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2019/06/26

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(45) 「磨墨ト馬蹄硯」(2)

Surusumitoukotu

 熊谷氏ノ馬ノ首

駿國雜志卷二十五ヨリ

[やぶちゃん注:以上は底本のキャプション。「駿國雜志」江戸後期の旗本阿部正信(生没年不詳:忍藩主阿部正能の次男正明より分かれた家系で、旗本正章(知行六千石)の子。通称は大学。文化一四(一八一七)年九月、駿府加番となり、駿府城の守衛等を担った。任期は一年であったが、在任中から、また、江戸に戻ってからも、駿河国七郡の歴史・風土等を調査した)が榊原長俊の著した「駿河国志」を元として天保一四(一八四三)年に完成させた全四十九巻の駿河国の地誌。底本や「ちくま書房」版は画像が著しく悪いので、国立国会図書館デジタルコレクションの静岡の明治四五(一九一二)完刊の吉見書店刊の同書の刊行本の第八冊(附図集成巻)のこちらからトリミングし、汚損を清拭して示した。

 

第百三十二圖

 磨墨首骨の図

  (巻之廿五

   九  二)

[やぶちゃん注:原典図のキャプションを電子化する。まずは右上キャプション。最後の( )は割注状に大きな一つの丸括弧の中に二行書き。柳田國男の「山島民譚集」では「磨墨首骨の図」(「図」は或いは「圖」にも見える)の一行のみで前後は全くない。以下では、しかし私は有意な異同は認めない。

 

図の如く苧縄を

以て耳穴より引

通し上を結ひ梁

の臍に掛たり

[やぶちゃん注:左上。「苧縄」は「をなは(おなわ)」で、麻糸を縒り合わせて作った縄のこと。「梁の臍」「はりのほぞ」。梁(構造物の上部からの荷重を支えるため、または柱を繫ぐために架け渡す水平材。特に、桁(けた:柱の上に懸け渡した横木)に対して直角に渡されたものを指す)の材を接合するための突起のこと。]

 

耳穴[やぶちゃん注:図の上部左右に二箇所。]

眼穴[やぶちゃん注:図の眼窩の左右に二箇所。]

齒[やぶちゃん注:図の下部の左右と最下部で三箇所。]

 

眼穴竪一寸七分

横一寸八分計

[やぶちゃん注:右下。「一寸七分」五・一五センチメートル。「一寸八分」四・八五センチメートル。]

 

首大さ先の尖より前歯迠

長一尺四寸牙歯迄八寸

[やぶちゃん注:左下。「一尺四寸」四十二・四二センチメートル。「八寸」二十四・二四センチメートル。]

 

