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2019/08/30

小泉八雲 蟬 (大谷正信訳) 全四章~その「一」 

 

[やぶちゃん注:本篇(原題も“SÉMI”)は明治三三(一九〇〇)年にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“SHADOWINGS”(「影」:来日後の第七作品集)の第二パートである“JAPANESESTUDIES”(「日本の研究」)の冒頭に配された作品である。同作の原文は、「InternetArchive」のこちらから初版の原本当該作画像が、活字化されたものは「TheProjectGutenberg」のここの“Sémi (CICADÆ)”(「(CICADÆ)」は改行で添題)で読める(“Æ”は中世ヨーロッパに於いてラテン語の“ae”の単母音化したものを合字“æ”で表記した古式、現在でも稀に合字が使われることがあり、小泉八雲はかなり好んで用いている“cicadae”は“cicada”(蟬:節足動物門昆虫綱半翅(カメムシ)目頸吻亜目セミ型下目セミ上科Cicadoideaのセミ類)の複数形)。

 底本は「小泉八雲全集」第六巻(大正一五(一九二六)年十一月第一書房刊)の大谷正信氏の訳を用いた。私は同巻を所持していないが、「グーグルブックス」の無料の電子書籍のこちらPDFでダウン・ロードし、その本文「245」ページ以降の「蟬」を視認した。本底本では原本の図版(全部で五葉)は省略されてしまっているので、上記TheProjectGutenbergの“Sémi (CICADÆ)に添えられている画像を使用し、概ね、原本の位置に近い箇所に配し、キャプションは原文を添えた上、その後に拙訳を注で示した。本文中にルビのように打たれる「譯者註」及び小泉八雲の原「註」は適切と思われる個所(底本とは異なる)に上付き字で挿入した。原「註」(底本は全体が三字下げ)及び「譯者註」(同じく四字下げ)はポイント落ちであるが、本文と同じにし、行頭まで引き上げた。但し、底本画像はかなり粗く、ポイントの小さい字が潰れて見えない部分があり、また、読み込み画像の不具合で一部が読みにくくなっている。そうした部分も拡大して精査し、総て起こすことが出来た。但し、困ったのは、鍵括弧か二重鍵括弧かが、判別出来ない点であった。明らかに中抜けしている二重鍵括弧もある。さすれば、基本、本文での引用部は二重鍵括弧で、書名などは鍵括弧で統一し、ポイント落ちの全く判別不能の註記のそれらは総てを区別せずに鍵括弧で統一した。傍点「ヽ」は太字に代えた。なお、私は新字の「蝉」の字に生理的嫌悪感を持つ。ここでは仕方がない引用以外は、総て「蟬」で通す。

 なお、大谷氏の訳者註は最後に纏めて附されているため、底本でも甚だ読み難い。そこで、それを適切と思われる位置に分配して配することとした。

 大谷は本文では概ね「虫」を(最後の方では「蟲」になる)、注では総て「蟲」を使っている。恐らくは書名その他では仕方なく「蟲」を使っているが、大谷自身は「蟲」の字が嫌いだったのではないかと私は密かに推測する。例えば、芥川龍之介のが「蟲」の字嫌いの一人だった。

 また、本篇は私が文学的にも博物学的側面からも特に偏愛する一篇であることから、黙ってはいられない。小泉八雲のリズムを壊さないように禁欲的に途中に注を附した。

 なお、加工用データとして、「野次馬集団」氏提供のサイト「βάρβαροι」(バルバロイ!)の中の「インターネットで蝉を追う」『特別付録 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)「蝉」』を使用させて戴いた。ここに謝意を表する。これは、今まで、本作の本訳を恐らくネット上で最初に電子化された先駆的なデータなのであるが、如何せん、作成されたのがかなり以前であるため(ソースを確認したところ文字コードはEUC-JPである)、標題の「蝉」でお判りの通り、正字(旧字)体にしきれていない漢字が多数あり、脱文・誤字・衍字も散見される。また、訳文中に多量に存在する訳者の注も省かれている点で、私の以下のテクストとは自ずと異なることを申し添えておく。

 訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。

 なお、パート標題“JAPANESESTUDIES”のページには、原本では以下の添え辞があり、

   *

       ...Lifeerelong

Cameonmeinthepublicways,andbent

Eyesdeeperthanofold:DeathmetItoo,

    Andsawthedawnglowthrough.

          —GEORGE GEMEREDITH

   *

底本では、恐らくは大谷氏による訳で(分担訳であるため、本冒頭の担当者と推定した)、「日本硏究」の「究」の字の中央の高さまで全体をインデントしたポイント落ちで(太字は傍点「ヽ」)、

   *

……………………は久しき前に

あからさまにわれに來りて、昔に優して

深く眼を向けぬ。にもわれは逢ひ、

    曙の輝きわたるを見たり。

              ジョージ・メレディス

   *

とある。ジョージ・メレディス(George Meredith 一八二八年~一九〇九年)はイギリスの小説家で詩人。]

 

 

   (シカダ)

 

        聲にみな泣きしまふてや蟬の殼  日本の戀の歌

 

 

       

 

 日本文學では陸雲譯者註一といふ名で知られて居る有名な支那の學者が、次に記載する珍奇な蟬の五德譯者註二といふものを書いた。

[やぶちゃん注:以下は全体が二字下げであるが、ブラウザでの不具合を考え、行頭まで上げた。底本では二行目に亙る場合も一字下げ(頭の二重鍵括弧のみが三字目にあり、以下は総て四字目から)であるので注意されたい。以下、同様の個所は同じ仕儀とし、注さない。]

『一、蟬は頭に或る模樣か徽號かがある。これはその文字、文體、文學を現はして居る。

 二、蟬は地上のものは何も食はず、ただ露だけ吸ふ。これはその淸潔、純粹、禮節を證明して居る。

 三、蟬は常に一定の時期に出現する。これはその誠忠、摯實、正直を證明して居る。

 四、蟬は麥や米は受けない。これはその廉直、方正、眞實を證明して居る。

 五、蟬は己が棲む巢を造らぬ。これはその質素、儉約、經濟を證明して居る』

 

註 日本の蟬の一種がその頭の上に有つて居る妙な模樣は、魂の名を示す文字だと信ぜられて居る。

譯者註一 一飛の蟬說の中に「さればこそ陸雲も五德をあげて之を賦し」とあり、田中友水の「百蟲譜」の中にも「陸雲が爲めに五つの德に稱せられしは一代の譽なり」とあり。漢書には陸士龍とあり。

譯者註二 この五德の條は「和漢三才図會」に載り居る文を材料とせしもの。同書には「……蟬に五德あり。頭に緌あるは文なり。露を飮むは淸なり。候に應じ常に有るは信なり。黍稷を享けざるは廉なり。處巢穴せざるは儉なり。實に卑穢に舍とりて高潔に趨る者なり……とあり、陸士龍の「寒蟬賦」には「夫頭上有緌則其文也含氣飮露則其淸也黍稷不享其廉也處不巢居則其儉也應候守節則其信也加以冠冕則其容也君子則其操可以事君可以立身豈非至德之蟲哉云々」とあり。

[やぶちゃん注:「徽號」「きがう(きごう)」で、これは「旗印・旗章・徽号(きごう)」を意味する。原文は“signs”であるから、単に「記号」「符号」でよいと思う。

「一飛の蟬說」「一飛」が邦人の名で、「蟬說」(ぜんせつ)がその人物の書いた書名(章題)であろうが、不詳。識者の御教授を乞う。

「陸雲」(二六二年~三〇三年)は三国時代から西晉にかけての政治家で文学者。支龍は字(あざな)。かの優れた詩人にして政治家・武将であった陸機(二六一年~三〇三年)の弟。呉の滅亡後、洛陽に入ったが、政争に巻き込まれて兄とともに一族皆殺しにされた。以上は彼の「寒蟬賦」の一節(「寒蟬」とは「秋に鳴いている蟬」で、現代中国語では節足動物門昆虫綱有翅昆虫亜綱半翅(カメムシ)目頚吻亜目セミ型下目セミ上科セミ科セミ亜科ツクツクボウシ族ツクツクボウシ属ツクツクボウシ Meimuna opalifera を指す。本邦の辞書では先に蜩(セミ亜科ホソヒグラシ族ヒグラシ属ヒグラシ Tanna japonensis)を挙げている。ヒグラシは中国にも分布するので問題はないが、現代中国語ではヒグラシは「日本暮蟬」で、ヒグラシ属 Tanna を「暮蟬屬」とするので「寒蟬」は恐らく多くの中国人にとってはツクツクボウシである可能性が高い)。中文繁体字ウィキのこちらで全文が読める。その一節に(一部表記を変えた)、

   *

夫頭上有緌、則其文也。含氣飮露、則其淸也。黍稷不食、則其廉也。處不巢居、則其儉也。應候守節、則其信也。加以冠冕、則其容也。君子則其操、可以事君、可以立身、豈非至德之蟲哉。且攀木寒鳴、負才所歎。余昔僑處切有感焉。興賦云爾。

(夫れ、頭上に緌(ずい[やぶちゃん注:冠の垂れ紐。「蟬の口」の意もある。])有るは、則ち其の文なり。気を含み、露を飮むは、則ち、其の淸なり。黍稷(しよしよく)[やぶちゃん注:元は「糯黍(もちきび)」と「粳黍(うるちきび)」、又は「きび」と「粟(あわ)」。転じて「五穀」を指す。]を食はざるは、則ち、其の廉なり。處(ゐ)るに巢居(さうきよ)せざるは、則ち、其の儉なり。候に應じて節(せつ)を守るは、則ち其の信なり。冠冕(くわんべん)[やぶちゃん注:冕板(べんばん:冠の頂につける板)をつけたかんむり。天皇・皇太子の礼服に付属する。]に加へらるるは其の容を戶取ればなり。君子、其れ操(さう)に則れば、以て君に事(つか)ふべく、以て身を立つべし。豈に至德の蟲に非ずや。且つ、木に攀ぢて寒鳴するは、貧才の歎く所なり。余、昔、僑處(けうしよ)[やぶちゃん注:仮住まいすること。]せしに、切(しき)りに焉(これ)に感ずること有れば、賦を興して爾(しか)云ふ。)

   *

とある。大谷の引用には一部に異同があるが、文意には問題がない。なお、佐藤利行氏の論文『陸雲「寒蟬賦」について』が非常に詳しく、PDFでダウン・ロード出来る。

「田中友水の百蟲譜」【2019年8月31日改稿】当初、『詳細は判らぬが、これは所謂、栗本丹洲の「千虫譜」のような博物学的虫譜ではなく、俳諧随筆と思われる』旨の注を記したが、各種テクストでいつも情報を寄せて下さるT氏よりメールを頂戴した。それによれば、やはり所謂、狂文(俳文・戯文の類い。後述)であった。まず、田中友水(生没年未詳)は、田中則雄氏の論文「初期読本の研究」(一九九六年京都大学・PDF)によれば、『田中友水子』(これで「ゆうすいし」の合と判る)教訓本(「世間銭神論」(安永八(一七七九)年刊)等を手掛け、『また狂文『風狂文草』(延享二』(一七四五)『年刊)を物したことで知られる大阪の町人学者で』、『宝暦三』(一七五三)『年序の実録体小説『銀の簪』』『に、町人学者として高宮環中』・『半時庵淡々』らの人々とともに『名を連ねている』とあって、また、『俳諧叢書『名家俳文集』に収める『風狂文草』の解題には、友水子は淡々の他、青年時の秋成と繋がりのあった紹簾・白羽等の俳人とも交誼があったとされて』おり、『生没年未詳』乍ら、『元文末年』(六年で一七四一年)『頃既に五十歳をこえていたとの』そこでの『推定』『に従えば秋成より四十余歳年長であろうが、秋成と同様』、『大阪の町人学者たちの文化圏内にあった人物であることは確かである』とあった(引用元論文にはさらに詳しい事蹟が記されてある)。しかも、この友水の「風狂文草」は、平凡社「世界大百科事典」の「狂文」の解説中に登場するほど、著名なものであった。それによれば、『和文体の狂文は俳文を卑俗滑稽に崩すという形で始ま』り、『江戸の山崎北華の』「風俗文集」(延享元(一七四四)年)や、翌年刊のこの『大坂の田中友水子の』「風狂文草」は、『俳文集ではあるが』、『風雅に縁遠い卑俗な素材をふざけた調子で記述する文章に託して』、『知識人らしい強い自我を表しており』、『通常の俳文の枠を越えている。これらの作品が先駆となって』、『和文体の狂文が定着し』、『やがて平賀源内の』「風来六部集」(安永九(一七八〇)年)『のような』、『自虐と社会批判に満ちた作品が生まれた』とある。而してその「風狂文草」の「百蟲譜」は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで画像を視認することが出来ることもT氏から教わった。以下にその冒頭に配された蟬の狂文を電子化する(句読点を変更・追加し、総ルビだが、パラルビにした。踊り字「〱」は正字化した)。

   *

○蟬は仙人の氣象あるものなり、五穀を喰(くら)はず、風をすひ、露をなめて、夏山の木立に棲みわたり、世美(せみ)世美とおのが名をよぶは、妻をこふ聲にも非(あら)ずして、美くし、よし、と聞こゆるは、女郎花(おみなへし[やぶちゃん注:ママ。])のなまめく、姿を讃(ほめ)のゝしる風情(ふぜい)にいひなせし、万葉の古言(ふること)に本(もと)つける俊賴の感情なるべし。これが虛脫(ぬけがら)は仙人の尸解(しかい)にひとし。何處(いづく)に去(さつ)てか、衣類のみを殘しけむ。陸雲が爲(ため)に五門の德に稱ぜられしは一代のほまれ也。式部が源氏の卷に入(はいり)しは万代(まんだい)の手柄なり。脫捨(ぬぎすて)の古着も故弊買(ふるてかい[やぶちゃん注:ママ。])の手に落入(おちいら)ず、藥店(くすりや)の手にわたり、醫者にもてなされ、不意の効(こう)をあらはして人を救ふめり。猶、人がらのなつかしきかなとよまれしは、空蟬(うつせみ)の身をかへし、跡の名殘を思ふ言葉の種なりけり。

 風吹渡外山松蔭 暫囘頭欲問汝樂

   *

最後の漢詩風の二句は訓点に従ったものを書き下すと、

 風吹き渡る 外山(とやま)の松蔭

 暫(しばら)く頭-囘(こちらむ)け 汝が樂しみ 問はんと欲す

である。

「『和漢三才図會』載り居る文……」私は幸いにして「和漢三才図会」の「蟲類」を総て既に電子化注している。「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟬」を見られたい。しっかり注してある(但し、そこで作者寺島良安はこれを陸雲のものとは名指してはいない。これは良安の「本草綱目」の引用のためで、時珍は同書の巻四十一の「蟲之三」の「蟬花」の中で陸雲のそれであることをちゃんと記している中文ウィキソースの「本草綱目」のここを見られたい)。但し、この時珍の記載は、「花」で臭ってくるように、蟬の一種の記載ではなく、恐らく、冬虫化草の一種、現在の菌界ディカリア亜界 Dikarya子嚢菌門チャワンタケ亜門フンタマカビ綱ボタンタケ亜綱ボタンタケ目オフィオコルディケプス科 Ophiocordycipitaceae オフィオコルディケプス属セミタケ Ophiocordyceps sobolifera を指しているように思われる。

 

 我々は之を二千四百年前に書かれたアナクレオン譯者註三の蟬への美しい話掛と比較することが出來よう。一箇處どころか多くの點に於てこの希臘の詩人とこの支那賢者とは全然一致して居る。

[やぶちゃん注:以下の引用は底本では全体がポイント落ちで三字下げ。以下も特に言わない場合は同じ仕儀とし、注さない。]

 

『蟬よ、我等はいましを幸(さち)あるものと思ふなり、王者の如く、纔かの露のみ吸ひて、木末に樂しく囀ることとて。いましが野原に眺むるもの總て、四季がもたらすもの總て、皆いましが物なれば。されどいましは――人を害ねん[やぶちゃん注:「そこねん」。]ものは何物をも取ること無く――土地を耕す者共の友にてあるなり。いのちある人の子等は夏を知らする嬉しの先驅といましを尊み、ミユーズの神はいましを愛で給ふ。フイーブス譯者註四もいましを愛で給ひて、淸き鋭き歌をいましに與へ給ひぬ。また年老ゆるもいましが身は衰へず。あゝ天賦すぐれしいましや、――地に生まれ、歌を好み、苦をのがれ、肉あれど血の無き――いましが身は、神にさも似たるかな!』

註 希臘詩選集からのこの引用も今後の引用もすベてバアゼズの英譯に據つた。

譯者註三 アナクレオンは殊に戀愛詩に名高き希臘の敍情詩人(紀元前五六三――四七八)

譯者註四 フイーブスはアポロの通り名。アポロは文藝(ミユウズ)九神の主長にて日の神。

[やぶちゃん注:「アナクレオン」(ラテン文字転写・Anakreōn/英語(小泉八雲もこの表記):Anacreon 紀元前五七〇年頃~紀元前四八〇年頃)は古代ギリシアの抒情詩人。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、紀元前五四五年頃、ペルシアの侵入により、テオス市民たちとトラキアに逃れ、アブデラに植民した。彼自身は定住せず、サモスのポリュクラテス、アテネのヒッパルコスなど、各地の僭主たちの宮廷に招かれ、テッサリアの王宮にも滞在した。彼の詩は酒や恋を歌った軽い遊戯的なものが多く、彼の用いた多種多様な詩形の中には「アナクレオン詩句」と呼ばれる単純明快な韻律があり、文体も簡潔だったため、多くの模倣者を生み、「アナクレオンテア」(Anakreontea)という後世の模作集が現存する。彼の詩集はヘレニズム時代に抒情詩(メロス)のほかに、エレゲイア・イアンボス・エピグラムなどを含めて六巻が編まれたようだが、現存するのは断片百数十のみであるとある。

「フイーブス」小泉八雲の引用原文では“Phœbus”(現行は“Phoibos”で英和辞典では「フォイボス」と音写しているが、ネイティヴの発音を聴くと「フィィバス」。意味は「太陽」)。ギリシア神話の神アポロン(ラテン文字転写:Apollōn)の別名とされる(但し、彼とは別神格として存在した可能性もあるという)。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、ゼウスとレト女神の子で、アルテミスの双子の兄弟。デロス島で生れ、極北のヒュペルボレオイ人の国に行って、一年間そこにとどまったあとで、デルフォイに至り、大地女神ガイアの神託を守護していた悪竜ピュトンを退治した。絶世の美男子で、弓矢と竪琴を携え、予言とともに音楽・医術・牧畜なども司り、また、病の矢を放って人や家畜を殺す恐ろしい疫病神としての一面も持つ。コロニスと交わって医術の神アスクレピオスを生ませたほかに、ニンフや人間の女或いは美少年との間に多くの恋愛譚が伝えられるが、何故か、その大半は悲劇的結末に終っている。後に太陽神と混同された、とある。なお、平凡社「世界大百科事典」の「蝉」の解説には、『中国では副葬品として含蟬と称するものがあった。ギリシアでは〈黄金のセミ〉がアポロンの持物であり,また日の出とともに鳴き始めるので暁の女神エオス(ローマではアウロラ)の持物ともされる』とあった。

「バアゼズの英譯」原文“Burges' translation'”。これはインド生まれのイギリス人古典学者でギリシャ学の碩学であったジョージ・バージェス(一七八六年~一八六四年)の“The Greek anthology”(「ギリシア詞華集」一八五二年刊)であろう。ハーンの旧蔵本(富山大学「ヘルン文庫」所蔵)に英語版とフランス語版がある。これに就いては、中島淑恵氏の論文「ラフカディオ・ハーン旧蔵書『ギリシア詞華集』仏訳版の書き込みについて―昆虫譚と幽霊妻をめぐって―」(二〇一七年)と、同氏の「ラフカディオ・ハーン旧蔵書『ギリシア詞華集』英語版の書き込みについて②―セミとキリギリスに関する詩を中心に―」(二〇一八年)という本篇を学術的に精読検証出来る恰好の論文(孰れも『富山大学人文学部紀要』所収。ともにPDF)をダウン・ロード出来る。必見。

Plate1

       PLATE I.

1-2, Young Sémi.

3-4, Haru-Zémi, also called Nawashiro-Zémi.

[やぶちゃん注:訳す。

       第一図版。

1-2 幼生の蟬。

3-4 「ハルゼミ」、一名「ナワシロゼミ」とも呼ぶ。

「ハルゼミ」春蟬。セミ亜科ホソヒグラシ族ハルゼミ属ハルゼミ Terpnosia vacuaウィキの「ハルゼミ」によれば、ヒメハルゼミ属 Euterpnosia と合わせて二属三種でそれにヒメハルゼミ E. chibensis に三亜種がいる。『成虫の体長はオス28-32mm、メス23-25mmで、ヒグラシを小さく、黒くしたような外見である。オスの方が腹部が長い分メスより大きい。翅は透明だが、体はほぼ全身が黒色』から『黒褐色をしている』。『日本列島では本州・四国・九州、日本以外では中国にも分布する』。『ある程度の規模があるマツ林に生息するが、マツ林の外に出ることは少なく、生息域は局所的である。市街地にはまず出現しないが、周囲の山林で見られる場合がある』。『日本では、セミの多くは夏に成虫が現れるが、ハルゼミは和名のとおり4月末から6月にかけて発生する。オスの鳴き声は他のセミに比べるとゆっくりしている。人によって表現は異なり「ジーッ・ジーッ…」「ゲーキョ・ゲーキョ…」「ムゼー・ムゼー…」などと聞きなしされる。鳴き声はわりと大きいが生息地に入らないと聞くことができない。黒い小型のセミで高木の梢に多いため、発見も難しい』とある。私は十数年前、群馬県利根郡みなかみ町永井にある一軒宿「法師温泉」で、その大群の鳴く松林を歩いた。不思議に幻想的であった。You Tube の paraチャンネル(pararira18)氏の「ハルゼミの声」をリンクさせておく。異名「ナワシロゼミ」は言わずもがな、「苗代蟬」(但し、歴史的仮名遣では「なはしろぜみ」)。「環境庁」製作の「第五回 緑の国勢調査」と名打った一九九五年度の「身近な生きもの調査」のセミのデータはなかなかにしっかりしているが、その「地方名」に、『私たちの暮らしに身近なセミは、古来から地方ごとにいろいろな名称で呼ばれてきました。たとえば、神奈川県では、ハルゼミの地方名の一位は「マツゼミ」で十二例、二位が「マツムシ」で三例、以下一例ずつで「タウエゼミ」「アワビムシ」「カイダリムシ」と続く。同データの「ハルゼミ」の脱け殻分布図もリンクさせておく。異名とするそれは「苗代蟬」農事の暦と関連づけた、このハルゼミの鳴き声で苗代を拵える時期を知るもので、何としても残しておきたい民俗名である。]

 

 そして我々は、奏樂虫類を詠んだ日本文學の詩歌に匹敵するものを見出すには、必らず希臘の古代文學に遡らざるを得ぬ。蟋蟀を詠んだ希臘韻文中の最も美はしいのは、恐らくはミリエヂヤ譯者註五の『戀の思ひをさまよはしむる、聲音の糸を織り成して……眠(ねむり)鎭むる、いましこほろぎ』といふ詩であらう。……が、蟋蟀の囀りを詠んだもので、感念の微妙さ、殆ど之に讓らぬ歌が日本に澤山ある。そして此の小歌人に報ゆるに新しい菲[やぶちゃん注:原文は“fresh leek”。大谷は「韮」(にら)のつもりでこの字を選んでいると思われるが、本漢語「菲」には「ニラ」の意味はなく、カブの一種で、国字としてのニラの用法もない(他に「薄い・粗末な・つまらない」の他、反対に「芳しい・香(かぐわ)しい」の意はある。但し、本邦の作家や中国でもしばしば「韮」を「菲」と誤記するようである)。英語の“leek”(リーク)は最近よく見かける地中海沿岸原産のネギの一種であるリーキの栽培品種「リーキ」(ポロネギ・ニラネギ・セイヨウネギとも呼ぶ。単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ亜科ネギ属リーキ Allium ampeloprasum var. porrum)のことである。因みに、「韮(にら)」は Allium tuberosum で、同じネギ属ではある。]を以てしよう、『ちさくきざみし露の玉』を以てしよう、といふミリエデヤの約束の言葉は、奇妙に日本風にきこえる。それからアニテ譯者註六が書いたとされて居る、自分の祕藏の蟬と蟋蟀とに墓を建ててやつて、『說けど語れど聽き容れぬ』ヘイデイズ譯者註七が自分の玩具を奪って行つたのだと言つて泣いて居るミロといふ小娘を詠んだ詩は、日本の兒童生活には有りふれた一經驗を叙述して居るのである。今日の日本の小さな女の子が、記念碑の用にとその上へ小石を置くのと丁度同じ樣に、ミロ孃は――(二十七世紀の後の今日、その淚の玉は猶ほ如何に新しく輝くことであるか)――その祕藏の虫に『よせ墓』を造ったことと自分は想像する。然しもっと利發な日本のミロ孃は、その墓に向つて佛敎の祈禱の文句を口ずさむことであらう。

譯者註五 ミリエヂヤは紀元前一世紀の央に希臘に其名高かりし警句詩家。

譯者註六 アニテ(タゲアの)は紀元前三百年頃の有名な女詩人。

譯者註七 ヘイデイズは陰府下界の王プルウトオ。

[やぶちゃん注:「ミリエヂヤ」原文“Meleager”。Meleager of Gadara。彼は紀元前一世紀に現在のヨルダンにあったガダラに住み、官能的な作詩や諷刺的散文を書いた詩人で、五十人の詩人の警句を集めた「ガダラのメレアグロス」というアンソロジーの名で知られる。

「アニテ」原文“Anyté”。Anyte of TegeaAnýtē Tegeâtis)紀元前三世紀前半のアルカディアの女流抒情詩人(古代にかく呼ばれた事実はあるが、彼女の確かな抒情詩は現存しない)。

「ヘイデイズ」原文“Hades”で所謂、ギリシア神話の冥府の王「ハデス」である。但し、実際の英語の発音は「へィディーズ」で大谷の音写は正確。地下の鉱物資源の守護神でもあり、「プルートーン」(Plūtōn:「富める者」の意)とも呼ばれ、後にローマ神話に取り入れられて冥界の王「プルートゥ」(Plūtō)ともなった。]

 古代の希臘人が虫の曲調を愛したことを告白して居るのを見るのは、殊に彼等が蟬を詠んだ歌に於てである。その證據に、蜘蛛の係蹄[やぶちゃん注:「けいてい」。元来は、中国で縄や糸を輪にし、その内に動物の体の一部が入ると、締めつけて捕える括(くく)り罠を指す。]に捕へられて、詩人が外づしてやるまで、『か弱き械[やぶちゃん注:「かせ」。罪人を自由にさせないための道具。]に悶え泣き』して居た蟬を詠んだ、名詩選集中の詩句を詠んで見給へ。――また「仰げば高き木の上に、夏の暑きに暖たまり、女の乳にさも似たる、露を啜りつ』して居る、この『道行く人に歌きかす、酬も受けぬ旅樂師』を描いて居る、タレンタム譯者註八のレオニダス譯者註の詩を讀んで見給へ。――或はまた

 

『聲明朗らの蟬の君、露を啜りつ花の上、鋸(のこ)の齒なせる脚踏まへ、いましが黑き膚よりぞ、妙なる琴の音出づる』

 

の詞で始まつて居るミリエヂヤの風雅な斷片を吟じて見給へ。……或はまた、エヹヌス譯者註一〇が夜鶯(ナイテインゲール)に與へて詠んだ、次記の微妙な文句を誦して見給へ。――

 

『蜜に育てる汝(なれ)アテイカの少女よ。囀りつ汝(な)は囀れる蟬を捉へて、翼なき汝(な)が幼兒へ持ち去りぬ、――囀り巧みなる汝(な)が、囀り巧みなるものを――外人(よそびと)たる汝が、その外人を――夏の子たる汝が、その夏の子をば! 放ちやらずや早く。歌にたづさはる者が、歌にたづさはる者の口に滅びんは正しからねば、理に悖れば』

譯者註八 タレンタムは南伊太利の古名。今はタラント。

譯者註九 レオニダスは紀元前二百七十五年頃盛名を馳せし希臘詩人。その百篇に近きエピグラム傳はり居り文學愛好家の賞讚を博し居れり。

譯者註一〇 ヱヹヌスは紀元前四百五十年頃の希臘パロスの詩人。ソオクラテスは此人に就いて詩を學びたりと稱せらる。

[やぶちゃん注:最後の引用の「その夏の子をば!」の後には底本には字空けがないが、特異的に私が補った。

「タレンタム」“Tarentum”。タレントゥム。「靴」の踵の内側上部、イタリア共和国のプッリャ州南部にある都市ターラント(Taranto)(グーグル・マップ・データ。以下同じものは示さない)。ウィキの「ターラント」によれば、この地の『歴史は古代ギリシアの植民地が置かれた紀元前8世紀まで遡る。スパルタからの植民者は、この町を神話の英雄ターレスにちなんでターレスと呼んだ。古代ギリシア時代には、都市は半島の位置にあり』、『東はネクロポリスであった。 現代の都市はそれらの上に拡張されている』。『紀元前3世紀初頭、マグナ・グラエキアのギリシア人たちは、北方から勢力を拡大するローマ(共和政ローマ)と対立した。紀元前282年、ターラント湾を航行するローマ船団への攻撃を理由として、ローマはターレスに宣戦を布告した。これに対し、ターレスはエペイロスのピュロス王に支援を要請。ピュロス王は大軍をイタリア半島に送り込み、ピュロス戦争(紀元前280 - 紀元前275年)が展開された』。『紀元前272年、ターレスはローマによって占領された。ローマ人は、ローマからアッピア街道をこの町まで延ばし、この町をタレントゥムと呼んだ』。『二つの湾があるため、ターラントは二つの海の都市とも呼ばれることがある。マーレ・グランデ(大きな海の意)の商業港は、イオニア海のターラント湾に面し、西にあるサンピエトロ島とサンパオロ島という2つの小島に守られた位置にある。反対側のマーレ・ピッコロ(小さな海の意)の港は古い都市により発展し、漁業が盛んである。マーレ・ピッコロにある軍港は戦略的に重要なため、19世紀の終わりに港に戦艦を入れるための運河が半島を横断して掘られて、古代ギリシア人の町は島になった』とある。

「レオニダス」“Leonidas”(生没年未詳)。古代ギリシアの詩人で、紀元前三世紀前半に活躍し、この時代を代表する詩人の一人。タレントゥムの出身で、貧窮のまま各地を放浪し、老いて異郷で没したという。現存する百篇ほどのエピグラム(epigram:本来は狭義のそれは“epigramma”で、古代ギリシア・ローマの詩の一種。元は「碑文」の意で、墓碑銘や奉納物に刻む言葉には詩形、特に「エレゲイア」が用いられ、この意味でのエピグラムの代表詩人はシモニデスであった。ヘレニズム時代には、折々の気分や感想を歌う短い詩をも指すようになり、種類も奉献詩・恋愛詩・風刺詩等々に分れた)は、ほとんど奉献詩と碑銘詩である。同時代のアスクレピアデスとは異なり、恋愛や飲酒を歌う作品がなく、貧しい庶民に言及する作品が多いのも特徴とする。高度に完成された詩句は、装飾的で修辞学の色彩が強く、新造語や難解語が目だつ。その影響は大きく、ローマのプロペルティウスやオウィディウスに及んでいる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「汝(なれ)アテイカの少女よ」“Thou Attic maiden”。「アテイカの」の「アテイカ」は「アッティカ(Attica)」で、ギリシャのアテネ周辺を指す地域名。或いはアッティカの首都である「アテネ(Athens)の」の意。]

 

 之に反して日本の詩人は、セミの聲よりも蟋蟀の聲を遙か多く賞讃する傾向のある、のを我々は認める。セミの詩は無數にあるが、その歌ひ聲を褒めて居るのは極めて少い。固よりセミといふのは希臘人の知って居た蟬(シカダ)とは餘程異つて居る。眞實音樂的な種類のものも少しはあるが、大多數は驚く許りに騷々しい、――そのメンメンと鋭く叫ぶ聲は、夏の大苦惱の一つに思はれて居る程に騷々しい。だが蟬を詠んだ日本の韻文幾百萬の中から、上に引用したエヹヌスの詩句に匹敵すべきものを探索するは、無益の勞であらう。實際が、鳥に捕られた蟬といふ題で自分が發見し得た日本の詩は、ただ次記の一つであつた。

 

  あなかなし鳶にとらる〻蟬の聲  嵐雪

 

[やぶちゃん注:詩歌引用は底本では三字下げで、句の後も三字空けで作者名「嵐  雪」であるが、ブラウザの不具合を考えて総て圧縮した(以下、同じ仕儀の部分では注さない)。なお、ここには一行空けがないが、設けた。

「嵐雪」服部嵐雪(承応三(一六五四)年~宝永四(一七〇七)年)は芭蕉(寛永二一(一六四四)年~元禄七(一六九四)年)の高弟。淡路出身の武家。延宝二(一六七三)年か翌年頃に蕉門に入った最古参で、其角と並ぶ江戸蕉門の重鎮となった。但し、業俳で点料稼ぎに走ったり、「かるみ」を代表する撰集「別座鋪」(元禄七(一六九四)年刊)を批判したりして、最晩年の芭蕉の怒りを買ってもいる。それでも師に対する敬慕の念は終生変わらなかった。但し、芭蕉没後は黄檗済雲老師に参禅して法体となり、俳諧一筋ではなくなった。この句は嵐雪が初めて担当した四季撰集「其袋」(元禄三(一六九〇)年刊)の「夏之部」。

   蟬

あなかなし鳶にとらるゝ蟬の聲

如何なる情報によるものか不明だが、ネット上ではロケーションは六本木とする。]

 或は『子供にとられる』と此詩人は述べてもよかつたことであらう―――あの哀れな啼き聲を出す原因は、此の方が餘程餘計なのだから。ニキアスが蟬に代つて嘆いた句は、日本の多數のセミの輓歌の用を爲すことである。

[やぶちゃん注:「ニキアス」“Nicias”不詳。知られたそれはペロポネソス戦争の時代に活躍した古代アテナイの将軍で政治家のニキアス(紀元前四七〇年~紀元前四一三年)だが、彼のことかどうかは私には判らない。前後の流れから考えれば、先のジョージ・バージェス「ギリシア詞華集」に載る同名の詩人ととるべきであろう。]

 

『疾(と)く動く、翅に音(ね)をば放ちつつ、樂しまむこと早絕えぬ、綠の蔭にやすらへる、我を圖らず捉へたる、男の子が無慙の手に在れば』

 

 序に此處へ書いてもよからう、日本の子供は通例鳥黐を尖端へ着けた紬長い竹竿でセミを捕る。捉まつた折或る種のセミが放つ聲音は實に可哀想である、脅された折に鳥が放つ聲ほどに可哀想である。その折の音は、人間が用ひる『聲』といふ意味での苦痛の『聲』では無くて、特殊な發達を爲し來たつた體の外側に在る膜の所作であると、かう合點するのが困難な位である。捕まった蟬が斯んな啼き聲をするのを聞いて、或る虫類の發聲器は一種の樂器と考ふべきものでは無くて、言語の一機官[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。“organ”。器官。]と思ふべきもの、そしてその發達は鳥の音聲もさうのやうに――非常な相違は虫はその聲帶を躰の外部に有つて居るといふことで――單純な情緖と密接な關係を有つて居るのだ、と斯う全く新規な確信を近頃自分は抱くやうになつた。然し昆虫世界は全く妖魔神仙の世界である。我々がその用を發見し得ない機官を有ち、我々がその性質を想像し得ない官能を有つて居る動物が居る。――幾萬といふ眼を有つたり、背中に眼を有つたり、鼻や角の尖端で動き𢌞る眼を有つて居る動物が居る。――腹や脚に耳があつたり、腰に腦! があつたりする動物が居るのである。だから或る種の昆虫が、偶〻身體の内部でなくて外部に聲を有つて居ても、誰れもその事實に驚く理由(いはれ)は無いことである。

[やぶちゃん注:「腦!」の後には底本では一字空けはない。特異的に挿入した。]

 

 自分は日本の韻文で、蟬の發聲器に言ひ及んで迨んで[やぶちゃん注:「およんで」。]居るものは――そんな韻文が存在して居さうなものとは思ふが――まだよう一つも見出し得ないで居る。日本人は、確に自國の啼く虫の特性に就いて、數世紀の間馴染になつて居る。然し自分は日本の詩人が、蟋蟀の或は蟬の『聲』というて居るのは不正確だ、と今言はうなどいふ考は無い。虫は音藥を奏するにその翅と脚とを以てす、と現に說いて居る古昔の希臘詩人も、斯くと知つては居ながら、――日本の詩人が使ふと正(まさ)しく同樣に――『聲』とか、『歌』とか、『囀り』とか言つて居る。例を擧げればミリエヂヤは蟋蟀へ斯う言ひかけて居る。

 

『聲音するどき翅を有ちて、身は自(おの)づからなる七絃琴の、いましこほろぎ我が身の爲めに、聲なす翅を脚もてたたき、歌ひきかせや樂しき節(ふし)を!……』

[やぶちゃん注:「七絃琴」原文は“lyre”(発音は「ラィアー」)古代ギリシャの竪琴(ハープ)である「リラ」。所謂、「ハープ」で想起するあの「Ω」を逆さにしたあれ。弦の数は時期によって異なり、地域によっても異なっていた可能性があるが、概ね四・七・十弦のものが好まれた。

 なお、ここで紹介しておくと、加工用データとして使用させて貰っているサイト「βάρβαροι」の『特別付録 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)「蝉」』には、丁度、この部分に興味深い検証が行われている。以下に引用させて戴く。

   《引用開始》

 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)においては、英語"cicada"と日本語"Sémi"とは、ほとんど同義と解してよいが、その心裡においては、日本の"Sémi"は彼の解する真の"cicada"からは、やや外れていると考えていたのかもしれぬ。それが証拠に、彼は、日本の"Sémi"には"Japanese cicada"という限定詞をつけて呼ぶのに対し、ギリシアの蝉にはそういう限定詞をつけていないのである[やぶちゃん注:ここに英文ヴァージョンへのリンクがあるが、略す。但し、それ(正確には“Japanese cicadæ”)が出るのは、原文のこの後の「Ⅲ」パートのここ(原本画像。右ページの“A very large number of Japanese poems…”と始まる本文の五行目)である。]。

 彼がギリシアの蝉をじっさいに知っていたかどうかわからぬ。もし知っていなかったとしたら、彼にとっては、古代ギリシアの詩歌の対象となっていた蝉こそが、"cicada"と呼ぶにふさわしいと思っていたのであろう。たとえ実物を知らなかったとしても、ギリシアの蝉は全体におとなしい鳴き方をしたと考えられる。

 ヨーロッパに一般的な蝉は、学名"cicada orni"と呼ばれる小型の種類である(左上図)[やぶちゃん注:リンク先に写真有り。]。その鳴き声はいたっておとなしい[やぶちゃん注:ここに「AU format sound」の音声ファイルのダウン・ロード・リンクがある。そちらで落とされたい。]。

 もう少し大型でよく鳴くのは、学名"cicada plebeia"と呼ばれる種類で(右下図)[やぶちゃん注:リンク先に写真有り。]、その鳴き声は[やぶちゃん注:同じくここに「AU format sound」の音声ファイルのダウン・ロード・リンクがある。]。古代ギリシアの詩人たちを魅了したのは、こちらの蝉であろう。

 それにひきかえ、日本の"Sémi"はいかにも「音楽的」である。そのことがハーンを引きつけたらしい。しかし、彼が認めるのはツクツクボウシとヒグラシぐらいまでで、それ以外はいかにもやかましいと思っていたようだ。

 次章で、ハーンは、日本の詩人たちは「蝉で無い昆虫の名にセミの語を用ひさへして居る」というのだが、残念ながら根拠が示されていない。何をさして云っているのか、知りたいものである。

   《引用終了》

引用文中の“cicada orni”は和名はない。同種の英文ウィキはここ。“cicada plebeia”も和名はない。なお、小泉八雲(Patrick Lafcadio Hearn)は一八五〇年(嘉永三年相当)六月二十七日にギリシャのイオニア諸島の一つであるイギリス保護領であったサンタ・モウラ島(イタリア語:Santa Maura。現在のレフカダ島(Lefkada)。一八六四年六月二日にギリシャに帰属した。「ラフカディオ」の名はこの島の名から採られたもの)で生まれたが、二年後一八五一年に、父の西インドへの転属により、この年末、母と通訳代わりの女中とともに、父の実家アイルランドへ向けて出立し、途中、パリを経て一八五二年八月に父の実家があるダブリンに着き、そこで幼少時代を過ごし、後の日本に至るまでの波乱万丈の半生の間も、故郷ギリシャに立ち寄ることは遂に、なかった。従って、彼がギリシャのセミの声の記憶を持っている可能性は残念ながら限りなくゼロに近い。]

2019/08/29

無罪放免かい

今朝のMRIで担当医は四年前の右前頭葉反側損傷と、二年前に見つかった左内頸動脈瘤二つに、「変りありません。終止しましょう」と宣告。早朝から二時間半、診察は一分。何だか、その言い方が「無罪放免」という気にもならず、何だかちっとも嬉しくもないが、まあ、――ありがと、よ――

2019/08/28

大和本草卷之十三 魚之下 鬼鯛 (マツカサウオ)

 

【和品】

鬼鯛 丹後ニアリ如石堅乄不可食爲床頭玩物

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

鬼鯛〔(おにだひ)〕 丹後にあり。石のごとく堅くして、食ふべからず。床頭〔(しやうとう)〕の玩物と爲す〔のみ〕。

[やぶちゃん注:たった一行(「和品」は原本では欄外頭書)というのは今までの「大和本草」水族パート中で最短の記載である。鯛型、「鬼」とつけたくなるゴッツゴツっぽい風体、石のように硬く、乾して飾りに出来る……想像通り、小学館「日本国語大辞典」に彼奴(きゃつ)、「松毬魚」の異名となっていたのを見た時は、図に当たって思わずニンマリした。条鰭綱棘鰭上目キンメダイ目マツカサウオ科マツカサウオ属マツカサウオ Monocentris japonica である。ウィキの「マツカサウオ」から引用しておく。『北海道以南の日本の太平洋と日本海沿岸から東シナ海、琉球列島を挟んだ海域、世界ではインド洋、西オーストラリア沿岸のやや深い岩礁地域に生息する』。『本種は発光魚として知られているが、それが判明したのは意外に遅く』、大正三(一九一四)『年に富山県魚津町(現・魚津市)の魚津水族館で停電となった時、偶然』、『見つけられたものである』。『本種の発光器は下顎に付いていて、この中に発光バクテリアを共生させているが、どのように確保するのかは不明である。薄い緑色に発光し、日本産はそれほど発光力は強くないが、オーストラリア産の種の発光力は強いとされる。しかし、発光する理由まではまだよく判っておらず、チョウチンアンコウなどのように餌を惹きつけるのではないかという可能性がある』。『夜行性で、体色は薄い黄色だが、生まれたての幼魚は黒く、成長するにつれて次第に黄色味を帯びた体色へと変わっていくが、成魚になると、黄色味も薄れ、薄黄色となる。昼間は岩礁の岩の割れ目などに潜み、夜になると』、『餌を求めて動き出す』。『背鰭と腹鰭は強力な棘となっており、外敵に襲われた時などに背鰭は前から互い違いに張り出して、腹びれは体から直角に固定することができる。生きたまま漁獲後、クーラーボックスで暫く冷やすとこの状態となり、魚を板の上にたてることができる。またこの状態の時には鳴き声を聞くこともできる』という。『和名の由来通り、マツの実のようにややささくれだったような大きく、固い鱗が特徴で、その体は硬く、鎧を纏ったような姿故に英語では』Knight Fish・Armor Fish『と呼び、パイナップルにも似た外観から Pinapple fish と呼ぶときもある』。『日本でもその固い鱗に被われた体から』「ヨロイウオ」、『鰭を動かすときにパタパタと音を立てることから』「パタパタウオ」とも『呼ぶ地方もある』。『体は比較的小さく、成魚でもせいぜい15cm程で、体に比べ、目と鱗が大きく、その体の構造はハコフグ類にも似ている。そして、その体の固さから動きは遅く、遊泳力は緩慢で、体の柔軟性も失われている』。『餌は主に夜行性のエビなどの甲殻類だといわれる』。『本種はあまり漁獲されないことから、経済効果にはそれほど貢献しないものの、食用にされている』。『硬い体は包丁が通らないが、5~10分ほど煮たり、加熱すると鱗が取れ、中の肉を食べやすくなる。白身でやや柔らかく、美味な食感である』。『緩慢な動きがユーモラスなので、水族館で飼育されたり、内臓を取って干した個体を置物として売る場合もある』とある。なお、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑2 魚類」(平凡社一九八九年刊)の「マツカサウオ」の記載によれば、『太平洋岸の各地域では』、『マツカサウオを魔よけとして門戸にかけることがある』。『おそらくその鋭い刺が』、『魔よけの能力をもつと信じられたからであろう』と記しておられ、これは、ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」のマツカサウオのページの一番最後に、『俗間』、『何かのまじなひとして門戸にかけることがある』(宇井縫蔵「紀州魚譜」(昭和四(一九二九)年淀屋書店刊)と引き、『魔除け 家の入り口に吊しておく。子供や家族が病気にならないように家の入り口に吊しておく。この特異な姿に鬼などが恐れるとしてためか』として、兵庫県南あわじ市沼島での写真を掲げておられる。

「床頭」とは「寝床の傍・枕元」の意であるから、「玩物」と言っているものの、或いはこの魔除けの効果を期待してのことかも知れない。]

大和本草卷之十三 魚之下 松魚(かつを) (カツオ)

 

【外】

松魚 本草不載之東醫寳鑑曰性平味甘無毒味

 極珍肉肥色赤鮮明如松節故為松魚生東北

 江海中○今案是鰹魚ナリ日本ニハ南海ニ産ス相摸

 土佐紀州等殊鎌倉熊野ノ海ニ多シ北海ニハナシ切

 ワリテ脯トナシ十脡ヲ一連ト云○或曰鰹魚一名肥

 滿魚其形圓肥而多肉少骨爲軒為羹炙肥人頭

[やぶちゃん注:「爲」「為」の混用はママ。]

 小自尺及二尺色靑黑其性陽夏四五月向陽出

 東南海群集浮泳于海中○生ナルハ性温多食動

 血發瘡瘍赤斑使人醉則橄欖生蘆根甘蔗馬鞭

 草取汁而飲又陳皮大黃細末以黒豆煎汁送下

 而解之又ツハト云草ノ汁ヲ吞テ解ス皆冷飲スヘシ

 南人以芥子醋啖之充常饌餒者有毒不可食又

 作醓醢為佳肴○乾鰹薄ク削テ為抹諸食品加ヘ

 甘味ヲ助ク補脾胃進飲食益人百疾不忌甚利

 民用○常陸國誌曰鰹魚古事記萬葉集皆作堅

 魚而無鰹字後世合為一字耳大者尺餘小者八

 九寸味美有小毒人中其毒通身發紫頭痛煩渇

 五六月間多出土人用鹽水蒸乾為脯味美於生

 者俗曰鰹節無毒能調和百味久病衰極之人常

 食無妨或舂其骨肉爲醢亦佳也鰹見徒然草○

 順和名抄曰鰹魚加豆乎式文用堅魚二字○淡

 海公所作令亦曰堅魚○今案漁人往〻マグロト云

 魚ヲ用テ乾テカツヲトス性味ヲトレリ可擇

○やぶちゃんの書き下し文

【外】

松魚(かつを) 「本草」、之れを載せず。「東醫寳鑑」に曰はく、『性、平。味、甘、毒、無し。味、極〔めて〕珍。肉、肥、色、赤くして鮮明〔にして〕松の節のごとし。故に「松魚」と為す。東北〔の〕江海〔の〕中に生ず』〔と〕。

○今、案ずるに、是れ、鰹魚なり。日本には南海に産す。相摸・土佐・紀州等、殊に鎌倉・熊野の海に多し。北海には、なし。切りわりて、脯〔(ほじし)〕となし、十脡〔(ちやう)〕を一連と云ふ。

○或いは曰はく、『鰹魚、一名、肥滿魚。其の形、圓く肥えて、肉、多く、骨、少なし。軒(さしみ)と爲し、羹〔(あつもの)〕・炙〔(あぶりもの)〕と為す。人を肥やす。頭、小なり。尺より二尺に及ぶ。色、靑黑。其の性、陽。夏、四、五月、陽に向き、東南海に出でて、群集〔(ぐんじゆ)〕して、海中に浮泳す』〔と〕。

○生なるは、性、温、多く食へば、血を動かす。瘡瘍・赤斑を發し、人をして醉はしむ。則ち、橄欖・生蘆根・甘蔗・馬鞭草〔の〕汁を取りて飲む。又、陳皮・大黃〔を〕細末にして、黒豆の煎じ汁を以つて送り下して、之れを解す。又、「つは」と云ふ草の汁を吞みて解す。皆、冷飲すべし。

