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2019/06/11

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(34) 「池月・磨墨・太夫黑」(1)

 

《原文》

池月・磨墨・太夫黑   名馬池月ハ陸奧七戶立ノ馬ニテ鹿笛(シヽブエ)ヲ金燒ニ當テタル五歲ノ駒云々ト云フコトハ、口拍子ニモ言ヒ馴レタル盛衰記ノ本文ナルニ、妙ニ諸國ニ其出生地ト名乘ル處多シ。今試ミニ其數箇例ヲ擧ゲンカ。奧州三戶ニ在リテハ池月ハ名久井嶽(ナグヰダケ)ノ麓ノ牧住谷野(スミヤノ)ニ於テ生ルト云フ。【龍住ム池】嶽ノ頂ニ池アリ、龍アリ之ニ潛ミ住ム。一夜月明ニ乘ジテ牧ノ駒登リテ其水ヲ飮ミ忽チニ駿馬トナル。仍テ池月ト名ヅク云々〔糠部五郡小史〕。此說ハ最モ古記ノ所傳ニ近キガ如キモ、其由來ニ傳說ノ香高キノミナラズ、磨墨太夫黑スべテ同ジ牧ノ產ナリト稱スルガ如キ、寧ロ比較ヲ怠リタル地方學者ノ輕信ナリ。【月山權現】是レ恐クハ山ニ月山權現ヲ勸請セシ後ノ話ニシテ、池ト云ヒ名馬ト云フガ爲ニ乃チ池月ノ名ヲ推定セシナランノミ。羽後仙北郡南楢岡村大字木直(キツキ)ニテハ、池月ハ彼地ニ生レタリト云ヘリ。木直ハ古クハ木月ト書キ又七寸(シチキ)トモ唱フ。池月生レ落チテ其長四尺七寸(ヨサカナヽキ)アリシ故トモ云ヒ、又木月ハ「イキツキ」ノ上略ナリトモ說明シタリ〔月乃出羽路〕。此村ニ就キテハ後ニ猶一ツノ話アリ。同國飽海郡日向(ニチカウ)村大字下黑川ニ於テハ、池月ハ此村ノ百姓與平ナル者ノ先祖ガ獻上スル所ト稱ス。【池】村ニ一處ノ古池アリ。往昔此池ヨリ龍馬出デテ嘶キ、與平ガ家ノ牝馬之ニ感ジテ池月ヲ產ムト云フ。【馬塚】其母馬ノ塚ハ今モ此地ニ殘レリ〔三郡雜記上〕。羽前南村山郡西鄕村大字石曾根モ亦同ジ名馬ノ故鄕ナリト傳ヘラル。此村ノ地以前ハ大ナル沼ニシテ龍蛇之ニ住ス。池月ハ則チ之ヲ父トシテ生レシナリ。【駒ケ池】其後沼ノ水次第ニ乾キ、今ハ小サキ池トナリテ名ノミ昔ノ駒ケ池ト呼ブト云フ〔山形縣地誌提要〕。岩代河沼郡ノ谷地(ヤチ)ト云フ村ニモ之ト似タル傳說アリキ。【四十八沼】村ノ羽黑神社ノ境内ニ古クハ四十八箇ノ沼アリ。【竈】其最モ大ナルヲ親沼又ハ竈沼ト云フ。竈沼ノ主ハ則チ月毛ノ駒ニシテ、名馬池月ハ其子ナリ。此因緣ヲ以テ近世マデモ此邊ニ牝馬ヲ放牧スレバ往々駿馬ヲ得ルコトアリト信ゼラル〔新編會津風土記〕。越後西蒲原郡岩室村大字樋曾(ヒソ)モ亦池月ノ生レタル地ト稱ス〔越後名寄三十一〕。即チ彌彥山ノ麓ナリ。彌彥ノ神ハ或ハ特ニ駒形ト緣故多キ神ナリシカ、此山ノ北麓ノ米水浦ニモ竃窟ト云フ洞アリテ靈泉湧出ス〔地名辭書〕。【島ノ牧】能登鹿島郡中之島村大字向田(カウダ)ト云フ村ノ池ニ、昔一頭ノ馬ノ牧ヨリ出デ來タリテ住スルアリ。之ヲ此村ノ彌彥神社ノ神馬ニ獻ジタリシヲ、比類無キ名馬ナルコト世ニ聞エテ終ニ鎌倉殿ニ之ヲ奉ル。其折ノ賴朝公ノ下文及ビ梶原ガ添狀、共ニ判形アル者ヲ村ニ傳フルガ何ヨリノ證據ナリ。馬ノ名ヲ池好(イケズキ)ト呼ビシモ、全ク常ニ水邊ヲ愛シテ住ミシ爲ナリト云フ〔能登國名跡志〕。而シテ此地ハ疑モ無ク古代ノ島ノ牧ナリ。

