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2019/06/10

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(33) 「龍馬去來」(2)

 

《原文》

 【養生奇瑞】土佐ノ龍馬ノ生立ハ正シク人間ノ阪田公時又ハ武藏房辨慶ナドト其類ヲ同ジクシ、不倫ナル比較ニテハアレドモ遠ク釋尊誕生ノ古傳ニ線(イトスヂ)ヲ引クモノ、即チ自分ガ假ニ名ヅケテ鬼子(オニノコ)傳說ト云フモノ是レナリ。此口碑ヤ本來單ニ現出ノ稀有ヲ誇張セントスル動機ニ基クモノナルべキカ。鬼鹿毛既ニ絕代ノ珍トスべクハ、ソノ小栗判官ノ如キ伯樂ト遭遇センコトハ愈多ク有リ得べカラザル機會ナリ。此故ニ諸國ノ靈山ニハ往々ニシテ人界ノ羈絆ヲ超脫シタル龍馬ノ住スルモノアルナリ。同ジク土佐ノ幡多郡足摺山ノ緣起ニモ、山中ニ龍馬ケ原ト云フ處アリ、千場ケ瀧ノ上ナリ。此原ニハ每夜龍馬出デテ笹ノ葉ヲ喰ムト云ヒ〔西郊餘翰四〕、又長岡郡岡豐(ヲガウ)村大字瀧本ノ毘沙門堂ノ瀧ハ、高サ十七間バカリニシテ中程ニ一段ノ水溜リアリ、【岩ノ窪】其傍ニモ龍ノ駒ノ足跡ト稱スル岩ノ窪アリト傳ヘタリ〔土州淵岳志〕。阿波阿波郡林村大字西林ノ岩津ノ淵ノ側ニ在ル馬蹄石モ、石ノ面ニ殘レルハ爪ヲ以テ押シタルガ如キ形ナレバ、俗ニ又牛ノ爪石トモ云フ〔燈下錄〕。要スルニ只ノ馬ノ蹄ノ痕ニハ非ザルナリ。薩摩ノ薩摩郡鶴田村大字紫尾(シビ)ノ祁答院(ケタフヰン)神興寺ノ山ニモ胎生尾(タイシヤウノヲ)ト云フ岩アリ。紫尾八景ノ一トシテ此地ヲ詠ジタル詩ノ句ニモ

