フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 岩波文庫本のはしに 清白(伊良子清白) / 岩波文庫版詩集「孔雀船」の序 | トップページ | ゆく春三章 伊良子清白 »

2019/06/23

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(41) 「水邊ニ牧ヲ構ヘテ龍種ヲ求ム」(2)

 

《原文》

 駿馬ノ龍ヲ父トスルコト、近世ニ於テモ正シク其實例アリキ。【龍ケ池】羽前東田川郡淸川村ノ對岸ニ龍ケ池アリ。【鞍淵】此水ハ山中ノ靑鞍淵ト地下ニ相通ズト傳ヘラレ、曾テ領主ガ池水ヲ切落サントセシ時ニモ、掘ルニ從ヒテ底愈窪ミ、漫々トシテ終ニ其深サヲ減ゼザリキ。此池ニモ龍アリテ住ムガ故ニ、池ノ空ニ龍ノ形ヲシタル雲ノ折レ棚引クヲ見ルコトアリ。【野飼】酒井侯忠眞ノ治世ニ、成澤村ノ農長右衞門ガ家ノ女馬、此池ノ岸ニ野飼スル間ニ龍ノ子ヲ孕ミタリ。生レシ駒ハ鹿毛ノ駿逸ナリキ。忽チニ藩主ノ乘馬トナリ後ニ之ヲ公儀ニ獻ズト云フ〔三郡雜記下〕。士佐ノ果下馬(トサゴマ)ハ體コソ小サケレ、健カニシテ且ツ鋭キコトヨク彼國ノ人物ニ似タリ。其開祖モ亦水邊ノ牧ヨリ出デシモノニテ、一說ニハ牝馬ノ海鹿(アシカ)ト交リテ生ミシ子ナリト稱シ、ソレ故ニ性質チト順良ナラズトモ評セラル〔有斐齋剳記〕。此等ノ事實ヲ參酌シ、兼テ又多クノ池月ガ池ノ邊ヨリ生レ出シコトヲ思ヒ合ストキハ、我邦ニテ延喜式以來ノ諸國ノ牧場ノ海ニ臨メル地ニ多カリシハ、決シテ單ニ土居ヤ圍障ノ經費ヲ節約センガ爲ノミニ非ザリシコトヲ疑フ能ハズ。即チ斯クスレバ良キ駒ヲ產スべシト云フ經驗乃至ハ理論ノ確乎タルモノアルニ非ザレバ、島地岬端ヲ求ムルコト此ノ如ク急ナルべキ理無キナリ。俗說ノ傳フル所ニ依レバ、馬ハ應神天皇ノ御代ニ高麗國ヨリ初メテ之ヲ貢獻ス。【生駒山】之ヲ飼フべキ途ヲ知ラズ、山ニ放チタルニ依リテ其山ヲ生駒山ト云フ。其後高麗ヨリ人渡リテ申ス、岩石峯海ノ邊鹽風ニ當ル處ニ放チ飼ヘバ駿馬トナリテヨシト申ス。依リテサアリヌべキ處ヲ尋ネ、但馬國ノ海峯ニ斯ル處ヲ求メ得テ馬ヲ追放ツ。其後子ドモ多ク生レテ馬此國ニ充滿シケリ。故ニ多馬(タマ)ノ國ト號ス云々〔但馬考所引國名風土記〕。【島ノ牧】島ノ牧ニ至リテハ近世ニモ例甚ダ多シ。羽前ノ海上ニ飛島ナリシカ粟島ナリシカ、今モ共有ノ野馬山ニ多ク居リ、島人其用アル時ノミ繩ヲ携ヘ行キテ之ヲ捕ヘテ使ヒ、用終レバ復之ヲ放ツト云フ話ヲ聞キシコトアリ。伊豆ノ大島ニテハ里ニ飼フハ牛ノミナレドモ、八代將軍ノ時ニ放牧セシ野馬ノ子孫、三原山ノ中腹ニ永ク住ミテアリシト云ヘリ。津和野ノ龜井伯ノ始祖龜井琉球守玆矩ハ雄圖アル武將ナリキ。曾テ大船ヲ購ヒテ明國安南暹羅ナドト貿易セシ頃、多クノ驢馬野牛ヲ舶載シ來リテ之ヲ因幡湖山池(コナンイケ)ノ靑島ニ放牧ス。其種永ク盡キズ、寬永年中ニ至リテ尙其姿ヲ見タリト云フ〔漫遊人國記〕。瀨戶内海ニハ島ノ牧殊ニ多カリキ。熊谷直好ノ歸國日記ニ

