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2019/06/13

甲子夜話卷之五 31 暹羅國の古書翰

 

5-31 暹羅國の古書翰

[やぶちゃん注:「暹羅國」は「しやむろこく(しゃむろこく)」でタイ王国の古名(一九三九年までの正式国名)。以下は特別にまず返り点と送り仮名(カタカナ)を除去し句読点のみ残したものを示し、後に訓点に従って訓読したものを附す。その場合、漢文訓読に従った最低限の送り仮名を附した。また、どうしても読みに不都合が生ずる部分には、今回のみ、特異的に〔 〕で送り仮名や句読点を推定で補った。なお、底本では「明公」「日本國」「國王」「貴國」「王」などに於いて知られた礼法書式としての「平出」(へいしゅつ/びょうしゅつ:改行して行頭出しにすること)や闕字(けつじ:当該尊敬対象の単語の前を一字(時に二字)分空けること)らしきものが行われており、それらが二行に亙る場合は、一字下げを採っているが、ブラウザでの不具合を考え、字下げは無視した。訓読では繋げて機械的に句点部で改行した。書翰冒頭の一字下げのみ再現した。]

或人暹羅國の古書翰を示す。珍しければ茲に載。

 

 暹羅國臣握浮哪詩握科喇語末耶屢匕提匹喇那納興沙動勑釐、謹致書于

日本國臣酒井雅樂頭臺下。   恭惟、

明公紀綱明肅、綜理調停、雄鎭一方、藩屛金湯鞏固、撫綏萬姓、閻閭歌頌歡騰。偉政素著、芳聲邁聞、我

國王深嘉焉。茲奉我

國王普臘來森烈摩倫摩匹普臘勃妥照柔華普臘勃離照古郞席夏陸悃那華釐西啞出毘耶令旨。謂人共一天、國分兩地。海外諸邦、惟惟我國與

日本國、稱爲上最。自古以海道舟楫未通之時、傳聞

貴國威望名重。今則遐邇輳集、舟車所至、稔知

貴國地雄人傑。信諸邦視若天淵之異。今幸

天與良緣、同結和好。喜溢望外。第爲滄溟參商、不能親炙耿光以快素願。雖商舟絡繹、曾未得

王音頻教、盛使特臨、使知國土昇平、

起居殊勝。亦籍令諸邦咸羨我兩國厚愛之雅聲、名何其重耶。歳癸亥特遣使進短札菲儀、問候致敬。使囘拜喜

華翰厚貺。雖知

貴國政平俗美、永盟通和之意、止據本价之口說。故未得其眞。於心似有歉然爾。玆荷

貴國王餘波、國治民安、五穀登盛。惟柬埔寨逆醜尚未順服。必欲整師征討、歸向而後已。謹顓坤納實替悶通事啞烈越直那汪悅齎書。敢仗將此情由、轉啓

貴國王、詳知其意、視同一國、相期和好、與天地日月並久。更祈彼此使者、歲々無間、凡有所欲、惟命是聽。商舶所至、悉聽兩平交易、不致濡滯、依汛通歸。均祈一體是幸。外有鸞采野惇今陞浮哪臘那毘目納斜文低釐發舟。商販已經三載未囘。不知何望、鼎力維持遣歸。均感無涯、我

國王最喜貴地所產良驥。前年差人求買。未得其超絕者。煩爲留心搜求奇駿、許來役購買。務在必得以副我

國王素望之意。

明公輔佐忠誠。維持兩國、同于一家、功莫大焉、來役望賜囘音、依汛道歸。統惟

炤亮、不宣。

Kanboijiakokusi

   奉將

 敬意。筦留幸甚。

 