   曾生天馬世皆譚   苜蓿蹄痕與ㇾ蘚參

ナドト見エタリ〔三國名勝圖會〕。【赤子足跡】美作久米郡福岡村大字橫山ノ嶺平(ミネノダヒラ)ニハ、岩ノ上ニ駒ノ右ノ蹄ノ跡ト赤兒ノ右ノ足跡ト殘レリ。其場處ヲ「ノゴハズ」ト呼ブハ、觸ルレバ忽チ雨降ルト云フ信仰ニ基クモノヽ如シ〔山陽美作記〕。【岩ノ窪】同國苫田郡神庭(カンバ)村大字草加部ニハ、賀茂川ノ東岸ノ岩ニ龍馬ノ爪ノ跡數多ト、竝ニ馬桶ト名ヅケタル岩ノ窪二箇處アリテ龍ケ爪淵ト稱ス。其附近ニハ龍神ノ社アリ。楢村ト云フ部落ノ地ニ屬ス。【雨乞】旱魃ニ雨乞シテ靈驗アリ〔東作誌〕。【龍ケ爪】同郡堀阪ト云フ地ニモ川ニ臨ミシ岩ノ上ニ馬蹄ノ跡アルヲ、龍ケ爪ト名ヅケテ參詣スル者多カリキ〔山陽美作記〕。同國英田郡大野村大字川上ノ增(マス)ケ乢(タワ)ニモ古ヘ天ヨリ下リシ龍駒ノ爪形ヲ石ノ上ニ遺スモノアリ。之ヲ駒ケ爪石ト稱ス〔東作誌〕。此トハ遙カニ懸離レテ、陸前名取郡秋保(アキフ)村大字新川(ニツカハ)ニハ龍駒(リユウク)ケ嶽アリ。東嶽ト相竝べリ。山上ニ樹ナク只茆草ヲ生ズ、鄕人曰ク山中ニ龍駒アリ常ニ出デテ草ヲ食ムト、仍テ其山ニ名ヅケタリ〔奧羽觀迹聞老志〕。加賀ノ白山ニ於テモ古來龍馬ヲ生ズト傳ヘ、土人往々ニシテ蹄ノ跡ヲ峻巖邃壑ノ間ニ見ル。石川郡吉野谷村大字佐良ハ白山ノ麓ニ在リ。村ノ南半里ニ丈溪ト云フハ石壁千仭ナリ。村民市平ナル者曉ニ行キテ小サキ馬ノ尾ト鬣ト甚ダ長キガ躍リテ谿ニ入ルヲ見タリ。岩角ヲ蹴ツテ飛ブコト平地ノ如ク、忽チ其影ヲ見失フ云々〔白山遊覽圖記七〕。【龍宮】羽前西田川郡西鄕村大字馬町ノ善法寺ノ池ノ水ハ龍宮ニ通フト稱シテ數數ノ奇特アリ。本堂ノ西南山ニ入ルコト三町バカリニシテ龍ケ澤アリ。龍馬ノ蹄ノ跡ト云フモノ存スト云フ〔三郡雜記下〕。羽後地方ニテモ龍馬ノ傳說ノ少ナカラザルコトハ後ニ再ビ之ヲ說クべキガ、【駒爪石】北秋田郡ノ戶鳥内(トトリナイ)ト云フ地ニモ路ノ傍ニ駒爪石ト稱スル神馬ノ跡アル石ヲ、祠ノ中ニ安置シテ崇敬シテアリキ〔眞澄遊覽記三十二下〕。【沼】同郡萩生山(ハギナリヤマ)ノ山奧ニハ怖シキ一ツノ沼アリ。雨降リ風吹カントスル際ニハ龍馬現ハレテ其岸ヲ馳セアルク。山民之ヲ見テ日和ノ占ト爲セリト云ヘリ〔同上三十一〕。此等ノ馬ドモハ單ニ凡人ノ羈絆ヨリ超脫スト謂フニ止マラズ、獨立シテ既ニ一箇ノ神ナリシニ似タリ。假ニ然ラズトスルモ、少ナクモ其生死出沒ノ點ニ於テ、尋常市井ノ荷車ニ營々スル者トハ全ク其範疇ヲ異ニシタリ。即チ一言ニシテ言ハヾ、彼等ハ皆天ヲ其鄕里トスル者ナリシ也。【龍ケ馬場】陸中稗貫郡大迫(オハザマ)町ノ橫岨山(ヨコガケヤマ)ノ頂上ニハ龍ケ馬場ト稱スル地アリ。町ヨリ南方ニ當リテ眺望良キ地ナリ。龍ケ馬場ト云フハ廣サ七八尺長サ三十間バカリノ白砂淸淨ノ一區ニシテ、雷ノ烈シク鳴ル日ニハ必ズ白馬ノ毛ノ如キ五寸乃至八寸ノ毛ヲ降ラス故ニ、此ノ如キ珍シキ名ヲ負ヘルナリ〔和賀稗貫二郡鄕村志〕。但シ此毛ハ白馬ノ毛ナリヤ否ヤ多少ノ疑アリ。現ニ馬ヲ重要視セザル江戶ノ市中ニモ澤山ニ降リシコトアリ。時ハ寬政五年ノ七月十五日、江戶小雨降リテ其中ニ毛ヲ交ヘタリ。丸ノ内邊ハ別シテ多シ。多クハ色白ク長サ五六寸、殊ニ長キハ一尺二三寸ニ及ブ。色赤キ毛モタマタマ有リ。太サハ馬ノ尾ホドノ物ナリ。江戶中ニ遍ク降リシコト、何獸ノ毛ニテ幾萬疋ノ毛ナルヤ不審ノ事ナリト云ヘリ〔北窻鎖談二〕。此ヨリモ遙カ前ノ年ニ、阿部伊勢守殿居間ノ十間バカリ脇ノ櫻ノ木へ雷落チ、木ニモ其邊ニモ長サ五六寸ノ毛夥シク降リタリ。主人之ヲ集メテ蠅拂ニセラレシトハ氣樂ナル話ナリ〔觀惠交話下〕。近クハ明治四十五年四月十八日ノ時事新報ノ記事ニ、伊豆ノ大島三原山ノ麓ニ此毛降ル。【火山毛】新シキ學問ニテハ之ヲ火山毛ト呼ブ由ナレドモ、布哇ナドノ土人モ之ヲ神ノ毛ト尊敬スルト聞クノミナラズ、更ニ他ノ一方ニハ馬ガ丸ノマヽ降リタリトノ話モアレバ、要スルニ天ハ何ヲ降ラスカ到底測リ知ルべカラズ。此モ江戶ニテノ出來事ナリ。【馬降ル】今ヨリ凡ソ百六十年ホドノ昔、江戶ニ大霰ノ降リシ日、旗本ノ橋本安房守ガ庭前ニ一頭ノ馬降リ來ル。龍ノ揚ゲタルモノナラントノ說アリキ。落ツルハズミニカ腰ノ骨ヲ痛メテアリシ故ニ療養ヲ加ヘタリトアリ。不思議ノ上ノ不思議ハ、此馬ハ背ニ娑婆世界ノ乘鞍ヲ置キテアリシト云フコトナリ〔寓意草下〕。

 

