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2019/06/08

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(32) 「龍馬去來」(1)

 

《原文》

龍馬去來   馬蹄石ノ傳說ニハ更ニ今一ツノ根原アリ。カノ藤原廣嗣ガ愛馬ノ如キハ、單ニ乘手ガ一代ノ英傑ナリシノミニ非ズ、自分モ亦五百年ニ一タビ出現スル程ノ名馬ナリキ。天平十二年十月ノ頃ト買上ノ年月マデモ分明ナリ。【龍馬ノ嘶】廣嗣朝臣出デテ馬市ヲ見ルニ、墎(ウツロ)ノ中ニ在リテ一度ニ七聲ヅツ嘶ク馬アリ。高キ價ヲ拂ヒテ之ヲ買取リ飼育シテ見ルニ、紛レモ無キ龍ノ駒ナリキ。彼ハ此馬ニ乘リテ每日午後ヨリ一千五百里ノ路ヲ大和ニ往復シテ朝廷ノ公事ヲ勤メ、午前ハ太宰府ノ事務ヲ視タリト云フ〔古今著聞集二十〕。此話ハ惡クスルト彼ガ後任者大伴旅人ノ歌ニ

  龍(タツ)ノ馬モ今ハ得テシカ靑丹(アヲニ)ヨシ奈良ノ都ニ往キテ來ン爲

トアルヲ誤傳シタルモノナランモ〔萬葉集五〕、兎ニ角ニ九州ノ邊土ニハ斯ル神物ノ出デタリト云フ噂折々ハアリシナルべシ。即チ昔ノ人ノ英雄崇拜心ハ時トシテ馬ニモ及ビ、馬ノ中ニハ人間賢愚ノ差ヨリモ更ニ幾段カ烈シキ駿駑ノ相違アリト信ゼラレシナリ。【理想ノ名馬】平家琵琶流行ノ武家時代トナリテモ、此思想ハ常ニ存在シ、而シテ其名馬ノ名ハイツモ池月又ハ磨墨ニテアリキ。歷代ノ武士ガ名馬ニ憧憬セシ物語ハ無數ナリ。其極終ニハ怖ルべキ龍ノ駒ヲモ怖レザルニ至レリ。石州鹿足郡吉賀(ヨシガ[やぶちゃん注:ママ。])ノ谷ニハ古來馬ヲ產セズ、而モ一頭ノ駿馬相次ギテ此地ヨリ出デタリ。其二ツハ亦池月ト磨墨トニシテ次ニ徐ロニ之ヲ述べント欲ス。【名馬樋口】之ニ先ダチテ出デタルヲ樋口驪(ヒグチグロ)ト云フ。生レタル時長八寸ニ餘リ山野ヲ馳セ廻リテ口ヨリ常ニ火ヲ吐ケリ。困リテ火口トハ名ヅケシニテ、鹿足郡藏木村大字樋口ノ地名ハ寧ロ之ニ由ツテ起ルト云ヘリ。