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2019/07/09

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(100) あとがき(戸川明三) / 小泉八雲「神國日本」(戸川明三訳)附やぶちゃん注~完遂

 

   あ と が き

 

一 神國日本は一九〇四年ニユウ・ヨオクとロンドンのマクミラン會社から同時に出版された物である。先生は日本の事に就いて米國から講演の依賴受けて居られたが、それが果たされなかつた爲めに、その結果がこの一書となつてあらはれたものだといふ。

一 先生はこの書の上梓され、そのお手元に到着するのを非常に待ち焦がれて居られたさうであるが、それは先生御臨終の間に合はず、先生は一九〇四年の九月におかくれになり、この書はその十月に到着したのださうで、結局先生は、この御高著の版になつたのを見ずにおかくれになつたのださうである。

一 日本の本文の英譯が終始引用されて居るが、それに就いては出來得る限り、原文を探して、それを挿入して置いた。併し篤胤、眞淵等の言葉が、先生の所論の中に引用され、屢〻出で來るが、それ等の出處は私如きものには、殆ど見當がつかなかつたので、そのまま日本文に譯しかへして置いた。今になつて見れば、多少の見當はつけられ得るのであるが、何分出版を急がれたので、そんな事も調べる暇のなかつた事を遺憾とする。

一 固有名詞のロオマ字綴りを日本の文字にかへるのも困難であつたが、それは幸にそれぞれ專門の方の助けを藉りて、果たし得たと思ふ。

一 先生のお說の内、藤原氏といふ姓の始まりを、桓武天皇に歸したのは、誤りであると思ふが、それはそのままに譯して置いた。この書の内にある先生のお考へ違ひと考へられる個處と云へば、この一事だけと思ふ。併しこれとても私の讀み違ひかも知れない。大方の御示教を願つて置く。

一 家康遺訓が本書の内で度々引用されて居る。これは專門家から云へば、家康の殘したものではなく、謂はば僞作であるとか。併しこの『神國日本』は決して家康論ではないのであるから、小泉先生の所論はそれに依つて少しても變はる事はないと思ふ。

一 譯語譯字に就いては、私の淺學と注意が足りなかつたのとで、不適當なものが多くあると思ふ。そればかりではない全體の飜譯として甚だ麁末なものになり、先生の立派な殆ど申し分のないお考へを、少からずぶち壞したといふ恐れがある。殊にこれまで上梓された全集の内に收められた他の諸先生の譯と比べて、これは甚だしく拙劣なものである。執筆を急がれたからと云ふ口實もないではないが、畢竟これは駿馬の間に駑馬が一匹加はつた爲めで、責はこの駑馬を加へて下さつた方にもあらうと、責任轉嫁のやうな申し譯を言つて置く。

一 なほこの飜譯に就いては多數の方に多大なお世話を被つて居る。則ち日本上代の事、たとへば神々の名などに就いては、高橋龍雄氏に、佛教の事に就いては、柴田一能氏に、德川時代の事に就いては幸田成友氏に、それぞれ示教を仰いで居る。殊に幸田氏は、非常な好意をもつて、助力を與へて下さつた。固有名詞の解釋例へば『王フォイン』――松浦公法印――と云つたやうな事から、『組帳』――私にはロオマ字で  Kumicho とあつた時、何の事か解らなかつた――家康遺訓の原文、四十七士の祭文、山口大道寺允許の文の挿入の如きには、一々幸田氏の好意に依つたものである。ここに深く感謝の意を表して置く。

一 更に相曾博氏に飜譯に就いて、多大な助力仰いだ。殊に遺訓何條に云々と書いてある處に、一々その原文を探して挿入して下さつたのは同君で、これ又厚く謝意を表する次第である。 

   昭 和 二 年 五 月
              戶 川 明 三

 

[やぶちゃん注:「神國日本は一九〇四年ニユウ・ヨオクとロンドンのマクミラン會社から同時に出版された」一九〇四年九月刊行の本書「Japan: An Attempt at Interpretation」初版の見返しの下部に(リンク先は「INTERNET ARCHIVE」の当該書の当該ページ画像) 、

       New York

THE  MACMILLAN  COMPANY

 LONDON:MACMILLAN  &  CO. LTD.

