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2019/06/03

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(29) 「神々降臨ノ跡」(5)

 

《原文》

 サテ立返リテ箱根山上ノ駒形權現ヲ說カンニ、此社ニハ馬蹄傳說ノ明瞭ニ存スルモノ無キ代リニ、境内ニハ馬乘石ト馬降石トノ二大石アリ。【白馬】前者ハ長サ一丈橫二間餘、往古此石上ニ白馬出現シタリト云フ言傳ヘアリ。馬降石ハ方九尺、石ノ面ニ小サキ穴アリテ一舛[やぶちゃん注:「一升」に同じ。]バカリノ水ヲ湛フ。之ヲバ金剛水ト名ヅケ如何ナル旱魃ニモ涸ルヽコトナシ〔新編相模風土記〕。【硯ノ水】此種ノ石穴ノ水ハ即チ我々ガ名ヅケテ硯ノ水ト云フ傳說ニシテ、後ニ尙永々シキ一條ノ物語ヲ控ヘタリ。【竈神ト馬】筑前ノ竃門(カマト)神社ハ古今共ニ有名ナル國幣ノ社ナリ。俗說ニハ此神ヲ八幡大菩薩ノ伯母君ナドト云フガ、未ダ女神タル明證ヲ知ル能ハズ。當社舊記ノ傳フル所ニ依レバ、神功皇后三韓御征伐ノ時先ヅ此社ニ參拜アリタルニ、大神ハ甲胃ヲ帶シ戈ヲ提ゲ威光赫々トシテ巖ノ上ニ現ジタマフ云々。乃チ其巖石ニ神馬ノ足跡ヲ留メタマフモノ之ヲ馬蹄石ト稱スト云ヘリ〔太宰管内志所引筑陽記〕。竃門山ノ神ハ禁中ノ室ノ八島ナドヽ同ジク、專ラ御食物ノ側ヨリ聖體ノ康安ヲ守護スル神ナルべキモ、右ノ馬蹄石ノ一條ヲ考ヘ合ストキハ、竈門ト云フ山ノ名ハ殊ニ意味深ク聞ユルナリ。此御時ノ遠征ハ誠ニ絕代ノ偉業ナリ。殊ニハ女性ノ大御心ニハ如何ニモ御氣遣ハシキ御企ナリシカバ、愈ノ御決斷マデニハ色々ノ神占ヲ問ハセラレシコト正史ニ見エタリ。從ヒテ臨時ニ此山ノ大神ヲ招キ降シ祭ヲ營ミ神旨ヲ聽カレキト云フモ尤モ有リ得べキコトナリ。【住吉神】又此折ニハ海ノ神住吉ノ大神ノ如キモ亦隨一ノ主戰論者ナリキ。住吉ヲ攝津ノ海濱ニ祀リタル由來トシテハ、皇后凱旋ノ後ニ勅ヲ以テ此地へ遷シ奉ルト云フコト通說ナレドモ、カノ安法法師ノ有名ナル和歌ニ【相生】

  天降ルアラ人神ノ相生(アヒオヒ)ヲオモヘバ久シ住吉ノ松

トモアレバ、ヤハリ神影向(エイガウ)ノ傳說ガ此地ニモアリシナリ。【天神】住吉ハ即チ所謂天神(アマツカミ)ノ部類ナリ〔神武令義解〕。天神ト云フ語ハ、地祇即チ此國ノ先住民ガ祭リテアリシ神ニ對シテ、新土著者タル大和民族ノ本來ノ神ヲ意味スル者ノ如ク考フル者多シト雖、後世新舊ノ人種ガ完全ニ混淆シテヨリ後ハ、或ハ又天ヨリ降ル神、【アモリ神】即チ地方ニ由リテハ今モ「アモリ神」ナドヽ呼ブ神ヲ意味スルモノト解セラレシニハ非ザルカ。然ラザレバ菅丞相ノ御靈ナドヲ天神ト稱スべキ理由無キナリ。諸國ノ天神社ノ中ニハ菅公ニ非ザル者多キコトハ先輩既ニ多ク之ヲ論ジタリ。然ラバ果シテ悉ク國津神ニ對スル天津神ナリヤト云フニ、未ダ容易ニ然リトハ答フル能ハザルモノヽ如シ。讚岐三豐郡財田大野村大字財田西上村ニ、駒石山宗運寺千手院ト稱スル眞言宗ノ寺アリ。慶長年間ノ草創ナレドモ本尊ハ菅公ノ念持佛ト稱スル古キ聖觀世音ナリ。【菅公影向】境内ノ岩神ノ兩ノ附近ニ、菅公影向ノ石ト稱スル大岩アリテ、其上ニ蹄ノ跡殘レリ〔西讚府志〕。山號ハ勿論此ニ基ケルモノナリ。菅公ハ一方ニ於テハ日本最後ノ天神ナリシト共ニ、他ノ方面ニ於テハ我邦最初ノ御靈ノ一ツナリ。人ニシテ神ト同ジク、其靈魂ヲ不朽ノ巖石ノ上ニ留メタリシ古來ノ多クノ英傑ト其類ヲ同ジクスル者ニテ、馬蹄石傳說ノ上ニ於テモ、聖德太子ト共ニ最モ顯著ナル地位ヲ占ムル人ニテアルナリ。