 

《訓読》

池月・磨墨・太夫黑(たいふぐろ)   名馬池月は陸奧七戶立(しちのへだち)の馬にて、鹿笛(しゝぶえ)を金燒(かなやき)[やぶちゃん注:焼印。]に當てたる五歲の駒云々と云ふことは、口拍子にも言ひ馴れたる「盛衰記」の本文なるに、妙に諸國に其の出生地と名乘る處、多し。今、試みに其の數箇例を擧げんか。奧州三戶に在りては、池月は名久井嶽(なぐゐだけ)の麓の牧、住谷野(すみやの)に於いて生まると云ふ。【龍住む池】嶽の頂きに池あり、龍あり、之(ここ)に潛み住む。一夜、月明に乘じて、牧の駒、登りて、其の水を飮み、忽ちに駿馬となる。仍(よ)つて「池月」と名づく云々〔「糠部(ぬかべ)五郡小史」〕。此の說は、最も古記の所傳に近きがごときも、其の由來に、傳說の香(か)、高きのみならず、磨墨・太夫黑、すべて、同じ牧の產なりと稱するがごとき、寧ろ、比較を怠りたる地方學者の輕信なり。【月山權現】是れ、恐らくは、山に月山權現を勸請せし後の話にして、池と云ひ、名馬と云ふが爲めに、乃(すなは)ち、池月の名を推定せしならんのみ。羽後仙北郡南楢岡村大字木直(きつき)にては、池月は彼の地に生れたりと云へり。木直は古くは「木月」と書き、又、「七寸(しちき)」とも唱ふ。池月、生れ落ちて、其の長(たけ)四尺七寸(よさかなゝき)ありし故とも云ひ、又、木月は「いきつき」の上略なりとも說明したり〔「月乃出羽路」〕。此の村に就きては、後に、猶ほ一つの話あり。同國飽海(あくみ)郡日向(にちかう)村大字下黑川に於いては、池月は此の村の百姓與平なる者の先祖が獻上する所と稱す。【池】村に一處の古池あり。往昔、此の池より龍馬出でて、嘶き、與平が家の牝馬、之れに感じて、池月を產むと云ふ。【馬塚】其の母馬の塚は今も此の地に殘れり〔「三郡雜記」上〕。羽前南村山郡西鄕村大字石曾根も亦、同じ名馬の故鄕なりと傳へらる。此の村の地、以前は大なる沼にして、龍蛇、之(ここ)に住す。池月は、則ち、之れを父として生れしなり。【駒ケ池】其の後、沼の水、次第に乾き、今は小さき池となりて、名のみ、昔の「駒ケ池」と呼ぶと云ふ〔「山形縣地誌提要」〕。岩代河沼(かはぬま)郡の谷地(やち)と云ふ村にも、之れと似たる傳說ありき。【四十八沼】村の羽黑神社の境内に古くは四十八箇の沼あり。【竈】其の最も大なるを「親沼」又は「竈沼(かまどぬま)」と云ふ。「竈沼」の主(ぬし)は、則ち、月毛の駒にして、名馬池月は其の子なり。此の因緣を以つて、近世までも此邊に牝馬を放牧すれば、往々、駿馬を得ることありと信ぜらる〔「新編會津風土記」〕。越後西蒲原郡岩室村大字樋曾(ひそ)も亦、池月の生れたる地と稱す〔「越後名寄」三十一〕。即ち、彌彥山(やひこさん)の麓なり。彌彥の神は、或いは特に駒形と緣故多き神なりしか、此の山の北麓の米水浦(よねみづうら)にも「竃窟(かまどのいはや)」と云ふ洞ありて、靈泉、湧出す〔「地名辭書」〕。【島の牧】能登鹿島郡中之島村大字向田(かうだ)と云ふ村の池に、昔、一頭の馬の、牧より出で來たりて住するあり。之れを、此の村の彌彥神社の神馬に獻じたりしを、比類無き名馬なること、世に聞えて、終(つひ)に鎌倉殿に之れを奉る。其の折りの賴朝公の下文(くだしぶみ)及び梶原が添へ狀、共に判形(はんぎやう)ある者を村に傳ふるが、何よりの證據なり。馬の名を「池好(いけずき)」と呼びしも、全く常に水邊を愛して住みし爲めなりと云ふ〔「能登國名跡志」〕。而して此の地は、疑ひも無く古代の「島の牧」なり。

