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2019/06/15

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(36) 「池月・磨墨・太夫黑」(3)

 

《原文》

 武藏ニハ固ヨリ池月・磨墨ノ遺蹟ト云フモノ甚ダ多シ。就中西多摩郡調布村大字駒木野ノ傳說ニ於テハ、亦池月此國ニ產セシコトヲ主張スルナリ。其說ニ依レバ駒木野ハ古クハ駒絹ト書ケリ。【池田】源平ノ頃ニ村ヨリ西ニ當ツテ多摩川ノ北岸、今ノ三田村大字澤井ノ地ニ池田ト云フ沼アリ。【駒牽澤】或日此沼ノ邊ヨリ一頭ノ駒飛出シ、今ノ吉野村大字日影和田ト同村大字畑中トノ境ナル駒牽澤ト云フ處ヲ過ギテ、駒木野ノ里マデ馳セ來リシヲ、村民等網ヲ以テ奔馬ニ蔽ヒ掛ケテ終ニ之ヲ捕ヘ、亦鎌倉將軍家ニ獻上ス。後ニ高名ノ駿足池月ト聞エタルハ即チ此馬ノコトナリ〔新編武藏風土記稿〕。一匹ノ素絹ヲ引カセテ末ガ地ニ落チヌ程ニ奔セタリト云フ駿馬ノ話ハヨク之ヲ聞ク、ソレヲ思ヒ出サシムべキ昔物語ナリ。伊豆ノ田方郡弦卷山ノ中腹ニモ池月磨墨ヲ野飼ニ育テタル話アリ。磨墨此山ニ在リテ高ク嘶ケバ、池月ハ丹那村ノ山ヨリ遙カニ聲ヲ合セタリト云フ。【駒形神】弦卷山ノ山中ニハ其跡トシテ駒形ノ地名アリ、且ツソコニハ駒形神ヲ祀レリ。祠ノ傍ニ別ニ一箇ノ立石アリテ衣冠騎馬ノ神像ヲ刻スト云ヘバ〔日本山嶽志〕、即チ前ニ擧ゲタル輕井澤ノ駒形權現ト同ジ物ナランカ。駿河ハ普通ニ磨墨終焉ノ地トシテ認メラルヽガ、猶其西郡ニハ彼ガ生レタリト云フ家アリ。即チ安倍郡大川村大字栃澤ノ舊家米澤氏ニテハ、磨墨ハ此家ノ厩ニ產レタリト傳ヘ、厩ノ地ナリト云フ大岩ノ上ニ、【姥强力】蹄ノ跡及ビ其駒ヲ育テシト云フ老女ノ下駄ノ齒ノ跡殘レリ。此村ニハ更ニ一箇ノ奇巖ノ面ニ無數ノ馬蹄ノ痕ヲ印スルモノアリテ、里人之ヲ崇拜ス〔駿國雜志二十五〕。一說ニ栃澤村ノ民五郞左衞門ガ厩ニ池月ハ生レタリト云フハ、同ジ家ノ事ニシテ名馬ノ名ノミ何レカ誤聞ナルべシ。此家ハ又昔名僧聖一國師ヲ產シタリ。【明星】元亨釋書ノ傳記ニ、國師ノ母手ヲ擧ゲテ明星ヲ採ルト夢ミテ孕ムトアルハ因緣ナキニシモアラズ〔遊囊賸記〕。尙此ヨリ遠カラザル久須美ト云フ村ニモ、磨墨ノ生地ト稱シテ蹄ノ跡ヲ印シタル石アリト云フ〔駿國雜志同上〕。

 