        1904

とある。

「先生は日本の事に就いて米國から講演の依賴受けて居られたが、それが果たされなかつた爲めに、その結果がこの一書となつてあらはれたものだといふ」平井呈一氏は、本書の訳(一九七六年恒文社刊)「日本――一つの試論」の解説「八雲と日本(その二)」で(以下の戸川氏の言葉を補うために少し長く引用させて戴く)、

   《引用開始》

 この「日本――一つの試論」は、ご承知のように、八雲の日本研究の卒業論文ともいわれている力業でありまして、まさに従来かれが小論文や随想などに書いてきたものの集大成とも申すべき、いわば総決算的な大著であります。一九〇三年(明治三十六年)の一月に、八雲はとつぜん、なんの前ぶれもなく、それまで勤めていた帝大講師の職を解雇されました。[やぶちゃん注:中略。]八雲は大学当局の非礼な措置に憤り、世界の批判もまた、八雲の立場に同情して、日本政府の忘恩的な処遇に対して痛烈な非難の矢を向けました。在アメリカの友人たちも、八雲の身の安定について心配をし、糾合尽力した結果、ウェットモア夫人の斡旋が効を奏して、アメリカ、ニューヨーク州のコーネル大学から講師招聘の依頼がありました。八雲もこれにはすくなからず心が動いたのでありましたが、あいにく、当時健康上にちょっと不安な点があったりなどしたことから、やむなく渡米は一時断念して、そのかわりに、あたえられた講演の題目をさらに敷衍して、日本に関するまとまったものを一冊書き下ろすことに考えをきめ、それから約一年有半、鋭意筆をすすめて出来上がったのが、この「日本――一つの試論」であります。八雲自身、「この書物は私を殺します。‥‥こんなに早く、こんなに大きな書物を書くことは容易ではありません。手伝う人もなしに、これだけのことをするのは、自分ながら恐ろしいことです」(八雲夫人節の「思い出の記」)と告白しているように、文字どおりの粉心接骨の労作でありました。意気ごんで書いたものだけに、その推敲もさることながら[やぶちゃん注:中略。]、さすがに晩年の力作にふさわしく、文章もまた雄滞端正、かれの師事したハーバート・スペンサー、遠くはかれの私淑したド・キンシーの格調高い勁直な文体をおもわせるものがあります。[やぶちゃん注:中略。]

 八雲が告白したとおり、この書物はかれを殺しました。八雲はこの本の校正[やぶちゃん注:中略。]を終ってからまもなく、出来あがった自分の本を見ないうちに、一九〇四年(明治三十七年)九月二十六日に、東京大久保の自邸で、心臓発作のためについに他界したのでありました。行年五十四歳であります。

   《引用終了》

と述べておられる。少しく以上の平井氏の文章に注を附す。

「一九〇三年(明治三十六年)の一月に、八雲はとつぜん、なんの前ぶれもなく、それまで勤めていた帝大講師の職を解雇されました」平井呈一氏の「対訳 小泉八雲作品集抄」(一九八一年恒文社刊)の小泉凡氏(八雲の曾孫)監修の年譜によれば、同年、突如、一月十五日『付で帝国大学講師の解雇通知を受ける。学生から留任運動が起こり、大学側も授業時間や俸給を半減した再雇用条件を提示して留任を請うが拒否し』、三月三十一日『付で退職する。アメリカの二、三の大学から講演依頼を受けるが中止となり、執筆に専念する』とある(その後任は、かの夏目漱石であったが、生徒の評判は小泉八雲に反してさんざんなものであったことは頓に知られる)。

「ウェットモア夫人」とはアメリカのジャーナリストであったエリザベス・ビスランド(ビズランド)・ウェットモア(Elizabeth Bisland Wetmore 一八六一年~一九二九年)のこと。世界一周旅行のレースで世界から注目を集め、八雲の没後に英語による伝記を執筆したことで知られる。八雲は日本に来る以前、『ニューオーリンズ・タイムズ・デモクラット』の記者であった時期があるが、彼女はその時の同僚であった。詳しくは私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十四章 魂について (全)』の注を参照されたい。

「コーネル大学から講師招聘の依頼があり」「八雲もこれにはすくなからず心が動いた」しかし、「あいにく、当時健康上にちょっと不安な点があったりなどしたことから、やむなく渡米は一時断念し」たという部分、先の小泉凡氏の年譜記載では『アメリカの二、三の大学から講演依頼を受け』たとある。さてもウィキの「小泉八雲」によれば、彼は『長男』(小泉一雄。彼の孫が小泉凡氏)『にはアメリカ合衆国で教育を受けさせたいと考え自ら熱心に英語を教え』たともある。平井氏のアメリカの大学からの招聘に『すくなからず心が動いた』という辺りから、或いはこの時、ちょっと淋しい気にもなるのであるが、小泉八雲は最高学府東京帝国大学の仕打ちに失望し(次注引用参照)、ただ短期に渡米して講演をして戻ってくるのではなく、長期に日本を離れてアメリカの大学で教えるということを考えていたようにも読めるのであるが、如何であろう?

