密文書を饅頭の中に入れて伝令した故事に因むと言われ、また、その形が満月の形をしているところから「一家の大団円をはかる」という意で、八月十五日の「中秋節」には中国の家庭では欠かすことの出来ない菓子となっている。種々の木の実・野菜の種を入れる。日本に伝わったのは十七世紀初め頃で、長崎名物となったとある。]

   

山の淸水に水汲みに

川のせせらぎ洗衫(そえさん)に

行くは所の娘ども

わたしや箱入一人ぼち

[やぶちゃん注:「洗衫(そえさん)」「そえ」はママ。中国語で「洗濯」或いは「洗濯女」の意。現代中国音では「xǐ shān」(シィー・シァン)であるから「そえさん」は現地音の音写と思われる。]

   

一年三百六十五日

三百七十日雨が降る

基隆(きいるん)港は雨の町

雨がふらねば槍がふる

[やぶちゃん注:「基隆(きいるん)」台湾(温帯湿潤気候圏)北端にある現在の省轄市基隆(キイルン)市。基隆港は台湾南端の高雄(カオシュン)港に次ぐ、台湾第二の貨物取扱量を誇り、台湾の貿易・物流の重要拠点として知られる。雨が多いことでも知られ、「雨の港」「雨の都」の異名も持つ。特に三月下旬から 九月下旬までの 凡そ半年もの間が降雨確率の高い時期ととなっており、この期間中の特定の日が降水日になる確率は四十一%以上、で降水日確率が最大となる特異日は六月六日で実に六十%を示す(サイト「Weather Spark」の「基隆市における平均的な気候」のデータを参照した)。ウィキの「基隆市」の「歴史」よれば、『基隆はもともと同地一帯に住んでいた台湾原住民平埔族ケタガラン族の族名がなまってケランとなり、それに台湾語音によって漢字が宛てられ、鶏籠(雞籠』・『ケーラン)と呼ばれていた。今日でも台湾語での呼称はこれで呼ばれる。』。一六二六『年にスペイン人が社寮島(現在の和平島)を占領し』、『サン・サルバドル城を築き、その頃には先住民や漢人の町が形成された』。一六四二『年にオランダ人がスペイン人に代わって社寮島を占領し、石炭や金の採掘に着手したが』、一六六八『年に鄭成功がオランダ人を駆逐し』て『拠点とした港町である。その後』、一六八三『年に清朝が鄭成功一派を撃破した後に清国の支配下に入る。これにより』、『入植する漢人が増えたが、イギリスの軍船による侵犯事件が起こ』っている。『清朝統治時代の』一八六三『年、対外的に正式に開港し』、八年後の一八七五年には『清朝政府がここに台北分防通判を置いたことから、ケーランと近い音でさらに「基地昇隆」の意味を込めて、鶏籠から基隆(キールン)に改変した』。一八八四『年に』は『フランス軍が基隆に上陸』、『劉銘伝率いる部隊と』八『ヶ月に渡』って『対峙する清仏戦争が起こった』一八八六『年に劉銘伝は台湾巡撫に就任し、基隆の重要性を認識していたので、鉄道の施設、港湾や砲台の修復を積極的に進め、台湾初となる鉄道トンネルとなる獅球嶺隧道を完成させた』。一八九五『年に日本が馬関条約により台湾を接収、澳底』(アオディ(おうてい):基隆の南東外の新北市の海岸の町)『に上陸ののち』、『基隆に入った。基隆は日本統治時代以前から対外貿易の拠点となっていたが』、『港湾の水深が浅く岩礁も多かったため』、『大型船の停泊には適さず、近代的な港としての発展には限界があった。日本政府は台湾統治を開始した』四『年後の』一八九九(明治三十二)『年より港湾周囲の浚渫』『工事と防波堤の建設などを進め』、一『万トン級の船舶が停泊可能な近代港湾として整備した。同時に基隆は台湾縦貫鉄道の北側の起点とされ、その経済的な重要性はさらに高まった。また軍事面でも基隆は日本海軍が駐留する軍港とされ』、『要塞地帯(基隆要塞)にも指定されていた』。『基隆は台湾北部に位置し』、『日本に最も近い立地より日本内地との貿易港としても繁栄した。また内地から移住する多くの日本人により』、『急速に都市化が進展』一九二五(大正十四)『年には市制が施行され』、『人口は約』七万(内、内地人は二十五%に達していた)『の都市へと発展した。太平洋戦争(大東亜戦争)中は、その重要性から米軍の攻撃も受けている』とあり、このひっきりなし紛争と戦争の明け暮れを考えれば、終行の「雨がふらねば槍がふる」も頗る腑に落ちる。]

 

[やぶちゃん注:昭和一二(一九三七)年六月十五日発行の雑誌『媽祖』(第十四冊)に、「題詞(尺より)」(「鼻」の注で電子化した)の添えと、旧作の「五月野」・「コロンブス」(前の「海上雲遠」の改題作。本雑誌『媽祖』についてはその私の注を参照されたい)・「鼻」「梅」と本篇「南嶋小曲」の一題詞と五篇で掲載された(これは伊良子清白特集号であった模様である)。署名は「伊良子清白」。]

2019/06/21

梅 伊良子清白

 

 

風塵の中に成長(ひととな)り、

梅のはずえのやうに

野放圖に伸びて、

點々と蕾を着けてをる處女(をとめ)。

 

[やぶちゃん注:昭和一二(一九三七)年六月十五日発行の雑誌『媽祖』(第十四冊)に、「題詞(尺より)」(「鼻」の注で電子化した)の添えと、旧作の「五月野」・「コロンブス」(前の「海上雲遠」の改題作。本雑誌『媽祖』についてはその私の注を参照されたい)・「鼻」・「梅」(本篇)・「南嶋小曲」の一題詞と五篇で掲載された(これは伊良子清白特集号であった模様である)。署名は「伊良子清白」。「はずえ」はママ。]

鼻 伊良子清白

 

 

船長の鼻は航海のたびごとに巨(おほ)きくなる。

母國の港の前で船長は憂鬱になる。

風物蕭々と海は荒れてゐる。

 

[やぶちゃん注:昭和一二(一九三七)年六月十五日発行の雑誌『媽祖』(第十四冊)に、「題詞(尺牘より)」(「尺牘」は「せきとく(どく)」と読み、「石素 (せきそ) 」「尺書」「尺翰」などとも称し、「手紙」のこと。古来、中国では一尺四方の牘 (木の札) を書簡に用いたことに由来する。日本では狭義にはその由来から漢文体の消息文を指すのが普通)の添えと、旧作の「五月野」・「コロンブス」(前の「海上雲遠」の改題作。本雑誌『媽祖』についてはその私の注を参照されたい)・「鼻」(本篇)及び後に掲げる「梅」「南嶋小曲」の一題詞と五篇で掲載された(これは伊良子清白特集号であった模様である)。署名は「伊良子清白」。伊良子清白、満六十歳。底本全集年譜によれば、この年、『白鳥(しらとり)』『志支浪(しきなみ)』に加えて『志良珠(しらたま)』などの歌誌への投稿がいや盛んとなり、二月には志支浪社が清白還暦記念歌集の上梓を企画したが、清白はこれを謝絶しているとある。

 「題詞(尺牘より)」を底本全集の第二巻から電子化しておく。但し、恣意的に漢字を正字化した。

   *

 臺灣では私にはパラダイスです 古い戀です 西方淨土です カナンです

   *

「西方淨土です カナンです」は「カナンです」が改頁で底本の版組では続いているのであるが、私の判断で一字空けを施した。]

海上雲遠 伊良子清白

 

海上雲遠

 

コロンブスは西へ西へと走る。――

荒涼と雨と風と、

晝と夜が交織する、

月日は波と共に流れた。――

かくて、

無風帶の暑い夕べ、

水夫が見る磔上(たくじよう)の基督。

赤い日沒の、

壯麗な悲劇の雲が、

遠く遠く聳えてゐた。

 

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年二月二十五日『廣野』(書誌不詳)に先の「かもめ」とともに掲載。署名は「伊良子清白」。「たくじよう」のルビはママ。底本全集の「著作年表」によれば、後に「コロンブス」と改題したとする。それは翌昭和十二年六月十五日発行の雑誌『媽祖(まそ)』(第十四冊)での再録時である。同雑誌は詩誌で、媽祖書房(台湾・台北)から編集兼発行人西川澄子(同書房社主西川満の妻)で、昭和九(一九三四)年十月に発刊、昭和一三(一九三八)年三月まで通巻十六冊が発行されており、内地からの寄稿者は他に西脇順三郎・百田宗治・日夏耿之介や、河上澄生の絵など、錚錚たる面々である。

「交織」「かうしよく」で、元来は「綿糸と絹糸・絹糸と毛糸などを混ぜて織ること」を言う。]

か も め 伊良子清白

 

か も め

 

●、●、●、●、●、…………

力のない、單獨な、ポイントの浮泳、

裏向ひのお孃さんは、朝から琴を彈じてゐる。

こてこて塗てゐるが、

極く初心な 無垢な 田舍娘だ。

放心したやうな琴の響が

二階の窓から落花する。

 

年は暮れる、

海は靜かだ、空は晴れてゐる。

ポツン、ポツン、ポツン……

生白い琴の音の彈道が

馥郁と雨(ふ)る……

私(わたし)は撫でた。

新春の姿をした鷗が、私の膝の下を飛ぶのを。

 

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年二月二十五日『廣野』(書誌不詳)に次の「海上雲遠」とともに掲載。署名は「伊良子清白」。「塗て」はママ。「ぬつて」であろう。伊良子清白、満五十九。前の昭和十年には詩篇の発表はない。その昭和十年七月二十三日、父政治が享年八十で逝去している。この昭和十一年にはこの年に創刊された歌誌『志支浪(しきなみ)』の特別同人となっている。個人的には、この一篇、好きだ。]

けんけん白雉 伊良子清白

 

けんけん白雉

 

けんけん白雉(しろきじ)飛んで來(こ)い

農鳥山(のうとりやま)からとんでこい

赤石山(あかいしやま)からとんで來い

けんけんほろほろ飛んでこい

 

けんけん白雉脚(あし)起たず

けんけんほろほろ眼も昏れる

黃ろい蹴爪(けつめ)に血が慘む

紅い鷄冠(とさか)は色褪せる

 

けんけん白雉孤(ひと)り鳥(とり)

よべばこたへる空の聲

春の雪間の蝦夷櫻(えぞさくら)

苧環草(をたまぐさ)も花咲かず

 

けんけん白雉山の鳥

氷る翼の寒苦鳥(かんくてう)

高い頂(いただき)雪しぶき

音はひようひよう雲の中

 

けんけん白雉はなれ鳥

白日(まひる)戀しき番鳥(つがひどり)

山の牢屋の巖(いは)の室

白い火をきる鳥のこゑ

 

けんけん白雉神の鳥

凍(こほ)る現身(うつしみ)魂(たま)燃ゆる

雲路故鄕(ふるさと)虹の國

遠い日影が淡々と

 

[やぶちゃん注:昭和九(一九三四)年三月三日附『伊勢新聞』に掲載。署名は「伊良子清白」。底本は総ルビに近いが、五月蠅いので、パラルビとした。「けつめ」はママ。この年、伊良子清白、満五十七歳。底本の「著作年表」では、この年の詩篇はこの一篇のみである。この発表の直前の二月十四日、盟友の橫瀬夜雨が満五十六で亡くなった。清白は同じ二月二十六日附『伊勢新聞』に追悼文「横瀨夜雨の思ひ出」を、後の四月一日発行の『女性時代』にも彼への追悼である「憶ひ出」を掲載している。

「白雉」キジ目キジ科キジ属キジ Phasianus versicolor の亜種類(シマキジ Phasianus versicolor tanensis(本州の伊豆半島・紀伊半島・三浦半島・伊豆大島・種子島・新島・屋久島)・トウカイキジ Phasianus versicolor tohkaidi(本州中部・四国)か)のアルビノ(albino:白化個体)或いは、長崎を経由して舶来してきた大陸産のキジ目キジ科キジ属コウライキジ Phasianus colchicus のアルビノか、同様に齎された、本邦のキジに体型が酷似した、大陸産のキジ科 Phasianidae の仲間のアルビノ。無論、アルビノは少ないが、稀有ではない。「和漢三才圖會第四十二 原禽類 白雉(しらきじ)」及び「和漢三才圖會第四十二 原禽類 野鷄(きじ きぎす)」の私の注を参照されたい。

「農鳥山(のうとりやま)」三重県内とすると不詳だが、次の「赤石山(あかいしやま)」を赤石山脈(南アルプス)の長野県と静岡県に跨る赤石岳(あかいしだけ:標高三千百二十一 メートル)と措定するなら、同じ赤石山脈の、山頂が山梨県と静岡県の県境に跨る農鳥岳(のうとりだけ:標高三千二十六メートル。直線で赤石岳の北北東約十九キロメートル位置。ウィキの「農鳥岳」によれば、『北岳間ノ岳』(あいのだけ)『とともに白峰三山の一つに数えられる。名前の由来は、春に山頂東面に白鳥の形の残雪(雪形)が現れるためだとされている』。『しかし、似たような形の残雪は間ノ岳にも現れるため、明治時代までは現在の間ノ岳が農鳥岳と呼ばれる場合もあるなど、呼び方は一定していなかったようである』ともある)がある(孰れもグーグル・マップ・データ)。しかし、ここで突如、ロケーションとして赤石山脈が登場するのは違和感があるから、或いは三重県・奈良県の山名の異名(ネットでは確認出来ない)である可能性があるようにも思われる。ただ、「氷る翼の寒苦鳥(かんくてう)」/「高い頂(いただき)雪しぶき」/「音はひようひよう雲の中」という第四連は赤石山脈らしくはある。識者の御教授を乞う。

「蝦夷櫻(えぞさくら)」バラ亜綱バラ目バラ科サクラ属オオヤマザクラ Cerasus sargentii は北海道・北陸・中部地方以北・山陰・四国(剣山・石鎚山脈)等に自生する野生種の桜で、北海道に多く植生していることから、この異名を持つ。

「苧環草(をたまぐさ)」モクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科オダマキ属 Aquilegiaの内、本邦にはオダマキ変種ヤマオダマキ Aquilegia buergeriana var. buergeriana 及び高山性の同変種ミヤマオダマキ Aquilegia flabellata var. pumila が自生する。

「寒苦鳥(かんくてう)」ヒマラヤに住むとされた想像上の鳥。終夜、雌は夜寒を歎いて鳴き、雄は「夜が明けたら巣を作ろう」と鳴くが、夜が明けると、朝日の暖かさに夜寒を忘れてそのまま巣を作らないで怠けるとし、仏教では、この鳥を「怠けて悟りを求めようとしない人」に譬える(ここは小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

2019/06/20

ほし柿の唄 伊良子清白

 

ほし柿の唄

 (大關さんからとてもうまいほし柿を頂いた、そのうた)

 

羽前山形、ほし柿を

一心不亂に味へば

身は煙立(だ)つ暖かさ

冥加(みやうか)あまりて目も見えず

  ほい この、つるし柿

 

羽前山形、干柿は

衣(きぬ)は剝(は)がれし膚(はだ)の皺

日練夜練(ひねりよねり)の肉の色

眞實(しんじつ)こもる核(たね)二つ

  ほい この、晒(さら)し柿

 

羽前山形、雪國の

黑い干柿何んとせう

蔕(ほづ)はあれども陰囊形(ふぐりがた)

男の物とぶらさがり

  ほい この、いぶし柿

 

[やぶちゃん注:昭和八(一九三三)年二月一日発行の『新日本民謠』に掲載。底本ではこの年(伊良子清白満五十六歳)の詩篇はこの一篇のみである。

「大關」思うに『新日本民謠』を主宰していた詩人大関五郎(明治二八(一八九五)年~昭和二三(一九四八)年)か。大正一〇(一九二一)年頃、「詩話会」の機関誌『日本詩人』に作品を発表、後、童謡や民謡に転じ、北原白秋らの協賛で、昭和六(一九三一)年に雑誌『新日本民謡』を刊行した。但し、彼の出身は茨城県である。

「蔕(ほづ)」漢字から「ほぞ」(「臍 (ほぞ) 」と同語源。古くは「ほそ」)で、「果実の蒂(へた)の謂い(方言か)。]

神田玄泉「日東魚譜」 海馬 (タツノオトシゴ)

Tatunootosigo

リウグウノウマ

タツノオコトシロ

[やぶちゃん注:画像は底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここ(標題のみ前頁にある)からトリミングし、補正を加えた。以上、本文上部の頭書。「ロ」は画像の通り、ママ。]

サクナギ    シヤクナギ

カイバ

[やぶちゃん注:以上、下部図版の右と左のキャプション。]

 

海馬【拾遺】

釋名水馬【抱朴子】佐久奈

岐【和名】名義未詳又呼

海馬也藏器曰海馬

出南海形如馬長五

六寸鰕類也【拾遺】宗奭

曰首如馬其身如鰕

其背傴僂有竹節紋

二三寸雌者黃雄者

青色氣味甘平無毒

主治難産帶之於身

甚驗臨時燒末飲服

幷手握之卽易産【拾遺】

南州異物志云海馬

有大小如守宮其色

黃褐婦人難產割裂

而出者手持此蟲卽

如羊之易産也時珍

曰暖水臟壯陽道消

瘕塊治疔瘡腫毒【綱目】

○やぶちゃんの書き下し文

海馬【「拾遺」】

釋名水馬【「抱朴子」】。佐久奈岐(〔さ〕くなぎ)【和名。】。名義、未だ詳らかならず。又、海馬と呼ぶなり。藏器曰く、「海馬、南海に出づ。形、馬のごとく、長さ五、六寸。鰕の類なり」【「拾遺」】〔と〕。宗奭〔(さうせき)〕曰く、「首は馬のごとく、其の身、鰕のごとく、其の背、傴-僂〔(まが)〕りて竹節〔の〕紋、有り。二、三寸。雌なる者(〔も〕の)、黃、雄なる者(〔も〕の)、青色」〔と〕。

氣味甘、平。無毒。

主治難産に之れを身に帶ぶれば、甚だ驗あり。時に臨みて、燒末〔にして〕飲服す。幷びに手に之れを握れば、卽ち、産、易し」【「拾遺」】。「南州異物志」に云はく、「海馬、大小有り。守宮〔(やもり)〕のごとく、其の色、黃褐。婦人、產、割裂して出で難き者の手に此の蟲を持〔たせ〕ば、卽ち、羊の易きがごとし〔→く〕産〔み〕しなり」〔と〕。時珍曰はく、「水臟を暖め、陽道を壯し、瘕塊〔(かくわい)〕を消し、疔瘡腫毒を治す」【「綱目」】〔と〕。

[やぶちゃん注:ブログで枠文字表記が出来なくなったので、太字で示したトゲウオ目ヨウジウオ亜目ヨウジウオ科タツノオトシゴ亜科タツノオトシゴ属 Hippocampus。本邦産は、

タツノオトシゴ Hippocampus coronatus(北海道南部以南の日本近海・朝鮮半島南部に分布する代表種。全長八センチメートル内外。形態・色彩とも個体変異に富むが、胴の部分は側扁し、尾は長く物に巻きつけるようになっている。頭部は胴部にほぼ直角に曲り、馬の頭部を思わせる形状を成す。後頭部にある頂冠は高い。♂の腹部に育児嚢があり、♀はこの中に産卵し、卵は育児嚢の中で孵化し、親と同じような形にまで成長して後、外へ出る。この時の♂の出産の様子はすこぶる苦痛を思わせる様態を成す。海藻の多い沿岸や内湾に棲息する。私も富山の雨晴海岸で銛突き中に見かけことがある)

ハナタツ Hippocampus sindonis(南日本・朝鮮半島南部)

イバラタツ Hippocampus histrix(伊豆半島以南。インド太平洋熱帯域に広く分布)

サンゴタツ Hippocampus japonicus(北海道南部から九州・中国及びベトナム沿岸)

タカクラタツ Hippocampus takakurai(南日本。インド太平洋に広く分布)

オオウミウマ Hippocampus keloggi(伊豆半島以南。インド太平洋熱帯域に広く分布し、全長三十センチメートルにも達する大型種)

クロウミウマ Hippocampus kuda(南日本。オオウミウマと同じくインド太平洋熱帯域に広く分布し、全長もやはり三十センチメートルに達する大型種)

の七種とされるが、近年、

ピグミーシーホース Hippocampus bargabanti(pygmy seahorse。本来の分布は西太平洋熱帯域とされ、二センチメートルほどしかない小型種)

が小笠原や沖縄で確認されて、通称「ジャパニーズピグミーシーホース」なる未確認種もあるらしい。しかし、英文ウィキの「Hippocampus bargibantiでは、当該種の分布域として日本南部を明記するので、これも既にして本邦産種としてよい(但し、個人的には「ピグミー」に纏わってしまった差別的認識から考えた時、和名は別なものを正式に附けた方がよいと私は思う)

「拾遺」唐の陳蔵器撰になる本草書「本草拾遺」(七三九年成立)。原本は散佚。但し、本記載は総て明の李時珍の「本草綱目」からの抄出孫引き。

「抱朴子」晋の道士葛洪(かっこう)著。百六編とされるが、現存しているもは全七十二編。三一七年成立。葛洪は「道教は本、儒教は末」という儒・道二教併用の思想の基づいて,内編では仙人の実在・仙薬製造法・道士の修道法・道教の教理などを論じて道教の教義を組織化したものとされ、外編は翻って儒教の立場からの世事・人事に関する評論となっている。

「佐久奈岐(〔さ〕くなぎ)【和名。】」この和名は不審。思うに、これはやはり奇体な形状を成すシャコ(節足動物門甲殻亜門軟甲綱トゲエビ亜綱口脚目シャコ上科シャコ科シャコ属シャコ Oratosquilla oratoria)の古称異名の一つである「しやくなげ」と混同したものではあるまいか? 既に『神田玄泉「日東魚譜」 鰕姑(シャコ)』で示した通り、人見必大の「本朝食鑑」では「石楠花鰕(しゃくなげえび)」でしゃこを項立ており、『色、石楠花のごとし。故に海西、俗に石楠花鰕(しやくなげえび)と名づく。是れも亦、石楠の略号であろうか』と述べている。実は神田はその「鰕姑」の本文で「志夜姑(シヤコ)〔和名。〕。鰕姑の誤稱なり」と断じていることから、これを恣意的にここに当ててしまっている可能性があるように思われる。だからこそ「名義、未だ詳らかならず」と言わざるを得なくなったのではなかったか? 因みに、現小学館「日本国語大辞典」では「さくなぎ」は鳥の鴫(チドリ目チドリ亜目シギ科 Scolopacidae)の一種に当てられた古名か、とする。実は私は「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鷸(しぎ)」でこれをシギ科ダイシャクシギ(大杓鷸)属 Numenius のダイシャクシギ類に比定している。そこの注で私は以下のように述べた。

   *

「大杓」はダイシャクシギ Numenius arquata(サイト「馬見丘陵公園の野鳥」の同種のページを参照)、「小き者」「加祢久伊〔(かねくい)〕」はコシャクシギNumenius minutus である(「加祢久伊〔(かねくい)〕」の異名の意は不詳)。サイト「馬見丘陵公園の野鳥」の同種のページを参照されたいが、そこに、『奈良時代から種類を区別せず』、シギ類は一括して『「シギ」の名で知られていたが、平安時代からシャクシギ類を総じて「サクナギ」、室町時代から「シャクナギ」と呼ぶ。江戸時代前期になって他のシャクシギと区別して「コシャク」「コシャクシギ」と呼ばれた。異名』に『「カネクイ」』があるとある。因みに、サイト「馬見丘陵公園の野鳥」によれば、ダイシャクシギ属には、しっかり、チュウシャクシギNumenius phaeopus という種もおり(同サイトの同種のページはここ)、他にホウロクシギ(焙烙鷸)Numenius madagascariensis という種もいるとある。しかも同サイトのホウロクシギのページによれば、『ダイシャクシギと似ているので』、『古くから一緒にして「ダイシャクシギ」と呼ばれていたと思われ、江戸時代後期に区別して「ホウロクシギ」と呼ばれるようになった』とあるから、ここに挙げておく必要がある。なお、この種の和名は『腹部の灰黄褐色の色彩が焙烙(素焼きの土鍋)に似る』ことによる、とある。

   *

「宗奭〔(さうせき)〕」北宋の医官で本草(薬物)学者の寇(こう)宗奭。「本草演義」の著者として知られ、ここもそこからの引用か。

「傴-僂〔(まが)〕りて」「傴僂」(音「クル」)は、背をかがめること。差別用語としての「せむし」の意もあるが、ここは本来の意味でよいであろう。

竹節〔の〕紋、有り。二、三寸。雌なる者(〔も〕の)、黃、雄なる者(〔も〕の)、青色」〔と〕。

氣味甘、平。無毒。

「南州異物志」三国時代の呉の萬震の撰になる南方地誌。

「守宮〔(やもり)〕」爬虫綱有鱗目トカゲ亜目ヤモリ下目ヤモリ科 Gekkonidae のヤモリ類。

「羊の易きがごとし〔→く〕」羊の出産は中国ではそのように認識されていたらしい。

「水臟」五行の水気に属する臓器の謂いであろう。「腎」や「膀胱」か。

「陽道」陽気。

「瘕塊〔(かくわい)〕」腹部内に生ずる腫瘤。

「疔瘡腫毒」蜂窩織炎等を伴った劇症性の皮膚の腫瘍。面疔(めんちょう)等。]

2019/06/19

魚屋の金八さんは 伊良子清白

 

魚屋の金八さんは

 

魚屋(なや)の金八さんは

入札場(ふだば)の鍾馗

いつも高札

一とにらみ

 

魚屋(なや)の金八さんは

三年に片頰

船で神鳴り

稻光り

 

魚屋(なや)の金八さんは

敲けば鳴らう

意地じや負けまい

情(なさけ)で折れる

 

魚屋(なや)の金八さんの

商賣(あきなひ)は

伊勢は一圓

雜喉場(ざこば)の浪華(なには)

鯛の千疋

いつもうごかす

 

[やぶちゃん注:昭和七(一九三二)年十一月三十日刊の『新日本民謠年刊』(第一)に掲載されているが、底本全集の「作品年表」では初出はそれ以前の『新日本民謠』かとする。署名は「伊良子清白」。

「魚屋(なや)」「さかなや」であるが、その音の略ではなく、原義は「納屋」で、室町時代に海産物を保存するために海岸に設けられた納屋に基づくものである。

「入札場(ふだば)」漁港の競り場。

「鍾馗」中国の民間信仰の魔除けの神。俗説では、唐の玄宗が病中に鍾馗が悪鬼を退治する夢を見、鍾馗の図を呉道子に描かせたことから始まるという。本来は大みそかに鍾馗の図を貼って悪霊を祓ったが、その後、端午の行事に吸収され、本邦にもそれで伝わった。容貌魁偉にして黒髭で、右手に剣を握る。

「三年に片頰」「みとせにかたほ」と訓じておく。「三年に片頰」で「滅多に笑わない」の意。慣用句「男は三年(さんねん)に片頰(かたほお)」で「男は何時も笑っていると威厳が損なわれるから、滅多に笑わぬ方がよい」という意味で用いる。

「雜喉場(ざこば)」広義には小魚(雑魚)を始めとする大衆魚を扱う魚市場を言い、「雑魚場」などとも表記されるが(但し、「雑魚」は当て字で、「喉」は魚を数える数詞という。ただ、「うじゃうじゃといる小さな物」という意味の「じゃこ」が語源であって「雑喉」も当て字とする説もある)、ここは狭義のそれで昭和六(一九三一)年まで大阪府大阪市西区の旧靱(うつぼ)地区の西部(この中央附近。グーグル・マップ・データ)にあった「雑喉場魚市場」を指す。慶安・承応(一六四八年~一六五五年)の頃にかけてここに開かれた古い魚市場で、遠近から魚介類が集積し、天満(てんま)の青物市場とともにその名をうたわれた(以上は所持する一九八四年講談社学術文庫刊の牧村史陽編「大阪ことば事典」に拠った)。]

入江のある風景 伊良子清白

 

入江のある風景

 

入江のある風景――

リヤス式海岸地形の一角、

白い燈臺が君臨する。

蜑女(あま)の眼鏡は黑い。

海圖にある大松が、

今日は全幹を以て震搖する。

内灣は川のやうに、

陸地に侵入した。

何と光つた秋の空だ、

鷗の翼が燒失する。

 

[やぶちゃん注:昭和七(一九三二)年九月一日発行の『女性時代』(第三年第九号)に前の「神島外海」とともに掲載。署名は「伊良子清白」。

「リヤス式海岸地形」リアス式海岸。「rias」はスペイン語で「深い入り江」(「ria」で「入江」)の意で、スペイン北西部ガリシア地方の入り江の多い海岸地形に因む)浸食で多くの谷の刻まれた山地が、地盤沈降又は海面上昇によって沈水し、複雑に入り組んだ海岸線を形成したものを指し、本邦では三陸海岸・志摩半島・若狭湾などが代表的である。]

神島外海 伊良子清白

 

神島外海

 

どうしてこんな景色があるか。

靑い髮の海が食ひちぎつたのだ。

危巖亂立、目もはるかに續く。

波の手が白く閃めく。

ど、ど、どーん、ど、ど、どーん、

ひつきりなしの釣瓶打だ。

天地廓寥、ただ響。

この沸えくりかへる坩堝(るつぼ)が、

がらんどうの中でつぶやく。

灰色の退屈が、

霧のやうに降るではないか。

 

[やぶちゃん注:昭和七(一九三二)年九月一日発行の『女性時代』(第三年第九号)に次の「入江のある風景」とともに掲載。署名は「伊良子清白」。この年、伊良子清白、満五十五歳。年初より歌誌『白鳥(しらとり)』への短歌の投稿が定期的となり、十月からは『鳥人』で毎号短歌評も手掛けるようになった。十二月四日、佐藤惣之助が来訪、一泊している。

「神島」既出既注

「廓寥」「くわくれう(かうりょう)」は「広いだけで何もなくて寂しい様子・なんとなく寂しいこと」を謂う。]

2019/06/18

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(39) 「池月・磨墨・太夫黑」(6)

 

《原文》

 正史演義ノ卷々ヲ飜シ見ルモ、池月磨墨ハ共ニ古今ヲ通ジテ唯一ツノ他ハ無キ筈ナリ。從ヒテ以上二十數處ノ產地ナルモノハ、其何レカ一箇ヲ除キテ悉ク虛誕ナリ。虛誕ト言ハンヨリモ最初ハ單ニ日本第一ノ駿馬トノミニテ名ハ無カリシヲ、後ニ誰カノ注意ヲ受ケテ池月ナリ磨墨ナリニ一定セシモノナルべシ。之ヲ觀テモ昔ノ田舍人ガ固有名詞ニ無頓著ナリシ程度ハ測リ知ラルヽナリ。今トナリテ之ヲ比較スルトキハ、コノ歷史上有名ナル名馬ハ數ケ處ニ生レテ數ケ處ニテ死スト云フコトニ歸着ス。神變驚クニ堪ヘタリ。池月ノ如キハ中國ニ老死シ或ハ阿波ノ海岸ニ飛ビテ天馬石ト化セシ外ニ、【馬洗川】筑後三井郡ノ内舊御原郡ノ馬洗川ト云フ處ニモ之ヲ埋メタリト云フ古塚アリ〔筑後地鑑〕。此邊ノ地ハ佐々木高綱ガ宇治川ノ戰功ニ因リテ封ゼラレシト云フ七百町ノ中ニテ、今モ多クノ佐々木氏ノ彼ガ後裔ト稱スル者居住ス。而シテ馬洗川ハ池月ヲ洗ヒシヨリ起レル地名ナリ〔筑後志〕。【駒形神】東國ニテハ武藏橘樹郡城鄕村大字鳥山ト云フ一村ハ、佐々木ガ馬飼料トシテ將軍ヨリ拜領セシ恩地ニシテ、村ノ駒形社ハ亦池月ヲ埋メタル塚ト稱セラル。祠ノ傍ニハ厩ニ用ヰシ井戶アリ。曾テ附近ノ土中ヨリ古キ轡ヲ掘リ出ス。觀音堂ノ莊司橋ハ亦池月ヲ洗ヒタリト稱スル故跡ナリ〔新編武藏風土記稿〕。下總猿島郡五霞村ノ幸館(カウダテ)ニハ、藥師堂ノ側ニ生月塚アリテ、梵文ヲ刻シタル奇形ノ石塔立テリ。併シ池月此地ニ埋メラルト云フ傍證無キ限ハ、以前ハ只名馬塚ト呼ビシモノイツノ世ニカ斯ク誤リ傳ヘシナラント、前代ノ地誌家モ之ヲ危ミタリ〔利根川圖志〕。【馬塚】近江阪田郡西黑田村大字常喜(ジヤウキ)ノ水田ノ間ニアル馬塚ハ、今モ之ヲ池月ノ墓トセズンバ止マザル人アリ。傳說ニ曰ク、池月曾テ病ス、當時馬灸ノ名人此村ニ住スト聞キ遠ク曳キ來リシガ、其人死シテ有ラザリケレバ馬モ終ニ此地ニテ果テタリ。同村大字本莊ニハ病馬ノ飮ミシト云フ泉アリ。之ヲ池月ノ水ト稱ス〔阪田郡誌下〕。【胴塚首塚】相州足柄上郡曾我村大字下大井ニモ一ノ生月塚アリ。塚ハ二箇ナレバ之ヲ池月ノ胴塚首塚ト稱ヘタリ。【山王】胴塚ハ路傍ニ在リ、首塚ハ村ノ取附ニ在リテ之ヲ山王社ニ祀レリ。塚ノ上ニハ松アリ。【馬頭觀音】又同ジ村ノ畠ノ中ニモ松一本アル塚ヲ馬頭觀音ト名ヅケ、此ハ又磨墨ノ塚ト云フコトニ決著ス。【橋ノ忌】此地ノ古傳ニテハ、池月ハ鄰村足柄下郡酒勾(サカワ)村大字酒匂ノ鎭守ノ森ノ東、僅カノ溝川ノ石橋ヲ架ケタル處ニテ、橋ヨリ落チテ死シタリト云ヒ、永ク此橋ヲバ馬曳キテ渡ルコトヲ戒メタリキ〔相中襍誌〕。磨墨塚ノ尾張ニ在ルコトハ前ニ之ヲ述ブ。首府ノ南郊荏原郡馬入村ニ於テモ、小田原北條時代ノ舊領主ヲ梶原氏ト稱セシ爲ナルカ、同ジク摺墨塚ノ傳說アリ。源太景季愛馬ヲ大澤ニ乘入レ、馬死シテ之ヲ塚ニ埋ムト云フコト全ク馬引澤ノ口碑ト同ジ。近年新タニ石ヲ立テヽ之ヲ勒ス。塚ノ西ニ鐙(アブミ)ケ谷(ヤツ)アリ。磨墨ノ鐙ヲ棄ツト云ヒ或ハ此馬斃レシ時鐙飛ンデ此地ニ至ルト云ヘリ〔通俗荏原風土記稿〕。阿波ニモ勝浦郡小松島町大字新居見(ニヰミ)、【馬塚】竝ニ海岸ノ赤石ト云フ里ノ山中ニ各磨墨ノ塚アリテ眞僞ノ爭アリ。或ハ此塚ノ所在ニ由リ義經行軍ノ路筋ヲ證セントスル人アリキ〔阿州奇事雜話三〕。然ルニ此馬ノ壽命ハ猶十數年長カリシト云フ說ハ頗ル有力ナリ。磨墨ハ駿州狐ケ崎ニ於テ梶原ガ一黨討死ノ後飢ヱテ斃レタリトモ云ヒ、又或ハ源太ガ仇ノ手ニ渡スヲ惜シミテ之ヲ斬殺シタリトモ傳ヘラレタルニ、更ニ一方ニハ同ジ駿河ノ西部ニ於テ、此馬ガ終ヲ取レリト云フ村アリテ、【馬ノ首】百姓某ナル者其首ノ骨ヲ所持ス〔駿國雜志〕。又狐ケ崎ノ笹葉ガ今モ矢筈ノ形ヲシテ名馬ノ齒ノ痕ヲ留ムト云フ話ト類似スル例アリ。【片割シドメ】武州都築郡都岡(ツヲカ)村大字今宿ト二俣川村トノ境ナル小川ノ岸ニ、片割シドメト稱シテ年々花葩ノ半ノミ咲ク「シドメ」アリ。磨墨昔此地ニ來リテ彼花ヲ蹈ミテヨリ、此如キ花ノ形トナルト云フ〔新編武藏風土記稿〕。石ト花トノ差コソアレ、此モ名馬ノ蹄ノ跡ヲ記念シ、永ク里人ガ之ヲ粗末ニセザリシ一ノ徵ナリ。

