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2019/07/03

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(77) 遺風(Ⅳ)

 

 種族卽ち氏族(藩)の法律は如何といへば、それは行政界及び、あらゆる政治の内に、殆ど全能力をもつて殘つて居るといふ程度までに殘存して居る。投票者、官吏、立法者は、西洋人の川ふ亙言葉の意味で、主義原則に從つては居ないのである、彼等は人に從ひ、命令に從ふ。行爲のかういふ方面に於ては、命令違犯の罰は、重大なるのみならず果てしがない、唯だ一つかうした罪を犯せば、いろいろな力が何年も何年も續々己の身に仇をする事になるかも知れない、――理窟でも行かず、假借もなく、盲目的に、自然の力――風や潮のやうな力――に似た重さと固執とを以て、それが身に振りかかつで來るのである。最近十五年間の日本の政治史は、氏族(藩)の歷史を幾分か心得なくては、一向不可解なものである。政黨の首領は、藩の黨派と其の傍系の歷史とに充分通曉して居れば、驚くべき仕事を成就する事が出來る、そして外國人の居住者でさへも、日本の生活の長い經驗を有つて居て、藩の利害を基礎として推し進んで行けば、官邊に非常なる眞の權力を振ふ事が出來たのである。併し普通の外國人には、日本の現代の政治は混沌狀態で、支離滅裂で、とても考へられない變轉と見えるに違ひない。實際の處は、大抵の事は、外形こそ變つて居るが、『幾時代も以前に定められた通りに皆』其のままに殘つて居るのである。――蒸氣と電氣の時代の急速なのにつれて變化は一層迅速になり、其結果は一層不明瞭にはなつたけれども。

 現在の日本政治家の最大人物伊藤侯爵は、集團を作り、同藩の者が集合する政治生活の傾向が、憲政政治の效果を擧ぐるのに最も重大な障碍を與へる事を夙に看破した。彼は、此の傾向は、藩の利害よりも重い大事、最上の犧牲を拂ふ價値ある重大事によつてのみ、これを破る事が出來ると了解した。彼はそれ故に、あらゆる黨員が、國家の利害の爲めには、藩の利害も、黨派の利害も、一身上の利害も、或は他の凡ての利害をも顧みぬ事を誓つた一黨を組織した。一九〇三年に敵黨の内閣と衝突した際、此の黨派は内閣に對する怨恨を抑制して、反つてその敵に勢力を維持させた程の大手柄を立てた、併しこれを行つて居る間に大きな斷片は多く離れ去つた。國民性と同一視されて居る集團の傾向、藩の感情は、實に深いものであるが如く、伊藤侯の政策の終局の成功は、今猶ほ疑はしきものと考へられなければならぬ。唯だ一の國家的危險――卽ち戰爭の危險――のみがあらゆる黨派を一諸に結合する事、あらゆる意志を一の如く働かせる事を僅に爲し得たのであつた。