 南人、芥子醋(からしず)を以つて、之れを啖〔(く)〕ふ。常饌に充つ。餒〔(すえ)〕たる者、毒、有り、食ふべからず。又、醓醢(しゝびしほ)と作〔(な)〕す。佳肴たり。

○乾鰹(かつをぶし)。薄く削りて、抹と為し、諸食品に加へ、甘味を助く。脾胃を補し、飲食を進め、人を益す。百疾、忌まず、甚だ民用に利す。

○「常陸國誌」に曰はく、『鰹魚、「古事記」・「萬葉集」、皆、「堅魚」に作り、「鰹」の字、無し。後世、合せて一字と為すのみ。大なる者、尺餘り。小なる者、八、九寸。味、美。小毒、有り、人、其の毒に中〔(あた)らば〕、通身、紫を發す。頭痛・煩渇す』〔と〕。

五、六月の間、多く出づ。土人、鹽水〔(しほみづ)〕を用ひて蒸〔し〕乾〔し〕、脯と為す。味、生なる者より美なり。俗に「鰹節」と曰ふ。毒、無し。能く百味を調和す。久〔しき〕病ひ、衰〔への〕極〔み〕の人、常に食し、妨〔(さまたげ)〕無し。或いは、其の骨肉を舂(つ)いて、醢〔(しほから)〕と爲〔すも〕亦、佳なり。

鰹、「徒然草」に見えたり。

○順が「和名抄」に曰はく、『鰹魚。「加豆乎」。「式」文、「堅魚」の二字を用ふ』〔と〕。

○淡海公の作れる所の「令」に亦、「堅魚」曰ふ。

○今、案ずるに、漁人、往々、「まぐろ」と云ふ魚を用ひて乾して、「かつを」とす。性・味、をとれり。擇〔(えら)〕ぶべし。

[やぶちゃん注:条鰭綱スズキ目サバ科サバ亜科マグロ族カツオ属カツオ Katsuwonus pelamis。但し、益軒は「北海には、なし」と断じているところはカツオだけでもいいようにも思われはするが、形状がやや似て、「宗田節」にも加工される、

マグロ族ソウダガツオ属マルソウダ Auxis rochei

ヒラソウダAuxis thazard

や、やはり形状の似る、

サバ亜科ハガツオ族ハガツオ属ハガツオ Sarda orientalis

を益軒が識別しているとは残念ながら思われないので、これらも含まれると読むべきであろう(真正のカツオである上掲種の漁獲量が少ない日本海側の流通名では「カツオ」と言えば、逆に「ソウダガツオ」のことを指す。ハガツオは現行では流通量は少ない)。

「東醫寳鑑」前項に既出既注

「北海には、なし」実際にカツオの漁獲は日本海側では稀れである。これは摂氏十九~二十三度程度の暖かい海を好む性質による。

「脡〔(ちやう)〕」「脡」の音は「テイ」でもよい。干し肉で、まっすぐに伸ばしたもの、曲がっているものは「胊」と呼ぶ。

「或いは曰はく、『鰹魚、一名、肥滿魚……」この引用元は不明。しかし、「鰹」の字を用いているとなら、本邦の本草書であろう。

「瘡瘍・赤斑を發し、人をして醉はしむ」これは強いアレルギ反応であろう。但し、人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年が元禄一〇(一六九七)年に刊行した本邦最初の本格的食物本草書である「本朝食鑑」の「鰹」を見ると(国立国会図書館デジタルコレクションの当該部画像。中央綴目から右に四行戻った中間部から左頁の七行目まで)、肉が飴のように粘る「餅鰹」、皮の上に黒白の斑紋が、三、四条ある「筋鰹」、別に一種(これは真正のカツオでない可能性あるが)に「石灰(いしばい)鰹」というのがおり、これらは中毒する場合が多いとし、「石灰鰹」は死亡例もあり、漁師たちはこれを食べることを禁じているとする。しかし、この間には夏場に多く獲れるが、魚類自体が腐り易いことを言っており、これは腐敗菌による食中毒の可能性が高く、また、以上の最後の方では、カツオの肉の中にいる白い糸状の小さな寄生虫のことを指摘しており、これは明らかにアニサキスを指している。ただ、これらは孰れも、死に至るまでの毒性や重症化を考えることは出来にくい。されば、この「石灰鰹」は何らかの強い本態性の魚毒を持つ別種ではないかと私は疑っているのである。

「橄欖」ムクロジ目カンラン科カンラン属カンラン Canarium albumウィキの「カンラン科」の本種の解説によれば、『インドシナ原産で、江戸時代に日本に渡来し、種子島などで栽培され、果実を生食に、また、タネも食用にしたり油を搾ったりする。それらの利用法がオリーブに似ているため、オリーブのことを漢字で「橄欖」と当てることがあるが、全く別科の植物である』(オリーブはシソ目モクセイ科オリーブ属オリーブ Olea europaea)。『これは幕末に同じものだと間違って認識され、誤訳が定着してしまったものである』とある。

「生蘆根」漢方では単子葉植物綱イネ目イネ科ダンチク亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis の根を基本種とする。通常は乾燥品であるが、「生」とあるのは、生の根茎を砕いてそこから搾り取った汁を服用して吐き気や胃の熱を除去する手法が漢方サイトにあったのを指すのであろう。

「甘蔗」イネ科サトウキビ属サトウキビ Saccharum officinarum

「馬鞭草」読みは「ばべんさう」或いは「くまつづら」である。シソ目クマツヅラ科クマツヅラ Verbena officinalis は本州・四国・九州・西南諸島に分布する多年生草本で、高さ三十~八十センチメートルで、路傍・荒地・原野などに生育する。横に走る太い地下茎を持ち、種子以外にこの地下茎を用いても繁殖が可能であるらしい。茎の断面は四角形で上部で枝を分け、羽状に三~五裂する葉を対生する。花期は六~九月で茎の上部に穂状花序を出し、淡紅紫色の花を多数咲かせる。漢名である「馬鞭草」(属名“Verbena”(バーベナ)はそれに由来するか)は長く伸びた花穂を鞭に見たてことに由来する。古くは、腫れ物などの薬に用いられた(以上は岡山理科大学生物地球学部生物地球学科植物生態研究室(波田研)サイト内の「植物雑学辞典」の「クマツヅラ」の森定伸氏の解説に拠った)。ただ、個人サイト「野の花散歩」の「クマツヅラ」によれば、ここにも出る『クマツヅラの名は』九〇〇『年代に書かれた「和名抄」に登場』するものの、その和名の由来は良く分かっていないとあり、『一説には花の後、米粒状の実が穂状に付くので「米ツヅラ」がなまってクマツヅラになったとされる』とあった。

「陳皮」中国では熟したムクロジ目ミカン科ミカン属マンダリンオレンジ Citrus reticulataの果皮を観想させたものであるが、本邦では熟したミカン属ウンシュウミカン Citrus unshiu のそれで代用する。

「大黃」タデ目タデ科ダイオウ属 Rheum の一部の種の根茎から製される生薬。最近、目にすることが多くなった、ジャムなどにする野菜「ルバーブ」はダイオウ属ショクヨウダイオウ Rheum rhabarbatum である。

「つは」キク亜綱キク目キク科キク亜科ツワブキ(石蕗)属ツワブキ Farfugium japonicum であろう。

「脾胃」既出既注。漢方では広く胃腸・消化器系を指す語。

「常陸國誌」江戸前期の儒者で水戸藩に仕えた小宅生順(おやけせいじゅん 寛永一五(一六三八)年~延宝二(一六七四)年:号は処斎。寛文四(一六六四)年に第二代藩主徳川光圀の命で、長崎で明朝の遺臣の大儒朱舜水に面会し、彼を藩に招いた。「大日本史」の編修にも従事した)撰になる常陸国の地誌。明治三四(一九〇一)年に新編輯された「新編常陸国誌」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像。中央右)にある。

「古事記」実際のカツオではなく、

有上堅魚作舍屋之家

(堅魚(かたうを)を上げて舍屋(や)を作れるの家有り)

で、「葺いた藁を押さえるために、カツオのような形の横木を何本も棟に取り付けた大きな家」の意である。

「萬葉集」巻第九の「水江(みづのえ)の浦島の子を詠める一首幷に短歌」(一七四〇・一七四一番)の前者の中に出る。

   *

春の日の 霞める時に 墨吉(すみのえ)の 岸に出でゐて 釣船(つりふね)の とをらふ見れば 古への 事そ思ほゆる 水江の 浦島の子が 堅魚(かつを)釣り 鯛釣り衿(ほこ)り 七日(なぬか)まで 家にも來(こ)ずて 海界(うなさか)を 過ぎて漕ぎ行くに 海若(わたつみ)の 神の女(をとめ)に たまさかに い漕ぎ向かひ 相ひ誂(あとら)ひ こと成りしかば かき結び 常世(とこよ)に至り 海若の 神の宮の 内の重(へ)の 妙(たへ)なる殿(との)に 携(たづさ)はり 二人(ふたり)入り居(ゐ)て 老いもせず 死にもせずして 永き世に ありけるものを 世の中の 愚(おろ)か人(ひと)の 吾妹子(わぎもこ)に 告げて語らく 須臾(しましく)は 家に歸りて 父母に 事も語らひ 明日(あす)のごと われは來(き)なむと 言ひければ 妹(いも)が言へらく 常世邊(とこよへ)に また歸り來て 今のごと 逢はむとならば この篋(くしげ) 開くなゆめと そこらくに 堅めし言(こと)を 墨吉に 歸り來たりて 家見れど 家も見かねて 里見れど 里も見かねて 恠(あや)しみと そこに思はく 家ゆ出でて 三歲(みとせ)の間(ほど)に 垣も無く 家滅(う)せめやと この箱を 開きて見てば もとの如(ごと) 家はあらむと 玉篋 少し開くに 白雲(しらくも)の 箱より出でて 常世邊に 棚引(たなび)きぬれば 立ち走り 叫び袖振り 反側(こいまろ)び 足ずりしつつ たちまちに 情(こころ)消失(けう)せぬ 若かりし 肌も皺みぬ 黑かりし 髮も白(しら)けぬ ゆなゆなは[やぶちゃん注:後々には。] 氣(いき)さへ絕えて 後(のち)つひに 命死にける 水江の 浦島の子が 家所(いへどころ)見ゆ

   反歌

常世邊に住むべきものを劍大刀(つるぎたち)己(な)が心から鈍(おそ)やこの君

「劍大刀」は「かたな」で「な」を引き出すための枕詞のようなもの。

皆、「堅魚」に作り、「鰹」の字、無し。後世、合せて一字と為すのみ。大なる者、尺餘り。小なる者、八、九寸。味、美。小毒、有り、人、其の毒に中〔(あた)らば〕、通身、紫を發す。頭痛・煩渇す』〔と〕。

五、六月の間、多く出づ。土人、鹽水〔(しほみづ)〕を用ひて蒸〔し〕乾〔し〕、脯と為す。味、生なる者より美なり。俗に「鰹節」と曰ふ。毒、無し。能く百味を調和す。久〔しき〕病ひ、衰〔への〕極〔み〕の人、常に食し、妨〔(さまたげ)〕無し。或いは、其の骨肉を舂(つ)いて、醢〔(しほから)〕と爲〔すも〕亦、佳なり。

「徒然草」第百十九段。

   *

 鎌倉の海に、鰹と言ふ魚は、かの境ひには、双(さう)なきものにて、このごろ、もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄の申しはべりしは、

「この魚、おのれら、若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づること、はべらざりき。頭(かしら)は、下部(しもべ)も食はず、切りて捨てはべりしものなり。」

と申しき。

 か樣(やう)の物も、世の末になれば、上樣(かみざま)までも入りたつわざにこそはべるなり。

   *

因みに、高校時代、ここを読んで、卜部兼好が一発で大嫌いになった。私は鰹が大好物だからである。

『順が「和名抄」に曰はく……」巻十九の「鱗介部第三十 竜魚類第二百三十六」の以下(原文は国立国会図書館デジタルコレクションのここ)。

   *

鰹魚 「唐韻」に云はく、『「鰹」は【音「堅」。「漢語抄」に云はく、『加豆乎』。「式」文に「堅魚」の二字を用ゆ。】。大鮦なり。大を「鮦」と曰ひ、小を「鮵」【音「奪」。】と曰ふ。野王、案ずるに、鮦【音「同」。】、蠡魚なり【蠡魚、下の文に見たり。今、案ずるに、堅魚と爲すべし。之の義、未だ詳らかならず。】』〔と〕。

   *

文中の「野王」は古辞書「玉篇」の撰者として知られる南朝梁から陳にかけての学者顧野王(こ やおう 五一九年~五八一年)のこと。「鰹」の字は国字ではなく、漢語として存在する。しかし、漢語としては「鰻」・「大鰻」の意で、鰹の意はない。ところが、ややこしいことに「鮦」には「大鰻」の他に大きな鰹の意が漢語自体にあり、一方で、「鮵」は「鱧(はも)の小さな個体」の意とするのである。これを見るに、もとは、やはり、これらの漢字は皆、ウナギのようなニョロニョロ系の魚類を指した漢字と私は睨んだ。さても。順は「蠡魚」をカツオと言っているが、やっぱり違う。この「蠡魚」はやはり「鱧」などと同じで「ウナギ」或いは「ヤツメウナギ」を指すものだ。サイト「真名真魚辞典」のこちらを見られたい。だいたい、順ちゃん、あんた、「鱧魚(ハム[やぶちゃん注:ママ。])」で「※」(「※」=「魚」+「蠡」)を「本草綱目」から引用して出しとるやないかい!(国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ

「式」「延喜式」。

「淡海公」藤原不比等の諡号。

「令」「大宝律令」。

『漁人、往々、「まぐろ」と云ふ魚を用ひて乾して、「かつを」とす。性・味、をとれり』「鮪節(まぐろぶし)」は「黄肌鮪」、サバ亜科マグロ族マグロ属キハダ Thunnus albacares の幼魚から作る。現在も普通に製造販売されている。甘味があってともに入れる素材の味を邪魔しないだしがとれる。]

小泉八雲 惡因緣 (田部隆次訳) 附・「夜窓鬼談」の「牡丹燈」

 

[やぶちゃん注:本作(原題は“A PASSIONAL KARMA”(「情念の因縁」))は明治三二(一八九九)年にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE, BROWN COMPANY)から出版された作品集“IN GHOSTLY JAPAN”」(「霊的なる日本にて」:来日後の第六作品集)の六番目に配された作品である。同作の原文は、「Internet Archive」のこちらから原本当該作画像が、活字化されたものは「The Project Gutenberg」のここの“A Passional Karma”で読める。

 底本は、サイト「しみじみと朗読に聴き入りたい」の別館内のこちらにある、昭和二五(一九五〇)年新潮文庫刊の古谷綱武編「小泉八雲集 下巻」の田部隆次氏の訳の「惡因緣」PDF)を視認した。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 文中の傍点「ヽ」は太字に代えた。「註」記号はルビのように附されてあるが、ここでは上付きで示した。「註」本体は全体が五字下げポイント落ちであるが、同ポイントで二字下げにして、さらに適宜、改行した。最終章の三角形に配されたアスタリクス「*」は底本では一行に一字分表示である。

 本話は、三遊亭円朝の「牡丹燈籠」(後半は復讐譚に転じて原話全体は複雑である。円朝による創作は彼が二十三、四の頃、文久三(一八六三)年か翌年と推定され、最初の出版は速記本で明治一七(一八八五)年に東京稗史出版社から出た。本篇冒頭で小泉八雲が述べている通り、その後、明治二五(一八九二)年七月に三代目河竹新七により「怪異談牡丹燈籠」として歌舞伎化されて、五代目尾上菊五郎(天保一五(一九〇三)年~明治三六(一九〇三)年)主演で歌舞伎座で上演されて大ヒットした)で特に知られた話であり(近世の怪談集「奇異雑談(ぞうたん)集」(著者不祥・貞享四(一六八七)年板行であるが、ずっと以前から写本が残されており、実際の編著は明暦・万治・寛文(一六五八年~一六七三年)期とされる)の第六巻の「女人、死後、男を棺の内へ引込みころすこと」や、浅井了意の「伽婢子」(寛文六(一六六六)年板行)第三巻の「牡丹燈籠」の正統翻案物の他、上田秋成の「雨月物語」の巻之三の「吉備津の釜」や卷之四の「蛇性の淫」などのように原話を素材転用した本邦の先行的作品は無数にあり、そうしたものを私はブログ・カテゴリ「怪奇談集」でも複数を電子化している)、また、私自身も高校時代より、原話の「牡丹燈記」(明の瞿佑(くゆう)の作の志怪小説集「剪燈(せんとう)新話」中の一篇)から激しく偏愛し続けているものであるので、無粋な本文注は表記注以外は附さないことにした(一部にあった誤植による転倒字は正した)。 ただ、私が気になって調べた――私のどこにもない電子化テクストの特異点として――以下の点のみ、先に注しておく。なお、講談社学術文庫一九九〇年刊小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」では、本作の原拠を幕末から大正にかけて生きた儒者石川鴻斎(天保四(一八三三)年-大正七(一九一八)年)の、私も愛読する漢文体怪奇談集「夜窗(やそう)鬼談」の「牡丹燈」(国立国会図書館デジタルコレクションの当該作冒頭画像へのリンク)とするが、ハーンの旧蔵本にそれがあるからと言って、これを種本としてあげつらうのは本話の執筆動機の提示から見ても学術的にやはりおかしい。そもそもが、鴻斎の当該作の末には鴻斎自身が『此圓朝氏談所』(此れ、圓朝氏の談ずる所ろ)〔下線はママ〕とあるのであり、「牡丹燈」には出ない「牡丹燈籠」の登場人物であるお米や平左衛門の名が出るのも、書誌学的にはまず円朝の「牡丹燈籠」を挙げるべきである(「怪談・奇談」の解説で布川弘氏が旧蔵本にないからと言ってそれが原拠でないとするのは全く以って肯んずることが出来ない)但し、冒頭に出る友人なる人物が、手っ取り早くこの「夜窗鬼談」の円朝の「牡丹燈籠」のお手軽な圧縮断片のようなそれを英語に訳し、小泉八雲に資料の一つとして提供した可能性は高いとは言える。いや、そう限定して解説してこそ「原拠」の一つと初めて言える。

「三崎(さんさき)」現在の台東区谷中の崖上にあった旧谷中三崎町(やなかさんさきちょう)。江戸切絵図で確認したところ(私は所持するもので探したが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像でも見られる。右中央を拡大されたい。「大圓寺」の道を隔てた画面右手に「三崎町」が確認でき、その下方に接して次注の「新幡隨院法住寺」が確認される)現在の東京都台東区谷中五丁目のこの中央附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)「三崎町」を見出せた。また、直近の谷中三丁目のここに「三崎坂(さんさきざか)の地名が残る。

「新幡隨院」これは浄土宗普賢山(ふげんざん)法住寺(ほうじゅうじ)の俗称(開山幡随院了碩に因む)。正歴三(九九二)年に恵心僧都によって豊島郡下尾久に天台宗恵心院法受寺として開創されたが、文永元(一二六四)年に浄土宗に改宗し、宝歴三(一七五三)年にここ旧豊島郡谷中に移転した。関東大震災後に足立区東伊興(ひがしいこう)に移転しているが(現存。但し、現行では事蹟では今も昔も「法受寺」と表記している。その齟齬自体には私は興味はないので調べていない)、江戸切絵図を見ると、恐らくは現在の東京都台東区谷中二丁目にある台東区立谷中小学校の附近にあったものと推定出来る。以上の事実に基づくならば、本話の時制は宝歴三(一七五三)年以後ということになる。

「海音如來」酷似した如来に薬師如来七仏の一つとして、法海雷音如来(ほうかいらいおんにょらい)がある。浄土の法幢国を主宰するという。この如来名は中文サイトにもしっかりある

「雨寶陀羅尼經」(歴史的仮名遣「うほうだらにきやう」)は全一巻で唐の不空訳。貧者を裕福にさせるために、妙月という長者が如来から陀羅尼を授かり、その呪文の力で財宝を雨のように降らすことが出来たというところから、この経名があると、小学館「日本国語大辞典」にちゃんと載っている。浄土宗では使わぬ修法だと言っている発言を見かけだが、鎌倉新仏教以降の名僧たちは漏らさず天台・真言の密教をしっかりと学んでいるし、近世以前の仏教史の中でそんな宗派的認識は意味がないと思うし、そんな教条的態度では悪霊退散など出来た話ではない。そもそもが近世最強のゴースト・バスターであった祐天も浄土宗である)……なお、ネット上には、「海音如来」も「雨宝陀羅尼経」も円朝のふざけた捏造物であって、後者は「あほだら経」の洒落だ、とのたもうている記載を見かけた……さても、ならばこそ「海音如来」も「カランコロン」の「怪音如来」というわけか?……私の調べた事実と、その投稿された「ご隠居」の謂いと……どちらを信じられるかは……あなたにお任せ致そう。……お後がよろしいようで……【2019年9月22日:追記】「夜窓鬼談」の「牡丹燈」の書き下し文を最後の注に追加した。【2019年11月4日:追記】原本に挿入されている二葉の絵(絵師不明。最後の墓の方は小泉八雲自身のスケッチかも知れない)の画像を上記、「Internet Archive」のPDF版からトリミングして(墓の画像はそのままでは取り込めなかったのでスクリーン・ショットで拡大トリミングした)挿入した。絵師の描いたそれは“THE PEONY LANTERN”(「牡丹の燈籠」)とキャプションがある。

 

 

    惡  因  緣

 

 東京の劇壇に於て、決して衰へる事のない人氣のある物の一つは、名高い菊五郞一座の『牡丹燈籠』の芝居である。舞臺十八世紀の眞中に取つたこの物すごい芝居は、もとは支那の話から思ひついた物だが、圓朝と云ふ小説家が口語體の日本語で書いて、地方色も全然日本風にした傳奇體の話を、劇にした物である。私はその芝居を見に行つた、そして菊五郞は恐怖の喜びの一種變つた物を私に感じさせた。

『この話の物すごいところを英語の讀者に示しては如何です』――と東洋哲學の迷路を通つて適當に私を案内してくれる友人は尋ねた。『西洋の人が殆んど知らない超自然の或普通の觀念を說明する役に立ちませう。私、飜譯してお助けしても宜しい』

 私は喜んでその思ひつきを受け入れた、そして私共は圓朝の話の餘程異常な方の部分をつぎのやうに摘要した。ところどころ、もとの物語を縮める必要があつた、そして會話のところだけはもとの文章をそのままに譯するやうにした、――そのうちには、心理學的の興味の特別な性質を偶然もつて居る物がある。

       *

 ――これは牡丹燈籠の物語のうちの幽靈の話である。――

 

       一

 

 江戶牛込に飯島平左衞門と云ふ旗本がゐたが、一人娘のお露はその名の示す朝露(あさつゆ)のやうに綺麗であつた。飯島は娘が十七ばかりの頃に後妻を娶つた、それでお露が繼母と一緖では幸福に暮らせない事を知つて、娘のために柳島に綺麗な別莊を造つて、お米と云ふこの上もなく良い女中をつけて、そこに住まはせた。

[やぶちゃん注:「柳島」現在の墨田区業平・横川・太平・錦糸、及び、江東区亀戸に相当する区域にあった旧地名。この附近(グーグル・マップ・データ)。]

 お露はその新しい家で樂しく暮らしてゐたが、或日の事、かかりつけの醫者山本志丈が根津に住んでゐた萩原新三郞と云ふ若い侍を連れて見舞に來た。新三郞は非常に立派な靑年で、甚だ上品であつた、そして二人は一見して戀に落ちた。その短い訪問の終らないうちに、彼等は――老いた醫者に聞かれないやうに工夫して――永久に變らない誓をする事ができた。それから別れる時、お露はその靑年にささやいた、――『忘れないで下さい。もしこれでお目にかかれないと、私きつと死にます

 新三郞はその言葉を決して忘れなかつた。そしてお露に會ふ事ばかり考へてゐた。しかし一人でお露を訪問する事は禮が許さない、彼は醫者が再びその別莊へ連れて行く約束をしたから、その醫者と同行する又の機會を待つより外はなかつた、不幸にして老人はこの約束を果さなかつた。彼はお露が突然この靑年に對して愛を感じた事をさとつた、それで萬一の事があつたら、彼女の父が自分を責任者と考へるだらうと恐れた。飯島平左衞門は人の首をよく斬るので評判であつた。志丈が新三郞を飯島の別莊へ紹介した事の結果を考へれば考へる程、彼は恐ろしくなつて來た。それでわざと彼の若い友人を訪れる事を避けた。

 幾月か過ぎた、新三郞が來てくれない本當の理由を少しもさとらないお露は、自分の愛が蔑親されたと思ひ込んだ。それから哀へて死んだ。すぐにあとで、忠實な女中のお米も女主人の亡くなつた事を悲しんで死んだ、それで二人は新幡隨院の墓地へ相ならんで葬られた、――この寺は名高い菊人形の見せ物が年々開かれる團子坂の近傍に今もある。

 

       二

 

 新三郞は何事が起つたか少しも知らなかつた、しかし彼は失望と心配で長い問病氣になつた。彼は次第に囘復して來たが、未だ餘程哀弱してゐた、そこへ突然山本志丈から訪問を受けた。老人は長く無沙汰をした事に對して色々尤もらしい言分をした。新三郞は彼に云つた。――

『春の始めからずつと病氣をして居りまして、――今でも未だ何(なん)にも喰べられません……ちつとも來て下さらなかつたのは少しひどいですな。もう一度飯島さんのお宅へ御一緖に行く約束だつたと思ひます、それから先日丁寧にもてなされましたから、御禮に何か贈物をしたいのですが。勿論自分では行かれません』

 志丈は嚴かに答へた、

『實に惜しい事でしたが、あの若い婦人は亡くなられました』

『亡くなつた!』新三郞は眞靑になつてくりかへした『亡くなつた、とおつしやるのですか』

 醫者は暫らく氣を落着けるやうに默つてゐた、それから面倒な事を餘り眞面目に取らない事にきめた人のやうな輕い早い調子で、續いて云つた。――

『あなたを紹介したのは私の大失策でした、あの人はすぐあなたが好きになつたらしいのです。あなたはあの小さい部屋で一緖にゐた時、――何かその愛情に油を注ぐやうな事を云つたんぢやありませんか。とにかく、あの人はあなたが好きになつて來た事が分つたので、私心配になりました、――父親が聞いて、私ばかりを惡者にするだらうと思つたからです。そこで――すつかり白狀いたしますが、――あなたをお訪ねしない方がよいときめまして、わざと長い間參らなかつたやうなわけでした。ところが、つい二三日前、偶然飯島家を訪ねて、お孃さんの亡くなつた事と女中のお米さんの亡くなつた事を聞いて、非常にびつくりしましたよ。それから、色々考へて見ますと、そのお孃さんはあなたを戀ひ慕つて死んだに相違ない事が分りました。……〔笑つて〕 あゝ、あなたは全く罪作りだね。全くだね。〔笑つて〕 女が戀慕して死ぬなんて云ふ程好男子に生れて來るのは罪ですな。……〔面目に〕 まあ、死んだ者は仕方がない。今更云つて見てもどうにもならない、――今となつてはあのお孃さんのために念佛でも唱へるより外はない。……さやうなら』

 それから老人は急いで行つた、――彼自ら知らないうちにできた責任を感じて居るその苦しい事件について、これ以上の話を避けようとして。

  註 この會話は或は西洋の讀者に變に思は
  れるかも知れないが、これは事實である。
  この場面全體には全く日本風の特色がある。

 

       三

The-peony-lantern

 

 お露の死を聞いてから、新三郞は悲哀のためにぼんやりとなつた。しかし、はつきり考へる事ができるやうになるとすぐに、彼は女の名を位牌に書き込んで、家の佛壇の中に置いて、その前に供物を捧げて念佛を唱へた。それからあと每日供物を捧げて、念佛をくりかへした、そしてお露の記憶は彼の心から決して去らなかつた。

 盆前に、彼の單調な孤獨を破るやうな事は何も起らなかつた、――死人の大祭であるその盆は七月十三日に始まるのであつた。それから彼は家を綺麗に飾つて、その祭の準備をした、――歸つて來る魂の案内になる燈籠をかけて、精靈棚に精靈の食物を置いた。そして盆の第一夜に、日沒の後、彼はお露の位牌の前に小さい燈明をつけて、それから燈籠に火をともした。

 その夜は晴れて大きな月があつた、――そして風がなくて、大層あつかつた。新三郞は緣側ヘ出て涼んでゐた。輕い夏の着物を一枚着ただけで、彼はそこで考へながら、夢を見ながら、悲しみながら坐つてゐた、――時々團扇で扇いだり、時々蚊やりの煙りをつくつたりしながら、あたりは靜かであつた。この邊は淋しいところで、人通りは殆んどなかつた。聞える物はただ近傍の流れのおだやかな音と、蟲の音だけであつた。

 ところが、この靜けさが、――カランコロン――と鳴る女の駒下駄の音で破られた、――それから急にこの音は段々近くなつて庭を圍んで居る生垣のところまで來た。それから新三郞は好奇心に驅られてつま立てをして生垣の下から覗かうとした、すると女が二人通るのが見えた。牡丹の飾りのある綺麗な燈籠をもつた女は女中らしかつた、――もう一人は十七歲ばかりの華奢(きやしや)な少女で、秋草の模樣の刺繡(ぬひ)のある振袖を着てゐた。殆んど同時に二人の女はふり向いて新三郞を見た、――そして彼はお露と女中のお米の二人を認めて、全く驚いた。

 彼等はすぐに足を止めた、そして少女は叫んだ、――

『まあ、不思議。……萩原さんだ』

 同時に新三郞は女中に云つた、――

『あゝ、お米さん。君はお米さんだね。――よく覺えてゐますよ』

『萩原さん』お米はこの上もない驚きの調子で叫んだ。『とても本當とは信じられなかつたでせう。……ね、私達は、あなたがお亡くなりになつたと聞いてゐましたから』

『こりや驚いた』新三郞は叫んだ。『ところで、私は又あなた方お二人とも亡くなられたと聞いてゐました』

『まあひどい話ですね』お米は答へた。どうしてそんな緣起の惡い事を云ふのでせうね。……誰ですか、そんな事を云つたのは』

『どうぞお入り下さい』新三郞は云つた、――『ここでもつとよくお話し致しませう。庭の門が開いてゐます』

 そこで彼等は入つて、挨拶をとりかはした、それから新三郞は二人を樂に坐らせてから云つた、――

『長い間お訪ねもしないで大層失禮しましたがお赦し下さい。實は一月程前にあのお醫者の志丈が私にお二人の亡くなられた事を云つたのです』

『それぢやあなたにそんな事を云つたのはあの人ですか』お米は叫んだ。『隨分ひどいですね。ところで、あなたが亡くなつたと云つて聞かせたのもやはり志丈です。つまりあなたを騙さうと思つたのてせう、――それはあなたがそんなに人を信用して何でもお任せなさる方だから、騙すのは何でもないのでせう。きつとお孃樣はあなたがお好きな事を何かの言葉でお洩らしになつたのが自然と、お父樣の耳に入つたのでせう、さうすると、あの繼母のお國がお醫者に手を𢌞して、私達が死んだとあなたに聞かせて、別れさせるやうに工夫したのでせう。とにかく、お孃さんがあなたの亡くなられた事を聞いてすぐ髮を切つて尼になりたいとおつしやいました。しかし私は髮を切る事だけは止めて、しまひにただ心の尼になるやうにと勸める事ができました。そのあとでお父樣は或若い人にみあはせようとなさいましたが、お孃樣はお聞きになりません。それで色色ごたごた致しましたが、――主にそれはお國から起つた事ですが、――たうとう私達は別莊から出ました、谷中の三崎(さんさき)で小さい家を見つけました。そこで今、少し内職をして――どうかかうか暮らしてゐます。……お孃樣はあなたのために念佛ばかり唱へていらつしやいます。今日は盆の初日ですからお寺參りに行きました、それで歸るところです――こんなにおそく――こんなに不思議にお遇ひする事になりました』

『あゝ不思議だね』新三郞は叫んだ。『こりや本當か知らん――それとも夢でなからうか。私もここではたえずお嬉さんの名を書いた位牌の前に念佛を唱へてゐました。御覽なさい』そこで彼は精靈棚にあるお露の位牌を二人に見せた。

『御親切に覺えてゐて下さつて、どんなに嬉しいか分りません』お米は微笑しながら答へた……『あの、お孃樣の方では』――彼女はお露の方へ向いて續けた、その間お露は袖で半ば顏をかくしながらつつましく默つてゐた、――『お孃樣の方では、あなたのためなら七生の間お父樣に勘當されても、たとへ殺されても構はないと本當に云つていらつしやるのです。……さあ、今夜ここに置いて下さいませんか』

 新三郞は嬉しさの餘りに顏が靑くなつた。彼は感極まつて震へ聲で答へた、――

『どうぞ、ゐて下さい、しかし大きな聲をしないやうに願ひます――實はすぐそばに白翁堂勇齋と云ふ人相見で、人の顏を見て占をする男が住んでゐます。少し物好きな男ですから、餘り知らせたくないのです』

 二人の婦人はその晚、若い武士の家に泊つて、夜明け少し前に歸つた。そしてその晚から七晚引續いて每晚、――天氣がよくても惡くても、――いつでも同じ時刻に來た。新三郞はその少女に益〻愛着を感じた、そして二人は鐡の帶よりも强い迷ひのくさりで、互につながれてゐた。

 

       四

 

 さて、新三郞の家のりん隣りの小さな家に住んで居る件藏(ともぞう)と云ふ男がゐた。伴藏とその妻おみねは召使として新三郞に二人とも使はれてゐた。二人とも若い主人に忠實に仕へてゐた、新三郞のためにこの二人は比較的安樂に暮らす事ができた。

 或晚、餘程おそく、伴藏は主人の部屋で女の聲のするのを聞いて不安に感じた。彼は新三郞が甚だ溫順で親切だから、誰か狡猾ないたづら女に騙されて居るのかも知れないと心配した、――こんな場合には先づ困るのは使用人である。それで彼はよく見張りをしようと決心した、それでその翌晚彼は新三郞の住家へつま立てをして忍び寄つて、雨戶のすき間から覗いた。寢室の行燈の明りで、彼は蚊帳の中に主人と、知らない女が一緖に話をして居るのを認める事ができた。始めは女をはつきり見る事ができなかつた。彼女の背中が彼の方に向いてゐた、――彼はただ彼女が大層華奢である事、――それから着物や髮の風から判斷して、――大層若いらしい事だけを見た。耳をすき間にあてると、話はよく分つた。女は云つた、――

『それでもし父が私を勘當したら、あなたは私を引取つて下さいますか』

 新三郞は答へた、――

『引取りますとも――いや、かへつてその方が有難い。しかしあなたは一人娘で可愛がられてゐますから勘當などの心配はありません。心配な事は私共はいつか別れなければならないと云ふ殘酷な目に遇ふ事です』

 女はおだやかに答へた、――

『決して、決して、外の人を夫にもつ事は考へて見るだけの事もでぎません。たとへ私達の祕密が洩れて、父が私の事を怒つて殺すやうな事があつても、やはり――死んでからも――あなたの事を考へずには居られません。それからあなただつて私がゐないでは長く生きて居られないでせうと私信じてゐます。……』それから彼に寄りそうて、唇を彼の頸にもつて行つてキスした、それから彼もそのキスを返した。

 伴藏は聞いてゐながら驚いた、――この女の言葉は卑しい女の言葉でなくて、身分ある人の言葉であつたからである。それから彼はその女の顏をどうにかして一目見ようと決心した。そして家の廻りをあちこち步いて、あらゆるすき間割れ目を覗いて見た。そしてたうとう見る事ができた、――しかし同時に彼は氷を浴せられたやうに身震ひをして、頭の毛が逆立つた。

 その理由は、その顏はずつと以前に死んだ女の顏、I愛撫して居る指は肉のない骨ばかりの指、――腰から下のからだは何もなくて、非常にうすうすあとを曳いた影になつて消淸えて居る物であつたからであつた。愛して居る男の迷つた眼が若さ、愛らしさ、美しさを見て居るところには、覗いた人の眼にはただ恐怖と、そして死の空虛が見えるばかりであつた。同時に外の女の姿、そしてもつと物すごいのが、部屋の中から立ち上つた、そして覗いて居る男を見ようとするやうに、こちらへ、すばやく進んで來た。それから非常な恐怖のうちに、彼は白翁堂勇齋のうちへ飛んで行つて、狂氣のやうに戶をたたいて、彼を起す事ができた。

 

       五

 

 人相見白翁堂勇齋は大層老人であつた、若い時に多く旅行をして色々の物を見たり聞いたりして居るから容易には驚かない。しかしこのびつくりして居る伴藏の話は彼を驚かし又恐れさせた。彼は古い支那の書物で、生者と、死者の間の戀愛について讀んだ事はあるが、不可能の事として決してそれを信じなかつた。ところが、彼は今伴藏の話は僞りではない事、萩原の家には何か餘程變な事が實際行はれて居る事がたしかである事をさとつた。もし事實が伴藏の考へて居るやうな物であつたら、この若い武士は到底助からない事になる。

『もしその女が幽靈なら』――勇齋はその驚いた下男に云つた、――『もし女が幽靈なら、旦那はぢきに死ぬにきまつて居る、――だから助けようと思へば、何か非常手段を講ぜねばならない。そしてもし女が幽靈なら、死相が男の顏に現れる。何故と云ふに、死人の魂は陰氣で、生きて居る人の魂は陽氣、一方は積極、一方は消極である。幽靈の花嫁をもつて居る人は生きて居られない。その人の血のうちに百年生きる生命の力が存在してゐても、その力はすぐになくなるに相違ない。……それでも私は萩原樣を助けるためにできるだけの事をしよう。そこで當分この事について誰にも何も云つてはいけない、――君の家内にも。夜の明け次第私は旦那に會ひに行く』

 

       六

 

 翌朝勇齋に問はれた時、新三郞は始めのうちどんな女もその家を訪ねて來た者はないと云はうとした、しかしこんな下手なやり方は駄目と思つたのと、それからこの老人の目的に利己的なところは全然ない事を認めたので、彼は最後に實際起つた事を認めて、この事を祕密にして置きたいと思ふ理由を述べる事にした。飯島のお孃さんについては、できるだけ早く彼の妻にしようと計畫中であると彼は云つた。

『そんな氣ちがひじみた事』餘りの事に驚いて勇齋は癇癪を起して叫んだ。『每晚ここへ來る人達は、あれは死人です。あなたは何か恐ろしい迷にかかつてゐます。……あなたが長い間お露樣が死んだと思つて、念佛を唱へて位牌の前に供物をしたのは何よりの證據です。……死人の唇があなたに觸れたのです、――死人の手があなたを撫でたのです。……丁度今もあなたの顏には死相が現れて居るが――あなたは信じない。……さあ、御願だから、――聞いて下さい、――もし助かりたければ。さうでないとあなたは二十日以内に死にます。その人達は――あなたに下谷區の谷中の三崎に住んで居ると云つたのですね。あなたはいつかそこへ見舞に行つた事があるのですか。勿論ないでせうね。それじや今日行つて、――大急ぎで――その谷中の三崎へ行つて、家をさがして御覽なさい。……』

 烈しい勢で熱心にこの助言を云つてから、白翁堂勇齋は突然歸つた。

 

 新三郞は、成程とは思はないが、びつくりして、少し考へてからこの人相見の助言に隨ふ事に決心した。谷中の三崎へ着いた頃は未だ朝のうち早かつた、そしてお露の家をさがし始めた。彼は町から橫町まで隅から隅へ悉くさがして、門札を悉く讀んだ、それから機會のある每に尋ねて見た。しかしお米の云つたやうな小さい家に似た物は少しも見當らなかつた、それから彼が尋ねた人のうちで、二人の婦人の住んで居る家を知つて居る者は一人もなかつた。最後にもうこれ以上さがしても無駄と分つたので、彼は近路(ちかみち)を通つて家へ歸る事にしたが、その路は偶然新幡隨院のお寺の境内を通り拔けてゐた。

 突然彼の注意は、寺の後ろに相並んで立つて居る二つの新しい墓に引かれた。一つは普通の墓で、身分の賤しい人のために建てられたやうな物であつた、今一つは大きな立派な物であつた、今一つは大きな立派な物であつた。そしてその前に多分盆の時分に置いたままになつて居る綺麗な牡丹燈籠がかかつてゐた。新三郞はお米がもつて來た牡丹燈籠はこれと全く同一である事を思ひ出して、その暗合を變に思つた。彼は又墓を見た、しかし墓には何の說明もない。どちらにも俗名はない、ただ戒名ばかり。それから彼は寺に入つて尋ねようと決心した。彼の質問に對して、執事の僧の答へたところでは、大きい墓はこの頃牛込の旗本飯島平左衞門の娘のために建てられた物、そのとなりの小さい方はその婦人の葬式のあとですぐ悲みのために死んだ女中のお米の物であつた。

 直ちに新三郞の記憶に、お米の言葉が、もう一つの、そして氣味の惡い意味をもつてかへつてきた。――『私達は出まして谷中の三崎で小さい家を見つけましたそこで今少し内職をしてどうかかうか暮らしてゐます……』なる程ここに非常に小さい家がある、――-そして谷中の三崎に。しかし少し内職をしてとは何だらう。

 恐ろしくなつて、武士は大急ぎで勇齋の家に歸つて、相談と助けを願つた。しかし勇齋はこんな場合に何の助けもできないと云つた。彼はただ新幡隨院の高僧良石和尙のところへ、直ちに法の力をもつて助けて貰ふやうに賴んだ手紙がもたせて、新三郞をやるより外はなかつた。

 

       七

 

 高僧良石和尙は博學な聖い人であつた。靈の眼で如何なる悲みの祕密をもさぐり、その源となつて居る惡因緣の性質を知る事ができた。彼は新三郞の話を冷靜に聞いてから云つた、――

『あなたが前の世で犯した過ちのために、今大層大きな危險があなたの身の上にふりかかつで居る。死人とあなたとの惡因緣は非常に强いのだが、そのわけを云つても、あなたには中々分りにくいだらう。それでただこれだけ云つて置かう、――あの死人は憎みのためにあなたに害を加ヘようとは思つてゐない、あなたに對して何の怨みももつてゐない、かへつてあなたに對して、非常に烈しい熱情をもつて居る。多分この少女は今の世のずつと前の世から、――三世も四世も前の世から、あなたを戀ひ慕つてゐたのであらう、それで生れ變る度每に姿や境遇が變つても、あなたのあとを追ひかけて來る事は止まないのだ。それだから、その女の力から逃れる事は中々むづかしい。……しかし今、この力のあるお守りを貸して上げる。それは海音如來と云ふ佛の黃金のお姿だが、――その佛の御法の敎は海の音のやうに全世界中に響くところから來て居る。それでこの小さいお姿は殊に死靈除けになる。これをあなたは袋に入れて帶の下に、からだにつけてお出でなさい。……その上、愚僧はやがてこの迷つて居る魂の成佛するやうに施餓鬼を勤めます。……それからここに「雨寶陀羅尼經」と云ふ貴いお經がある、これをあなたは必ず每晚讀まねばならない。……その上このお札の一包みを上げるから、――家へはひれる[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]ところはどんなに小さくても、皆それぞれ一枚づつ貼りなさい。さうすればその聖い經文の功德で死人は入られない。

 しかし――どんな事があつても――お經を誦む事を止めてはなりません』

 

 新三郞はこの高僧に感謝した、それからそのお守りとお經とお札の一包みを携へて、日沒前に家に歸らうと急いだ。

 

       八

 

 勇齋の忠告と助力によつて、新三郞は家のすき間に日沒前に悉くお札を貼る事ができた。それから人相見は、この靑年を一人殘して、家に歸つた。

 日が暮れたが、暖かく又晴れてゐた。新三郞は戶を固く閉じて、腰に貴いお守りをつけて、蚊帳に入つた、そして行燈のあかりで『雨寶陀羅尼經』を誦み始めた。長い間彼はその意味を少しも理解しないで、その文句だけを誦んでゐた、――それから彼は少し眠らうと試みた。しかし彼の心は未だその日の不思議な事件のために餘りに興奮しすぎてゐた。夜中が過ぎた、それでも少しも眠られない。たうとう八つ時を知らせる傳通院の大きな鐘のボーンと鳴るのを聞いた。

 それが止んだ、そして新三郞は突然例の方向から近づいて來る下駄の音、――しかし今度はもつと徐ろなカラン、コロン、カラン、コロン――を聞いた。突然冷汗が彼の顏に流れた。急いでお經を開いて震へる手で彼はそれを聲高く又誦み出した。足音が段々近くなつた、――生垣に近づいた、――止まつた。その時不思議にも新三郞は蚊帳の中にぢつとして居られなくなつた、彼の恐怖心よりも更に强い物が彼をふり向かせた、それから『雨寶陀羅尼經』を續いて誦む事を止めて、愚かにも彼は雨戶に近づいて、すき間から夜の中を覗いた。家の前にお露が立つて、お米が牡丹燈籠をもつて居るのが見えた、そして二人とも入□の上に貼つてあるお札を眺めてゐた。

 今までこれ程――生前と雖もこれ程――お露が美しく見えた事はなかつた、そして新三郞は殆んど抵抗のできない力で彼女の方へ自分の心が引かれるのを感じた。しかし死の恐怖と不可解の恐怖が彼を押へた、そして彼の心のうちの戀愛と恐怖の爭のために、彼は焦熱地獄の苦しみを體に受けて居る人のやうになつた。

 やがて彼はかう云つて居る女中の聲を聞いた、――

『お孃樣、はひれません。萩原樣は心變りをなさつたに違ひありません。昨夜なさつた約束をお破りになつたのですもの、そして私達を入れないやうに戶を閉ぢてあります。……今夜ははひられません。もう心變りをした人の事なぞ考へない事に決心なさる方が賢いのですよ。あなたに會ひたくない事は確かです。だからそんな不親切な人のために苦勞しない方がましですよ』

 しかし女は泣きながら、答へた、――

『あゝ、あんなに堅い約束をとりかはしたあとでこんな事があらうとは思はなかつた。……男の心と秋の空とよく聞いてゐたけれど、――それでも萩原樣の心が、こんなに私達を本當に入れて下さらない程むごいわけはない。……お米、どうかしてはひる方法はないかね。……さうでないと、どうしても歸る事はいやだから』

 こんな風に、長い袖で顏を隱しながち、續いて賴んだ、――甚だ綺麗に、甚だ哀れに見えたが、新三郞には死の恐怖が强かつた。

 お米は最後に答へた、――

『お孃樣、そんなむごいやうな男の事を、どうしてそんなに氣にかけなさるのです。………さあ、家のうしろからでもはひる事ができないか、行つて見ませう。一緖にお出でなさい』

 それからお露の手を引いて、家のうしろの方へ行つた、そこで二人は焰が吹き消される時光が消えるように、突然消えた。

 

       九

 

 每晚每晚丑の刻に幽靈が來た、每晚新三郞はお露のしのび泣きを聞いた。しかし彼は自分では救はれたと信じたが、――實は彼の召使達の不忠實によつて彼の運命がすでに決定して居る事は少しも想像しなかつた。

 伴藏は勇齋に、これまでの事は決して誰にも云はない約束をしてゐた。しかし伴藏は幽靈のために安眠する事を長くは許されなかつた。每晚お米は彼の家に入つて、彼を起して、主人の家のうしろの甚だ小さい窓の上にあるお札を除く事を彼に賴んだ。そこで伴藏は恐怖の餘り、翌朝までにお札を除く事をその度每に約束した、しかし夜が明けると、それを除く決心がつかなかつた、――新三郞のためにならないと信じたからであつた。たうとう或あらしの夜、お米は叱責の叫びをもつて彼の眠りをさまし、枕もとに立つて云つた、『用心しろ、どうして私達をからかつて居るのか。もし明日の晚までにあのお札を取り去らないと、どんなにお前を憎んで居るか思ひ知らせてやる』それから活して居るうちに非常に恐ろしい顏をして見せたので、伴藏は殆んど恐怖のために死にさうになつた。

 伴藏の妻のおみねは、これまでそんな事は少しも知らなかつた、彼女の夫にも、これは惡夢のやうに思はれたのであつた。今夜に限つて、彼女は不意に目をさまして、誰だか女の聲が伴藏と話して居るのを聞いた。殆んど同時にその話が止んだ、そしておみねがあたりを見ると、行燈のあかりで、――恐怖の爲めに身震ひをして血の氣のない――夫だけが見えた。知らない女はゐない、戶が堅く閉ぢて居る、誰もはひる事は不可能に見えた。それでも妻の嫉妬心は燃え上つた、彼女は伴藏を罵り責め始めたので、伴藏は祕密を打明けて、今自分の立つて居る恐ろしい板挾みの地位を說明せねばならなくなつた。

