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2019/06/17

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(38) 「池月・磨墨・太夫黑」(5)

 

《原文》

 池月ハ又四國ニ出ヅト云フ說アリ。其說ハ此馬最後ニ阿波ノ勝浦ニ飛降リテ石ト化セリト云フ話ト共ニ、後太平記ノ記スル所ニカヽル。後太平記ハ諸君御信用御隨意ノ書ナリ。但シ此著者之ヲ知リタリシヤ否ヤハ別トシテ、此地方ニモ一二同種ノ傳說ハ存セリ。阿波三好郡加茂村ノ井内谷ハ、山中ニ牧アリテ昔ヨリ良馬ヲ出ス。或說ニ池月此牧ニ出デタリ、之ヲ名西郡第拾(ダイジフ)村ノ寺ニ飼フ。至ツテノ駿足ナリ。村ノ若者等戲レニ之ニ騎リテ大川ヲ渡ス。宇治ノ高名モツマリハ吉野川ニテ鍛煉シタルガ爲ナラン。【馬長壽】老馬トナリテ後中國邊ニテ休息シ三百餘歲ノ壽ヲ以テ終ルト云ヘリ〔阿州奇事雜話一〕。土佐ニモ古クヨリ池月ノ口碑ハアリキト見ユ。曾テ此國ニテ駿馬ヲ長曾我部元親ニ獻ズル者アリシ時、元親ガ詞ニ、【池】昔當國池村ヨリ池月ト云フ名馬ヲ出シ之ヲ鎌倉ニ獻上セリト聞ケドモ、此馬共ノ池月ニヲサヲサ劣ルマジイト喜ビタリト傳ヘタリ〔南路志四十七〕。其池村ニシテ果シテ土佐日記ニモ見エタル「池ト云フ處」ナリキトセバ、即チ又三足ノ鬼鹿毛ヲ出シタル名譽ノ地ニシテ、海ト沼地トノ間ニ挾マレタル岡ノ上ノ牧ナリシガ如シ。【海邊ノ牧】九州ニ於テ一ツニハ豐後北海部郡ノ牧山、此モ同ジク海ニ臨ミタル磯山ノ上ニ古來設ケラレタル公ケノ牧ニシテ、磨墨ハ此牧ヨリ出ヅト云フ說アリ〔豐國小誌〕。薩摩揖宿郡今泉村大字池田ハ昔ノ池田ノ牧ノ地ナリ。風景優レタル火山湖トシテ有名ナル池田湖ノ岸ニシテ、片手ニハ又近ク漫々タル蒼海ヲ控ヘタリ。此牧ニモ夙ニ池月ヲ產シタリト云フ明瞭ナル記錄アリ。池月ト云フ馬ノ名モ牧ノ名ノ池田ト共ニ湖水ヨリ出デタルモノナルべシト云フ〔三國名勝國會所引伊佐古記〕。北部ノ沿海ニ在リテハ肥前北松浦郡生月村、即チ鯨ヲ屠ル五島ノ生月ハ、既ニ亦延喜式ニモ載セタル生屬牧(イケヅキノマキ)ノ故地ナリトスレバ、必ズヤ地名ニ因緣シテ同ジ傳說ノ存スルアルナランモ、自分ハ未ダ之ヲ聞カズ。以前ノ領主タル松浦靜山侯ノ隨筆ニハ、單ニ後ニ述べントスル名馬草ノ記事ヲ錄スルアルノミ。對馬ノ島ノ牧ニ於テハ亦黑白二駿ヲ併セ產シタリト云フ說アリ。同國仁田村大字伊奈ノ近傍ニテ後世磨墨田ト稱スルアタリ、治承ノ昔ハ一ノ池アリキ。磨墨此池ノ岸ニ遊ビ聲高ク嘶クトキハ、其聲奴可嶽(ヌカダケ)村大字唐洲(カラス)ノ池田ト云フ處マデ聞エタリ。唐洲ノ池田ニモ又一匹ノ名馬アリテ住ス。即チ一匹ト呼ブノモ失禮ナル位ノ名馬池月是ナリ。池月ノ嘶ク聲モ亦伊奈ノ磨墨田マデ聞エタリ。【妙見】二ツノ馬ハ朝ニ往キ夕ニ還リ二村ノ境ナル妙見山ノ麓ニ於テ相會スルヲ常トス。妙見ハ即チ前ニモ云ヘル北斗星ノ神ナリ。島人ハ此往來ヲ名ヅケテ朝草夕草ト云フトアリ。仁田村大字飼所ノ南ニ白キ石アリ。峯村大字三根トノ境ノ標ナリ。【馬蹄石】此石ノ表ニ奔馬ノ蹄ノ跡數十アルハ、磨墨ガ池田ニ往來スル通路ナリシガ爲ナリト云ヘリ〔津島記事〕。千古ヲ空シクスル二箇ノ駿足ガ牧ヲ接シテ相生スト云フコトハ餘リニ完備シタル物語ニハアレドモ、既ニ安房ノ簑岡ヤ伊豆ノ弦卷山ナドニモ同ジ話ヲ語ル外ニ、隱岐島ニテモ今日ハ亦此如ク傳說スルニ至レリト云ヘバ〔日本周遊奇談〕、何カ深キ仔細ノ存スルコトナルべシ。