[やぶちゃん注:「七戶立(しちのへち)」青森県上北郡七戸町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)はここ。これは「戸立(へだち)馬」のことで奥州最大の駿馬の産地であった糠部郡(ぬかのぶのこおり:現在の岩手県と青森県に跨る)の「戸(へ)」のつく名馬産地の産であることを示す一種のブランド的呼称で、鎌倉時代前期には既に知られていた。

「鹿笛(しゝぶえ)」猟師が鹿を誘(おび)き寄せるために吹く、鹿の鳴き声に似せた笛。本邦のそれは、竹や鹿の角に、鹿の胎児の皮や蟇蛙の皮を張って作った。

『「盛衰記」の本文』「源平盛衰記」(わたしは「じょうすいき」と読むことにしている)の巻第三十四」の「東國兵馬の汰(さた)並びに佐々木、生唼(いけずき)を賜ふ」「事」の一節。引用は示さない。何故なら、「日本文学電子図書館」(J-TEXT)の国民文庫版を加工用に用いたものの、私が多量に字を推定で規定し、読み易く勝手に推定で訓じたものだからである(私は「源平盛衰記」は前半分の活字本しか持っていない)。これは書誌学的に正規表現の原文ではないので、引用は避けられたいである。

   *

[やぶちゃん注:前略。]此中に佐々木、梶原、馬に事をぞ闕たりける。折節、祕蔵御馬三匹也。生唼・磨墨・若白毛とぞ申しける。陸奥國三戶立(さんんへだち)の馬、秀衡が子に元能冠者が進めたるなり。太く逞(たくま)しきが、尾髮、あくまで足りたり。此の馬、鼻、强くして、人を釣りければ、異名には「町君」と付けられたり。生唼とは黑栗毛の馬、高さ八寸、太く逞しきが、尾の前、ちと白かりけり。當時五歲、猶もいでくべき馬也。是も陸奥國七戶立の馬、鹿笛を金燒きにあてたれば、少も紛るべくもなし。馬をも人をも食ひければ生唼と名たり。梶原源太景季、佐殿の御前に參りて、

「君も御存知ある御事に候へども、弓矢取る身の敵に向ふ習ひは、能き馬に過ぎたる事なし。健馬に乘りぬれば、大河をも渡し、巖石をも落とし、蒐(あつむ)るも引くも、たやすかるべし。力は樊噲(はんくわい)、張良が如くつよく、心は將門、純友が如くに猛けれども、乘りたる馬、弱ければ、自然の犬死をもし、永き恥をも見事に侍り。されば生唼を下し預りて、今度(このたび)、宇治河の先陣、つとめて、木曾殿を傾け奉り候ばや。」

と、傍若無人に、憚る所なく、申したり。

 佐殿、良(やや)案じ給けるは、

『我、土肥の杉山に、七人、隱れ居(ゐ)たりしに、梶原に助けられて、今、世に出づる事も、忘れ難き思ひなり、賜らばや。』

と思し召しけるが、又、案じて、

『蒲冠者も人してこそ所望申しつれ、景季が推參の所望、頗る狼藉なり。又、是れ程の大事に、馬に事闕(ことか)きたりと申すを、たばでも如何(いかが)有るべき。』

と、左右(さう)を案じて宣(のたま)ひけるは、

「景季、慥(まこと)に承れ。此の馬をば、大名小名・八箇國の者ども、内外につけて、所望ありき。就中(なかんづ)く大將軍に差し遣はす蒲冠者が、『ひらに罷(まか)り預らん』と云ひき。然(しか)れども、源平の合戰、未だ落ち居ず、木曾追討の爲めに東國の軍兵、大旨(おほむね)、上洛す。知んぬ、平家と木曾と一つに成りて大きなる騷ぎと成さなば、賴朝も打ち上ぼらん時は、馬なくても、いかゞはせん、其の時の料(れう)にと思ひて、誰々(たれたれ)にも給はざりき。是れは、生唼にも相ひ劣らず。」

とて、磨墨を、たびにけり。景季は生唼をこそ給らねども、磨墨、誠に逸物なりければ、咲(ゑ)みを含み、畏(かしこ)まつて罷り出づ。黑漆しの鞍を置き、舍人(とねり)、餘多(あまた)付けて、氣色(けしき)してこそ引かせたれ。