『八雲自身、「この書物は私を殺します。‥‥こんなに早く、こんなに大きな書物を書くことは容易ではありません。手伝う人もなしに、これだけのことをするのは、自分ながら恐ろしいことです」(八雲夫人節の「思い出の記」)と告白している』所持する一九七八年恒文社刊「小泉八雲」の八雲の妻小泉セツ(明治二四(一八九一)年~明治三七(一九〇四)年:小泉八雲より十八歳下)さんの「思い出の記」から引用する。

   *

『日本』では大層骨を折りました。「此書物は私を殺します」と申しました。「こんなに早く、こんな大きな書物を書く事は容易ではありません。手伝う人もなしに、これだけの事をするのは、自分ながら恐ろしい事です」などと申しました。これは大学を止めてからの仕事でした。ヘルンは大学を止められたのを非常に不快に思っていました。非常に冷遇されたと思っていました。普通の人に何でもない事でも、ヘルンは深く思い込む人ですから、感じたのでございます。大学には永くいたいと云う考は勿論ございませんでした。あれだけの時間出ていては書く時間がないので困ると、いつも申していましたから、大学を止めさられたということでなく、止めさせられる時の仕打ちがひどいというのでございました。ただ一片の通知だけで解約をしたのがひどいと申すのでございました。

 原稿がすっかりでき上りますと大喜びで固く包みまして(固く包む事が自慢でございました。板など入れて、ちゃんと石のようにして置くのです)表書を綺麗に書きまして、それを配達証明の書留で送らせました。校正を見て、電報で「宜しい」と返事をしてから二三日の後亡くなりました。この書物の出版は余程待ちかねて、死ぬ少し前に、「今あの『日本』の活字を組む音がカチカチと聞えます」といって、出来上るのを楽しみにしていましたが、それを見ずに、亡くなりましたのはかえすがえす残念でございます。

   *

「先生は一九〇四年の九月におかくれになり」小泉八雲は明治三七(一九〇四)年九月二十六日、満五十四歳(彼は一八五〇年六月二十七日生まれ)で狭心症の発作により逝去した。同じくセツさんの「思い出の記」から引用する。

  *

 三十七年九月十九日の午後三時頃、私が書斎に参りますと、胸に手をあてて静かにあちこち歩いていますから「あなたお悪いのですか」と尋ねますと「私、新しい病気を得ました」と申しました。「新しい病、どんなですか」と尋ねますと「心の病です」と申しました。私は「余りに心痛めましたからでしょう。安らかにしていて下さい」と慰めまして、すぐに、かねてかかっていました木沢さんのところまで、二人曳の車で迎いにやりました。ヘルンは常に自分の苦しむところを、私や子供に見せたくないと思っていましたから、私に心配に及ばぬからあちらに行っているようにと申しました。しかし私は心配ですから側にいますと、机のところに参りまして何か書き始めます。私は静かに気を落ちつけているように勧めました。ヘルンはただ「私の思うようにさせて下さい」と申しまして、すぐに書き終りました。「これは梅(謙次郎博士)さんにあてた手紙です。何か困難な事件の起った時に、よき智慧をあなたに貸しましょう。この痛みも、もう大きいの、参りますならば、多分私、死にましょう。そのあとで、私死にますとも、泣く、決していけません。小さい瓶買いましょう。三銭あるいは四銭くらいのです。私の骨入れるのために。そして田舎の淋しい小寺に埋めて下さい。悲しむ、私喜ぶないです。あなた、子供とカルタして遊んで下さい。如何に私それを喜ぶ。私死にましたの知らせ、要りません。若し人が尋ねましたならば、はああれは先頃なくなりました。それでよいです」

 私は「そのような哀れな話して下さるな、そのようなこと決してないです」と申しますと、ヘルンは「これは冗談でないです。心からの話。真面目の事です」と力をこめて、申しまして、それから「仕方がない」と安心したように申しまして、静かにしていました。

