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2019/06/06

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(31) 「御靈ト石」(2)

 

《原文》

 サテ此等ノ多クノ傳說ニ就キテ其馬主ノ生涯ヲ比較スルニ、一二ノ例外ヲ除キテハ極メテ著シキ第二ノ共通點アルカト思ハル。即チ彼等ハ單ニ一代一方ノ英俊ナリシト云フ外ニ、多クハイマダ齡ノ盛リニ於テ何レモ不自然ナル死ヲ遂ゲタル人ナリ。有餘ル生活力ヲ銷盡セズ、而モ執著ノ末成ラズシテ終ヲ取リタル人タチナリ。【念力】身ハ去リテ念力ヲ此世ニ留ムルニ必要ナル條件ヲ具ヘタル人々ナリ。思フニ我等ガ祖先ノ特ニ重要視セシハ此未了ノ念力ナリキ。昔ノ京都ノ八所ノ御靈ナドノ列名ヲ見レバ、共ニ其些シ以前ニ於テ、枉屈ヲ以テ死歿シタル貴族ナリシナリ。當時朝廷ノ公文ニハ、寃厲災ヲ爲スガ故ニ祭ルト書キテハアレド、恐クハ未ダ民間信仰ノ消息ニ精通セザリシ人ノ言ナルべキカ。復讐セラルヽ覺無キ下級ノ人民ガ、單ニ御氣ノ毒ナルヲ以テ神ニ祭ラント言フべキ道理無シ。然ラバ何故ニ斯ク迄弘キ信仰ガ行ハレタルカト問ハヾ、是レ全ク前代人ノ靈魂不朽ニ關スル槪念ガ此ノ如クナリシ結果ト言フノ外無キナリ。近キ頃ノ佐倉宗吾又ハ佐野常言[やぶちゃん注:ママ。]ノ世直(ヨナホシ)大明神、サテハ伊豫ノ宇和島ノ和靈樣ノ如キ、若シ之ヲ以テ其人格ニ對スル景慕トスルナラバ、所謂上流ノ社會道德トハ或ハ合スべキモ、是レ要スルニ感謝ト祈禱トヲ混同シタル說ト謂フべシ。【御靈ノ祭】御靈系統ノ雜神ニ對シテハ、少ナクモ昔ハ謝恩ノ意味ノ祭アリシコトヲ聞カザルナリ。或ハ又神ノ憤怒ヲ和グル爲ニ祭ルト云フ者アラン。成程前ニ各地方ノ馬鬼ニ就キテ述べシガ如ク、神ノ「イキドホリ」ハ慥カニ存ス。併シ之ヲ我々ガ所謂怒リナリト言フコトハ難シ。例ヘバ甲ノ爲ニ害セラレテ乙丙丁ニ對シテ災ヲ爲ス神アリ。佛法ニ敎ヘラレタル我々ノ間ノ因果律ヲ適用スルトキハ、全然其外ニ立ツべキ現象ナリ。而シテ此災ヲ避ケンガ爲ノ祭ヲ、若シ贖罪ノ趣旨ニ出ヅル者ノ如ク說ク人アラバ、此モ亦罰ト祟トヲ同一視スルノ誤謬ヲ免レズ。蓋シ「タヽリ」ハ中世ノ用語トシテハ、神ノ怒又ハ之ニ基ク人ノ禍ヲ意味セリ。源重之ノ歌ニモ

  千早フルイヅシノ宮ノ神ノ駒ユメナノリソネタヽリモゾスル

トアルナド其例ナリ。此歌ノ「ナノリソ」ハ、語ル勿レト云フ語ト神馬乘ル勿レト云フ語ト兩樣ニ用ヰタル掛ケ詞ナリ。【タヽリ】併シナガラ「タヽリ」ノ語原、及ビ最初ノ用法ハ之トハ異ニシテ、譬諭[やぶちゃん注:ママ。]ヲ「タトヘ」ト謂ヒ賞讚ヲ「タヽヘ」ト謂フト共ニ、「タヽリ」ハ單ニ神靈ノ語ヲ意味セシモノニ似タリ。彼ノ金屬ヲ熔ス爐ヲ「タヽラ」ト呼ブハ古キ日本語ニシテ、音ヨリ出デタル造語ナリトモ考ヘ得べキモ、此地名ガ深山淸淨ノ地ナドニ多ク、且ツ古クハ鑄物師ガ一種ノ巫覡ナリシ事ヲ思ヘバ、必ズシモ由無キ想像ニハ非ズ。畏多キコトナレドモ、大昔ノ皇后ノ御名ニ姬蹈鞴(ヒメタヽラ)ト申上グル方アリシモ、亦神ニ仕ヘタマヒシヨリノ御名カト思ハル。今日モ沖繩ニテハ「タヽリ」又ハ「神ターリ」ト云フハ、神ノ人ヘ託宣スルコトヲ意味スルナリ〔沖繩語典〕。而シテ此ノ古キ意味ニ於ケル「タヽリ」ノ神德ヲ、最モ著明ニ發揮スルニ適シタルハ、一念ノ力ノ强烈ナル人々ガ此世ニ生キ殘シタル御靈ナリ。【魂魄永住】幸ニシテ大ナル執著ヲ當代ニ留メタル名士タチナラバ、後世ノ佛敎徒ノ如ク、死スルヤ否ヤフイト極樂ニ向ヒ去ルガ如キ無責任ナル所業ハ敢テセズ、魂魄ト成リテ迄モ人間問題ヲ考慮シツヽアルナルべク、捨テヽ置ケバ或ハ災ヲ下スノ擧ニ出ヅルコトアランモ、賴ミヤウニ由リテハ勿論親切ナル世話奔走ヲ辭セザルナルべシ。【湊川】例ヘバ楠家ノ兄弟ハ、湊川ノ最後ニ際シテ何ト宣言シタリシカ。之ヲ根據ナキ妄想ト見ルコトハ、今人ト雖敢テセズ。我々現代人ノ理想モ亦復此ノ如キノミ。死シテ幽界ノ名士ト成ルコトヲ得バ男兒ノ能事ハ終レルナリ。尤モ此思想タルヤ、本來及ブ所甚ダ弘キモノナリキ。【戶神】例ヘバ眞言ノ佛法ニ於テ、獰猛無比ノ稱アル障礙神ノ義俠心ニ訴ヘテ境堺ノ守護ヲ委託スルコト、【人柱】或ハ其信仰ノ根原ナラントノ說アル門ノ側又ハ川ノ堤等ニテ人ヲ屠リ其靈魂ヲ利用シテ工作物ヲ防護セシムル慣習、即チ日本ナドニモ往々聞ク所ノ人柱ノ話、サテハ妖婆ノ輩ノ祕密ニ屬セシ物ヲ指シタル幼兒ノ指、食物ヲ見詰ムル所ヲ打斫リタル餓ヱタル犬猫ノ頸ナドガ、人ニ未然ノ善惡禍福ヲ教フルト云フガ如キモ、皆同ジ思想ニ屬スべカリシ者ナリ。【天滿宮】更ニ遠慮無キ斷定ヲ自ラ許スナラバ、彼ノ天滿大自在天神ノ信仰ノ如キモ、右ノ御靈ノ思想ヲ以テスルニ非ザレバ之ヲ解說スルコト能ハザルモノナリ。而シテ人間ニシテ能ク巖石ノ上ニ跡ヲ留メタリト云フハ、即チ此等ノ人々ノ乘馬ノ蹄ニ他ナラザルハ、誠ニ偶然ニハ非ザルナリ。【藤原廣嗣】古クハ菅公ト同ジク太宰府ノ官吏ニシテ靈死シタル藤原廣嗣、【新田義興】東京ノ附近ニテハ矢口ノ渡ニ千古ノ川浪ヲ咽バシメタル新田義興ノ如キ、何レモ馬ニ騎シテ白雲ト共ニ空中ヲ飛ビマハリ、終ニ恨ト言フ恨ハ悉ク報イ去リ、猶靈ノ力ノ大ニ餘裕アルコトヲ示シタリ。而シテ其馬ノ足跡ニシテ若シ或岩石ノ上ニ在リトスレバ、神ト同ジク之ヲ祭ルハ極メテ自然ノ結果ニ非ズヤ。