《訓読》

 【養生奇瑞】土佐の龍馬の生立(おひたち)は、正(まさ)しく人間の阪田公時(さかたのきんとき)又は武藏房辨慶などと其の類を同じくし、不倫なる比較にてはあれども、遠く釋尊誕生の古傳に線(いとすぢ)を引くもの、即ち、自分が假に名づけて、「鬼子(おにのこ)傳說」と云ふもの、是れなり。此の口碑や、本來、單に現出の稀有を誇張せんとする動機に基づくものなるべきか。「鬼鹿毛(おにかげ)」、既に絕代の珍とすべくは、その小栗判官(おぐりはんがん)のごとき伯樂と遭遇せんことは、愈々、多く有り得べからざる機會なり。此の故に諸國の靈山には往々にして人界の羈絆(きはん)[やぶちゃん注:「羈」も「絆」も繋ぎ止める意で、一般には「何らかの行動を起こす際の足手纏いとなること」を言うが、ここは単に「現存在に於ける種々の制約。現実的しがらみ」の意。]を超脫したる龍馬の住するものあるなり。同じく、土佐の幡多(はた)郡足摺(あしずり)山の緣起にも、「山中に龍馬ケ原と云ふ處あり、千場ケ瀧の上なり。此の原には、每夜、龍馬出でて、笹の葉を喰む」と云ひ〔「西郊餘翰」四〕、又、長岡郡岡豐(をがう)村大字瀧本の毘沙門堂の瀧は、高さ十七間ばかり[やぶちゃん注:約三十一メートル。]にして中程に一段の水溜りあり、【岩ノ窪】其の傍らにも「龍の駒の足跡」と稱する岩の窪みありと傳へたり〔「土州淵岳志」〕。阿波阿波郡林村大字西林の岩津(いはづ)の淵の側に在る馬蹄石も、石の面に殘れるは、爪を以つて押したるがごとき形なれば、俗に又、「牛の爪石」とも云ふ〔「燈下錄」〕。要するに、只だの馬の蹄の痕には非ざるなり。薩摩の薩摩郡鶴田村大字紫尾(しび)の祁答院(けたふゐん)神興寺の山にも「胎生尾(たいしやうのを)」と云ふ岩あり。「紫尾八景」の一つとして此の地を詠じたる詩の句にも、

   曾生天馬世皆譚   苜蓿蹄痕與ㇾ蘚參

などと見えたり〔「三國名勝圖會」〕。【赤子足跡】美作久米郡福岡村大字橫山の嶺平(みねのだひら)には、岩の上に駒の右の蹄の跡と、赤兒の右の足跡と、殘れり。其の場處を「のごはず」と呼ぶは、觸るれば、忽ち、雨降ると云ふ信仰に基くものゝごとし〔「山陽美作記」〕。【岩の窪】同國苫田(ともた)郡神庭(かんば)村大字草加部には、賀茂川の東岸の岩に、龍馬の爪の跡、數多(あまた)と、竝びに「馬桶(むまをけ)」と名づけたる岩の窪、二箇處ありて、「龍ケ爪淵」と稱す。其の附近には龍神の社あり。楢村と云ふ部落の地に屬す。【雨乞】旱魃に雨乞ひして靈驗あり〔「東作誌」〕。【龍ケ爪】同郡堀阪と云ふ地にも、川に臨みし岩の上に馬蹄の跡あるを、「龍ケ爪」と名づけて參詣する者多かりき〔「山陽美作記」〕。同國英田郡大野村大字川上の「增(ます)ケ乢(たわ)」にも、古(いにし)へ、天より下りし龍駒の爪形を石の上に遺すものあり。之れを「駒ケ爪石」と稱す〔「東作誌」〕。此れとは遙かに懸け離れて、陸前名取郡秋保(あきふ)村大字新川(につかは)には「龍駒(りゆうく)ケ嶽」あり。東嶽と相ひ竝べり。山上に樹なく、只だ茆草(かやくさ)を生ず。鄕人曰く、「山中に龍駒あり、常に出でて草を食む」と。仍つて其の山に名づけたり〔「奧羽觀迹聞老志」〕。加賀の白山に於いても、古來、龍馬を生ずと傳へ、土人、往くにして蹄の跡を峻巖邃壑(しゆんげんすいがく)の間に見る。石川郡吉野谷村大字佐良(さら)は白山の麓に在り。村の南半里に「丈溪」と云ふは、石壁千仭なり。村民市平(いちへい)なる者、曉に行きて、小さき馬の尾と鬣(たてがみ)と甚だ長きが、躍りて谿(たに)に入るを見たり。岩角を蹴つて、飛ぶこと、平地のごとく、忽ち、其の影を見失ふ云々〔「白山遊覽圖記」七〕。【龍宮】羽前西田川郡西鄕村大字馬町の善法寺の池の水は、龍宮に通ふと稱して、數數(かずかず)の奇特(きどく)あり。本堂の西南、山に入ること、三町ばかり[やぶちゃん注:約三百二十七メートル。]にして、「龍ケ澤」あり。龍馬の蹄の跡と云ふもの存すと云ふ〔「三郡雜記」下〕。羽後地方にても、龍馬の傳說の少なからざることは、後に再び之れを說くべきが、【駒爪石】北秋田郡の戶鳥内(ととりない)と云ふ地にも、路の傍らに「駒爪石」と稱する神馬の跡ある石を、祠の中に安置して崇敬してありき〔「眞澄遊覽記」三十二下〕。【沼】同郡萩生山(はぎなりやま)の山奧には、怖しき一つの沼あり。雨降り、風吹かんとする際には、龍馬、現はれて、其の岸を馳せあるく。山民、之れを見て、日和(ひより)の占(うら)と爲せりと云へり〔同上三十一〕。此等の馬どもは、單に凡人の羈絆より超脫すと謂ふに止まらず、獨立して、既に一箇の神なりしに似たり。假りに然らずとするも、少なくも、其の生死出沒の點に於いて、尋常市井の荷車に營々する者とは全く其の範疇を異にしたり。即ち、一言にして言はゞ、彼等は皆、天を其の鄕里とする者なりしなり。【龍ケ馬場】陸中稗貫郡大迫(おはざま)町の橫岨山(よこがけやま)の頂上には、「龍ケ馬場」と稱する地、あり。町より南方に當りて眺望良き地なり。「龍ケ馬場」と云ふは、廣さ、七、八尺、長さ三十間[やぶちゃん注:五十四・五四メートル。]ばかりの、白砂淸淨の一區にして、雷の烈しく鳴る日には、必ず、白馬の毛のごとき、五寸乃至八寸の毛を降らす故に、此くのごとき珍しき名を負へるなり〔「和賀稗貫二郡鄕村志」〕。但し、此の毛は白馬の毛なりや否や、多少の疑ひあり。現に、馬を重要視せざる江戶の市中にも澤山に降りしこと、あり。時は寬政五年の七月十五日、江戶、小雨降りて、其の中に、毛を交へたり。丸の内邊りは、別して多し。多くは、色、白く、長さ、五、六寸、殊に長きは、一尺二、三寸に及ぶ。色、赤き毛も、たまたま有り。太さは馬の尾ほどの物なり。江戶中に遍(あまね)く降りしこと、何(なん)の獸(けだもの)の毛にて、幾萬疋の毛なるや、不審の事なりと云へり〔「北窻鎖談」二〕。此れよりも遙か前の年に、阿部伊勢守殿、居間の十間[やぶちゃん注:十八・一八メートル。]ばかり脇の櫻の木へ、雷、落ち、木にも、其の邊りにも、長さ、五、六寸の毛、夥しく降りたり。主人、之れを集めて、「蠅拂ひ」にせられしとは、氣樂なる話なり〔「觀惠交話」下〕。近くは明治四十五年[やぶちゃん注:一九一二年。]四月十八日の『時事新報』の記事に、伊豆の大島三原山の麓に、此の毛、降る。【火山毛(くわざんげ)】新しき學問にては、之れを「火山毛」と呼ぶ由なれども、布哇(ハワイ)などの土人も、之れを「神の毛」と尊敬すると聞くのみならず、更に、他の一方には、馬が丸のまゝ降りたりとの話もあれば、要するに、天は何を降らすか、到底、測り知るべからず。此れも江戶にての出來事なり。【馬降る】今より凡そ百六十年ほどの昔、江戶に大霰(おもほあられ)の降りし日、旗本の橋本安房守が庭前に、一頭の馬、降り來たる。龍の揚げたるものならんとの說ありき。落つるはずみにか、腰の骨を痛めてありし故に、療養を加へたりとあり。不思議の上の不思議は、此の馬は、背に、娑婆世界の乘鞍(のりくら)を置きてありしと云ふことなり〔「寓意草」下〕。

