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2019/06/24

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(43) 「水邊ニ牧ヲ構ヘテ龍種ヲ求ム」(4)

Tatunosutego

海馬  タツノステゴ

 日東魚譜卷四ヨリ

[やぶちゃん注:図は「ちくま文庫」版の挿絵をトリミングしたもの。キャプションは原典では右から左書き。「日東魚譜」(原本は全八巻)は本邦(「日東」とは日本の別称)最古の魚譜とされるもので、魚介類の形状・方言・気味・良毒・主治・効能などを解説する。序文には「享保丙辰歳二月上旬」とある(享保二一(一七三六)年。この年に元文に改元)。但し、幾つかの版や写本があって内容も若干異なっており、最古は享保九(一七一九)年で、一般に知られる版は享保一六(一七三一)年に書かれたものである(以上は主に上野益三「日本動物学史」平凡社一九八七年刊に基づく『東京大学農学部創立125周年記念農学部図書館展示企画 農学部図書館所蔵資料から見る「農学教育の流れ」』の谷内透氏のこちらの解説に拠ったが、それよりも序についてみると、もっと古い版がある模様である)。多様な写本類については「Blog版『MANAしんぶん』」の「日東魚譜について」が詳しい。著者神田玄泉(生没年不詳)は江戸の町医。出身地不詳。玄仙とも。他の著作として「本草考」「霊枢経註」「痘疹口訣」などの医書がある(事蹟は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの書写版では「巻三」所収で、明らかに図が異なる私のブログ・カテゴリ「日東魚譜」のこちらで本文を含めて全電子化訓読と注を施しておいたので是非参照されたい。

 

《原文》

 肥前五島ノ生月島ハ式ニ所謂生屬牧(イケヅキノマキ)ノ故地ナリシト共ニ、後世マデモ海ニ臨メル一箇ノ產馬地ナリキ。甲子夜話ノ記スル所ニ依レバ、此島ノ岸壁ニ生ズル名馬草ト云フ植物ハ、牝馬之ヲ食ヘバ必ズ駿逸ヲ生ム。故ニ之ヲ求メントシテ足ヲ誤リ屢崖落ヲシテ死スル馬アリト〔續甲子夜話五十七〕。悲シイ哉馬ヤ、汝モ亦人ノ親ト其痴ヲ競ハンコトヲ欲スルナリ。但シコノ絕壁ノ端ニ生ズト云フ名馬草ハ果シテ如何ナル草カ、自分ハ唯寡聞ヲ恥ヅルノミナレドモ、【神馬草】此ト些シク名ノ似タル海邊ノ植物ニ神馬草ト云フ物ハアリ。萬葉集ナドニ所謂莫告藻(ナノリソ)、今モ正月ノ注連飾ニ用ヰル「ホダハラ」又ハ「ホンダハラ」ハ即チ是ナリ。「ナノリソ」ヲ神馬草ト書クハ、神ノ馬ナレバ騎ル勿レト云フコト、即チ莫騎(ナノリソ)ノ意ニ托シタルモノナリト云フ說アリ〔倭名砂〕。前ニ擧ゲタル重之ノ歌ノ