 

《訓読》

 さて、此等の多くの傳說に就きて其の馬主の生涯を比較するに、一二の例外を除きては、極めて著しき第二の共通點あるかと思はる。即ち、彼等は單に一代一方(ひとかた)の英俊なりしと云ふ外に、多くは、いまだ齡(よはひ)盛りに於いて、何れも、不自然なる死を遂げたる人なり。有り餘る生活力を銷盡(しやうじん)[やぶちゃん注:消し(使い)尽くすこと。]せず、而も、執著の末(すゑ)成らずして終りを取りたる人たちなり。【念力】身は去りて、念力を此の世に留むるに必要なる條件を具へたる人々なり。思ふに、我等が祖先の特に重要視せしは、此の未了の念力なりき。昔の京都の「八所(はつしよ)の御靈(ごりやう)」などの列名(れつみやう)を見れば、共に其の些(すこ)し以前に於いて、枉屈(わうくつ)[やぶちゃん注:「力で押さえつけること・抑圧すること」であるが、ここ受身形。]を以つて死歿したる貴族なりしなり。當時、朝廷の公文(くもん)[やぶちゃん注:律令時代の公文書(こうぶんしょ)の総称。]には、『寃(ゑん)、厲災(れいさい)を爲すが故に祭る』[やぶちゃん注:深い恨み(以上の「八所の御霊」の場合は今一つの無実の罪によるそれという意も同時に強く含んでいる)が災害と疫病を引き起こすが故に祭祀するものである。]と書きてはあれど、恐らくは、未だ民間信仰の消息に精通せざりし人の言なるべきか。復讐せらるゝ覺え無き下級の人民が、單に『御氣の毒』なるを以つて神に祭らんと言ふべき道理、無し。然らば、何故に斯くまで弘き信仰が行はれたるかと問はゞ、是れ、全く、前代人の靈魂不朽に關する槪念が此くのごとくなりし結果と言ふの外、無きなり。近き頃の佐倉宗吾、又は、佐野常言[やぶちゃん注:ママ。]の「世直(よなほし)大明神」、さては伊豫の宇和島の「和靈樣(われいさま)」のごとき、若(も)し、之れを以つて、其の人格に對する景慕とするならば、所謂、上流の社會道德とは或いは合(がつ)すべきも、是れ、要するに、感謝と祈禱とを混同したる說と謂ふべし。【御靈の祭】御靈系統の雜神に對しては、少なくも、昔は、謝恩の意味の祭りありしことを聞かざるなり。或いは又、「神の憤怒を和(やはら)ぐる爲めに祭る」と云ふ者、あらん。成程、前に各地方の馬鬼に就きて述べしがごとく、神の「いきどほり」は慥かに存す。併し、之れを、我々が、所謂、「怒りなり」と言ふことは、難(かた)し。例へば、甲の爲めに害せられて、乙・丙・丁に對して災ひを爲す神あり。佛法に敎へられたる我々の間の因果律を適用するときは、全然、其の、外(そと)に立つべき現象なり。而して、此の災ひを避けんが爲めの祭りを、若(も)し、贖罪の趣旨に出づる者のごとく說く人あらば、此れも亦、罰と祟りとを同一視するの誤謬を免れず。蓋し「たゝり」は中世の用語としては、神の怒り、又は、之れに基づく、人の禍(わざは)ひを意味せり。源重之の歌にも

  千早ふるいづしの宮の神の駒ゆめなのりそねたゝりもぞする

とあるなど、其の例なり。此の歌の「なのりそ」は、「語る勿れ」と云ふ語と、「神馬乘る勿れ」と云ふ語と、兩樣に用ゐたる掛(か)け詞(ことば)なり。【たゝり】併しながら、

「たゝり」の語原、及び、最初の用法は、之れとは異にして、譬諭[やぶちゃん注:ママ。譬喩。]を「たとへ」と謂ひ、賞讚を「たゝへ」と謂ふと共に、「たゝり」は單に神靈の語を意味せしものに似たり。彼の金屬を熔(とか)す爐(ろ)を「たゝら」と呼ぶは、古き日本語にして、音(おと)[やぶちゃん注:鞴(ふいご)を踏む音のオノマトペイアの意と私は採った。]より出でたる造語なりとも考へ得べきも、此の地名が深山淸淨の地などに多く、且つ古くは鑄物師(いもじ)が一種の巫覡(ふげき)なりし事を思へば、必ずしも由(よし)無き想像には非ず。畏れ多きことなれども、大昔の皇后の御名に姬蹈鞴(ひめたゝら)と申し上ぐる方(かた)ありしも、亦、神に仕へたまひしよりの御名かと思はる。今日も沖繩にては、「たゝり」又は「神たーり」と云ふは、神の人へ託宣することを意味するなり〔「沖繩語典」〕。而して、此の古き意味に於ける「たゝり」の神德を、最も著明に發揮するに適したるは、一念の力の强烈なる人々が此の世に生き殘したる御靈なり。【魂魄永住】幸ひにして、大なる執著を當代に留めたる名士たちならば、後世の佛敎徒のごとく、死するや否や、「ふい」と極樂に向ひ去るがごとき無責任なる所業は敢へてせず、魂魄と成りてまでも人間問題を考慮しつゝあるなるべく、捨てゝ置けば、或いは災ひを下すの擧(きよ)に出づることあらんも、賴みやうに由りては、勿論、親切なる世話・奔走を辭せざるなるべし。【湊川】例へば、楠家(くすのきけ)の兄弟は、湊川の最後に際して何と宣言したりしか。之れを根據なき妄想と見ることは、今人(きんじん)と雖も敢へて、せず。我々現代人ノ理想モ亦復(また)[やぶちゃん注:「ちくま文庫」版に従い、「亦復の二字でかく読むこととする。]此くのごときのみ。死して幽界の名士と成ることを得ば、男兒の能事(のうじ)[やぶちゃん注:成すべきこと。]は終れるなり。尤も、此の思想たるや、本來、及ぶ所、甚だ弘きものなりき。【戶神】例へば、眞言の佛法に於いて、獰猛無比の稱ある障礙神(しやうげしん)の義俠心に訴へて境堺(きやうかい)の守護を委託すること、【人柱】或いは、其の信仰の根原ならんとの說ある門(もん)の側、又は、川の堤等にて、人を屠(ほふ)り、其の靈魂を利用して、工作物を防護せしむる慣習、即ち、日本などにも、往々聞く所の「人柱(ひとばしら)」の話、さては、妖婆の輩(やから)の祕密に屬せし物を指したる幼兒の指、食物を見詰むる所を打ち斫(き)りたる餓ゑたる犬・猫の頸などが、人に未然の善惡禍福を教ふると云ふがごときも、皆、同じ思想に屬すべかりし者なり。【天滿宮】更に遠慮無き斷定を自ら許すならば、彼(か)の天滿大自在天神の信仰のごときも、右の御靈の思想を以つてするに非ざれば、之れを解說すること、能はざるものなり。而して、人間にして能く巖石の上に跡を留めたりと云ふは、即ち、此等の人々の乘馬の蹄に他ならざるは、誠に偶然には非ざるなり。【藤原廣嗣】古くは菅公と同じく、太宰府の官吏にして靈死(りやうし)[やぶちゃん注:死して御霊(ごりょう)となった怨念を持った死の意で、かく読んだ。]したる藤原廣嗣、【新田義興】東京の附近にては矢口の渡しに千古の川浪を咽(むせ)ばしめたる新田義興のごとき、何(いづ)れも馬に騎して白雲と共に空中を飛びまはり、終に恨みと言ふ恨みは悉く報い去り、猶ほ、靈(れい)[やぶちゃん注:ここは「終に恨みと言ふ恨みは悉く報い去」っているので、通常の読みとした。]の力の大に餘裕あることを示したり。而して、其の馬の足跡にして、若(も)し、或る岩石の上に在りとすれば、神と同じく之れを祭るは、極めて自然の結果に非ずや。