《原文》

 【硯ノ水】大ナル磐石ノ上ノ窪ミ、通例稱シテ神馬ノ足跡トスルモノノ中ニ、若シ絕エズ一泓ノ水ヲ湛フル處アレバ、人ハ又之ヲ硯ノ水ト名ヅケテ尊敬シタリシコト其例甚ダ多シ。昔ノ田舍者ハ本書ノ著者ノ如ク徒書(ムダガキ)ノ趣味ハ解シ居ラザリシ故ニ、硯ト言ヘバ經文トカ證文トカ、イヅレ重要ナル物ヲ認ムべキ道具ト考ヘタリシナリ。之ト靈馬ノ足跡トガ結合スレバ一通リヤ二通リノ有難サニ非ザリシハ勿論ノ話ナリ。從ヒテ磨墨ト云フ馬ガ其名ヨリモ實ヨリモ萬人ノ仰グべキモノトナリ得タリシハ想像シ易キコトニテ、斯ル名ヲ選定シタル昔ノ誰カハ智者ナリト謂フべシ。石見那賀郡石見村大字長澤ニハ、馬蹄ノ形ニ似タル石ヲ神體トスル社アリキ〔石見外記〕。石見國ハ硯ニ似タリ竹生島ハ笙ノ如シナドト云フ古諺モアレバ、此モ硯ノ水ノ信仰ト多少ノ因緣アリシカト思ハル。【駒形神】駿河安倍郡大里村大字川邊ノ駒形神社ノ御正體モ亦一箇ノ馬蹄石ナリ〔駿國雜志〕。此ハ多分安倍川ノ流ヨリ拾ヒ上ゲシ物ニテ、元ハ亦磨墨ノ昔ノ話ヲ傳ヘ居タリシナラン。此地方ニ於テ磨墨ヲ追慕スルコトハ極メテ顯著ナル風習ニシテ、此村ニモ彼村ニモ其遺跡充滿ス。前ニ擧ゲタリシ多クノ馬蹄石ノ外ニ、【馬ノ首】安倍川ノ西岸鞠子宿(マリコノシユク)ニ近キ泉谷村ノ熊谷氏ニテハ、磨墨ノ首ノ骨ト云フ物ヲ數百年ノ間家ノ柱ニ引掛ケタリ。其爲ニ此家ニハ永ク火災無ク、且ツ病馬悍馬ヲ曳キ來タリテ暫ク其柱ニ繫ギ置クトキハ、必ズ其病又ハ癖ヲ直シ得べシト信ゼラレタリ〔同上〕。之ニ由リテ思フニ、諸國ニ例多キ駒留杉鞍掛松駒繫櫻ノ類ハ恐クハ皆此柱ト其性質目的ヲ同ジクスルモノニシテ、之ヲ古名將ノ一旦ノ記念ニ托言スルガ如キハ、此素朴ナル治療法ガ忘却セラレテ後ノ話ナルべシ。陸中紫波郡東長岡ノ美々鳥(ミヽドリ)稻垣氏ノ邸内ナル老松ハ、昔此家ノ先祖山ニ入リテ草ヲ刈ルニ、其馬狂フトキ之ヲ此木ヘ繫ゲバ必ズ靜止スルニヨリ、之ヲ奇ナリトシテ其庭ニ移植スト云ヘリ〔大日本老樹名木誌〕。此說頗ル古意ヲ掬スルニ足レリ。