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2019/06/18

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(39) 「池月・磨墨・太夫黑」(6)

 

《原文》

 正史演義ノ卷々ヲ飜シ見ルモ、池月磨墨ハ共ニ古今ヲ通ジテ唯一ツノ他ハ無キ筈ナリ。從ヒテ以上二十數處ノ產地ナルモノハ、其何レカ一箇ヲ除キテ悉ク虛誕ナリ。虛誕ト言ハンヨリモ最初ハ單ニ日本第一ノ駿馬トノミニテ名ハ無カリシヲ、後ニ誰カノ注意ヲ受ケテ池月ナリ磨墨ナリニ一定セシモノナルべシ。之ヲ觀テモ昔ノ田舍人ガ固有名詞ニ無頓著ナリシ程度ハ測リ知ラルヽナリ。今トナリテ之ヲ比較スルトキハ、コノ歷史上有名ナル名馬ハ數ケ處ニ生レテ數ケ處ニテ死スト云フコトニ歸着ス。神變驚クニ堪ヘタリ。池月ノ如キハ中國ニ老死シ或ハ阿波ノ海岸ニ飛ビテ天馬石ト化セシ外ニ、【馬洗川】筑後三井郡ノ内舊御原郡ノ馬洗川ト云フ處ニモ之ヲ埋メタリト云フ古塚アリ〔筑後地鑑〕。此邊ノ地ハ佐々木高綱ガ宇治川ノ戰功ニ因リテ封ゼラレシト云フ七百町ノ中ニテ、今モ多クノ佐々木氏ノ彼ガ後裔ト稱スル者居住ス。而シテ馬洗川ハ池月ヲ洗ヒシヨリ起レル地名ナリ〔筑後志〕。【駒形神】東國ニテハ武藏橘樹郡城鄕村大字鳥山ト云フ一村ハ、佐々木ガ馬飼料トシテ將軍ヨリ拜領セシ恩地ニシテ、村ノ駒形社ハ亦池月ヲ埋メタル塚ト稱セラル。祠ノ傍ニハ厩ニ用ヰシ井戶アリ。曾テ附近ノ土中ヨリ古キ轡ヲ掘リ出ス。觀音堂ノ莊司橋ハ亦池月ヲ洗ヒタリト稱スル故跡ナリ〔新編武藏風土記稿〕。下總猿島郡五霞村ノ幸館(カウダテ)ニハ、藥師堂ノ側ニ生月塚アリテ、梵文ヲ刻シタル奇形ノ石塔立テリ。併シ池月此地ニ埋メラルト云フ傍證無キ限ハ、以前ハ只名馬塚ト呼ビシモノイツノ世ニカ斯ク誤リ傳ヘシナラント、前代ノ地誌家モ之ヲ危ミタリ〔利根川圖志〕。【馬塚】近江阪田郡西黑田村大字常喜(ジヤウキ)ノ水田ノ間ニアル馬塚ハ、今モ之ヲ池月ノ墓トセズンバ止マザル人アリ。傳說ニ曰ク、池月曾テ病ス、當時馬灸ノ名人此村ニ住スト聞キ遠ク曳キ來リシガ、其人死シテ有ラザリケレバ馬モ終ニ此地ニテ果テタリ。