火口荒馬ナレバ人敢テ近ヅカズ。獨リ佐伯重行ナル者アリ、仙術ニヨリテ之ヲ御スルコトヲ得、之ニ乘リテ一日ニ石藝防ノ三州ヲ奔馳ス。朝廷聞シメシテ龍馬ノ獻上ヲ命ジタマヘドモ隨ハズ、一子小五郞ヲ人質トシテ終ニ之ヲ刑戮ス。重行遙カニ之ヲ察知シ、今ハ賴無シトテ此馬ニ乘リテ異國ニ立去ラントセシガ、馬鞭ノ影ニ驚キテ大字田野原河津ノ梅林ニ馳入リ、葛藟ニ蹶キテ倒レ死ス。【馬塚】今モ田ノ中ニ馬塚アリテ附近ニ龍馬ノ社ヲ祀ル。神體ハ馬ノ木像ナリ。此村永ク梅及ビ葛藟ヲ生ゼザルモ亦此因緣ノ爲ナリト云ヘリ〔吉賀記中〕。龍馬ヲ神ニ齋ヒシ近世ノ例ハ、阪本龍馬ノ鄕里ナル土佐ニモアリ。【池】又長岡郡十市村野村氏ノ系圖奧書ニ依レバ、同郡三里村大字池ノ百姓新兵衞、槇山生立ノ牝馬子ヲ孕ミタリシガ、腹ノ中ニテ既ニ嘶ク聲聞エタリ。永祿元年戊午ノ歲ノニ月初午ニ三足ノ駒生ル。【鬼鹿毛】鬼鹿毛ナルべシトノコトニテ豫テ打殺スべキ用意ヲシテアリシガ、生レ出ヅルヤ否ヤ馳セテ幸助ト云フ者ノ屋敷ニ飛ビ込ミタルヲ、大勢取卷キテ漸クノコトニテ之ヲ殺シ屍ヲ濱ニ棄ツ。【馬蘇生】然ルニ不思議ナル事ニハ此駒忽チ蘇生シテ厩ニ立返リ、平氣ニテ母馬ノ乳ヲ飮ミ、厩ヲ七遍廻リテ後終ニ南海ノ浪ニ走リ入リヌ。【祝神】野村氏ニテハ其龍馬ナルコトヲ知リテ家ノ祝神トシテ之ヲ祭リタリト云フ。近キ頃香美郡室丘ニアリタル龍馬ノ祠モ、多分ハ之ニ似タル異常ノ幼馬ナラント云フコトナリ〔土佐國群書類從九所錄龍馬祠記附錄〕。藤原廣嗣ノ愛馬ガ一度ニ七聲嘶キ、右ノ池村ノ龍馬ガ厩ヲ七度廻リタリト云フコトハ、偶合ニハ非ザルべシト思ハルヽ仔細アリ。前ニモ說キタル外南部ノ七鞍ノ怪馬ト同ジク、【妙見ト馬】北辰化生ノ古キ信仰ニ基クモノナルヤ略疑ナキナリ。美濃惠那山(エナサン)ノ頂上ニ馬ノ神アリ。九月九日ノ祭ニハ近鄕ヨリ多クノ凡馬ヲ牽キ登ル。社ハ池ノ側ニ七社列立ス。其池ノ岸ナル笹ノ葉ヲ取來リテ馬ニ飼ヘバ能ク病ヲ治スルコトヲ得ト信ゼラレタリ〔一宵話〕。此モ同ジ信仰ニ起因スルモノナルべシ。

