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2019/06/27

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(46) 「光月の輪」(1)

 

《原文》

光月ノ輪  蓋シ左右ノ馬寮ガ諸國ノ官牧ヲ支配セシ時代ニハ、儼然トシテ馬師馬醫ノ職アリキ。【馬學退步】彼徒行フ所ノ相馬ノ術醫養ノ法、之ヲ我々ノ理學ニ由リテ判ズレバ、固ヨリ「マジツク」ノ域ヲ脫スル能ハザルモノ多カリシナランモ、而モ學說ニ由來アリ推理ニ系統アリテ、幸ニ漸次ノ實驗ヲ以テ之ヲ補正スルヲ得シナラバ、終ニハ一科ノ技藝トシテ、永ク世用ヲ完ウスルモノトナリシヤ必セリ。惜シキカナ王制中ゴロ弛ミ法規行ハレズ、官ニ屬セシ術者四散シテ草莽ニ入リシヨリ、又其技ヲ究ムルノ機會無ク、僅カニ土民ガ馬ヲ愛スルノ情ニ賴リテ、生ヲ支ヘ職ヲ世(ヨヽ)ニスルヲ得ルノミナレバ、符呪ヲ以テ未熟ヲ補ヒ神異ヲ說キテ平凡ヲ蔽フノ傾キ、世降ルト共ニ愈盛ナリシナルべシ。サレバ彼ノ馬洗ト稱シテ馬ヲ沼川ノ水ニ入ルヽ風習ト、【野飼】野飼又ハ夏越ナドト云ヒテ一定ノ日家畜ヲ水邊ニ繫ギ置ク儀式ト、水神ヲ誘ヒテ牝馬ニ種付セントスル迷信トハ、何レカ起原何レカ變遷ト決スべキ。必ズシモ尋常進化ノ理法ヲ以テ輕々ニ推論スルコトヲ得ザルナリ。例ヘバ駒ケ池ノ跡ト稱スル地、大阪生魂神社ノ東、南谷町筋ニ殘レリ。【聖德太子】聖德太子駒ノ足ヲ濯ギタマヒシ處ト傳フ〔浪華百事談二〕。同ジ名ノ池ハ又天王寺ノ境内ニモアリキ〔同上七〕。太子ノ此地方ニ關係アルコトハ古來ノ說ナレドモ、此場合ニ於テハ單ニ所謂厩師ノ開祖某ト云フニ過ギザルべシ〔猿屋傳書〕。彼等ガ職トスル所、時々厩ニ來タリテ祈禱ヲ爲スニ止マラズ、或ハ一定ノ水邊ニ居ヲ占メテ農家ノ爲ニ馬ノ治療ヲ引受ケテアリシコトモ、略之ヲ想像シ得ルナリ。【猿橋】甲州ノ猿橋ハ近國ノ猿牽共集リ來リ、勸進シテ其架換ノ費ヲ辨ズルコト古クヨリノ風ナリキト聞ク。此橋下ノ碧潭モ亦恐クハ馬ノ醫術ト因緣アルモノナラン。馬蹄石ノ由來ノ如キモ必ズシモ解キ難キ謎ニハ非ズ。既ニ一區ノ靈場ヲ指點シテ馬ノ保護者ノ宅スル處ナリトスル風アル以上ハ、【駒爪石】附近ノ岩石ノ天然ノ形狀略馬蹄ニ髣髴スルモノヲ覓メ出シテ、之ヲ神變ノ現出セシメタル所ト推測スルハ、必ズシモ巫覡ノ詭辨ヲ煩ハスコトヲ要セズト雖、少ナクモ一部分ノ駒岩ニ在リテハ、更ニ一段ト顯著ニ、恐クハ實際傳說製作者ノ眼前ニ於テ、馬ノ跡ヲ其岩ノ上ニ印スルノ現象アリシナラン。此說甚ダ奇ヲ衒フニ似タレドモ然ラズ。石ヲ以テ馬ノ蹄ヲ磨スルハ古代普通ノ風習ナレバ、村ニ住スル馬醫等ノ其仕事ヲ托セラルヽ者、馬ヲ神前ノ岩上ニ曳キ來リ、特ニ之ガ爲ニ淨メ置キタル場處ニ繫ギテ、每囘同ジ窪ニ於テ馬ノ蹄ヲ磨ギシヨリ、終ニハ神馬ノ蹄ノ跡ト云フ物ヲ生ジタリトスレバ、諸處ノ口碑ノ多數ハ何等ノ誇張無キ歷史トシテ之ヲ受ケ入ルヽコトヲ得ルナリ。【馬蹄砥】延喜ノ左馬寮式ニ、季每ニ請フベキ馬藥ノ中ニ、每年馬蹄ヲ作ルノ料砥二顆トアリ〔延喜式四十八〕。右馬寮亦之ニ準ズ。安房日向等ノ馬蹄硯ハ勿論天產ニシテ、其生成ノ由來ハ岩石學者ノ說明ヲ乞フべキモノナランモ、他ノ一方ニ右ノ如キ砥石ノ古クナリテ形相似タルモノ、磊々トシテ到ル處人ノ目ニ見馴レタリトスレバ、比較ニヨリテ此ノ如キ名ヲ附與スルコトノ、決シテ不自然ナル事態ニ非ザリシヲ知ルナリ。