同村大字本莊ニハ病馬ノ飮ミシト云フ泉アリ。之ヲ池月ノ水ト稱ス〔阪田郡誌下〕。【胴塚首塚】相州足柄上郡曾我村大字下大井ニモ一ノ生月塚アリ。塚ハ二箇ナレバ之ヲ池月ノ胴塚首塚ト稱ヘタリ。【山王】胴塚ハ路傍ニ在リ、首塚ハ村ノ取附ニ在リテ之ヲ山王社ニ祀レリ。塚ノ上ニハ松アリ。【馬頭觀音】又同ジ村ノ畠ノ中ニモ松一本アル塚ヲ馬頭觀音ト名ヅケ、此ハ又磨墨ノ塚ト云フコトニ決著ス。【橋ノ忌】此地ノ古傳ニテハ、池月ハ鄰村足柄下郡酒勾(サカワ)村大字酒匂ノ鎭守ノ森ノ東、僅カノ溝川ノ石橋ヲ架ケタル處ニテ、橋ヨリ落チテ死シタリト云ヒ、永ク此橋ヲバ馬曳キテ渡ルコトヲ戒メタリキ〔相中襍誌〕。磨墨塚ノ尾張ニ在ルコトハ前ニ之ヲ述ブ。首府ノ南郊荏原郡馬入村ニ於テモ、小田原北條時代ノ舊領主ヲ梶原氏ト稱セシ爲ナルカ、同ジク摺墨塚ノ傳說アリ。源太景季愛馬ヲ大澤ニ乘入レ、馬死シテ之ヲ塚ニ埋ムト云フコト全ク馬引澤ノ口碑ト同ジ。近年新タニ石ヲ立テヽ之ヲ勒ス。塚ノ西ニ鐙(アブミ)ケ谷(ヤツ)アリ。磨墨ノ鐙ヲ棄ツト云ヒ或ハ此馬斃レシ時鐙飛ンデ此地ニ至ルト云ヘリ〔通俗荏原風土記稿〕。阿波ニモ勝浦郡小松島町大字新居見(ニヰミ)、【馬塚】竝ニ海岸ノ赤石ト云フ里ノ山中ニ各磨墨ノ塚アリテ眞僞ノ爭アリ。或ハ此塚ノ所在ニ由リ義經行軍ノ路筋ヲ證セントスル人アリキ〔阿州奇事雜話三〕。然ルニ此馬ノ壽命ハ猶十數年長カリシト云フ說ハ頗ル有力ナリ。磨墨ハ駿州狐ケ崎ニ於テ梶原ガ一黨討死ノ後飢ヱテ斃レタリトモ云ヒ、又或ハ源太ガ仇ノ手ニ渡スヲ惜シミテ之ヲ斬殺シタリトモ傳ヘラレタルニ、更ニ一方ニハ同ジ駿河ノ西部ニ於テ、此馬ガ終ヲ取レリト云フ村アリテ、【馬ノ首】百姓某ナル者其首ノ骨ヲ所持ス〔駿國雜志〕。又狐ケ崎ノ笹葉ガ今モ矢筈ノ形ヲシテ名馬ノ齒ノ痕ヲ留ムト云フ話ト類似スル例アリ。【片割シドメ】武州都築郡都岡(ツヲカ)村大字今宿ト二俣川村トノ境ナル小川ノ岸ニ、片割シドメト稱シテ年々花葩ノ半ノミ咲ク「シドメ」アリ。磨墨昔此地ニ來リテ彼花ヲ蹈ミテヨリ、此如キ花ノ形トナルト云フ〔新編武藏風土記稿〕。石ト花トノ差コソアレ、此モ名馬ノ蹄ノ跡ヲ記念シ、永ク里人ガ之ヲ粗末ニセザリシ一ノ徵ナリ。