[やぶちゃん注:「阪田公時(さかたのきんとき)」「今昔物語集」巻第二十八「賴光郎等共紫野見物語第二」(賴光の郎等共、紫野に物を見たる語(こと)第二)、「古今著聞集」「巻第九 武勇」の「源賴光、鬼同丸を誅する事」、「古事談」巻第六(藤原道長の私的な競馬(くらべうま)の相手役として登場)などに登場する武士で、姓を「酒田」、また「金時」とも書き、幼名を金太郎、源頼光四天王の一人とされ、実在の人物と言うが、後世の「御伽草子」や伝承では山姥の子と設定され、相模国足柄山で育った怪童で頼光に見出され大江山の酒呑童子の征伐などに加わったとする伝承上の人物。総体を抱え込んだ限定された個人としての実在性は低い。

『「鬼鹿毛(おにかげ)」、既に絕代の珍とすべくは、その小栗判官(おぐりはんがん)のごとき伯樂と遭遇せんこと』「小栗判官」は中世から近世にかけて流行した説経節や浄瑠璃などの語り物の貴種流離譚の主人公。知られたもののでは以下のような筋立てである。京三条高倉の大納言兼家の嫡子小栗判官は、北菩薩(みぞろ)池の大蛇の化身と契ったが、罪を得て、常陸に流される。やがて美女の照手姫と結ばれるが、姫の一族(横山。姫は養女)に毒殺されてしまう。死んだ小栗は閻魔大王の命で、善人のゆえに娑婆へ帰され、「餓鬼阿弥(がきあみ)」と名づけられた。藤沢の上人の配慮によって、生きたミイラの如き餓鬼阿弥は、車に引かれ、熊野本宮へと向かい、そこで三七日(みなぬか:二十一日)の間、湯に浸され、めでたく元の体に戻る。一方、照手姫は海に沈められるところを救われるものの、人買いの手に渡され、各地を転々として重労働に苦しめられるが、知らずに餓鬼阿弥の車を運び、後、小栗と再会して都へ行く。細部にかなりの紆余曲折があり、ヴァージョン違いも多いが、その中で、横山一党が小栗に馬芸を乞うて、人食い馬「鬼鹿毛」に乗せて謀殺しようとするシークエンスを指す。サイト「み熊野ねっと」の「小栗判官」「小栗判官3 人喰い馬」が現代語訳で判り易い。

「土佐の幡多(はた)郡足摺(あしずり)山の緣起」高知県南西部土佐清水市の、所謂、足摺岬の尖端近くにある丘の上に建つ、真言宗蹉跎山(さだざん)補陀洛院(ふだらくいん)金剛福寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の縁起に由来するものかと思われる。

