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2019/06/24

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(42) 「水邊ニ牧ヲ構ヘテ龍種ヲ求ム」(3)

 

《原文》

 遠州御前崎モ近海ニ著シキ大岬ナリ。突端ノ駒形大明神ハ是レ亦昔ノ牧馬ノ名殘ナランカト思ハル。此權現ノ古キコトハ一ノ證據アリ。【駒形三社】前ニ擧ゲタル伊豆ノ輕井澤ノ駒方神ノ如キ、手近ノ箱根ノ社トハ却リテ關係無ク、日下開山鎌倉彌左衞門、三國相傳橫須賀與惣右衞門ト云フ兩人ノ舍人司、遠州白和駒方(シロワコマガタ)ノ書ヲ以テ駒方祝(ハフリ)ヲ行フト言傳ヘ、其三社ノ御正體ハ中央白和王ニ右鵲王左鵲王ヲ合セ祀ルト云ヘリ〔伊豆志〕。白和ハ今ノ白羽村ニテ即チ御前崎ノ鄰村ナリ。御前崎ト海ヲ隔テヽ相對スル駿河ノ三保ニモ、安藝ノ馬島ト同ジク亦馬ヲ愛惜スル神ヲ祀レリ。今日ハ單ニ謠ノ羽衣トノミ聯想セラルヽ土地ナレドモ、三穗明神ハ實ハ熱心ナル馬ノ神ニテ深ク馬ヲ愛セラレ、【野飼】神前ノ松原ニハ野馬常ニ遊ビ居タリキ。此松原モ到頭開墾セラレテ桃ヤ甘蔗ノ畠ト成リ、舊領主德川公爵ヲシテ歎息セシメタリト云フ程ナレドモ、昔ハ此半島ノ風趣ヲ添フルモノハ松陰ニ遊ベル野馬ノ群ナリシナリ。村々ノ農家ニ於テハ馬疾ムトキハ此濱ニ曳キ來リ、神ノ保護ノ下ニ放牧シ置ケバ必ズ平癒スト信ジタリ〔駿國雜志〕。思フニ此慣習ハ必ズ諸國ノ野飼馬洗ナドノ行事ト關聯スル所アルナルべシ。昔ハ人間ノ醫藥モ尋常草根木皮ノ外ニ出デズ。病馬ヲ治スルノ術ニ於テ獨リ大奇法ノ存スルモノアランヤ。多クハ伯樂ガ神傳ニ託シテ其道ヲ靈祕ニシ、モシクハ村老ガアマリニ手段ノ平凡ナルヲ訝リテ之ヲ信心ノ力ニ歸スルガ如キ、何レモ極メテ自然ナル徑路ト言フべキモ、要スルニ新鮮ナル草ト水トヲ得テ休養セバ、普通ノ病馬ハ大抵其健康ヲ復スルコトヲ得シナランノミ。三河寶飯郡ノ小松原ト云フ處ノ、觀音寺ノ本尊馬頭觀音ハ行基ガ作ナリ。【初午】每年二月初午ノ日ニ參詣スル者、此山ノ隈笹ノ葉ヲ得テ歸ル。馬ノ煩フ時御影ヲ厩ニ揭ゲ此笹ヲ以テ飼フトキハ忽チ癒ユ〔諸國里人談四〕。