  赤駒ニ黑ゴママジリ遊ビ來ル島ノ松原面白キカナ

ト詠ジタルハ、今ノ何島ノ事ナリヤハ知ラザレドモ、安藝ノ海中ニモ馬島ト稱シテ野馬ノ多キ一島アリキ。但シ之ヲ取還ラントスル者アレバ、其舟必ズ覆沒スト云ヘバ〔有斐齋剳記〕、世用ニ於テハ益無キナリ。播州家島(エジマ)ノ南方十五町ノ處ニモ、寬文ノ頃一ノ馬島アリテ牧ヲ設ケラル〔西國海邊巡見記〕。安藝賀茂郡阿賀町ヨリ一里ノ海上ニ、情島(ナサケジマ)ト云フ大小二箇ノ島アリ。大情ノ方ハ承應三年ニ藩ノ牧場ト定メラレ之ニ十匹ノ馬ヲ放ス。追々ニ繁殖シテ明曆ノ頃ニハ二十餘頭ニ達シタリ。後年其數ノ減ズルヲ以テ文化十四年ニハ更ニ一頭ノ月毛ヲ放ス。此月毛ハ廣島ノ東照宮ノ祭ノ神馬ナリキ。後ニ又牝馬二匹ヲ以テ其牧ニ加ヘタリト云ヘリ〔藝藩通志〕。讚州高松藩ニテハ慶安年中ニ大内郡ノ大串山ト云フ處ニ馬牧ヲ開キ馬ヲ放ス。大串山ハ島ニ非ズ、一里バカリ海中ニ突出スル半島ナリ。陸續キノ一面ニハ塹ヲ掘リテ馬ノ逸出スルヲ防ギタリ。此牧ハ良馬ヲ出サザリシガ故ニ終ニ之ヲ罷ムトアリテ〔讚岐三代物語〕、爰ニモ明カニ龍神信仰ノ末法ヲ示セリ。此序ニ申サンニ、大串山ノ串ハ半島又ハ岬ノコトナリ。地方ニ由リテハ之ヲ久慈又ハ久枝トモ書ケド、是レ恐クハ二字ノ嘉名ヲ用ヰシモノニテ、紀州ノ串本、長門ノ小串其他、串ト書スル例モ多シ。串ハ朝鮮語ニテモ亦半島若シクハ岬ヲ意味シ、本來「コツ」ノ語音ニ宛テタル漢字ナランカト云ヘリ。而シテ朝鮮ニテモ島又ハ串(コツ)ヲ馬牧トスルハ最モ普通ノ慣習ナリシナリ。其例ヲ擧グレバ限無シト雖、中ニモ大ナルハ全羅道大靜縣ノ加波島、慶尙道熊川縣南海ノ加德島、同ジク長髻縣ノ冬乙背串、忠淸道ニテハ瑞山郡ノ安眠串、奉安郡ノ和靈山串、大小山串梨山串薪串ノ四串、河川郡ノ金宅串、唐津縣ノ西ニ在ル孟串ノ如キモ皆古來ノ牧ナリキ〔東國輿地勝覽〕。獨リ日本内地ノミノ風習ニハ非ザリシコトハ此ダケニテモ容易ニ察スルコトヲ得ルナラン。

 

