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2019/06/01

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(27) 「神々降臨ノ跡」(3)

 

《原文》

 諏訪白山熊野八幡等ノ神々ハ、假ニ最初ヨリ此國ノ神ニテオハセリトスルモ、或ハ都ニ上リ或ハ邊土ニ勸請セラレタマヒ、移動ノ特ニ烈シカリシ神々ナリ。【繪馬】併シナガラ神馬ノ入用ノ必ズシモ此旅行ノ爲ニ非ザリシコトハ、昔ヨリ如何ナル社ニモ神馬ヲ進獻シ、後世ニ及ビテハ其代リトシテ繪馬ヲ奉納セシ一事ヲ見ルモ明白ナリ〔夏山雜談一〕。【道祖神】道祖神(サヘノカミ)ノ要害ヲ占據シ往來ノ人ト鬼トニ對シテ無形ノ關ヲ守ルノ職ヲ以テスルモ、猶板ニ描キタル繪馬ヲ大切ノ物ニシタマヒシコトハ、古キ民話ニモ見エタリ〔今昔物語十三等〕。又所謂國津神ノ部類ニ屬シタマヒ、終始一定ノ土地トノ緣故アル神々ニモ、尙且ツ馬蹄石ノ傳說ハアルナリ。【鹽塚】例ヘバ阿蘇ノ宮地町ノ鹽塚ト云フ處ニハ、田ノ畔ニ馬蹄石アリテ之ヲ阿蘇大明神ノ神馬ノ跡ト傳ヘ〔肥後國志〕、阿波美馬郡端山(ハヾヤマ)村大字西端山ノ馬ケ岡ニハ、龍馬石ト馬蹄石トノ二箇アリテ、之ヲ天日鷲命ノ遺址ト稱シ〔燈下錄〕、出雲八束郡加賀村ノ海ニ臨メル巖窟ノ口ニハ、石上ニ馬ノ足跡ト馬槽(ウマフネ)ノ跡トアリテ、【龍神】之ヲ出雲大神ガ龍神ニ乘リタマヒシ處ト傳ヘタリ〔出雲國懷橘談〕。茲ニ出雲大神ト謂フハ即チ古風土記ノ佐太大神、後ニ窟戶大神ト申上ゲシ神ナランガ、龍神ニ乘ルトアリテ馬ノ足跡ノ殘レルハ注意スべキ事實ナリ。東國ニテハ上野榛名ノ山中ニ馬蹄石アリテ榛名大明神ノ神馬ニ屬スト云ヘリ〔上野國誌〕。此神ハ又徒(カチ)ニテモ往來シタマヘリト見エテ、社ノ寶物ノ中ニ神跡石ト云フ石アリ。【御崎神】陸前本吉郡唐桑村大字唐桑ノ濱ニ在ル馬蹄石ハ、此村ノ御崎神ノ留メ置キタマフ所ナリ。遠州御前崎ノ駒形大明神ト同ジク海難救護ノ神ニシテ、船方等海上風波ノ中ニ於テ祈請スルトキハ、往々ニシテ白馬背上ノ御姿ヲ仰ギ見ルコトヲ得タリキト云フ〔奧羽觀迹聞老志〕。陸奧十和田湖邊ノ路傍ノ石ニモ馬蹄ノ跡アルモノアリ。羽後八郞湖ノ神ナル八郞主ノ乘馬ノ跡ナリト傳フ〔三千里〕。此神ハホボ人天ノ境界ニ立ツ者ニシテ、或ハ自分ノ後ニ言ハントスル御靈ノ階級ニ屬シ、【荒人神】近世ニ所謂荒人神ノ一種ナランカトモ思ハルヽ由アルナリ。

 