 

《訓読》

 正史・演義の卷々を飜(ひるがへ)し見るも、池月・磨墨は、共に古今を通じて唯一つの他は無き筈なり。從ひて、以上、二十數處の產地なるものは、其の何れか一箇を除きて、悉く虛誕なり。虛誕と言はんよりも、最初は單に日本第一の駿馬とのみにて、名は無かりしを、後に誰(たれ)かの注意を受けて、池月なり、磨墨なりに一定せしものなるべし。之れを觀ても、昔の田舍人が固有名詞に無頓著なりし程度は測り知らるゝなり。今となりて之れを比較するときは、この歷史上有名なる名馬は、數ケ處に生れて、數ケ處にて死すと云ふことに歸着す。神變、驚くに堪へたり。池月のごときは、中國に老死し、或いは、阿波の海岸に飛びて天馬石と化せし外に、【馬洗川】筑後三井(みい)郡の内、舊御原(みはら)郡の馬洗川と云ふ處にも、之れを埋めたりと云ふ古塚あり〔「筑後地鑑」〕。此の邊りの地は佐々木高綱が宇治川の戰功に因りて封ぜられしと云ふ七百町[やぶちゃん注:約七平方キロメートル。]の中にて、今も多くの佐々木氏の彼が後裔と稱する者、居住す。而して、馬洗川は池月を洗ひしより起れる地名なり〔「筑後志」〕。【駒形神】東國にては、武藏橘樹(たちばな)郡城鄕(しろさと)村大字鳥山と云ふ一村は、佐々木が馬飼料として將軍より拜領せし恩地にして、村の駒形社は亦、池月を埋めたる塚と稱せらる。祠の傍らには厩に用ゐし井戶あり。曾つて附近の土中より古き轡(くつわ)を掘り出だす。觀音堂の莊司橋は亦、池月を洗ひたりと稱する故跡なり〔「新編武藏風土記稿」〕。下總猿島(さしま)郡五霞(ごか)村の幸館(かうだて)には、藥師堂の側に生月塚ありて、梵文(ぼんもん)[やぶちゃん注:梵字の種子(しゅじ)。]を刻したる奇形(きぎやう)の石塔、立てり。併し、池月、此の地に埋めらると云ふ傍證無き限りは、以前は只だ名馬塚と呼びしもの、いつの世にか、斯く誤り傳へしならんと、前代の地誌家も之れを危みたり〔「利根川圖志〕」。【馬塚】近江阪田郡西黑田村大字常喜(じやうき)の水田の間にある馬塚は、今も之れを池月の墓とせずんば、止まざる人、あり。傳說に曰く、「池月、曾つて病ひす、當時、馬灸の名人、此の村に住すと聞き、遠く曳き來たりしが、其の人、死して、有らざりければ、馬も終に此の地にて果てたり。同村大字本莊(ほんじやう)には病馬の飮みしと云ふ泉あり。之れを「池月の水」と稱す〔「阪田郡誌」下〕。【胴塚首塚】相州足柄上郡曾我村大字下大井にも一つの「生月塚」あり。塚は二箇なれば、之れを池月の「胴塚」・「首塚」と稱へたり。【山王】胴塚は路傍に在り、首塚は村の取り附きに在りて、之れを山王社に祀れり。塚の上には松あり。【馬頭觀音】又、同じ村の畠の中にも松一本ある塚を「馬頭觀音」と名づけ、此れは又、「磨墨の塚」と云ふことに決著(けつちやく)す。【橋の忌(いみ)】此の地の古傳にては、池月は鄰村足柄下郡酒勾(さかわ)村大字酒勾の鎭守の森の東、僅かの溝川の石橋を架けたる處にて、橋より落ちて死したりと云ひ、永く此の橋をば、馬曳きて渡ることを戒めたりき〔「相中襍誌(さうちゆうざつし)」〕。磨墨塚の尾張に在ることは、前に之れを述ぶ。首府の南郊、荏原郡馬入村に於ても、小田原北條時代の舊領主を梶原氏と稱せし爲るなるか、同じく摺墨塚の傳說あり。源太景季、愛馬を大澤に乘り入れ、馬、死して、之れを塚に埋づむと云ふこと、全く馬引澤の口碑と同じ。近年、新たに石を立てゝ之れを勒(ろく)す[やぶちゃん注:碑を刻んだ。「勒」には「轡」の意味もあるのでこれを縁語的に使ったものであろう。]。塚の西に「鐙(あぶみ)ケ谷(やつ)」あり。磨墨の鐙を棄つと云ひ、或いは、此の馬、斃(たふ)れし時、鐙、飛んで、此の地に至ると云へり〔「通俗荏原風土記稿」〕。阿波にも、勝浦郡小松島町大字新居見(にゐみ)、【馬塚】竝びに海岸の赤石と云ふ里の山中に各々、磨墨の塚ありて眞僞の爭ひあり。或いは、此の塚の所在に由り、義經行軍の路筋を證せんとする人、ありき〔「阿州奇事雜話」三〕。然るに、此の馬の壽命は、猶ほ、十數年長かりし、と云ふ說は頗る有力なり。磨墨は駿州狐ケ崎に於いて梶原が一黨討死の後、飢ゑて斃れたりとも云ひ、又、或いは、源太が、仇(かたき)の手に渡すを惜しみて、之れを斬り殺したりとも傳へられたるに、更に一方には、同じ駿河の西部に於いて、此の馬が終りを取れりと云ふ村ありて、【馬の首】百姓某なる者、其の首の骨を所持す〔「駿國雜志」〕。又、狐ケ崎の笹葉(ささば)が、今も矢筈(やはず)の形をして、名馬の齒の痕を留むと云ふ話と類似する例あり。【片割(かたわれ)しどめ】武州都築郡都岡(つをか)村大字今宿と二俣川村との境なる小川の岸に、「片割しどめ」と稱して、年々、花葩(はなびら)[やぶちゃん注:花弁(はなびら)に同じい。]の半ばのみ咲く「しどめ」あり。磨墨、昔、此の地に來たりて、彼の花を蹈みてより、此くのごとき花の形となると云ふ〔「新編武藏風土記稿」〕。石と花との差こそあれ、此れも名馬の蹄の跡を記念し、永く里人が之れを粗末にせざりし一つの徵(しるし)なり。

[やぶちゃん注:「演義」もとは中国で歴史上の事実を面白く脚色して俗語を交えて平易に述べた小説の類を指す。

「筑後三井郡ノ内、舊御原(みはら)郡ノ馬洗川」個人サイトと思しい「福岡史伝と名所旧跡」のこちらの「【池月の塚】(小郡市八坂)」に、『寿永二』(一一八三)年、『源頼朝より木曽義仲征討の命を受けた源範頼・義経は、京都に向い、宇治川をはさんで義仲軍と対陣した』。「源平盛衰記」に『よると、義 仲は橋を落として防備を固めたが、流れが急で渡河は非常に困難であった。このとき、佐々木四郎高綱は源頼朝より賜わった名馬「池月」にまたがり、梶原源太影季と先陣を争い、弓矢をあびながら』、『両軍環視の中で渡河に成功し、先陣の第一声をあげた。(宇治川先陣争い)』。『この村の古老の言い伝えによると』、『佐々木高綱はその後』、『平氏征討の軍功によって、筑後国鯵坂庄(もと平氏の領地)七〇〇町歩を賜わり、名馬「池月」と鯵坂の地に移り住んだ。そして』、『ここに城を築き、三瀦郡笹渕村より嫁をもらい』、『一子をもうけ、佐々木三蔵利綱と名づけたが、三年後に鎌倉幕府の命によって、利綱をこの地に残して鎌倉に帰った。この地にいる時、名馬「池月」に鞭打って領地を乗り廻っていたが、その名馬がこの地で死亡したので、その遺体をこの塚に葬った言われている』。『「池月」は』、『青森県上北郡七戸町の産とか、鹿児島県揖宿郡の産とか伝えられるが』、『はっきりしない。黒栗毛の馬で背丈は四尺八寸』(一・四六メートル)『あり、大きくて逞しく、性質』、『強猛で、人も馬も寄せつけず喰ってかか』った『とも言われている』。『塚のそばに、梵字』(キリーク(阿弥陀如来)か?)『を刻んだ供養塔と馬頭観世音が建てられている。老松宮の横を流れる川を』馬洗川『と言い、又』、『馬渡(もど)という地名も、この名にちなんでつけられたと考えられる。小郡音頭に「ねむる池月、馬渡の里」とあるは、ここのことを歌ったものである』『(昭和五十七年二月四日』『小郡市教育委員会』『小郡市郷土史研究会』『「名馬池月塚」案内板より』)とあって、『写真は』(リンク先参照)『佐々木高綱が池月に跨り』、『何度も何度も飛び越えたと伝わる「馬洗川」と呼ばれた小川で』、『そのことで、この地は馬渡(もど)と呼ばれようになったといわれてい』るとあり、また、現在、『「池月の塚」は養護老人ホーム「小郡池月苑」の裏手にあり、見学するには「小郡池月苑」の敷地を通らせて』貰うことになるので、『見学予定の方は一度「小郡池月苑」事務所のご担当者の方に連絡を取って出かけられた方がよい』とされ、『「池月伝説」は北は青森、南は鹿児島まで日本各地に残るよう』だが、『その多くは池月の産地としての伝説で、墓や塚の伝説のみが残る地は極』く僅かなようであり、こ『この「名馬池月塚」も産地としてではなく』、『池月の終焉の地として紹介されて』おり、柳田國男が言うように、『この鰺坂周辺には佐々木性の方々が古くから住まわれていて、もしかしたらこの方々は高綱の末裔に当たるのかもしれ』ないとされつつ、ただ、『残念な事に、佐々木高綱が筑後鰺坂に領地を得た事実が歴史書の中に見あたらないため、あくまでも「古老の言い伝え」という事になっ』ているとする。また、『ところで、この言い伝えはかなり古くからあったようで』、『久留米藩の学者・矢野一貞によって書かれた「筑後国史」には西鰺坂村城跡(池月塚より南』五百メートル『の地)について「土人相伝え言う佐々木高綱の城跡なり」と記されて』ある、とある。ここに出る福岡県小郡(おごおり)市八坂にある「小郡池月苑(おごおりいけづきえん)」はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。西側に老松神社があり、その西に接して小川があるので、これが「馬洗川」であると断じてよい。

「武藏橘樹(たちばな)郡城鄕(しろさと)村大字鳥山」「駒形社」神奈川県横浜市港北区鳥山町のここに「名馬生唼(池月)の墓」として辛くもポイントされており、小祠も現存する。リンク先のサイド・パネルの個人の撮影になる画像を見ると、扁額に「馬頭觀世音」とある。サイト「散歩日記」の「馬頭観音堂(名馬池月の墓)」に堂(祠)内部の明瞭な画像が載り(今も供養がなされている様子がよく判る)、『佐々木高綱が駆っていた名馬「池月」(生唼)の墓として、霊を慰めるために建立された駒形明神が起源と伝わる「馬頭観音堂」』とあり、『この側には、佐々木高綱が建立した「鳥山八幡宮」や「三会寺」があり、また高綱の館もあったと云われて』おり、『「池月」を祀っていると云われる場所は(特にその発祥・由来について)日本各地にあるようですが、「最後の地」(お墓)ということならこちらで確定しているようです。現在は「馬頭観音堂」として、小さな祠が残されているのみとなっています』とある。「祠の傍らに」「厩に用ゐし井戶」とあるが、それは現認出来ない(祠の前方左に説明板があるが、老朽化して下半分が欠損しており、サイトの画像の撮影者も判読出来ないとしている。民家の角地であるから、或いはその個人宅地内に痕跡はあるのかも知れない)。

觀音堂の莊司橋」現認出来ない。

「下總猿島(さしま)郡五霞(ごか)村の幸館(かうだて)」「藥師堂の側に生月塚あり」現在の茨城県猿島郡五霞町(ごかまち)幸主(こうしゅ)に薬師堂が現存する。また、ウィキの「幸主名馬尊」(こうしゅめいばそん)によれば、この幸主地区内には、『鎌倉源氏の武士である佐々木四郎高綱並びに梶原源太景季』、二『人の陣屋の跡として伝えられている』とあって、『後に村人』が『それぞれの名馬の名をとって、五霞町小福田』(幸主の西北。ここ)『に磨墨を、五霞町幸主には池月を祭った。今でも名馬様と呼んで、馬の神として厚く信仰されている』ともあった。「五霞町」公式サイト内の「幸主名馬尊」によれば、『宇治川合戦』後、『生唼(いけづき)』は、『幸主にあった高綱の陣屋までたどり着いたとき、息を引きとってしまいました。高綱は生唼をまつるため』、『塚をつくり、のちに拝殿が建立され』、『名馬尊として信仰され、農耕馬が使われていた昭和の戦前までは多くの参拝者があり、祭礼はにぎやかなものでした』ともあったが、磨墨を祀った方の記載はなく、個人ブログ「小さなまちの夢」の「幸主名馬尊」によると、『「する墨の池」は、五霞町小福田に約』三千『平方メートルの沼地で、大正』九(一九二〇)『年頃まであったが、現在は干拓して水田になっている』とあり、どうも磨墨を祀ったそれは現存しないようである。なお、この奇体な石碑であるが、個人ブログ「神社ぐだぐだ参拝録」の「幸主名馬尊(五霞町幸主)」に、薬師堂の『裏に回ると、塔があるが、こちらが名馬尊の御本体なのか』? 『そして石塔の前の石仏は馬頭観音だろうか』? として、頭部から明らかに馬頭観音と比定出来る石仏と、その背後に建つ巨大な石造物(形状は確かに類を見ない奇体なものであり、碑面上部には確かに梵字らしき陰刻が認められる)の写真が添えられてある。引用元である江戸末期の医師赤松宗旦著した利根川中下流域の地誌(安政二(一八五五)年序)「利根川圖志」の巻二に載る「生月塚」とする石碑と同じ形であるから、これで間違いない。本文の「五ヶ村島」の最後に赤松は(所持する一九三八年岩波文庫刊柳田國男校訂のそれに拠る)、

   *

幸舘村に生月の塚あり。下に載す。(生月といふは信(う)けがたし。されど古駿馬の塚なるべし)。

Meibaduka

   *

と記す。画像も同じ岩波文庫版の画像をトリミングして示した。図の右にあるキャプションは上から下へ、

幸舘村藥師堂
 生月塚

栗橋隆岩寺領

惣高三尺四寸五分 高二尺二寸
笠石前幅一尺九寸 奥行尺六寸

で、全体の高さが一メートル四センチメートル弱、笠を除いた本体部が六十七センチメートル弱。笠石は前方の幅が五十七・五七センチメートル、奥行き(本体部であろう)は四十八・四八センチメートルとなる。

「近江阪田郡西黑田村大字常喜(じやうき)の水田の間にある馬塚」滋賀県長浜市常喜町(じょうぎちょう)。塚は現存しないか。なお、「坂田郡」が正しい。「阪田郡」という表記は明治期に突如、有意に現われたもので、どうもこれは「坂」の字の正字を「阪」と誤って使用したためらしい。

「同村大字本莊(ほんじやう)」恐らく、常喜町に北で隣接する滋賀県長浜市本庄町(ほんじょうちょう)のことである。

「池月の水」現存しないか。

『相州足柄上郡曾我村大字下大井」神奈川県足柄上郡大井町下大井。以下に記される通り、複数のランドマークを持つにも拘わらず、ネットには全く掛かってこない。総て残存しないというのはちょっと考え難いのだが。

「鄰村足柄下郡酒勾(さかわ)村大字酒勾」神奈川県小田原市酒匂。酒匂川河口の海に接した左岸。下大井のある曾我村とは三キロメートル強しか離れていないので近隣ではある。但し、狭義の「鄰村」、所謂、「隣り村」ではない。間に少なくとも「上府中村」「下府中村」「田嶋村」等が挟まっている。私がしばしばお世話になっている優れものの、近現代地図の対比が見られる埼玉大学教育学部の谷謙二(人文地理学研究室)Leaflet版の時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」のこちらを参照。

「僅かの溝川の石橋」上記に最後の比較地図に現在の酒匂堰が既に小流れとして存在しているから、この流れは江戸以前にあったと考えられ、位置的には当該マップのこの辺りが想定出来るのではないかとも思われる。

「荏原郡馬入村」不詳。しかしこれ、「馬込村」の誤りではあるまいか? 現在の東京都大田区の馬込地区である(ここは旧荏原郡である)。塚の正確な位置は不明だが、少なくとも同地区の南馬込三丁目十八番二十一号のここ(グーグル・ストリートビュー)に、明治三三(一九〇〇)年に馬込村の人々によって建てられた碑が現存しているからである(「大田区」公式サイトのこちらにその記載が有る)。「新たに石を立てゝ之れを勒(ろく)す」とあるが、本書の初版は大正三(一九一四)年刊である。これは正しく「近年」であろう。

「鐙(あぶみ)ケ谷(やつ)」南馬込四丁目に「鐙坂」がある。サイト「坂マップ」のこちらに、『大正末期から始まった耕地整理によって出来た坂道で、もとは狭い農道であった』。『坂の名は、伝説によると、梶原景季の愛馬磨墨が、鐙を谷に落としたところという。鐙谷の地名から名づけられたものという』(『大田区の標識より』)とある。先の比のある位置の僅か真東四百メートル位置である。

「阿波」「勝浦郡小松島町大字新居見(にゐみ)」「竝びに海岸の赤石と云ふ里」徳島県小松島市新居見町(今、「徳島乗馬倶楽部」が地区内にある)並びにそこから僅か四キロメートル東南東に離れた徳島県小松島市赤石。と言うかねぇ……この新居見町と赤石の間のド真ん中にある、小松島市芝生町宮ノ前には、既出既注だけど、池月が石に化したとされる天馬石があるだけどなぁ? 以前にも引いたことがある個人ブログ「awa-otoko’s blog」の、「磨墨の天馬石(小松島 田野)」を見ると、ここにそれ(ブログ主がここを田野(ちっちゃな宮ノ前の南東の、広大な町域)とするのは旧郡の広域地名)がガッツリと書かれてあって、それに新居見を対比して別に掲げてある。まんず、そこたらじゅうにあるわけね! ただね、気になったのは、「山中に各々」でね、現在の赤石地区は、まさに柳田國男も言っている通り、完全な海岸端で「山中」の「山」がない(西橋の川の左岸で丘陵の麓がかかるだけ)わけよ。

「百姓某なる者、其の首の骨を所持す〔「駿國雜志」〕」次の次の「磨墨ト馬蹄硯」で図像附きで出る。見易い画像を既に用意してある。お楽しみ!

「しどめ」バラ目バラ科ナシ亜科ボケ属クサボケ Chaenomeles japonica。ボケ Chaenomeles speciosa の仲間。本州・九州の山林や山裾に自生する落葉小低木。早春にボケと似た花が咲く。ボケの代用として果実を鎮痛・咳止め・利尿に、果実酒を疲労回復・強壮などに用いる。

「武州都築郡都岡(つをか)村大字今宿と二俣川村との境なる小川」現在の神奈川県横浜市旭区内の、今宿地区と二俣川地区の境となると、「今昔マップ on the web」ではこの中央辺りが候補となろうか。]

やれ買はう、それ買はう 伊良子清白

 

やれ買はう、それ買はう

 (小濱懷古)

 

やれ買はうそれ買はう、諸國は來るし

世間が明(あか)るていつも春

きけよ昔の小濱(をはま)の浦は

黃金(きん)の瓦が光つてた

 

浦は兩浦ふところ湊

冬は南受(したう)け溫室(むろ)の中

千石船があたたまりによ

小濱民部(をはまみんぶ)(一)の森したによ

 

東京通ひの船頭の泊(とま)る

宿は伽羅の橋渡り

成田屋擬(もど)きで緞子(どんす)に胡坐(あぐら)よ

何虞でも夜(よ)つぴて風呂がたつたよ

 

所娘がやの字の帶で

お母(か)ん往(い)て來る提燈點けな

金魚のやうな花魁(おいらん)が

古市(ふるいち)(二)からもきてゐたよ

船に殘るは船靈御精靈(ふなだまごしやうりやう)

灘(なだ)の新菰(しんこも)鏡を拔いて

だだらあそびの風待(かざま)ちよ

戀の中宿東京は遠いしよ

 

山が枯れると帆檣(はしら)の林

雪の下にも歌舞の里よ

海からあがる日天(につてん)樣でも

揚屋(あげや)の大戶はあけられまいよ

 

昔々の赤鉢卷で

も一つ踊ろかそもそもの起りは

伊達の若衆の鞘當(さやあて)で

大船頭(おほせんどう)の頭(あたま)も剃つたよ

 註(一) 室町時代の地頭の名、今も旧址に
    お臺所松あり。

  (二) 冬は山田古市の遊廓より妓女多く
    來りて加勢せりといふ。

 

[やぶちゃん注:底本で昭和六(一九三〇)年十二月一日に推定された『新日本民謠』(第二年第二号。茨城県水戸出身で東京主計学校卒の口語自由詩詩人大関五郎(明治二八(一八九五)年~昭和二三(一九四八)年:大正一〇(一九二一)年頃、「詩話会」の機関誌『日本詩人』に作品を発表、後に童謡や新民謡に転じ、北原白秋や野口雨情らの協賛で昭和六(一九三一)年に雑誌『新日本民謡」を刊行。詩集に「愛の風景」、民謡集に「煙草のけむり」など)の主宰した雑誌)に掲載。署名は「伊良子清白」。江戸以前の、当時、伊良子清白が診療所を構えていた鳥羽小浜(おはま)(現在の鳥羽市小浜町(おはまちょう))の時代懐古詠。「帆檣(はしら)」の「はしら」は二字へのルビ。

「冬は南受(したう)け溫室(むろ)の中」「南受(したう)け」は既出既注の南風のことで、「溫室(むろ)の中」はそのお蔭で冬でもとても暖かなことの比喩。

「小濱民部(をはまみんぶ)」答志郡小浜村に本拠を置き、伊勢湾に勢力を持っていた海賊の頭目で、戦国時代から安土桃山時代にかけては伊勢国司の北畠家に属した海賊的集団「小浜衆」の内、知られた小浜景隆(天文九(一五四〇)年~慶長二(一五九七)年:志摩国出身で、後に武田信玄・徳川家康に仕えた水軍の将。通称は民部左衛門。伊勢守)は大型の軍船安宅船(あたけぶね)を所有し、北畠家の海賊衆を束ねていたが、織田信長の援助を受けて志摩国統一を狙った九鬼嘉隆に敗れ、伊勢湾を追われた(以上はウィキの「小浜景隆」に拠った)。

「伽羅の橋」「伽羅」は「きやら(きゃら)」。梵語の漢訳で、狭義には香木として有名な沈香(例えばアオイ目ジンチョウゲ科ジンコウ属アクイラリア・アガローチャ Aquilaria agallocha 等)の別名であるが、ここは高級材を用いた贅沢な橋の謂い。

「成田屋」もとは歴代の歌舞伎俳優市川団十郎及びその一門の屋号。代々、成田不動を信仰したのに由来するという。ここは、後に彼らが荒事を得意としたところから転じて、「江戸前の景気のよいこと・威勢のよいこと」の意となった、それの意。

「緞子(どんす)」経糸(たていと)と緯糸(よこいと)の色を変えて、繻子織(しゅすおり:経糸・緯糸それぞれ五本以上から構成され、経・緯どちらかの糸の浮きが非常に少なく、経糸又は緯糸のみが表に表れているように見える織り方。密度が高く、地は厚いが、柔軟性に長け、光沢が強い。但し、摩擦や引っ掻きには弱い)の手法で文様を出す絹織物のこと。精錬した絹糸を使う。

「古市(ふるいち)」三重県伊勢市古市地区(グーグル・マップ・データ)。ウィキの古市(伊勢市)によれば、『参宮街道の、外宮・内宮の中間にある古市丘陵』部に当たる一帯で、『江戸時代以前は、丘陵にあるため』、『水利が悪く民家もほとんどなく楠部郷に含まれていたが、伊勢参りの参拝客の増加とともに、参拝後に精進落としをする人々が増加したことにより』、『遊廓が増え』、『歓楽街として発達し、宇治古市として楠部』(くすべ)『郷から分かれた』。『江戸時代前期に茶立女・茶汲女と呼ばれる遊女をおいた茶屋が現れ、元禄』(一六八八年~一七〇三年)『頃には高級遊女も抱える大店もできはじめた』。寛政六(一七九四)年の大火では『古市も被害を受けたものの、かえって妓楼の数は増え、最盛期の天明』(一七八一年~一七八九年)『頃には妓楼』七十『軒、遊女』千『人、浄瑠璃小屋も数軒、というにぎやかさで、「伊勢参り 大神宮にもちょっと寄り」という川柳があるほどに活気に溢れていたという』。『十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にも登場した』。『江戸時代末には、北は倭町から南は中之町まで娼家や酒楼が並び』、『江戸幕府非公認ながら、江戸の吉原、京都の島原と並んで三大遊廓、あるいはさらに大阪の新町、長崎の丸山をたして五大遊廓の一つに数えられた。代表的な妓楼としては、備前屋(牛車楼・桜花楼とも呼ばれた)、杉本屋(華表楼とも)、油屋(油屋騒動で有名』『)、千束屋(一九の膝栗毛に登場』『)などがあった』。『明治期に古市丘陵を迂回する道路が整備され』るに伴い、『衰退し』た、とある。

「鏡を拔いて」「鏡」は形が古鏡に似ていることから酒樽の蓋を指し、これで祝宴で酒樽の蓋を槌で割り開くことを言う。

「揚屋(あげや)」江戸時代、客が置屋(おきや)から太夫・天神・花魁などの高級遊女を呼んで遊んだ店のこと。

「鞘當(さやあて)」意地立てから起こる喧嘩を言う。ここは遊女絡みのそれ。「恋の鞘当て」がまさにそれを意味する語で、もとは遊里で一人の遊女を巡って二人の武士が鞘当てをする歌舞伎の題材から生まれた語である。

「お臺所松」現存しないようである。]

吐綬鷄の賦 伊良子清白

 

吐綬鷄の賦

 

七面鳥は飛ばぬ鳥ですが

笑ふ鳥です

また、歌ひ手です

希代の艶魔で

煤を朱にする羽根を持てゐます

古風な勇婦ですが

また、派手な近代女性です

老孃で肥滿家です

日光の健啖家です

吐綬鳥です

美しい肉の組紐を見せびらかします

 

巴峽や閩廣(びんくわう)の山中には

野生の七面鳥が棲むといひます

それは神話中の鳥です

あなたの家の主婦は

朝な朝な大空によびかけます

天使は靑銅色と黑色とを授けます

七面鳥は廢墟ですか

そうです、薔薇の谷です

七面鳥は爛れてゐますか

そうです、美は創痍(きづ)の一種です

七面鳥は春の鳥ですか

そうです、地上の太陽です

 

七面鳥は殺さないで下さい

   (お聽きなさい)

千一夜物語の美女の肉が

巨人の家の鍋の底で

黑焦げに成つたといひます。

 

[やぶちゃん注:昭和六(一九三〇)年十一月一日発行の『女性時代』(第二年第十一号)に掲載。署名は「伊良子清白」。「創痍(きづ)」のルビはママ。

「吐綬鷄」ここはまずは、アメリカ合衆国・カナダ南部・メキシコに分布するキジ目キジ科シチメンチョウ亜科シチメンチョウ属シチメンチョウ Meleagris gallopavo の異名としてよかろう。和名「七面鳥」は、頭部や頸部の羽毛がない赤い皮膚が露出して発達した肉垂(にくだ)れが、興奮すると赤・青・紫などの色に変化することに由来する。羽色は暗褐色と暗緑色とからなり、金属光沢を有する。しかし、詩篇中、第二連で中国の山中に「野生の七面鳥が棲む」として語られるのは、キジ目キジ科ジュケイ属 Tragopan で、全くの別種である。私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 吐綬雞(とじゆけい)(ジュケイ類)」を見られたい。ジュケイ類はインド北部・台湾・中国・ネパール北部・パキスタン北部・ブータン・ミャンマー西部に分布し、ジュケイ Tragopan caboti・ミヤマジュケイ Tragopan blythii・ハイイロジュケイ Tragopan melanocephalus・ヒオドシジュケイ Tragopan satyra・ベニジュケイ Tragopan temminckii がいる。ジュケイ類は♂の側頭部に角のように見える二つの肉質突起があり、頸部の青や黄の肉垂れも大きく膨らむ(但し、この肉質突起と肉垂れは通常は収縮しており、興奮すると見える)。羽色も緋色・褐色・灰色などからなり、白っぽい円形斑紋を多数有し、和名はこの円紋が勲章(「綬」は「勲章に付ける短い紐」のこと)のように見えることに由来する。

「巴峽」「巴猿」の語で知られる湖北省恩施トゥチャ族ミャオ族自治州巴東県(グーグル・マップ・データ)の長江の急峻な渓谷。所謂「三峽」の域内である。

「閩廣(びんくわう)」狭義には福建省南部、広義にはそこに加えて台湾・浙江省南部・広東省東部と西部・海南省などを含むところの、所謂、閩南語を使用する地域の旧名。

「千一夜物語の美女の肉が」「巨人の家の鍋の底で」「黑焦げに成つたといひます」ちゃんと読んだことがないので判らぬが、巨人が出てくるところからは、「ハサン・アル・バスリの冒険(第五百七十六夜~第六百十五夜)」辺りか。]

2019/06/17

はだかむすめ 伊良子清白

 

はだかむすめ

 (浮世繪風に)

 

はだか娘は

千兩持むすめ

はだかなれども

あや錦

 

はだか娘は

海の精

靑い波間を

分けて入る

 

はだか娘は

寶をあさる

海の都の

たまあさる

 

はだか娘と

眞珠の貝は

波にもまれて

珠となる

 

裸むすめは

人魚か

しぼる濡髮

日に曝らす

 

はだかむすめよ

いつまではだか

金の解きがみ

櫛一つ

 

[やぶちゃん注:昭和六(一九三〇)年六月一日発行の『女性時代』(第二年第六号)に掲載。署名は「伊良子清白」。]

若布採り 伊良子清白

 

若布採り

 

嶋の二月(ぐわつ)は

若布採(わかめと)り。

若布採る日の

寒凪(かんなぎ)に、

海はちらちら

雪催ひ。

わかめ苅るとて

鎌(かま)次(す)げて、

すげた鎌の刅(は)

船首(みよし)にひかる。

夜明け千鳥の

磯めぐり。

 

島の二月は

若布採り。

雪の降る日の

薄くらがりに、

つめたい覗(のぞ)き箱(はこ)

波が越す。

やんれ、波越す

船(ふな)ばたに、

あがる若布の

淺みどり。

淚(なみだ)垂(た)るやうな

うしほの雫。

 

島の二月は

若布採り。

山は南(した)うけ、

なぞえのほし場(ば)。

若布かけたよ、

日和雲(ひよりぐも)。

風も眼を持つ

繩のはし。

まだ如月(きさらぎ)の

日脚(ひあし)は早く。

わかめほす手の

やれさて忙(せは)し。

 註 覗き箱は四方を硝子張に密閉した龕灯がたの箱、

 海底を窺ふに用ふ。

 

[やぶちゃん注:底本で昭和六(一九三〇)年一月に推定された『むれ星』(第四巻第二号。東京中央電話局発行の雑誌か?)に掲載。署名は「伊良子清白」。同年四月二十日の詩人協会編アトリエ社刊のアンソロジー「一九三一年詩集」に再録(但し標題は「若布採」)。底本では数字を除く総ルビであるが、五月蠅いので、私の判断で必要と感じた部分だけのパラルビとした。「すげた鎌の刅(は)」の「刅」(刃)は底本では右の点はない字体である。「なぞえ」はママ。

「鎌(かま)次(す)げて」「挿げる」「箝げる」で、「枘(ほぞ)に嵌め込む」の意。海底から立ち上るワカメの仮根部分から上を掻き採るために長い竿の先に鎌を装着した漁具のそれである。

「南(した)うけ」既注。南風の異名と採る。

「なぞえ」斜面。歴史的仮名遣は「なぞへ」が正しい。

「覗き箱は四方を硝子張に密閉した」正直、一読、変な感じがする。私も嘗つて、能登の狼煙(のろし)の漁師の栄螺獲りに同乗させて貰ってそれを使用したことがあるが(バケツ一杯獲れた)、ワカメ刈り等に用いる覗き箱は、四方が板張りで底だけが硝子張りになっていて、覗くこちら側は無論、何もないのが普通ではないか? 四方も硝子張りにしたのでは強度が低下して壊れ易くなるし、水中の四方部分が硝子張りである必要性は私は全くないと思うのだが? これが正しいと言われる方は御教授あられたい。

「龕灯がた」「がんどう」型。「強盗提灯(がんだうぢやうちん(がんどうぢょうちん))」のことであろう。銅板・ブリキ板などで釣鐘形の枠を作り、中に自由に回転出来る蝋燭立てを取り付けた提灯。光が正面だけを照らすので、持つ人の顔は見えない。]

鳥羽小うた 伊良子清白

 

鳥羽小うた

 

伊勢でご參宮(さんぐ)二見をかけて

鳥羽の入江の島めぐり

  鳥羽はよいとこよい港

  いつもあかるい海の色

 

戀の港の土產の中に

磯のあわびの片おもひ

  鳥羽はよいとこよい港

  いつもあかるい海の色

 

お伊勢參りに鳥羽見てかんせ

海の鏡に月もさえ

  宿の庭先港につゞく

  町になでしこ咲いてまつ

 

志摩の磯邊に波かきわけて

海女の握る手波の花

  一度見せたや殿方に

  主(ぬし)と焚火(たきび)にゆるすはだ

 

[やぶちゃん注:底本で昭和六(一九三〇)年一月に推定された『鳥羽のうた』(詳細書誌不詳)に掲載。署名は「伊良子清白」。底本では総ルビであるが、五月蠅いので、私の判断で必要と感じた部分だけのパラルビとした。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(38) 「池月・磨墨・太夫黑」(5)

 

《原文》

 池月ハ又四國ニ出ヅト云フ說アリ。其說ハ此馬最後ニ阿波ノ勝浦ニ飛降リテ石ト化セリト云フ話ト共ニ、後太平記ノ記スル所ニカヽル。後太平記ハ諸君御信用御隨意ノ書ナリ。但シ此著者之ヲ知リタリシヤ否ヤハ別トシテ、此地方ニモ一二同種ノ傳說ハ存セリ。阿波三好郡加茂村ノ井内谷ハ、山中ニ牧アリテ昔ヨリ良馬ヲ出ス。或說ニ池月此牧ニ出デタリ、之ヲ名西郡第拾(ダイジフ)村ノ寺ニ飼フ。至ツテノ駿足ナリ。村ノ若者等戲レニ之ニ騎リテ大川ヲ渡ス。宇治ノ高名モツマリハ吉野川ニテ鍛煉シタルガ爲ナラン。【馬長壽】老馬トナリテ後中國邊ニテ休息シ三百餘歲ノ壽ヲ以テ終ルト云ヘリ〔阿州奇事雜話一〕。土佐ニモ古クヨリ池月ノ口碑ハアリキト見ユ。曾テ此國ニテ駿馬ヲ長曾我部元親ニ獻ズル者アリシ時、元親ガ詞ニ、【池】昔當國池村ヨリ池月ト云フ名馬ヲ出シ之ヲ鎌倉ニ獻上セリト聞ケドモ、此馬共ノ池月ニヲサヲサ劣ルマジイト喜ビタリト傳ヘタリ〔南路志四十七〕。其池村ニシテ果シテ土佐日記ニモ見エタル「池ト云フ處」ナリキトセバ、即チ又三足ノ鬼鹿毛ヲ出シタル名譽ノ地ニシテ、海ト沼地トノ間ニ挾マレタル岡ノ上ノ牧ナリシガ如シ。【海邊ノ牧】九州ニ於テ一ツニハ豐後北海部郡ノ牧山、此モ同ジク海ニ臨ミタル磯山ノ上ニ古來設ケラレタル公ケノ牧ニシテ、磨墨ハ此牧ヨリ出ヅト云フ說アリ〔豐國小誌〕。薩摩揖宿郡今泉村大字池田ハ昔ノ池田ノ牧ノ地ナリ。風景優レタル火山湖トシテ有名ナル池田湖ノ岸ニシテ、片手ニハ又近ク漫々タル蒼海ヲ控ヘタリ。此牧ニモ夙ニ池月ヲ產シタリト云フ明瞭ナル記錄アリ。池月ト云フ馬ノ名モ牧ノ名ノ池田ト共ニ湖水ヨリ出デタルモノナルべシト云フ〔三國名勝國會所引伊佐古記〕。北部ノ沿海ニ在リテハ肥前北松浦郡生月村、即チ鯨ヲ屠ル五島ノ生月ハ、既ニ亦延喜式ニモ載セタル生屬牧(イケヅキノマキ)ノ故地ナリトスレバ、必ズヤ地名ニ因緣シテ同ジ傳說ノ存スルアルナランモ、自分ハ未ダ之ヲ聞カズ。以前ノ領主タル松浦靜山侯ノ隨筆ニハ、單ニ後ニ述べントスル名馬草ノ記事ヲ錄スルアルノミ。對馬ノ島ノ牧ニ於テハ亦黑白二駿ヲ併セ產シタリト云フ說アリ。同國仁田村大字伊奈ノ近傍ニテ後世磨墨田ト稱スルアタリ、治承ノ昔ハ一ノ池アリキ。磨墨此池ノ岸ニ遊ビ聲高ク嘶クトキハ、其聲奴可嶽(ヌカダケ)村大字唐洲(カラス)ノ池田ト云フ處マデ聞エタリ。唐洲ノ池田ニモ又一匹ノ名馬アリテ住ス。即チ一匹ト呼ブノモ失禮ナル位ノ名馬池月是ナリ。池月ノ嘶ク聲モ亦伊奈ノ磨墨田マデ聞エタリ。【妙見】二ツノ馬ハ朝ニ往キ夕ニ還リ二村ノ境ナル妙見山ノ麓ニ於テ相會スルヲ常トス。妙見ハ即チ前ニモ云ヘル北斗星ノ神ナリ。島人ハ此往來ヲ名ヅケテ朝草夕草ト云フトアリ。仁田村大字飼所ノ南ニ白キ石アリ。峯村大字三根トノ境ノ標ナリ。【馬蹄石】此石ノ表ニ奔馬ノ蹄ノ跡數十アルハ、磨墨ガ池田ニ往來スル通路ナリシガ爲ナリト云ヘリ〔津島記事〕。千古ヲ空シクスル二箇ノ駿足ガ牧ヲ接シテ相生スト云フコトハ餘リニ完備シタル物語ニハアレドモ、既ニ安房ノ簑岡ヤ伊豆ノ弦卷山ナドニモ同ジ話ヲ語ル外ニ、隱岐島ニテモ今日ハ亦此如ク傳說スルニ至レリト云ヘバ〔日本周遊奇談〕、何カ深キ仔細ノ存スルコトナルべシ。