 

《訓読》

龍馬(りゆうめ)去來   馬蹄石の傳說には、更に今一つの根原あり。かの藤原廣嗣が愛馬のごときは、單に乘手が一代の英傑なりしのみに非ず、自分も亦、五百年に一たび出現する程の名馬なりき。天平十二年[やぶちゃん注:七四〇年。]十月の頃と買ひ上げの年月までも分明なり。【龍馬の嘶(いななき)】廣嗣朝臣、出でて、馬市を見るに、墎(うつろ)の中に在りて、一度に七聲づつ嘶く馬あり。高き價を拂ひて、之れを買ひ取り、飼育して見るに、紛れも無き龍の駒なりき。彼は此の馬に乘りて、每日、午後より一千五百里の路を、大和に往復して朝廷の公事を勤め、午前は太宰府の事務を視たりと云ふ〔「古今著聞集」二十〕。此の話は、惡くすると、彼が後任者大伴旅人の歌に[やぶちゃん注:とんでもないひどい誤り。後注参照

  龍(たつ)の馬も

     今は得てしか

        靑丹(あをに)よし

      奈良の都に

       往きて來(こ)ん爲(ため)

とあるを誤傳したるものならんも〔「萬葉集」五〕、兎に角に、九州の邊土には斯かる神物の出でたりと云ふ噂、折り折りは、ありしなるべし。即ち、昔の人の英雄崇拜心は、時として、馬にも及び、馬の中には、人間賢愚の差よりも更に幾段か烈しき駿駑の相違あり、と信ぜられしなり。【理想の名馬】平家琵琶流行の武家時代となりても、此の思想は常に存在し、而して、其の名馬の名は、いつも「池月」又は「磨墨」にてありき。歷代の武士が名馬に憧憬せし物語は無數なり。其の極(きよく)、終(つひ)には怖るべき龍の駒をも怖れざるに至れり。石州鹿足(かのあし)郡吉賀(よしが)の谷には、古來、馬を產せず、而も、一頭の駿馬、相ひ次ぎて此の地より出でたり。其の二つは、亦、「池月」と「磨墨」とにして、次に徐(おもむ)ろに之れを述べんと欲す。【名馬樋口】之れに先だちて出でたるを、「樋口驪(ひぐちぐろ)」と云ふ。生まれたる時、長(たけ)八寸(やき)に餘り[やぶちゃん注:蹄底から前脚肩位置までが一メートル四十五センチメートル超え。新生馬でこれはあり得ない。]、山野を馳せ廻りて、口より常に火を吐けり。困りて「火口(ひぐち)」とは名づけしにて、鹿足郡藏木村大字樋口の地名は、寧ろ、之れに由つて起こると云へり。火口、荒馬なれば、人、敢へて近づかず。獨り、佐伯重行なる者あり、仙術によりて、之れを御(ぎよ)することを得、之れに乘りて、一日に石・藝・防[やぶちゃん注:石見・安芸・周防。]の三州を奔馳(ほんち)す。朝廷、聞しめして、龍馬の獻上を命じたまへども、隨はず、一子小五郞を人質として終に之れを刑戮(けいりく)[やぶちゃん注:死刑に処すること。]す。重行、遙かに之れを察知し、「今は賴み無し」とて、此の馬に乘りて異國に立ち去らんとせしが、馬、鞭の影に驚きて、大字田野原河津の梅林に馳せ入り、葛藟(かつるい)[やぶちゃん注:「葛」は「くず」、「藟」は「藤葛(ふじかずら)」の意で、蔓草の類の総称。]に蹶(つまづ)きて、倒れ、死す。【馬塚】今も田の中に馬塚ありて、附近に龍馬の社を祀る。神體は馬の木像なり。此の村、永く梅及び葛藟を生ぜざるも亦、此の因緣の爲めなりと云へり〔「吉賀記」中〕。龍馬を神に齋(いは)ひし近世の例は、阪本龍馬の鄕里なる土佐にもあり。【池】又、長岡郡十市村野村氏の系圖奧書に依れば、同郡三里村大字池の百姓新兵衞、槇山(まきやま)生立(おひたち)の牝馬、子を孕みたりしが、腹の中にて既に、嘶く聲、聞えたり。永祿元年戊午(つちのえうま)[やぶちゃん注:おかしい。元禄元年(一六八八年)は「戊辰(つちのえたつ)」である。干支を誤る資料は致命的に評価されない。「辰」で「龍」なんだから、わざわざ「午」にして墓穴を掘る必要なんかさらさらないのに「馬」鹿やなぁ。]の歲の二月初午に、三足(みつあし)の駒、生まる。【鬼鹿毛(おにかげ)】「『鬼鹿毛』なるべし」とのことにて、豫(かね)て打ち殺すべき用意をしてありしが、生れ出づるや否や、馳せて幸助と云ふ者の屋敷に飛び込みたるを、大勢、取り卷きて、漸くのことにて、之れを殺し、屍(しかばね)を濱に棄つ。【馬蘇生】然るに、不思議なる事には、此の駒、忽ち、蘇生して厩に立ち返り、平氣にて母馬の乳を飮み、厩を七遍廻りて後、終に南海の浪に走り入りぬ。【祝神】野村氏にては、其の龍馬なることを知りて、家の祝神(いはひがみ)として之れを祭りたりと云ふ。近き頃、香美郡室丘にありたる龍馬の祠も、多分は之れに似たる異常の幼馬ならんと云ふことなり〔「土佐國群書類從」九所錄「龍馬祠記」附錄〕。藤原廣嗣の愛馬が一度に七聲嘶き、右の池村の龍馬が厩を七度廻りたりと云ふことは、偶合には非ざるべしと思はるゝ仔細あり。前にも說きたる外南部(そとなんぶ)の七鞍の怪馬と同じく、【妙見と馬】北辰化生の古き信仰に基づくものなるや、略(ほぼ)疑ひなきなり。美濃惠那山(えなさん)の頂上に馬の神あり。九月九日の祭りには近鄕より多くの凡馬を牽き登る。社は池の側に七社、列立(れつりつ)す。其の池の岸なる笹の葉を取り來たりて馬に飼へば、能く病ひを治することを得と信ぜられたり〔「一宵話(ひとよばなし)」〕。此れも同じ信仰に起因するものなるべし。