 

《訓読》

 池月は又、四國に出づと云ふ說あり。其の說は、此の馬、最後に阿波の勝浦に飛び降りて石と化せりと云ふ話と共に、「後太平記」の記する所にかゝる。「後太平記(ごたいへいき)」は諸君御信用御隨意の書なり。但し、此の著者、之れを知りたりしや否やは別として、此の地方にも、一、二、同種の傳說は存せり。阿波三好郡加茂村の井内谷は、山中に牧ありて、昔より良馬を出だす。或る說に、池月、此の牧に出でたり、之れを名西(みやうざい)郡第拾(だいじふ)村の寺に飼ふ。至つての駿足なり。村の若者等、戲れに之れに騎(の)りて大川を渡す。宇治の高名も、つまりは吉野川にて鍛煉(たんれん)したるが爲めならん。【馬長壽】老馬となりて後、中國邊りにて休息し、三百餘歲の壽を以てつ終ると云へり〔「阿州奇事雜話」一〕。土佐にも、古くより池月の口碑はありきと見ゆ。曾つて、此の國にて駿馬を長曾我部元親に獻ずる者ありし時、元親が詞に、【池】「昔、當國池村より池月と云ふ名馬を出だし、之れを鎌倉に獻上せりと聞けども、此の馬共の池月にをさをさ劣るまじい」と喜びたりと傳へたり〔「南路志」四十七〕。其の池村にして、果して「土佐日記」にも見えたる「池と云ふ處」なりきとせば、即ち、又、三足の「鬼鹿毛(おにかげ)」を出だしたる名譽の地にして、海と沼地との間に挾まれたる岡の上の牧なりしがごとし。【海邊の牧】九州に於いて、一つには豐後北海部(きたあまべ)郡の牧山、此れも同じく海に臨みたる磯山の上に、古來、設けられたる公けの牧にして、磨墨は此の牧より出づと云ふ說あり〔「豐國小誌」〕。薩摩揖宿(いぶすき)郡今泉村大字池田は、昔の「池田の牧」の地なり。風景優れたる火山湖として有名なる池田湖の岸にして、片手には又、近く漫々たる蒼海を控へたり。此の牧にも、夙(つと)に池月を產したりと云ふ明瞭なる記錄あり。池月と云ふ馬の名も牧の名の池田と共に、湖水より出でたるものなるべしと云ふ〔「三國名勝國會」所引「伊佐古記」〕。北部の沿海に在りては、肥前北松浦郡生月村、即ち、鯨を屠(はふ)る五島の生月は、既に亦、「延喜式」にも載せたる「生屬牧(いけづきのまき)」の故地なりとすれば、必ずや地名に因緣して同じ傳說の存するあるならんも、自分は未だ之れを聞かず。以前の領主たる松浦靜山侯の隨筆には、單に後に述べんとする「名馬草」の記事を錄するあるのみ。對馬の島の牧に於ては、亦、黑白二駿を併せ產したりと云ふ說あり。同國仁田村大字伊奈の近傍にて、後世、磨墨田と稱するあたり、治承[やぶちゃん注:一一七七年~一一八一年。]の昔は一つの池ありき。磨墨、此の池の岸に遊び、聲高く嘶くときは、其の聲、奴可嶽(ぬかだけ)村大字唐洲(からす)の池田と云ふ處まで聞えたり。唐洲の池田にも又、一匹の名馬ありて住す。即ち、一匹と呼ぶのも失禮なる位の名馬、池月、是れなり。池月の嘶く聲も亦、伊奈の磨墨田まで聞えたり。【妙見】二つの馬は朝に往き、夕(ゆふべ)に還り、二村の境なる妙見山の麓に於いて相ひ會するを常とす。妙見は、即ち、前にも云へる北斗星の神なり。島人は、此の往來を名づけて「朝草夕草」と云ふ、とあり。仁田村大字飼所(かひどこ)の南に白き石あり。峯村大字三根との境の標(しるべ)なり。【馬蹄石】此の石の表に奔馬の蹄の跡、數十あるは、磨墨が池田に往來する通路なりしが爲めなりと云へり〔「津島記事」〕。千古を空しくする二箇の駿足が、牧を接して相生(さうせい)すと云ふことは餘りに完備したる物語にはあれども、既に安房の簑岡や、伊豆の弦卷山などにも同じ話を語る外に、隱岐島にても、今日は亦、此くのごとく傳說するに至れりと云へば〔「日本周遊奇談」〕、何か深き仔細の存することなるべし。