 

《訓読》

 正史・演義の卷々を飜(ひるがへ)し見るも、池月・磨墨は、共に古今を通じて唯一つの他は無き筈なり。從ひて、以上、二十數處の產地なるものは、其の何れか一箇を除きて、悉く虛誕なり。虛誕と言はんよりも、最初は單に日本第一の駿馬とのみにて、名は無かりしを、後に誰(たれ)かの注意を受けて、池月なり、磨墨なりに一定せしものなるべし。之れを觀ても、昔の田舍人が固有名詞に無頓著なりし程度は測り知らるゝなり。今となりて之れを比較するときは、この歷史上有名なる名馬は、數ケ處に生れて、數ケ處にて死すと云ふことに歸着す。神變、驚くに堪へたり。池月のごときは、中國に老死し、或いは、阿波の海岸に飛びて天馬石と化せし外に、【馬洗川】筑後三井(みい)郡の内、舊御原(みはら)郡の馬洗川と云ふ處にも、之れを埋めたりと云ふ古塚あり〔「筑後地鑑」〕。此の邊りの地は佐々木高綱が宇治川の戰功に因りて封ぜられしと云ふ七百町[やぶちゃん注:約七平方キロメートル。]の中にて、今も多くの佐々木氏の彼が後裔と稱する者、居住す。而して、馬洗川は池月を洗ひしより起れる地名なり〔「筑後志」〕。【駒形神】東國にては、武藏橘樹(たちばな)郡城鄕(しろさと)村大字鳥山と云ふ一村は、佐々木が馬飼料として將軍より拜領せし恩地にして、村の駒形社は亦、池月を埋めたる塚と稱せらる。祠の傍らには厩に用ゐし井戶あり。曾つて附近の土中より古き轡(くつわ)を掘り出だす。觀音堂の莊司橋は亦、池月を洗ひたりと稱する故跡なり〔「新編武藏風土記稿」〕。下總猿島(さしま)郡五霞(ごか)村の幸館(かうだて)には、藥師堂の側に生月塚ありて、梵文(ぼんもん)[やぶちゃん注:梵字の種子(しゅじ)。]を刻したる奇形(きぎやう)の石塔、立てり。併し、池月、此の地に埋めらると云ふ傍證無き限りは、以前は只だ名馬塚と呼びしもの、いつの世にか、斯く誤り傳へしならんと、前代の地誌家も之れを危みたり〔「利根川圖志〕」。【馬塚】近江阪田郡西黑田村大字常喜(じやうき)の水田の間にある馬塚は、今も之れを池月の墓とせずんば、止まざる人、あり。傳說に曰く、「池月、曾つて病ひす、當時、馬灸の名人、此の村に住すと聞き、遠く曳き來たりしが、其の人、死して、有らざりければ、馬も終に此の地にて果てたり。同村大字本莊(ほんじやう)には病馬の飮みしと云ふ泉あり。之れを「池月の水」と稱す〔「阪田郡誌」下〕。【胴塚首塚】相州足柄上郡曾我村大字下大井にも一つの「生月塚」あり。塚は二箇なれば、之れを池月の「胴塚」・「首塚」と稱へたり。【山王】胴塚は路傍に在り、首塚は村の取り附きに在りて、之れを山王社に祀れり。塚の上には松あり。【馬頭觀音】又、同じ村の畠の中にも松一本ある塚を「馬頭觀音」と名づけ、此れは又、「磨墨の塚」と云ふことに決著(けつちやく)す。【橋の忌(いみ)】此の地の古傳にては、池月は鄰村足柄下郡酒勾(さかわ)村大字酒勾の鎭守の森の東、僅かの溝川の石橋を架けたる處にて、橋より落ちて死したりと云ひ、永く此の橋をば、馬曳きて渡ることを戒めたりき〔「相中襍誌(さうちゆうざつし)」〕。磨墨塚の尾張に在ることは、前に之れを述ぶ。首府の南郊、荏原郡馬入村に於ても、小田原北條時代の舊領主を梶原氏と稱せし爲るなるか、同じく摺墨塚の傳說あり。源太景季、愛馬を大澤に乘り入れ、馬、死して、之れを塚に埋づむと云ふこと、全く馬引澤の口碑と同じ。近年、新たに石を立てゝ之れを勒(ろく)す[やぶちゃん注:碑を刻んだ。「勒」には「轡」の意味もあるのでこれを縁語的に使ったものであろう。]。塚の西に「鐙(あぶみ)ケ谷(やつ)」あり。磨墨の鐙を棄つと云ひ、或いは、此の馬、斃(たふ)れし時、鐙、飛んで、此の地に至ると云へり〔「通俗荏原風土記稿」〕。阿波にも、勝浦郡小松島町大字新居見(にゐみ)、【馬塚】竝びに海岸の赤石と云ふ里の山中に各々、磨墨の塚ありて眞僞の爭ひあり。或いは、此の塚の所在に由り、義經行軍の路筋を證せんとする人、ありき〔「阿州奇事雜話」三〕。然るに、此の馬の壽命は、猶ほ、十數年長かりし、と云ふ說は頗る有力なり。磨墨は駿州狐ケ崎に於いて梶原が一黨討死の後、飢ゑて斃れたりとも云ひ、又、或いは、源太が、仇(かたき)の手に渡すを惜しみて、之れを斬り殺したりとも傳へられたるに、更に一方には、同じ駿河の西部に於いて、此の馬が終りを取れりと云ふ村ありて、【馬の首】百姓某なる者、其の首の骨を所持す〔「駿國雜志」〕。又、狐ケ崎の笹葉(ささば)が、今も矢筈(やはず)の形をして、名馬の齒の痕を留むと云ふ話と類似する例あり。【片割(かたわれ)しどめ】武州都築郡都岡(つをか)村大字今宿と二俣川村との境なる小川の岸に、「片割しどめ」と稱して、年々、花葩(はなびら)[やぶちゃん注:花弁(はなびら)に同じい。]の半ばのみ咲く「しどめ」あり。磨墨、昔、此の地に來たりて、彼の花を蹈みてより、此くのごとき花の形となると云ふ〔「新編武藏風土記稿」〕。石と花との差こそあれ、此れも名馬の蹄の跡を記念し、永く里人が之れを粗末にせざりし一つの徵(しるし)なり。