[やぶちゃん注:「龍馬(りゆうめ)」この熟語は今まで本文に多数出現しているのであるが、初回は「駒ケ嶽」の最初で、その後、ここまでで十三回ほど出現している。今まで電子化しながら、私自身、『この読みはどうか?』と内心、ひどく気になっていたのだが、ここでそれに決着をつけることとした。根拠は小学館「日本国語大辞典」の「りゅうめ(龍馬)」の項で、「メ」は「馬」の呉音、「バ」は漢音、「マ」は慣用音とし、『きわめてすぐれた駿足の馬。たつのうま。りゅうば。りょうめ。りょうば』とする。無論、一貫して柳田國男はルビを振っていないから(「ちくま文庫」も全くルビなし)、柳田國男がこれを現代仮名遣で「りゅうば」「りょうめ」「りょうば」或いは坂本竜馬よろしく「りょうま」(同辞書はこれも掲げて「見よ見出し」で「りょうめ」を指示している)と読んいなかったどうかは判らない。しかし、とならば、ここは天下の「日本国語大辞典」に従い、「りゆうめ(りゅうめ)」と読みを統一しておくのが無難と判断した。以後、特別な場合を除いて、一切振らないつもりである。「駒ケ嶽」の最初にもその注を追加したので、読者の方々は私は「りゆうめ(りゅうめ)」と統一して読んでいるものと認識されたい。これは私自身のここまでの神経症的な内心の気持ちの悪さを払底するためのものであって、絶対的な柳田國男の著作の書誌学上の根拠があってのものではないから、それ以外で読みたい方は、どうぞ。但し、それで私に論議を吹っかけてこられても私は一切応じないので、悪しからず。

「墎(うつろ)」当初は柳田國男の「うつろ」のルビからも、馬市の「栅で囲った囲み」の意と読んだが、「墎」は牧場の柵ようなものではなく、城などの障壁を指すので不審に思っていたところ、後に示す「古今著聞集(ここんちょもんじゅう)」(鎌倉中期の九条道家の近習伊賀守橘成季によって編纂された世俗説話集。全二十巻七百二十六話。建長六(一二五四)年十月頃の原型の完成後、後年に増補がなされている)の所持する原文を見ると(後掲する)、「郭中に一聲に續けていばゆる馬のこゑ聞えけるを尋ねて」となっており、新潮日本古典集成版では、これに添え訳で『大宰府の中で』とあって、こちらの方が遙かに腑に落ちた。則ち、柳田國男の文章に從うなら、馬市に向かったが、向かっている時点で、何と、大宰府内全体に響き渡るほどの嘶きをその馬がした、のである。物語はこちらであってこそ異類奇談たるものとなる。

「一千五百里」「大宝律令」で定められた当時の「一里」は当時の「一町」=「三百歩」と規定されている。当時の距離単位は後代のそれより有意に短い設定であるため、当時の「一里」は現行のそれとは大きく異なり、僅か約五百三十三・五メートルであったと推定されている。されば「一千五百里」は約八百キロメートルとなる。馬鹿馬鹿しいとは思ったが試みに単純実測してみたところ、大宰府から平城京までは最短でも約六百キロメートル弱は有にあるから、ドンブリ勘定では問題のない事実距離と言える。

『「古今著聞集」二十』「卷第二十 魚蟲禽獸」の事実上の巻頭(前に「禽獸魚蟲も皆思ふ所有るに似たる事」として「禽獸魚蟲、其彙(ゐ)、且千(しやせん)、皆、言ふ能はずと雖も、各々思ふ所有るに似たる者なり」(鳥・獣・魚・蟲などのありとある生き物は、その種類(「彙」は「類い」の意)、これ、甚だ多い(「且」「千」ともに「多いこと」を示す)が、彼らは言葉を発することが出来ないとはいえどもそれぞれに人と同じく思い感じるところがあるように見える存在である)とあるが、これは「序」である)で六七三番目の「右近少將廣繼、宰府に下り、時の間に千五百里の道を通ふ龍馬を得たる事」である。新潮日本古典集成版(底本は九条家本系古写本(広島大学附属図書館蔵))を参考に、漢字を恣意的に正字化して示す。