  チハヤフルイヅシノ宮ノ神ノ駒ユメナ乘リソネ祟リモゾスル

ト云フ例モアレド、些シク信ジニクキ口合ナリ。又一說ニハ神功皇后征韓ノ御時、船中ニ馬ノ秣無クシテ海ノ藻ヲ採リテ之ニ飼フ。其時ヨリ此草ヲ神馬草ト呼ブト云ヘリ〔下學集、言塵集其他〕。羽後ノ古名所蚶潟(キサカタ)ノ浦ニテハ、皇后此渚ニ御船寄セタマヒシ時此事アリキト稱ス〔齶田乃苅寢〕。海草ヲ以テ馬ヲ養フト云フコトハ疑ハシケレド、例ヘバ馬醫ノ藥ノ料トスト云フガ如キ、何カ然ルべキ仔細ノ古クヨリ存セシ爲此名アルナランカ。要スルニ海ハ永古ノ不可思議ナリ。人ハ朝夕其渚ニ立チ盡スト雖、終ニ蒼波ノ底ニ在ル物ヲ知リ得ズ。【海ノ寶】故ニ萬ノ寶ハ海ヨリ出デテ海ニ復ルト考フル者多カリシナリ。殊ニ日本ノ如キ島國ノ人ハ斯ク思ハザリシナラバ却リテ不自然ナリ。近キ歷史ニ於テモ、例ヘバ鹿兒島縣ノ今ノ馬ノ種ハ異國ノ名馬ニ由リテ之ヲ改良スト稱ス。或年タシカ海門嶽ノ沖合ニ於テ歐羅巴ノ船一ツ難船ス。乘客ハ皆死歿シ、馬二頭陸地ヲ目掛ケテ泳ギ著キタリシヲ、取繫ギテ之ヲ領主ノ牧ニ放セリ云々。アマリ古キ代ノ事ニモ非ズト云ヘド、心カラカ聊カ傳說ノ香ヲ帶ビタル話ナリ。【海馬】海ノ中ニハ又海馬ト云フ物アリ。海馬ニハ大小全ク別箇ノ二種類アリ。大ハ即チ「トヾ」トモ云フ獸ニテ、北蝦夷ノ海馬島(トドジマ)其他、洋中ノ孤島ニ住ム物ナリ。土佐駒ノ高祖父ト稱スル海鹿ハ海驢(アシカ)ニ非ザレバ即チ此物ナルべシ。小サキ方ハ名ヲ龍ノ落子ナドトモ云フ一種ノ蟲ナリ。薩州上甑島串瀨戶ノ甑島大明神ノ社ニテハ、九月九日ノ祭ノ日ニ蜥蜴ニ似タル奇魚必ズ渚ニ飛上ル。土人之ヲ名ヅケテ龍駒ト云フト云ヘリ〔三國名勝圖會〕。漢名ヲ海馬トモ水馬トモ書キ、我邦ニテハ「アサノムシ」、「シヤクナギ」又ハ「タツノステゴ」ナドト云フ物ハ此ナリ。【子安ノ守】乾シ貯ヘテ婦人ノ產ヲスルトキ、之ヲ手中ニ持タシムレバ產輕シト云フ〔大和本草〕。沖繩ニテ「ケーバ」ト云フ物モ、首ハ馬ノ如ク身ハ蝦ノ如シ安產ノ守トスト云ヘバ同ジ物ナリ〔沖繩語典〕。此等ノ學說ハ其漢名ト共ニ支那ヨリ渡來セシモノトモ云フべシ。例ヘバ證類本草ニハ異物志ヲ引キテ、海馬ハ西海ニ生ズ大小守宮蟲ノ如ク形ハ馬ノ形ノ若シ云々、婦人難產ヲ主ル、之ヲ身ニ帶ブト云ヒ、神驗圖經ニハ頭ハ馬ノ形ノ如シ蝦ノ類ナリ、婦人將ニ產セントシテ之ヲ帶ブ、或ハ手ニ之ヲ持チ或ハ燒末シテ飮服スルモ亦可ナリト謂ヒ、異魚圖ニ之ヲ收メ暴乾シテ雌雄ヲ以テ對ト爲ス、難產及ビ血氣ヲ主ルト云ヘルガ如キ〔古名考五十三所引〕皆彼國ノ說ナリ。サレド日本ニテモ源平ノ時代ニ、貴人御產ノ後御乳付ノ具御藥ナドト共ニ海馬六ヲ箱ニ納レテ獻上セシコト見ユレバ〔同上所引山槐記治承二年十一月十二日條〕、古クヨリ此信仰ハアリシナリ。此物越後ヨリ羽前ノ海岸ニ掛ケテハ之ヲ龍ノアラシ子ト云フ。浦々ノ小魚ニ交リテ稀ニ漁夫ノ網ニ入ル。形ハ一寸四五分ヨリ二寸ホド、頭ハ馬ニヨク似テ腰ハ曲リテ蝦ノ如ク尾ハ蜥蜴ト同ジ。雄ハ靑ク雌ハ黃色ナリ〔越後名寄十七〕。【鳥海山】出羽ノ鳥海山ハ頂上ニ鳥海ト云フ湖水アリ。不思議ナルコトニハ海馬亦此湖水ニモ住シ、全ク海ニ居ル龍ノ荒兒ト同物ナリ。或ハ海氣ノ雨ヲ釀ストキ此物雲ニ乘リテ空ニ騰リ山山ノ岩際ニ下ルナラント謂ヘリ。此地方ノ田舍人モ之ヲ難產ノ女ノ手ニ持タシム〔莊内物語附錄〕。古書ニハ之ヲ記シテ鳥海山頂ノ池ニ長サ六七寸ノ龍アリト云ヘリ。常民ハ敢テ登ラズ行人等獨リ往キテカノ龍ヲ取來ル。一年バカリノ内ハ生アリト見エテ、座敷ニ置キテ扇ニテアオゲバヒラリヒラリト竪橫ニナリテ畫ニ描ケル龍ノ如ク飛ブ。一年過ギテハ死スルニヤ扇ギテモ舞ハズト云ヘリ〔觀惠交話上〕。龍ト馬トハ兎ニ角ニ因緣深シ。【白馬釣龍】朝鮮ノ古傳ニテモ、扶餘縣ノ釣龍臺ハ昔蘇定方百濟征討ノ時、江頭ニ風雨ヲ起ス物ヲ退治セントテ、白馬ヲ餌トシテ淵ニ一龍ヲ釣リ得タリ。故ニ江ヲ白馬江ト名ヅケ岩ヲ釣龍臺ト云フコト、前章ニ一タビ之ヲ說キタリ〔東國輿地勝覽十八〕。龍ノ吟ズル聲ハ馬ノ嘶クニ似タリト云フ說アリ。帝釋天乘リタマフ龍馬ヲ伊羅波(イラハ)ト云フ。鼻長クシテ馬ノ如クナル龍ナリ〔塵添壒囊抄〕。況ヤ龍ハヨク牝馬ニ其胤ヲ假スコトアレバ、頭ノ馬ニ似タル海中ノ動物ヲ龍ノ捨子ナドト呼ブハ必ズシモ珍シカラズ。【甑及ビ竃】唯薩摩ノ甑島ノ神ガ年々此物ヲ贄ニ召シタマフト云フハ注意スべキ話ナリ。甑ハ即チ釜ノコトニテ釜ト竃トハドコ迄モ馬ト因緣アリ。而シテ此神ノ社頭ニモ亦甑ノ形ヲシタル一靈石ノ存スルモノアリシ也。

 