 

《訓読》

 さて、立ち返りて、箱根山上の駒形權現を說かんに、此の社には馬蹄傳說の明瞭に存するもの無き代りに、境内には「馬乘石(ばじやうせき)」と「馬降石(ばこうせき)」との二大石あり。【白馬】前者は長さ一丈橫二間餘[やぶちゃん注:三・〇三×三・六四メートル弱。]、往古、此の石上に白馬出現したりと云ふ言ひ傳へあり。「馬降石」は方九尺[やぶちゃん注:二・七三メートル弱四方。]、石の面に小さき穴ありて一舛(しやう)ばかりの水を湛ふ。之れをば「金剛水」と名づけ、如何なる旱魃にも涸るゝことなし〔「新編相模風土記」〕。【硯の水】此の種の石穴の水は、即ち、我々が名づけて「硯の水」と云ふ傳說にして、後(あと)に尙ほ、永々(ながなが)しき一條の物語を控へたり。【竈神と馬】筑前の竃門(かまと)神社は、古今共に有名なる國幣の社なり。俗說には、此の神を「八幡大菩薩の伯母君」などと云ふが、未だ女神たる明證を知る能はず。當社舊記の傳ふる所に依れば、神功皇后、三韓御征伐の時、先づ、此の社に參拜ありたるに、大神は甲胃を帶し、戈(ほこ)を提げ、威光赫々(かくかく)として巖(いわほ)の上に現じたまふ云く。乃(すなは)ち、其の巖石に神馬の足跡を留めたまふもの、之れを「馬蹄石」と稱すと云へり〔「太宰管内志」所引「筑陽記」〕。竃門山の神は、禁中の「室の八島」などゝ同じく、專ら、御食物(みめしもの)の側より聖體(しやうたい)の康安を守護する神なるべきも、右の馬蹄石の一條を考へ合はすときは、竈門と云ふ山の名は、殊に意味深く聞ゆるなり。此御時の遠征は誠に絕代の偉業なり。殊には、女性の大御心(おほみここころ)には如何にも御氣遣(おきづか)はしき御企(おんくはだて)なりしかば、愈々の御決斷までには、色々の神占(かみうら)を問はせられしこと、正史に見えたり。從ひて、臨時に此の山の大神を招き降(おろ)し、祭を營み、神旨(しんし)を聽かれきと云ふも、尤も有り得べきことなり。【住吉神】又、此の折りには、海の神住吉の大神のごときも亦、隨一の主戰論者なりき。住吉を攝津の海濱に祀りたる由來としては、皇后凱旋の後に勅を以つて此の地へ遷(うつ)し奉ると云ふこと通說なれども、かの安法(あんぱふ)法師の有名なる和歌に【相生】

  天降(あまくだ)る

    あら人神の

   相生(あひおひ)を

      おもへば久し

          住吉の松

ともあれば、やはり「神影向(えいがう[やぶちゃん注:ママ。])」の傳說が此の地にもありしなり。【天神】住吉は、即ち、所謂、天神(あまつかみ)の部類なり〔「神武令義解」〕。「天神(てんじん)」と云ふ語は、「地祇(ちぎ)」、即ち、此の國の先住民が祭りてありし神に對して、新土著者たる大和民族の本來の神を意味する者のごとく考ふる者多しと雖(いへど)、後世、新舊の人種が完全に混淆してより後は、或いは又、天より降(くだ)る神、【あもり神】即ち、地方に由りては今も「あもり神」などゝ呼ぶ神を意味するものと解せられしには非ざるか。然らざれば、菅丞相の御靈(ごりやう)などを「天神」と稱すべき理由、無きなり。諸國の天神社の中には、菅公に非ざる者多きことは、先輩、既に多く之れを論じたり。然らば、果して悉く國津神に對する天津神なりやと云ふに、未だ容易に然りとは答ふる能はざるものゝごとし。讚岐三豐郡財田大野村大字財田西上村に、駒石山宗運寺(そううんじ)千手院と稱する眞言宗の寺あり。慶長年間[やぶちゃん注:一五九六年~一六一五年。]の草創なれども、本尊は菅公の念持佛と稱する古き聖(しやう)觀世音なり。【菅公影向(えうがう)】境内の岩神の兩の附近に、「菅公影向の石」と稱する大岩ありて、其の上に蹄の跡、殘れり〔「西讚府志」〕。山號は勿論、此れに基けるものなり。菅公は一方に於ては、日本最後の天神なりしと共に、他の方面に於ては、我が邦最初の御靈の一つなり。人にして神と同じく、其の靈魂を不朽の巖石の上に留めたりし古來の多くの英傑と其の類を同じくする者にて、馬蹄石傳說の上に於いても、聖德太子と共に最も顯著なる地位を占むる人にてあるなり。