[やぶちゃん注:「八所(はつしよ)の御靈(ごりやう)」平安以来、疫病や天災を齎(もたら)すものとして恐れられた八座の御霊神。貞観五(八六三)年五月に御霊会が修せられた六座、則ち(以下、引用を示していない記載は複数の辞書記載を参考にしたものである)、

①崇道天皇(早良(さわら)親王(天平勝宝二(七五〇)年~延暦四(七八五)年)。光仁天皇第二皇子で桓武天皇の同母弟。神護景雲二(七六八)年に出家したが,宝亀元(七七〇)年、父光仁天皇の即位により親王となり、天応元(七八一)年の桓武天皇の即位と同時に皇太子となった。しかし、延暦四(七八五)年、長岡京造営の推進者藤原種継の暗殺事件に連座し、同年九月二十八日に皇太子を廃され、乙訓寺に幽閉され、次いで淡路に流されたが、その途次、絶食して自死した。これは藤原氏が権力を握るに到る過程で起った一連の謀略的事件で、政争の渦に巻込まれた犠牲者であった。事件後、桓武天皇の皇子安殿(あて)親王(後の平城天皇)が皇太子となったが、桓武天皇・早良親王の生母高野新笠(たかののにいがさ)や藤原乙牟漏(おとむろ 桓武天皇の皇后で後の平城天皇・嵯峨天皇の生母)の死、悪疫の流行、皇太子の罹病など、不吉なことが相次いだ。皇室や藤原氏はこれを親王の祟りとして恐れ、同十九年に「崇道天皇」と追号して淡路から大和に移葬した)

②伊予親王(?~大同二(八〇七)年:桓武天皇の第三皇子。政治的能力に優れ、天皇の信頼も厚く、三品(さんぼん:親王位階の第三位)に叙され、式部卿・中務卿を歴任したが、藤原宗成(式家)が謀反を企て、謀り事が現れて捕えられるや、親王を首謀者と讒言した。そこで母藤原吉子(後述)とともに捕えられて大和川原寺に幽閉され、そこで母子ともに毒をあおって自死した。これも藤原諸家の勢力争いの犠牲となったもので、弘仁一〇(八一九)年に先に削られていた「親王」の号を復した)

③藤原吉子(よしこ/きつし ?~大同二(八〇七)年:前注の通り、桓武天皇の夫人で伊予親王の母。父は右大臣藤原南家是公(これきみ)。延暦二(七八三)年に無位から一気に従三位に叙せられ、夫人(ぶにん)となったが、先の通りの藤原氏の政争に巻き込まれて伊予親王とともに自死した。当時の人々の同情を集めたという。同じく後の弘仁十年にその祟りを恐れて「夫人」の号に復し、承和六(八三九)年九月に従三位が、同年十月にはさらに従二位が贈られている)

④藤原広嗣(?~天平一二(七四〇)年:奈良時代の廷臣。藤原式家の祖宇合(うまかい)の子。天平九(七三七)年に従五位下、翌年、大養徳(やまと)守・式部少輔となったが、同年末に大宰少弐に左遷された。天平一二(七四〇)年、上表して政治の得失を論じ、僧正玄昉(げんぼう)や吉備真備らの専権を非難し、政府に排除するよう、直言したが、入れられず、同年九月に乱を起したが、敗れ、肥前松浦郡値嘉島(ちかのしま)で捕えられ、処刑された。後の天平勝宝二(七五〇)年になって、斬刑された松浦郡の、唐津にある鏡神社に、これまた、肥前国司に左遷された吉備真備(後述)によって、広嗣を祀る二ノ宮が創建された。これは広嗣処刑の後に玄昉が筑紫に左遷され、そこで歿したことから、これを広嗣の怨霊のせいとし、彼の怨霊を鎮めるための建立であった。奈良市高畑町にある新薬師寺の西隣りに鎮座する鏡神社は、その勧請を受けたもの)

⑤橘逸勢(たちばなのはやなり:?~承和九(八四二)年)平安初期の官人で書家。入居(いるいえ)の子で、「橘奈良麻呂の乱」(彼が藤原仲麻呂を滅ぼし、皇太子大炊王を廃して黄文王を立てようと企てたが、密告によって露見、未遂に終わった事件)で知られる奈良麻呂の孫。延暦二三(八〇四)年、遣唐使に従って空海・最澄らと入唐。唐人から「橘秀才」と称賛された。帰国後、従五位下に叙せられ、承和七(八四〇)年に但馬権守となったが、「承和の変」(承和九(八四二)年に伴健岑(とものこわみね)や橘逸勢らが謀反を企てたとして、二人が流罪となり、仁明天皇の皇太子恒貞親王が廃された事件。事件後に藤原良房の甥である道康親王が皇太子となったことから、藤原良房の謀略とされている)で捕えられ,本姓を除かれて「非人逸勢」と卑称され、伊豆に流罪となったが、護送の途中、遠江で病死した。当時、六十余歳であったという。後の嘉祥三(八五〇)年になって罪を許され、正五位下の位階が追贈れ、仁寿三(八五三)年にはさらに従四位下が贈位された。当時、冤罪を負って死んだことから、逸勢は怨霊となったと考えられて、貞観五(八六三)年五月に行われた神泉苑御霊会で五柱の御霊の一柱として祀られた。彼は空海・嵯峨天皇とともに「三筆」と称される書道の名人で、隷書を最もよくし、平安京の大内裏の諸門の額の多くは彼の筆に成ると言われているが、真跡として確認出来るものは今日殆んど伝わっていない)