 

《訓読》

光月(くわうげつ)の輪  蓋し、左右の馬寮(めりやう)が諸國の官牧を支配せし時代には、儼然(げんぜん)[やぶちゃん注:「厳然」に同じ。動かし難い威厳のあるさま。]として馬師・馬醫の職ありき。【馬學退步】彼の徒(と)、行ふ所の相馬の術[やぶちゃん注:馬の相(そう)を見ること。]・醫養の法、之れを我々の理學に由りて判ずれば、固より「マジツク」の域を脫する能はざるもの多かりしならんも、而も學說に由來あり、推理に系統ありて、幸ひに漸次の實驗を以つて之れを補正するを得しならば、終には一科の技藝として、永く世用(せよう)を完(まつと)うするものとなりしや、必(ひつ)せり。惜しきかな、王制、中ごろ、弛(ゆる)み、法規、行はれず、官に屬せし術者、四散して草莽(さうまう)に入りし[やぶちゃん注:野に下ってしまった。これもまた、馬の縁語になっていますね、柳田先生。]より、又、其の技を究むるの機會無く、僅かに土民が馬を愛するの情に賴りて、生を支へ、職を世(よゝ)にするを得るのみなれば、符呪(ふじゆ)[やぶちゃん注:怪しげな呪(まじな)いや、御札・御守りの類い。]を以つて未熟を補ひ、神異を說きて、平凡を蔽ふの傾き、世降ると共に、愈々、盛んなりしなるべし。されば彼の馬洗と稱して馬を沼川の水に入るゝ風習と、【野飼】野飼又は夏越(なごし)などと云ひて、一定の日、家畜を水邊に繫ぎ置く儀式と、水神を誘ひて牝馬に種付(たねづけ)せんとする迷信とは、何れか起原、何れか變遷と決すべき。必ずしも尋常進化の理法を以つて輕々に推論することを得ざるなり。例へば、駒ケ池の跡と稱する地、大阪生魂(いくたま)神社の東、南谷町(みなみたにまち)筋に殘れり。【聖德太子】聖德太子駒の足を濯(すす)ぎたまひし處と傳ふ〔「浪華百事談」二〕。同じ名の池は又、天王寺の境内にもありき〔同上七〕。太子の此の地方に關係あることは古來の說なれども、此の場合に於いては、單に所謂、厩師の開祖某と云ふに過ぎざるべし〔「猿屋傳書」〕。彼等が職とする所、時々、厩に來たりて祈禱を爲すに止まらず、或いは一定の水邊に居を占めて、農家の爲に馬の治療を引き受けてありしことも、略(ほ)ぼ之れを想像し得るなり。【猿橋】甲州の猿橋は、近國の猿牽共、集まり來たり、勸進して、其の架換(かけかへ)の費(つひへ)を辨ずること、古くよりの風なりきと聞く。此の橋下の碧潭も亦、恐らくは馬の醫術と因緣あるものならん。馬蹄石の由來のごときも、必ずしも解き難き謎には非ず。既に一區の靈場を指點(してん)して馬の保護者の宅(たく)する處なりとする風ある以上は、【駒爪石】附近の岩石の天然の形狀、略ぼ馬蹄に髣髴するものを覓(もと)め出だして、之れを神變の現出せしめたる所と推測するは、必ずしも巫覡(ふげき)の詭辨を煩はすことを要せずと雖も、少なくも、一部分の駒岩に在りては、更に一段と顯著に、恐らくは、實際。傳說製作者の眼前に於いて、馬の跡を其の岩の上に印するの現象、ありしならん。此の說、甚だ奇を衒(てら)ふに似たれども、然らず。石を以つて馬の蹄を磨するは、古代普通の風習なれば、村に住する馬醫等の其の仕事を托せらるゝ者、馬を神前の岩上に曳き來たり、特に之れが爲めに淨め置きたる場處に繫ぎて、每囘、同じ窪(くぼ)に於いて、馬の蹄を磨ぎしより、終には「神馬の蹄の跡」と云ふ物を生じたりとすれば、諸處の口碑の多數は、何等の誇張無き歷史として、之れを受け入るゝことを得るなり。【馬蹄砥】「延喜」の「左馬寮式(さまりやうしき)」に、季每(ごと)に請ふべき馬藥の中に、每年、馬蹄を作るの料砥(りやうし)[やぶちゃん注:砥石として準備しておく物。]二顆(か)とあり〔「延喜式」四十八〕。右馬寮(うまりやう)、亦、之れに準ず。安房・日向等の馬蹄硯は、勿論、天產にして、其の生成の由來は、岩石學者の說明を乞ふべきものならんも、他の一方に、右のごとき、砥石の古くなりて、形、相ひ似たるもの、磊々(らいらい)として[やぶちゃん注:石が多く積み重なっているさま]、到る處、人の目に見馴れたりとすれば、比較によりて、此くのごとき名を附與することの、決して不自然なる事態に非ざりしを知るなり。