 そこでおみねの怒りは驚きと不安に變つた、しかし彼女は怜悧[やぶちゃん注:「れいり」。賢く利口なこと。]な女であつた、それで直ちに主人を犧牲にして夫を救ふ方法を思ひついた。彼女は件藏に――死人と妥協する事を勸めて――狡猾な助言を與へた。

 

 彼等は翌晚又丑の刻に末た、彼等の來る音、――カラン、コロン、カラン、コロン――を聞いておみねは隱れた。しかし伴藏は暗がりで彼等に會ひに出かけて行つた、そして妻に云はれた事を云ふだけの勇氣があつた、――

『はい、お叱りを受けるだけの事はございます、――決して御立腹になるやうな事を致したくはございません。お札を取らないわけは、實は家内と私は萩原樣の助けでやうやく暮らして居るやうな次第で、萩原樣に何か災難でもあると私共も不幸になるのでございます。しかし黃金百兩もございましたら、誰からも助けて貰ふ事は要りませんから、御望み通り致しませう。それで百兩頂けたら、私共も生活に困るやうな心配をしないで、お札を取る事ができます』

 これだけ云つたら、お米とお露はしばらく默つて顏を見合せてゐた。それからお米は云つた。

『お孃樣、この人には何も恨みをいだく理由はないのだから、この人に面倒をかけるのはよくないと私申しましたでせう。しかし萩原樣は心變りをしてゐますから、もうかれこれ思うても仕方がありません。お孃樣、もう一度御願ですから、あんな人の事をあきらめて下さい』

 しかしお露は泣きながら、答へた。――

『お米、どんな事があつても、どうしても、思ひ切る事はできません。……お札を取つて貰ふために、百兩手に入れる事はできるでせう。……お米、お願だから、もう一度――たつた一度でいいから、萩原樣にお目にかからせて頂戴』それから袖で顏をかくしながら、彼女はこんな風に口說き續けた。

『まあ、どうしてこんな事を私にせよとおつしやるのですか』お米は答へた。『私お金をもたない事をよく御存じぢやありませんか。しかし私がこれ程申上げても、こんな氣まぐれを是非なさらうと云ふのなら、仕方がないから、どうにかしてそのお金をさがし出して、明晚ここへもつて來ねばなりますまい。……』それから、その不忠實な伴藏に向つて、云つた、――『伴藏、もう一つ云ふ事がある、萩原樣は今からだに海音如來のお守りをつけてゐますが、それがあるうちは近づけません。お札を取つて、それからどうにかして、あのお守りを取つて貰ひたい』

 伴藏は力なく返事した、――

『百兩頂けたら、それもやれませう』

『さあ、お孃樣』お米は云つた、『明晚まで、――待つて下さいね』

『あゝ、お米』お露はすすり泣いた、――『萩原樣に會はないで、又今晚も歸るのかね。あゝ、ひどい』

 それから、女の幽靈は、女中の幽靈に伴はれて去つた。

 

       一〇

 

 又つぎの日が來て、又つぎの夜になつた、それでその夜死者は來た。しかし今度は萩原の家の外に歎きの聲は聞えなかつた。不忠實な下僕は丑の刻にその報酬を見つけて、お札を取除けて置いたからであつた。その上、主人の風呂に入つて居る間に、黃金のお守りを袋から盜んで銅の像を一つ代りに入れて置く事ができた、そして彼は海音如來を淋しい野原に埋めて置いた。それでこの訪問者は何等故障に遇はなかつた。袖で顏をかくしながら、蒸氣のなびくやうに、お札をはぎ取つてある小さい窓から入つた。しかし家の中でこれから何が起つたか、伴藏は決して知らなかつた。

 

 彼が主人の家に近づいて、雨戶をたたかうとしたのは、日が高く上つてからであつた。長年の間に、返事のなかつたのは今度が始めてであつた、それでその沈默が恐ろしかつた。くりかへし、彼は呼んだ、しかし返事はなかつた。それからおみねの手傳を得て、家に入つて寢室へひとりで行つて、そこで呼んだが駄目であつた。彼は光線を入れるために、雨戶をがらがらとあけた、しかし家の中には何の音もしなかつた。たうとう彼は蚊帳の隅をあげて見た。しかし彼がそこを一目見るや否や、恐怖の叫びをあげて、家から逃げ出した。

 新三郞は死んでゐた――恐ろしく死んでゐた、――そして彼の顏はこの上もない苦惱で死んだ人の顏であつた、――それから彼の側に女の骸骨が橫はつてゐた。そしてその腕の骨、手の骨は彼の頸の𢌞りにしつかりからみついてゐた。

 

       一一

 

 占師白翁堂勇齋は不忠實な伴藏の賴みによつて、死骸を見に行つた。老人はそれを見て驚き恐れたが、注意してあたりを見𢌞した。彼はすぐに家のうしろの小さい窓からお札が取除いてある事を認めた、それから新三郞の體をしらべて黃金のお守りがその袋から取られて、その代りに不動の銅像を入れてある事を發見した。彼は伴藏を疑うた、しかし事件は餘りに重大なので、これ以上の行動を取る前に、僧良石と相談する事を安全と考へた。それで、これまでの事實を丁寧に調べた上で、彼は老人の足でできるだけ早く新幡隨院のお寺へ行つた。

 

 良石はこの老人の訪問の自的を聞かないうちに、彼を奧の一室へ誘うた。

『あなたはいつでもここへ御出でなさい』良石は云つた。『どうぞお樂にお坐りなさい。……さて萩原樣も亡くなつてお氣の毒です』

 勇齋は驚いて叫んだ、――

『さうです、亡くなりました、しかしどうして御存じですか』

 僧は答へた、――

『萩原樣は惡い業の結果のために苦しんだのです、それからあの下男は惡人です。萩原樣に起つた事は避けられません、――あの運命はずつと前の世からきまつた事です。もうこの事について、心を惱まさない方が宜しい』

 勇齋は云つた、――

『行の淸い僧は百年さきの事までも分る力が得られると承はつてゐましたが、そんな力の證據を目前に見たのはこれが始めてでございます………しかし、未だ心配な事が一つございますが……』

 良石はさへぎつた、『あの聖いお守り、海音如來の盜まれた事でせう。あの姿は野原に埋めてあります、來年八月中には、見つけられて私のところへ歸つて參ります。それだから心配には及ばない』

 益〻驚いて、老人の人相見は云つて見た、――

『私は陰陽道や占を研究して、人の運を云ひあてて生活を營んで居りますが、あなたがどうしてこんな事を御存じか分りかねます』

 良石は嚴かに答へた、――

『どうして知つて居るか、どうでも宜しい。それよりも萩原樣の葬式についてお話したい。萩原家には勿論、きまつた墓地がある。しかしそこへ葬るのはよくない。飯島のお孃樣お露の側に葬らねばならない、その因緣は非常に深いのだから。それから、あなたは色々の恩義を受けて居るから、費用を出して墓を建てておやりなさい』

 それで新三郞は谷中三崎、新幡隨院の墓地でお露の側に葬られる事になつた。

 ――これで牡丹燈龍の物語の幽靈の話が終る

 

         
       
         

 

 私の友人は私にこの話は興味があつたかどうかと尋ねた、それで私は答へて、-―この作者の研究の地方色(ローカルカラー)がもつとはつきり分るやうに、――新幡隨院の墓地へ行つて見たいと云つた。

『すぐ一緖に參りませう』彼は云つた。『しかし、その人物について、あなたはどうお考へですか』

『西洋風に考へると、新三郞は輕蔑すべきやつです』彼は答へた。『私は心のうちで、私共の物語歌の本當の愛人と比べて見てゐた。その人達は實はクリスト敎信者だから、人間に生を享けるのはたつた一囘しかない事を信じてゐたにも拘らず、非常に喜んで、死んだ戀女と一緖に墓へ行きました。しかし新三郞は――うしろにも、前にも百萬の生命のある事を信じて居る佛敎徒であつた。しかも彼は幽界から彼のところへ歸つて來た女のために、この一つの浮世をさへ捨てる事をしない程利己的であつた。利己的よりも、更に一層臆病であつた。生れも育ちも武士だと云ふのに、幽靈が恐ろしさに坊さんに助けて貰はうとした。どの點から云つてもつまらない男です、あんな者をお露がしめ殺したのは、たしかに當然です』

『日本の見方から云つても、やはり』私の友人は答へた。『新三郞は餘程賤しむべき男です。しかし作者がこんな弱い性格を使はなければ、有效に運んで行かれないやうな事件を發展させるのにこんな人物が役に立つて居るのです。私の考では、この物語のうちで唯一人好きな人物はお米ですね、昔風の忠實な親切な女中の型で、――賢くて、怜悧で、色々の才智があつて、――死ぬまで忠實どころか、死んでからさきまで忠實なのですから。……とにかく新幡隨院へ參りませう』

 私共は、お寺は面白くなく、墓地は恐ろしく荒れはてて居る事を發見した。昔、墓であつた場所は芋畠になつてゐた。その間に墓石が色々の角度で傾いて居る。墓の面の文字はこけで讀めない、臺石ばかり殘つて居るのもある、水鉢はこはれ、佛像の首のないのや手のないのがある。近頃の雨は黑い土にしみ込んで、――ところどころ汚水の溜りができてゐて、その𢌞りには無數の小さい蛙が跳んでゐた。芋畠を除いて――一切の物が何年間も打棄ててあつたらしい。門をすぐ入つたところにある小さい家で、一人の女が何か食事の準備をしてゐた、それで私の同行者は牡丹燈籠にある墓の事を知つて居るかと彼女に聞いて見た。

『あゝ、お露とお米の墓でせう』彼女は微笑しながら、答へた、――『それは寺のうしろの第一の通りの終りに近いところで、――地藏樣のとなりにあります』

 このやうな種類の思ひがけない事に、日本では外にもよく出遇ふ。

 私共は雨水の溜りと新芋の綠のうね、――その根は必ず大勢のお露やお米の髓を食(は)んでゐたに相違ない、――その間を拾ひながら進んだ、――そして私共はたうとう苔蒸した二つの墓についたが、その墓の面(おもて)は殆んど消えてゐた。大きい方の墓の側に、鼻のかけた地藏があつた。

『文字は中々讀めません』私の友人は云つた――『しかしお待ちなさい』……彼は袂から白い紙を一枚取出して、その誌銘の上に置いて、粘土の一片をもつて紙をこすり始めた。さうするうちに、黑ずんで來た表面に、文字が白く現れて來た。

『寶曆六年〔一七五六年〕――三月十一日――子歲、兄、火……これは吉兵衞と云ふ根津のどこかの宿屋の主人の墓らしい。もう一つの方に何が書いてあるか見ませう』

 又新しい紙を一枚取つて、戒名の文句をやがて取つた。そして讀んだ、――

『「圓明院法曜偉貞謙志法尼」……誰か尼さんの墓ですね』

『何だ、ばかばかしい』私は叫んだ。『あの女は本當に私共を馬鹿にして居る』

『それは』私の友人は抗言した、『あなたの方が惡い。あなたは氣分を味ひたくて、ここへ來たのだから、あの女は精々お氣に入るやうに努めたわけです。あなたもこの怪談を本當だとは思つてゐないでせうね』


Botandourouhaka



[やぶちゃん注:底本では、最終行に一字上げインデントで『(田部隆次譯)』、次の行に同じインデントで『A Passional Karma.In Ghostly Japan.)』とある。

 最後に。こうした小泉八雲本人が登場するエンディングは彼の作品によく見られる。例えば、OF A PROMISE BROKEN(私のサイトの原文電子化)がその最たるものではあるのだが(拙訳「破られし約束」及び、同縦書き版もある)、そういう現実の事実はあったかも知れぬが、寧ろ、これは小泉八雲の英語圏読者へのサーヴィスであって、実は元西洋人の遺伝子を受けた小泉八雲の、内なる日本人よりも日本人であった小泉八雲の分身と、彼自身の内的会話を外化したものである、と私は大真面目に思っている。

 最後に、或いは、小泉八雲が別に参考文献とした可能性が頗る高い『夜窓鬼談』上巻にある「牡丹燈」を示す。底本は小泉八雲旧蔵本の富山大学「ヘルン文庫」のそれを視認したが、漢文であるため、その訓点に従って、訓読した。但し、原典は句点のみであるため、適宜、句読点に代えたり、補ったりした。( )は左ルビである。読み難いと判断した箇所には〔 〕で私の推定読みを歴史的仮名遣で補い(送り仮名の一部も施したが、それは〔〕では示していない)、清音の一部を濁音にした(これも指示していない)。また、段落を成形し、記号類も使用した。傍線は底本では右にある。一部に語注を附した。歴史的仮名遣の誤りはママである。因みに、原本には挿絵がある。

   *

      牡丹燈

 享保年間[やぶちゃん注:一七一六年から一七三六年。]、江戸に飯島某有り。數世、幕府に事〔つか〕へ、牛門(うしごめ)[やぶちゃん注:漢字はママ。現在の東京都新宿区牛込附近であろう。]の外に館〔やかた〕す。家、亦、小康[やぶちゃん注:平穏に暮らしていた。]。女、有り、阿露〔おつゆ〕と名づく。窈窕秀弱[やぶちゃん注:美しくしとやかで、見るからにはかなげで。]、風致、衆に勝る[やぶちゃん注:その美しさは如何なる者より頭抜けて美しい。]。年十七、不幸にして母を亡〔なく〕す。父、妾を納〔い〕る。酷〔ひど〕く之れを愛す。妾、性、狡悍[やぶちゃん注:悪賢いこと。]、風波、稍〔やや〕[やぶちゃん注:しばしば。]起る。父、之を厭ひ、阿露をして、柳島[やぶちゃん注:]の別業に居らしむ。時、仲春に屬す。園中の梅花、紅白、萼を放つ[やぶちゃん注:花を咲かせている頃であった。]。

 一日〔いちじつ〕、醫師志丈浪士萩原生〔せい〕を伴ふて、梅を龜井村に觀る。歸途、阿杜露を柳嶋に訪ふ。萩原生、年、亦、弱冠、標致[やぶちゃん注:容貌の美しいこと。]優雅、才藝兼ね備はる。父、歿する後、僕と根岸の里に居る。素より志丈と熟〔あつ〕し[やぶちゃん注:親しい。]。醫と雖ども、實は輕薄の小人、冨豪に阿諛〔あゆ〕して[やぶちゃん注:阿(おも)って]、歡心を待ちて活を謀る者。此の日、生をして、亦。解語の花を觀せしめんと欲するなり。[やぶちゃん注:「解語の花」は美人のこと。玄宗皇帝が楊貴妃を指して言ったとされる「開元天宝遺事」の故事から。「人の言葉を解する美しい花」の意味。]

[やぶちゃん注:「龜井村」当時の江戸市中にはない村名と思う。所持する二〇〇三年春風社刊「夜窓鬼談」(小倉斉・高柴慎治訳注)では『亀井戸村』とする。穏当であろう。]

 阿露、屛に在りて之れを瞰(うかゞ)ふ。生の丰采風度〔ぼうさいふうど〕[やぶちゃん注:姿や態度。]を視て、意、之れを好〔よ〕し[やぶちゃん注:忽ち、好きになってしまった。]、急に婢に命じて、茶菓を供し、又、小酌を薦む。意、志丈、娘子をして萩原生に面(あは)せしめんと欲す。娘子、羞〔しう〕して出でず。强〔しひ〕て手を牽て來る。紅潮、頰に暈し[やぶちゃん注:頬を紅らめ。]、流眄[やぶちゃん注:流し目。]、情を含む。志丈、杯を侑〔すす〕め、應酬、合巹(しうげんのさかづき)[やぶちゃん注:祝言の盃。]の禮のごとし。相偕〔あひとも〕に親昵〔しんぢつ〕[やぶちゃん注:ともに打ち解け。]、遂に期せずして氷を爲す[やぶちゃん注:志丈があたかも月下氷人、仲人(なこうど)のような形になってしまった。]。日、漸く傾く。厚く辭して還る。

 志丈、後の累〔るい〕[やぶちゃん注:(自分に降りかかる)よくないこと。]を慮〔おもんぱか)〕り、或いは其れ穴を鑽(き)り、牆(しやう)を踰〔こゆ〕るの過〔あやまち〕有らんことを恐れ、復た、兩家に到らず。

 生、日夜、阿露を思慕し、屢〔しばしば〕、志丈を招く。志丈、來らず、苦慮百計、其の梯〔てい〕[やぶちゃん注:算段。]を得ること、能はず。

 因循[やぶちゃん注:ぐずぐずして。]、兩三月、寤寐〔ごび〕、忘れず[やぶちゃん注:寝ても覚めても。]、悒然〔いふぜん〕として[やぶちゃん注:憂えふさぎ込んで。]日を送るのみ。

 僕、伴藏〔ともざう〕なる者、其の憂鬱を慰めんと欲し、頻りに遊步を勸む。遂に伴藏を伴ふて、舟を泛〔うか〕べて深川に釣る。

 行々、柳島を過ぎ、將に飯島の莊に近づかんとす。後園の門扉、半ば開くを見る。乃ち、船を繫がしめて、竊〔ひそか〕に園中を覘〔うかが〕ふ。婢、生を見て、喜び走り、告げて曰く、

「娘子、君を待つこと久し。君終に來らず。故を以つて、飯粒、喉(のど)を下らず、病、日に逼(せま)る。身、瘦せ、體、羸(つかれ)て、將に木に就かんとす[やぶちゃん注:意味不明。前記の「夜窓鬼談」(小倉斉・高柴慎治訳注)の訳では『いまや瀕死の状態です』とある。]。請ふ、來〔きたり〕て娘子の病を慰〔い〕せよ。」

と。

 生、驚く。乃ち堂に登る。婢、延〔のべ〕て[やぶちゃん注:奥へと案内して。]帳中に入る。

 娘子、生を見て、且つ、喜び、且つ、泣く。共に衷情を伸〔のべ〕て[やぶちゃん注:ありったけの思いを述べて。]、綢繆[やぶちゃん注:「ちうびう(ちゅうびょう)」。睦み合うこと。馴れ親しむこと。]將に離れざらんとす。

 日、已に昏〔く〕れ、將に歸らんとす。阿露、一香盒(かうがう)を出して曰く、

「是れ、母の遺物なり。秘愛し、身を離さず。今、蓋を君に贈る。冀〔ねがは〕くは、相合〔さうがふ〕の時を待たん。」

と。

 生、之れを視れば、泥金〔でいきん〕[やぶちゃん注:金粉を膠(にかわ)の液で泥のように溶かして細工したもの。]して秋草を畫〔ゑが〕く。精巧、毫末に入る[やぶちゃん注:細部にまで丁寧に作られている。]。生、喜びて之れを懷〔ふところ〕に收む。

 忽ち、人、有り。唐突に室に入り、聲を勵して曰く、

「何者の狡兒〔かうじ〕[やぶちゃん注:悪賢い奴。]ぞ。來〔きたり〕て我娘を辱〔はづかし〕む。速〔すみやか〕に首を延べて我が刀を受けよ。」

と。

 兩人、愕然として、仰ぎ見れば、則ち、父、飯島[やぶちゃん注:傍線はない。]なり。將に刀を揮〔ふるひ〕て生を斬〔きら〕んとす。阿露、生を覆〔かばひ〕て之れを隔てゝ曰く、

「罪、妾〔わらは〕に在り。請ふ、妾を殺せ。」

と。

 父、怒りて直に阿露を斬る。

 生、驚絕、覺へず聲を發す。

 伴藏、傍〔かたはら〕に在りて曰く、

「舟、山谷に來れり。」[やぶちゃん注:「山の谷側に御座います。」。]

と。

 生、蘧然〔きよぜん〕[やぶちゃん注:自ら悟るさま。自得するさま。]として覺むれば、正に是れ、一醉の夢、流汗淋漓(しだゝば)、襯衣(じばん)[やぶちゃん注:和服用の下着。単衣(ひとえ)の短い衣。肌着。じゅばん(襦袢)。ポルトガル語のそれを意味する“gibão”の字音に引かれた発音に漢字を当て字したものとされる。]、皆、濡ふ。

[やぶちゃん注:阿露(おつゆ)逢ったという前段部は彼の見た夢だったのである。舟遊びの船中での白昼夢であったのである(後掲される)。]

 試みに懷中を探れば、金蓋、依然として有り。生、其奇夢を怪しみ、未だ敢て人も告げず。

 偶〔たまたま〕、志丈[やぶちゃん注:傍線はない。]、來〔きた〕る。潛然として告げて曰く、

「娘子、死せり。」

と。

 生、又、駭(おど)ろく。其の故を問ふ。曰く、

「君を思ふ、數月、沈鬱の病を益す[やぶちゃん注:「加わる」の意か。但し、私は「發」の誤字のような気がしてならない。]。縱〔たと〕ひ嚴父に告ぐとも、自ら事の成らざるを知り、藥を去り、食を絕ち、溘然(がいぜん)として[やぶちゃん注:読みはママ。正しくは「こふぜん(こうぜん)」俄かに。]終に亡せり。

 僕、聞きて甚だ悼む。

「請ふ、香華を供へ、冥福を修せよ。君、一勺の水を灑〔そそ〕ぐは、萬僧の讀經に勝れり。」

と。

 生、亦、大〔おほい〕に悲しむ。始めて、舟中の奇夢を悟り、彼〔か〕の香盒の蓋を示す。

 志丈[やぶちゃん注:傍線なし。]、亦、異〔い〕に驚く[やぶちゃん注:原文は「き」であるが、以下、シチュエーションが変わるので、特異的に「く」として、ここで切った。]。

 既にして孟蘭盆會に及ぶ。邦俗、華燈を照らし、蔬果を供し、以つて祖先を祀る。生、亦、家廟に娘子の靈を合祀す。

 時に初秋、暑熱、未だ退かず。窓を開けて涼を納〔い〕れ、嫦娥(つき)[やぶちゃん注:月。「嫦娥(じょうが/こうが)」は、中国神話に登場する神で、后羿(こうげい)の妻。古くは姮娥(こうが)と表記された。「淮南子」の「覧冥訓」によれば、もとは仙女であったが、地上に下りたために不死でなくなり、夫后羿が西王母から貰い受けた不死の薬を盗んで飲み、月(月宮殿)に逃げ、蟾蜍(ひきがえる)になったと伝える。別の話では、后羿が離れ離れになった嫦娥を、より近くで見るため、月に向かって供え物をしたのが「月見」の由来だとも伝える。道教では嫦娥を月神と見做し、「太陰星君」さらに「月宮黄華素曜元精聖後太陰元君」「月宮太陰皇君孝道明王」と呼び、中秋節に祀っている(以上はウィキの「嫦娥」に拠った)。]、雲に隱るを恨む。獨り空庭に對して、悵然〔ちやうぜん〕[やぶちゃん注:悲しみ嘆くさま。がっかりして打ちひしがれるさま。]として、寢ること、能はず。

 忽ち、牆外〔しやうがい〕[やぶちゃん注:垣根の外。]、履聲(げたのこへ)の來〔きた〕るを聞く。

 生、意に之れを訝〔いぶか〕る。竊かに牆隙〔しやうげき〕より之れを視れば、飯嶋氏の婢、牡丹花の繡燈〔しふとう〕[やぶちゃん注:牡丹の花を縫いとりした燈籠。]を携へて、冉冉〔ぜんぜん〕[やぶちゃん注:しだいに進んで来るさま。]として娘子と與〔とも〕に來〔きた〕る。

 生、見て大に喜ぶ。匇匇〔そうそう〕[やぶちゃん注:急いで。]、門を開きて之れを邀〔むか〕ふ。其の來る所以を問はば、婢、曰く、

「阿娘、君に逢ふの後、戀戀として、誼(わす)るゝこと[やぶちゃん注:不審。「忘る」であろうが、「誼」にそのような意味はない。「親(よ)しみ」の意に当て訓したものか。]、能はず、竟〔つひ〕に病を爲す。父、之れを憂へ、將に壻〔むこ〕を擇んで、嗣〔し〕を定めんとす。阿娘、之れを厭ひ、懊惱(わやみわづろう)、置くこと、能はず。偶〔たまたま〕、志丈、來〔きた〕りて謂ふ。『君、病を以て死す』と。阿娘、悲傷、髮を剃りて尼と爲らん欲す。妾、苦諫[やぶちゃん注:強く諌め。]、遂に柳島の莊を脫して、潛かに谷中に來り、僅に茅屋を借りて僦居〔しうきよ〕[やぶちゃん注:借家住まいすること。]す。今夜、貴館に來るは、君の靈牌を拜せんと欲するなり。

 生、曰く、

志丈、亦、謂ふ、『阿娘の病を以つて亡す』と。何ぞ其れ、僞れるや。」

と。

 遂に相伴ふて室に入る。婢を別室に臥せしめ、二人、再會を喜び、共に歡好を極む。

 鷄鳴、戶を開きて之れを送る。此〔かく〕のごとくすること、連夜、綢繆〔ちうびう〕、愈〔いよい〕よ堅し。

 伴藏、牆〔かきね〕を隔〔へだて〕て室を構ふ。竊に、生の房、夜夜、笑語の聲有るを怪しむ。牆を穿〔うがち〕て之れを覘ふ。

 兩婦人、有り。生と相※戲す[やぶちゃん注:「※」=「女」+「棄」。読みも意味も不明。先の現代語訳では、『親しげに戯れ合っている』とある。]。其の形、模糊として烟霧のごとく、生、人に非ざるに似たり。伴藏、大に怪しむ。

 之れを隣家の白翁〔はくをう〕なる者に告ぐ。白翁[やぶちゃん注:傍線なし。]、鑒相〔かんさう〕[やぶちゃん注:先の訳本では『人相観』とある。人相見(にんそうみ)。]の術を以つて業〔なりはひ〕と爲す。生と甚だ親しむ。

 明朝、生を訪〔おとな〕ふ。

 生の血色、常ならざるを視て、大に驚きて曰く、

「君、生氣、大に衰へ、邪氣、身に纏(まと)ふ。恐らくは「鬼〔き〕」の爲めに憑らるる者[やぶちゃん注:「憑らるる」は読み不詳。「とりつからるる」か。]。聞く、夜夜、來客、有り。必ず、生人〔しやうじん〕に非ず。終に君の命を奪はん。宜〔すべから〕く遽〔すみやか〕に之れを避くべし。」

と。

 生、曰く、

「是れ、飯島氏の娘子〔むすめご〕。今、谷中に在り。夜夜、婢と共に來〔きた〕る。固より、鬼に非ず。」

と。

 白翁、曰く、

「試みに谷中に之〔ゆ〕きて之れを尋ねよ。恐らくは、其の人、無からん。」

と。

 生、往きて、之れを索〔もと〕む。果して、有ること無し。

 歸途、新幡隨院の墓所を過ぐ。

 新塚、有り。牡丹の繡燈を掛く。婢の携ふる所と相同じ。

 因〔より〕て、之れを寺僧に問ふ。曰く、

「飯島氏娘子の塚なり。生、始めて駭く。乃ち、白翁に告げて、之れを避〔さく〕るの法を請ふ。

 白翁、曰く、

「我〔わが〕力、能はざるなり。聞く、良石和は當世の碩德〔せきとく〕[やぶちゃん注:広大な徳のある人のこと。]、子、往きて、之れを問へ。」

と、乃ち、簡(てがみ)を折りて、之れを授く。

 生、和尙に謁して、實〔まこと〕を告ぐ。懇〔ねんごろ〕に其の鬼を避ることを請ふ。

 和尙、曰く、

「是れ、前世の宿因、一朝の故に非ざるなり[やぶちゃん注:一朝一夕に起きた偶発のものではない。]。凝魂纏綿、世世、釋〔と〕けず[やぶちゃん注:輪廻転生しても消え去ることはない。]。世を換へ、所を異にすると雖ども、免るゝこと、能はず。但し、佛の擁護を得ば、或いは、今世を全〔まつと〕ふすることを得ん。宜〔よろ〕しく、佛を念じ、經を誦すべし。」

と、則ち、符[やぶちゃん注:呪符。]を書して、之れを授けて、曰く、

「宜しく諸〔これ〕を窻戶〔さうと〕に糊貼すべし。必ず、幽鬼を避けん。生、拜謝して歸る。敎のごとく、之れを貼〔てん〕ず。

 其夜、二更[やぶちゃん注:およそ現在の午後九時又は午後十時からの二時間。]、又、履聲〔げたのこゑ〕を聞く。

 生、竊かに戶隙〔とのすきま〕より之れを覘ふ。

 婢の曰く、

「君の心變あり。戸を閉〔とざし〕て容〔い〕れず。何ぞ、其れ、薄情なるや。」

と。

 阿露、泣きて曰く、

「已に約を堅む。何ぞ遽〔にはか〕に背くや。是れ、必ず、人の爲めに纔せらるるなり[やぶちゃん注:「纔」は読み不明。思うに、「事実でないことを言って他人を陥れる」の意の「讒(ざん)」の誤字ではなかろうか。先の現代語訳でもそのように訳されてある。]。」

と、戶を繞〔めぐり〕て徘徊す。

 遂に悲號して、去る。

 其夜、二鬼、伴藏の宅に至り、懇〔えんごろ〕に靈符を除〔じよ〕せんことを、請ふ。

 伴藏、恐怖、言を接すること、能はず[やぶちゃん注:叫び声を挙げることさえ出来ず]、唯唯〔ただただ〕、之れを諾す。期するに[やぶちゃん注:約束するに際して。]、翌夜〔あくるよ〕を以てす。

 伴藏、おもへらく、

『除せずんば、二鬼、又、來らん。」

と、已むことを得ず、遂に之れを除〔のぞ〕く。

 其夜、二鬼、又、生の室に入る。

 明朝、伴藏、白翁に告ぐ。白翁、之れを憂ひ、伴藏と生を訪ふ。

 生、未だ起きず。

 室を開けば、生、已に死せり。

[やぶちゃん注:以下の石川の注記的記載は底本では全体が一字下げである。]

 此れ、圓朝氏の談ずる所〔とこ〕ろ。尙ほ、飯島氏の僕孝助の忠心及び伴藏の姦惡・其妻の橫死、怪を爲す等の事、有り。枝葉に涉るを以つて之れを畧す。此の事、甞つて、土佐某氏の畫く所の橫卷に觀る[やぶちゃん注:「橫卷」は絵巻のこと。]。畫間、和文を以つて之れを錄す。然れども、生、死の後、皆、之れを省く[やぶちゃん注:その絵巻では萩原の死後の出来事は省かれていた。]。孝助の復讎、伴藏賊を爲す等の事、恐くは圓朝氏の蛇足を添〔そふ〕るなり。

   *

 なお、最後に言っておくと、第一書房「家庭版小泉八雲全集」第七巻(昭和一一(一九三六)年十一月刊)の田部隆次氏の「あとがき」には、『ヘルンは菊五郞の芝居を見たやうに書いて居るが、實際東京では時間を惜しんで芝居を見た事はなかつた。しかし夫人と共に團子坂から新幡隨院を車で訪うて、この編の終りに書いたやうな事件を經驗したのであつた』と断言なさっておられる。最後のサゲで小泉八雲先生に騙されていたという……お後がよろしいようで……]

2019/08/27

小泉八雲 因果話 (田部隆次訳)

 

[やぶちゃん注:本作(原題も“INGWA-BANASHI”)は明治三二(一八九九)年にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE, BROWN COMPANY)から出版された作品集“IN GHOSTLY JAPAN”」(「霊的なる日本にて」:来日後の第六作品集)の二番目に配された作品である。同作の原文は、「Internet Archive」のこちらから原本当該作画像が、活字化されたものは「The Project Gutenberg」のここの“Ingwa-banashi”で読める。

 底本は、サイト「しみじみと朗読に聴き入りたい」の別館内のこちらにある、昭和二五(一九五〇)年新潮文庫刊の古谷綱武編「小泉八雲集 下巻」の田部隆次氏の訳の「振袖」(PDF)を視認した。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 一部と最後に私の注を附した。]

 

 

    因  果  話

 

 大名の奧方の病が重くなつて危篤にせまつてゐた、そして奧方は自分でも危篤にせまつて居る事を承知してゐた。文政十年の秋の始めから床を離れる事はできなかつた。今は文政十二年――西洋の數へ方では一八二九年――の四月であつた。櫻の花が開いてゐた。彼女は庭の櫻の花と陽氣な春の事を考へた。彼女は子供の事を考へた。彼女は夫の色々の側室の事――殊に十九歲の雪子の事を考へた。

[やぶちゃん注:「四月」これは英語圏読者向けに合わせたもののようにも見えるが(文政十二年の四月一日はグレゴリオ暦で五月三日に当たる)、近畿などでも八重桜(本文に後出)などは四月中旬に満開を迎えるから、ロケーションが東日本ならば、不審ではない。]

 大名は云つた、『わが妻、この三年の長い間の御身の病氣、さぞ苦しかつたであらう。御身を直すために、――夜晝御身の側で看護をなし、御身のために祈り、又御身のために斷食までもして――あらん限りをつくして居る。しかしその心づくしのかひもなく、最も良い醫師達の配劑のかひもなく、御身の命脈も今甚だ心細くなつて居る。御身が佛の云はれたこの三界の火宅を去つて行かれる事は御身よりも自分等の方がどれ程悲しいか分らない。自分は御身の後生の冥福を祈るために、どんな佛事をも――費用を惜まず――行ひます、又自分等は御身の魂の中有に迷はず、直ちに極樂淨土に赴いて佛果を得るやうにたえず祈ります』

[やぶちゃん注:「中有」「ちゆうう(ちゅうう)」と読み、「中陰」に同じ。仏教で、死んでから、次の生を受けるまでの中間期に於ける存在及びその漂っている時空間を指す。サンスクリット語の「アンタラー・ババ」の漢訳。「有(う)」・「陰(いん)」ともに「存在」の意。仏教では輪廻の思想に関連して、生物の存在様式の一サイクルを四段階の「四有(しう)」、「中有」・「生有(しょうう)」・「本有(ほんぬ)」・「死有(しう)」に分け、この内、「生有」は謂わば「受精の瞬間」、「死有」は「死の瞬間」であり、「本有」はいわゆる当該道での「仮の存在としての一生」を、「中有」は「死有」と「生有」の中間の存在時空を指す。中有は七日刻みで七段階に分かれ、各段階の最終時に「生有」に至る機会があり、遅くとも、七七日(なななぬか)=四十九日までには、総ての生物が「生有」に至るとされている。遺族はこの間、七日目ごとに供養を行い、四十九日目には「満中陰」の法事を行うことを義務付けられている。なお、四十九日という時間は、死体の腐敗しきる期間に関連するものとみられている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 彼はその間彼女を撫でさすりながら、この上もなくやさしく云つた。その時、眼を閉ぢたままで、彼女は蟲のやうな細い聲で、彼に答へた、――

『御親切なお言葉――有難うございます――本當に有難うございます。……はい、全く仰せの通り、私三年の長い間病氣でした、そしてこの上もない御世話と御親切に預かりました。……この最期に臨んで何の迷をいたしませう。……今となつて浮世の事に心を殘すのもまちがひかも分りませんが、――私一つ、たつた一つ、御願がございます。……ここへあの雪子を呼んで下さい、――御承知の通り私雪子を妹のやうに可愛がつて居ります。私あとあとの事色々話して置きたうございます』

 

 雪子は大名の命によつてそこへ現れた、それから彼からの合圖に從つて、床の側に跪いた。奧方は眼を開いて、雪子を見て、云つた、――

『あゝ雪子か。……よく來てくれたね。……私は大きな聲が出ないから、よく聞えるやうに――もう少し近くへ進んでおくれ。……雪子、私もう死にます。そなたはこれから、あの殿樣を萬事につけて御大切に御世話を申上げて、――私の亡きあとには私の代りになつて貰ひたい。……そしていつまでも御寵愛を受けて、――さうです、私の百倍も御寵愛を受けて、――やがて昇進して奧方におなりなさいよ。……そしていつでも殿樣を大事にして他人に寵を奪はれないやうになさいよ。……雪子さん、これが御身に云ひたかつた事です。……分りましたか』

『あゝ、それは又物體ない御言葉。御存じのやうな私風情の貧しい賤しい生れの者が、――奧方にならうなどとはとんでもない事でございます』雪子は抗言した。

『いや、いや、今遠慮や他人行儀を云つて居る時ではない、お互に本當の事だけを云ひませう』奧方はかすれた聲で答へた。『私が死んだら、そなたは必ずよい地位に昇進するであらう、そして今又たしかに云うて置くが、私はそなたが奧方になるやうにと願つて居ります、――さうです、私が成佛する事よりもこの事をもつと願つて居ります。……あゝ、忘れようとしてゐた、――雪子、私の願を一つ聞入れておくれ。そなたの知つての通り、庭に一昨年、大和の吉野山から取寄せた八重櫻があります。それが今滿開であると聞いて居る、――それで私その花を見たい。もうぢきに私は死ぬが、――死ぬ前にその花を見たい。私を庭へ、――雪子、すぐに、――その花の見えるやうに連れて行つて貰ひたい。……さあ、背中に、雪子、――おぶつておくれ。……』

 

 かう云つて居るうちに、彼女の聲は段々はつきり强くなつて來た、――丁度その願の强さのために新しい力が出て來たやうであつた、それから不意に彼女は泣き出した。雪子はどうしてよいか分らないから、動かないで跪いてゐた、しかし大名は承諾の意味の合圖をした。

 彼は云つた、『これはこの世の最後の願だ。彼女はいつでも櫻の花が好きであつた、それでその吉野の花をさぞ見たいだらうと察する。さあ雪子、望み通りに致してやれよ』

 子供にとりつかせるために、乳母が背中を向けるやうに、雪子は奧方に彼女の肩を向けて云つた、――

『用意を致して居りますから、どう致してよいか御指圖を遊ばして下さい』

『あゝ、こちらへ』――瀕死の女は答へて、殆ど超人間的努力で立上つて雪子の肩にしがみついた。しかし雪子が立つた時、彼女は頸筋から、着物の下へ、彼の細い手をすばやく差し込んで、この少女の乳房をつかんで、物すごい笑を高く上げた。

『思ひが叶つた』彼女が叫んだ――『私は櫻の花に心が殘つた、――庭の櫻の花ではない。……私の願の叶ふまでは死にきれなかつた。今それが叶つた、――あゝ嬉しい』

 それからさう云つたまま、蹲(うづくま)つて居る少女に倒れかかつて、息は絕えた。

 

 侍者達は直ちに雪子の肩から、その死體を取つて床の上に置かうとした。ところが――不思議にも――この見たところ何でもない事ができなかつた。その冷い手が少女の乳房に何か說明のできないやうな風に固着してゐた、――その生きた肉となつてしまつたやうに見えた。雪子は恐怖と苦痛のために知覺を失つた。

 醫者は呼ばれた。彼等にはどうなつたのか合點が行かなかつた。普通の手段では、死んだ人の手は彼女の犧牲の肉體から離す事ができなかつた、――離さうとすると血が出る程に固着してゐた。これは指がつかんで居るからではなかつた、それは掌の肉が乳房の肉と說明のできないやうに結合してゐたからであつた。

 

 その當時、江戸の最も熟練なる醫者は外國人――オランダの外科醫――であつた。その人を呼ぶ事にきまつた。丁寧に調べたあとで、彼はこんな患者の例は知らないと云つた、それから雪子を直ちに救ふためには、死體から兩手を切斷するより外に方法はないと云つた。乳房から手を離さうとする事は危險であると斷言した。その忠告は用ひられて、兩手は手首から切斷された。しかし手は乳房に固着したままになつた、やがてそこで黑くなつてしなびた、――長く死んだ人の手のやうに。

 

 しかしこれは恐ろしさのただ始まりであつた。

 しなびて血のないやうに見えてゐながら、その手は死んでゐなかつた。時々――そつと、大きな灰色の蜘蛛のやうに――動き出す。そしてそれから每晚――いつでも丑の刻から――つかんで、締めて、責め始める。寅の刻になつてやうやくその苦痛が止む。

 雪子は剃髮して巡禮の尼になつて、脫雪と名を改めた。彼女は彼の亡くなつた奧方の戒名、――妙香院殿知山涼風大姊、――のある位牌を造らせて、每日その前に赦しを願つて、その嫉妬の心の止むやうに囘向した。しかしこんな苦痛の源となつて居る因果は中々に消滅はしなかつた。每晚丑の刻になると、その手はきまつて彼女に責苦を與ヘた、――彼女が下野の國河内郡田中村の野口傳五左衞門と云ふ人の家に泊つた時、最後にこの話を聞いた人達の證言によれば、――それがもう十七年以上にもなる。それが弘化三年(一八四六年)であつた。この尼のその後の話は分らない。

[やぶちゃん注:底本では、最終行に一字上げインデントで『(田部隆次譯)』、次の行に同じインデントで『Ingwa-Banashi.In Ghostly Japan)』とある。

「下野の國河内郡田中村」現在の栃木県下野市薬師寺附近である(グーグル・マップ・データ)。

 本作は「耳囊」(旗本で南町奉行であった根岸鎮衛が天明(元年は一七八一年)から文化(元年は一八〇四年。根岸は文化一二(一八一五)年十一月没)にかけて三十余年間に亙って死の直前まで書き継いだ随筆。全電子化訳注済み)の中でも私が最も偏愛する一篇「卷之九 不思議の尼懴解物語の事」の話とコンセプトがほぼ同じであるから、それが小泉八雲の素材の一つであることは疑いようがない。「耳囊」の同篇は、教師時代に、オリジナルな古文教材として教案を作り、サイトで「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」の第三話として授業案(訳・語注・考証附き)を公開もしているので、是非、お読みあれかし。

 なお、講談社学術文庫一九九〇年刊小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」では、本作の原拠を講談師初代松林亭伯圓(しょうりんていはくえん 文化九(一八一二)年~安政二(一八五五)年:或いは単に「松林(まつばやし)」とも称した)の語った「百物語」の第十四席(全三回)とする。確かに旧蔵本には町田宗七編「百物語」(東京・明治二七(一八九四)年刊)があり、「富山大学附属図書館所蔵 ヘルン(小泉八雲)文庫目録」にも載り(2285番)、そこで『注:ハーン作品の底本となったもの』『第14席 松林伯円が語った話 ― 「因果話」』とある。但し、ネットでは「ヘルン文庫」の公開分にそれは含まれていない【以下、底本を変更したので、一部を削除線で削除した。但し、後に示す原拠への手入れは以下と同じ仕儀に則ったので少し書き変えて残した。】同作を平川氏の「怪談・奇談」に載るものを恣意的に概ね漢字を正字化して以下に示す。但し、読みは振れそうなもののみのパラルビとした。但し、句読点がなく、若い読者には非常に読み難いであろうからして、私が恣意的に適宜、句読点を打ち、記号を挿入し、全文ベタで行頭からあるものを、適宜、段落を成形した。読みの歴史的仮名遣の誤り等は底本のママである。踊り字「〱」は正字化した。第二回以降には展開の効果上からダッシュとリーダも用いた。【1019年11月6日:改稿】今回、小泉八雲が原拠としたものと同一の出版物と考えて間違いない「百物語」を国立国会図書館デジタルコレクションで発見したので、それで新ためて校合し、加えるべき修正を施した。但し、出版年も出版社及び編輯・発行・印刷者は確かに町田宗七であるが、以上の書誌にない著者が示されており、「条野採菊」著とする(但し、画像のどこにもそれは書かれてはいない。しかし国立国会図書館がかく書誌する以上、本作の真の編著者は彼と採って間違いあるまい)。ウィキの「条野採菊」によれば、条野採菊(じょうのさいぎく 天保三(一八三二)年~明治三五(一九〇二)年)は幕末から明治中期の東京の戯作者・ジャーナリスト・実業家・作家・劇評家。本名は条野伝平。号に山々亭有人(さんさんていありんど)・採菊散人・朧月亭・朧月亭有人・弄月亭有人など。何よりも画家鏑木清方の実父である。しかも彼は明治二五(一八九二)年十一月に、『三遊亭円朝・五代目尾上菊五郎・三遊亭円遊・田村成義らを集めて、百物語を主宰した』とあり、「小泉八雲 貉 (戸川明三訳) 附・原拠「百物語」第三十三席(御山苔松・話)」の注で述べた通り、上記「貉」の原拠でもある上記「百物語」は明治二五(一八九二)年十一月に浅草の料亭「奧山閣」で催された百物語の会での話が原話とする記載と、「百物語の会」と完全に一致するので、最早、間違いはないのである。なお、当該話の画像はここからである。

   *

 

    第十四席    松林伯圓

     第一回

 諸君のお咄ハ實錄にて、しかも、面白い事許り。其中へ、小生の話は、何か、昔の草双紙(くさざうし)めくとお笑ひも有りませうが、是れは全くの事實にて、いさゝかも小生(わたくし)が見て來たやうな虛(うそ)では有りません。扨、長(なが)口上は御退屈、早速、本文(ほんもん)を說出(ときだ)します。

 今は昔し、下野(しもふさの[やぶちゃん注:ママ。])國河内郡(かはちごほり)藥師寺と申所は日光東街道として舊蹟の多い所で有り、當所の隆行寺(りうかうじ)と云ふ寺には引削(ゆげ)[やぶちゃん注:ママ。「弓削」が普通。]の道鏡の古墳が有ります。其他(そのた)、千年餘(よ)の寳物抔(など)もあり、太古をしたふ人は、今も杖をとどめて、古墳を探します。

 夫れはさて置き、此藥師寺驛の東に田中村と申所がありまして、此村の豪士に野口傳五左衞門と云(いふ)舊家は、則ち、小生(わたくし)伯圓が實の姉(あね)が嫁したる家にて、只今は姉も亡き人に成りましたゆゑ、一ト年(とし)、小生も墓參(ぼさん)の爲、筑波山の見物をかけて、下野(しもふさ[やぶちゃん注:ママ。])・常陸の地方へ旅行致し、彼の野口の家に滯在して、一ツの怪談を聞出升(きゝだしまし)た。

 弘化三年[やぶちゃん注:一八四六年。]秋の末に、此家(このいへ)へ、或日の夕景(ゆふけい)に、年頃(としごろ)三十七、八とも見ゆる、人物のよろしい比丘尼(びくに)が訪ね來りて、

「わたくしは諸國の靈場巡拜の尼で有りますが、今日は餘程の道にて、勞(つか)れ、殊に、少々、病(やまひ)が起り、誠に難義で有りますゆゑ、何卒(どうぞ)、一夜(や)の御宿(おやど)を願ひます。御大家(おたいけ)を見込みてのおねがひ、けつして、不足は申ませねば、物置小屋にてもくるしからず。」

と申ますゆゑ、早速、小者が奧へ取次(とりつぐ)と、主人の野口は慈善家故、

「其ハ何より御安い事だ。サアサア、上へお通りなさい。」

と、小者や下女に申附(つけ)、丁寧に世話をなし、奧の離れ室(しつ)へ招持し、やがて、夕飯をすゝめたるに、漸(やうや)く一椀を食し、又、浴室へ案内せんとせしに、尼は、

「イエイエ、お湯は御免を蒙ります。」

と、やがて、風呂敷包より經卷を出して、靜かに讀經の外(ほか)餘念無き有さまに、主人ハ、

『奧ゆかしき尼御前(あまごぜ)。』

と心に敬ひ、其室(しつ)へ出で來り、四方山(よもやま)の物語の末に、

「尼御前は、御(お)言葉も江戶の樣子、殊に昔は左(さ)こそと思はるゝ美人の末(すゑ)、すべて高尙なる其(その)風情、失禮ながら、由(よし)有る方の果(はて)と愚案しますが、若(も)し苦しからずば、御身の上のお咄(はなし)を御聞せ被成(なすつ)ては如何でござります。」

と尋ねに、尼は、しとやかに、

「御深切なる御尋ね、去りながら、子細の有りて、身の上咄(はなし)もする事ならず、御主人の推量の如く、江戸に產れて或大諸侯に召仕(めしつかは)れ、何不自由無く年月を送りましたが、今を去る十八年前、廿年(はたち)の時より出家して、見る影も無き乞食尼(こじきあま)、死ぬにも死なれぬ此身の罪業(ざいごふ)、せめてハ諸國の靈塲を、夫(それ)から夫れと巡拜して、所(とこ)ろ定めぬ捨小舟(すてをぶね)、憂きに漂ふ尼なれば、語つて益無き身の來歷、是れにて御免下されたし。」

と、打しほれたる容貌(かんばせ)に、主人は强ひて問ひもせず、

「お休み有れ。」

と會釋して、納戶の方(かた)へ立歸る。

 其夜もいたく更行(ふけゆ)きて、頃しも秋の末なれば、風に數散(かずち)る木の葉の、

「バラバラ。」

と、音も哀れに、山寺の鐘ハ四更(かう)[やぶちゃん注:現在の午前一時又は二時からの二時間。丑の刻。]を告(つぐ)る頃、遙かに聞ゆる奧の一室(ま)、彼(か)の旅尼(たびあま)が、最(いと)悲しげなる、蟲よりも細き聲にて、

