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2019/06/22

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(40) 「水邊ニ牧ヲ構ヘテ龍種ヲ求ム」(1)

 

《原文》

水邊ニ牧ヲ構ヘテ龍種ヲ求ム   池月磨墨ハ名馬ノ最モ高名ナルモノニハ相違ナキモ、弘ク其名ノ諸國ノ傳說ニ採用セラルヽニ至リシ原因ハ別ニ又存ス。先ヅ第一ニ池月ハ池ヨリ生レシ者、即チ水ノ神ノ子ナリト想像セシムルニ最モ似ツカハシキ名前ナリ。池月ハ太ク逞シキ黑栗毛ナル馬ノ、尾ノ先チト白カリケルトアル昔ノ記錄ハ、各地ノ古傳之ヲ認メザル者多シ。事ノ外ノ荒馬ニシテ生類ヲ好ミテ食ヒケル故ニ生唼(イケズキ)ト云フトノ說ハ、殊ニ牽强附會ノ感アリ。其議論ハ兎モ角モ、其名ヲ耳ニ聞キテ先ヅ思フハ白クシテ光アル馬ノ毛ノ水ノ月ト緣アルコト、更ニ步ヲ進ムレバ龍馬ハ龍ノ胤ト云フ古來ノ俗信ナリ。此思想ハ申スマデモ無ク支那カラノ輸入ナレド、而モ日本ノ土ニ移シテ後ニモ國相應ノ美シキ花ヲ開ケルナリ。【長者】例ヘバ陸中鹿角郡小豆澤(アヅキザハ)ノダンブリ長者ノ如キハ、家富ミテ數百頭ノ馬ヲ山ニ放牧ス。山上ニハ池アリテ龍下リ住メリ。長者ガ駒此池ノ水ヲ飮ミテ龍馬ト成リシガ故ニ、今モ其故跡ヲ龍馬嶺ト云フ〔鹿角志〕。池月產地ノ一トシテ傳ヘラルヽ羽後ノ木直(キヅキ)ニテハ、昔百姓ノ家ニ一頭ノ牝馬ヲ飼ヘリシガ、夜ニ入リテ厩ノ中物騷ガシキコト屢ナリ。灯火ヲ挑ゲ行キテ見ルニ何物ノ影モ無カリシガ、朝每ニ厩ノ周ニ必ズ新ナル蹄ノ跡アリ。副馬嶽(ソウマガダケ)ノ神馬飛降リテ此家ノ牝馬ガ處ニ夜遊ビニ來リシナリト云ヘリ。其後此牝馬ニ七寸ノ駒生レタリ。池月ナリト傳ヘラレシハ此駒ノコトナルガ如シ。非常ノ荒駒ナレバ山ニ杙ヲ打チテ之ヲ繫グ。【ツクシ】仙北ノ名山大ツクシ小ツクシノ二峯ハ、即チ此杙ノ化シテ成レル山ニテ、「ツクシ」トハ杙又ハ標木ノコトナリト云ヘリ〔月乃出羽路四〕。厩ノ戶口ニ新シキ蹄ノ跡ト云フ話ハ我邦バカリノ物語ニハ非ズ。支那ニテモ大昔ヨリワザト牝馬ヲ水際ニ放チテ龍ノ出來心ヲ誘ヒシ例アリト聞ク。水中ノ靈物ガウマウマト人間ノ誘惑ニ罹リシ場合ニハ、必ズ其足跡ヲ岸上ノ砂ニ遺シタリトナリ〔南方氏神足考〕。磨墨太夫黑ノ徒ガ時トシテ巖窟ノ奧ヨリ飛出セリト傳ヘラルヽモ、思フニ亦龍馬ガ文字通リニ龍ヲ父トシテアリシコトヲ示スモノニテ、即チ神馬ハ河水ノ精ナドト云フ思想ヨリ一轉シテ、之ヲ龍ノ變形又ハ龍ノ子ト考フルニ至リシナランノミ。

 