《訓読》

 諏訪・白山・熊野・八幡(はちまん)等の神々は、假に最初より此の國の神にておはせりとするも、或いは都に上り、或いは邊土に勸請(かんじやう)せられたまひ、移動の特に烈しかりし神々なり。【繪馬】併しながら、神馬の入用の、必ずしも、此の旅行の爲めに非ざりしことは、昔より如何なる社にも神馬を進獻し、後世に及びては、其の代りとして、繪馬を奉納せし一事(いちじ)を見るも明白なり〔「夏山雜談」一〕。【道祖神(さへのかみ)】道祖神(さへのかみ)の、要害を占據(せんきよ)し、往來の人と鬼とに對して、無形の關(せき)を守るの職を以つてするも、猶ほ、板に描きたる繪馬を大切の物にしたまひしことは、古き民話にも見えたり〔「今昔物語」十三等〕。又、所謂、國津神の部類に屬したまひ、終始、一定の土地との緣故ある神々にも、尙ほ且つ、馬蹄石の傳說は、あるなり。【鹽塚】例へば、阿蘇の宮地町の鹽塚(しほづか)と云ふ處には、田の畔(あぜ)に馬蹄石ありて、之れを「阿蘇大明神の神馬の跡」と傳へ〔「肥後國志」〕、阿波美馬(みま)郡端山村(はゞやまそん)大字西端山の馬ケ岡には、龍馬石と馬蹄石との、二箇ありて、之れを「天日鷲命(あめのひわしのみこと)の遺址(いし)」と稱し〔「燈下錄」〕、出雲八束(やつか)郡加賀(かか)村の海に臨める巖窟の口(くち)には、石上に馬の足跡と馬槽(うまふね)の跡とありて、【龍神】之れを「出雲大神(いづもおほかみ)が龍神に乘りたまひし處」と傳へたり〔「出雲國懷橘談(いづもくわいきつだん)」〕。茲(ここ)に出雲大神と謂ふは、即ち、「古風土記」の佐太大神(さだおほかみ)、後に窟戶大神(いはとおほかみ)と申し上げし神ならんが、龍神に乘る、とありて、馬の足跡の殘れるは、注意すべき事實なり。東國にては、上野(かうづけ)榛名(はるな)の山中に馬蹄石ありて「榛名大明神の神馬に屬す」と云へり〔「上野國誌」〕。此の神は又、徒(かち)にても往來したまへりと見えて、社の寶物の中に「神跡石」と云ふ石あり。【御崎神(おさきがみ)】陸前本吉郡唐桑村大字唐桑の濱に在る馬蹄石は、此の村の御崎神の留め置きたまふ所なり。遠州御前崎の駒形大明神と同じく、海難救護の神にして、船方(ふなかた)等(ら)、海上、風波の中に於いて、祈請(きしゃう)するときは、往々にして、白馬背上の御姿を仰ぎ見ることを得たりき、と云ふ〔「奧羽觀迹聞老志」〕。陸奧十和田湖邊の路傍の石にも馬蹄の跡あるもの、あり。「羽後八郞湖の神なる八郞主の乘馬の跡なり」と傳ふ〔「三千里」〕。此の神は、ほぼ人天(じんてん)の境界に立つ者にして、或いは、自分の後に言はんとする御靈(ごりやう)の階級に屬し、【荒人神(あらひとがみ)】近世に所謂、「荒人神」の一種ならんか、とも思はるゝ由(よし)あるなり。

[やぶちゃん注:「占據(せんきよ)」特定の場所を占有して他人を寄せつけないこと。

「無形の關(せき)を守る」目に見えない関所、所謂、結界を作ることを言っている。

『「今昔物語」十三』これは「今昔物語集」巻第十三の「天王寺僧道公誦法花救道祖語第三十四」(天王寺(てんわうじ)の僧道公(だうこう)、法花(ほふくゑ)を誦(じゆ)して道祖を救ふ語(こと)第三十四」)を指す(但し、これは先行する種本があり、「大日本國法華經驗記」(略した「法華驗記(ほつけげんき)」の通称の方が知られる。序文によれば、長久年間(一〇四〇年~一〇四四年)に首楞厳院(しゅりょうごんいん:比叡山の横川中堂)の鎮源が書いたもの)の「下」の「第百廿八」の「紀伊國美奈倍郡道祖神」(紀伊國美奈倍(みなべ)の郡(こほり)の道祖神(さへのかみ)」がそれである)。「今昔物語集」は白河法皇や鳥羽法皇による院政期(前者ならば嘉保三(一〇九六)年以降、後者ならば久寿二(一一五五)年以降となる)に成立したものと推定されている。以下に小学館「日本古典文学全集」第二十一巻を参考にしつつ、漢字を恣意的に正字化し、読み易さを第一に読みの一部を送り仮名に出して示した。

