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2019/07/22

芥川龍之介 義仲論 藪野直史全注釈 / 三 最後 ~ 芥川龍之介「義仲論」正字正仮名正規表現・オリジナル注釈 完遂

 

      最 後

 

鳳闕の礎空しく殘りて、西八條の餘燼、未暖なる壽永二年七月二十六日、我木曾冠者義仲は、白馬金鞍、揚々として、彼が多年、夢寐の間に望みたる洛陽に入れり。超えて八月十日、左馬頭兼伊豫守に拜せられ、虎符を佩び皐比に坐し、號して旭日將軍と稱しぬ。今や、彼が得意は其頂點に達したり。彼は其熱望したるが如く遂に桂冠を頂けり。壽永の革命はかくして彼が凱歌の下に其局を結びたり。然りと雖も、彼と賴朝とが、相應呼して、獵し得たる中原の鹿は、果して何人の手中にか落ちむとする。若し彼にして之を得む乎、野心滿々たる源家の吳兒にして焉ぞ、手を袖にして、傍觀せむや。若し賴朝にして之を得む乎、固より火の如き血性の彼の默して止むべきにあらず。双虎一羊を爭ふ、彼等が劍を橫へて陣頭に相見る日の近きや知るべきのみ。しかも、シシリーに破れたるカルセーヂは、暫く蟄して大ローマの轅門に降ると雖も、捲土重來、幢戟南伊太利の原野に滿ちて、再カンネーに會稽の恥を雪がずンばやまず。鳳輦西に向ひて、西海に浮びたる平氏は、九州四國の波濤の健兒を糾合して、鸞旗を擁し征帆をかゝげ、更に三軍を從へて京師に迫るの日なくンばやまず。風雪將に至らむとして、氷天霰を飛ばす、義仲の成功と共に動亂の氣運は、再洪瀾の如く漲り來れり。

[やぶちゃん注:「鳳闕」「ほうけつ」。禁裏。漢代、宮門の左右にある高殿に銅製の鳳凰を飾ったところから王宮の門を指したものから転じた。瑞鳥鳳凰については私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鳳凰(ほうわう)(架空の神霊鳥)」を参照されたい。

「壽永二年七月二十六日」治承七年。一一八三年。ユリウス暦八月十五日、グレゴリオ暦換算八月二十二日。この前日、七月二十五日に平家は都落ちしていた。

「夢寐」「(むび)「の間に」眠って夢を見ている間さえ。

「虎符」「こふ」。古代中国の虎の形に作った銅製の割符。参戦する将軍が兵を徴発する際の証明として天子から与えられた。

「皐比」「かうひ(こうひ)」。「皐」は虎、「比」は皮革の意で、原義は「虎の毛皮」。転じてそれを敷く将軍の座や地位を指す。

「旭日將軍」「征東大将軍」の異名。「二 革命軍」の最初の段落の「旭の出づる方」の私の注を参照。

「吳兒」三国時代の呉国の若者。後に出るように侵略する魏の曹操を美事に赤壁で破った若武者たち或いはそれを献策指揮した呉の軍師周瑜(当時三十三歳)で、ここは義仲を指す。ところが、筑摩書房全集類聚版注が、これを『頼朝をさす』としているのは甚だ不審である。ここは後の部分と対句表現になっているので、「若し彼にして之を得む乎……」は当然、「若し賴朝にして之を得む乎……」の対なのであって、屋上屋や畳掛けであろうはずがないのである。思うに注した人物は「傍觀せむや」に引かれて誤読したものと思われる。これは自分が京を無血開城したのに、それを源家嫡流にして東国で旗揚げをして東海道を西下して平家を滅ぼさんとしつつある頼朝の別働隊の配下扱いに成り下がって、これから後を「傍觀」していられるなどということは逆立ちしても出来る相談じゃない、と言っていると読むべきであろう。

「シシリー」(現在のイタリア共和国内の地中海最大の島であるシチリア島(イタリア語: Sicilia)のこと)「に破れたるカルセーヂは、暫く蟄して大ローマの轅門」(「ゑんもん」:軍門)「に降ると雖も、捲土重來、幢戟』(とうげき:軍旗と旗矛)『南伊太利の原野に滿ちて、再カンネーに會稽の恥を雪がずンばやまず」「カルセーヂ」は紀元前八一四年から紀元前一四六年まで、現在のチュニジア共和国の首都チュニスに程近い湖であるチュニス湖東岸にあった古代都市国家カルタゴ(ラテン語: Carthāgō 又は Karthāgō/英語: Carthage)のこと。カルタゴは強力な海軍力を有しており、その進出と覇権の拡大は、地中海中央部で確固たる勢力をもつギリシア・ローマとの対立を増大させ、特にカルタゴの玄関口に当たるシケリア(シチリア島)の覇権がその戦争の焦点となった。この「シケリア戦争」は実に紀元前六〇〇年から紀元前二六五年の間、継続的に戦われた。「シケリア戦争」はかなり複雑な経緯を辿っており、簡単には概要が摑めないが、ウィキの「シケリア戦争」を読む限り、芥川龍之介が言っているのは紀元前二一二にシケリアが完全に共和政ローマの属州となったことと、同時期から後の、ローマとカルタゴとの間で紀元前二一九年から紀元前二〇一年にかけて戦われた「第二次ポエニ戦争」に於いて、カルタゴの将軍ハンニバル・バルカ(「一 平氏政府」で既出既注)がイタリア半島の大部分を侵略し、多大な損害と恐怖をローマ側に残したことを言っている。「カンネー」アプリア地方(現在のイタリア南部のプッリャ州(Puglia))のカンナエ(カンネー(英語:Cannae))で、ここで紀元前二一六年八月二日に行われた、「第二次ポエニ戦争」における会戦の一つ「カンネー(カンナエ)の戦い」。ウィキの「カンナエの戦い」によれば、『ハンニバル率いるカルタゴ軍が、ローマの大軍を包囲殲滅した戦いとして戦史上』『名高』く、二『倍の敵を包囲・殲滅した衝撃的な勝利であった』とある。

「鳳輦」(ほうれん)屋形の上に金銅の鳳凰を飾りつけた輿。土台に二本の轅を通し、肩で担ぐ。天皇専用の乗り物で、通常は即位・大嘗会・節会など、晴れの儀式の行幸に用いた。なお、この時、後鳥羽天皇(治承四(一一八〇)年~延応元(一二三九)年/在位:寿永二(一一八三)年八月二十日~建久九(一一九八)年)が安徳天皇が退位しない状態で即位しているため、ここから元暦二/寿永四(一一八五)年三月二十四日の壇ノ浦での安徳の入水と平家滅亡までの一年七ヶ月の間、天皇が重複している。ここは無論、安徳天皇の載るそれを指す。

「鸞旗」(らんき)上記の飾りを施した天子の車駕に立てる旗。架空の瑞鳥「鸞」については私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鸞(らん)(幻想の神霊鳥/ギンケイ)」を参照されたい。

「洪瀾」(こうらん)大波。]

 

然り、彼は成功と共に失敗を得たり。彼が粟津の敗死は既に彼が、懸軍長驅、白旗をひるがへして洛陽に入れるの日に兆したり。彼は、其勃々たる靑雲の念をして滿足せしむると同時に、彼の位置の頗る危險なるを感ぜざる能はざりき。彼は北方の强たる革命軍を率ゐて洛陽に入れり、而して、洛陽は、彼等が住すべきの地にはあらざりき。劍と酒とを愛する北國の健兒は、其兵糧の窮乏を感ずると共に、直に市邑[やぶちゃん注:「しいう(しゆう)」。]村落を掠略したり。彼等のなす所は飽く迄も直截にして、且飽く迄も亂暴なりき。彼等は、馬を靑田に放つて秣ふ[やぶちゃん注:「まぐさかふ」。]を憚らざりき。彼等は伽藍を壞ちて[やぶちゃん注:「こぼちて」。]、薪とするを恐れざりき。彼等は、彼等の野性を以て、典例と儀格とを重ンずる京洛の人心をして聳動せしめたり。而して天下は、彼等を指して「平氏にも劣りたる源氏なり」と嘲笑したり。是、實に彼が入洛と共に、蒙りたる第一の打擊なりき。しかも獨り彼等の狼藉に止らず、悍馬に跨り長槍を橫へ、圍を潰し將を斬るの外に、春雨に對して雲和を彈ずるの風流をも、秋月を仰いで洞簫を吹くの韻事をも解せざりし彼等は、彼等が至る所に演じたる滑稽と無作法とによつて、京洛の反感と冷笑とを購ひ得たり。

[やぶちゃん注:「粟津」現在の滋賀県大津市南部の地名。同市粟津町(あわづちょう)はここ(グーグル・マップ・データ)。

「聳動」(しようどう(しょうどう))恐れ動揺すること。

「圍を潰し」(ゐをつぶし)公私有地の垣を破って侵入し。

「平氏にも劣りたる源氏なり」「平家物語」では百二十句本の巻第八の「法住持合戦」の前に『平家に源氏はおとりたり』と出、「源平盛衰記」の「古 巻第三十三」の終りに『人倫の所爲とも覺ず、遙かに替へ劣りたる源氏也』(国立国会図書館デジタルコレクションではここ。右ページの最後から四行前)とある。但し、私は以前からこの乱暴狼藉には疑問を持っていた。今回、個人サイト「朝日将軍木曽義仲洛中日記」の『「平家物語」の木曽義仲軍の乱暴説は捏造』を拝読、溜飲が下がった。そこには、

   《引用開始》

 「平家物語」によると、木曽義仲軍は京都での乱暴などの悪評により、鎌倉の頼朝・義経軍に討たれた事になっている。九条兼実の日記「玉葉」にも義仲軍の乱暴の記述がある。しかし、九条兼実の弟で僧侶の慈円による歴史書「愚管抄」の記述には、平家軍の京都からの退却の時、平家屋敷に火事場泥棒が発生した。さらに法皇・貴族が比叡山に退避した時、一般市民などが互いに略奪した。そして義仲軍等の入京後は乱暴や略奪は無い。公家の日記「吉記」にも僧兵や一般市民などが放火や略奪をした記述がある。最近では二00三年イラクの首都に米軍が進攻し、フセイン軍が撤退した時や、被災地の治安が悪い時など、一般市民が略奪に走るのを見た。同様の略奪事件が起きたようだ。平家物語には、このような火事場泥棒や一般市民の略奪の記述は無い。

 「平家物語」は琵琶法師による庶民への語り物として広まった。その庶民の前で火事場泥棒や庶民の略奪を語る事は出来ない。木曽義仲軍の京都での乱暴説は「平家物語」の捏造(ねつぞう、作り話)であり、「玉葉」による伝聞の大袈裟(おおげさ)な表現による。真犯人は元平家軍将兵(後の鎌倉軍将兵)、僧兵、一般市民である。

 「平家物語」は多くの歴史研究者が指摘するように史書ではなく単なる文学作品である。例えば歴史小説の記述は事実かと問うのと同じである。平家物語では他の史料と比較して史実上のミス、又は創作が指摘されている。

 原作者は案外事実を忠実に記述したかもしれない。しかし琵琶法師の伝承の過程で、一般市民の略奪などの聴衆に不都合な場面は削除された。原作本が紛失し、後日、再度文書化されたときは、かなり史実と異なる諸本が多く残ったようである。

 「勝てば官軍、負ければ賊軍」の時代である。当時の権力者である鎌倉の頼朝や京都の朝廷の批判は困難である。負けた平清盛や木曽義仲だけが悪く、頼朝や義経は正しいと表現せざるを得ない。義経でさえ美男子だったかもしれないのに「色白で反っ歯の小男」と表現されている。もっともこれは最後まで義仲に味方した山本義経という武将の容貌が誤って伝えられた、又は、わざと誤報を流したという説もある。朝廷の後白河法皇や鎌倉の頼朝の良くない表現は当然有り得無い。

 歴史は勝者に都合の良いように記録される。敗者の善行は語られないが、勝者の善行は大いに語られる。敗者の悪事は大袈裟に捏造され語られるが、勝者の悪事は大事でも秘密にされる。

 後世の小説家や歴史解説者の多くが「平家物語」と「玉葉」の一部の記述を鵜呑(うの)みにして義仲軍だけが乱暴を働いたと解説しているが、実は平家物語や玉葉にも平家軍・頼朝軍ともに乱暴の記述がある。「吾妻鏡」には平家滅亡後、京都に駐留する鎌倉軍や義経追討の名目で全国に配置した「守護」「地頭」に任命された鎌倉武士の乱暴の記述が多数ある。

   《引用終了》

とあるのである。同サイトの「目次」の他の幾つかのページでは、具体的な資料を掲げてある(但し、現代語訳)ので一見をお薦めする。

「雲和」名琴(きん)の一種。「雲和材式」。「Facebook」の伏見无家氏の記事に(所属しなければ見られないのでリンクは張らない。引用元には図入りの漢籍の画像が添えられてある)、

   《引用開始》

雲和とは地名(今の中国浙江省麗水市に位置する雲和県)で、そこは最良の琴材を産出し、それで琴を作ればその音は清亮、すなわち透きとおってよく通るといいます。雲和の材で製した琴は、冬至の日に円形の壇(圜丘)にて奏する琴であり、また空桑(河南省東部、安徽省北部あたり)の地で製した琴は夏至の日に沢の中の四角い壇(方丘)にて奏し、龍門(河南省洛陽市)の材で製せられた琴は宗廟(みたまや)で奏す琴だということです。なぜなら雲和の木は天と相い応じ、空桑の木は大地と相い協[かな]い、龍門の木は鬼神と相い和すからです。雲和式琴の額の両脇にある丸については不明です。また徽の位置の意味についてもわかりません。これは琴の裏面の図ではないかと思います。かつて、唐代の詩人蕭祐[しょうゆう]はこの琴を弾きました。蕭祐、別名蕭祜[しょうこ]は琴の名手で書画にも精妙な作があり、名人高士の友人たちを集めてよく山林に遊んだ文人です。

   《引用終了》

とある。

「洞簫」(どうせう(どうしょう))。所謂、「簫の笛」。中国・朝鮮の縦笛で、指孔は前面五孔・背面一孔。竹管の上端の一部を内側に斜めに削(そ)いでエッジとした縦笛で、外側に削ぐ日本の尺八とはエッジの附け方が相違している。長短種々あり、短いものは「短簫」という。唐代にはこれを「尺八」と称し、それが日本の古代の尺八(正倉院現存)の先駆である。近世日本の尺八を「洞簫」と雅称することがある(「ブリタニカ国際大百科事典」)。以上の記載を考えると、筑摩書房全集類聚版注の『尺八の類』というのは正しい注とは言えない。

「韻事」(ゐんじ(いんじ))詩歌を作って楽しむ風流な遊び。]

 

加ふるに此時に當りて西海に走れる平軍は、四國の健兒を麾いて[やぶちゃん注:「さしまねいて」。]、瀨戶内海の天塹に據り、羽林の鸞輿を擁するもの實に十萬餘人。赤旗將に八島の天に燃えむとす。平氏は、眞に海濤の勇士なりき。「坂東武者は馬の上にてこそ口はきき候へども、船軍をば、何でふ修練し候ふべき、たとへば魚の木に上りたるにこそ候はむずらめ」とは、彼等が僞らざる自信なりき。而して平門の周郞たる、新中納言知盛は、絕えず宗盛を擁して、囘天の大略を行はむと試みたりき。是、豈、彼が勁敵の一たるなからむや。内にしては、京洛の反感をかひ、外にして平氏の隆勢に對す、かくの如くにして革命軍の將星は、秋風と共に、地に落つるの近きに迫り來れり。彼が嘗つて、北越七州の男兒を提げ、短兵疾驅、疾風の威をなして洛陽に入るや、革命軍の行動は眞に脫兎の如く神速なりき。而して翠華西に向ひて革命軍の旗、翩々[やぶちゃん注:「へんぺん」。]として京洛に飜るや、其平氏に對する、寧ろ處女の如くなるの觀を呈したりき。

[やぶちゃん注:「天塹」(てんざん)敵の攻撃を防ぐに足る天然の塹壕様の凹地形や堀のこと。

「羽林」近衛中将・少将の唐名。

「鸞輿」(らんよ)先の「鳳輦」と同じく天子の乗る輿。

「坂東武者は馬の上にてこそ口はきき候へども、船軍をば、何でふ修練し候ふべき、たとへば魚の木に上りたるにこそ候はむずらめ」「平家物語」巻第十一の「遠矢」での、平家方の藤原悪七兵衛景清の台詞。かなり近い流布本(この後がじきに「先帝入水」である)を示す。

   *

「それ坂東武者は、馬の上にてこそ、口はきき候はんずらめ、船軍(ふないくさ)をば、いつ調練し候ふべき。譬へば、魚の木に上つたるにこそ候はんずらめ。一々に取つて、海に漬けなんものを。」

   *

「周郞」三国時代の呉の名将周瑜(しゅうゆ 一七五年~二一〇年)の渾名。字は公瑾。廬江 (安徽省) の人。早くから孫権に従った。二〇八年、華北をほぼ平定した曹操が南下しようとした際、呉では降伏論が盛んであったが、瑜は戦いを主張し、軍を率いて曹操の大軍を赤壁で破った(「赤壁の戦い」)。さらに逃げるのを追って南郡を平定し、南郡太守に任ぜられている。後、孫権に益州(四川)攻略の計を献じて入れられたが、事が進まぬうちに病に倒れた(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「處女の如くなる」恥じらう乙女のように手控えに動かなくなる。]

 

彼は自ら三軍を率ゐて平氏を征するを欲せざりき。何となれば、彼を疎んじたる朝廷の密謀は、彼を抑ふるに源兵衞佐を以てせむとしたれば也。彼は之が爲に、其後を襲はるゝを恐れたれば也。しかも、彼が北陸宮をして、天日の位につけ奉らむと試みしより以來、彼と快からざる後白河法皇は、賴朝に謳歌して彼を除かむと欲し給ひしを以て也。彼が馬首西を指して、遠駕、平賊と戰ふ能はざりしや、知るべきのみ。然れども、院宣は遂に彼をして、征西の軍を起こして、平氏を水島に討たしめたり。北陸の健兒由來騎戰に長ず、鐵兜三尺汗血の馬に鞭ちて、敵を破ること、秋風の落葉を拂ふが如くなるは、彼等が得意の擅場[やぶちゃん注:「せんじやう」。]也。彼等は日本のローマ戰士也。彼等は山野の霸王也。然りと雖も、水上の戰に於ては、遂にカルセーヂたる平氏が、獨特の長技に及ばざりき。恰も長江に養はれたる、吳の健兒が、赤壁に曹瞞八十萬の大軍を鏖殺し、詩人をして「漢家火德終燒賊」と歌はしめたるが如く、瀨戶内海に養はれたる波濤の勇士は、遂に、連勝の餘威に乘じたる義仲の軍鋒を破れり。源軍首を得らるゝもの三千餘級、白旄地に委して、平軍の意氣大に振ふ。彼が百勝將軍の名譽は、此一敗によつて汚されたり。彼は、更に精鋭を率ゐて平軍と雌雄を決せむと欲したり。然れども、彼は、賴朝の大擧、彼が背を討たむとするを聞きて危機既に一髮を容れざるを知り、水島の敗辱を雪ぐに遑[やぶちゃん注:「いとま」。]あらずして、倉皇として京師に歸れり。是實に壽永二年十一月十五日、法住寺の變に先つこと僅に三日。彼は京師に歸ると共に、直に賴朝に應戰せむと試みたり。