○やぶちゃんの書き下し文

暹羅國臣の握浮哪詩握科喇語匕末耶屢七提匹喇那納興沙動勑釐、謹〔み〕て〔、〕日本國の臣酒井雅樂頭台下に書を致す。

恭しく惟〔ふ〕れば、明公紀綱明肅、綜理調停、一方に雄鎭し、藩屛金湯鞏固、萬姓を撫綏し、閻閭歌頌歡騰す。

偉政素と著はれ、芳聲遙に聞ふ、我〔が〕國王深く嘉す。

茲に我〔が〕國王普臘來森烈摩倫摩匹普臘勃妥照柔華普臘勃離照古郞席夏陸悃那華釐西啞出毘耶の令旨を奉す。

謂ふ〔、〕人〔、〕一天を共にし、國〔、〕兩地を分つ。

海外の諸邦、惟惟〔、〕我國と日本國と、稱して上最と爲す。

古〔へ〕より海道舟楫〔、〕未だ通ぜざるの時を以〔て〕すら、貴國の威望〔、〕名重きことを傳聞す。

今は則〔ち、〕遐邇輳集し、舟車の至る所、貴國の地〔、〕雄に〔、〕人〔、〕傑なるを稔知す。

信に諸邦に視ふれば〔、〕天淵の異なるがごとし。

今〔、〕幸に〔、〕天〔、〕良緣を與へ、同じく和好を結〔ぶ〕。

喜望〔、〕外に溢る。

第第〔、〕滄溟參商なるが爲に、耿光に親炙して以〔て〕素願を快すること能はず。

商舟〔、〕絡繹すと雖〔も〕、曾て未だ王音〔、〕頻〔り〕に教へ、盛使〔、〕特に臨み、使〔ひす〕ることを得ず〔。〕

國土昇平、起居〔、〕殊に勝れるを知〔る〕。

亦〔、〕籍に諸邦をして咸〔、〕我〔が〕兩國厚愛の雅聲を羨〔ま〕しむるは、名〔、〕何ぞ其れ重きや。

歳の癸亥〔、〕特に使を遣して〔、〕短札菲儀を進め、問候〔、〕敬を致す。

使〔、〕囘る、華翰厚貺を拜喜す。

貴國〔、〕政〔、〕平〔らか〕に、俗〔、〕美に、永く通和の意を盟ふを知ると雖〔も〕、止止〔、〕本价の口說に據〔る〕。

故に未だ其〔の〕眞を得ず。

心に於て歉然たること有るに似たるのみ。

玆に貴國王の餘波を荷ひ、國〔、〕治〔ま〕り、民〔、〕安く、五穀登盛なり。

惟惟〔、〕柬埔寨の逆醜〔、〕尚〔、〕未だ順服せず。

必〔ず〕師を整〔へ〕て征討し、歸向して後〔、〕已〔め〕んと欲す。

謹〔み〕て坤納實替悶通事啞烈越直那汪悅を顓〔く〕して〔、〕書を齎す。

敢〔へ〕て仗る〔、〕此の情由を將〔つ〕て、貴國王に轉啓して、詳〔か〕に其意を知らしめ、視ること〔、〕一國に同〔じ〕、和好を相〔ひ〕期し、天地日月と並びに久しからんことを。

更に祈る〔、〕彼此の使者、歲々〔、〕間無〔く〕、凡そ欲する所有らば、惟惟〔、〕命〔、〕是〔れ、〕聽〔か〕ん。

商舶の至〔る〕所、悉く〔、〕兩平〔、〕交易することを聽し、濡滯を致さず、汛に依〔り〕て通歸せよ。

均しく祈る〔、〕一體に是〔れ、〕幸。

外に鸞采野惇今陞浮哪臘那毘目納斜文低釐が發舟〔、〕有〔り〕。

商販〔、〕已に三載を經て〔、〕未だ囘〔らず〕。

知らず〔、〕何〔をか〕望〔み〕、鼎力〔、〕維持して遣歸〔するかを〕。

均しく無涯に感ず、我〔が〕國王〔、〕最〔も〕喜ぶ〔、〕貴地〔、〕產する所の良驥。

前年〔、〕人を差〔は〕して求〔め〕買ふ。

未だ其〔の〕超絕なる者を得ず。

煩しく〔、〕爲に心を留〔め〕て奇駿を搜求し、來役に購買ふことを許せ。

務〔め〕て必〔ず〕得て以〔て〕我〔が〕國王〔の〕素望の意に副ふに在〔り〕。

明公輔佐忠誠〔たり〕。

兩國を維持して、一家に同ぜば、功〔、〕焉より大なるは莫〔く〕、來役に望む囘音を賜〔り〕て、汛〔に〕依〔り〕て遣歸せよ。

統〔て〕惟〔ふ〕るに〔、〕炤亮せよ、不宣。

[やぶちゃん注:以下、添えた原典の画像の文字列を電子化する。なお、二ヶ所に打たれた大きな丸印は意味不明。本邦の花押みたような、シャムの公文書の印なのか? 識者の御教授を乞う。

 

 歳丙寅孟夏望日  謹書

   謹具

     花幔帕肆端

 