《訓読》

水邊に牧を構へて龍種を求む   池月・磨墨は名馬の最も高名なるものには相違なきも、弘く其の名の諸國の傳說に採用せらるゝに至りし原因は、別に又、存す。先づ第一に池月は池より生れし者、即ち、水の神の子なりと想像せしむるに最も似つかはしき名前なり。「池月は太く逞しき黑栗毛なる馬の、尾の先、ちと白かりける」とある昔の記錄は、各地の古傳、之れを認めざる者、多し。事の外の荒馬にして、生類(しやうるい)を好みて食ひける故に生唼(いけずき)[やぶちゃん注:今まで注していないが、ここで言っておくと、「唼」(この場合の音は「サフ(ソウ)」は「啜る・啜り込んで食う・啄む」の意。]と云ふとの說は、殊に牽强附會の感あり。其の議論は兎も角も、其の名を耳に聞きて先づ思ふは、白くして光ある馬の毛の、水の月と緣あること、更に步を進むれば龍馬は龍の胤(たね)と云ふ古來の俗信なり。此の思想は、申すまでも無く、支那からの輸入なれど、而も日本の土に移して後にも國相應の美しき花を開けるなり。【長者】例へば陸中鹿角(かづの)郡小豆澤(あづきざは)の「だんぶり長者」のごときは、家、富みて、數百頭の馬を山に放牧す。山上には池ありて、龍、下り住めり。長者が駒、此の池の水を飮みて龍馬と成りしが故に、今も其の故跡を「龍馬嶺」と云ふ〔「鹿角志」〕。池月產地の一つとして傳へらるゝ羽後の木直(きづき)にては、昔、百姓の家に一頭の牝馬を飼へりしが、夜に入りて、厩の中、物騷がしきこと、屢々なり。灯火を挑(かか)げ、行きて見るに、何物の影も無かりしが、朝每に厩の周りに、必ず新たなる蹄の跡あり。副馬嶽(そうまがだけ[やぶちゃん注:ママ。])の神馬、飛び降(くだ)りて、此の家の牝馬が處に夜遊びに來りしなりと云へり。其の後、此の牝馬に七寸(しちき)[やぶちゃん注:既注であるが、再掲しておくと、国産馬の標準は四尺(一・二一メートル)が「一寸(いつき)」であるから、「七寸」は一メートル四十二センチメートルとなり、国産馬では有意に異常に大きい。]の駒、生れたり。池月なりと傳へられしは此の駒のことなるがごとし。非常の荒駒なれば、山に杙(くひ)[やぶちゃん注:「杭」の同じい。]を打ちて、之れを繫ぐ。【つくし】仙北の名山「大つくし」「小つくし」の二峯は、即ち、此の杙の化して成れる山にて、「つくし」とは、杙、又は、標木のことなりと云へり〔「月乃出羽路」四〕。厩の戶口に新らしき蹄の跡と云ふ話は、我が邦ばかりの物語には非ず。支那にても、大昔より、わざと牝馬を水際に放ちて、龍の出來心を誘ひし例ありと聞く。水中の靈物が、うまうまと人間の誘惑に罹(かか)りし場合には、必ず、其の足跡を岸上の砂に遺したりとなり〔南方氏「神足考」〕。磨墨・太夫黑の徒が、時として巖窟の奧より飛び出だせりと傳へらるゝも、思ふに、亦、龍馬が、文字通りに龍を父としてありしことを示すものにて、即ち、神馬は河水の精などと云ふ思想より一轉して、之れを龍の變形、又は、龍の子と考ふるに至りしならんのみ。