[やぶちゃん注:「三軍」古兵法で先陣・中堅・後拒、又は左翼・中軍・右翼を指す兵法用語であるが、転じて全体の軍隊。全軍。

「北陸宮」(ほくろくのみや 永万元(一一六五)年又は仁安二(一一六七)年~寛喜二(一二三〇)年)は本名未詳であるが、以仁王の第一王子である。ウィキの「北陸宮」によれば、治承四(一一八〇)年五月、『父が平氏との合戦で敗死すると、出家して乳母の夫・讃岐前司重秀に伴われて越前国へ逃れた。以仁王の王子である宮には追っ手がかかる可能性があったが』、九『月には信濃国で以仁王の令旨をかかげた木曾義仲が挙兵』し、『宮はその庇護を受けるかわりに、義仲軍の「錦の御旗」に奉じられることとなった。義仲は越中国宮崎に御所をつくらせると、そこで宮を還俗させると同時に元服させた。この知らせには鎌倉の源頼朝も動揺したようで、これに対抗して意図的に「以仁王は生存しており』、『鎌倉で匿われている」という流言を広め』たりしている。寿永二(一一八三)年七月、『平家を都落ちさせた義仲の軍勢がついに入京を果たした』が、『この軍中に北陸宮の姿はなく、宮はこの頃』、『加賀国に滞在していた。義仲は親しかった俊堯僧正を介し』、『宮を皇儲』(こうちょ:天皇の世継ぎ)『にと後白河法皇に働きかけたが、法皇はこれに耳を傾けること』なく、八月二十日に『安徳天皇の異母弟・四ノ宮を皇位に即けた(後鳥羽天皇)』。宮は九月十八日に『なって京都に入り、法皇とともに法住寺殿に身を寄せていたが、義仲が』「法住寺合戦」に『踏み切る前日の』十一月十八日に逐電、その後は『行方知れずとなった』。『宮が再びその姿をみせるのは』二『年後の文治元年』(一一八五年)十一月の『ことで、頼朝方の庇護のもとに帰洛を果たしている。法皇に賜源姓降下を願ったが』、『許されず、その後』、『嵯峨野に移り住んで中御門宗家の女子を室に迎えた。後に土御門天皇の皇女を養女にし、持っていた所領の一所を譲ったという』とある。義仲の後白河への進言は実は論理的には非常に正当である。しかし、法皇も公卿も一人としてそれを聴かなかった。山猿としか思っていない義仲ふぜいが皇嗣を云々することに激しい忌避感を感じたからであろう。

「天日の位」(てんじつのくらゐ)天皇(日継ぎ)の位。

「水島」寿永二年閏十月一日(ユリウス暦一一八三年十一月十七日)に源義仲軍と平氏軍との間で現在の備中国水島(現在の倉敷市玉島)で行われた「水島の戦い」。ウィキの「水島の戦い」によれば、『当時、平氏軍の拠点は讃岐の屋島にあった。平氏を追討するため』、寿永二(一一八三)年九月二十日に『義仲軍は都を出発して屋島方面へ進軍していったが』、この日、『四国へ渡海する前に、水島付近で平氏軍に敗れた。義仲軍を率いていたのは、義仲の同族である武将足利義清・足利義長兄弟と海野幸広(海野氏)であ』ったが、『平氏は、軍船同士をつなぎ合わせ、船上に板を渡すことにより、陣を構築した。源平両軍の船舶が接近し、互いに刀を鞘から抜いて、今にも白兵戦を始めようかという時、平氏の射手が義仲軍へ矢を浴びせかけて戦闘が開始した。平氏軍は船によく装備された馬を同乗させており、その軍馬とともに海岸まで泳いで上陸した。最終的に平氏軍は勝利し、義仲軍は足利義清・海野幸広の両大将や足利義長(義清の弟)、高梨高信、仁科盛家(仁科氏)といった諸将を失い』、『壊滅、京都へ敗走することになった。この勝利により』。『平氏軍は勢力を回復し、再入京を企て摂津福原まで戻り』、「一ノ谷の戦い」を『迎えることとな』った。『なお、この戦いの最中に』九十五%『ほど欠けた金環食が起こったことが、「源平盛衰記」等の資料によって確認されて』おり、『当時、平氏は公家として暦を作成する仕事を行っていたことから、平氏は日食が起こることを予測しており、それを戦闘に利用したとの説がある』という。

「鐵兜三尺」(てつとう/さんじやく)この「三尺」(九十センチ)は「三尺の秋水(しゅうすい)」(「秋水」は研ぎ澄まされた刀身」の光沢の意)で刃長(はちょう:柄を含めず鍔から先の刀身部分)が約九十一センチメートルある大刀の意であろう。現代の分類では刃長六十センチメートル以上のもの「太刀」と称し、それ以下は太刀として作られたものでも「脇差」と呼ぶ。

「汗血の馬」(かんけつのうま)駿馬が走る際、血のような汗を流すとされるところから「駿馬」の意。

「カルセーヂたる平氏」既に注で述べた通り、カルタゴは強力な海軍力で地中海の覇権を握っていた。一方、平氏も前段で芥川龍之介が引用しているように、『清盛は、若い頃から西国の国司を歴任し、父から受け継いだ西国の平氏勢力をさらに強化していた。大宰大弐を務めた時は日宋貿易に深く関与し、安芸守・播磨守を務めた時は瀬戸内海の海賊を伊勢平氏勢力下の水軍に編成して瀬戸内海交通の支配を強めていった』(ウィキの「平氏政権」より引用)経緯があって、やはり優れた水軍としての能力集団を擁していたのである。「驕る平氏」やら、壇ノ浦に至るまでのイメージを哀れな潰滅的敗走といった認識で押さえてしますと、とんだ誤りをしでかす。

「曹瞞」(さうまん(そうまん))は曹操の幼名。これを使うこと自体が、驕った曹操を卑下してるいることは言うまでもない。

「鏖殺」(あうさつ(おうさつ))皆殺しにすること。

「漢家火德終燒賊」清の詩人袁枚(えんばい 一七一六年~一七九七年:詩は格式に捉われず、自己の感懐を自由に表現すべきものとする「性霊(せいれい)説」を主張した。「随園食単」で食通としても知られる)の七律「赤壁」の一節。

   *

 赤壁

一面東風百萬軍

當年此處定三分

漢家火德終燒賊

池上蛟龍竟得雲

江水自流秋渺渺

漁燈猶照荻紛紛

我來不共吹簫客

烏鵲寒聲靜夜聞

 一面の東風 百萬の軍

 當年此の處 三分を定む

 漢家の火德 終(つひ)に賊を燒き

 池上の蛟龍 竟(つひ)に雲を得たり

 江水 自ら流れ 秋 渺渺(べうべう)

 漁燈 猶ほ照す 荻 紛紛(ふんぷん)

 我れ來りて共にせず 吹簫(すゐせう)の客

 烏鵲(うじやく)の寒聲 靜夜に聞く

   *

訳は個人ブログ「一五一会の音色に乗せて」の「長江紀行、赤壁を想う」がよい。

「地に委して」地に捥(も)ぎ捨てられて。

「法住寺の變」寿永二年十一月十九日(ユリウス暦一一八四年一月三日)、義仲が院御所であった法住寺殿(ここ(グーグル・マップ・データ)。三十三軒堂の東隣り)を襲撃して北面武士及び僧兵らと戦って後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉、政権を掌握した軍事クーデタである「法住寺合戦」。ウィキの「法住寺合戦」より、事件に至る経緯(かなり長い)の一部を省略して引く。義仲入城後の京中の騒擾や治安悪化に業を煮やした後白河は十九日に『義仲を呼び出し、「天下静ならず。又平氏放逸、毎事不便なり」』『と責めた。立場の悪化を自覚した義仲はすぐに平氏追討に向かうことを奏上し、後白河は自ら剣を与え』、『出陣させた。義仲にすれば、失った信用の回復や兵糧の確保のために、なんとしてでも戦果を挙げなければならなかった』。その『義仲の出陣と入れ替わるように、関東に派遣されていた使者・中原康定が帰京する。康定が伝えた頼朝の申状は、「平家横領の神社仏寺領の本社への返還」「平家横領の院宮諸家領の本主への返還」「降伏者は斬罪にしない」と言うもので、「一々の申状、義仲等に斉しからず」』『と朝廷を大いに喜ばせるものであった。その一方で頼朝は、志田義広が上洛したこと、義仲が平氏追討をせず』、『国政を混乱させていることを理由に、義仲に勧賞を与えたことを「太だ謂はれなし」と抗議した』。これを受けて十月九日、『後白河は頼朝を本位に復して赦免』、十四『日には寿永二年十月宣旨を下して、東海・東山両道諸国の事実上の支配権を与え』た。『ただし、後白河は北陸道を宣旨の対象地域から除き、上野・信濃も義仲の勢力圏と認めて、頼朝に義仲との和平を命じた』。『高階泰経が「頼朝は恐るべしと雖も遠境にあり。義仲は当時京にあり」』『と語るように、京都が義仲の軍事制圧下にある状況で義仲の功績を全て否定することは不可能だった。頼朝はこの和平案を後白河の日和見的態度と見て、中原康定に「天下は君の乱さしめ給ふ(天下の混乱は法皇の責任だ)」と脅しをかけ』、『義仲の完全な排除を求めて譲らなかった』。『一方、義仲は西国で苦戦を続けていた。閏』十月一日の「水島の戦い」では『平氏軍に惨敗し、有力武将の矢田義清を失う。戦線が膠着状態となる中』、『義仲の耳に飛び込んできたのは、頼朝の弟が大将軍となり』、『数万の兵を率いて上洛するという情報だった』、『義仲は平氏との戦いを切り上げて、閏』十月十五日『に少数の軍勢で帰京する。義仲入洛の報に人々の動揺は大きく「院中の男女、上下周章極み無し。恰も戦場に交るが如し」』『であったという。後白河と頼朝の橋渡しに奔走していた平頼盛はすでに逃亡しており』、『親鎌倉派の一条能保・持明院基家も相次いで鎌倉に亡命した』。『義仲の帰京に慌てた院の周辺では、義仲を宥めようという動きが見られた。藤原範季は「義仲は、法皇が頼朝と手を結んで自分を殺そうとしているのではないかと疑念を抱いている。義仲の疑念を晴らすため、また平氏追討のために法皇は播磨国』(この時義仲の西討本陣が置かれていた)『に臨幸すべきである」という案を出す』。『高階泰経・静憲も賛同するが、この案が実行に移されることはなかった』。同二十日、『義仲は君を怨み奉る事二ヶ条として、頼朝の上洛を促したこと、頼朝に寿永二年十月宣旨を下したことを挙げ、「生涯の遺恨」であると後白河に激烈な抗議をした』。『義仲は、頼朝追討の宣旨ないし御教書の発給』、『志田義広の平氏追討使への起用を要求するが、後白河が認めるはずもなかった。義仲の敵はすでに平氏ではなく』、『頼朝に変わっていた』。この前日の十九『日の』義仲側の『源氏一族の会合では』、『後白河を奉じて関東に出陣するという案が飛び出し』、二十六『日には興福寺の衆徒に頼朝討伐の命が下された』。『しかし、前者は行家、源光長の猛反対で潰れ、後者も衆徒が承引しなかった。義仲の指揮下にあった京中守護軍は瓦解状態であり、義仲と行家の不和も公然のもの』であった。十一月四日、『義経の軍が布和の関(不破の関)にまで達した。義仲は頼朝の軍と雌雄を決する覚悟をしていたが』、七『日になって義仲を除く行家以下の源氏諸将が院御所の警護を始める。頼朝軍入京間近の報に力を得た院周辺では、融和派が逼塞し』、『主戦派が台頭していた』。「愚管抄」に『よると、北面下臈の平知康・大江公朝が「頼朝軍が上洛すれば義仲など恐れるに足りない」と進言したという。特に知康は伊勢大神宮の託宣を受けたと称するなど』、『主戦派の急先鋒だった』。八『日、院側の武力の中心である行家が、重大な局面にも関わらず』、『平氏追討のため』、『京を離れた。後白河と義仲の間には緊迫した空気が流れ、義仲は義経の手勢が少数であれば入京を認めると妥協案を示した』。十六『日になると、後白河は延暦寺や園城寺の協力をとりつけて』、『僧兵や石投の浮浪民などをかき集め、堀や柵をめぐらせ』、『法住寺殿の武装化を進めた。摂津源氏の多田行綱、美濃源氏の源光長らが味方となり、圧倒的優位に立ったと判断した後白河は義仲に対して最後通牒を行う。その内容は「ただちに平氏追討のため』に『西下せよ。院宣に背いて頼朝軍と戦うのであれば、宣旨によらず』、『義仲一身の資格で行え。もし京都に逗留するのなら、謀反と認める」という、義仲に弁解の余地を与えない厳しいものだった』。『これに対して義仲は「君に背くつもりは全くない。頼朝軍が入京すれば戦わざるを得ないが、入京しないのであれば西国に下向する」と返答した。兼実は「義仲の申状は穏便なものであり、院中の御用心は法に過ぎ、王者の行いではない」としている』。『義仲の返答に後白河がどう対応したのかは定かでないが』、十七『日夜に八条院』、翌日には『上西門院、亮子内親王が法住寺殿を去り、北陸宮も逐電、入れ替わるように』、『後鳥羽天皇、守覚法親王、円恵法親王、天台座主・明雲が御所に入っており、義仲への武力攻撃の決意を固めたと思われる』。十九日午の刻(午後零時頃)、『兼実は黒煙を天に見た。申の刻(午後』四『時頃)になって入った情報は「官軍悉く敗績』(はいせき:敗れて今までの功績を失う意。戦いに敗れること)『し、法皇を取り奉り了んぬ。義仲の士卒等、歓喜限り無し。即ち法皇を五条東洞院の摂政亭に渡し奉り了んぬ」というもので、兼実は「夢か夢にあらざるか。魂魄退散し、万事覚えず」と仰天した。この戦いで、明雲、円恵法親王、源光長・光経父子、藤原信行、清原親業、源基国などが戦死した』。「吉記」は『「後に聞く」として「御所の四面、皆悉く放火、其の煙偏に御所中に充満。万人迷惑、義仲軍所々より破り入り、敵対するあたわず。法皇御輿に駕し、東を指して臨幸。参会の公卿十余人、或いは馬に鞍し、或いは匍這う四方へ逃走。雲客以下其の数を知らず。女房等多く以て裸形」と戦場の混乱を記している。記主の吉田経房は「筆端及び難し」と言葉を濁しているが、慈円は』「愚管抄」に『明雲・円恵法親王について詳細に記している。兼実は「未だ貴種高僧のかくの如き難に遭ふを聞かず」』『と慨嘆し』ている。院御所の襲撃は「平治の乱」で『前例があるが、藤原信頼の目的はあくまで信西一派の捕縛だった。今回の襲撃は法皇自らが戦意を持って兵を集め、義仲もまた法皇を攻撃対象とし、院を守護する官軍が武士により完膚なきまでに叩き潰されたと言う点でかつてないものであり、およそ』この四十年後の「承久の乱」に『先駆けるものであった』。十一月二十(或いは二十一)日、『五条河原で源光長以下百余の首がさらされ、義仲軍は勝ち鬨の声を挙げ』、二十一日、『義仲は松殿基房と連携して「世間の事松殿に申し合はせ、毎事沙汰を致すべし」』『と命じ』、二十二日には『基房の子・師家を内大臣・摂政とする傀儡政権を樹立した。基房は師家の摂政就任を後白河に懇願して断られた経緯があり』、『娘の伊子を義仲に嫁がせて復権を狙っていた』のであった。二十八日、『新摂政・師家が下文を出し、前摂政・基通の家領八十余所を義仲に与えることが決定された。これについて兼実は「狂乱の世なり」としている』。『同日、中納言・藤原朝方以下』四十三人が解官されている、とある。]

 

此時に於て、彼をして此計畫の斷行を止めしめしものは、實に、十郞藏人行家の反心なりき。行家はもと賴朝と和せずして、義仲の軍中に投ぜしもの、情の人たる義仲は、一門の長老として常に之を厚遇したり。彼が北陸の革命軍を提げて南を圖るや、行家亦、鑣[やぶちゃん注:「くつわ」。]を彼と並べて進みたりき。彼が、緋甲白馬、得々として洛陽に入るや、行家亦肩を彼と比して朝恩に浴したりき。行家の義仲に於ける交誼かくの如し。而して多恨多淚、人の窮を見る己の窮を見るが如き、義仲は、常に行家を信賴したり。信賴したるのみならず、帷幄の密謀をも彼に漏したり。然れ共、行家は、一筋繩ではゆかぬ老奸雄なりき。彼は革命軍の褊裨を以て甘ぜむには、餘りに漫々たる野心と、老狐の如き姦策とに富みたりき。彼は、義仲の法皇を擁して北越に走らむとするを知るや、竊に之を法皇に奏したり。而して法皇の、人をして、義仲を詰らしめ給ふや、彼は平氏追討を名として、播磨國に下り、舌を吐くこと三寸、義仲の命運の窮せむとするを喜びたりき。義仲が相提携して進みたる行家は、かくして彼の牙門を去れり。しかも、東國を望めば、源軍のリユーポルト、九郞義經は、源兵衞佐の命を奉じて、帶甲百萬、鼓聲地を撼して[やぶちゃん注:「ゆるがして」。]將に洛陽にむかつて發せむとす。彼の悲運、豈、憫むべからざらむや。