   *

「名久井嶽(なぐゐだけ)の麓の牧住谷野(すみやの)」中世、南部氏がより馬産供給に応えるために形成した「南部九牧」の一つ「住谷野牧」で青森県三戸郡の旧名久井村、現在の青森県三戸郡南部町にあった(リンク先は「歴史的行政区域データセット」の同村。グーグル・マップ・データではこの南北一帯)。「南部九牧」は他に「北野牧」(現在の岩手県九戸郡洋野町大野附近。グーグル・マップ・データ。以下同じ)・「三崎牧」(青森県九戸郡野田村)・「相内牧」(青森県三戸郡南部町相内)・「又重牧」(青森県三戸郡五戸町倉石又重及び五戸町等)・「木崎牧」(青森県三沢市及びその南の上北郡おいらせ町百石地区)・「蟻戸牧」(青森県上北郡野辺地町)」・「大間牧(青森県下北郡大間町)」・「奥戸牧(同大間町奥戸)」。

「地方學者」近世以前の研究者を指す。

「羽後仙北郡南楢岡村大字木直(きつき)」現在の秋田県大仙市南外(なんがい)木直沢(きじきざわ)附近かと思われる。

「七寸(しちき)」馬の丈(脚の先から肩までの高さ)を指す語を地名に転用したもの。因みに、以前に述べた通り、国産馬の標準は四尺(一・二一メートル)が「一寸(き)」であるから、「七寸」は一メートル四十二センチメートルとなり、「四尺七寸」は国産馬では有意に異常に大きい。

「飽海(あくみ)郡日向(にちかう)村大字下黑川」山形県酒田市下黒川

「羽前南村山郡西鄕村大字石曾根」山形県上山(かみのやま)市石曽根

「岩代河沼(かはぬま)郡の谷地(やち)と云ふ村」福島県河沼郡会津坂下町(あいずばんげまち)三谷谷地(みたにやち)である(実際には三谷と谷地は別地名であるが、合わせた地名も通用している模様である)。捜すのに手間取ったが、「新編會津風土記」の巻之八十九の「河沼群之四」「靑津組」の「靑津組二十六箇村」の中に「谷地(ヤチ)村」があり、その「谷地村」の当該箇所(次の頁に跨り、「羽黑神社」の記載有り)の前書部分の鶴ヶ城からの距離、隣接する地名から推理した結果、ここに到ることが出来た。問題はグーグル・マップ・データではその羽黒神社が見当たらないことであった。しかし、この現行の「谷地」の地名が記された南直近には「馬洗場」、西直近には「山ノ神」という柳田國男が喜びそうな地名が残っていることが、まず判った。そうして谷地の東の三谷地区に「廣瀬神社」というのがあり、最も直近であるのだ、調べてみても、ここが旧羽黒神社であった痕跡はなかった。しかし、どうも無視出来ない。何故なら、この廣瀬神社の位置は現在の谷地地区の南西に当たり、「新編會津風土記」の「羽黑神社」の記載の、「未申ノ二町五十間ニアリ」(二百二十七メートル)に一致するからであった。私はこの神社こそがこの「羽黑神社」なのではないかと思う。そこには「祭神保食神ナリ」(うけもちのかみ)とあるから、現在或いは嘗つてこの廣瀬神社の祭神が保食神であった事実が判れば、と期待したのだが、ネットでは祭神は判らなかった。ところが、ランダムに検索を掛けてゆくうちに、個人サイトと思しい「会津名水紀行」のこちらに、会津坂下町の「広瀬神社目薬沼(ひろせじんじゃめぐすりぬま)」というのを発見、そこに『坂下町から塩川方面へ車で走ると、田んぼの中、右側にうっそうとした杜が見えてきます。その杜に囲まれるように広瀬神社があり』(これはグーグル・マップ・データを航空写真に換えると、まさにその通りであることが判る)、『いくつかの沼が神沼として点在しています』。『目薬沼とは広瀬神社神沼の一つで、他に親沼、竈沼などの名があります。眼疾に効能があるといわれており、当村はもとより青木、青津村の養水となり、古くより地方開発の水利の神としても祭られています』とあったのだ! 則ち、やっぱり「羽黑神社」は現在の廣瀬神社なのだ! しかも、柳田國男の叙述では、もう沼は全部なくなっちまったように読めたのだが、まだ、ちゃんと幾つか残っているんだ! これで決まり! 気持ちいいゾ!!!