【熊野神】長門阿武郡宇田鄕村大字惣鄕ノ熊野神社ハ、境内ニ一ノ馬蹄石アリ。牛馬熱ニ苦シム者アルトキハ、一束ノ草ヲ刈リ來リテ此石ノ上ニ置キ退キテヨク祈リ、サテ其草ヲ以テ病畜ニ飼フトキハ則チ治スト云フ〔長門風土記〕。美濃惠那嶽(エナダケ)ノ笹ノ葉ハ既ニ之ヲ述ブ。此等無名ノ植物モ只一步ヲ進メバ又カノ狐ケ崎ノ矢筈ノ笹ナリ。伊賀阿山郡布引村大字中馬野(ナカバノ)左妻(ヒダリツマ)ニハモト左妻岩屋アリ。中古洪水ニ沒シテ今其處ヲ知ラズ。【窟ノ神】昔此巖窟ニ馬ヲ愛スル神イマシテ、屢橫根山ノ溪流ニ馬ヲ洗ヒタマフ。馬洗淵ノ今モ存セリ。其神人間ニ應接スルコト里俗ノ口碑ニ殘リ、葛城一言主ノ談ニ類ス。福地某ナル者曾テ此邑ニ在リテ馬ヲ獻ジ、古來此地ノ名馬ヲ出スコトヲ申スニ因リテ牧馬ノ命ヲ蒙リヌ。又伊賀次郞重國モ名馬ヲ本村ヨリ獻ジタリト言ヘバ、馬野ノ名空シカラザルニ似タリ〔三國地誌〕。【竈神】三保明神ノ馬ヲ愛シタマフコト誠ニ其由來ヲ知リ難シト雖、此地ハ鹽燒ク濱ナレバ夙ニ竃ノ神ノ信仰起リ、興津彥興津媛ノ說ナドニ感化シテ中世三社ノ神靈ヲ仰グニ至リシニハ非ザルカ。或ハ又單ニ一箇水ニ臨メル牧トシテ、深クモ牧神ノ德ヲ仰グニ至リシモノカ。後世ノ硏究ヲ須ツノ他ナキナリ。此半島ト相對シテ愛鷹山(アシタカヤマ)ニハ人ノ飼ハヌ野馬アリ。即チ愛鷹明神ノ神馬ナリト云ヘリ。非常ノ駿足ニテ人ハ容易ニ其姿ヲ見ルコト能ハズ〔駿國雜志〕。【九十九】或ハ傳フ、三保ト愛鷹トハ不思議ノ交通アリ野馬ノ數雙方ヲ合セテ常ニ九十九匹、曾テ增減アルコト無シ。三保ニ多ケレバ愛鷹ニ少ナク、愛鷹ニ多ケレバ三保ニ少ナシト云ヘリ〔本朝俗諺志〕。人モ知ル如ク愛鷹山ハ近キ世迄ノ幕府ノ牧場ナリキ。牧場ノ一方ガ高山ニ續キシ爲ニ、野飼ノ駒ノ逸出シ點檢ニ洩レタル者モ多カリシナラン。唯東海道ヲ越エ海ヲ隔テタル半島ノ松原ニ通フト云フニ至リテハ、即チ甲斐ノ黑駒同樣ノ神話ト見ザル能ハザルナリ。【馬神根原】勿論牧童ノ保護ヲ離レテ而モ熊狼ノ害ヲ免レ得シ程ノ野馬ナリトスレバ、必ズ荒ク且ツ逞シキ逸物ニ相違ナケレバ、稀ニ之ヲ思ヒ掛ケヌ谷間ナドニテ見タル人ハ、自然ニ神馬又ハ之ヲ率ヰル馬ノ神ノ信仰ヲ起シ、一方ニハ各自ノ凡馬ノ安全ヲ禱ルト共ニ、他ノ一方ニハ其蹄ノ跡ナドヲ尊崇セズニハ居ラレザリシナルべシ。