[やぶちゃん注:「演義」もとは中国で歴史上の事実を面白く脚色して俗語を交えて平易に述べた小説の類を指す。

「筑後三井郡ノ内、舊御原(みはら)郡ノ馬洗川」個人サイトと思しい「福岡史伝と名所旧跡」のこちらの「【池月の塚】(小郡市八坂)」に、『寿永二』(一一八三)年、『源頼朝より木曽義仲征討の命を受けた源範頼・義経は、京都に向い、宇治川をはさんで義仲軍と対陣した』。「源平盛衰記」に『よると、義 仲は橋を落として防備を固めたが、流れが急で渡河は非常に困難であった。このとき、佐々木四郎高綱は源頼朝より賜わった名馬「池月」にまたがり、梶原源太影季と先陣を争い、弓矢をあびながら』、『両軍環視の中で渡河に成功し、先陣の第一声をあげた。(宇治川先陣争い)』。『この村の古老の言い伝えによると』、『佐々木高綱はその後』、『平氏征討の軍功によって、筑後国鯵坂庄(もと平氏の領地)七〇〇町歩を賜わり、名馬「池月」と鯵坂の地に移り住んだ。そして』、『ここに城を築き、三瀦郡笹渕村より嫁をもらい』、『一子をもうけ、佐々木三蔵利綱と名づけたが、三年後に鎌倉幕府の命によって、利綱をこの地に残して鎌倉に帰った。この地にいる時、名馬「池月」に鞭打って領地を乗り廻っていたが、その名馬がこの地で死亡したので、その遺体をこの塚に葬った言われている』。『「池月」は』、『青森県上北郡七戸町の産とか、鹿児島県揖宿郡の産とか伝えられるが』、『はっきりしない。黒栗毛の馬で背丈は四尺八寸』(一・四六メートル)『あり、大きくて逞しく、性質』、『強猛で、人も馬も寄せつけず喰ってかか』った『とも言われている』。『塚のそばに、梵字』(キリーク(阿弥陀如来)か?)『を刻んだ供養塔と馬頭観世音が建てられている。老松宮の横を流れる川を』馬洗川『と言い、又』、『馬渡(もど)という地名も、この名にちなんでつけられたと考えられる。小郡音頭に「ねむる池月、馬渡の里」とあるは、ここのことを歌ったものである』『(昭和五十七年二月四日』『小郡市教育委員会』『小郡市郷土史研究会』『「名馬池月塚」案内板より』)とあって、『写真は』(リンク先参照)『佐々木高綱が池月に跨り』、『何度も何度も飛び越えたと伝わる「馬洗川」と呼ばれた小川で』、『そのことで、この地は馬渡(もど)と呼ばれようになったといわれてい』るとあり、また、現在、『「池月の塚」は養護老人ホーム「小郡池月苑」の裏手にあり、見学するには「小郡池月苑」の敷地を通らせて』貰うことになるので、『見学予定の方は一度「小郡池月苑」事務所のご担当者の方に連絡を取って出かけられた方がよい』とされ、『「池月伝説」は北は青森、南は鹿児島まで日本各地に残るよう』だが、『その多くは池月の産地としての伝説で、墓や塚の伝説のみが残る地は極』く僅かなようであり、こ『この「名馬池月塚」も産地としてではなく』、『池月の終焉の地として紹介されて』おり、柳田國男が言うように、『この鰺坂周辺には佐々木性の方々が古くから住まわれていて、もしかしたらこの方々は高綱の末裔に当たるのかもしれ』ないとされつつ、ただ、『残念な事に、佐々木高綱が筑後鰺坂に領地を得た事実が歴史書の中に見あたらないため、あくまでも「古老の言い伝え」という事になっ』ているとする。また、『ところで、この言い伝えはかなり古くからあったようで』、『久留米藩の学者・矢野一貞によって書かれた「筑後国史」には西鰺坂村城跡(池月塚より南』五百メートル『の地)について「土人相伝え言う佐々木高綱の城跡なり」と記されて』ある、とある。ここに出る福岡県小郡(おごおり)市八坂にある「小郡池月苑(おごおりいけづきえん)」はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。西側に老松神社があり、その西に接して小川があるので、これが「馬洗川」であると断じてよい。