《訓読》

 肥前五島の生月島は「式」[やぶちゃん注:「延喜式」。]に、所謂、「生屬牧(いけづきのまき)」の故地なりしと共に、後世までも、海に臨める一箇の產馬地なりき。「甲子夜話」の記する所に依れば、『此の島の岸壁に生ずる「名馬草」と云ふ植物は、牝馬、之れを食へば、必ず、駿逸を生む。故に之れを求めんとして足を誤り、屢々、崖落(がけおち)をして死する馬あり』と〔「續甲子夜話」五十七〕[やぶちゃん注:こちらで原文全文を電子化済み。]。悲しい哉(かな)、馬や、汝も亦、人の親と其の痴を競はんことを欲するなり。但し、この絕壁の端に生ずと云ふ「名馬草」は果して如何なる草か、自分は、唯だ、寡聞を恥づるのみなれども、【神馬草(なのりそ)】此れと些(すこ)しく名の似たる海邊の植物に「神馬草」と云ふ物はあり。「萬葉集」などに、所謂、「莫告藻(なのりそ)」、今も正月の注連飾(しめかざ)りに用ゐる「ほだはら」又は「ほんだはら」は、即ち、是れなり。「なのりそ」を「神馬草」と書くは、『神の馬なれば、騎(の)る勿れ』と云ふこと、即ち、「莫騎(なのりそ)」の意に托したるものなりと云ふ說あり〔「倭名砂」〕。前に擧げたる重之の歌の[やぶちゃん注:ここ。そこで私は不等毛植物門褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科 Sargassaceae(或いはホンダワラ属 Sargassum)の話を柳田國男に先んじてやってあるので、その注とリンク先の「大和本草卷之八 草之四 海藻(ナノリソ/ホタハラ)(ホンダワラ)」の本文と私の注を参照されたい。ここでは繰り返さない。]