「千場ケ瀧」恐らく、「千万滝」ではないかと思われ、推定落差五十メートルで足摺岬の断崖の南西に近年まで、存在したが、今は滝自体(水流)は完全に消失しているらしい滝フリークのこだる氏のブログ「長野県の滝」の中の「高知県の滝 土佐清水市の滝(10)足摺岬の千万滝」に写真附きで五十年(記事は二〇一二年のもの)前にはまだ存在したことが、感懐を以って書かれてある。当地に残る案内板の写真に「千万滝」と書かれたそれから、この中心附近(グーグル・マップ航空写真)「千万滝」はかつて存在したと思われるから、「龍馬ケ原」はその画面の上部一帯(金剛福寺の門前の足摺岬先端部の根の部分相当或いは南西部分の崖上部)となろう。

「長岡郡岡豐(をがう)村大字瀧本の毘沙門堂の瀧」現在の高知県南国(なんこく)市岡豊町(おこうちょう)滝本にある「毘沙門の滝」で「龍の駒の足跡」も現存する(地名は現在は清音)。「南国市」公式サイト内の「毘沙門の滝」の解説によれば(地図有り)、高さ三十メートル、三段に『わかれて落ちる滝で』、『中段には竜の駒の足跡といって、岩に大きな馬の蹄のような跡があ』ると明記されてある。『すぐ近くに毘沙門堂が建って』おり、『これは、昔弘法大師が大津の港に着いたとき、滝の音を聞いてここを訪ねて滝にうたれて身を清め、毘沙門天を彫刻しこれを祀ったのが毘沙門堂であると』されるとある。

「阿波阿波郡林村大字西林の岩津(いはづ)の淵」現在の岩津橋(いわづばし)附近か(ウィキの「岩津橋」にある Wikimedia OpenStreetMap のデータ)。同ウィキによれば、吉野川に架かる徳島県道百三十九号船戸切幡上板線の橋で、南岸は徳島県吉野川市山川町(ちょう)一里塚、北岸は同県阿波市阿波町乙岩津(おついわづ)である。

「薩摩の薩摩郡鶴田村大字紫尾(しび)の祁答院(けたふゐん)神興寺」現在、この寺は廃寺となって存在しない。現在の鹿児島県薩摩郡さつま町(ちょう)紫尾(しび)にある紫尾神社の境内地(推定。北直近)に寺の跡があるウィキの「紫尾神社(さつま町)」によれば、『旧くは「紫尾山三所権現」と称し』、『古くから祁答院七ヶ郷(山崎、大村、黒木、佐志、藺牟田、宮之城、鶴田)の総社として尊崇された』。なお、『当神社の拝殿の下から紫尾温泉の源泉が湧いていることから「神の湯」とも呼ばれている』とあり、さらに『社伝に、第』八『代孝元天皇の時代に開山され』、『「紫尾山」と号して創祀されたとも、また第』二十六『代継体天皇の時代に山中で修行をしていた空覚上人という僧の夢の中に神が現れ、「われはこの山の大権現なり、あなたが来るのを長い間待っていた。わがために社寺を建てて三密の旨を修し、大乗の法を広めよ」とのお告げがあり、翌朝上人が山頂に立つと尊い、いかめしい気があたりをつつんでいて』、『麓へ向かって』、『紫の美しい雲がたなびいていた。これを見た上人はこの山を紫尾山と名付けお告げに従い』、『山を下り、その麓を聖地と定め』、『社殿を建立「紫尾山三所権現」と称したという』。貞観八(八六六)年に『正六位上から従五位下へ昇叙された薩摩国「紫美神」に充てられるが』、『これを紫尾山の対麓に鎮座する出水市高尾野町唐笠木の同名神社に充てる説もある』。『上記紫尾山は神社の裏山に当たり、最初の社祠は紫尾山の山頂近くにあった。これを「上宮」と呼ぶのに対し、昔この山頂近くにあった社がたびたび暴風で倒壊し、また祭祀にも不便だったことから、当神社と出水市高尾野町唐笠木の同名神社の』二『か所に里宮として分祀し』て『「下宮」と呼んだといい』『(但し、薩摩郡さつま町柏原の「古紫尾神社」を下宮とする場合は「中宮」と呼ばれる)ともに紫尾山を信仰の対象とする山岳信仰を背景に建立された神社であったと思われ、当神社には中世に西国高野山の異名をとった「紫尾山祁答院神興寺」という供僧の坊が置かれ、修験者が群参したという』。『鎌倉、室町の両幕府に崇敬されたといい、江戸時代には薩摩藩主島津氏から尊崇され、この地域の鎮守神として社領の寄付や社殿の修復が行われた。また、寛永末年(』十七『世紀中頃)に当神社の神託によって永野金山が発見されたことで有名になった。このような金山発見のお告げをした神が座す社であるという伝承から、鉱山関係の参詣者が多かった。交通不便な場所に鎮座しているが、現在でも初詣には』一『万人ぐらいの人出で賑わう』とある(下線太字はやぶちゃん)。この記載から見る限りでは、近世初期には神興寺は廃されていたように読めてしまうのだが、そうではなかった巡礼者 rinzo 氏のブログ「薩摩旧跡巡礼」のこちらでは、この紫尾神社及び後背地の神興寺跡を実に丁寧に探索されており(画像多数。状態の非常によい(風化していない)馬頭観音像数体を見ることが出来る。必見! なお、これらから見ても、近世まで同寺は存在したことが素人にも推理出来る)、而してそこに以下のようにあったのである。『天正年間』(ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年(ユリウス暦一五九二年))『に災害があった。それにより』、『神興寺の堂宇がことごとく荒廃し、ただ』、『権現廟だけが残っている状態となった』。『貞享二』(一六八五)『年四月、宮之城の真言宗寺院である神照寺の住持であった権大僧都快善という僧が』、『この山を訪れ、自らの閑居の地を占っていたのだが、この古跡のあまりの荒廃ぶりを哀れみ、資材を投じて当寺を再興し』、『朝は遠くの山を望んで心を澄まし、日が暮れると』、『温泉に入り』、『身を休め、日々』、『杖をついて徘徊し、春夏秋冬の風景を楽しみとしていた』とあり、さらに『元禄十』(一六九七)『年の春、紫尾八景を選び、狩野昭信に絵を頼み、それに諸山の僧侶が詩をつけ、一つの軸にして神興寺に納めた』。『その八景を胎生山』(本文に柳田國男が言う「紫尾八景」の『「胎生尾(たいしやうのを)」と云ふ岩』がある山であろう。但し、現在もその岩があるかどうかは不明)『・筆之山・錦之尾・両鹿勢・三日月山・光石・綾織山・陰陽師峯という』。『また、当山不動谷に奥の院を開き、そこから上宮権現に参詣する際』、『一歩一遍光明真言を唱え、また仁王経一万二千二百余巻を読誦した』とあって、途中で荒廃期はあったものの、戦国時代に復興し、その後、江戸中期までは神興寺はしっかり現存していたことが判るのである。