⑥文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ 生没年未詳:平安前期の官人。承和六(八三九)年に従五位上、翌年に筑前守(同九年には「前筑前守」となっており、この間任を離れてはいたが、そのまま現地に留まって、来日中の新羅の廻易使李忠らと折衝している)となったが、承和十年、彼自身の従者であった陽侯氏雄(やこのうじお)が主人宮田麻呂が謀反を企てていると密告し(これは或いは新羅使との接触が関係しているとする説もある)、京及び難波宅の宮田麻呂の私邸が捜索を受け、兵具を押収、伊豆に配流された(彼の子らもそれぞれ流罪となっている)。真相は不明だが、前注に出た通り、貞観五年に行われた神泉苑御霊会で祀られており、当時の人々が宮田麻呂に同情的であったことが窺われる)

の六柱に、後、

⑦吉備真備(きびのまきび 持統七(六九三)年或いは九(六九五)年~宝亀六(七七五)年:奈良時代の学者で政治家。霊亀二(七一六)年に入唐留学生となり、天平七(七三五)年に帰朝し、「唐礼」「大衍暦経」などの多くの書籍・器物を将来した。同九年、藤原氏の公卿が相次いで疫病死したため、次第に宮廷内に重きをなした。先に出た天平一二(七四〇)年九月に起こった「藤原広嗣の乱」は真備らの失脚を目論んだもので、後の天平勝宝二(七五〇)年、真備は筑前守に左遷されている。しかし、翌三年、再び、入唐使として渡唐、同六年に帰朝、天平宝字八(七六四)年の「恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱」に功あり、従三位・参議・中衛大将となり、天平神護二(七六六)年に右大臣に上り詰めた。神護景雲三(七六九)年には「刪定律令」を編纂し、正二位となった。宝亀二(七七一)年、致仕した。地方豪族出身者としては破格の出世で、学者から立身して大臣にまでなったのは近世以前では彼と菅原道真のみである。波乱万丈ではあるが、他の七柱とは異なり、生前の後半生では復権しており、八十一歳の天寿を全うしている。しかも「御霊」とされたのは何故かと考えるに、彼が政治的手腕と才知にずば抜けていたこと以外に、強力な陰陽道のプロであったからではなかろうか。ウィキの「吉備真備」の「伝説」の項に以下のようにある。「江談抄」や「吉備大臣入唐絵巻」などに『よれば、真備は、殺害を企てた唐人によって、鬼が棲むという楼に幽閉されたが、その鬼というのが真備と共に遣唐使として入唐した阿倍仲麻呂の霊(生霊)であったため、難なく救われた。また、難解な「野馬台の詩」の解読や、囲碁の勝負などを課せられたが、これも阿倍仲麻呂の霊の援助により解決した。唐人は挙句の果て』、『食事を断って真備を殺そうとするが、真備が双六の道具によって日月を封じたため、驚いた唐人は真備を釈放した』とある(なお、『真備が長期間にわたって唐に留まることになったのは、玄宗がその才を惜しんで帰国させなかったためともいわれる』)。『また、帰路では当時の日本で神獣とされていた九尾の狐も同船していたといわれる』。『中世の兵法書などでは、張良が持っていたと』される伝説の道家色の濃い兵法書「六韜(りくとう)三略」の『兵法を持ち来たらしたとして、真備を日本の兵法の祖とし』ている。『また、真備は陰陽道の聖典』「金烏玉兎集(きんうぎょくとしゅう)」を『唐から持ち帰り、常陸国筑波山麓で阿倍仲麻呂の子孫に伝えようとしたと』もされる。『金烏は日(太陽)、玉兎は月のことで「陰陽」を表』わす。なお、かの『安倍晴明は、阿部仲麻呂の一族の子孫とされるが』、「金烏玉兎集」は『晴明が用いた陰陽道の秘伝書として、鎌倉時代末期か室町時代初期に作られた書とみられている』ものの、『伝説によると、中国の伯道上人という仙人が、文殊菩薩に弟子入りをして悟りを開いた』が、その『ときに文殊菩薩から授けられたという秘伝書』「文殊結集仏暦経」を『中国に持ち帰ったが、その書が』真備がもたらした原「金烏玉兎集」であるということらしい。また「今昔物語集」には『玄昉を殺害した藤原広嗣の霊を真備が陰陽道の術で鎮めたとし』、「刃辛抄」では、陰陽道の書「刃辛内伝」を『持ち来たらしたとして、真備を日本の陰陽道の祖としている』とあるからである。因みに、かなり知られた話であるが、「宇治拾遺物語」には、『他人の夢を盗んで自分のものとし、そのために右大臣まで登ったという説話もある』のである)