[やぶちゃん注:「伊藤侯」言わずもがな、元長州藩士で松下村塾出身、岩倉使節団副使・大日本帝国憲法起草の中心人物にして初代・第五代・第七代・第十代内閣総理大臣であった伊藤博文(天保一二(一八四一)年~明治四二(一九〇九)年)。前歴を端折って、小泉八雲がここで語っている時期の前後をウィキの「伊藤博文」から引くと、明治二二(一八八九)年二月十一日、『黒田内閣の下で大日本帝国憲法が発布される。これに際し、伊藤は華族同方会で憲法に関して演説し、立憲政治の重要性、とりわけ一般国民を政治に参加させることの大切さを主張する。また』、六月には「憲法義解」を刊行し、明治二五(一八九二)年には、『吏党の大成会を基盤にした政党結成を主張するが、明治天皇の反対により頓挫』した。『伊藤が明治』二十五『年から』二『度目の首相を務めていたとき、朝鮮の甲午農民戦争(東学党の乱)をきっかけに』、七『月に清軍と衝突、朝鮮の主権をめぐって意見が対立し』、八『月に日清戦争が起こる。翌年』明治二八(一八九五)年四月、『陸奥宗光とともに全権大使として、李鴻章との間に下関の春帆楼で講和条約の下関条約(馬関条約)に調印』、『また、戦争前に陸奥がイギリスと治外法権撤廃を明記した条約を結び、条約改正に大きく前進した』。『朝鮮の独立(第一条)と遼東半島の割譲などを明記した下関条約がドイツ・フランス・ロシアの三国干渉を引き起こし、第』二『次伊藤内閣は遼東半島の放棄を決め』、翌明治二十九年八月を以って『伊藤は首相を辞任』した。しかし、明治三一(一八九八)年一月には第三次伊藤内閣が発足し、六月には『衆議院を解散、閣議で政党結成の意思を表明するなど、新党結成を唱え』た『が、山縣有朋の反対に遭い』、『首相を辞任』、翌明治三十二年四月から十月まで、実に半年をかけて、『全国遊説を行い、政党創立の準備と民衆への立憲体制受け入れを呼びかけている』。明治三三(一九〇〇)年九月には『立憲政友会を創立し、初代総裁を務め』、十『月に政友会のメンバーを大勢入れた第』四『次伊藤内閣が発足するが、政党としての内実が整わない状態での組閣だったため、内部分裂を引き起こし』、翌三四(一九〇一)年五月に辞任した。『政友会はその後西園寺公望・原敬らが中心となり』、『伊藤の手を離れるが、立憲民政党とならぶ』二『大政党の』一『つとなり、大正デモクラシーなどで大きな役割を果たすまでに成長した』(「一九〇三年に敵黨の内閣と衝突」とあるのは、立憲政友会に批判的であった無所属の桂太郎による第一次桂内閣(明治三四(一九〇一)年~明治三九(一九〇六)年との関係を指す)。『日清戦争後、伊藤は対露宥和政策をとり、陸奥宗光・井上馨らとともに日露協商論・満韓交換論を唱え、ロシアとの不戦を主張した。同時に桂太郎・山縣有朋・小村寿太郎らの日英同盟案に反対した。さらに、自ら単身ロシアに渡って満韓交換論を提案するが、ロシア側から拒否され』た。明治三七(一九〇四)年『から始まった日露戦争をめぐっては、金子堅太郎をアメリカに派遣し、大統領セオドア・ルーズベルトに講和の斡旋を依頼して』おり、これが翌年の『ポーツマス条約に結びつくことになる。なお』、『この日露の講和に際して、首相の桂が日本の全権代表として最初に打診したのは、外相の小村ではなく』、『伊藤であった。桂内閣は、講和条件が日本国民に受け入れがたいものになることを当初から予見し、それまで』四度に亙って『首相を務めた伊藤であれば』、『国民の不満を和らげることができるのではないかと期待したのであ』った。『伊藤は』『、はじめは引き受けてもよいという姿勢を示したのに対し、彼の側近は、戦勝の栄誉は桂が担い、講和によって生じる国民の反感を伊藤が一手に引き受けるのは馬鹿げているとして猛反対し、最終的には伊藤も全権大使への就任を辞退した』という経緯があった。『また』、『交渉の容易でないことをよく知っていた伊藤は、全権代表に選ばれた小村に対しては「君の帰朝の時には、他人はどうあろうとも、吾輩だけは必ず出迎えにゆく」と語り、励まし』た、という。事実、『講和後は、勝利を手にした日本と敗戦国ロシアとの間の戦後処理に奔走し』ている。明治三八(一九〇五)年十一月、『第二次日韓協約』『により韓国統監府が設置されると』、『伊藤が初代統監に就任した。以降、日本は実質的な朝鮮の統治権を掌握した』。『伊藤は国際協調重視派で、大陸への膨張を企図して韓国の直轄を急ぐ山縣有朋や桂太郎・寺内正毅ら陸軍軍閥としばしば対立した』。『また、韓国併合について、保護国化による実質的な統治で充分であるとの考えから』、『当初は併合』に『反対の立場を取っていた』。しかし、『朝鮮内で独立運動である義兵闘争が盛んになるにつれて考え方を変え』、明治四二(一九〇九)年五月に統監職を辞職した際には日韓併合を支持していた。本書(小泉八雲の没した翌明治三八(一九〇五)年十月刊)の刊行から四年後の明治四十二年十月二十六日、ハルビン駅に於いて、伊藤は朝鮮民族主義活動家安重根(アン・ジュングン)に銃撃されて殺された。なお、彼の作った立憲政友会(略称・政友会)はウィキの「立憲政友会」に、『政友会の特徴は同党の成立趣意書にもあるように、「余等同志は国家に対する政党の責任を重んじ、専ら公益を目的として行動」するのであって、「国運を進め文明を扶植」するため与論を指導し、地方公共施設の建設にも「公益」を最優先させる「国家公党」を謳った点である』。『党ではなく、立憲政友「会」を称したのも、国家利益の優先や国家との一体感を強調する初代総裁・伊藤博文の政党観に由来し、政党に対する国家の優位性を表している』。『政友会は私的な利益を追求する政党を抑える「反政党」的な政党だった』。『その上で、個人の権利自由の保全や友好外交、国防充実、教育振興、産業発展、交通網の充実などを掲げた』。『特に犬養総裁時代では経済を中心とする平和的な対外政策「産業立国主義」』『が標榜された』。『他方、政友会の主力な支持基盤に地方の地主がいたこともあって、地方自治の尊重や地方分権も掲げられた』とあるのが、本部分の読解に役立つ。