《訓読》

 武藏には、固より、池月・磨墨の遺蹟と云ふもの、甚だ多し。就中、西多摩郡調布村大字駒木野の傳說に於いては、亦、池月、此の國に產せしことを主張するなり。其の說に依れば、駒木野は古くは「駒絹」と書けり。【池田】源平の頃に、村より西に當つて、多摩川の北岸、今の三田村大字澤井の地に「池田」と云ふ沼あり。【駒牽澤】或る日、此の沼の邊りより、一頭の駒、飛び出だし、今の吉野村大字日影和田と、同村大字畑中との境なる「駒牽澤」と云ふ處を過ぎて、駒木野の里まで馳せ來たりしを、村民等、網を以つて奔馬に蔽ひ掛けて、終に之れを捕へ、亦、鎌倉將軍家に獻上す。後に高名の駿足池月と聞えたるは、即ち、此の馬のことなり〔「新編武藏風土記稿」〕。一匹の素絹(そけん)を引かせて、末が地に落ちぬ程に奔(は)せたりと云ふ駿馬の話は、よく之れを聞く、それを思ひ出ださしむべき昔物語なり。伊豆の田方郡弦卷山の中腹にも、池月・磨墨を野飼に育てたる話あり。磨墨、此の山に在りて高く嘶けば、池月は丹那村の山より遙かに聲を合はせたりと云ふ。【駒形神】弦卷山の山中、其の跡として「駒形」の地名あり、且つ、そこには駒形神を祀れり。祠の傍らに、別に一箇の立石ありて、衣冠騎馬の神像を刻すと云へば〔「日本山嶽志」〕、即ち前に擧げたる輕井澤の駒形權現と同じ物ならんか。駿河は普通に磨墨終焉の地として認めらるくゝが、猶ほ、其の西郡には彼が生れたりと云ふ家あり。即ち、安倍郡大川村大字栃澤の舊家米澤氏にては、磨墨は此の家の厩に產れたりと傳へ、厩の地なりと云ふ大岩の上に、【姥强力(うばがうりき)】蹄の跡及び其の駒を育てしと云ふ老女の下駄の齒の跡、殘れり。此の村には、更に一箇の奇巖の面に無數の馬蹄の痕を印するものありて、里人、之れを崇拜す〔「駿國雜志」二十五〕。一說に栃澤村の民、五郞左衞門が厩に池月は生れたりと云ふは、同じ家の事にして、名馬の名のみ何れか誤聞なるべし。此の家は又、昔、名僧聖一(しやういち)國師を產したり。【明星】「元亨釋書」の傳記に、國師の母、手を擧げて明星を採ると夢みて孕むとあるは、因緣なきにしもあらず〔「遊囊賸記(いふなうしやうき)」〕。尙ほ、此(ここ)より遠からざる久須美と云ふ村にも、磨墨の生地と稱して、蹄の跡を印したる石ありと云ふ〔「駿國雜志」同上〕。

[やぶちゃん注:「西多摩郡調布村大字駒木野」現在の東京都八王子市裏高尾町のこの附近であろう(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。高尾駒木野庭園などの名にそれが残る。【公開同日夕刻:削除・追記】何時もお世話になっているT氏より、これは多摩川の右岸にある現在の東京都青梅市駒木町であると御指摘を受けた。同氏によれば、「西多摩郡調布村大字駒木野」は明治二二(一八九八九)年四月一日の町村制施行により、下長淵村・上長淵村・駒木野村・友田村・千ヶ瀬村・河辺村が合併し、神奈川県西多摩郡調布村が成立、昭和二六(一九五一)年四月一日に青梅町・霞村との合併により、「青梅市」が発足して「調布村」は消滅している。確かに、この位置だと、以下の柳田國男の言う「西」が適合する。全くの私の錯誤であった。T氏に感謝申し上げる。

「三田村大字澤井」多摩川の北岸にある東京都青梅市沢井と思われる(上記旧駒木野から直線で約六キロメートルほど西北の多摩川上流)【前記追記により同日夕刻改稿】

『「池田」と云ふ沼』沢井地区には現認出来ない。

「素絹(そけん)」練っていない生糸で作った粗悪な絹布のこと。

「伊豆の田方郡弦卷山」以下も合わせて、前に出た「此の火山の南側、伊豆の輕井澤を下(くだ)りに赴けば、路の右なる松の中に、駒方權現の社あり」の注で詳細に考証済み。私はここと推定した(国土地理院図)。