 

《訓読》

 池月は又、四國に出づと云ふ說あり。其の說は、此の馬、最後に阿波の勝浦に飛び降りて石と化せりと云ふ話と共に、「後太平記」の記する所にかゝる。「後太平記(ごたいへいき)」は諸君御信用御隨意の書なり。但し、此の著者、之れを知りたりしや否やは別として、此の地方にも、一、二、同種の傳說は存せり。阿波三好郡加茂村の井内谷は、山中に牧ありて、昔より良馬を出だす。或る說に、池月、此の牧に出でたり、之れを名西(みやうざい)郡第拾(だいじふ)村の寺に飼ふ。至つての駿足なり。村の若者等、戲れに之れに騎(の)りて大川を渡す。宇治の高名も、つまりは吉野川にて鍛煉(たんれん)したるが爲めならん。【馬長壽】老馬となりて後、中國邊りにて休息し、三百餘歲の壽を以てつ終ると云へり〔「阿州奇事雜話」一〕。土佐にも、古くより池月の口碑はありきと見ゆ。曾つて、此の國にて駿馬を長曾我部元親に獻ずる者ありし時、元親が詞に、【池】「昔、當國池村より池月と云ふ名馬を出だし、之れを鎌倉に獻上せりと聞けども、此の馬共の池月にをさをさ劣るまじい」と喜びたりと傳へたり〔「南路志」四十七〕。其の池村にして、果して「土佐日記」にも見えたる「池と云ふ處」なりきとせば、即ち、又、三足の「鬼鹿毛(おにかげ)」を出だしたる名譽の地にして、海と沼地との間に挾まれたる岡の上の牧なりしがごとし。【海邊の牧】九州に於いて、一つには豐後北海部(きたあまべ)郡の牧山、此れも同じく海に臨みたる磯山の上に、古來、設けられたる公けの牧にして、磨墨は此の牧より出づと云ふ說あり〔「豐國小誌」〕。薩摩揖宿(いぶすき)郡今泉村大字池田は、昔の「池田の牧」の地なり。風景優れたる火山湖として有名なる池田湖の岸にして、片手には又、近く漫々たる蒼海を控へたり。此の牧にも、夙(つと)に池月を產したりと云ふ明瞭なる記錄あり。池月と云ふ馬の名も牧の名の池田と共に、湖水より出でたるものなるべしと云ふ〔「三國名勝國會」所引「伊佐古記」〕。北部の沿海に在りては、肥前北松浦郡生月村、即ち、鯨を屠(はふ)る五島の生月は、既に亦、「延喜式」にも載せたる「生屬牧(いけづきのまき)」の故地なりとすれば、必ずや地名に因緣して同じ傳說の存するあるならんも、自分は未だ之れを聞かず。以前の領主たる松浦靜山侯の隨筆には、單に後に述べんとする「名馬草」の記事を錄するあるのみ。對馬の島の牧に於ては、亦、黑白二駿を併せ產したりと云ふ說あり。同國仁田村大字伊奈の近傍にて、後世、磨墨田と稱するあたり、治承[やぶちゃん注:一一七七年~一一八一年。]の昔は一つの池ありき。磨墨、此の池の岸に遊び、聲高く嘶くときは、其の聲、奴可嶽(ぬかだけ)村大字唐洲(からす)の池田と云ふ處まで聞えたり。唐洲の池田にも又、一匹の名馬ありて住す。即ち、一匹と呼ぶのも失禮なる位の名馬、池月、是れなり。池月の嘶く聲も亦、伊奈の磨墨田まで聞えたり。【妙見】二つの馬は朝に往き、夕(ゆふべ)に還り、二村の境なる妙見山の麓に於いて相ひ會するを常とす。妙見は、即ち、前にも云へる北斗星の神なり。島人は、此の往來を名づけて「朝草夕草」と云ふ、とあり。仁田村大字飼所(かひどこ)の南に白き石あり。峯村大字三根との境の標(しるべ)なり。【馬蹄石】此の石の表に奔馬の蹄の跡、數十あるは、磨墨が池田に往來する通路なりしが爲めなりと云へり〔「津島記事」〕。千古を空しくする二箇の駿足が、牧を接して相生(さうせい)すと云ふことは餘りに完備したる物語にはあれども、既に安房の簑岡や、伊豆の弦卷山などにも同じ話を語る外に、隱岐島にても、今日は亦、此くのごとく傳說するに至れりと云へば〔「日本周遊奇談」〕、何か深き仔細の存することなるべし。

[やぶちゃん注:「阿波の勝浦」現在の徳島県勝浦郡勝浦町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「後太平記(ごたいへいき)」南北朝後期から室町・戦国時代まで扱う軍記物で、「太平記」の後を引き継いだ形を採っている。江戸前期の多々良南宗庵一竜著で、延宝五(一六七七)年刊。全四十二巻。史実的には信用度が低い。

「阿波三好郡加茂村の井内谷」徳島県三好郡東みよし町(ちょう)加茂

「名西(みやうざい)郡第拾(だいじふ)村の寺」徳島県名西郡石井町藍畑(あいはた)第十附近。寺は不詳。暴れ川「四国三郎」の異名で知られる大河吉野川の右岸。

「長曾我部元親」(天文八(一五三九)年~慶長四(一五九九)年)戦国大名。永禄三(一五六〇)年に家督を継ぎ、本山氏を始めとする土佐の諸豪族を倒して勢力を得、国司家一条氏を追放し、天正三(一五七五)年、土佐を統一した。さらに阿波三好氏・讃岐香川氏・伊予河野氏などの土豪を次々と滅ぼし、同十一年、四国全域を支配した。しかし、その前年から、たびたび織田信長に攻撃され、同十三年、遂に豊臣秀吉の四国征伐に屈服してその支配下に入り、土佐一国を安堵された。その後、九州征伐・小田原征伐・「文禄・慶長の役」や朝鮮出兵に従軍して、国力を疲弊させた。領内では惣検地を行い、分国法「長宗我部元親百箇条」を定めたことで知られる。

「當國池村」『「土佐日記」にも見えたる「池と云ふ處」』「土佐日記」は初めの方の「大湊」滞留中の一条。以下。

   *

七日(なぬか)になりぬ。同じ港にあり。けふは白馬(あをむま)を思へど、甲斐なし。ただ浪の白きのみぞ見ゆる。かかるあひだに、人の家の、「池」と名ある所より、鯉はなくて、鮒よりはじめて、川のも海のも、こと物ども、長櫃に擔ひつづけておこせたり。若菜ぞ今日をば知らせたる。歌あり。その歌、

  あさぢふの野邊にしあれば水もなき池に摘(つ)みつる若菜なりけり

いとをかしかし。この池といふは所の名なり。よき人の、男につきて下りて、住みけるなり。この長櫃の物は、みな人、童までにくれたれば、飽き滿ちて、船子(ふなこ)どもは、腹鼓(はらつづみ)を打ちて、海さへおどろかして、浪立てつべし。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

この「池」については、一九七九年岩波文庫刊「土佐日記」の鈴木知太郎氏の注によれば、『南国市十市』(とおち)『の西部にある池』とする。これに從えば、これは現在の石土池(いしづちいけ)の前身に比定されているようである。既出既注であるが、この石土池の西方に現在の高知県高知市池地区が広がるのである。偶然であろうが、ここでこの日(事実に基づくと、承平五(九三五)年の一月七日)に宮中で行われる「白馬の節会」を想起しているのもまた、柳田國男の文脈の中で読むと異様に目を引く。

『三足の「鬼鹿毛(おにかげ)」を出だしたる……」既出既注

「海と沼地との間に挾まれたる岡の上の牧」柳田國男はその牧を現在のこの附近に比定していることになる。

「豐後北海部(きたあまべ)郡の牧山」大分県大分市佐賀関(国土地理院図)の先端にある山らしいが、確認出来ない。

「薩摩揖宿(いぶすき)郡今泉村大字池田」鹿児島県指宿市池田。池田湖湖岸北東部。

「肥前北松浦郡生月村、即ち、鯨を屠(はふ)る五島の生月」長崎県平戸市生月島

「延喜式」「弘仁式」・「貞観式」以降の律令の施行細則を取捨して集大成したもの。全五十巻。延喜五(九〇五)年、醍醐天皇の勅により、藤原時平・忠平らが編集。延長五(九二七)年に成立、康保四(九六七)年に施行された。

『以前の領主たる松浦靜山侯の隨筆には、單に後に述べんとする「名馬草」の記事を錄するあるのみ』これは「甲子夜話続篇」の第之五十七の第十五条目の「信州望月驛、月毛馬の事」である。以下(所持する東洋文庫版を参考に恣意的に漢字を正字化して示す。柳田國男の言うのは後半であるが、前半も含めて電子化した。【 】は割注)。

   *

予、先年木曾路旅行のとき、信州望月驛に宿せしに、牽せし月毛の馬は旅宿に留ずと云て、從臣等がこまりしことを、頃ろ[やぶちゃん注:「このごろ」。]左右にて語り出せしに、往事は忘れしが、何(イカ)さまかゝることも有りし迚、彼是の書を見るに、今(イマ)世に流布する「木曾路道中記」には、

『望月のみまきの駒は寒からじ布引山を北とおもへば 西行 望月の馬は月毛たるゆゑに、所の者は今に月毛の馬をば飼ざる也。』。

是に據れば、今俗もかゝるゆゑにて有んが、その忌憚[やぶちゃん注:「はばか」。]る故をしらず。又「木曾路名所圖會」に云。

『望月衡牧(モチヅキノミマキ)【望月の驛の上の山を云。今牧の原といふ】〕、昔は例年敕有りて駒牽あり。是により牧に望月の名あり。苦は御牧七鄕とて此近邊みな御牧有りしと云。望月の駒は性よし。又望月の神の嫌ひ給ふよしにて、望月幷に七鄕の内鹿毛の馬を置ず。他所より來れるも、一夜も駐ることを許さずとぞ。』。

是にては又齊しからず。

又、予が城下に生月(イケヅキ)と云島あり。居城より三里程なり。此島の中に古來より牧ありて馬を畜ふ。邑人傳ふ。昔賴朝卿のときに出し名馬の生囑(イケヅキ)と稱せしは、この牧より產せし所の駒なりと。又この牧地には、以前より其駒間々嶽落(ダキオチ)して死せり【嶽落とは岸上より地に墜るを謂ふ。里俗岸を云て嶽と謂ふ】。今里人の所ㇾ云は、この島に名馬草と云へる草あり。牧馬これを食すれば必ず名馬を產(ウ)む。されどもこの草、危岸絕壁の閒にありて、これに下臨せざれば喰ふこと難し。因て馬これを喰んとして則ち墜つ。このこと厩吏の局には云及さゞれど、里人は皆これを傳ふ。又「盛衰記」佐々木高綱宇治川を先登せし條に、この生囑のことを屢々擧れども、何國の產なることは記さず。又このとき梶原が乘たる磨墨(スルスミ)と云し名馬は、駿河國の產なりと云こと、彼國に云傳へりと。生囑のこと何かゞなるべき。

   *

「同國仁田村大字伊奈の近傍にて、後世、磨墨田と稱するあたり」長崎県対馬市上県町(かみあがたちょう)伊奈はここだが、近傍というのは曲者で、判らぬ。現地名では見出せない。

「奴可嶽(ぬかだけ)村大字唐洲(からす)の池田」これがもし、長崎県対馬市豊玉町(とよたまちょう)唐洲だとすると、直線で伊奈の南南西二十四キロメートル以上離れている。すみっこ氏のブログ「対馬 すみっこ」の「対州馬たいしゅうば・対馬馬つしまうま」、及び、三河馬氏のブログ『「日本在来馬」歴史研究会』の「Ⅲ:対州馬ー対州馬の伝説」を見ると、表記や謂い方に違いはあるものの、孰れも、麿墨の方を――上県町田の浜――とし、池月の方を――豊玉町唐洲の池田――としているように読めるので、この同定で問題ないと思われる。

「妙見山」伊奈と唐洲の間にそのような山は確認出来ない。参考までに、「(一社)対馬観光物産協会ブログ」の「独断と偏見の対馬の神社セレクション」によれば、二村の境でなく、完全に唐洲地区内の海辺にあるのだが、元嶋神社というのがあって、ここは別名を妙見神社と呼び、現在の祭神は素戔嗚命であるが、元は『「北辰妙見」=「北極星」、あるいは天の中心を意味する「アメノミナカヌシ」で』あったとある。なお、最後の注も参照されたい。

「朝草夕草」読み不詳。個人的には「あさくさゆふぐさ」と訓じたい。

「仁田村大字飼所(かひどこ)」長崎県対馬市上県町飼所。伊奈からは直線で南東六キロメートル前後の位置にある。

「峯村大字三根」対馬市峰町(みねちょう)三根(みね)。言っておくと、ここが実は伊奈と唐洲の中間地点に当たり、町の名からも、ここのどこかのピークが「妙見山」なのではないかと私は思っている。]

鳥羽小唄 伊良子清白

 

鳥羽小唄

 

   

伊勢で御參宮二見をかけて

鳥羽の入江の島めぐり

  鳥羽はよいとこよいみなと

  いつも明るい海の色

   

坂手菅島答志を越えて

七ツ飛び島阿古浦まで

   

三十六島大島小島

見えりやかくれるかくれりや見える

   

日和山から伊勢の海ながめ

吹くは春風眞帆片風

   

沖の神島伊良古も見えて

末の霞の遠州灘

   

昔語れば九鬼嘉隆よ

今も城山眞珠じま

   

海女の鮑採り荒磯埼で

玉のはだへが黑むやら

   

磯の焚火にあたるは海女よ

十歲二十歲波かきわけて

   

春の朝富士秋の夜の月を

鳥羽で見て來た樋の山で

   

町は千軒海には萬波

出船入船川となる

   十一

東、東京口、西、大阪口よ

うらは振分け鳥羽みなと

   十二

潮のみちひきそりや海の水

志摩の女は實がある

   十三

戀のみなとの土產の中に

磯の鮑の片思ひ

   

小濱鯛池千疋鯛が

はねてとびます水の上

 

[やぶちゃん注:昭和六(一九三一)年一月十八日附『朝日新聞』三重版に掲載。署名は「伊良子清白」。伊良子清白、この年、満五十四歳。この年の一月に鳥羽の短歌雑誌『白鳥』(歌人で朝日新聞記者であった宮瀬渚花主宰の『白鳥(しらとり)』に新作の短歌九首を載せ、十二月にも同誌に発表、以後、この白鳥を中心に短歌の創作発表が続けられることとなる。九月十六日には五女明が生まれ、十二月には三女千里が結婚している。また、この年の十二月二十三日に春陽堂から刊行された「明治大正文学全集」第三十六巻「詩篇」に、詩集「孔雀船」から「安乘の稚兒」「五月野」「鬼の語」「月光日光」「不開の間」「秋和の里」が再録されている。

「坂手」三重県鳥羽市の沖六百メートルの直近の、伊勢湾口にある三重県鳥羽市坂手町坂手島(さかてじま)。地元では坂手を「さかで」とも呼ぶ。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「菅島」「すがしま」。既出既注

「答志」三重県鳥羽市市答志町及び桃取町に属する答志島(とうしじま)。東西約六キロメートル、南北約一・五キロメートル。面積約七平方キロメートルで、鳥羽湾及び三重県内では最大の島である。位置は、前の「菅島」の地図で確認出来る。

「七ツ飛び島」「七つ飛島」に既出既注そこで私なり考証をしている。

「阿古浦」「あこうら」。これは「阿漕浦」(あこぎうら)で、三重県津市東部の、三重県津市阿漕町(あこぎちょう)津興(つおき)附近を中心とした、岩田川河口から相川河口まで単調な砂浜海岸で、春は潮干狩り、夏は海水浴に利用され、冬は海苔の漁場となる。嘗つては伊勢神宮の供物の漁場で、殺生禁断の海であった。昔、貧しい漁夫平治(平次)が病母のためにこの海で魚を漁ったために罰せられ、簀巻きにされて海に沈められたという物語は、謡曲・浄瑠璃に歌われてよく知られる。同地の柳山津興に彼の霊を祀る阿漕塚がある。南半分は「御殿場浜」とも呼ぶ。この地名は、後世、より古い万葉以来の歌枕で、和歌山県御坊(ごぼう)市野島(のしま)附近の海岸とされるものの、未詳である「阿古根の浦」と混同され、この漢字表記もそれによるものと考えてよい。

「日和山」三重県志摩市磯部町的矢。私は毎年取り寄せる「的矢牡蠣」とともに、大好きな壺井栄の、ここをロケーションとし名掌品「伊勢の的矢の日和山」を思い出すのを常としている(リンク先は有峰書店新社の写真附きの電子テクスト)。私は嘗つて牡蠣を食いに訪れたが、タクシーの運転手に「日和山」と聴いても判らなかった。今回、再読してこの辺り(国土地理院図)の丘陵部と考えてよいことが判った(作品中で墓地のある高台で、ここにある禅法寺という寺の過去帳を見せてもらうシーンが出る)

「神島」既出既注

「伊良古」伊勢湾口対岸の伊良湖(いらご)岬。

「九鬼嘉隆」(天文一一(一五四二)年~慶長五(一六〇〇)年)は安土桃山時代の武将。右馬允・大隅守。代々、志摩国波切城(城址は三重県志摩市大王町波切のここ)を根拠地とし、初めは北畠氏に仕えたが、永禄一二(一五六九)年、織田信長が北畠具教を攻めるや、信長に応じ、以来、彼の麾下となり、水軍を率いてこれに従った。天正二(一五七四)年の伊勢長島の一向一揆、同五年の紀伊雑賀(さいか)の一向一揆を海上から攻撃し、また、翌六年の石山本願寺との合戦に際しては、本願寺側の援軍である毛利の水軍と対戦して、これを打ち破った。信長の死後、豊臣秀吉に仕え、四国・九州の両役及び「文禄・慶長の役」に際しても、水軍の将として軍功があって、鳥羽城主となり、三万五千石を領した。しかし、秀吉の死後、徳川家康と和せず、「関ヶ原の戦い」では、その子守隆が東軍に属したが、嘉隆は西軍に属して、敗れた。戦後、家康に許されたが,紀伊で自殺している(以上は主文を「ブリタニカ国際大百科事典」に拠ったが、一部を別史料で書き変えた)。

「城山」三重県鳥羽市鳥羽の鳥羽城址

「眞珠じま」上の地図で直近にある現在の「ミキモト真珠島」(正式島名)。明治二六(一八九三)年、当時「相島(おじま)」と呼ばれていたこの島で、御木本幸吉(安政五(一八五八)年~昭和二九(一九五四)年)が真珠養殖に成功して、ここを本拠地としたが、この当時はまだ「相島」であった。

「海女の鮑採り」音数律(小唄であるからより厳密であるはずではある)から「鮑」は「はう」と音読みしているかとも考えたが、如何にも耳障りが悪い。「あわび」で読んでおく。

「荒磯埼」わざわざ「埼」の字を選んでいるので、固有名詞と思ったが、見当たらない。一般名詞で採っておく。

「朝富士」三重県鳥羽市にある灯明(とうめい)山(遠目山とも書く)の別称。先の神島にあり、標高百七十一・七メートル(国土地理院図)。

「樋の山」鳥羽市鳥羽町の、旧伊良子清白の診療所の西方背後にある「樋ノ山」

「小濱鯛池」{おはまたひいけ」。サイト「鳥羽デジタルアーカイブズ」のこちらによれば、伊良子清白が診療所を開いていた小浜(おはま)村現在の鳥羽市小浜町(おはまちょう)(国土地理院図))明治二二(一八八九)年に鳥羽町に合併されるが、昭和四二(一九六七)年に浜辺橋が完成するまでは、町営の渡船を利用しなければ、往来出来ない漁村であった。また、鳥羽町大字小鳥羽町大字小浜にあった料理旅館「鯛池 相生館」には鳥羽浜辺浦から定期船が運航されていた。ブログ「三重の鳥瞰図デジタルアーカイブ」のこちらで、往時の案内図が見られ(必見!)、「鯛池案内」の表紙絵を見ると、「千疋鯛」も判る気がする。]

2019/06/16

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(37) 「池月・磨墨・太夫黑」(4)

 

《原文》

 飛彈國[やぶちゃん注:ママ。「今昔物語集」の一本では「飛驒」を「飛彈」とする表記を見るが、今までも柳田國男は「飛驒」と記しているから、ここは誤植と断ずる。訓読では混乱するので特異的に訂した。]ニテハ池月ハ大野郡丹生川村(ニブカハ)大字池俣ヨリ出ヅト稱ス〔飛州志〕。池俣ハ乘鞍嶽西麓ノ村ナリ。恐クハ亦神聖ナル池アリシヨリノ村ノ名カ。乘鞍ト云フ山ノ名モ或ハ又馬ノ神ト緣由アリシモノナラン。池月ハ又近江ヨリ出デタリトノ說アリ〔越後名寄三十一〕。犬上郡東甲良村大字池寺ハ古クハ河原莊ノ内ニシテ、大伽藍アリシ地ナリ。名馬池月ハ此邊ニ生ル。池月ハ即チ池寺月毛ヲ略シタル名ナリ。而シテ磨墨ハ同ジ國伊香郡ノ摺墨鄕ニ於テ生レタルガ故ニ其名アルナリト云ヘリ〔淡海木間攫〕。伊勢鈴鹿郡庄内村大字三畑鳩峯ハ亦此地方ニテノ池月出生地ナリ。【爪石】同郡椿村大字小社牧久保ニ駒爪石アリ。徑(ワタリ)三尺バカリノ圓石ニシテ中央ニ爪ノ痕ニ類スル者存ス。池月此村ニテ育成セラレシ時蹈立テタル跡ナリト云フ〔伊勢名勝志〕。【駒ノ淵】然ルニ程遠カラヌ河藝郡河曲(カハワ)村大字山邊内谷ニモ同ジ傳說アリ。駒ノ淵ト稱スル周圍五十間餘ノ低地ハ即チ是ニシテ、以前幕府ノ官吏巡視ノ折之ヲ承認シ、右大將源賴朝卿之逸馬生唼出生之地ト云フ標木ヲ建テタルコトアリト云フ〔同上所引勢陽雜記〕。平蕪遠ク連ナル河内ノ枚方(ヒラカタ)ノ如キ土地ニ於テモ、尙池月ハ此地ニ生レタリト云フ口碑アレバ〔越後名寄所引寺島長安說〕、神馬ハ誠ニ至ラザル所無キナリ。更ニ中國ニ在リテハ安藝山縣郡原村大字西宗ノ四滿津(シマヅ)ト云フ處ヨリ磨墨出デタリト稱ス〔藝藩通志〕。或ハ又之ヲ池月ナリトモ云フ。【駒繫松】此村淨土ノ勇ケ松ハ、池月ヲ此樹ニ繫ギタリトテ古ヨリ其名高ク、神木トシテ崇メラル〔大日本老樹名木誌〕。石見鹿足郡藏木村大字田野原ニ早馬池アリ。池月此邊ヨリ出ヅト稱ス。元來野馬ニシテ池水ヲ泳グコト陸行ノ如シ。故ニ池月ト稱スト云フ。此地ハ山中ノ別天地ニシテ總稱シテ俗ニ吉賀ト呼べリ。吉賀鄕モト馬無シ。古今唯三名馬ヲ產スルノミ。磨墨ハ亦其一ナリト傳フ〔吉賀記上〕。但シ池月ハ或ハ長門須佐ノ甲山ニ生ルト云フ一說アル由ニテ、吉賀ノ故老ハ此一頭ノミハ隣國ノ口碑ニ割讓スルノ意アリシガ如シ〔同上〕。須佐ハ長門ノ東北隅ニシテ石見ト境スル山村ナレバ、龍馬ガ來往シテ其本居ヲ定メ得ザリシモノトモ解スルヲ得ン。而モ長門ノ通說ニ於テハ池月ノ生レタリシハ豐浦郡ノ御崎山ニシテ懸離レタル西隅ノ海岸ナルノミナラズ、磨墨モ亦同ジ牧ノ產ナリト主張スルナリ〔大日本老樹名木誌〕。【馬影池】之ト同時ニ石見ノ邑智郡出羽(イヅハ)村大字出羽ニ於テモ、馬影池ト云フ池アリテ亦池月此池ヨリ出ヅト傳フ。出羽ノ池月ハ誠ノ龍ノ駒ニテ、常ニ我影ヲ池ノ水ニ映シ又其池ノ水ヲ飮メリ〔石見外記〕。隱岐島ニテハ周吉郡ノ東海岸津居(ツヰ)ト云フ里ニ、牡池牝池ノ二ツノ池アリ。池ノ深サハ測リ知リ難ク岸邊ノ石ハ墨ノ如ク黑シ。白馬池月ハ則チ此水中ヨリ現ハレタリトアリテ、池ノ北ニ今モ駄島ナド云フ地名アリ。駄島ノ駄ハ牝馬ノコトナルべシ。【海ト馬】此池月ハ飛ビテ島前ニ渡リ、ソレヨリ大海ヲ泳ギテ出雲ニ來リシヲ、浦人之ヲ捕ヘテ亦鎌倉殿ニ獻上ス〔隱岐視聽合記〕。出雲ニ於テハ今ノ八束郡美保關村大字雲津ニ正シク其遺蹟アリ。池月ガ隱岐ヨリ渡リ著キシ時ノ蹄ノ跡岩上ニ殘レル外ニ、又自然ニ馬ノ姿ノ現ハレタル奇巖モアリト云ヘリ〔出雲懷橘談上〕。但シ雲津ハ夙ニ彼島渡航ノ船津ナリケレバ、二處ノ口碑ガ響ノ如ク相應ズルモ、特ニ之ヲ奇トスルヲ要セザルナリ。

 

《訓読》

 飛驒國にては、池月は大野郡丹生川村(にぶかは)大字池俣(いけのまた)より出づと稱す〔「飛州志」〕。池俣は乘鞍嶽西麓の村なり。恐らくは亦、神聖なる池ありしよりの村の名か。乘鞍と云ふ山の名も、或いは又、馬の神と緣由(えんいう)ありしものならん。池月は又、近江より出でたりとの說あり〔「越後名寄」三十一〕。犬上(いぬかみ)郡東甲良(ひがしかふら)村大字池寺は、古くは河原莊(かはらのしやう)の内にして、大伽藍ありし地なり。名馬池月は、此の邊りに生る。池月は、即ち、「池寺月毛」を略したる名なり。而して磨墨は同じ國伊香(いか)郡の摺墨鄕(がう)に於いて生れたるが故に其の名あるなりと云へり〔「淡海木間攫(あふみこまざらへ)」〕。伊勢鈴鹿郡庄内村大字三畑鳩峯は亦、此の地方にての池月出生地なり。【爪石】同郡椿村大字小社(こやしろ)牧久保に「駒爪石」あり。徑(わたり)三尺ばかりの圓石(まるいし)にして、中央に爪の痕に類する者、存す。池月、此の村にて育成せられし時、蹈み立てたる跡なりと云ふ〔「伊勢名勝志」〕。【駒の淵】然るに、程遠からぬ河藝(かはげ)郡河曲(かはわ)村大字山邊内谷にも同じ傳說あり。駒の淵と稱する、周圍五十間[やぶちゃん注:約九十一メートル。]餘の低地は、即ち、是れにして、以前、幕府[やぶちゃん注:江戸幕府。家康が清和源氏(新田氏)を祖と謳い、「吾妻鏡」を愛読書としたことは頓に知られる。]の官吏、巡視の折り、之れを承認し、「右大將源賴朝卿逸馬生唼出生之地」と云ふ標木を建てたることありと云ふ〔同上所引「勢陽雜記」〕。平蕪(へいぶ)遠く連なる河内の枚方(ひらかた)のごとき土地に於いても、尙ほ、池月は此の地に生れたりと云ふ口碑あれば〔「越後名寄」所引・寺島長安說〕、神馬は誠に至らざる所無きなり。更に中國に在りては、安藝(あき)山縣郡原村大字西宗(にしむね)の四滿津(しまづ)と云ふ處より、磨墨、出でたりと稱す〔「藝藩通志」〕。或いは又、之れを、池月なりとも云ふ。【駒繫松】此の村淨土の「勇ケ松」、池月を此の樹に繫ぎたりとて、古へより、其の名、高く、神木として崇めらる〔「大日本老樹名木誌」〕。石見(いはみ)鹿足(かのあし)郡藏木村大字田野原に「早馬池」あり。池月、此の邊りより出づ、と稱す。元來、野馬にして、池水(いけみづ)を泳ぐこと、陸行(りくかう)のごとし。故に池月と稱すと云ふ。此の地は山中の別天地にして、總稱して俗に「吉賀(よしが)」と呼べり。吉賀鄕、もと、馬、無し。古今、唯だ、三名馬を產するのみ。磨墨は亦、其の一つなりと傳ふ〔「吉賀記」上〕。但し、池月は、或いは、長門須佐(すさ)の甲山に生ると云ふ一說ある由にて、吉賀の故老は此の一頭のみは、隣國の口碑に割讓するの意ありしがごとし〔同上〕。須佐は長門の東北隅にして石見と境する山村なれば、龍馬が來往して其の本居(ほんきよ)を定め得ざりしものとも解するを得ん。而も、長門の通說に於いては、池月の生れたりしは、豐浦郡の御崎山にして、懸け離れたる西隅の海岸なるのみならず、磨墨も亦、同じ牧の產なりと主張するなり〔「大日本老樹名木誌」〕。【馬影池】之れと同時に、石見の邑智(おふち)郡出羽(いづは)村大字出羽に於いても、「馬影池」と云ふ池アリテ、亦、池月、此の池より出づ、と傳ふ。出羽の池月は誠の龍の駒にて、常に我が影を池の水に映し、又、其の池の水を飮めり〔「石見外記」〕。隱岐島(おきのしま)にては、周吉(すき)郡の東海岸、津居(つゐ)と云ふ里に、「牡池」・「牝池」の二つの池あり。池の深さは、測り知り難く、岸邊の石は、墨のごとく黑し。白馬池月は、則ち、此の水中より現はれたりとありて、池の北に今も「駄島(だしま)」など云ふ地名あり。「駄島」の「駄」は「牝馬」のことなるべし。【海と馬】此の池月は、飛びて島前(とうぜん)に渡り、それより大海を泳ぎて出雲に來たりしを、浦人、之れを捕へて、亦、鎌倉殿に獻上す〔「隱岐視聽合記」〕。出雲に於いては、今の八束(やつか)郡美保關村大字雲津に正(まさ)しく其の遺蹟あり。池月が隱岐より渡り著きし時の蹄の跡、岩上に殘れる外に、又、自然に馬の姿の現はれたる奇巖もあり、と云へり〔「出雲懷橘談」上〕。但し、雲津は夙(つと)に彼(か)の島、渡航の船津(ふなづ)なりければ、二處の口碑が響(ひびき)のごとく相ひ應ずるも、特に之れを奇とするを要せざるなり。

[やぶちゃん注:「大野郡丹生川村(にぶかは)大字池俣(いけのまた)」現在の高山市丹生川町(にゅうかわちょう)池之俣(いけのまた)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「神聖なる池ありしよりの村の名か」上記地図を拡大して見ると、高い位置に「丹生池」、少し下がった位置に「土樋池」を見出すことは出来る。

「乘鞍と云ふ山の名も、或いは又、馬の神と緣由(えんいう)ありしものならん」ウィキの「乗鞍岳」によれば、『飛騨山脈(北アルプス)南部の長野県松本市と岐阜県高山市にまたがる剣ヶ峰(標高』三千二十六メートル『)を主峰とする山々の総称。山頂部のカルデラを構成する最高峰の剣ヶ峰、朝日岳などの』八『峰を含め、摩利支天岳、富士見岳など』二十三もの『峰があ』るとし、「山名の由来と変遷」に項には、延喜元(九〇一)年成立の歴史書「日本三代実録」(編者は藤原時平・菅原道真ら)の貞観一五(八七三)年の条に、『飛騨の国司の言葉』として、『大野郡愛宝山に三度』、『紫雲がたなびくの見た』、『との瑞兆を朝廷に言上した』とあり、この山は『「愛宝山(あぼうやま)」と呼ばれ』て、『その当時から霊山として崇拝されていた』。『平安時代から室町時代にかけて古歌で「位山」と呼ばれ』、正保二(一六四五)年頃には『乗鞍岳と呼ばれるようになったとされている』。文政一二(一八二九)年の「飛州誌」では、『「騎鞍ヶ嶽」と記されていた』。『飛騨側から眺めた山容が馬の鞍のように見えることから、「鞍ヶ嶺(鞍ヶ峰)」と呼ばれていた』とある。『日本には同名の乗鞍岳が複数あ』るが、一般に『「乗鞍」は馬の背に鞍を置いた山容に由来している』とされる。『信州では最初に朝日が当たる山であることから「朝日岳」と呼ばれていた』。『最高峰の剣ヶ峰の別称が、「権現岳」』。『魔王岳と摩利支天岳は円空が命名して開山したとされている』とある。因みに、池之俣直近の下方にある旗鉾伊太祁曽(はたほこいたきそ)神社(旗鉾はここの地名(高山市岐阜県丹生川町旗鉾)を単に冠したものだったようである)があり、サイト「大屋毘古神・五十猛命」(「おおやびこがみ」「いたけるのみこと」と読んでおく)の「伊太祁曽神社」には、その神社所有の素敵な円空作の男女神像の画像がある。

「犬上(いぬかみ)郡東甲良(ひがしかふら)村大字池寺」犬上郡甲良町(こうらちょう)池寺(いけでら)

「河原莊(かはらのしやう)」不詳。

「大伽藍ありし地なり」池寺の地名由来でもある(事実、広くない地域に現在も十余りの池塘が確認出来る)、同地区に現存する天台宗龍応山西明寺(さいみょうじ)のこと。金剛輪寺・百済寺とともに「湖東三山」の一つに数えられる名刹である。詳しくはウィキの「西明寺(滋賀県甲良町)」を参照されたい。