   *

 今は昔、天王寺に住む僧、有りけり。名をば、道公と云ふ。年來(としごろ)、「法花經」を讀誦して、佛道を修行す。常に熊野に詣でて、安居(あんご)[やぶちゃん注:夏安居(げあんご)。元はインドの僧伽(そうが:僧集団)に於いて、天候の悪い雨季の間、行脚托鉢をやめて阿蘭若(あらんにゃ:寺院)の中で座禅修学するのを「安居」又は「雨安居(うあんご)」「夏安居(げあんご)」と言った。これは仏教が伝播した国々に於いても雨季の有無にかかわらず、夏の暑い時機に同名で以って行われ、多くは陰暦四月十五日から七月十五日までの九十日を当た。]を勤む。

 而るに、熊野より出でて本(もと)の寺に返る間、紀伊の國の美奈部郡[やぶちゃん注:ママ。「法華驗記」の本文の『美奈倍鄕(みなべのさと)』や標題表記を以って郡名に誤ったもの。「和名類聚鈔」に『紀伊國日高郡南部鄕』とするから、現在の和歌山県日高郡みなべ町(ちょう)である。ここ(グーグル・マップ・データ)。]の海邊を行く程に、日、暮れぬ。

 然(しか)れば、其の所に、大きなる樹の本(もと)に宿りぬ。

 夜半許りの程に、馬(むま)に乘れる人、二、三十騎許り、來たりて、此の樹の邊(ほとり)に有り。

『何(いか)なる人ならむ。』

と思ふ程に、一(ひとり)の人の云はく、

「樹(うゑき)の本(もと)の翁(おきな)は候(さむら)ふか。」

と。

 此の樹(うゑき)の本(もと)[やぶちゃん注:木の下。根本附近。]に、答へて云はく、

「翁、候ふ。」

と。

 道公、此れを聞きて、驚き怪(あやし)むで、

『此の樹(うゑき)の本には人の有りけるか。』

と思ふに、亦、馬に乘れる人の云はく、

「速かに罷り出でて、御共(おほむとも)に候へ。」

と。

 亦、樹の本に云はく、

「今夜(こよひ)は參るべからず。其の故は、駒(におひむま)の足、折れ損じて、乘るに能はざれば、明日(あす)、駒の足を䟽(つくろ)ひ[やぶちゃん注:治して。]、亦[やぶちゃん注:或いは。]、他の馬をまれ[やぶちゃん注:他の馬にもせよ。別の馬でも。]、求めて參るべきなり。年(とし)罷(まか)り老いて、行步(ぎやうぶ)に叶(かな)はず。」

と。

 馬に乘れる人々、此れを聞きて、皆、打ち過ぬ、と聞く。

 夜、暛(あ)けぬれば、道公、此の事を極めて怪しび恐れて、樹の本を廻(めぐ)り見るに、惣(すべ)て、人、無し。

 只、道祖(さへ)の神の形を造りたる、有り。其の形、舊(ふる)く朽ちて、多くの年を經たりと見ゆ。男(をとこ)の形のみ有りて、女の形は無し[やぶちゃん注:豊饒の信仰対象でもある道祖神は、多くが双体で、人型の男女、或いは、より直接的に男根と女陰を象ることが多い。ここはその後者が欠損してなかったのであろう。]。

 前に、板に書きたる繪馬、有り。足の所、破れたり。

 道公、此れを見て、

『夜(よ)るは、此の道祖の云ひけるなりけり。』[やぶちゃん注:「昨夜は、さても、この道祖神が言葉を発したのであったのだったなぁ。」。]

と思ふに、彌(いよい)よ奇異に思ひて、其の繪馬の足の所の破れたるを、糸を以つて綴りて、本(もと)のごとく、置きつ。

 道公、

『此の事を、今夜(こよひ)、吉(よ)く見む。』

と思ひて、其の日、留まりて、尙ほ、樹(うゑき)の本に有り。

 夜半許りに、夜前(やぜん)のごとく、多くの馬(むま)に乘れる人、來りぬ。

 道祖(さへのかみ)、亦、馬に乘りて出でて、共に行きぬ。

 曉に成る程に、道祖、返り來たりぬと聞く程に[やぶちゃん注:帰ってきた気配がしたと思うと。]、年老たる翁、來たれり。誰人(たれひと)と知らず、道公に向ひて、拜して云はく、