[やぶちゃん注:「行家」(永治元(一一四一)年から康治二(一一四三)年頃~文治二(一一八六)年)は何度か注しているが、ここで再度、注しておく。源為義の子で、頼朝の叔父に当たる(頼朝より四~七歳ほど、義仲より十一~十四歳ほど年上)。本名は義盛。「保元の乱」で父為義が敗れて後、熊野新宮に隠れ、新宮十郎と称した。治承四(一一八〇)年、以仁王を奉ずる源頼政に召し出され、名を行家と改め、山伏姿となって諸国の源氏に以仁王の令旨を伝えた。まもなく、以仁王と頼政は敗北し、行家は尾張・三河などで兵を結集し、平氏と戦った。鎌倉の頼朝に所領を請うたが、いれられず、やがて行家は義仲と結んだ。義仲とともに入京して後白河法皇に謁し、従五位下備前守となった。しかしその後、義仲と対立するに至り、紀伊に退いた。平氏滅亡後は頼朝と不和となった源義経に味方し、頼朝追討の宣旨を得た。自ら出陣した頼朝に対して、西海に赴こうと義経ともども摂津大物浦(兵庫県尼崎市)をたったが、大風にあって遭難、和泉に隠れたが、翌年、関東の討手常陸房昌明(しょうみょう)に攻められ、赤井河原で斬られた(小学館「日本大百科全書」に拠る)。

「褊裨」(へんぴ)大将の補佐。副将 。

「リユーポルト」イングランドの軍人で初代カンバーランド公及び初代ホルダネス伯ルパート(Prince Rupert 一六一九年~一六八二年)。プファルツ選帝侯兼ボヘミア王フリードリヒⅤ世と妃エリザベス・ステュアート(イングランド王ジェームズⅠ世(スコットランド王ジェームズⅥ世)の娘)の三男としてボヘミア王国のプラハに生まれた。後、イングランドに渡り、王党派(騎士党)の中心的存在となり、清教徒革命(イングランド内戦)では叔父チャールズⅠ世率いる国王軍の指揮官を務めた。但し、形勢不利となり、議会派との和睦を主張したが、徹底抗戦を貫くチャールズⅠ世から遠ざけられ、一六四六年に大陸へ戻っている(一六六〇年に共和政が終わってチャールズⅡ世の王政復古がなるとイングランドに戻り、そこで亡くなった。詳しくは参照したウィキの「ルパート(カンバーランド公)」を見られたい)。]

 

かくの如くにして彼は步一步より、死地に近づき來れり。然れ共彼は猶、防禦的態度を持したりき。彼は猶從順なる大樹なりき。然り、彼は猶、陰謀の挑發者にあらずして、陰謀の防禦者なりき。しかも、彼をして、弓を法皇にひかしめたるは、實に、法皇の義仲に對してとり給へる、攻擊的の態度に存したりき。而して、法皇をして義仲追討の擧に出でしめたるは、輕佻、浮薄、無謀の愚人、嘗て義仲の爲に愚弄せられたるを含める斗筲の豎兒、平判官知康なりき。事を用ふるを好み給へる、法皇は、知康の暴擧に贊し、竊に、南都北嶺の僧兵及乞食法師辻冠者等をして、義仲追討の暴擧に與らしめ[やぶちゃん注:「あづからしめ」。]給へり。而して十一月十八日仁和寺法親王、延曆寺座主明雲、亦武士を率ゐて法住寺殿に至り、遂に義仲に對するクーデターは行はれたり。法皇は事實に於て、義仲に戰を挑み給へり。彼の前には唯、叛逆と滅亡との兩路を存したり。燃ゆるが如くなる、血性の彼にして、焉ぞ手を袖して誅戮を待たむや。彼は憤然として意を決したり、あらず、意を決せざるべからざるに至れる也。彼は劍を按じて絕叫したり。「いかさまこは鼓判官がきようがいと覺ゆるぞ。軍能うせよ、者共。」而して白旗直に法住寺殿を指し、刀戟霜の如くにして鐵騎七千、稻麻の如く御所を圍み亂箭を飛ばして、天臺座主明雲を殺し、院側の姦を馘るもの[やぶちゃん注:「くびきるもの」。]一百十餘人、其愛する北國の勇士、革命の健兒等をして凱歌を唱へしむる、實に三たび。木曾の野人のなす所はかくの如く不敵にして、しかもかくの如く痛激なり。彼は其云はむと欲する所を云ひ、なさむと欲する所を爲す、敢て何等の衒氣なく何等の矯飾なかりき。然り彼は不軌の臣也、然れども、彼は不軌の何たるかを知らざりし也。

[やぶちゃん注:「斗筲」(とさう/としやう(とそう/としょう))。一斗を入れる枡と、一斗二升を入れる竹の器の意で、転じて「度量の狭いこと。器量の小さいこと」を謂う。

「平判官知康」(生没年未詳)は北面の武士。壱岐守平知親の子。検非違使・左衛門尉。鼓の名手で「鼓の判官(ほうがん)」と呼ばれた。参照したウィキの「平知康」によれば、『北面武士で、後白河院の信任篤く近臣となる』。『義仲が』『入京すると、法皇の使いとして幾度か義仲を訪れている』。「平家物語」では『兵の乱暴狼藉を鎮めるよう求めたところ、義仲から「和殿が鼓判官といふは、万(よろず)の人に打たれたか、張られたか」と尋ねられて面食らい、法皇に義仲討伐を進言したとされる』。『知康は院御所の法住寺殿に兵を集めて、公然と義仲に対決姿勢を示した。法皇方は義仲に洛外退去を要求し、応じねば追討の宣旨を下すと通告した。怒った義仲は』、『法住寺殿を攻撃、知康が防戦の指揮を執るが、さんざんに敗れて、後白河院は義仲に捕らえられ』、『幽閉されてしまった』。『敗れた知康は解官される』。元暦二(一一八五)年には『検非違使に復官、在京していた源義経に接近』したが、『平家滅亡後に、源頼朝と義経が不和になり、義経が都落ちすると、知康は再び解官されてしまう』。元暦三(一一八六)年、『この弁明のために鎌倉へ下向すると』、第二代将軍『源頼家の蹴鞠相手として留め置かれ、その側近とな』った。十七年後の建仁三(一二〇三)年、『頼家が追放され』、『伊豆国修禅寺に幽閉されると、知康は』帰京を命ぜられている。その後の事蹟は不明。

「仁和寺法親王」守覚法親王(しゅかくほっしんのう 久安六(一一五〇)年~建仁二(一二〇二)年)。父は後白河天皇。真言宗仁和寺第六世門跡。永暦元(一一六〇)年に覚性入道親王に師事して出家、仁安三(一一六八)年、伝法灌頂。翌嘉応元年、覚性入道親王が没した跡を継ぎ、仁和寺門跡に就任した。高倉天皇の第一皇子言仁親王(後の安徳天皇)誕生の際には出産の祈禱を行っている。建仁二(一二〇二)年、仁和寺喜多院で死去した。和歌に優れ、家集に「守覚法親王集」「北院御室御集」がある。また、仏教関係の著書多く、日記「北院御日次記」も残る。「平家物語」「源平盛衰記」の「経正都落」の条には、平経正が都落ちの際、仁和寺に立ち寄り、先代覚性法親王より拝領した琵琶「青山」を返上した折り、別れを惜しみ、歌を交わした記事が残る(以上はウィキの「守覚法親王」に拠った)。

「延曆寺座主明雲」(みょううん 永久三(一一一五)年~寿永二(一一八四)年)は天台座主で六条・高倉・安徳各天皇の護持僧、後白河天皇・平清盛の戒師。父は源顕通で、梶井門跡最雲法親王の弟子となった。仁安二(一一六七)年、快修を追放して天台座主となる。安元三(一一七七)年四月、後白河上皇の近臣藤原師光(後の西光)の子で加賀国国司であった藤原師高と弟の目代師経が、白山中宮涌泉寺を焼いたことから、白山の本寺延暦寺衆徒が日吉・白山神輿を奉じて、師高・師経と師光の追放を迫り、朝廷は師高を尾張国に配流したが、擾乱のかどで明雲の座主職を解任し、知行寺務を没収、還俗の上、伊豆国に流罪とした。護送中、瀬田の辺りで延暦寺衆徒の手で奪回されたが、直後に「鹿ケ谷の謀議」の露見が発生、西光・師高が処刑されたため、流罪は沙汰止みとなり、明雲は大原に籠居した。治承三(一一七九)年十一月、清盛が院の近臣の官を解き、院政を停止すると、同時に明雲は僧正に任ぜられ、再び座主に就任、同四年には四天王寺別当、養和元(一一八一)年には白河六勝寺別当となり、同二年、大僧正に任じられた。後白河上皇の法住寺殿に参内中、義仲の兵の流れ矢に当たり、没した。「平家の御持僧」(「愚管抄」)と称され、清盛の信任厚く、内乱時に延暦寺の反平氏勢力を抑える役割を果たしたが、平氏の盛衰とともに運命を共にした形となった(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。なお、既に注で述べた通り、在任中の天台座主が殺害されたのは明雲が最初である。

「遂に義仲に對するクーデター」(フランス語:coup d'État:一般には暴力的な手段の行使によって引き起こされる支配階級内部での政変闘争事態を指す。フランス語で「国家に対する一撃」を意味し、発音はカタカナ音写するなら「クゥ・デタ」である。私は昔から「クーデタ」と表記することにしている。ここで面白いのは芥川龍之介の謂いである。現行、一般な史的記載では「法住寺合戦」は〈義仲のクーデタ〉として記される。しかし、この経緯を仔細に見るとき、後白河が義仲に反意を持ち、一方的に兵を集め固めて臨戦態勢を成したによって、正規に認められた将軍である義仲が自身を敵視する不条理なその行動に対処せざるを得なくなったのであり、クーデタを起こしたのは、芥川の言う通り、義仲ではなく、後白河側なのである。少なくともこの認識で読まないと、後もおかしくなるので注意されたい。

「いかさまこは鼓判官がきようがい」(凶害:讒言)「と覺ゆるぞ。軍能うせよ、者共。」「平家物語」巻第八「法住寺合戦」の義仲出陣の際の一節。纏まりの良い「百二十句本」で示すと、

   *

 すでに院の御氣色あしうなるよし聞こえしかば、今井の四郞兼平、木曾殿に申しけるは、

「さればとて、十善の帝王に向かひまゐらせて、いかでか弓をひかせ給ふべき。ただ兜をぬぎ、弓をはづし、降人(かうにん)に參らせ給へかし。」[やぶちゃん注:「十善の帝王」は後白河法皇を指す。前世で十の善を成した者はその果報で帝王となれるとされた。]

と申せば、木曾殿のたまひけるは、

「われ、信濃の國橫田川の軍(いくさ)よりはじめて、北國・礪波・黑坂・志保坂・篠原・西國にいたるまで、度々(どど)のいくさにあひつれども、いまだ一度も敵にうしろを見せず。『十善の帝王にてましませば』とて、義仲、降人にえこそは參るまじけれ。これは鼓判官が凶害(きようがい)とおぼゆるぞ。あひかまへてその鼓め、打ち破つて捨てよ。」

とぞのたまひける。

   *

芥川龍之介の「軍能うせよ、者共」の部分は、流布本の台詞の最後に、

「……打ち破つて捨てよ。且(かつう)は兵衞佐賴朝が還り聞かんずる所[やぶちゃん注:伝え聞くであろうこと。]もあり。軍(いくさ)、ようせよ、者ども。」

とある。

「不軌」法律や規則などに従わないこと、或いは、謀反を企てること。無論、後者。]

 

今や彼は、劍佩の響と共にクーデターに與りたる[やぶちゃん注:「あずかりたる」。]卿相四十餘人の官職を奪ひ、義弟藤原師家をして攝政たらしめ、賴朝追討の院宣と征夷大將軍の榮位とを得、壯心落々として賴朝と戰はむと欲したり。然れ共彼が此一擧は、遂に盜を見て繩を綯ふ[やぶちゃん注:「なふ」。]に類したりき。魚に臨ンで網を結ぶに類したりき。何となれば、反心を抱ける行家は、既に河内によりて義仲に叛き、九郞義經の征西軍は早くも尾張熱田に至り、鎌倉殿の號令一度下らば、「白日秦兵天上來」の勢を示さむとしたれば也。是に於て彼は懼然として恐れたり。出でて賴朝と戰はむ乎、水島室山の戰ありてより連勝の餘威を恃める平氏が、龍舟錦帆、八島を發し鸞輿を擁して京洛に入らむとするや、火を見るよりも明也。退いて洛陽に拒守せむ乎、鞍馬の頑兒と、蒼髯の老賊とが、鼙鼓を打つて來り迫るや知るべきのみ。彼の命運や窮したり。勇名一代を震撼したる旭日將軍もかくして、日一日より死を見るの近きにすゝめり。しかも、彼の平氏に對して提したる同盟策が、濶達勇悍の好將軍知盛によつて、拒否せらるゝや、彼が滅亡は漸く一彈指の間に迫り來れり。

[やぶちゃん注:「義弟藤原師家」松殿師家(まつどのもろいえ 承安二(一一七二)年~嘉禎四(一二三八)年)。ウィキの「松殿師家」を引く。関白『松殿基房の三男。官位は正二位・内大臣、摂政』。『母方の花山院家は後白河院・平清盛の双方と繋がりがあり、両者の勢力均衡の上に立って大きな影響力を保持していた。その花山院家への配慮から、父・基房は師家を三男ながら正嫡として遇しており、治承』三(一一七九)年には僅か』八『歳にして権中納言に補任される。しかし、これは師家の従兄である近衛基通を超越しての昇進であり、摂関家の正統な後継者を基通から師家に変更することを意味する措置であった。基通の父近衛基実は平清盛の娘の平盛子と婚姻しており、基実の死後は盛子を名義人として清盛が摂関家領を管理していた。盛子の死後は』、『やはり清盛の女婿である基通を通じて摂関家領の管理を継続することを望んでいた清盛が』、『この人事に激怒したことが、治承三年の政変のもっとも重大な契機となった。基房・師家父子は官職を奪われ、基房は出家に追いこまれた。基房が務めていた関白には基通が補任された』。四『年後の』寿永二(一一八三)年、『平家西走と源義仲の上洛という局面を迎えると、基房は失地回復のための行動に打って出る。娘(藤原伊子とされる)を義仲の正室として差し出して姻戚関係を結び』、『同年』十一『月、摂政基通を解任し、僅か』十二『歳の師家を後任の摂政とした』。『しかし翌年』一『月、源範頼・義経らと戦って義仲が滅亡すると、基房一族は再び失脚してしまう。師家は在任数ヶ月にしてその地位を失って退隠し、以降』、『官に復することもなかった』。

「賴朝追討の院宣と征夷大將軍の榮位とを得」「法住寺合戦」の翌月十二月一日、義仲は院御厩別当となり、左馬頭を合わせて、軍事の全権を掌握し、同十日には、源頼朝追討の院庁下文を発給させ、形式上の官軍の体裁を整えた。寿永三(一一八四)年一月六日、鎌倉軍が墨俣(すのまた)を越えて美濃国へ入ったという噂を聞き、恐懼した彼は、同月十五日、自らを「征東大将軍」(「征夷大将軍」ではないことは既注済み)に任命させている(ウィキの「源義仲」に拠る)。

「壯心落々」この「落々」は「心が広くゆったりとして小事に拘らないさま」の意。

「白日秦兵天上來」筑摩書房全集類聚版注は出典未詳とするが、これは晩唐の詩人許渾(きょこん 七九一年~八五四年?)の「楚宮怨 二首」の「其一」の結句である。

   *

  楚宮怨 二首

 其一

十二山晴花盡開

楚宮雙闕對陽臺

細腰爭舞君沉醉

白日秦兵天上來

 其二

獵騎秋來在内稀

渚宮雲雨溼龍衣

騰騰戰鼓動城闕

江畔射麋殊未歸

   *

戦国時代、楚が秦に圧迫されて衰微し、紀元前二二三年に滅びた、それを懐古するもの。「白日 秦兵 天上より來たる」と訓じておく。

「懼然」「くぜん」。怖れるさま。

「室山の戰」寿永二(一一八三)年十一月二十八から二十九日に播磨国室山(現在の兵庫県たつの市御津町(みつちょう)室津(むろつ)(グーグル・マップ・データ)の港の背後にある丘陵)でそこに陣を張った平氏軍に対し、源行家軍が攻撃して敗れた戦い。

「鞍馬の頑兒」義経。

「蒼髯の老賊」行家。

「彼の平氏に對して提したる同盟策が、濶達勇悍の好將軍知盛によつて、拒否せらるゝ」驚天動地の内容だが、これは既に「一 平氏政府」の「弓矢とる身のかりにも名こそ惜しく候へ」で電子化した「源平盛衰記」の「榎巻 第三十四」の「木曾平家に与(くみ)せんと擬(ぎ)す竝びに維盛歎き事」の冒頭部である。しかし、事実とは到底、思えない。当時の状況を総合的に冷静に見て仮想してみても、今の今までさんざん殺戮し合った義仲軍と平家軍が合作するというのは、これ、実現しようがないと私は思う。]

 