[やぶちゃん注:「陸中鹿角(かづの)郡小豆澤(あづきざは)」現在の秋田県鹿角市八幡平小豆沢(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「だんぶり長者」秋田県と岩手県に跨る伝説。ウィキの「だんぶり長者」によれば、『主に、盛岡藩の鹿角郡の伝承であり、米代』(よねしろ)『川の名前の由来や、大日霊貴』(おおひるめむち)『神社の縁起を伝えている』。『昔、出羽国の独鈷(とっこ)村(現在の秋田県大館市比内町独鈷)に気立ての良い娘がいた』。『ある夜、娘の夢に老人が現れ』、『「川上に行けば夫となる男に出合うだろう」と告げる。お告げ通り、娘は川上の小豆沢(現在の鹿角市八幡平小豆沢)で一人の男に出合い、夫婦となって貧しいながら』、『仲睦まじく暮らした。ある年の正月、また老人が夢に現れ』、『「もっと川上に住めば徳のある人になるだろう」と告げる。夫婦は川をさかのぼり』、『現在の米代川の源流に近い田山村(現在の岩手県八幡平市田山)に移り住み、よく働いた』。『ある日、夫が野良仕事に疲れうとうとしていると、一匹のだんぶり(とんぼ)が飛んできて、夫の口に尻尾で』二、三度、『触れた。目を覚ました夫は、妻に「不思議なうまい酒を飲んだ」と話し、二人でだんぶりの後を追った。そして、先の岩陰に酒が湧く泉を発見する。酒は尽きることがなく、飲めばどんな病気も癒された』。『夫婦はこの泉で金持ちとなり、多くの人が夫婦の家に集まってきた。人々が朝夕に研ぐ米の汁で川が白くなり、いつしか川は「米代川」と呼ばれるようになった。夫婦には秀子という一人娘がいた。優しく美しい乙女に成長し、やがて継体天皇に仕えて、吉祥姫と呼ばれた。夫婦も天皇から「長者」の称号を与えられ、「だんぶり長者」として人々に慕われた』。『年月が過ぎ、夫婦がこの世を去ると、酒泉はただの泉になった。両親の死を悲しんだ吉祥姫は都から戻り』、『小豆沢の地に大日霊貴神社を建てて供養した。この姫も世を去ると、村人達は姫を大日霊貴神社の近くに埋葬し、銀杏の木を植えた。これが、大日霊貴神社の境内にあった大銀杏と言われている』とある。佐藤友信氏の「だんぶり長者」について解説された「暁(あけ)の方から(4)」PDF)に、本伝承と龍馬の話が載る。

   《引用開始》

 『大日堂舞楽』に掲載されている「だんぶり長者物語」には「竜馬」というのが出てきます。だんぶり長者は霊泉のお礼に角が一本生えた黒馬をもらい、これを近くの山に放しておいたところ、日に数百里を走る馬が生まれたということです。この山には大きな沼があり時々天から竜が降りてきて水を飲むのですが、その水を飲んだ馬たちが「竜馬」になったのです。そこは「竜馬ヶ森」と呼ばれたとありますがその名は今はなく、代わりに「竜ヶ森」という山が青森・岩手・秋田三県に五つあります。青森県の田子町に一つ、岩手県八幡平市に二つ、大館市の北秋田市と鹿角市の境に一つずつです。

 物語では「南部馬」の優秀さを竜の血を引いているとでも言わんばかりですが、そこにはちゃんとした根拠があるようです。まず奥州藤原氏は毎年貢馬(くめ)として朝廷に糠部駿馬(ぬかのぶしゅんめ)を贈ったとあります。また戦国時代の武将たちは競って南部馬を求めたとありますから、その優秀さは折紙付きだったのです。その主産地が糠部というところだったようですが、ここは青森県の東部と岩手県の北部にかけての一戸から九戸の地名のあるところです。とくに三戸・五戸・七戸は名馬の産地として名高かったようです。そしてこの糠部と鹿角は境界を接して隣り合っていたのです。

 天明8(1788)年の徳川幕府の巡見使に随行した地理学者の古川古松軒(こしょうけん)は、来満峠から大湯を通って鹿角入りしたときに、「南部の地、辺鄙ながら馬のよきには皆みな驚きしことにて、日々数百疋の馬を見ることなるに見苦しき馬はさらになし。何れを見ても、一疋ほしきことなりとおもわぬ人もなし。東海道・中国筋の馬とは違いて、幾疋一所に置きてもはね合い喰い合うこともなく、乗りよく人などに喰いつくということを知らぬ体なり。南部立ての馬を以て海道第一と称せることもっとも道理なり」とその旅日記『東遊雑記』において絶賛していたようです。(関友征「葦名神社と南部馬」鹿角市文化財保護協会発行『上津野』No.37 より)

 巡見使一行は南部入りしてからずっと名馬の産地を通ってきていますので、この部分は鹿角も含めてこれまでの印象をまとめたものと考えられます。古川古松軒の印象を推測してみると、「南部入りしてからいい馬を随分たくさん見てきたが、ここにもこんなにいるとは驚きだなあ。どれを見ても見事な馬ばかりで見苦しい馬など一疋だっていやしない。どれでもいいから一疋欲しいなあ。私だけでなくみんなそう思っているようだな。ホントここの馬は日本一だ。」となるのではないでしょうか。ちなみに古川古松軒はめったに褒めることのない人だったそうですから、この賛辞は価値があります。

 ただ鹿角は鉱山資源も厳しく管理され馬改めも相当厳しかったようですから、名馬の産地と公にすることができなかったのではないでしょうか。昨年大湯ストーンサークル館で芦名神社の絵馬が公開されましたが、『上津野』を見ると、これは郷土史学習会による十年近くにわたる継続調査の集大成であったようです。これらを見ると鹿角の馬文化の奥深さがひしひしと感じられます。