更ニ一段ノ推測ヲ加フレバ、此種ノ靈木ハ亦馬ノ靈ノ寄ル所ニシテ、古人ハ之ヲ表示スル爲ニ馬頭ヲ以テ其梢ニ揭ゲ置キシモノニハ非ザルカ。前年自分ハ遠州ノ相良ヨリ堀之内ノ停車場ニ向フ道ニテ、小笠郡相草村ノトアル岡ノ崖ニ僅カナル橫穴ヲ掘リ、【馬頭神】馬ノ髑髏ヲ一箇ノ石塔ト共ニ其中ニ安置シテアルヲ見シコトアリ。ソレト熊谷氏ノ磨墨ノ頭ノ骨ノ圖トヲ比較スルニ、後者ガ之ヲ柱ニ懸クル爲ニ耳ノ穴ニ繩ヲ通シテアル外ハ些シモ異ナル點無ク、深ク民間ノ風習ニ古今ノ變遷少ナキコトヲ感ジタル次第ナリ。羽前ノ男鹿半島ナドニハ、今モ家ノ入口ニ魔除トシテ馬ノ頭骨ヲ立テ置クモノアリ〔東京人類學會雜誌第百八號〕。百五六十年前ノ江戶人ノ覺書ニ、羽前ノ芹澤ト云フ山村ヲ夜分ニ通行セシ時、路傍ノ林ノハズレニ顏ノ長ク白ク眼ノ極メテ大ナル物ノ立ツヲ見テ、化物カト驚キテ更ニヨク檢スレバ、竹ノ尖ニ馬ノ髑髏ヲ插ミ古薦ヲ纏ハセタル山田ノ案山子ナリシ事ヲ記セリ〔寓意草下〕。此モ只ノ鳥威シナランニハ斯ル手數ヲモ掛クマジケレバ、何カ信仰上ノ目的アリシモノト考ヘラルヽナリ。今些シ古キ處ニテハ、攝州多田鄕ノ普明寺ノ什物ニ馬頭アリ。【多田滿仲】多田滿仲曾テ龍女ノ爲ニ大蛇ヲ退治シ、其禮トシテ名馬ヲ贈ラル。【馬塚】滿信ノ代ニ此馬死シ之ヲ塚ニ埋ム。文明二年ノ頃ニ至リ馬塚ニ每夜光明ヲ放ツ。和尙之ヲ禮スレバ馬首出現ス。【龍馬神】之ヲ金堂ニ納メテ龍馬神トスト云ヘリ〔和漢三才圖會七十四〕。馬首出現トノミアリテハ漠然タル不思議ナレド、實ハ寺僧ガ塚ヲ發キテ頭骨ヲ得來リシナリ。村民駒塚山頂ノ光物ヲ怖レテ戶ヲ出ルコト能ハザリシニ、之ヲ金堂ニ鎭祭シテ其妖熄ムト見エタリ〔攝陽群談三〕。【馬鬼】思フニ死馬ノ骨ヲ重ンズルノ風、今人ハ古人ノ如クナラザリシガ故ニ、終ニ信ズべカラザル馬鬼ノ說ヲ起シ、或ハ南部ノ高架(タカホコ)ニ七鞍ノ大馬ヲ說キ、サテハ豐後直入郡朽網鄕(クダミガウ)ノ嵯峨天皇社ニ、神馬黑嶽山ニ入リテ鬼ト爲ルコトヲ傳フルガ如キ〔太宰管内志〕、寧ロ國内ノ馬蹄遺跡ヲシテ其眞ヲ誤ラシムルノ傾キ無シトセズ。古伯樂道ノ名譽ノ爲、返ス返スモ悲シミ且ツ歎ズべキコトナリ。