   *

 右近少將廣繼[やぶちゃん注:「廣嗣」が正しい。前回既注。]朝臣、太宰少貳(だざいのせうに)になりて[やぶちゃん注:前回、注した通り、左遷。]、天平十二年[やぶちゃん注:七四〇年。]、宰府にくだりけるに、十月の比(ころ)、郭中に一聲につづけて七聲いばゆる馬のこゑきこえけるを尋ねて、高直(かうぢき)に買ひとりて、いたはりかひければ、龍馬(りゆうめ)にてぞありける。それに乘りて、午の刻よりかみには都府の政(まつりごと)にしたがひ、午の時より後には朝家(てうけ)の公事(くじ)をぞ、つとめける。一千五百里の道を時の間(ま)に通ひける、直人(ただびと)にはあらず。つひかの少將は神となりて、鏡の尊廟(そんべう)[やぶちゃん注:現在の佐賀県唐津市鏡にある鏡神社(グーグル・マップ・データ・以下同じ)。]とぞ申すなる。むかしの館の跡も、かの社のほどにてなん侍るとぞ[やぶちゃん注:「今昔物語集」では広嗣の家は肥前国松浦郡にあったと記す。]。

   *

「後任者」トンデモ級の誤り。藤原広嗣は「太宰少弐」(大宰府の次官で大宰大弐(最高次官。親王が帥に任ぜられて不在であるのに権帥もいない場合は代理で府務を統率した)の下に位した)で、旅人は「太宰帥」であるから、これは狭義の「後任者」ではない。しかも誤りが致命的なのは、広嗣左遷されて大宰府に行ったのは天平九(七三七)年の末であるのに対し、旅人が大宰帥として現地に赴いたのは神亀四 (七二七) 年頃であるから、旅人の方が先に大宰府で勤務しているという二重の間違いを柳田國男は犯しているからである。

「大伴旅人」(天智四(六六五)年~天平三(七三一)年)は奈良時代の政治家・歌人で、大納言安麻呂の長男。かの「万葉集」編纂者と目される家持の父。養老二(七一八)年に中納言、同四年に征隼人持節大将軍(せいはやとじせつたいしょうぐん)に任ぜられ、隼人(古代の南九州を拠点としていた一部族。主として大隅・薩摩地方を居住していた。五世紀中頃以降、概ね大和朝廷に服属の意を示した。勇猛敏捷であったため、徴用されて宮門の警護・行幸の先駆けなどを勤めた。大宝令では「隼人司」が置かれ、六年交代で朝廷に勤番し、勤番後は畿内・近江・播磨などへの土着が許された。しかし、八世紀の初め頃、彼らは反乱を起こし、たびたび鎮圧軍が派遣された。後、大隅・薩摩の国司に大宰府官人が任命されるようになってから、次第に完全に律令支配体制に組み込まれてしまった)の反乱鎮圧に功があった。神亀四(七二七)年頃、大宰帥となって九州に下ったが、天平二(七三〇)年には大納言に昇進して帰京した。但し、翌年に没した。「万葉集」に長歌一首・短歌五十三首(これに巻第五の無署名歌を加える説もある)・漢文の序・書簡が、「懐風藻」に詩一篇が残る。歌は大宰帥になってからのものが殆んどで、漢文学の素養に基づいた構想を持ち(ここで掲げたものはその代表歌)、情感にあふれた人事詠に特色がある。

「万葉集」巻第五の「雜歌」の悲痛な「太宰帥大伴卿の相聞の歌」二首(八〇六・八〇七)の一番目である。二首とも示す。この前書様の部分はプライベートな女性(不詳)との書簡の一部の引用であって前書ではない(書簡は旅人のそれとするもの、その女性のものとの二説があるが、漢籍の故事に基づく謂いから、私は旅人自身のそれとしか思えない)。

   *

 伏して來書を辱(かたじけな)くし、具(つぶ)

 さに芳旨(はうし)を承はりぬ。忽ち漢(あま

 のがは)を隔つる戀を成し、復た、梁(はし)

 を抱(いだ)く意(こころ)を傷ましむ。唯だ、

 羨(ねがは)くは、去留(きよりゆう)に恙無

 (つつみな)く、遂に雲を披(ひら)くを待つ

 のみ。

   歌詞兩首 大宰帥大伴卿

龍(たつ)の馬(ま)まも今も得てしかあをによし奈良の都に行きて來(こ)む爲(ため)