「安倍郡大川村大字栃澤」静岡県静岡市葵区栃沢ウィキの「磨墨塚」に、伝承の各項の一つとして静岡県静岡市葵区大間の「福養(ふくよう)の滝」(栃沢の北北西七キロメートル)を挙げ、『大間の部落は、静岡西部を流れる藁科川の水源付近。昔、毎年』五月五日『の午前十時頃になると』、一『頭の馬が福養の滝の滝つぼにつかり』、『毛並みを整えていたという。後に米沢家で飼われて駿馬「磨墨」となった。これに因んで、この滝は「お馬が滝」と呼ばれるようになった』とあり、また、『福養の滝は別名「御馬の滝」あるいは「磨墨の滝」とも呼ばれた。名馬「磨墨」は、実は藁科の里「栃澤」の生まれということに由来する。また、福養の滝は、古来から「雨乞の滝」としても有名で、智者山神社の信仰と深い関係がある』とあった。

「厩の地なりと云ふ大岩の上に、【姥强力(うばがうりき)】蹄の跡及び其の駒を育てしと云ふ老女の下駄の齒の跡、殘れり。此の村には、更に一箇の奇巖の面に無數の馬蹄の痕を印するものありて、里人、之れを崇拜す」ネット検索では掛からない。孰れも現存しないか。

「聖一(しやういち)國師」鎌倉中期の臨済僧円爾(えんに 建仁二(一二〇二)年~弘安三(一二八〇)年)の諡号(しごう)。ウィキの「円爾」によれば、駿河国安倍郡栃沢(現在の静岡市葵区栃沢)に生まれる。『幼時より久能山久能寺』(静岡県静岡市清水区にある臨済宗補陀落山鉄舟寺の前身。当時は天台宗)で十八『歳で得度(園城寺にて落髪し、東大寺で受戒』『)し、上野国長楽寺の栄朝、次いで鎌倉寿福寺の行勇に師事して臨済禅を学』んだ。嘉禎元(一二三五)年、『宋に渡航して無準師範の法を嗣いだ。法諱は初め弁円と称し、円爾は房号であったが、後に房号の円爾を法諱とした』。仁治二(一二四一)年、『宋から日本へ帰国後、上陸地の博多にて承天寺を開山、のち』、『上洛して東福寺を開山する。宮中にて禅を講じ、臨済宗の流布に力を尽くした。その宗風は純一な禅でなく禅密兼修で、臨済宗を諸宗の根本とするものの、禅のみを説くことなく』、『真言・天台とまじって禅宗を広めた。このため、東大寺大勧進職に就くなど、臨済宗以外の宗派でも活躍し、信望を得た』。『晩年は故郷の駿河国に戻り、母親の実家近くの蕨野に医王山回春院を開き』、『禅宗の流布を行った。また、宋から持ち帰った茶の実を植えさせ、茶の栽培も広めたことから静岡茶(本山茶)の始祖とも称される。墓所ともなった「医王山回春院」の名は茶の持つ不老長寿の効能をうたったものと伝えられる』。『なお、静岡市では、円爾の誕生日(新暦)である』十一月一日『を「静岡市お茶の日」に制定し、茶業振興のPRに努めている』。『没後の』応長元(一三一一)年、『花園天皇から「聖一」の国師号が贈られた』。因みに、『博多の勇壮な夏祭りである博多祇園山笠は、円爾が起源とされ』、『疫病が流行していた博多で、円爾が博多町人に担がれた施餓鬼棚の上に乗り、水を撒きながら疫病退散を祈祷したのが山笠の始まりとされ、今日ではこの時を山笠の歴史の始まりとしている。櫛田神社のお祭りである山笠が承天寺前をコースとし、各舁き山が櫛田神社のみならず承天寺にも奉納するのはこうした歴史的経緯があるため』ともある。

「元亨釋書」は日本初の仏教通史で全三十巻。その著者である臨済僧虎関師錬(こかんしれん 弘安元(一二七八)年~興国七/貞和二(一三四六)年)は円爾の孫弟子である。但し、私の持つ同書の電子データでは、ここに出るとする逸話が見当たらない。]

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