     白絞沙肆端

 

   敬意を奉將す。筦留〔、〕幸〔、〕甚し。

 

書の始に酒井雅樂頭とあるは、按るに忠世と云し人なり。初名は萬千代。寬永譜に據に、元和三年父重忠卒するにより、仰を蒙て遺跡三萬三千石を領し、厩橋の城を賜ふ。擧用らるゝこと日々に進んで、政務を與り聞く。公家武家の事を沙汰し、異國他邦のことを相謀る【下略】。寬永十三年卒す。年六十四。然れば翰末に歲丙寅と云ものは、吾寬永三年にして、猷廟御代嗣の後四年に當る。台廟いまだ御在世の時の事なり。

■やぶちゃんの呟き

 総ての語をテツテ的に読解してここにそれを記す力は私にはないし、そのつもりも、さらさら、ない。そもそも「甲子夜話」の電子化コンセプトは「やぶちゃん注」ではなく、「やぶちゃんの呟き」なのでここでは特異的に気分次第なのである。しかし、それでも知らんぷりの知ったかぶりは嫌だから、相応の記載はしたつもりではある。まあ、しかし、この奇体なシャム国使節の漢訳された奉書の本文とそのケッタイな訓読の電子化とだけでも、やった意味は「ある」と私は勝手に納得している。恐らくは誰かがその内に私の杜撰なこれを見つけては正確な注解をものして呉れることであろう。それまで私が生きて居られるかは判らぬが、それを楽しみにしている。

「臺下」「だいか」。手紙の脇付の一つ。相手に対する敬意を表わす。

「握浮哪詩握科喇語匕末耶屢七提匹喇那納興沙動勑釐」長いけれど、これがそのシャム国の使節団団長の名前(官職や称号も含んだそれ)なのであろう。音で取り敢えず読んでおくと(歴史的仮名遣)、「アクフ(/ブ)ダシアクカラゴヒバツヤルシチダイ(/テイ)ヒツラナナウコウシヤドウライ(/チヤク)リ」辺りか。

「酒井雅樂頭」静山が後で記している通り、戦国から江戸前期の大名で老中・大老を務めた、上野那波藩主・伊勢崎藩主・厩橋藩(上野国群馬郡厩橋。現在の群馬県前橋市)藩主、雅楽頭(うたのかみ)系酒井家宗家第二代の酒井忠世(ただよ 元亀三(一五七二)年~寛永一三(一六三六)年)である。ウィキの「酒井忠世」によれば、『後世に成立した新井白石『藩翰譜』や『武野燭談』などの史料から、土井利勝や青山忠俊とともに家光が師事したとされる「三臣師傅説」に数えられている』。『酒井重忠の長男として三河国西尾(現在の愛知県西尾市)に生まれる。徳川家康に仕え、天正』一六(一五八八)年に『後陽成天皇の聚楽第行幸に供奉』し、天正十八年一月には『家康の継嗣・秀忠が豊臣秀吉に初見目した際に腰物役を務める。家康が関東へ入部すると』、『父の重忠とは別に加増され、武蔵国川越城主となる。以後は秀忠に付き、秀吉の朝鮮出兵では肥前国名護屋城に在陣』、慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」では六月の「会津征伐」、七月の第二次「上田合戦」に従った。慶長一〇(一六〇五)年に『将軍職を譲られた秀忠付きの筆頭年寄となり』、慶長十二年七月には『駿府城へ移った家康を賀し、雅楽頭に任じられる。大坂の陣では秀忠の旗本を務め』ている。元和三(一六一七)年七月、『父重忠が死去して遺領の厩橋』三万三千石を『継ぎ、それまでの領地と併せて』八万五千石となった。元和九(一六二三)年、『秀忠の嫡子である竹千代(徳川家光)の世継が確定すると、家光付きの家老のうち死没していた内藤清次の席を埋めるかたちで、従弟の忠勝とともに家光付きの年寄衆に加わ』った。寛永九(一六三二)年五月には『松平康長の後任として西の丸留守居となり、江戸城大橋外から家臣を引き連れて旧秀忠屋敷である西の丸へ移』ったが、その七『月に家光が増上寺へ詣でた際』、『中風を起こして倒れ、家光から養生を命じられる。幕政には復帰しているが』、寛永一一(一六三四)年六月、『家光が』三十『万の大軍を率いて上洛した際』、翌七『月に西の丸が火災で焼失する事態が起こり、忠世は報をうけた家光の命により寛永寺に退去し、失脚する。徳川御三家からの赦免要請もあり』、同年十二月には『登城が許され』、翌十二年二月に家光が『忠世を面謁』し、五月に『西の丸番に復職』したものの、『老中職からは退けられた』。寛永一三(一六三六)年三月に『大老に任じられたが、まもなく』六十五『歳で没』したとある。静山の示す通り、このシャム国使節団来訪は「寬永三年」「丙寅」(一六二六)年のことで、当時、彼は第三代将軍家光の老中の一人であった。なお、この当時、シャムには山田長政(天正一八(一五九〇)年頃?~ 寛永七(一六三〇)年)がおり、大佐級の軍人になっていたから、この使節団の背後には彼の長政の意図が働いているものとも思われる