 ところが数分たちまして痛みが消えました。「私行水をして見たい」と申しました。冷水でとのことで湯殿に参りまして水行水を致しました。

 痛みはすっかりよくなりまして「奇妙です、私今十分よきです」と申しまして「ママさん、病、私から行きました。ウィスキー少し如何ですか」と申しますから、私は心臓病にウィスキー、よくなかろうと心配致しましたが、大丈夫と申しますから「少し心配です。しかし大層欲しいならば水を割って上げましょう」と申しまして、与えました。コップに口をつけまして「私もう死にません」といって、大層私を安心させました。この時、このような痛みが数日前に始めてあった事を話しました。それから「少し休みましょう」と申しまして、書物を携えて寝床の上に横になりました。

 そのうちに医師が参られました。ヘルンは「私どうしよう」などと申しまして、書物を置いて客間に参りまして、医師に遇いますと「御免なさい、病、行ってしまいました」といって笑っていました。医師は診察して別に悪いところは見えません、と申されまして、いつものように冗談などいって、いろいろ話をしていました。

 ヘルンはもともと丈夫の質でありまして、医師に診察して頂くことや薬を服用することは、子供のように厭がりました。私が注意しないと自分では医師にかかりません。ちょっと気分が悪い時に私が御医者様にということを少しいいおくれますと、「あなたが御医者様忘れましたと、大層喜んでいたのに」などと申すのでございました。

 ヘルンは書いている時でなければ、室内を歩きながら、あるいは廊下をあちこち歩きながら、考えごとをしているのです。病気の時でも、寝床の中に永く横になっている事はできない人でした。

 亡くなります二三日前のことでありました。書斎の庭にある桜の一枝がかえり咲きをいたしました。女中のおさき(焼津の乙吉の娘)が見つけて私に申し出ました。私のうちでは、ちょっと何でもないようなことでも、よく皆が興に入りました。「今日籔(やぶ)に小さい筍が一つ頭をもたげました。あれ御覧なさい、黄な蝶が飛んでいます。一雄が蟻の山を見つけました。蛙が戸に上っていました。夕焼けがしています、段々色が美しく変って行きます」こんな些細な事柄を私のうちでは大事件のように取り騒ぎまして一々ヘルンに申します。それを大層喜びまして聞いてくれるのです。可笑しいようですが、大切な楽しみでありました。蛙だの、蝶だの、蟻、蜘蛛、蟬、筍、夕焼けなどはパパの一番のお友達でした。

 日本では、返り咲きは不吉の知らせ、と申しますから、ちょっと気にかかりました。けれどもヘルンに申しますと、いつものように「有難う」と喜びまして、縁の端近くに出かけまして「ハロー」と申しまして、花を眺めました。「春のように暖いから、桜思いました、あゝ、今私の世界となりました、で咲きました、しかし‥‥」といって少し考えていましたが「可哀相です、今に寒くなります、驚いて凋みましょう」と申しました。花は二十七日一日だけ咲いて、夕方にはらはらと淋しく散ってしまいました。この桜は年々ヘルンに可愛がられて、賞められていましたから、それを思って御暇乞いを申しに咲いたのだと思われます。

   *

文中の『梅(謙次郎博士)』は法律学者梅謙次郎(万延元(一八六〇)年~明治四三(一九一〇)年)。松江藩藩医の子として生まれ、東京外国語学校を経、司法省法学校を首席で卒業し、翌明治一八(一八八五)年、フランスのリヨン大学に留学、四年後、同大学より、法学博士の学位を得た。翌明治二三(一八九〇)年に帰国すると、直ちに帝国大学法科大学教授に任ぜられ、和仏法律学校(後の法政大学)学監を兼ねた。ウィキの「梅謙次郎」によれば、彼の妻兼子が小泉八雲の妻セツの『縁戚であったことから、東京帝国大学が『八雲を解雇した際(後任は夏目漱石)、梅は八雲の相談相手となり、翌』年に『八雲が死去した際には葬儀委員長も務め』たとある人物である。また、『焼津の乙吉』というのは、八雲が晩年、避暑に非常に好んだ焼津(初回の旅は明治三〇(一八九七)年八月で、以後の夏は殆んどここで過ごした)で、定宿(旅宿ではなく、二階を借りた)としていた魚商人山口乙吉のこと。「焼津市」公式サイト内の「小泉八雲記念館」のこちらのページに詳しい。そこには』『八雲が焼津を訪れるようになったのは、焼津の海が気に入ったことのほか、八雲が夏の間滞在していた家の魚商人、山口乙吉との出会いがあったことも大きな理由でありました。純粋で、開けっ広げで、正直者、そんな焼津の気質を象徴するような乙吉を八雲は“神様のような人”と語っていました』。『乙吉は八雲を”先生様”と呼び、八雲は乙吉を “乙吉サーマ”と心から親しく呼んでいました』とある。さればこそ、小泉八雲は、その大事な娘を大事な女中として雇い入れていたのであろう。本書の中に書かれている古き良き日本の、主人と奉公人の、心からの誠実な結びつきとして、である。