と、「火雷神(ほのいかずちのかみ)」と習合された、

⑧菅原道真(承和一二(八四五)年~延喜三(九〇三)年:言わずもがなであるが、記述のバランスから注しておく。平安前期の官人。政治家・文人・学者として名が高い。是善(これよし)の子で、母は伴(とも)氏。本名は「三」(「みつ」か)、幼名を「阿呼(あこ)」と称し、後世、「菅公」と尊称された。従二位右大臣に至った。承和一二(八四五)年、父祖三代の輝かしい伝統を持つ学者の家に生まれた道真は、幼少より文才に優れ、向学心も旺盛で、貞観四(八六二)年、十八歳で文章生(もんじょうしょう)となり、十五年後の元慶元(八七七)年には文章博士となった。その間、少内記に任ぜられて、多くの詔勅を起草し、また、民部少輔(みんぶのしょう)として朝廷の吏務に精勤する一方、文章の代作や願文(がんもん)の起草など、盛んな文章活動を続け、父是善の没(元慶四(八八〇)年)後は、父祖以来の私塾である「菅家廊下(かんけろうか)」を主宰し、宮廷文人社会の中心となった。仁和二(八八六)年に讃岐守に転出したが、翌年、宇多天皇の即位に際して起こった「阿衡(あこう)事件」(「関白」(この称号が事件の発端)藤原基経と宇多天皇の間で起こった政治紛争)には深い関心を寄せ、入京し、基経に良識ある意見書を提出、左代弁(この事件で後に罷免)橘広相(ひろみ)のために弁護した。この事件が権臣の専横を示すとともに、政治に巻き込まれた文人社会の党争に根ざしていただけに心を痛めたのであった。寛平二(八九〇)年、国司の任期を終えた道真は、藤原氏の専権を抑えて天皇中心の理想政治を実現しようとする宇多天皇の信任を受け、帰京の翌年には蔵人頭(くろうどのとう)に抜擢され、その後、参議・左大弁に登用され、朝政の中枢に携わることになった(その現実的政策としてよく知られるのは「遣唐使の廃止」である)。その間も官位は昇進を続け、中納言・民部卿・権大納言・春宮大夫(とうぐうだいぶ)・侍読などの任に就いている。寛平九(八九七)年、宇多天皇は譲位したが、その遺誡により醍醐天皇は藤原時平とともに道真を重用し、昌泰二(八九九)年、時平の左大臣に対して、道真を右大臣に任じている。しかし、当時の廷臣には、儒家としての家格を超えた道真の栄進を嫉む者も多く、昌泰三(九〇〇)年には文章博士三善清行から辞職勧告の諭しを受けているが、道真はこれを容れなかった。また、他氏を着実に排斥してきた藤原氏にとって、道真は強力な対立者と見做されており、延喜元(九〇一)年、従二位に叙してまもなく、遂に政権と学派の争いの中、時平の中傷によって大宰権帥(ごんのそち)に左遷されてしまう。その後。大宰府浄妙院(俗称「榎寺(えのきでら)」)で謹慎すること二年、天皇の厚恩を慕い、望郷の念に駆られつつ、配所で没した。その晩年が悲惨であっただけに、死後の怨霊に対する怖れは当時から非常に強かった。それに関わる説話は「大鏡」巻二の「時平伝」や「北野天神縁起」などに見られる。時平は延喜九(九〇九)年に享年三十九歳の若さで死去するが、道真の霊は死後、天満自在天となり、青竜と化して、時平を殺したと噂された(ここまでの主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)ウィキの「菅原道真」によれば、『菅原道真の死後、京には異変が相次ぐ。まず』、『道真の政敵藤原時平が』『病死すると、続いて』、延喜一三(九一三)年には『道真失脚の首謀者の一人とされる右大臣源光が狩りの最中に泥沼に沈んで溺死し、更に醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王(時平の甥・延喜』二三(九二三)年死去)、『次いで』、『その息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫・延長』三(九二五)年)死去)が『次々に病死』した。さらには「北野天神縁起絵巻」で知られる大災厄(カタストロフ)が起こる。延長八(九三〇)年六月二十六日(ユリウス暦九三〇年七月二十四日)に『朝議中の清涼殿が落雷を受け』、「昌泰の変」に『関与したとされる大納言藤原清貫』(きよたか)『をはじめ』、『朝廷要人に多くの死傷者が出た』『上に、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し』、三『ヶ月後に崩御した。これらを道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返された』とある。ウィキの「清涼殿落雷事件」は、より詳細なので引用すると、『この年、平安京周辺は干害に見舞われており』、この日、『雨乞の実施の是非について醍醐天皇がいる清涼殿において』、『太政官の会議が開かれることとなった。ところが、午後』一『時頃より』、『愛宕山上空から黒雲が垂れ込めて平安京を覆いつくして雷雨が降り注ぎ、それから凡そ』一『時間半後に清涼殿の南西の第一柱に落雷が直撃した』。『この時、周辺にいた公卿・官人らが巻き込まれ、公卿では大納言民部卿の藤原清貫が衣服に引火した上に胸を焼かれて即死、右中弁内蔵頭の平希世』(たいらのまれよ)『も顔を焼かれて瀕死状態となった。清貫は陽明門から、希世は修明門から車で秘かに外に運び出されたが、希世も程なく』、『死亡した。落雷は隣の紫宸殿にも走り、右兵衛佐美努忠包』((みぬのただかね)『が髪を焼かれて死亡。紀蔭連』(きのかげつら)『は腹を焼かれてもだえ苦しみ、安曇宗仁』(あずみそうにん)『は膝を焼かれて立てなくなった。更に警備の近衛も』二『名死亡した』。『清涼殿にいて難を逃れた公卿たちは、負傷者の救護もさることながら、本来』、『宮中から厳重に排除されなければならない死穢に直面し、遺体の搬出のため』、『大混乱となった。穢れから最も隔離されねばならない醍醐天皇は』、『清涼殿から常寧殿に避難したが、惨状を目の当たりにして体調を崩し』、三『ヶ月後』(延長八年九月二十九日)『に崩御することとなる』。『天皇の居所に落雷し、そこで多くの死穢を発生させたということも衝撃的であったが、死亡した藤原清貫が』、『かつて大宰府に左遷された菅原道真の動向監視を藤原時平に命じられていたこともあり、清貫は道真の怨霊に殺されたという噂が広まった。また、道真の怨霊が雷神となり』、『雷を操った、道真の怨霊が配下の雷神を使い』、『落雷事件を起こした、などの伝説が流布する契機にもなった』とある。なお(以下の主文は再び小学館「日本大百科全書」に戻した)、道真はそれに先立つ、延喜二三(九二三)年に従二位大宰員外師から右大臣に復し、正二位を贈ったのを初めとして、その七十年後の正暦四(九九三)年)には正一位左大臣が、後の同年中には太政大臣が追贈されている。こうした名誉回復の背景には道真を讒言した時平が早逝した上、その子孫が振るわず、宇多天皇の側近で道真にも好意的だった時平の弟である忠平の子孫が藤原氏の嫡流となったことも関係しているとされる。清涼殿落雷事件から、道真の怨霊は雷神と強く結びつけられ、朝廷は火雷神が祀られていた京都北野の地に北野天満宮を建立、道真が没した太宰府には先に醍醐天皇の勅命によって藤原仲平が建立した安楽寺の廟を、安楽寺天満宮に改修して道真の祟りを鎮めようとした。以降、百年ほどは、大災害が起きる度に「道真の祟り」として恐れられた。こうして「天神様」として信仰する天神信仰が全国に広まることとなったが、やがて、各地に祀られた祟り封じの「天神様」は、災害の記憶が風化するに従い、道真が生前優れた学者・詩人であったことから、後に「天神」は「学問の神」として信仰されるように至ったのである)

の二座を加えたものである。また、以上の御霊(怨霊)を祀った各神社をも指すが、特にこれらを「八所御霊(はっしょごりょう)」として纏め、現在の京都市上京区上御霊前通烏丸東入の上御霊神社及び中京区寺町通丸太町下ルの下御霊神社の両社に祭神として祀られたものがその代表である。この両社は全国各地に散在する御霊神社の中でも特に名高く、一方で京都御所の産土神(うぶすながみ)としても重要視された。