 

《訓読》

 【硯の水】大なる磐石(ばんじやく)の上の窪み、通例、稱して「神馬の足跡」とするものの中に、若(も)し、絕えず一泓(いちわう)[やぶちゃん注:現代仮名遣「いちおう」。有意な大きさの水溜り。]の水を湛ふる處あれば、人は、又、之れを「硯の水」と名づけて尊敬したりしこと、其の例、甚だ多し。昔の田舍者は本書の著者のごとく徒書(むだがき)の趣味は解し居(を)らざりし故に、硯と言へば、經文とか證文とか、いづれ、重要なる物を認(したた)むべき道具と考へたりしなり。之れと靈馬の足跡とが結合すれば、一通りや二通りの有り難さに非ざりしは、勿論の話なり。從ひて、磨墨と云ふ馬が、其の名よりも實(じつ)よりも萬人の仰ぐべきものとなり得たりしは想像し易きことにて、斯(かか)る名を選定したる昔の誰かは、智者なりと謂ふべし。石見那賀郡石見村大字長澤には、馬蹄の形に似たる石を神體とする社ありき〔「石見外記」〕。石見國は硯に似たり、竹生島は笙(しやう)のごとし、などと云ふ古諺(こげん)もあれば、此れも硯の水の信仰と多少の因緣ありしかと思はる。【駒形神】駿河安倍郡大里村大字川邊の駒形神社の御正體(みしやうたい)も亦、一箇の馬蹄石なり〔「駿國雜志」〕。此れは多分、安倍川の流れより拾ひ上げし物にて、元は亦、磨墨の昔の話を傳へ居(ゐ)たりしならん。此の地方に於いて、磨墨を追慕することは、極めて顯著なる風習にして、此の村にも彼の村にも、其の遺跡、充滿す。前(さき)に擧げたりし多くの馬蹄石の外に、【馬の首】安倍川の西岸鞠子宿(まりこのしゆく)に近き泉谷村の熊谷氏にては、「磨墨の首の骨」と云ふ物を、數百年の間、家の柱に引き掛けたり。其の爲めに、此の家には、永く、火災無く、且つ、病馬・悍馬(かんば)[やぶちゃん注:性質の激しい荒馬。]を曳き來たりて、暫く其の柱に繫ぎ置くときは、必ず其の病ひ又は癖を直し得べしと信ぜられたり〔同上〕。之れに由りて思ふに、諸國に例多き駒留杉・鞍掛松・駒繫櫻の類ひは、恐らくは皆、此の柱と、其の性質・目的を同じくするものにして、之れを古名將の一旦の[やぶちゃん注:ある時のただ一度の。]記念に托言するがごときは、此の素朴なる治療法が忘却せられて後の話なるべし。陸中紫波郡東長岡ノ美々鳥(みゝどり)稻垣氏の邸内なる老松は、昔、此の家の先祖、山に入りて草を刈るに、其の馬、狂ふとき、之れを此の木へ繫げば、必ず靜止するにより、之れを奇なりとして、其の庭に移植すと云へり〔「大日本老樹名木誌」〕。此の說、頗る古意を掬(きく)する[やぶちゃん注:汲み取って(推し量って)理解する。]に足れり。更に一段の推測を加ふれば、此の種の靈木は亦、馬の靈の寄る所にして、古人は之れを表示する爲めに、馬頭を以つて、其の梢に揭げ置きしものには非ざるか。前年、自分は遠州の相良(さがら)より堀之内の停車場に向ふ道にて、小笠郡相草(あいくさ)村のとある岡の崖に僅かなる橫穴を掘り、【馬頭神】馬の髑髏(どくろ)を、一箇の石塔と共に其の中に安置してあるを見しことあり。それと熊谷氏の「磨墨の頭の骨の圖」とを比較するに、後者が之れを柱に懸くる爲めに耳の穴に繩を通してある外は些しも異なる點無く、深く民間の風習に古今の變遷少なきことを感じたる次第なり。羽前の男鹿半島などには、今も家の入口に魔除けとして、馬の頭骨を立て置くものあり〔『東京人類學會雜誌』第百八號〕。百五、六十年前の江戶人の覺書に、羽前の芹澤と云ふ山村を、夜分に通行せし時、路傍の林のはずれに、顏の長く、白く、眼の極めて大なる物の立つを見て、「化物か」と、驚きて、更によく檢(けみ)すれば、竹の尖(さき)に馬の髑髏を插み、古薦(ふるごも)を纏はせたる「山田の案山子(かかし)」なりし事を記せり〔寓意草下〕。此れも只だの鳥威(とりをど)しならんには斯(かか)る手數をも掛くまじければ、何か信仰上の目的ありしものと考へらるゝなり。今、些(すこ)し古き處にては、攝州多田鄕の普明寺(ふみやうじ)の什物に馬頭あり。【多田滿仲】多田滿仲、曾つて龍女の爲めに大蛇を退治し、其の禮として名馬を贈らる。【馬塚】滿信の代に、此の馬、死し、之れを塚に埋む。文明二年[やぶちゃん注:一四七〇年。]の頃に至り、馬塚に、每夜、光明を放つ。和尙、之れを禮すれば、馬首、出現す。【龍馬神】之れを金堂の納めて「龍馬神」とすと云へり〔「和漢三才圖會」七十四〕。馬首出現とのみありては漠然たる不思議なれど、實は寺僧が塚を發(あば)きて頭骨を得來りしなり。村民、駒塚山頂の光物を怖れて戶を出づること能はざりしに、之れを金堂に鎭祭して、其の妖、熄(や)む、と見えたり〔「攝陽群談」三〕。【馬鬼】思ふに、死馬の骨を重んずるの風、今人(きんじん)は古人のごとしくならざりしが故に、終に信ずべからざる馬鬼の說を起こし、或いは南部の高架(たかほこ)に七鞍の大馬を說き、さては、豐後直入(なほいり)郡朽網鄕(くだみがう)の嵯峨天皇社に、神馬、黑嶽山に入りて鬼と爲ることを傳ふるがごとき〔「太宰管内志」〕、寧ろ、國内の馬蹄遺跡をして其の眞を誤らしむるの傾き、無しとせず。古伯樂道の名譽の爲め、返す返すも、悲しみ、且つ、歎ずべきことなり。

[やぶちゃん注:「石見那賀郡石見村大字長澤」島根県浜田市長沢町(ちょう)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。 現在、町内には長澤神社しか見当たらないが、それが「馬蹄の形に似たる石を神體とする社」の後身なのかどうか(或いはここに合祀されているとか)は判らない。引用が過去形だし。