「四十八沼」これは各地に認められる名数で、言わずもがな、「阿弥陀如来の四十八願」に掛けたものである。

「越後西蒲原郡岩室村大字樋曾(ひそ)」新潟市西蒲(にしかん)区岩室村樋曽。「彌彥山(やひこさん)」の北北東四キロメートル弱の山間部。

「米水浦(よねみづうら)」吉田東伍著の明治四〇(一九〇七)年冨山房刊の「大日本地名辭書」を調べたところ、ここにあった(左ページ上段中ほどから中段)。その記載から、弥彦山の東方直下の海岸、現在の新潟県長岡市寺泊野積であることが判明した。しかも同海岸の北には「竃窟(かまどのいはや)」=「男釜・女釜」(上記記載を見よ)という名勝として今もある。但し、「大日本地名辭書」の記載によると、海食洞であったが、記載時には既に一つは崩落して洞を呈していないとある。

「能登鹿島郡中之島村大字向田(かうだ)」石川県七尾市能登島向田町(のとじまこうだまち)であろう。次に国土地理院図を見てもらおう。すると、向田町の北西の突き出た半島があるが、此の尖端の地名を見ると、「牧鼻」とあるのが判る。「牧」だ。「でも、向田町じゃなくて、少なくとも今は能登島曲(まがり)町でしょう?」と返すかね? ではもう一度、グーグル・マップ・データに戻ってもらおう。そこでこの半島の中央にある「能登島家族旅行村Weランド」をクリックするぞ! どう? 住所は? 「あれ? 石川県七尾市能登島向田町になってるぞ? これってグーグル・マップ・データの間違いじゃないの?」ってか? それじゃ、同施設の公式サイトの「アクセス」を見て貰おうか。どうよ? 住所のところに「石川県七尾市能登島向田町牧山」て書いてあるだろ。そこで国土地理院をよ~く見てもらうと、「牧鼻」からこの附近にかけて、点線が引かれてあるのが判るんだ。則ち、この半島の先端部の東北の半分の一帯が、向田町の飛び地になっていることが判るんだ。その理由は古い時代の取り決めか、近現代の地権者の問題なのか何かは、私は知らない。しかし、地名をごろうじろ! 「鼻」に「山」なんだ。考えてみりゃ、島に馬の牧場を設置するのは、海が自然のテキサス・ゲートとなって、馬の脱出の心配をする必要が一切いらないから、理に叶っているじゃないか!

「彌彥神社」これをぼんやりと読んでしまい、さっき出てきた、越後平野西部の弥彦山(標高六百三十四メートル)山麓に鎮座し、弥彦山を神体山として祀る彌彦神社(いやひこじんじゃ:住所は新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦。ウィキの「彌彦神社」によれば、『正式には「いやひこ」だが、神体山とする弥彦山など』、『関連する地名が全て「やひこ」と読む関係で、一般には「やひこ」とも呼ばれる』とある。「万葉集」にも『歌われる古社であり、祭神の天香山命は越後国開拓の祖神として信仰されたほか、神武東征にも功績のあった神として武人からも崇敬された。宝物館には日本有数の大太刀(長大な日本刀)である「志田大太刀(しだのおおたち、重要文化財)」や、源義家や源義経、上杉謙信(輝虎)などに所縁と伝えられる武具などが社宝として展示されている』とあり、ここが馬と関わるところの武人らとの関係が深い神社であることは言い添えておく)と勘違いしてはいけない! よく読んで! 柳田國男は「之れを、此の村の彌神社の神馬に獻じたりし」と言ってるんだ。「此の村」ってえのはこの能登島の旧向田村のことなんさ! 「そんな神社、ないよ?」ってか? ほれほれ! 石川県七尾市能登島向田町のここをご覧な! 「伊夜比咩神社」があるやろ、これ、「いやひめじんじゃ」や! 柳田が言っているのはこれやで!

「其の折りの賴朝公の下文(くだしぶみ)及び梶原が添へ狀、共に判形(はんぎやう)ある者を村に傳ふ」鎌倉フリークの私としては、現存するならば是非、見たいものだ。

「古代の島の牧」中世、能登島には伊勢神宮領の「能登島御厨(のとじまのみくり(や))」(「御厨」は神饌の調進をする場所)や荘園が置かれていた。そもそもが「向田」とは、この伊勢神宮御厨としての「神田(こうだ)」から「向田」となったのである。ここに古代の馬の牧があったという記載は遂に調べ得なかったが、神饌には神馬も当然含まれるわけで、ここに古代に「能登島の牧」があったとしても何ら不思議ではないと私は思う。その証拠に「牧」を附した地名があるとも言えるのではないか?

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