「武藏橘樹(たちばな)郡城鄕(しろさと)村大字鳥山」「駒形社」神奈川県横浜市港北区鳥山町のここに「名馬生唼(池月)の墓」として辛くもポイントされており、小祠も現存する。リンク先のサイド・パネルの個人の撮影になる画像を見ると、扁額に「馬頭觀世音」とある。サイト「散歩日記」の「馬頭観音堂(名馬池月の墓)」に堂(祠)内部の明瞭な画像が載り(今も供養がなされている様子がよく判る)、『佐々木高綱が駆っていた名馬「池月」(生唼)の墓として、霊を慰めるために建立された駒形明神が起源と伝わる「馬頭観音堂」』とあり、『この側には、佐々木高綱が建立した「鳥山八幡宮」や「三会寺」があり、また高綱の館もあったと云われて』おり、『「池月」を祀っていると云われる場所は(特にその発祥・由来について)日本各地にあるようですが、「最後の地」(お墓)ということならこちらで確定しているようです。現在は「馬頭観音堂」として、小さな祠が残されているのみとなっています』とある。「祠の傍らに」「厩に用ゐし井戶」とあるが、それは現認出来ない(祠の前方左に説明板があるが、老朽化して下半分が欠損しており、サイトの画像の撮影者も判読出来ないとしている。民家の角地であるから、或いはその個人宅地内に痕跡はあるのかも知れない)。

觀音堂の莊司橋」現認出来ない。

「下總猿島(さしま)郡五霞(ごか)村の幸館(かうだて)」「藥師堂の側に生月塚あり」現在の茨城県猿島郡五霞町(ごかまち)幸主(こうしゅ)に薬師堂が現存する。また、ウィキの「幸主名馬尊」(こうしゅめいばそん)によれば、この幸主地区内には、『鎌倉源氏の武士である佐々木四郎高綱並びに梶原源太景季』、二『人の陣屋の跡として伝えられている』とあって、『後に村人』が『それぞれの名馬の名をとって、五霞町小福田』(幸主の西北。ここ)『に磨墨を、五霞町幸主には池月を祭った。今でも名馬様と呼んで、馬の神として厚く信仰されている』ともあった。「五霞町」公式サイト内の「幸主名馬尊」によれば、『宇治川合戦』後、『生唼(いけづき)』は、『幸主にあった高綱の陣屋までたどり着いたとき、息を引きとってしまいました。高綱は生唼をまつるため』、『塚をつくり、のちに拝殿が建立され』、『名馬尊として信仰され、農耕馬が使われていた昭和の戦前までは多くの参拝者があり、祭礼はにぎやかなものでした』ともあったが、磨墨を祀った方の記載はなく、個人ブログ「小さなまちの夢」の「幸主名馬尊」によると、『「する墨の池」は、五霞町小福田に約』三千『平方メートルの沼地で、大正』九(一九二〇)『年頃まであったが、現在は干拓して水田になっている』とあり、どうも磨墨を祀ったそれは現存しないようである。なお、この奇体な石碑であるが、個人ブログ「神社ぐだぐだ参拝録」の「幸主名馬尊(五霞町幸主)」に、薬師堂の『裏に回ると、塔があるが、こちらが名馬尊の御本体なのか』? 『そして石塔の前の石仏は馬頭観音だろうか』? として、頭部から明らかに馬頭観音と比定出来る石仏と、その背後に建つ巨大な石造物(形状は確かに類を見ない奇体なものであり、碑面上部には確かに梵字らしき陰刻が認められる)の写真が添えられてある。引用元である江戸末期の医師赤松宗旦著した利根川中下流域の地誌(安政二(一八五五)年序)「利根川圖志」の巻二に載る「生月塚」とする石碑と同じ形であるから、これで間違いない。本文の「五ヶ村島」の最後に赤松は(所持する一九三八年岩波文庫刊柳田國男校訂のそれに拠る)、

   *

幸舘村に生月の塚あり。下に載す。(生月といふは信(う)けがたし。されど古駿馬の塚なるべし)。

Meibaduka

   *

と記す。画像も同じ岩波文庫版の画像をトリミングして示した。図の右にあるキャプションは上から下へ、

幸舘村藥師堂
 生月塚

栗橋隆岩寺領

惣高三尺四寸五分 高二尺二寸
笠石前幅一尺九寸 奥行尺六寸

で、全体の高さが一メートル四センチメートル弱、笠を除いた本体部が六十七センチメートル弱。笠石は前方の幅が五十七・五七センチメートル、奥行き(本体部であろう)は四十八・四八センチメートルとなる。

「近江阪田郡西黑田村大字常喜(じやうき)の水田の間にある馬塚」滋賀県長浜市常喜町(じょうぎちょう)。塚は現存しないか。なお、「坂田郡」が正しい。「阪田郡」という表記は明治期に突如、有意に現われたもので、どうもこれは「坂」の字の正字を「阪」と誤って使用したためらしい。