 しかし、この伊藤博文についての個所の戸川秋骨明三の訳は、逐語的文節的にそのままであることを旨としたらしいこと、「斷片」のような訳語が不適切であること等から、幾分、判り難い感じになってしまっている。ここでは一つ、私の読み慣れている平井呈一氏の訳(一九七六年恒文社刊「日本――一つの試論」)から、その部分だけを引用させて戴く(平井氏はこの部分を段落として改行をしていない。原文は改行している)

   《引用開始》

今の日本の政治家中、最も大人物である伊藤侯は、かねてから、党をつくること、藩閥をつくることが、憲政政治の成就にいちばん重大な障害をあたえるということを知っていた。かれは、この傾向は藩の利害問題などより、もっと重い事由、最も高い犠牲を払うような事由によるほか、これを破ることはできないと悟ったのである。そこでかれは、国家の利害のためには、藩の利害も、党の利害も、個人的利害も、その他、いかなる種類の利害も超越すると誓約したそういうメンバーで、一党を組織した。一九〇三年に、反対党の内閣と衝突を生じた時に、この党は私怨をおさえて、勢力上の敵を擁護するという離れわざをやった。ところが、それをやっている最中に、大部分の党員はぼろぼろに脱落して行った。この衆をもって集まる傾向、国民的性格と同一のものに考えられているこの氏族的な感情は、それほど深いものがあるのである。それゆえ、伊藤侯の政略の究極の成功は、今でもわたくしなどは疑問に思われてならない。今まであらゆる党が一つにまとまって、あらゆる意志を一つにして働くことができたのは、これはただ、国家の非常時、戦争の危険が生じた時のみに限られていた。

   《引用終了》]

 政治のみならず、近代生活の殆どすべての局面は、昔の徒會の崩潰が根本的と言はんより、寧ろ表面的であつた證左を與へて居る。解散された建造物は、原形とは外觀の姿こそ異つて居るが、併し内部は同じ設計に基づいて、再び結晶させられた。何故かといふに、實際行はれた解散は、ただ集塊の分離をあらはしたのであつて、實質が獨立した單位に分裂した事をあらはした譯ではなかつたからである、そしてこれ等の集塊は再び粘着して、ただ集塊としてのみ、つづいて働きをなしたのである。個人の行動の獨立は、西洋の意味では、今猶ほ考へ得られないのである。最下級以上の各階級の個人は、なほ强制者であり、又被强制者たらざるを得ないのである。固定の中の原子(アトム)のやうに、彼は震動する事は出來る、併し彼の震動の軌道は固定して居る。彼は昔のそれとは餘り異つて居ない方法で、行動しなければならず、又掣肘を受けなければならないのである。

[やぶちゃん注:以下、一行空け。]

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