《訓読》

 駿馬の龍を父とすること、近世に於いても正(まさ)しく其の實例ありき。【龍ケ池】羽前東田川郡淸川村の對岸に龍ケ池あり。【鞍淵】此の水は山中の靑鞍淵と地下に相ひ通ずと傳へられ、曾つて領主が池水を切り落とさんとせし時にも、掘るに從ひて、底、愈々、窪み、漫々として、終に其の深さを減ぜざりき。此の池にも龍ありて住むが故に、池の空に龍の形をしたる雲の、折れ棚引くを見ることあり。【野飼】酒井侯忠眞(ただざね)の治世に、成澤村の農長右衞門が家の女馬、此の池の岸に野飼する間に、龍の子を孕みたり。生れし駒は鹿毛(かげ)の駿逸なりき。忽ちに藩主の乘馬となり、後に之れを公儀に獻ずと云ふ〔「三郡雜記」下〕。士佐の「果下馬(とさごま)」は體こそ小さけれ、健かにして、且つ、鋭きこと、よく彼の國の人物に似たり。其の開祖も亦、水邊の牧より出でしものにて、一說には牝馬の海鹿(あしか)と交りて生みし子なりと稱し、それ故に、性質、ちと、順良ならずとも評せらる〔「有斐齋剳記(いうびさいたうき)」〕。此等の事實を參酌し、兼ねて又、多くの池月が池の邊より生れ出でしことを思ひ合すときは、我が邦にて「延喜式」以來の諸國の牧場の海に臨める地に多かりしは、決して單に土居(どゐ)や圍障(ゐしやう)の經費を節約せんが爲めのみに非ざりしことを疑ふ能はず。即ち、斯くすれば、良き駒を產すべしと云ふ經驗乃至は理論の確乎たるものあるに非ざれば、島地(しまち)・岬端(こうたん)を求むること此くのごとく急なるべき理(ことわ)り、無きなり。俗說の傳ふる所に依れば、馬は應神天皇の御代に高麗國(こうらいこく)より初めて之れを貢獻す。【生駒山】之れを飼ふべき途(みち)を知らず、山に放ちたるに、依りて其の山を生駒山と云ふ。其の後、高麗より、人、渡りて申す、「岩石峯海の邊、鹽風に當たる處に放ち飼へば、駿馬となりてよし」と申す。依りて、さありぬべき處を尋ね、但馬國の海峯に斯る處を求め得て、馬を追ひ放つ。其の後、子ども、多く生れて、馬、此の國に充滿しけり。故に「多馬(たま)の國」と號す云々〔「但馬考」所引「國名風土記」〕。【島の牧】島の牧に至りては、近世にも、例、甚だ多し。羽前の海上に飛島(とびしま)なりしか粟島(あはしま)なりしか、今も共有の野馬、山に多く居り、島人、其の用ある時のみ、繩を携へ行きて、之れを捕へて使ひ、用終れば、復た之れを放つ、と云ふ話を聞きしことあり。伊豆の大島にては、里に飼ふは牛のみなれども、八代將軍の時に放牧せし野馬の子孫、三原山の中腹に永く住みてありしと云へり。津和野の龜井伯の始祖龜井琉球守玆矩(これのり)は雄圖ある武將なりき。曾つて大船を購ひて、明國・安南[やぶちゃん注:現在のヴェトナム。]・暹羅(しやむ)[やぶちゃん注:シャム。現在のタイ。]などと貿易せし頃、多くの驢馬・野牛を舶載し來たりて、之れを因幡湖山池(こさんいけ)の靑島に放牧す。其の種、永く盡きず、寬永年中[やぶちゃん注:一六二四年~一六四五年。]に至りて尙、其の姿を見たりと云ふ〔「漫遊人國記」〕。瀨戶内海には島の牧、殊に多かりき。熊谷直好(くまがいなほよし)の「歸國日記」に