「同村大字本莊(ほんじやう)」恐らく、常喜町に北で隣接する滋賀県長浜市本庄町(ほんじょうちょう)のことである。

「池月の水」現存しないか。

『相州足柄上郡曾我村大字下大井」神奈川県足柄上郡大井町下大井。以下に記される通り、複数のランドマークを持つにも拘わらず、ネットには全く掛かってこない。総て残存しないというのはちょっと考え難いのだが。

「鄰村足柄下郡酒勾(さかわ)村大字酒勾」神奈川県小田原市酒匂。酒匂川河口の海に接した左岸。下大井のある曾我村とは三キロメートル強しか離れていないので近隣ではある。但し、狭義の「鄰村」、所謂、「隣り村」ではない。間に少なくとも「上府中村」「下府中村」「田嶋村」等が挟まっている。私がしばしばお世話になっている優れものの、近現代地図の対比が見られる埼玉大学教育学部の谷謙二(人文地理学研究室)Leaflet版の時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」のこちらを参照。

「僅かの溝川の石橋」上記に最後の比較地図に現在の酒匂堰が既に小流れとして存在しているから、この流れは江戸以前にあったと考えられ、位置的には当該マップのこの辺りが想定出来るのではないかとも思われる。

「荏原郡馬入村」不詳。しかしこれ、「馬込村」の誤りではあるまいか? 現在の東京都大田区の馬込地区である(ここは旧荏原郡である)。塚の正確な位置は不明だが、少なくとも同地区の南馬込三丁目十八番二十一号のここ(グーグル・ストリートビュー)に、明治三三(一九〇〇)年に馬込村の人々によって建てられた碑が現存しているからである(「大田区」公式サイトのこちらにその記載が有る)。「新たに石を立てゝ之れを勒(ろく)す」とあるが、本書の初版は大正三(一九一四)年刊である。これは正しく「近年」であろう。

「鐙(あぶみ)ケ谷(やつ)」南馬込四丁目に「鐙坂」がある。サイト「坂マップ」のこちらに、『大正末期から始まった耕地整理によって出来た坂道で、もとは狭い農道であった』。『坂の名は、伝説によると、梶原景季の愛馬磨墨が、鐙を谷に落としたところという。鐙谷の地名から名づけられたものという』(『大田区の標識より』)とある。先の比のある位置の僅か真東四百メートル位置である。

「阿波」「勝浦郡小松島町大字新居見(にゐみ)」「竝びに海岸の赤石と云ふ里」徳島県小松島市新居見町(今、「徳島乗馬倶楽部」が地区内にある)並びにそこから僅か四キロメートル東南東に離れた徳島県小松島市赤石。と言うかねぇ……この新居見町と赤石の間のド真ん中にある、小松島市芝生町宮ノ前には、既出既注だけど、池月が石に化したとされる天馬石があるだけどなぁ? 以前にも引いたことがある個人ブログ「awa-otoko’s blog」の、「磨墨の天馬石(小松島 田野)」を見ると、ここにそれ(ブログ主がここを田野(ちっちゃな宮ノ前の南東の、広大な町域)とするのは旧郡の広域地名)がガッツリと書かれてあって、それに新居見を対比して別に掲げてある。まんず、そこたらじゅうにあるわけね! ただね、気になったのは、「山中に各々」でね、現在の赤石地区は、まさに柳田國男も言っている通り、完全な海岸端で「山中」の「山」がない(西橋の川の左岸で丘陵の麓がかかるだけ)わけよ。

「百姓某なる者、其の首の骨を所持す〔「駿國雜志」〕」次の次の「磨墨ト馬蹄硯」で図像附きで出る。見易い画像を既に用意してある。お楽しみ!

「しどめ」バラ目バラ科ナシ亜科ボケ属クサボケ Chaenomeles japonica。ボケ Chaenomeles speciosa の仲間。本州・九州の山林や山裾に自生する落葉小低木。早春にボケと似た花が咲く。ボケの代用として果実を鎮痛・咳止め・利尿に、果実酒を疲労回復・強壮などに用いる。

「武州都築郡都岡(つをか)村大字今宿と二俣川村との境なる小川」現在の神奈川県横浜市旭区内の、今宿地区と二俣川地区の境となると、「今昔マップ on the web」ではこの中央辺りが候補となろうか。]

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