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2019/06/15

譚海 卷之三 水戶中納言殿の事

 

水戶中納言殿の事

○水戶中納言光圀卿、經濟に達し給ひし事は、世に知る所也。有職儒臣に命ぜられて、撰述の物若干也。中に就て禮儀類典といふものは、好古の第一のものなり。本朝古禮車服等の制に至るまで、殘りなく集られ、二首卷餘に及べりとぞ。其中書面にて別れがたきものは、皆雛形にせられて、衣服の紋織物などは、其絹をそのまゝ少しづつあつめ、古代の塗物の色あひは板を少しばかりづつそのまゝにぬりて、其うるしの色あいを傳へ、古器の見合(みあはせ)になる樣にしてあり。圖籍(ずせき/とせき)ひながたぬりものの類、併(あはせ)て唐櫃に二舁(ふたかき)有、公儀へも一通進獻せられて、今紅葉山の書庫に納めありといへり。又大日本史と云もの撰述有、大部にて板行(はんぎやう)に成(なし)がたき故、書寫にて藏書有、今に於て筆耕の者日々書寫する事なり。その家中の二男已下を皆水戶の學校の彰考館に召れ、筆耕の役を勤させられ、筆耕料二人扶持づつ賜る事なりとぞ。

[やぶちゃん注:目録では標題は次と続けて「水戶中納言殿 柳澤吉保朝臣の事」となっているが、かく示した。

「水戸中納言光圀」水戸藩第二代藩主水戸(德川)光圀(寛永五(一六二八)年~元禄一三(一七〇一)年。初代頼房と側室久子の子。同母兄の頼重が病身であったため、六歳の時に継嗣となり、九歳で元服、寛文元(一六六一)年、父の死によって藩主となった。この間、放蕩無頼の行動が多かったが、十八歳の時、「史記」「列伝」巻頭の「伯夷伝」を読んで感激し、学問に志すとともに、兄弟の序を尊び、のちに頼重(讃岐国高松藩主)の子綱条を養子として、藩主の地位を譲った。頼房の方針を継承して、藩政の整備に努め、水戸城下への上水道(笠原水道)を創設したりした。特に注目されるのは文教政策であって、明暦三(一六五七)年から「大日本史」(神武天皇から後小松天皇(在位:永徳二(一三八二)年~応永一九(一四一二)年)まで(厳密には南北朝が統一された元中九/明徳三(一三九二)年までを区切りとする)の百代の帝王の治世を扱った紀伝体の史書。本紀(帝王)七十三巻、列伝(后妃・皇子・皇女を最初に置き、群臣はほぼ年代順に配列、時に逆臣伝・孝子伝といった分類も見られる)百七十巻、志・表百五十四巻、全三百九十七巻二百二十六冊と目録五巻に亙る。携わった学者たちは「水戸学派」と呼ばれた)の編纂に着手し、寛文一二(一六七二)年には「史局」を開設して「彰考館」と命名した。本書は、漢文の紀伝体による本格的な日本の通史で、光圀が藩の財政支出の三分の一を費やしたと伝えられるのは過大としても、完成するのに明治三九(一九〇六)年までかかった大事業であった。このため、多くの学者を登用し、また、家臣を京都などへ派遣して、史料の収集に努めた。さらにこれと並行して、「礼儀類典」(朝廷の恒例・臨時の朝儀・公事に関する記事を抽出・分類して部類分けした書。目録一巻、恒例二百三十巻、臨時二百八十巻、附図三巻の計五百十四巻)などの編纂を進め、また、「万葉集」の注釈を計画して、大坂の国学者契沖(近世最初の本格的「万葉集」訓読法で知られる)に依頼し、光圀の援助により、「万葉代匠記」の完成をみた。光圀の学問は、朱子学を基本とし、「大日本史」の構想にも、その立場から歴史上の人物に対し、道徳的評価を明確にしようとする意図があった。その朱子学の立場から、仏教に対しては極めてきびしく、領内の寺院を整理して、ほぼ半数を破却させた。元禄三(一六九〇)年に退隠し、翌日、権中納言に叙任された。在職中に昇任されなかったのは、時の将軍徳川綱吉との不和によると推測される。綱吉の「生類憐み令」などに対して光圀は批判的態度を示していたことはよく知られる。退隠後は、久慈郡太田に近い西山荘に住み、文事に専念したが、元禄七年に家老藤井紋大夫を手討ちにしたのは、その性格の激烈であったことを物語る。黄門(中納言の唐名)の漫遊記は、明治時代の創作で、事実ではない。諡は義公(以上は主文を「「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。彼は延宝元(一六七三)年の藩主就任から五回目の江戸出府に際して、通常の経路を採らず、上総から船で鎌倉に渡り、江戸へ向かうという迂遠な経路を辿って漫遊し、鎌倉では英勝寺を拠点として名所名跡を訪ね、この旅の記録を翌年、「鎌倉日記」という記録として纏めたが、それでは飽きたらず、これを元に貞享二(一六八五)年に河井恒久らに実務担当をさせて、地誌「新編鎌倉志」全八巻を作っている。私はオリジナル注釈を附した「新編鎌倉志」全巻の電子化をサイト内で遠い昔に完成し、原型の「鎌倉日記」もブログで電子化注を終えている。知らない人があまりに多いので言っておくと、「水戸黄門さま」は生涯に旅をしたのは、この鎌倉遊覧の一度だけなのである。さらに先の引用にも出てくるが、この旅の途中、金沢八景附近では仏像を損壊破棄したり、やりたい放題のことをしている、トンデモ爺さんなんである。

「車服」朝廷・公家の乗り物や服制。

「別れがたきもの」「わかれ」と読むしかないが、要するに判り難きもの、文面で認識することが難しいものの謂いである。

「圖籍」絵図と図書。

「見合(みあはせ)になる樣にしてあり」文章(或いは現行の器)と比較対照することが出来るようにしてある。

「紅葉山」前回、既出既注。]

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