 

《訓読》

 遠州御前崎も近海に著しき大岬なり。突端の駒形大明神は、是れ亦、昔の牧馬の名殘ならんかと思はる。此の權現の古きことは一つの證據あり。【駒形三社】前に擧げたる伊豆の輕井澤の駒方神のごとき、手近の箱根の社とは、却りて、關係無く、日下開山(ひのしたかいさん)鎌倉彌左衞門、三國相傳橫須賀與惣右衞門と云ふ兩人の舍人司(とねりのつかさ)、遠州白和駒方(しろわこまがた)の書を以つて、「駒方祝(はふり)」を行ふと言ひ傳へ、其の三社の御正體(みしやうたい)は、中央、白和王(しろわわう)に、右鵲王(うじやくわう)・左鵲王を合はせ祀ると云へり〔「伊豆志」〕。白和は今の白羽村にて、即ち、御前崎の鄰村なり。御前崎と海を隔てゝ相ひ對する駿河の三保にも、安藝の馬島と同じく、亦、馬を愛惜する神を祀れり。今日は、單に謠(うたひ)の「羽衣」とのみ聯想せらるゝ土地なれども、三穗明神は實は熱心なる馬の神にて、深く馬を愛せられ、【野飼】神前の松原には、野馬、常に遊び居たりき。此の松原も到頭、開墾せられて、桃や甘蔗(かんしよ)の畠と成り、舊領主德川公爵をして歎息せしめたりと云ふ程なれども、昔は此の半島の風趣を添ふるものは、松陰に遊べる野馬の群れなりしなり。村々の農家に於いては、馬、疾(や)むときは、此の濱に曳き來り、神の保護の下に放牧し置けば、必ず平癒すと信じたり〔「駿國雜志」〕。思ふに、此の慣習は、必ず、諸國の「野飼」・「馬洗」などの行事と關聯する處あるなるべし。昔は人間の醫藥も、尋常、草根・木皮の外に出でず。病馬を治するの術に於いて、獨り大奇法の存するものあらんや。多くは伯樂が神傳に託して其の道を靈祕にし、もしくは、村老が、あまりに手段の平凡なるを訝りて、之れを信心の力に歸するがごとき、何(いづ)れも極めて自然なる徑路と言ふべきも、要するに、新鮮なる草と水とを得て休養せば、普通の病馬は大抵、其の健康を復することを得しならんのみ。三河寶飯(ほい)郡の小松原と云ふ處の、觀音寺の本尊、馬頭觀音は、行基が作なり。【初午】每年二月初午の日に參詣する者、此の山の隈笹の葉を得て歸る。馬の煩ふ時、御影(みえい)を厩に揭げ、此の笹を以つて飼ふときは、忽ち、癒ゆ〔「諸國里人談」四〕。【熊野神】長門阿武郡宇田鄕村大字惣鄕(さうがう)の熊野神社は、境内に一つの馬蹄石あり。牛馬、熱に苦しむ者あるときは、一束の草を刈り來りて、此の石の上に置き、退(しりぞ)きて、よく祈り、さて、其の草を以つて病畜に飼ふときは、則ち、治すと云ふ〔「長門風土記」〕。美濃惠那嶽(えなだけ)の笹の葉は既に之れを述ぶ。此等、無名の植物も。只だ一步を進めば、又、かの狐ケ崎の矢筈(やはず)の笹なり。伊賀阿山郡布引村大字中馬野(なかばの)左妻(ひだりつま)には、もと、左妻岩屋あり。中古、洪水に沒して、今、其の處を知らず。【窟(いはや)の神】昔、此の巖窟に馬を愛する神いまして、屢々、橫根山の溪流に馬を洗ひたまふ。馬洗淵の今も存せり。其の神、人間に應接すること、里俗の口碑に殘り、葛城一言主(かつらぎひとことぬし)の談に類す。福地某なる者、曾つて、此の邑(むら)に在りて、馬を獻じ、古來、此の地の名馬を出すことを申すに因りて牧馬の命を蒙りぬ。又、伊賀次郞重國も名馬を本村より獻じたりと言へば、馬野の名、空しからざるに似たり〔「三國地誌」〕。【竈神】三保明神の馬を愛したまふこと、誠に其の由來を知り難しと雖も、此の地は鹽燒く濱なれば、夙(つと)に竃の神の信仰起り、興津彥(おきつひこ)・興津媛(おきつひめ)の說などに感化して、中世、三社の神靈を仰ぐに至りしには非ざるか。或いは又、單に一箇水に臨める牧として、深くも牧神の德を仰ぐに至りしものか。後世の硏究を須(ま)つの他なきなり。此の半島と相ひ對して、愛鷹山(あしたかやま)には人の飼はぬ野馬あり。即ち、愛鷹明神の神馬なりと云へり。非常の駿足にて、人は容易に其の姿を見ること能はず〔「駿國雜志」〕。【九十九】或は傳ふ、三保と愛鷹とは不思議の交通あり、野馬の數、雙方を合はせて、常に九十九匹、曾つて增減あること、無し。三保に多ければ、愛鷹に少なく、愛鷹に多ければ、三保に少なし、と云へり〔「本朝俗諺志」〕。人も知るごとく、愛鷹山は近き世までの幕府の牧場なりき。牧場の一方が高山に續きし爲めに、野飼の駒の逸出し、點檢に洩れたる者も多かりしならん。唯だ、東海道を越え、海を隔てたる半島の松原に通ふと云ふに至りては、即ち、甲斐の黑駒同樣の神話と見ざる能はざるなり。【馬神根原】勿論、牧童の保護を離れて、而も熊・狼の害を免れ得し程の野馬なりとすれば、必ず、荒く、且つ、逞しき逸物に相違なければ、稀に之れを思ひ掛けぬ谷間などにて見たる人は、自然に神馬、又は、之れを率ゐる馬の神の信仰を起こし、一方には各自の凡馬の安全を禱ると共に、他の一方には、其の蹄の跡などを尊崇せずには居られざりしなるべし。