壽永三年正月、彼が、股肱の臣樋口次郞兼光をして行家を河内に討たしむるや、兵を用ふること迅速、敏捷、元の太祖が所謂、敵を衝く飢鷹の餌を攫むが如くなる、東軍の飛將軍、源九郞義經は、其慣用手段たる、孤軍長驅を以て、突として宇治に其白旄をひるがへしたり。同時に蒲冠者範賴の大軍は、潮の湧くが如く東海道を上りて、前軍早くも勢多に迫り、義仲の北走を拒がむ[やぶちゃん注:「ふせがむ」。]と試みたり。根井大彌太行親、今井四郞兼平、義仲の命を奉じて東軍を逆ふ。其勢實に八百餘騎、既にして兩軍戈[やぶちゃん注:「ほこ」。]を宇治勢多に交ふるや、東軍の精鋭當るべからず。北風競はずして義仲の軍大に破れ、士卒矛をすてて走るもの數百人、東軍の軍威隆々として破竹の如し。是に於て壯士二十人を從へて法皇を西洞院の第に守れる彼は、遂に法皇を擁して北國に走り、捲土重來の大計をめぐらすの外に策なきを見たり。而して彼、法皇に奏して曰「東賊、既に來り迫る、願くは龍駕を擁して醍醐寺に避けむ」と、法皇從ひ給はず。彼憤然として階下に進み劍を按じ眦[やぶちゃん注:「まなじり」。]を決して、行幸を請ふ、益々急。法皇止む事を得ずして將に六馬行宮[やぶちゃん注:「あんぐう」。]を發せむとす。時に義仲の騎來り報じて曰「東軍既に木幡伏見に至る」と。彼、事愈危きを知り、遂に一百の革命軍を從へて、決然として西洞院の第を出でぬ。赤地の錦の直垂に唐綾縅の鎧きて、鍬形うつたる兜の緖をしめ、重籐の弓のたゞ中とつて、葦毛の駒の逞しきに金覆輪の鞍置いて跨つたる、雄風凛然、四邊を拂つて、蹄聲戞々、東に出づれば、東軍の旗幟既に雲霞の如く、七條八條法性寺柳原の天を掩ひ戰鼓を打ちて閧をつくる、聲地を振つて震雷の如し。義仲の勢、死戰して之に當り、且戰ひ、且退き、再、院の御所に至れば、院門をとぢて入れ給はず、行親等の精鋭百餘騎、奮戰して悉く死し、彼遂に圍を破つて勢多に走る、從ふもの僅に七騎、既にして、今井四郞兼平敗殘の兵三百餘を率ゐて、粟津に合し、鑣[やぶちゃん注:「くつわ」。]をならべて北越に向ふ。時實に壽永三年正月二十日、粟津原頭、黃茅蕭條として日色淡きこと夢の如く、疎林遠うして落葉紛々、疲馬頻に嘶いて悲風面をふき、大旗空しく飜つて哀淚袂を沾す[やぶちゃん注:「うるほす」。]。嘗て、木曾三千の健兒に擁せられて、北陸七州を卷く事席[やぶちゃん注:「むしろ」。]の如く、長策をふるつて天下を麾ける[やぶちゃん注:「さしまねける」。]往年の雄姿、今はた、何處にかある。嘗て三色旗を陣頭に飜して加能以西平軍を破ること、疾風の枯葉を拂ふが如く、緋甲星兜、揚々として洛陽に入れる往年の得意、今、はた、何處にかある。而してあゝ、翠帳暖に春宵を度るの處、膏雨桃李花落つるの時、松殿の寵姬と共に、醉うて春に和せる往年の榮華、今はた、何處にかある。是に於て彼悵然として兼平に云つて曰「首を敵の爲に得らるゝこと、名將の恥なり、いくさやぶれて自刄するは猛將の法なりとこそ聞き及びぬ」と、兼平答へて曰「勇士は食せずして饑ゑず、創を被りて屈せず、軍將は難を遁れて勝を求め死を去つて恥を決す、兼平こゝにて敵を防ぎ候はむ、まづ越前の國府迄のがれ給へ」と、然れども多淚の彼は、兼平と別るゝに忍びざりき。彼は彼が熱望せる功名よりも、更に深く彼の臣下を愛せし也。而して行く事未幾ならず[やぶちゃん注:「いまだいくばくならず」。]、東軍七千、喊聲を上ぐること波の如く、亂箭を放ち鼙鼓を打つて、彼を追ふ益々急也。彼、兼平を顧み決然として共に馬首をめぐらし、北軍三百を魚鱗に備へ長劍をかざして、東軍を衝き、向ふ所鐵蹄縱橫、周馳して圍を潰すこと數次、東軍摧靡[やぶちゃん注:「さいび」。]して敢て當るものなし。然れ共從兵既に悉く死し僅に慓悍、不敵の四郞兼平一騎を殘す、兼平彼を見て愁然として云つて曰「心靜に御生害候へ、兼平防矢仕りてやがて御供申すべし」と、是に於て、彼は、單騎鞭聲肅々、馬首粟津の松原を指し、從容[やぶちゃん注:「しようよう」。]として自刄の地を求めたり。しかも乘馬水田に陷りて再立たず、時に飛矢あり、颯然として流星の如く彼が内兜を射て鏃[やぶちゃん注:「やじり」。]深く面に入る。而して東軍の士卒遂に彼を鞍上に刺して其首級を奪ふ。兼平彼の討たるゝを見て怒髮上指し奮然として箭八筋に敵八騎を射て落し、終に自ら刀鋒を口に銜み[やぶちゃん注:「ふくみ」。]馬より逆[やぶちゃん注:「さかさま」。]に落ちて死す。

[やぶちゃん注:「壽永三年正月」一一八四年。この四月十六日に元暦に改元。但し、平家方ではこの元号を使用せず、寿永を引き続き、使用。

「股肱」(ここう)「股」は「腿」、「肱」は「肘(ひじ)」で「手足」の意。主君の手足となって働く、最も頼りになる家来や部下。腹心。

「樋口次郞兼光」(?~元暦元年二月二日(ユリウス暦一一八四年三月十五日/グレゴリオ暦換算三月二十二日))は義仲の育て親中原兼遠の次男。今井兼平の兄。義仲四天王の一人。ウィキの「樋口兼光」によれば、『信濃国筑摩郡樋口谷(現・木曽町日義)に在して樋口を称した』。『乳母子として義仲と共に育ち、弟の兼平と共に忠臣として仕え』、『義仲挙兵に従って各地を転戦』、「倶利伽羅峠合戦」『などで重要な役割を果たし』、寿永二(一一八三)年七月、『義仲と共に入京』、九月に『後白河法皇の命により、義仲は水島の戦いで西国へ下るが、京の留守を兼光に命じ、法皇の監視に当たらせている。法皇と義仲が対立した』「法住寺合戦」(同年十一月十九日(一一八四年一月三日))『で法皇を拘束するなど義仲軍の中心人物として活躍した』。元暦元(一一八四)年正月、『義仲に離反した源行家』『を討伐するため、河内国石川へ出陣するが、その間に鎌倉軍が到着し、敗れた義仲は粟津の戦いで討ち死にした。翌日、義仲の死を知った兼光は京へ戻る道中で源義経の軍勢に生け捕られた』。二十六日、『義仲らの首と共に検非違使に身柄を引き渡され』、二月二日に『斬首された』。「吾妻鏡」に『よれば、兼光は武蔵国児玉党の人々と親しい間であったため、彼らは自分達の勲功の賞として兼光の助命を訴え、義経が朝廷に奏聞したが、兼光の罪科は軽くないとして許されなかったという』以下に「平家物語」巻第九の「樋口被斬」に於ける『兼光の最期の様子を記す』。『樋口は源行家を紀伊国名草に向かっていたが、都に戦ありと聞いて取って返したところ、大渡の橋で今井兼平の下人に会い、木曾義仲も兼平も既にこの世にないことを知った。樋口は涙を流し、「これを聞きたまえ方々、主君に志を思い参らす人々は、これより早くいづこへも落ち行き、いかような仏道修行をもして、主君の菩提を弔いたまえ。兼光は都へ上り討ち死にし、冥途でも主君に面謁し、今井をももう一度みたいと思うためである」と述べて都へ上った。鳥羽離宮の南の門を過ぎるときに、その勢はわずか二十余騎になっていた。その後、何とか命ばかりは助けようと考える児玉党の説得に応じ、児玉党に降った。源範頼と義経は院に伺いをたてたところ、院中の公卿、局の女房、女童までも「木曾が法性寺を焼き滅ぼし、多くの高僧が亡くなったのは今井と樋口によるものであり、これを助けることは口惜しい」と述べたため』、『死罪が決まった。義仲と他五人の首が大路を渡される際、供をつとめることを頻りに申し出、藍摺の直垂と立烏帽子の姿で従い、その次の日に斬られた』とある。

「をして行家を河内に討たしむるや」「河内」ではなく、紀伊でなくてはいけない。ここは「討たせに行かせた」の意。この時に行家は討たれてはいないので注意(それは筆者芥川龍之介も承知している。後文で判る)。行家は既に注した通り、義仲と離反した後は紀伊に退いた。平氏滅亡後、今度は頼朝と対立した義経に協力し、頼朝追討の院宣を得、さらに四国の地頭に補せられるも、文治二(一一八六)年、頼朝に追われ、隠れ住んだ和泉で捕まり、殺されている。

「元の太祖」チンギス・カン(漢字:成吉思汗 一一六二年~一二二七年)。

「源九郞義經」(平治元(一一五九)年~文治五年閏四月三十日(一一八九年六月十五日)。享年三十一歳。敢えて注したのは前の注と並ぶからである。私は同一人物説は都市伝説の類いとして退けるものの、義経が大陸へ渡航して逃げた可能性は否定出来ないとは考えている。しかし、当時のかの地での造船・操船技術では辿り着くことが出来ずに難破した可能性が大であるとも思っている。ウィキの「義経=ジンギスカン説」はかなり詳しい。

「蒲冠者範賴」(かばのかじや(かじゃ)のりより 久安六(一一五〇)年?~建久四(一一九三)年?)は義朝の六男。頼朝の異母弟にして義経の異母兄。ウィキの「源範頼」によれば、『遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者(かばのかじゃ)、蒲殿(かばどの)とも呼ばれる。その後、藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて源義仲・平氏追討に赴き、義経と共にこれらを討ち滅ぼす大任を果たした。その後も源氏一門として、鎌倉幕府において重きをなすが、のちに頼朝に謀反の疑いをかけられ』、『伊豆国に流された』。最後の部分は、建久四(一一九三)年五月二十八日、富士の巻狩りの晩に「曾我兄弟の仇討ち」が起こった際、鎌倉に『頼朝が討たれたとの誤報が入ると、嘆く政子に対して範頼は「後にはそれがしが控えておりまする」と述べた。この発言が頼朝に謀反の疑いを招いたとされる。ただし』、『政子に謀反の疑いがある言葉をかけたというのは』「保暦間記」にしか『記されておらず、また』、『曾我兄弟の事件と起請文の間が二ヶ月も空いている事から、政子の虚言、また陰謀であるとする説もある』。八月二日、『範頼は頼朝への忠誠を誓う起請文を頼朝に送る。しかし頼朝はその状中で範頼が「源範頼」と源姓を名乗った事を過分として責めて許さず、これを聞いた範頼は狼狽した』。十『日夜、範頼の家人である当麻太郎が、頼朝の寝所の下に潜む。気配を感じた頼朝は、結城朝光らに当麻を捕らえさせ、明朝に詰問を行うと』、『当麻は「起請文の後に沙汰が無く、しきりに嘆き悲しむ参州(範頼)の為に、形勢を伺うべく参った。全く陰謀にあらず」と述べた。次いで範頼に問うと、範頼は覚悟の旨を述べた。疑いを確信した頼朝は』、『十七日に範頼を伊豆国に流した』(「吾妻鏡」)。八月十七日、『伊豆国修禅寺に幽閉され』たが(この起請文の経緯は「北條九代記 範賴勘氣を蒙る 付 家人當麻太郎」の私の注で「吾妻鏡」を引用しながら詳しく見てあるので是非、参照されたい)、「吾妻鏡」では『その後の範頼については不明』で、「保暦間記」などに『よると誅殺されたという。ただし、誅殺を裏付ける史料が無いことや子孫が御家人として残っていることから』(以下略。それを根拠とした仮説はリンク先を読まれたい)、謀殺説は怪しく、没年も不明である。

「勢多」現在の滋賀県瀬田(グーグル・マップ・データ)。

「根井大彌太行親」「二 革命軍」の私の注の中で既注。

「今井四郞兼平」仁平二(一一五二)年~寿永三(一一八四)年:義仲より二歳年上)は私の注では何度も出たが、ここで注しておく。ウィキの「」を引く。『父は中原兼遠。木曾義仲の乳母子で義仲四天王の一人。兄に』先に注した『樋口兼光、弟に今井兼光、妹に』義仲の妾となった女武将『巴御前がいる』(但し、これは「源平盛衰記」の記載。「源平闘諍録」(「平家物語」読み本系の異本の一つ。特異的に漢文表記)では樋口次郎兼光の娘としており、これらは後代に設定されたものであり、彼女は単に女丈夫の召使いと考えるべきである。なお今一人、款冬(やまぶき)という女性もいたが、こちらは倶利伽羅合戦で討ち死にしたとされる)。『信濃国今井』『の地を領して今井を称した』。『義仲の乳母子として共に育ち、兄の兼光と共に側近として仕える』。義仲の『挙兵に従い、養和元』(一一八一)年五月の「横田河原の戦い」で城助職を破り、寿永二(一一八三)年の「般若野の戦い」「倶利伽羅合戦」「篠原の戦い」で平氏軍を破って、『義仲と共に入京』、十月、「福隆寺縄手の戦い」で平家方の妹尾兼康を破った。十一月、『後白河法皇と義仲が対立した法住寺合戦では、兼平・兼光兄弟の活躍が著しかった。元暦元』(一一八四)年一月二十日、『鎌倉軍に追われ』、『敗走する義仲に従い』、「粟津の戦い」で討ち死にした義仲の後を追って自害した』。享年三十三であった』。『その壮絶な最期は、乳兄弟の絆の強さを示す逸話として知られる』。「平家物語」の『「木曾殿最期」の段の義仲と兼平の最期は、悲壮美に満ちている。また、この場面の兼平の矛盾した言い方や、「弓矢取りは、年頃日頃如何なる高名候へども、最後に不覚しぬれば、永き瑕(きず)にて候なり。(武士は、常日頃からいかなる名誉を得たとしても、最後に不覚を取っては、後世長い間にわたり名に傷がつきます)」の武士たる心構えを伝える言に、その情況に応じての、兼平の義仲への苦しいいたわりの気持ち、美しい主従の絆が書かれている』。『「日頃は何とも覚えぬ鎧が、今日は重うなったるぞや(いつもは何ともない鎧が、きょうは重くなったぞ)」と言う義仲に対し』、『「それは御方(みかた)に続く勢が候はねば、臆病でこそさは思し召し候らめ。兼平一騎をば、余の武者千騎と思し召し候べし。ここに射残したる矢七つ八つ候へば、暫く防矢(ふせぎや)仕り候はん。あれに見え候は、粟津の松原と申し候。君はあの松の中へ入らせ給ひて、静に御自害候へ(それは殿に続く軍勢がないので、臆病になられたのでしょう。兼平一騎を、殿の武者千騎と思ってくださいませ。ここに矢の七本や八本が残ってございますので、これでしばらくは防ぎ矢を放つこともできましょう。あちらは粟津の松原と申します。殿はあの松原の中に入られ静かに御自害なさいませ)」と述べ』、『義仲が「所々で討たれんより、一所でこそ討死もせめ(ばらばらで討ち死にするより、一緒に討ち死にしよう)」と言うと』、『「弓矢取りは、年頃日頃如何なる高名候へども、最後に不覚しぬれば、永き瑕(きず)にて候なり。御身も労(つか)れさせ給ひ候ひぬ。御馬も弱って候。云ふ甲斐なき人の郎等に組み落とされて、討たれさせ給ひ候ひなば、さしも日本国に鬼神と聞こえさせ給ひつる木曾殿をば、某が郎等の手に懸けて、討ち奉ったりなんぞ申されん事、口惜しかるべし。唯』だ『理』(り)『を枉』(ま)『げて、あの松の中に入らせ給へ(武士は、常日頃からいかなる名誉を得たとしても、最後に不覚を取っては、後世長い間にわたり名に傷がつきます。殿はお疲れでございます。御馬も弱ってございます。ふがいない者が郎党に組み落とされて、討たれたりしたら、さしも日本国に鬼神と言われた木曽義仲を、だれかの郎党の手にかかって討ち取ったりと言われることは悔しいことです。そこは無理を承知であの松原にお入りくださいませ)」と述べた』。『義仲が討たれると、「今は誰をかかばはんとて、軍をばすべき。これ見給へ、東国の殿ばら、日本一の剛の者の自害する手本よ(いまは誰をかばうために戦をすべきであろうか。東国の武士どもよ、これを見よ。日本一の剛の者の自害の仕方よ)」と言い、太刀の先を口の中に含み、馬上から飛び降り、太刀に貫かれ』、『自害した』。『(現代語簡訳:戦前は義仲に「武士らしく強気になれ」と助言をし、戦中は死を共にしようとする義仲に「疲れているのだから潔く自害しなさい」と冷静に助言し、義仲が自害する時間稼ぎをした。義仲が討ち取られたと知った直後、「東国の方々、これが日本一の強者の自害する手本だ」と言った。)』(ウィキの筆者は流布本を参考にしているようである)。

「逆ふ」「さかふ」と読んでおく。敵として対峙する。

「東軍の精鋭當るべからず」鎌倉方である東軍の精鋭が取り立てて先陣に出るまでもなかく。

「北風」北から南へ進撃する鎌倉方の比喩。

「壯士二十人を從へて……」筑摩書房全集類聚版注には、『この部分からは「大日本史」の構文を敷衍し』、『適当に書きかえてある』とある。これは「巻之二百三十」の「列伝第百五十七 叛臣四」の冒頭の「義仲」のここ(国立国会図書館デジタルコレクション。左ページ最終行)から次の次のコマ(間に兄兼光の条を挟む)の左ページの兼平の条(同ページ十二行目まで)が相当部である但し、この国立国会図書館デジタルコレクション版は全漢文で返り点のみ附されたものである。芥川龍之介は飾るに、「平家物語」の巻第九「兼平」の知られた名文「木曾の最後」(授業でよくやったよねぇ)の前後も効果的に使用している。

「西洞院の第」筑摩書房全集類聚版注に、『京都』の『西洞院の屋敷。大膳大夫成忠の宿所』とする。「大膳大夫成忠」は平業忠(永暦元(一一六〇)年~建暦二(一二一二)年)。ウィキの「平業忠」によれば、父『信業』(のぶなり)『と共に後白河法皇に院近臣として仕え』、治承二(一一七八)年、『従五位下に叙爵されるが、法皇と平清盛の対立による』「治承三年の政変」で解官されている。寿永二(一一八三)年の法皇と源義仲の対立による「法住寺合戦」の後は、この『六条西洞院の業忠の邸が法皇の御所とされた。「平家物語」「河原合戦」の章段では』、業忠が、『義仲によって法皇が幽閉された御所内から土塀に登って様子をうかがい、源義経率いる鎌倉源氏軍が来たことに喜び、転倒しながらも』、『法皇に鎌倉軍の到着を伝えた場面が描かれている』。『長きに』亙って『左馬権頭の官職にあったが、文治元年』(一一八五)年十一月、『義経謀反への荷担を理由として、源頼朝の要請により』、『左馬権頭を解官され』ている。文治四(一一八八)年一月には『大膳大夫に任ぜられ』(従ってここにその職を冠するのはおかしい)、建久三(一一九二)年三月十三日、上北面の職に『あったが、後白河院崩御にあたり』、『入棺役を務め』ている。最後に『相撲による負傷が原因で』死去したとある。現在の京都府京都市下京区西洞院町はここ(グーグル・マップ・データ)。

「六馬」(りくば)中国神話で天帝の息子が乗る六頭の馬車を引く馬のこと。ここは法皇の輿。

「木幡伏見」現在の京都府宇治市から伏見区にかけて。後の伏見桃山城附近(グーグル・マップ・データ)。

「重籐」(しげどう)「滋籐」とも書く。弓の竹を籐(単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科トウ連 Calameae:熱帯性で蔓性の種が多い。東南アジア・中国南部・台湾などに分布するが、本邦には植生しない)の蔓で何度も何度も巻いたもの。