  ちはやふるいづしの宮の神の駒ゆめな乘りそね祟りもぞする

と云ふ例もあれど、些しく信じにくき口合(くちあひ)[やぶちゃん注:「話を持って行くそのやり方」の意。]なり。又、一說には、神功皇后、征韓の御時、船中に馬の秣(まぐさ)無くして、海の藻を採りて之れに飼ふ。其の時より、此の草を「神馬草」と呼ぶと云へり〔「下學集」・「言塵集」其の他〕。羽後の古名所、蚶潟(きさかた)の浦にては、皇后、此の渚(なぎさ)に、御船、寄せたまひし時、此の事ありきと稱す〔「齶田乃苅寢(あきたのかりね)」〕。海草を以つて馬を養ふと云ふことは疑はしけれど、例へば、馬醫の藥の料とすと云ふがごとき、何か然るべき仔細の古くより存せし爲め、此の名あるならんか。要するに、海は永古の不可思議なり。人は朝夕、其の渚に立ち盡すと雖も、終に蒼波(さうは)の底に在る物を知り得ず。【海の寶】故に、萬(よろづ)の寶は、海より出でて、海に復(かへ)ると考ふる者、多かりしなり。殊に日本のごとき島國の人は斯く思はざりしならば、却りて不自然なり。近き歷史に於いても、例へば、鹿兒島縣の今の馬の種は異國の名馬に由りて之れを改良す、と稱す。或る年、たしか海門嶽(かいもんだけ)の沖合に於いて、歐羅巴(ヨーロツパ)の船一つ、難船す。乘客は皆、死歿し、馬二頭、陸地を目掛けて泳ぎ著(つ)きたりしを、取り繫ぎて、之れを領主の牧に放せり云々。あまり古き代(よ)の事にも非ずと云へど、心からか、聊(いささ)か傳說の香を帶びたる話なり。【海馬(かいば)】海の中には、又、「海馬」と云ふ物あり。海馬には、大小、全く別箇の二種類あり。大は、即ち、「とゞ」とも云ふ獸(けだもの)にて、北蝦夷の海馬島(とどじま)其の他、洋中の孤島に住む物なり。土佐駒(とさごま)の高祖父と稱する「海鹿」は海驢(あしか)に非ざれば、即ち、此の物なるべし。小さき方は、名を「龍(たつ)の落し子」などとも云ふ、一種の蟲[やぶちゃん注:ここは広義の本草学で謂う脊椎動物の両生類・爬虫類を加えて無脊椎動物以下を総称する「むし」である。]なり。薩州上甑島(かみこしきじま)串瀨戶の甑島大明神の社にては、九月九日の祭りの日に、蜥蜴(とかげ)に似たる奇魚、必ず、渚に飛び上る。土人、之れを名づけて「龍駒」と云ふと云へり〔「三國名勝圖會」〕。漢名を「海馬」とも「水馬」とも書き、我が邦にては「あさのむし」・「しやくなぎ」又は「たつのすてご」などと云ふ物は、此れなり。【子安(こやす)の守(まもり)】乾し貯へて、婦人の產をするとき、之れを手中に持たしむれば、產、輕しと云ふ〔「大和本草」〕[やぶちゃん注:私の「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海馬」で全文電子化注済み。]。沖繩にて「けーば」と云ふ物も、『首は馬のごとく、身は蝦(えび)のごとし。安產の守とす』と云へば、同じ物なり〔「沖繩語典」〕。此等の學說は、其の漢名と共に、支那より渡來せしものとも云ふべし。例へば、「證類本草」には「異物志」を引きて、『海馬は西海に生ず。大小、守宮蟲(やもり)のごとく、形は馬の形のごとし』云々、『婦人難產を主(つかさど)る。之れを身に帶ぶ』と云ひ、「神驗圖經」には、『頭は馬の形のごとし。蝦の類なり。婦人、將に產せんとして、之れを帶ぶ、或いは、手に之れを持ち、或いは、燒末(しやうまつ)にして飮服するも亦、可なり』と謂ひ、「異魚圖」に之れを收め、暴(さら)し乾して、雌雄を以つて對(つい)と爲す。難產及び血氣を主る』と云へるがごとき〔「古名考」五十三所引〕、皆、彼の國の說なり。されど、日本にても、源平の時代に、貴人御產の後(のち)、御乳付(おちつけ)[やぶちゃん注:生まれた子に初めて母乳を飲ませること。]の具・御藥などと共に、海馬六つを、箱に納(い)れて獻上せしこと見ゆれば〔同上所引「山槐記」治承二年十一月十二日條[やぶちゃん注:ユリウス暦一一七八年十二月二十二日(グレゴリオ暦換算では十二月二十九日)。]〕、古くより、此の信仰はありしなり。此の物、越後より羽前の海岸に掛けては、之れを「龍のあらし子」と云ふ。浦々の小魚に交りて、稀に漁夫の網に入る。形は、一寸四、五分より、二寸ほど、頭は馬によく似て、腰は曲りて蝦のごとく、尾は蜥蜴と同じ。雄は靑く、雌は黃色なり〔「越後名寄」十七〕。【鳥海山】出羽の鳥海山は、頂上に「鳥海」と云ふ湖水あり。不思議なることには、海馬、亦、此の湖水にも住し、全く海に居る龍の「荒兒(あらしご)」と同物なり。或いは、海氣の、雨を釀(かも)すとき、此の物、雲に乘りて、空に騰(のぼ)り、山山の岩際に下るならん、と謂へり。此の地方の田舍人も、之れを難產の女の手に持たしむ〔「莊内物語」附錄〕。古書には、之れを記して、『鳥海山頂の池に、長さ、六、七寸の龍あり』と云へり。常民は敢へて登らず、行人(かうじん)[やぶちゃん注:旅人。他国の人。]等(ら)獨り往きて、かの龍を取り來たる。一年ばかりの内は生(せい)ありと見えて、座敷に置きて扇にてあおげば、「ひらりひらり」と、竪橫になりて、畫(ゑ)に描(か)ける龍のごとく、飛ぶ。一年過ぎては死するにや、扇(あふ)ぎても舞はず、と云へり〔「觀惠交話」上〕。龍と馬とは、兎に角に、因緣、深し。【白馬釣龍】朝鮮の古傳にても、扶餘縣の釣龍臺は、昔、蘇定方(そていはう)、百濟征討の時、江頭に風雨を起す物を退治せんとて、白馬を餌(ゑさ)として淵に一龍を釣り得たり。故に江を「白馬江」と名づけ、岩を「釣龍臺」と云ふこと、前章に一たび之れを說きたり[やぶちゃん注:ここで既出既注。]〔「東國輿地勝覽」十八〕。龍の吟ずる聲は、馬の嘶くに似たり、と云ふ說あり。帝釋天、乘りたまふ龍馬を「伊羅波(いらは)」と云ふ。鼻、長くして、馬のごとくなる「龍」なり〔「塵添壒囊抄(じんてないなうしやう)」〕。況んや、龍は、よく、牝馬の其の胤(たね)を假(か)す[やぶちゃん注:仮りに与える。]ことあれば、頭の馬に似たる海中の動物を「龍の捨て子」などと呼ぶは、必ずしも珍しからず。【甑及び竃(かまど)】唯だ、薩摩の甑島の神が、年々、此の物を贄(にへ)に召したまふと云ふは、注意すべき話なり。「甑」は、即ち、「釜」のことにて、「釜」と「竃」とはどこまでも馬と因緣あり。而して、此の神の社頭にも亦、「甑」の形をしたる一靈石の存するものありしなり。

[やぶちゃん注:「名馬草」不詳。「平戸市生月町博物館 島の館」公式サイト内の「生月学講座」第三十六の「御崎の牧」には、

   《引用開始》

 生月島北端の御崎地区は、古くは「牧」と呼ばれていました。奈良時代に編纂された『肥前国風土記』によると、昔このあたりに住んでいた者達は、容貌は「隼人」と呼ばれる現在の鹿児島県辺りにいた種族に似ていて、騎射、すなわち馬に乗って弓矢を用いる事を好むとあり、相当古い時代から馬が飼われていた事が分かります。『風士紀』松浦郡値嘉郷の条にも、当時、値嘉島と呼ばれた平戸諸島は牛・馬に富むとされています。また平安時代の延長5年(927)に完成した法令書の『延喜式』の兵部省諸国馬牛牧条にある肥前国六牧の一つに、「肥前国生属(いきつき)馬牧」という牧場の名前が出てきますが、恐らくは生月に置かれた牧場を指すと考えられ、その最有力の候補地が御崎です。