「伊香(いか)郡の摺墨鄕(がう)」湖北内陸の滋賀県長浜市余呉町(よごちょう)摺墨

「伊勢鈴鹿郡庄内村大字三畑鳩峯」三重県鈴鹿市三畑町と思われるが、「鳩峯」は見当たらない。

「同郡椿村大字小社(こやしろ)牧久保」三重県鈴鹿市小社町(小社町)(周縁(特に町外の北)に「椿」を冠する施設多し)と思われるが、「牧久保」は見当たらない。

「河藝(かはげ)郡河曲(かはわ)村大字山邊内谷」三重県鈴鹿市山辺町かと思われるが、内谷は見当たらない。

「安藝(あき)山縣郡原村大字西宗(にしむね)の四滿津(しまづ)」広島県山県郡北広島町西宗と思われるが、「四滿津(しまづ)」『此の村淨土の「勇ケ松」』は孰れも見当たらない。但し、引用元の「大日本老樹名木誌」のこちら(国立国会図書館デジタルコレクション。左ページ上段頭)には確かにそう書かれてある。

『石見(いはみ)鹿足(かのあし)郡藏木村大字田野原に「早馬池」あり』以下のこの周辺域の名馬輩出は既出既注島根県鹿足郡吉賀町田野原。吉賀町内の東方端。殆んどが山岳で、深い渓谷を成す。可能性としては、南の端の方の高津川沿いにある一本杉神社、及び、そこに附帯する施設「吉賀町水源会館」附近か。池は確かにある。

「長門須佐(すさ)の甲山」山口県萩市須佐と思われるが、「甲山」は見当たらない。

「豐浦郡の御崎山」「懸け離れたる西隅の海岸」と云う表現からは、山口県下関市吉母(よしも)にある小倉ヶ辻、通称「吉母富士(よしもふじ)」(標高三百八・六メートル)か。しかし、御崎山という別称は現在見られない。この東直近の岬は本州最西端の地である「毘沙ノ鼻」である。別にずっと北の山口県下関市豊北町大字神田上に御崎神社があるが、周辺に有意なピークが見当たらない(東直近の堂山は標高百三十五・一メートル。国土地理院図)。そもそもがこれ、「大日本老樹名木誌」のどこに乗ってるのか、判らなかった。

『石見の邑智(おふち)郡出羽(いづは)村大字出羽に於いても、「馬影池」と云ふ池あり』島根県邑智郡邑南町(おおなんちょう)出羽(いずわ)

『隱岐島(おきのしま)にては、周吉(すき)郡の東海岸、津居(つゐ)と云ふ里に、「牡池」・「牝池」の二つの池あり』現行では「男池」・「女池」とし、合わせて「津井(さい)の池」と呼ぶ以下の場所である(グーグル・マップ・データ国土地理院図)。八年前、隠岐に旅した際、行きたいと思いながら、足の悪い妻を連れては行けそうになかったので、行きそびれた場所である。何故、行きたかったか? 小泉八雲がこの話に触れているからである。『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (十七)』の本文(原文附き)と私のかなり詳細な注を見られたい。それで、ここに注する必要はなくなるからである。今回、サイト「京見屋分店」の「津井の池~サイノイケ~探訪」(男池探訪とそこにあった奇体な石等の画像複数有り)及びその続編「津井の池伝説」を見つけたので、是非、見られたい。

『「駄島(だしま)」など云ふ地名あり』現認出来ず。

『「駄島」の「駄」は「牝馬」のことなるべし』何故、柳田國男はわざわざこんなことを言っているのか? まさか、「駄馬」だから♀なんて考えじゃないよね? 「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 馬(むま)(ウマ)」を参照されたいが、「駄馬」の用法は正当ではなく、「駄」は荷を背負う耐久力のある馬の謂いである。

「島前(とうぜん)」隠岐島という島があると思っている人が多いが、これは隠岐諸島の総称であり、「島前」(「島前三島」と呼ばれる「知夫里島」(知夫(ちぶり)村)・「中ノ島」(海士(あま)町)・西ノ島(西ノ島町)から構成される群島である)に対し、「島後」は「島前三島」から東の「島後水道」を隔てた「島後」(隠岐の島町)の一島から構成される。主な島はこの四島であるが、付属の小島は約百八十を数え、それらを纏めて「隠岐島」と呼ぶのである。

「八束(やつか)郡美保關村大字雲津」島根県松江市美保関町雲津。]

新涼三景 伊良子清白

 

新涼三景

 

 

  都 市

 

秋が走るよ

町々を

をとこをんなの

秋の脚

舖道(ほだう)のしめり

暑うても

秋の日射しは

花やかに

深山の奧の

生栗(なまぐり)が

靑い八百屋で

ゑみ割れる

無花果(いちじゆく)、葡萄

秋の實(みの)り

人の稔(みの)りの

秋の裝ひ

時が流れる

なめらかに

銀器(ぎんき)の

手ざはり

夕冷えに

月の片割れ

一つは空に

のこる一つは

ふところに

涼しや涼しや

 

 

  漁 村

 

とぶよ若鯔(わかいな)

  火のやうに

走る秋雲

  風や吹く

ただならぬ空の

  けしきとて

船はみだるる

  をちこちに

沖の朝日の

  鈍(にび)いろよ

 

 

  農 村

 

暑いとて、あついとて

  畠(はた)のとうもろこし

     毛があついとて

  星のふる夜は

     露もふる

  露にぶたれて

     玉蜀黍(とうもろこし)の

  赤い毛並(けなみ)が

     よれよれに

 

[やぶちゃん注:昭和五(一九三〇)年六月九日発行のアンソロジー「一九三〇年詩集」(詩人協会編アルス刊)に先の「ここは雲の路」及び後の「近代女性の顏」とともに掲載。「とうもろこし」のルビはママ。署名は「伊良子清白」。

「若鯔(わかいな)」出世魚として知られる条鰭綱ボラ目ボラ科ボラ属ボラ Mugil cephalus の比較的成長した若魚(通常成体の「ボラ」(体長五十センチメートル前後)の前段階)の呼称。地域によって多少異なるが、概ね十八センチメートルから三十センチメートルほどまでのものを指すことが多い。]

ここは雲の路 伊良子清白

 

ここは雲の路

 

ここは雲の路

   神の路

人は通らぬ

   巖のみち

けんけん小雉子が

   雲で啼く

雉子は白雉子

   神の鳥

山々越えて

   火を鑽(き)りに

 

[やぶちゃん注:昭和五(一九三〇)年六月九日発行のアンソロジー「一九三〇年詩集」(詩人協会編アルス刊)に以下の「新涼三景」「近代女性の顏」とともに掲載。署名は「伊良子清白」。本篇は伊勢神宮などの「鑽火神事(きりびのしんじ)」などの具体なそれと結びつけて読む必要は全くないと思われる。民俗社会の古代宗教幻想と読む方が遙かに胸に落ちる。]

志摩の神島 伊良子清白

 

志摩の神島

 

志摩(しま)の神島(かみしま)

    岩山で

冬涸(が)れ米硏ぐ

    水もない

をとこをんなの

    餅搗は

水の涸れたる

    岩山で

水はなうても

    餅は搗く

空臼(からうす)搗くのか

    かんからかん

 註 神島、伊勢灣口の小島、全島巖石を以

  て成り水利最も乏し。冬天降雨なきとき

  は岸の伊良子より水を搬入すといふ。

 

[やぶちゃん注:昭和五(一九三〇)年四月一日発行の『民謠音樂』(第二巻第四号)に掲載。署名は「伊良子清白」。

「神島」伊勢湾口の中央部やや渥美半島の伊良湖(いらご)岬寄りに位置する三重県鳥羽市神島町(ちょう)神島。周囲三・九キロメートル、面積〇・七六平方キロメートル。後の三島由紀夫の「潮騒」の舞台になったことで知られる(但し、作中の島名は神島の古名「歌島(うたじま)」)。現在の人口は三百人ほどで過疎化が進んでいる。参照したウィキの「神島」によれば、『古くは、歌島(かじま)、亀島、甕島などと呼ばれた。神島の名が示すように、神の支配する島と信じられていた。後に八大龍王を祭神として八代神社(やつしろじんじゃ)が設けられた。神社には、古墳時代から室町時代にわたる総数百余点の神宝が秘蔵されている。各種の鏡(唐式鏡、和鏡)や陶磁器などである』。『鳥羽藩の流刑地であったため、志摩八丈と呼ばれたこともあった』とあり、『かつては水を島内の』二『か所の小さなため池と井戸のみに頼っており、水不足にたびたび悩まされた』昭和五四(一九七九)年になって、やっと『鳥羽市より送水されるようになったが、本土の鳥羽市内も頻繁に水不足に悩まされる地域であったことから、鳥羽市とともに神島を含む離島も』、『また』、一九九二年四月より「南勢志摩水道用水供給事業」によって三重県松阪市飯高(いいたか)町の蓮(はちす)ダムから『給水を受けている。蓮ダムからの安定した給水により、水洗トイレ普及率が』百%に『なるなど』、『島民の生活の質が大幅に改善された。しかし』、二〇〇七年十月には、『船舶の投錨を原因とする海底送水管の破損により』、『島全体が断水する事態に陥った』りもしたとある。]

農村迎年歌 伊良子清白

 

農村迎年歌

 

水は雲出川(くもづ)の

砂さへ澱(よど)む

天(てん)の惠は

ふる白露(しらつゆ)か

反に九俵取り

名も豐田(とよだ)村

米は白玉

粒(つぶ)ぞろひ

米が光れば

田が光る

ほめて踊つて

働いた

田植稻苅り

籾挽(もみひき)すんで

四方(はう)米倉(こめぐら)

俵の山よ

明けりや正月

朝日がてらす

雪がつもつて

お宮よ

お城よ

 註 雲出川、南北伊勢を兩分する大河。

  豐田村、美田豐沃を以て鳴る農村。

 

[やぶちゃん注:昭和五(一九三〇)年三月一日発行の『民謠音樂』(第二巻第三号)に掲載。署名は「伊良子清白」。

「雲出川」奈良県との県境に位置する三峰山(みうねやま標高千二百三十五・二メートル)に源を発し、伊勢湾に注ぐ雲出川(くもずがわ)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。中央下部に三峰山を配した。

「豐田村」は明治二二(一八八九)年の町村制施行によって新屋庄村・川原木造村・川北村・須賀村・権現前村・小村の区域を以って成立している(ウィキの「豊田町(三重県)に拠る)。現在の松阪市嬉野町(うれしのちょう)の東端北部の、名松線権現前駅の北東一帯、この中央部の雲津川右岸広域に当たる。少し拡大すると、「嬉野新屋庄町(にわのしょうちょう)」・「嬉野川原木造(かわらこづくり)町」・「嬉野川北(かわぎた)町」(雲津川の南の中央部なので注意)・「嬉野須賀(すか)町」・「嬉野権現前町」・「嬉野小村(こむら)町」の総ての旧村名を含んだ現住地名を総て現認出来るのが嬉しい。]

伊良子清白の二つの文章を以前の記事の間に遡及挿入させた

今朝、先日、挟もうと思って、うっかり忘れてしまっていた、

詩集「孔雀船」の再版版(昭和四(一九二九)年四月十日発行の梓書房版)に附された、伊良子清白の「小序」

昭和四(一九二九)年十一月十五日新潮社刊の「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に附された「伊良子淸白自傳」

の二つの文章を、未収録詩篇の年次系列に合わせて、特異的に操作して、これより前の位置に挿入した。特に前者の短文は、痛烈にして悲愴とも言える。

2019/06/15

魳子曳き 伊良子清白

 

魳子曳き

 

いばら背負(しよ)やこそ

女房はなげく

裸百貫荒灘稼ぎ

酒の負債(おいめ)が

海まで責(は)たる

雪のふる日に

魳子(こなご)曳き

 註 魳子(こなご)は魳(かます)の幼魚、

 荒天風雪の日に漁獲するを利とす。海上網を

 投じ急遽之を曳く、ために往々漁船の顚覆す

 ることあり。

 

[やぶちゃん注:昭和五(一九三〇)年三月一日発行の『民謠音樂』(第二巻第三号)に掲載。署名は「伊良子清白」。

「魳子」「こなご」「魳(かます)の幼魚」条鰭綱スズキ目イカナゴ亜目イカナゴ科イカナゴ属イカナゴ Ammodytes personatus の幼魚の異名の一つ。ウィキの「イカナゴ」によれば、『様々な地方名があり、稚魚は東日本で「コウナゴ(小女子)」』(無論、私もこれで認識している)、『西日本で「シンコ(新子)」。成長したものは北海道で「オオナゴ(大女子)」、東北で「メロウド(女郎人)」、西日本では「フルセ (古背)」、「カマスゴ(加末須古)」、「カナギ(金釘)」などと呼ばれる。イワシなどと並んで沿岸における食物連鎖の底辺を支える重要な魚種である。季語、晩春』。『北半球の寒帯域から温帯域を中心に熱帯域まで、世界中に』五属十八種が分布し、沿岸の粒径〇・五から二ミリメートルの』『砂泥底に生息し、主にプランクトンを餌としている』。『日本産イカナゴは移動性が小さく』、『各地に固有の系統群が存在している』。『北方系の魚であるため』、『温暖な水域では夏には砂に潜って』、『夏眠を行う』。『水深』十~三十メートルの『砂底に粘着質の卵を産卵する。産卵期は冬(』十二『月)から翌年春(』五『月)で』、『寒冷な水域ほど』、『遅くなる』。一歳で十センチメートル『程度まで成長し、成熟』し、三年から四年で二十センチメートル『程度まで成長する』。『日本では沿岸漁業の重要な位置にあり、集魚灯を用いた敷網漁や定置網漁、船曳網により捕獲され、生食や加工用のほか養殖用飼料としても利用される。しかし、乱獲や生息環境の悪化および海砂の採集による生育適地の破壊』『により、日本各地で漁獲量は激減している。伊勢湾や瀬戸内海では年ごとに生育度合いや推定資源量を調査し』、『その年の漁獲量を決定している』。『特に、瀬戸内海では夏眠に適した粒度分布の海砂がコンクリートの骨材にも適していたため』、『夏眠水域の海砂が建設資材として大量に採取され、多くの漁場は壊滅的被害を受けた』。伊勢湾では、現在、冬季に資源調査を行って、春の漁獲実施の可否を判断しているが、二〇一六年及び二〇一七年には、前年末から二月にかけて行われた資源調査の結果、稚魚の捕獲数が著しく少なかったため、愛知県及び三重県では禁漁となっている。『兵庫県淡路島や播磨地区から阪神地区にかけての瀬戸内海東部沿岸部(播磨灘・大阪湾)では』、『イカナゴは』「いかなごの釘煮」という郷土料理として『親しまれている。佃煮の一種で、水揚げされたイカナゴの幼魚(新子)を平釜で醤油やみりん、砂糖、生姜などで水分がなくなるまで煮込む。この際、箸などでかき混ぜると身が崩れ、団子状に固まってしまうため』、『一切』、『かき混ぜない。炊き上がったイカナゴの幼魚は茶色く曲がっており、その姿が錆びた釘に見えることから』、『「釘煮」と呼ばれるようになったとする説が有力である。「くぎ煮」は神戸市長田区の珍味メーカーである株式会社』「伍魚福(ごぎょふく)」の『登録商標である』。『解禁と同時に水揚げされた』二センチメートル『ほどのいかなごの幼魚は、鮮度が落ちないよう』、『収穫後』、『ただちに釜揚げにされ、店頭に並ぶ。これを』「新子」又は「新子ちりめん」と『呼ぶ。釜茹でした後に乾燥させたものは』「カナギ(小女子)ちりめん」と『呼ばれる。これより大きいもの、およそ』四~五センチメートルの『大きさのものを釜茹でしたものは』「カマスゴ」と『呼ばれ、そのまま酢醤油やからし酢味噌で食べる。この際、一度炙ると香ばしさが出ておいしくなる』。『阪神地区、播磨地区では』、『春先になると』、『各家庭でイカナゴの幼魚を炊く光景が見られる。また』、『毎年』三『月末頃、出荷された釘煮が阪神地区、播磨地区のスーパーに山積みされるようになると、春の訪れとして消費が盛り上がる。明石海峡大橋のたもとにある淡路サービスエリアやJR新神戸駅・新大阪駅、神戸空港、大阪国際空港、関西国際空港などの土産物店でもイカナゴの釘煮は販売されており、生姜味のほか』、『山椒味、唐辛子味のものもみられる』。『なお、近畿地方のなかでも、前述の地域を除く他の地域ではイカナゴの釘煮は』、『あまり食されない。例えば』、『京都市では』、『いかなごの釘煮よりもちりめん山椒が主流である。年配者の中にはイカナゴ自体を下魚として嫌う傾向も散見される。また、前述の通り、一般にいかなごのくぎ煮は、幼魚である新子を調理したものであるが、淡路島などでは成魚であるフルセを調理する地域もある。フルセを調理したものはくぎ煮と明確に区別するため、佃煮の名称で扱われる』とある。いつもお世話になっている「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」の「イカナゴ」もリンクさせておく。「漢字・学名由来」の「語源」パートの、『「いかり魚=カマス」の幼魚の意味。地方の呼び名に「かます子」とあるのと同じ。「いかり」とは「いかる=とがる」の意味で』、『栗の毬(いが)と同義語』。『イカナゴの小さいものが、いかなる魚の子であるかわからないため、「如何子」の意味』ともあり、さらに『〈い〉は語声強調の接頭語、〈かな〉は古語で糸のように方添いもの、〈ご〉は接尾語』とあって、まさにまさに眼から「鱗」!

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(36) 「池月・磨墨・太夫黑」(3)

 

《原文》

 武藏ニハ固ヨリ池月・磨墨ノ遺蹟ト云フモノ甚ダ多シ。就中西多摩郡調布村大字駒木野ノ傳說ニ於テハ、亦池月此國ニ產セシコトヲ主張スルナリ。其說ニ依レバ駒木野ハ古クハ駒絹ト書ケリ。【池田】源平ノ頃ニ村ヨリ西ニ當ツテ多摩川ノ北岸、今ノ三田村大字澤井ノ地ニ池田ト云フ沼アリ。【駒牽澤】或日此沼ノ邊ヨリ一頭ノ駒飛出シ、今ノ吉野村大字日影和田ト同村大字畑中トノ境ナル駒牽澤ト云フ處ヲ過ギテ、駒木野ノ里マデ馳セ來リシヲ、村民等網ヲ以テ奔馬ニ蔽ヒ掛ケテ終ニ之ヲ捕ヘ、亦鎌倉將軍家ニ獻上ス。後ニ高名ノ駿足池月ト聞エタルハ即チ此馬ノコトナリ〔新編武藏風土記稿〕。一匹ノ素絹ヲ引カセテ末ガ地ニ落チヌ程ニ奔セタリト云フ駿馬ノ話ハヨク之ヲ聞ク、ソレヲ思ヒ出サシムべキ昔物語ナリ。伊豆ノ田方郡弦卷山ノ中腹ニモ池月磨墨ヲ野飼ニ育テタル話アリ。磨墨此山ニ在リテ高ク嘶ケバ、池月ハ丹那村ノ山ヨリ遙カニ聲ヲ合セタリト云フ。【駒形神】弦卷山ノ山中ニハ其跡トシテ駒形ノ地名アリ、且ツソコニハ駒形神ヲ祀レリ。祠ノ傍ニ別ニ一箇ノ立石アリテ衣冠騎馬ノ神像ヲ刻スト云ヘバ〔日本山嶽志〕、即チ前ニ擧ゲタル輕井澤ノ駒形權現ト同ジ物ナランカ。駿河ハ普通ニ磨墨終焉ノ地トシテ認メラルヽガ、猶其西郡ニハ彼ガ生レタリト云フ家アリ。即チ安倍郡大川村大字栃澤ノ舊家米澤氏ニテハ、磨墨ハ此家ノ厩ニ產レタリト傳ヘ、厩ノ地ナリト云フ大岩ノ上ニ、【姥强力】蹄ノ跡及ビ其駒ヲ育テシト云フ老女ノ下駄ノ齒ノ跡殘レリ。此村ニハ更ニ一箇ノ奇巖ノ面ニ無數ノ馬蹄ノ痕ヲ印スルモノアリテ、里人之ヲ崇拜ス〔駿國雜志二十五〕。一說ニ栃澤村ノ民五郞左衞門ガ厩ニ池月ハ生レタリト云フハ、同ジ家ノ事ニシテ名馬ノ名ノミ何レカ誤聞ナルべシ。此家ハ又昔名僧聖一國師ヲ產シタリ。【明星】元亨釋書ノ傳記ニ、國師ノ母手ヲ擧ゲテ明星ヲ採ルト夢ミテ孕ムトアルハ因緣ナキニシモアラズ〔遊囊賸記〕。尙此ヨリ遠カラザル久須美ト云フ村ニモ、磨墨ノ生地ト稱シテ蹄ノ跡ヲ印シタル石アリト云フ〔駿國雜志同上〕。

 

《訓読》

 武藏には、固より、池月・磨墨の遺蹟と云ふもの、甚だ多し。就中、西多摩郡調布村大字駒木野の傳說に於いては、亦、池月、此の國に產せしことを主張するなり。其の說に依れば、駒木野は古くは「駒絹」と書けり。【池田】源平の頃に、村より西に當つて、多摩川の北岸、今の三田村大字澤井の地に「池田」と云ふ沼あり。【駒牽澤】或る日、此の沼の邊りより、一頭の駒、飛び出だし、今の吉野村大字日影和田と、同村大字畑中との境なる「駒牽澤」と云ふ處を過ぎて、駒木野の里まで馳せ來たりしを、村民等、網を以つて奔馬に蔽ひ掛けて、終に之れを捕へ、亦、鎌倉將軍家に獻上す。後に高名の駿足池月と聞えたるは、即ち、此の馬のことなり〔「新編武藏風土記稿」〕。一匹の素絹(そけん)を引かせて、末が地に落ちぬ程に奔(は)せたりと云ふ駿馬の話は、よく之れを聞く、それを思ひ出ださしむべき昔物語なり。伊豆の田方郡弦卷山の中腹にも、池月・磨墨を野飼に育てたる話あり。磨墨、此の山に在りて高く嘶けば、池月は丹那村の山より遙かに聲を合はせたりと云ふ。【駒形神】弦卷山の山中、其の跡として「駒形」の地名あり、且つ、そこには駒形神を祀れり。祠の傍らに、別に一箇の立石ありて、衣冠騎馬の神像を刻すと云へば〔「日本山嶽志」〕、即ち前に擧げたる輕井澤の駒形權現と同じ物ならんか。駿河は普通に磨墨終焉の地として認めらるくゝが、猶ほ、其の西郡には彼が生れたりと云ふ家あり。即ち、安倍郡大川村大字栃澤の舊家米澤氏にては、磨墨は此の家の厩に產れたりと傳へ、厩の地なりと云ふ大岩の上に、【姥强力(うばがうりき)】蹄の跡及び其の駒を育てしと云ふ老女の下駄の齒の跡、殘れり。此の村には、更に一箇の奇巖の面に無數の馬蹄の痕を印するものありて、里人、之れを崇拜す〔「駿國雜志」二十五〕。一說に栃澤村の民、五郞左衞門が厩に池月は生れたりと云ふは、同じ家の事にして、名馬の名のみ何れか誤聞なるべし。此の家は又、昔、名僧聖一(しやういち)國師を產したり。【明星】「元亨釋書」の傳記に、國師の母、手を擧げて明星を採ると夢みて孕むとあるは、因緣なきにしもあらず〔「遊囊賸記(いふなうしやうき)」〕。尙ほ、此(ここ)より遠からざる久須美と云ふ村にも、磨墨の生地と稱して、蹄の跡を印したる石ありと云ふ〔「駿國雜志」同上〕。

[やぶちゃん注:「西多摩郡調布村大字駒木野」現在の東京都八王子市裏高尾町のこの附近であろう(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。高尾駒木野庭園などの名にそれが残る。【公開同日夕刻:削除・追記】何時もお世話になっているT氏より、これは多摩川の右岸にある現在の東京都青梅市駒木町であると御指摘を受けた。同氏によれば、「西多摩郡調布村大字駒木野」は明治二二(一八九八九)年四月一日の町村制施行により、下長淵村・上長淵村・駒木野村・友田村・千ヶ瀬村・河辺村が合併し、神奈川県西多摩郡調布村が成立、昭和二六(一九五一)年四月一日に青梅町・霞村との合併により、「青梅市」が発足して「調布村」は消滅している。確かに、この位置だと、以下の柳田國男の言う「西」が適合する。全くの私の錯誤であった。T氏に感謝申し上げる。

「三田村大字澤井」多摩川の北岸にある東京都青梅市沢井と思われる(上記旧駒木野から直線で約六キロメートルほど西北の多摩川上流)【前記追記により同日夕刻改稿】

『「池田」と云ふ沼』沢井地区には現認出来ない。

「素絹(そけん)」練っていない生糸で作った粗悪な絹布のこと。

「伊豆の田方郡弦卷山」以下も合わせて、前に出た「此の火山の南側、伊豆の輕井澤を下(くだ)りに赴けば、路の右なる松の中に、駒方權現の社あり」の注で詳細に考証済み。私はここと推定した(国土地理院図)。

「安倍郡大川村大字栃澤」静岡県静岡市葵区栃沢ウィキの「磨墨塚」に、伝承の各項の一つとして静岡県静岡市葵区大間の「福養(ふくよう)の滝」(栃沢の北北西七キロメートル)を挙げ、『大間の部落は、静岡西部を流れる藁科川の水源付近。昔、毎年』五月五日『の午前十時頃になると』、一『頭の馬が福養の滝の滝つぼにつかり』、『毛並みを整えていたという。後に米沢家で飼われて駿馬「磨墨」となった。これに因んで、この滝は「お馬が滝」と呼ばれるようになった』とあり、また、『福養の滝は別名「御馬の滝」あるいは「磨墨の滝」とも呼ばれた。名馬「磨墨」は、実は藁科の里「栃澤」の生まれということに由来する。また、福養の滝は、古来から「雨乞の滝」としても有名で、智者山神社の信仰と深い関係がある』とあった。

「厩の地なりと云ふ大岩の上に、【姥强力(うばがうりき)】蹄の跡及び其の駒を育てしと云ふ老女の下駄の齒の跡、殘れり。此の村には、更に一箇の奇巖の面に無數の馬蹄の痕を印するものありて、里人、之れを崇拜す」ネット検索では掛からない。孰れも現存しないか。

「聖一(しやういち)國師」鎌倉中期の臨済僧円爾(えんに 建仁二(一二〇二)年~弘安三(一二八〇)年)の諡号(しごう)。ウィキの「円爾」によれば、駿河国安倍郡栃沢(現在の静岡市葵区栃沢)に生まれる。『幼時より久能山久能寺』(静岡県静岡市清水区にある臨済宗補陀落山鉄舟寺の前身。当時は天台宗)で十八『歳で得度(園城寺にて落髪し、東大寺で受戒』『)し、上野国長楽寺の栄朝、次いで鎌倉寿福寺の行勇に師事して臨済禅を学』んだ。嘉禎元(一二三五)年、『宋に渡航して無準師範の法を嗣いだ。法諱は初め弁円と称し、円爾は房号であったが、後に房号の円爾を法諱とした』。仁治二(一二四一)年、『宋から日本へ帰国後、上陸地の博多にて承天寺を開山、のち』、『上洛して東福寺を開山する。宮中にて禅を講じ、臨済宗の流布に力を尽くした。その宗風は純一な禅でなく禅密兼修で、臨済宗を諸宗の根本とするものの、禅のみを説くことなく』、『真言・天台とまじって禅宗を広めた。このため、東大寺大勧進職に就くなど、臨済宗以外の宗派でも活躍し、信望を得た』。『晩年は故郷の駿河国に戻り、母親の実家近くの蕨野に医王山回春院を開き』、『禅宗の流布を行った。また、宋から持ち帰った茶の実を植えさせ、茶の栽培も広めたことから静岡茶(本山茶)の始祖とも称される。墓所ともなった「医王山回春院」の名は茶の持つ不老長寿の効能をうたったものと伝えられる』。『なお、静岡市では、円爾の誕生日(新暦)である』十一月一日『を「静岡市お茶の日」に制定し、茶業振興のPRに努めている』。『没後の』応長元(一三一一)年、『花園天皇から「聖一」の国師号が贈られた』。因みに、『博多の勇壮な夏祭りである博多祇園山笠は、円爾が起源とされ』、『疫病が流行していた博多で、円爾が博多町人に担がれた施餓鬼棚の上に乗り、水を撒きながら疫病退散を祈祷したのが山笠の始まりとされ、今日ではこの時を山笠の歴史の始まりとしている。櫛田神社のお祭りである山笠が承天寺前をコースとし、各舁き山が櫛田神社のみならず承天寺にも奉納するのはこうした歴史的経緯があるため』ともある。

「元亨釋書」は日本初の仏教通史で全三十巻。その著者である臨済僧虎関師錬(こかんしれん 弘安元(一二七八)年~興国七/貞和二(一三四六)年)は円爾の孫弟子である。但し、私の持つ同書の電子データでは、ここに出るとする逸話が見当たらない。]

譚海 卷之三 水戶中納言殿の事

 

水戶中納言殿の事

○水戶中納言光圀卿、經濟に達し給ひし事は、世に知る所也。有職儒臣に命ぜられて、撰述の物若干也。中に就て禮儀類典といふものは、好古の第一のものなり。本朝古禮車服等の制に至るまで、殘りなく集られ、二首卷餘に及べりとぞ。其中書面にて別れがたきものは、皆雛形にせられて、衣服の紋織物などは、其絹をそのまゝ少しづつあつめ、古代の塗物の色あひは板を少しばかりづつそのまゝにぬりて、其うるしの色あいを傳へ、古器の見合(みあはせ)になる樣にしてあり。圖籍(ずせき/とせき)ひながたぬりものの類、併(あはせ)て唐櫃に二舁(ふたかき)有、公儀へも一通進獻せられて、今紅葉山の書庫に納めありといへり。又大日本史と云もの撰述有、大部にて板行(はんぎやう)に成(なし)がたき故、書寫にて藏書有、今に於て筆耕の者日々書寫する事なり。その家中の二男已下を皆水戶の學校の彰考館に召れ、筆耕の役を勤させられ、筆耕料二人扶持づつ賜る事なりとぞ。

[やぶちゃん注:目録では標題は次と続けて「水戶中納言殿 柳澤吉保朝臣の事」となっているが、かく示した。

「水戸中納言光圀」水戸藩第二代藩主水戸(德川)光圀(寛永五(一六二八)年~元禄一三(一七〇一)年。初代頼房と側室久子の子。同母兄の頼重が病身であったため、六歳の時に継嗣となり、九歳で元服、寛文元(一六六一)年、父の死によって藩主となった。この間、放蕩無頼の行動が多かったが、十八歳の時、「史記」「列伝」巻頭の「伯夷伝」を読んで感激し、学問に志すとともに、兄弟の序を尊び、のちに頼重(讃岐国高松藩主)の子綱条を養子として、藩主の地位を譲った。頼房の方針を継承して、藩政の整備に努め、水戸城下への上水道(笠原水道)を創設したりした。特に注目されるのは文教政策であって、明暦三(一六五七)年から「大日本史」(神武天皇から後小松天皇(在位:永徳二(一三八二)年~応永一九(一四一二)年)まで(厳密には南北朝が統一された元中九/明徳三(一三九二)年までを区切りとする)の百代の帝王の治世を扱った紀伝体の史書。本紀(帝王)七十三巻、列伝(后妃・皇子・皇女を最初に置き、群臣はほぼ年代順に配列、時に逆臣伝・孝子伝といった分類も見られる)百七十巻、志・表百五十四巻、全三百九十七巻二百二十六冊と目録五巻に亙る。携わった学者たちは「水戸学派」と呼ばれた)の編纂に着手し、寛文一二(一六七二)年には「史局」を開設して「彰考館」と命名した。本書は、漢文の紀伝体による本格的な日本の通史で、光圀が藩の財政支出の三分の一を費やしたと伝えられるのは過大としても、完成するのに明治三九(一九〇六)年までかかった大事業であった。このため、多くの学者を登用し、また、家臣を京都などへ派遣して、史料の収集に努めた。さらにこれと並行して、「礼儀類典」(朝廷の恒例・臨時の朝儀・公事に関する記事を抽出・分類して部類分けした書。目録一巻、恒例二百三十巻、臨時二百八十巻、附図三巻の計五百十四巻)などの編纂を進め、また、「万葉集」の注釈を計画して、大坂の国学者契沖(近世最初の本格的「万葉集」訓読法で知られる)に依頼し、光圀の援助により、「万葉代匠記」の完成をみた。光圀の学問は、朱子学を基本とし、「大日本史」の構想にも、その立場から歴史上の人物に対し、道徳的評価を明確にしようとする意図があった。その朱子学の立場から、仏教に対しては極めてきびしく、領内の寺院を整理して、ほぼ半数を破却させた。元禄三(一六九〇)年に退隠し、翌日、権中納言に叙任された。在職中に昇任されなかったのは、時の将軍徳川綱吉との不和によると推測される。綱吉の「生類憐み令」などに対して光圀は批判的態度を示していたことはよく知られる。退隠後は、久慈郡太田に近い西山荘に住み、文事に専念したが、元禄七年に家老藤井紋大夫を手討ちにしたのは、その性格の激烈であったことを物語る。黄門(中納言の唐名)の漫遊記は、明治時代の創作で、事実ではない。諡は義公(以上は主文を「「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。彼は延宝元(一六七三)年の藩主就任から五回目の江戸出府に際して、通常の経路を採らず、上総から船で鎌倉に渡り、江戸へ向かうという迂遠な経路を辿って漫遊し、鎌倉では英勝寺を拠点として名所名跡を訪ね、この旅の記録を翌年、「鎌倉日記」という記録として纏めたが、それでは飽きたらず、これを元に貞享二(一六八五)年に河井恒久らに実務担当をさせて、地誌「新編鎌倉志」全八巻を作っている。私はオリジナル注釈を附した「新編鎌倉志」全巻の電子化をサイト内で遠い昔に完成し、原型の「鎌倉日記」もブログで電子化注を終えている。知らない人があまりに多いので言っておくと、「水戸黄門さま」は生涯に旅をしたのは、この鎌倉遊覧の一度だけなのである。さらに先の引用にも出てくるが、この旅の途中、金沢八景附近では仏像を損壊破棄したり、やりたい放題のことをしている、トンデモ爺さんなんである。

「車服」朝廷・公家の乗り物や服制。

「別れがたきもの」「わかれ」と読むしかないが、要するに判り難きもの、文面で認識することが難しいものの謂いである。

「圖籍」絵図と図書。

「見合(みあはせ)になる樣にしてあり」文章(或いは現行の器)と比較対照することが出来るようにしてある。

「紅葉山」前回、既出既注。]

譚海 卷之三 田安中納言殿樂堪能

 

田安中納言殿樂堪能

○田安中納言殿は、風流好(ごのみ)古人に超(こえ)させ給へり。音樂は殊に好(このま)せ給ふ餘りに、天下の禁書を集め折衷し給ひて、中古斷絕の舞樂までも悉く興しをこなひ給ふ。その再興の舞樂を一書に集成有て、紅葉山の伶人多(おほ)氏に給はり、今その家につたへてあり。伶家にも此御事をば樂(がく)の聖(せい)成(なる)べしと沙汰しあへる程の事也。攝家より簾中嫁取ののち、その女房にみな音樂を教へ傳へさせましまして、時々女樂(ぢよがく)の合奏有。又西陣の織屋の女を召下(めしくだ)し、邸中にて織物をおらせ、堀川の染物する女をも召れて、機(はた)の模樣このみ染(そめ)させ給ひ、京都の女工をそのまゝ江戸にて調じさせ給へり。深川の屋敷に時々をはしまして、手ぬぐひを戴き、木綿の浴衣など着たまひ、下種(げす)のわざをもせさせ給ふとぞ、其處(そこ)もさながら田舍の住居の如く、ゐろりに燒火(たくひ)し手自(てづから)茶などをもせんじめされけるとぞ。和歌は萬葉の風を好みよみ給へり、岡部衞士(ゑじ)と云もの萬葉を執し、その注解の新意を著(あらは)せしも新たに出來たり。此等をも殊に寵し給ひて、衞士を大和廻りに遺し給ひ、往古名所の分明ならざるをも多く糺させ給へり。又猿樂の觀世流の謠の章の說を正し、詞をも直し改(あらため)させ給へり。高砂の能のあひの狂言のことばなどは、全く此卿の御作也とぞ。