 今一つ、「思い出の記」の終りに近い次の部分を引用してこの注を終える(そこに出る小泉八雲の絶筆となった手紙の相手「藤崎さん」とは、小豆沢八三郎で、後に養子に行って藤崎姓となった最初期の島根県尋常中学校英語教師時代の教え子である。陸軍士官学校に入り、職業軍人となって(この時、藤崎家の養子となった)、明治三七(一九〇四)年二月、日露戦争が始まって、藤崎は満州に出征していたのであった。私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第十九章 英語教師の日記から (十八)』を参照されたい)。

   *

 亡くなった二十六日の朝、六時半頃に書斎に参りますと、もうさめていまして、煙草をふかしています。「お早うございます」と挨拶を致しましたが、何か考えているようです。それから「昨夜大層珍らしい夢を見ました」と話しました。私共は、いつもお互に夢話を致しました。「どんな夢でしたか」と尋ねますと「大層遠い、遠い旅をしました。今ここにこうして煙草をふかしています。旅をしたのが本当ですか、夢の世の中」などと申しているのです。「西洋でもない、日本でもない、珍らしいところでした」と云って、独りで面白がっていました。

 三人の子供達は、床につきます前に、必ず「パパ、グッドナイト、プレザント、ドリーム」と申します。パパは「ザ、セーム、トウ、ユー」又は日本語で「よき夢見ましょう」と申すのが例でした。

 この朝です、一雄が学校へ参ります前に、側に参りまして「グッド、モーニング」と申しますと、パパは「プレザント、ドリーム」と答えましたので、一雄もつい「ザ、セーム、トウ、ユー」と申したそうです。

 この日の午前十一時でした。廊下をあちこち散歩していまして、書院の床に掛けてある絵をのぞいて見ました。これは『朝日』と申します題で、海岸の景色で、沢山の鳥が起きて飛んで行くところが描いてありまして夢のような絵でした。ヘルンは「美しい景色、私このようなところに生きる、好みます」と心を留めていました。

 掛物をよく買いましたが、自分からこれを掛けてくれあれを掛けよ、とは申しませんでした。ただ私が、折々掛けかえて置きますのを見て、楽しんでいました。御客様のようになって、見たりなどして喜びました。地味な趣味の人であったと思います。御茶も好きで喜んで頂きました。私が致していますと、よく御客様になりました。一々細かな儀式は致しませんでしたが、大体の心はよく存じて無理は致しませんでした。

 ヘルンは虫の音を聞く事が好きでした。この秋、松虫を飼っていました。九月の末の事ですから、松虫が夕方近く切れ切れに、少し声を枯らして鳴いていますのが、いつになく物哀れに感じさせました。私は「あの音を何と聞きますか」と、ヘルンに尋ねますと「あの小さい虫、よき音して、鳴いてくれました。私なんぼ喜びました。しかし、段々寒くなって来ました。知っていますか、知っていませんか、すぐに死なねばならぬという事を。気の毒ですね、可哀相な虫」と淋しそうに申しまして「この頃の温い日に、草むらの中にそっと放してやりましょう」と私共は約束致しました。

 桜の花の返り咲き、長い旅の夢、松虫は皆何かヘルンの死ぬ知らせであったような気が致しまして、これを思うと、今も悲しさにたえません。

 午後には満洲軍の藤崎さんに書物を送って上げたいが何がよかろう、と書斎の本棚をさがしたりして、最後に藤崎さんへ手紙を一通書きました。夕食をたべました時には常よりも機嫌がよく、常談などいいながら大笑いなど致していました。「パパ、グッドパパ」「スウイト・チキン」と申し合って、子供等と別れて、いつのように書斎の廊下を散歩していましたが、小一時間程して私の側に淋しそうな顔して参りまして、小さい声で「マアさん、先日の病気また帰りました」と申しました。私は一緒に参りました。しばらくの間、胸に手をあてて、室内を歩いていましたが、そっと寝床に休むように勧めまして、静かに横にならせました。間もなく、もうこの世の人ではありませんでした。少しも苦痛のないように、口のほとりに少し笑いを含んでおりました。天命ならば致し方もありませんが、少しく長く看病をしたりして、いよいよ駄目とあきらめのつくまで、いてほしかったと思います。余りあっけのない死に方だと今も思われます。