「戞々」(かつかつ)。堅い物の触れる音を表わすオノマトペイア。

「法性寺」(ほつしやうじ)現在は京都府京都市東山区本町にある浄土宗大悲山。延長三 (九二五) 年に藤原時平の発願によって創建され、寺名は当時の、菅原道真の怨霊を鎮めたとされる天台宗十三世延暦寺座主法性房尊意の名に由来する。嘗つてこの寺は法性寺大路の名の残る鴨川の東・九条の南にあったが(現在位置の鴨川対岸の南西のこの辺りか(グーグル・マップ・データ))、「応仁の乱」で兵火に遇い、ここに移ったものらしい。

「柳原」京都市上京区のこの附近(グーグル・マップ・データ)。木曾追討の義経軍はこの描写に從うなら、京に東と北から侵攻したことになる。

「壽永三年正月二十日」ユリウス暦一一八四年三月四日(グレゴリオ暦換算:三月十一日)。義仲。享年三十一。

「黃茅」(くわうばう(こうぼう))枯れて黄色くなった茅(かや)。

「加能」(かのう)加賀国・能登国。現在の石川県相当。

「星兜」(せいとう)星兜(ほしかぶと)。平安中期頃に発生した兜の一形式。ウィキの「星兜」によれば、『兜本体(鉢)を形成する鉄板を接ぎ留める鋲の頭を、鉢の表面に見せたもの。鋲の頭を星と呼ぶところから星兜の名が付いた』。『平安時代には』十『数枚の鉄板から成り』、『星が大きい厳星兜(いがぼしかぶと)が大鎧に付く兜として流行したが、時代が下るにつれ』、『板数は増し』、『星が小型化した小星兜(こぼしかぶと)に変化した。筋兜の流行により室町時代前期に一時衰退するが、戦国期に再び使用されるようになり』、『江戸時代に至る』とある(リンク先に小星兜の画像有り)。

「翠帳」(すいちやう)「暖」(あたたか)「に春宵」(しゆんしやう)「を度」(わた)「るの處、膏雨」(かうう:恵みの雨。潤いを与える雨)「桃李花落つるの時」白居易の「長恨歌」の、玄宗が初めて楊貴妃を招いた夜の、

芙蓉帳暖度春宵

 芙蓉の帳(とばり)暖かくして 春宵を度る

と、玄宗が貴妃亡き後、帰洛したの折りの、寂寞を描く、

春風桃李花開夜

 春風 桃李 花開くの夜(よ)

を捻ったものと思われる。

「松殿」松殿(藤原)基房。既注。

「悵然」(ちやう(ちょうぜん))悲しみ嘆くさま。がっかりして打ちひしがれるさま。

『兼平に云つて曰「首を敵の爲に得らるゝこと、名將の恥なり、いくさやぶれて自刄するは猛將の法なりとこそ聞き及びぬ」と、兼平答へて曰「勇士は食せずして饑ゑず、創を被りて屈せず、軍將は難を遁れて勝を求め死を去つて恥を決す、兼平こゝにて敵を防ぎ候はむ、まづ越前の國府迄のがれ給へ」と』「源平盛衰記」の「伝巻第三十五」の「粟津合戦の事」の一節。ここ(国立国会図書館デジタルコレクション。左ページの二行目から)。

   *

「敵の爲めに得らるる事、名將の恥なり。軍(いくさ)敗れ、自害するは、猛將の法なり。」

と申ければ、兼平、申けるは、

「勇士は食(しよく)せず、飢ゑず、疵(きず)を被(かうむ)りて屈せず、軍將は難を遁れて勝つことを求む、死を去つて、辱(はぢ)を決す、就中(なかんづく)、平氏、西海(さいかい)に在(ま)す。軍將、北州(ほくしう)に入り給はば、天下、三つに分かち、海内(かいだい)發亂せんか、先づ、急いで越前國府まで遁れ給へ。兼平、此(ここ)にて敵を相ひ禦(ふせ)ぐべし。」

と云ひて旗を擧(あ)ぐ。

   *

「魚鱗」「ぎよりん」。戦さに於ける陣立ての一つ。中心が前方に張り出し、両翼が後退した陣形。「△」の形に兵を配する。底辺の中心に大将を配置し、そちらを後ろ側として敵に対する。戦端が狭く、遊軍が多くなり、また後方からの奇襲を想定しないため、駆動性の高い平野の会戦には適さないが、山岳・森林・河川などの地形要素が複雑な本邦では、戦国時代によく使われた。全兵力を完全に一枚の密集陣に編成・集合するのではなく、数百人単位の横列隊(密集陣)を単位とすることで、個別の駆動性を維持したまま、全体としての堅牢性を確保することが出来る。多くの兵が散らばらない状態で局部の戦闘に参加出来、また、一陣が壊滅しても、次陣をすぐに繰り出せるため、消耗戦に強い。一方で、横隊を要素とした集合であるため、両側面や後方から攻撃を受けると、混乱が生じ易く、弱い。また、包囲もされ易く、複数の敵に囲まれた状態の時には用いない。特に、敵より少数兵力の場合、正面突破には有効な陣形である。対陣の際、前方からの防衛に強いだけでなく、部隊間での情報伝達が比較的容易であることから、駆動性能も優れる(ここはウィキの「陣形」に拠った)。

『不敵の四郞兼平一騎を殘す、兼平彼を見て愁然として云つて曰「心靜に御生害候へ、兼平防矢仕りてやがて御供申すべし」と是に於て、彼は、單騎鞭聲肅々、馬首粟津の松原を指し、從容として自刄の地を求めたり。しかも乘馬水田に陷りて再立たず、時に飛矢あり、颯然として流星の如く彼が内兜」(うちかぶと:兜の眉庇(まびさし)の内側。覆いのない額(ひたい)部分)「を射て鏃深く面に入る。而して東軍の士卒遂に彼を鞍上に刺して其首級を奪ふ。兼平彼の討たるゝを見て怒髮上指し奮然として箭八筋に敵八騎を射て落し、終に自ら刀鋒を口に銜み馬より逆に落ちて死す』「源平盛衰記」の「伝巻第三十五」の「粟津合戦の事」の一節。ここ(国立国会図書館デジタルコレクション。右ページ最終行から次のコマの六行目まで)。私の好きな忘れ難い優れたシークエンスなれば、前後や芥川龍之介がカットしてしまった部分も含めて電子化する。

   *

 木曾殿、鐙(あぶみ)踏ん張り、弓杖(ゆんづゑ)衝(つ)きて、今井に宣ひけるは、

「日來(ひごろ)は何と思はぬ薄金(うすがね)が、などやらん、重く覺ゆるなり。」

と宣へば、兼平、

「何條(なんでう)去る事侍(はんべ)るべき、日來に金(かね)もまさらず[やぶちゃん注:普段の金鎧(かねよろい)と変わりなく。]、別(べち)に重き物をも附けず、御年三十七、御身(おんみ)盛りなり。御方(みかた)に勢(せい)のなければ、臆し給ふにや、兼平一人をば、餘(よ)の者千騎萬騎とも思(おぼ)し召し候ふべし、終(つひ)に死すべき物故(ゆゑ)に、わるびれ見え給ふな[やぶちゃん注:お恥ずかしく思われなさるな。]、あの向ひの岡に見ゆる一村(ひとむら)の松の下に立ち寄り給ひて、心閑(しづか)に念佛申して御自害候へ。其の程は防矢(ふせぎや)仕(つかまつ)りて、軈(やが)て御伴(おんとも)申べし。あの松の下(した)へは、廻(まは)らば、二町、直(すぐ)には一町にはよも過ぎ侍らじ、急ぎ給へ。」[やぶちゃん注:一町は百九メートル。]

と泣々(なくなく)淚を押さへ、詢(くど)きければ、木曾は遺(なご)りを惜みつつ、

「都にて如何にも成るべかりつれども、此(ここ)まで落ちきつるは、汝と一所にて死なんとなり。何迄も同じ枕に討死にせんと思ふなり。」

と宣へば、今井、

「いかに角(かく)は宣ふぞ。君、自害し給はば、兼平、則ち、討死になり。是れをこそ一所にて死ぬるとは申せ、兵(へい)の剛(がう)なると申すは、最後の死を申すなり。さすが、大將軍の宣旨を蒙むる程の人、雜人(ざふにん)の中に打ち伏せられて首をとられん事、心憂かるべし。疾々(とくとく)落ち給ひて御自害(ごじがい)あるべし。」

と勸めければ、木曾、

『誠に。』

と思ひ、向ひの岡、松を指して馳せ行けり。

 今井は木曾を先き立(だ)てて、引き返し引き返し、命も惜しまず、戰ひけり。

 木曾は今井を振り捨てて、畷(なはて)に任せて步ませ行く。

 比(ころ)は元曆(げんりやく)元年正月廿日の事なれば、峯の白雪(しらゆき)深くして、谷の氷も解けざりけり。向ひの岡へ直違(すぢかひ)にと志す。

 つらら[やぶちゃん注:薄氷り。]むすべる田を橫に打つ程に、深田(ふかだ)に馬を馳せ入れて、打てども打てども、行かざりけり。

 馬も弱り、主(ぬし)も疲れたりければ、兎角すれども、甲斐ぞなき。

 木曾は、『今井やつゞく』と思ひつつ、後ろへ見返へりたりけるを、相摸國の住人、石田の小太郞爲久[やぶちゃん注:三浦氏の一族。]が、能(よ)つ引(ぴ)いて放つ矢に、内甲(うちかぶと)を射させて、間額(まつかふ)を馬の頭(かしら)に當てて、俛(うつぶ)しに伏しにけり。

 爲久が郞等二人、馬より飛んで下(お)り、深田に入りて、木曾を引き落とし、やがて、首をぞ、取りてける。

 今井、是れを見て、

「今ぞ、最後の命(いのち)なる、急ぎ御伴(おんとも)に參らん。」

とて、進み出でて申しけるは、

「日比(ひごろ)は音にも聞きけん、今は目に見よ、信濃國の住人中(ちう)、三權頭(さんごんのかみ)兼遠が四男、朝日將軍の御乳母子(おんめのとご)、今井四郞兼平なり。鎌倉殿までも知ろし召したる兼平ぞ。首取つて見參(げんざん)に入れよや。」

とて、數(す)百騎の中に蒐(か)け入つて、散々(さんざん)に戰ひけれども、大力(たいりき)の剛(がう)の者成りければ、寄つて組む者はなし。唯だ、開きて遠矢(とほや)にのみぞ、射ける。去れども、冑(よろひ)よければ裏(うち)かかず、あきまを射ねば、手も負はず。

 兼平は、箙(えびら)に胎(のこ)る八筋(やすぢ)の矢にて、八騎、射落としける。

 太刀を拔いて申しけるは、

「日本一(にほんいち)の剛の者、主の御伴に自害する。見習へや、東八箇國の殿原(とのばら)。」

とて、太刀の切鋒(きつさき)口にくはへ、馬より逆(さかさま)に落ち貫ぬきてぞ、死にける。

 兼平自害して後(のち)は、粟津の軍(いくさ)も無かりけり。

   *]

 

嗚呼、死は人をして靜ならしむ、死は人をして粉黛[やぶちゃん注:「ふんたい」。]を脫せしむ、死は人をして肅然として襟を正さしむるもの也。卒然として生と相背き、遽然として死と相對す、本來の道心此處に動き、本然の眞情此處にあらはる、津々として春雨の落花に濺ぐ[やぶちゃん注:「そそぐ」。]が如く、悠々として秋雲の靑山を遶る[やぶちゃん注:「めぐる」。]が如し。夫[やぶちゃん注:「それ」。]鳥の將に死せむとする其鳴くや哀し、人の將に死せむとする、其言や善し。人を見、人を知らむとする、其死に處するの如何を見ば足れり。我木曾冠者義仲が其燃ゆるが如き血性と、烈々たる靑雲の念とを抱いて何等の譎詐なく、何等の矯飾なく、人を愛し天に甘ンじ、悠然として頭顱を源家の吳兒に贈るを見る、彼が多くの短所と弱點とを有するに關らず、吾人は唯其愛すべく、敬すべく、慕ふべく、仰ぐべき、眞個の英雄兒たるに愧ぢざるを想見せずンばあらず。嶽鵬擧の幽せらるゝや、背に盡忠報國の大字を黥し、笑つて死を旦夕に待ち、項羽の烏江に戮せらるゝや、亭長に與ふるに愛馬を以てし、故人に授くるに首級を以てし、自若として自ら刎ね、王叔英の燕賊に襲はるゝや、沐浴して衣冠を正し南拜して絕命の辭を書し、泰然として自縊して死せり。彼豈之に恥ぢむや。彼の赤誠は彼の生命也。彼は死に臨ンで猶火の如き赤誠を抱き、火の如き赤誠は遂に彼をして其愛する北陸の健兒と共に從容として死せしめたり。是實に死して猶生けるもの、彼の三十一年の生涯は是の如くにして始めて光榮あり、意義あり、雄大あり、生命ありと云ふべし。

[やぶちゃん注:この段落、筑摩書房全集類聚版も新全集も改行しないが、従わない。

「遽然」(きよぜん(きょぜん))俄かであるさま。「突然」に同じい。

「譎詐」(きつさ(きっさ))偽り。

「矯飾(けうしよく(きょうしょく))上辺(うわべ)を取り繕って飾ること。

「頭顱」(とうろ)頭部。首。

「嶽鵬擧」南宋の名将岳飛(一一〇三年~一一四二年)の字(あざな)。ウィキの「岳飛」によれば、『元々は豪農の出であったが、幼い頃に父を亡くし、生母の由氏に育てられたという。やがて』二十一『歳の時、北宋末期の』一一二二『年に開封を防衛していた宗沢が集めた義勇軍に参加した。岳飛は武勇に優れ、その中で金との戦いなどに軍功を挙げて頭角を現し』一一三四『年には節度使に任命された』。しかし、日増しに高まる名声が、北宋の宰相秦檜(しんかい)のグループの『反感と嫉視を招くことになる』。一一四〇『年に北伐の軍を起こすと、朱仙鎮で会戦を行い、金の総帥斡啜』(オジュ)『の率いた軍を破って開封の間近にまで迫るが、秦檜の献策により』、『友軍への撤退命令が出され、孤立した岳飛軍も撤退を余儀なくされた(但し、これは「宋史」の記録で、「金史」には『この会戦の記録はない』)。『その後、秦檜により』、『金との和議が進められる。それに対して、主戦派の筆頭で』『民衆の絶大持った岳飛は危険な存在であり』、一一四一年、『秦檜は岳飛、岳飛の子の岳雲、岳家軍の最高幹部である張憲に対し、冤罪を被せて謀殺した(表向きは謀反罪であった。軍人の韓世忠が「岳飛の謀反の証拠があるのか」と意見したが、秦檜は「莫須有(あったかもしれない)」と答えている)。この時、岳飛は』三十九『歳、岳雲は』二十三『歳だった。その背には母親によって彫られたとされる黥(入れ墨)「尽(精)忠報国」の』四『文字があったという』とある。

「黥し」(げいし)刺青(いれずみ)をし。

「王叔英」(?~一四〇二年)明の学者で高級官僚。筑摩書房全集類聚版注には、『名は原采。燕の賊兵に対抗しようとしてできず』とあるのみでよく判らない。中文ウィキの「王叔英」はあるが、中国語が読めないのでこれもよく判らない。ただ、そこに書かれた年から、これは明王朝初期の政変(内乱)である「靖難(せいなん)の変」(一三九九年~一四〇二年:華北の燕王朱棣(明の第三代皇帝となる永楽帝)が挙兵し、一四〇二年六月に南京を陥落させた事件に関わる人物である。

「彼の三十一年の生涯」満二十九か三十。因みに――芥川龍之介は三十五歳と五ヶ月足らずであった。]

 

かくして此絕大の風雲兒が不世出の英魂は、倏忽として天に歸れり。嗚呼靑山誰が爲にか悠々たる、江水誰が爲にか汪々たる。彼の來るや[やぶちゃん注:「きたる」。]疾風の如く、彼の逝くや朝露の如し。止ぬるかな[やぶちゃん注:「やんぬるかな」。]、止ぬるかな、革命の健兒一たび逝きて、遂に豎子をして英雄の名を成さしむるや、今や七百星霜一夢の間に去りて、義仲寺畔の孤墳、蕭然として獨り落暉に對す。知らず、靑苔墓下風雲の兒、今はた何の處にか目さめむとしつつある。

[やぶちゃん注:「倏忽」(しゆくこつ(しゅくこつ))忽ち。俄かに。

「汪々」(わうわう(おうおう))水域の広く深いさま。

「止ぬるかな」(やんぬるかな)今となっては、どうしようもないことだ!