[やぶちゃん注:「田安中納言」田安(徳川)宗武(正徳五(一七一六)年~明和八(一七七一)年)第八代将軍徳川吉宗の二男。御三卿(ごさんきょう)田安家の祖で。国学者・歌人としても知られた。享保一四(一七二九)年元服、従三位左中将兼右衛門督に叙任され、「徳川氏」を称し、明和五(一七六八)年には権中納言に累進した。幼少より学問を好み、国学者荷田在満(かだありまろ)を召し抱え、ついで彼の推薦によって賀茂真淵(かもまぶち)を家臣とし、古典研究を深めて、三者互いに影響を与え合った。後の国学に与えた影響も大きい。歌集「天降言(あもりごと)」のほか、在満・真淵との歌論について議論の末に纏めた「歌体約言(かたいやくげん)」や、古典の注解評論である「伊勢物語註」「小倉百首童蒙訓」「古事記詳説」などを著し、また服飾・音楽・植物などの研究も行った、一種、博物学的好奇心の強い人物であったようである(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「紅葉山」(もみじやま)は旧江戸城の西丸の東北にある丘。ウィキの「紅葉山」によれば、『本丸と西丸のほぼ中間にあたる。古くは「鷲の森」とも呼ばれた。現在は東京都千代田区に属し、皇居を構成する一部となっている』。『太田道灌の江戸城築城以前から存在し、元は古墳であったとする説』『もあるが』、『確証はない。また、目青不動(最勝寺)は、元は紅葉山にあったものが』、『道灌の江戸城築城時に城外に移されたと言われている。その後は日枝神社が置かれたが、江戸城拡張工事により』、『これも移転』した。『江戸幕府成立後の』元和四(一六一八)年、『紅葉山に徳川家康の廟所(東照宮)が置かれ、家康の命日である』四月十七日『には、将軍が紅葉山の東照宮を参詣する「紅葉山御社参」は幕府の公式行事の』一『つであった。また、秀忠以後の歴代将軍の廟所も紅葉山に設置された。また、寛永』一六(一六三九)年『には城内の文庫が富士見亭から紅葉山に移転・整備され、「紅葉山文庫」と称された。また、「紅葉山御社参」などの重要行事に備えて音楽を掌る楽所も設置されていた』。『紅葉山の警備・防災のために紅葉山火之番(留守居→寺社奉行支配)、霊廟の管理を行う紅葉山坊主、楽所の管理と演奏を行う紅葉山楽人、東照宮や各将軍の霊廟を掃除する紅葉山掃除之者が置かれていた』とある。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「伶人」雅楽を奏する楽人。

「多氏」の内、大和等畿内出身の一流に、有名な宮廷伶人である多臣自然麻呂(おおのじねんまろ/しぜまろ/じぜまろ ?~仁和二(八八六)年)を祖とする家系がある。自然麻呂は、宮中での公的な雅楽と右舞を創始し、三十九年間の長きに亙って「雅楽の一者(いちのもの)」の座を占め、今日まで宮中に伝わる神楽の形式を定めた人物とされる。

「攝家より簾中嫁取」宗武は、後陽成天皇の男系五世子孫で関白・太政大臣となった近衛家久の娘通姫(通子 享保六(一七二一)年~天明六(一七八六)年:院号は宝蓮院或いは法蓮院)を正室に迎えている(享保一八(一七三三)年に江戸城二の丸に入り、二年後の享保二十年に婚姻)。

「堀川」京の堀川通り。元禄期(一六八八年~一七〇四年)発祥の友禅染めで知られる。

「深川の屋敷」江戸切絵図で確認すると、田安中納言下屋敷は旧深川、現在の東京都江東区森下のこの附近にあった。

「岡部衞士」賀茂真淵のこと。岡部は本姓、衛士は通称。]

磯の蛸壺殼 伊良子清白

 

磯の蛸壺殼

 

  北のうみ

 

因幡の國の

    しろうさぎ

雪の降る日は

    草の根齧(か)じる

白砂山(しろすなやま)に

    防風が萠えて

雪のなかにも

    春が來た

あらい浪打ち際

    兎はおどる

北のうみべの

    朝日の濱を

 

 

  蜜 柑 山

 

山は南受(したう)け 晴南(はれみなみ)風

みかんばたけは 小六月

潮のぬくみの 熊野の浦は

蜂がみかんの 臍を刺す

 

靑い浦波 靑い草

冬も蒲公英 咲く路で

靑い蜜柑の 籠(かご)の山

鋏(はさみ)ちよきちよき 日が永い

 註 此蜜柑山は奧熊野新宮以南の海岸潮岬近くをうたふたもの。

 

[やぶちゃん注:昭和五(一九三〇)年二月一日発行の『民謠音樂』(第二巻第二号)に掲載。署名は「伊良子清白」。

「防風」これは海岸の砂地に自生する多年草である、セリ目セリ科ハマボウフウ属ハマボウフウ Glehnia littoralis。本邦には北海道から南西諸島にかけて広く植生する。食用・薬用になる。花期は五~七月頃で、温暖なところほど早く開花する。花茎は立ち上がり、大きいものは五十センチメートルを越えることもあるが、一般には背は低いことが多い。白色の毛が多数生え、花序は肉質で白色、見た感じは、ごく小さなカリフラワーに似ている(以上はウィキの「ハマボウフウ」に拠る前のリンクは同ウィキの開花画像。因みに、薬草として知られる「防風」はセリ科ボウフウ属ボウフウ Saposhnikovia divaricata であって、属の異なる別種であり、しかも中国原産で本邦には自生しない)。

「南受(したう)け」初めて見る読み方であるが、小学館「日本国語大辞典」の「くだり」の方言解説で、主に東北及び北陸地方に於いて「南風」のことを「くだり」「くだりかぜ」と呼ぶことが判った。「くだりかぜ」には隠岐の採取が含まれており、伊良子清白の生地鳥取が近い。本篇は気におけない小唄民謡の拵えであるからには、鳥羽或いはロケーションの紀伊半島南部でも通用される語でなくてはならないと私は思う。それらの現地で「南風」を「したうけ」(下受け)と呼ぶ事実を御存じの方は御教授あられたい。

「小六月」陰暦十月の異称。雨風も少なく、春を思わせる暖かい日和(ひより)の続くところからいう。「小春」に同じいから、ここは初冬の頃と読み換えてよかろう。

「奧熊野新宮以南の海岸潮岬」和歌山県東牟婁郡串本町の岬(しおのみさき)(グーグル・マップ・データ)。和歌山県の最南端で太平洋に突出する。ここは本州最南端でもある。長さ約九百メートルの砂州で紀伊半島と結ばれた陸繋島で、標高 四十~六十メートルの海食台地から成る。台地上には上野 (うわの) ・出雲などの集落があり、各家は防風林や石垣で囲まれている。黒潮の影響で気候は温暖である。]

わかめ 伊良子清白

 

わ か め

 

苅れたか かれたか

   雪の日の わかめ

雪の朝あけ

   わかめを苅れば

濡れた細葉の

   うすみどり

 

[やぶちゃん注:昭和五(一九三〇)年一月一日発行の『民謠音樂』(第二巻第一号)に先の「暖冬」「囃子」とともに掲載。署名は「伊良子清白」。]

囃子 伊良子清白

 

囃 子

 

鳥羽の菅嶋

   鵜の鳥は

冬の日中に

   水くゞり

 

[やぶちゃん注:昭和五(一九三〇)年一月一日発行の『民謠音樂』(第二巻第一号)に先の「暖冬」と後の「わかめ」 とともに掲載。署名は「伊良子清白」。

「菅嶋」は「すがしま」で三重県鳥羽市沖の伊勢湾口の東西に長い菅島のこと。現行の一島の住所表記は鳥羽市菅島町。人口は二〇一〇年の国勢調査では六百八十九人。島の面積は四・五二平方キロメートルあり、人口・面積ともに三重県では、菅島の北西近くにある答志島に次いで第二位で、同じ鳥羽市内の相差(おうさつ)及び志摩市志摩町和具と並んで、海女の多い地域として知られる(以上はウィキの「菅島」に拠った)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

2019/06/14

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(35) 「池月・磨墨・太夫黑」(2)

 

《原文》

 磨墨ハ多數ノ故鄕ヲ併セ有スル點ニ於テモ池月ト容易に兄弟シ難キ馬ナリ。【引田】關東方面ニ於テハ此名馬ノ生レ在所ト云フモノ、一ツニハ下野上都賀郡東大蘆村大字引田ナリ。【釜穴】村ヲ流ルヽ大蘆川ノ摺墨淵ノ片岸ニ、釜穴ト稱スル入口八九間ノ洞窟アリ。磨墨ハ此洞ヨリ飛出セリト云フコトニテ、岩ノ上ニ大キサ七八寸深サ一尺ニ近キ蹄ノ痕アル外ニ、【駒留石】村ノ長國寺ノ境内ニモ亦一箇ノ馬蹄石アリテ、其名ヲ駒留石ト稱シタリ〔駿國雄志二十五〕。同國安蘇郡飛駒(ヒコマ)村ハ元ハ彥間ト書ケリ。昔ノ牧ノ址ナルヲ以テ今ノ字ニ改メシナルべシ。土地ノ人ノ說ニテハ世ニ名高キ池月磨墨ハ共ニ此地ノ出身ナリト云フ〔山吹日記〕。上總國ニモ磨墨出デタリト傳フル地少ナクモ二處アリ。其一ツハ木更津ノ町ニ近キ疊池(タヽミイケ)ト云フ池、【硯】其二ハ則チ東海岸ノ夷隅郡布施村硯ト云フ地ナリ。硯ニテハ高塚山ト名ヅクル丘陵ノ頂上、僅カナル平ニ一本松ノ名木アル邊ヲ昔ノ牧ノ跡ナリト傳ヘ、愛宕ヲ祀リタル小祠アリ。此岡ノ中腹ニモヤハリ小サキ池アリテ、其水溜リノ如何ナル旱魃ニモ涸レザルヲ、或ハ磨墨ノ井ト稱ス。此地方ノ口碑ニ依レバ、磨墨ハ此牧ノ駒ナリシヲ平廣常取リテ鎌倉將軍ニ獻上スト云ヘリ〔房總志科〕。此ヨリ更ニ一日程ノ南方、安房ノ太海村ノ簑岡ト云フ海邊ノ牧モ、池月磨墨ノ二駿ヲ產セリト云フ名譽ヲ要求ス。而シテ村ノ名ニモ池月村磨墨村ノ稱呼アリキト言ヘド、今日ノ何ニ該當スルカ不明ナリ〔十方菴遊歷雜記五篇下〕。此海岸ヨリハ、兎モ角モ或名馬ヲ出セシコトノミハ事實ナルガ如シ。同ジ太海村ノ大字太夫崎(タイフザキ)ハ、義經ノ愛馬薄墨一名ヲ太夫黑ト云フ駿足ヲ出セシヨリノ地名ナリト云フ。【岩穴】岬ノ岸ニ不思議ノ巖窟アリ。深黑測ルべカラズ。太夫黑ハ則チ其洞ヨリ出デタリト云ヒ、【硯】附近ニハ硯トスべキ多クノ馬蹄石ヲ產シ、且ツ馬ノ神ノ信仰ヲ保存セリ〔千葉縣古事志〕。一說ニ賴朝石橋山ノ一戰ニ敗レテ此半島ニ落チ來タリシ際、太夫黑ヲ手ニ入レタリ。【名馬不死】後ニ此馬ハ獨リ故鄕ニ還リ來タリ、今モカノ洞ノ奧ニ住シテ不死ナリ。山麓ノ名馬川ノ岸ヨリ波打際ニカケテ、折々駒ノ足跡ノ殘レルヲ見ルハ、人コソ知ラネ龍馬ノ胤ノ永ク絕エザル證據ナリト云ヘリ〔遊歷雜記同上〕。然ルニ右ノ太夫黑ハ古クハ奧州ノ秀衡ガ義經ニ贈ル所ト稱シ、池月磨墨ト共ニ南部三戶ノ住谷ノ牧ニ產スルコト、同處ノ馬護神ノ天明元年ノ祠堂記ニ詳カナルニ〔糠部五郡小史〕、或ハ又越後北蒲原郡南濱村大字太夫濱ニ生レタリト云フ說アリ〔越後名寄三十一〕。讚岐木田郡牟禮村ニテハ此馬終焉ノ古傳碑文ニ依リテ明白ナリ〔讚岐案内〕。結局何レガ眞實ノ話ナルカ、予ハ之ヲ決シ得ズ。

 

《訓読》

 磨墨は、多數の故鄕を併(あは)せ有する點に於ても、池月と容易に兄弟し難き馬なり。【引田】關東方面に於いては、此の名馬の生れ在所と云ふもの、一つには、下野(しもつけ)上都賀(かみつが)郡東大蘆(ひがしおほあし)村大字引田(ひきだ)なり。【釜穴】村を流るゝ大蘆川の摺墨淵の片岸に、「釜穴」と稱する、入口、八、九間[やぶちゃん注:約十五、六メートル。]の洞窟あり。磨墨は此の洞より飛び出だせりと云ふことにて、岩の上に大きさ、七、八寸、深さ一尺に近き蹄の痕ある外(ほか)に、【駒留石】村の長國寺の境内にも亦、一箇の馬蹄石ありて、其の名を駒留石と稱したり〔「駿國雄志」二十五〕。同國安蘇郡飛駒(ひこま)村は元は「彥間」と書けり。昔の牧の址なるを以つて、今の字に改めしなるべし。土地の人の說にては、世に名高き池月・磨墨は、共に此の地の出身なりと云ふ〔「山吹日記」〕。上總國にも、磨墨出でたりと傳ふる地、少なくも二處あり。其の一つは、木更津の町に近き「疊池(たゝみいけ)」と云ふ池、【硯】其の二は、則ち、東海岸の夷隅郡布施村硯(すずり)と云ふ地なり。硯にては高塚山と名づくる丘陵の頂上、僅かなる平(ひら)[やぶちゃん注:平地。]に一本松の名木ある邊りを昔の牧の跡なりと傳へ、愛宕(あたご)を祀りたる小祠あり。此の岡の中腹にも、やはり小さき池ありて、其の水溜りの、如何なる旱魃にも涸れざるを、或いは「磨墨の井」と稱す。此の地方の口碑に依れば、磨墨は此の牧の駒なりしを、平廣常、取りて鎌倉將軍に獻上すと云へり〔「房總志科」〕。此れより更に一日程の南方、安房の太海(ふとみ)村の簑岡(みのをか)と云ふ海邊の牧も、池月・磨墨の二駿を產せりと云ふ名譽を要求す。而して村の名にも池月村・磨墨村の稱呼ありきと言へど、今日の何に該當するか不明なり〔「十方菴遊歷雜記」五篇下〕。此の海岸よりは、兎も角も、或る名馬を出せしことのみは事實なるがごとし。同じ太海村の大字太夫崎(たいふざき)は、義經の愛馬「薄墨(うすずみ)」一名を「太夫黑(たいふぐろ)」と云ふ駿足を出せしよりの地名なりと云ふ。【岩穴】岬の岸に不思議の巖窟あり。深黑、測るべからず。太夫黑は、則ち、其の洞より出でたりと云ひ、【硯】附近には硯とすべき多くの馬蹄石を產し、且つ、馬の神の信仰を保存せり〔「千葉縣古事志」〕。一說に、賴朝、石橋山の一戰に敗れて此の半島に落ち來たりし際、太夫黑を手に入れたり。【名馬不死】後に此の馬は、獨り故鄕に還り來たり、今も、かの洞の奧に住して不死なり。山麓の名馬川の岸より波打際にかけて、折々、駒の足跡の殘れるを見るは、人こそ知らね、龍馬の胤(たね)の永く絕えざる證據なりと云へり〔「遊歷雜記」同上〕。然るに、右の太夫黑は、古くは奧州の秀衡が義經に贈る所と稱し、池月・磨墨と共に、南部三戶の「住谷(すみや)の牧」に產すること、同處の馬護神の天明元年[やぶちゃん注:一七八一年。]の「祠堂記(しだうき)」に詳かなるに〔「糠部五郡小史」〕、或いは又、越後北蒲原郡南濱村大字太夫濱(たいふはま)に生れたりと云ふ說あり〔「越後名寄」三十一〕。讚岐木田郡牟禮村にては、此の馬、終焉の古傳、碑文に依りて明白なり〔「讚岐案内」〕。結局、何(いづ)れが眞實の話なるか、予は之れを決し得ず。

[やぶちゃん注:「下野(しもつけ)上都賀(かみつが)郡東大蘆(ひがしおほあし)村大字引田(ひきだ)」栃木県鹿沼(かぬま)市引田(ひきだ)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

『大蘆川の摺墨淵の片岸に、「釜穴」と稱する、入口、八、九間[やぶちゃん注:約十五、六メートル。]の洞窟あり』個人サイトと思われる「鹿沼見て歩き」の「磨墨ケ渕 引田」の記載と、ストリートビューでの確認から、この橋(「天王橋」)附近と思われる。上記ページにはサイト主が手書きで写して電子化した、鹿沼図書館蔵の禁帯出の藁半紙に謄写版で印刷された上沢謙二氏著になる「磨墨ケ渕」という冊子(昭和三二(一九五七)年七月二十二日クレジット)の全文があるので是非読まれたい。子供向けに書かれ、大阪中央放送局のラジオ番組(昭和二年九月から翌年にかけて放送)のために上沢氏が執筆されたものであるが、非常に素敵な内容である。

「長國寺」不詳。引田地区の天王橋の左岸東北約四百メートル位置に曹洞宗大盧山長安寺という寺ならある。この誤りかと思ったが、「駿國雜志」の当該箇所(国立国会図書館デジタルコレクション)(右ページの十行目)を確認したところ、確かに「長國寺」とあって、わざわざ『真言』宗と割注もあり、しかも『淵より三四町、東』(三百二十八~四百三十六メートル)とあるから、ちょっと違う。しかし、そこでは山号が字抜けになっており、どうもなんとも怪しい感じはする。

「同國安蘇郡飛駒(ひこま)村」栃木県佐野市飛駒町

『木更津の町に近き「疊池(たゝみいけ)」』千葉県木更津市朝日に畳ヶ池(たたみがいけ)として現存する。「畳ヶ池」については磨墨に関わる記載を見出せないが、別に、頼朝絡みの由来ならたっぷりある。「石橋山の戦い」から辛くも房州に遁走した源頼朝が、兵を募りつつ、北上した際、木更津の人々ここの水辺に畳を敷きつめ、もてなしの宴を開いたことによるという。以上は個人サイトと思われる中の「千葉の歴史の道 房総往還を歩く」に拠ったが、そこにはまた、『頼朝が畳ヶ池で数度』、『昼を取る時、長須賀にいる農民が小さな籠に綺麗なお弁当を作り』、『献上した』ところ、『頼朝はこの気持に大層喜び』、『その農民に』「小籠」という『名字を与えた』ともあり、また、『食事の時に箸を忘れ』、頼朝の家臣が、或いは『頼朝が』、『池に生えていた葦を箸替わりにしようと切った』ところ、『手を怪我した。怒った頼朝は「葦なんて生えなきゃいい」と言った。それ以降』、『この池に葦生えない。(地元の人が根から取った』『という話もある)』ともあった。

「夷隅郡布施村硯(すずり)」国土地理院図で発見した。千葉県いすみ市下布施にある硯である。同地区には天台宗硯山(すっずりさん)長福寺という寺があるが、当寺公式サイト(ウエッブサイト・アドバイザーが危険リスクを表示するのでリンクはしない。私は山号の読みと磨墨の記載を確認するためにリスクを容認した)には、『平家により鎌倉に追われた源頼朝は、平家追討の援軍を求めて房総にやって来た折、当寺に立ち寄ったと言われています。時の住職との話の中で、未だ山号の無いことを知った頼朝は「山号を授けるので書くものを持て」とおっしゃいました。住職の差し出した硯のあまりの見事さに「硯山」とすることになりました。そのとき以来この寺は「硯山無量壽院長福寺」(すずりさんむりょうじゅいんちょうふくじ)が正式名称になりました』。『また、書状を認めていた折、近くの山で馬のいななきが聞こえ、平家の追手かも知れないと考えた頼朝は、手にしていた筆を境内の槙の枝に掛け(これで、筆掛けの槙といわれるようになりました)』(現存するとある)、『見てくるように家来に命令』しましたが、『家来の連れて来た馬は、全身真っ黒な立派な馬でした。すっかり気に入った頼朝は』、『その馬に「磨墨」という名を付け、可愛がったといいます。都内某寺に「磨墨の墓」があり、墓誌に「布施の郡より得た馬」と書かれているそうです』とあった。『都内某寺』とはどこやねん!? 宗派が違うから伏せてるのだろうけれど、ちょっとムカつく!

「安房の太海(ふとみ)村の簑岡(みのをか)と云ふ海邊」『「十方菴遊歷雜記」五篇下』のここであるが(国立国会図書館デジタルコレクション)、その幾つかの道程の地名を考えるに、これは千葉県鴨川市太海のこの附近ではないか? 則ち、「簑岡」は「嶺岡」の誤認か古名なのではないかというのが私の推理なのである。ここから東の内陸にかけて、自衛隊駐屯地などのいろいろな施設名に「嶺岡」の旧地名が複数冠り、その果てに大山(不動尊)があるからである。

「太海村の大字太夫崎(たいふざき)」千葉県鴨川市江見太夫崎。次注参照。

「名馬川」「LocalWiki」の『名馬橋 名馬「太夫黒」の伝承のこる小さな橋』に地図附きで以下のようにある。『鴨川市江見の吉浦地区(大字・太夫崎)の旧道に架かる「名馬橋(めいばはし)」。この橋の名も源頼朝の伝承に因んでいるらしい』。『この橋が架かっているのは「名馬川(めいばがわ)」という小川』で、『地元の人からこんな話がのこっていると聞いた』として、『頼朝が太夫崎(たゆうざき)まで来た時に、洞穴で黒い毛並みの立派な馬を見つけた。地名をとって「太夫黒(たゆうぐろ)」と名を付け、自身の乗る馬とした。この橋から少し上流に、波切不動があり、伝承の馬がいたのはそこにある洞穴だという』(ここ)。名馬橋の改修前の画像と記事もこちらにある

『南部三戶の「住谷(すみや)の牧」』既注であるが、再掲しておくと、「南部九牧」の一つである「住谷野牧」のこと。青森県三戸郡の旧名久井村、現在の青森県三戸郡南部町にあった(リンク先は「歴史的行政区域データセット」の同村。グーグル・マップ・データではこの南北一帯)。

「越後北蒲原郡南濱村大字太夫濱(たいふはま)」新潟市北区太夫浜(たゆうはま)

「讚岐木田郡牟禮村にては、此の馬、終焉の古傳、碑文に依りて明白なり」既出既注の佐藤継信と太夫黒の墓の伝承。再掲しておくと、現在の香川県高松市牟礼町牟礼にある真言宗眺海山円通院洲崎寺(すさきじ)にある。ウィキの「洲崎寺」によれば、『源平合戦の際に負傷した源氏方の兵士がこの寺に運ばれた。戦いが激しくなると』、『戦災により』、『当寺院は焼亡した。源義経の身代わりとなり』、『戦死した佐藤継信は本堂の扉に乗せられ、源氏の本陣があった瓜生ヶ丘まで運ばれた。これが縁で継信の菩提寺となり』、『毎年』三月十九日には『慰霊法要が行われている。義経は焼亡した寺院を再建したと伝えられている』とある。]

譚海 卷之三 樂器の家々 琴(続き)

 

(樂器の家々 琴)[やぶちゃん注:前回の続きと採る。]

○きんは本朝に其傳(でん)絕(たえ)たる時、延寶の比(ころ)華僧心越禪師彈法を傳へ來り、再たびきんをひく事になりて、「琴經(きんけい)」抔(など)云(いふ)書、人の見る事に成(なり)たり。然れども今時の琴は甲を用ひず、爪にてひく事にて、調子も甚微音也。物を隔ては分明に聞得る事かたきやう也。土屋某の茶道小野田東川と云者心越の弟子にて、琴を能(よく)ならひ取たる故、四辻殿關東下向有て御願有、東川を召れ、傳奏屋敷にて琴の彈法東川より御傳授有、數月の後(のち)事畢(ことおはり)て歸洛有、以來堂上方にきん有と云。

[やぶちゃん注:「琴」「きん」筝との相違は門外漢の私(妻はプロ級だが。後述)がぐたぐた述べるよりは、サイト「中国語スクリプト」の『「琴」と「箏」の歴史と構造の違い【図説】』が詳しくヴィジュアル的もの最適なので、そちらを見られたい。

「延寶」一六七三年~一六八一年。次注参照。

「心越禪師」江戸初期に清から亡命した禅僧東皐心越(とうこうしんえつ 一六三九年~元禄九(一六九六)年)。ウィキの「東皐心越」によれば、『俗姓は蒋氏、名は初め兆隠のちに興儔、心越は字、東皐は号で別号に樵雲・越道人がある』。『詩文・書画・篆刻など中国の文人文化、なかんずく』、『文人の楽器である古琴を日本に伝え、日本の琴楽の中興の祖とされる。また独立性易とともに日本篆刻の祖とされる』。『明国浙江省浦江県で生まれる。幼くして仏門に帰依し』、『呉門の報恩寺において寿昌無明の法嗣となる』。一六七六年(延宝四年)、『清の圧政から逃れるため』、『中国杭州の西湖にあった永福寺を出て日本に亡命。薩摩に入』った。『澄一禅師の招聘によって延宝』九(一六八一)年に『長崎の興福寺に住』したが、『黄檗山萬福寺の木庵を訪ねるなど』、『各地を遊歴』したが、『外国人でありながら』、『日本国内を旅行したため』、逆に『清の密偵と疑われ』、『長崎に幽閉され』てしまう。天和三(一六八三)年、『水戸藩の徳川光圀』『の尽力により釈放』され、『水戸に』移って、『天徳寺に住し』、『篆刻や古琴を伝え』た。元禄七(一六九四)年、体をこわし、『翌年、江戸の菊坂長泉寺、相州塔之沢温泉などで療養するも回復せず、天徳寺に戻ると同年』九『月に示寂した。享年』五十八。『心越の禅風は明代中国禅の特徴である念仏兼修であ』り、『また』、『心越自身も黄檗僧との交流が深かった。このため』、『心越を黄檗宗とする資料も多いが、法系上は曹洞宗に属する。日本曹洞宗の開祖道元とは別系であり、心越の法孫は曹洞宗寿昌派を称した』とある。現行の「金沢八景」の命名者としても知られる。詳しくは私の光圀の「新編鎌倉志卷之八」の「能見堂」の私の注や、植田孟縉(もうしん)の「鎌倉攬勝考卷之十一附録」の「八景詩歌」の私の注(心越の漢詩、及び、歌川広重の代表作である天保五(一八三四)年頃から嘉永年間にかけて刊行された大判錦絵の名所絵揃物「金沢八景」の全カラー画像を電子化掲載してある)を参照されたい。

「琴經」明の張大命纂になる琴学書。

「甲を用ひず、爪にてひく」「甲」は不詳。明らかに「爪」と差別化しているのだが、妻(五歳より琴を始め、画期的な現代邦楽研究所の第一期生にもなった(但し、卒業演奏の足を引っ張るのが嫌で、勿体ないことに、卒業一ヶ月前に退所した)に聴いたが、判らないとのことである。琴爪は別名「義甲(ぎこう)」とも呼ぶが、調べても「爪」との違いが判らない。識者の御教授を乞う。「調子も甚微音也」というところを見ると、大きく硬い素材か? 当初、鼈甲を考えたが、それでは却って柔らかな音になってしまうように思う。因みに、私の妻は三味線も所持するが、その撥は先端部分を鼈甲で蔽ってある。

「土屋某の茶道小野田東川」(おのだとうせん 貞享元(一六八四)年~宝暦一三(一七六三)年)は京生れの七弦琴の奏者。名は廷賓。先の心越が伝授した琴法を、杉浦正職(まさもと)から学ぶ。七弦琴の名人として知られ、その弾法を後世に伝えた。

「四辻殿」前回で注したが、室町家の別名で、花亭家とも呼ぶ。藤原北家閑院流。西園寺家一門。家業は和琴と箏。江戸時代の家禄は二百石。]

甲子夜話卷之六 1 林子、古歌を辨ず

 

甲子夜話六

 

6-1 林子、古歌を辨ず

林氏云。「碧玉集」二、

 くだる世に生れあふ身は昔とて

      しのばむほどの心だになし

今其時を去る事又數百年なれば、昔を忍ぶ人の稀なるも怪しむべからず。近き世の一節あることさへ、今は語り合ふ友も少ければ、見るにつけ聞につけつつ語り候半。間中の慰寂に、筆まめに書とり玉へ。左あらば昔忍の草、此春雨におひひろごり申べし迚、ひたものひたもの慫慂なれば、又此册を書はじめけり。

■やぶちゃんの呟き

 最後は本巻の巻頭言となっている。

「林子」お馴染みの静山の友人である林述斎。

「碧玉集」「碧玉和歌集」。室町後期から戦国期の下冷泉家の公卿で歌人の冷泉政為文安三(一四四六)年~大永(たいえい)三(一五二三)年)の家集。父持為は下冷泉家の祖。正二位・権大納言。後柏原天皇時代の歌壇で活躍し、本家集は後柏原天皇の「柏玉集」、三条西実隆の「雪玉集」とともに「三玉集」と称され、重んじられた。初名は成為であったが、足利義政より「政」の字を偏諱(へんき)を受けた。所持しないので歌の校合は出来ない。

「候半」「さふらはん」。

「間中」「かんちゆう」か。一般的ではないが人の命の「僅かの間」の意味か。

「慰寂」底本で編者は二字に『なぐさみ』と振る。

「ひたもの」副詞。ひたすら。やたらと。

甲子夜話卷之五 36 予三十一文字の歌章を筝曲に製する事 /甲子夜話卷之五~完遂

 

5-36 予三十一文字の歌章を筝曲に製する事

予久しく憶ふに、古へは歌はうたふことにて有けるを、今は哥はよみ出たる計にて、うたふことなし。流俗のうたふものは、別に其詞ありて殊にいやしければ、花前月下など哥よまんとき、其詞を弦詠せん迚、其頃名ありし山田檢校【豐一】に謀れば、山田乃予が爲に、三十一文字の歌章の筝曲を作りぬ。其後、家老長村内藏助が歸邑しけるにも、又同姓伊勢守が堺の奉行となり、其地に赴しときも、予餞別の歌をよみて、其祖筵にて侍妾に弦詠せしめければ、伊勢も長村も殊更に感悅して入興しける。長村を餞せしとき、

 鶯の谷より出て峰たかき

      霞にうつる春の初こゑ

伊勢を餞せしとき、

 住の江の松と久しきやがてまた

      岸による波かへりこん日も

然るにいつか世の中にても、風雅を好めるものは此筝曲を用るとぞ。林氏このことを面白き思立なりとて、度々激賞して、後には其本を知らぬやうにもなれば、記し置けと勸るまゝ玆にしるす。

■やぶちゃんの呟き

「山田檢校【豐一】」「豐一」は「とよいち」。宝暦七(一七五七)年生まれで、文化一四(一八一七)一四(一八一七)年没。江戸中期の音楽家で山田流箏曲の始祖。都名(いちな:もとは琵琶法師などがつけた名。名前の最後に「一」「市」「都」などの字がつく。特に、鎌倉末期の如一(にょいち)を祖とする平曲の流派は一名をつけたので、「一方(いちかた)流」と呼ばれた。後には広く一般の盲人も用いた)は斗養一(とよいち)。号は勝善、幽樵など。尾張藩宝生流能楽師といわれる三田了任の子。幼時に失明。第二十八代惣録(江戸時代に検校・勾当の上にあって盲人を統轄した官職)長谷富(はせとみ)検校門下の山田松黒(しょうこく)に師事し、寛政九(一七九七)年一月、寺家村(じけむら)検校を師として検校に登官。寛政~享和年間(一七八九年~一八〇四年)にその作風が円熟し、その一門は、それまでの江戸の生田流を圧倒する勢力となった。文化一四(一八一七)年二月、第六十八代惣録に就任したが、その二ヶ月後に没した。河東節(かとうぶし:浄瑠璃の流派の一つで、享保二(一七一七)年に江戸半太夫の門から分かれた十寸見河東(ますみかとう)が創始したもの。優美で渋い江戸風の音曲で、古曲の一つに数えられている)をはじめ、その頃、江戸で行われていた各種の三味線音楽に通じ、彼の作品は、三味線音楽を箏曲化した新しい種目の音楽と評価される。門下から多数の派が生れた。主作品は「初音曲」「葵の上」「長恨歌」「小督曲(こごうのきょく)」「熊野(ゆや)」(以上は主文を「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。静山より三つ年上。

「乃」「すなはち」。

「家老長村内藏助」(明和四(一七六七)年~文政三(一八二〇)年)は肥前平戸藩藩士で家老。京都の儒者皆川淇園(きえん)に学び、後に江戸に出て、佐藤一斎と交わった。帰藩後、藩校維新館学頭などを務め、家老となった。名は鑒(てらす)、通称、内蔵介。著作に「乙丑西帰記」「蒙古寇紀」などがある学者でもあった。

「歸邑」「きいふ(きゆう)」。帰藩。

「同姓伊勢守」松浦忠(まつらただし)であろう。文化一〇(一八一三)年から文化一二(一八一五)年まで堺奉行を務めている。

「祖筵」「そえん」。旅に出る人を送る送別(餞別)の宴席。この「祖」は道祖神のことで「筵」は席(場所)で、旅に際してそれを祀ることが語源であろう。漢語。

「住の江」大阪市住吉  の古称で歌枕。松浦の堺奉行出向に洒落たもの。

「林氏」お馴染みの静山の友人である林述斎。

甲子夜話卷之五 35 小宮山木工進の事

 

5-35 小宮山木工進の事

享保中、御代官にて名高かりし小宮山木工進【昌世】は、元御廣敷の賤吏より拔擢せられ、幹事の才は衆にすぐれたるものなりしとなり。小金原御狩のとき、百姓勢子のはたらき方、思召の如くならず。樣々御指麾を傳ふれども、兎角におもはしからざりしとき、木工進召せとの仰にて御前に出ければ、しかしかと御指授ありける。畏り候迚、その儘乘返して下知すれば、有合數多の百姓どもを、手足を使ふ如く自由に引廻しけるとなん。又鴻臺へ成せ玉ひしとき、數日前より北條、里見などの事ある書を檢點して、其地理古戰の次第を硏究しぬ。御遊覽の日に至り、果して此地の事心得る者や有と問せ玉へば、昌世御案内申ながら、來歷戰場の樣子など、詳明に言上せしかば、深くめでさせ玉ひしとなり。又一日御郊遊のとき、昌世路傍に蹲踞して拜し奉る。今年は作毛いかゞあらんと御尋ありければ、昌世謹で豐稔に候とぞ答奉りける。翌日老臣進謁のとき、今年諸國不登と聞しが、昨木工進に問せ玉へば、豐熟なりと云。兼て聞しめす所とは違へり。いづれか實なるべきとの仰なり。老臣退て司農官を呼び、木工進を詰問せしむ。木工進申けるは、今年の凶荒は衆の知る所なり。上より實に豐凶を問玉はんには、上に執政あり、下に奉行あり。各其順次を以て某に問玉ふべし。その時は實を以て答申さん。昨の御遊、殊に御機嫌もうるはしく、御興がてら御言葉を玉はりしことと存候へば、臣も亦御興を添奉らんと思ひて、答奉りき。もし凶荒と申さば、御遊興の中、俄に御憂念をも生じ奉らんやと、斟酌して申上つるまでなりと申けり。其次第、老臣より言上せしかば、いと御機嫌なりしとなん。又月光大夫人、飛鳥山へ遊ばせ玉ひしが、道より驟雨降出しければ、先金輪寺に雨を避させ玉ひしに、程なく雨は止たれど、木履無くては、山上の芝地露滋く、いかゞあらんとありしに、陪從數百の女中の履、俄に辨ずべきにあらず。とやかくと人々申合うち、折節金輪寺修繕のことありて、匠作局より運置し杉の貫板あまた有しを、いつか木工進かりの木履に作り出して、立所に辨ぜり。大夫人の遊山、陪從の輩少しもさゝはらざりしとなん。其機智敏捷なる、皆此類なりしと。

■やぶちゃんの呟き

「小宮山木工進」「こみやまもくのしん」と読む。平凡社「世界大百科事典」によれば、江戸中期の代官。生没年不詳。初め「源三郎」、後に「木工進・杢進・杢之進」と称した。字は君延、号は謙亭。辻弥五左衛門守誠(もりのぶ)の四男として生まれ、小宮山友右衛門昌言(まさとき)の養子となった。太宰春台に古学を学び、享保六(一七二一)年閏七月に幕府代官となっ。下総佐倉・小金牧の開墾などに当たり、褒賞されたこともあるが、晩年は不遇であった。「地方凡例録(じかたはんれいろく)」には、辻六郎左衛門守参(もりみつ)とともに「地方の聖」としてあげられている、とある。