「佐倉宗吾」佐倉惣五郎(生没年未詳)の通称。江戸前期の義民。姓は木内。下総国印旛郡公津(こうづ)村(現在の千葉県成田市台方(だいかた))の名主。彼が指導した闘争の経過や彼の役割については、「地蔵堂通夜(つや)物語」や「堀田(ほった)騒動記」などの実録文芸に伝えられるだけであるが、それらによれば、佐倉領主堀田正信(寛永八(一六三一)年~延宝八(一六八〇)年)の始めた新規の重課の廃止を、全領の名主たちが一致して郡奉行(こおりぶぎょう)に、次いで国家老(くにがろう)に要求したが、拒否され、江戸に出て、藩邸に訴えても、取り上げられず、惣代六人で、老中に駕籠訴(かごそ)したが、これも却下され、ついに惣五郎一人が将軍に直訴した(「通夜物語」は承応二(一六五三)年とする一方、「騒動記」では正保元(一六四四)と大きく異なっている)。この要請は実現されたものの、惣五郎夫妻とその男子四人は死刑に処せられた。しかし後、その祟りによって堀田家は断絶したというのである(実際には断絶しそうになったが、断絶などしていない。事実を記すと、堀田正信は後の万治三(一六六〇)年十月八日、突然、「幕府の失政により人民や旗本・御家人が窮乏しており、それを救うために自らの領地を返上したい」といった内容の幕政批判の上書を幕閣の保科正之・阿部忠秋宛で提出し、無断で佐倉へ帰城してしまい、幕法違反の無断帰城について、幕閣で協議がなされ、正信の上書や行動に同情的意見もあったものの、老中松平信綱の唱えた「狂気の作法」という見解(本来なら「三族の罪」(父・兄弟・妻子等の親族へ及ぶ処罰)に当たるが、狂人ならば免除出来るという理屈)で合意がなされ、同年十一月三日に処分が下り、所領没収の上、弟の信濃飯田藩主脇坂安政に預けられた。これは実は唐の松平信綱と対立したためとも、佐倉惣五郎事件の責任を問われたからともされるが、詳細は不明である)。しかし後年(正信の没後。正信は、安政の播磨龍野藩への転封に伴い、母方の叔父である若狭小浜藩主酒井忠直に預け替えられたが、延宝五(一六七七)年に密かに配所を抜け出して上洛し、清水寺や石清水八幡宮を参拝し、それが発覚、これによって嫡男正休(まさやす)と酒井忠直は閉門、正信は阿波徳島藩主蜂須賀綱通に預け替えられた。延宝八(一六八〇)年五月、第四代将軍徳川家綱死去の報を聞き、この再々配流先の徳島にて鋏で喉を突いて自死している)、正信の亡き父正盛の功績によって長男正休に、お家再興が許されており、正休は天和元(一六八一)年に大番頭、翌年三月には徳川綱吉の子徳松の側役に任じられ、一万石の所領を与えられ、吉井藩主となった。その後は奏者番となり、近江宮川藩に移封された。彼の子孫は明治までしっかり続いている)。これらの物語には、矛盾したり、事実に反する点もみられるので、惣五郎非実在説や千葉氏復興運動とみる説なども唱えられているが、堀田氏時代の公津村名寄(なよせ)帳に、惣五郎分二十六石余の記載があり、正徳五(一七一五)年成立の「総葉(そうよう)概録」が、堀田氏時代に「公津村の民、總五(そうご)、罪ありて肆(さら)せらる時、自ら冤(えん)と称し、城主を罵りて死し、時々祟りを現はし、遂に堀田氏を滅す。因りて其の靈を祭りて一祠(いつし)を建て惣五宮と稱す」という説を伝えていることから、惣五郎の実在と処刑は否定し得ない。惣五郎の直訴状と称するものは後世の作とみられるが、高一石につき一斗二升の増米と小物成(こものなり)の代米支給停止に反対するという主要な要求は初期的であり、安永五(一七七六)年の「惣五摘趣(てきしゅ)物語」が、惣五郎が藩と対立した真因と主張する「仮早稲米」も、これまた初期に特徴的な為替米(藩米の領民への販売)とみられるから、惣五郎を中心とした反領主闘争があったことも否定し得ない。その物語が、江戸中期以降の百姓一揆の成長のなかで、全藩一揆型の物語に成長したと見るべきであろう(ここは主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。

『佐野常言の「世直(よなほし)大明神」』江戸中期の旗本佐野政言(さのまさこと 宝暦七(一七五七)年~天明四(一七八四)年)の誤りであろう。ウィキの「佐野政言」によれば、通称は善左衛門。『目付や江戸町奉行を務めた村上義礼は義兄(政言の妻の兄)。妹に春日広瑞室、小宮山長則室』がおり、十『姉弟の末子で一人息子であった』。『佐野善左衛門家は三河以来の譜代である五兵衛政之を初代とし』、『代々』、『番士を務めた家であり、政言は』六『代目にあたる。父伝右衛門政豊も大番や西丸や本丸の新番を務め』、安永二(一七七三)年『に致仕し、代わって』八『月に政言が』十七『歳で家督を相続(』五百『石)した』。安永六(一七七七)年に大番士、翌年には新番士となった。ところが、天明四(一七八四)年三月二十四日、『江戸城中で、若年寄・田沼意知に向かって走り出しながら「覚えがあろう」と』三『度叫んでから』、大脇差を抜いて『殿中刃傷に及んだ。その』八『日後に意知が絶命すると、佐野政言には切腹が命じられ、自害して果てた。葬儀は45日に行われたが、両親など遺族には謹慎が申し付けられたため出席できなかった。佐野家も改易となったが、遺産は父に譲られることが認められた。唯一の男子である政言には子がなかったこともあり、その後長く佐野家の再興はなかったが、幕末になって再興されている』。『犯行の動機は、意知とその父意次が先祖粉飾のために』、『藤姓足利氏流佐野家の系図を借り返さなかった事』、『上野国の佐野家の領地にある佐野大明神を』、『意知の家来が横領し』、『田沼大明神にした事、田沼家に賄賂を送ったが』、『一向に昇進出来なかった事、等々』、『諸説あったが、幕府は乱心として処理した』。『田沼を嫌う風潮があった市中では』、『田沼を斬ったことを評価され、世人からは「世直し大明神」と呼ばれて崇められた』とある。

『伊豫の宇和島の「和靈樣(われいさま)」』安土桃山時代から江戸前期に生きた武将で伊達家家臣(家老)山家公頼(やんべきんより 天正七(一五七九)年~元和六(一六二〇)年)の御霊(みたま)に対する愛媛県宇和島を中心に四国・中国地方にある信仰及びその御霊を祀る和霊神社(愛媛県宇和島市和霊町(ちょう)のここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)。ウィキの「山家公頼」によれば、公頼は通称は清兵衛。『最初は最上氏に仕えていた』が、『後、伊達政宗に仕えて頭角を現し、政宗の庶長子・秀宗が宇和島藩に封じられた際に藩惣奉行(筆頭重臣・』一千『石)として付けられた』。『初期藩政の構築のみならず、仙台藩(伊達宗家)や江戸幕府との関係調節に苦慮し、仙台の政宗に宇和島藩』十『万石のうち』、三『万石を隠居料として割くことで宗家からの借財返済を繰り延べたり』、『幕府の大坂城石垣修復事業に参加したりした』。『こうした行為が秀宗や』、『桜田元親ら他の重臣らとの対立を招いた』。『また』、『公頼自身、政宗が秀宗を監視するために送った目付を兼ねており、浪費の改まらない秀宗の行状を政宗に報告し、政宗が秀宗を諌める書状を出しているほどであった』。元和六(一六二〇)年、同年の一月の『大坂城石垣普請工事で共に奉行を務めた桜田元親が』公頼が『不正をしたと秀宗に讒訴したため、公頼は帰国して秀宗に弁明し、謹慎した』。『これは工事の進捗状況の報告』に於いて、『公頼と桜田の報告に齟齬があり、公頼が正当だったので面目を失った桜田が讒訴に及んだ』もの『とされ』ている。同年六月二十九日、『秀宗の命を受けた桜田一派の家臣達が』、『山家邸を襲撃、翌未明に公頼らは討ち取られた』。『享年』四十二であった。『この襲撃事件で』は、『公頼のみならず、次男と三男も斬殺され』、九『歳の四男に至っては井戸に投げ込まれて殺された』『(なお、あまりに幼子であったため』『井戸には祠が祭られた)。さらに娘婿の塩谷内匠父子』三『人も殺され、生き残ったのは商人に匿われた公頼の母と妻だけだった』。『長男は仙台にいたため無事』であった。ところが、『公頼の死後、宇和島藩内では怨霊騒動などが続いた。政敵の桜田元親は変死し』(後の別引用参照)、『宇和島を襲った大地震や台風・飢饉などの凶事をはじめ、秀宗の長男・宗実と次男・宗時、六男・徳松の早世、秀宗の発病などは』、これ、『全て』、『公頼の祟りとして恐れられた』。『このため』、承応二(一六五三)年に『秀宗の命により和霊神社が創建されることとなった』。但し、『怨霊伝説がある一方で、公頼には殺害の首謀者であった秀宗の夢枕に立って火事を事前に伝えたなどとされる忠臣伝説もあり』、『宇和島では公頼は「和霊様」と呼ばれている』。『公頼は財政難の宇和島藩において』、『質素倹約を旨とし、領民に重い年貢を課そうとせず』、『できるだけ負担を軽くしようとしたため、領民からは慕われていた』。『ただ、そのために軍費を厳しく削減したため、桜田元親ら武功派には恨まれた』のであった。『遺骸は公頼を慕う領民により、金剛山大隆寺の西方約』六十メートル『の場所に密かに葬られた。また、公頼は蚊帳の四隅を切断され、抗ううちに殺されたことから、命日などは蚊帳を吊らない風習が近代まで残るなど、領民に慕われたことが伺える』とあり、ウィキの「和霊神社」には、『当社の分霊を祀る神社が、四国・中国地方を中心に日本各地にある』とある。他にウィキの「和霊騒動」もあり、かなり詳しい。それによれば、『事件後』、寛永九(一六三二)年、『秀宗正室・桂林院の三回忌法要の際、大風によって金剛山正眼院本堂の梁が落下し、桜田玄蕃』元親『が圧死』し、『その後も山家清兵衛の政敵たちが海難事故や落雷によって相次いで死亡し』たため、『宇和島藩家老の神尾勘解由が、宇和島城の北にある八面大荒神の社隅に小さな祠を建てて、児玉(みこたま)明神としたが、その甲斐なく、秀宗は病床に伏し、秀宗の』六『男、長男宗實が早世、次男宗時が病没、飢饉や台風、大地震が相次いだ。このことを「清兵衛が怨霊となり』、『怨みを晴らしているのだ」と噂となったため、秀宗は承応二年に『檜皮の森に神社を建立、京都吉田家の奉幣使を招いて同年』六月、『神祗勘請を行い、「山頼和霊神社」とした』。現在のそれは享保一六(一七三一)年、第五代『藩主伊達村候によって、清兵衛邸跡に今日の和霊神社を創建し、清兵衛の霊を慰めた』ものであるとある。