「曾生天馬世皆譚」「苜蓿蹄痕與ㇾ蘚參」訓読を試みておく(底本には返り点のみ)。

曾つて天馬生ずるも 世(よ)皆(みな)譚(たん)たるのみ

苜蓿(もくしゆく)蹄痕(ていこん) 蘚(せん)に與(あた)へて參(しん)たり

一句目は、「天馬は最早、ただ語りのなかにのみにしかいない」ことを言ふ。「苜蓿」は飼い葉となるはずの、双子葉植物綱マメ目マメ科マメ亜科シャジクソウ連ウマゴヤシ属ウマゴヤシ Medicago polymorpha の異名。「蘚」は苔、「參」はよく判らぬが、「相並ぶこと」「交々(こもごも)になっていること」で、『天馬がいなくなって久しいから、「うまごやし」も天馬の蹄の跡も、ただ空しく苔に塗れていることだ』の意で私はとる。誤読とせば、御教授あられたい。

「美作久米郡福岡村大字橫山の嶺平(みねのだひら)」岡山県津山市横山はここ。航空写真を見ると、ど真ん中の丘陵部に有意に平たい土地が見えるが、これは近代の開墾のよう。

「のごはず」「拭(のご)はず」で不可触の謂いである。こうした禁忌の石の場合、残っている可能性は大きいはずだが、ネットでは掛かってこない。

『同國苫田(ともた)郡神庭(かんば)村大字草加部には、賀茂川の東岸の岩に、龍馬の爪の跡、數多(あまた)と、竝びに「馬桶(むまをけ)」と名づけたる岩の窪、二箇處ありて、「龍ケ爪淵」と稱す』現在の岡山県津山市草加部。現行、地区の東を流れる川は「加茂川」の表記であり、現在は加茂川の東岸は津山市楢(後に出る旧「楢村」)であるが、「歴史的行政区域データセット」を「岡山県苫田郡神庭村」を見ると、旧神庭村の村域は加茂川東岸を舐めるように含んでいることが判る。残念ながら、ネット上には二種の龍馬絡みの岩の窪や「龍ケ爪淵」は掛かって来ない。

「其の附近には龍神の社あり。楢村と云ふ部落の地に屬す」同地区には「一寸鏡(ますかがみ)神社」という変わった名の神社が現存するが、龍神を祀っているというデータはない。そこから南西南に少し行った位置の川畔に鷹山稲荷大明神というのはある。

「同郡堀阪」岡山県津山市堀坂。先の草加部と楢の北直近の加茂川東岸部。これらが極めて接近して、しかも川の岸辺に存在することから、これは地質学上の岩石の性質やその浸食様態の説明(私は高い確率で甌穴であろうと思う)で解明し得るものと思われる。

『同國英田郡大野村大字川上の「增(ます)ケ乢(たわ)」』美作市川上。「乢」は山岳の尾根や山稜の窪んで低い場所などを指す語。サイト「遺跡ウォーカー」のこちらで、この川上地区には「桂坪乢」の地名が現存し、しかもこの周辺には柳田國男の嫌いな古墳が多数あることが判り、この「龍駒の爪形」というのも、そうした古墳絡みである可能性が窺われる。

『陸前名取郡秋保(あきふ)村大字新川(につかは)には「龍駒(りゆうく)ケ嶽」宮城県仙台市青葉区新川(にっかわ)はここであるが、「龍駒ケ嶽」「東嶽」は現認出来ない。但し、国土地理院図で見ると、同地区内の東に麓の地名から見て、明らかに山岳信仰のあったと思われるピークが複数存在するから、この辺りがそれかと思われる。