 さらにここに中世に牧場が置かれた傍証として、源平合戦の頃、源頼朝が飼っていた当時最高の名馬と言われた池月(いけづき)がここで生まれ育ったという伝説があります。平安時代の終わり頃、関東に拠る源頼朝と、一足先に平家を破って京都を押さえた源(木曽)義仲との間で戦いが起こりますが、『平家物語』によると、寿永3年(1184)に頼朝の軍勢が関東から京都に攻め上り、義仲の軍勢と琵琶湖から流れ出る宇治川を挟んで睨み合いになります。その時、頼朝の家来である佐佐木高綱は、頼朝から譲り受けた池月に騎乗し、もう一頭の名馬・磨墨に騎乗する梶原景季と競争した末に、見事川を泳ぎきって先陣を果たし戦闘を勝利に導きます。「生月人文発達史」は後世の文書ですが、「生月の牧の地は上古より馬牧場であった。西部絶壁の所に名馬草と称する草がある。容易に食べることは出来ないが、これを食べる馬は名馬となる。かの池月もこの草を喰い、また鯨島に泳ぎ渡り同所の牧草を喰ったので名馬となり、頼朝の所望に依って献上した」とあります。池月が生まれ育ったとする伝説は全国に分布しており、直ちに史実云々とする事は難しい所はありますが、馬の飼育が盛んだった所に伝説が残っている事は間違いないようです。なお、池月の名が訛って「生月」になったという説がありますが、源平合戦より遡ること350年の承和6年(839)に、唐(現在の中国)から帰国した遣唐使船が肥前国松浦郡にある生属島に着いたという記事が、貞観11年(869)に編纂された『続日本後紀』に掲載されていることから、以前から用いられていた事は確かです。

 御崎の牧は、松浦党に属する一部、加藤、山田の三氏が生月島を支配した中世や、有力なキリシタン領主である籠手田氏、一部氏が支配した戦国時代にも、これらの領主が保有する軍事力に伴って軍馬用の牧が設けられたと思われます。「生月人文発達史」によると、籠手田氏、一部氏が退去した後、平戸藩の直接統治となった江戸時代にも、御崎は御料馬牧場という藩営の牧場として使用されましたが、文政9年(1826)に平戸島の春日に牧場を設けたのに伴い、生月の馬牧は廃止されたとあるので、それに伴って島内の壱部、堺目、元触集落から移住・入植が行われ、御崎集落が成立したと考えられます。そのため、かくれキリシタンの組織もそれぞれの出身集落に属しており、また集落内には神社を持たず、やはり出身集落によって白山、住吉両神社に属しているそうです。

   《引用終了》

引用文中に出る「御崎」は長崎県平戸市生月町(いきつきちょう)御崎(みさき)で、生月島の北端のここ(グーグル・マップ・データ)。「鯨島」は「げじま」と読むようで、その先端から五百メートル弱東北の直近の海上にある島。無人島。少なくとも、ここで語られている草は海藻ではなく、陸性の植物であるようにしか私には思われない。気になる。モデルとなる実在する草があるのではなかろうか?

『神功皇后、征韓の御時、船中に馬の秣(まぐさ)無くして、海の藻を採りて之れに飼ふ。其の時より、此の草を「神馬草」と呼ぶと云へり』「大和本草卷之八 草之四 海藻(ナノリソ/ホタハラ)(ホンダワラ)」の本文と私の注を参照。

「蚶潟(きさかた)の浦にては、皇后、此の渚(なぎさ)に、御船、寄せたまひし時、此の事ありきと稱す」「蚶潟(きさかた)の浦」とは無論、方向の真逆な秋田県にかほ市の象潟(きさかた)である。現在は水田の中に百二の小丘が散在する平地の陸地だが、かつてはここは広大な潟湖であったことは、芭蕉の「奥の細道」御存じのことと存ずる。『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 49 象潟 象潟や雨に西施がねぶの花』の私の注などお読みあれ。文化元(一八〇四)年に発生した象潟地震(マグニチュード7クラスと推定される)で海底が隆起して広汎に陸地化が起こり、その後は干拓事業による水田開発の波に呑まれて「象潟」は消えてしまったのである。また、「蚶」の字が気になる方はやはり私の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 蚶(アカガイ)」の注をどうぞ。また、そこでは神功皇后の話もしてある。それは当地にある曹洞宗皇宮山蚶満寺(かんまんじ)の「縁起」に載る伝承で、神功皇后が三韓征伐の帰路(前の伝承は往路であった)、大時化(おおしけ)に遭遇して象潟沖合に漂着、小浜宿禰が引き船で鰐淵の入江に導き入れたが、その時、皇后は臨月近かったことから、清浄の地に移したところ、無事に皇子(のちの応神天皇)を産み終え、その後も象潟で半年を過ごし、翌年四月に出帆して筑紫の香椎宮に向かったという。ここはホンダワラを秣にしたのは、その折りのことと言うらしい。広大な潟で秣がなかったっていうのかなぁ? ただ、漂着する途中の日本海上でというのなら、これ、すこぶる腑に落ちるのだ。何故なら、ホンダワラ類は外洋表面を気泡を用いて漂流する「流れ藻」としても知られるからである。