「南無阿彌陀佛、〻〻〻〻〻〻。」

と、次第に苦しき念佛の聲は消えたり、又ハ聞え、斯くの如く數囘(すくわい)なれば、主人を始め、眠りを覺(さま)し、家内(かない)の者も、二、三人、『不思儀な尼が念佛の非常の苦聲(くせい)は故こそあらめ』と云ひ合さねど、離れ家(や)の障子の蔭に忍び來(き)て、中(うち)のやうすを窺ふとハ、夢にも知らぬ旅尼が、正面の床の間に旅行李(たびかうり)を置き、其上へ、小サキ位碑をかざり、其身は殊勝に墨染衣(すみぞめのころも)、珠數を手にかけ、

「南無阿彌陀佛、々々々々。」

ト、又もや佛名を唱へて居りました。

 

       第二回

 

 尼は又もや苦しき聲を押へて、「南無阿彌陀佛」も苦痛の体(てい)、暫時(しばらく)有つて、尼は、やうやう胸を押(おさ)へ、苦しき息を、

「ホツ。」

と、吐(つ)き、

「もうし、奧樣、イヤ、ナニ、『妙香院殿知山(ちやま)凉風大姉』尊靈よ、夫程、憎しと思召(おぼしめ)す私の此身体(からだ)、ナゼ、早く、冥途へは引寄せて下さらぬぞ。十八年の永の月日、行方(ゆくへ)定めぬ旅枕、あらゆる靈塲を尋ね、最(いと)も尊(たふと)き御佛(みほとけ)を禮拜(れいはい)なすも、私(わたくし)の罪消(ざいしやう)のみを祈るに非らず、せめて、貴孃(あなた)の後世(ごせい)安樂御成佛遊ばす樣と、世に望み無き尼が身は、朝暮(あさくれ)、忘れぬ『普門品(ふもんぼん)』女人解脫(によじんげだつ)を御佛へ願ひまゐらす甲斐も無く、此身を苦しめ玉ふのは、餘りと申せば、貴孃(あなた)より、私が、お恨み申まする。モウ、能(よ)い加減に許してたべ。御勘忍遊ばしませ。」

と、誰(たれ)に語るか訴ふるか、尼が苦痛の念佛の間(あひだ)に掻口說(かきくどき)たる言葉のはしはし、障子の蔭に聞居(きゝゐ)る人々、理由(わけ)は知らねど、怖氣立(こわげだ)ち、思はず、

「アツ。」

と、聲を立(たつ)れば、尼は驚き、衣紋(えもん)を繕ひ、手早く位牌を行李に納む。

[やぶちゃん注:「普門品」「法華経」第二十五品「観世音菩薩普門品」のこと。仏教では釈迦の教え以来、女性は如何に修行しても男に一度生まれ変わらなければ往生は出来なとする「変生男子(へんじょうなんし)」が説かれて、著しい女性差別が支配的である。しかし、「法華経」の「普門品」ではなく、その二つ前の第二十三の「薬王菩薩本事品」(薬王菩薩は過去世に於いて一切衆生喜見菩薩(皆が見るのを喜ぶ修行者の意)という美男の菩薩であったが、「法華経」を供養するため、自らの体に香油を塗り、自ら身に火を放って身を灯明とし供養した(「焼身供養」と呼ぶ)とされる捨身行の菩薩である。而して、ここにはまた、「もし、女人あって、是の経典を聞いて説のごとく修行するならば、此こに於いて命終し、即ち、安楽世界の阿弥陀如来の大菩薩衆の囲繞(いにょう)せる住処(すみか)に往き、蓮華の中の宝座の上に生ぜん」と女人往生を説いている(ここは一部をサイト「仏教ウェブ入門講座」の「法華経とは」に拠った)。そもそも阿弥陀如来はその修行時代の第十八誓願に於いて、総ての衆生を極楽往生させない限り、如来にはならない、と言っている以上、女性だろうが、如何なる生物であろうが、極楽往生は決定(けつじょう)しているのであるから、変生男子説は無効であると私は勝手に思っている。]

 主人野口を始め、家内四人が一間へ這入(はい)れば、愈々、尼は恥しむ。

 其有樣に、主人は、聲かけ、

「イヤイヤ、決して心配に及ばず。お宿(やど)を申した其時から、宵にいろいろ御樣子を伺ひましても、何事もお隱し被成(なさ)るゝ尼御(あまご)の素性(すぜう)、理由(わけ)有る事と其儘に、納戶(なんど)の中(うち)で眠られず、丑滿頃から奧の間の、苦しき聲の御(お)念佛、家内(かない)の眼(め)を覺(さま)し、餘りの不思議に、失禮ながら、一間の中(なか)を伺へば、最前よりの此(この)体裁(ていさい)、何か仔細が無くてはならぬ。尼御前よ、モウ、隱すにも及びますまい。懺侮に罪も消(きえ)るとやら。お物語り、成被(なさ)ませ。」

と、主人の言葉に、家内も共々、

「尼が來歷、聞きたし。」

と、問詰(とひつ)められて、旅尼(たびあま)は漸々(やうやう)重き顏を揚げ[やぶちゃん注:底本「け」であるが、濁点を打った。]、

「今迄、丁度、十八年、深くも包む因果咄(いんぐわばなし)、御主人始め、皆さんがお進めに、默止難(もだしがた)く、淺間(あさま)しくも、又、恥かしく、又た、恐ろしい此身の素性(すぜう)、お咄し申す。其前に、一寸(ちよつと)、御目に掛(かけ)る物、あり。是れぞ、今年で十八年、夜(よ)の丑滿の時分になると、私しの胸を責(せめ)惱ます其種(そのたね)は、是れ、此通りの物なり。」

と、――尼が――諸肌――押脫(おしぬげ)ば――

――コハ

――抑(そも)如何に

――コハ

――如何に

――尼が乳房(ちぶさ)の左右の上より

――乾(ほ)しかためたる如くに見ゆる

――二本の腕

――白骨(はくこつ)にもならず

――肉皮(にくかは)も其儘

――爪も生(はへ)たる形(かた)ちさながら

――細大根(ほそだいこん)の如く

――其色

――靑黑(あをくろ)にして死物(しぶつ)の如く

――活物(くわつぶつ)の如く

野口傳五左衞門始め、悴(せがれ)も、嫁――卽ち――伯圓の實姊(じつし)――も、只、茫然と見詰(みつめ)たり。

 尼ハ、やうやう泪(なみだ)を拂ひ、

「サ、是よりは此腕(このかひな)のお咄し、事長(ことなが)くとも、聞いてたべ。」

と、語り出しまする物語りは、左(さ)の通りでございます。

[やぶちゃん注:以下底本では、「第二回」の最後までは全体が一字下げである。一種の義太夫節の前振り(プレ梗概)を圧縮したのである。]

……明治廿七年を去(さ)る事、殆んど六十六年前頃ハ文政十年[やぶちゃん注:一八二七年。]の頃、東國にて大掾(だいぜう)[やぶちゃん注:本来は国司の三等官。ここは単に大きな領地。]を領し玉ふ大諸侯あり。奧方の外に愛妾(あいせう)二人、公達(きんだち)・姬君も多くありて、能く家政を修め玉へば、江戸・國共(くにもと)[やぶちゃん注:「共」はママ。]に平安無事、誠に目出度(めでたき)君(きみ)にぞまします。然るに、文政十年の頃より、奧方は假初(かりそめ)の病(やまひ)の爲に臥(ふし)玉ふに、次第に重き症(せう)となり、今は早や、賴み少なくなり玉へば、主公(しゆこう)を始め、一家中、俄に、心配、大方ならず。元より富貴(ふうき)の諸侯の事とて、其頃名髙き名醫の配劑、又ハ、尊(たふと)き神社佛閣、加持や祈禱も怠りなく施し玉へど、死生(しせい)命(めい)ある世の譬へ、命數に限りあれば、今日臨終と云ふ其日は、いつそ[やぶちゃん注:ママ。「いつぞ」で強意であろう。]、文政十二年の彌生の中旬(なかば)、世界は今ぞ、櫻時(さくらどき)、嵐にもろき奧方の、花の姿も散り際の、名殘を告(つげ)んと表より、君公(くんこう)始め、數多(また)の女中、屛風の蔭に、しほとしほと[やぶちゃん注:ママ。後半は踊り字「〱」。]泪(なみだ)と共に座(ざ)したりけり。……

 

      第三回

 

……此時、君侯は、今、息を引取(ひきとら)うといふ奧方に向はれ、

「三歲(みと)せ此方(このかた)、御身の病氣、予も寢食を忘るゝ計(ばか)り、是迄、心を盡せしが、爰(こゝ)に命運盡き果てゝ、今日(こんにち)、御身に別るゝ悲しみ、火宅を去つて安樂界(あんらくかい)へ行く御身より、殘る予が心の中(うち)は、いか計り。せめては、後世(ごせい)の冥福は、財を惜まず行ふ程に、決して、心を殘さずに、迷はず、佛果を得玉へ。」

と、君侯は自ら奧方の胸のあたりを撫(なで)さすり、介抱してぞ、おはしける。

 此時、奧方、漸(やうや)く苦しき息を、

「ホツ。」

と、吐(つ)き、虫より細き聲音(こはね)にて、

「誠に難有き今のお言葉、三年間の病中に、殘る方(かた)無きお手當を受け、死ぬるに、何んぞ、迷ひませう。此上のお願ひには、兩人(ふたり)ある御愛妾の中に、雪子は最も緣深く、妹(いもと)のやうに思ひます。何卒(どうぞ)、雪に、跡々(あとあと)の賴みの事も言置(いひお)きたく、どうか、爰(こゝ)へ呼んで、たべ。」

と、仰せに、君侯も心得て、雪子を病間(べうま)へ召(めさ)れたり。

 奧方は兩眼(れうがん)を見開きて、

「オヽ、雪か。よう來て玉(たも)つた。妾(わらは)は最(も)う死ぬ程に、其方(そなた)は是から万々年(ばんばんねん)、吾儕(わなみ)に代りて、殿樣を御大切(ごたいせつ)にお世話して、今迄よりか、百倍の御寳愛(てうあい)[やぶちゃん注:「寳」はママ。「寵」の誤字であろう。]を戴いて、軈(やが)て立派に系圖を拵らへ、奧樣に昇進せよ。君子(きみこ)(今一人の妾(めかけ)の名なり)[やぶちゃん注:本文同ポイントで挿入されてある。]に寵(てう)を奪はれな。心得たか。」

[やぶちゃん注:「吾儕(わなみ)」一人称の人代名詞。対等の者に対して自身を指して言う語。「儕」(音「サイ・セイ」)は「輩(ともがら)・仲間」の意。]

との遺言に、雪子は驚き、

「是は又、勿體無い其御言葉、私(わた)くし風情が奧樣抔(など)と。」

「イヽヤ、イヤ、遠慮に及ばず。吾儕(わなみ)は死ねば、其方(そなた)が出世、妾(わらは)、佛果(ぶつくわ)を得るよりも、其方が當家(たうけ)の奧方と尊敬さるゝを祈ります。夫(それ)に付いて、賴みが有る。其事ハ、外ならず、一昨年、大和の吉野から庭へ移せし八重櫻、丁度、滿花(まんくわ)と聞きましたが、病(やまひ)の床の出(で)る事ならず、今日、臨終の思ひ出に、椽(えん)迄出(で)て、花を見たい。私は其方(そなた)に背負れて、アノ椽先まで行たい程に、爰へ來て、脊負ふて、たも。」

と、不思儀[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]やな、枕も上らぬ大病人(たいべうにん)が、判然(はつきり)と言語(ことば)もはかり、

「是非に。おぶつて吳れヨ。」

と、有るに、雪子、元來、優しき性質(せいしつ)、只、モジモジと淚ばかり。

 君公は打頷(うつうなづ)き、

「奧が櫻に思ひを殘し、一ト目見たしと、生前(せうぜん)の賴み、又、氣に入りの雪の肩、背負れて行たしと、是れも又、病婦(べうふ)の望み。コリヤ、コリヤ、雪、望みの通りに致してやれよ。」

と殿の一言。

 雪子は、

「ハツ。」

と、奧方の病床に靜かに座(ざ)し、

「何(ど)う致すのでござります。」

「オヽ、斯(か)うするの。」

と、奧方は、中腰に立(たち)玉ひ、雪子の脊に取附(とりつ)いて、細き兩手を、道筋(くびすぢ)[やぶちゃん注:「道」はママ。「首」或は「頸」の誤字であろう。]から、乳房(ちぶさ)の邊りへ差入(さしい)れて、雪の肌(はだへ)に冷めたき腕(かひな)。

 奧方、

「ニツコリ。」

笑ひ玉ひ、

「是にて、望みは、叶ひたり。庭前の櫻より、此花に、心が殘りて、死にきれず。今こそ、念願、成就せり。アラ、嬉しや。」

ト、其儘に敢無(あへな)く息は、絕え玉ふ。

 時に、奧方、三十三歲。

 さても、君公、始めとして、兼(かね)て覺悟の上ながら、臨終際(りんじうぎは)の不思儀さに、只々、呆れて、言葉無し。

 斯(か)くと聞(きく)より、醫師方(がた)も、追々、出仕の其上にて、雪子の肌(はだ)に取付(とりつき)し兩手を、靜かに離さんと、奧方の尊体(そんたい)を後ろへ𢌞りて抱きかゝえ、前から一人、手首を取り引(ひか)んとせしに、

「這(こ)は如何に。」

[やぶちゃん注:「這(こ)」指示代名詞。宋代に「これ」「この」という意味の語を「遮個」「適個」と書いたが、その「遮」「適」の草書体を誤って「這」と混同したことによる。但し、現代中国語ではその用法が生きている。]

奧方の兩腕は、雪子の肌(はだ)に固着して、何樣(どのやう)になすとても、離すの術(じゅつ)無し。

 其日は、空敷(むなしく)彼是(かれこれ)の評定(へうぜう)に時を移し、早や、翌日は、御同家(ごどうけ)幷びに分家方(がた)へも、夫々(それぞれ)、報知せねばならず。

 然るに、前に述べたる如く、死物(しぶつ)は活物(くはつぶつ)に着いて、離れず。

 雪子ハ、次第に、身体(しんたい)、勞(つか)れ、

「よくよく深き因緣なれば、此儘、殺し下さらば、奧さまと御一緖に冥土とやらへ行きます。」

と、苦しき賴みは、中々に聞入(きゝい)れ得べき事にも非らず。

 遂には、君侯の英斷に、其頃、名高き闌醫(らんい)[やぶちゃん注:「闌」はママ。「蘭」の誤字。以下も同じ。]を召され、極内々の御賴みに、餘儀無く闌醫は診察して、世に淺猿(あさま)しき事ながら、雪子の肌に固着せし奧方の兩手をば、殘して、遂に、切斷せり。

[やぶちゃん注:「淺猿(あさま)しき」。中世以降に見える当て字。]

 鳴呼、此貴婦人は、其身、大家(たいけ)の姬と產れ、妙齡にして諸侯の内室、常に翠帳紅閨(すゐでうこうけい)の中に眠り、世(よの)憂き事も知らずして、榮華の夢も見盡して、病の爲に此世を去るは、定命(でうめう)なれば、是非なけれど、愼むべきは嫉妬の一念。死しての後に手足(しゆそく)を異(こと)にし、自ら求めて、五體不具、醜き死骸を埋葬され、噂(うは)さを世々(よゝ)に殘すとハ、淺猿しかりける次第なり。

 其後(そのご)、雪子は壯健なれど、我(わが)物ならぬ死腕(しにうで)の、此身にまつハり居る事故(ゆゑ)、入浴なすも、人目を憚り、いつしか、君侯に暇(いとま)を乞ひ、尊(たふと)き聖人(ひじり)の敎化(けうげ)を受け、頭(かしら)を丸め、墨染の衣(ころも)に替る尼法師(あまばうし)、花の姿も風情無き、名を「脫雪(だつせつ)」と改めて、諸國の靈塲を巡禮して、一(ひとつ)にハ、奧方の惡靈解脫、二(ふたつ)には、此身の罪障消滅守らせ玉へと、明暮(あけくれ)に佛(ほとけ)に仕へ、念佛三昧、行方(ゆくゑ)定めぬ旅から旅、十八年の星霜も、夢路を辿る悲しさも、未だ未だ、恨みが晴れぬかして[やぶちゃん注:ママ。「晴れぬ。かくして」か?]、夜每に、時も丑滿の、大陰(たいいん)極(きはま)る頃に至り、死したる怪しき兩(れう)の腕(うで)が、此身の胸を〆付(しめつけ)る。其苦しさも、一時(とき)計り、永(なが)の年月(としつき)馴れたれど、死ぬにも死なれぬ身の因果、お咄し申すも恥かしき永(なが)物語りも、主君の御名前、名乘るは、故主(こしゆ)へ不忠の限り、聞(きい)て益無き事なれば、許して、たべ。……

ト許りにて、又も、時雨(しぐ)るゝ尼が袖。

 聞く人、哀れを催したり。

 其後(そのゝち)、尼は如何なりしか、存(ぞん)ぜず。

   *

なお、原拠には二葉の挿絵が載る。ここここ。二枚目はかなりクるものがある。

 なお、この小泉八雲のものは、オランダ医師(原文の“a Dutch surgeon”は「オランダ人外科医」としか訳しようがなかろう)が診断するというところが、時代的には無理がある。種本の「蘭醫」(邦人で蘭学を学んだ蘭方医)を小泉八雲が誤訳したものであろう。]

小泉八雲 振袖 (田部隆次訳)

 

[やぶちゃん注:本作(原題は“FURISODÉ”)は明治三二(一八九九)年にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE, BROWN COMPANY)から出版された作品集“IN GHOSTLY JAPAN”」(「霊的なる日本にて」:来日後の第六作品集)の二番目に配された作品である。同作の原文は、「Internet Archive」のこちらから原本当該作画像が、活字化されたものは「The Project Gutenberg」のここの“FURISODE”で読める。

 底本は、サイト「しみじみと朗読に聴き入りたい」の別館内のこちらにある、昭和二五(一九五〇)年新潮文庫刊の古谷綱武編「小泉八雲集 下巻」の田部隆次氏の訳の「振袖」(PDF)を視認した。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 最後に私の注を附した。]

 

 

    振   袖

 

 近頃、私は古物商の多く住んで居る小さい町を通つて居る間に、一軒の店にかかつて居る派手な紫の振袖を見た。德川時代に位の高い貴婦人が着たやうな着物であつた。私はそれについて居る五つの紋所を見るために足を停めた、同時に昔江戶の破滅の原因となつたと云はれる同じ着物のつぎの傳說を憶ひ出した。

 

 殆んど二百五十年前、將軍の都の或富んだ商人の娘が、どこかの祭禮で、著しく美麗な若い侍を群集のうちに認めて、直ちに戀に落ちた。彼女に取つては不幸にも、彼女の從者によつてその侍の何人であるか、どこの人であらうかを知る事ができないうちに、彼は雜沓の間に見えなくなつた。しかし彼の印象ははつきりと、――着物の最も些細な點まで、――彼女の記憶に殘つた。その當時若い侍の着た晴着は若い女の着物と同じ程派手であつた、そしてこの立派な侍の上着は戀に惱んだ少女に取つては非常に綺麗に見えた。彼女は同じ紋をつけた同じ色と地の着物を着たら何かの折に彼の注意を惹く事もできようと想像した。

 そこで彼女は當時の習慣によつて大層長い袖のこんな着物を作らせた、そしてそれを非常に大切にした。外山の度每にそれを着た、そして家ではそれを部屋にかけて、彼女の知らない愛人の姿がその中に潜んで居る事を想像して見ようとした。どうかすると何時間でも、その前で――或は物思ひをしたり或は泣いたりして――すごす事もあつた。彼女は又この靑年の愛を得るために神佛に祈つて――日蓮宗の題目『南無妙法蓮華經』をよく唱へた。

 しかし彼女は再び靑年を見なかつた、それで彼女は彼を慕うて煩つた、病氣になつて、死んで葬られた。葬られてからいそんなに彼女が大事にしてゐた振袖は檀那寺へ寄贈された。死んだ人の着物をこんな風に處分するのは古い習慣である。

 住職はその着物を高く賣る事ができた。それは高價な絹で、その上に落ちた淚の痕は殘つてゐなかつた。それを買つたのは死んだ婦人と殆んど同年の少女であつた。彼女はただ一日だけそれを着た。それから病氣になつて、妙な素振をするやうになつた――綺麗な靑年が目について仕方がない、そのために自分は死ぬのだと叫び出した。それから暫くして彼女は死んだ。それから振袖は再び寺へ寄贈された。

 又住職はそれを賣つた、それから又それが若い婦人の物となつて、その婦人は一度だけそれを着た。それから又彼女は病氣になつて、綺麗なまぼろしの事を口走つて、死んで、葬られた。それから着物は三度目に寺へ寄附された、そこで住職は驚いて訝つた。

 それにも拘らず彼はもう一度その不吉な着物を賣つて見た。もう一度或少女がそれを求めて、もう一度それを着た、そしてそれを着た少女は煩つて死んだ。そして着物は四度目に寺へ寄附された。そこで住職は何か惡い力がそのうちに籠つて居ると信じた。それで彼は小僧達に、寺の庭で火を焚いてその着物を燒く事を命じた。

 そこで、彼等は火を焚いて、その中へ着物を投じた。ところがその絹が燃え出すと、突然その上に火焰の目映(まばゆ)いやうな文字――『南無妙法蓮華經』の題目――が現れた、――そしてこれが一つ一つ、大きな火花のやうになつて寺の屋根へ飛んだ、そして寺は燒けた。

 燃える寺からの燃殼がやがて近所の方々の屋根に落ちた、それですぐ町が全部燃えた。その時、海の風が起つてその破滅を遠くの町々へ吹き送つた。それで區から區へ、殆んど江戶の全部が消滅した。そして明曆元年(一六五五)正月十八日に起つたこの火災は今でも東京では振袖火事として覺えられて居る。

 

『紀文大盡』と云ふ話の本によれば、振袖を作つた少女の名は『おさめ』であつた、そして彼女は麻布百姓町の酒屋、彥右衞門の娘であつた。綺麗であつたので、彼女は又麻布小町と呼ばれた。同じ書物によれば、その傅說の寺は、本鄕の本妙寺と云ふ日蓮宗の寺であつた。それから着物の紋は桔梗であつた。しかしこの話には、色々違つた說がある、私は『紀文大盡』は信じない、何故なれば、それには、その綺麗な侍は實は人間ではなく、上野、不忍池に長く棲んでゐた龍の化身であると說いて居るからである。

[やぶちゃん注:底本では、最終行に一字上げインデントで『(田部隆次譯)』、次の行に同じインデントで『Furisodé. In Ghostly Japan.)』とある。

「明曆元年(一六五五)正月十八日に起つたこの火災は今でも東京では振袖火事として覺えられて居る」当時の江戸の大半を焼失するに至った「明暦の大火」は明暦三年一月十八日に発生し、二日後の二十日(グレゴリオ暦一六五七年三月二日から四日)に鎮静した大火災。ウィキの「明暦の大火」によれば、『明暦の大火・明和の大火・文化の大火を江戸三大大火と呼ぶが、明暦の大火における被害は延焼面積・死者ともに江戸時代最大であることから、江戸三大火の筆頭としても挙げられる。外堀以内のほぼ全域、天守を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失し、死者数については諸説あるが』三万から十万人とも『記録されている。この大火で焼失した江戸城天守は、その後』、『再建されることがなかった』。『関東大震災・東京大空襲などの戦禍・震災を除くと』、『日本史上最大の火災であり、ローマ大火・ロンドン大火・明暦の大火を世界三大大火とする場合もある』という世界史レベルでも未曾有と言ってもよい大カタストロフであった。この『明暦の大火を契機に江戸の都市改造が行われ、御三家の屋敷が江戸城外に転出するとともに、それにともなって武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転し』、『また、市区改正が行われるとともに、防衛のため』、『千住大橋だけであった隅田川の架橋(両国橋や永代橋など)が行われ、隅田川東岸に深川など』の『市街地が拡大されるとともに、吉祥寺や下連雀など』、『郊外への移住も進んだ』。『さらに防災への取り組みも行われ、火除地』(ひよけち)『や延焼を遮断する防火線として広小路が設置された』(『現在でも上野広小路などの地名が残』る)。幕府は防火のための建築規制を施行し』、『耐火建築として土蔵造』『や瓦葺屋根』『を奨励した』。『もっとも、その後も板葺き板壁の町屋は多く残り、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるとおり、江戸はその後もしばしば大火に見舞われた』とある。

 私は既に後に書かれた根岸鎮衛の「耳囊」(旗本で南町奉行であった根岸鎮衛が天明(元年は一七八一年)から文化(元年は一八〇四年。根岸は文化一二(一八一五)年十一月没)にかけて三十余年間に亙って死の直前まで書き継いだ随筆。全電子化訳注済み)の「卷之二 本妙寺火防札の事」(ブログでは「強氣の者召仕へ物を申付し事」とカップリング。「卷之二」のサイト一括版はこちら)で、この「本妙寺」や「明暦の大火」について詳しく注しているので、そちらを見られたいが、何分、九年前の仕儀で、上記ウィキも改稿が行われているので、特に同前ウィキの内、「諸説ある火元」の項に載る三説を改めて引用しておく。まず、ここに語られた伝承と同じ「本妙寺失火説」。『本妙寺の失火が原因とする説は、以下のような伝承に基づく。なお、この伝承が振袖火事の別名の由来にもなっている』。『お江戸・麻布の裕福な質屋・遠州屋の娘・梅乃(数え』十七『歳)は、本郷の本妙寺に母と墓参りに行ったその帰り、上野の山ですれ違った寺の小姓らしき美少年に一目惚れ。ぼうっと彼の後ろ姿を見送り、母に声をかけられて正気にもどり、赤面して下を向く。梅乃はこの日から寝ても覚めても彼のことが忘れられず、恋の病か、食欲もなくし寝込んでしまう。名も身元も知れぬ方ならばせめてもと、案じる両親に彼が着ていた服と同じ、荒磯と菊柄の振袖を作ってもらい、その振袖をかき抱いては彼の面影を思い焦がれる日々だった。しかし痛ましくも病は悪化、梅乃は若い盛りの命を散らす。両親は葬礼の日、せめてもの供養にと娘の棺に生前愛した形見の振袖をかけてやった』。『当時、棺にかけられた遺品などは寺男たちがもらっていいことになっていた。この振袖は本妙寺の寺男によって転売され、上野の町娘・きの(』十六『歳)のものとなる。ところが』、『この娘もしばらくして病で亡くなり、振袖は彼女の棺にかけられて、奇しくも梅乃の命日にまた本妙寺に持ち込まれた。寺男たちは再度それを売り、振袖は別の町娘・いく(』十六『歳)の手に渡る。ところがこの娘もほどなく病気になって死去、振袖はまたも棺にかけられ、本妙寺に運び込まれてきた』。『さすがに寺男たちも因縁を感じ、住職は問題の振袖を寺で焼いて供養することにした。住職が読経しながら』、『護摩の火の中に振袖を投げこむと、にわかに北方から一陣の狂風が吹きおこり、裾に火のついた振袖は人が立ち上がったような姿で空に舞い上がり、寺の軒先に舞い落ちて火を移した。たちまち大屋根を覆った紅蓮の炎は突風に煽られ、一陣は湯島六丁目方面、一団は駿河台へと燃えひろがり、ついには江戸の町を焼き尽くす大火となった』。『この伝承は、矢田挿雲』(やだそううん 明治一五(一八八二)年~昭和三六(一九六一)年:金沢市出身の小説家で俳人。本名は義勝)『が細かく取材して著し、小泉八雲も登場人物名を替えた小説を著している。伝説の誕生は大火後まもなくの時期であり、同時代の浅井了意は大火を取材して「作り話」と結論づけている』。次に「幕府放火説」。『江戸の都市改造を実行するため、幕府が放火したとする』トンデモ謀略説である。『当時の江戸は急速な発展による人口の増加にともない、住居の過密化をはじめ、衛生環境の悪化による疫病の流行、連日のように殺人事件が発生するほどに治安が悪化するなど都市機能が限界に達しており、もはや軍事優先の都市計画ではどうにもならないところまで来ていた。しかし、都市改造には住民の説得や立ち退きに対する補償などが大きな障壁となっていた。そこで幕府は大火を起こして江戸市街を焼け野原にしてしまえば』、『都市改造が一気にできるようになると考えたのだという。江戸の冬はたいてい北西の風が吹くため』、『放火計画は立てやすかったと思われる。実際に大火後の江戸では都市改造が行われている。一方で、先述のように江戸城にまで大きな被害が及ぶなどしており、幕府放火説の真偽はともかく、幕府側も火災で被害を受ける結果になっている』。次は「本妙寺火元引受説」。『本来、火元は老中・阿部忠秋の屋敷だった。しかし「火元は老中屋敷」と露見すると』、『幕府の威信が失墜してしまうため、幕府が要請して「阿部邸に隣接する本妙寺が火元」ということにして、上記のような話を広めたとする説』で、『これは、火元であるはずの本妙寺が大火後も取り潰しにあわなかったどころか、元の場所に再建を許されたうえに』、『触頭にまで取り立てられ、大火前より大きな寺院となり、さらに大正時代にいたるまで阿部家が多額の供養料を年ごとに奉納していることなどを論拠としている。江戸幕府廃止後、本妙寺は「本妙寺火元引受説」を主張している』とある。

「紀文大盡」三世河竹新七作の浄瑠璃「紀文大尽廓入船(くるわのいりふね)」(明治一一(一八七八)市村座初演)か(原本を見ていないので確かなことは言えない)。これは二世為永春水(染崎延房(そめざきのぶふさ 文政元(一八一八)年~明治一九(一八八六)年)作の合巻をもとに、講談師放牛舎桃林(天保(一八三〇)年~明治三〇(一八九七)年)が講釈化したものの脚色であるから、その原型類なのかも知れない(長唄の曲名に「紀文大尽」があるが、これは明治四四(一九一一)年初演なので違う)。一説に紀伊国屋文左衛門の初代は材木商で、この振袖火事で木曾の木材を僅かな手付け金で買い占めて大儲けしたとも伝えられる。しかし、サイト「歴史くらぶ」のこちらによれば、『明暦の振袖火事の際、木曾の木材を買い占めて巨利を博したのは河村瑞賢』で、『紀文ではない』とある。文左衛門は実在したものの、多分に脚色された伝説的存在部分が有意にある人物である。]

2019/08/26

大和本草卷之十三 魚之下 ※魚(「※」=(上)「大」+(下:「大」の二・三画目の間に)「口」の一字) (タラ)

 

【外】

※魚 東醫寳鑑曰※魚俗名大口魚性平味鹹無

[やぶちゃん注:「※」=(上)「大」+(下:「大」の二・三画目の間に)「口」の一字。]

 毒食之補氣膓與脂味尤佳生東北海○今案大

 口魚ハ北土ノ海ニ多シ南海ニハ生セス西州ニハ北海

 ニモ生セス朝鮮甚多シ寒國ニ生ス冬春多ク捕ル

 夏秋ハ無之生ナルヲ煮テ食シ塩ニ淹スモヨシ為脯

 味最ヨシ四五月マテ可食白者為佳品黃為下品

 大ニテ肉厚ヲ為好京都ニハ北土ヨリ多來ル其子及

 腸亦佳シ凡タラハ油ナク乄性カロク諸病ニ妨ナシ國

 俗ニ鱈ノ字ヲ用ユ非正字頭ニ小石アリ

○やぶちゃんの書き下し文

【外】

※魚 「東醫寳鑑」に曰はく、『※魚、俗名、大口魚。性、平。味、鹹、毒、無し。之れを食へば、氣を補す。膓〔(はらわた)と〕脂と、味、尤も佳し。東北の海に生ず。[やぶちゃん注:「※」=(上)「大」+(下:「大」の二・三画目の間に)「口」の一字。]

○今、案ずるに、大口魚は北土の海に多し。南海には生ぜず。西州には北海にも生ぜず。朝鮮、甚だ多し。寒國に生ず。冬・春、多く捕る。夏・秋は、之れ、無し。生〔(なま)〕なるを煮て食し、塩に淹〔(あん)〕ず〔る〕も、よし。脯〔(ほじし)〕と為〔して〕、味、最もよし。四・五月まで食ふべし。白き者、佳品と為し、黃〔なる〕を下品と為す。大にて、肉厚〔(にくあつ)〕を好しと為す。京都には北土より多く來たる。其の子及び腸、亦、佳し。凡そ、「たら」は油なくして、性〔(しやう)〕、かろく、諸病に妨〔(さまたげ)〕なし。國俗に「鱈」の字を用ゆ〔れども〕、正字に非ず。頭に小石あり。

[やぶちゃん注:日本近海では北日本沿岸に条鰭綱新鰭亜綱側棘鰭上目タラ目タラ科タラ亜科 Gadinae の総称で、

マダラ属マダラ Gadus macrocephalus

スケトウダラ属スケトウダラ Theragra chalcogramma(漢字表記は「介党鱈」「鯳」で、スケソウダラ(介宗鱈・助惣鱈)とも呼び、一般に「スケソ」「スケソウ」とも呼ぶ)

コマイ属コマイ Eleginus gracilis

の三属三種が分布するが、現行では単に「タラ」と呼称した場合はマダラを指すことが多く、コマイはタラとは普通は呼ばないし、形も有意に異なる。ウィキの「タラ」によれば、『漢字では身が雪のように白いことから「鱈」と書くが、これは和製漢字である。日本では古くから、大きな口を開けて他の生物を捕食することから「大口魚」と呼ばれていた。この和製漢字(国字)は、中国でも一般的に用いられている』が、『福建省の客家語』(はっかご)『では「大口魚」は』淡水魚のハス(鰣:条鰭綱コイ目コイ科クセノキプリス亜科ハス属ハス Opsariichthys uncirostris)『を意味する』。ウィキの「マダラ」を引くと、『黄海、日本海、東北地方以北の太平洋岸、北はベーリング海、東はカリフォルニア州まで北太平洋に広く分布する。沿岸から大陸棚斜面の底近くに生息する。夏は深場に移り、水深800mくらいの深海にも生息するが、産卵期の冬は浅場に移動してくる。地域個体群が形成される』『が、個体群間の交流はほとんど無いとされている』。『冷水域に生息し、生息上限水温は約12℃と推定されている』。『最大で全長120 cm』で、『体重23kg程度』『に達し、日本に分布するタラ類3種の中では最大種である。体色は褐色で、背側にまだら模様がある。スケトウダラやコマイと同様、下顎には1本のひげがあり、背鰭3基、臀鰭2基を備える。上顎が下顎より前に出ている。また、頭身が小さく、腹部が大きく膨らむ』。『肉食性で、稚魚期は主に浮遊生物のカイアシ類、十脚類幼生等を、全長45mm以上になると』、『底生生物の端脚類や十脚類稚仔を捕食している』。『高緯度海域ほど成熟するまでに長い年数を必要とし、ベーリング海からカムチャッカ沖では5年』で『約60cmから70cm以上であるが』、『中緯度の東北沖やワシントン州では3年』で『40cm程度である』。『北海道周辺海域での産卵期は12月』から『3月で、分離沈性卵を産卵する。1匹のメスの産卵数は数十万』から『数百万個に及び、これは魚類の中でも多い部類に入るが、成長できるのはごくわずかである』。『稚魚は1年で全長20cmほどに成長するが、この頃までは沿岸の浅場で生活し、以後体が大きくなるにつれて深場へ移動する』。『北海道有珠10遺跡の縄文時代晩期の層からマダラの骨が出土し、耳石の分析から冬期に接岸した個体を捕獲し食用にしていたと推定されている』。『旬は冬』で、『身は柔らかく脂肪の少ない白身で、ソテーやムニエル、フライなどの他、汁物や鍋料理にもよく使用される。身を干物にした「棒鱈」(ぼうだら)も様々な料理に使われる。漁師の間では釣りたての物を刺身で食べることもあるが』、『鮮度の低下が早く』、『一般的ではない』。『また、白子(しらこ)と呼ばれる精巣もこってりとした味で珍重され、流通する際はメスよりオスの方に高い値がつく。白子は「キク」「キクコ」などとも呼ばれるが、これは房状になった外見がキクの花に似るためである。北海道では「タチ」(マダラは真ダチ、スケソウダラは助ダチ)とも呼ばれ、新鮮なものが寿司ねたなどで生食されている』。『マダラのたらこ(卵巣)はスケトウダラよりも硬いが、未熟なものは柔らかくスケトウダラよりも大型でボリュームがあるため、煮付けや焼き物、炒め煮にすると美味である。北陸地方では「真子(まこ)」と呼ばれ』、『よく食される』。『他にも肝臓から取り出した脂肪は肝油に用いられる』。『その他、マダラやスケトウダラの胃を唐辛子などの香辛料、砂糖、塩などに漬け込んだものを韓国ではチャンジャ』(益軒の言っている「腸、亦、佳し」はそれで、私の大好物でもある。但し、最上級品はタラの鰓(えら)だけを使用し、胃袋や腸・浮き袋等はその次となる)『といい、コリコリとした食感を楽しむ』とある。

「東醫寳鑑」(とういほうかん/トンイボガム)は李氏朝鮮時代の医書。全二十三編二十五巻から成る。御医(王の主治医)であった許浚(きょしゅん)著。ウィキの「東医宝鑑」によれば、一六一三年に『刊行され、朝鮮第一の医書として評価が高く、中国・日本を含めて広く流布した』とある。

「淹〔(あん)〕ず〔る〕」漬ける。

「脯〔(ほじし)〕」干物。

「京都には北土より多く來たる」ウィキの「棒鱈」によれば、『加工された棒鱈は北前船で関西方面に運ばれ、正月料理やお盆料理の一品として食べられた。東北地方の山間部では夏の保存食としても、また北九州では夏の祭に食べる習慣がある』とある。

「頭に小石あり」脊椎動物の内耳にある炭酸カルシウムの結晶からなる組織で、所謂、平衡胞に含まれる平衡石で、平衡感覚と聴覚に関与する。魚類では有意に大きくなる種がかなりおり、その断面には木の年輪のような同心円状の輪紋構造が見られ、一日一本が形成される。これを「日輪(にちりん)」と呼び、魚個体の年齢推定を日単位で調べることが可能である。ウィキの「耳石」マダラの耳石の写真をリンクさせておく。]

赤い婚禮 小泉八雲(LAFCADIO HEARN)(田部隆次訳)

 

[やぶちゃん注:本作(原題は“THE RED BRIDAL”)は明治二八(一八九五)年にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された作品集“OUT OF THE EAST:Reveries and Studies in New Japan”」(「東方の国から――新日本に於ける夢想と研究――」:来日後の第二作品集)の第八章(大見出しナンバー)に配された作品である。同作の原文は、「Internet Archive」のこちらから原本当該作画像が、活字化されたものは「The Project Gutenberg」のここの“VIII The Red Bridal”で読める(後者冒頭の目次の“BED”は誤字)。なお、私が標題に小泉八雲の元の名(正確には Patrick Lafcadio Hearn)の名を添えた理由は、本書刊行時は未だ「小泉八雲」を名乗っていないからで、それについては先に公開した「生と死の斷片 小泉八雲(LAFCADIO HEARN)(田部隆次訳)」の私の冒頭注を見られたい。

 底本は、サイト「しみじみと朗読に聴き入りたい」の別館内のこちらにある、昭和二五(一九五〇)年新潮文庫刊の古谷綱武編「小泉八雲集 下巻」の田部隆次氏の訳の「赤い婚禮」(PDF)を視認した。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。本書刊行時及び先立つ執筆時の小泉八雲や執筆推定期間についてもそちらで述べてある。

 一部で私の注を当該段落の後或いは文中に禁欲的に附した。]

 

 

    赤 い 婚 禮

 

 一と目で戀をする事は日本では西洋で程普通でない、其理由(わけ)は一つは東洋の社會の特殊な組織からで、一つは兩親の執成(とりなし)で、戀の悲みを知らぬ中に早く結婚するからである。然るに一方に戀故の自殺は餘り珍らしくもない、ただ其場合は大低二人一緒であるといふ特殊性がある。且又大抵は不義の關係の結果と考へられる。でも正直な勇敢な除外例もある。そしてそれは普通田舍に多い。そんな悲劇の戀は最も無邪氣な、自然な、幼馴染(をさななじみ)から突然發展したものなどで、尋ぬれば二人の幼年時代に溯る歷史を有(も)つのがある。併しそんな時でも西洋の情死と日本の情死との間には、甚だ奇妙な相違がある。日本の情死は苦惱から起こる盲目な急速な狂氣の結果ではない。冷靜で秩序ある上に宗敎的でもある。死を以て誓約書とする一種の結婚を意味する。男女は神々を證(あかし)にしてお互に誓詞を立て、遺言狀を認め、そして死ぬのである。如何なる誓詞もこれよりもつと神聖であることは出來ない。だから若し思ひ掛けぬ外部の妨害と醫療とで、情死の片割が死の手からもぎ離された時は、其片割は愛と名譽の嚴かな誓約に依つて、出來るだけ早い機會を捉へて命を捨てる義務がある。勿論雙方救はれた時は問題はない。併し一旦女と死ぬる誓をした後に、女だけを一人で冥途に旅立たせた男として後指さされるよりは、惡虐な罪過を犯して半生を牢獄の裡に送る方が遙かに優(まし)だとされて居る。女は誓に背くことがあつても幾分寬大視されるが、男は妨害に逢うて死に損ね、一度目的が挫かれたばかりに、おめおめと生き存へようものなら、終生僞誓者、殺人犯、人非人、人間の面汚(つらよご)しとして見らるるが常である。自分はそんな實例を一つ知つて居る――併し自分は今寧ろ東國の或る村にあつた、賤が家の戀物語を紹介する。

 

       

 

 村は廣いが極淺い川に臨んで居て、其川の石多い川床は雨季の間のみ完全に水に蔽はれる。そして此川は、南北は地平線に連らなり、西は靑い山脈に圍(かこ)ひ込まれ、東は森林の茂れる丘陵に仕切られてる、廣濶な水田の中を橫斷して居る、村と丘陵との間は僅に半哩[やぶちゃん注:「はんマイル」。約八百五メートル弱。]の水田に隔てられてる計りであるが、其手近い丘陵の頂上に、十一面觀音の堂があつて、其附屬地に村の主なる墓地がある。村は物資の集散地として餘り詰まらぬ村ではない。普通の田舍風の藁葺家が數百軒ある外に、繁盛な二階建ての商店、綺麗な瓦屋根の宿屋などが一杯並んで居る街路が一筋ある。其外に又風雅な氏神、卽ち日の女神を奉祀した神道の社(やしろ)と、桑畠の中に蠶神を祭つた美しい祠(ほこら)がある。

 明治の七年に此村の内田といふ染物屋に、太郞といふ男子が出生した。處が其出生の日が惡日であつた――陰曆の八月七日であつた。そこで舊弊な兩親は心配し且つ悲しんだ。併し同情せる隣人は彼等に說いて、曆は敕令に依つて改正せられた、其新曆では其日は吉日であるから萬事意の如く運んだではないかと、思ひかへさせようとした。此忠告は幾分か兩親の心配を緩和した、併し小兒が氏神へ宮詣りの折には、神前へ大きな紙燈箭を獻納し、凡ての殃禍(わざはひ)を小兒の身上から拂はせ給へと熱烈に祈願した。神主は古風な儀式を繰り返し、神聖な御幣を小さな坊主頭の上ヘ振り𢌞はし、小兒の頸へ掛ける小さな護符を作つて吳れた。兩親はそれから更に丘の上の觀音堂へ參詣し、そこでも供物を供へて、彼等の初生子(うひご)を護らせ給へとあらゆる佛に祈願した。

[やぶちゃん注:「明治の七年」「陰曆の八月七日」明治政府が天保暦(太陰太陽暦)を廃止し、グレゴリオ暦に移行したのは、この僅か一年半前である。明治五(一八七二)年五年十二月二日=グレゴリオ暦一八七二年十二月三十一日をもって天保暦を廃止し、その翌日から明治六(一八七三)年一月一日となった。則ち、明治五年には十二月三日から十二月三十日までの二十八日間が存在しないのである(ここはウィキの「明治5年」に拠った)。明治七年旧暦八月七日は一八七四年九月十四日で、調べたところ、新暦での六曜は大安であった。]

 

       

 

 太郞が六歲になつた時、兩親は村の近處に建てられた新しい小學校へ通はせようと決心した。太郞の祖父が筆紙、敎科書、石板などを買ひ與ヘて、或る朝早く手を引いて學校へ連れて行つた。太郞は大悅喜[やぶちゃん注:「おほよろこび」と訓じておく。]であつた。石板だの其他のものは新たな玩具の樣に思はれるし、又誰れも彼れも學校は面白い處で、遊ぶ時間が澤山あると云ふ上に、學校から歸ると澤山菓子をやるといふ母の約束もあつた。

 ガラス窓のある大きな二階建ての學校へ到着すると、校僕が大きな質素な室へ案内する。其處には嚴肅(まじめ)な顏をした人が机を控へて坐つて居た。太郞の祖父は其嚴肅な人に丁寧にお辭儀をして先生と呼び懸け、恭しく此小兒を御敎授下されと乞うた。先生は立ち上がつて禮を返し、鄭重に挨拶した上、太郞の頭へ手を載せて優しい言葉をかけた。併し太郞は直に怖(こは)くなつた。祖父が別辭を述べた時益〻怖くなつて、逃げて還りたくなつた。が、先生は彼を連れて、大勢の男女の子供が腰掛に並んで居る、大きな、天井の高い、白壁の室へ往つて、一つの腰掛を指し、坐るやうに命じた。男女の生徒は悉く頭を轉じて太郞の方を見ながら、互に耳語(ささや)きあつて笑つた。太郞は笑はれると思ふと、甚だ悲くなり出した。大きな鐘が鳴つた。と、室の一方の敎壇に上がつた先生は、太郞を喫驚(びつくり)させた程の聲で靜かにと命じた。一同靜まり返つた處で先生は喋り始めた。其詞は太郞に恐ろしく感ぜられた。學校は面白い處だと先生は云はない、學校は遊ぶ處でない、勉强する處だと告げた。又勉强は苦しいものだ、併し苦しくてもむつかしくても生徒は勉强せねばならぬと告げた。又守るべき校則の話や、それに背いたり不注意の時に蒙るべき處罰の話をした。一同恐懼して肅然(しん)とした處で、先生は全く語調を變へて慈父の如く語り出した――我が子の如く一同を愛すると約束して。つぎに學校は天皇陛下の叡慮に依つて建てられたことや、それに依つて此國の男兒も女兒も賢男善女となり得ることや、天皇を深く敬愛し陛下の爲めには喜んで身命をも抛つべきことを告げた。それから又彼等は父母を愛すべきこと、彼等の父母は彼等を學校へ通はす爲めに職業に一層骨を折つて居ること、それに勉强すべき時間に怠けて居るのは忘恩悖德の所業であることを告げた。それが濟むと先生は生徒を一一指名して、今告げたことに就て試問をした。

[やぶちゃん注:「太郞が六歲になつた時」満年齢なら、明治一三(一八八〇)年、数えなら、その前年。本書を読むのは外国人で無論、前者でとる。]

 太郞は先生の詞の一部分しか聽き取れなかつた。彼の小さい心は彼が初めて室で入つた時、生徒一同が彼を見て笑つた事實で殆ど一杯になつて居たのだ。何を笑はれたかが彼には非常に切なかつたので、其外の事などは考ふる餘裕もない、從つて先生が彼の名を呼んだ時にも全く彼には用意がなかつた。

『内田太郞、お前は一番何が好(すき)か』

 太郞は驚いて起立して正直に答へた。

『菓子です』

 男生女生悉く彼の方を見て又笑つた。先生は叱るやうに問ひ返した。『内田太郞、お前は父母よりも菓子が好か。お前は天皇陛下に盡くす忠義よりも菓子が好か』

 其時太郞は何か大きな間違ひを云つたなと氣が附いた。それで顏は熱くなる。一同には笑はれる、遂に泣き出した。それも一同を益〻笑はせるに過ぎなかつた。先生が一同を叱り飛ばして、同じ問をつぎの生徒に懸けるまで笑ひは止まなかつた。太郞は袖を眼に當てて啜り泣いた。

 軈て鐘が鳴つた。先生はつぎの時間には、他の先生から初めての習字の授業があるが、先づ敎室を出て暫く遊んで來てもよいと告げて出て行つた。男女の生徒は悉く校庭へ遊びに出た、誰れあつて太郞を顧みるものもない。太郞は初めに衆目環視の的となつた時よりも、かう打棄れた事を一層心外に感じた。先生の外に誰れ一人言葉をかけるものもなかつたが、今は其先生も彼の存在を忘れた樣だ。太郞は小さい腰掛に又腰を下ろして泣きに泣いた。生徒等が又腰を下ろして泣きに泣いた。生徒等が又歸つて來て笑はれぬやうに聲を立てまいと苦心しながら泣いた。

 突然彼の肩に手が掛けられ、優しい聲が耳元に聞こえた。振り囘るとこれ迄に見た事がないやうな情深い二つの眼を認めた――太郞より一歲(ひとつ)位年長(としかさ)な小娘の眼であつた。