[やぶちゃん注:「光月(くわうげつ)の輪」次の本書の最終段落で語られるので、ここでは注しない。

「夏越(なごし)」既出既注

「駒ケ池の跡と稱する地、大阪生魂(いくたま)神社の東、南谷町(みなみたにまち)筋に殘れり。【聖德太子】聖德太子駒の足を濯(すす)ぎたまひし處と傳ふ」「大阪生魂神社」は現在の大阪府大阪市天王寺区生玉町にある生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)のこと(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「生魂」(いくたま)は通称。「南谷町(みなみたにまち)筋」柳田國男は「生魂(いくたま)神社の東」と言っているが、調べた限りでは正確には旧南谷町は神社の東北に当たるように思われる。現行、この遺跡はない模様であるが、この画面の上右半分辺りにあったものかと私は推定する。

「同じ名の池は又、天王寺の境内にもありき」聖徳太子建立七大寺の一つとされる大阪市天王寺区四天王寺にある荒陵山(あらはかさん)四天王寺。「天王寺」は四天王寺の略称。生國魂神社の南南東一キロほどとごくごく近いことから、この「聖徳太子駒洗いの池」は同一伝承の分化に過ぎないのではなかろうか。私は寺の中にちんまりあったそれより、上記の方が原型のようには感ずる。因みに「き」の過去形が気になっていた。現在の同寺の境内には現存しないようである。なお、ウィキの「四天王寺」によれば、同寺は『天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗』(教学上にそれ。三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗(以上を「南都六宗」と呼ぶ)・天台宗・真言宗)『兼学の寺であった』。『日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から』、昭和二一(一九四六)年、『「和宗」の総本山として独立している』とある。「四天王寺」公式サイト内の解説を見たところ、『戦前までは長らく天台宗に属していましたが、近年では日本の宗派の種類が増えていたこともあり、建立当初の基本に戻るべく、どの宗派の方でも四天王寺をご参詣いただける様にと願いを込めて』、上記の敗戦の翌年に『天台宗から独立し、十七條憲法の第一條「和を以って貴しとなす」の「和」をいただいて』昭和二四(一九四九)年に独自の『「和宗」となりました』とあった。

「甲州の猿橋」山梨県大月市猿橋町猿橋にある桂川に架かる刎橋(はねばし:両岸の懸崖から刎ね木を何段にも重ね、それで橋桁を受けるもの)として知られる「甲斐の猿橋」。因みに、現在のものは昭和五八(一九八三)年着工で翌年の八月に完成したもので、総工費は三億八千三百万円である(リンク先のサイド・パネルの大月市教育委員会の説明板に拠る)。その事実確認や費用の単純換算比較は出来ぬにしても、嘗つての猿回しの芸をした人々の隆盛がいよよ偲ばれるではないか。私は幼稚園児だった頃(私は昭和三二(一九五七)年二月生まれである)、練馬の大泉学園の日蓮宗倍光山(ばいこうざん)妙延寺の縁日で見たのが、一度、絶滅した猿回しの最後であった。]

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