「海草を以つて馬を養ふと云ふことは疑はしけれど、例へば、馬醫の藥の料とすと云ふがごとき、何か然るべき仔細の古くより存せし爲め、此の名あるならんか」ホンダワラ類を馬が食うかどうかは知らない。しかし、ホンダワラ類は「玉藻(たまも)」(貴重な(「玉」)塩を産む藻)・「馬尾藻(ばびそう)」(藻形の類似から)・「銀葉草」等とも称し、各地で食用とされ、私も佐渡産のそれは大好物で丼で何杯も食べてしまう。しかも、馬にとって塩の欠乏は致命的で、死に至ることも稀ではない。さすれば、乾して塩分を落とさないままのホンダワラ類(例えば、最近は関東でも流通している東北の「ギバサ」ホンダワラ属アカモク Sargassum horneri)を与えれば、馬は食うと私は大真面目に思うのである。そこで笑ってる奴よぉ! 「岩手アカモク生産協同組合」公式サイト内のこの記事を見いや! 『千数百年以上にわたって出雲大社を守ってきた出雲の国造家では、力祝(杵でこねた程度の餅)にホンダワラを巻き上げます。歳徳神の馬に献ずるという意味で、神馬藻(ホンダワラ・アカモク)を用います。小笠原流家元が、年賀のお客に献ずる前菜は、三宝にホンダワラ又は布を敷き、その上に梅干、田作、干柿、勝栗等をのせた蓬莱盤です』。『現在の東京でも、門飾りにホンダワラを〆縄に使っているのを見ることができます』。『江戸時代初期にかけて全国各地で特産とされていた海藻を一覧できる書物に「毛吹草」(寛永』一五(一六三八)年『があります』が、『その中で紹介されたホンダワラは、和泉神馬藻(大阪)・「石津神馬藻」です。その当時は和泉(大阪)の特産品とされていました』とあった後に、『また、「疲れきった馬に海水と海藻あかもくを食べさせた。次の朝には元気になっていた」という神馬の由来にもなっています』とあるだに!!!(太字はやぶちゃん)

「或る年、たしか海門嶽(かいもんだけ)の沖合に於いて、歐羅巴(ヨーロツパ)の船一つ、難船す」「海門嶽」は「開聞岳」だ。私もこの話、事実(馬が生き残った話は知らない)として聴いたことが確かにあるのだが、今、調べてみても、事実史料が見当たらない。識者の御教授を乞うものである。

「とゞ」一属一種の食肉目アシカ科トド属トド Eumetopias jubatus。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 胡獱(とど)(トド)」を参照されたい。

「海馬島(とどじま)」「かいばとう」とも。宗谷海峡のここにある島。ウィキの「海馬島(樺太)」によれば、樺太島(サハリン島)の南西沖にあり、晴れた日には、『宗谷岬や利尻島・礼文島からも見ることができる。現在は無人島となっているが、日本領時代には集落が存在した。別称として探検家ラ・ペルーズの命名によるモネロン(Moneron)島があり、ロシア語による名称(Остров Монерон)の由来となっている。現在はサハリン州の一部としてロシアが統治している』。『古くは正保日本図において「いしよこたん」として描かれており、元禄』一三(一七〇〇)年の「松前島郷帳」では『西蝦夷地の離島として「いしよこたん」が記されている。寛政』二(一七九〇)年の最上徳内の「蝦夷国風俗人情之沙汰」では、『「トヾシマ」についてナヨシ』(名好郡は樺太島中部のこの附近であるが、測定起点位置がおかしいから、これは広義に南樺太のことを言っているようである。但し、海馬島は最短でも樺太からは五十キロメートル弱はある)『から南に』六『里ないしは』七『里離れた海上にある島としている』。その後の記載では「モシロヽ」「トヽモシリ」『として記されており、別名として「イシヨコタン」をあげ』、嘉永七(一八五四)年刊の「蝦夷闔境輿地全図」に『おいても「トヽモシリ」として見える』。明治四二(一九〇九)年発行の「東亜輿地図」では「トドモシリ島」として記載されている』。『島内にのみ見られる種を含む』三百八十『種類の植物が自生しており、海馬島特殊植物群落地帯として樺太庁の天然記念物に指定されていた。礼文島とは海底山脈によってつながっている』。『日本統治時代には本斗郡海馬村に属しており』、昭和一六(一九四一)年時点で七百五十一人の『居住者がいた』。昭和二〇(一九四五)年八月、不当なソ連軍の侵攻に『よって占領され』たが、『島民は略奪や暴行を恐れ』、『すでに島を脱出していた』とある。理解されている方が少ないが、南樺太の領有権の帰属先は如何なる条約に於いても「未定」のままなのであって、ロシアの所有権は国際的に認められていない。

『土佐駒(とさごま)の高祖父と稱する「海鹿」』ここで既出既注。そこでは柳田國男は「海鹿」に「あしか」と振っている。

「海驢(あしか)」食肉目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科アシカ亜科 Otariinae のアシカ類。詳しくは「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 海獺(うみうそ)(アシカ類・ニホンアシカ)」及び次項の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 海鹿(あしか)(前と同じくアシカ類・ニホンアシカ)」を見られたい。但し、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 胡獱(とど)(トド)」では「海驢」の異名としているので、柳田國男のこの謂いは和名漢字名としては混乱を招くだけである。但し、現行でも混同使用は相変わらず続いているから、柳田を批判は出来ない。

