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2019/07/02

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(72) 神道の復活(Ⅲ)

 

 學間の擁護者たる貴族等は、自己が奬勵したかくの如き硏究が、如何なる結果を生ずる可能性を有つて居るかといふ事に就いては、夢にも思ひ及ばなかつた、が併し古代の記錄の硏究、日本文學の硏究、古代の政治及び宗教狀態の硏究の結果、人々は自ら、それまでに本來の國學を殆ど壓倒してしまつた外國文學が及ぼした影響の歷史を考へるやうになつたと同時に、祖先の神々の宗教を壓倒し去つた外國の信仰の歷史をもまた考へるやうになつた。支那の倫理、支那の儀式、支那の佛教は、古代の信仰を第二次の信仰に――殆ど迷信の狀態に――陷れてしまつた。新派の學者の一人は叫んだ、『神道の神々は佛教の奴僕となつてしまつた!』と。併しこれ等の神道の神々は此の人種の祖先であつた、――天皇や親王方の祖先であつた、――從つてそれ等の低下は皇室の傳統の低下を包含しない譯には行かなかつた。實際既に天子は太古から受承した權利と特權とを奪はれてしまつたのみならず、歲入をも奪はれてしまつた、多くの天皇は廢帝とされたり、追放されたり、侮辱されたりした。本來の神々が佛教の神々よりも、劣等な者として承認されたのと丁度同じやうに、神の子孫である今生きて居る天皇なる方々は、武力を用ゐて纂奪した者の寄食者としてのみ統治する事を許されて居た。神聖な法律によつて、此の皇土は悉〻く[やぶちゃん注:「ことごとく」。]『天子』に屬して居たのである、しかも宮室は折々大窮乏に陷る事があつた。そして御門の御料に宛てられた歲入は、皇室の窮乏を救ふには不充分な事があつた。總てかういふ事は確に間違つた事であつた。幕府は實際平和を確立し繁榮の基をつくつて居た、併しそれが武力を以て皇室の權利を纂奪したのに原由して居る事を誰れが忘れ得ようか。唯だ天子をその古來の權勢の位置に復する事により、將軍を彼等の本來の從屬の狀態に貶する事によつてのみ、國民の最善の利害は實際よくなり得たのである……。

 總てかういふ事が考へられ、感ぜられ、强く暗示された。併しその總てが公然と明言された譯ではなかつた。武力政治を纂奪と公言する事は、破滅の源となるであらう。神道の學者達は實際險區域まで接近したけれども、彼等の時代の政治と氣分とが許すと思はれるだけを敢てしたのみであつた。併し十八世紀の末には强力なる一派が現はれて、古代の宗教を國法によつで復活させる事と、御門を最上權に復歸させる事と、武權の根絕は望むべからずとするも、少くともこれを抑壓する事を說いた。併し幕府が恐慌を感じ、大學者篤胤を首都から追ひ、彼にそれ以上の著述を禁じて不安を公表したのは、やうやく一八四一年に至つてからの事であつた。其の後幾何もなくして篤胤は死んだ。併し彼は四十年間自說を唱道する事を得て、著書の發行されたものは數百卷に及んだ、そして彼を殿とし[やぶちゃん注:原文は「last」。従って「しんがりとし」。最後の。]且つ最大の神學者とするその一派は、既に多大の影響を世人に與へて居た。薩長土肥の、頑强御し難き大名等は、機を覗ひ待つて居た。彼等は自身の政策に資する此の新思想の價値を認め、新神道主義を奬勵した、彼等は自分等が德川の支配からの脫出を希望し得る時節の到來した事を感じた。そして彼等の機會は、提督ペリイの艦隊の日本到來と共に終に訪れたのであつた。

