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2019/07/02

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(75) 遺風(Ⅱ)

 

 三十年以前[やぶちゃん注:小泉八雲の本英文原本は小泉八雲の没した明治三七(一九〇四)年九月(二十六日・満五十四歳)にニューヨークのマクミラン社(THE MACMILLAN COMPANY)から「Japan: An Attempt at Interpretation」の標題で刊行された。前年換算で三十年以前は一八七三年前となり、明治六年以前である。なお、彼自身が横浜に上陸したのは明治二三(一八九〇)年四月四日である。]、表面的變化がまだ起らなかつた時代に、此の驚愕すべき神仙の國に入つて、その生活の珍らしい光景-―到る處に行き亙つて居る都びた有樣、笑顏を見せながら默々たる群集、辛抱强く悠々迫らず行つて居る勞働、艱苦[やぶちゃん注:「かんく」。悩み苦しむこと。つらく苦しいこと。艱難辛苦。]と爭鬪を知らぬ生活を觀る特權をもつた人々は實際幸福であつた、いや今でさへ、外國の影響の爲めにまだ餘り變化を受けて居ない片田舍には、昔の生活の魅力まだたゆたひ殘つて居て、人を驚かせるのである、そして普通の旅人はそれがどういふ事であるかよく了解出來ないのである。すべての人が丁寧で、誰れも喧嘩をせず、皆微笑を俘かべて、苦痛と悲みの影も見せず、新設の警察は無聊に苦しんで居る。これ等は道德的に西洋人よりも遙かに優秀な人間たる事を證するやうに見えるであらう。併し訓練を經た社會學者には、それは或る難かしい事を示すものであらう、或る非常に恐るべきものを暗示するであらう。それは、此の社會が巨大な强制の下に型に入れられた事と、此の强制力は確に數千年間阻絕されずに行はれたものなる事を彼に證するであらう。彼は道德と習慣とが未だ分離せずに居るのと、各人の行爲が、他の人々の意志によつて制限を加へられた事とを直に認めるであらう。彼はかかる社會的道德の中では個性は發達し得なかつた事――卽ち、個人が如何に優秀でも、個人はその確立を敢て爲し得なかつた事、また何たるを問はず、すべて競爭は許され得なかつた事を知るであらう。此の生活の外面的魅力――その溫柔さ、夢のそれの如き微笑せる沈默、――は死者の統治の意味である事を彼は了解するであらう。彼はそれ等の心と彼自身の時代の心との間に、思想の近似も、感情の共通性も、何等の同情も存在し得ない事――兩者を分離する深淵は何萬哩[やぶちゃん注:原文は「thousands of leagues」で、「リーグ」は古い距離の単位であって、英語圏では約三マイル(約四・八キロメートル)に相当するから、「数千リーグ」は最大六掛けでも、約一万八千マイル(二万九千キロメートル弱)であるから、「何萬哩」(マイル)という訳は過剰なドンブリ表現に過ぎる。因みに平井呈一氏は『何千マイル』としておられる。これで六掛け(私は「数」という不定冠詞は六掛けを標準と考える人間である。五倍未満十倍に有意に近いならばその数値を言えばすむことだと論理的に考えるからである)なら「一万メートル弱前後」となるが、そもそもが、現在の事実上の水域の最深部はマリアナ海溝のチャレンジャー海淵であって、その深さは最新の計測結果では水面下一万九百十一メートルとされるから、平井氏の訳こそ、科学的に正しいと言えるのである。]といふ里程では測られ得ないで、何千年といふ年數でのみ測られ得る事、――心理上の間隔は遊星から遊星への距離の如く、何等到達の望もないものである事を認めるであらう、併しこれを知つたからと云つて、彼は恐らく事物の其の魅力に對して盲目にはならないであらう、――また確にさうなつてはならないのである。此の大古の生活の美をを感得しないのは、あらゆる美に對する自身の不感を證する事になるのである。西洋の學者や詩人が非凡な憧憬の的として居るあのギリシヤの世界は、多くの方面に於て、これと同種類の世界にちがひなかつた、その人民の日々の心的狀態は、如何なる近代人の心も、これに共に與かる[やぶちゃん注:「あづかる」。]を得ないであらう。

[やぶちゃん注:以下、一行空け。]

 

 數百年間、かくも驚異すべく刈り込まれ、そして大切にされた此の大きな社會の樹が、その風變りな形を今や失ひつつあるのであるから、原の意匠のどれ程多くが、今猶ほ辿り得られるか檢べて[やぶちゃん注:「しらべて」。]見ようと思ふ。

 近代日本が、訪問の旅客の熟視に向つてあらはす、個人的活動のあらゆる外面の光景の下にあつて、古昔の諸狀態は、どれ程觀察してもそれを明らかにし得ない程度迄に、實際固執されて殘つて居るのである。記憶し得ない程に古い祭祀は今も猶ほ國中を支配して居る。。今も猶ほ一家族の法律、組合の法律、及び(隨分不規則な風ではあるが)氏族(藩)の法律が人生のあらゆる行動を支配して居る。私が云つて居るのは、成文法ではなくて、祖先禮拜から出て居る幾多の義務を有つた昔の非成文の宗教的法律である。多くの變化――そして、賢明な人々の意見に依ると餘りに多くの變化――が民事法の上に行はれた。併し『政府の法律は七日限り』といふ古の諺は、あわただしい改革に關する民衆の感情をあらはして居る。死者の法律である古の法律は、幾百萬人がそれによつて行動し、それによつて考へることを寧ろ欲するものである。昔の社會的諸集團は公命で廢止されたのではあるけれども、これに相當する異つた集團は、本能的に田舍の地方一帶に形造られた。理論上では個人は自由であるが、實際では彼はその祖先と殆ど劣らず束縛されで居る。習慣の違背に對する罰は癈止されたが、然も社會の意見は昔のやうな服從を强ふる事を得る。法律施行が、人民の感情と、根柢の久しい慣例とを直に變化させてしまふ事は、何處の國でも出來ない事である、――特に日本人の如きかかる固定した性格の國民の間では最も不可能である。現今でも若い人々は氣儘に結婚し得ず、家族の認可なくしでは、彼等の資財や努力を投資する事を得ず、また如何なる方法によつても家族の權威を無視して、一身の自由を得る事は不可能である。それは丁度幕府時代に、彼等の祖先に自由がなかつたのと同樣である。併し私は彼等が自由を得ない方が、今日ではよからうと思ふ、其故は、何人もまだ自身の活動と、自身の時と、自身の財產とを、全然自分の自由にして居る譯ではないからである。

[やぶちゃん注:以下、一行空け。]

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