「茆草(かやくさ)」茅(ちがや)。

「峻巖邃壑(しゆんげんすいがく)」峻(けわ)しい巌(いわお)や幽邃なる渓谷。

「石川郡吉野谷村大字佐良(さら)」石川県白山市佐良。手取川の東岸。白山山頂から南西約二十キロメートルの位置にある。

「丈溪」不詳。この辺りの手取川は渓谷を成してはいる。

「羽前西田川郡西鄕村大字馬町の善法寺」これは現在の山形県鶴岡市下川関根にある曹洞宗龍澤山(りゅうたくさん)善寳寺(ぜんぽうじ)の誤りではないか? ウィキの「善寳寺」によれば、『姿を顕した二龍神(龍宮龍道大龍王、戒道大龍女)が寺号を授け、寺内の貝喰池』(かいばみいけ)『に身を隠したという伝承が残り』、『龍神信仰の寺として航海安全を祈願する海運関係者や大漁を祈願する漁業関係者などから全国的に信仰を集める』とあるからである。因みに、この貝喰池、多くの方が御存じのはず。一九九〇年頃に、この池にいる鯉が「人面魚」として盛んに喧伝され、シミュラクラ「人面魚」の都市伝説の元祖となったからである。グーグル画像検索「貝喰池 人面魚」をリンクさせておく。ほら! 覚えてるでしょ?

「北秋田郡の戶鳥内(ととりない)」秋田県北秋田市阿仁(あに)戸鳥内。「駒形石」は現存するかどうか不明。

「同郡萩生山(はぎなりやま)」不詳。

「日和(ひより)の占(うら)」天候急変の予兆とすること。

「陸中稗貫郡大迫(おはざま)町の橫岨山(よこがけやま)」岩手県花巻市大迫町(おおはさままち)を冠するこの一帯(ポイントはその中の大迫町大迫)。「橫岨山(よこがけやま)」の位置は不明。

「白馬の毛のごとき、五寸乃至八寸の毛を降らす」ここを読んだ途端、昔(中学・高校時代)、「未確認飛行物体研究調査会」の会長(会員はたった二名)であった私は、一九五二年十月十七日、フランス南西部のオロロン=サント=マリー(Oloron-Sainte-Marie)に「空飛ぶ円盤」が出現、それに伴って白い糸状のものが大量に降ったという事件を思い出した。これは「エンゼル・ヘア」と呼ばれ、写真にも撮られている(まんず、古参のUFO研究家なら知らない奴はモグリと言ってもいいほど知られた事件である)。個人ブログ「きよりんのUFO報告」の『1952年円盤群と「エンゼルヘア」降下事件』から引用させて戴くと、この毛、『降下して電線などに引っかかっても、やがて蒸発して消えてしまったと』されており、『フランスのUFO研究家エメ・ミシェル』(Aimé Michel 一九一九年~一九九二年)『は、彼の著書』(原本は「Lueurs sur les soucoupes volantes」(「空飛ぶ円盤の光り」。一九五四年刊)。邦題は「空飛ぶ円盤は実在する」(一九五六年高文社刊・田辺貞之助訳)。私も実はこれで読んだ。今も持っているが、積み上げた下方にあって、引き出すと、本の山の下敷きになるので諦めた)『にこう書いてい』るとして当該書を引用されておられる。

   《引用開始》

 オロロンとガイヤック-1952年10月

1952年10月17日金曜日、オロロンでは素晴らしい天気だった。空は青く、雲ひとつなかった。12時50分ごろ、オロロン中学の舎監長イーヴ・プリジャン氏は中学の二階にある自分の部屋で食卓へ向かおうとしていた。かたわらに女教員であるプリジャン夫人と三人の子供らがいた。

 部屋の窓はすべて町の北方へ向かって開かれ、広い景観を示していた。息子のジャン・イーヴメプリジャンは窓のところに立っていた。人は彼を食事に呼んだ。が、そのとき、彼が叫んだ。

 「パパ、来て御覧よ、変なものが見えるよ!」すべての家族が彼のそばへ行った。プリジャン氏は次のように語っている。

 「北の方、青い空の奥に、奇妙な格好の綿のような雲がただよっていた。その上に、細長い円筒形のものが、明らかに45度ばかり傾いて、真直ぐに南西の方へゆっくり移動していた。私はその高さを二千ないし三千メートルと見積もった。そのものは白っぽく、光がなく、輪郭がはっきりしていた。上の端から白い煙が前立のように吹き出していた」

 「その円筒形のものの前に少し距離をおいて、30ばかりのほかのものが同じ進路を通っていた。肉眼では、それらは煙の塊に似た不恰好な球の形をしていた。しかし、双眼鏡でみると、中が赤く、まわりが非常に傾斜した黄色っぽい輪のようになっている球をはっきり見ることができた。その傾斜は」と、プリジャン氏は念を押していう。「中央の球体の下の部分をほとんど隠していた。しかし、上の方ははっきり見えていた。その〈円盤〉は2つずつならんで別々の道をすすみ、全体として、速くみじかいジグザグをなしていた。その2つの円盤が離れると2つのあいだに電光形に白っぽい筋ができた。」

 「これらの奇妙なものはたくさんの筋をうしろへ残し、それがゆっくりと分解しながら地面の方へおりてきた。数時間のあいだ、木立や電話線や家々の屋根の上にふわりとしたものがひっかかっていた。」