[やぶちゃん注:「篤胤を首都から追ひ」ウィキの「平田篤胤」によれば、彼は天保一二(一八四一)年一月一日、江戸幕府の暦制を批判した「天朝無窮暦」を出版したことにより、幕府から「著述差し止め」と「国許帰還(江戸追放)」を命ぜられた。『激しい儒教否定と尊王主義が忌避されたとも、尺座設立』(度量衡の内、度は永く公的に比較的安定していたために、公な決定や標準を指定する機関がなかった)『の運動にかかわったためともいわれる』。同年四月五日に故郷秋田(彼は出羽久保田藩大番組頭大和田清兵衛祚胤(としたね)四男として秋田郡久保田城下の中谷地町(現在の秋田市中通)の生まれであったg、二十歳になったばかりの寛政七(一七九五)年一月に脫藩出奔し、『遺書して国許を去った。正月八日に家を出るものは再び故郷に帰らない、という言い伝えにちなんだという』。『江戸に出た篤胤は、大八車を引いたり』、五『代目市川團十郎の飯炊きや三助、火消しなど』をしつつ、『苦学しながら』、『当時の最新の学問、とくに西洋の医学・地理学・天文学を学びつつ、旗本某氏の武家奉公人となったが、二五歳の時、勤め先で江戸在住の備中松山藩士で山鹿流兵学者平田藤兵衛篤穏(あつやす)の目にとまり、才覚を認められて、その養子となった』経緯がある)に帰着し、十一月二十四日、久保田藩への帰藩が許され、十五人扶持と給金十両を『受け、再び久保田藩士となった』。『江戸の平田塾気吹舎の運営は養子の平田銕胤に委ねられ』、『篤胤は久保田城下に住み、邸宅もあたえられ、門弟たちに国学を教えた』とある。]

 當時の出來事は、人のよく知る處で、此處に絮說[やぶちゃん注:「じよせつ」。くどくどと説明すること。「縷説」に同じ。「絮」は綿毛で、転じて「長く続くこと」を意味する。]する必要は全然ない。幕府が恐怖して、合衆國及び他の諸强國と通商を開き、又外國貿易を行ふ爲めに、實際に諸港を開く餘儀なくされた後に、國中に非常な不滿が起こり、武權政治を敵視するものは、出來得る限り國民を煽動したとだけ言へば足りる。その中幕府は、外國の侵入に抵抗する事の不可能を自ら確知し、西洋諸國の力に就いて、かなり充分に知る事を得た。朝廷は知る處はなかつたが、幕府はこの外國の事に就いての報知を朝廷になす事を當然恐れた。西洋の侵略に抵抗する事の不可能を承認する事は、卽ち德川家の滅亡を招致する事となるのであらう。併しまた一方これに抵抗する事は、帝國の滅亡を招く事とならう。此の時に方つて[やぶちゃん注:「あたつて」。]幕府の敵は、攘夷を命ずるやうに朝廷を說得した。そして此の命令――それは充分に承認された權威の源から發出する、本質的なる一の宗教的命令であつた事を記憶して置かなければならぬが、――此の命令は武權政治を重大な板挾みの狀態に置いたのである。此處に於てそれは力で成就し得なかつた事を政策で成就しようと試みた、併し幕府が外國人の居住者の退去を商議[やぶちゃん注:「しやうぎ」。相談し合うこと。評議。「商」には「商量」と使うように「引き比べて諮(はか)る」の意がある。]して居る間に、長州侯が幾多の外國船に發砲した爲めに、事態は急轉して危機に逼つて[やぶちゃん注:「せまつて」。]しまつた。此行動は下ノ關の砲擊と、三百萬弗[やぶちゃん注:「ドル」。]の償金問題を起こした。將軍家茂はこの敵對行爲を罰せんが爲めに、長州侯を征討しようと企てた、併し此の企ては只だ武權政府の薄弱を證する種となつたのみであつた。家茂は此の敗戰の後幾許も無くして死に、後の後繼者一橋卿は、何事をも行ふ機會を得なかつた――つまり幕府の薄弱が今や明白になつた爲め、敵は勢を得て一擧幕府を倒さうと謀つたからである。敵は朝廷を壓迫して、幕府廢止の宣言をさせた、そこで幕府は法令によつて癈されてしまつた。一橋卿はこれに服從し、德川の代は此處に終つてしまつた――幕臣中幕府に忠節を盡くす念の厚かつた者は、是を再起せんとして、到底敵し難き優勢に對抗して、爾後二年間戰つた。一八六七年に全行政が再ぴ組織され、文武の最大權が御門に復婦した。其の後直に神道の祭祀は、官命を以てその當初の單純に復歸し、國教と宣言され、佛教は扶持を奪はれた。かくして帝國は古代の制度を再び建設し、文學者の一派の望みは皆實現したやうに思はれた――處が玆にただ一つさうでないものがあつた……。