「石見國は硯に似たり」石見国の形を馬鹿正直に古地図で見えも始まらない。「石見」の二字を結合して「硯」に似たりと言っている言葉遊びの類いである。

「竹生島は笙(しやう)のごとし」島の形が雅楽器の笙に似ている(とは私は思わない)ことから「笙」を分解して「竹生」島となったという、これまたまことしやかな島の名の語源説の一つだが、寧ろ、古来より「神を斎(いつ)く島」であったその「いつくしま」が「つくぶすま」と訛り、「ちくぶしま」となったとする説の方が遙かに腑に落ちる。

「駿河安倍郡大里村大字川邊の駒形神社」駿府城址の南西の静岡県静岡市葵区駒形通にある駒形神社であろう。安倍川の左岸で川にも近い。

「安倍川の西岸鞠子宿(まりこのしゆく)に近き泉谷村」静岡県静岡市駿河区丸子泉ヶ谷(いずみがや)(国土地理院図。右下方が丸子市街地が旧鞠子宿)。地図で見ると、山家と見えるが、実はここにある臨済宗吐月峰柴屋寺(とげっぽうさいおくじ)は今川家七代当主に仕えた連歌師宗長(宗祇の弟子)が、京の銀閣寺を模した庭園を築き、四季の風物を眺め、余生を送った場所として知られ、借景や枯山水で国の名勝史跡にも指定されており、庵の前庭には北斗七星を模して配置した「七曜石」があって、古くから大名や文人が訪れた場所であった。

「陸中紫波郡東長岡ノ美々鳥(みゝどり)」岩手県紫波郡紫波町東長岡耳取(みみどり)であろう。「美々鳥」の方が美しいのになぁ。

「稻垣氏の邸内なる老松……」「大日本老樹名木誌」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁)。

「遠州の相良(さがら)より堀之内の停車場に向ふ道」「小笠郡相草(あいくさ)村」静岡県牧之原市相良がここで、「堀之内の停車場」というのは静岡県菊川市堀之内の東海道本線の菊川駅であろう。旧相草村は確かにその間(南東から北西に御前崎の根の部分を突っ切る形となる)の現在の菊川市南東部に当たるのであるが、この辺りは旧地名がごっそり消失してしまっており、この辺りとしか言いようがない。

『それと熊谷氏の「磨墨の頭の骨の圖」とを比較するに、後者が之れを柱に懸くる爲めに耳の穴に繩を通してある外は些しも異なる點無く、深く民間の風習に古今の變遷少なきことを感じたる次第なり』と言うか、馬の頭骨が極端に違ってたら、それこそ化け物でげしょう?!

「羽前の男鹿半島などには、今も家の入口に魔除けとして、馬の頭骨を立て置くものあり」どうも昨今はこの風習は廃れたようで、ネット検索に掛かってこない。淋しい。

「羽前の芹澤」山形県長井市芦沢か。

「攝州多田鄕の普明寺(ふみやうじ)」兵庫県宝塚市波豆(はず)字向井山ここは旧摂津国である)にある曹洞宗慈光山普明寺(ふみょうじ)。ウィキの「普明寺(宝塚市)」によれば、『平安時代中期に多田庄の領主であった源満仲の四男頼平が開山したと伝わる』。『当初』、『真言宗の寺院であり、長徳年間』(九九五年~九九八年)『には一条天皇の勅願寺となって寺領を有し栄えたと伝わる。しかし、鎌倉期以降は多田源氏の没落により』、『寺勢が傾き』、『衰退したという』。『江戸時代の初期には廃寺同様となっていたが、寛文年間』(一六六一年~一六七二年)の頃に『曹洞宗の寺院として再興され』た。現在も『源満仲が龍女の頼みで大蛇を退治したときに授けられたと伝えられる、二本の角を持つ馬の頭骨』が『寺宝として』あり、『雨乞いに使われる』とある。「多田滿仲」は既出既注「宝塚市」公式サイト内の「宝塚の民話」の「普明寺の龍馬神」が、満仲と龍女の話から、ここで語られる普明寺住職玉岩和尚(室町時代の文明二年のこととするから彼は真言僧である)のものまでも総てしっかり語れていて、必見!