「豎子」頼朝。

「義仲寺」(ぎちゆうじ)現在の滋賀県大津市馬場にある天台宗朝日山義仲寺(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「義仲寺」によれば、『この寺の創建については不詳であるが、源義仲(木曾義仲)の死後、愛妾であった巴御前が義仲の墓所近くに草庵を結び、「われは名も無き女性」と称し、日々供養したことにはじまると伝えられる。寺は別名、巴寺、無名庵、木曽塚、木曽寺、また義仲寺と呼ばれたという記述が、すでに鎌倉時代後期の文書にみられるという。戦国時代に荒廃したが』、天文二二(一五五三)年頃、『近江守護の六角義賢によって再興された。当初は石山寺の配下であったが、江戸時代には園城寺に属した』。『俳人松尾芭蕉はこの寺と湖南のひとびとを愛し、たびたび滞在した。無名庵で句会も盛んに行われた。大坂で亡くなった芭蕉だが、「骸(から)は木曽塚に送るべし」との遺志により』、元禄七(一六九四)年十月、『義仲墓の横に葬られた。又玄(ゆうげん)の句「木曽殿と背中合わせの寒さかな」が有名。その後、再び荒廃した同寺だが、京都の俳僧蝶夢法師が数十年の歳月をかけて明和』六(一七六九)年に『中興』し、寛政五(一七九三)年には『盛大に芭蕉百回忌を主催した』とある。

 以下、底本では一行空け。ここでは二行空けた。]

 

 

彼は遂に時勢の兒也。欝勃たる革命的精神が、其最も高潮に達したる時代の大なる權化也。破壞的政策は彼が畢生の經綸にして、直情徑行は彼が一代の性行なりき。而して同時に又彼は暴虎馮河死して悔いざるの破壞的手腕を有したりき。彼は幽微を聽くの聰と未前を觀るの明とに於ては入道相國に讓り、所謂佚道を以て民を使ふ、勞すと雖も怨みず、生道を以て民を殺す、死すと雖も怨みざる、治國平天下の打算的手腕に於ては源兵衞佐に讓る。而して彼が壽永革命史上に一頭地を抽く[やぶちゃん注:「ぬく」。]所以のものは、要するに彼は飽く迄も破壞的に無意義なる繩墨と習慣とを蹂躙して顧みざるが故にあらずや。

[やぶちゃん注:「暴虎馮河」(ぼうこひようが)虎に素手で立ち向かい、黄河を徒歩で渡ろうとすること。血気にはやって無謀なことをすることの譬え。「論語」の「述而」で愛弟子子路の蛮勇を窘(たしな)めた孔子の言葉。

「佚道」(いつだう(いつどう))民を安らかに楽しませるやり方。「孟子」の「尽心 上」に出る語に基づく。この場合の「佚」は「気儘にのんびりする」の意。]

 

彼は眞に革命の健兒也。彼は極めて大膽にして、しかも極めて性急也。彼は手を袖にして春風落花に對するが如く、悠長なる能はず。靑山に對して大勢を指算するが如く幽閑なる能はず。炎々たる靑雲の念と、勃々たる霸氣とは常に火の如く胸腔を炙る。彼は多くの場合に於て他人の喧嘩を買ふを辭せず。如何なる場合に於ても膝をつき頭をたれて哀を請ふ事をなさず。而して彼は世路の曲線的なるにも關らず、常に直線的に急步せずンば止まず。彼は衝突を辭せざるのみならず、又衝突を以て彼の大なる使命としたり。彼が猫間中納言を辱めたる、平知康を愚弄したる、法住寺殿に弓をひきたる、皆彼が此直線的の行動に據る所なくンばあらず。水戶の史家が彼を反臣傳中の一人たらしめしが如き、此間の心事を知らざるもの、吾人遂に其餘りに近眼なるに失笑せざる能はざる也。彼は身を愛惜せず、彼は燎原の火の如し。彼は己を遮るすべてを燒かずンば止まざる也。すべてを燒かずンば止まざるのみならず、彼自身をも燒かずンば止まざる也。彼が法皇のクーデターを聞くや、彼は「北國の雪をはらうて京へ上りしより一度も敵に後を見せず、假令十善の君にましますとも甲を脫ぎ弓の弦をはづして降人にはえこそまゐるまじけれ」と絕叫したり。若し兵衞佐賴朝をして此際に處せしめむ乎。彼は如何なる死地に陷るも、法住寺殿の變はなさざりしならむ。賴朝は行はるゝ事の外は行ふことを欲せず。彼は、其實行に關らず、唯其期する所を行はむと欲せし也。是豈彼が一身を顧みざるの所以、彼が革命の使命を帶びたる健兒たるの所以、而して賴朝が甘じて反臣傳に錄せらるゝをなさざりし所以にあらずや。

[やぶちゃん注:「猫間中納言」藤原光隆(大治二(一一二7)年~建仁元(一二〇一)年)。ウィキの「藤原光隆」によれば、官位は正二位・権中納言。屋敷があった地名から壬生・猫間を号しており、「猫間中納言」と称された』。「『平家物語」巻第八「木曾猫間の対面」においては、寿永二(一一八三)年に、入洛した『源義仲を訪問した光隆が、義仲によって愚弄される逸話が紹介されている。義仲の家で光隆は、高く盛り付けられた飯や三種のおかず、平茸』(     菌界担子菌門ハラタケ綱ハラタケ目ヒラタケ科ヒラタケ属ヒラタケ Pleurotus ostreatus)『の汁などの多量の食事を出され、椀が汚らしいのに辟易したところ、「それは仏事用の椀だ」と説明されて、仕方なく少しだけ口にしたところ、義仲に「猫殿は小食か。猫おろし(食べ残し)をしている。遠慮せずに掻き込みなさい」などと責められて興醒めし、話をせずに帰った、というものである』とある。以下。

   *

 木曾は都の守護にてありけるが、みめよき男にては候ひしかども、たちゐ、ふるまひ、もの言うたる言葉のつづき、かたくななることかぎりなし。

 あるとき、猫間の中納言光隆の卿といふ人、のたまひあはすべきことありておはしたれば[やぶちゃん注:相談なさりたいことがおありになられたので。]、郞等ども、

「猫間殿と申す人の、『見參(げんざん)申すべきこと候ふ』とて、入らせ給ひて候ふ。」

と申せば、木曾、これを聞き、

「猫もされば、人に見參することあるか、者ども。」

とのたまへば、

「さは候はず。これは『猫間殿』と申す上﨟にてましまし候。『猫間殿』とは、御所の名とおぼえて候ふ。」

と申せば、そのとき、

「さらば。」

とて入れたてまつりて對面す。

 木曾、なほ「猫間殿」とはえ言はいで、

「猫殿はまれにおはしたるに、ものよそへ[やぶちゃん注:食事の支度をせよ。]。」

とぞのたまひける。

 中納言、

「ただいま、あるべうも候はず。」[やぶちゃん注:「今は食事時にてはあらっしゃいません」。当時の公家は一日二食で昼食を食べる習慣はなかったが、武士は三食であった。]

とのたまへば、

「いやいや、いかんが、飯時におはしたるに、ただやあるべき。」

なにも、あたらしきは無鹽(ぶえん)といふと心得て[やぶちゃん注:当時は多くの食材を保存を高めるために塩漬けにしていた。ここは塩を用いていない新鮮な食材を指す。]、

「ここに無鹽の平茸やある。とくとく。」

と、いそがせけり。

 根の井の小彌太といふ者の急ぎて陪膳す。田舍合子(ゐなかがふし)[やぶちゃん注:如何にも田舎っぽい粗野な蓋付きの漆塗りの椀。]の荒塗りなるが、底深きに、てたてしたる飯[やぶちゃん注:新潮社「日本古典集成」の注には『洗米していない籾まじりの飯のことか』とする。]をたかくよそひなし、御菜三種(さんじゆ)して、平茸の汁にて參らせたり。

 木曾殿のまへにもすゑたりけり。木曾は箸をとり、これを召す。

 中納言も食されずしてはあしかりぬべければ、箸をたてて食するやうにし給ひけり。

 木曾は同じ體(てい)にてゐたりけるが、殘り少なくせめなして、

「猫殿は少食(せうじき)におはしけるや。召され給へ。」

とぞ、すすめける。

 中納言は、のたまひあはすべき事どもありておはしたりけれども、この事どもに、こまごまとも、のたまはず、やがていそぎ歸られぬ。

   *

以上は「三百二十本」であるが、流布本では、最後が、

   *

 中納言は餘りに合子のいぶせさに[やぶちゃん注:汚なさに不快を催して。]召さざりければ、木曾、

「きたなう思ひ給ひそ。それは義仲が精進合子[やぶちゃん注:精進潔斎する際の清浄な椀。]で候ふぞ。疾う疾う。」

と勸むる間、中納言、召さでもさすが惡しかりなんとや思ひけん、箸取つて召す由して[やぶちゃん注:一度は食べようとするポーズをして。]さし置かれたりければ、木曾、大きに笑つて、

「猫殿は小食にておはすよ。聞ゆる『猫おろし』し給ひたり。かい給へ、かい給へ。」[やぶちゃん注:「そら、名の通り、猫がようする「食べ残し」をなさっとる。それ! かっこみなされ! もそっつと召されよ!」。]

とぞ、責めたりける。

 中納言殿は、かやう事に、萬(よろ)づ興さめて、宣ひ合はすべき事ども、一言(ひとことば)も言ひ出さず、急ぎ歸られけり。

   *

と終始、テツテ的に猫間を愚弄し続けている。

「平知康を愚弄したる」既注。

「水戶の史家」「大日本史」編纂指揮者である水戸光圀。

「此間の心事を知らざるもの、吾人遂に其餘りに近眼なるに失笑せざる能はざる也」黄門嫌いの私(藪野直史)は激しく同感する。

「北國の雪をはらうて京へ上りしより一度も敵に後を見せず、假令十善の君にましますとも甲を脫ぎ弓の弦をはづして降人にはえこそまゐるまじけれ」既に出した「平家物語」巻第八の「鼓判官」の一節であるが、それは、

   *

「われ、信濃の國橫田川の軍(いくさ)よりはじめて、北國・礪波・黑坂・志保坂・篠原・西國にいたるまで、度々(どど)のいくさにあひつれども、いまだ一度も敵にうしろを見せず。『十善の帝王にてましませば』とて、義仲、降人にえこそは參るまじけれ。これは鼓判官が凶害(きようがい)とおぼゆるぞ。あひかまへてその鼓め、打ち破つて捨てよ。」

   *

といったもので、諸本を縦覧して見ても、この引用文の表現とぴったりくるものを見出せなかった。発見し次第、追記する。]

 

彼は彼自身、彼を信ずる事厚かりき。彼は、其信ずる所の前には、天下口を齊うして[やぶちゃん注:「ひとしうして」。]之に反するも、猶自若として恐れざりき。所謂自反して縮んば千萬人と雖も、我往かむの氣象は欝勃として彼の胸中に存したりき。さればこそ彼は四郞兼平の諫[やぶちゃん注:「いさめ」。]をも用ひず、法住寺殿に火を放つの暴行を敢てせしなれ。彼の法皇に平ならざるや、彼は「たとへば都の守護してあらむずるものが馬一疋づゝ飼ひて乘らざるべきか、幾らともある田ども刈らせて秣にせむをあながちに法皇の咎め給ふべきやうやある」と憤激したり。彼は彼が旗下幾萬の北國健兒が、京洛に行へる狼藉を寧ろ當然の事と信じたり。而して此所信の前には怫然として、其不平を法皇に迄及ぼすを憚らざりき。請ふ彼が再次いで鳴らしたる怨言を聞け。「冠者ばらどもが、西山東山の片ほとりにつきて時々入取せむは何かは苦しかるべき。大臣以下、官々の御所へも參らばこそ僻事ならめ」彼は、彼に對するクーデターの理由をかゝる見地を以て判斷したり。而して、彼に一點の罪なきを信じたり。既に靑天白日、何等の不忠なきを信ず、彼が刀戟介馬法住寺殿を圍みて法皇を驚かせまゐらせたる、豈偶然ならずとせむや。

[やぶちゃん注:「自反して縮」(なほく)「んば」自分で内省してみても、そのことが確かに正しいと認知し得たならば。「孟子」の「公孫丑 上」に出る孟子が引用する曾子(そうし)が弟子の子㐮を諌めるのに挙げた孔子の言葉。

   *

子好勇乎。吾嘗聞大勇於夫子矣。自反而不縮、雖褐寬博、吾不惴焉。自反而縮、雖千萬人吾往矣。

(子、勇を好むか。吾れ、嘗つて大勇(たいゆう)を夫子(ふうし)に聞きけり。『自(み)づから反して縮(なほ)からずんば、褐寬博(かつくわんはく)と雖も、吾れ、惴(おそ)れざらんや。自づから反して縮ければ、千萬人と雖も、吾れ、往ゆかん』と。)

   *

この「褐寬博の輩」の「褐」は粗末な服、「寛博」は運動性能がよい広く緩やかな着物。転じて身分の卑しい無頼漢どもを指す。ここは「そんな奴らが挑発してきても私は恐れることなく、決してことを成さぬ」というのである。

「たとへば都の守護してあらむずるものが馬一疋づゝ飼ひて乘らざるべきか、幾らともある田ども刈らせて秣にせむをあながちに法皇の咎め給ふべきやうやある」「冠者ばらどもが、西山東山の片ほとりにつきて時々入取せむは何かは苦しかるべき。大臣以下、官々の御所へも參らばこそ僻事ならめ」既に引用した「平家物語」巻第八「法住寺合戦」の義仲出陣の際の冒頭であるが、芥川龍之介は流布本のそれを引いている。煩を厭わず同パートを示す。

   *

 たとへば都の守護してあらんずる者が馬一疋づつ飼うて參らざるべきか。幾らもある田ども刈らせ、秣(まぐさ)にせんを强ちに法皇の咎め給ふべきやうやある。兵粮米盡きぬれば冠者ばらあどもが西山東山の片邊(かたほと)りについて、時々入り取(ど)り[やぶちゃん注:徴用。]せんはなじかは苦しかるべき。大臣以下(いげ)、宮々の御所へも參らばこそ僻事(ひがごと)ならめ、如何樣、これは鼓判官が凶害と覺ゆるぞ。その鼓め、打ち破つて捨てよ。今度(こんど)は義仲が最後の軍(いくさ)にてあらんずるぞ。且(かつう)は兵衞佐賴朝が還り聞かんずる所もあり 。軍、ようせよ、者ども。」

とて、打ち出でけり。

   *]

 

彼は、如上の性行を有す、是眞に天成の革命家也。輕浮にして輕悍なる九郞義經の如き、老猾にして奸雄なる藏人行家の如き、或は以て革命の健兒が楯戟[やぶちゃん注:「じゆんげき」。]の用をなす事あるべし。然れども其楯戟を使ふべき革命軍の將星に至りては、必ず眞率なる殉道的赤誠の磅薄として懷裡に盈つる[やぶちゃん注:「みつる」。]ものなくンばあらず。然り、狂暴、驕悍のロベスピエールを以てする尙一片烈々たる殉道的赤誠を有せし也。

[やぶちゃん注:「磅薄」(は(ば)うはく(ほ(ば)うはく)広がり蔓延(はびこ)ること。]

 

彼は唯一の赤誠を有す。一世を空うするの[やぶちゃん注:「むなしうするの」。]霸氣となり、行路の人に忍びざるの熱情となる、其本は一にして其末は萬也。夫大川の源を發す、其源は溪間の小流のみ。彼が彼たる所以、唯此一點の靈火を以て全心を把持する故たらずとせむや。彼は赤誠の人也、彼は熱情の人也、願くは賴朝の彼と戰を交へむとしたるに際し、彼が賴朝に答へたる言を聞け。「公は源家の嫡流也。我は僅に一門の末流に連り、驥尾に附して平民を圖らむと欲するのみ。公今干戈を動かさむとす、一門相攻伐するが如き、是源氏の不幸にして、しかも平氏をして愈々虛に乘ぜしむるもの也。我深く憂慮に堪へず。」と。何ぞ其言の肝膽を披瀝して、しかも察々として潔きや。辭を低うして一門の爲に圖つて忠なる、斯くの如し。啻に辭を低うするに止らず、一片稜々の意氣止むべからずして愛子を賴朝の手に委したる[やぶちゃん注:「まかしたる」。]が如き、赤誠の人を撼す、眞に銀河の九天より落つるが如き槪あり。

[やぶちゃん注:「公は源家の嫡流也。我は僅に一門の末流に連り、驥尾に附して平民を圖らむと欲するのみ。公」/「今」/「干戈を動かさむとす、一門相』(あひ)『攻伐するが如き、是源氏の不幸にして、しかも平氏をして愈々虛」(きよ:「うっかり油断すること」で「無駄に安心させる」ことか?)「に乘ぜしむるもの也。我深く憂慮に堪へず。」筑摩書房全集類聚版注に『出典未詳』とする。今回、いろいろ調べて見たが、確かに見当たらない。識者の御教授を乞うものである。「驥尾」(きび)は「驥尾に附す」で成句。「優れた人に従って行けば、それなりに何かは成し遂げられる」で、「先達を見習って行動すること」を遜(へりくだ)った気持ちで言う言葉。青蠅が「驥」=駿馬の「尾」につかまって一日で千里の遠方へと行ったという「史記」の「伯夷伝」の故事に基づく。出現するとすれば,義高を人質に差し出す直前でないと、後文の「啻に辭を低うするに止らず、一片稜々の意氣止むべからずして愛子を賴朝の手に委したる」と齟齬するし、頼朝の木曾追討軍が進発する前にはとてものことに余裕も何もあったもんじゃない。「源平盛衰記」が一番怪しいのだが、やはり見当たらない。そもそもが、「源氏の不幸」とか「虛」とか「憂慮に堪へず」とか、どうも私には時代的も義仲の直文としても、何やらん不自然な語の用法が気になる。

「察々」潔(いさぎよ)く清いこと。邪念がなく澄んでいるさま。]

 

再云ふ彼は眞に熱情の人也。實盛の北陸に死するや、彼其首級を抱いて泫然として泣けり。水島の戰に瀨尾主從の健鬪して仆るゝや、彼「あつぱれ强者や。助けて見て。」と歎きたりき。陣頭劍を交ふる敵を見る尙かくの如し。彼が士卒に對して厚かりしや知るべきのみ。彼が旗下は彼が爲に「死且不辭」の感激を有したりき。彼敢て人を容るゝこと光風の如き襟懷あるにあらず。敢て又、人を服せしむる麒麟の群獸に臨むが如き德望あるにあらず。彼の群下に對する、唯意氣相傾け、痛淚相流るゝところ、烈々たる熱情の直に人をして知遇の感あらしむるによるのみ。彼が旗下の桃李寥々たりしにも關らず、四郞兼平の如き、次郞兼光の如き、はた大彌太行親の如き、一死を以て彼に報じたる、是を源賴朝が源九郞を赤族し、蒲冠者を誅戮し、藏人行家を追殺し、彼等をして高鳥盡きて良弓納めらるゝの思をなさしめたるに比すれば、其差何ぞ獨り天淵のみならむや。

[やぶちゃん注:「泫然」涙がはらはらとこぼれるさま。さめざめと泣くさま。

『瀨尾主從の健鬪して仆るゝや、彼「あつぱれ强者や。助けて見て。」と歎きたりき』「瀨尾」は「せのを」で平氏方の武将妹尾兼康(せのおかねやす 保安四(一一二三)年或いは大治元(一一二六)年~寿永二(一一八三)年)。姓は瀬尾とも呼ばれた。ウィキの「妹尾兼康」によれば、『出生については謎が多く』、『鳥羽上皇とその官女であった妹尾保子との間に京都八条の平忠盛』(清盛の父)『邸にて生まれたという説』がある。『早くから平氏に仕え』、「保元物語」「平治物語」「平家物語」などに『平家方の侍としてその名が記されている』。治承四(一一八〇)年には、『南都で蜂起した僧兵たちの鎮圧を任せられたが、本格的な武装を禁じられたため』、『多くの死傷者を出し』ており、『このことが』同年末の『平重衡らによる』「南都焼き討ち」(治承四年十二月二十八日(一一八一年一月十五日)に)『へとつながっている。その後』、寿永二(一一八三)年の「倶利伽羅合戦」でも『平家方で参戦するも、源義仲軍に敗れ』、(ここからはより詳しいウィキの「福隆寺縄手の戦い」を主文として引く)。『兼康は木曾義仲方の武将倉光成澄に捕らえられる。義仲は兼康の武勇を惜しんで助命し、身柄を成澄の弟倉光成氏に預けた。兼康は義仲に従いながらも、反撃の機会を伺っていた』。『同年』七『月に平家一門は都を落ち、兼康は』十『月に平家を追討すべく西国へ向かった義仲軍に加わる』。「水島の戦い」で『義仲軍が敗れたのち、兼康は自領である備前国妹尾荘に案内すると成氏を誘い出して殺害』、『出迎えた嫡子妹尾宗康や』、『備前・備中・備後三ヶ国で現地に残っていた平家方の武士たちをかき集め』、実に『軍勢二千余人をもって福隆寺縄手の笹の迫(笹が瀬川の流域、坊主山と鳥山の間の』津島笹が瀬付近。グーグル・マップ・データ)『に要塞を構え、木曾軍に反旗を翻した』。『兼康方は木曾軍の猛攻に激しく抵抗するが、寄せ集めの勢であり、木曾の大軍の前に城郭は攻め落とされる。妹尾兼康は落ち延びようとするが、取り残された子の宗康』(「平家物語」によれば、二十歳ほどであったが、著しい肥満の大男であったため、走ることも困難であったとし、一度は逃げ遅れた)のために引き返し、今井兼平の軍勢に突入して討ち死にした。義仲は備中国鷺が森にかけられた兼康主従三人の首を見て』、「あはれげの者かな、いま一度助けで」(助けてやりたかった)と『その武勇を惜しんだという』。「覚一本」の最善本とされる「龍谷大学本」ではここの義仲の台詞は「あつぱれ、剛(かう)の者かな。是れをこそ一人當千(いちにんたうぜん)の兵(つはもの)ともいふべけれ。あつたら者どもを助けて見で。」とある。