「享保」一七一六年~一七三六年。

「御廣敷」「おひろしき」。江戸城本丸と西の丸の大奥の側に設けられていた大奥勤務の役人の詰所。広敷用人以下の役人が詰め、大奥の総ての事務を司った。

「小金原」現在の千葉県松戸市小金原(こがねはら)附近か(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「御狩」第八代将軍吉宗のそれ。

「御指麾」「ごしき」。「指麾」は「指揮」に同じ。「麾」も「揮」ももとは軍勢の指揮を執る旗の意。

「有合數多の」「ありあふあまたの」。

「鴻臺」「こうのだい」。旧下総国の国府が置かれた、現在の千葉県市川市国府台(こうのだい)の古称。

「北條、里見」後北条氏と安房里見氏。両者は二次に亙る「国府台合戦」(天文七(一五三八)年、及び、永禄六(一五六三)年と翌年にかけての第二次合戦に大別される)の両雄。詳しくはウィキの「国府台合戦」を見られたい。

「作毛」稲の出来。

「不登」吉宗の問いであるので「ふとう」と音読みしておくが、訓じて「みのらず」とも読める。

「某」「それがし」。

「月光大夫人」第六代将軍徳川家宣の側室で、第七代将軍徳川家継の生母であった月光院(貞享二(一六八五)年~宝暦二(一七五二)年)本名は勝田輝子。家宣が死去して後、月光院と呼ばれた。父は元加賀藩士で浅草唯念寺住職勝田玄哲。

「飛鳥山」現在の東京都北区にある区立公園飛鳥山公園(あすかやまこうえん)は、東京都内の桜の名所の一つ。ウィキの「飛鳥山公園」によれば、『徳川吉宗が享保の改革の一環として整備・造成を行った公園として知られる。吉宗の治世の当時、江戸近辺の桜の名所は寛永寺程度しかなく、花見の時期は風紀が乱れた。このため、庶民が安心して花見ができる場所を求めたという。開放時には、吉宗自ら飛鳥山に宴席を設け、名所としてアピールを行った』。享保五(一七二〇)年から『翌年にかけて』千二百七十『本の桜が植えられ』、『現在もソメイヨシノを中心に約』六百五十『本の桜が植えられている』とある。また、『「飛鳥山公園」の名の通り一帯は小高い丘になっているが、「飛鳥山」という名前は国土地理院の地形図には記載されておらず、その標高も正確には測量されていなかった。北区では、「東京都で一番低い」とされる港区の愛宕山(』二十五・七『メートル)よりも低い山ではないかとして』、二〇〇六年に『測量を行い、実際に愛宕山よりも低い』二十五・四『メートルであることを確認したとして』、『北区は国土地理院に対し、飛鳥山を地形図に記載するよう要望したが』、『採択されなかった』ともある。

「先」「まづ」。

「金輪寺」「きんりんじ」。飛鳥山北西直近の東京都北区岸町にある真言宗王子山(おうじさん)金輪寺。歴代江戸幕府将軍の御膳所を務めた格式ある寺院。

「木履」「ぼくり」。下駄。

「辨ず」適切に素早く処理する。

「匠作局」「しやうさくのつぼね」。「匠作」は旧修理職(しゅりしき)、木工(もく)寮の唐名。

「運置し」「はこびおきし」。

「貫板」「ぬきいた」貫(ぬき:柱と柱との間を横に貫いて繫ぐ材木)に用いる板材。

暖冬 伊良子清白

 

暖 冬

 

海が靑けりや

   冬やあたたかい

女黑けりや

   雪や降らぬ

 

[やぶちゃん注:昭和五(一九三〇)年一月一日発行の『民謠音樂』(第二巻第一号)に以下の「囃子」「わかめ」とともに掲載。署名は「伊良子清白」。伊良子清白、満五十三歳。以下、新作民謡調俗謡が少し続く。不二子の自死を天が癒すかのように、この年の二月九日、三男朴(すなお)が生れている。]

伊良子淸白自傳 / 昭和四(一九二九)年十一月十五日新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に附されたもの

 

 伊良子淸白自傳

 

 名は暉造、明治拾年拾月四日鳥取縣八上(やかみ)郡曳田(ひけた)村に生る。幼時父母に伴はれて三重縣に轉住。其の地の小學校を經て津中學校を卒業した。中學在學中同志數名と共に和美會雜誌經文學等發行。詩は十六七歲から習作を試みた。次で京都府立醫學校(今の府立醫科大學)に入學三十二年卒業、後東京に出で傳染病硏究所東京外國語學校獨逸語學科に學んだ。醫學校在學中から「文庫」「靑年文」に寄稿し、出京後は「明星」初期の編輯に參與、またその頃大阪で發行せし「よしあし草」(後に「關西文學」)にも執筆した。常に「文庫」の同人として河井醉茗橫瀨夜雨其他の多くの同志と共に詩作に努力した。三十九年五月詩集『孔雀船』を出版、所載詩篇僅かに拾八篇であつた。出版と同時に東京を去り島根大分を經て台灣に在ること十年、大正七年京都まで歸住、其の間皆官衙病院の醫師として多忙に生活した。十一年現住志摩鳥羽に移りはじめて開業漸く時間を惠まれた。かくて前後二十三年全く詩に遠ざかつたが、昭和三年出京と共に舊友との再會を機とし再び詩に復活するに至つた。

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十一月十五日新潮社刊の「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」版に出版社の編集コンセプトとして依頼されて書いたもの。底本は詩篇と同じ全集の二〇〇三年岩波書店刊平出隆編集「伊良子清白全集」第二巻を用いたが、詩篇は正字を用いているのに、何故か、こちらの巻は新字採用であるため、恣意的に漢字を概ね正字化した。なお、この年の彼をめぐる状況は詩篇「鳥羽の入江」の注で記した。

「暉造」「てるぞう」。

「明治拾年」一八七七年。

「鳥取縣八上(やかみ)郡曳田(ひけた)村」(現在の鳥取市河原町(かわはらちょう)曳田(ひきた)。グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「幼時父母に伴はれて三重縣に轉住」この母は伊良子清白の生母ではなく、継母である。彼を産んだツネは彼が生後十一ヶ月の、明治一一(一八七八)年九月四日に僅か二十歳で他界している。三重県津市下部田(現在の津市栄町(県庁前公園辺り附近)への一家転住は明治二〇(一八八七)年、清白満十歳の時のことである。

「小學校」立誠尋常小学校(現在の津市立南立誠小学校)へ転入学。翌年三月、同小学校を卒業後(この年で満十一歳)、四月から養正学校高等科(現在の津市立養正小学校)に進学し、翌明治二二(一八八九)年三月の同高等科一年修了を以って、四月より私立四州学館に入学、翌明治二十三年四月に「津中學校」(三重県津中学校(現在の三重県立津高等学校)に入学、卒業は明治二七(一八九二)年。

「經文學」同人誌『輕文學』の誤り。底本「凡例」では、明らかな誤りは編者が注記なしで訂することになっているから、或いは底本全集自体の誤植の可能性がある。

「京都府立醫學校(今の府立醫科大學)」現在の京都府立医科大学。入学は明治二十七年四月。

「三十二年卒業」正規の卒業試験に失敗して追試験で合格したため、卒業は明治三二(一八九九)年六月にずれ込んだ。

「傳染病硏究所」この叙述はちょっと悩ましい。年表では明治三四(一九〇一)年の条に、『十月から十二月まで、北里伝染病研究所で細菌学の講義を受けた』とあるのであるが、この当時、現在の国立東京大学医科学研究所の前身である「私立伝染病研究所」の初代所長が北里柴三郎であったが、「北里伝染病研究所」ではないからである。「北里伝染病研究所」は、そのずっと後の大正三(一九一四)年に、「私立伝染病研究所」が内務省から文部省に移管され、東京大学に合併されるに際して、初代所長北里が移管に反対し、所長を辞任(この時、志賀潔を始めとする研究所の職員全員が一斉に辞表を提出し、「伝研騒動」と称される)、北里は同年十一月五日に私費を投じて「北里研究所」を設立しているからである。この年譜の方は「北里」柴三郎が所長をしていた「私立伝染病研究所」と読み換えないといけない。

「東京外國語學校」現在の東京外国語大学のメインの前身。

「三十九年五月詩集『孔雀船』を出版」明治三九(一九〇六)年五月五日佐久良書房刊の詩集「孔雀船」初版。

「出版と同時に東京を去り島根大分を經て台灣に在ること十年、大正七年京都まで歸住、其の間皆官衙病院の醫師として多忙に生活した」この辺りの状況や経歴は「梅村二首」の私の注で略述しているので、それを参照されたい。

「十一年現住志摩鳥羽に移りはじめて開業漸く時間を惠まれた」大正一一(一九二二)年九月十二日、三重県志摩郡鳥羽町大字小浜(現在の)へ転居、村医として診療所に住んだ。この中央附近に伊良子清白の家はあったが、現在は移築されて鳥羽マリンパーク内(ここ)に「伊良子清白の家」として復元されている。公式ガイド・データ(PDF)。

「昭和三年出京と共に舊友との再會を機とし再び詩に復活するに至つた」昭和三(一九二八)年五月十九日に東京会館で催された橫瀬夜雨・伊良子清白誕辰五十年祝賀会出席を指す。この時、夜雨とともに河合酔茗の家に泊まって語り合った(しかし、これが三人が集った最後となった)。その後、鳥羽で清白は密かに新作の詩(主に民謡俗謡)の創作を再開し始めたのであった。]

小序 伊良子清白 / 詩集「孔雀船」の再版(昭和四(一九二九)年四月十日発行の梓書房版)に附されたもの

 

 小 序

 

 この廢墟にはもう祈禱も呪咀もない、感激も怨嵯もない、雰圍氣を失つた死滅世界にどうして生命の草が生え得よう、若し敗壁斷礎の間、奇しくも何等かの發見があるとしたならば、それは固より發見者の創造であつて、廢滅そのものゝ再生ではない。

   昭和四年三月        淸 白

 

[やぶちゃん注:再版の、昭和四(一九二九)年四月十日発行の梓書房版(明治三九(一九〇六)年五月五日発行の初版「孔雀船」は佐久良書房刊)詩集「孔雀船」で追加されたもの。底本は詩篇と同じ全集の二〇〇三年岩波書店刊平出隆編集「伊良子清白全集」第二巻を用いたが、詩篇は正字を用いているのに、何故か、こちらの巻は新字採用であるため、恣意的に漢字を概ね正字化した。なお、この年の彼をめぐる状況は詩篇「鳥羽の入江」の注で記した。]

鳥羽の入江 伊良子清白 (初出形復元)

 

鳥羽の入江

 

 

  春は鯛繩

 

春は鯛繩

夜延(よばえ)の大漁

からだちいばらも

花が咲く

 

 註 夜延は夜間海上に釣繩の絲を延べるをいふ

 

 

  鱶 釣 り

 

裸一貫 男で候

波は立つ程 吹け吹けあらし

やんれ、乘り出す、灘の上

鯛や鰆(さはら)の 小魚にや飽いた

漁師泣かせの

      鱶釣りに

 

 

  寢たか起きぬか

 

寢(ね)たか起きぬか

  萱野の貉(むじな)

 よいそらよい

沖の夜繩を

  鮫がとる

 

岳(たけ)の朝西風(あさにし)

  飛び出せ螇蚸(ばつた)

 よいそらよい

濱の鰯(いわし)を

  鮪(しび)が逐ふ

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十二月一日発行の『民謠音樂』(第一巻第一号)に掲載されたもの。署名は「伊良子清白」。伊良子清白、満五十二歳。但し、この内、最後の「寢たか起きぬか」の一篇は、先行するこの年の四月十五日改造社刊の「現代日本文学全集」第三十七篇「現代日本詩・漢詩集」の「伊良子淸白篇」に九篇(八篇は「孔雀船」から採録)載った際に「ねたか起きぬか」(既に昭和四(一九二九)年十一月十五日新潮社刊の「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」版を電子化済み。今回はその注で復元したそれを合成(底本ではここは注記附きでカットされている)して初出形を復元した)という題で単独独立詩篇新作追加として先行発表されているという、変わった経緯がある。また、この年は四月にロシア文学者中山省二郎の尽力で梓書房から詩集「孔雀船」の再刻本が刊行(伊良子清白は「小序」を追加している。この後に電子化する)され、同月には上記改造社のアンソロジーが、十一月には新潮社のそれが相次いで刊行された(新潮社版には「伊良子清白自伝」が書かれている。因みにこれは同全集編集コンセプトとして依頼されて書いたものである。やはりこの後に電子化する。また前者の改造社版に附された解説「明治大正詩史槪觀」では、北原白秋が伊良子清白を絶讃、この年の一月と十一月に出た日夏耿之介の「明治大正詩史」(上下巻)などによって、まさに伊良子清白再評価の機運がいやさかに高まった年であった(中山省二郎や北原白秋はこの年中に鳥羽に清白を訪ねてもいる)。しかし一方で、十一月十九日、次女不二子が自殺するという痛烈な不幸に遭遇している。不二子は大正一五(一九二六)年に大阪の女子神学校を卒業し、東成区の会社に就職したが、翌年には肺尖カタルを発症して入院しており、その予後は不詳であるが、自死したのは、伊良子清白の異母弟岡田道寿の鳥取の家でであった。

山も見えぬに 伊良子清白

 

山も見えぬに

 

   

 

山も見えぬに

釣する人は

妻子(つまこ)まつ身の

かなしかろ

 

   

 

十里二十里

日の沖中で

賴む雲行(くもゆき)

潮のいろ

 

   

 

小(こ)べりすふ浪

さびしいか浪も

底は百尋(ひろ)

絲(いと)が泣く

 

[やぶちゃん注:昭和三(一九二八)年七月一日発行の『詩神』(第四巻第七号)に掲載。署名は「伊良子清白」。本詩篇は漢数字を除いて総ルビであるが、五月蠅いので、私が必要と思った部分のみのパラルビとした。伊良子清白、五十一歳。同号には「雁」(後の昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に手を加えて収録。その際に「雁、雁」に改題)と「參宮船」(同作品集に収録。その際に題名を「參宮ぶね」に改題)の三篇の詩が載り、底本全集年譜のデータでは、実に大正一四(一九一五)年十一月の「海村二首」以来、実に三年二ヶ月振りの新詩篇発表である。底本全集年譜によれば、『五月十九日、東京会館での夜雨・清白誕辰五十年祝賀会に出席した。夜雨とともに酔茗宅に宿泊、三人が集う最後の機会となった。このころから翌年にかけて、ひそかに民謡俗謡を数多く詩作した』とある。]

2019/06/13

海村二首 伊良子清白

 

海村二首

 

  

 

船は小さくて見えぬが

突立つた巨人は

凱旋將軍のやうに

勇ましく姿を現はす

幾たりもいくたりも次々に歸てくる

港の灯は輝き波止場の浪は笑ふ

太い指と廣い掌(てのひら)

がつしりと櫓先を握んで

輕く船を操り乍ら

近づく海の勝利者

太い聲で最愛の者共をよびかけ

漁具を濱に卸すと

嬉しさうに寄り添ふ優しい聲と幼い響

今日の獲物は水子(かんこ)に一杯だ

人間の歡喜は陸に滿ち海に溢れる

彼はもう一日の疲れも忘れて仕舞ふ

烈しい勞働の苦痛も甘い思出となる

全世界の幸福はここに集る

一本の酒と妻子の笑顏の外

今は全く何物も彼の頭にないのだ

[やぶちゃん注:「歸て」はママ。「水子(かんこ)」は既注であるが、再掲すると、この「活間(いけま)」で、船の中に設えた「生簀(いけす)」のこと。]

 

   

 

海は妖魔である

私の窓からそつと忍びこんで

幾條の白髮を植ゑ去つたことであらう

老いは靜かに步み寄りて

塵の如く積り皺のごとくくひ入る

わたしの聽診器と手術刀は

黑と白とを象徵して

幾歲月の夜に董に

わたしの命運を暗くし明くし

そしてある夜颶風の眼が過ぎ去る時

わたしの病(やま)ひは重り

わたしの氣息(いき)は絕えんとし

子等は皆枕邊に集り

最後の祈禱(いのり)を捧げるであらう

その時曙は美しく輝き

海面一帶に大なる陽(ひ)は流れて

帆は集ひ私の船出を待つであらう

私は此村の巖陰で死ぬるのだ

故鄕の山の家を思はない

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年十一月五日アルス刊の北原白秋・三木露風・川路柳虹編「現代日本詩人選」収録。署名は「伊良子清白」。伊良子清白、既に四十八歳。同アンソロジーには伊良子清白の詩集「孔雀船」の「漂泊」「淡路にて」「安乘の稚兒」も再録されている。本刊行に際して出版社から新作の依頼があったものであろうが、伊良子清白にして、この口語自由詩はその内容(特に「二」)とともにここまで読んでくると一見、唐突で、驚愕に値する。但し、実は明治四一(一九〇八)年七月十五日発行の『文庫』(第三十四巻第五号)の翻案詩「七騎落」を最後として、伊良子清白は明治四二(一九〇九)年から大正一三(一九二四)年までの、実に凡そ十五年半の間、底本全集の「著作年表」では、伊良子清白は詩篇は一篇も発表しておらず(旧作再録は除く)、詩壇というよりも文壇自体から完全に訣別してしまっていたのであった(明治四三(一九一〇)年三月の短い世論批評文三篇があるのみ)。しかも思えばまた、一方で詩壇にはこの間、大正六(一九一七)年には、かの萩原朔太郎が満三十一歳で第一詩集「月に吠える」を引っ提げて、そのかぶいた姿で登場しているのであってみれば、この口語自由詩は時代の流れとしてすこぶる附きで腑に落ちるとも言えるのである。因みに、この間の波乱万丈と言ってよい事蹟を底本全集年譜に拠りながら、端折って述べると、明治四十一年三月七日、次女不二子が誕生、同年夏より胃腸カタルの症状が深刻となり、紫静養を決意、十月を以って島根での勤務を辞して、大分県臼杵を静養地とし、妻と長女とともに移った。明治四十二年四月に大分県警察部検疫官となって大分町に住むも、翌年五月には日本領であった妻子とともに台湾へ渡り、台湾総督府直轄の台中病院内科部に勤務、明治四四(一九一一)年九月、三女千里誕生。翌年四月、台湾総督府台中監獄医務所長に就任、ゴシック建築の洋館の官舎に住んだ。同年八月長男力(つとむ)誕生。大正四(一九一五)年七月、同前医務所長を辞任し、台湾総督府防疫医となる。台北へ移り、台北病院及び台北監獄医務所の双方に勤務した。翌大正五年、三月、前記防疫医を辞し(以下は既注であるが、再掲する)、大嵙崁(だいこかん:現在の中華民国(台湾)桃園市市轄区である大渓(たいけい)区(グーグル・マップ・データ)の日本占領当時の旧称)に移住して開業(昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に突如、出現した詩篇「聖廟春歌(媽姐詣での歌)」「大嵙崁悲曲」の注も参照)したが、十一月には台北に戻り、医務室を経営(同府鉄道部医務嘱託兼務)翌大正六年十二月には北ボルネオのタワオへの移住を考え(診療所医師として単身赴任が条件であった)、翌年には渡航するはずであったが、南洋開発組合の中の有力者の一人の、個人的な横槍によって移住が承認されず、万事休すとなる。大正七年三月末、思い立って、台中・台南・橋頭・阿猴を旅し、同年四月上旬、内地帰還を決意、四月十九日に妻と神戸に入港した。同年六月下旬、京都市左京区浄土寺馬場町の川越精神病院に勤務が決まった。台北から子供たちを迎えて浄土時真如町の借家に住んだが、翌大正八(一九一九)年六月二十一日、妻幾美(きみ)が死産の上、逝去してしまう。次女不二子を父のところに預け、秋より後妻を探し、長女清の学校の担任であった鵜飼寿(とし)との縁談が年末に決まり、翌年一月五日に挙式、四月に鳥取に帰郷して亡き幾美を供養している。この頃より、開業の方途を探り始めている。大正一〇(一九二一)年三月七日、寿が次男正を産むが、六月、後妻寿は腹膜炎後に感染したとされるリンパ腺結核で休職、後に退職となった。同七月、三重県南牟婁郡市木村に転居し、区医及び下市木小学校校医として、村営市木医館に居住した。翌年九月十二日、三重県志摩郡鳥羽町大字小浜に転居し、村医として診療所に住んだ。年末の十二月十八日には、四女和が生れている。大正十二年、小浜小学校校医となる。大正一三(一九二四)年五月、長女清が大坂の医師と結婚している。なお、この間、大正一一(一九二二)年十月、翌年の一月と四月、日夏耿之介が『中央公論』に、後に「明治大正詩史」に大成されるものの原型評論を連載、そこで伊良子清白を『稀に見る天稟の技能者』『彗星の如き「孔雀船」』と激賞し、同じく大正十一年末頃には西条八十も講演で清白を再評価しており、これらが昭和四(一九二九)年の伊良子清白再評価の遠因ともなった。

燈火の花 伊良子清白

 

燈火の花

 

夕間暮いぶせき晝の

はてに咲く燈火(ともしび)の花

一つ立ち二つ雙(なら)び

千々にまた遠く連り

香も細く波漂はせ

闇の海根(うみね)をこそ絕ゆれ

 

沈みつゝ浮きつゝはるに

その花の花瓣(はなびら)ゆらぐ

夜(よる)の神(かみ)快樂(けらく)の家(いへ)に

摘みためぬ色美(いろよ)き花を

いぶきしぬ圓(まど)かに闇を

花の露外(と)にしたゝるか

 

また咲きぬ淚の家に

低首(うなだ)れて色褪せし花

ほのぼのと花片(はなびら)けぶる

その花のわなゝく每(ごと)に

蒼ざめし死の息(いき)通ひ

すさみ行く望(のぞみ)の光

 

惡の家(いへ)花(はな)穢(え)に咲きぬ

黑鈍(くろにび)のめぐりを纏(まと)ひ

蝕(むしば)みにひそめる花は

執(しふ)の色あくどくにほひ

蛇の髮(かみ)漂ふ莖(くき)を

力(ちから)にて廣(ひろ)ごり浮きぬ

 

かくて闇(やみ)波(なみ)いと高し

なべて花(はな)底(そこ)ひにかくる

濕(しめ)らへる曉(あかつき)の風

冷やかに香りを誘ふ

花消えて人(ひと)醒めはてぬ

求めつゝ垣根を繞(めぐ)る

 

[やぶちゃん注:明治四〇(一九〇七)年四月一日発行の『女子文壇』(第三巻第五号)に掲載。署名は「伊良子清白」。本篇は特異的に総ルビ(これは高い飼率で当該雑誌の編集方針であろう)であるが、五月蠅いので、私が恣意的にパラルビとした。]

夏の夜 伊良子清白

 

夏 の 夜

 

林洩る菓物の

濃きかをり今しばし

高まりぬ時すぎし

花の香も殘るかに

くゆるめりめざめたる

家をめぐりひたひたと

波よせぬそは大き

夜の息この時に

われ思ふ外の方を

霰降り月光は

地に箔すまた磯は

家も低くいくみ竹

波に乘る浩々と

白き夜は海に居り

眠られずいとけなき

子心にかへりつゝ

われなきぬ

 

[やぶちゃん注:明治四〇(一九〇七)年一月十五日発行の『文庫』(第三十三巻第四号)に掲載。署名は「伊良子清白」。底本全集年譜によれば、この年、六月前後、『文庫』編集部内で、伊良子清白が投稿した評論「鏡塵錄」と翻案詩「七騎落」について、早稲田派のグループが採用掲載の可否について問題提起をして紛争が起こり(結果的には七月十五日発行の『文庫』(第三十四巻第五号)に二篇とも掲載された)、伊良子清白の『文庫』からの訣別が決定的になった。なお、この六月には島根県検疫医も兼任している。

「いくみ竹」「組竹」。葉が組み合って繁茂している竹の意。「古事記」に出る古語。]

小詩三篇 伊良子清白

 

小詩三篇

 

 

  帆 影

 

朝に來て浮木をひろひ

夕に出て寄藻(よりも)を燒きぬ

海士の子のすまひにをれば

貝がらに臥するも同じ

 

沖の方城廓(じやうかく)湧きぬ

須臾(すゆ)にしてまた沈み行く

帆づたひに漂ふ海を

眺めつゝ今日も暮しぬ

 

 

  い ま は

 

くだ物落ちぬさと漏るゝ

水のきほひに流れつゝ

月の光はかげ射しぬ

うれはしげにもをののきて

 

野の深林(ふかばやし)濕やかに

かをる一つの香をかげば

あえかの人の面影も

最後(いまは)の腕に觸れずやは

 

 

  風雨の後

 

雷(いかづち)默(もだ)し風雨(あらし)休(や)みて

天の大野は光滿ちぬ

焰の窓より落つる流

雲の盤溫(うづま)に爛(ただ)れ入りぬ

 

背(そびら)の鋒杉風を帶びて

峰路の景色は未だ止まず

隼(はやぶさ)斜(ななめ)に羽を伸して

日の入る彼方に翔り飛びぬ

 

[やぶちゃん注:明治三九(一九〇六)年十二月三日発行の『金箭』(雑誌か。底本は当該初出ではなく、転載で、書誌データが附帯しない)に掲載。署名は「伊良子清白」。]

嵐の山 清白(伊良子清白)

 

嵐 の 山

 

嵐の山に來て見れば、

花は雪とぞ降りにける。

渡月橋上、繁華(はんげ)の子、

袖振りあふも名所かな。

 

一年前に花咲いて、

人のこゝろの切なりし。

二年前にはな散りて、

人の姿の艶なつし。

あはゝ、それは昔の物語。

 

今復た來る、天龍寺。

松の綠の深くして、

――深くもよしや、松は常盤木。

斷膓の音、鳴るは梵鐘。

 

我や捨てけむ、人やまだ

われを捨てけむ、辨へず。

落花風前、春は盡く。

戶無瀨に啼かむ、郭公鳥。

 

狂亂の躰(てい)、身は空殼、

流を渡り、峯を越え、

花の吹雪に、いざさらば、

消えて去なうよ、消えて去なうよ。

 

  (見れば可愛(いたいけ)、少人の、

  十三詣で、京の兒等、

  綺羅錦繡に身をまとひ、

  一步ふめば、轉法輪、

  二步ふめば、常樂土、

  此世からなる天人界。

  あらけたゝまし、屋方船、

  何に驚く、笛太鼓、

  またきこゆるは、天竺の、

  迦陵頻伽の歌の聲。

  蛾眉玉顏の花の盛りは、

  千々の黃金も擲たん。)

 

可笑しや心亂れては、

花を惜むの情(なさけ)だになし。

耳目に障る人間の、

行樂況して羨むべき。

 

ふりしきる雪、花の木蔭、

飛で四方に散亂し、

地(つち)を叩き水を撲ち、

咒咀(のろひ)の聲は、われ乍ら

あら面白の景色かな。

あはゝ、死ぬともうらまじ。

 

[やぶちゃん注:明治三九(一九〇六)年一月一日発行の『白鳩』(第一巻第三号)に掲載。署名「清白」。同年、伊良子清白、満二十九歳。底本全集年譜に『一月、旧年来の父の負債の負担、保険会社の職場環境との不適合などが嵩じ、また早稲田派の台頭で』、古巣の雑誌『文庫』『からも旧風が放逐されていく傾向』があからさまに現われてきていること『に不満を』抱き、『詩壇と訣別する意思を固めた』とある。また、三月頃には、河合酔茗が辞めた後の『文庫』の詩欄の選者問題では同人らと齟齬をきたしたりもした、とある。一方で自らの隠退の決意の証としたか、詩集「孔雀船」の出版への動きも同時進行で起こしている。また、三月末、現在の浜田市内にあった島根県立細菌検査所赴任の話が持ち上がり(赴任後は浜田則天堂病院副医院長を兼務)、酔茗ら詩人仲間の反対を押し切って、四月二十九日、六月には出産をひかえていた幾美を遠縁の人物に託して、再び東京の地を踏まぬかも知れぬという思いで、単身、旅立ち、大阪から瀬戸内海を海路で向かって、五月六日に着いているが、さても、その前日の五月五日、東京の左久良書房から彼の唯一の単行詩集「孔雀船」が刊行され、七日後の十二日、自らの詩集を手にしている(六月二十四日に長女が誕生)。本篇に漂うネガティヴな雰囲気、ある種、世紀末的「今様」風の趣きは、こうした伊良子清白自身の鬱屈を反映していると読めるように思われる。

「戶無瀨」「とむせ」と読み、京都市西京区嵐山にある渡月橋上流の古い地名。歌枕で紅葉の名所。

「空殼」私は「しひな(しいな)」と読みたい(「うつがら」の読みもあるが、如何にもリズムが悪いし、響きも悪い)。漢字表記は「粃」「秕」で、本来は、殻(から)ばかりで実のない籾(もみ)の意で、転じて、草木の果実のよく稔っていないものとなり、さらに広義に「中身の欠けているもの」「空っぽのもの」「価値のないもの」の意となった。

「況して」「まして」。]

天馳使 清白(伊良子清白)

 

天 馳 使

 

霜の光の白々(しらじら)と

おほはぬ空にうつろひて

秋は末なる星月夜

まほにうち見る人もなし

 

其夜の夢に我妹子(わぎもこ)は

最(いと)美(よ)き稚兒を見たりてふ

陽炎(かげらふ)燃ゆる春の國

いつか和子(わくご)は來るらん

 

天馳使(あまはせづかひ)翼伸(の)して

腕に花環をもたらさば

母の二人が亡魂(なきたま)も

或(ある)は仄かに復活(かへ)るべき

 

庭の木立のはらはらと

落葉は八重に積れども

稚兒が隱れし天(あま)の原

朝(あした)の色は綠なり

 

[やぶちゃん注:明治三八(一九〇五)年十二月一日発行の『白鳩』(第一巻第二号)。署名は「清白」。底本の「未収録詩篇」の同年パートはこの一篇のみ。本篇は特異的に総ルビである。しかし、これ、如何にも五月蠅い(電子化で読み難くなる)ので、今回は読みが振れると私が判断したもののみに限った。

 なお、前年、明治三十七年の「未収録詩篇」所収(一篇のみ)の長詩「海の聲山の聲」は既に以前に電子化している。同年、伊良子清白、二十七歳。一月、内国生命嘱託を辞し、二月に帝国生命保険会社の正式社員となっている。父政治は二月中旬に和歌山に転居し、三月初旬に医院を開業した。十二月半ば過ぎに「冬の夜」と総標題した「月光日光」「漂泊」(孰れも後の詩集「孔雀船」にごく僅かな手入れをして所収)「無題」の三篇を『文庫』投稿、翌年の一月一日発行の同誌(第二十七巻第六号)に掲載されている。

 全集年譜によれば、この翌明治三十八年は年初より父政治の医員開業が再び頓挫していた。同じ頃、父と別居し、縁談を求め始めたものの、胃腸カタルを発症している(これは生涯の彼の病いとなった)。二月から四月まで、帝国生命の出張で四国へ長期に巡回出張している。この間、青木繁の絵「海の幸」を『明星』誌上で見て後の詩篇「淡路にて」詩集「孔雀船」に改作して所収)の詩想を受けている(初出は同年九月発行『文庫』)。また、「万葉集」「枕草子」「紫式部日記」「更科日記」「方丈記」など多数の古典の読書も重ねている。『五月下旬、鳥取市東町の漢学者森本歓一・なかの長女で、鳥取女子師範学校を出て同附属小学校の訓導として勤務していた幾美(きみ)との縁談がまとまり、五月末、鳥取市で結婚、六月から大阪で新婚生活に入っ』ている。この頃、「戲れに」(手入れして詩集「孔雀船」に所収)が執筆されている。同月、帝国生命保険会社大阪支社から東京への転任の辞令を受けて、同月末の二十七日、妻とともに上京し、赤坂区新町の酒屋の持家を新居とした。保険診査医として関東周辺各地へ出張するが、最後の八月下旬の横須賀でのそれに於いて、「花柑子」「かくれ沼」「安乘の稚兒」(孰れも詩集「孔雀船」に所収。異同はリンク先を見られたい。なお、「かくれ沼」は「五月野」に改題している)を詩作している。十月には河合酔茗の家の近くに、十一月初旬には赤坂区台町に転居している。]

甲子夜話卷之五 34 常憲廟、毒法にて銅中の金を取ることを止らる御仁心の事

5-34 常憲廟、毒法にて銅中の金を取ることを止らる御仁心の事

憲廟御世、國用匱乏に及べる頃、蘭人の、銅に毒藥を塗り、幾度も燒返せば金に變ずると云奇方を識るもの渡來せり。勘定頭の荻原近江守など、荐りに此事を建言せしに、憲廟肯じ玉はず。金は煎して病藥に用ることあるものなり。誤りて毒製の金を用ゆるものあらば、人命に係るべきことなりとて、遂にその事を停めて、行はしめ玉はざりしとなり。

■やぶちゃんの呟き

「常憲廟」五代将軍徳川綱吉。

「匱乏」「きぼふ(きぼう)」。物資が不足していること。「匱」は「尽きる」の意。

「荻原近江守」荻原重秀(万治元(一六五八)年~正徳三(一七一三)年)は旗本で、勘定奉行を務め、管理通貨制度に通じる経済観を有し、元禄時代に貨幣改鋳を行ったことで知られる。

「荐りに」「しきりに」。

甲子夜話卷之五 33 鳥越の邸にて人魂を打落す事

 

5-33 鳥越の邸にて人魂を打落す事

人魂、蟾蜍の說、前に云へり。又先年の事を思出せしは、鳥越の邸にて、群兒薄暮に乘じ、竿を以て蝙蝠の飛を撲つ。其時靑色なる光のもの、尾を曳きて飛來る。兒、皆、人魂なりと云て、相集て竿を以て打落す。靑光地に墮て猶光り有り。兒、足を以て踏で、而其ものを視に、豆腐の滓の如きものなりしと。是は何物のしかあるや。果して世に言ふ人魂か。

■やぶちゃんの呟き

「鳥越」平戸藩松浦家上屋敷(六義園・小石川後楽園などと並んで、江戸時代に造営された代表的な大名庭園の一つと謳われ、明治から大正にかけて多くの人々から親しまれた「蓬莱園」はその跡地であった)であろう。現在の東京都台東区鳥越の南直近の東京都台東区浅草橋の柳北公園の西北角に平戸藩松浦家上屋敷跡(蓬莱園跡)碑があると、サイト「Google Earthで街並散歩(江戸編)」のこちらにある。

「人魂、蟾蜍の說、前に云へり」「蟾蜍」は「ひきがへる」。「5-10 人魂を打落して蟾蜍となる事」を指す。

「蝙蝠」「かはほり」。コウモリ。

「飛を撲つ」「とぶをうつ」。

「相集て」「あひつどひて」。

「靑光」「あをびかり」。

「視に」「みるに」。

「滓」「かす」。何らかの発光物質をコウモリが附着させて飛翔していたようである。これだけでは、それが自然物か人造物かは不詳。コウモリは雑食性であるから、ホタル(江戸であるから、鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ホタル科ヘイケボタル Luciola lateralis としておく)などを捕食し、その発行物質が附いたものか。ロケーションから見ると、同じルシフェリン(luciferin)-ルシフェラーゼ(luciferase)反応で発光するウミホタル(甲殻亜門顎脚綱貝虫亜綱ミオドコパ上目ミオドコピダ目ウミホタル亜目ウミホタル科ウミホタル属ウミホタル Vargula hilgendorfii)やヤコウチュウ(渦鞭毛植物門ヤコウチュウ綱ヤコウチュウ目ヤコウチュウ科ヤコウチュウ属ヤコウチュウ Noctiluca scintillans)由来(海中の生物死骸等をコウモリが摂餌した際に附着した可能性を私は考えている)かも知れない。何らかの発光バクテリアやそれを共生させる発光植物類等も考え得るが、当時の江戸市中でそれらがコウモリに附着するほど有意に繁殖している場所を私は想起し得ない。

甲子夜話卷之五 32 長卷の事

5-32 長卷の事

眞田豐後守【幸善】語りしは、「大業廣記」の中に、小田原攻のとき、神君の御馬先に、長卷(ナガマキ)二百人とか三百人とかあり。其物は柄は三尺ばかり、刃は二尺ばかりのものと云ふ。今尾侯の家中、塚松彥之進と稱する人、この技の師範す。尾州居住と云。此兵器の用法は廣く傳へたきものなり。