[やぶちゃん注:「阿波の勝浦」現在の徳島県勝浦郡勝浦町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「後太平記(ごたいへいき)」南北朝後期から室町・戦国時代まで扱う軍記物で、「太平記」の後を引き継いだ形を採っている。江戸前期の多々良南宗庵一竜著で、延宝五(一六七七)年刊。全四十二巻。史実的には信用度が低い。

「阿波三好郡加茂村の井内谷」徳島県三好郡東みよし町(ちょう)加茂

「名西(みやうざい)郡第拾(だいじふ)村の寺」徳島県名西郡石井町藍畑(あいはた)第十附近。寺は不詳。暴れ川「四国三郎」の異名で知られる大河吉野川の右岸。

「長曾我部元親」(天文八(一五三九)年~慶長四(一五九九)年)戦国大名。永禄三(一五六〇)年に家督を継ぎ、本山氏を始めとする土佐の諸豪族を倒して勢力を得、国司家一条氏を追放し、天正三(一五七五)年、土佐を統一した。さらに阿波三好氏・讃岐香川氏・伊予河野氏などの土豪を次々と滅ぼし、同十一年、四国全域を支配した。しかし、その前年から、たびたび織田信長に攻撃され、同十三年、遂に豊臣秀吉の四国征伐に屈服してその支配下に入り、土佐一国を安堵された。その後、九州征伐・小田原征伐・「文禄・慶長の役」や朝鮮出兵に従軍して、国力を疲弊させた。領内では惣検地を行い、分国法「長宗我部元親百箇条」を定めたことで知られる。

「當國池村」『「土佐日記」にも見えたる「池と云ふ處」』「土佐日記」は初めの方の「大湊」滞留中の一条。以下。

   *

七日(なぬか)になりぬ。同じ港にあり。けふは白馬(あをむま)を思へど、甲斐なし。ただ浪の白きのみぞ見ゆる。かかるあひだに、人の家の、「池」と名ある所より、鯉はなくて、鮒よりはじめて、川のも海のも、こと物ども、長櫃に擔ひつづけておこせたり。若菜ぞ今日をば知らせたる。歌あり。その歌、

  あさぢふの野邊にしあれば水もなき池に摘(つ)みつる若菜なりけり

いとをかしかし。この池といふは所の名なり。よき人の、男につきて下りて、住みけるなり。この長櫃の物は、みな人、童までにくれたれば、飽き滿ちて、船子(ふなこ)どもは、腹鼓(はらつづみ)を打ちて、海さへおどろかして、浪立てつべし。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

この「池」については、一九七九年岩波文庫刊「土佐日記」の鈴木知太郎氏の注によれば、『南国市十市』(とおち)『の西部にある池』とする。これに從えば、これは現在の石土池(いしづちいけ)の前身に比定されているようである。既出既注であるが、この石土池の西方に現在の高知県高知市池地区が広がるのである。偶然であろうが、ここでこの日(事実に基づくと、承平五(九三五)年の一月七日)に宮中で行われる「白馬の節会」を想起しているのもまた、柳田國男の文脈の中で読むと異様に目を引く。

『三足の「鬼鹿毛(おにかげ)」を出だしたる……」既出既注

「海と沼地との間に挾まれたる岡の上の牧」柳田國男はその牧を現在のこの附近に比定していることになる。

「豐後北海部(きたあまべ)郡の牧山」大分県大分市佐賀関(国土地理院図)の先端にある山らしいが、確認出来ない。

「薩摩揖宿(いぶすき)郡今泉村大字池田」鹿児島県指宿市池田。池田湖湖岸北東部。

「肥前北松浦郡生月村、即ち、鯨を屠(はふ)る五島の生月」長崎県平戸市生月島

「延喜式」「弘仁式」・「貞観式」以降の律令の施行細則を取捨して集大成したもの。全五十巻。延喜五(九〇五)年、醍醐天皇の勅により、藤原時平・忠平らが編集。延長五(九二七)年に成立、康保四(九六七)年に施行された。