[やぶちゃん注:「遠州御前崎も近海に著しき大岬なり。突端の駒形大明神は、是れ亦、昔の牧馬の名殘ならんかと思はる」既出既注。以下の叙述もそちらの私の注を参照されたい。

「前に擧げたる伊豆の輕井澤の駒方神」ここ

「日下開山(ひのしたかいさん)」天下無双の強者、また、技量の優れた者のこと。現在はは主に横綱力士の代名詞である。天和二(一六八二)年、江戸幕府は武芸者・芸能者らが「天下一」の呼称を乱用するので、その使用の禁止令を布告したが、その後は「天下」と同義語の「日の下」を冠し、「日下開山」と言い換えるようになった。元禄年間(一六八八年~一七〇四年)に勧進相撲の興行の際、抜群の強さを見せた大関や、何年も負けたことのない力士を「日下開山」又は「日下相撲開山」と褒めそやしたことから、後に横綱力士を指すようになった(小学館「日本大百科全書」に拠る)。ここは尊大な自称尊称であろう。

「鎌倉彌左衞門」不詳。

「三國相傳」本来は「三国伝来」と同義で、天竺(インド)から中国又は朝鮮に伝わり、さらに日本に伝来してきた仏法を指す。前の「日下開山」と同じく神仏習合時代の自称尊称であろう。

「橫須賀與惣右衞門」不詳。「よそゑもん」と読んでおく。

「舍人司(とねりのつかさ)」ここは単に下級官人としての神職を指していよう。

「遠州白和駒方(しろわこまがた)」既注の御前崎市白羽(しろわ)に鎮座していた白羽神社元宮、現在の白羽神社のことであろう。

「書」神託の書と礼式の謂いと採り、それを私は「駒方祝(はふり)」という固有的名詞表現として採って鍵括弧を附した。

「白和王(しろわわう)に、右鵲王(うじやくわう)・左鵲王を合はせ祀る」「静岡県神社庁」公式サイト内の白羽神社の由緒書きには、承和四(八三八)年二月に元宮である『岬の駒形神社より』ここへ遷ったとあり、「延喜式」に載る「白羽官牧」の『地と伝えられ、旧社地の駒形神社は、往古沖で遭難した九十頭の馬の内一頭が岸にたどりついた地とされる。残りの馬は沖の御前岩(駒形岩)と化したと云う。式内服織田(はとりだ)神社とも云われ、旧』県『社として古くより信仰が厚い社である。また当社は、往古は馬をお祀りしていた。これは、龍神信仰によるもので、海辺では名馬が育つと信じられたため』であるとある。『また、当社附属の神宮寺もあり、神社所蔵の棟札に神宮寺社僧の名前が見え、当時社僧を置かれていたことが知れる。当社は延喜式に云う白羽官牧に発生した牧場(馬)の守護神として古来より馬持ちの参詣する者が多いために、祭典を白羽馬祭と称し、遠近より参詣の馬は何れも装飾の美を競い、境内は馬と人で埋まったと云う。近代、農業が機械化され、馬の姿すら見られなくなったが、馬は疾走中といえども絶対に人を踏むことのない霊獣であり、自動車交通安全にと信仰が変わっている』ともある。ここに出るのは、その古いプロトタイプに近い祭神像或いはその御影の名指しと思われる(現在の祭神はリンク先を見られたい)。