■やぶちゃんの呟き

「長卷」「長巻の太刀」の略とされる。太刀の柄を一メートル余りの長さとしたもので、長大な野太刀の発生と同じく、斬撃戦用の武器として案出されたもの。江戸期に至って混同されたように、柄長で、石突(いしづき)をつけて、長刀(なぎなた)に類似したもので、また、長刀の形状発展にも影響したが、本来は太刀がその原形であるので、鞘はないものの、鐔を附け、長い柄には、一部分に組糸や革で巻き締めた柄巻(つかまき)も施される。「結城合戦絵詞」や、永正四(一五〇七)年成立の「細川澄元出陣影」に既に描かれることから、室町中期には盛行していたものと推定される(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。グーグル画像検索「長巻」をリンクさせておく。

「眞田豐後守【幸善】」江戸後期の大名で、老中・信濃松代藩第八代藩主の真田幸貫(ゆきつら 寛政三(一七九一)年~嘉永五(一八五二)年)の初名。ウィキの「真田幸貫」によれば、『徳川吉宗の曾孫に当たる。老中として天保の改革の一翼を担ったほか、藩政改革にも多くの成果を上げた。江戸時代後期における名君の一人として評価されている』とある。静山より三十一歳下。

「大業廣記」樋口栄芳(人物不詳)著「国朝大業広記」(こくちようたいぎようこうき)。徳川氏の来由、および天文一一(一五四二)年の家康の誕生から、元和二(一六一六)年の死没(没後の諸供養等の記事含む)までの、家康の事跡を中心とした編年体史書。明和元(一七六四)年自跋。

「小田原攻」「攻」は「ぜめ」。天正一八(一五九〇)年二月から七月の豊臣秀吉が家康軍を主力部隊として後北条を攻めた小田原征伐。

「尾侯」徳川御三家中筆頭格の尾張侯。尾張徳川家。

「塚松彥之進」不詳。

甲子夜話卷之五 31 暹羅國の古書翰

 

5-31 暹羅國の古書翰

[やぶちゃん注:「暹羅國」は「しやむろこく(しゃむろこく)」でタイ王国の古名(一九三九年までの正式国名)。以下は特別にまず返り点と送り仮名(カタカナ)を除去し句読点のみ残したものを示し、後に訓点に従って訓読したものを附す。その場合、漢文訓読に従った最低限の送り仮名を附した。また、どうしても読みに不都合が生ずる部分には、今回のみ、特異的に〔 〕で送り仮名や句読点を推定で補った。なお、底本では「明公」「日本國」「國王」「貴國」「王」などに於いて知られた礼法書式としての「平出」(へいしゅつ/びょうしゅつ:改行して行頭出しにすること)や闕字(けつじ:当該尊敬対象の単語の前を一字(時に二字)分空けること)らしきものが行われており、それらが二行に亙る場合は、一字下げを採っているが、ブラウザでの不具合を考え、字下げは無視した。訓読では繋げて機械的に句点部で改行した。書翰冒頭の一字下げのみ再現した。]

或人暹羅國の古書翰を示す。珍しければ茲に載。

 

 暹羅國臣握浮哪詩握科喇語末耶屢匕提匹喇那納興沙動勑釐、謹致書于

日本國臣酒井雅樂頭臺下。   恭惟、

明公紀綱明肅、綜理調停、雄鎭一方、藩屛金湯鞏固、撫綏萬姓、閻閭歌頌歡騰。偉政素著、芳聲邁聞、我

國王深嘉焉。茲奉我

國王普臘來森烈摩倫摩匹普臘勃妥照柔華普臘勃離照古郞席夏陸悃那華釐西啞出毘耶令旨。謂人共一天、國分兩地。海外諸邦、惟惟我國與

日本國、稱爲上最。自古以海道舟楫未通之時、傳聞

貴國威望名重。今則遐邇輳集、舟車所至、稔知

貴國地雄人傑。信諸邦視若天淵之異。今幸

天與良緣、同結和好。喜溢望外。第爲滄溟參商、不能親炙耿光以快素願。雖商舟絡繹、曾未得

王音頻教、盛使特臨、使知國土昇平、

起居殊勝。亦籍令諸邦咸羨我兩國厚愛之雅聲、名何其重耶。歳癸亥特遣使進短札菲儀、問候致敬。使囘拜喜

華翰厚貺。雖知

貴國政平俗美、永盟通和之意、止據本价之口說。故未得其眞。於心似有歉然爾。玆荷

貴國王餘波、國治民安、五穀登盛。惟柬埔寨逆醜尚未順服。必欲整師征討、歸向而後已。謹顓坤納實替悶通事啞烈越直那汪悅齎書。敢仗將此情由、轉啓

貴國王、詳知其意、視同一國、相期和好、與天地日月並久。更祈彼此使者、歲々無間、凡有所欲、惟命是聽。商舶所至、悉聽兩平交易、不致濡滯、依汛通歸。均祈一體是幸。外有鸞采野惇今陞浮哪臘那毘目納斜文低釐發舟。商販已經三載未囘。不知何望、鼎力維持遣歸。均感無涯、我

國王最喜貴地所產良驥。前年差人求買。未得其超絕者。煩爲留心搜求奇駿、許來役購買。務在必得以副我

國王素望之意。

明公輔佐忠誠。維持兩國、同于一家、功莫大焉、來役望賜囘音、依汛道歸。統惟

炤亮、不宣。

Kanboijiakokusi

   奉將

 敬意。筦留幸甚。

 

○やぶちゃんの書き下し文

暹羅國臣の握浮哪詩握科喇語匕末耶屢七提匹喇那納興沙動勑釐、謹〔み〕て〔、〕日本國の臣酒井雅樂頭台下に書を致す。

恭しく惟〔ふ〕れば、明公紀綱明肅、綜理調停、一方に雄鎭し、藩屛金湯鞏固、萬姓を撫綏し、閻閭歌頌歡騰す。

偉政素と著はれ、芳聲遙に聞ふ、我〔が〕國王深く嘉す。

茲に我〔が〕國王普臘來森烈摩倫摩匹普臘勃妥照柔華普臘勃離照古郞席夏陸悃那華釐西啞出毘耶の令旨を奉す。

謂ふ〔、〕人〔、〕一天を共にし、國〔、〕兩地を分つ。

海外の諸邦、惟惟〔、〕我國と日本國と、稱して上最と爲す。

古〔へ〕より海道舟楫〔、〕未だ通ぜざるの時を以〔て〕すら、貴國の威望〔、〕名重きことを傳聞す。

今は則〔ち、〕遐邇輳集し、舟車の至る所、貴國の地〔、〕雄に〔、〕人〔、〕傑なるを稔知す。

信に諸邦に視ふれば〔、〕天淵の異なるがごとし。

今〔、〕幸に〔、〕天〔、〕良緣を與へ、同じく和好を結〔ぶ〕。

喜望〔、〕外に溢る。

第第〔、〕滄溟參商なるが爲に、耿光に親炙して以〔て〕素願を快すること能はず。

商舟〔、〕絡繹すと雖〔も〕、曾て未だ王音〔、〕頻〔り〕に教へ、盛使〔、〕特に臨み、使〔ひす〕ることを得ず〔。〕

國土昇平、起居〔、〕殊に勝れるを知〔る〕。

亦〔、〕籍に諸邦をして咸〔、〕我〔が〕兩國厚愛の雅聲を羨〔ま〕しむるは、名〔、〕何ぞ其れ重きや。

歳の癸亥〔、〕特に使を遣して〔、〕短札菲儀を進め、問候〔、〕敬を致す。

使〔、〕囘る、華翰厚貺を拜喜す。

貴國〔、〕政〔、〕平〔らか〕に、俗〔、〕美に、永く通和の意を盟ふを知ると雖〔も〕、止止〔、〕本价の口說に據〔る〕。

故に未だ其〔の〕眞を得ず。

心に於て歉然たること有るに似たるのみ。

玆に貴國王の餘波を荷ひ、國〔、〕治〔ま〕り、民〔、〕安く、五穀登盛なり。

惟惟〔、〕柬埔寨の逆醜〔、〕尚〔、〕未だ順服せず。

必〔ず〕師を整〔へ〕て征討し、歸向して後〔、〕已〔め〕んと欲す。

謹〔み〕て坤納實替悶通事啞烈越直那汪悅を顓〔く〕して〔、〕書を齎す。

敢〔へ〕て仗る〔、〕此の情由を將〔つ〕て、貴國王に轉啓して、詳〔か〕に其意を知らしめ、視ること〔、〕一國に同〔じ〕、和好を相〔ひ〕期し、天地日月と並びに久しからんことを。

更に祈る〔、〕彼此の使者、歲々〔、〕間無〔く〕、凡そ欲する所有らば、惟惟〔、〕命〔、〕是〔れ、〕聽〔か〕ん。

商舶の至〔る〕所、悉く〔、〕兩平〔、〕交易することを聽し、濡滯を致さず、汛に依〔り〕て通歸せよ。

均しく祈る〔、〕一體に是〔れ、〕幸。

外に鸞采野惇今陞浮哪臘那毘目納斜文低釐が發舟〔、〕有〔り〕。

商販〔、〕已に三載を經て〔、〕未だ囘〔らず〕。

知らず〔、〕何〔をか〕望〔み〕、鼎力〔、〕維持して遣歸〔するかを〕。

均しく無涯に感ず、我〔が〕國王〔、〕最〔も〕喜ぶ〔、〕貴地〔、〕產する所の良驥。

前年〔、〕人を差〔は〕して求〔め〕買ふ。

未だ其〔の〕超絕なる者を得ず。

煩しく〔、〕爲に心を留〔め〕て奇駿を搜求し、來役に購買ふことを許せ。

務〔め〕て必〔ず〕得て以〔て〕我〔が〕國王〔の〕素望の意に副ふに在〔り〕。

明公輔佐忠誠〔たり〕。

兩國を維持して、一家に同ぜば、功〔、〕焉より大なるは莫〔く〕、來役に望む囘音を賜〔り〕て、汛〔に〕依〔り〕て遣歸せよ。

統〔て〕惟〔ふ〕るに〔、〕炤亮せよ、不宣。

[やぶちゃん注:以下、添えた原典の画像の文字列を電子化する。なお、二ヶ所に打たれた大きな丸印は意味不明。本邦の花押みたような、シャムの公文書の印なのか? 識者の御教授を乞う。

 

 歳丙寅孟夏望日  謹書

   謹具

     花幔帕肆端

 

     白絞沙肆端

 

   敬意を奉將す。筦留〔、〕幸〔、〕甚し。

 

書の始に酒井雅樂頭とあるは、按るに忠世と云し人なり。初名は萬千代。寬永譜に據に、元和三年父重忠卒するにより、仰を蒙て遺跡三萬三千石を領し、厩橋の城を賜ふ。擧用らるゝこと日々に進んで、政務を與り聞く。公家武家の事を沙汰し、異國他邦のことを相謀る【下略】。寬永十三年卒す。年六十四。然れば翰末に歲丙寅と云ものは、吾寬永三年にして、猷廟御代嗣の後四年に當る。台廟いまだ御在世の時の事なり。

■やぶちゃんの呟き

 総ての語をテツテ的に読解してここにそれを記す力は私にはないし、そのつもりも、さらさら、ない。そもそも「甲子夜話」の電子化コンセプトは「やぶちゃん注」ではなく、「やぶちゃんの呟き」なのでここでは特異的に気分次第なのである。しかし、それでも知らんぷりの知ったかぶりは嫌だから、相応の記載はしたつもりではある。まあ、しかし、この奇体なシャム国使節の漢訳された奉書の本文とそのケッタイな訓読の電子化とだけでも、やった意味は「ある」と私は勝手に納得している。恐らくは誰かがその内に私の杜撰なこれを見つけては正確な注解をものして呉れることであろう。それまで私が生きて居られるかは判らぬが、それを楽しみにしている。

「臺下」「だいか」。手紙の脇付の一つ。相手に対する敬意を表わす。

「握浮哪詩握科喇語匕末耶屢七提匹喇那納興沙動勑釐」長いけれど、これがそのシャム国の使節団団長の名前(官職や称号も含んだそれ)なのであろう。音で取り敢えず読んでおくと(歴史的仮名遣)、「アクフ(/ブ)ダシアクカラゴヒバツヤルシチダイ(/テイ)ヒツラナナウコウシヤドウライ(/チヤク)リ」辺りか。

「酒井雅樂頭」静山が後で記している通り、戦国から江戸前期の大名で老中・大老を務めた、上野那波藩主・伊勢崎藩主・厩橋藩(上野国群馬郡厩橋。現在の群馬県前橋市)藩主、雅楽頭(うたのかみ)系酒井家宗家第二代の酒井忠世(ただよ 元亀三(一五七二)年~寛永一三(一六三六)年)である。ウィキの「酒井忠世」によれば、『後世に成立した新井白石『藩翰譜』や『武野燭談』などの史料から、土井利勝や青山忠俊とともに家光が師事したとされる「三臣師傅説」に数えられている』。『酒井重忠の長男として三河国西尾(現在の愛知県西尾市)に生まれる。徳川家康に仕え、天正』一六(一五八八)年に『後陽成天皇の聚楽第行幸に供奉』し、天正十八年一月には『家康の継嗣・秀忠が豊臣秀吉に初見目した際に腰物役を務める。家康が関東へ入部すると』、『父の重忠とは別に加増され、武蔵国川越城主となる。以後は秀忠に付き、秀吉の朝鮮出兵では肥前国名護屋城に在陣』、慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」では六月の「会津征伐」、七月の第二次「上田合戦」に従った。慶長一〇(一六〇五)年に『将軍職を譲られた秀忠付きの筆頭年寄となり』、慶長十二年七月には『駿府城へ移った家康を賀し、雅楽頭に任じられる。大坂の陣では秀忠の旗本を務め』ている。元和三(一六一七)年七月、『父重忠が死去して遺領の厩橋』三万三千石を『継ぎ、それまでの領地と併せて』八万五千石となった。元和九(一六二三)年、『秀忠の嫡子である竹千代(徳川家光)の世継が確定すると、家光付きの家老のうち死没していた内藤清次の席を埋めるかたちで、従弟の忠勝とともに家光付きの年寄衆に加わ』った。寛永九(一六三二)年五月には『松平康長の後任として西の丸留守居となり、江戸城大橋外から家臣を引き連れて旧秀忠屋敷である西の丸へ移』ったが、その七『月に家光が増上寺へ詣でた際』、『中風を起こして倒れ、家光から養生を命じられる。幕政には復帰しているが』、寛永一一(一六三四)年六月、『家光が』三十『万の大軍を率いて上洛した際』、翌七『月に西の丸が火災で焼失する事態が起こり、忠世は報をうけた家光の命により寛永寺に退去し、失脚する。徳川御三家からの赦免要請もあり』、同年十二月には『登城が許され』、翌十二年二月に家光が『忠世を面謁』し、五月に『西の丸番に復職』したものの、『老中職からは退けられた』。寛永一三(一六三六)年三月に『大老に任じられたが、まもなく』六十五『歳で没』したとある。静山の示す通り、このシャム国使節団来訪は「寬永三年」「丙寅」(一六二六)年のことで、当時、彼は第三代将軍家光の老中の一人であった。なお、この当時、シャムには山田長政(天正一八(一五九〇)年頃?~ 寛永七(一六三〇)年)がおり、大佐級の軍人になっていたから、この使節団の背後には彼の長政の意図が働いているものとも思われる

「惟〔ふ〕れば」「かんがふれば」(考ふれば)と仮に読んだ。

「明公」高位者への尊称。底本では平出されている上に実は一字下げとなっている。これは最初なので平出と闕字を合わせたものと見ておく。なお、この当時の天皇は後水尾天皇(在位:慶長一六(一六一一)年三月~寛永六(一六二九)年十一月)である。無論、これは形式上で、その「王」の「配下」の事実上の支配者である家光をも暗に示唆する。

「紀綱明肅」で一語で、本邦の政(まつりごと)が道義的に正しく「綱」「紀」「肅」(粛)正(=「明」)されていることを示すものであろう。

「綜理」「総理」に同じで、全体を統合監督して管理処理すること。

「雄鎭」「ゆうちん」。一国を治めるに相応しい雄大なる勢力を有すること。

「藩屛」「はんぺい」。防備のための囲い。「国防」の意であろう。

「金湯」「金城湯池(きんじやうたうち(きんじょうとうち)」の略。「守りが非常に固く、攻めるのが難しい城」の形容から、転じて、「堅固にして他から侵害されることのない勢力範囲」の意。「漢書」の「蒯通(かいとう/かいつう)伝」に基づくもので、「湯池」は「熱湯を張り湛えた堀」のこと。

「萬姓を撫綏し」「ばんせいをぶすいし」。総ての国民を労わり、その生活を安定させ。

「閻閭」「えんりよ」。村里の門や都城内の区画のを指す語であるが、ここは本邦の都鄙或いは巷間の謂いであろう。

「歌頌歡騰す」「かしようくわんとうす」。人民は歌い褒め称え、歓びの声を高らかに挙げている。「鼓腹撃壌」を支配者賛美に変質させたもの。

「素と」「そと」。文字通り、そのままに。

「聞ふ」「きこふ」か。「聴こえてくる」の意か。

「我〔が〕國王普臘來森烈摩倫摩匹普臘勃妥照柔華普臘勃離照古郞席夏陸悃那華釐西啞出毘耶」やはり音を当ててみると、「フラウライシンレツマリンヒツフラウボツダシヤウシヂウクワフラウボツリシヤウコラウシヤク(セキ)カリクコンナクワリサイ(セイ)アシユツヒ(ビ)ヤ」か。シャムではこの年にアユタヤ王国(プラサートトン王朝)第二十七代プラーサートトーン王サンペット五世(一六〇〇年~一六五六年)が王位に就いている。「普臘」はその名に少し似ている感じがする。彼についてはウィキの「プラーサートトーン」を見られたいが、そこには、彼は『同時代にアユタヤ王朝に仕えた日本人傭兵山田長政』(彼はスペイン艦隊の二度に亙るアユタヤ侵攻を孰れも斥けた功績によって先のアユタヤ王朝の国王ソンタム(後述)の信任を得、シャムの王女と結婚し、第三位の官位と王からの賜名を授けられていたほどの高官であった)『と自身の即位をめぐって宮廷内で対立したため、これを左遷した後、密命によって毒殺したとオランダの史料は記している。更に』彼は、『反乱の恐れがあるとして日本人傭兵隊の本拠地と言えるアユタヤ日本人町を焼き払った。この事件以降、日本人勢力はアユタヤ王朝において軍事的・政治的な力を失い、二度と往時の権勢を取り戻すには至らなかった』とある。

「遐邇」遠い所と近い所、遠近。また、遠方も近辺も。後者であろう。

「輳集」「そうしふ」。一つ所に集まり来たること。

「稔知す」そうした認識が長年に亙って積まれてよく知られている。

「信に」「まことに」。

「視ふれば」「うかがふれば」か。比して見させて戴くならば。

「天淵の異なるがごとし」天と地もの違いがあるのと同じである。

「滄溟」「滄海」に同じ。

「參商」「しんしやう」。「參商之隔(しんしょうのへだて)」の略。「參」が現在のオリオン座の「参星」、「商」が蠍座の「商星」で、東西に遠く離れたこの二つの星は、空に同時に現れることはないということから、「距離が非常に離れているために、会う機会がないこと」を指す故事成句となった。別に、夫婦・家族が離別したり、不仲になることの悪い譬えとしても使われ、こちらの方が語源的には先で、古代中国の神話上の帝王嚳(こく:高辛氏とも呼ぶ)の二人の息子は仲が悪くて常に争いをしていたことから、父嚳が互いに遠く離れた参星と商星を掌らせたという伝説に基づくからである。

「耿光」「こうこう」。明瞭にちかちかと光り輝くこと。転じて、堂々として徳にすぐれていること。

「素願を快すること能はず」素懐(普段からの切なる願い)を遂げて心の底から喜ぶことが出来なかった。

「絡繹」「らくえき」。往来が絶え間なく続くこと。

「王音〔、〕頻〔り〕に教へ」本邦の王(この場合は形の上はやはりあくまで「天皇」を意味しつつも、実質上の支配者たる将軍を意識しているものと読まねばなるまい)の名声を頻(しき)りに拝聴して。

「盛使」厳かな正規の使者・使節団。

「籍に」「しきりに」か。

「咸」「みな」(皆)か。

「名〔、〕何ぞ其れ重きや」ここは「その名聞(みょうもの)たるや、どんなにか重いことでありましょうか」という強調形。

「歳の癸亥」「癸亥」(みづのとゐ/キガイ)は元和九(一六二三)年で、この寬永三(一六二六)年の三年前に当たる。但し、この時のシャム王はアユタヤ王国(スコータイ王朝)第二十四代ボーロマトライローカナートソンタム王ボーロマラーチャー一世(一五九〇年~一六二八年十二月十三日)であった。ウィキの「ソンタム」によれば、前君主であった『シーサオワパーク親王』『を処刑し、即位』した人物で、『ビルマとの戦で同士討ちを嫌ったポルトガル人傭兵隊が役に立たなかったところに、当時戦国時代を終えたばかりの日本から渡ってきた、津田又左右衛門を筆頭とする日本人』六百『人を傭兵として雇った。このころ、アユタヤ日本人町は隆盛を極めた』とある。なお、この時の奉書が何月であったか判らないが、この元和九年七月二十七日に家光は伏見城で将軍宣下を受けて、第三代将軍に就任している(満十九歳)

「短札菲儀」孰れも卑称の謙譲語で、「短札」は自身の書状を遜(へりくだ)って言う語、「菲儀」(ひぎ)は「薄謝」(如何にも粗末な礼物)の意。

「貺」音「キヤウ(キョウ)・カウ(コウ)」。「賜」に同じい。

「政」「まつりごと」。

「盟ふ」「ちかふ」(誓ふ)。

「止止」「ただただ」。

「本价」「ほんかい」。「我が方(シャム国)の使者」か。

「口說」「口頭の説明報告」か。

「歉然たる」「けんぜんたる」。「慊然」とも書き、「満足出来ないさま」の意。

「柬埔寨」「カンボジヤ」。カンボジア王国。当時の王政は弱体化しつつあり、ヴェトナムやシャムが侵攻を始めていた。

「逆醜」「逆らう下賤の輩(やから))」の謂いであろう。

「坤納實替悶通事啞烈越直那汪悅」「コンナウジツモン通事アレツエツチヨクナワウヱエツ」「通事」の前が地名か官職か、後が名前か。

「顓〔く〕して」「うやうやしくして」と読んだ。礼を尽くして。

「齎す」「もたらす」。

「仗る」「よる」。「依る」で「頼む」の意。

「情由」「じやういう」。現在、以上で述べたところの現在のシャム国の置かれている事情。

「轉啓」事実上は本書簡の内容意図を天皇に上奏することであろう。言わずもがな、ひいては事実上の実権者たる将軍へ伝えることであるが、或いは、だから天皇に直ちに上「奏」され、その奉書着信の許諾を天皇に認められた上で、次に実務判断を下す将軍へと転送されるという本邦のシステムを存知した上で、「轉」と「啓」(絶対敬語のの「奏」の次位の語)が使われているのかも知れない。

「視ること」「我が国(シャム)を認識されること」の意。

「一國に同〔じ〕」「天皇の支配なさっておられる日本国と同じ天(あめ)の下にある一国として」の意か。

「並びに」同様に。

「間無〔く〕」「お時間をおとらせすることなく」の意か。

「兩平」「隔てなく平等に」の意か。

「濡滯」「じゆたい」。滞ること。遅れること。躊躇って遅れること。「遅滞」に同じ。

「汛に」不詳。「注ぐ」とか「増水」とか「水」に関わる漢字だが、これ、「迅」で「すみやかに」の意ではなかろうか?

「通歸」スムースに交流交易を開始することを指すか。

「鸞采野惇今陞浮哪臘那毘目納斜文低釐」例の如く音で示すと、「ランサイヤトンキンシヨウフ(/ブ)ナラウナビモクナウシヤブンテイリ」か。

「發舟」「出航」か。

「三載」三年。

「囘〔らず〕」「かへらず」。本国に戻って来ていない。

「鼎力」人に依頼や感謝する際に用いて「大いに力を尽くすこと」の意。

「良驥」「驥」は一日にして千里を走る名馬。駿馬。「なんだ、それが欲しかったのか、シャムの王様は」と思うかも知れぬが、ネットで見出し得た数少ない、当時の国外との交易公文書を見ると、本邦は朝鮮にも良驥を贈呈している。本邦が駿馬の産地であることは中国・挑戦・ヴェトナムなどの東アジア一帯によく知れ渡っていたものと思われ、それはまた、シャムでは山田長政を通じて、より詳しく伝えられていたと考えてよいのではあるまいか。

「差〔は〕して」「さしつかはして」。

「來役」「さしあたり来たるところの最初の正式な交易」のことを指すか。

「購買ふ」二字で「あがなふ」と読んだ。

「明公輔佐忠誠〔たり〕」王(天皇→将軍)輔佐役酒井雅楽頭への。

「焉より」「これより」。指示語。

「囘音」「お応え」(応答)か。

「遣歸」「使者を(よい返書を下賜下さって)送り返すこと」か。

「統〔て〕」「すべて」。

「炤亮」「せいりやう(しょうりょう)」。「洞察」の意。

「不宣」「ふせん」。手紙の末尾に記し、「書きたいことを十分に尽くしてはいない」という意を表す謙遜の結語。「不一」「不尽」に同じい。

「孟夏望日」陰暦四月十五日でグレゴリオ暦五月十日である。

「花幔帕肆端」「白絞沙肆端」「帕」の音は「パ」。よく判らぬが、私が最終的に至った推理結果は、これは奉書に添えた贈答品の目録ではあるまいか? 「肆端」は「四反」(したん)の替え字で、「花幔帕」「白絞沙」ともに高級絹織物の名称のように私には見えるのだが? 識者の御教授を乞う。

「奉將す」「奉行」(行ひ奉る)に同じい。

「筦留」「くわんりゆう(かんりゅう)」であるが、よく意味が解らない。「筦」は「司る」の意があるから、「本奉書を気にとどめて相応に処理すること」を指すか。

「按るに」「あんずるに」。

「據に」「よるに」。

「仰を蒙て」「おほせをかうむりて」。

「擧用らるゝ」「あげもちひらるる」。

「與り」「あづかり」。

「吾」「わが」。本邦の。

「猷廟」家光。

「御代嗣」「およつぎ」と訓じておく。

「台廟」秀忠。彼の戒名「台德院殿興蓮社德譽入西大居士」による尊称。

 なお、辻善之助校訂「史料 異國日記(十四)」(立教大学学術リポジトリPDFでダウン・ロード可能)の最後の方に、この文書と大炊頭藤原(土井)利勝(元亀四(一五七三)年~寛永二一(一六四四)年:当時は老中で下総国小見川藩主。徳川家康の母方の従弟(家康の落胤説もある)に当たり、家康・秀忠・家光の三代に亙って老中(最後は大老)職を務め、絶大な権力を誇った)と雅楽頭藤原(酒井)忠世の返書二通(但し、総て白文)が載る。それを見るに、馬は確かに返礼として贈っているように書かれてある。

2019/06/12

春の歌 清白(伊良子清白)

 

春 の 歌

 

みどりいろこき野のすゑを

きよき小川ぞ流れける

きよき小川をきて見れば

れんげの花ぞ流れける

 

流しつ摘みつはるの日を

かれはひねもすあそぶなる

摘みつ流しつはるの日を

かれはひねもすうたふなる

 

   ○

 

ゆめにうぐびすおとづれて

こがねの鈴をならしゝが

うつゝに蛙なきいでゝ

泥の海となしにけり

 

ゆめにこてふの舞ひいでゝ

花の粉雪をふらしゝが

うつゝに蟇のあらはれて

軒の蚊柱すひにけり

 

   ○

 

をとめマリアのあらはれて

千々の寶をたびにけり

ことにすぐれてめでたきは

ちごのおもわのうつくしさ

 

二人のあねは雲にのり

一人のあねは草にたち

みそらの雨にうるほひて

ちごを守ると見えにけり

 

[やぶちゃん注:明治三六(一九〇三)年六月十五日発行の『文庫』(第二十三巻第四号)掲載。署名は「清白」。この年、伊良子清白満二十六歳。一月から三月までに、「鬼の語」「花賣」「旅行く人」(孰れも後の詩集「孔雀船」に改作して所収)などの詩を次々に発表し、四月からはシラー・ハイネ・ウーラントなどのドイツ語の詩の翻訳作業に没頭、十一月の発表までを合わせると、二十六篇に及んだ。実生活では、横浜市戸部町から神田三崎町に転居し、『恵まれた文学環境』に至ったと思った最中、『父窮す、の報が』それを『破った』。父『政治の』『負債は総計』五千三百八十『円にのぼっ』ており、伊良子清白は貯えていた『預金の半ば近くを引き下ろし』、父に『送金』するとともに、『歩合制の嘱託医として三重県一帯をまわ』るという事態となった。なお、『この時の旅から、長篇詩』「海の聲山の聲」(この内の一部(「上の卷」内の「一」を独立させたもの)が後の詩集「孔雀船」に「海の聲」と改題改作されて所収された)『が生まれた』。この年の『十二月二十五日、父とともに』和歌山県東牟婁郡の『古座から和歌山市に移り』、父のこれまでの負債『清算と新規開業のために奔走』するという(引用は底本全集年譜に拠る)、波乱があった年でもある。]

甘き木の葉を手に載せて 清白(伊良子清白)

 

甘き木の葉を手に載せて

 

 

   

 

尊き君の手に解れて

よみがへりたるわが戀よ

尊ききみの手にふれて

花に隱るゝわが戀よ

 

尊き君の手に觸れて

形失ふわが戀よ

尊ききみの手にふれて

罪と知りぬるわが戀よ

高き調の悲哀(かなしみ)と

淸きしらべのほこりとを

生れながらにそなへたる

尊き君よこび人よ

 

丈(たけ)にあまれる黑髮を

雙(そう)のかひなにまつはせて

沖の小岩にたゞずめる

尊き君よ戀人よ

 

   

 

夢としいはゞ夢ならむ

あゝ夢よりもさらに夢

月に更けたる松原の

彼方に續く砂原

 

繪を見るごとき海の面に

月の光はかゞやきぬ

きみとふたりが手をとりて

渡らば愛の花咲かむ

 

甘き木の實を手に載せて

行くは夏の夜磯づたひ

高きにさめしわが戀は

再び君と醉(ゑ)ひにけり

 

[やぶちゃん注:明治三五(一九〇二)年九月十五日発行の『文庫』(第二十一巻第二号)掲載。署名は「清白」。]

新綠 清白(伊良子清白) / 河合酔茗との合作(初出形復元)

 

新 綠

 

 

  雜司ケ谷鬼子母神に詣でゝ

 

江戶の面影、並木道

古き榎(えのき)は荒くれて

行く人小さし見上ぐれば

日は勝ち若き葉に透る

 

雜司ケ谷(やつ)の樹の煙

蒸せて汗じむ古衣(ふるごろも)

冬の名殘のありありと

春は目につく薄汚(うすよご)れ

 

羽蟲を避けて木に隱る

都少女のかげ見えて

暮れ行く春の絲遊は

鳩の翼の銀を縫ふ

 

涅槃(ねはん)五千の春の暮

無數の童子(どうし)あらはれて

供養、飛行を見るごとく

みだれみだれて花ぞ散る

 

足蹠(あうら)冷たく僧は過ぎ

瓔珞(やうらく)寂(じやく)に垂るる時

圓(まろ)き桂の繪に擦れて

白毛、拂子空(くう)を飛ぶ

[やぶちゃん注:本最終連三行目の「桂」は「柱」の誤植の可能性が高い。]

 

  晚春鶯賦

 

のぞみ、やはらぎ、悲みの

汝(な)が聲聞けば鶯よ

野邊の若葉の春の暮

「不思議」流るる心地する

 

美しき物人を去り

屬(たぐひ)も低き花鳥(はなどり)に

うつるは何の現象(あらはれ)ぞ

愧づ、われまたも樹を仰ぐ

 

瘦せたる鳥よ永劫に

女の胸は薄からん

嗚呼その聲の持ち主は

愁を語るつとめあり

 

夕の文(あや)は黑牡丹(こくぼたん)

聞くが如し薄墨の

闇を怖れぬ鶯は

靈(れい)なればなりいと高き

 

 

  十二社にて

 

茶汲女、興をたすけんと

他の緋鯉に麩を投げて

掌たゝくものごしの

こゝは都に遠からず

この子都路に家を持ち

母屋に鳩飼ふ過世(すぐせ)ならば

訛語(なまり)にはぢて積藁(つみわら)の

くどのかげにや隱れしを

 

藤山吹に行く春の

よきまらうどを送りても

瑞枝かげさすおばしまに

鏡は出さじふところの

 

聲も若きに鶯の

出ては野邊に捕らるゝを

けなげや君は花の上に

羽づくろひして世にゆかず

 

都少女がさゞめきの

もゝ囀りをよそにして

若葉のかげのさはやかに

襟くつろげて君と語らむ

 

[やぶちゃん注:これは明治三五(一九〇二)年五月十五日発行の『文庫』(第二十巻第三号)掲載。河合酔茗との合作。署名は「清白」。この年、伊良子清白、満二十五歳。三月に横浜海港検疫所が廃止となり、検疫医の任を解かれ、翌四月からは、内国生命保険会社に調査医として勤務した。同時に四月から九月まで、独逸協会学校独逸語専修科に入り、ドイツ語の学び直しを始めた(それが翌年明治三十六年と三十九年に『文庫』に発表されるハイネ・シラー・ウーラントなどの多くの訳詩に発揮されることとなる)。六月十三日から八月五日にかけて、同前の保険診査医として庄内平野の鶴岡・酒田などを拠点として出張旅行をしている。しかし、八月、同職を依願退職し、九月、東京外国語学校本科独逸語学科に入学している。しかし、十月には退職した内国生命から再び嘱託診査医の辞令を受けて復職している(その後の東京外国語学校の学籍等については、参考にしている底本全集年譜には記されていないので不明)。同月、京都医学校より「医学得業士」の称号(旧制専門学校の医学専門学校の卒業生に与えられた称号)が届いている。十月三十日より診査医として信越地方へ十日ほどの出張旅行をしたが、この帰途、秋和に滝沢秋暁を訪ね、既に電子化した、後の詩集「孔雀船」に所収されることとなる「秋和の里」が詠まれた。

 さて、本篇は一部を既に「新綠(雜司ケ谷鬼子母神に詣でて)」「晚春鶯語賦」の注で電子化している。それは、後に伊良子清白が三篇の内、「十二社にて」の前の二篇のみを昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」(全電子化済み)に少し手を入れてそれぞれ独立作として収録していたためである。しかし、ここで問題なのは、この三篇が合作であることである。何故、伊良子清白は最後の「十二社」を同作品集に再録しなかったのかを考えてみると、この詩篇が収録に値せずと彼が考えたとするよりも、この「十二社」のみはその主詠者が酔茗だったから、それを控えたのではなかったか? という推理である。

「十二社」「じうにそう(じゅうにそう)」と読む。東京都新宿区西新宿二丁目にある新宿総鎮守である熊野神社の古名。ウィキの「熊野神社(新宿区)によれば、『当神社は中野長者と呼ばれた室町時代の紀州出身の商人・鈴木九郎によって応永年間』(一三九四年~一四二八年)『に創建されたものと伝えられている』(天文(一五三二年~一五五五年)或いは永禄(一五五八年~一五七〇年)『年間に当地の開拓を行った渡辺興兵衛という人物が祀ったという異説もある)。『鈴木九郎は代々熊野神社の神官を務めた鈴木氏の末裔で、現在の中野坂上から西新宿一帯の開拓や馬の売買などで財を成し、人々から「中野長者」と呼ばれていた。鈴木九郎は当初』、『自身のふるさとである熊野三山の若一王子を祀ったところ、商売が成功し家運が上昇したので』、『後に熊野三山から十二所権現をすべて祀るようになったのが始まりとされている。かつて存在した付近の地名「十二社」(じゅうにそう)はこれに因んでいる。この地名は現在でも通り(十二社通り)や温泉(新宿十二社温泉)の名などに見られる』。『神社境内には大きな滝があり、また隣接して十二社池と呼ばれていた大小ふたつの池があり、江戸時代には付近は江戸近郊の景勝地として知られていた。江戸時代には熊野十二所権現社と呼ばれていた。江戸時代あたりから付近には茶屋や料亭などが立ち並びやがて花街となっていった。最盛期には茶屋や料亭が約』百『軒も並んでいたという。この賑わいは戦前まで続いていた』とあるから、この「茶汲女」というのが腑に落ちる。『その後』、『明治時代に入り名が熊野神社となり、その後神社の滝や十二社池は淀橋浄水場の造成や』、『付近の開拓により姿を消し』、『景勝地としての様相は徐々に見られなくなっていった。しかし、熊野神社はその後』、『付近が日本有数の高層ビル街と変貌した現在でも新宿一帯の守り神として人々から信仰を得ている』。『祭神は櫛御気野大神』(くしみけぬのおほかみ:素戔嗚尊の別名)『・伊邪那美大神』とある。]