 前回お伝えした八戸・三戸の「えんぶり」にも馬の烏帽子(えぼし)をかぶった太夫の舞がありました。ここから八戸・三戸から鹿角に至る幕府巡見使の通り道に沿って、南部馬の主産地と馬文化があったと思われます。「だんぶり長者物語」の黒馬は名久井郡から贈られたとあります。名久井は三戸郡にありますので、鹿角を経由して田山・盛岡方面に展開したとは考えられないでしょうか。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

「龍馬嶺」不詳。秋田県秋田市上新城白山に竜馬山(りゅうばさん)が、秋田県由利本荘市北ノ股に竜馬山(りゅうばさん)があるが(国土地理院図)、先の鹿角からはひどく離れているから違う。

「羽後の木直(きづき)」秋田県大仙市の木直(きじき)地区

「副馬嶽(そうまがだけ)」不詳。但し、『「月乃出羽路」四』の当該部はここ(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)であるが、そこ(右ページ一行目から始まる『○木直村』の条)には『副河の岳』とある。

『仙北の名山「大つくし」「小つくし」の二峯』前注の指示した箇所には、『小杙(こづくし)大杙(をづくし)とて、今化(くゑし[やぶちゃん注:ママ。])て小山、小岑となれるあやしの物語もあれど、七寸(しちき)村と云ひつるよしは云々』とある。となれば、現在の木直地区の近くとなり、地図を見ると、秋田県大仙市南外(木直の南東直近)に「土筆(つくし)森山」と「土大(どだい)森山」があり(国土地理院図)、これではないかと私は思うのだが、如何?

「支那にても、大昔より、わざと牝馬を水際に放ちて、龍の出來心を誘ひし例ありと聞く。水中の靈物が、うまうまと人間の誘惑に罹(かか)りし場合には、必ず、其の足跡を岸上の砂に遺したりとなり〔南方氏「神足考」〕」割注のそれは南方熊楠の「神跡考」の誤り。但し、これは柳田國男の誤りではなく、南方熊楠自身の誤りであるが、彼はたびたびこの誤りを犯しており、その原論文は英文「Footprints of Gods, &c.」(Notes & Queries 10s. ii. Jul. 23, 1904)であって、彼自身は誤りとは認識していないものと思う(邦訳題は南方熊楠によって「神跡考」とされているので書誌上では、やはり誤りであるが)。「南方熊楠より柳田国男宛(明治四四(一九一一)年九月二十二日書簡)」を参照。所持する「南方熊楠選集」第六巻の邦訳によれば(同論文「Ⅱ」に出る)、

   *

また貴州では、人が竜駒を得ようとして牝馬を浜辺につれて来て交わらせるうち、そのたびに竜の足跡が現われるという(『淵鑑類函』二六巻二〇丁目)。

   *

という一文がそれ。「淵鑑類函(えんかんるいかん)」は清の康熙帝の勅撰で編纂された類書(百科事典)で一七一〇年成立。全四百五十巻で、書名は「古今の類書の奥深いもの」という意味。本書は詩文を作る際の用例集としても用いられ、江戸時代に日本にも伝えられた。中文サイトから原文を引く(巻二十六の「育龍駒」一節。巻二百三十五にも似たような文脈が出るが、「貴州」のはないのでこちらと採る。漢字の一部を恣意的に正字化した。引用元は全くの白文なので、句読点は私が勝手に附した。当てに成らぬ)。

   *

育龍駒 福建侯官縣有五花石坑、去夀山十許里、其石有、紅者綠者紫者惟艾綠色者最少。春貴州、養龍坑在兩山之中泓澄淵深蛟龍藏其下當。始和夷人立栁坑畔擇牝馬之貞者繫之已而。雲霧晦冥類有物蜿蜒跨馬腹上迨開霽。視馬傍之沙有龍跡者、是與龍遇矣。至產必生龍駒。明洪武間、夏幽主明昇獻良馬十匹一正白色乃得之於此者、振鬛一鳴萬馬辟易上乘之行夕月之禮於淸涼山正如躡雲而馳一塵不驚、賜名飛越峯命學士宋濓爲贊繪形藏焉。

   *

「うまうまと」は、これまた、柳田國男のオツでない洒落である。]

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