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2019/07/01

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(68) 封建の完成(Ⅵ)

 

 禮法が極度まで習練――典雅慇懃があらゆる階級に、流行としてのみでなく、一の技術として普及したのもまた此の時代の事であつた。武を尙んだ[やぶちゃん注:「たつとんだ」。]あらゆる文明社會には、禮儀が上代に在つても既に國民の一特質となつて居る、そして日本人の間には、その古代の言語が說明する如く、有史以前に普通の義務となつて居たに違ひない。此の問題に關する公規は、日本の佛教の創設者にして攝政であつた聖德太子によつて、第七世紀の頃、既に作られて居た。太子は宣言して曰く、『群卿百寮、以ㇾ禮爲本【註】。其治ㇾ民之本、要在乎禮。上不ㇾ禮而下非ㇾ齊。下無ㇾ禮以必有ㇾ罪。是以君臣有ㇾ禮、位次不ㇾ亂、百姓有ㇾ禮、國家自治』[やぶちゃん注:「群卿(まへつぎみたち)・百寮(つかさづかさ)、禮(ゐや)を以つて本(もと)と爲せ。其れ、民(おほみたから)を治(をさ)むるの本は、要(かなら)ず禮(ゐや)に在り。上(かみ)、禮(ゐや)せずば、下(しも)、齊(ととの)ほらず。下、禮(ゐや)無ければ、以つて必ず、罪、有り。是(ここ)を以つて、君臣(まへつぎみ)、禮、有れば、位(くらゐ)の次(ついで)、亂れず、百姓(おほみたから)、禮(ゐや)、有り、國家、自づから治まる。」。以上は平井呈一氏の訳文の訓読を参考にしつつ、オリジナルに訓読してみた。]と。これと同樣な古代の支那の教への幾分かが、千年の後に家康の遺訓中に反響して居るのが見える。『國を治むるの術は、君禮を以つて臣を遇するにあり。これに違ヘば則ち身弑せられ國亡と知るべし』、(遺訓第二十三條)と吾々は武家政治の結果、禮法があらゆる階級に嚴重に行はれたことは既に述べた、何となれば家康より少くとも十世紀以前に、國民は劔刄の下で禮儀の訓練を受けたのであつたからである。併し德川幕府の下では、禮儀が實際上一般人民の特性となり――最下層の者すら彼等の日々の諸關係に於て、行爲の一法則としてこれを尊守するやうになつたのであつた。上流階級の間では、それが人生に於ける美の技術となつた。當時貴金屬で美術的な製作をする事を鼓吹したあらゆる趣昧、優雅、形式墨守[やぶちゃん注:「ぼくしゆ」。自己の習慣や主張などを堅く守って変えないこと。墨子が宋の城を楚の攻撃から九度に亙って守り続けたという「墨子」の「公輸」にある故事による。]は、言語動作のあらゆる詳細な事をも同樣に鼓吹した。禮儀作法は一種の道德的及び美的の硏究であり、實に完全無比の域に達して人爲的な點が悉〻く[やぶちゃん注:踊り字はママ。]消滅してしまつた程であつた。優雅と魅力とは習慣となり-―人間の原質の世襲的性質となつたやうに思はれる、――事實少くとも女性の場合には確にさうなつたのであつた。

[やぶちゃん注:以下の註は底本ではポイント落ちで四字下げ。]

註 若しくは『儀式』といふ、ここに用ひられた漢語は紳士に相應しい公明な行爲に屬する一切を意味す。アストン氏の飜譯(氏の『日本紀』の飜譯第二卷一三〇頁を見よ)[やぶちゃん注:既出既注。]

 蓋し、日本の最も驚くべき美的產物は、象牙細工でも、靑銅器でもなく、陶器でも、刀劔でもなく、驚歎に値する金箔或は漆細工でもなくて――その婦人であると人の言った事があるが、これはまことに至言である。世界到る處、女は男が作つたものだといふ言葉に半ば眞理が籠もつて居るといふ事を承認した上で、吾々は、他のいづれの國の女よりも、日本の女の場合に此の言葉が特に眞實であると云つて然るべきであらう。勿論此の婦人を作り上げるには數千年かかったのである、併し私が今述べて居る此の時代に至って、始めて其の仕事が充分になり、完成を見たのである。此の道徳的創造物に當面しては、批評も氣息を止めなければならない。何となれば其處には、利己心と爭鬪とを第一とするやうな世界に持つて行って適合しない道德的魅力といふ缺點を外にしては、他に唯だ一つの缺點もないからである。今玆に吾々が稱讃の辭を捧げて居るのは道德的美術家――西洋の理想家が到底達し得ない一理想の實現者に對してである。一つの道德的存在として、日本の婦人は日本の男子と同種族に屬するとは思はれないとは、如何に屢〻斷言された事であらう。遺傳は性によって制限されて居るといふ事を考へると、此の斷定にも理由がある。日本の婦人は日本の男子とは道德的には異種類の人である。今後十萬年の間には斯樣な型の婦人が恐らく此の世界に再現する事はなからう、產業的文明の狀態は斯樣な婦人の存在を許さないであらう。近代の方針で形成された如何なる社會にも、かくの如き型は到底創造され得なかつた事であらう。また競爭的爭鬪が取る非道德的の形式が、吾人には今迄に既に日常茶飯事と思はれるやうになつてしまつたやうな社會に於ても、到底創造され得ない事であらう。唯だ異常な規定と統治の下にある一社會――あらゆる自我主張が抑壓され、自己犧牲が一般の義務となつた一社會――個性が生垣のやうに刈り込まれて、内からのみ芽を出し花咲く事を許されて、決して外からすることを許されない一社會――一言にして云へば、唯だ祖先禮拜に基礎を置く一社會のみがそれを產出する事を得たのであらう。それが吾々の二十世紀の人道と共通な何物をも有つて居ないのは、猶ほ古代ギリシヤの瓶に描かれた生活がそれを有たないのと同樣である――恐らくそれよりも遙かに少いかも知れない。その魅力は消滅した世界の魅力である――近代の言語が生まれない以前に、我が西洋では絕滅してしまつた種類の花の香りのやうに形容に絕して、不思議で、誘惑的な魅力である。それをうまく移植する事は不可能である。外國の太陽の下では、その形は全然異つた何物かに立ち戾り、その色は褪せ、その芳香は消えてしまふ。この日本婦人を知らんとするには、その本國に行くより外に道はない。貞淑にして飽くまでも無私に、小兒のやうな敬虔と信賴の純情を有ち、如何にして周圍を幸福にすべきかといふあらゆる方法を、極めて如才なく知覺する、彼女の道德的存在を、理解し珍重し得る奇異な社會に用をなさんが爲めに、昔の教育によつて準備され完成された日本の婦人を知らうとするには、彼女の本國に行くより他にすべはないのである。

 

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