「惟〔ふ〕れば」「かんがふれば」(考ふれば)と仮に読んだ。

「明公」高位者への尊称。底本では平出されている上に実は一字下げとなっている。これは最初なので平出と闕字を合わせたものと見ておく。なお、この当時の天皇は後水尾天皇(在位:慶長一六(一六一一)年三月~寛永六(一六二九)年十一月)である。無論、これは形式上で、その「王」の「配下」の事実上の支配者である家光をも暗に示唆する。

「紀綱明肅」で一語で、本邦の政(まつりごと)が道義的に正しく「綱」「紀」「肅」(粛)正(=「明」)されていることを示すものであろう。

「綜理」「総理」に同じで、全体を統合監督して管理処理すること。

「雄鎭」「ゆうちん」。一国を治めるに相応しい雄大なる勢力を有すること。

「藩屛」「はんぺい」。防備のための囲い。「国防」の意であろう。

「金湯」「金城湯池(きんじやうたうち(きんじょうとうち)」の略。「守りが非常に固く、攻めるのが難しい城」の形容から、転じて、「堅固にして他から侵害されることのない勢力範囲」の意。「漢書」の「蒯通(かいとう/かいつう)伝」に基づくもので、「湯池」は「熱湯を張り湛えた堀」のこと。

「萬姓を撫綏し」「ばんせいをぶすいし」。総ての国民を労わり、その生活を安定させ。

「閻閭」「えんりよ」。村里の門や都城内の区画のを指す語であるが、ここは本邦の都鄙或いは巷間の謂いであろう。

「歌頌歡騰す」「かしようくわんとうす」。人民は歌い褒め称え、歓びの声を高らかに挙げている。「鼓腹撃壌」を支配者賛美に変質させたもの。

「素と」「そと」。文字通り、そのままに。

「聞ふ」「きこふ」か。「聴こえてくる」の意か。

「我〔が〕國王普臘來森烈摩倫摩匹普臘勃妥照柔華普臘勃離照古郞席夏陸悃那華釐西啞出毘耶」やはり音を当ててみると、「フラウライシンレツマリンヒツフラウボツダシヤウシヂウクワフラウボツリシヤウコラウシヤク(セキ)カリクコンナクワリサイ(セイ)アシユツヒ(ビ)ヤ」か。シャムではこの年にアユタヤ王国(プラサートトン王朝)第二十七代プラーサートトーン王サンペット五世(一六〇〇年~一六五六年)が王位に就いている。「普臘」はその名に少し似ている感じがする。彼についてはウィキの「プラーサートトーン」を見られたいが、そこには、彼は『同時代にアユタヤ王朝に仕えた日本人傭兵山田長政』(彼はスペイン艦隊の二度に亙るアユタヤ侵攻を孰れも斥けた功績によって先のアユタヤ王朝の国王ソンタム(後述)の信任を得、シャムの王女と結婚し、第三位の官位と王からの賜名を授けられていたほどの高官であった)『と自身の即位をめぐって宮廷内で対立したため、これを左遷した後、密命によって毒殺したとオランダの史料は記している。更に』彼は、『反乱の恐れがあるとして日本人傭兵隊の本拠地と言えるアユタヤ日本人町を焼き払った。この事件以降、日本人勢力はアユタヤ王朝において軍事的・政治的な力を失い、二度と往時の権勢を取り戻すには至らなかった』とある。