『どうしたの』彼女はやさしげに問うた。

 太郞は一寸啜り泣いて、手緣りなげに[やぶちゃん注:「たよりなげに」。]鼻を鳴らした後に答へた。『面白くない。家(うち)へ歸りたい』

『何故』と娘は腕を太郞の頸へそつとかけながら問うた。

『皆(みんな)が己れを嫌ふんだ。口もきいて吳れず、遊ばうともしない』

『さうぢやあないよ』娘は云つた。『誰れもお前を嫌やアしないよ、ただお前は新參だからよ。妾(わたし)が去年初めて學校へ上がつた時も、丁度其通りだつたよ。怒(おこ)つちやいけない』

『外の奴はみんな遊んでる、己ればかりここに居るんだ』と太郞は抗議を持ち込んだ。

『アレ焦(じ)れちやアいや、サアお出で、妾と遊ばう。妾がお友達になつてあげる。サア』

 太郞は聲を舉げて泣き始めた。自ら憐むの念と、感謝と、新たに得た同情の喜びとが、彼の小さい胸に一杯になつたので、遂に制へ切れなかつたのだ。泣いてるのを慰められるのはそれ程嬉しかつたのである。

 併し娘はただ笑つて、素早く太郞を室外に誘ひ出した。彼女の胸にある小さい母性愛が機を察して動いたのである。『泣きたいならお泣き』娘は云つた。『だが、遊ぶのもいいよ』かくて二人は愉快に遊んだのである。

 學校が濟んで太郞の祖父が迎へに來た時、太郞は又泣き出した。それは此小さい遊び友達に別かれを告げなければならなかつたからである。

 祖父は笑つて云つた。『およしぢやアないか――宮原およしだ、およしも一緖に來て家で遊ぶがよい。丁度歸り途だ』

 太郞の家で二人は一緖に約束の菓子を食べた。およしはからかふ樣に先生の嚴格な態度を模(ま)ねながら問うた。『内田太郞、お前は妾よりもお菓子が好か』

 

       

 

 およしの父は若干の田を手近に所有(も)つて居る上に、村にも店(みせ)を持つて居た。母は武士の子で、士族の解放された時、宮原家へ養はれたのであつた。子供は大勢生んだが末子のおよしのみが生き殘つて居た。其母もおよしがまだ赤ん坊の時死んで了つた。宮原は中年を超えて居たが、小作人の娘の伊東お玉といふ若い娘を後妻に娶つた。お玉は新しい銅貨のやうに赤黑かつたが、目立つて綺麗な百姓娘で、丈高く丈夫で活潑であつた。併し讀み書きは少しも出來ないので、人々は宮原が此娘を選んだのを奇異に思つた。奇異の思ひはやがて可笑しさに變つた。それはお玉を家に入れると、直ぐお玉は絕對主權を握つて、それを振り𢌞はしたからである。併しお玉の人となりが段々分かると、隣人は宮原の意氣地なしを笑ふのを中止した。お玉は良人の事業を良人よりも能く了解して、萬事を監督し、巧妙に家政を處理するので、二年と經たぬ中に彼の收入は倍加した。宮原は明らかに、お蔭で金持ちになれる女房を貰つたのである。繼母としては自分の長子が生まれた後までも親切に舉動(ふるまつ)たから、およしは手厚き介抱を受け、學校へも正式に通はせられた。

[やぶちゃん注:「士族の解放された時」士族解体は段階的に行われたが、一つのそれは明治九(一八七六)年の「廃刀令」施行と同年の秩禄給与の全廃処分(秩禄とは廃藩置県後に維新政府が授産の目的で士族に貸付けた公債。明治六(一八七三)年 十二月に家禄・賞典禄を返還した百石未満(後に百石以上にも適用された)の士族に対し、禄高に応じて永世禄として六ヶ年分、終身禄として四ヶ年分を現金と公債証書に折半して支給する布告が出された。公債は三ヶ年据置きで八分利付、七ヶ年で償還する条件で一千六百万円余が発行された。金禄公債交付への前段階的処置であった。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)を以って捉えられる。但し、明治期には士族認識は一般には行われ、戸籍の族籍記載が撤廃されたのは大正三(一九一四)年、士族の族称が私的にも公的に廃止されて死語となるには、実に第二次世界大戦敗戦後を待たねばならなかった。なお、「七」でここに記した「公債證書」の話が登場する。]

 子供等がまだ學校通ひをして居る中、久しく待ち設けられた驚くべき事件が起こつた。頭髮と髮の赤い、長(せ)の高い妙な人間――西洋人――が日本人の勞働者を大勢連れて此村へやつて來て鐡道を造り上げた。それは田甫[やぶちゃん注:「たんぼ」と読んでおく。]と村の後ろの桑畠の向うの、低い丘陵の麓に沿うて出來たのだが、觀音堂へ行く舊道と交叉する處に小さい停車場が建てられて、步廊(プラツトフオーム)に立てた白い札に村の名が漢字で記された。少し經つてから一列の電信柱が線路と並行に立てられた。も少し經(た)つてから汽車が來て、笛を吹いて、停まつて、そして出て行つた――古い墓地にある佛像を蓮華の臺石から搖(ゆ)り落とさぬばかりにして。

 子供等は此不思議な、水平な、灰の撒布されてる道に、二本の鐡がぴかぴか南北へ延びて雲烟の中に沒し去るのを見て驚嘆した。更に列車が嵐を吹く龍の樣に、大地を震るはせながら、吼えたけり煙を吐きつつ來るのを見て恐怖した。併し此恐怖の後には好奇心が入れ替つた。――此好奇心は敎師の一人が黑板に圖を描いて、機關車の構造の說明をしたので一層强められた。其敎師は又、電信の更に一層不思議な作用を敎へた。そして新東京と京都との間は鐡道と電線で結び附けられるから、兩都の間を二日以内で旅行も出來るし、數秒で通信も出來るといふことを告げたのである。

[やぶちゃん注:東海道線の全面開通は後の明治二二(一八八九)年七月一日の全線開通であるから、この時(話柄内時制を明治一三(一八八〇)年と前に示した)、教師は近い将来のそれを想定して述べたものである。]

 

 太郞とおよしは大仲善しになつた。一緖に勉强もし、遊びもし、相互の家を訪問しあつた。併し十一の時およしは學校を下げられて、繼母の手傳ひをさせられる事になつたので、太郞がおよしに會ふことは稀になつた。する中に彼は十四になつて學校を卒業し、父の家業を習ひ始めた。悲みは來たつた。彼の母は一人の弟を生んで死亡した。其年の中に、彼を初めて學校へ連れてつた親切な祖父も、母の後を追うた。それから後は世界が暗くなつたやうに思はれた。併し彼が十七になる迄、彼の生活には其後何の變化も起こらなかつた。折々はおよしと話しをする爲めに宮原の家を訪れた。およしはすらりとした美しい女になつた。が彼には樂しかつた昔の面白い遊び仲間に過ぎなかつた。

[やぶちゃん注:「およし」「十一」先の換算では「およし」は太郎の一つ上だから明治一七(一八八四)年となる。

「彼は十四になつて學校を卒業」同前で明治二一(一八八八)年。

「十七」同前で明治二四(一八九一)年。既に東海道本線は開通している。]

 

       

 

 或る柔らかな春の日に、太郞は甚だしく淋しさを覺えておよしに逢つたら樂しからうといふ考へがふと浮かんだ。多分彼の記憶には、淋しいといふ一般感覺と、彼の初めての學校生活の特殊な經驗との間に或る確かな關係が存在したのであらう。兎に角胸の中の或る物――多分死んだ母の愛が作り上げた、さうでなければ他の死んだ祖先に屬する或る物が――一片の情味を要求した、そしておよしから其情味が貰へると信じたのである。そこで太郞はおよしの小さい店へと步を運んだ。店の間近まで來た時、およしの笑ひ聲が聞こえて、それが馬鹿に優しく響いた。およしは年老いた百姓に物を貰つてる所であつたが、百姓は滿足な樣子で聲高に喋つて居た。太郞は待たせられて早くおよしの談話を獨占し得ぬのを腹立たしく感じた。併しおよしの近くに居るだけでも少しは晴れ晴れしくなつた。彼はじろじろ彼女を眺めて居たが、突然今迄彼女がこんなに美しいとは思はなかつたのを不思議に思ひ姶めた。實際彼女は美しかつた――村の何の娘よりも美しかつた。太郞は且つ眺め且つ驚きつつあつたが、彼女は益〻美しくなるやうに見えた。餘り不思議なので彼には譯が分からなかつた。併しおよしはその熱烈な凝視の下に、初めて恥づかしく覺えて耳の根まで眞赤になつた。其時太郞は彼女が世界中の何の女よりも美しく、可愛く、立ち優つて居ることを確信し、それを彼女に云ひたいと思つた。と忽ち老いたる百姓が只だの女にでも話すやうに、およしに喋々と饒舌(しやべ)つて居るのが癪に障つて堪らぬのを感じた。數分にして太郞には全宇宙が全く一變した、しかも彼はそれに氣が附かぬ。彼はただ暫く逢はぬ中に、彼女が天女の樣になつたのを認めた。それで機會が來るや否や、彼が愚かしき心中を打明けた、彼女も同じく心中を打明けた。そして二人の心がかうも同じであつた事を不思議に思つた。さてそれが大難の始めであつた。

 

       

 

 太郞が、およしに話してるのを見た年老いた百姓といふのは、ただ買ひ物に彼(か)の店を訪れたのではなかつた。彼は本業の外に仲人(なかうど)卽ち媒介を職業にして居たので、其時は岡崎彌一郞といふ富める米商の手先きを勤めて居たのであつた。岡崎はおよしを見て非常に氣に人つたので、此仲人業者に賴んで、彼女の身性(みじやう)と家族の狀況を調べようとして居たのであつた。

 岡崎彌一郞は百姓共や、村の隣人等にも酷く嫌はれる中老の男で、粗野で醜男(ぶをとこ)で騷がしい無作法者であつた。彼は又邪樫な男と評判された。一年飢饉の折に米相場をして儲けた事は知られた事實で、百姓共はそれを罪惡だとして赦さない。彼は此縣に生まれた者でもなく親戚があるのでもない。十八年前に女房と一人の子を連れて西國の方から此村へ移住したのである。女房は二年前に死に、虐待されたといふ評判の一人息子は、突然家出をして行方知れずである。其外彼には色々の惡い評判がある。其一つは西國に居た時、激せる暴民に家藏を掠奪されて、命からがら逃げたといふのである。今一つは彼が結婚の晚に地藏尊に御馳走を出させられたといふのである。

 不人望な農民が結婚の時、花聟に地藏を饗應させるのは今でも或る地方では行はれる。巖疊な[やぶちゃん注:「がんでふな」。頑丈に同じい。]若い衆の一隊が、石地藏を大道から或は近處の墓地から借りて來て、花聟の家に擔(かつ)ぎ込むと、大勢が後からついて行くのである。さて石像を座敷に置いて、酒肴をしこたま供養せよと命ずる。これは勿論彼等自身への供養の意味で、それを拒むのは非常に危險だ。そして此の招かれざる客共は、もう飮めぬ食へぬと云ふ迄御馳走になるのである。こんな饗應をさせられるのは、公然の懲戒であるばかりでなく、消すに消されぬ公然の恥辱であるのだ。

[やぶちゃん注:この地蔵饗応或いはそれに類似した婚礼習俗というのは「石打ち」などと呼ばれ、村落共同体の中に入り込んだ他国の者(多くは男)が村民の相手を娶る際に、かなりポピュラーに全国的に行われていたもので、ここで小泉八雲が言っているような悪因縁をつけた暴挙としてではなく、旧来の風俗として、現在も残っている。かなり以前にテレビで見た記憶があり、ネットで調べても複数のそれを見出せる。例えば、「AELA dot.」の「結婚式でお地蔵さんをかつぐ地方は? ご当地別結婚のしきたり」に、ここは他村の嫁のケースであるが、『「花嫁が早くその土地に腰を据えられるように、と地域のお地蔵さまを担いで持ち寄る風習があります。先月行われた結婚式では出し物としてお地蔵さまを』一『体だけお借りしてお化粧をし、『生き地蔵』がそれを持って神輿に担がれるなどしました」』とあり、また、『山口県在住の回答者からは、こんな驚きの情報が寄せられた。調べてみたところ、このお地蔵さまは式後、新婚夫婦などの手により、地域に返されるという。一体だけでなく、多くのお地蔵さまが持ち寄られた場合は、元の場所が分からなくなってしまうこともあるそうだ。祝いの席だからと』、『ひと肌脱いだお地蔵さまにとっても、困った事態である』とある。「愛媛県生涯学習センター」公式サイト内の「愛媛県史 民俗 下(昭和59331日発行)」の「婚姻の習俗」にも(下線太字は私が附した)、

   《引用開始》

 事例1 宇和島市日振島。青年が夫婦石(一二~二〇貫)を婚家の角に置き、座りがよいようにとの縁起から石を三回打ちつけ「一つの石 のっけの石 御免の石 二つの石は御祝儀の石 三つの石は止めの石」と唱えた。青年は祝儀として酒二升を貰った。

 この事例は、広くみられる石打ちと呼ばれる風習である(内海村網代・魚神山ほか)。運びこまれる石のことをオチツキ石(南予)と呼ぶ。墓石(河辺村・柳谷村・広田村・小田町・双海町ほか)・川石(城川町・大洲市稲積ほか)・地蔵(保内町)がつかわれ、二個の夫婦石には注連縄が張られる例が多い(宇和町ほか)。この風習は「石になるまで=死ぬまでその家にいるように」・「ここで石碑になるように」(久万町)「どっしり落ちつくように」(大洲市)「この岩のようにいつまでも離れないように」(城川町)といった理由から行われる。この風は、式が終わったときにみられるが、柳谷村のように祝言の翌朝になるところもある。この石は、たいてい新夫婦が翌朝にかたづけるが、松山市北土居のように一、二か月とか二、三年の間、床の間に置くところもある。石は大きい方が喜ばれたので、青年たちは婚礼が近づくと、山へ行って大きい石を捜したのである(宇和町明石)。南予では、庭先にオチツキ石をいつまでも置き、嫁がつらくて泣くことがあるとき、このオチツキ石を見て気を取り直すことが多かった(城辺町日土)。また野村町中筋では、昔、婚礼は多く年末に行われ、翌年の旧正月一五日の夜に若者が石塔や木材を婚家の入口に並べて戸があかないようにしたり、大石を庭へ運び込んで落ち着きよしとしたりして、酒肴を振舞われた。これをホタルククルと呼んだのである。

   《引用終了》

とある。現行も生き残ったのは、本来の制裁的ニュアンスや異邦人の村落加入への限定的許諾儀礼としての粗暴でネガティヴな本質をポジティヴな意味に逆転させた結果であろうと私には思われる。]

 

 岡崎は年にも恥ぢず若い美しい妻を娶らうといふ贅澤な野心を持つて居た。併し彼の富みを以てしても此願望は思つたやうに容易くは達せられなかつた。緣談を申し込まれた家の中には、實行不可能な條件を並べて卽座に謝絕したのが少くない。村の村長はもつと無遠慮に己れの娘はお前に遣る位なら鬼に遣ると云ひ放つた。そこで此米商は縣外で嫁探しをするより外はないと諦めるだらうと思つてると、最後に偶然にもおよしを見附けたのである。此娘が又非常に氣に入つたし、家は定めて貧乏であらうから、幾らか金でもやつたら手に入るだらうと考へた。それで仲人を通して宮原家と談判を開始しようと試みたのである。小作人の娘であるおよしの繼母は、全く無敎育ではあるが、一條繩で行く女ではない。彼女は其繼娘を少しも愛しては居ぬが、怜俐だから理由なく虐待する樣な事はしない。且つおよしは彼女の邪魔になる處ではない、忠々(まめまめ)しく働きもするし從順で、氣輕で、家の役にも立つて居るのである。併しおよしの美點を認めた其冷靜な敏惑は、同樣に結婚の市場に於けるおよしの價値をも計算した。岡崎は狡智に於て己れよりも生來上手(うはて)な女を相手にするとは夢にも思はなかつたのであらう。お玉は岡崎の經歷を大分知つて居り、富の程度をも知つて居た。彼女は亦岡崎が村の内外の處々から女房を貰ひ損ねたことも聞いて居た。それでおよしの美顏が眞に彼の熱情を惹起したのではないかと推察した。そして老人の熱情は多くの場合利用し得るものだといふことも知つて居た。およしは實の處驚くべき程の美人でもないが、實際綺麗で優しく何處か愛嬌のある娘で、先づこれ位の娘を手に入れるには、此近鄕では望みがない。此娘を女房にする爲めに岡崎が金を惜しむ樣なら、外にもよい心當たりの若者がお玉にはあつたのである。およしを岡崎に遣ることは遣るが、それには並大抵でない條件を附ける。先づ最初の申し込みをはねつけて見ると、其後の彼の出方で心の底が分からう。ほんとにおよしに執心なら、此界隈の人では誰れにも出來ない程の支度金を仰せ附ける事も出來よう。そこで岡崎の眞の執心の程度を知ることが非常に肝要で、又それ迄は當分此事をおよしに知らせぬやうにする必要がある。仲人業の評判のよしあしは沈默の點にあるのだから、仲人が此祕密を漏らすといふ恐れはなかつた。

 宮原家の政策はおよしの父と繼母との協議で定められた。老宮原はとにかく女房の計畫に反對する樣な男ではないが、お玉は先づ用心深く、結婚は色々の廉[やぶちゃん注:「かど」。「角」と同語源で、「特に取り上げるべき事項・箇所」の意。]で娘の利益(ため)になるやうにせねばならぬといふことを强く說法した。そして岡崎に遣るとした時の經濟上の利益を話し合つた。この結婚には面白くない多少の危險もあるが、それは豫め岡崎に二三の契約を結ばせれば防ぐことも出來ると說いた。それから宮原が此芝居で演ずべき役割を敎へた。そして此談判中は太郞にも成るたけ度々來るやうに勸める事にした。此二人が好き合つてるのは、ほんの蜘蛛の巢の樣な薄つぺらな情愛だから、必要な時には拂ひ退けるに手間暇はいらぬが、當分は之を利用して遣るがよい。岡崎が若い鞘當て筋があると聞いたら、決心を早めて此方(こつち)の思ふ壺にはまるであらう。

 丁度其時、太郞の父は太郞の爲めにおよしを貰ひたいと初めて申し込んだ。併し右の理由で宮原家は唯(はい)とも云はなければむげに斷わりもしなかつた。只だおよしは太郞よりも一つ年上だといふこと、それからそんな配偶は習慣には背くといふことを述べた――それは實際其通りである。けれどもそれは薄弱な故障であつた。尤もそれは明らかに薄弱なればこそ、そんな文句を選んだのであつた。

 同時に岡崎の最初の申し込みは其誠意が疑はしいと云はん計りの態度で迎へられた。宮原夫婦は仲人の意味が分からぬと稱して、明瞭な證言をも頑固に腑に落ちぬ風を裝うたので、岡崎は遂にこれならばと思ふ誘惑的な提議を持ち出すといふ政略に出た。宮原老人は其時此一件は妻の手に委ねて決定を待つことにする由を告げた。

 するとお玉はあらゆる侮蔑的驚愕の態度で其提議を卽座に拒絕した。そしてつぎの樣な不快な話しをした。昔、金のかからぬ美しい女を手に入れようと思ふ男があつた。到頭一日に二粒の販しか食はぬといふ美人を見附けて結婚した。其女は每日二粒の飯しか口にしないので彼は大いに滿足して居た。然るに或る夜旅から歸つて來た時、天窓(てんまど)から竊に覗いて居ると、彼女は食ふも食ふ、山程の飯と魚とを頰張つた上に、あらゆる食物を頭の頂上(てつぺん)の髮の毛に隱れて居る穴の中へ押し込んで居るのを見た。そこで結婚した女は山嫗[やぶちゃん注:「やまうば/やまんば」。]であつたことを知つた。

[やぶちゃん注:「山嫗」一般には「やまうば」或いは「やまんば」と読むが、ここでは原文が“Yama-Omba”とあるので、「やまおんば」と訓じておくこととする。但し、ここに出るそれは、明らかに妖怪「二口女(ふたくちおんな)」、後頭部に二つ目の口を持つ女怪で、髪を使って後頭部の口に食べ物を運ぶとされる。江戸時代の「絵本百物語」(戯作者桃花園三千麿作とされる天保一二(一八四一)年に板行された怪奇談集)などに記述があるが「絵本百物語」のそれ(梗概や絵図はウィキの「二口女」にあるそこでは、下総国をロケーションとする)は作者の創作に過ぎないのでここでの参考にはならない。絵図は参考としてよろしい。]

 お玉は謝絕の結果を一と月も待つた。欲しいと思ふ物の價値は、手に入れる困難が增せば增すやうに思はれるといふことを知つて居るから安心して待つた。すると案の定仲人が再び現はれた。此度は岡崎は前の樣に鄭重でなく單刀直入に問題に觸れた。最初の申し出を增額した上に誘惑的な約束をまで附け加へた。お玉はもう岡崎はこつちのもの、どうにでもなると知つた。彼女の作戰は混入(こみい)つたものではないが、本能的に人間の醜い方面を知つて、其處に建てられた計畫であつた。そして彼女は成功を確信した。併し約束は愚者の餌食、契約證書は律義者の罠に過ぎぬ。およしを手に入れる前に岡崎は財產の少からぬ部分を抛たねばならなくなつた。

 

       

 

 太郞の父は太郞とおよしとの結婚を心から願つて、それを成り立たせようと一通りの手を盡くして見たが宮原家から判然(はつきり)した返答が得られぬのに驚かされた。彼は質朴な率直な人間だが同情的な性分に特有な直覺力があるので、平生好かぬお玉のわざとらしい丁寧な熊度から、これは望みがないなといふ疑惑を起こした。寧そ其疑惑は太郞に話すが宜いと考へて、打明けた處が、太郞は焦慮の餘り熱病に罹つた。併しおよしの繼母は、作戰の初期に太郞を失望に陷れようといふ意志はない。それで病中は親切げな傳言を人に託したり、およしにも手紙を出させたりしたので、彼の希望も又生き返るといふ、思ふ通りの結果を來たした。恢復後に太郞が尋ねて行くと、歡待して店でおよしと談話をさせた。が彼の父からの申込に就ては一言も云はなかつた。

 好いた同志には、又氏神の境内で折々出遇ふ機會もあつた。およしは繼母が末の孩兒を背負つて屢〻其處へ出懸けたのである。其處では守娘(もりつこ)や子供等や若い母達の間に混じつて、噂に上る憂ひもなく言葉を交はす事が出來た。一と月程の間は彼等の希望もかういふ風に何の邪魔も受けなかつたが、やがてお玉はからかひ半分に太郞の父に迚も出來さうもない金錢上の相談を持ち懸けた。彼女は己が假面(めん)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]の片隅を持ち上げたのである。岡崎は彼女の張つた網に掛かつて猛烈にもがいて居たが、もがきやうが激しいので、もう最後の決定も遠くないと見込んだからである。およしはまだこんないきさつは知らなかつたが、どうも太郞の處へ嫁(や)つて吳れぬではなからうかといふ不安を感じて、日增しに肉は瘦せ色は靑ざめつつあつた。

 太郞は或る朝およしに逢ふ機會もがなと思つて、末の弟を連れて氏神の境内に往つた。丁度出逢つたので何やら心配になるよしを告げた。それは太郞が子供の時、母が頸に掛けて吳れた小さい木の護符が、絹の袋の中で破(わ)れて居たといふのであつた。

『それは緣起が惡るい[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]のではありません』およしが云つた。『神樣が貴君を守つて下さつた證據(しるし)です。村に疫病が流行つた時、貴君も罹つたでせう、そして快くなつたでせう。護符(まもり)が守つて下さつたのです。だから破(わ)れたのです。今日にも神主に話して新しいのをお貰ひなさい』

 彼等は心甚だ樂まない[やぶちゃん注:ママ。]、遂ぞ今迄人に惡るい事をした覺えもない。それで自然因果應報の道理に話しが向いた。

 太郞は云つた。『己れ達はたしか前世で仇だつたのだらう。己れがお前に惡るい事をしたか、お前が己れにしたか、どつちかだらう。これは報(むく)いなんだ。坊さんはさう云ふよ』

 およしは例の冗談を交じへて答へた。『其時妾(わたし)は男で、貴君は女だつたのね。妾は貴君を思つて思ひぬいたのに、貴君は妾を嫌つたの。よく覺えて居ますよ』

『菩薩ぢやアあるまいし』太郞は悲み[やぶちゃん注:ママ。]を抑へて微笑みながら答へた。『前世の事を覺えて居られるものか。十階ある菩薩道の第一階に達した時、やつと覺えて居られるといふぢやアないか』

『妾が菩薩でないこと、どうして分かります』

『お前は女ぢやないか。女は菩薩になれやしない』

『併し觀音樣は女ぢやないの』

『それはさうさ。併し菩薩なら、お經の外に何も愛さないよ』

『お釋迦樣だつて奧樣も子供もあつたわ。そしてどちらも愛したぢやないの』

『さうさ。併しお釋迦樣は後に妻子を棄てたのだよ』

『お釋迦樣でもそれは惡るいわ。併し妾、其話みんな虛僞(うそ)だと思ひます。貴君妾を貰つたら、後で棄てるの』

[やぶちゃん注:「十階ある菩薩道の第一階」修行中である菩薩の境涯や位階は降順で妙覚・等覚・十地・十廻向・十行・十住・十信の五十二階位とすることが多いが(詳しくはウィキの「菩薩」を見られたい)、ここで言っている(原文は“It is only in the first of the ten states of Bosatsu that we begin to remember.”)ニュアンスとはどうも一致しないように思われ、これは寧ろ、「法華経」の「方便品」に説かれる因果律の「十如是(じゅうにょぜ)」の第一の「相(そう)」を指しているようである。ウィキの「十如是」によれば、『相(形相)・性(本質)・体(形体)・力(能力)・作(作用)・因(直接的な原因)・縁(条件・間接的な関係)・果(因に対する結果)・報(報い・縁に対する間接的な結果)・本末究竟等相(相から報にいたるまでの』九『つの事柄が究極的に無差別平等であること)をいい、諸法の実相、つまり存在の真実の在り方が、この』十『の事柄において知られる事をいう。わかりやすくいえば、この世のすべてのものが具わっている』十『の種類の存在の仕方、方法をいう』とある、その「相」は、一切のもののありのままの姿、あらゆる現象の仮の姿の奥にある真実の相の認知を指す。そこに至れば、輪廻の総てが知れるはずである。因みに、平井呈一氏の訳(一九七五年恒文社刊「東の国から・心」所収の「赤い婚礼」)]でも、『人間が前世のことをおもいだすのは、菩薩の十如の第一を観じて、はじめてできるんだそうだよ』と訳しておられる。

「觀音樣は女ぢやないの」観世音菩薩は女性的に造形されることが殆んどであるが、元は男性で、俗で信仰される中で女性化して行った(但し、インド土着の女神が仏教に取り入れられた可能性はある)。ブッダ以来、仏教は激しい女性差別宗教であって、変生男子へんじょうなんし)説(女性は如何なる功徳や修行を積んでも、一度、男性に生まれ変わらなければ浄土には行けない)が当たり前であったことはあまり理解されているとは思われない。]

 彼等はこんな理窟を云ひあつて時には聲を立てて笑つた。一緖に居るのがそんなに嬉しいのであつた。併し突然娘は嚴肅(まじめ)な顏をして云つた。――

『あのね、昨夜(ゆうべ)妾(わたし)は夢を見たの。知らない河と海があつて、妾は河が海へ流れ込む直ぐ傍(そば)に立つて居ましたの。すると何だかが理由(わけ)も分からずに慄然(ぞつ)としたんです。見ると河にも海にも水はなくつて、其代りに佛(ほとけ)の骨が一杯あるんです。それが丁度水の樣に動いて居るんですの。

『すると又いつか家(うち)に還つて居て、貴君から絹地の反物を貰つたのを衣服(きもの)に仕立てて着ましたの。處が驚いた事には、初めは色々の色模樣があつたのに、いつか眞白になつて仕舞つたんです。それを又何(なん)て頓馬でせう、死人の着るやうに左前に着たんです。それから親類廻はりをして、これから冥途へ參りますつて、暇乞ひをしましたの。みんなから何故行くかつて尋ねられて、返事が出來なかつたんです』

『それは善い夢だ』太郞が答へた。『死人の夢は目出度いんだ。多分夫婦になれる吉兆(しるし)だらうよ』

 此度は娘が答へなかつた。微笑さへしなかつた。

 太郞も暫く默つて居たが附け加へて云つた。『善い夢でないと思ふんなら、庭の南天の木へみんな小聲で話して了ふんだね。さうすると眞夢(まさゆめ)にならないよ』

 然るに其日の夜になつて、太郞の父は、およしは岡崎彌一郞の嫁に遣るといふ通告を受けた。

[やぶちゃん注:「南天」私も遠い昔に誰かから聴いた記憶があるが、恐らくは「なんてん」=「難転」(難が転ずる)の語呂合わせであろう。]

 

       

 

 お玉は實に怜悧な女であつた。今迄に遂ぞ大きな誤り等をしたことがない。彼女は愚劣な人間を何の苦もなく操(あやつ)つて成功して行くやうに巧く出來てる人間の一人であつた。忍耐、狡智、惡る賢い知疊、素早い先見、强固な勤儉など先祖代々の農民としての經驗が、彼女の無學な腦髓の中の完全な機關(からくり)に集中して居たのである。其機關は之を生み出した環境の中で完全に運轉した。そしてその機關にぴつたり當て嵌まるやうな百姓といふ特殊な原料を處理して行つた。併し祖先傅來の經驗でも說明することが出來ないので、お玉には理解の出來ぬ別種の人間があつた。彼女は武士と平民とは性來(しやうらい)が違ふといふ舊思想を强く疑つて居た。國法と習慣とで作り上げた差違の外には、武士階級と農民階級の間に何も相違はない。そして此國法と習慣とは惡るかつたと考へて居た。此國法と習慣との結果が昔の武士階級を無力に、阿房にして仕舞つたのだと考へて、竊に凡ての士族を輕蔑して居た。彼女は彼等が荒い勞働は出來ず、商法は全く知らぬ爲めに、金持ちから貧乏に落ちたのを見た。又新政府から彼等に與へた公債證書は、彼等の手から尤も卑劣な狡猾な山師の把握に歸したのを見て居た。彼女は意氣地なしと無能とを排斥した。そして極下等な八百屋でも、老體を晒して當初(そのかみ)通行の度每に、履物(はきもの)を脫いで土下座をさせた者から憐みを乞ふ家老の果てよりは遙かに優れた人間だと考へて居た。それでおよしの母が士族の女であることを何の光榮とも思はず、却つておよしの弱々しいのはそれが原因だと考へ、不幸な血統だと思つて居た。彼女は又およしの性格の中で、劣等階級に屬する彼女にも讀まれるだけは明瞭に讀み取つた。中にも此子は猥りに虐待しても何の德もないといふことを讀み取つた。そしてそんな性質はお玉も滿更嫌ひでもなかつた。けれどもおよしには彼女が判然と見定めることの出來ぬ他の特質があつた――妄りに現はしはしないが、道義上の過誤に非常に敏感な事、傷つけ難き自尊心、如何なる肉體の苦痛にも打勝ち得る意志の力を深く藏して居る事などである。それが爲め岡崎へ嫁(い)くのだと告げられた時のおよしの態度には、反抗を豫期して居たお玉はすつかり欺(だま)されて了つた。彼女は誤算をしたのである。

[やぶちゃん注:「阿房」「あほう・あほ」。「阿呆」に同じい。当て字であるが、これは意味ある当て字とされ、秦(紀元前二二一年~紀元前二〇六年)の始皇帝が建設を進めた「阿房宮」に因むとされる。記録に残るその宮殿の前殿だけで、東西約七百メートル、南北約百二十メートルにも及び、殿上には一万人の人間が参集して座ることができるだけの空間があったとされることから「馬鹿でかい」から転じたとするものである。]

 

 およしは初めは死人の樣に眞靑になつた。が、つぎの瞬間には顏を赧くして[やぶちゃん注:「あかくして」。]、微笑を浮かべて、お辭儀をした。そして孝心深い言葉遣ひで、萬事御兩親の仰せに從ひます、と答へて宮原夫婦を驚かした。彼女の態度にはその外に心中の不服を漏らすやうなところは見えなかつた。それでお玉は喜んで萬事をおよしに打明け、緣談進行中に起こつた喜劇を話したり、岡崎がどれ程の犧牲を拂はせられたかを精しく話しなどした。更に進んで、當人の承諾も求めずに、老人へ嫁(や)られる事になつた若い娘へ云ふやうな管々しい慰藉の詞の外に、岡綺操縱の方法といふ實際巧妙な祕訣を授けた。其間太郞の名は一度も口頭に上らない。およしは繼母の告諭にはおとなしくお辭儀をして好意を謝した。そしてそれは確に立派な告諭であつたのだ。實際怜悧な百姓娘が、お玉の樣な良敎師に十分に敎育されたら、岡崎の好伴侶となり得るに相違ない。併しおよしは全くの百姓娘ではない。彼女に保留せられて居た運命の宣告を聞いた後、最初は眞靑になり、つぎに眞赤になつたのは、お玉には全く推量も出來ぬ二樣の情緖から起こつたのである。そしてどちらもお玉が打算的の經驗に現はれたよりももつと複雜な、もつと迅速な頭腦の閃きを示すものである。

 最初のは、繼母が道義的に全く無感覺な事、抗辯の全然望みなき事、此結婚は不必要な利得を得ようとする唯一の動機から、此身を醜い老人に賣るに等しいこと、緣談の談合が殘酷で恥づベき所爲であつた事等を認めるに伴なつて起こつた恐怖の衝擊であつた。併しながら最惡の場合に面する勇氣や力と、强固な猾智に對抗する機智とが必要だといふ十分な認識が、直ぐ後から彼女の心に突進したのである。彼女が微笑したのは其時であつた。そして微笑した時には彼女の若い意志は、刅(は)もこぼさずに鐡を割く鋼(はがね)となつたのである。彼女は直ちに己が爲すべきことを精確に自覺した――武士(サムラヒ[やぶちゃん注:カタカナはママ。])の血がそれを敎へた。そして時機を伺はうといふ目算を立てたのである。彼女は其時既に聲を立てて笑はうとしたのをやつと制へ[やぶちゃん注:「おさへ」。]附けた程の勝算があつた。お玉は彼女が眼の中の光に完全に欺かれて、それはただ滿足の感を現はすものと思ひ、更に其滿足感は金持ちとの結婚で得られる利益の點を俄に悟つたものと想像した。

 其日は九月の十五日であつた。そして婚禮は十月の六日に舉げられる筈であつた。然るに其三日後に、お玉が朝早く起きて見ると、およしは夜の中に消え失せて居たのを發見した。内田の太郞は前の日の午後から父親に姿を見せなかつたといふ。併し二三時間後には兩人からの手紙が到着した。

 

       

 

 京都發の一番汽車が入つて來た。小さい停車場は雜沓と雜音に滿たされた。下駄の音、話し聲、菓子辨當を賣る村の子供の斷續する――『菓子よろし』――『壽司よろし』――『辨當よろし』――。五分間經つた。下駄の音も、列車の扉の開閉の音も、賣り子の叫び聲もはたと止んで、笛が鳴り列車が一と搖(ゆ)り搖れて動き出した。そして囂々[やぶちゃん注:「がうがう(ごうごう)」。]といふ音を立て煙を吐いて北の方へと徐に姿を隱すと、小さい停車場は空虛(からつぽ)になつて了つた。改札口に見張つて居た巡査も、木戶を締めて砂を撒いた步廊[やぶちゃん注:既出。「プラツトフオーム」。]に出て、稻田を見渡しながら步き廻はり始めた。

 秋――大明の節――が來て居た。太陽の光は俄に白く、影は鋭く、物の輪廓は凡て裂(わ)れたガラスの緣(ふち)の樣にかつきりと見える。夏の暑さで反(そ)り返つて久しく目に附かなかつた苔は復活して、凡て火山灰から出來た黑土の物陰になつてる明地(あきち)は、明かるく軟らかい綠色が一面に若しくは帶狀に擴がつて居る。松の樹の森は悉くツクツクボウシの鋭い聲で慄(ふる)へて居る。そしてあらゆる小さい堀や溝の上には、音のしない小さい電光の閃きが見える――濃綠色や薔薇色や鋼(はがね)色の光が稻妻形に音もなく動いて居る――蜻蛉が飛び違つて居るのである。

[やぶちゃん注:「大明の節」ここの原文は“Autumn had come,—the Period of Great Light.”であるが、二十四節気にはこんな節気はない。澄んだ空気の中、抜けるような大気の彼方の太陽から、乱反射しない強く逞しい豊饒を齎す光線が射す時節の意である。]

 朝の空氣の非常に透明なのに依るか、巡査は此時北の方を見ると軌道の遙か彼方に、何か或る物を見附けた。すると驚いて手を目の上に翳(かざ)し、そしてつぎに時計を引き出した。併し槪して日本の巡査の目は空を舞ふ鷹の眼の樣に、其視域内に何か變はつた事があると、屹度直ぐ見附ける。自分は嘗て遠い隱岐の國で、泊まつて居る宿屋の前の街路に假裝踊りがあるのを、人に見られずに見ようと思つて、二階の障子に小さい穴を明けて覗いたことがある。すると、下を雪白の制服と帽子被(ぼうしおほ)ひとを着けた巡査が濶步して居た。時は夏の眞中であつた。彼は踊り子と見物の中を分けて進んだが、何を見る樣子もなく、首を左右に曲げることさへしなかつた。然るに彼は突然足を停めて眼を丁度障子の穴へ据ゑた。それは彼が直に其恰好から外人の眼だと思つたものを認めたからである。そして宿屋へ這入つて來て自分の旅劵に就て問ひ質した。併しそれは既に檢べられて居たものであつた。

[やぶちゃん注:ここに記されたエピソードは載らないが、私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (六)』から最後の『(三十五)』までが(一部脱線が含まれるが)隠岐旅行の随想である。巡査が絡んだ野次馬のエピソードなら『(三十一)』がある。]

 さて停車場で巡査が認めて後に報告したのは、停車場の北半哩餘[やぶちゃん注:既出既注。約八百五メートル余り。]の處で二人の人間が、明らかに村のずつと北西方の百姓小舍から出て來て、田甫を橫切つて軌道に達した事であつた。其一人は女で衣服と帶の色で極若い女だと彼は斷定した。其時東京發の急行列車が、あと十分で到着する筈で、其進んで來る煙は既に停車場から見分けられるのであつた。二人は列車の來る軌道に沿うて走り始めたが、曲り角を過ぎると見えなくなつた。

 此二人は太郞とおよしであつた。彼等が走つたのは一は巡査の目を逃れる爲め、一は出來るだけ停車揚から離れて列車に出會ふ爲めであつた。併し曲り角を曲ると煙の來るのが見えたので走るのを止めて步いた。汽車の車體が見え出すと機關士を驚かさぬ爲めに一旦軌道を離れた、そして手に手を取つて待つて居た。忽ち低いどよめきが聞こえたので、時こそ至れりと、再び軌道に步み還つた。くるりと方向(むき)をかへると兩腕をお互に捲きかけ頰と頰とを押し附けて、靜に素早く、其時既に突進して來る汽車の震動で、金砧[やぶちゃん注:「かなとこ」。金床。]の樣に唸つて居る内側の鐡軌へ橫さまに寢轉んだ。

 太郞は微笑んだ。およしは太郞の頸へ廻はした腕をしめて耳元へささやいた。

『二世も三世も妾は貴君の妻、貴君は妾の夫ですよ、ね! 太郞さん』

 太郞は何も云ふ暇(ひま)もなかつた。其瞬間に、空氣制動機のない汽車は、停めようと焦(あせ)つても距離は百碼餘りしかないので、遂に二人の上を通過した――大きな鋏の樣に平等に切斷して。

[やぶちゃん注:「空氣制動機」原文“airbrakes”。圧縮空気でブレーキ・シリンダーを動かしてブレーキをかける装置。後の汽車には装備された。

「百碼」九十一メートル強。]

 

       

 

 村人は比翼塚の上へ花を一杯挿した竹筒を立て、線香を燒いて祈りを上げる。これは決して正則ではない、といふのは佛法では情死を禁じてあるのに、此處は寺の慕地であるから。併しこれには宗敎がある――深い崇敬を値する宗敎がある。

 讀者は、かういふ死者に人々は何故(なぜ)又、どうして祈るかと疑ふであらう。が凡ての者が祈る譯ではない、ただ戀をする者、殊に不幸な戀人が祈るのである。其他の者はただ香花を供へ、經文を唱へるだけである。併し戀する者は靈驗ある同情と助けを祈るのである。自分も其故を尋ねた事があるが、答は單に『此二人は並々ならぬ苦痛を甞めたからです』といふにあつた。

 されば、この祈りを促す思想は、佛敎よりも古く同時に新しいものであるやうに見える――卽ち永遠の苦痛の宗敎といふ思想である。

[やぶちゃん注:底本では、最終行に一字上げインデントで『(田部隆次譯)』、次の行に同じインデントで『The Red Bridal.Out of the East.)』とある。

「佛法では情死を禁じてある」小泉八雲が何の資料を以ってかく言っているのか是非とも知りたいところだが、仏教では情死(心中)や自殺を決して禁じていない(積極的に認めているわけではないが)。寧ろ、「心中」の根本には、古来からの仏教的な教えとされる「世の契り」(相愛の者同士は現世・来世及びとその次世まで結ばれ続けるとするもの。親子の結びつきは二世までとされる)が語り伝えられ、現世では事実上結ばれなくても、来世で結ばれると固く信じられたことが江戸時代の心中美化と心中物の流行を生んだことは周知の通りである。

 最後に。本話のロケーションであるが、「七」で、二人が心中する場所の近くの駅に「京都發の一番汽車が入つて來」、少し遅れて「東京發の急行列車が」「到着する」(通過ではないことに注意)と述べていること、「壽司」や「辨當」といったしっかりした昼食がその駅で車両に対して売られていること、駅の傍の空き地は「火山灰から出來た黑土の物陰になつて」いると言っていることが鍵となる。これは総合的に考えるなら、火山灰由来の黒土は東京・神奈川でも見られるが、当時の東海道本線沿線で、京都発の一番電車が昼過ぎ頃には着き、急行列車が停車する駅に近い、則ち、東海道線の丁度、中間部辺りの、現在の中・大型都市部近くの、やや平地内陸の農村の何処かであることを意味していると私は読む。しかも小泉八雲はロケーションに富士山を全く語っていないから、静岡以東は外さねばならない。とすると、愛知県の東部か静岡静岡の中西部か。「一」に川幅の大きな浅い川が登場するので、これを磐田市・袋井市を南流して遠州灘に流れ込んでいる太田川(グーグル・マップ・データ。天竜川では浅いとは言えないのでこちらを挙げた)ととると、駅は掛川が、村はその太田川の中流平野部附近(グーグル・マップ・データの航空写真。「一」の「西は靑い山脈に圍(かこ)ひ込まれ、東は森林の茂れる丘陵に仕切られてる、廣濶な水田の中を橫斷して居る」というのは地形的には一致しそう。但し、「南北は地平線に連らなり」というのは外れる。しかし、南北に開けている場所は、まず、東海道全体を考えても見出すのは難しい気がする)が一つの候補となるのではないかと考えている。

 追記。小泉八雲は本篇本文で一度も“red”という単語を使っていない。読者はコーダの鮮血の色がそれだと思うだろうが、そんな即物的にしてスプラッターな情感を小泉八雲は決して持たないと私は絶対に思うのだ。さすれば、この「赤い婚礼」とは、私たちがよく知っている伝承――結ばれる二人は目に見えない「赤い」糸で結ばれている――というそれをこそ暗示した題名ではなかったろうか?

