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2019/06/12

新綠 清白(伊良子清白) / 河合酔茗との合作(初出形復元)

 

新 綠

 

 

  雜司ケ谷鬼子母神に詣でゝ

 

江戶の面影、並木道

古き榎(えのき)は荒くれて

行く人小さし見上ぐれば

日は勝ち若き葉に透る

 

雜司ケ谷(やつ)の樹の煙

蒸せて汗じむ古衣(ふるごろも)

冬の名殘のありありと

春は目につく薄汚(うすよご)れ

 

羽蟲を避けて木に隱る

都少女のかげ見えて

暮れ行く春の絲遊は

鳩の翼の銀を縫ふ

 

涅槃(ねはん)五千の春の暮

無數の童子(どうし)あらはれて

供養、飛行を見るごとく

みだれみだれて花ぞ散る

 

足蹠(あうら)冷たく僧は過ぎ

瓔珞(やうらく)寂(じやく)に垂るる時

圓(まろ)き桂の繪に擦れて

白毛、拂子空(くう)を飛ぶ

[やぶちゃん注:本最終連三行目の「桂」は「柱」の誤植の可能性が高い。]

 

  晚春鶯賦

 

のぞみ、やはらぎ、悲みの

汝(な)が聲聞けば鶯よ

野邊の若葉の春の暮

「不思議」流るる心地する

 

美しき物人を去り

屬(たぐひ)も低き花鳥(はなどり)に

うつるは何の現象(あらはれ)ぞ

愧づ、われまたも樹を仰ぐ

 

瘦せたる鳥よ永劫に

女の胸は薄からん

嗚呼その聲の持ち主は

愁を語るつとめあり

 

夕の文(あや)は黑牡丹(こくぼたん)

聞くが如し薄墨の

闇を怖れぬ鶯は

靈(れい)なればなりいと高き

 

 

  十二社にて

 

茶汲女、興をたすけんと

他の緋鯉に麩を投げて

掌たゝくものごしの

こゝは都に遠からず

この子都路に家を持ち

母屋に鳩飼ふ過世(すぐせ)ならば

訛語(なまり)にはぢて積藁(つみわら)の

くどのかげにや隱れしを

 

藤山吹に行く春の

よきまらうどを送りても

瑞枝かげさすおばしまに

鏡は出さじふところの

 

聲も若きに鶯の

出ては野邊に捕らるゝを

けなげや君は花の上に

羽づくろひして世にゆかず

 

都少女がさゞめきの

もゝ囀りをよそにして

若葉のかげのさはやかに

襟くつろげて君と語らむ

 

[やぶちゃん注:これは明治三五(一九〇二)年五月十五日発行の『文庫』(第二十巻第三号)掲載。河合酔茗との合作。署名は「清白」。この年、伊良子清白、満二十五歳。三月に横浜海港検疫所が廃止となり、検疫医の任を解かれ、翌四月からは、内国生命保険会社に調査医として勤務した。同時に四月から九月まで、独逸協会学校独逸語専修科に入り、ドイツ語の学び直しを始めた(それが翌年明治三十六年と三十九年に『文庫』に発表されるハイネ・シラー・ウーラントなどの多くの訳詩に発揮されることとなる)。六月十三日から八月五日にかけて、同前の保険診査医として庄内平野の鶴岡・酒田などを拠点として出張旅行をしている。しかし、八月、同職を依願退職し、九月、東京外国語学校本科独逸語学科に入学している。しかし、十月には退職した内国生命から再び嘱託診査医の辞令を受けて復職している(その後の東京外国語学校の学籍等については、参考にしている底本全集年譜には記されていないので不明)。同月、京都医学校より「医学得業士」の称号(旧制専門学校の医学専門学校の卒業生に与えられた称号)が届いている。十月三十日より診査医として信越地方へ十日ほどの出張旅行をしたが、この帰途、秋和に滝沢秋暁を訪ね、既に電子化した、後の詩集「孔雀船」に所収されることとなる「秋和の里」が詠まれた。

 さて、本篇は一部を既に「新綠(雜司ケ谷鬼子母神に詣でて)」「晚春鶯語賦」の注で電子化している。それは、後に伊良子清白が三篇の内、「十二社にて」の前の二篇のみを昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」(全電子化済み)に少し手を入れてそれぞれ独立作として収録していたためである。しかし、ここで問題なのは、この三篇が合作であることである。何故、伊良子清白は最後の「十二社」を同作品集に再録しなかったのかを考えてみると、この詩篇が収録に値せずと彼が考えたとするよりも、この「十二社」のみはその主詠者が酔茗だったから、それを控えたのではなかったか? という推理である。

「十二社」「じうにそう(じゅうにそう)」と読む。東京都新宿区西新宿二丁目にある新宿総鎮守である熊野神社の古名。ウィキの「熊野神社(新宿区)によれば、『当神社は中野長者と呼ばれた室町時代の紀州出身の商人・鈴木九郎によって応永年間』(一三九四年~一四二八年)『に創建されたものと伝えられている』(天文(一五三二年~一五五五年)或いは永禄(一五五八年~一五七〇年)『年間に当地の開拓を行った渡辺興兵衛という人物が祀ったという異説もある)。『鈴木九郎は代々熊野神社の神官を務めた鈴木氏の末裔で、現在の中野坂上から西新宿一帯の開拓や馬の売買などで財を成し、人々から「中野長者」と呼ばれていた。鈴木九郎は当初』、『自身のふるさとである熊野三山の若一王子を祀ったところ、商売が成功し家運が上昇したので』、『後に熊野三山から十二所権現をすべて祀るようになったのが始まりとされている。かつて存在した付近の地名「十二社」(じゅうにそう)はこれに因んでいる。この地名は現在でも通り(十二社通り)や温泉(新宿十二社温泉)の名などに見られる』。『神社境内には大きな滝があり、また隣接して十二社池と呼ばれていた大小ふたつの池があり、江戸時代には付近は江戸近郊の景勝地として知られていた。江戸時代には熊野十二所権現社と呼ばれていた。江戸時代あたりから付近には茶屋や料亭などが立ち並びやがて花街となっていった。最盛期には茶屋や料亭が約』百『軒も並んでいたという。この賑わいは戦前まで続いていた』とあるから、この「茶汲女」というのが腑に落ちる。『その後』、『明治時代に入り名が熊野神社となり、その後神社の滝や十二社池は淀橋浄水場の造成や』、『付近の開拓により姿を消し』、『景勝地としての様相は徐々に見られなくなっていった。しかし、熊野神社はその後』、『付近が日本有数の高層ビル街と変貌した現在でも新宿一帯の守り神として人々から信仰を得ている』。『祭神は櫛御気野大神』(くしみけぬのおほかみ:素戔嗚尊の別名)『・伊邪那美大神』とある。]

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