「聖人(しやうにん)の昨日(きのふ)、駒(にほひむま)の足を療治し給へるに依りて、翁、此の公事(くじ)を勤めつ。此の恩、報じ難し。我れは、此れ、此の樹(うゑき)の下(もと)の道祖(さへのかみ)、此れ、なり。此の多くの馬(むま)に乘れる人は、行疫神(えやみのかみ)に在(まし)ます。國の内を廻(めぐ)る時に、必ず、翁を以つて前使(ぜんし)とす。若(も)し、其れに共奉(ぐぶ)せねば、笞(しもと)を以つて打ち、言(こと)を以つて罵る。此の苦しび、實(まこと)に堪へ難し。然(さ)れば、今、此の下劣の神形(しんぎやう)を棄てて[やぶちゃん注:この自己卑下によって、やはり直接的なファルスの造形であったことが判る。]、速かに、上品(じやうぼむ)の功德(くどく)の身(み)[やぶちゃん注:ここでは狭義の往生三段階の最上のそれを指すのではなく、単に、極楽往生出来る功徳を積んだに相応しい姿の意。]を得むと思ふ。其れ、聖人(しやうにん)の御力(おほむちから)に依るべし。」

と。

 道公、答へて云はく、

「宣(のたま)ふ所、妙なりと云へども、此れ、我が力に、及ばず。」

と。

 道祖、亦、云はく、

「聖人(しやうにん)、此の樹(うゑき)の下(もと)に、今(いま)三日、留まりて、『法花經(ほふくゑきやう)』を誦(じゆ)し給はむを聞かば、我れ、法花(ほふくゑ)の力(ちから)に依りて、忽ちに苦しびの身を棄てて、樂しびの所に生れむ。」

と云ひて、搔き消つ樣(やう)に失せぬ。

 道公、道祖の言に隨ひて、三日三夜(みつかみよ)、其の所に居りて、心を至して、「法花經」を誦す。

 第四日(だいしにち)に至りて、前(さき)の翁(おき)な、來たれり。道公を禮して云はく、

「我れ、聖人の慈悲に依りて、今、既に此の身を棄てて、貴(たふと)き身を得むとす。所謂(いはゆ)る補陀落山に生(むま)れて、觀音の眷屬と成りて、菩薩の位に昇らむ。此れ、偏へに『法花』を聞き奉つる故なり。聖人、若し、其の虛實(こじち)[やぶちゃん注:真偽。]を知らむと思ひ給はば、草木(さうもく)の枝を以つて、小き柴の船を造りて、我が木像を乘せて、海の上に浮べて、其の作法を見給ふべし[やぶちゃん注:その小舟がどうなるかを御覧ぜられたい。]。」

と云ひて、搔き消つ樣に失せぬ。

 其の後(の)ち、道公、道祖(さへのかみ)の言(こと)に隨ひて、忽ちに柴の船を造りて、此の道祖神の像を乘せて、海邊に行きて、此れを海の上に放ち浮かぶ。

 其の時に、風、立たず、波、動かずして、柴の船、南を指して、走り去りぬ。

 道公、此れを見て、柴船の見えず成るまで、泣々(なくな)く禮拜して返りぬ。

 亦、其の鄕(さと)に年老たる人、有り。

 其の人の夢に、此の樹(うゑき)の下(もと)の道祖(さへのかみ)、菩薩の形と成りて、光を放ちて、照らし耀(かかや)きて、音樂(おむがく)を發(おこ)して、南を指して、遙かに飛び昇りぬ、と見けり。