  赤駒に黑ごままじり遊び來る島の松原面白きかな

と詠じたるは、今の何島の事なりやは知らざれども、安藝の海中にも馬島と稱して野馬の多き一島ありき。但し、之れを取り還らんとする者あれば、其の舟、必ず覆沒すと云へば〔「有斐齋剳記」〕、世用(せよう)に於いては、益、無きなり。播州家島(えじま)の南方十五町[やぶちゃん注:一キロ六百四十メートル程。]の處にも、寬文[やぶちゃん注:一六六一年~一六七三年。]の頃、一つの馬島ありて、牧を設けらる〔「西國海邊巡見記」〕。安藝賀茂郡阿賀町より一里の海上に、情島(なさけじま)と云ふ大小二箇の島あり。大情の方は承應三年[やぶちゃん注:一六五四年。]に藩の牧場と定められ、之れに十匹の馬を放す。追々に繁殖して、明曆[やぶちゃん注:一六五五年~一六五八年。]の頃には二十餘頭に達したり。後年、其の數の減ずるを以つて、文化十四年[やぶちゃん注:一八一七年。]には更に一頭の月毛を放す。此の月毛は廣島の東照宮の祭の神馬なりき。後に又、牝馬二匹を以つて其の牧に加へたりと云へり〔「藝藩通志」〕。讚州高松藩にては、慶安年中[やぶちゃん注:一六四八年~一六五二年。]に大内郡の大串山と云ふ處に馬牧を開き、馬を放す。大串山は島に非ず、一里ばかり海中に突出する半島なリ。陸續きの一面には塹(ほり)を掘りて、馬の逸出するを防ぎたり。此の牧は良馬を出ださざりしが故に、終に之れを罷むとありて〔「讚岐三代物語」〕、爰にも明らかに龍神信仰の末法を示せり。此の序でに申さんに、大串山の「串」は「半島」又は「岬」のことなり。地方に由りては之れを「久慈」又は「久枝」とも書けど、是れ、恐らくは二字の嘉名を用ゐしものにて、紀州の串本、長門の小串其の他、「串」と書する例も多し。「串」は、朝鮮語にても亦、「半島」若しくは「岬」を意味し、本來、「コツ」の語音に宛てたる漢字ならんかと云へり。而して朝鮮にても、「島」又は「串(コツ)」を馬牧とするは、最も普通の慣習なりしなり。其の例を擧ぐれば限り無しと雖も、中にも大なるは、全羅道大靜縣の加波島、慶尙道熊川縣南海の加德島、同じく長髻縣の冬乙背串(とうつはいこつ)、忠淸道にては瑞山郡の安眠串、泰安郡の和靈山串、大小山串・梨山串・薪串の四串、沔川(べんせん)郡の金宅串、唐津縣の西に在る孟串のごときも皆、古來の牧なりき〔「東國輿地勝覽」〕。獨り日本内地のみの風習には非ざりしことは此れだけにても容易に察することを得るならん。

[やぶちゃん注:「羽前東田川郡淸川村の對岸に龍ケ池あり」山形県東田川郡庄内町清川はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。最上川左岸の集落で、対岸の山の中腹に池が現存する(少し外れた北西にも別に小さな池沼があるが、航空写真に切り替えて見ると干上がっている可能性が濃厚であり、国土地理院図(後掲)ではこの小さな池自体が確認出来ない。雰囲気からすると、谷筋を堰堤で仕切った人工の滞水域のようにも見えるが、後の「成澤村」の注をも参照されたい)。但し、こちら側(最上川右岸)は山形県酒田市成興野(なりこうや)須郷(すごう)であり、調べても池の名は判らない(しかし有意な池であるから、名はあるはずである)。「山中の靑鞍淵」も判らぬが、池があるその上のピークは低く、流れも北の谷になるので、或いは、東北部に聳える山塊の大きな複数の谷(国土地理院図)の孰れかの淵を指すものかも知れない。