現(うつつ)には逢ふよしも無しぬば玉の夜の夢(いめ)にを繼ぎて見えこそ

   *

書簡中の「漢(あまのがは)を隔つる戀」は、奈良と筑紫と遠く隔たっていることを牽牛織女の天の川伝承に譬えたもの。「梁(はし)を抱く意」とは「荘子」(「盗跖篇」)や「文選」などに見える知られた故事を踏まえたもの。春秋時代、魯の尾生という青年が橋の下で女を待っていたが、川かさが増してもそこを去らずに待ち続け、橋脚を抱いたまま水に飲まれて死んだという。芥川龍之介の「尾生の信」で人口に膾炙する(リンク先は私の古い電子テクスト)。「去留」は行住坐臥で日常の生活の意。「遂に雲を披(ひら)く」は、講談社文庫版「万葉集」の中西進氏の注に『文王が姜公に逢う』や、その不思議に『輝くこと』、『雲を披いて太陽を見るごとくだった、という故事』を踏まえたもので、『貴人に会う形容』とある。

「石州鹿足郡吉賀(よしが)の谷」現行では島根県鹿足郡吉賀町(よしかちょう)と濁らない。個人サイト「柿木あれこれ」で、なんと! ここの出典である「吉賀記」が全文電子化されてあった! その解説によれば、「吉賀記」はこの吉賀の地方誌で、『田丸の村吏尾崎太左衛門の書で、吉賀開発よりの事実を記したものです。氏は若年の頃より』、『ひたすら老父へ古き言傳を聞き、又』、『神社仏閣に詣でては来由を尋ね、旧家を尋ねては代々の文を捜し求め、また名勝の旧跡を』、『險阻の地でも、足を運び』、『その眺望の景を書き残しました。その後』、『渡辺源宝により追加・補筆されたものです』とあり、同町の『広報よしか』二〇一五年十二月号PDF)によれば、尾崎太左衛門(元文五(一七四〇)年~文化九(一八一二)年)は四十三年間の長きに亙って、この吉賀地区内の庄屋を勤め、地域住民の信望が厚かったとあり、また、この「吉賀記」は太左衛門が書いてから十年あまり後の(尾崎の死後)文政四(一八二一)年に、津和野藩士で代官にもなった渡辺源宝が補筆したものとある。

「樋口驪(ひぐちぐろ)」以上のサイトの「吉賀記」中巻に(手筆本を起こしたとあるので、漢字表記はママとしたが、改行部を繋げた。また、私が句読点や記号を附し、一部の注を私の注に代え、私の推定の読み(引用元にはカタカナ以外の読みはない)にと注も挟んだ)、

   《引用開始》

樋口驪(くろ) 仁安年中[やぶちゃん注:一一六六年~一一六八年。]、藝の佐伯上郷(さえきかみさと)後葉[やぶちゃん注:子孫。]重行籠(こめ)たる[やぶちゃん注:飼っていた。]媽馬[やぶちゃん注:母馬。]産(うみ)たる駒なり。其尺、八尺に餘(あまり)、形勢逞しく、常に山野に駆(く)す。則(すなはち)、口より火焔を吐(はき)、又、光明を放つ。故、「火口くろ」とも云(いひ)、人、恐れて近寄らず。或時、重行面前へ出(いで)て頭を垂れ、再拝の貌をなす。重行不臆(おくせず)、馭之(これをぎよし)、直(ただち)に飛行(ひぎやう)す。重行、心の儘也。因て重行、仙術、弥増し[やぶちゃん注:「いやまし」。]、石・藝・防の三國、一日に駆す。依之(これによつて)、禁庭、聴え、「件(くだん)の龍馬を献上せよ」[やぶちゃん注:「との」の欠脱字か。]宣旨有(あり)と雖、重行、勅命に不應(おうぜず)、依て、一子小五郎を長(ちやう)南四郎に仰(おほせ)て誅戮し給ふ。舊跡、河津に記す。此馬の口付(くちつき)馬角は[やぶちゃん注:「口付」は馬丁であるから「馬角」はその人物の名か。]山岳幽谷を迷ひ、杉ヶ峠馬角谷に迷亡すといふ。時の人、重行を「千軒太夫」といふ。右にいふ龍馬に乗り、一日に三國を馳す故に名有り。「吉賀七不思議」の内なり。