『今日は、單に謠(うたひ)の「羽衣」とのみ聯想せらるゝ土地』インキ臭い学者の如何にもな謂いだな。専ら「羽衣伝説」でのみ知られる、でよかろうが。

「三穗明神」、静岡県静岡市清水区三保にある御穂(みほ)神社。。「みほ」の字は他に「御廬」「三穂」「三保」にも作る。ウィキの「御穂神社」によれば、『三保の松原には「羽衣の松」があり、羽衣の松から御穂神社社頭までは松並木が続くが、この並木道は羽衣の松を依代として降臨した神が御穂神社に至るための道とされ』、『「神の道」と称される』。『現在でも』、『筒粥神事では』、『海岸において神迎えの儀式が行われるが、その際に神の依りついたひもろぎは』、『松並木を通って境内にもたらされる』。『これらから、御穂神社の祭祀は海の彼方の「常世国」から神を迎える常世信仰にあると考えられている』とある。古くより祭神は大己貴命(大国主)と三穂津姫命(みほつひめのみこと)とされるが、私はこの馬を愛する神とはこの二神とは無縁で、まさにその神迎えのアプローチの長いことから、そこに神の騎る神馬が必要だったのではなかったかと推理している。さればこそ、以下の「神前の松原には、野馬、常に遊び居たりき」が自然に腑に落ちるのである。

「甘蔗(かんしよ)」これは同じ発音の「甘藷」(サツマイモ)の誤りであろう。「甘蔗」と書く場合はサトウキビ(単子葉植物綱イネ目イネ科サトウキビ属サトウキビ Saccharum officinarum)を指す。ウィキの「サトウキビ」によれば、『世界におけるサトウキビの商業栽培の最北限は、四国から伝播した遠州横須賀地区(静岡県掛川市南西部)とみられる』とあるものの、同地区は三保よりも以南である。或いは一時期、ここで植栽が試されたのかも知れないが、そのような資料を確認出来ない。

「舊領主德川公爵」徳川宗家第十六代当主(元は田安徳川家第七代当主)で静岡藩(明治二年八月七日(天保暦。グレゴリオ暦では一八六九年九月十二日)に成立したが、二年後の明治四年七月十四日(一八七一年八月二十九日)に「廃藩置県」により廃藩となった。日本のグレゴリオ暦導入は一八七三年一月一日に当たる明治五年十二月三日を明治六年一月一日とした時に始まる)初代藩主であった徳川家達(いえさと 文久三(一八六三)年~昭和一五(一九四〇)年)。従一位大勲位公爵。世間では「十六代様」と呼ばれた。第四代から第八代までの貴族院議長・ワシントン軍縮会議全権大使・昭和一五(一九四〇)年開催予定であった東京オリンピックの組織委員会委員長・第六代日本赤十字社社長・学習院評議会議長・日米協会会長などを歴任した。大正期には組閣の大命も受けたが、拝辞している(ここはウィキの「徳川家達」その他に拠った)。

「三河寶飯(ほい)郡の小松原と云ふ處の、觀音寺の本尊、馬頭觀音」これは愛知県豊橋市小松原町(ちょう)坪尻にある臨済宗小松原山東観音寺(とうかんのんじ)であろう。ここは「小松原観音」とも呼ばれ、本尊は馬頭観音菩薩である。「行基が作なり」とあるのは当寺の伝承で天平四(七三二)年に行基が夢告を受け、翌年にこの小松原の海岸で一株の霊木を感得し、これを以って馬頭観音像を刻み、堂宇を建立したのを起源とすることから謂いに過ぎず、現在の本尊(御正体)は金銅馬頭観音像で銘は文永八(一二七一)年である。

「每年二月初午の日に參詣」現在も行われている。個人サイトと思われる「東三河を歩こう」の「馬頭観音二の午祭」のページに、『東観音寺のご本尊の馬頭観音のお祭りで、旧暦』二『月の午の日に開催され、本堂ではご祈祷が行われ、牛馬の飼い主が祈願を行う』。『境内では植木市・金魚市の他、多くの屋台が並』び、『また、この祭礼には、豊橋の民話「二ノ午大祭の絵馬」が伝えられている』(リンク先は同サイトの別ページ。荒馬鎮静の話なのでリンクさせておいた)。