   *

「藤原氏といふ姓の始まりを、桓武天皇に歸した」「(49) 武權の勃興(Ⅰ)」の部分。藤原氏は藤原鎌足(推古天皇二二(六一四)年~天智天皇八(六六九)年)を祖とし、彼はもと中臣氏の出身で、初め、中臣鎌子(なかとみのかまこ)、の後に中臣鎌足と改名し、臨終に際し、「大化の改新」の功により「大織冠」とともに「藤原」姓を天智天皇より賜ったことに始まり、事実上は鎌足の子不比等が「藤原」を名乗り、文武天皇二(六九八)年に不比等の子孫のみが「藤原」姓を名乗ることができ、太政官職に就けるとされたことをその濫觴とする。因みに、桓武天皇の在位は天応元(七八一)年から延暦二五(八〇六)年であり、これは大いなる勘違いと言わざるを得ない。

「高橋龍雄」明治元(一八六八)年生まれで昭和二一(一九四六)年没の国語学者で慶応大学教授の高橋龍雄か。

「柴田一能」(かずより/いちのう 明治六(一八七三)年~昭和二六(一九五一)年)は日蓮宗の僧で、日蓮宗大学(立正大学の前身)教頭・教授及び慶応義塾教授・日蓮宗宗務総監。恩師福沢諭吉の薦めで、アメリカのエール大学に留学した。サイト「日蓮宗新聞社」内のこちらに詳しい。

「幸田成友」(しげとも 明治六(一八七三)年~昭和二九(一九五四)年)は日本史学者。東京生まれで、作家幸田露伴の弟。東京帝国大学文科大学史学科卒。東京商科大学(現在の一橋大学)教授を経て、昭和一五(一九四〇)年、慶応大学教授。江戸時代の経済史・都市文化史及び日本キリスト教史などを実証的に研究した。

「『王フォイン』――松浦公法印――」「(37) 死者の支配(Ⅴ)」を参照。

「組帳」初出箇所は「(15) 組合の祭祀(Ⅱ)」

「四十七士の祭文」「(55) 忠義の宗教(Ⅲ)」を参照。

「山口大道寺允許の文」「允許」は「いんきよ(いんきょ)」と読み、これはイエズス会士に与えられた、日本への教会創建の許可状である「大道寺裁許状」の別称。「(61) ジェジュイト敎徒の禍(Ⅵ)」を見られたい。

「相曾博」「あいそひろし」と読むものと思われる。生没年未詳。戸川秋骨との共訳で、かのH・G・ウェルズの「文化の聖書」(大正一二(一九二三)年アルス刊)を認めるばかりで(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション)、事蹟不祥。 

 以下、奥附を底本とした国立国会図書館デジタルコレクションからトリミングと補正を行った画像で示す。]

Okuduke

 さても、本電子化注は二〇一六年一月十九日に始めて、実に足かけ凡そ三年半もかかってしまった(途中で他の電子化に入れ込んで二回ほど半年近いブランクを挟んでしまった)。途中、注を附けねばならないものがどんどん増えてゆき、実は完成出来るかどうか内心危ぶんだ時期もあった(二度のブランクはそのナーバスによるものであった。小泉八雲自身が「殺される」と言ったことが途中から妙に気にかかりだしたこともここで告白しておこう)が、何とか最後まで辿り着いた。

 なお、今頃になって、本書の無料の全一括英語原文の美麗な活字化されたPDF(© 2002 Blackmask Online)を見つけた(「Appendix」を含み、目次にもそれを示してある)。英文で読まれたい方は(私は本電子化で初めは英文原文も附していたが、訳文のタイプと注だけであっぷあっぷとなってしまい、途中で原文添付を諦めた)、このダウンロードをお薦めする。

 最後に。ツイッターでは、島根県松江市で年刊会誌『へるん』を刊行しておられる「八雲会 Hearn Society」様が、毎回、本電子化をリツイートして下さった。心から御礼申し上げる。

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