   《引用終了》

また、ここに出る「舊跡、河津に記す」は同中巻の以下を指す。

   《引用開始》

馬 舩(むまぶね)[やぶちゃん注:蹄の後を記した石の名か。] 佐伯上郷後胤重行、寵愛したる龍馬、帝都へ不献(けんぜず)。故に勅命に背(そむく)[やぶちゃん注:「に依つて」辺りの脱字か。]一子小五郎、帝都へ召質(めしじち)し、長南四郎國氏に仰(おほせ)て、罰し給ふ。此(これ)は仁安元年九月十八日、重行、仙術天眼を以て、悟(さとり)、此(これ)、小五郎ヶ嶽へ上り、一子あ血烟(ちけむり)[やぶちゃん注:意味不明。サイト主の判読の誤りが疑われる。]靉靆たるを見て、「今は頼りなし。異国へも立去(たちさら)ん」と馬に鞭打(うち)しかは、河津川の畦瀧[やぶちゃん注:「あぜだき」で滝の固有名詞か。]中へ落(おち)、腹・足を冷す。又、一策(ひとむち)馳(はせ)て、河津へ走り、梅林に蹶是(ケッシ[やぶちゃん注:ママ。これに躓き。])して死すとなん。馬舩、凡(およそ)、水、廿石餘(あまり)入(いる)打込(うちこみ)たる足跡、又、重行木履(ぼくり)の跡、瀧中に有(あり)。今、雨乞に験(しる)し新た也。此瀧、底を洗ひ清め、龍神を勧請し、雨乞す。「吉賀十ヶ旧跡」[やぶちゃん注:の一つ、の意。]なり。防州の内、小五郎ヶ嶽は帝都にて小五郎誅戮にあふを歎きたる故名と成(なる)となん。

   《引用終了》

また、同中巻の「樋口」村の条には、

   《引用開始》

樋口村 吉桝 いかぢ 中河内 下河内 岡

 往古、向井谷郷・高津銀弥、高津川の源を尋(たづね)て、此奥谷へ入り、大なる莧蕗[やぶちゃん注:「ひゆぶき」と読むか。双子葉植物綱キク亜綱キク目キク科キク亜科フキ属フキ Petasites japonicus の巨大なものととっておく。]を見て驚き、村と号し[やぶちゃん注:村の名と成し。しかし「ひゆぶき」から「ひぐち」は無理がある。]、八ヶ村の総名と成(なる)。又、大蛇か[やぶちゃん注:ママ。「が」か。]池・山峡を穿ち、沼水を抜(ぬく)。因て「樋口」[やぶちゃん注:「の」の脱字か。]名、発(おこ)ると云(いふ)。 産物、牛の子。

   《引用終了》

とあって、柳田國男の解釈とは異なる(但し、柳田もこの転訛が怪しいことをやはり感じたものかとも思われる)。別に同書の上巻の方には(以下の馬の名の読みは総て引用元のもの)、

   《引用開始》

駒 三疋  「生食(いけつき)」田野原より出る。

「火口黒(ひくちくろ)」樋口より出る。

「馬角駒(ばかくこま)」福川にて生る。

追加

或説に、摺墨の名馬吉賀より出るといへり何れか、辨(べんじ)難し。追(おつ)て可正也(ただすべきなり)。又、「いけづき」は長州須佐甲山より出ると云(いひ)傳ふ。左もあらは、吉賀よりは「する墨」出し事、實正(じつしやう)ならんか。

   《引用終了》

「鹿足郡藏木村大字樋口」現在の島根県鹿足郡吉賀町樋口。吉賀町内の東方に当たる。

大字田野原河津」島根県鹿足郡吉賀町田野原。樋口の東隣りで、吉賀町内の東方端。ほとんどが山岳である。

「葛藟(かつるい)」「葛」は「くず」、「藟」は「藤葛(ふじかずら)」の意で、蔓草の類の総称。

「長岡郡十市村」高知県南国市十市(とおち)