「遐邇」遠い所と近い所、遠近。また、遠方も近辺も。後者であろう。

「輳集」「そうしふ」。一つ所に集まり来たること。

「稔知す」そうした認識が長年に亙って積まれてよく知られている。

「信に」「まことに」。

「視ふれば」「うかがふれば」か。比して見させて戴くならば。

「天淵の異なるがごとし」天と地もの違いがあるのと同じである。

「滄溟」「滄海」に同じ。

「參商」「しんしやう」。「參商之隔(しんしょうのへだて)」の略。「參」が現在のオリオン座の「参星」、「商」が蠍座の「商星」で、東西に遠く離れたこの二つの星は、空に同時に現れることはないということから、「距離が非常に離れているために、会う機会がないこと」を指す故事成句となった。別に、夫婦・家族が離別したり、不仲になることの悪い譬えとしても使われ、こちらの方が語源的には先で、古代中国の神話上の帝王嚳(こく:高辛氏とも呼ぶ)の二人の息子は仲が悪くて常に争いをしていたことから、父嚳が互いに遠く離れた参星と商星を掌らせたという伝説に基づくからである。

「耿光」「こうこう」。明瞭にちかちかと光り輝くこと。転じて、堂々として徳にすぐれていること。

「素願を快すること能はず」素懐(普段からの切なる願い)を遂げて心の底から喜ぶことが出来なかった。

「絡繹」「らくえき」。往来が絶え間なく続くこと。

「王音〔、〕頻〔り〕に教へ」本邦の王(この場合は形の上はやはりあくまで「天皇」を意味しつつも、実質上の支配者たる将軍を意識しているものと読まねばなるまい)の名声を頻(しき)りに拝聴して。

「盛使」厳かな正規の使者・使節団。

「籍に」「しきりに」か。

「咸」「みな」(皆)か。

「名〔、〕何ぞ其れ重きや」ここは「その名聞(みょうもの)たるや、どんなにか重いことでありましょうか」という強調形。

「歳の癸亥」「癸亥」(みづのとゐ/キガイ)は元和九(一六二三)年で、この寬永三(一六二六)年の三年前に当たる。但し、この時のシャム王はアユタヤ王国(スコータイ王朝)第二十四代ボーロマトライローカナートソンタム王ボーロマラーチャー一世(一五九〇年~一六二八年十二月十三日)であった。ウィキの「ソンタム」によれば、前君主であった『シーサオワパーク親王』『を処刑し、即位』した人物で、『ビルマとの戦で同士討ちを嫌ったポルトガル人傭兵隊が役に立たなかったところに、当時戦国時代を終えたばかりの日本から渡ってきた、津田又左右衛門を筆頭とする日本人』六百『人を傭兵として雇った。このころ、アユタヤ日本人町は隆盛を極めた』とある。なお、この時の奉書が何月であったか判らないが、この元和九年七月二十七日に家光は伏見城で将軍宣下を受けて、第三代将軍に就任している(満十九歳)

「短札菲儀」孰れも卑称の謙譲語で、「短札」は自身の書状を遜(へりくだ)って言う語、「菲儀」(ひぎ)は「薄謝」(如何にも粗末な礼物)の意。

「貺」音「キヤウ(キョウ)・カウ(コウ)」。「賜」に同じい。

「政」「まつりごと」。

「盟ふ」「ちかふ」(誓ふ)。

「止止」「ただただ」。

「本价」「ほんかい」。「我が方(シャム国)の使者」か。

「口說」「口頭の説明報告」か。

「歉然たる」「けんぜんたる」。「慊然」とも書き、「満足出来ないさま」の意。

「柬埔寨」「カンボジヤ」。カンボジア王国。当時の王政は弱体化しつつあり、ヴェトナムやシャムが侵攻を始めていた。

「逆醜」「逆らう下賤の輩(やから))」の謂いであろう。

「坤納實替悶通事啞烈越直那汪悅」「コンナウジツモン通事アレツエツチヨクナワウヱエツ」「通事」の前が地名か官職か、後が名前か。

「顓〔く〕して」「うやうやしくして」と読んだ。礼を尽くして。

「齎す」「もたらす」。

「仗る」「よる」。「依る」で「頼む」の意。

「情由」「じやういう」。現在、以上で述べたところの現在のシャム国の置かれている事情。

「轉啓」事実上は本書簡の内容意図を天皇に上奏することであろう。言わずもがな、ひいては事実上の実権者たる将軍へ伝えることであるが、或いは、だから天皇に直ちに上「奏」され、その奉書着信の許諾を天皇に認められた上で、次に実務判断を下す将軍へと転送されるという本邦のシステムを存知した上で、「轉」と「啓」(絶対敬語のの「奏」の次位の語)が使われているのかも知れない。