「薩州上甑島串瀨戶の甑島大明神の社」グーグル・マップ・データではここ(鹿児島県薩摩川内市上甑町中甑)だが、サイド・パネルの画像で見ると、恐るべきおいそれとは行けそうに見えないとんでもない場所に巨岩がそそり立っていて海に面したその前に鳥居がポツンとあるだけである。というより、実はこの明神は鳥居しかないのである(「串瀨戶」はこの位置から、岬(串)と瀬戸のカップリングが実に相応しい名称であることは判る)。薩摩川内市観光物産協会のサイト「薩摩川内市観光ガイド こころ」の「甑大明神」によれば、『甑』(「こしき」とは穀物を蒸す用器で、甕(かめ)に似た器の底に一つ或いは二つ以上の穴を開け、これを湯沸しの上に重ねて穴を通って上る湯気によって穀物を蒸す仕組みとなっているものを指す。弥生時代以来、使われるようになり、平安以降は木製の桶や曲げ物の甑が普通となって、江戸時代に「蒸籠(せいろう)」に引き継がれた。中国・東南アジアにも甑があって朝鮮の楽浪郡の遺跡からも発見されている。これらの孰れかが日本に伝来したものと思われるものの、その経路は実は明らかではない)『形の大岩が御神体で』、『祭日は、旧暦』九月九日とあり、『元来、甑大明神には社殿はなく、岩そのものを神として拝してい』たのであり、『祭儀も甑岩の近くにある平岩の上で行われてい』たとあって、この大岩がまさに『「甑島」地名発祥の地といわれてい』るとあった。ロケーションも祭りもともに個人的に激しく惹かれる。但し、現在はここから一・五キロメートルほど離れた中甑湾奧の集落にある甑島神社が通常参拝の遥拝所となっている。

「龍駒」「りゆうのこま」と訓じておく。これだと、伊予でのタツノオトシゴの異名方言でもある。

「三國名勝圖會」巻第三十「甑島郡」の「甑島」の神社パートの冒頭にある「甑島大明神」の条。ここここ(間に見開きで二コマ分、同島の浦の図が二葉入っている)。

と云ふと云へり〔「三國名勝圖會」〕。

『漢名を「海馬」とも「水馬」とも書き』他の中国の本草書の漢名では「朝雲」「水鴈」「海蛆」「海蠍子」等がある。小野蘭山(口授)「重訂本草綱目啓蒙」第四十巻の「海馬」に拠る(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁。次注も典拠は同じ)。

『我が邦にては「あさのむし」・「しやくなぎ」又は「たつのすてご」などと云ふ』他に「かいば」(「海馬」讃岐)・「みつちのこ」(「蛟之子」。讃岐)・「りゆうぐうのこま」(「龍宮之駒」。豊後)・「りゆうのこま」(「龍之駒」。豊後・伊予)・「たつのおろしご」(「龍之降子」。土佐)・「りゆうぐうのをば」(「龍宮之姨」か)・「じやのこ」(「蛇之子」か。この場合は「蛇」は「龍」の前段階のこと。加賀)・「うみうま」(長門)・「をくじのまへ」(意味不明。仙台)。「あさのむし」は不詳。「しやくなぎ」(しゃくなぎ)は私の「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海馬」を参照。

『沖繩にて「けーば」』不審。調べてみると、使用頻度は低いらしいが、「うみんまぐゎー」(「海馬子」か?)である。そもそも母音の口蓋化で「けー」はやや不審であった。しかし確かに「沖繩語典」のここ(国立国会図書館デジタルコレクション)にそう出ている(「海馬」を当てている)。でも、どうもおかしいと感じる。そこでさらに調べたところ、しかし、或いはこれは「沖繩語辞典」の誤りなのではないか? と思うに至った。何故なら、琉球王府公用語の中に「けーば」を見出したからで(「琉球大学博物館 風樹館」のここ)、しかもそれは哺乳綱カイギュウ目ジュゴン科ジュゴン属ジュゴン Dugong dugon のことなのだ。さてもだったら、少なくとも「首は馬のごとく」は大当たりで、「身は蝦(えび)のごとし」だってスケールは違うが、スタイルは拡大相似形だ。流石にデカすぎて「安の」御「守」り「とす」るわけにはゆかないけれども、古来、ジュゴンは沖縄で子育てをする海洋動物として知られていたはずで、それ(例えば骨)は安産のシンボルともなろうと思うのだ。大方の御叱正を俟つものではある。

「證類本草」本草書。本来は北宋末の一〇九〇年頃に成都の医師唐慎微が「嘉祐本草」と「図経本草」を合冊し、それに約六百六十項の薬と、多くの医書・本草書からの引用文を加えて作った「経史証類備急本草」の通称。しかし、「証類本草」の語は未刊のまま終わったらしい唐慎微の書を元に、一一〇八年に艾晟(がいせい)手を加えたものの刊本である「大観本草」と、さらに一一一六年に曹孝忠らがそれを校正して刊行した「政和本草」を加えた、内容的に殆んど同一の三書の総称として用いられることの方が多い。