『以前の領主たる松浦靜山侯の隨筆には、單に後に述べんとする「名馬草」の記事を錄するあるのみ』これは「甲子夜話続篇」の第之五十七の第十五条目の「信州望月驛、月毛馬の事」である。以下(所持する東洋文庫版を参考に恣意的に漢字を正字化して示す。柳田國男の言うのは後半であるが、前半も含めて電子化した。【 】は割注)。

   *

予、先年木曾路旅行のとき、信州望月驛に宿せしに、牽せし月毛の馬は旅宿に留ずと云て、從臣等がこまりしことを、頃ろ[やぶちゃん注:「このごろ」。]左右にて語り出せしに、往事は忘れしが、何(イカ)さまかゝることも有りし迚、彼是の書を見るに、今(イマ)世に流布する「木曾路道中記」には、

『望月のみまきの駒は寒からじ布引山を北とおもへば 西行 望月の馬は月毛たるゆゑに、所の者は今に月毛の馬をば飼ざる也。』。

是に據れば、今俗もかゝるゆゑにて有んが、その忌憚[やぶちゃん注:「はばか」。]る故をしらず。又「木曾路名所圖會」に云。

『望月衡牧(モチヅキノミマキ)【望月の驛の上の山を云。今牧の原といふ】〕、昔は例年敕有りて駒牽あり。是により牧に望月の名あり。苦は御牧七鄕とて此近邊みな御牧有りしと云。望月の駒は性よし。又望月の神の嫌ひ給ふよしにて、望月幷に七鄕の内鹿毛の馬を置ず。他所より來れるも、一夜も駐ることを許さずとぞ。』。

是にては又齊しからず。

又、予が城下に生月(イケヅキ)と云島あり。居城より三里程なり。此島の中に古來より牧ありて馬を畜ふ。邑人傳ふ。昔賴朝卿のときに出し名馬の生囑(イケヅキ)と稱せしは、この牧より產せし所の駒なりと。又この牧地には、以前より其駒間々嶽落(ダキオチ)して死せり【嶽落とは岸上より地に墜るを謂ふ。里俗岸を云て嶽と謂ふ】。今里人の所ㇾ云は、この島に名馬草と云へる草あり。牧馬これを食すれば必ず名馬を產(ウ)む。されどもこの草、危岸絕壁の閒にありて、これに下臨せざれば喰ふこと難し。因て馬これを喰んとして則ち墜つ。このこと厩吏の局には云及さゞれど、里人は皆これを傳ふ。又「盛衰記」佐々木高綱宇治川を先登せし條に、この生囑のことを屢々擧れども、何國の產なることは記さず。又このとき梶原が乘たる磨墨(スルスミ)と云し名馬は、駿河國の產なりと云こと、彼國に云傳へりと。生囑のこと何かゞなるべき。

   *

「同國仁田村大字伊奈の近傍にて、後世、磨墨田と稱するあたり」長崎県対馬市上県町(かみあがたちょう)伊奈はここだが、近傍というのは曲者で、判らぬ。現地名では見出せない。

「奴可嶽(ぬかだけ)村大字唐洲(からす)の池田」これがもし、長崎県対馬市豊玉町(とよたまちょう)唐洲だとすると、直線で伊奈の南南西二十四キロメートル以上離れている。すみっこ氏のブログ「対馬 すみっこ」の「対州馬たいしゅうば・対馬馬つしまうま」、及び、三河馬氏のブログ『「日本在来馬」歴史研究会』の「Ⅲ:対州馬ー対州馬の伝説」を見ると、表記や謂い方に違いはあるものの、孰れも、麿墨の方を――上県町田の浜――とし、池月の方を――豊玉町唐洲の池田――としているように読めるので、この同定で問題ないと思われる。

「妙見山」伊奈と唐洲の間にそのような山は確認出来ない。参考までに、「(一社)対馬観光物産協会ブログ」の「独断と偏見の対馬の神社セレクション」によれば、二村の境でなく、完全に唐洲地区内の海辺にあるのだが、元嶋神社というのがあって、ここは別名を妙見神社と呼び、現在の祭神は素戔嗚命であるが、元は『「北辰妙見」=「北極星」、あるいは天の中心を意味する「アメノミナカヌシ」で』あったとある。なお、最後の注も参照されたい。

「朝草夕草」読み不詳。個人的には「あさくさゆふぐさ」と訓じたい。

「仁田村大字飼所(かひどこ)」長崎県対馬市上県町飼所。伊奈からは直線で南東六キロメートル前後の位置にある。

「峯村大字三根」対馬市峰町(みねちょう)三根(みね)。言っておくと、ここが実は伊奈と唐洲の中間地点に当たり、町の名からも、ここのどこかのピークが「妙見山」なのではないかと私は思っている。]

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