『「和漢三才圖會」七十四』巻第七十四「攝津」の「川邊郡」のここ(標題。左下最後の一行のみ)とここ。国立国会図書館デジタルコレクションの明三五(一九〇二)年の版本。什物の「馬頭」の部分のみを所持する原本で電子化する。

   *

馬頭【什物】康保四年冬滿仲公入能勢山遊獵時夢龍

女來曰川下池有大蛇與我爲仇數年願君退治矣爲

贈一龍馬也果一馬在側滿仲以爲奇異乘其馬伐喪

大虵焉滿仲逝去後至滿信【滿仲之孫】甚愛之馬亦死焉藤

原仲光【家臣】埋馬屍於山岳上建一宇號駒塚山峯堂

後土御門院文明二年三月十八日以後毎夜駒塚有

光輝於普明寺住持玉岩和尚到駒塚誦普門品忽震

雷而馬首出現焉和尚携還納金堂以爲龍馬神

○やぶちゃんの書き下し文

馬頭【什物。】 康保四年[やぶちゃん注:九六七年。]の冬、滿仲公、能勢(のせ)の山に入り、遊獵する時、夢に、龍女、來たりて曰はく、「川下の池に大蛇有り。我と仇(あだ)を爲すこと、數年なり。願はくは、君、退治したまへ。爲めに一龍馬を贈る」と。果して、一馬、側らに在り。滿仲、以つて奇異と爲して、其の馬に乘りて大虵(だいじや)を伐(う)ち喪(ほろぼ)しぬ。滿仲逝去の後、滿信【滿仲の孫。】に至り、甚だ之れを愛すも、馬も亦、死せり。藤原の仲光【家臣。】、馬の屍(しかばね)を山岳に埋み、上に一宇を建て、「駒塚山(くちやうさん)峯の堂」と號す。後土御門院の文明二年三月十八日以後、毎夜、駒塚に光有り、普明寺に輝く。住持玉岩和尚、駒塚に到りて、「普門品」を誦すに、忽ち、震雷して、馬の首、出現す。和尚、携(たづさ)へ還り、金堂の納む。以つて「龍馬神」と爲す。

   *

ここに出る能勢の山」は兵庫県川西市及び大阪府豊能郡豊能町(とよのちょう)・能勢町及び京都府に跨る妙見山の異名で、山頂には嘗つて行基建立と伝える為楽山大空寺があったが、鎌倉時代に入ると、源満仲を遠祖とする能勢氏が領主となり、その地に妙見菩薩を祀ったとされる。その後、江戸初期に当時の領主能勢頼次の帰依を受けた日乾(後の日蓮宗総本山身延山久遠寺二十一世)の手によって新たな妙見菩薩像が彫られ、大空寺趾に建立した仏堂に祀ったのが現在の能勢妙見堂である(ここはウィキの「妙見山(能勢)」に拠った)。この山、馬との強い絡みがあることが判る。

「南部の高架(たかほこ)に七鞍の大馬を說き」既出既注。未だに「高架」は限定的にはどこだか判りませんが。

「豐後直入(なほいり)郡朽網鄕(くだみがう)の嵯峨天皇社」大分県竹田市久住町大字仏原の宮處野(みやこの)神社。ここは嵯峨天皇を祭神の一柱としていることから、旧称を「嵯峨宮樣」と呼ばれていた。こちらの解説によれば、原型は『景行天皇がこの地方の土蜘蛛を征伐した際の行宮跡に天皇をお祭りしたことに始まると伝えられて』おり、『その後、平安時代に直入擬大領の女『腎媛』が嵯峨天皇の采女とな』って、『上皇崩御の後、故郷来田見に帰り』、『剃髪し』て『尼となり、恩賜の品を産土の境内に埋め』、『日夜勤仕する。女の兄はこれを見て哀れみ』、『景行官の傍らに神宮を造営した。これが現在の神社の起源で『嵯峨宮様』と呼ばれ』、『永くこの地方の人々に崇敬され、明治になって宮処野神社と改称された』とある。