「源重之」「千早ふるいづしの宮の神の駒ゆめなのりそねたゝりもぞする」源重之(生没年未詳)は水垣久氏の「やまとうた」の「千人万首」の彼のページによれば、『清和天皇の皇子貞元親王の孫。従五位下三河守兼信の子。父兼信は陸奥国安達郡に土着したため、伯父の参議兼忠の養子となった。子には有数・為清・為業、および勅撰集に多くの歌を載せる女子(重之女)がいる。名は知れないが、男子のうちの一人は家集』「重之の子の集」を残している。『康保四年』(九六七)『十月、右近将監(のち左近将監)となり、同年十一月、従五位下に叙せられる。これ以前、皇太子憲平親王(のちの冷泉天皇)の帯刀先生(たちはきせんじょう)を勤め、皇太子に百首歌を献上している。これは後世盛んに行なわれる百首和歌の祖とされる。その後』、『相模権介を経て、天延三年』(九七五)『正月、左馬助となり、貞元元年』(九七六)に『相模権守に任ぜられる。以後、肥後や筑前の国司を歴任し、正暦二年』(九九一)『以後、大宰大弐として九州に赴任していた藤原佐理のもとに身を寄せた。長徳元年』(九九五)『以後、陸奥守藤原実方に随行して陸奥に下り、同地で没した。没年は長保二年』(一〇〇〇)『頃、六十余歳かという』とある。この一首は「続詞花和歌集」の「巻十九 物名」に、

   たちまのくになるいつしの宮といふ
   やしろにてなのりそといふものを題
   にて人の歌よめといひければ

 千早ふるいつしの宮の神のこま夢なのりそねたゝりもぞする

とあるもの。以上は「群書類従」のグーグルブックスの画像から起こした。出石神社(いずしじんじゃ)は、「いづしの宮」は現在の兵庫県豊岡市出石町(ちょう)宮内にある出石(いずし)神社。旧但馬国一宮。柳田國男は何も言っていないが、「なのりそ」にはもう一つの意味が掛けられてある。則ち、海藻の「なのりそ」=「神馬草(藻)」である。則ち、不等毛植物門褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科 Sargassaceae(或いはホンダワラ属 Sargassum)である。「ほんだはら」は「ほだはら」で「穂俵」の漢字を当てて、その気泡体部が米俵に似ていることから、豊作に通じる縁起物とされ、正月飾りに利用されているのはご承知の通りである。ここではそうした神饌として供されることも多い「神馬藻(ほんだわら)」もハイブリッド(「神馬」だぞ!)に掛詞となっていると考えてこそ、柳田國男の図に当たったと言うべきと私は思う。私の「大和本草卷之八 草之四 海藻(ナノリソ/ホタハラ)(ホンダワラ)」の本文及び私の注も参照されたい。

「鑄物師(いもじ)が一種の巫覡(ふげき)なりし事」鋳物師は錬金的に「火」を自在に操り、「火」は「日」に通じ、彼らは古代より祭祀に用いたと考えられる銅鐸や鏡などの神具、仏教伝来以降も梵鐘などの仏具の製造に直接に関わっていたから、この謂いはすこぶる腑に落ちる。

「姬蹈鞴(ひめたゝら)」媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)のことであろう。「日本書紀」に登場する女神(人物)で、初代天皇神武天皇の初代皇后で、「古事記」の「比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)に相当する。ウィキの「ヒメタタライスズヒメ」によれば、『伝承ごとに細部の差異はあるものの、母親はヤマト地方の有力者の娘で、父親は神であったと描かれている。神武天皇に嫁いて皇后となり』、第二『代天皇の綏靖』((すいぜん)『天皇』(実在性は乏しい)『を産んだとされている』。名の由来は諸説あるが、その一つに、『名に含まれる「タタラ」は製鉄との繋がりを示唆するという解釈があり、神武天皇がヒメタタライスズヒメを嫁としたことは、政権が当時の重要技術である製鉄技術を押さえたことの象徴であるとする説がある』とし、『「イスズ(五十鈴)」は鈴を意味し、たくさんの鈴で手足を飾っているものを指すという説』の他に、『金属加工との関連を示唆するものとみるむきもある』。『小路田泰直(奈良女子大学)によれば、タタラはたたら炉のことであり、「ホト」』(彼女の当初の名は「富登多多良伊須須岐比売(ほとたたらいすすきひめ/ほとたたらいすすぎひめ)」である)『は陰部を指すとともに火床のことでもある』、『すなわち、神武天皇がヒメタタライスズヒメ(=ヒメタタライスケヨリヒメ=ホトタタライススキヒメ)を妻に迎えたというのは、王家が製鉄産業を牛耳ったことを示すものと解釈される』。『吉野裕(日本文学協会)は、「ホトタタライスケヨリヒメ」という名は溶鉱の神・溶鉱炉に仕える巫女を指すとしている』。但し、『本居宣長をはじめとする近世の国学者らは、ヒメタタライスズヒメ(ヒメタタライスケヨリヒメ)の「タタラ」をふいごの意味とは解釈しなかった』。『彼らの考えによれば、「タタラ」という語は鍛冶師が使う俗語であり、高貴な皇妃の名に用いるような語としてふさわしくないものとして製鉄との結びつきを退けられるという』。『「タタラ」は「立つ」の派生形とみて、「(陰部に矢を当てられ驚いて)立ち上がった」や「(陰部に)矢を立てられた」の意とする解釈もある』とある。