龍頭鷁首 清白(伊良子清白)

 

龍頭鷁首

 

 

  天 の 河

 

戀の臺の夢語り

葡萄葉深く露深く

軒端を走る栗鼠の

早きを時に恨みけり

 

椽に亂るゝ四つの袖

ほのめき光る夕つゞは

雲紫の西の方

情の花を照らすかな

 

耻らふらしく繪團扇の

影にかくるゝ戀人よ

涼しき風に端居して

夢見る勿れ星の眸

 

繁りあひたる八重葎

蚊柱たゝぬ庭石に

昔の跡を尋ぬれば

逢瀨久しき愁かな

 

嵐をいたみ雨をわび

若き命を惜しむまに

君とわれとに橫へて

白く流るゝ天の河

 

 

  蠟燭の火

 

暈をかぶれる蠟燭の

てらせる方にかたぶきて

眞白に咲ける山百合の

花の恐をさそふなり

 

巖の室なる壁のへに

のこりてともる火のために

血汐ぞ踴るいかなれば

かくまで弱きわれならん

 

迷の宮をさまざまに

つくりてくづす室の口

風に消えむの火の上に

あやしく惜しき思あり

 

火は消えにけりおどろきて

蘿閉せる巖を攀ぢ

みづからともす蠟燭の

美しき火を樂みぬ

 

[やぶちゃん注:明治三四(一九〇一)年九月五日発行の『文庫』(第十八巻第五号)掲載。署名は「清白」。

「龍頭鷁首」読みは「りようとうげきしゆ(りょうとうげきしゅ)・りゅうとうげきしゅ(りゆうとうげきしゆ)・りようとうげきす(りょうとうげきす)」。船首にそれぞれ、竜の頭と鷁(中国の想像上の水鳥。白い大形の鳥で風によく耐えて大空を飛ぶとされた。私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鷁(げき)〔?〕」を参照されたい)の首とを彫刻した二隻一対の船の呼称。中国由来であるが、本邦でも平安時代に貴族が池や泉水などに浮かべ、管弦の遊びなどをするのに好んで用いた。]

2019/06/11

夏祭 伊良子清白

 

夏 祭

 

雲の峯湧く眞晝中

顔(ぬか)より汗は溢(こぼ)れ出で

高くもうつか腕の脈

かつげや神輿(みこし)練(ね)れや町(まち)

 

胸は廣くも露はれて

聳ゆる肩や怒り肉(じし)

白き埃(ほこり)に塗(まみ)れたる

毛脛(けづね)は集(つど)ひ亂れけり

 

碎けて落つる金(きん)の鈴

亂れ打ちふる神の輿(こし)

心を奪ひ目を奪ひ

町を縱橫(たてよこ)練りて行く

 

出で入る息(いき)は荒立ちて

妻子(つまこ)も知らず家も見ず

太(ふと)き縞(しま)なる浴衣地(ゆかたぢ)の

肌ぬぎすつる男振り

 

汗と膩(あぶら)の眼に入りて

眩(くら)む彼方(かなた)の夏霞(なつがすみ)

咽喉(のんど)の渴(かわ)き鬨(とき)の聲

かつげや神輿(みこし)練れや町(まち)

 

[やぶちゃん注:明治三四(一九〇一)年九月五日発行の『明星』(第十五号)掲載。署名は「伊良子清白」。]

水仙の葉 清白

 

水仙の葉

 

むねに開くも花ならむ

むねに凋むも花ならむ

をとめの身にて强からば

さしもいたみを覺えずや

 

人めもはぢよ人の世に

美しきものゝ强かるは

すでにいたみを身にうけて

いまだ癒えぬをしめすなり

 

あらず弱きはをとめなり

水仙の葉のたをやかに

おひいでゝこそ冬空の

高く澄めるを持てるなれ

 

常に瞳はかゞやきて

常に唇しつかなる

をとめのために御空より

濃き甘露(あまつゆ)はくだるなり

 

[やぶちゃん注:明治三四(一九〇一)年八月十五日発行の『文庫』(第十八巻第二号)掲載。署名は「清白」。なお、底本全集の「著作年表」に載るデータでは、同じ明治三四(一九〇一)年八月の先立つ一日に発行された『明星』(第十五号)の「郭公の歌」で彼は「伊良子清白」の署名を初めて使用している。また、古巣の『文庫』誌では、彼がこの「清白」署名を用いた最初の作品となった。]

朝みだれ すゞ(伊良子清白)

 

朝みだれ

 

鐘よりつゞく鳥の聲

聞くや朝日の影はれて

君を夢みしあかつきは

人目忍びてくしけづる

振分髮の朝みだれ

 

[やぶちゃん注:明治三四(一九〇一)年五月二十五日発行の『東海文學』(第一巻第五号)掲載。署名は単に「すゞ」。]

冨士椿 すゞしろのや(伊良子清白)

 

冨 士 椿

 (旅にて)

 

一ゆりゆれて南に

くづるゝ山や足柄の

果にあたりて箱根山

春の霞に歷史あり

 

はたけはたけの燒岩の

蛇紋の渦や麥五寸

それよ嶮はしき坂路に

つかれて下る廣野原

 

椿まづしき赤鳥居

鳩は噴火の夢をよぶ

葉がくれ落つる花の名に

强て名づくる富士つばき

 

市女小笠のま深にて

海道百里の花さかり

恩賜の琵琶を抱き行く

落人あらばふさはしき

 

[やぶちゃん注:明治三四(一九〇一)年四月十五日発行の『東海文學』(第一巻第四号)掲載。署名は「すゞしろのや」。底本全集著作年表では伊良子清白が「すゞしろのや」と署名する最後の作品である(次の「朝みだれ」は単に「すゞ」)。]

薔薇の毒 すゞしろのや(伊良子清白)

 

薔薇の毒

 

美の神々のみ手よりそ

こぼれおちたる白露の

凝りて成りたるをとめゆゑ

そのこのはだはきよくして

かりの疵さへあらざりき

 

一日うらゝに空はれて

やわらかにふく春の風

小草ふみわけをとめごは

うばら匂へる野の奧の

花の園生にきたりけり

 

千本の花の園生には

あかきのみこそさきにけれ

あかきうばらは野の風も

やへのかすみもおくつゆも

みなくれなゐにそめにけり

 

にほへる花の一枝を

をらんとすればあやにくの

刺はするどくをとめごの

たまの小指をきづつけて

血汐はきぬにしたゝりぬ

 

うまれてしより人の身の

血を見しことのあらざれば

またくうばらのくれないの

毒にそまりてあしざまに

指はいたむとおもひけり

 

年へてをとめうつぐしき

國のクヰーンとなりけるが

はじめておきし掟には

あかきうばらはとこしへに

うゝるなかれとかゝれけり

 

[やぶちゃん注:明治三四(一九〇一)年二月十二日発行の『東海文學』(第一巻第三号)掲載。署名は「すゞしろのや」。

「美の神々のみ手よりそ」の「そ」、「年へてをとめうつぐしき」の「ぐ」はママ。]

 

短篇一章 すゞしろのや(伊良子清白)

 

短篇一章

 

筆筒孔雀の尾羽(をば)を拔きて

弄(ろう)ずる紅顏(こうぐわん)君の爲に

興(きよう)ある傳奇(でんき)講(かう)じ行けば

梅花(ばいくわ)机頭(きとう)の席(せき)に點(てん)ず

 

氷踏みて藪の前に

橇引く群の後(あと)な追ひそ

裾長紫地に觸るゝを

女人(によにん)と嘲る童子(どうじ)あらん

 

藏(くら)の小窓(こまど)に獨り凭(もた)れ

柔(やら)かき髮を柱に垂れて

春の午(ご)葉を卷き笛に啣めば

囀(てん)ずる鶯律(りつ)を補ふ

 

名門(めいもん)の子氏(うぢ)を憚り

野路(のぢ)の末の蓬(よもぎ)に隱れ

時俟つ身と知らず

技藝(ぎげい)の園(その)に落ちんとす

 

[やぶちゃん注:明治三四(一九〇一)年一月一日発行の『國文學』(第二十五号)掲載(雑誌書誌不詳。底本全集の「著作年表」にはこの誌名と号数の後に『「初日影」』とあるが、これは新年号の謂いか? よく判らぬ)。署名は「すゞしろのや」。

「啣めば」「ふくめば」。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(34) 「池月・磨墨・太夫黑」(1)

 

《原文》

池月・磨墨・太夫黑   名馬池月ハ陸奧七戶立ノ馬ニテ鹿笛(シヽブエ)ヲ金燒ニ當テタル五歲ノ駒云々ト云フコトハ、口拍子ニモ言ヒ馴レタル盛衰記ノ本文ナルニ、妙ニ諸國ニ其出生地ト名乘ル處多シ。今試ミニ其數箇例ヲ擧ゲンカ。奧州三戶ニ在リテハ池月ハ名久井嶽(ナグヰダケ)ノ麓ノ牧住谷野(スミヤノ)ニ於テ生ルト云フ。【龍住ム池】嶽ノ頂ニ池アリ、龍アリ之ニ潛ミ住ム。一夜月明ニ乘ジテ牧ノ駒登リテ其水ヲ飮ミ忽チニ駿馬トナル。仍テ池月ト名ヅク云々〔糠部五郡小史〕。此說ハ最モ古記ノ所傳ニ近キガ如キモ、其由來ニ傳說ノ香高キノミナラズ、磨墨太夫黑スべテ同ジ牧ノ產ナリト稱スルガ如キ、寧ロ比較ヲ怠リタル地方學者ノ輕信ナリ。【月山權現】是レ恐クハ山ニ月山權現ヲ勸請セシ後ノ話ニシテ、池ト云ヒ名馬ト云フガ爲ニ乃チ池月ノ名ヲ推定セシナランノミ。羽後仙北郡南楢岡村大字木直(キツキ)ニテハ、池月ハ彼地ニ生レタリト云ヘリ。木直ハ古クハ木月ト書キ又七寸(シチキ)トモ唱フ。池月生レ落チテ其長四尺七寸(ヨサカナヽキ)アリシ故トモ云ヒ、又木月ハ「イキツキ」ノ上略ナリトモ說明シタリ〔月乃出羽路〕。此村ニ就キテハ後ニ猶一ツノ話アリ。同國飽海郡日向(ニチカウ)村大字下黑川ニ於テハ、池月ハ此村ノ百姓與平ナル者ノ先祖ガ獻上スル所ト稱ス。【池】村ニ一處ノ古池アリ。往昔此池ヨリ龍馬出デテ嘶キ、與平ガ家ノ牝馬之ニ感ジテ池月ヲ產ムト云フ。【馬塚】其母馬ノ塚ハ今モ此地ニ殘レリ〔三郡雜記上〕。羽前南村山郡西鄕村大字石曾根モ亦同ジ名馬ノ故鄕ナリト傳ヘラル。此村ノ地以前ハ大ナル沼ニシテ龍蛇之ニ住ス。池月ハ則チ之ヲ父トシテ生レシナリ。【駒ケ池】其後沼ノ水次第ニ乾キ、今ハ小サキ池トナリテ名ノミ昔ノ駒ケ池ト呼ブト云フ〔山形縣地誌提要〕。岩代河沼郡ノ谷地(ヤチ)ト云フ村ニモ之ト似タル傳說アリキ。【四十八沼】村ノ羽黑神社ノ境内ニ古クハ四十八箇ノ沼アリ。【竈】其最モ大ナルヲ親沼又ハ竈沼ト云フ。竈沼ノ主ハ則チ月毛ノ駒ニシテ、名馬池月ハ其子ナリ。此因緣ヲ以テ近世マデモ此邊ニ牝馬ヲ放牧スレバ往々駿馬ヲ得ルコトアリト信ゼラル〔新編會津風土記〕。越後西蒲原郡岩室村大字樋曾(ヒソ)モ亦池月ノ生レタル地ト稱ス〔越後名寄三十一〕。即チ彌彥山ノ麓ナリ。彌彥ノ神ハ或ハ特ニ駒形ト緣故多キ神ナリシカ、此山ノ北麓ノ米水浦ニモ竃窟ト云フ洞アリテ靈泉湧出ス〔地名辭書〕。【島ノ牧】能登鹿島郡中之島村大字向田(カウダ)ト云フ村ノ池ニ、昔一頭ノ馬ノ牧ヨリ出デ來タリテ住スルアリ。之ヲ此村ノ彌彥神社ノ神馬ニ獻ジタリシヲ、比類無キ名馬ナルコト世ニ聞エテ終ニ鎌倉殿ニ之ヲ奉ル。其折ノ賴朝公ノ下文及ビ梶原ガ添狀、共ニ判形アル者ヲ村ニ傳フルガ何ヨリノ證據ナリ。馬ノ名ヲ池好(イケズキ)ト呼ビシモ、全ク常ニ水邊ヲ愛シテ住ミシ爲ナリト云フ〔能登國名跡志〕。而シテ此地ハ疑モ無ク古代ノ島ノ牧ナリ。

 

《訓読》

池月・磨墨・太夫黑(たいふぐろ)   名馬池月は陸奧七戶立(しちのへだち)の馬にて、鹿笛(しゝぶえ)を金燒(かなやき)[やぶちゃん注:焼印。]に當てたる五歲の駒云々と云ふことは、口拍子にも言ひ馴れたる「盛衰記」の本文なるに、妙に諸國に其の出生地と名乘る處、多し。今、試みに其の數箇例を擧げんか。奧州三戶に在りては、池月は名久井嶽(なぐゐだけ)の麓の牧、住谷野(すみやの)に於いて生まると云ふ。【龍住む池】嶽の頂きに池あり、龍あり、之(ここ)に潛み住む。一夜、月明に乘じて、牧の駒、登りて、其の水を飮み、忽ちに駿馬となる。仍(よ)つて「池月」と名づく云々〔「糠部(ぬかべ)五郡小史」〕。此の說は、最も古記の所傳に近きがごときも、其の由來に、傳說の香(か)、高きのみならず、磨墨・太夫黑、すべて、同じ牧の產なりと稱するがごとき、寧ろ、比較を怠りたる地方學者の輕信なり。【月山權現】是れ、恐らくは、山に月山權現を勸請せし後の話にして、池と云ひ、名馬と云ふが爲めに、乃(すなは)ち、池月の名を推定せしならんのみ。羽後仙北郡南楢岡村大字木直(きつき)にては、池月は彼の地に生れたりと云へり。木直は古くは「木月」と書き、又、「七寸(しちき)」とも唱ふ。池月、生れ落ちて、其の長(たけ)四尺七寸(よさかなゝき)ありし故とも云ひ、又、木月は「いきつき」の上略なりとも說明したり〔「月乃出羽路」〕。此の村に就きては、後に、猶ほ一つの話あり。同國飽海(あくみ)郡日向(にちかう)村大字下黑川に於いては、池月は此の村の百姓與平なる者の先祖が獻上する所と稱す。【池】村に一處の古池あり。往昔、此の池より龍馬出でて、嘶き、與平が家の牝馬、之れに感じて、池月を產むと云ふ。【馬塚】其の母馬の塚は今も此の地に殘れり〔「三郡雜記」上〕。羽前南村山郡西鄕村大字石曾根も亦、同じ名馬の故鄕なりと傳へらる。此の村の地、以前は大なる沼にして、龍蛇、之(ここ)に住す。池月は、則ち、之れを父として生れしなり。【駒ケ池】其の後、沼の水、次第に乾き、今は小さき池となりて、名のみ、昔の「駒ケ池」と呼ぶと云ふ〔「山形縣地誌提要」〕。岩代河沼(かはぬま)郡の谷地(やち)と云ふ村にも、之れと似たる傳說ありき。【四十八沼】村の羽黑神社の境内に古くは四十八箇の沼あり。【竈】其の最も大なるを「親沼」又は「竈沼(かまどぬま)」と云ふ。「竈沼」の主(ぬし)は、則ち、月毛の駒にして、名馬池月は其の子なり。此の因緣を以つて、近世までも此邊に牝馬を放牧すれば、往々、駿馬を得ることありと信ぜらる〔「新編會津風土記」〕。越後西蒲原郡岩室村大字樋曾(ひそ)も亦、池月の生れたる地と稱す〔「越後名寄」三十一〕。即ち、彌彥山(やひこさん)の麓なり。彌彥の神は、或いは特に駒形と緣故多き神なりしか、此の山の北麓の米水浦(よねみづうら)にも「竃窟(かまどのいはや)」と云ふ洞ありて、靈泉、湧出す〔「地名辭書」〕。【島の牧】能登鹿島郡中之島村大字向田(かうだ)と云ふ村の池に、昔、一頭の馬の、牧より出で來たりて住するあり。之れを、此の村の彌彥神社の神馬に獻じたりしを、比類無き名馬なること、世に聞えて、終(つひ)に鎌倉殿に之れを奉る。其の折りの賴朝公の下文(くだしぶみ)及び梶原が添へ狀、共に判形(はんぎやう)ある者を村に傳ふるが、何よりの證據なり。馬の名を「池好(いけずき)」と呼びしも、全く常に水邊を愛して住みし爲めなりと云ふ〔「能登國名跡志」〕。而して此の地は、疑ひも無く古代の「島の牧」なり。

[やぶちゃん注:「七戶立(しちのへち)」青森県上北郡七戸町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)はここ。これは「戸立(へだち)馬」のことで奥州最大の駿馬の産地であった糠部郡(ぬかのぶのこおり:現在の岩手県と青森県に跨る)の「戸(へ)」のつく名馬産地の産であることを示す一種のブランド的呼称で、鎌倉時代前期には既に知られていた。

「鹿笛(しゝぶえ)」猟師が鹿を誘(おび)き寄せるために吹く、鹿の鳴き声に似せた笛。本邦のそれは、竹や鹿の角に、鹿の胎児の皮や蟇蛙の皮を張って作った。

『「盛衰記」の本文』「源平盛衰記」(わたしは「じょうすいき」と読むことにしている)の巻第三十四」の「東國兵馬の汰(さた)並びに佐々木、生唼(いけずき)を賜ふ」「事」の一節。引用は示さない。何故なら、「日本文学電子図書館」(J-TEXT)の国民文庫版を加工用に用いたものの、私が多量に字を推定で規定し、読み易く勝手に推定で訓じたものだからである(私は「源平盛衰記」は前半分の活字本しか持っていない)。これは書誌学的に正規表現の原文ではないので、引用は避けられたいである。

   *

[やぶちゃん注:前略。]此中に佐々木、梶原、馬に事をぞ闕たりける。折節、祕蔵御馬三匹也。生唼・磨墨・若白毛とぞ申しける。陸奥國三戶立(さんんへだち)の馬、秀衡が子に元能冠者が進めたるなり。太く逞(たくま)しきが、尾髮、あくまで足りたり。此の馬、鼻、强くして、人を釣りければ、異名には「町君」と付けられたり。生唼とは黑栗毛の馬、高さ八寸、太く逞しきが、尾の前、ちと白かりけり。當時五歲、猶もいでくべき馬也。是も陸奥國七戶立の馬、鹿笛を金燒きにあてたれば、少も紛るべくもなし。馬をも人をも食ひければ生唼と名たり。梶原源太景季、佐殿の御前に參りて、

「君も御存知ある御事に候へども、弓矢取る身の敵に向ふ習ひは、能き馬に過ぎたる事なし。健馬に乘りぬれば、大河をも渡し、巖石をも落とし、蒐(あつむ)るも引くも、たやすかるべし。力は樊噲(はんくわい)、張良が如くつよく、心は將門、純友が如くに猛けれども、乘りたる馬、弱ければ、自然の犬死をもし、永き恥をも見事に侍り。されば生唼を下し預りて、今度(このたび)、宇治河の先陣、つとめて、木曾殿を傾け奉り候ばや。」

と、傍若無人に、憚る所なく、申したり。

 佐殿、良(やや)案じ給けるは、

『我、土肥の杉山に、七人、隱れ居(ゐ)たりしに、梶原に助けられて、今、世に出づる事も、忘れ難き思ひなり、賜らばや。』

と思し召しけるが、又、案じて、

『蒲冠者も人してこそ所望申しつれ、景季が推參の所望、頗る狼藉なり。又、是れ程の大事に、馬に事闕(ことか)きたりと申すを、たばでも如何(いかが)有るべき。』

と、左右(さう)を案じて宣(のたま)ひけるは、

「景季、慥(まこと)に承れ。此の馬をば、大名小名・八箇國の者ども、内外につけて、所望ありき。就中(なかんづ)く大將軍に差し遣はす蒲冠者が、『ひらに罷(まか)り預らん』と云ひき。然(しか)れども、源平の合戰、未だ落ち居ず、木曾追討の爲めに東國の軍兵、大旨(おほむね)、上洛す。知んぬ、平家と木曾と一つに成りて大きなる騷ぎと成さなば、賴朝も打ち上ぼらん時は、馬なくても、いかゞはせん、其の時の料(れう)にと思ひて、誰々(たれたれ)にも給はざりき。是れは、生唼にも相ひ劣らず。」

とて、磨墨を、たびにけり。景季は生唼をこそ給らねども、磨墨、誠に逸物なりければ、咲(ゑ)みを含み、畏(かしこ)まつて罷り出づ。黑漆しの鞍を置き、舍人(とねり)、餘多(あまた)付けて、氣色(けしき)してこそ引かせたれ。

   *

「名久井嶽(なぐゐだけ)の麓の牧住谷野(すみやの)」中世、南部氏がより馬産供給に応えるために形成した「南部九牧」の一つ「住谷野牧」で青森県三戸郡の旧名久井村、現在の青森県三戸郡南部町にあった(リンク先は「歴史的行政区域データセット」の同村。グーグル・マップ・データではこの南北一帯)。「南部九牧」は他に「北野牧」(現在の岩手県九戸郡洋野町大野附近。グーグル・マップ・データ。以下同じ)・「三崎牧」(青森県九戸郡野田村)・「相内牧」(青森県三戸郡南部町相内)・「又重牧」(青森県三戸郡五戸町倉石又重及び五戸町等)・「木崎牧」(青森県三沢市及びその南の上北郡おいらせ町百石地区)・「蟻戸牧」(青森県上北郡野辺地町)」・「大間牧(青森県下北郡大間町)」・「奥戸牧(同大間町奥戸)」。

「地方學者」近世以前の研究者を指す。

「羽後仙北郡南楢岡村大字木直(きつき)」現在の秋田県大仙市南外(なんがい)木直沢(きじきざわ)附近かと思われる。

「七寸(しちき)」馬の丈(脚の先から肩までの高さ)を指す語を地名に転用したもの。因みに、以前に述べた通り、国産馬の標準は四尺(一・二一メートル)が「一寸(き)」であるから、「七寸」は一メートル四十二センチメートルとなり、「四尺七寸」は国産馬では有意に異常に大きい。

「飽海(あくみ)郡日向(にちかう)村大字下黑川」山形県酒田市下黒川

「羽前南村山郡西鄕村大字石曾根」山形県上山(かみのやま)市石曽根

「岩代河沼(かはぬま)郡の谷地(やち)と云ふ村」福島県河沼郡会津坂下町(あいずばんげまち)三谷谷地(みたにやち)である(実際には三谷と谷地は別地名であるが、合わせた地名も通用している模様である)。捜すのに手間取ったが、「新編會津風土記」の巻之八十九の「河沼群之四」「靑津組」の「靑津組二十六箇村」の中に「谷地(ヤチ)村」があり、その「谷地村」の当該箇所(次の頁に跨り、「羽黑神社」の記載有り)の前書部分の鶴ヶ城からの距離、隣接する地名から推理した結果、ここに到ることが出来た。問題はグーグル・マップ・データではその羽黒神社が見当たらないことであった。しかし、この現行の「谷地」の地名が記された南直近には「馬洗場」、西直近には「山ノ神」という柳田國男が喜びそうな地名が残っていることが、まず判った。そうして谷地の東の三谷地区に「廣瀬神社」というのがあり、最も直近であるのだ、調べてみても、ここが旧羽黒神社であった痕跡はなかった。しかし、どうも無視出来ない。何故なら、この廣瀬神社の位置は現在の谷地地区の南西に当たり、「新編會津風土記」の「羽黑神社」の記載の、「未申ノ二町五十間ニアリ」(二百二十七メートル)に一致するからであった。私はこの神社こそがこの「羽黑神社」なのではないかと思う。そこには「祭神保食神ナリ」(うけもちのかみ)とあるから、現在或いは嘗つてこの廣瀬神社の祭神が保食神であった事実が判れば、と期待したのだが、ネットでは祭神は判らなかった。ところが、ランダムに検索を掛けてゆくうちに、個人サイトと思しい「会津名水紀行」のこちらに、会津坂下町の「広瀬神社目薬沼(ひろせじんじゃめぐすりぬま)」というのを発見、そこに『坂下町から塩川方面へ車で走ると、田んぼの中、右側にうっそうとした杜が見えてきます。その杜に囲まれるように広瀬神社があり』(これはグーグル・マップ・データを航空写真に換えると、まさにその通りであることが判る)、『いくつかの沼が神沼として点在しています』。『目薬沼とは広瀬神社神沼の一つで、他に親沼、竈沼などの名があります。眼疾に効能があるといわれており、当村はもとより青木、青津村の養水となり、古くより地方開発の水利の神としても祭られています』とあったのだ! 則ち、やっぱり「羽黑神社」は現在の廣瀬神社なのだ! しかも、柳田國男の叙述では、もう沼は全部なくなっちまったように読めたのだが、まだ、ちゃんと幾つか残っているんだ! これで決まり! 気持ちいいゾ!!!

「四十八沼」これは各地に認められる名数で、言わずもがな、「阿弥陀如来の四十八願」に掛けたものである。

「越後西蒲原郡岩室村大字樋曾(ひそ)」新潟市西蒲(にしかん)区岩室村樋曽。「彌彥山(やひこさん)」の北北東四キロメートル弱の山間部。

「米水浦(よねみづうら)」吉田東伍著の明治四〇(一九〇七)年冨山房刊の「大日本地名辭書」を調べたところ、ここにあった(左ページ上段中ほどから中段)。その記載から、弥彦山の東方直下の海岸、現在の新潟県長岡市寺泊野積であることが判明した。しかも同海岸の北には「竃窟(かまどのいはや)」=「男釜・女釜」(上記記載を見よ)という名勝として今もある。但し、「大日本地名辭書」の記載によると、海食洞であったが、記載時には既に一つは崩落して洞を呈していないとある。

「能登鹿島郡中之島村大字向田(かうだ)」石川県七尾市能登島向田町(のとじまこうだまち)であろう。次に国土地理院図を見てもらおう。すると、向田町の北西の突き出た半島があるが、此の尖端の地名を見ると、「牧鼻」とあるのが判る。「牧」だ。「でも、向田町じゃなくて、少なくとも今は能登島曲(まがり)町でしょう?」と返すかね? ではもう一度、グーグル・マップ・データに戻ってもらおう。そこでこの半島の中央にある「能登島家族旅行村Weランド」をクリックするぞ! どう? 住所は? 「あれ? 石川県七尾市能登島向田町になってるぞ? これってグーグル・マップ・データの間違いじゃないの?」ってか? それじゃ、同施設の公式サイトの「アクセス」を見て貰おうか。どうよ? 住所のところに「石川県七尾市能登島向田町牧山」て書いてあるだろ。そこで国土地理院をよ~く見てもらうと、「牧鼻」からこの附近にかけて、点線が引かれてあるのが判るんだ。則ち、この半島の先端部の東北の半分の一帯が、向田町の飛び地になっていることが判るんだ。その理由は古い時代の取り決めか、近現代の地権者の問題なのか何かは、私は知らない。しかし、地名をごろうじろ! 「鼻」に「山」なんだ。考えてみりゃ、島に馬の牧場を設置するのは、海が自然のテキサス・ゲートとなって、馬の脱出の心配をする必要が一切いらないから、理に叶っているじゃないか!

「彌彥神社」これをぼんやりと読んでしまい、さっき出てきた、越後平野西部の弥彦山(標高六百三十四メートル)山麓に鎮座し、弥彦山を神体山として祀る彌彦神社(いやひこじんじゃ:住所は新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦。ウィキの「彌彦神社」によれば、『正式には「いやひこ」だが、神体山とする弥彦山など』、『関連する地名が全て「やひこ」と読む関係で、一般には「やひこ」とも呼ばれる』とある。「万葉集」にも『歌われる古社であり、祭神の天香山命は越後国開拓の祖神として信仰されたほか、神武東征にも功績のあった神として武人からも崇敬された。宝物館には日本有数の大太刀(長大な日本刀)である「志田大太刀(しだのおおたち、重要文化財)」や、源義家や源義経、上杉謙信(輝虎)などに所縁と伝えられる武具などが社宝として展示されている』とあり、ここが馬と関わるところの武人らとの関係が深い神社であることは言い添えておく)と勘違いしてはいけない! よく読んで! 柳田國男は「之れを、此の村の彌神社の神馬に獻じたりし」と言ってるんだ。「此の村」ってえのはこの能登島の旧向田村のことなんさ! 「そんな神社、ないよ?」ってか? ほれほれ! 石川県七尾市能登島向田町のここをご覧な! 「伊夜比咩神社」があるやろ、これ、「いやひめじんじゃ」や! 柳田が言っているのはこれやで!

「其の折りの賴朝公の下文(くだしぶみ)及び梶原が添へ狀、共に判形(はんぎやう)ある者を村に傳ふ」鎌倉フリークの私としては、現存するならば是非、見たいものだ。

「古代の島の牧」中世、能登島には伊勢神宮領の「能登島御厨(のとじまのみくり(や))」(「御厨」は神饌の調進をする場所)や荘園が置かれていた。そもそもが「向田」とは、この伊勢神宮御厨としての「神田(こうだ)」から「向田」となったのである。ここに古代の馬の牧があったという記載は遂に調べ得なかったが、神饌には神馬も当然含まれるわけで、ここに古代に「能登島の牧」があったとしても何ら不思議ではないと私は思う。その証拠に「牧」を附した地名があるとも言えるのではないか?

2019/06/10

靈泉 すゞしろのや(伊良子清白)

 

靈 泉

 

河上よどむ岩が根の

水に浸りて山芹の

白き根にこそ氷りたれ

まだ雪ふらぬ岨の松

 

鳥の落羽と松の葉と

まじりてたまる河の隈

山の奧にもあたゝかき

玉の泉の湧きいづる

 

箭に傷きし山鳩も

ぬらさば癒えむ靈泉の

わくとも知らで山賤の

妹脊は冬を迎へけり

 

小さき泉のおとなれば

松の風にやまぎれけむ

やがてうまれんうましごの

幸をのみこそ祈りけれ

 

のぼる朝日を身にうけて

女の兒は山にうまれけり

產湯くまむとおりくれば

氷りて白き谷の水

 

まつの木陰におとありて

ほそきけぶりはあがりたり

くしき泉の巖村や

湯の香ぞ深き冬霞

 

髮を洗へば髮のいろ

面に灌げばおものはえ

玉の泉淨めたる

そのこは光はなちけり

山路のすゑにさまよひて

冬をさびしととくなかれ

泉と人のゑにしには

美しきこのうまれたり

 

[やぶちゃん注:ここより底本の明治三四(一九〇一)年パート。明治三四(一九〇一)年一月一日発行の『新潮』(第二年第一号)掲載。署名は「すゞしろのや」。この年で伊良子清白満二十四歳。一月、日本赤十字社病院を辞し、横浜海港検疫所検疫医員と横浜慈恵病院勤務を兼ねた生活が九月まで続いた。十月から十二月まで、北里伝染病研究所に於いて細菌学の講義を受講している。]

冬の水車場 すゞしろのや(伊良子清白)

 

冬の水車場

 

冬は來にけり水車場の

木立は枯れて霜柱

立つや宵々小狐の

來ては粉糠をぬすみ去る

 

苔むす杭に折かゝる

葦の枯葉に行く水の

水は朝に瘦せゆけど

からから車は廻りけり

 

廻れよ車汝が爲めに

主の身上も太らねば

米つく臼も太らねば

くるりくるりと廻れとぞ

 

藁屋の軒にうづくまる

里の小砂の山をつき

雀は低く下りなれて

小舍のひゞきに驚かず

 

古びし蜂の巢はあれど

恐れな子供病葉の

朽ちて重なる軒の梁

敵の甲は上にあり

 

いづれ土性、火性でも

水性でもなし畠に來て

麥蒔き了へし夕ぐれを

彼は聲なく歸るなり

 

鶴を放たばふさはしき

岸の並木の中にして

一本楡の木高きを

この小字の名にもせり

 

右せば里に出づるべく

左りは山と敎へたる

標の石の倒れしを

小舍の主は忘れたり

 

冬は來にけり倒れたる

石を忘るゝ冬は來て

今年も村にゆとりなく

橋はかゝらで暮るゝらん

 

[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年十二月十五日発行の『東海文學』(第一巻第二号)掲載。署名は「すゞしろのや」。]

噴火の後日 すゞしろのや(伊良子清白)

 

噴火の後日

 (數篇中一篇を揭ぐ)

 

石垣壞(くづ)れて立木を損じ

兒等喜悅(よろこび)の柿皆折れて

灰降り濁れる庭の池に

小手を拍(たゝ)けど鯉は寄らず

 

村人誰彼門(もん)に迫りて

米庫(こめぐら)開くを切(せつ)に乞へば

明日は戸の前蓆(むしろ)を布きて

施米(せまい)の料(りやう)の俵(たわら)を積まむ

 

岩屑落ちたる道を踏みて

木戶より山の燒を望めば

また地震(なゐ)震り來て鎭守の楠(くす)の

上に焰は强く上りぬ

 

竹の林の小家(こいへ)の中(なか)は

諸人(もろびと)互(たがひ)に肘を摩(す)りて

狹莚(さむしろ)一枚(ひとひら)席(せき)を學び

暗きを責むるか汚く罵(そし)る

 

白髮(しらが)の媼珠數を繰りて

佛名(みな)を唱ふる殊勝なれど

落ち行く夕日を朝日と誤り

物の笑の種を蒔きぬ

 

恐怖(おそれ)に人の性(さか)を損ひ

鍬硏ぎ鎌揮る勤を厭へば

教へ導く術(すべ)も盡きて

われ村長(むらをさ)の德は至らず

 

山燒焰しばし歇みて

野の色黃ばめば左右(さう)雲分れ

夕の空は步(ふ)の星屑の

領ずる境に限を見せぬ

 

大(だい)なる天地(てんち)の力を信じ

常の理及ばぬ微妙と知らば

自然の變轉旋るを俟ちて

我(われ)他(ひと)榮(さかえ)の時は到らん

 

[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年十一月二十三日発行の『新潮』(第四号)掲載。署名は「すゞしろのや」。現行の『新潮』(明治三七(一九〇四)年五月創刊)とは無関係。「料(りやう)」「俵(たわら)」「性(さか)」のルビはママ。意識的にルビを振っているのに、この歴史的仮名遣の誤りは異常。しかもこの一篇、今までの伊良子清白の詩篇に比して、有意に確信犯で韻律を崩そうとしているかのようにも思われる。最終二連の奇妙な事前哲学的叙述は、どうも私には言葉がいい加減に滑っているようで気に入らない。

「步(ふ)の星屑の」「領ずる境に限を見せぬ」よく判らない謂いだが、「步」には「天体の運行を推し量る」の意があるから、「雲の裂け目に見えている夜空の星くずの動きを司ってるところのその天界の力」に対して火山の自然力は自ずとその限界を見せていた、とでも言うのであろうか。]

自然は人に近づきて すゞしろのや(伊良子清白)

 

自然は人に近づきて

 

自然は人に近づきて

握手の時を與へけり

破れたる窓に飛び來るは

小鳥にあらぬ木の葉なり。

 

木の葉を拂ふこと勿れ

蝴蝶の墓も草花の

少さき枕も其中に

葬り隱す庭の土。

 

かの美しきと盛なると

亡ぼして後冬の日は

若き命の新しき

聲と色とをもたらせり。

 

八つ手の花の散るところ

南天の實は赤らみて

庭石傳ひいとけなき

冬は笑ひて來りけり。

 

[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年十一月三日発行の『文星』(第四号)掲載。署名は「すゞしろのや」。この雑誌は、恐らく、この年の五月に四海堂から創刊された投稿雑誌と思われる。参照したサイト「大宅壮一文庫」の「創刊号コレクション明治収録雑誌一覧」によれば、社会・学界・詩学・美学・『時流文芸などを募集。投稿作品には文末に寸評を付して掲載』したとある。

「蝴蝶」蝶の美称である「胡蝶」に同じ。

「葬り」「はうふり」。

「かの美しきと盛