[やぶちゃん注:「箱根山上の駒形權現」既出で以下の内容も私が既注。「新編相模風土記」の当該部は一寸探し難いので、国立国会図書館デジタルコレクションの画像を示しておく。「巻之二十八 村里部 足柄下郡巻之七」のここ(左ページ下方の「△駒形權現」の条の末)。

『「硯の水」と云ふ傳說』「永々(ながなが)しき一條の物語を控へたり」柳田國男が言っている長ったらしい物語がこれかどうかは知らぬが、例えば、個人ブログ「玉野の伝説」の「天神の硯井」に載る、道真由来の一つをリンクさせておく。ロケーションは現在の岡山県玉野市八浜町大崎で「硯井の井戸」として現在に遺跡が残っている。

「筑前の竃門(かまと)神社」福岡県太宰府市竈門(かまど)神社。主祭神は玉依姫命。柳田國男は清音で示しているが、同神社公式サイトでも特に清音であった旨の記載はない。天武天皇二(六七三)年創建とする。ウィキの「竈門神社」の「社名」の項によれば、『当社は大宰府東北方の宝満山(ほうまんざん、標高』八百二十九・六『メートル)に鎮座するが、この宝満山は古くは「御笠山(みかさやま)」「竈門山(かまどやま)」と称されていた』。その内の『「御笠山」の山名は、笠のような山容に由来する古いものといわれ』、『古くは神体山として信仰されたともいわれる』。『もう』一『つの山名「竈門山」は、筑前国の歌枕としても多く詠み込まれて』おり、『当社社伝である鎌倉時代後期の』「竈門宝満大菩薩記」では、『元は「仏頭山」「御笠山」と称されていたが、神功皇后の出産の時にこの山に竈門を立てたことに由来すると伝える』一方、「筑前国続風土記」では、『山の形がかまど(竈)に似ており、煮炊きの様子を示すかのように雲霧が絶えないことに由来するとする』。『そのほか、大宰府鎮護のためカマド神を祀ったとする説』、『九合目付近の「竈門岩」に由来するという説がある』とある。『現在の「宝満山」の山名は、神仏習合に伴って祭神を「宝満大菩薩」と称したことによるとされ』、『その初見は』十三『世紀末頃の古文書まで下る』とある。

『俗說には、此の神を「八幡大菩薩の伯母君」などと云ふ』ウィキの「竈門神社」の「祭神」の項によれば、「筥崎宮縁起」等では、『当宮を八幡神の伯母(応神天皇の伯母、神功皇后の姉)と見なしており、遅くとも』十二『世紀初頭には八幡神(神功皇后・応神天皇)と結び付けられたと見られている』。『竈門神が八幡神の系譜に組み込まれた背景には、古くから大宰府と関わっている当社の政治的色彩が指摘される』とある。これは宗教的には当社が大宰府の鬼門の位置に当たることから、大宰府鎮護の神として崇敬されたこととも関係するものであろう。

『神功皇后、三韓御征伐の時、先づ、此の社に參拜ありたるに、大神は甲胃を帶し、戈(ほこ)を提げ、威光赫々(かくかく)として巖(いわほ)の上に現じたまふ云く。乃(すなは)ち、其の巖石に神馬の足跡を留めたまふもの、之れを「馬蹄石」と稱すと云へり』「竈門神社」公式サイトのこちらの「竈門神社上宮へのお詣り」の項には、『宝満山頂には竈門神社の上宮があり、麓に鎮座するのが下宮です。頂上付近には玉依姫命の伝承にまつわる馬蹄石や竈門岩などがあ』るとして、現行の神社の方では、神功皇后ではなく、主祭神玉依姫命に纏わる伝承として押さえている

『禁中の「室の八島」』宮中の大炊寮(おおいづかさ:宮中で行われる仏事・神事の供物や宴会での宴席の準備・管理を担い、また、御料地の管理も行った分掌)の竃のこと(「八島」が「釜」の意)。なお、ここでは古くは、除夜に竈を祓い清め、その灰の状態を見て、翌年の吉凶を占ったりもし、その儀式をも「室の八島」と呼んだから、ここはその意味合いを強く受けた謂いともとるべきであろう。