『「諸國里人談」四』「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」の画像の、ここここ

「長門阿武郡宇田鄕村大字惣鄕(さうがう)の熊野神社」山口県阿武郡阿武町惣郷はここ。現在、熊野神社はないが、熊野三所権現を祀る御山(おやま)神社があるから、ここであろうか(この神社の東北の同地区内に今一つの御山神社があるが、諸データとグーグル・マップ・データの画像を見る限りでは前者かと思われる)。「馬蹄石」は確認出来ない。

「美濃惠那嶽(えなだけ)の笹の葉は既に之れを述ぶ」こちら

「かの狐ケ崎の矢筈(やはず)の笹」こちら

「伊賀阿山郡布引村大字中馬野(なかばの)左妻(ひだりつま)」三重県伊賀市中馬野。同地区を貫通する川が左妻川である。

「橫根山」不詳。国土地理院図を見ると、同地区や周辺には複数のピークはある。

「馬洗淵」北のピークを超えた直近の伊賀市奥馬野地区に「馬野溪」ならある(国土地理院図)。

「葛城一言主(かつらぎひとことぬし)」ウィキの「一言主」を引く。「古事記」の「下つ巻」に『登場するのが初出で』、雄略天皇四(四六〇)年、『雄略天皇が葛城山へ鹿狩りをしに行ったとき、紅紐の付いた青摺の衣を着た、天皇一行と全く同じ恰好の一行が向かいの尾根を歩いているのを見附けた。雄略天皇が名を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えた。天皇は恐れ入り、弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服を脱がさせて一言主神に差し上げた。一言主神はそれを受け取り、天皇の一行を見送った、とある』。少し後の「日本書紀」では、『雄略天皇が一言主神に出会う所までは同じだが、その後共に狩りをして楽しんだと書かれていて、天皇と対等の立場になって』おり、さらに『時代が下がっ』た「続日本紀」の巻二十五では、『高鴨神(一言主神)が天皇と獲物を争ったため、天皇の怒りに触れて土佐国に流された、と書かれている。これは、一言主を祀っていた賀茂氏の地位がこの間に低下したためではないかと』も『言われている』。さらに、弘仁一三(八二二)年成立の景戒(生没年不詳:奈良時代の薬師寺の僧)が書いた日本最初の説話集「日本霊異記」では、『一言主は役行者(これも賀茂氏の一族である)に使役される神にまで地位が低下しており、役行者が伊豆国に流されたのは、不満を持った一言主が朝廷に讒言したためである、と書かれている。役行者は一言主を呪法で縛り』、「日本霊異記」『執筆の時点でも』、『まだそれが解け』てい『ないとある』。『また、能の』「葛城」では『女神とされている』。『葛城山麓の奈良県御所市にある葛城一言主神社が全国の一言主神社の総本社となって』おり、『地元では「いちごんさん」と呼ばれており、一言の願いであれば』、『何でも聞き届ける神とされ、「無言まいり」の神として信仰されている』。『このほか』、「続日本紀」で流されたと『書かれている土佐国には、一言主を祀る』とされる『土佐神社があり』、『土佐国一宮になっている』。『名前の類似から、大国主命の子の事代主神と同一視されることもある』とある。

「伊賀次郞重國」「長秋記」の天永二年(一一一一)八月二十一日の条に、上皇(白河法皇か)相撲御覧の際に相撲人の「三番、左、淸原重國」として見える伊勢平氏の清原重国は「伊賀住人、字首持、義親首入洛、仍此名流ㇾ世。」とあり、『彼が』源『義親』(河内源氏三代目棟梁源義家の嫡男であったが、対馬守に任ぜられた際に九州で略奪を働いて官吏を殺害したため、隠岐国へ流された。しかし脱出して出雲国へ渡り、再び官吏を殺して官物を奪ったため、平正盛(清盛の祖父)の追討を受けて誅殺された)『の首を持った五人の下人の一人だったことがわかる。おそらく伊賀国にあった正盛の私領を通じた郎等だろう』とある(個人サイト「千葉一族」のこちらに拠ったが、史料は論文等で確認して添えた)が、この人物か?