「曾つて領主が池水を切り落とさんとせし時にも、掘るに從ひて、底、愈々、窪み、漫々として、終に其の深さを減ぜざりき。此の池にも龍ありて住むが故に、池の空に龍の形をしたる雲の、折れ棚引くを見ることあり」この話、私は以前、全く別の江戸の奇談集で確かに読んだ記憶があるのだが、思い出せない。思い出した時は追記する。

「酒井侯忠眞」出羽庄内藩第四代藩主酒井忠真(寛文一一(一六七一)年~享保一六(一七三一)年)。天和二(一六八二)年に父忠義の死により家督を相続した。元禄六(一六九三)年には側用人に就任している。

「成澤村」ロケーションの続きから、国土地理院図で調べると、山形県酒田市成興野の北に成沢の地名を見出せる。ところが、この地区を北から流れる「又右ェ門川」(柳田國男の言う「農長右衞門」の名が冠された川だ)の中途部分が先のグーグル・マップ・データで確認出来る池のような溜まりなのである。ちょっと悩ましいが、しかし、ここは谷の途中が堰き止められたようなもので、地形的に見ても周囲に平地が殆んどない。駒を野飼いするスペースを池の周囲が有するのは、圧倒的に先の、ここの東南東にある大きな方であるから、私の同定は変更しない。

「果下馬(とさごま)」広義の「果下馬(かかば)」は所謂、現在のポニー(pony:肩までの高さが百四十七センチメートル以下の小さな馬)の元になった品種の一つ。柳田國男が振っている「とさごま」=土佐馬は小柄な馬で、山の坂道を良く歩くとされたが、既に純血種は絶滅してしまっている。個人サイトらしき「Private Zoo Garden」の「カカバ(果下馬)」によれば、中国広西チワン自治区原産で、丈は一メートルから一メートル二十センチメートルほどで、『毛色は茶褐色、赤茶色、乳白色などで、顔は広く、ロバに似た感じがする』。『古くは騎馬用などにも用いられたようであるが、婦女子の乗馬用などにも好まれていたようである』。『カカバは丈夫でおとなしい性格のため、近年まで使役動物としても用いられてきたが、現在では在来のものが少なくなっている』。『主に青草などを食べ、習性などはポニーの仲間と同じと思われる』。『カカバは「果下馬」と書かれるが、この名前は、体が小さいので』、『果樹の木の下を通り抜けることが出来るということ』に由来するとある。『また、現在、韓国で天然記念物に指定されている「済州馬」は、カカバと同種であると思われ、かつてカカバは朝鮮半島にも生息していたと考えられている』。『国内にもノマウマ (野間馬) などの小型の在来馬が生息しているが、いずれも生息数は少なく、保護されている』とある。貝原益軒の「大和本草」の巻之十六の「獸類」の「猿」と「貒(まみ)」(タヌキ)の間に「果下馬」がある。私のブログ・カテゴリ『貝原益軒「大和本草」より水族の部』のポリシーに従って電子化する。底本は「学校法人中村学園図書館」公式サイト内にある宝永六(一七〇九)年版の貝原益軒「大和本草」PDF版を視認してタイプした(リンク先は目次のHTMLページ)。

   *

【外】大明一統志曰果下馬肇慶府瀧水縣出

 者爲最高不踰三尺長者有兩脊骨號雙脊馬健

 而能行是土佐駒ナルヘシ土佐駒ハ草ヲ食シテ能重

 キヲ䭾フ不要飼穀甚便于民用又范石湖カ桂海

 獸志ニモノセタリ與一統志所載略同是一統志ヨリ

 古書ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

【外】[やぶちゃん注:この「外」とは、本書が主に拠るところの明の李時珍の「本草綱目」には載せないが、他の中国の本草書には載る種の謂いである。]