「視ること」「我が国(シャム)を認識されること」の意。

「一國に同〔じ〕」「天皇の支配なさっておられる日本国と同じ天(あめ)の下にある一国として」の意か。

「並びに」同様に。

「間無〔く〕」「お時間をおとらせすることなく」の意か。

「兩平」「隔てなく平等に」の意か。

「濡滯」「じゆたい」。滞ること。遅れること。躊躇って遅れること。「遅滞」に同じ。

「汛に」不詳。「注ぐ」とか「増水」とか「水」に関わる漢字だが、これ、「迅」で「すみやかに」の意ではなかろうか?

「通歸」スムースに交流交易を開始することを指すか。

「鸞采野惇今陞浮哪臘那毘目納斜文低釐」例の如く音で示すと、「ランサイヤトンキンシヨウフ(/ブ)ナラウナビモクナウシヤブンテイリ」か。

「發舟」「出航」か。

「三載」三年。

「囘〔らず〕」「かへらず」。本国に戻って来ていない。

「鼎力」人に依頼や感謝する際に用いて「大いに力を尽くすこと」の意。

「良驥」「驥」は一日にして千里を走る名馬。駿馬。「なんだ、それが欲しかったのか、シャムの王様は」と思うかも知れぬが、ネットで見出し得た数少ない、当時の国外との交易公文書を見ると、本邦は朝鮮にも良驥を贈呈している。本邦が駿馬の産地であることは中国・挑戦・ヴェトナムなどの東アジア一帯によく知れ渡っていたものと思われ、それはまた、シャムでは山田長政を通じて、より詳しく伝えられていたと考えてよいのではあるまいか。

「差〔は〕して」「さしつかはして」。

「來役」「さしあたり来たるところの最初の正式な交易」のことを指すか。

「購買ふ」二字で「あがなふ」と読んだ。

「明公輔佐忠誠〔たり〕」王(天皇→将軍)輔佐役酒井雅楽頭への。

「焉より」「これより」。指示語。

「囘音」「お応え」(応答)か。

「遣歸」「使者を(よい返書を下賜下さって)送り返すこと」か。

「統〔て〕」「すべて」。

「炤亮」「せいりやう(しょうりょう)」。「洞察」の意。

「不宣」「ふせん」。手紙の末尾に記し、「書きたいことを十分に尽くしてはいない」という意を表す謙遜の結語。「不一」「不尽」に同じい。

「孟夏望日」陰暦四月十五日でグレゴリオ暦五月十日である。

「花幔帕肆端」「白絞沙肆端」「帕」の音は「パ」。よく判らぬが、私が最終的に至った推理結果は、これは奉書に添えた贈答品の目録ではあるまいか? 「肆端」は「四反」(したん)の替え字で、「花幔帕」「白絞沙」ともに高級絹織物の名称のように私には見えるのだが? 識者の御教授を乞う。

「奉將す」「奉行」(行ひ奉る)に同じい。

「筦留」「くわんりゆう(かんりゅう)」であるが、よく意味が解らない。「筦」は「司る」の意があるから、「本奉書を気にとどめて相応に処理すること」を指すか。

「按るに」「あんずるに」。

「據に」「よるに」。

「仰を蒙て」「おほせをかうむりて」。

「擧用らるゝ」「あげもちひらるる」。

「與り」「あづかり」。

「吾」「わが」。本邦の。

「猷廟」家光。

「御代嗣」「およつぎ」と訓じておく。

「台廟」秀忠。彼の戒名「台德院殿興蓮社德譽入西大居士」による尊称。

 なお、辻善之助校訂「史料 異國日記(十四)」(立教大学学術リポジトリPDFでダウン・ロード可能)の最後の方に、この文書と大炊頭藤原(土井)利勝(元亀四(一五七三)年~寛永二一(一六四四)年:当時は老中で下総国小見川藩主。徳川家康の母方の従弟(家康の落胤説もある)に当たり、家康・秀忠・家光の三代に亙って老中(最後は大老)職を務め、絶大な権力を誇った)と雅楽頭藤原(酒井)忠世の返書二通(但し、総て白文)が載る。それを見るに、馬は確かに返礼として贈っているように書かれてある。

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