「死且不辭」(死すら且つ辭せず)は、これもさんざんやったねぇ、「史記」の「鴻門の会」の圧縮だ。元犬殺しの強者樊噲(はんかい)が、宴席に踊り入って、大杯の酒を一気に飲み乾し、出された硬い豚の肩の生肉を肴に食って、項羽に「壯士なり。能く復た飮むか。」と訊ねたその最初の台詞だよ。「臣、死且不避、卮酒安足辭。」(臣、死すら且つ避けず。卮酒(ししゆ)安(いづくん)ぞ辭するに足らん。)。原文は実際、「避」でなく、「辭」を使っているものもある。

「光風」(くわうふう(こうふう))は雨あがりなどの、日をあびた草木に吹く風。また、春の日がうららかに照っている時、爽やかに吹く風を言うが、ここはそのようなさっぱりとした爽やかな性質(たち)の比喩。

「襟懷」(きんくわい(きんかい))心の中。胸の内。

「桃李」自分が推挙した人材。自分がとりたてた弟子や家臣。中唐の詩人で政治家の劉禹錫(りゅううしゃく)の詩「宣上人遠寄和禮部王侍郞放榜後詩因而繼和」(「宣上人、和禮部王侍郞の放榜の後の詩を遠く寄す、因りて繼いで和す」か)の、

一日聲名徧天下

滿城桃李屬春官

 一日 聲名 天下に徧(あまね)く

 滿城の桃李 春官に屬(しよく)す

に基づく。詩の原義は科挙で試験官が採用した優れた学生(桃李)で、教師が優れた門下生を世に輩出させることの比喩である。

「寥々」(れうれう(りょうりょう))数少なく寂しいさま。

「源九郞」義経。

「赤族」(せきぞく)大修館書店「新漢和辞典」(昭和五〇(一九七五)年改訂四版)に、『①一族ことごとく殺されること。赤は空。②一族の者全部』とある。「空」とは「クウ」で、「赤」には「虚しい・何もない」の意があるからであるが、但し、「赤」には別に「滅ぼす・皆殺しにする」の意がある(同辞典の「赤」の意味で前者が④番目、後者がその後の⑤番目に出るから、⑤は④から派生した意味として「空」を挙げるか。⑤の意でよいと思うのだが。但し、この熟語、多くの辞書は所収しない。ネットで調べても、使用例を見ない。現在では死語に近いようである。

「高鳥盡きて良弓納めらる」「史記」の「淮陰侯(韓信)列伝」の一節。忠臣であった韓信が疑い深い劉邦に謀反人の冤罪を受けて捕縛された際、「狡兎死、良狗烹、高鳥盡、良弓藏、敵國破 謀臣亡。」(「狡兎(こうと)死して良狗(りやうく)烹(に)られ、高鳥(こうてう)盡きて良弓(りやうきゆう)藏(かく)れ、敵國敗れ、謀臣亡ぶ」と言う故事を呟いたことに基づく。「高鳥」は高く飛ぶ捕獲し難い敏捷にして高貴な鳥がいなくなれば、それを射落とせる勝れた強弓(ごうきゅう)も仕舞われて顧みられなくなるという比喩。

「天淵」(てんえん)天と淵(ふち)で、天地。転じて、非常にかけ離れていること。]

 

三たび云ふ、彼は眞に熱情の人也。彼が將として成功し、相として失敗したる、亦職として之に因らずンばあらず。百難を排して一世を平にし、千紛を除いて大計を定む、唯大なる手の人たるを要す。片雲を仰いで風雪を知り、巷語を耳にして大勢を算す、唯大なる眼の人たるを要す。相印を帶びて天下に臨む、或は一滴の淚なきも可也。李林甫の半夜高堂に默思するや、明日必殺ありしと云ふが如き、豈此間の消息を洩すものにあらずや。然りと雖も、三軍を率ゐて逐鹿を事とす、眼の人たらざるも或は可、手の人たらざるも亦或は可、唯若し淚の人たらざるに至つては、斷じて將帥の器を以てゆるす可からず、以て大樹の任に堪ふ可からず。彼は此點に於て、好個の將軍たるに愧ぢざりき。而して彼に歸服せる七州の健兒は、彼の淚によりて激勵せられ鼓吹せられ、よく赤幟幾萬の大軍を擊破したり。しかも彼の京師に入るや、彼は其甲冑を脫して、長裾を曳かざる可からざるの位置に立ちたりき。彼は冷眼と敏腕とを要するの位置に立ちたりき。彼は唱難鼓義の位置より一轉して撥亂反正の位置に立ちたりき。約言すれば彼は其得意の位置よりして、其不得意の位置に立ちたりき。然れども彼は天下を料理するには、餘りに溫なる淚を有したりき。彼は一世を籠罩するには、寧ろ餘りに血性に過ぎたりき。彼は到底、袍衣大冠[やぶちゃん注:「はういたいくわん」。]して廟廊の上に周旋するの材にあらず、其政治家として失敗したる亦宜ならずとせむや。壽永革命史中、經世的手腕ある建設的革命家としての標式は、吾人之を獨り源兵衞佐賴朝に見る。彼が朝家に處し、平氏に處し、諸國の豪族に處し、南都北嶺に處し、守護地頭の設置に處し、鎌倉幕府の建設に處するを見る、飽く迄も打算的に飽く迄も組織的に、天下の事を斷ずる、誠に快刀を以て亂麻をたつの槪ありしものの如し。賴朝は殆ど豫期と實行と一致したり。順潮にあらずンば輕舟を浮べざりき。然れども義仲は成敗利鈍を顧みざりき、利害得失を計らざりき。彼は塗墻に馬を乘り懸くるをも辭せざりき。かくして彼は相として敗れたり。而して彼が一方に於て相たるの器にあらざると共に、他方に於て將たるの材を具へたるは、則ち義仲の義仲たる所以、彼が革命の健兒中の革命の健兒たる所以にあらずや。

[やぶちゃん注:「李林甫の半夜高堂に默思するや、明日必殺ありしと云ふ」李林甫(六八三年~七五三年)盛唐の宰相。唐の宗室出身で諸官を歴任したが、「口に蜜あり,腹に剣あり」と評された佞臣であった。七三四年、宰相となると,政敵を次々に退ける一方、玄宗の寵姫の武恵妃や寵臣の宦官高力士に取り入って玄宗のお気に入りとなり、権勢を揮った。権勢維持のために大軍を率いる節度使に異民族を登用したが、安禄山もその一人で、これが「安史の乱」の遠因となった。没後、楊国忠には生前に突厥と結んで謀反の企みがあったとされ、官爵を剥奪されて子供は流罪となっている(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。ここでの表現が何を出典としているかは判らなかったが、要はウィキの「李林甫」にあるように、七四六年から七四七年にかけては、『李林甫の謀略により、皇太子李璵』(りよ:後の粛宗)『の周辺の人物や李林甫が嫌っていた人物を中心が数多く陥れられた。杜有隣らは処刑され、韋堅・皇甫惟明』(こうほ いめい)『・李邕』(りよう)『・裴敦復』(はいとんふく)『らは左遷させられた上で殺され、李適之・王琚が自殺に追い込まれた。裴寛・李斉物』(りさいぶつ)『・王忠嗣らも左遷させられている。李林甫のために働いた楊慎矜』(ようしんきょう)『も玄宗の意にかなってきたため、冤罪により』、『自殺に追い込まれた。その後も皇太子の引きずりおろしに腐心し、楊釗』(ようしょう)『らに皇太子に関係する人物を弾劾させ、罪をかぶせられた家は数百家にものぼった』という粛清の嵐の中の凄然残忍たる予告シーンなのであろう。

「大樹」近衛大将・征夷大将軍の唐名。大樹将軍。後漢の時代、諸将が手柄話をしているときに馮異(ふうい)はその功を誇らず、大樹の下に退いたことに由来する(「後漢書」の「馮異伝」)。

「七州」義仲が掌握した北陸道七州(若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡)を命数として数え得るが、ここは必ずしも「七」に拘らず、彼に従った「多くの国衆」の謂いであろう。

「唱難鼓義」(しやうなんこぎ(しょうなんこぎ))筑摩書房全集類聚版注に、『(為政者に対して)難を唱え』、『正しい道を説く』とある。次との対句表現であるから、恐らく出典は漢籍にありそうだが、調べ得なかった。

「撥亂反正」(はつらんはんせい)乱れた世を治め、本来の正しい状態に戻すこと。「春秋公羊伝」の哀公十四年(紀元前四八一年)の条の「撥亂世反諸正、莫近諸春秋」(亂世を撥(をさ)めて、諸(これ)を正に反(かへ)すは、春秋より近きは莫し)に由る。

「籠罩」(ろうたう(ろうとう))「罩」も「こめる・入れ込む」の意であるから、「総てを一つにする・統一すること」の意。

「守護地頭の設置」文治元(一一八五)年。現行では一般に「鎌倉幕府の」事実上の「建設」はこの全国の支配権の獲得を以ってする見解が有力であるが、厳密には、

・治承四(一一八〇)年十月七日/頼朝が鎌倉に入って、実質上の東国の支配者となり、侍所を設置する。

・寿永二(一一八三)年十月/頼朝が後白河法皇から宣旨を受け、東海・東山両道の国衙領支配権を認められる。

・元暦元(一一八四)年十月六日/公文所・問注所を設置し、ここに実際の幕府の政治行政機構が始まった。

・文治元(一一八五)年十一月/守護・地頭が設置され、頼朝の権力は西国まで及ぶ。

・建久元(一一九〇)年十月/頼朝上洛、権大納言・右近衛大将(このえのだいしょう)に任ぜられる(同年十二月に辞任)。この年、その居館を初めて「幕府」と称した。

・建久三(一一九二)年七月十二日/頼朝が征夷大将軍に任ぜられる(これはその任官に反対していた後白河の死去から四ヶ月後のことであった)。

の十二年間に成立したとするのが論理的には正しい。

「塗墻」(としやう(としょう))築地(ついじ)。]

 

彼は野性の兒也。彼の衣冠束帶するや、天下爲に嗤笑[やぶちゃん注:「ししやう」。]したり。彼が弓箭を帶して禁闕を守るや、時人は「色白うみめはよい男にてありけれど、起居振舞の無骨さ、物云ひたる言葉つきの片口なる事限りなし」と嘲侮したり。葡萄美酒夜光盃、珊瑚の鞭を揮つて靑草をふみしキヤバリオルの眼よりして、此木曾山間のラウンドヘツドを見る、彼等が義仲を「袖のかゝり、指貫のりんに至るまでかたくななることかぎりなし」と罵りたる、寧ろ當然の事のみ。しかも彼は誠に野性の心を有したりき。彼は常に自ら顧て疚しき所あらざりき。彼は自ら甘ぜむが爲には如何なる事をも忌避するものにはあらざりき。彼は不臣の暴行を敢てしたり。然れども、彼が自我の流露に任せて得むと欲するを得、爲さむと欲するを爲せる、公々然として其間何等の粉黛の存するを許さざりき。彼は小兒の心を持てる大人也。怒れば叫び、悲めば泣く、彼は實に善を知らざると共に惡をも亦知らざりし也。然り彼は飽く迄も木曾山間の野人也。同時に當代の道義を超越したる唯一個の巨人也。猫間黃門の彼を訪ふや、彼左右を顧て「猫は人に對面するか」と尋ねたりき。彼は鼓判官知康の院宣を持して來れるに問ひて「わどのを鼓判官と云ふは、萬の人に打たれたうたか、張られたうたか」と云ひたりき。彼の牛車に乘ずるや、「いかで車ならむからに、何條素通りをばすべき」とて車の後より下りたりき。何ぞ其無邪氣にして兒戲に類するや。彼は「田舍合子[やぶちゃん注:「ゐなかがふし」。]の、きはめて大に、くぼかりけるに飯うづたかくよそひて、御菜三種して平茸の汁にて」猫間黃門にすゝめたり。而して黃門の之を食せざるを見るや、「猫殿は小食にておはすよ、聞ゆる猫おろしし給ひたり、搔き給へ給へや」[やぶちゃん注:「搔き給へ給へや」の「給へ」の二度目は底本では踊り字「〱」であるが、正字化した。ここのみで使用されている。]と叫びたりき。何ぞ其頑童の號叫するが如くなる。かくの如く彼の一言一動は悉、無作法也。而して彼は是が爲に、天下の嘲罵を蒙りたり。然りと雖も、彼は唯、直情徑行、行雲の如く流水の如く欲するがまゝに動けるのみ。其間、慕ふべき情熱あり、掩ふ可からざる眞率あり。換言すれば彼は唯、當代のキヤバリオルが、其玉盃綠酒と共に重じたる無意味なる禮儀三千を縱橫に、蹂躙し去りたるに過ぎざる也。彼は荒くれ男なれ共あどけなき優しき荒くれ男なりき。彼は所詮野性の兒也。區々たる繩墨、彼に於て何するものぞ。彼は自由の寵兒也。彼は情熱の愛兒也。而して彼は革命の健兒也。彼は、群雄を駕御し長策をふるつて天下を治むるの隆準公にあらず。敵軍を叱咜し、隻劍をかざして堅陣を突破するの重瞳將軍也。彼は國家經綸の大綱を提げ[やぶちゃん注:「ひつさげ」。]、蒼生をして衆星の北斗に拱ふ[やぶちゃん注:「むかふ」。]が如くならしむるカブールが大略あるにあらず。辣快、雄敏、鬻拳の兵諫を敢てして顧みざる、石火の如きマヂニーの俠骨あるのみ。彼は壽永革命の大勢より生れ、其大勢を鼓吹したり。あらず其大勢に乘じたり。彼は革命の鼓舞者にあらず、革命の先動者也。彼の粟津に敗死するや、年僅に三十一歲。而して其天下に馳鶩したるは木曾の擧兵より粟津の亡滅に至る、誠に四年の短日月のみ。彼の社會的生命はかくの如く短少也。しかも彼は其炎々たる革命的精神と不屈不絆の野快とを以て、個性の自由を求め、新時代の光明を求め、人生に與ふるに新なる意義と新なる光榮とを以てしたり。彼の一生は失敗の一生也。彼の歷史は蹉跌の歷史也。彼の一代は薄幸の一代也。然れども彼の生涯は男らしき生涯也

[やぶちゃん注:最後の太字は底本では傍点「ヽ」。ここのみで使用されている。

「色白うみめはよい男にてありけれど、起居振舞の無骨さ、物云ひたる言葉つきの片口なる事限りなし」流布本「平家物語」の巻第八の「猫間」の冒頭に出る。

   *

 康定、都へ上がり、院參して、御坪(おつぼ)の内に畏まつて、關東の樣(やう)を具さに奏聞申したりければ、法皇、大きに御感ありけり。公卿も殿上人も、笑壺(ゑつぼ)に入らせおはしまし、如何なれば、兵衛佐は、かうこそゆゆしうおはしせしか。當時、都の守護して候はれける木曾義仲は、似も似ず惡(あ)しかりけり。色白う眉目(みめ)は好い男(をのこ)にてありけれども、起居(たちゐ)のふるまひの無骨さ、もの言ひたる詞續(ことばつづ)きの頑(かたく)ななる[やぶちゃん注:賤しくみっともない。]事、限りなし。理(ことわり)かな、二歳より三十に餘るまで、信濃國木曾と云ふ片山里(かたやまざと)に住み馴れておはしければ、何(なじ)かはよかるべき。

   *

「葡萄美酒夜光盃」よくやったねぇ、私の好きな「唐詩選」の王翰の「涼州詞」だ。

   *

葡萄美酒夜光杯

欲飮琵琶馬上催

酔臥沙場君莫笑

古來征戰幾人囘

 葡萄の美酒 夜光の杯

 飮まんと欲すれば 琵琶 馬上に催す

 酔(ゑ)ひて沙場に臥す 君 笑ふこと莫かれ

 古來 征戰 幾人か囘(かへ)る

   *

「キヤバリオル」Cavaliers。音写するなら「キャヴァリアーズ」。「騎士党」と訳される(もとは「婦人に親切な男・婦人に付き添う男」で古語で「騎士」を指す)。ウィキの「騎士党によれば、『イングランド内戦』(「清教徒革命」)『期から空位期、王政復古期』(一六四二年~一六八〇年)にかけて、『イングランド王チャールズ』Ⅰ『世・チャールズ』Ⅱ『世父子に忠誠を誓い』、『支持した人々を指す用語であり、敵対者である』「議会派」(Parliamentarians。「円頂党」とも)により卑称として『使われた。チャールズ』Ⅰ『世の甥で』、『国王軍の中心的な軍司令官だったルパート・オブ・ザ・ラインがその典型と言われる』。『「キャヴァリアー(Cavalier(s))」は、俗ラテン語で「騎士」を意味する「caballarius」、またそのスペイン語形である「caballero」に由来する』が、先だって、ウィリアム・シェイクスピアは史劇「ヘンリーⅣ世」の第二部(一五九六年から一五九九年の間の書かれたとされ、一六〇〇年には書籍出版業組合に記録されてある)の『中で、「cavaleros」という語を「威張り散らす洒落者」という意味で使って』おり、『この言葉はその後、イングランド内戦で議会と対立するチャールズ』Ⅰ『世の支持者たる王党派を、議会派が非難、侮蔑する文脈で使うようになった』とある。