「大明一統志」に曰はく、『果下馬、肇慶府瀧水〔(らうすい)〕縣に出づる者、最と爲す。高さ三尺の長〔(たけ)〕に踰〔(こ)〕ゑざる[やぶちゃん注:ママ。]者、兩〔つながら〕、脊骨、有り、「雙脊馬」と號す。健かにして能く行く』〔と〕。是れ、「土佐駒」なるべし。土佐駒は草を食して、能く重きを䭾(を)ふ[やぶちゃん注:ママ。「負ふ」「擔ふ」であるから歴史的仮名遣は「おふ」でよい。]。穀を飼〔(かひばと)する〕ことを要せず、甚だ民用に便〔(びん)〕:なり。又、范石湖が「桂海獸志」にものせたり。「一統志」の載する所と、略〔(ほぼ)〕同じ。是れ、「一統志」より古書なり。

   *

・「大明一統志」は明の勅撰の地理書。一四六一年完成。全九十巻。

・「范石湖」南宋の政治家で詩人で「南宋四大家」の一人に数えられる范成大(一一二六年~一一九三年)の号。「桂海獸志」は恐らく彼が書いた桂林・広西の民俗誌の「桂海虞衡志」の中の獣類パートを指すものと思われる。

「海鹿(あしか)」食肉目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科アシカ亜科 Otariinae のアシカ類。詳しくは「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 海獺(うみうそ)(アシカ類・ニホンアシカ)」を見られたい。そこでも、アシカを「頭は馬のごとく」とか言っているが、全然違うっうの!

「土居(どゐ)」土塁。

「圍障(ゐしやう)」垣根・塀・柵。孰れも、所謂、人工のテキサス・ゲート。

「馬は應神天皇の御代に高麗國(こうらいこく)より初めて之れを貢獻す」これっておかしいだろ! 「古事記」の素戔嗚尊が機屋に投げ込んだんは何の皮やねん!! 但し、ウィキの「馬」によれば、『先史時代の日本には乗馬の歴史はなく、大陸から伝来した文明、文化とされる。日本に馬が渡来したのは古くても、弥生時代末期』(紀元後三世紀中頃)『ではないかといわれ』、四『世紀末から』五『世紀の初頭になって』、『漸く乗馬の風習も伝わったとされる』とある。因みに、応神天皇の在位期間は機械換算で二七〇年から三一二年。しかして以上は「日本書紀」の応神天皇十五(二八四)年八月六日の記載に無批判に拠ったもの。

   *

十五年秋八月壬戌朔丁卯。百濟王遣阿直岐。貢良馬二匹。卽養於輕坂上厩。因以以阿直岐令掌飼。故號其養馬之處曰厩坂也。阿直岐亦能讀經典。卽太子菟道稚郞子師焉。於是天皇問阿直岐曰。如勝汝博士亦有耶。對曰。有王仁者。是秀也。時遣上毛野君祖荒田別。巫別於百濟。仍徴王仁也。其阿直岐者。阿直岐史之始祖也。

   *

「羽前の海上」「飛島(とびしま)なりしか粟島(あはしま)なりしか」山形県酒田市飛島なら羽前。新潟県岩船郡粟島浦村の粟島は羽前ではない。馬の話もネットでは掛かってこない。ただ、柳田國男がいい加減な誤認で粟島を出したものではないようには思う。粟島と飛島は対馬海流の影響下にあり、南方系の文化北上のルートとしてダイレクトに繋がっているからである。但し、だから、これらの島に南の馬が運ばれてきたなどと軽々に言おうと言うのではない。