【二〇一九年十月二十二日:追記】
別な作品について小泉八雲が素材とした実際の事件を調べていたところ、「青空文庫」の本作の林田清明氏の訳と解説(初登録二〇一六年十二月十九日)に、本作の素材としたとされる実際の事件の記事(英文雑誌掲載)と訳、及び、その解説が載るのを見出した(林田清明氏の著作権は存続している。但し、原著(訳)者を表示し、無改変であれば、翻訳著作権者に断りなく自由に利用・複製・再配布が許諾されてある。以下、引用させて戴くが、孫引きは誤りを齎す可能性があるので、なさらず、原ページから成されたい)「赤い婚礼」の解説(図書カード内)に、『松江時代の、“Suicide on Railway”, in Japan Weekly Mail 1891年2月28日付の新聞記事 (同記事の全文と試訳は本文の訳注に掲載)にヒントを得て、約3年弱ほど温められた後、熊本時代に書き上げられて』、本作の初出である明治二七(一八九四)年『 Atlantic Monthly 誌に掲載された』とされ、『上の Japan Weekly Mail 記事の時期の前後にも、作者は実際に松江で起きた若者による心中事件を詳細に書き留めている。1891(明治24)年1月25日と同年4月15日である。1月の事件は作品「心中」でも触れられているが、当事者の源氏名が「よし子」というのも本作品の登場人物名に関連するかもしれない。また主人公たちへの作者の一貫した共感はつぎのものに現れているように思う。「私は変わり者だから、血気盛んな青春時代に恋や名誉のために自殺できるような気性の人々はもっと心が広く、もっとも勇気ある人々の仲間だと信じている。」(「島根・九州だより」(桝本幹生訳)『ラフカディオ・ハーン著作集第15巻』(恒文社、1988)472ー473頁)』とあって、林田清明氏の訳「赤い婚礼」本編の最後の訳註(d)に、以下のようにある。なお、一部に字下げやインデントが成されてあるが、字配はブラウザの不具合を考えて再現していない。これは改変の類には入らないものと思うが、一言断っておく。

   《引用開始》

(d)本作品は “Suicide on the Railway”, Japan Weekly Mail 1891年2月28日付の記事にヒントを得たものと言われている。同記事全文と試訳はつぎのとおりである。

    SUICIDE ON THE RAILWAY
The officials in charge of a train on the Takasaki line reported on Monday at Uyeno a painful incident that occurred on the trip to the capital. After leaving Honjo, about four miles from the station, the train having then attained a high speed, the driver observed two persons standing at the side of the line, and concluded that they intended to cross after the passage of the train. But when the engine was within less than a hundred yards away, the pair, who by this time could be seen to consist of a youth and a girl, the latter exceedingly pretty, turned to each other, embraced, and then, thus clasped together, lay down on the nearest rail. Of course not a moment was lost in the endeavour to stop the train, but on this line vacuum brakes are not in use, and under the circumstances described ordinary brakes were of little value. The train stopped some twenty minutes by the poor mangled bodies, while arrangements were made for their disposal, and during the interval it was found that, being forbidden to wed, the unhappy couple had chosen to die in each other's arms.
(出典:原文画像を参照)

   「鉄道自殺」
 月曜日、高崎線の当局者は東京行上り列車で発生したる痛ましき事故につき鉄道管理局上野駅に報告せり。本庄駅発車後、約六・四キロメートルの地点で高速となりしが、機関士が線路の傍に立てる二名を発見するも、通過後に横断せんとするものなりと判断す。しかるに機関車が一〇〇メートルばかりに接近せしときに、彼の二名が青年と甚だ容姿端麗なる少女なりと認むるも、両名は向き合うと抱擁し、互いをひしと抱き着きたるまま近くの線路の上に横たわりし。直ちに列車を緊急停止せんとするも、本線の機関車には空気圧式ブレーキの装備なく、かかる事情下にありては通常の機械ブレーキは殆ど効かざるにして、停止する能わず。列車は轢断されしを処置せんが為二〇分ばかり停車せり。この間判明せしは、不幸なる両人が結婚を禁じられたるが故に互いの腕に抱かれて死ぬるを選べりしとぞ。
(林田・訳)

   《引用終了》]

 

2019/08/25

生と死の斷片 小泉八雲(LAFCADIO HEARN)(田部隆次訳)

 

[やぶちゃん注:本作(原題は“BITS OF LIFE AND DEATH”。私は「生と死の断章」と訳したい)は明治二八(一八九五)年にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された作品集“OUT OF THE EAST:Reveries and Studies in New Japan”」(「東方の国から――新日本に於ける夢想と研究――」:来日後の第二作品集)の第五章(大見出しナンバー)に配された作品である。同作の原文は、「Internet Archive」のこちらから原本当該作画像が、活字化されたものが「The Project Gutenberg」のここの“V BITS OF LIFE AND DEATH”で読める。なお、私が標題に小泉八雲の元の名(正確には Patrick Lafcadio Hearn)の名を添えたのは、本書刊行時は未だ「小泉八雲」を名乗っていないからで、彼の帰化手続が完了して「小泉八雲」と改名したのは、本書刊行の翌年である明治二九(一八九六)年二月十日のことであったことを意識してのものである。但し、実際には生前に刊行された英文著作は改名以降も総て「Lafcadio Hearn」名義ではある。

 底本は、サイト「しみじみと朗読に聴き入りたい」の別館内のこちらにある、昭和二五(一九五〇)年新潮文庫刊の古谷綱武編「小泉八雲集 下巻」の田部隆次氏の訳の「生と死の斷片」(PDF)を視認した。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 なお、作中内の時制とロケーションであるが、本書刊行時、小泉八雲は神戸におり、無職であった(熊本第五高等学校は明治二七(一八九四)年十月までに退職し(契約切れと、五高に馴染めなくなっていたこと(特に明治二四(一八九一)年(十一月十五日着)に五高に彼を招いて呉れ、敬意を持っていた校長嘉納治五郎が転任して以降)等の外に、著作への専念の希望もあった。神戸着は明治二十七年十月十日)、同月九日に『神戸ジャパン・クロニクル』社に記者として就職、神戸に転居していたが、疲労から眼を患い、この年の一月に退社していた)が、作中のそれは熊本五高時代(始め熊本市手取本町(現在は熊本市中央区)で、後、明治二六(一八九三)年の秋に坪井西堀町(同前)へ移った。前者は上田和夫訳「小泉八雲集」の年譜によると、『静かな士族屋敷』とあるので、本文の「二」以降の内容から見て、後者であると私は思う)の上記の閉区間内となる。

 「一」の後は行間がないが、他「二」以降に合わせて一行空けた。また、「三」の原註はポイント落ちで全体が本文で七字分下げてあるが、本文同ポイントで示し、ブラウザでの不具合を考えて、一行字数を減じて改行してある。同じことを、「六」のト書きでも施した。また、このシナリオ形式の前半部分は各人の登場人物の名を冠した台詞初行が一字下げであるが、これは無視して行頭に引き上げてある。転載される御場合は、底本を見られ、そのように直されたい。

 なお、いらぬお世話とも言えようが、一部で私の注を当該段落の後或いは文中に附した。但し、今回は、幾つかについては調べたものの、種々の、主に人権上の配慮から注を附さなかったり、簡略にした箇所もあることをお断りしておく。]

 

 

    生 と 死 の 斷 片

 

       

 

 七月二十五日。今週私の家に三つの變つたおとづれがあつた。

 

 第一は井戶替職人であつた。每年一囘は凡ての井戶がからになるまで吸み替へられねばならない。さうしないと水神樣の怒りを招く。この折に私は日本の井戶とその守護神の事について學んだ事が多少ある、井戶の守護神には名が二つあつて、又水波之賣命(ミヅハノメノミコト)とも云はれる。

[やぶちゃん注:「吸」はママ。「汲」の誤植であろう。

「水波之賣命(ミヅハノメノミコト)」ウィキの「ミヅハノメ」によれば、「古事記」では、「弥都波能売神(みづはのめのかみ)」、「日本書紀」では「罔象女神(みつはのめのかみ)」と表記する。『神社の祭神としては水波能売命などとも表記される。淤加美神』(おかのかみ:伊邪那岐が迦具土(かぐつち)を斬り殺した際に生まれたとされる。私は神名をカタカナ表記するのを好まない)『とともに、日本における代表的な水の神(水神)である』。「古事記」の神産みの段において、カグツチを生んで陰部を火傷し苦しんでいたイザナミがした尿から、和久産巣日神(ワクムスビ)とともに生まれたとし』、「日本書紀」の『第二の一書では、イザナミが死ぬ間際に埴山媛神(ハニヤマヒメ)と罔象女神』(みつはのめのかみ:同じく水神)『を生んだと』する。なお、次段で小泉八雲は「この神に捧げてある神社を見た事はない」と記しているが、『丹生川上神社(奈良県吉野郡)などで淤加美神とともに祀られているほか、各地の神社で配祀神として祀られている。大滝神社(福井県越前市)摂社・岡田神社では、ミヅハノメが村人に紙漉を教えたという伝説が伝わっている』とある。]

 水神樣は水を淸く冷くして凡ての井戶を守護する、その代り家主の方では嚴しい淸淨法を守らねばならない、その規則を破る人には病氣それから死が來る。稀にこの神は蛇の形となつて現れる事がある。この神に捧げてある神社を見た事はない。しかし每月一度神主が井戶のある信心深い家を訪ねて水神に何か古い祈りをする、そして井戶の端に何かの符號の小さい幟を立てる。井戶替のあとでもやはりこの事がなされる。それから新しい水をくむ第一のつるべは男子によつてくまれる、もし婦人が初めに水をくめば、その井戶はそれからあといつも濁るからである。

 水神にはその仕事の小さい助手がある。日本人が鮒と呼ぶ小さい魚である。水蟲を退治するために一つ二つの鮒はどの井戶にも飼つてある。井戶替の時この小さい魚を甚だ大事にする。私が始めてうちの井戶に二つの鮒の居る事を知つたのは井戶替職人の來た時であつた。鮒は井戶に水の滿つる間冷水の桶に入れられて、それからもとの淋しさへ再び投ぜられた。

[やぶちゃん注:「水蟲」原文は“the water of larvae”。“larvae”(ラーヴィ)は「幼虫」を意味する“larva”の複数形。言わずもがな、ボウフラを代表に考えればよろしい。]

 私の井戶の水は綺麗で氷のやうに冷たい。しかし今ではそれを飮む每にいつでも暗黑のうちを徘徊して、下りて來て水に落つるつるべによつていつまでも驚かされるそれ等の二つの小さい白い生命を思はずには居られない。

 

 第二の變つたおとづれは、裝束をつけて手で動かす火消ポンプを携へた土地の消防であつた。昔の習慣に隨つて土用の間に年一囘彼等の持場を一𢌞りしてあつい屋根に水をまいて、富んだ家家から何か少しの報酬を受ける。長い間屋根に雨が落ちなければ太陽の熱だけで燃え出す事もあると信ぜられて居る。消防は私の屋根、樹木、庭園へ蛇管(ホース)を向けて非常に淸々した氣分にしてくれた、そしてその代りに私は酒代を與へた。

 

 第三のおとづれは、地藏のお祭りを適當に行ふために少しの助力を乞ひに來た子供の總代であつた、この地藏の堂は街路の向側で丁度私の家に面したところにある。私はその資金へ寄附する事を甚だ喜んだ、私はこの溫和な佛を愛するからである、そして私はその祭禮は面白いだらうと思つた。翌朝早く私はその堂がすでに花と奉納の提燈とで飾つてあるのを見た。新しいよだれかけが地藏の首の𢌞りにかけられて、佛式の御膳はその前に供へてあつた。あとで大工連が子供の躍るために地藏堂の廣場に舞臺を組み立てた、そして日のくれる前におもちや屋連が境内に一列の小屋をたてて商店を列べた。夜になつて私は子供の躍りを見るために如何にも綺麗な提灯の光の中へ出かけた、そして私は私の門の前に三尺以上の巨大なとんぼの止まつて居るのを見た。それは私が子供等に與へた少しの助力に對する彼等の感謝のしるしの飾りであつた。私は一時その眞に迫つて居るのにびつくりした、しかしよく調べて見ると、からだは色紙でつつんだ松の枝で、四つの翼は四本の十能で、光つた頭は小さい土瓶である事を發見した。全體は非常な影のでるやうに置いた提灯でてらされてゐた、その影も考案の一部であつた。美術的材料の一點もなくしてつくつた美感の驚くべき一例であつた、しかも全くそれは僅か八歲の貧しい子供の仕事であつた。

[やぶちゃん注:「十能」原文“fire-shovels”。点火している炭火を運んだり、かき落したり、石炭ストーブの石炭補給や灰を取出すのに用いる道具。金属性の小型のスコップ(シャベル)状のものが多い。炭火を運ぶだけのものでは金属製の椀状の容器に木製の台と柄をつけたものがあり「台十能」と呼ぶ。ここはそれであろう。]

 

       

 

 七月三十日。南側の私の隣りの家(低い陰氣な建物)は染物屋である。日本の染物屋のあるところは、日に乾かすために家の前に竹竿の間に絹や木綿の長い切れ、濃い靑、紫、薔薇、薄靑、銀鼠の色の廣い帚帶が張り渡してあるのでいつでもすぐに分る。昨日私の隣人がその家庭を訪問するやうに私を誘うた。そしてその小さい表の方を通つたあとで、私はどこか古い京都の御殿に置いてもよい程の庭園に臨んだ奧の緣側から眺めて居る事に漑がついて驚いた。そこに優美な築山の山水があつた、そして淸い水の池があつて不思議に複雜な尾をもつた金魚がゐた。

 暫らくこの景色を眺めて居ると、染物屋は佛間になつて居る小さい部屋へ私を案内した。何でも必要上小規摸にできて居るが、私はどこの寺でも、これよりもつと美術的な物を見た覺えはない。彼は私に千五百圓かかつたと告げた、私はそんな金額でどうして足りたか分らなかつた。三つの入念に彫刻した壇、――漆と金とで光つた三重の壇、やさしい佛像の數々、多くの精巧な器物、黑壇の經机、木魚、二つの立派な鐘、つまり一つの寺院の諸道具一式が縮形になつて居た。私の主人は若い時お寺で勉强した事があつた、そして御經を知つてゐた、淨土宗に用ひられる御經は悉くもつてゐた。普通の讀經なら何でもやれると私に語つた。每日一定の時刻に家族全部がお參りのために佛間に集まる、そして主人は一同のために讀經する。しかし特別の場合には近所の僧が來てお勤めをする。

[やぶちゃん注:「千五百圓」先の「人形の墓」でも挙げたが、「野村ホールディングス」と「日本経済新聞社」の運営になる、こちらの記事によれば、本作が発表された翌々年(明治三〇(一八九七)年)頃で、『小学校の教員や』巡査『の初任給は月に』八~九『ぐらい』で、『一人前の大工』『や工場のベテラン技術者で月』二十『円ぐらいだったようで』、『このことから考えると、庶民にとって当時の』一『円は、現在の』二『万円ぐらいの重みがあったのかもしれ』ないとするから、小泉八雲は「私はそんな金額でどうして足りたか分らなかつた」と言っているが、どうしてこれは実に三千万円相当となる。]

 

 彼は私に盜賊に關する珍らしい話しをした。染物屋は格別泥棒に入られ易い、幾分はそこに委託してある高價な絹のため、又この職業は儲けが大きいと知られて居るからである。或晚このうちへ泥棒が入つた。主人は町にゐなかつた、老母と妻と女中だけがその時うちにゐた。覆面をして長い刀を携へた三人が、うちに入つた。一人は女中に職人が誰かまだこの家に居るかと尋ねた、そこで泥棒をおどかさうと思つて、女中は、若い衆は皆未だ仕事をして居ると答へた。しかし泥棒はこの證言にはびくともしなかつた。一人は入口に立番し、二人は寢室へ大股であるいて行つた。女達は驚いて立ち上つた、そして妻は『どうして私達を殺さうとするのです』と尋ねた。頭らしい男は答へた、『殺さうとは思はない、金が要るだけだ。しかし金を出さなけりやかうだ』と云つて刀を疊につきさした。老母は云つた、『どうか嫁をおどかして下さるな、さうすればうちにあるお金はありたけ上げます。しかし御承知下さい。倅は京都へ行つてゐますから澤山あるわけはありまぜん』彼女は金簞笥の引出しと自分の財布とを渡した。丁度二十八圓と八十四錢あつた。泥棒の頭はそれを數へて甚だ穩かに云つた、『あんたをおどかしたい事はない。あんたは大層信心深い人だと云ふ事は知つて居る、それで虛言は云はないだらうね。これで皆ですか』『はい、皆です』彼女は答へた『おつしやる通り私は佛法を信じて居ります、それであなたが今私の物を取りにお出になるのは全く昔私自身前の世であなたの物を取つた事があるからだと信じて居ります。これはその罪のための罰です。それですから虛言を云ふどころか、この際前の世であなたに對して犯した罪の償ひのできる事を有難く思ひます』泥棒は笑つて云つた『あんたはよいおばあさんだ、あんたの云ふ事は疑はない。あんたが貧乏だつたら、わしもあんたの物を取らうとはしない。そこで着物を二枚ばかりとこれだけ欲しい』と云つて甚だ立派な絹の羽織に手をかけた。老婦人は答へた『倅の着物は皆でも上げませう、しかしそれは取つて下さるな、倅の物ぢやありません、只人から染めるために預かつて居る物ですから。私共の物なら上げますが、人樣のものは上げられません』『それは全く道理だ』泥棒は承認した『それぢやそれは取らない』

 僅かの着物を受け取つたあとで、泥棒は甚だ丁寧にお休みなさいと云つたが、婦人達に自分等のあとを見送らないやうに命じた。年老いた女中はやはり戶の近くにゐた。泥棒頭はそこを通つたとき『貴樣は虛言をついたな――それやる』と云つて彼女を打ち倒して氣絕させた。泥棒は一人もその後捕へられなかつた。

 

       

 

 八月二十九日。或佛敎の宗派の葬式によつて、屍が燒かれた時に、佛樣と云ふ小さい骨、一般に喉の小さい骨と想像される骨が灰の間からさがされる。實際どんな骨だか、そんなかたみを調べる折がなかつたから私は知らない。

[やぶちゃん注:「喉の小さい骨」言わずもがなであるが、実際の咽仏(のどぼとけ)は甲状軟骨で焼かれて消失する。事実は普通見せられるのは第二頸椎の骨である。この呼称は一般には頸椎骨(七つある)の見た目が仏が座って合掌している姿に似ているからとされる。]

 火葬のあとで見出されたこの小さい骨の形によつて死者の來世の有樣が像言される。その魂の次ぎの狀態が幸福であれば、骨は佛の小さい姿の形になる。しかし來世が不幸になる時には醜い形になるか、或は全く形がない。

 小さい男の子、隣の煙草屋の倅が一昨夜死んだ、そして今夜死骸が燒かれた。火葬のあとに殘つた小さい骨に、三體の佛の形が發見された、それがあとに殘つた兩親に少しは精神的慰籍を與へるであらう。

 

     註 大阪天王寺ではこの骨が窖へ投
     ぜられるが、その時の音で、又後生に
     關する知らせが與へられると信ぜられ
     て居る。この骨が集まつて百年になる
     と、それを粉末にして、それをこねて大
     佛を造ると云ふ事である。

[やぶちゃん注:「天王寺」大阪市天王寺区四天王寺にある聖徳太子建立七大寺の一つとされている荒陵山(あらはかさん)四天王寺。本尊は救世(ぐぜ)観音。もともと特定の宗派に属さない八宗兼学で(本書刊行当時は天台宗であったと思われる)、現在は単立の「和宗」の総本山。

「窖」「あなぐら」と読む。原文は“a vault”で、英語では「教会や墓所の地下納骨所」を意味する。但し、ネットを検索してもこの特異な葬送儀礼は見当たらず、現在も行われているかどうかは不明である。そのようなもので出来た仏像というのも私は寡聞にして聴いたことがない。非常に興味深いので、何かご存じの方は是非とも御教授を願う。]

 

       

 

 九月十三日。出雲松江からの手紙に、私に羅宇を供給した老人は死んだと云つて來た。(日本のキセルは普通三つの部分、印ち豆の入る程の大きさの金屬製の雁首と、金屬製の吸口と、一定の時に取りかへられる竹の軸からできて居る事を讀者は知らねばならない)この老人は羅宇をいつも甚だ綺麗に塗つた、或は豪猪(やまあらし)の刺(はり)のやうに、或は蛇の皮の圓筒のやうに。彼は市(まち)はづれの變な狹い小さい町に住んでゐた。私はその町を知つて居るのは、そこに白子地藏と云ふ名高い像があるからである、この地藏は私は一度見に行つた。人はその顏を何かの理由で舞子の顏のやうに白くする、その理由を私はどうしても発見する事ができないで居る。

[やぶちゃん注:「羅宇」(らう)は小泉八雲が説明している「竹の軸」の部分。キセルの火皿と吸い口とをつなぐ竹の管。「羅宇」は単なる当て字で、ラオス(Laos)産の竹を使ったことに由来し、「らお」とも呼ぶ。

「白子地藏」原文を見ると“Shiroko-ō,—"White-Child-Jizō,"”とあるので、「しらこ」ではなく、「しろこ」である。しかし、ネット上では見当たらない。但し、「八雲会」(私の電子化をいつも気にしてリツイートして下さる)公式サイト内の一九八七年同会刊の梶谷泰之氏の「へるん百話―小泉八雲先生こぼれ話集」の紹介ページの「目次」に「白子地蔵」があるので、読む機会があったら、追記する。]

 老人にお增と云ふ娘が一人あつた、それについて物語がある。お增は今も存命である。長い間幸幅な妻となつて居るが啞である。ずつと昔怒つた群集が市中の或米相場師の家と倉庫を荒して破壞した。小判の大分交つて居る金錢は往來中にまき散らされた。暴徒(無敎育な正直な農夫)はそれを欲しがらなかつた、彼等は盜まうとしないで破壞しようと思つた。しかしお增の父はその晚泥の中から小判を一つ拾つてうちへ歸つた。あとで近所の人が告發したので彼は拘引された。彼を前に引出した判事はその當時十五のはにかんだ娘のお增を詰問して何か證據を得ようとした。彼女はもし續いて答へてゐたら、われ知らず父のためにならない證據を與へる事になるだらうと感じた、彼女は彼女の知つて居る事を何でも彼女に認めさせるやうに造作なく强ひる事のできる熟練なる審問者の前に居る事を感じた。彼女は默つてしまつた、そして口から血が流れ出た。只舌をかみ切つて永久に無言になつたのであつた。父は赦された。その行爲に感嘆した或商人は彼女を娶つて年老つた彼女の父を養つた。

 

       

 

 十月十日。子供の生涯のうちに前生の事を覺えてゐてその話をする日が一日、たつた一日だけあると云はれる。

 丁度滿二つになるその日に、子供は家の最も靜かなところへ母につれられて箕の中に置かれる。子供は箕の中に坐る。それから母は子供の名を呼んで、『お前の前生は何であつたかね、云うてごらん』と云ふ。そこで子供はいつも一言で答へる。不思議な理由で、それよりも長い答の與へられる事はない。時に返事は謎のやうで、それを解釋するのに僧侶か易者を賴まねばならない事がよくある。たとへば昨日銅鍛冶の小さい倅はその不思議な問に對してただ『梅』と答へた。ところで梅は梅の花か梅の實か、女の名の梅かの意味に取れる。その男の子は女であつたと云ふ意味だらうか、或は梅の木であつたらうか。ある隣人は『人間の魂は梅の木には入らない』と云つた。今朝易者はその謎について問はれて、その男の兒は多分學者か詩人か政治家であつたらう、それは梅の木は學者、政治家、及び學者の守護神である天神の象徵であるからと斷言した。

[やぶちゃん注:「箕」(み)。原文は“a mi, or rice-winnowing basket”で田部氏は判り切っているから省略している。今や外国人のためではなく、日本人の若者のために注を附さねばならない時代となってしまった。穀物を入れて煽り、その中の籾殻や塵などを篩(ふる)い分ける塵取り状をした農具。藤蔓・柳・割り竹などで編んで作る。

「お前の前生は何であつたかね、云うてごらん」の部分は原文でも“"Omae no zensé wa, nande attakane?—iute, gōran."”と生の日本語をローマ字で示し、小泉八雲が章末に “"Thy previous life as for,—what was it? Honorably look [or, please look] and tell."”(「お前はその前世で何だったのだい? どうか、ちゃんと(又は「どうか、後生だから(お願いだから)」)ね、教えておくれ。」)と注を附すという臨場感を大切にした体裁を採っている。]

 

       

 

 十一月十七日。日本人の生活の事で外國人にはどうしても分らない事を書いた驚くべき書物を作る事ができよう。その書物のうちには稀れではあるが、しかし恐るべき憤怒の結果に關する硏究がなければならない。

 國民的法則として日本人は容易に怒りを表はさない。下層社會の間でさへ、重大なる威嚇は微笑と共に、君の恩は忘れない、こちらは感謝して居ると云ふ證言になる事が多い。(しかし、これは私共の言葉の意味で反語と想像してはいけない、それはただ婉曲な辭令で、――酷い事を本當の名で呼ばないのである)しかしこの微笑の證言は死を意味する事がないとは云へない。復讐の來る時には不意に來る。日本國内なら距離も時間もその復讐者、一日に五十哩步ける、荷物は極く小さい手拭に皆包める、忍耐は殆んど限りを知らないと云ふその復讐者には、何の故障にもならない。彼は庖丁を選ぶ事もある、しかしそれよりも刀、――日本の刀を使ふ事がもつと多い。これが日本人の手で使はれると最も恐るべき武器となる、そして怒つた人が十人もしくは二十人を殺すに一分まではかからない。下手人は逃れようと考へる事は餘りない。古への習慣は人を殺したら自分で死ぬべき事になつて居る、それ故警官の手に落つる事は恥辱である。豫じめ準備をして書置をして、葬式の用意をして、事によれば(昨年の或物凄い例にあつたやうに)自分の墓石まで彫つて置く。自分の復讐を充分に仕遂げてから自殺する。

[やぶちゃん注:「重大なる威嚇は微笑と共に、君の恩は忘れない、こちらは感謝して居ると云ふ證言になる事が多い」これは逐語的には正しいのだが、どうもシチュエーションとして想起しにくい。敬愛する平井呈一氏の訳(一九七五年恒文社刊「東の国から・心」所収の「生と死の断片」)のすっきりと鯔背に訳された当該部を引用しておく。

   *

なにかむきになって人を嚇(おど)しつけるようなばあい、その威嚇は、おめええの心持はおれは忘れねえからこそ、こして怒ってるんだぜ。‥‥すると怒られる方でも、そのお心もちはほんとにありがてえと思ってます。――といったような、ちょっと見得(みえ)をきったようなことばを、おたがいに笑顔まじりにかわしあう、という形をろることが多い。

   *

意訳とも言えるが、なんと、小泉八雲が大事にした臨場感に富んだ名訳ではないか。インキ臭い学誰彼の訳より、何よりも遙かに文学として優れている。

「五十哩」「哩」は「マイル」。約八十キロメートル。]

 熊本から餘り遠くない杉上と云ふ村にさう云ふ分らない悲劇が一つ、ついこの頃起つた。主なる役者は、成松一郞、若い店商人、妻おのと二十歲、結婚して僅かに一年、それからおのとの母方の叔父杉本嘉作なるもの、一度入監した事のある怒りつぽい男、これだけであつた。この悲劇は四幕であつた。

 

   第一段。場面――錢湯の内部。杉本嘉作
   入浴中。成松一郞入場、着物を脫ぎ、自
   分の親戚の居る事に氣がつかないで蒸氣
   の立ちこめて居る湯に入る、そして大聲
   で叫ぶ、――

『ああ、地獄のやうだ、この湯は、あつい、あつい』

   (『地獄』は佛敎の地獄の意味だが、監獄
   の事にもなる――この時は不幸なる暗合
   であつた)

嘉作(非常に怒つて)『おい小僧、喧嘩をする氣だね、何が氣に入らないんだ』

一郞(不意に出られてびつくりする、しかし勇鍼を起して嘉作の調子に反抗する)『なに、何だ、おれが何を云はうと勝手だ。湯が熱いと云つたつてお前にもつと熱くしてくれとは賴まない』

嘉作(けはしくなつて)『おれの失敗で一度ならず二度迄監獄に行つたつて何も不思議な事はない、貴樣はばかか惡者にちがひない』

   (互に飛びかかる隙をねらつてにらみ合
   つて居るが、互にためらつて居る、しか
   し日本人の口にしないやうな事を云ひ合
   つて居る。この老いたる人と若い人は互
   角の力だから手出しができない)

嘉作(一郞が怒つて來るに隨つて靜かになつて來る)『小僧、小僧のくせにこのおれと喧嘩する氣か。貴樣のやうな小僧は妻などもつてどうする。貴樣の妻はおれの親戚だ。地獄から來た男の親戚だ。おれのうちへ返しに來い』

一郞(今腕力では嘉作の方が上手(うはて)である事が充分に分つたので、やけになつて)『おれの妻をかへせ。おれの妻をかへせと云つたな、よし、すぐかへしてやる』

 

 そこまで一切の事は充分分る。それから一郞は歸宅する、妻を愛撫する、彼の愛を彼女に保證する、一切の話をする、それから彼女を嘉作の家でなく兄の家へやる。二日たつて日が暮れてからまもなく、おのとは夫に戶口へ呼ばれてそして二人は夜のやみに消える。

 

   第二段。夜の場面。嘉作の家が閉ぢて居る、
   雨戶の隙間から光が見える。女の影が近づ
   く。たたく音。雨戶があく。

嘉作の妻(おのとを認めて)『あゝあゝ、よく來てくれたね、どうぞお入り、お茶でもおあがり』

おのと(甚だやさしく云ふ)『どうも有難う。が嘉作さんはどこにお出でですか』

嘉作の妻『外の村へ行きました、しかし直に歸る筈です。入つておまちなさい』

おのと(一層やさしく)『どうも有難う。ちよつとして又參ります。しかし、先づ兄に云はねばなりませんから』

   (お辭儀する、暗がりにすつと入る、そし
   て又影になる、これが外の影と一緖になる。
   二つの影が動かずに居る)

 

   第三段。場面、松の木が兩側にある夜の
   河の堤防。嘉作の家の黑い影が遙かに
   見える。

 おのとと一郞が樹の下に、一郞は提灯をもつ。兩人共白い手拭で鉢卷きをして、身輕に着物をきて、袖にたすきをかけて腕のよくきくやうにして居る。銘々長い刀をもつ。

 時刻は日本人が、最も滴切に云ふ油り『河の音が最も聲高く聞える』時刻である。松の葉に風が長い時々のつぶやきをする外は何の音も聞えない、秋の末で蛙の聲も聞えない時であるから。二つの影は話をしない、河の音が高くなるだけである。 。

 不意に遠くでじやぶじやぶ音がする、誰か。が淺い流を渡つて居る、それから下駄のひびき、不規則なよろよろするひびき、酪どれの足音が段々近づいて來る。醉どれが聲を上げる、嘉作の聲である。彼は歌ふ、

 

   『好いたお方に强ひられて、

              や とんとん』

 

――戀と酒の歌である。

 直ちに二つの影が、その歌ひ手の方へ走りよる、彼等の足は草鞋をはいて居るから、音はしないで輕く走られる。嘉作は未だ歌つて居る。不意にゆるい石が一つ足下で動いた、彼は足首をねぢつて怒りのうなりを發する。殆んど同時に彼の顏に近く提灯がさし出される。恐らく三十秒程それがそこにぢつとして居る。誰も物を云はない。黃色の光は三つの顏と云ふよりむしろ妙に表情のない面といふべき物を照して居る。その顏を見て、風呂屋の事件を思ひ出して、そして刀を見て、嘉作の醉が一時にさめる。しかし恐れはしない、そしてやがて嘲りの笑を突發する。

『へつへつ! 一郞夫婦だな。おれを又子供だと思つて居るな。手にそんなものをもつて何をするつもりだ。使ひ方を敎へてやらう』

 しかし一郞は提灯を落して突然、雨乎に力一杯をこめて斬り下したので、殆んど嘉作の右の腕が肩から離れさうになつた、犧牲がよろめくところを女の刀は左りの肩をつき通した。彼は『人一殺し』と一聲恐ろしく叫んで倒れる。しかし彼は再び叫ばない。十分程二つの刀は彼に對して烈しく働いた。未だ燃えて居る提灯はそのすさまじい光景を照して居る。おそく步いて歸る二人の人は近づいて、聞いて、見て、足から下駄を落して物も云はずに暗がりへ逃げてかへる。一郞とおのとは仕事が苦しかつたから息をつくために提灯のわきに坐る。

 十四になる嘉作の倅は父を迎へに走つて來る。彼は歌を聞いて、それから叫び聲を聞いた、しかし未だ恐ろしい事を知らなかつた。二人は彼の近づくがままにして置く。彼がおのとに近づくと、女は彼を捕へてなげ倒して、膝の下で彼の細い腕をねぢて、そして刀を固く握る。しかし未だ喘いで居る一郞は、『いやいや、子供はいけない、その子は何にもしなかつたから』と叫ぶ。おのとは彼を放つてやる。子供は氣拔けして動く事もできない。彼女はひどく彼の顏を打つて『行け』と叫ぶ。彼は走る、叫ぶ事も敢てしないで。

 一郞とおのとは斬りさいなんだ物を捨てて、嘉作の家へ行つて大聲で呼ぶ。返事はない、ただ死を覺悟する女と子供の悲しく蹲つて居る沈默があるだけ。しかし彼等は恐るるに及ばないと告げられる。それから一郞は叫ぶ、

『お葬式の用意をなさい、嘉作は私の手でもう死んだ』

『それから私の手で』とおのとは金切聲で云ふ。

 それから足音は退く。

 

   第四段。場面、一郞の家の内部。客間に三
   人が坐つて居る。一郞、妻、及老母、老母
   は泣いて居る。

一郞『そこで、母さん、あなたは外に息子がないのですから、あなたを獨りこの世に置いて行くのは本當に惡い事です。ただお赦しを願ふ外はありません。しかし叔父はいつもあなたのお世話を致します。それで叔父の家へすぐに行つて下さい、もう私共二人は死なねばなりませんから。つまらない拙い死に方は致しません、見上げた立派な死に方を致します。そこであなたは見てはいけません。さあ、行つて下さい』

 老母は悲嘆にくれながら出て行く。彼女の出たあとをしつかり戶締りする。用意ができる。

 おのとは劍のさきを喉へつぎこむ。しかし彼女はやはりもがく。最後のやさしい言葉で一郞は一打で首を切つて彼女の苦痛を終りにする。

 そしてそれから。

 それから彼は硯箱をとり出して硯を用意し、墨をすり、よい筆を選んで、そして注意して選んだ紙の上に歌を五つつくる、最後のはつぎの物である。

 

   『冥土より郵電報があるならば

          早く安着申しおくらん』

 

 それから彼は自分の喉を立派に切る。

 

 さて、これ等の事實が公に調査されて居る間に、一郞夫婦はひろく人に好かれ、又二人とも幼時から愛嬌があるので著しかつた事がよく分つて來た。

 

 日本人の起源に關する學術的問題は未だかつて解決されてゐない。しかし時々一部マレイの起源を主張する人は多少の心理的證據を味方にもつて居るやうに思はれる事がある。最も溫和な日本女性の從順なやさしさの下に、(そのやさしさについては西洋の人はとても想像がでぎない)事實を目擊せずには全然考へられない冷酷の可能性がある。彼女は千度も容赦する事はできる、云ふ事のできぬ程感ずべき風に千度も自分を犧牲にする事ができる。しかし一つ特別の魂の神經が剌される事があれば、火が赦しても彼女は赦さない。さうなると突然その弱々しく見える婦人に、正直な復讐の信ずべからざる勇氣、恐ろしい用意周到なる挑まない精神が現れる。男子の驚くべき自制と忍耐の下に、達するには甚だ危險な盤石の如き物が存する。妄りにそれにふれる事があれば赦される事はない。しかし怨みはただ偶然に激成される事は殆んどない。動機は嚴密に判斷される。過ちは赦される。故意の惡意は決して赦されない。

[やぶちゃん注:「マレイの起源」サイト「10代の人権情報ネットワーク Be_FLAT」の沖浦和光氏の『「日本人」はどこから来たのか』によれば、『現在の日本民族には6つの源流が考えられます。まず、アイヌ系と南島人で、古モンゴロイド系の縄文人の末裔です。2つめは倭人で、彼らの多くは稲作農耕民と海の近くで舟運に従事し、漁をして暮らす海民です。3つめは南方系海洋民で、その主力は黒潮に乗って北上したマレー系海民とみられています。今日のフィリピン人、インドネシア人の源流に連なる人びとです。4つめは、朝鮮三国からの渡来人ですが、その主力は倭人系です。5つめは、中国の江北地方から朝鮮半島を経て北九州に渡ってきた新モンゴロイド系で、大陸の北方に住む漢人系の人びとです。6つめが北方系騎馬民族(新モンゴロイド系・ツングース族)で、ヤマト王朝を建国した天孫族にもこの流れが入っています』とあった。

 このように、日本民族は、異なる時期に、相次いでこの列島にやってきた、さまざまなモンゴロイド系の混交によって形成されました。いくつものモンゴロイド種の、数万年以上にわたる複雑な混血の結果が今の現在の日本民族なのです。純粋かつ一系(ひとつの流れ)の日本民族というものは存在しません。]

 富んだどこの家庭ででも、客はよくその家寶をいくつか見せられる事がある。そのうちには殆んどきまつて日本固有なあのやかましい茶の湯に關する道具がある。多分小さい箱が諸君の前に置かれよう。それをあけると讀者は小さい房のついた絹紐で結んだ綺麗な絹の袋を見るであらう。その絹は甚だ柔かな凝つた物で、手のこんだ模樣がある。こんな包みの下にどんな不思議な物が隱れて居るだらう。その袋を開く、又違つた種類の、しかし甚だ立派な袋がもう一つある。それを開くと、驚いた事には、見よ又第三のがあつてそれに第四のを入れて居る。それが第五のを入れ、それが第六のを入れ、それが第七の袋を入れて居る。その第七の袋に讀者が見た事のないやうな最も奇妙な、最も粗末な、最も堅固な瀨戶物の器が入れてある。しかしそれは珍らしいばかりでなく又貴重である、それは一千年以上を經た物である事がある。

 丁度その通り數百年の最も高い社會敎化は日本人の性格を包むに禮讓、優美、忍耐、溫和、道德的情操の多くの貴い柔かなおほひをもつてした。しかしこれ等の優しい幾重かのおほひの下に、鐡の如く固い原始的粘土が殘つて居る、――蒙古のあらゆる血氣、――マレイのあらゆる危險なしなやかさでこねられた粘土が。

 

 十二月二十八日。私の後庭を圍んで居る高い垣の向うに、最も貧しい階級の人々の居る甚だ小さい何軒かの家の茅の屋根が見える、小さい家の一軒からたえずうなり聲、――苦しんで居る人の深いうなり聲が聞える。一週間以上夜も晝も聞える、しかしこの頃その聲は段々長くなり高くなる、一息一息が苦痛であるやうだ。私の老いた通譯萬右衞門は非常な同情の顏をして云ふ『誰かあすこで大層惡い』

 

 その聲が私をいらいらさせて來た。『その誰かが死んだら關係のある人々にかへつてよからうと思ふが』と私はむしろ殘酷に答へる。

 萬右衞門は私の惡い言葉の影響を拂ひ去るやうに兩手で三度早い急な手振をして小さい佛敎のいのりを口の中で唱へて、そして非難するやうな顏をして私のところを去る。それで良心に責められて私は病人のところへ女中をやつて醫者があるか、何か世話をしようかと聞きにやつた。やがて女中が歸つて來て、お醫者はきまつて來てくれる事、外に何も施しやうがない事を報告する。

 しかし蜘蛛網のやうな手付はしたが、萬右衞門の辛抱强い神經はその響でやはり惱まされて居る事に氣がつく。彼はできるだけ遠ざかりたいから往來に近い小さい表の部屋にゐたいとさへ白狀した。私は書く事も讀む事もできない。私の書齋は一番うしろにあるから、そのうなり聲はそこでは殆んど病人がその部屋に居るやうに聞える。いつでもこんな苦しみの聲のうちに、苦しみの强さの分る一種の物すごい音色がある、そして私は自分で問ひつづける。私がそれを聞いて苦しんで居るその本人に取つて、もつと長く苦しみつづける事ができるものだらうか。

[やぶちゃん注:「そして私は自分で問ひつづける。私がそれを聞いて苦しんで居るその本人に取つて、もつと長く苦しみつづける事ができるものだらうか。」日本語としては意味がとりにくい。原文は、

“and I keep asking myself, How can it be possible for the human being making those sounds by which I am tortured, to endure much longer?”

で、これは、

そして私は自問し続けるのだ、「現に私を拷問にかけている、あんな呻き声を発している人は、はたして、どれだけ長くその苦痛を耐え、どれだけ永く生ることができるというのだろう?」と。

と謂った意味であるようである。しかし、私は、それが自問であるということ、小泉八雲や「萬右衞門」にとって事実として堪え得ぬおぞましい呻き声であること、さらに附け添えられる後日談を考えると、感覚的には、

そして私は自問し続けるのだ、「現に私を拷問にかけている、あんな呻き声を発している人間に対して、はたしてどれだけの人間が、どれだけ長い間、我慢していられる、というのか?」と。

と言った意味でとりたくはなる。因みに、平井氏は前掲書で、

『わたくしは自問自答をつづけるのであった。――あんなうめき声を出して、他人に迷惑をかけている人間に、いったいこっちは、いつまで我慢をしていればいいのか、と。』

と訳しておられる。]

 午前おそくなつて、そのうなり聲が病室で小さい佛式の太鼓の音と澤山の聲の南無妙法蓮華經の合誦によつて打ち消されるのを聞くのは全く一安心である。たしかにその家に僧侶と親戚が集つて居る。『誰か死ぬのです』と萬右衞門は云ふ。そして彼も又妙法蓮華の讃美の聖い言葉をくりかへす。

[やぶちゃん注:「聖い」「きよい」。]

 題目と太鼓の音が幾時間かつづく。それが止むとうなり聲が又聞える。一息一息がうなりである。夕方になると一層惡くなり恐ろしくなる。それからそれが不意にとまる。數分の間死のやうな沈默がある。そしてそれから烈しい泣音が聞える。女の泣き聲、それから名を呼ぶ聲。萬右衞門は『あゝ誰か死んだ』と云ふ。

[やぶちゃん注:「泣音」「なきごゑ」と訓じておく。]

 私共は相談をする。萬右衞門はそこの人々は哀れに貧しい事を見出した、そして私は良心が咎めるから甚だ僅かの金ですむ葬式の費用を贈らうと云ふ。萬右衞門は私が全くの善意からさうするのだと思つて美はしい事を云ふ。私共は女中をやつて好意を傳へさせ、又できる事なら死人の履歷を知るやうに指圖した。私は何か悲劇らしい事のある事を思はずに居られなかつた、そして日本の悲劇には大槪興味がある。

 十月二十九日。私の察しの通り死人の話は聞く價値があつた。その家族は四人であつた、父、母、二人とも老年で弱つて居る、それから二人の息子と。死んだのは三十四の長男であつた。七年間病んでゐた。若い弟は車屋で一家を唯一人で支へてゐた。彼は自分の車をもたない、一日使用料を五錢拂つて他人から借りてゐた。强壯で、走る事が早いが儲けが少かつた、その仕事にはこの節競走が多過ぎて利益が少い。兩親と病人の兄を養ふのに全力を要した、不撓自制力がなければ、それをする事はできなかつたらう。彼は一杯の酒を飮むと云ふ樂みさへなかつた、彼は獨身でゐた、彼は唯兩親と兄に對する義務のために生きてゐた。

[やぶちゃん注:「不撓」「ふたう(ふとう)」。「撓(たは)まず」で、困難に出合ってもひるまないこと。]

 これは死んだ兄の話であつた、二十の頃、魚屋の商賣に從事して居る時、彼は或宿屋の綺麗な女中を愛するやうになつた、その女は彼の愛に酬いた。彼等は互に深く約束した。しかし結婚に邪魔が起つた。女は多少財產のある人の注意を惹く程綺麗であつた、その男は習慣通り彼女を貰ひに來た。彼女はその男を嫌つた、しかしその男の申込みの條件は兩親をその方へ決心させた。一緖になれないのに絕望して二人は情死をする事に決心した。どこかで夜彼等は會つた、酒を酌交して二人は約束を新たにし、世間に暇乞をした。若者は劍の一打で愛人を殺してすぐあとで同じ刀で自分の喉を切つた。しかし人々は彼の息の切れないうちにその部屋へかけ込んで、刀を奪ひ取り、警官を迎へにやり、師團から軍醫を招いた。その未遂の自殺者は病院へ運ばれ、巧みに看護されて健康になり、それから數ケ月の恢復期ののちに殺人犯の取調を受ける事になつた。

 どんな宣告が下つたか、私はよく知る事ができなかつた。當時日本の裁判官は人情にからんだ犯罪を扱ふ時に餘程自分の獨斷的判斷を用ひた。そして彼等の憐みの行[やぶちゃん注:「おこなひ」。]は西洋の模範でできた法典で未だ制限される事はなかつた。多分この場合では情死に生き殘つた事それだけが甚しい罰であると考へたのであらう。輿論はこんな場合には法律よりも無慈悲である。禁錮の或期間のあとでこの不幸な人は家へ歸る事を許されたが、たえず警察の監視を受けてゐた。人々は彼を避けた。生き殘つたのは彼の誤であつた。ただ兩親と弟は彼の味方であつた。そして間もなく彼は名狀のできない肉體の苦痛の犧牲となつた。しかし彼は生に執着してゐた。

 當時事情の許す限り巧みに手當はされたが喉の古疵は恐るべき惱みを起し出した。表面は直つてゐたが、何か徐々たる癌腫的形成がそれから擴がつて刃[やぶちゃん注:「やいば」。底本は「刅」の右の点のない字体。原文は“the sword-blade”であるのでかく訓じた。]の通つた氣管の上下へ達した。外科醫の刀、燒鏝の苦しみはただその最期を延すだけであつた、しかしその人はたえず增加して來る苦しみの七年間生き長らへた。死人を裏切つた結果、一緖に冥途に旅しようと互に約束をした事を破つた結果について不吉な信仰がある。殺された女の手がいつでもその疵を又開いたのだ、外科醫が晝のうちに仕上げた事を夜又もとにかへしたのだと人々は云つた。夜になると苦痛はいつでも增し、心中を企てた丁度その時刻には最も恐ろしくなつたからである。

 その間節約と自制とによつて、そのうちの人々は藥代、看護人、及び彼等自身がかつてそんな贅澤をした事がないやうな滋養物に拂ふ方法を講じた。彼等は彼等の恥、貧乏、負擔になる物の生命をできるだけの方法で延した。そして今死がその負擔を取り去つたので彼等は泣く。

 恐らく、私共凡てはどんなに苦しくともそれに對して犧性をするやうになつて居る者を愛するやうになるのである。實際私共に最も多くの苦痛を與へる者を最も多く愛するのではないかと云ふ疑問を起してもよからう。

[やぶちゃん注:底本では、最終行に一字上げインデントで『(田部隆次譯)』、次の行に同じインデントで『Bits of Life and Death.Out of the East.)』とある。]

2019/08/24

大和本草卷之十三 魚之下 鮫魚 (サメ類(同じく一部に誤りを含む))

 

鮫魚 フカノ類ナリ本草曰鱗皮有玉可飾刀劍治骨

 角○日本ニ鮫類多シ菊トチ蝦夷ニ出コロザメ常陸越

 後ヨリ出ツアイサメ伊豆駿河ニ出ウミコアイコロ皆日

 本ニアリ又ハツハカイラギ花ナシ虎ザメ異國ヨリ來ル

 南蠻ゴロサメ皆用テ刀ノ鞘ヲカサル唐ニモツカサメヲ用

 ユ凡サメノ皮ハ異國ヨリ年〻多ク來ル本邦ノ人コレヲ

 用テ刀ノ柄鞘ヲ飾リ又骨角ト木ヲトギミカク占城

 ヨリ出ルヲヨシトス唐人ノ刀ヲミルニ柄鞘諸飾具皆日

 本ノ刀裝ニ同シ或云唐ニハツカザメナシト云ハ非也酉陽

 雜俎曰鮫子驚則入母腹中本草曰從口入腹中


○やぶちゃんの書き下し文

鮫魚 「ふか」の類なり。「本草」に曰はく、『鱗皮、玉〔(ぎよく)〕、有り。刀劍に飾り、骨・角を治すべし』〔と〕。

○日本に、鮫類、多し。

「菊とぢ」、蝦夷に出〔(いで)〕、「ころざめ」、常陸・越後より出づ。

「あいざめ」、伊豆・駿河に出、「うみこ」・「あいころ」、皆、日本にあり。

又、「はつは」・「かいらぎ」、花なし。

「虎ざめ」、異國より來〔(きた)〕る。

南蠻、「ごろざめ」、皆、用〔ひ〕て、刀の鞘をかざる。唐にも、「つか」[やぶちゃん注:刀の「柄(つか)」。]、「さめ」を用ゆ。

凡〔そ〕、「さめ」の皮は異國より、年々、多く來〔(きた)〕る。本邦の人、これを用〔ひ〕て、刀の柄・鞘を飾り、又、骨・角と木を、とぎ、みがく。占城より出〔(いづ)〕るを、よしとす。唐人の刀をみるに、柄・鞘・諸飾具、皆、日本の刀裝に同じ。或いは云はく、『唐には「つかざめ」なし』と云ふは、非なり。「酉陽雜俎」に曰はく、『鮫の子、驚けば、則ち、母の腹中に入る』〔と〕。「本草」に曰はく、『口より腹中に入る』〔と〕。

[やぶちゃん注:直前の「大和本草卷之十三 魚之下 フカ」に続いて、現行のサメ類(やはり一部に誤りを含む)の記載。現行では、「鮫(サメ)」とは、軟骨魚綱板鰓亜綱Elasmobranchiiのうち、一般にはエイ上目 Batoidea に含まれるエイ類を除くサメ類の内、中・小型のものを指す総称とされるが、大型の種群や個体との厳密な境界はなく、「鱶(フカ)」と混淆して用いられているのが現状である。超巨大なものを「ふか」と呼ぶのに違和感はないので、そうした限定用法として流通名とは別に「ふか」は生き残るであろう。

『「本草」に曰はく、『鱗皮、玉〔(ぎよく)〕、有り。刀劍に飾り、骨・角を治すべし』〔と〕』時珍の「本草綱目」の巻四十四の「鱗之四」に、

   *

鮫魚【唐「本草」。】

釋名 沙魚【「拾遺」】・䱜魚【「鵲」・「錯」二音】・鰒魚【音「剝」】・溜魚。時珍曰、鮫波有沙、其紋交錯鵲駮、故有諸名。古曰「鮫」、今曰「沙」、其實一也。或曰、本名「𩵲」、訛爲「鮫」。段成式曰、『其力健强、稱爲「河伯健兒」』、藏器曰、『鮫與石決明、同名而異類也』。

集解 恭曰、『鮫出南海。形似鼈、無脚有尾』。保昇曰、『圓廣尺餘、尾亦長尺許、背皮粗錯』。頌曰、『有二種、皆不類鼈、南人通謂之沙魚。大而長喙如鋸者曰「胡沙」、性善而肉美。小而皮粗者曰「白沙」、肉彊而有小毒、彼人皆鹽作修脯。其皮刮治去沙、剪作鱠、爲食品美味、食益人。其皮可飾刀靶』。宗奭曰、『鮫魚、沙魚形稍異、而皮一等』。時珍曰、『古曰「鮫」、今曰「沙」、是一類而有數種也。東南近海諸郡皆有之。形並似魚、靑目赤頰、背上有鬛、腹下有翅、味並肥美。南人珍之。大者尾長數尺、能傷人。皮皆有沙、如眞珠斑。其背有珠紋如鹿而堅彊者、曰「鹿沙」、亦曰「白沙」、云能變鹿也。背有斑紋如虎而堅彊者、曰「虎沙」、亦曰「胡沙」、云虎魚所化也。鼻前有骨如斧斤、能擊物壞舟者、曰「鋸沙」、又曰「挺額魚」、亦曰「鱕䱜」、謂鼻骨如鐇斧也。音「蕃」、沈懷遠「南越志」云、『環雷魚䱜魚也。長丈許、腹下有兩洞、腹貯水養子、一腹容三四子、朝從口中出、暮還入腹、鱗皮有珠、可飾刀劒、治骨角』。藏器曰、『其魚狀貌非一、皆皮上有沙、堪揩木、如木賊也。小者子隨母行、驚卽從口入母腹中』。

肉 氣味【甘、平、無毒】

主治 作鱠、補五臟、功亞于鯽、亦可作鱐鮓【詵】。甚益人【頌】。

氣味【甘鹹、平、無毒】

主治 心氣鬼疰、蠱毒吐血【「別錄」】。蠱氣蠱疰【恭】。燒灰水服、主食魚中毒【藏器】。燒研水服、解鯸鮧魚毒、治食魚鱠成積不消【時珍】。

[やぶちゃん注:以下、「附方」が最後に続くが、略す。]

   *

これを見るに(私の附した下線太字部)、益軒の引用は沈懷遠「南越志」から時珍が引用した部分にほぼ一致する。この「集解」を眺めていると、一説に鮫は紋から鹿が、或いは紋と強暴なる性質から虎が変じたとするのは、まっこと、民俗社会の理にかなった化生と思う。「骨・角を治すべし」とは、装飾用の獣骨と獣骨とを、鮫の皮を用いて、接(つ)ぐことを言うか。

「菊とぢ」魚類としての名は「菊登知」を当てる。この語は本来は「菊綴じ」(歴史的仮名遣「きくとぢ」)で水干・直垂・素襖(すおう)などの縫い目に綴じつけた紐を指し、結んだ絹の紐の先をほぐして、菊の花のようにしたものである。則ち、この「きくとぢざめ」というのは、体表の皮の表面にこの「菊綴じ」の文様を持つ種を指し、ここで「蝦夷」に棲息するということから、私はこれは、サメ類ではない、条鰭綱軟質亜綱チョウザメ目チョウザメ科 Acipenseridae の、

本邦固有種である(であった)チョウザメ亜科チョウザメ属ミカドチョウザメ Acipenser mikadoi(或いはAcipenser medirostris mikadoi

及び、

ダウリアチョウザメ属ダウリアチョウザメ Huso dauricus

に比定する。以上の二種への同定は、主に石狩市教育委員会「いしかり砂丘の風資料館」二〇一〇年十月発行の『石狩ファイル』(第百二十二の一号)(PDF)の志賀健司氏の論文「石狩のチョウザメ(生物編)」に拠った。それによれば、『チョウザメは、日本近海では北海道や東北の沿岸で見られることがあり、河川ではかつては石狩川、天塩川、釧路川、十勝川に遡上していました。しかし大正時代から昭和初期にかけて急激に減少し、今では見られなくなってしまいました』。『かつて北海道にいたチョウザメは、ミカドチョウザメ(Acipenser mikadoi)とダウリアチョウザメ(Huso dauricus)の2種と考えられています。ごく稀に今でも石狩(石狩川河口周辺、石狩湾沿岸)で捕獲・混獲されることがあり、記録や標本が残っている事例が近年では5件ありますが、養殖種ベステル(オオチョウザメ』(ダウリアチョウザメ属オオチョウザメ Huso huso)『とコチョウザメ』(チョウザメ属コチョウザメ Acipenser ruthenus)『を交配したもの)の1件を除き、いずれもダウリアチョウザメです』(リンク先に捕獲年・水域・体長・種の表が載る)。『現在、日本ではチョウザメは事実上絶滅したとされています(環境省と北海道のレッドリストには絶滅種として記載されている)。昭和初期に激減した理由は明らかではありませんが、河畔林の減少など河川環境の悪化が原因ではないか、とも言われています』。『また、世界的にも環境悪化や乱獲などにより個体数が激減しており、27種中23種がIUCN(国際自然保護連合)の絶滅危惧種に指定されています』とある。チョウザメ類は体側に並ぶ大きな鱗を特徴とし、これが古くから装飾として用いられ、研ぎ出すと、まさに「菊綴じ」のような美しい文様となるのである。私の二〇〇八年六月の記事「チョウザメのこと」で、刀の鞘に用いられたそれを見られる。リンク先の記事で私に非常に丁寧な情報をお寄せ下さったY氏は、「釜石キャビア株式会社」というところでチョウザメの養殖に係わるお仕事に従事しておられた方で、お礼に純日本産キャビアとチョウザメの肉を買おうと思っているうちに、同社は、かの東日本大震災で被害を被られ、再開の目途が立たずに解散となってしまった。嬉しい御助言であっただけに、少し哀しい思い出でもあるのである。なお石橋孝夫氏の詳細を究めた論文「北海道チョウザメの博物誌1―遺跡,地名,絵図,民具からみた北海道のチョウザメの記録―」PDF)の「3.チョウザメ類の絵図」の「(1)『鮫皮精義』の図」には、お恥ずかしながら、私のこの記事と写真が紹介されてある(五十七ページ。「引用文献」にも記載有り)

   《引用開始》

 関連して「Blog鬼火~日々の迷走」(藪野,2008)に「チョウザメのこと」という記事に読者Y氏から提供された「菊綴」の鞘とする画像があるので引用する(図5).しかし,「菊綴」とはあるものの拡大画像では鱗板が研ぎだされたと考えられ,正確には「蝶サメ」ではなかろうか[やぶちゃん注:これは原論文のこの前の部分と、その『図3「菊トヂ」「蝶サメ」』で意味が分かる。参照されたい。].今後,チョウザメ皮を使用した鮫鞘も調べてみる必要がある.