 道公、此の事を深く信じて、本寺に返りて、彌(いよい)よ「法花經」を誦する事、愚かならず。

 道公が語るを聞きて、人、貴(たふと)びけり、となむ、語り傳へたるとや。

   *

最後の「亦、其の鄕(さと)に年老たる人、有り」から「南を指して、遙かに飛び昇りぬ、と見けり」までは、筆者が駄目押しで読者に真実性を付与するために挿入した話で、道公がそれを聞いて、「此の事を深く信じ」たのではない。道公は翁の言った極楽往生を柴船の仕儀から確信したのであって、そんな夢は関係がない。私はこの取って附けた夢の駄目押しは全く以って不要と存ずる。

「阿蘇の宮地町の鹽塚(しほづか)」現在の熊本県阿蘇市一の宮町(まち)宮地はここ(グーグル・マップ・データ)。北部中央にかの阿蘇神社が鎮座する。サイト「NAVITIME」によって宮地地区内のここに「塩塚」という地名が現存することは判った(熊本県立阿蘇中央高等学校阿蘇清峰校舎の南方直近)。但し、ネットのフレーズ検索で「石」を加えて見たが、全くヒットしないので、ここに「馬蹄石」があるかどうか、それが「阿蘇大明神の神馬の跡」と今に伝承されているかどうかは、甚だ危い感じがした。グーグル・マップ・データの航空写真で見ると、南半分は宅地化されている。北半分は雑木林及び畑地と見えるから、もしかすると、この部分に何かが残っている可能性はあるかとも思ったが、「塚」が気になるので調べたところ、やはりそうだ! ここは柳田國男の嫌いな古墳だったのだ! しかし、勇んでサイト「阿蘇ペディア」で調べたところが、「塩塚古墳」のページに『阿蘇市一の宮町塩塚の水田にあった古墳』(太字下線やぶちゃん)であったが、昭和五五(一九八〇)年に消滅したとあった。『直後に現地と出土品について調査され、馬具(轡(くつわ)』一『組、雲珠(うず)』一、『杏葉(ぎょうよう)』一)、『鉄矛』一、『鉄鏃』十四『本以上、玉類(管玉』四、『勾玉』一、『水晶球』一『)須恵器などが出土し』たとあり、『墳形は、直径』二十五メートル『の円墳で、主体部は扁平な安山岩の割石で作られた横穴式石室であったと推定されて』おり、『築造年代は』五『世紀後半から』六『世紀前半、中通古墳群の最南に位置してい』たとある(リンク先は「阿蘇ペディア」のそれ)。もう、間違いない! この古墳こそ「阿蘇大明神の神馬の跡」とされる「馬蹄石」があった「塚」なのだ! この出土品の頭に出るのは、馬具である「轡(くつわ)」の他、やはり馬具の「雲珠(うず)」(本邦で上古時代の飾り馬、平安時代以後の唐鞍 (からくら) の尻繋 (しりがい) の辻金具(革紐が交差する部分につける金具)で、上古時代のものには玉 () 形あるいは鈴形など金銅製のもののほか、鉄地金銅張りのものもある。名称は「うず高い金物」の意味でつけられた)や「杏葉(ぎょうきょう)」(唐鞍の面繋(おもがい)・胸繋(むながい)・尻繋に附ける金属製又は革製の装飾で、名称は形が杏(あんず)の葉に似ていることに由来する)だからだ!