「此の折りには、海の神住吉の大神のごときも亦、隨一の主戰論者なりき」ウィキの「住吉三神」(すみよしさんじん)によれば、住吉三神は「古事記」では『主に底筒之男神(そこつつのおのかみ)・中筒之男神(なかつつのおのかみ)・上筒之男神(うわつつのおのかみ)と表記される』神を、「日本書紀」では『主に底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと)』とする『三神の総称で』、『住吉大神ともいうが、この場合は住吉大社にともに祀られている息長帯姫命(神功皇后)を含めることがある』。『住吉は、元は「すみのえ」と読んだ』。『かつての神仏習合の思想では、それぞれ薬師如来(底筒之男神)、阿弥陀如来(中筒之男神)、大日如来(上筒之男神)を本地とすると考えられた』。彼らの出自については、『伊邪那岐命と伊邪那美命は国生みの神として大八島を生み、またさまざまな神を生んだが、伊邪那美命が火之迦具土神を生んだときに大火傷を負い、黄泉国(死の世界)に旅立った。その後、伊邪那岐命は、黄泉国から伊邪那美命を引き戻そうとするが果たせず、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」で、黄泉国の汚穢を洗い清める禊を行った。このとき、瀬の深いところで底筒之男神が、瀬の流れの中間で中筒之男神が、水表で上筒之男神が、それぞれ生まれ出たとされる』とある。そうして「日本書紀」には、『仲哀天皇の御代、熊襲、隼人など大和朝廷に反抗する部族が蜂起したとき、神功皇后が神がかりし、「貧しい熊襲の地よりも、金銀財宝に満ちた新羅を征討せよ。我ら三神を祀れば新羅も熊襲も平伏する」との神託を得た。しかし仲哀天皇はこの神託に対して疑問を口にしたため、祟り殺されてしまう。その後、再び同様の神託を得た神功皇后は、自ら兵を率いて新羅へ出航した。皇后は神々の力に導かれ、戦わずして新羅、高麗、百済の三韓を従わせたという』とある最後の部分を柳田國男は言っているのである。

「安法(あんぱふ)法師」(生没年不詳)平安中期の歌人。俗名は源趁(みなもとのしたごう)。嵯峨天皇の皇子で光源氏のモデルともされる源融(とおる)の曾孫であるが、父の代から家運が衰微し、安法自身の詳細な経歴も不明だが、出家後は曾祖父融が造営した壮大な邸宅河原院の一画を寺とし、そこに住した。同姓同名の源順や能因など、同院を訪れる人は多く、その荒廃などを主題に漢詩文や和歌を作り、独特の交友圏を形成したが、安法自身は彼らと風雅の交わりを結びつつも、貴顕や晴れの場とは無縁なところで歌作を続けた。その姿勢には後世の隠者歌人に繋がる一面があって注目される。「拾遺和歌集」以下の勅撰集に十二首入集し、自選家集「安法法師集」が残る(以上は概ね「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「天降るあら人神の相生(あひおひ)をおもへば久し住吉の松」「拾遺和歌集」の「巻第十 神楽歌」に載る(五八九番)。

   住吉に詣でて

 天くだるあら人神のあひおひを

    おもへば久し住吉の松

「相生(あひおひ)」はこの場合は文字通りで「ともに育って・年月を重ねて」で、住吉神が現人神(あらひとがみ)となってこの地上に降臨してここに鎮座ましまされてよりずっと一緒に生い茂ってきた松の両対象への久遠長久の言祝ぎ歌である。万葉以来、「現人神」は「住吉の神」を言う場合が多いと、「岩波新古典文学大系」の同歌集の小町屋照彦氏の注にあった。

「あもり神」「天降り神」で天から降臨した神の意。

「讚岐三豐郡財田大野村大字財田西上村に、駒石山宗運寺千手院と稱する眞言宗の寺あり」三豊市山本町財田西にある真言宗駒石山観音院宗運寺。讃岐三十三観音霊場の第十三番札所。本尊は聖観世音菩薩。柳田國男は草創を慶長年間と言っているが、サイト「讃岐三十三観音霊場」の同寺の記載によれば、延暦一五(七九五)年、『桓武天皇の勅願により、右大臣藤原内麿が創建。山王山観音院総本寺中之坊と号していた。後、天正七』(一五七九)年、『長曽我部の武将だった山下市郎右衛門藤原盛久が、この裏山に居を構え、当寺を菩提寺として復興したので、その隠居名宗運をとって寺号とした』とある。地図を見て戴くと判る通り、東直近に天満宮があり、江戸時代まで習合していたから、道真所縁というのは腑に落ちる。]

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