  なお,「菊トヂ」とは「菊綴じ」に由来する.この模様は水干,直垂などの縫目に綴じ付けた紐の先がほぐされて,菊の花のような装飾効果が生み出されることからその名がある.『鮫皮精義』の説明では「角(つの)で刻ミ製したるものある」と書いており,「菊トヂ」の模様を際立たすための加工技術が存在したとも読み取れる.また鮫鞘は「鮫屋」という職人によって製作され,この職業は江戸,大阪,京都にあったという(朝倉,1990).

   《引用終了》

なお、同論文には続篇で同じ石橋氏の手に成る「北海道チョウザメの博物誌2―明治期以降の北海道におけるチョウザメ捕獲に関する記録集成―」(PDF)もあるので、是非、読まれたい。なお、私は「谷の響 三の卷 八 異魚」で、文政年間(一八一八年~一八三〇年)に現在の北津軽郡小泊村下前(したまへ)で捕獲された「沙魚(さめ)」をミカドチョウザメに同定している。ご参照あれかし。

「ころざめ」軟骨魚綱カスザメ目カスザメ科カスザメ属コロザメSquatina nebulosa(リンク先は「WEB魚図鑑」。画像有り)。リンク先の記載によれば、本邦では北海道(但し、日本海側)から九州まで広く棲息し、朝鮮半島沿岸・黄海・東シナ海・台湾北部などの北西太平洋の沿岸にも分布するエイ型を呈するサメで、『少なくとも』、全長が一メートル六十三センチメートルにも『達する。体色は茶褐色』乃至『青みがかった茶色で、体には明色斑点が散在し、黒色斑点が多数密在する。腹面は明色で、胸鰭の先端はより暗くなる。背鰭の先端は明色。鼻孔から伸びる髭は先端にむかって細くなり、前鼻弁はわずかに房状になるか』、『平滑。眼は大きく、眼と噴水孔間の距離は眼径の』一・五『倍に満たない。噴水孔間の幅は眼隔幅より小さい。胸鰭は幅広く、先端は鈍い』とある。

「あいざめ」板鰓亜綱ツノザメ目アイザメ科タロウザメ Centrophorus granulosus益軒が「伊豆・駿河」と挙げていることから、漁師のカズ氏のブログ「宝は駿河湾深海にあり!part2」の「アイザメ」(写真豊富に有り)に拠ってこれを一番に挙げた。それによれば、『僕らのメインは深海ザメ漁と言っても過言ではない』。『主に健康食品(スクワランオイル)の原料として、深海ザメは健康食品の会社に直接卸している』。この深海ザメの油は『他にも化粧品にも』『使われている』。『その中のでもこの『アイザメ』が本命の深海ザメ』で、『本当はタロウザメって言うんだけど、漁師はアイザメの仲間を総称してアイザメと呼んでいる』とあったからである。また、『頭の上に白い星』(写真有り)『があるのがアイザメの仲間の特徴でもある』とあった。従って別にアイザメCentrophorus atromarginatus としてもよいWEB魚図鑑」の「アイザメ」によれば、『胸鰭内角は著しく突出せず、第』二『背鰭は腹鰭後端より前にある、鱗はブロック状に並ぶ、などの特徴からゲンロクザメ』(アイザメ属ゲンロクザメ Centrophorus tessellatus)や、『ニアウカンザメ』(アイザメ属ニアウカンザメ Centrophorus niaukang)『などと似るが、これらとの区別は標本を基に計測しなければ難しい。全長』一メートル『ほど』で、『深海性のサメの』一『種で、水深千二百メートル』以浅に生息する』とある。以上の四種を挙げておけば間違いあるまい。

「うみこ」不詳。但し、これ、寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「鮫」の項に「海小鮫」と出、私はその注で、中国産の刀剣の欛(つか)用の鮫皮の商品名であろうと思われるとし、従ってその素材はサメでなくエイである可能性が高いと断じた。詳しくはリンク先の注全体を読まれたいが、要は実は、刀剣の鞘に用いるのは古くから、日・中ともに、サメの皮よりもエイの皮の方が知られていたらしいのである。商品名というのは今は留保しておくが、エイ説は今のところは保持しておく。

「あいころ」これも寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「鮫」の項に、「常州の愛古呂(あいころ)」と出、そこでは、『これは頭の「愛」のアイザメよりも、むしろ後ろの「古呂」がカスザメ目カスザメ科のコロザメSquatina nebulosa を連想させるように思われる』としたのだが、コロザメももう出したし……アイザメ類も上でごっそり出たしなぁ……こまった、にゃん……

「はつは」不詳。ただ、気になるのは「ハツカザメ」ではある。これは浅野長雄・藤本武氏の論文「茨城県産魚類の方言について(第2報)」(『茨水試:試験報告 昭和3940年度』(昭和三十九年は一九六四年)の記載がある。PDF)の「16」にアブラツノザメ(軟骨魚綱ツノザメ目ツノザメ科ツノザメ属アブラツノザメ Squalus suckleyi)の茨城県の地方名として挙げている。そこではアブラツノザメは、『銚子以北,日本海岸ではほとんど一帯に分布する。その他朝鮮東海岸,北支[やぶちゃん注:ママ。中国北部沿岸。],北洋,アメリカ西海岸(カリフォルニヤまで),北大西洋の東西両沿岸』。『アブラサガ(大洗),ジョクへイ(那珂湊・河原子),ノ、ツカザメ(旭村)』。『このサメは北日本に広く分布し,ことに東北地方で漁獲が多く,竹輪,蒲鉾などの練製品原料として重要である。また頭および尾を除き,さらに内臓や骨を除いて棒状に乾したものを,ボウザメ,ムキザメと言う』。『アブラサガは,このサメの肝臓に多量の油をふくむのでかく言う。福島県小名浜ではサガと言う』。『ジョウへイの意味は不名である。本種は次のヨロイザメとともに機船底曳網で漁獲される』。『ハツカザメは,このサメが他のサメに比べ体が比較的小さいので,ハツカネズミのごとく小さいサメの意である』『標準和名のアブラツノザメは学者の命名によるものである』。『これに近いアブラザメなる方言は,北海道(釧路・網走・三石),青森県(徳沢),宮城県(渡波,気仙沼),福井県(三国)等である』とある。

「かいらぎ」これはサメではなく、真正のエイの一種である板鰓亜綱トビエイ目アカエイ科イバラエイ属イバラエイ Urogymnus asperrimus の異名「梅花鮫(カイラギザメ)」である。ウィキの「イバラエイ」によれば、『底生でインド太平洋熱帯域、西アフリカ沖で見られる。深度30m以浅の砂底・サンゴ礫底・アマモ場などに生息。大きくて重く、体幅1.2-1.5m。ほぼ円形の体盤と鰭膜のない細い尾を持つ。この科には珍しく毒棘を欠くが、全身が大きく鋭い棘に覆われている』。『餌は主に底生無脊椎動物や魚類で、海底を掘り起こして餌を探す。無胎盤性胎生。丈夫で粗い皮膚は鮫皮として価値が高く、剣の柄や盾などに用いられる。この場合カイラギザメ(梅花鮫)とも呼ばれる。沿岸漁業で混獲されるが、棘が多く扱いづらいため商業ベースに乗りにくい』。『広範囲に分布するが、他のアカエイ類に比べると希少である。沿岸に見られ、インド洋では南アフリカからマダガスカル・アラビア半島・セイシェル・スリランカ・東南アジア・西オーストラリア沖のニンガルー・リーフなどで見られる。スエズ運河を渡り東部地中海にも侵入している。太平洋では、インドネシア・ニューギニア、北はフィリピン、東はギルバート諸島・フィジー、南は東部オーストラリアのヘロン島沖まで分布する』。『東部大西洋のセネガル・ギニア・コートジボワール沖でも見られる』。『岸近くの深度1–30mの砂底・サンゴ礫底・アマモ場・礁の近くを好み、汽水域にも入る』。『厚く丸い体盤、背を覆う鋭い棘が特徴』。『体盤は楕円形で、中央部が分厚いため』、『外見はドーム状である。吻は丸くわずかに突き出す。小さな眼の後ろにそれより大きい噴水孔がある。鼻孔は狭く、鼻褶後縁は房状で口に被さる。口底には3–5個の乳頭突起があり、口角には深い溝がある。口の周辺も乳頭突起で覆われる』。『両顎に48の歯列が並び』、『歯は小さく平たい。5対の鰓裂が体盤下面にある』。『腹鰭は小さく細い。尾は急激に細くなり』、『断面は円筒形、長さは体盤とほぼ同じで鰭膜はない。他のアカエイ科魚類と違い、尾に毒棘がない。平たいハート型の皮歯が密に体盤から尾を覆っている。大型個体は更に、体盤全面が長く鋭い棘に覆われる。上面は明るい茶色から灰色で尾に向かうにつれて黒くなる。下面は白』。『大型種で、最低でも体幅1.2m・体長2.2m、最大で体幅1.5mになる』。『海底や洞窟の底に横たわっている』。『ニンガルー・リーフ』(Ningaloo Reef:オーストラリア西海岸にある珊瑚礁で長さは二百六十キロメートルにも達するオーストラリアでは最大規模。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ))『では群れを作ることが知られる』。『餌はホシムシ』(環形動物門スジホシムシ綱 Sipunculidea・サメハダホシムシ綱 Phascolosomatidea に属する蠕虫状の海産である星口(ほしくち/ほしぐち)動物(Sipuncula)。体は左右対称で、節(体節)に分かれていない。約二百五十種が含まれる。嘗つては独立した門に分類されていたが、現在は環形動物門の一部とされる)『・多毛類・甲殻類・硬骨魚など』。『摂餌時には底砂を深く掘り起こし、噴水孔から吐き出すため』、『遠くからでも存在が分かる』『無胎盤性胎生で、母体から分泌する子宮乳による組織栄養で胚を育てる』。『若魚の生息環境としてマングローブ林が重要で』、『雄は体幅90cm・雌は体幅100cmほどで性成熟する』。『毒針は持たないが、無数の鋭い棘は危険である』。『大胆な性格で、人の接近には寛容だと報告されている』。『丈夫で棘の多い皮膚は鮫皮として利用されてきた。特に武器の柄に用いると戦闘中に滑りにくく、日本刀の柄、鞘に用いる最上級の皮として梅花皮(かいらぎ)と呼ばれている』。『マレーシアでは盾を覆うために用いる』。『東アジアでは装飾にも用いられ、染色の後棘を削り落とし、斑模様を出す』。『フナフティ島』(ツバルを構成する島の一つ。ここ)『では乾燥させた尾をやすりのような道具として用いる』。『トロール漁・落網・巻き網で混獲されている。皮は高価値で、肉や軟骨も利用できる。紅海のファラサン諸島などではレバーが季節料理として食べられている』『が、扱いが難しいため』、『経済的重要性は限られ』ている。また、『野放図な沿岸漁業が続いているため、ベンガル湾・タイランド湾などの近辺では、局所絶滅か』、『それに近い状態だと考えられる。沿岸開発による生息地の消失、乱獲などの理由で、IUCNは危急種としている』とある。日本に分布しないが、本項に限っては問題ないのである。則ち、本邦では古くから刀剣の柄(つか)として需要と人気があり、南方から輸入されていたからである。

「花なし」皮革に目だった美しい花のような紋はないということか。「ハナナシザメ」というのも何だかヘン。よく判らぬ。

「虎ざめ」この通りなら、軟骨魚綱メジロザメ目トラザメ科トラザメ属トラザメ Scyliorhinus torazame であるが、益軒は「異國より來〔(きた)〕る」と言っているのがやや不審には思われる。何故なら、本種は日本・朝鮮半島・中国沿岸及び推定でフィリピンにも分布するからである。思うに、前の「梅花鮫(カイラギザメ)」(イバラエイ)の皮などと一緒に既に皮として中国から盛んに輸入された安価なものがあったため、本邦で敢えて獲って加工するという業者が成長しなかったのかも知れない。画像や解説はウィキの「トラザメ」を見られたいが、大型個体は鞍状の模様に加えて白い斑点を有し、特に皮革用に用いられたとする記載はないが、好かれそうな感じではある。

「ごろざめ」原本は明らかに「ゴ」に見えるのだが、「コロザメ」で、前出のそれでよいか。東洋文庫の島田勇雄訳注の「本朝食鑑」の「鮫」の注に引く本項でも『コロザメ』としている。

「占城」チャンパ王国。現在のベトナム中部沿海地方(北中部及び南中部を合わせた地域)に存在した国家。主要住民の「古チャム人」はベトナム中部南端に住むチャム族の直接の祖先とされる。中国では唐代半ばまで「林邑」と呼び、その後、「環王」を称したが、唐末以降は「占城」と呼んだ。位置は参照したウィキの「占城」の地図を見られたい。

「つかざめ」サメの一種ではなく、刀剣の柄を「サメ」(或いは寧ろ「エイ」)の皮で飾ること自体を言っている。

『「酉陽雜俎」に曰はく……』中唐末から晩唐にかけての文人段成式(八〇三年~八六三年)が荒唐無稽な怪異記事を集録した書。八六〇年頃の成立。以下は巻十七の「廣動植之二」に、『鮫魚、鮫子驚則入母腹中』とあり、これはもう既に前項の総論の最後にも出ていた。こういう直近でのダブり方は本草書としては私は退屈で厭だ。儒学者であった益軒はこうした部分に孝の本質を見ていたのかも知れぬが、だとすると、なおのこと、厭な感じだ。生粋の本草学者であった小野蘭山が嫌った理由がちょっと判る気がする。

『「本草」に曰はく……』前の注の引用の下線部を見られたい。]

諸国因果物語 巻之六 正直の人をそねみてむくひし事 / 諸国因果物語~電子化注完遂

 

    正直の人をそねみてむくひし事

Tenngu



[やぶちゃん注:本篇は底本の十九丁の裏(挿絵のみ)と二十丁の表(本文)が脱落しているため、そこは「ゆまに書房」版を参考にした。]

 丹後宮津の町に善藏といふ男、極めて正直・むよくのもの也。

[やぶちゃん注:「丹後宮津」「天橋立」で知られる現在の京都府宮津市の、宮津市街(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]

 人の事といへば、足手(あして)を空(そら)にして取もち、何とぞ首尾させたく、世話をやきて、やまず、吉事にも、あしき事にも、賴(たのま)れたる事を麁末(そまつ)にせず、夜を日についで、心にかけ、請(せい)にいれて、肝煎けるまゝに、てうほうの事におもひて、人もまた、おろそかにもせずありけれども、生れ付(つき)て貧なる事、我(われ)口ひとつさへ、心やすくはあらざりけるを、誰(たれ)々も笑止なることにおもひける。

 ある時、宮津の町にて、何がしといはるゝ冨貴(ふうき)の人、立願(りうぐはん)の事ありて成相(なりあひ)に七日こもりけるに、

[やぶちゃん注:「成相」天橋立を望む京都府宮津市成相寺にある、古来からの山岳信仰の修験場であった真言宗成相山(なりあいざん)成相寺(なりあいじ)。慶雲元(七〇四)年に文武天皇の勅願寺として真応が創建したとされる古刹。本尊は聖観世音菩薩。公式サイトはこちら。]

「伽(とぎ)のため、其方も、來りて、通夜(つや)したまふまじや。此つゐで[やぶちゃん注:ママ。]に、何とぞ、[やぶちゃん注:以下、「ゆまに書房」版を参考に今までの仕儀で手を加えた。]其方も、身にとりて仕合(しあはせ)するや、この願(ぐはん)をもたて給へかし。」

と、すゝめられ、善藏も大に悅び、

「我も、さこそ常々に願ひつる事なり。さらば、御供申べし。」

とて、打(うち)つれ、成相にこもりつゝ、一心に何やらん、ふしおがみ、ふしおがみ、たゞ一度(ど)、祈る体(てい)なりしが、そのゝちは、又、拜むさまも、そこそこに見えて、此人の世說(せわ)[やぶちゃん注:ママ。]をやきつゝ、夜をあかしけるに、七日に滿けれども、すゝめつる人は、何の御示現(じげん)もなければ、

『又、七日、こもらん。』

と思ひて、善藏をさそはせけるに、

「最早、此方は御利生(りしやう)ありて、名譽(めいよ)なる、まじなひの法を覚えたり。『是(これ)にて汝が一代は安樂にくらすべし』との瑞夢ありて、しかも、ちいさき劔(つるぎ)一ふりを得たれば、また、外にねがふ事、なし。いまよりしては、隙(ひま)もなく候へば、餘(よ)の人をめしつれ給へ。」

と、返事しけるを、

『何が、示現あるべき。近ごろ、卒尓(そつじ)なる事にこそ。』

[やぶちゃん注:「卒尓」「卒爾」「率爾」に同じ。ここは「無礼なこと」で、掌を返したようにけんもほろろに断ったことを、そう感じて不満を言ったもの。]

と、おもへど、つねに、たはぶれ事、いはぬ人なれば、

『もしや。さもある事もこそあれ。』

と思ひ[やぶちゃん注:ここから本来の「霞亭文庫」に戻る。]ゐたるに、いつとなく、世間にひろく沙汰ありて、

「善藏こそ、ふしぎなるまじなひを覚えたれ。我も此まじなひにて、つぶれたる目を、二たび、あきたれ。」

と悅び、彼(かれ)も、

「此ほど、呪(まじなひ)を賴(たのみ)て、十死一生のやまひを、本腹(ほんぷく)したり。」

と、もてはやしける程に、三、四ケ月の内に、はや、よほど人の餘勢(よせい)ありて、時行(はやる)事、おびたゞしかりければ、一年の程に、大ぶんの德(とく)付(つき)て、下人ども、多くめしつかひ、家居(いゑゐ[やぶちゃん注:ママ。])なども、おびたゞしく、冨貴しけるを、おなじ邊(ほとり)に住(すみ)ける忠左衞門といふ男、うらやみ思ひけるまゝ、何となく此善藏に取いり、懇望して、

「我も、此まじなひの弟子になりつゝ、冨貴せん。」

と願ひしを、依怙(ゑこ[やぶちゃん注:ママ。])なき心から、いとやすく請(うけ)あひて、悉(ことごとく)おしへけるに、忠左衞門、悅びいさみて、ひた[やぶちゃん注:「行ふ」にかかり、「いちずに・ひたすら」の意。]、此まじなひを善藏と立ならびて行ふに、一さい、其しるしなければ、度々、行(ゆき)て、

「もしや。大事(だいじ)を穩して、傳へられざるにや。」

と、うらみかこちて習へども、善藏は、

「此外に、さらさら、奧意(おくい)をのこす事、なし。」

と、大誓文(だいせいもん)を立て[やぶちゃん注:「たてて」。]いへども、有無に[やぶちゃん注:全く。すっかり。]此まじなひのしるしなきをいきどをりて[やぶちゃん注:ママ。]、ひそかに善藏が寢間にしのび入り、彼(かの)、觀音より夢想に得たりし劔(けん)をぬすみ出し、是にて、人をまじなひしに、却(かへつ)て、まじなふ程のもの、本腹せず、あまつさへ、輕(かろ)き病(やまひ)は重く、腫物(しゆもつ)は腐(くさり)ひろがりける程に、いよいよ、まじなひをたのむものなければ、

「今は、善藏こそ敵(かたき)なれ。此とし比(ごろ)、懇望して、此事、習(ならは)んために、下人同前につかはれつる恩のほども思はず、『そらせいもん』を立て、我に此いつはりをおしへしは、堪忍ならず。」

[やぶちゃん注:「そらせいもん」「空誓文」ここは中身のない無効化の似非の呪(まじな)いを指す。]

と、夜ふけ、人しづまりてより、ひそかに刄(は)物をふところにさし、善藏が方(かた)へと行けるに、おもひもよらず、後(うしろ)より聲をかけて、いふやう、

「……心ばせ――直(すなほ)なら――蓄藏なればこそ――かゝる大事を傳へたるに……おのが心ばせ――よこしまにて――まことなき心から――きかぬまじなひをかへり見ずして……善藏を殺さんとや……あれ――引さいて捨よ。」

と、いふか、とおもへば、我ながら、風にふかるゝ木(こ)の葉のごとく、

『ふはふは、中(ちう[やぶちゃん注:ママ。])にあがるよ。』

と、おぼへしが、やゝしばしありて、心づきけるまゝに、目(め)をひらきて、見まはすに、たしかに、丹波の國なる御嶽山(みたけさん)のほとりと覚えて、數(す)十丈ばかりもあらんとおもふ杉の木ずゑに、帶のすこし引かゝりたるにつながれて、谷のかたへ、さかさまにぞ、かゝりける。

[やぶちゃん注:「丹波の國なる御嶽山」兵庫県丹波篠山市にある標高七百九十三メートルの「御嶽(みたけ)」。ウィキの「御嶽(兵庫県)」によれば、『丹波篠山市の最高峰、多紀連山の主峰で』、「三嶽」『とも表記する』。『御嶽は小金ヶ嶽』(七百二十六メートル)・西ヶ嶽(七百二十七メートル)の『三山からなる』。『石室のある東峰、三角点のある西峰からなる』。『多紀連山は鎌倉時代から室町時代にかけては、丹波修験道場の中心地として栄え、御嶽はその中心であった。現在でも御嶽山頂から』六百メートル『離れたところに』、『当時の修験道の拠点であった大岳寺の跡や、東の峰には役行者を祀った石室が残されている。最盛期には大岳寺のほか、数ヶ所に堂が建ち、東の小金ヶ嶽の頂上には蔵王堂、その南側直下には福泉寺ほか数々の寺院群や里坊なども存在した』が、『丹波修験道は室町時代の文明一四(一四八二)年に、『大峰山に代表される大和修験道との争いに敗れ』、『主峰御嶽の南側直下の大岳寺など』が『焼き払われ』てしまった。]

 今は、中々、おもひし事もかなしく、人を恨(うらむ)氣もうせて、

『最後の時も、いまぞ。』

と、大ごゑを上げて、一心に念仏を申つゝ、たゞ、死のいたるを待(まつ)に、はるかむかふ[やぶちゃん注:ママ。]の山より、聲ありて、

「……その者……やつてのけよ――やつてのけよ……」

[やぶちゃん注:「やつてのけよ」は今の「遣って退けよ」であるが、ここは念仏が如何にも厭で五月蠅いから、「そ奴をそこからどこぞ遠くへ投げやって除(の)けろ!」と言っているのである。]

と、いひしを、我(わが)かりたる杉の下(もと)に音(こゑ)して、

「――よし――今は惡念も有(ある)まじ――念仏を申がやかましきに――歸してとらすべし――」

と、いふやいなや、此杉をとらへて、ゆする事、おびたゞし。

『さてこそ、今の内に、いかなる谷、いかなる岩角(いはかど)にあたりてか、みぢんになるべき。』

と、かなしくて、いよいよ、高聲(かうしやう)に念仏したりしに、あやまたず、

「ぶい。」[やぶちゃん注:底本のママの「ふい」でもよい。]

と、はなれて、はるかなる谷に落(おつ)る、と、おもへば、都の北山に聞へたる「僧正が谷」に立(たち)すくみて居たりしを、貴舩(きふね)の山人(やまびと)ども、見つけて、やうやうと、看病し、正氣になりてより、二たび、國に歸る事を得たりとぞ。

[やぶちゃん注:挿絵(右下に羽団扇を持った烏天狗、左上に天狗)で判る通り、善蔵に呪文を伝えたのは、魔道をテリトリーとする天狗であったのであり、さればこそ念仏を嫌うのである。]

 

諸國因果物語卷之六終

[やぶちゃん注:「僧正が谷」京都市左京区の北西部、鞍馬山奥の院不動堂と貴船神社との間にある谷。僧正ガ谷不動堂(京都府京都市左京区鞍馬本町)があり、牛若丸が武芸を修業したと伝えられる場所として知られる。珍しく京嫌いの私も歩いたことがある。

 以下、跋。跋後の鷺水の署名は底本では下二字上げインデント。]

 

 近代諸國因果物語六卷は、さきだちて梓(あづさ)に入し[やぶちゃん注:「いれし」。]百物語の撰次後編(せんじこうへん)なり。猶、此續(つゞき)ありて、都合十八卷を全部とし、世と共に、是をもてあそび、語り傳へ、聞(きゝ)およぼし、兒女・童蒙の目(め)をよろこばしめ、且は覆轍(ふくてつ)の戒(いましめ)となすの助(たすけ)ともなれとおもふ心ざし、あなりといへども、筆、いとまなく、日月(ひつき)、しばらくも住(とゞま)る事なきに、いちはやく年も暮れ、後集(こうしう[やぶちゃん注:ママ。])、いまだ、功おはらざる所あるが故に、今、猶、桜がもとに、花を催して、ひそめり。今、我、梅園(うめぞの)の梅の榮へを羨(うらやみ)がほに、眉(まゆ)ごもる柳の糸永(なが)き春のうちには、此後編もかならず、といひて、やみぬ。

               白梅園鷺水

[やぶちゃん注:「近代諸國因果物語」「近代」はママ。

「百物語」既に本「怪奇談集」で電子化注を完結している同じ青木鷺水の怪談集「御伽百物語」(六巻)のこと。本作の前年の宝永三(一七〇六)年にやはり江戸で開版したもの。

「撰次」は「選んで順序立てること」。

「覆轍」「ひっくり返った車の轍(わだち)」の意で、前の車が転倒した跡。転じて、「前人の失敗・失敗の前例」の意。

「花を催して」花を咲かせて。

「眉(まゆ)ごもる柳の糸」柳の細いえしなやかな枝葉を「柳眉」「柳の糸」と形容する。

 以下、広告と奥附。字のポイント違いや字位置は底本通りではない。現物はここ。「近代」は底本ではポイント落ちで、右から左に横書である。板元と書肆の下は右から左に「板行」とあるものを再現したもの。冒頭注で述べた通り、残念なことに、「近代 芭蕉翁諸國物語」は未刊に終わった。]

 

近代 芭蕉翁諸國物語   全部六卷

     近日出來申候

 

  寶永四年三月吉日

        江戸日本橋南一町目

           出雲寺四良兵衞 板

   書肆   京寺町松原下

           菱屋  治兵衞 行

2019/08/23

諸国因果物語 巻之六 犬密夫を殺す事

 

     犬(いぬ)密夫(まおとこ)を殺す事

 讚州高松の舩頭(せんどう)勘太夫(かんだゆう[やぶちゃん注:ママ。])といふ者、犬を、殊の外、寵愛して、寢起(ねをき[やぶちゃん注:ママ。])にも撫(なで)さすり、舩出(ふなで)になれば、共に舩(ふね)にのせて、大坂に來り行(ゆく)にも、歸るにも、

「ひた。」

と、犬をともなひて、はなさず。

 名を「素助」とぞいひける。

[やぶちゃん注:「素助」後の本文で「しろすけ」と読みを振る。]

 其内にめしつかひける太七といふ下人、勘太夫が女房と密通して、留守のあいだには、ひとへに、亭主のごとく、物事をさばきける事、二年ばかりにもなりぬ。

 過(すぎ)し元祿の午(むま)[やぶちゃん注:元禄三年庚午(かのえうま)。一六九〇年。]の春は、此事あらはるべき端(はし)にや、女房をはらませけるに、さまざまと藥をのませ、針をさせなどして、此子を水になさんと、もがきけれども、宿業のつもりにや、一切、おりる事、なし。

 とかくするほどに、勘太夫も、道中つゝがなく舩出して、

「四、五日が内には高松に歸る。」

と、さきだちて便宜(びんぎ)[やぶちゃん注:書信。]せしに、いよいよの氣づかひ多く、とりどりなるしあん、さだめがたく、太七と女房と、打よりては、

「先、此事をいかゞせまし。」

とぞいひける。

 されども、替りたる分別も出ず、日は、せんぐりに[やぶちゃん注:ますます。]近よるにつきて、所詮、いたわしく[やぶちゃん注:ママ。]思ひながらも、

「いづれの道とても、命ありては、後のなん、のがれがたし。そのほうも假そめながら、今までのなじみなれば、無下に憎しとも思ひ給ふまじとおもへども、勘太夫といふ者を安穩(あんおん)に置(おき)ては日來(ひごろ)のちなみ、此たびにあらはれ、我のみにあらず、其方まで、いかなるうきめにか逢(あひ)給らんもしらず。我ふたり、さしちがへたりとも、此惡名、おのづから隱(かく)れはあらじとおもふ也。何とぞ、勘太夫を殺し、おもふまゝに夫婦となるべき思案には付給ふまじや。」

と、いひけるに、女房も心よげに打わらひ、

「それまでも、我をうたがひ、遠慮したまふこそ、うたてけれ。我にふたごゝろなき證據には、今にも、勘太夫、下りつきたまはゞ、手にかけて殺しこそすべけれ。はやく、その手だてを分別したまへ。」

といふ。

 太七も安堵して、

「しからば、勘太夫下りつきたまはゞ、いついつよりも、心よくもてなし、むつまじうあいしらひて、食(めし)をもすゝめ給へ。いつも酒を多く吞(のむ)なれば、おもふさま醉(ゑひ)のませて、心をやすめ給はゞ、例のごとく、膳にすはりたるまゝ、醉の來(く)るにしたがひて、ふらふらと眠るべし。其ひまを窺ひ、我、物かげより、半弓をもつて只中(たゞなか)を射ぬきて殺べし。かまへて、色(いろ)をさとられ給ふな。」

と、くれぐれ、いひかためて、勘太夫を待けるに、かくともしらず、勘太夫は何ごゝろなく舩に乘(のり)つゝ、高松ちかくまで漕(こぎ)わたりけるに、ある夜の夢ごゝろ、

「舟玉(ふなだま)。」

と名乘(なのり)て、枕がみに立(たち)より、勘太夫が顏を、

「つくづく。」

と、ながめ、

「……汝――つるぎの中にあり――身を動かす事――なかれ――舟は一寸を損じて――潮(うしほ)なれども――たのしみは――爰(ここ)にあるぞ……」

[やぶちゃん注:特異的にリーダとダッシュを用いた。]

と、

『くりかへし、くりかへし、のたまふよ。』

と思ふに、「素助(しろすけ)」、しきりに吼(ほえ)たちて、いがみけるに、目、さめぬ。

 あまり、心にかゝりしかば、舩をあがるより、先(まづ)、山ぶしのかたに行(ゆき)て、彼(かの)夢の事を判じさせけるに、山ふしの云(いふ)やう、

「是は。もつての外、身の大事にて、命の終る事、こよひを過(すぐ)さず。」

と、占ひしを、勘太夫、また詞(ことば)をかへして、

「其難は、家にあるか、外にあるか。」

と、いふ時、

「なるほど。内にあり。陰陽のめぐりの違(たが)ひたるゆへに、冬の氣すゝみて、次に秋を得たるやうの卦(け)なり。」

と、かたりぬ。

「さては。我(わが)留守(るす)の内(うち)に、あやしき者、出來(いでき)て、家をほろぼし、我を殺さんとする也。」

と、心に思案をきはめ、何となく歸りけるに、素助(しろすけ)、

「ひた。」

と、勘太夫が裾をくはへて、引とゞめ、内へいれず。

 心には、

『さてこそ。』

と、おもひながら、再三、もぎはなして入けるに、女房、いついつより、機嫌よく、心むかひ、しみじみとなつかしげに、足の湯、とり、飯(めし)なども、とりいそぎてすゑけれども、勘太夫は、

「何とやらん、けふは取わき、心あしく、時々、目まひなどもする。」

よし、僞(いつわり[やぶちゃん注:ママ。])て、喰(くは)ず、酒も、

「氣のとりのぼりたるには惡敷(あしき)。」

とて、吞(のま)ず、旅のまゝにて、臺所に手(て)まくら、狸ねいりして、窺ひ居たるに、犬、また、庭につい居て、動かず。

 くひ物をくわすれども[やぶちゃん注:ママ。]、見むきもせず、たゞ太七を見とゞめて、目をはなさず。

 太七は、

『勘太夫、寢いりたり。』

と、おもひて、身づくろひ仕(し)て、半弓を取出(とりいだ)し、打(うち)つかふ時、勘太夫、目を

「くわつ。」

と、見ひらき、

「素助(しろすけ)。」

と、呼(よび)かけければ、此聲を聞(きく)とひとしく、飛かゝりて、太七が陰囊(きん)にくらひ付けるほどに、

「あつ。」

と、いひて仆(たを[やぶちゃん注:ママ。])るゝ所を、やがて、咽(のど)ふゑに喰(くひ)かゝり、なんなく、太七を仕(し)とめたり。

 女房、今は、あらはれたると思ひ、井戶へ飛こまんとしたる所を、勘太夫、うしろより抱とめ、色々とせんぎしけるにぞ、不義の密通、あらはれて、終に殺さるべかりしを、近所の衆、あつかひしかば、なくなく、尼になして、追(おひ)はらひけるとぞ。

[やぶちゃん注:「しろすけ! ようやったぞ!」――]

諸国因果物語 巻之六 貪欲のもの人魚にむまるゝ事

 

     貪欲(とんよく)のもの人魚(にんぎよ)にむまるゝ事

Ningyo



 出羽の國百合の里、ぬけ戶口に、橫山文左衞門といふものあり。

[やぶちゃん注:秋田県由利本荘市(ゆりほんじょうし)東由利舘合(ひがしゆりたてあい)板戸口(いたとぐち)・東由利舘合岩井戸口(いいわとぐち)の地名があり、東由利舘合はここ(グーグル・マップ・データ)。但し、後に出る「關濱」は同市内には現在見当たらない。]

 宝永二年の比、周波和尙とかやいふ僧、比國に來り給ふ事ありけるに、此文左衞門、諸事を世話にし、その邊(へん)近鄕のものへ勸(すゝめ)、

「おのおの血脈(けちみやく)をうけ給へ。」

と、いひわたりけるまゝ、文左衞門をたのみて、我も我もと、心ざしをはこび、布施を持參し、血脈をうくる事にぞありける。

[やぶちゃん注:「宝永二年」一七〇五年。

「周波和尙」不詳。

「血脈」この場合は、在家(ざいけ)の受戒者に仏法相承の証拠として与える法嗣の系譜図。]

 あるひは、鳥目百文、二百文より、一貫、二貫にいたり、または、金子五十疋、百疋より、壱兩、二兩と、心々につゝみて、文左衞門に渡しけるを、おもふさま、取こみ、高(かた)〆(しめ)て百四、五十兩あてもありけるを、ことごとく聊留(かくりう)し、周波和尙へは、わづかに鳥目(てうもく)百文づゝに積りて渡しけるば、欲の程、終にかくれなく、かたはし、ひそひそと取沙汰あしくなりて、

「此文左衞門は欲こそ多けれ、佛法のすゝめを請(うけ)んため、僧にたてまつりし物をおさへて、我ものにしける科(とが)輕からねば、此世こそ榮花はするとも、定(さだめ)て後生(ごしやう)にはぢごくのたねにこそあらめ。」

などゝ、女・わらべまで、陰口に爪(つめ)はぢきして、そしり、おもひけるを、聞(きゝ)つゝも、

「何ほどのことかあるべき。見ゑ[やぶちゃん注:ママ。]もせぬ後生より、さしあたりての此世こそ案ずべけれ。日本の内、あらゆる神のやしろ、佛の寺につきそひ、此かげにて身を過るもの、いづれか欲をせぬもの有べき、たとへ、日本(につぽん)のためとて、大分(だいぶん)の金をうけとるとも、纔(わづか)、日に一盃の飯(めし)をたてまつりて、その外は身をやしなひ、命をつなぐたよりにする也。我も、まんざら、橫取したらばこそ初尾(はつお)は、みなみな、和尙にやりたれば、神佛をうりて過る者とおなじ事。我は出家の德を賣(うり)て隙(ひま)入たる手間賃(てまちん)を取たるなり。何時(なんどき)にても、かゝる人あらば、我、また、一まふけのたねにすべしとおもふ也。」

などゝ、口ひろく、いひのゝしり、何の氣もなき顏つき、いよいよ、村中にも疎(うと)み、にくみたりしに、その年の秋より、文左衞門、ふらふらと煩ひ付て、臥(ふし)たり。

[やぶちゃん注:「聊留(かくりう)」漢字表記はママ。「ゆまに書房」版は『柳留』と判読しているが、意味が解らぬので採らない。但し、「聊留」でも「かくりう」とは読めないし(読もうなら「れうりう」)、それらしい漢字を私は当てただけではある。より適切な判読(読み・意味も含めて)が出来るとならば、お教え願いたい。ここである(左頁二行目)。

「鳥目百文、二百文より、一貫、二貫にいたり、または、金子五十疋、百疋より、壱兩、二兩と、心々につゝみて、文左衞門に渡しけるを、おもふさま、取こみ、高(かた)〆(しめ)て百四、五十兩あてもありける」「疋」は鎌倉時代から江戸時代にかけて用いられた銭貨の数え方(通貨単位ではない)で、百疋をもって一貫とした。本作が刊行された一七〇〇年代で金一両は銀六十匁で銭四貫文(四千文)であった。同時代(江戸中期の初期)の一両を六千文ほどとして現在の約七万五千円とするデータが別にあるから、百五十両は最大一千百二十五万円相当となる。対して文左衛門が周波和尚に小出しに渡していた、「百文」は僅か千二百五十円から千六百七十五円相当となる。

「爪(つめ)はぢき」指弾。非難すること。

「初尾(はつお)」初穂(その年に最初に収穫した穀物などの農作物を神仏に差し出すこと。また、その代わりとする金銭)に同じ。]

 醫者をよびて見するに、何のわづらひともしれず。

 六脈は常にかはらずして、たゞおびたゞしき熱ありて、食物(くひもの)は、すこしも咽(のど)にいらず、たゞ、水をこのみけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、天目(てんもく)に汲てもち行(ゆく)に、井の水は吞(のま)ず、池の水のにごりたるに、鹽をさゝせては吞(のむ)事、日に、四、五斗ばかりなり。

[やぶちゃん注:「六脈」(ろくみゃく)は漢方で脈拍の六種の状態を指す。「浮」・「沈」・「数(さく)」・「遅」・「滑」・「渋」の総称。鍼灸ブログ「一鍼堂」の「東洋医学メモ【脈診】祖脈」に詳しいので参照されたい(調べて見たが、「渋脈」はリンク先の「濇脈(しょうみゃく)」と同じである)。]

「いかゞしたる事ぞ。」

と、妻子もかたはらをはなれず、祈禱をたのみ、佛事をなし、さまざまのことをすれども、終に本復(ほんぷく)なくて、霜月のすゑにいたりて、いよいよ煩ひおもくなり、あがき死(じに)にしけるを[やぶちゃん注:孰れかの「に」は或いは衍字かも知れない。]、隣鄕(りんがう)のものども、聞(きゝ)て、

「さこそあるべけれ。」

「佛罰(ぶつばち)なり。」

「なを、あきたらず。」

などゝつぶやきけるに、明(あく)る年の二日[やぶちゃん注:宝永三年一月二日。グレゴリオ暦一七〇六年二月十四日。]に、關濱(せきはま)といふ所の海より、あやしき魚を網にかけて引あげたり。

[やぶちゃん注:「なを、あきたらず。」「かく死んでも、まだ、その罰は充分とは言えねえな。」であろう。さればこそ、以下なのである。]

 則(すなはち)、本庄(ほんじやう)の御領分(れうぶん)也ければ、御吟味をうけゝるに、長さ六尺、橫二尺ある魚にて、頭ばかりは男の首、肩さきより肱(かいな)まで、なるほど、人にかはらず、背筋より腹尾さき迄、鱗(うろこ)ありて、鯉(こひ)のごとし。

[やぶちゃん注:「肱(かいな)」肩から肘(ひじ)までの二の腕。或いは、肩から手首までの腕全体。挿絵は鱗が生えているものの左右の上肢は人間のように着いている。本文も挿絵も、首から下はしっかり巨大な魚そのものであり、モデル事実があったとしてもそれは、所謂、中・大型の海生哺乳類の誤認である可能性は全くない。]

 背の鰭(ひれ)もとに、文字(もじ)のやうに黑きうろこありけるを、博學の人に見せ、これを、

「古文字(こもじ)・梵字(ぼんじ)などか。」

と、寫させてよませけるに、慥(たしか)に

「『橫山文左衞門』といふ書付(かきつけ)なり。」

と、よまれしにこそ、人、みな、舌をふるひておどろきけるとぞ。

[やぶちゃん注:人魚伝説は私のフリークな守備範囲なのであるが、このような因果応報によって人魚となるというのは、ちょっと聴いたためしがない。しかも、証拠の書付までその身に記されてあるというトンデモ・リアリズムは前代未聞の人魚奇譚である。

「本庄(ほんじやう)の御領分」冒頭に注した通り、ここが現在の由利本荘であるとして、ウィキの「由利本荘市」によれば、同『市中心部(旧・本荘市)は、出羽国が設置された』八『世紀から、交通の要衝として栄え、子吉川河口付近には、出羽国府の出先機関である「由理柵(ゆりのさく・ゆりのき)」が置かれた』。『源頼朝による奥州合戦ののちは由利氏が本領を安堵されていたが、和田合戦を期に大井氏が地頭として入部し、大井氏の霜月騒動連座による失脚後は北条氏が地頭となり』、『小早川氏が地頭代となったと考えられている。軍記物には応仁の乱のころに、信濃国佐久地方から由利十二頭が配置されたとされており、以後彼らが地頭として由利地域に割拠した』。『関ヶ原の戦いのあと、由利地域は、最上氏が治めることになり、その家臣・本城満茂が、現在の由利本荘市尾崎に本荘城を築いたことによって、本格的な城下町としての機能を持つようになった』。慶長一八(一六一三)年頃、『本城満茂が本城城を築き』、十『年間居城した後、元和』八(一六二二)年、『最上氏』は『改易によって退去した』。『その後』、一『年間』、『宇都宮城主本多正純が減転封されたが、この間に城は取り壊され』、『その後、本荘城には常陸国から六郷氏が入部し』、二『万石の大名として本荘藩を立藩。また、亀田には、岩城氏が亀田城を築き』、二『万石の亀田藩となった。さらに、矢島には、讃岐国高松藩の藩主だった生駒氏が生駒騒動により』、一『万石で移封され、ここに、由利地域は、本荘・亀田・矢島の』三『藩による統治が行われることとなった』とある。海浜であるから、そのままこれを六郷氏本荘藩藩領と考えるのが妥当であろう。事実に即すなら、第四代藩主六郷政晴の治世となる。先に示した東由利舘合からは石沢川が東流し、下って子吉川に合流し、子吉川は本荘市市街を抜けて、日本海に流れ込んでいるから、この「關濱」というのも、この子吉川河口の南北の砂浜海岸のどこかにあったと考えてよかろうかと思う。]

2019/08/22

諸国因果物語 巻之六 夫に不孝なる妻盲目になる事

 

     夫に不孝なる妻盲目になる事

Akujyo



 河原町(かはらまち)蛸藥子上(たこやくしあが)る町(てう)に餠屋の三郞兵衞といふ者あり。

[やぶちゃん注:現在の京都府京都市中京区河原町通蛸薬師上る奈良屋町附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]

 此父は六十ばかりにて、元來、若きより、駕籠まはしにて、鐘木町(しゆもくまち)・嶋原(しまばら)の小揚(こあげ)せしもの也。

[やぶちゃん注:「鐘木町」「鐘」はママ。京都府京都市伏見区撞木町(しゅもくちょう)。京で一番小さな花街として永く知られた。町名は道路の形がT字形で鉦叩きのそれに似ることに由来する。本作が時制として好んで設定する元禄時代には山科に隠居していた大石内蔵助が出入りしたことで知られ、そのため、第二次世界大戦後まで続いた。

「嶋原」京都府京都市下京区にあった花街。「島原」とも書く。正式名は「西新屋敷」と称し、六つの町(上之町・中之町・中堂寺町・太夫町・下之町・揚屋町)で構成されている。現在は輪違屋のみが正式なお茶屋の鑑札を有し、置屋兼お茶屋の営業を行っている。この中央附近。

「小揚」客を乗せて遊里へ往復した駕籠舁きを指す。]

 妻は三条の米澤(よねざは)屋に乳母(おち)をつとめたる者なりければ、宿はいりの時より、纔(わづか)の扶持を養ひ君(ぎみ)より、とらせられける程に、常々も、女ごゝろに高ぶり、鼻にかけて、つれあひの夫をあなどり、万(よろづ)に我まゝをぞいひける。殊に此乳(ち)ぬしなりしかば、一子三郞兵衞をも、米澤屋より何かと心をそへ給ひしに任(まか)せて、纔なる元手を打こみ、唐綿(たうわた)の商(あきなひ)をさせ、宿には餠をつきて賣(うる)などして渡世としけるにつきても、親七兵衞は、年たけ、よはひもかたぶきけるまゝに、思ふまゝのはたらきも得(え)[やぶちゃん注:漢字は当て字。呼応の副詞。]せず、よはりたるを、女房、はしたなくせめつかひ、昼はからうすを踏(ふま)せ、綿をうたせ、手すきあれば、木を割(わり)、水を汲(くま)せ、餠の手つだひとて、夜の内ゟ[やぶちゃん注:「より」。]、追(おひ)おこして、米をとがさせ、臼(うす)とりさせなど、片時も、下(した)におかず。

[やぶちゃん注:「三条」ここの東西。

「米澤屋」不詳であるが、以下の叙述から相当に裕福な格式の高い商家であったようだ。

「宿はいり」嫁入り。

「養ひ君」乳母として育てた米澤屋の御曹司、後の主人。

「唐綿」木綿(アオイ目アオイ科ワタ属アジアワタGossypium arboreum)のことであろう。本邦では戦国時代に普及した(それよりずっと以前の延暦一八(七九九)年にインドから種子がもたらされたが、栽培に結びつかなかったらしい)。]