「同郡三里村大字池」現在の高知県高知市池市が異なるが、先の十市地区の西方直近である。

「槇山(まきやま)生立(おひたち)」槇山産の。「槇山」は高知県高知市槇山町(ちょう)高知市池からは北西十キロメートル弱の内陸部

「三足(みつあし)の駒」奇形馬。チェルノブイリ以降、四足の畜類の奇形が盛んに画像で出て人々を恐懼させているが、実際には生物の奇形児はそれらに限らず、人でも、普通に(放射能汚染と無関係でも)実際には有意に多い。ただ、死産として父母にも見せずに処理してきた歴史があるのである。無論、放射能汚染をその大きな原因の一つとすることを私は積極的に肯定することは言い添えておく。

「鬼鹿毛(おにかげ)」名馬(武田信虎の愛馬)や霊馬(「新座市産業観光協会」公式サイト内の「鬼鹿毛の伝説」を参照。これは神に祀られているので是非読まれたい)の固有名詞でもあるが、この場合は、不吉な妖魅の馬(「鹿毛」は馬の毛色の代表色であるから、ここは全く単に忌まわしい「鬼馬」の謂いである)の謂いである。

「香美郡室丘」不詳。「土佐國群書類從」に当たることが出来ないのだが、或いは、現在の高知県香南市赤岡町のことかも知れない。

「美濃惠那山(えなさん)」長野県阿智村と岐阜県中津川市に跨る、木曽山脈の最南端の山。標高二千百九十一メートル。ウィキの「恵那山」によれば、『恵那山周辺地域ではこの山に天照大神が産まれた時の胞衣(えな)を納めたという伝説が残っており、この山の名前の由来ともなっている。また、』「古事記」で『日本武尊が科野』(しなの)『峠(神坂峠』(みさかどうげ:木曽山脈南部の岐阜県中津川市と長野県下伊那郡阿智村の間にある標高千五百六十九メートルの峠。恵那山から直線で東北約四キロ半の位置。ここ)『)で拝したのも恵那山の神である』。『江戸時代中期には毎年修験道者が礼拝に訪れ、前夜に恵那神社で禊ぎをして登山を行っていた』とはあるものの、その他、ネットで調べて見ても、この「頂上に馬の神」が祀られているとか、「九月九日の祭りには近鄕より多くの凡馬を牽き登る」に相当するような祭祀は現在は行われていない模様である(但し、次注参照)。

「社は池の側に七社、列立(れつりつ)す」「池」とあるが、山頂付近には現在、池はない。南東に尾根筋を三キロほど行った位置に「野熊の池」があるが、ネット上の幾つかの写真を見ても、「池の側」には祠は見られない。但し、サイト「YAMA HACK」の「恵那山|天照大神が生まれた歴史深い山!レベル別登山ルート4つ」には、『恵那山山頂には葛城社』・『富士社』・『熊野社』・『神明社』・『劍社』・『 一宮社の』七『つの社が祀られてい』るとはある。

「一宵話(ひとよばなし)」尾張藩藩校明倫堂の教授を務めた漢学者秦鼎(はたかなえ 宝暦一一(一七六一)年~天保二(一八三一)年:号は滄浪)の考証随筆で、私も所持するのであるが、どうもここに柳田國男が解説するような部分を見出せない。巻之二の「龍の雲」に恵那山の話は追記で載るが、内容は以下と極めて簡略である。取り敢えず、吉川弘文館随筆大成版を参考に、漢字を恣意的に正字化してその部分だけを示す(主文と追記の前半分は面白いが、恵那山とも馬とも全く関係がない呪(まじな)いに関わる奇談実話である)。

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比邊にては、美濃國惠那郡惠那山は、國中第一の高山なり。此山の祭りに、郡中の村々より、馬を引て登る事なり。其日には必大風雨する。是を土人の說(セツ)に、大勢(ゼイ)が登り二便(ベン)[やぶちゃん注:大便と小便であろう。]して、御山を穢(ケガ)から、神きたなくおぼして、洗ひ淨め給ふ雨なりといふ。是は神の御心とも覺へず。穢はしとおぼさば、祭うけ玉はぬがよし。客を請(シヤウ)じて、客の座敷よごせるを腹立るは、好(ヨキ)主人にはあらず。まして終日山中に居て、二便せぬものやほある。おもふに深山窮谷(シンザンキウコク)中に、欝蒸積充(ウツジヨウセキヂウ)する雲霧濕氣(ウソムシツキ)、數萬人の聲にひゞき動かされて、俄にさわぎ起るものならんかと、或人いへり。此亦理あり。

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万一、見落としていて見出せたなら、追記する。]

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