 これは未知の器械の飛翔によってオロロンの野にまきちらされた〈聖母の糸〉(蜘蛛の糸)の奇妙な物語である。その糸は毛糸かナイロンに似ていた。そして、もつれて塊になり、すみやかにジェラチン状になり、それから昇華して、消え去った。多くの目撃者がそれをとり、速やかな昇華の現象を見ることができた。中学の体操教師は運動競技場から大きな糸束をもってきた。中学の教師たちは大いにあやしみ、火をつけてみたところが、セロファンのように燃えた。理科の教師プーレ氏はその糸を入念にしらべたが、分析をする暇がなかった。しかし、彼は棒にまきつけた10メートルばかりの糸が昇華し消失するのを観察することができた。(以下略)

10月27日ガイヤックのトゥールーズ街に住むドール婦人は鳥小屋で鶏たちがさわいでいるのに気がついた。彼女は眼を空へあげてみた。そしてオロロンの人々が10日前に見たのとまったく同じものを見た。(中略)45度に傾斜した前立のある円筒形がゆっくり南西へ向かって行き、それを20個ばかりの〈円盤〉が取り巻き、太陽にきらめきながら、2つずつジグザグ形にすみやかにとんでいく。唯一の相違は、ここでは2つずつ並んだ円盤の幾組かが時によると非常に低いところまで降りてきたことで、その高さは証人により三百ないし四百メートルと見積もられた。これが約20分ほどつづき、やがて葉巻も円盤も地平線に消え去った。

 すると、早くも白い糸のかたまりが降りはじめ。円盤が見えなくなってしまったあとまでも、長いこと落ちてきた。

   《引用終了》

ああっ! 懐かしい! 英文のUFOサイト「LUFORU」の「Oloron-Sainte-Marie, Pyrénées-Atlantiques, France, Europe」で「エンゼル・ヘア」の写真その他が見られる。軽蔑の眼で見ている読者諸君のために、後の「火山毛」の注でちゃんとそれに応じているので安心なされよ。

「北窻鎖談」「鎖」は「瑣」の誤り。江戸後期の医者で紀行家橘南谿(たちばななんけい 宝暦(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)の随筆。当該話は巻之二の以下。吉川弘文館随筆大成版を参考に、漢字を恣意的に正字化して示す。頭の見出し用の「一」をカットした。

   *

寛政丑年[やぶちゃん注:寛政五年は癸丑(みずのとうし)で正しい。]七月十五日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一七九三年八月十四日。]、江戶小雨(こさめ)降て、其中に毛を降らせり。丸の内邊は別して多かりしとぞ。多くは色白く長サ五六寸、殊に長きは一尺二三寸もあり。色赤きもたまたま有しとぞ。京へも親しき人より拾(ひろひ)とりし毛を送り越(こ)せしが、馬の尾のふとさの毛なり。江戶中にあまねく降りし事、何獸の毛にて幾万疋の毛なりや。いと不審の事なりき。

   *

「阿部伊勢守殿」前の寛政五(一七九三)年よりも「遙か前」の人物で「阿部」姓で「伊勢守」となると、調べたところでは、備後福山藩第二代藩主で阿部家宗家第六代阿部正福(まさよし 元禄一三(一七〇〇)年~明和六(一七六九)年)しかいない。

「蠅拂ひ」獣毛を束ねて柄をつけた蠅や蚊を追うための道具。後に法具の一つとして邪鬼・煩悩などを払う功徳があるとされた。払子(ほっす)に同じ。但し、其れとは別に、武具・指物(さしもの)として、棹の先端に犛(やく)の毛を纏めて短く下げたもの(「かぶろ」とも呼ぶ)があり、ここは後者で採るべきか。

「今より凡そ百六十年ほどの昔」本書の刊行は大正三(一九一四)年であるから、単純計算では宝暦四(一七五四)年前後となる。徳川家重・家治の治世。

「橋本安房守」不詳。

「火山毛(くわざんげ)」Pele's hair のこと。ウィキの「ペレーの毛」によれば、『火山の爆発の際に、マグマの一部が吹き飛ばされ』、『空中で急速冷却し』て『髪の毛のようになったもののことを言う。非常に軽いため数』キロメートル『先まで風で運ばれる。ペレーの涙』(Pele's tear。火山の爆発の際にマグマの小さな塊りが固結したガラス質の粒の噴出物。礫状意外に滴型を呈するものがあり、「火山涙(かざんるい)」とも呼ぶ)『と同じように、火山噴出物の一つである。火山毛(かざんもう)』『ともいう。ペレーはハワイに伝わる火山の女神のことである』。『おもに玄武岩質の火山ガラスからなる褐色の細い単繊維であり、典型的なものは断面が円形に近く、直径は』〇・五ミリメートルよりも『細』く、『長さは最大』二メートルにも『およぶことがある』。『キラウエアに限らず』、『ニカラグアのマサヤ火山等でも知られる』とある。……でもね……オロロンのはそれじゃないようだよ……一九五二年にヨーロッパ近縁で大規模な噴火は起こってないもん…………なお、これらの本邦での「ペレーの毛」の降下を、古文献から蒐集し、学術的に仔細に検証したものとして、『地学教育と科学運動』第六十八号(二〇一二年七月発行)の小泉潔氏の論文「江戸(東京)にペレーの毛が降った?」PDFで読める。必見!

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