 上掲の文學者仲間の與黨は、新神道派の大創設者が夢想したよりも遙かに極端に進まんとした事を私は述べ度いのである。後のかかる熱心家等は、幕府の癈止と、皇室の勢權の復活と、祖先祭祀の復活とだけでは滿足しなかつた。彼等はあらゆる社會が、太古の單純素朴に復歸する事を欲し、あらゆる外國の影響を逃れん事を望み、國定の儀式、將來の教育、將來の文學、倫理、法律が、純日本のものたらん事を望んだ。彼等は佛教の扶持を奪ふ事を以て滿足せずして、佛教を全然抑壓する爲めに猛烈な提議をもなした。――併しすべてこれは、社會を野蠻狀態に退步せしむる方法をあらはしたと考へ得べきであらう。大學者達は佛教とあらゆる漢學とを廢棄すべしとは決して提議しなかつた、彼等は唯だ古來の宗教と文化とを先づ重んずべき事を主張したのである。併し新文學派は一千年の經驗の破壞に等しい事を望んだのであつた。幸にも、幕府を倒した藩士等は、過去と將來とに就いて別の見方をしたのである。彼等は國家の存在が危機に瀕して居るのを悟つた。そして外國の壓迫に抵抗するのは到底望みのない事を悟つた。薩摩は一八六三年に鹿見島の砲擊を受け、長州は一八六四年に下ノ關を砲擊された。西洋の力に對抗し得る唯一の機會は、西洋の科學を根氣よく硏究する事によるのであらうといふ事は明らかであつた、そして帝國の存續は社會の歐化に依るのであつた。一八七一年には藩を廢し、一八七三年には基督教禁止の法今が撤癈された。一八七六年には帶刀を禁じた。武力團體としての武士は禁止された、そして爾後は四民の平等たる事を宣せられた。新法典の編纂、新陸海軍の編成、新警察制度の設定が行はれ、教育の新制度が政府の費用で創められ[やぶちゃん注:「はじめられ」。]、新憲法の制定が約された。終に一八九一年に、(嚴格に云へば)最初の日本議會が召集された。その時には、法律が作り出し得る限り、日本の社會の全輪郭がヨオロツパの型を取つて作りかへられた。國民は完成の第三期に見事に入つたのであつた。藩は法律上解體せしめられ、家族は最早社會の法律上の單位ではなくなつた、新憲法によつて個人が認められるに至つた。

[やぶちゃん注:「一八七一年には藩を廢し」明治四年七月十四日(一八七一年八月二十九日)に行われた「廃藩置県」。日本のグレゴリオ暦導入は一八七三年一月一日に当たる明治五年十二月三日を明治六年一月一日とした時に始まるのでこの当時は未だ旧暦である。

「一八九一年に、(嚴格に云へば)最初の日本議會が召集された」それこそ厳密に言えば、一八九〇年から一八九一年にかけてである。第一回帝国議会は明治二三(一八九〇)年十一月二十九日から翌明治二四年三月七日に通常会として開催されているからである。

 以下、一行空け。]

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