「ラウンドヘツド」Roundheads。前注の「議会派」=「円頂党」のこと。ウィキの「円頂党」によれば、『イングランド内戦』に於いて『議会を支持した人々を指し』、『絶対君主主義や王権神授理論を標榜するイングランド王チャールズ』Ⅰ『世とその支持者である王党派(騎士党)と敵対した』。『円頂党の政治的な目標は、議会(立法府)による行政組織の完全な支配を実現させることであった』。『大多数の円頂党員は立憲君主制を望んでいたが』、一六四九『年に第二次イングランド内戦(英語版)が終わる頃には』、『オリバー・クロムウェルを始めとする共和派の指導者が権力を握り、王制を完全に廃止してイングランド共和国(コモンウェルス)を樹立した。第一次イングランド内戦』『における円頂党の最高司令官だったトーマス・フェアファクス卿や、第』二『代マンチェスター伯爵エドワード・モンタギューら円頂党指導層の大半は立憲君主体制の支持者であり続けた』。『円頂党は主にピューリタンや長老派から構成され』ていたが、『少数の政治的な徒党も含まれていた』。『当時、議会派に属する清教派の一部は頭を短く刈り上げていたが、この髪型はロンドン宮廷の派手好みな男性たちに流行していた長い巻き髪とは対照的であった』ことから、『このピューリタンの丸刈り頭が円頂党(ラウンドヘッド)の語源』となった、とある。

「袖のかゝり、指貫のりんに至るまでかたくななることかぎりなし」やはり「平家物語」の巻第八の「猫間」の猫間がほうほうの体で義仲の元を逃げ出した後のパートの一節。流布で示す。

   *

 その後(のち)、義仲、院參(ゐんざん)しけるが、官(くわん)加階したる者の直垂(ひたたれ)にて出仕せんこと、あるべうもなしとて、にはかに布衣(ほうい)[やぶちゃん注:布製の狩衣。]取り、裝束(しやうぞく)、冠際(かぶりぎは)、袖のかかり[やぶちゃん注:着方。]、指貫(さしぬき)[やぶちゃん注:袴の一種。裾を括(くく)るようになっている。]の輪(りん)[やぶちゃん注:袴の裾を別の布で輪状に縁(へり)どったもの。]にいたるまで、頑ななること限りなし。鎧取つて着、矢搔き負ひ、弓押し張り、兜の緖を締め、馬(むま)に打ち乘つたるには、似も似ず、惡しかりけり。されども車に屈(こが)み乘んぬ。

 牛飼ひは屋島の大臣(おほいとの)[やぶちゃん注:宗盛。]の牛飼ひなり。牛車(うしくるま)もそ[やぶちゃん注:指示語。もと宗盛のもの。]なりけり。逸物(いちもつ)なる牛の、据ゑ飼うたるを[やぶちゃん注:大切に車を引かせることもなく飼ったものを。]、門(かど)出づるとて、一楉(ひとずばえ)[やぶちゃん注:一鞭(ひとむち)。]當てたらうに、何(なじ)かはよかるべき。牛は飛んで出づれば、木曾は車の内にて、仰向(あふのき)に倒(たふ)れぬ。蝶の羽根を廣げたる樣に、左右(さう)の袖を廣げ、手をあがいて、起きん起きんとしけれども、何(なじ)かは起きらるべき。木曾、牛飼ひとは、え云はで、

「やれ、子牛健兒(こうしこでい[やぶちゃん注:「こでい」は「こんでい」の転訛で雑事に使役した者のこと。])よ、やれ、子牛健兒よ。」

と云ひければ、『「車を遣れ」と云ふぞ』と心得て、五、六町[やぶちゃん注:約五百四十六~六百五十五メートル。]こそ足搔かせけれ。

 今井の四郞、鞭鐙を合はせて追つ付き、

「何とて御車(おんくるま)をば、かやうには仕るぞ。」

と言ひければ、

「餘りに御牛(おうし)の鼻が恐(こは)う候うて。」[やぶちゃん注:「鼻が恐い」で進まんとする勢いが強いことを指す。]

とぞ述べたりける。

 牛飼ひ、木曾に仲直(なかなほ)りせんとや思ひけん、

「それに候ふ手形(てがた)と申まうすものに、取り付かせ給へ。」[やぶちゃん注:「手形」牛車の榜立(ぼうだて:前後の口の左右にある板)につかまる時の手掛かりとする彫られた孔のこと。]

と言ひければ、木曾、手形にむずと摑み付いて、

「あつぱれ支度(したく)や、子牛健兒が計らひか、殿の樣(やう)か。」[やぶちゃん注:宗盛大臣がかくも考案したものか。]

とぞ問うたりける。

 さて院の御所へ參り、門前にて、車かけ外(はづ)させ、後ろより下りんとしければ、京の者の雜色(ざつしき)に召し使はれけるが、

「車には召され候ふ時こそ、後ろよりは召され候へ。下りさせ給ふ時は、前まへよりこそ下りさせ給ふべけれ。」

と言ひければ、木曾、

「いかでか車ならんがらに[やぶちゃん注:公卿の牛車だからと言って。]、なんでふ、素通どほりをばすべき。」[やぶちゃん注:「乗降を一方通行せねばならん理由があるかっつ!」]

とて、遂つひに後ろよりぞ下りてげる。

 その外を可笑かしきことども多かりけれども、恐れてこれを申まうさず。

 牛飼ひは終(つひ)に斬られにけり。

   *

「公々然」(こうこうぜん)。「公然」の強調形。おおっぴらであるさま。

「猫間黃門の彼を訪ふや、……」原文電子化は既注。「黃門」は中納言の唐名。

「田舍合子の、……」同じく原文電子化は既注。

「眞率」(しんそつ)真面目で飾りけがないこと。

「隆準公」(りゆうせつこう(りゅうせつこう))。「りゅうじゅん」の読みは誤り。一般名詞で「鼻柱の高い人」であるが、ここは漢の高祖劉邦の別称。

「重瞳」(ちやうどう(ちょうどう))「將軍」項羽のこと。項羽は生まれつき瞳孔が重なって二重にあったとされる。ウィキの「重瞳」によれば、症例として実在し、先天性と、事故など物理的衝撃を受けて「虹彩離断」が著しく悪化した後天的なものとがあり、「虹彩離断」の場合は通常は物が二重に見える症状を呈するため、外科的手術が必要となる。但し、作家で歴史家でもあった『郭沫若は、「項羽の自殺」という歴史短編で、重瞳とは「やぶにらみ」のことであろうと言って』おり、また、『作家の海音寺潮五郎は、徳川光圀、由井正雪などについても重瞳であったという説を紹介した上、「ひとみが重なっている目がある道理はない。おそらく黒目が黄みを帯びた薄い茶色であるために』、『中心にある眸子がくっきりときわだち、あたかもひとみが重なっている感じに見える目を言うのであろう」と論じている』とある。私は、項羽の場合は、この海音寺の説であるように感じている。

「カブール」ガリバルディ及びマッツィーニと並ぶ「イタリア統一の三傑」と称される、サルデーニャ王国首相・イタリア王国首相(初代閣僚評議会議長)・同初代外務大臣を歴任したイタリアの政治家カヴール伯爵カミッロ・パオロ・フィリッポ・ジュリオ・ベンソ(Camillo Paolo Filippo Giulio Benso 一八一〇年~一八六一年)は、「カミッロ・カヴール」や「コンテ・ディ・カヴール(conte di Cavour:カヴール伯爵)」の通称で知られる。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、ピエモンテの名門貴族出身で、トリノ士官学校を卒業したが、自由主義思想を抱いて、一八三一年、軍役を退き、フランスとイギリスへの旅に出、自由主義経済と議会主義に深い確信を持って帰国、広大な領地に資本主義的大農場経営を導入して農業改革に努め、工業化の課題に取組むため、銀行設立・鉄道敷設の事業を熱心に進めた。 一八四七年、新聞『イル・リソルジメント』(Il Risorgimento:イタリア語の「再び・生まれる・事」の合成語で、フランス語の「ルネサンス」(Renaissance)と同意義となる)を創刊して政治的経済的な自由主義の主張を掲げ、翌一八四八年には、新たに開設されたサルジニア王国議会の議員となり、政治活動に足を踏み入れた。中道右派の立場に立ってM.アゼリオ内閣で農商工相や財務相を務め、中道左派の指導者U.ラタッツィと連合を結び,一八五二年、自ら首相の地位を得た。以後、一八五九年七月まで、産業振興策を積極的に推進し、自由貿易主義の見地に立つ低関税政策と英仏両国との通商拡大、金融信用制度の充実などを成し遂げた。その自由主義的政策は当時のイタリア各国の亡命者を惹きつけ、ピエモンテを「リソルジメント運動」の中心地とする効果を齎した。外交政策では、一八五八年にナポレオンⅢ世と「プロンビエルの密約」を結んでオーストリアに対する独立戦争の準備を進め、一八五九年に戦端が開かれて勝利の見通しが強まったとき、突如として「ビラフランカの和議」がなされたため、これに抗議して、彼は同年七月、首相を辞任した。しかし、一八六〇年一月に復帰し、同年三月には中部イタリアの併合に成功、続いてシチリアとナポリに遠征したG.ガリバルディと対抗しつつ、 十月に南イタリアを併合、イタリアの統一と独立に貢献した。一八六一年三月、「イタリア王国」の成立が宣言されて初代首相に任ぜられたが、山積する課題を残して六月に急死した、とある。

「辣快」(らつくわい(らつかい))「辣」「快」も孰れも「激しい」の意であるから、以下の「雄敏」との並列から見て、激しく厳しいやり方で物事をてきぱきと処理すること、「辣腕」と同じであろう。

「鬻拳」(いくけん ?~紀元前六七五年)は春秋時代の楚の大夫で、時に、巴と黄の侵略に戦いを挑んで一度破れ、意気消沈していた文王を諌めるに、剣を抜いて脅迫して意気を鼓舞させた。その直後、彼は「君王に対して自分のしたことは大罪である」として自分の両足を自らたたき切った名臣。ネットには日本語の記載が少ないが、大田牛二氏作の小説「春秋遥かに」の「第三章 天下の主宰者」の「鬻拳」が非常によい。

「マヂニー」フランスの軍人で第一帝政下の元帥であったアンドレ・マッセナ(André Masséna 一七五八年~一八一七年)。ナポレオン戦争では主に方面軍司令官を務め、スイス戦役や半島戦争などに従事した。ウィキの「アンドレ・マッセナ」によれば、『ニースの貿易商の息子に生まれた。幼い頃に両親を失い、石鹸製造業を営む叔父に引き取られたが』、十三歳の『時に家出し、武装商船(一種の私掠船、海賊)の船員になった』。一七七五年、『船員を辞め、一兵卒としてフランス陸軍に入隊し、ロイヤル・イタリアン連隊に配属された。下士官の最高位である曹長(准尉)まで昇進したものの、貴族出身者以外にはそれ以上の昇進の見込みがなかったため』、一七八九年に『除隊した。その後、密輸業を営んでいたが』、一七九一年に『再び軍に入隊した。かつての軍歴が評価され』、翌『年までに大佐に昇進した』。『フランス革命戦争が進行する中、マッセナはイタリア方面軍で着実に功績を上げ』、二年で『将軍まで昇進した』。一七九四年八月の「サオルジオの戦い」で『最初の勝利を挙げ』、翌年八月三日に「ロナートの戦い」において、『オーストリア軍を破ったことは、彼にとって初の著名な勝利となった。また、この戦いで初めてナポレオン・ボナパルトと対面した』。一七九六年、『ナポレオンが新任のイタリア方面軍司令官となると、マッセナは彼の指揮下に入り、イタリア遠征を進めていった』。翌年一月十四日の「リヴォリの戦い」で、『マッセナは驚異的な機動によってオーストリア軍の後背をつき、勝利の立役者となった』。一七九九年、『マッセナはスイス方面軍司令官に任命され、第二次対仏大同盟に基づいてヘルヴェティア共和国(スイスに樹立されたフランスの傀儡国家)へ侵攻してきたロシア・オーストリア同盟軍と戦った』。同年九月二十五日から二十六日に『かけて行われた第二次』の「チューリッヒの戦い」でも『同盟軍を破り、大いに名声を高めた』。同年の「ブリュメールのクーデタ」に『よってナポレオンが第一執政とな』ると、一八〇〇年、『マッセナはイタリア方面軍司令官に任じられ、イタリアに派遣された。しかし、数で勝るオーストリア軍の攻勢の前に、フランス軍は防戦に回らざるをえなくなった。また、フランス軍は盛んに略奪を働いたため、現地人の不満を招いた。同年』三『月、ジェノヴァで包囲され』、三ヶ月に亙る『篭城戦の後』、六月四日に降伏した。このため、マッセナ軍は』六月十四日の「マレンゴの戦い」には『参加できなかった。その後、マッセナは一時』、『軍籍を離れ、立法院議員を務めた』。一八〇四年、『皇帝に即位したナポレオンは、マッセナを軍務に復帰させ、合わせて元帥に昇進させた』。翌『年、再びイタリア方面軍司令官に任命され、ヴェローナを制圧してオーストリア軍の進軍を阻み、さらに同年』十月三十日の「カルディエロの戦い」で『オーストリア軍を破って多数の捕虜を得た』。一八〇六年、『ナポレオンの兄ジョゼフがナポリ王になると、マッセナはナポリ軍の指揮権を与えられた。しかし、このときも略奪を働いたために現地人の反感を買っ』ている。一八〇九年、第五次の「対仏大同盟」が『結成されると、マッセナは第』四『軍団司令官となり、オーストリアへ侵攻した』。「アスペルン・エスリンクの戦い」で『フランス軍の前衛が敗退したとき』には、マッセナの第四軍団が『友軍を救援し、さらに橋頭堡を守り抜いた。この功績と、続く』「ヴァグラムの戦い」で『上げた功績により』、彼は『エスリンク大侯爵に叙せられ』ている。一八一〇年、『マッセナはポルトガル方面軍司令官に任命され、半島戦争に加わ』り、同年九月二十七日、「ブサコの戦い」で『初めて同盟軍と衝突した。イギリス軍司令官の初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーは、決戦を避けて同盟軍をトレス・ヴェドラス線まで後退させた。マッセナ軍はトレス・ヴェドラス線を抜けないまま、徐々に消耗して』ゆき、一八一一年、『イギリス軍の援軍が到着すると戦況』が逆転、同年三月五日の「バロッサの戦い」、同年五月三日の「フェンテス・デ・オニョーロの戦い」などで『フランス軍は敗退を繰り返し』、『マッセナは軍司令官を解任され、マルセイユの司令官に降格された』。『その後、ナポレオンが退位し』、ルイXVIII世に『よって王制が復古されても、マッセナはマルセイユ司令官を務め続けた。エルバ島からナポレオンが脱出し、いわゆる』「百日天下」が『始まると、マッセナは彼を支持したが、軍に加わることはなかった』。「ワーテルローの戦い」(一八一五年六月十八日)で『ナポレオンが敗北した後、王制を支持しなかったことを理由に、全ての軍務を解任され』、二年後の一八一七年四月四日、『パリで死亡した』。満五十八であった。『マッセナは独占欲が強く、貪欲な人柄であったとされている。また、戦場に男装させた愛人を連れて歩くほどの女好きでもあった。その性格からしばしば問題を起こし、特にイタリアやスペインでの大々的な略奪行為は批判されている』。『一方』、『軍事指揮官としては非常に優秀な人物であり、特に』「リヴォリの戦い」に『見られたような機動戦を得意とした。マッセナをナポレオン麾下の元帥の中で最優秀と評価する歴史家もいるほどである。ナポレオンも彼の能力を高く評価しており、一時は軍務を離れていたマッセナを、即位後』、『直ちに元帥に復帰させたことはその表れといえるだろう。半島戦争で敵となったウェリントンも、マッセナの後任司令官となったスールトと比較し、マッセナの力量の方が上であると評価している』とある。

「馳鶩」(ちぶ)馬を走らせる。「鶩」も「馳せる」の意。]

 

彼の一生は短かけれども彼の敎訓は長かりき。彼の燃したる革命の聖檀の靈火は煌々として消ゆることなけむ。彼の鳴らしたる革命の角笛の響は嚠々[やぶちゃん注:「りうりう」。]として止むことなけむ。彼逝くと雖も彼逝かず。彼が革命の健兒たるの眞骨頭は、千載の後猶殘れる也。かくして粟津原頭の窮死、何の憾む所ぞ。春風秋雨七百歲、今や、聖朝の德澤一代に光被し、新興の氣運隆々として虹霓[やぶちゃん注:「こうげい」。]の如く、昇平の氣象將に天地に滿ちむとす。蒼生鼓腹して治を樂む、また一の義仲をして革命の曉鐘をならさしむるの機なきは、昭代の幸也。

[やぶちゃん注:底本では最後に改行して下インデントで『(明治四十三年二月、東京府立第三中學校學友會誌)』(明治四十三年は一九一〇年)あるが、これは全集編者によるものであるので、ここに示した。

「眞骨頭」(しんこつとう)は「真骨頂」に同じい。

「原頭」(げんとう)野原のほとり。

「春風秋雨七百歲」これはただの私の直感なのだが、これは、義仲を深く尊崇して死後もその傍らに自らの墓を作らせた松尾芭蕉の、かの「奥の細道」の平泉の金色堂での元禄二年五月十三日(グレゴリオ暦一六八九年六月二十九日)の名吟「」に続く句、

 五月雨を降りのこしてや光堂

の前句形である、

 五月雨や年々降りて五百たび(初期形)

 五月雨や年々降るも五百たび(推敲形)

の句のイメージを漢文調に書き換えたもので、本「義仲論」発表の明治四三(一九一〇)年から溯る義仲の死(寿永三年一月二十日(ユリウス暦一一八四年三月四日/グレゴリオ暦換算:三月十一日)までの七百二十六年を「五百たび」に合わせて「七百歳」に切り下げて表現したものではないかと推理している。

なお、以上の句形推敲については、私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 31 平泉 夏草や兵ものどもがゆめの跡 / 五月雨を降りのこしてや光堂』を参照されたい。

「德澤」恩恵。

「光被」(こうひ)光が広く行きわたること。君徳などが広く世の中に行き亙ること。

「昭代」聖代或いは「当代」の美称。ここはこの論文を書いた今現在をその当代に利かせたものと私は読む。

 なお、以上三分割で完成に十三日を要したため、途中で歴史的仮名遣と現代仮名遣の読みの表示方式を変えたりなどしたが、溯って統一することはしていない。悪しからず。引用リンクも多数になったので、当初秘かに考えていたサイト一括版は作成しないことにした。その強力な語彙力と博覧強記の十七歳の芥川龍之介に完全に脱帽であるが、私としては満足出来るものとはなったと考えている。ネット上には本作の注釈したものはおろか、正字による正規表現の電子テクストさえ見当たらない。芥川龍之介が生涯で最初に書いた本格的評論として自負している本作を、かく公開出来たことを私は内心、誇りに思っている。]

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