個人ブログ「UFOアガルタのシャンバラ」の「沖縄の精神科の病院にはときどき神がかかった女性も診療にくる」に、蛭川立著「彼岸の時間 “意識”の人類学」(二〇〇二年春秋社刊)からの引用として、『沖縄の精神科の病院には、ときどき、神がかかった女性も診療にくる。そういうときには、この病院ではカルテに「カミダーリ」(巫病』(ふびょう:呪術者(シャーマン)が真にシャーマンになる過程(成巫過程)に於いて罹患する心身の異常状態を指す語)『)と書いて、近隣のユタを紹介したりもしていた。「ソゾ(』統合失調症『)には薬が効くけど、ターリ(巫病)には効かないからね、薬を出してもおさまらないさ」と、ドクターは語っていた』。『人がユタになるとき、沖縄ではだいたいある決まったコースをたどる。まず、「タカウマリ(高生まれ)」という先天的な資質(運命?)があると考えられている。そして、大人になってから「カミダーリ(神垂れ?神祟り?)」とか、「カミブリ(神触れ)」という、心身の異常を経験する。これはだいたい』二十歳から四十『歳ぐらいの女性に起こることが多い。病気や家庭の不和など、不幸な出来事がきっかけになる場合が多いが、特別なきっかけがなく』、『突然』、『起こることもある』。それは『医者に行っても治らない。自分でも意味が分からない場合は、ベテランのユタのところに相談に行く、先輩ユタは、お告げの主が誰なのか、何代前の祖先なのか、どういう神様なのかをみきわめ、それを拝むように指令する。守護霊的存在を特定してそれを拝むようになると』、『カミダーリはおさまり、かわりに必要に応じて先祖や神のメッセージを受け取ったり』、『病気を治したりすることができるようになる。こうしてユタが再生産される。はじめは日本人は戸惑うらしいのだが、必要なことは神の声が聞こえてきて助けてくれるというものらしい』。『カミダーリの症状は、妄想型の』『統合失調症』『の幻覚、妄想状態と似ているが、個々の点をみると』、『違っているところも多い。カミダーリは圧倒的に女性に多いし、同じ幻覚でも』統合失調症『では幻聴が多いが、カミダーリでは幻視が多い』。『アメリカでは近年、こうした巫病状態を霊的危機と呼んで、いわゆる精神病とは区別しようという考えも出てきている』とあった。

「楠家(くすのきけ)の兄弟は、湊川の最後に際して何と宣言したりしか」楠木正成(永仁二(一二九四)年?~延元元/建武三(一三三六)年五月二十五日)と弟の正季(?~兄に同じ)の兄弟。「太平記」巻第十六の「正成兄弟討死の事」のシークエンスを言っている。所謂、後世、「七生報国の誓い」と言われるようになるそれである。以下に引く(底本は新潮日本古典集成を参考に恣意的に漢字を正字化して示した)。

   *

正成、座上に居つつ、舍弟の正季に向かって、

「そもそも最期の一念に依つて、善惡の生を引くといへり。九界(くかい)[やぶちゃん注:仏教で言う如来の世界を除いた「迷い」の世界を指す。]の間(あひだ)に何が御邊の願ひなる。」

と問ひければ、正季、

「からから。」

と打ち笑うて、

「七生(しちしやう)まで、ただ同じ人間に生まれて、朝敵を滅ぼさばやとこそ存じ候へ。」

と申しければ、正成、よに嬉しげなる気色にて、

「罪業深き惡念なれども、われもかやうに思ふなり。いざ、さらば、同じく生(しやう)を替へて、此の本懷を達せん。」

と契つて、兄弟ともに差し違へて、同じ枕に臥しにけり。

   *

「障礙神(しやうげしん)」呉音で読んだ(「ちくま文庫」版もそれ)。漢音なら、「しやうがいしん」である。謂わば、対極の二面性を持った荒神(こうじん)で、心を籠めて祀れば、その「義俠心」からそれを成就せんとする一方、少しでも不敬を働いたり、ないがしろにすることがあれば、逆に大きな障害(=障碍=障礙)を齎して、命さえ危うくなるタイプの古典的な荒ぶる神のことである。柳田國男は「眞言の佛法」と言っているが、代表的なそれは、天台宗の摩多羅神(またらじん:摩怛利神(またりしん))である。

「境堺(きやうかい)」特定の場所。後に出る建物の「門」や城壁とか、「川の堤」や橋である。道祖神や「塞の神」との属性との強い親和性が認められる。

『「人柱(ひとばしら)」の話』私の南方熊楠「人柱の話」(上)・(下)」(平凡社版全集未収録作品)を是非お薦めする。そこにもリンクさせてあるが、私の古いブログ記事「明治6年横浜弁天橋の人柱」も、知らない人は慄然とするであろう

「妖婆の輩(やから)の祕密に屬せし物を指したる幼兒の指」この日本語自体がよく判らないが、これは西洋の魔女の秘法か何かのように思われる。処刑された罪人の手を切り取ってミイラにしたものは西洋の黒魔術では、強盗がそれを持って家に侵入すれば、家人には盗人の姿が全く見えなくなるというのを読んだ記憶があるからである。

「食物を見詰むる所を打ち斫(き)りたる餓ゑたる犬・猫の頸」蠱毒(こどく:古代中国に於いて用いられた動物を用いた呪術)の一つとして、よく知られたものである。本邦でも昔から知られていた。ウィキの「犬神」にも出る。『犬神の憑依現象は、平安時代にはすでにその呪術に対する禁止令が発行された蠱術』(蠱毒の異名)『が民間に流布したものと考えられ、飢餓状態の犬の首を打ちおとし、さらにそれを辻道に埋め、人々が頭上を往来することで怨念の増した霊を呪物として使う方法が知られる』。『また、犬を頭部のみを出して生き埋めにし、または支柱につなぎ、その前に食物を見せて置き、餓死しようとするときにその頸を切ると、頭部は飛んで食物に食いつ』くが、『これを焼いて』、『骨とし、器に入れて祀る。すると』、『永久にその人に憑き、願望を成就させる。獰猛な数匹の犬を戦い合わせ、勝ち残った』一『匹に魚を与え、その犬の頭を切り落とし、残った魚を食べるという方法もある』。『大分県速見郡山香町(現・杵築市)では、実際に巫女がこのようにして犬の首を切り、腐った首に群がった蛆を乾燥させ、これを犬神と称して売ったという霊感商法まがいの事例があり、しかもこれをありがたがって買う者もいたという』とある。

「天滿大自在天神」没後の菅原道真を神格化した呼称。ウィキの「天満大自在天神」が異様に詳しい。

「新田義興」彼の以下の話は既出既注。]

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