「津和野の龜井伯の始祖龜井琉球守玆矩(これのり)」(弘治三(一五五七)年~慶長一七(一六一二)年)は戦国大名で、因幡鹿野(しかの)藩初代藩主。父は尼子氏家臣であった湯左衛門尉永綱。武蔵守。尼子氏の滅亡後、諸国を流浪し、天正元(一五七三)年、因幡国に来住、尼子氏再興を図る旧臣山中鹿之介幸盛に従って各地に転戦、同二年、幸盛の養女を妻に迎え、同じく尼子氏旧臣で幸盛の外舅に当たる亀井秀綱の家号を継いだ。後、幸盛とともに織田信長に属し、幸盛が死去すると、その部下を率いて羽柴(豊臣)秀吉に属した。同八年、因幡国に入り、鹿野城(現在の鳥取県気高郡鹿野町)に籠って毛利軍と戦い、秀吉の鳥取(久松山)城攻略に貢献、同国気多郡に一万三千八百石を与えられ、鹿野城主となる。その後、九州征討・朝鮮出兵にも従軍し、秀吉から琉球征服の朱印を得て、前代未聞の「琉球守」を称した。慶長五(一六〇〇)年の「関ケ原の戦い」では、家康方に属し、同国高草郡を宛がわれ、計三万八千石を領した。気多郡日光池や高草郡湖山池の干拓を手掛け、千代川左岸に延長二十二キロメートルにも及ぶ「大井手用水」を設けた。また、南方種の稲を栽培させ、桑・楮(こうぞ)の植樹に努めるなど、産業振興を図るとともに、文禄年間(一五九二年~一五九六年)から伯耆国日野郡に銀山を経営した。また、慶長一二(一六〇七)年から、三度に亙ってサイヨウ(現在のマカオ周辺)やシャム(タイ)に貿易船を派遣、家康とシャム国王の仲介にも努めている(以上は主文を「朝日日本歴史人物事典」よった。さて、以下、ウィキの「亀井茲矩」によれば、『茲矩は東アジアへの関心に影響されてか、秀吉が中国大返しによって姫路城に戻った』六月七日の『翌日、毛利と講和したため』、『茲矩に約束していた出雲半国の代わりに恩賞となる別国の希望を聞いたところ』、『「琉球国を賜りたい」と答えたため、秀吉は「亀井琉球守殿」と書いた扇を茲矩に授けたという』。『琉球守』と『は律令にないユニークな官職名であり、茲矩も琉球征伐を秀吉に申し出て』、『一度は許可されている。しかし豊臣政権として』は『琉球政策は島津氏を取次とする支配体系と』決した『ため、権益を有する島津家からの妨害もあって』、『茲矩の官職名は九州征伐の頃から小田原征伐の頃にかけて武蔵守となっている。その後、台州守の号を称したが、これは現在の中』『国浙江省の台州市のことである。ただし、文禄・慶長の役で明攻略が挫折した以降は』、『再び武蔵守を名乗っている』とある。

「因幡湖山池(こさんいけ)の靑島」鳥取県鳥取市北部にある、「池」と名に付く湖沼の中では日本最大の広さを持つ汽水湖湖山池(こやまいけ)の南部に浮かぶ最大の無人島青島。陸地からは五百メートルも離れておらず、現在は青島大橋で陸と結ばれている。

「熊谷直好(くまがいなほよし)」(天明二(一七八二)年~文久二(一八六二)年)は江戸後期の周防国岩国藩士で歌人。鎌倉初期の名将熊谷直実の第二十四世を称した。ウィキの「熊谷直好」によれば、もとは『萩藩藩士となった安芸熊谷氏分家の出身』。先祖の一人『熊谷信直の五男』『熊谷就真』(なりざね)『が熊谷騒動(毛利家による熊谷本家・熊谷元直の粛清事件)に連座』して『萩を追われ』、『岩国に一時』、『滞在し』た。『のち』、『一族が赦された際、就真の子』『正勝は萩に戻らず』、『岩国藩士となった』が、その『子孫が直好であ』った。十九歳の時、『上洛して香川景樹に師事、桂門』一千『人中の筆頭と称された。香川景樹の桂園十哲の一人にも数えられ』たが、文政八(一八二五)年、『香川家の扶持問題に絡んで脱藩している。京都に住んだが、その後』、『大阪へ移っ』て歌業に専念した。『歌集に「浦のしお貝」、著書に「梁塵後抄」「法曹至要抄註釈」「古今和歌集正義序註追考」など』がある。「歸國日記」も「赤駒に」の一首も不詳。