「阿波美馬(みま)郡端山(はゞやま)村大字西端山の馬ケ岡」徳島県美馬郡の旧端山村(はばやまそん)。現在の美馬郡つるぎ町貞光の南で、この辺り。「馬ケ岡」や「龍馬石」「馬蹄石」で検索するうち、個人ブログ「awa-otoko’s blog」の「吉良の御所 天日鷲命御馬を逗めさせ給ふ御古跡なり」によって、つるぎ町貞光吉良にある忌部神社(御所神社)にある(あった)ことが判明した。リンク先には冒頭に以下の引用がある(出典明記なし)。――『美馬郡西端山に吉良の御所と云ふ所あり、上世に天日鷲命御馬を逗めさせ給ふ御古跡なりと云伝ふ、此の所に鈴生の梅(子重紅也)実なしの藤あり、馬が岡とて大なる龍馬石馬蹄石あり、又麻釜と云所二所あり、さて御魂所とて山上に二ヶ所一丈四方計の平石を敷て其のめぐりを大石を立連ねて囲みあり、又衣織の窟とて谷を隔て向かふなる厳牆の中ほどに広みたる窟あり、其の内にて忌部の神の織機を織らせ給ひしと云へり』。『因云、大古忌部御祭事に馬を美しう粧ひて奉りしゆへに美馬郡と名づけ呼ぶとぞ』――以下、『美馬郡貞光町西端山吉良の「御所神社」こと「忌部大神宮」です』。『現在の勢見山忌部神社の摂社となっております。御祭神は天日鷲命』とあるので、ここに間違いない。『当地に蟠踞した忌部氏の後裔氏族、三木(みつき)氏が奉斎したもので、同氏が式内名神大社の忌部神社を分祀したものではないかと考えられているそうです』。『昔は美馬郡の名の由来』地『であるとも書かれています』とある。』以下で『境内の石碑の文』が電子化されてある。――『天日鷲命は、穀、麻を植え、製麻、製織の諸事を創始され、特に天照大御神が天岩戸にお隠れになった時、白和幣(しらにぎて)を作り』、『神々と共に祈られ』、『天岩戸開きに大きな功績をあげられた』。『その子孫は忌部氏と称し、中臣氏と共に国家祭祀の礼典を司さどり、忌部氏は全国各地にあって、社会教化と神道の宣揚、文化の向上、産業の発展に貢献していったのである』。『阿波忌部氏は』、「古語拾遺」に『よると、神武天皇の代に天富命が、その子孫を率いて、阿波に下り』、『穀・麻の種を植え、此の郷土を開拓し』、『代々大嘗祭(天皇即位の大礼)に穀・麻を織った荒妙御衣(あらたえみそ)を貢上した』。『このように、天日鷲命を奉祭する忌部族即ち徳島県民の祖神を祭り、古来阿波の国の総鎮守の神社として、朝野の尊崇篤く、平安時代の延喜式内社には官幣大社に列せられ、名神祭の班幣に預る名神大社となり 、西国随一の格式の大社として四国一ノ宮と称せられた』。『また、忌部神社の法楽として、法福寺が建立され、大社の東西にも東福寺、西福寺が建てられた。そして、安和二(九六九)年には、摂社末社に十八坊を定め、後、寺の一字に福をつけて忌部別当一八坊とした』『円福寺、浄福寺、悠福寺、金福寺、惣福寺、神福寺、冥福寺、地福寺、善福 寺、安福寺、万福寺、福王寺、長福寺、福田寺、福満寺に法福寺、東福寺、西福寺である』。『当神社は、中世以降の兵火、あるいは弾圧による社領の没収、御供料の廃絶により』、『神社の呼称の改名することとなり、久しく社地の所在が不明となったため、社地の論争の原因となった』。『明治政府が発足し、祭政一致の制を復し』、『神社を国家の宗祀としたため、明治四(一八七一)年、忌部神社は国幣中社に列せられた。各地から社地の名のり出があり、明治七年十二月、麻植郡山崎村が社地とされたが、明治十四年一月には当美馬郡西端山村吉良の御所平が忌部神社の所在地と定められ 、祭典が行われた』。『しかし、論争が続くなか、明治十八年十一月名東郡富田浦町(現徳島市二軒屋町)に社地が変更され、吉良の旧跡は摂社として、そのまま保持すべしとされた』。『今度、徳島市へ遷宮百年を迎え、旧跡より東に、二〇〇メートルの現地に遷宮して、幣殿、拝殿を新築したものである』――とあるので、有意な位置移動ではないから、問題はない。問題なのは、ブログ主がここを訪れて写真を撮っておられるものの、「馬ケ岡」「龍馬石」「馬蹄石」と名指したものはない点である。但し、一番下から二枚目のそれはそれらしくは見えるものの、サイズが小さいため、確認不能である。現存するかしないか、それだけの情報でも結構であるので、どなたか、お教え願いたい。