「興津彥(おきつひこ)・興津媛(おきつひめ)」ウィキの「かまど神」によれば、『日本の仏教における尊像』三宝荒神(日本特有の仏教における信仰対象の一つで、仏法僧の三宝を守護し、不浄を厭離(おんり)する仏神)は、『かまど神として祀られることで知られる。これは、清浄を尊んで不浄を排する神ということから、火の神に繋がったと考えられている』。『また』、『近畿地方や中国地方では、陰陽道の神・土公神がかまど神として祀られ、季節ごとに』、『春はかまど、夏は門、秋は井戸、冬は庭へ移動すると考えられている』。『神道では三宝荒神ではなく、竈三柱神(稀に三本荒神)を祀る。竈三柱神はオキツヒコ(奥津日子神)・オキツヒメ(奥津比売命)・カグツチ(軻遇突智、火産霊)とされる。オキツヒコ・オキツヒメが竈の神で、カグツチ(ホムスビ)が火の神である』とある。

「愛鷹山(あしたかやま)」静岡県東部にある、富士山の南隣りに位置する火山。最高峰は標高千五百四・二メートルの越前岳であるが、狭義には南方にある千百八十七・五メートルの愛鷹山峰(国土地理院図)を指す。三保の松原の東北で対するが、頂上からは直線でも富士市を挟んで約三十六キロメートル離れている。

「愛鷹山は近き世までの幕府の牧場なりき」料理店「どんぶる家 伊豆海」のサイトの「沼津の歴史・文化の紹介 愛鷹三牧場 愛鷹牧の歴史」に、

   《引用開始》

古代の律令制国家のもと、全国各地に牧が置かれ、牛や馬が飼育された。

最初、牧は兵部省の管轄の下、国司が管理してきたが、十世紀初頭の駿河国には、岡野馬牧、蘇弥奈馬牧という二つの牧が置かれていた。岡野の岡宮、蘇弥奈は比奈という後世の地名に継承されたとも言われ、現在の沼津市から富士市にかけての愛鷹山南麓ではないかと推定されている。古代末期から中世へと時代が移り、律令制が衰退していくと、牧も私牧・荘園化していくことにより愛鷹山の牧の施設・機能もなくなった。しかし、野生の馬は、生き続け、愛鷹山頂を本宮とする愛鷹明神の神主奥津家がそれを保護し、今川氏や武田氏からも神領・神馬の安堵を受け近世に至った。

近世に入ると、諸藩では独自に牧を設置・経営したが、江戸幕府自身も小金五枚、佐倉七枚、安房国の嶺五枚、駿河国の愛鷹三枚という合計二十箇所の牧を経営した。

古代・中世以来放置されていた愛鷹山の野馬に江戸幕府が最初に目を付けたのは、房総において牧の準備・新設を進めていた享保期のことであった。

しかし、愛鷹明神神主奥津氏や農民たちは愛鷹山野馬が建久五年(1194)に源頼朝によって奉納された九十九頭の神馬に由来すること、今川義元・武田信玄・川毛惣左衛門・井出志摩守正次ら歴史の支援者たちも神馬・神領を安堵してきたことなどを理由に、牧設置に反対の意向を示したことにより上の歳月が流れた。

寛政八年(1796)同年十一月、幕府は神罰が下ることを恐れ執行に反対する奥津神主の主張を退け、牧の開設を断行した。

元野・尾上・霞野三牧の用地選定を行った、その年十二月から翌年二月にかけて、土手の築造をはじめとする牧場施設の建築が地元農民たちによって行われ寛政九年(1797)三月、はじめての捕馬が実施されたのである。

明治維新後は一部が明治政府に引き継がれ御料牧場になったほか、開墾され農地や宅地になったり、軍隊の演習場になったりした。

[やぶちゃん注:ここに「駿州愛鷹牧捕獲馬之図」(世古明夫氏所蔵)がある。]

愛鷹三牧場

愛鷹三牧場は、今から二〇〇年ほど前の寛政九年、江戸幕府によって設置された馬の三つの牧場で、明治初年に廃止されたため、期間はわずか八〇年ほどでしたが、江戸幕府の直営した全国的にも数少ない牧場でした。

牧場が出来る前の愛鷹山麓には、源頼朝が奉納した神馬が、半ば野生化し野馬となり数百頭が疾駆していました。この周辺もかつては三牧馬の一つがあった所です。

   《引用終了》

この解説で「九十九」の名数の意味が腑に落ちた。感謝申し上げる。]

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