「安藝の海中」「馬島」広島県呉市三津口湾に馬島(まじま)という無人島はある。ここかどうかは知らぬ。

「播州家島(えじま)の南方十五町」、瀬戸内海東部の播磨灘(姫路市から沖合約十八キロメートル)にある家島(いえしま)諸島。東西二十六・七キロメートル、南北十八・五キロメートルに亙って大小四十余りの島嶼で構成されている(現在は諸島全域が兵庫県姫路市に属する)が、この家島は主島「家島」を含めて地元では「いえしま」ではなく、「えじま」と呼ばれるウィキの「家島諸島」にある。ここで言う「一つの馬島」は、示された方角と距離と牧を設け得る島の大きさから見て無人島「矢ノ島」しかない(航空写真をリンクさせたが、しかし、およそ現況は馬の飼えるような状態にはない)

「安藝賀茂郡阿賀町より一里の海上に、情島(なさけじま)と云ふ大小二箇の島あり」大情島(有人島)と無人島の小情島がある。広島県呉市阿賀町。なお、ここについては、ウィキの「情島」に、『江戸時代、広島藩はこの島に放牧場を設けた』。『そして阿賀の農民に管理させるため移住させている』とあった。但し、『昭和初期で人口約』百四十人で『柑橘栽培に従事してい』たが、『太平洋戦争時には』『大日本帝国海軍呉鎮守府が接収し』、『竜巻作戦(特四式内火艇)や伏龍の秘密訓練場となった』。『大戦末期には浮砲台として日向がこの沖に置かれ、呉軍港空襲により大破』した『戦後、帰ってきた元島民により』、昭和二二(一九四七)年時点では人口二百七人にまで伸びたものの、『以降』、『減少を続け』、二〇一〇年『現在で人口は』六世帯九人、高齢化率八十八・九%、『平地自体』が『極端に狭いという地形的制約から』、『今後の人口増を望むことが難しく、将来的には集落維持が困難になることが懸念されている』。『上水道施設は存在しておらず、各家庭』、『井戸を用いている』。『周辺は小型底引き網の漁場で』、『住民はいわゆる半農半漁』ではあるものの、『島内の漁業従事者は』二〇一〇年現在、ただ一人、農家は三世帯あるものの、『あくまで自給的なものに留まっている』ありさまである。

「讚州高松藩」「大内郡の大串山」この香川県東かがわ市の海岸線の二箇所の突出部の孰れか。西の鹿浦越岬の突出部或いは西の引田城跡(近くに「大池」「大安戸」と「大」の附く地名がある)辺りか? 「大串」の古称の名残がないために孰れとも言い難い(どちらも根を内陸の海浜線の平均線上からは岬まで一里ほどになり、それぞれ山を成している)。地元の郷土史研究家の御教授を乞う。

「二字の嘉名」発音を分解して二字を縁起の好さそうな当て字とすること。

『「串」は、朝鮮語にても亦、「半島」若しくは「岬」を意味し、本來、「コツ」の語音に宛てたる漢字ならんか』現代韓国語で「串」は「꼬치」(ッコチ)で、「岬」は「갑」(カプ)だが、「~岬」のように地名の末尾に附けるときは、「곶」(ゴッ)。

「全羅道大靜縣の加波島」韓国語音写で「カバド」。ここ

「慶尙道熊川縣南海の加德島」「カドクド」。ここ

「長髻縣の冬乙背串(とうつはいこつ)」この岬附近らしい。以下、地図上でのハングルは私には判らないので、大まかな位置推定であって大間違いかも知れぬのでご注意あれ。

「忠淸道にては瑞山郡の安眠串」この附近か

「泰安郡の和靈山串」「大小山串・梨山串・薪串の四串」孰れもこの半島の一画か。

「沔川(べんせん)郡の金宅串」「唐津縣の西に在る孟串」この半島部の北の先の附近か。よく判らぬ。悪しからず。]

« 岩波文庫本のはしに 清白(伊良子清白) / 岩波文庫版詩集「孔雀船」の序 | トップページ | ゆく春三章 伊良子清白 »