「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」ウィキの「天日鷲命」によれば、「日本書紀」や「古語拾遺」に登場し、『阿波国を開拓し、穀麻を植えて紡績の業を創始した阿波(あわ)の忌部氏(いんべし)の祖神』とある。『麻植神(おえのかみ)、忌部神(いんべのかみ)とも』、『また』、『高魂命または神魂命の裔神の天日鷲翔矢命(あめのひわしかけるやのみこと)や天加奈止美命』(あめのかなとびのみこと)『とも』。『神話で知られているのは』、『天照大神が天岩戸に入られたとき、岩戸の前で神々の踊りが始まり、天日鷲神が弦楽器を奏でると、弦の先に鷲が止まった。多くの神々が、これは世の中を明るくする吉祥』『を表す鳥といって喜ばれ、この神の名として鷲の字を加えて、天日鷲命とされた。という内容である』。『後に平田篤胤は、神武天皇の戦の勝利に貢献した鳥と同一だと言及している』。「日本書紀」では、『天の岩戸の一書に「粟(あわ)の国の忌部の遠祖天日鷲命の作る木綿 (ゆう)を用い」とあり、「古語拾遺」によれば、『天日鷲神は太玉命』(ふとだまのみこと)『に従う四柱の神のうちの』一『柱である。やはり、天照大神が天岩戸に隠れた際に、穀(カジノキ:楮の一種)・木綿などを植えて白和幣(にきて)を作ったとされる。そのため、天日鷲神は「麻植(おえ)の神」とも呼ばれ、紡績業・製紙業の神となる。また、天富命』(命(あめのとみのみこと)『は天日鷲神の孫を率いて阿波の国へと行き、穀・麻を植えた』とあるという。『また』、『天日鷲神は一般にお酉様として知られ、豊漁、商工業繁栄、開運、開拓、殖産の守護神として信仰されている』。『忌部神社や鷲神社などに祀られている。忌部神社は天皇即位の大嘗祭に際して、阿波忌部の末裔とされる三木家が育てた麻を元に、麁服(あらたえ)』(阿波忌部直系氏人の御殿人(みあらかんど)が、天皇が即位後に初めて行う践祚大嘗祭の時にのみ調製して調進(供納)する大麻の織物のこと)『を調進する神社である』とある。

「出雲八束(やつか)郡加賀(かか)村の海に臨める巖窟」これは島根県松江市島根町加賀にある「加賀(かか)の潜戸(くけど)」である(「加賀」の清音は現在の行政上の地名でも同じ)。松江市北部の旧島根町に属した日本海に面する潜戸鼻(くけどのはな)の先端部にある。ここ(国土地理院図)。ウィキの「加賀の潜戸」によれば、『佐太大神(佐太神社の祭神)の出生地といわれる』とある。『潜戸とは洞窟のことであり、安山岩、凝灰岩の岩盤が地殻変動に伴って断層や亀裂を発生させ、その割れ目に沿って日本海の荒波や強風が岩盤を長い歳月をかけて浸食していったことによって形成されたものである。海寄りの新潜戸と陸寄りの旧潜戸があり、自然的な特徴だけでなく、文化的価値観も全く異なるのが特徴である』とし、新潜戸(しんくけど)は三つの入り口があり、『中がトンネルのように連結された』全長二百メートルにも及ぶ『海中洞窟となっている。洞内は広』い。この新潜戸は「出雲国風土記」によれば、『佐太大神の生誕地と記されている。そのため、古くは加賀神社が鎮座し、神域となっていた。現在でもこの洞窟の中に旧社地を示す祠が設けられている。洞門は大神誕生の際、母神が金の矢を射通して作ったと語り継がれている』。一方、旧潜戸(きゅうくけど)の方は幅五・五メートルというかなり狭い入口の洞穴であるものの、『内部が広大なのが特徴で』、ハーンが述べる如く、『中には仏になった子供らが親を慕い小石を積み上げたと伝えられる賽の河原があり、独特の無常観を呈する。堤防から内部へ潜入するための遊歩道、トンネルが設けられている』とある。島根半島四十二浦巡り再発見研究会公式サイト「島根半島四十二浦巡り」内の「加賀浦」も詳しく必見である。ここの地図を見て頂ければ、陸路での訪問が極めて困難であることが判る。現在でも潜戸観光遊覧船による訪問が唯一の手段であるらしい。私が何時か行って見たい場所である。それは小泉八雲が訪れた場所であるからである。私の電子化注『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第九章 子供の精靈の――潜戸』(一)(二)(三)(四)(五)(六)(七)(八)をどうぞ! 「知られぬ日本の面影」(Glimpses of Unfamiliar Japan)は小泉八雲(一八五〇年六月二十七日~明治三七(一九〇四)年九月二十六日:ギリシャ生まれ)が、まだパトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)であった時、そして来日(明治二三(一八九〇)年)して初めて著した作品集で、明治二七(一八九四)年の出版である。

