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2019/07/06

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(94)  囘想(Ⅰ)

 

  囘 想

 

 私は今迄日本の社會史に就いての一般觀念と、其の國民の性格を形作り鍛鍊した諸〻の力の性質に就いての一般觀念を傳へようと努めたのである、此の企圖は未だ甚だ不充分であるのは言を俟たない、此の問題に就いて滿足すべき著述の出來るのはまだ遠い將來の事である。併し日本はその宗教と社會進化の硏究を通じてのみ理解され得るといふ事は、既に充分に示されて居ると私は信ずる。日本は、確實な能率を以て西洋の應用科學を利用し、絕大なる努力を以て數百年間の仕事を僅々三十年間に成就して、西洋文明のあらゆる外形を維持しては居るが、併し社會學的には、古昔のヨオロツパに於ける基督の出現に先き立つ數百年以前の狀態に相當する狀態に留まつて居る、東洋の一社會の驚くべき光景を吾々に見せて居る。

[やぶちゃん注:「囘想」という章表題は原典では「REFLECTION」。不可算名詞では「熟考・内省・黙想・反省・再考・回想」のどれかであろう。平井呈一氏は『反省』であるが、私は自分が以上述べてきた主論考への「内省」或いは「再考」のニュアンスと読む。

 併し起原や原因を如何程述べた處で、その爲めに人間の進化の過程に於て、吾々から心理的には今猶ほ遠く隔つて居る此の奇なる世界を靜觀する愉快は少しも減殺される虞れはないのである。『舊日本』のうちから、今まで殘つて居る驚異と美とは、それ等を生じた狀態を知つたからと云つて輕減される譯ではない。昔ながらの溫情に富んだ嫻雅な風俗は、千年の間劒刄の下で養はれ來たつたものである事を知るからと言つて、それに魅了される事を止める必要はないのである。ほんの數年前には殆ど到る處、人は一般に慇懃に、爭は稀なやうに見えたが、これは幾代も幾代もの間、庶民の間の喧嘩は、悉〻く非常な嚴罰に處せられたからで、又かかる制止を必要とした仇討ちの習慣は、あらゆる人に言行を愼ましめたといふ事を知つても、吾々の氣持ちよい感じが減少するのでもない。昔は從屬階級のものは、よし苦痛を受けながらも、微笑して居なければ生命を失ふ恐れのあつた時代があつたと聞いても、一般の人々の微笑が吾々の心を奪はなくなる譯ではない。また昔風の家庭の躾を受けた日本の婦人が、消滅しつつある一つの世界の道德觀念を代表するからといつて、また吾々が彼女を拵へ上げるのにかかつた費用――計り難い苦痛の價――を極微かに推測し得るのみであるからと云つて、彼女が可愛らしくなくなつたのでもない。

 否。此の昔の文明のうちから殘存して居るものは魅力――筆舌に現はし難い魅力――に充ちて居る、そして誰れでも其の魅力を感知した人は、それが漸次亡びて行くのに一種の悲哀を感ずるに違ひない。藝術家や詩人の心をもつた人には、嘗ては此の神仙(フエアリイ)の國を悉〻く支配して、その精神を形作つて居た無數の制限は、如何に耐へ難いもののやうに思はれるとしても、彼はその最善の結果を讃美し愛好しない譯には行かないのである、その結果とは、昔の習慣の純朴さ、――風俗の溫厚、習慣の嫻雅、――接客歡待の際に示された巧緻な手腕、――如何なる事情の下にあつても、性格の最上で最も快活な有樣のみを外部にあらはす不思議な力等である。昔の家庭宗教の中に、――死者の靈の前に每夜灯す小さな燈明、飮食物の小さな供御物、訪ねて來る精靈のしるべをする迎へ火、精靈を乘せてその憩ひの場處に戾すささやかな船――と言つたものの中には、さうした事には極めて無頓着な人をも動かす、情緖的な詩趣が如何に含まれて居る事であらう。そして此の太古から傳はる孝道の教へは、義務に、感謝に、獻身に、あらゆる恐るべきものを强要するのみならず、また氣高きものをも同じく强要して、――吾々の絕えんとして絕えざる宗教的本能に、如何に不思議に訴へる事であらう。又其の教へによつて鍛鍊された、吾々よりも一層美しい性質は、如何に神に近いやうに吾々には見える事であらう。神々の前で歡樂と敬虔とを愉快に混ぜ合はせた、あの氏神の祭禮には如何に奇妙に不思議な魅力がある事であらう。子供の玩具から王侯の累代の品物に至るまで、殆どあらゆる工業の製產品の上に、その印象を止める――寂寞の境地を佛像の群で賑はし、或は路傍の岩石に經文を刻む――佛教美術のロマンスは何といふ面白い天地であらう。此の佛教の空氣の軟らかな魅惑――大梵鐘の殷々たる音樂、――恐れを知らぬ生き物。――呼ばる〻ままに羽音高く舞ひ下りる鳩、餌を求めて浮かび出づる魚――が常の住家として群らがつて居る綠濃き平和な寺庭、誰れがかうした物を忘れ得よう……。此の昔の東洋の精神生活に吾々が入る事を得ないにも拘らず、――『舊日本』の思想情緖の中に參入せんとするのは、丁度『時の流れ』を溯つて、昔のギリシヤの都市の既に消滅した生活に參入せんと望むのと一對であるのは、確であるにも拘らず、――吾々は、昔話にある、向う見ずに魑魅(エルフ)の國に人つて行つた放浪者のやうに、かうした幻影によつて永久に魅惑されてしまふのである。