「異物志」漢の学者楊孚が南方地域の変わった事物を記載した書か。

「守宮蟲(やもり)」爬虫綱有鱗目トカゲ亜目ヤモリ下目ヤモリ科 Gekkonidae のヤモリ類。

「神驗圖經」不詳。

「燒末(しやうまつ)」焼いて砕いて粉末にしたもの。

「異魚圖」大陸のそれでは、不詳。仄峰に渡辺崋山筆の天保一一(一八四〇)年があるが、文脈上、違う。

『出羽の鳥海山は、頂上に「鳥海」と云ふ湖水あり』現在の鳥海山頂上から西方に下った最も古い登山路の中間の御浜(おはま)小屋(七合目)の南方下にある、標高千五百九十メートルのカルデラ湖である鳥海湖のことであろう(山形県飽海郡遊佐町(ゆざまち)吹浦(ふくら)所在)。但し、山頂ではない。鳥海山の標高は二千二百三十六メートル(新山ピーク)であるが、直線でも西へ三キロほど離れる。平均直径二百メートルほどの小さなものだが、人気のある景勝地である。本文の記す、「古書には、之れを記して、『鳥海山頂の池に、長さ、六、七寸の龍あり』と云へり。常民は敢へて登らず、行人(かうじん)等(ら)獨り往きて、かの龍を取り來たる」とか、それは『一年ばかりの内は生(せい)ありと見えて、座敷に置きて扇にてあおげば、「ひらりひらり」と、竪橫になりて、畫(ゑ)に描(か)ける龍のごとく、飛ぶ。一年過ぎては死するにや、扇(あふ)ぎても舞はず』というわけの判らぬ似非フェアリー話は真面目に考証するのも馬鹿馬鹿しいが、しかし、ネットを調べると、複数の登山者の記載にここで「魚影を見た」とあるのを見かけた。高地の火山性湖には普通は魚は棲息しない。しかもここは冬は氷結し、残雪もかなりの期間残ようで、相応に生物には過酷な環境である(周囲の高山性植物種は多種で非常に多様性に富んでいるようだが)。誰かが違法に放った(国定公園内である点でも違法)ものか、両生類の誤認の可能性はあろう。或いは、根拠も資料もないのだが、嘗つて(或いは今も)ここに小型のサンショウウオ類の一種が棲息していた(いる)と仮定するなら、ここにタツノオトシゴ(サンショウウオを龍と比喩するのは如何にも自然である。西欧の高地系のサンショウウオは古伝承でサラマンダーやドラゴンに比喩されているからである)にに似た生き物がいたとするここの古い記載は虚言ではない可能性もあるように思われる。高地性サンショウウオ類は極めて限定された地域にしか棲まない(棲めない)種が多くおり、少しでも環境が変わったり、人為的に有意な数が捕獲されれば(サンショウウオ類は黒焼きにして精力がつくと古くから薬餌されてきた歴史がある)、簡単に絶滅してしまうのである。

「扶餘縣の釣龍臺」既出既注であるが、補足しておくと、崔仁鶴の「朝鮮伝説集」(日本放送出版協会)の要約が、ここに「白馬江と釣龍台」(韓国の忠清南道扶余郡)として以下のようにある。

   《引用開始》

唐の将軍蘇定方が、大軍を率いて、百済の都を陥落させた後のこと。戦勝を祝う中、大王浦にあった唐の兵船が突然流れ出し、いきなり吹き出した颱風で皆川に沈んでしまう、という事件が起きた。

蘇定方が日官(暦法官)に伺うと、日官は百済の守護神である江龍の怒りだと告げた。ではその退治法はないかと蘇が問うと、日官は、龍は白馬が大好きだから、それを餌にして釣り上げればよい、と答えた。

さっそく蘇は兵たちに命じて鉄の釣針に太い鉄線の釣糸を用意し、白馬を餌にして川の岸にある岩の上に座ってそれらを川に投げ入れた。はたして日官の言ったように、程無く白馬を捕ろうとした龍が釣れ、蘇らに捕らえられてしまった。

このような出来事があったので、蘇定方が龍を釣った場所を釣龍台といい、さらに錦江の扶余一帯の川を、白馬を餌に龍を釣ったとして、白馬江と呼ぶようになったのだという。

   崔仁鶴『朝鮮伝説集』(日本放送出版協会)より要約

   《引用終了》

以下も既出既注であるが、新たに附しておくと、「蘇定方(そていはう)」(五九二年~六六七年)は初唐の武将。定方は字。冀州武邑(河北省))の人で、太宗の貞観(六二七年~六四九年)頃より突厥・高句麗への外征や、西突厥の叛臣の阿史那賀魯の討伐で功を挙げた。六六〇年には左武衛大将軍として新羅の要請を受け、水軍を率いて百済の義慈王らを滅ぼした。翌年、遼東道行軍大総管として高句麗に進撃し、八月、平壌城を包囲している。帰国後には涼州安集大使として吐蕃や吐谷渾(とよくこん)を平定している。

「白馬江」既出既注。現在の大韓民国忠清南道扶余郡。「白馬江」(はくばこう)はこの郡域を東北から南西に貫通している川の部分名であろうと思われる。「釣龍臺」(ちょうりょうだい)の位置はハングルは読めないので判らない。なお、この伝承はサイト「龍学」の「白馬江と釣龍台」に詳しい。

『帝釋天、乘りたまふ龍馬を「伊羅波(いらは)」と云ふ。鼻、長くして、馬のごとくなる「龍」なり』帝釈天(たいしゃくてん)は梵天(ぼんてん)と並び称される仏法守護の主神。十二天の一つとして東方を守る。忉利天(とうりてん)の主で、須弥山(しゅみせん)上の喜見城に住むとされる。四天王は彼に仕えるともされる。もとヒンズー教の英雄神で神の代表者であったインドラが仏教に取り入れられたもの。東大寺・唐招提寺などに彫像があるが、柳田國男が言っているのは、もしかして、東寺の講堂にある、平安前期の密教系の作像と推定されている、「白象」に乗った木像帝釈天像の、「象」を「龍馬」と誤認したものではなかろうか?

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