「馬槽(うまふね)」飼い葉桶。但し、私は「加賀の潜戸」について、「馬の足跡」「馬槽」「佐太大神(さだおほかみ)」「窟戶大神(いはとおほかみ)」島根県松江市鹿島町佐陀宮内の佐太神社の主祭神。所謂、猿田彦命(さるたひこのみこと)の異名とする。同神社では「佐太御子大神(さだみこのおおかみ)」とし、母は神魂命(かみむすびのみこと)の子である枳佐加比売命(きさかひ(い)ひめのみこと)であり、加賀の潜戸で生まれた、と「出雲国風土記」(本「古風土記」はそれを指す)に載る。

「龍神に乘る、とありて、馬の足跡の殘れるは、注意すべき事實なり」というより、私は馬の足跡が後付けされただけのことだと思うのだが?

『榛名(はるな)の山中に馬蹄石ありて「榛名大明神の神馬に屬す」』と云へり〔「上野國誌」〕。此の神は又、徒(かち)にても往來したまへりと見えて、社の寶物の中に「神跡石」と云ふ石あり』。国立国会図書館デジタルコレクションの「上野国」の榛名神社の記載のここに、『寶物 神跡石【太神の足痕ある石なり】』とある。前の「馬蹄石」はその前だが、ただ「境地」のところに「馬蹄石」と出るだけである(境地は榛名山の結界地の意か)。現在も宝物としてあるのかないのかは判らぬ。まあ、あるんだろう。

「御崎神(おさきがみ)」当初は「ちくま文庫」版全集のルビを採って「みさきがみ」とやった。それは「おさきがみ」と読むと、それこそ後で柳田國男が言っている通り、「御靈(ごりやう)」に属するかなりヤバい神を限定する場合が多いので、ここでは明らかに岬の尖端に宿る海から来た神霊で「海難救護の神」であるから、避けたいと思ったからでもある。しかし、次注の通り、これはやはり「おさきがみ」と読まないと、後の地名と齟齬することが判明したので、それに従った。

「陸前本吉郡唐桑村大字唐桑の濱に在る馬蹄石」宮城県気仙沼市のこの半島全体が唐桑地区であるが、「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」の「御崎明神」に、『御崎は唐桑半島の突端で、御崎明神が、白鯨を神使として白馬に乗って海上から下った場所。影向石と馬蹄石がある。明神はワラビをヨリシロとし、菅の莚に坐したので、村ではこの二つが禁忌である』とあり、半島の尖端部を「御崎(おさき)岬」と呼び、そこに御崎(おさき)神社もあった。現在の住所は宮城県気仙沼市唐桑町(ちょう)崎浜である。

「遠州御前崎の駒形大明神」既出既注

「陸奧十和田湖邊の路傍の石にも馬蹄の跡あるもの、あり」十和田は実際に馬の産地でもあった。

「羽後八郞湖」八郎潟のこと。

「八郞主」ウィキの「八郎潟」によれば、『八郎潟の名称の由来としては、人から龍へと姿を変えられた八郎太郎という名の龍が、放浪の末に棲家として選んだという伝説が語り伝えられている。ただし伝説においても、八郎太郎は後に田沢湖へ移り住み、今や八郎潟には滅多に戻らないとされている』とある。詳しい解説はウィキの「三湖伝説」を見られたいが、そこには馬は出てこないが、因みに、検索を掛けているうちに、まさに「瓢簞から駒」で、文化庁の「氣比神社の絵馬市の習俗」という驚くべき膨大な資料(PDFで百七十ページ! カラー画像も豊富で「蒼前神信仰の詳述部もある!)を発見! 必ダウンロード!!!

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