 吾々はそこに錯覺――見得るものの實體に就いてのではなく、その意味に就いてのであるが、――非常に多量の錯覺のある事は心得て居る。併し何故此の錯覺が、樂園を瞥見したとでも云つたやうに、吾々を引き附けるのであらうか、――思想上ではラムジイズ時代のエジブトの如く吾々と懸絕して居る一種の文明が、道德的の魔力を有つ事を認めぬ譯には行かないのは何故であらうか。吾々は個人を認める事を拒んだ一種の社會的訓練の結果によつて實際魅了せられたのであらうか、――個人の人格を抑壓する事を强要した祭祀に魅惑されたのであらうか。

[やぶちゃん注:「ラムジイズ」ラムセス(Ramses)は古代エジプトの人名。ウィキの「ラムセス」によれば、『「ラー神の創造した者」を意味する』「ラーメス」の『ギリシア語表記。ラーメスを名乗った者は必ずしもファラオとは限らないが、エジプト新王国時代のファラオにはラーメスを名乗った者が多く、後世のギリシア語文献でラムセスとして記録されている』とあって、以下、ラムセスⅠ世(在位:紀元前一二九五年~紀元前一二九四年)からラムセスⅪ世(在位:紀元前一〇九八年~一〇七〇年頃)までの個別ウィキのリンクが張られてある。中でもエジプト新王国第十九王朝のファラオであったラムセスⅡ世(在位:紀元前一二九〇年 ~紀元前一二二四年、又は紀元前一二七九年~紀元前一二一二年とも)が有名なようである。]

 否。その魅力は、此の過去の幻影が、過去及び現在よりも遙かに多くのものを。吾々にあらはして居る事實、――完全なる同情の世界に於て、或る高尚な將來の可能性を豫示して居る事實から來るのである。數千年の後には、『舊日本』の理想によつて豫め表現されて居た道德的狀態、――本能的の無私、他人の爲めに幸福を作り出す事を人生の樂とする一般の人の希望、道德美に就いて一般が抱く一の觀念と言ふやうなものを、毫厘の幻覺を混じへず成就し得る一種の人道が發達するかも知れない。そして人間が自己の心の教ふるものより以外、何等の法典をも必要としない程までに、現在にたよるやうになつた時は、則ち實際神道の昔の理想がその最も優れた實現を示した事であらう。

[やぶちゃん注:八雲先生……今は……先生がこれを書かれて亡くなられた明治三七(一九〇四)年九月二十六日(小泉八雲満五十四歳。本書出版は同月で八雲は上梓された刊本を目にすることなく逝った。さればこそ本書の執筆は彼を殺したとも言われるのである)からたかだか百十四余年しか経っておりません……しかし……先生がこの今の日本の惨状を見られたとしたら……実の親が実の子を虐待の末に殺すような日本を……総理大臣が沖縄や福島やその他多くの国民の必死の叫びに耳を傾けないような日本を……そんな今の日本を見られたら……怒りを通り越し……絶望の涙を流されるに違いありません…………

「毫厘」「ごうり・ごうりん」。極めて僅かなこと。

 以下、一行空け。]

 

 その上、その結果がかく吾々を引き附ける社會狀態は、美しい蜃氣樓より遙かに以上のものを、實際に生じたのである事を記憶しなければならない。大なる魅力を有つた單純な特性は、當然固定したものではあるが、畢竟社會狀態が群集の中に發達させたものである。『舊日本』は、進化の度に於ては、遙かに進んで居る西洋の社會が數百年間に達し得たよりも、遙かに高尙な道德的理想の成就に一步近づいて居たのである。そして武士の勢力の隆興に續いたかの千年間の戰亂がなかつたならば、あらゆる社會的訓練の目標となつて居た道德的目的に、もつとづつと接近して居たかも知れなかつたのである。併し若し此の人間の性質の善良な方面が、もつと暗いもつと苛酷な諸〻の性質を犧牲にして、もつとよく發達させられたならば、その結果は國民の爲めには不幸であつたかも知れなかつた。侵略と狡智の能力を失ふ程までに、利他主義に支配された國民は、すべて世界の現在の狀態では、戰爭の訓練のみならず、競爭の訓練で鍛へられた種族に對抗して、その位置を保持して行く譯には行かないであらう。將來の日本は世界の爭鬪場裡で成功を收めんと欲するならば、その性格のうちの溫厚な部分とは正反對な諸〻の性質に依賴しなければならない。そして日本はさういふ牲質を强く發達させる必要があるであらう。。

[やぶちゃん注:いや、八雲先生、日本人はあなたの晩年以降、急速にそうした本来の日本人とは似ても似つかない人非人、ビーストとなって行ってしまったのです…………

          *

   *             *

          *

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