「黑嶽山」同神社の後背地と思われるが、不詳。

「太宰管内志」以上は同書の中巻の「豐後之四」の「直入郡」の「○嵯峨天皇社」(国立国会図書館デジタルコレクションの明四三(一九一〇)年日本歴史地理学会刊の版本)に書かれてある。えぇい! 序でだ! 視認して電子化するわな! 句読点や推定訓読を施して読み易くした。

   *

 ○嵯峨天皇社

〔社記略〕に、豐後國直入郡朽網鄕市村嵯峨、毎年十月十五日、當社に於いて神保會を行ふ。神官日野姓、此社に仕ふ。大友家、代々、神馬を献ず。大友政親[やぶちゃん注:文安元(一四四四)年~明応五(一四九六)年。室町・戦国時代の守護大名。豊後国大友氏第十六代当主。]の時に當り、神馬、放失し、畢んぬ。大友義鑑[やぶちゃん注:よしあき。戦国大名。文亀二(一五〇二)年~天文一九(一五五〇)年。同第二十代当主。]の時に至り、彼の馬、鬼に現じ、黑嶽山に住みて、晝夜を分かたず往來の人及び六畜[やぶちゃん注:馬・牛・羊・犬・豕・鶏の家畜。]等を取り食らふ。義鑑、此の事を聞き、將に黑嶽に狩らんとす。大友家臣大久保藏人(くらうど)・城後(じやうご)因幡二人、此の事を乞ひ請け、夜中、黑嶽の麓に到り、今の水越大草場に於いて、之れを待つ。黑嶽の上より、馬鬼、飛び來たり、城後を襲ふ。城後、長刀(なぎなた)を以つて、之れを貫き、大久保も亦、矢を放つ。羽を呑み、馬鬼、遂に死すとあり。〔森氏[やぶちゃん注:不詳。]云はく、〕嵯峨天皇社の祭を「かたげ市」といふ。祭の夜に參詣するもの、男女、みだりにあふことあり〔万葉集九卷〕に、『筑波嶺(つくばね)に登りて嬥歌會(かがひ)[やぶちゃん注:上代の東国地方で歌垣(うたがき)を指す語。]を爲(せ)し日に作れる歌』、『嬥歌は東(あづま)の俗語(くによりのこと)に「賀我比(かがひ)」と曰ふ』[やぶちゃん注:以上は一七五九番の前書と、後書の原注。]とあり、是れ、彼(か)の「嬥歌會」の遺風なるべしといへり。嬥歌會の事は日田郡五馬媛(いつまひめの)社の件(くだり)にも云へるを、かんむがふべし【嵯峨天皇の社の馬鬼の事は〔九州治亂記〕にも見えたり。さて、「かたげ市」と云ふは、かの神保會の事なるか、いまだ委しくも考へず。】。

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現在も宮處野神社の秋季大祭を「神保会(じんぼえ)」と称し、現行では毎年十月第二土曜日に行われている。先に引いたこちらの解説によれば、『県選択無形民俗文化財』に指定されており、これは『新任国司が有名神社へ神宝を奉った祭儀を』指す、「神宝会」に『由来すると云われている』とある。「五馬媛(いつまひめの)社の件」はここであるが、そこでも九月の祭礼の間、市が立っている間は、毎夜、男女が契る(野合であろう)ことが自由で、女性でも未婚既婚を問わず、既婚者の夫もこれを咎めないとあり(夫も他の女と交合するからとある)、それをやはり「かたげ市」と称するとする(古称は「かがひ市」であったかと推定している)。しかも、その最後の割注で筆者は、『こゝの方言にも男より、しひて女に交はるを「カタゲル」といふなり。是れなるべし』とも述べている。これは思うに「神保会」=「かがひ市」「かたげ市」なのではなく、神保会の「ハレ」の時空間に於ける神人交合の写しであり、これは近現代まで各地で「八朔の祭り」などと称して盛んに行われていたものである。それを「かがい」と呼んだのは如何にもお洒落ではないか。それで子供ができたらどうするかって? それは自分らの子と夫が認知するか、或いは「神の子」として秘かに処分するか、或いは「神の子」として村が責任を持つて共同で育てるのである。――自分の子を平気で捨てたり、虐待の末に殺す輩が跋扈している現代と――どっちが野蛮か――よく考えてみるがよかろう。]

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