 たまたま、彼岸十夜のころ、

「寺まいりせん。」

といへば、女房、大にしかり、恥しめ、

「わぬしは、常に何をまふけて、氣まゝに寺參りしたまふや。散錢(さんせん)一文も、むす子が物なり。あてがはぬ錢を盗(ぬすみ)て參りたる後生(ごしやう)は、罪にこそなれ。」

と、さんざんにしかりすくめ、食物(くひもの)なども、滿足にはくはせずして、十四、五年も過(すぐ)しけるに、いよいよ、年かたぶき、手あしよはくなりけるまゝに、木をわり、水くむ態(わざ)も成(なり)がたく見えしまゝに、

「さらば、草鞋(ぞうり[やぶちゃん注:ママ。])を造りて口を過(すぎ)給へ。人はたゞ居て口の過(すぐ)さるゝ物にもあらず。三郞兵衞が手ひとつをまもりて、三人は過(すぐ)されず。」

と、いひせたげて、夜は、八つ、七つ[やぶちゃん注:午前二時、午前四時。]までも、草履(ざうり)・草鞋(わらんじ[やぶちゃん注:ママ。])をつゞせけるに、それも、足の湯(ゆ)の下(した)を、燒茶(やきちや)を煮(にる)火(ひ)の影にて、つゞらせるのみか、冬の夜(よ)も、庭にむしろを敷(しき)、素布子(すのこ)ひとつにて置(おき)けるゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、やゝもすれば疝氣(せんき)おこりて、二日、三日、打ふせども、藥などもくれず、

「死(しに)給へ、死給へ。」

と、せがみ、あげくに法体(ほつたい)させて、追(おひ)たて、

「毎日、『はちひらき』に出(いで)て、樂をしたまへ。」

と追やりしが、程なく、飢こゞゑて、七十五といふ冬、長兵衞は、死(しに)たり。

[やぶちゃん注:「彼岸十夜」限りなく、この三郎兵衛は今までの本書にしばしば見られた浄土宗の信徒であると思われる(私は作者青木鷺水も浄土宗と踏んでいる)。これは所謂、浄土宗で大切にする「御十夜(おじゅうや)法要」、正しくは「十夜念仏法要」を指すものと考えられるからである。浄土宗で旧暦十月六日から、十日十夜の間、念仏勤行を修する儀式のことで、後花園天皇の頃,後に室町幕府政所執事となった伊勢(平)貞国(応永五(一三九八)年~享徳三(一四五四)年)が京都の真如堂(天台宗)に参籠して三日三夜修して出家しようとしたところ、夢の告げで、「弥陀の誓願によって救われるから出家を思いとどまるように」と言われ、三日目に公命で家を相続することになったので、その後続けて七日七夜に亙って念仏勤行を修したという故事に由来するとされる。

「散錢」神供の一つで、本来は祓(はらい)や参拝の際に神前で米を散らす散米(さんまい・うちまき)が、近世に入って金銭に変わった。賽銭のこと。

「せたげて」「せたぐ」で「虐(せた)ぐ」(「しへたぐ」の音変化とする)。「攻めたてる」「きつく責める」の意。

「草履(ざうり)・草鞋(わらんじ)」草履は鼻緒があらかじめちゃんと作られてあり、そこに足の親指とひとさし指を挟んで履くもので、草鞋(歴史的仮名遣は「わらぢ」)は緒と呼ばれる紐があり、これを足首及び同前の指の間等に回して巻き絞って履くものを指す。後者と前者が大きく異なる点は、草鞋の方が遙かに足の裏に密着し滑りにくく歩き易い点で、昔は草鞋が長旅の必需品であったし、現在でも沢登りには草鞋が欠かせない。

「足の湯(ゆ)の下(した)を」意味不明。足を洗う洗い湯を置く土間のところで、の謂いか。

「疝氣」漢方で広く下腹部の痛みを総称する。胃炎・胆嚢炎・胆石・腸炎・腰痛・悪性腫瘍などを原因とするものが多い。

「はちひらき」僧が金品を乞い歩く托鉢(たくはつ)のこと。この人非人の女の救い難い酷さは、夫を出家させたのではなく、強いて「法体」(ほったい)を「させて」、「物乞いして来い!」と尻を叩いて出して、その施物をも奪い取ったに違いない点である。]

 人めを思ひてや、女房、いつにかはりて、淚をこぼし、旦那(だんな)[やぶちゃん注:旦那寺であろう。菩提寺。]の邊(へん)まで、いひありきて[やぶちゃん注:念仏を唱えるのを「いひ」(言ひ)と言っているか。]、葬礼、かたのごとく、とりおこなひける。

 三郞兵衞にも、ちかき比(ころ)、女房をよびて、内にありしが、

「產の氣(け)つきたり。」

とて、親もとより歸らず、後家と三郞兵衞と、忌中をつとめ、けふ、あすと、過しける内、はや、七日にあたるといふ、逮夜(たいや)[やぶちゃん注:初七日法要の前の晩の意。]の夜、とても、さのみ、とぶらひといふ心もちもせず、宵より、戸をしめて臥たりしに、人、みな、寢しづまりて、庭に、

「ひた。」

と、人の音して、いふやう、

「……扨も……日ごろのうらみを……何として……はらすべきぞ……先……あのかいなを……一本づゝ……もぎおとすべし……やゝもすれば……我にこぶしをあてし也……」

といふ聲、まさしく、夫の庄兵衞也。

 何とやらん、物すごくて、引かぶり臥(ふし)たりしに、間ぢかく、枕もとに、聲して、

「……おのれ……今……おもひしれ……片うでづゝ……もぎとり……眼(まなこ)をつぶし……咽(のど)をしめ……日かずを經て……我むねのはるゝまで……さいなむべし……我今のなりを……見よ……おのれゆへに……うかみもやらず……此すがたなり……」

と、たぶさを取て、引あふのけし時、たゞ一目見し、そのさま、すがたは、長兵衞が道心にて、かしらはすさまじき角(つの)はへ出、まなこは、日月とかゝやき、まことに、繪にかける、鬼、なり。

「あつ。」

と、おもひて、ふさぎたる眼、その夜より、うづき出、五、六日の間は、夜、ひるとなく、うめきけるが、終に、目は、二つながら、つぶれたり。

 扨、そのゝち、四、五日ありて左のかいな、しびれ出て、うづき、右にうつり、足にわたり、四十日ばかりありて、惣身(そうみ)なへけるうへに、膈(かく)をわづらひいだし、二年ほどありて、死(しに)たり。

 三郞兵衞も、それより、段々に、手まへあしく、ぼろぼろとなりゆきて、行かたを、しらず。

[やぶちゃん注:夫の亡霊の台詞に特異的にリーダを使用した。そうでもしないとこの悪女への恨みは伝わらないと思ったからである。この妻ほどひどい奴は、滅多にいない。今までの怪奇談の中でも頭抜けた超弩級の救い難い根っからの悪女である。一抹の憐憫さえ感じない。父を救う一言も浮かばなかった馬鹿息子も然りである。なお、挿絵師が角を描かなかったのは、私は、よかったと思う。

「膈」既出既注だが、再掲する。「膈噎(かくいつ)」。厳密には、「膈」は食物が胸の附近でつかえて吐く症状、「噎」は食物がすぐ喉の附近でつかえて吐く病態を指すが、現在では、これで現行の胃癌又は食道癌の類を指していたとされる。ここはまさに進行したそれによって、夫にろくに食事を与えなかった報いでものも食えず、激しい痛みの中で死んで行ったのである。]

諸国因果物語 巻之六 目録・十悪の人も報をうくるに時節ある事

 

諸國因果物語卷之六

 

十悪の人も報(むくひ)を受(うく)るに時節ある事

夫に不孝なる妻盲目になりし事

貪欲(とんよく)の者人魚(ぎよ)に生れし事

犬(いぬ)密夫(まおとこ)をくらひ殺す事

正直の人を倩(そねみ)てむくひる受し事

[やぶちゃん注:「まおとこ」はママ。「倩」は「猜」の誤記。]

 

諸國因果物語卷之六

     十悪の人も報をうくるに時節ある事

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 江州下坂本(しもさかもと)に太郞兵衞といふ者あり。卅五六まで定(さだま)る妻もなく、手まへもよろしく暮しけれども、いかなる心にや召つかふ人もなく、手せんじにて、年ごろを過(すぎ)し、家なども、居宅の外に、二、三間(げん)もありしかど、

「是も世話なり。」

とて、入用(いりやう)もなきに、賣はらひ、とかくに「世の中の替(かは)りもの」と人にもいはるゝ行跡なり。

[やぶちゃん注:本篇には特異的に二枚(頁枚数では三枚)の挿絵がある。二枚目は適切と思われる個所に途中で挿入した。

「十悪」既出既注

「江州下坂本」現在の滋賀県大津市下(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。ウィキの「下阪本」によれば、『中世は大和荘のうちにあり、江戸時代には下坂本村となった』(ここに出る通り、「坂」)。『村高は寛永郷帳で』三千五百十七『であり』、その内、『延暦寺領が』三千四百二十七『石、西教寺領が』九十『石であった』とある。

「手せんじ」「てせんじ」で「手煎」。自炊すること。通常は貧乏で使用人を雇えない生活を言うが、ここは例外。]

 此弟は「輕都(かるいち)」とて、座頭なりしが、師の坊につれられ、おさなきより、江戸に住(すみ)て、かなたこなたと勤(つとめ)ける程に、藝などもすぐれ、心だて、又、「しほらしき者なり」とて、人々の情(なさけ)ふかく、年若き内より、四度、勾當(こうたう)に經(へ)あがり、出世も、日にそいて、まさる勢ひに、大かた、その比の座頭ども、輕都を、およそ、やすからぬ事にうらやみ、そねむものも多かりけり。

[やぶちゃん注:「勾當(こうたう)」中世・近世に於ける盲官(視覚障碍を持った公務員)の一つ。最高位の「検校(けんぎょう)」の下に降順で「別当」・「勾当」・「座頭(ざとう)」・「紫分(しぶん)」(以下の「衆分(しゅぶん)」と同じ)・「市名(いちな)」・「都(はん)」などがあった。

「そねむもの」は「ゆまに書房」版では『ほふもの』と判読しているが、見た感じ、「もの」の前は二字ではなく三字である(ここの最終行)。「む」と判読するは厳しいが、意味の通るように私はそう判じた。]

 かくて、元祿二年[やぶちゃん注:一六八九年。]の夏は、衆分(しゆぶん)より勾當・檢校の三つを一度に經あがり、此序(ついで)に、御定(さだま)りの「凉(すゞ)み」もつとめたきねがひありて、前年より方々とかけめぐりて、旦那どもをたのみけるに、さなきだに、氣かさなりける、江戶人、

[やぶちゃん注:「凉(すゞ)み」古くからある盲人の職能集団である当道座(とうどうざ)の中では鎌倉時代以降、「平家物語」を琵琶で語る「平曲」の「座」が象徴的権威となっており(座衆内では師匠の系譜によって「一方(いちかた)」と「城方(じょうかた)」の平曲二流に分かれており、彼らは公的に諸国往来の自由を獲得し、平曲上演の縄張を拡大して、室町時代に至り、彼らの平曲が最盛期を迎えていた)、天夜尊(あまよのみこと:仁明或いは光孝天皇の皇子人康(さねやす)親王ともいう)を祖神とする由来が形成され、その祖神に因む二月十六日の「積塔(しやくとう)」、六月十九日の「涼(すずみ)の塔」に上位の盲官らが参集して祭祀を執行した。盲官内での昇進も金が物を言い、莫大な金が動いた。江戸中期以降は、その貯蓄を以って専ら金貸しばかりしていた上位盲官もおり、幕府が取締ったりしたが、効果はなかったようである。恐らくは、この「涼(すずみ)の塔」の祭祀に参加するだけでも、ここで言う「官錢」=膨大な参加料・賄賂を総検校や関連の公家らに渡す必要があったことも頷ける。]

「われ、一。」

と、すゝみだちて、官錢(くはんせん)、つゝがなく請取(うけとる)けるまゝ、

「此たびの上京は、ひとしほ、譽(ほまれ)ある身のおさまり。」

と、うれしさ、別して、

「坂本なる兄にも知らせ、故鄕の人々にも、この出世をひけらかさばや。」

と、おもひつゝ、矢橋より、右につきて、先(まづ)、下さかもとへと尋ねよりけるに、太郞兵衞も、大かたならずよろこび、心ばかりのもてなし、酒などもくみかはして、彼(かの)座頭、先、江戶よりたくはへ來りし官錢八百兩餘(よ)の金を取いだして、太郞兵衞に預け、

[やぶちゃん注:「八百兩」同時代(江戸中期の初期)の一両を六千文ほどとして現在の約七万五千円とするデータがある。それだと、実に六千万円に相当する大金である。]

「いまだ『凉(すゞみ)』とても日數あり、御職(おしよく)へ案内しては、物ごとにむつかしければ、しばらく爰に休息すべし。」

[やぶちゃん注:「御職」総検校や「涼(すずみ)の塔」の祭祀を担当した上級実務職のことか。「物ごとにむつかしければ」とは、そうした人物たねの挨拶と捧金の間合いや順序がなかなかに難しいものがあるというのであろうか。]

とて、二、三日も居たりける内、何とかしたりけん、喉痺(こうひ)を煩ひいだし、咽(のど)、はれふさがりて、四、五日も打臥ゐたりし程に、太郞兵衞、才覚して、

[やぶちゃん注:「喉痺」咽喉(のど)が腫れて痛む病気、或いは咽喉に発生した腫瘍。]

「何とぞ、此咽の腫(はれ)を破りたらば、藥も通るべし。又は食(しよく)などもすゝみて治(ぢ)するに心やすかるべければ、先、何とぞして破るこそよけれ。いで。我(わが)するまゝになれ。」

と、小脇差にありける赤銅(しやくどう)の割笄(わりかうがい)をはづして、輕都(かるいち)が咽(のど)をのぞき、さまざまとせゝりしが、不圖、惡心おこりけるに任せ、彼(かの)笄をもつて、咽の穴へ、かしらの見えぬ程、さしこみしかば、輕都は、聲をたてゝ、さけばんとすれども、其あとへ手ぬぐひをおしこみ、口に手をあて、やゝしばらくおさへけるに、苦しげなるうめきの音、しきりに聞へしかば、隣(となり)あたりのものども、見舞しかども、只、

[やぶちゃん注:「赤銅」銅に金三~四%、銀約一%を加えた銅合金。硫酸銅・酢酸銅などの水溶液中で煮沸すると、紫がかった黒色の美しい色彩を示すので、日本では古くから紫金(むらさきがね)・烏金(うきん)などと呼ばれて重用された。

「割笄」元は髪を掻き上げるのに用いる笄(こうがい)の一種。根本が一つで、中途から二つにわかれた婦人用のものと、箸や小刀のように、二本からなる刀の鞘に鍔を通して差し添えたものがある。尖端を鋭く尖らせてナイフ状に成し、投擲用の実戦用の武器(飛び道具)ともなった。ここはその後者。]

「咽の、腫(はれ)ふさがりて、此ほど、食などもすゝまず、別して、今朝(けさ)より苦病と見えて、苦しがり候。」

などゝ僞り、なみだなどこぼして語りけるに、

「誠は。太郞兵衞と兄弟のかうなり。何に付ても始在(しよざい)あるべきにあらず。」

[やぶちゃん注:「かう」不詳。「孝」を思うが、「孝」はあくまで父母に対するもので、兄弟のそれは「弟(てい)」である。

「始在」不詳。「所在」で、「(何らかの)問題・行為」の意か。]

などいひて、さのみ氣もつけざりけるを幸と、思ふまゝにしめ殺し、此金をあわせて、大分の德(とく)、付(つき)しより、俄に、欲の心おこり、京の方へのぼりける序(ついで)、五条邊(へん)に母かたの伯父の、日錢借(ひぜにかし)といふ事をして居たるを、賴み、此金を元手にあづけけるに、壱步(ぶ)八の利足(りそく)、月々にまはるを、面白く、半年にもならんとおもふ比(ころ)、彼(かの)伯父の肝煎にて、西京山内(にしのきやうやまのうち)といふ所に、百石ばかりの田地をもちたる後家の方へ、入むこに遣(つかは)しぬ。

[やぶちゃん注:「五条」京の五条通

「壱步(ぶ)八の利足」こまごまと貸すのではなく、百両単位でポンと貸し、その代り、貸与した金額に対して八割というとんでもない高額の利息を附けたのであろう。でなければ、半年で京に土地を買えるほどの莫大な金を得られようがない。

「西京山内」現在の西京(にしきょう)区には当該地名を探し得ない。京都府京都市右京区山ノ内山ノ下町かとも思ったが、以下の叙述で田がかなり多いので違うようにも思われる。よく判らぬ。【2019年8月23日改稿・追記】いつも情報をお寄せ下さるT氏よりメールを戴いた。

   《引用開始》

現「右京区」は江戸時代は京と認識されていません。「西京」は江戸時代には葛野郡(かどの)西ノ京村を指し、ウィキの「西ノ京(京都市)」によれば、「西ノ京」を冠する町は現在、六十一町あるようです。

   《引用終了》

そこでウィキの「葛野郡」を見てみると、「町村制以降の沿革」の項に、西院(さいいん)村(現在の京都市下京区と右京区)と、山之内村(現在の京都市右京区)が西院村に統合された旨の記載があった(後者は後に旧名が復活して現在に至ったということになる)。T氏の続きを示す。

   《引用開始》

「山内」はやはり「京都府京都市右京区山ノ内」で旧「葛野郡山之内村」で、「西ノ京村」の南西に「山之内村」が位置します(「西京山内」は 京の西の端という感じで、具体的場所をぼかしています)。これらは豊臣秀吉の構築した御土居の西側ラインが貫通している場所です。北野天神の西を流れる天神川を利用する村々で、寺・公家の所領地がやたら錯綜しています。

   《引用終了》

そこで再度、地図を見ると、この附近には、現行地名に「山ノ内」を冠する地名が複数あり、その東に嘗つて統合された「西院」地区があることが判る(地図では京福電気鉄道嵐山本線山ノ内駅(右京区山ノ内宮前町)をポイントしてある)。やはり、ここで良かったのであった。T氏に御礼申し上げる。]

 此後家、太郞兵衞に五つばかりも姊(あね)にて、大みつちやの痘瘡顏(いもがほ)にて、色黑く邊土(へんど)にてそだちたれば、風俗、また、大に見にくきに、年たけたれば、髮かたちにもかまはず、萬うちとけたるありさまも見るに、心うく、さながら、女房とて、人中に立ならび、同じうき世に住ながら欲ゆへの妻よ、といはるゝもうるさければ、又、例の惡心おこり、

「いかにもして、此女さへなき物にしたれば、外におもふ事なし。」

などゝ、常々に心がけける折から、いつも秋のころは、田かり、稻こきに隙(ひま)なく、大ぜいの人をやとひ、年ごとに役をあてがひ、夜を日につぎてはたらくは、かゝるあたりの習ひにて、雇(やとは)るゝ男女(おとこをんな[やぶちゃん注:ママ。])も、また、大分(だいぶん)なり。

[やぶちゃん注:「大みつちや」「みつちや(みっちゃ)」は以下に述べる天然痘の瘢痕(あばた)が異様に多いことを言う。それがまた甚だ激しいのである。「みっちゃくちゃ」とも呼んだ。「めっちゃくちゃ」の語源らしい。

「痘瘡顏」痘瘡(天然痘)に罹患するも、治癒したが(天然痘(取り敢えず撲滅宣言は一九八〇年五月八日に成された)の致死率は平均で約二十~五十%と非常に高い)、顔面の激しい瘢痕(一般的に「あばた」と呼んだ)が残ったのである。]

 されば、此秋の田かりもちかく、

『二、三日の内に。』

と思ひたちけるまゝ、いつも用の時はめしよせてつかふ者あり、今年もかはらず、約束して、

「秋中(ちう[やぶちゃん注:ママ。])のはたらきを賴來(たのみきた)るべし。」

と、みづから、暮がたより立出(たちいで)、西(さい)藏といふ所まで行たるを、

「ねがふ所のさひわひ。」

と、太郞兵衞も暮過(くれすぎ)てより、宿(やど)を出(いで)、苧屑頭巾(をくづずきん)、まぶかにかぶり、すそ、ほつきたる柹(かき)の惟子(かたびら)に、繩帶(なはおび)を引しめ、蒲脚半(がまきやはん)・足半(あしなか)、かろがろと出たち、二尺あまりなる大わきざし、ねたばをあはせて、西の土堤(どて)づたひに、北へとあゆむ。

[やぶちゃん注:「西藏」京都府京都市南区吉祥院西ノ内町に浄土宗の延命山西蔵寺という寺があるが、この附近か。

「苧屑頭巾」苧(からむし:双子葉植物綱イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea)の茎を編んで作った頭巾。切妻の屋根に似た形で、頭部を覆うように深く被る。鷹匠や猟師などが用いた。「おくそずきん」「ほくそずきん」或いは「山岡頭巾」「強盗(がんどう)頭巾」「細頭巾」とも呼ぶ。こちらの小学館「日本国語大辞典」の図を参照。以下、賎民の扮装をしているのである。

「ほつきたる」解(ほつ)れた。

「柹(かき)の」柿色の。防水用の柿渋を塗ってあるのである。

「蒲脚半」蒲(単子葉植物綱イネ目ガマ科ガマ属ガマ Typha latifolia)の繊維で拵えた脚絆(きゃはん)のこと。古くは脛(すね)に着ける装飾・防護用の「脛巾(はばき)」が一般的用語であったが、室町以後は専ら「脚絆」が用いられている。但し、その後も東北地方では布製のものを「脚絆」と称し、蒲・藺草・藁などで編んだものを「脛巾(はばき)」と呼んで区別している。基本的には、四角形又は扇形に編んで、上下に紐をつけ、これを足に巻いて固定する。かつては農作業や山仕事のほかに、旅行・外出・雪中や雨中の歩行に用いられた(諸辞書・事典を合成した)。

「足半」芯緒緒(芯繩)を利用して鼻緒を前で結んだ小さな形の藁草履。大きさが足裏の半ばほどしかないので「あしなか」と呼ばれ、我々が想起する草履である長草履と区別したもの。足裏に密着し、鼻緒が丈夫なことから、滑り止めとして、鎌倉・室町時代の武士階級がよく利用した。鼻緒の結び方や名称は地方により異なるが、冬の夜なべにこれをつくる農山村が多かった。この草履をはいて山野へ行くと,マムシに咬まれないとされた(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「ねたばをあはせて」「寝刃を合はす」とは刀剣の刃を研ぐことであるが、転じて、「こっそりと悪事を企(たくら)む」ことの意に用いる。ここは前の大脇差に続けて両様の意を掛けたととるべきであろう。

「西の土堤(どて)づたひに、北へとあゆむ」西京山内や西蔵が今一つどこであるか判らないのであるが、孰れにせよ、これは太郎兵衛は一度、南を大回りして、桂川の西の堤を北上したのであろう。犯罪を犯そうとする彼が、犯人は自分が西京山内から来た者でないように大きく迂回して西蔵に向かうという偽装を施したルートを指すものとは思われる。【2019年8月23日一部修正・追記】T氏より『行き違いの可能性が大き過ぎると思います』と御忠告を得た。山内が確定してみれば、西蔵が西蔵寺方面だとすると、確かに桂川の西堤をわざわざ下って北に上る必要はなく(西にダイレクトに速やかに進んで待ち伏せしていればよいだけである)、それでは如何にもとぼけた迂遠な行動となってしまうことに気がついた。さすれば、まず、この西堤というのは桂川ではなく、T氏による前の追記に出る天神川で(確か旧天神側の流域は現在と異なり、かなり真っ直ぐに南に下っていた)、そこ、則ち、旧天神川の西堤まで西京山内から出て、そこでやおら少し北に向かって歩み、北から強殺犯が来たように見せかけたとするのがよかろうか。

 ころは、九月廿日あまり、宵闇の鼻つまむもしらぬ薄ぐもり、草むらを分(わけ)てしのびゆくに、ありき馴たる道とて、女房はくらき夜ともいはず、殊に㙒みちなれば、人通りとてもなき所を、高々と田歌(たうた)口ずさみて歸る所をやりすごして、後(うしろ)より、土堤(どて)の上にかけ上り、ぬきまふけし脇ざし、とりもなをさず、腰のつがひを、眞(ま)ふたつに切(きり)はなせば、

「あつ。」

と、いひける一こゑのみにて、屍(かばね)は、左右(さゆう[やぶちゃん注:ママ。])へ、わかれたり。

[やぶちゃん注:「ころは、九月廿日あまり」叙述の流れから見るとは、元禄三(一六九〇)年か翌年となろう。前者なら、グレゴリオ暦で十月二十一日辺り、後者なら閏八月を挟むため十一月九日頃となる。

「ぬきまふけし」「拔き設けし」あらかじめ抜刀して構えていた。]

『仕(し)すましたり。』

と、おもひて、何氣なく衣類を替、我宿へ歸りけるに、あまり遲きをふしんがりて出入のおのこども[やぶちゃん注:ママ。]、道まで迎ひに行しが、此体(てい)を見つけしより、太郞兵衞も始ておどろきたる顏して、しばらくは詮議もするやうにもてなして濟(すま)しぬ。

 それより爰も沽却(こきやく)して[やぶちゃん注:売り払って。]田地なども賣ける程に、彼是あはせて、千二、三百兩あしの身上(しんしやう)誰(たれ)うらやまぬ物もなく[やぶちゃん注:「あし」は「足」で「金銭」「額」の意か。]、坂本の家も拂ひて、みなみな、金とし、今はたとひ何程の榮耀を極(きは)めたりとも、一代は、らくに暮すべき身の程、いまだあきたらずや有けん、有德(うとく)なる人の娘の敷錢(しきがね)[やぶちゃん注:持参金。持ち金。]あるを聞(きゝ)たて、

「妻にせん。」

とたくみけるが、いまだ運つよき身のほどとて、下京松原にて名高き合羽(かつぱ)屋の娘、しかも惣領にて、家督もいかめしき迄ありけるに、取(とり)むすび、よく盤昌(はんじよう)[やぶちゃん注:漢字表記も読みもママ。]の花をさかせ、二年ばかり過けるまゝ、一人の子をまふけたり。

[やぶちゃん注:「下京松原」京都府京都市下京区松原通はこの附近。]

 太郞兵衞、殊に、てうあひにて、しばらくも見えねば、尋ねまはりて可愛がりけるが、やうやう五つばかりになりける年、疱瘡(はうさう)をしたり。

 煩惱(ほゝをり[やぶちゃん注:ママ。読みは不詳。こんな読みは見たことがない。「ゆまに書房」版もこの判読である。])も人よりは强く、何樣(なにか[やぶちゃん注:ママ。何につけても。])に心もとなき事のみ也しかば、

「かかる事には立願(りうぐはん)こそ世に賴(たのみ)ある物なれ。」

と、太郞兵衞みづから、「はだし參り」をおもひ立て、毎日曉(あかつき)ごとに淸水(きよみづ)へまいり、一心に立願し、明(あけ)て歸るを、役(やく)のやうにせしに、四日にあたりたるあしたは、寢(ね)まどひて、八つの比、宿を出(いで)、六はらを東へ㙒にかゝりけるころ、安井(やすゐ)を南へ、六はらの道を東へと、いそぎ行(ゆく)ものあり。

[やぶちゃん注:「はだし參り」「裸足(跣)參り」で、祈願のために日数を限って神社に裸足で詣でること。よく知られる「御百度参り」は境内の御百度石から社頭までを裸足で往復する。

「淸水」京都府京都市東山区清水にある、当時は法相宗の音羽山清水寺。本尊は千手観音。

「寢(ね)まどひて」眠れなくて。

「八つ」定時法で午前二時。

「六はら」「六波羅」。京都の鴨川東岸の五条大路から七条大路一帯の地名。現在の京都市東山区の一部。「六原」とも書く。天暦五(九五一)年に浄土教の先駆者で口称念仏の祖である空也がこの地に西光寺を創建し、後に中信が、この寺を補陀洛山(ふだらくせん)六波羅蜜寺(江戸時代には現在と同じく真言宗)と改名したことからこの一帯が「六波羅」と呼ばれるようになったとされる。この辺りは洛中から京都の住民の葬地であった鳥辺野に入る際の入口に当たったことから、この他にも六道珍皇寺など沢山の寺院が建てられ、信仰の地として栄えた(以上はウィキの「六波羅」に拠った)。鴨川の東岸で清水寺の西方の麓。

「安井」安井金比羅宮附近であろう。下京松原から東に鴨川を渡ってすぐにあり、そこを南下して六波羅でそこをまた東に折れれば、清水寺である。]

 星あかりにすかして見るに、座頭なり。

 江戶ぶし、おもしろく諷(うた)ひ、杖に拍子をとりて行(ゆく)也。

[やぶちゃん注:「江戶ぶし」「江戶節」。三味線音曲の一つで、上方に対する江戸生まれの楽曲の呼称。具体的には「江戸肥前節」(始祖は江戸肥前掾)・「江戸半太夫節」(始祖は江戸半太夫)・「江戸河東節(かとうぶし)」(始祖は江戸太夫河東)のこと。柔らかみのあるもので、当初は主として「江戸半太夫節」のことを指していた(浄瑠璃で「江戸」または「江戸カカリ」というのは殆んどが「江戸半太夫節」のことを指した)が、「江戸半太夫節」が衰退してからは「江戸河東節」を指すようになった(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。]

 太郞兵衞も、夜ぶかに出(いで)て、道のほども心ぼそく、殊におさなき者の煩ひ、重きを苦にして、思ひ過(すご)しせられ、萬(よろづ)にものがなしく、氣のよはくなりたる比なれば、

『能(よき)つれこそ。』

と、四、五間口[やぶちゃん注:七メートル強から約九メートル。「口」(ぐち)は「程」「許り」の意。]もこなたより、詞をかけて、

「座頭どの、夜ぶかに何所(どこ)へ御ざる。」

といへば、座頭は、すこし立どまるやうにて、

「我らは、願(ぐはん)の事ありて、淸水へ參るなり。」

といふも、賴もしく、

「さらば、我も淸水へ參るもの也。我は一人むす子の疱瘡になやみて、殊下(ことのほか)、重く見へ[やぶちゃん注:ママ。]、十死一生(しやう)のありさまを見るが心うくて、其願に參る者也。いざ、つれだち候はん。」

といふに、座頭は手を打て、

「扨は。そなたは太郞兵衞殿か。我は、また、そなたに預けたる、銀、あり。此官(くはん)錢を取かへさんと、年比、うかゞへども、其方の運がつよくありしゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、めぐり逢(あは)ず。此たびの愁(うれへ[やぶちゃん注:ママ。])も、これ、みな、我なす事也。覚えあるべし。」

とて、ふりかへるを見れば、以前手にかけて殺せし輕都(かるいち)にて、すさまじき眼(まなこ)を見出し、口より、火をふきつゝ飛かゝり、太郞兵衞をとらへんと、大手(おほで)をひろげて追(おひ)まはる程に、太郞兵衞は、氣も心も身にそはず、かなたこなたと逃まはりしが、あまりにつよく迫れて、息、絕(たへ[やぶちゃん注:ママ。])、氣をとり失ひ、しばらくは、死(しゝ)てありしが、我(われ)と、本性(ほんしやう)になりて、起あがり、いよいよ、心おくれ、空おそろしくなりて、今は、一あしも行(ゆか)れざりければ、足に任せて走り歸りけるに、松原寺町の辻にて、めでつかふ[やぶちゃん注:「愛で使ふ」。]下女に行(ゆき)あひたり。

[やぶちゃん注:「松原寺町」松原通と寺町通が交差する、この中央部。]

 

10aku2

 

「こは。何をして、今時(いまどき)はありくぞ。子は何とぞあるや。」

と、いふに、下女も肝(きも)つぶしたる顏して、

「あまり、旦那の、夜ぶかに出させ給ひて、しかも、御歸りおそさに、人を仕立(したて)、御むかひに參らせんとて、駕籠の者を呼(よび)に參る也。御子は、今……わらはが……食(くひ)ころしたり――」

と、いひて、ふりかへりたるを見れば、山内(やまのうち)にて、手にかけたる女房なり。

 また、これに、氣をとりうしなひ、やゝしばらく絕入(ぜつじゆ)して居たりし内、おひおひに、宿より、人をはしらせ、子の病(やまひ)、おもりたるよしを知らせ、醫師(くすし)などのかたへも、人をつかはさんと迎(むかへ)に出しけるものども、此体(てい)を見つけ、やうやうに、たすけ、歸りしが、終に、是より、病(やみ)つきて、太郞兵衞も死ぬ。

 その跡、次第にすいびして、今は、その人の名も、しりたる者なく、絕はてたり。

[やぶちゃん注:最後の台詞のコーダ部分に特異的にリーダとダッシュを用いた。]

2019/08/21

大和本草卷之十三 魚之下 フカ (サメ類(一部に誤りを含む))

 

【和品】

フカ 其類多シ凡フカノ類皆アギノ下ニ口アリテ其皮

 ニサメアリ鮫魚ノ類ナリ其子胎生ス卵生セス白フカ味

 尤美ナリ○ヒレ長ト云アリヒレ甚長シ○一チヤウト云

 フカアリ口廣クシテ人ヲ喰フ甚タケクシテ物ヲムサ

 ホル○ウバブカ六七尋アリ齒ナシ○カセブカ其首橫

 ニヒロシ甚大ナルアリ○ヲロカト云大フカアリ人ヲ食ス

 ○鰐フカハ四足アリ鼈ノ如シ首大ナリ能人ヲ食フ

 李淳風曰河有怪魚乃名曰鰐其身已朽其齒三

 作此即鱷魚也南州志云斬其首乾之極厺其齒

 而更生○モダマ是亦フカノ類ナリサメアリ灰色白星

 アルモノアリ長三四尺肉白シ肝ニ油アリ其大ナルヲイナ

 キト云長サ一丈ハカリアリ其乾タルヲノウサハト云○

 ツノジフカ類ナリ北土及因幡丹後ノ海ニアリ其皮

 鮫ノ如クニシテ灰色長三四尺アリ筑紫ニテモダマト云

 魚ニ似タリ肝ニ脂多シ味ヨカラス賎民ハ食フ其肝

 大ナリ肝ニ油多シ北土ニハ是ヲ以燈油トス西土ニテ

 ツノト云モ同物ナルヘシ背ニ刀ノ如ナルヒレアリ○サヾ

 イワリト云魚アリフカノ類ナリ頭大ニ両目ノ上ノ

 キハニタテニカド各スチアリテ首方ナリ細齒多シ

 腮ハヨコニ五キレタリ両鼻アリ背ニ鰭ニ各大ナル刺ア

 リテ尖レリ口ハ腮ノ下ニアリ両ワキニ大ナルヒレアリ腰ニモ

 小ナルヒレアリ尾ハ小岐アリ凡常ノ魚ノ形ニカハレリ

 皮ニサメアリ色斑ナリ薄ク切酒ノ糟ヲ加ヘ羹トシテ

 食ス又指身乄最ヨシツノジフカニマサレリ○ヲホセ其形

 守宮ニ似テ見苦シ又蟾蜍ニ似タリ海水ヲ離レテ日

 久シク死ナズ首ノ方大ニ尾小ナリ其肉ヲ片〻ニキレドモ

 不死猶活動ス味ヨシ肉白シ○カイメフカノ類ナリ

 形扁ク薄シ頭尖リ薄シフカノ如クサメアリツノジヨ

 リ橫ヒロク乄コチニ少似タリ口ハ頷下ニアリ目ハ背ニ

 アリ是皆フカノ類也○凡モダマフカノ類イツレモ皮ヲ去

 薄ク切指身トシ沸湯ニヨク煮熟シ色白クナルヲ芥子

 薑醋ミソニテ食之味美シ皮モ煮テサメヲ去肉ト同ク

 食ス又生肉ハ肉餻トスヘシ但性冷利ナリ温補ノ益ナシ

 虚冷ノ人不可多食○諸魚ハ皆卵生ス只フカサメヱ

 イタナコ皆腹中ニテ胎生ス卵生セス其驚クトキハ母ノ

 腹中ニ入ル就中フカノ子ハ胎中ニテ大ナリ一胞ノ内二三

 四尾生ス

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

ふか 其の類、多し。凡そ、「ふか」の類、皆、あぎ[やぶちゃん注:「鰓(えら)」。「あぎと」。]の下に口ありて、其の皮に「さめ」あり。鮫魚の類なり。其の子、胎生す。卵生せず。「白ふか」、味、尤も美なり。

○「ひれ長」と云ふあり。ひれ、甚だ長し。

○「一(いつ)ちやう」と云ふ「ふか」あり。口、廣くして、人を喰〔(くら)〕ふ。甚だたけくして、物をむさぼる。

○「うばぶか」。六、七尋〔(ひろ)〕あり。齒、なし。

○「かせぶか」。其の首、橫に、ひろし。甚だ大なるあり。

○「をろか」と云ふ大ぶかあり。人を食す。

○「鰐ぶか」は四足あり。鼈〔(すつぽん)〕のごとし。首、大なり。能く人を食ふ。李淳風、曰はく、「河に怪魚有り。乃〔(すなは)ち〕名〔づけて〕「鰐」と曰ふ。其の身、已に朽〔(く)つるも〕、其の齒、三つ、作〔(な)れり〕。此れ、即ち、鱷魚〔(がくぎよ)〕なり。「南州志」に云はく、『其の首を斬り、之れを乾すこと、極〔ま〕り、其の齒を厺〔(さ)れども〕、更に生〔(せい)〕す』〔と〕。

○「もだま」。是れ亦、「ふか」の類なり。「さめ」あり、灰色。白星あるもの、あり。長さ三、四尺。肉、白し。肝に油あり。其の大なるを、「いなき」と云ふ。長さ一丈ばかりあり。其の乾したるを「のうさば」と云ふ。

○「つのじ」。「ふか」類なり。北土及び因幡・丹後の海にあり。其の皮、鮫のごとくにして、灰色。長さ三、四尺あり。筑紫にて「もだま」と云ふ魚に似たり。肝に、脂、多し。味よからず。賎民は食ふ。其の肝、大なり。肝に、油。多し。北土には是れを以つて燈油とす。西土にて「つの」と云ふも同物なるべし。背に刀のごとくなるひれあり。

○「さゞいわり」と云ふ魚あり。「ふか」の類なり。頭、大に、両目の上のきはに、たてに、かど各々、すぢありて、首、方(けた)なり。細き齒、多し。腮〔(あぎと)〕は、よこに五つ、きれたり。両鼻あり。背に鰭に、各々、大なる刺ありて、尖れり。口は腮の下にあり。両わきに大なるひれあり。腰にも小なるひれあり。尾は小さき岐(また)あり。凡そ常の魚の形にかはれり。皮に「さめ」あり。色、斑〔(まだら)〕なり。薄く切り、酒の糟を加へ、羹〔(あつもの)〕として食す。又、指身〔(さしみ)〕にして、最も、よし。「つのじぶか」に、まされり。

○「をほせ」。其の形、守宮(やもり)に似て、見苦し。又、蟾蜍〔(ひきがへる)〕に似たり。海水を離れて、日久しく、死なず。首の、方大に、尾、小なり。其の肉を片々にきれども、死なず、猶ほ、活動す。味、よし。肉、白し。

○「かいめ」。「ふか」の類なり。形、扁たく、薄し。頭、尖り、薄し。「ふか」のごとく「さめ」あり。「つのじ」より、橫、ひろくして、「こち」に少し似たり。口は頷〔(あご)〕下にあり。目は背にあり。是れ皆、「ふか」の類なり。

○凡そ、「もだま」・「ふか」の類、いづれも皮を去り、薄く切り、指身〔(さしみ)〕とし、沸湯に、よく煮熟し、色、白くなるを、芥子〔(けし)〕・薑〔(しやうが)〕・醋みそにて之れを食ふ。味、美〔(よ)〕し。皮も煮て、「さめ」を去り、肉と同じく食す。又、生肉は肉餻とすべし。但し、性〔(しやう)〕、冷利なり。温補の益、なし。虚冷の人、多く食すべからず。

○諸魚は皆、卵生す。只、「ふか」・「さめ」・「えい」・「たなご」、皆、腹中にて胎生す。卵生せず。其の驚くときは母の腹中に入る。就中〔(なかんづく)〕、「ふか」の子は、胎中にて、大なり。一胞の内、二・三・四尾、生ず。

[やぶちゃん注:「鱶(ふか)」総論であるが、中には狭義のサメ類でない種も含まれている(後述)。一応、「鱶(ふか)」とは、軟骨魚綱板鰓亜綱Elasmobranchiiのうち、一般にはエイ上目 Batoidea に含まれるエイ類を除く鮫類の内、大型のものの総称である。但し、中小型でも「ふか」と呼ぶケースもあるので、個体の大きさでの区別は無効に近い(事実、ここに挙がっている種の中にもそれほど大きくはならない種が複数含まれている)。寧ろ、広義の「鮫(さめ)」の関西以西での呼び名が「ふか」であるとした方が判りがいい(山陰では別に「わに」という呼称も現在、普通に生きている)。生物学的に「さめ」を規定するなら、一般的には鰓裂が体の側面に開く種群の総称としてもよかろう(鰓裂が下面に開くエイと区別される。但し、中間型の種がいるので絶対的な属性とは言えない)。さても、ウィキの「サメ」によれば、『2016年3月末時点で』、『世界中に』は『9目34科105属509種が存在し、日本近海には9目32科64属130種が認められている』とある。

『其の皮に「さめ」あり』一般に「さめ」の語源については「狭目」「狭眼(さめ)」の意とする説が幅を利かすが、サメ類の目はその巨体に比べれば小さいとは言えるものの、一般的な種群は、有意に狭い眼・細い眼ではない。寧ろ、私はここで益軒が言っている鮫の皮膚の細かなブツブツにこそ、その語源があるのではないかと考えている。則ち、「沙」(シャ:一億分の一の単位)で、「非常に小さい粒」を意味する「沙」(シャ・サ)の「粒」(「目」)で「沙目(さめ)」であろうと思うのである。

「其の子、胎生す。卵生せず」誤り。卵胎生の種も確かに有意に多くいるが、卵生種もしっかりいる。

「白ふか」「味、尤も美なり」とするところから、板鰓亜綱メジロザメ目ドチザメ科ホシザメ属シロザメ Mustelus griseus である。ウィキの「シロザメ」によれば、『地方名はノウソ、マノクリ』。『全長1 m。日本を含め、アジア沿岸海域で普通に見られる比較的小型の底生性のサメで』、『肉や鰭は食用になる』。『北西太平洋の熱帯から温帯海域』『に分布』し、『北海道以南の日本各地および朝鮮半島、中国、台湾、ベトナムにかけて、東シナ海・南シナ海沿岸の海底付近に生息する。砂泥質の海底を好む。生息水深帯は、浅海から水深2,000mを超える深海まで』。『最大全長101cm』で、『体型は細長い流線形。体色は背側が灰色から褐色、腹側は白色である』。同属の『ホシザメ M. manazo によく似ているが、シロザメには体表に小白斑が見られないことで区別できる。歯の形状は敷石状』を成す。『主に底生性の無脊椎動物を捕食するが、とくに甲殻類を好み、とりわけカニ類を主食として』おり、『甲殻類では他にエビ類、ヤドカリ類、シャコ類などが餌生物として含まれ、甲殻類以外ではゴカイなどの多毛類の比率が高い』。卵『胎生。胎盤を形成し、胎仔は母親から直接栄養を供給されて育つ』。『妊娠期間は約10ヶ月で、雌は全長28-30cmの子どもを2-20尾産む』。『延縄、刺し網、底引き網、定置網などで漁獲される』。『肉や鰭は食用として高値で取引される。肉は生食用や練り物原料になり、鰭はフカヒレに加工される』。『人には危害を加えない』とある。

「ひれ長」一般に鰭の長いサメといういうと、一番に想起されるのは板鰓亜綱ネズミザメ目オナガザメ科オナガザメ属 Alopias(一属三種)であろう。本邦(但し、南日本)にはニタリ A. pelagicus・ハチワレ A. superciliosus・マオナガ A. vulpinus の全種が分布する。ウィキの「オアナガザメ」によれば、『全世界の熱帯から温帯、また亜寒帯海域まで広く分布する。全長の半分を占める長い尾鰭により、他のサメと見間違えることはない。大型になり、最大全長は3m〜7mを超えるものまである。繁殖様式はいずれも胎生で、ネズミザメ目に共通して見られる卵食型である。主に外洋を回遊し、非常に活動的である』が、『人に対しては攻撃的で』はなく、『むしろ』、『海中では警戒心が強く、近寄ることさえ難しい。マグロ延縄などで混獲され、肉や鰭、脊椎骨、皮、肝油が利用される』。『魚の尾鰭は上半分を上葉、下半分を下葉といい、サメ類では』大抵、『上葉が長くなっている異尾(いび)であるが、オナガザメ属では上葉の伸長がとりわけ著しく、胴体とほぼ同じ長さか』、『それ以上になる。尾の付け根の筋肉が発達しており、マグロやカジキ、サバなどを切り裂いたり』、『気絶したところで食す』とある。

「一(いつ)ちやう」これは当初「一(いつ)ちまう」かと思ったものの(他の部分の表記と比較しても「ヤ」のそれではない)「東洋文庫」の「本草食鑑」の注で『一(イツ)チャウ』と翻刻しているので、それに従った)。しかし「イッチョウ」(「一丁」?)でも或いは「イッチモウ」(漢字表記想定出来ず)でもある種のサメの異名としては全く掛かってこない。一つの鍵は「口」が「廣く」、「人を喰」らい、非常に獰猛で、摂餌対象を残酷に貪(むさぼ)るという点である。世界に棲息するサメのうちで「人食いザメ」、人を積極的に襲い捕食することが確実とされている種は、実は三種しかいない。まず、スティーヴン・スピルバーグ(Steven Spielberg)監督の“Jaws”(1975年・アメリカ)で知られる、

ネズミザメ目ネズミザメ科ホホ(ホオ)ジロザメ属ホホ(ホオ)ジロザメ Carcharodon carcharias

それと同様に危険度が高い以下の二種、

メジロザメ目メジロザメ科イタチザメ属イタチザメ Galeocerdo cuvier

メジロザメ目メジロザメ科メジロザメ属オオメジロザメ Carcharhinus leucas

である。但し、本邦に限ると、亜熱帯から亜寒帯まで世界中の海に広く分布するホホジロザメを除くと、その分布はオオメジロザメは南西諸島に限られ、イタチザメも概ね九州以南である。ただ、昔から本邦では、“Hammerhead shark”の英名で知られる、メジロザメ目シュモクザメ(撞木鮫)科 Sphyrnidae のシュモクザメ類(世界で二属九種。本邦で見られるのはシュモクザメ属 Sphyrna の三種ほど)が人を襲うと信じられている向きがある。一九八二年八月に熊本県天草郡大矢野町沖の羽干島(グーグル・マップ・データ)近くで十三歳の女子中学生が襲われて死亡したケース(三人の子をヨットの船尾に結んだロープに繋いで曳航して遊ばせていた際の事故という少し特殊な状況下での不幸であった)では、シュモクザメが疑われているが、確定されてはおらず、シュモクザメが人を襲った事例は殆んど見当たらない。襲うシーンが出る小説を知っているが、寧ろ、シュモクザメの奇体な頭部が、凶悪な印象を生んでいるだけのように私には思われてならない。ダイバーなどが襲われたケースも私は知らない。但し、シュモクザメはサメとしては珍しく、群れを成して行動し、時にその数は数百匹のレベルに及ぶこともある。それらが大型個体であった場合、そのインパクトは絶大で、熟練したダイバーでも慄っとしたという証言を聴いたことはある。幾つかの記載に、人間にとっては潜在的に危険、と記すものが見られることは事実ではある。ただ、シュモクザメは以下の「かせぶか」がその別名であることからも、この同定候補にはなり得ない。従って、福岡在の益軒を考えると、この謎の「一(いつ)ちまう」はホホジロザメかイタチザメが同定候補となる。勘でしかないないが、冒頭に出ること、わけの判らぬ乍ら、名前が如何にも大きそうな雰囲気があることから、平均体長が四~四・八メートルにもなる最大最強にして凶悪のホホジロザメとする方がいい気がする

「うばぶか」ネズミザメ目ウバザメ科ウバザメ属ウバザメ Cetorhinus maximus。現生の地上最大の魚であるジンベエザメ(テンジクザメ目ジンベエザメ科ジンベエザメ属ジンベエザメ Rhincodon typus)に次いで、二番目に大きな魚種である。世界中の海に広く分布し、性質はジンベイザメと同様、すこぶるおとなしく、動きも緩慢で、人間にとって危険性の殆んどない、静謐な濾過性摂食者である。益軒は「歯がない」とするが、ないわけではないものの、プランクトン食であるため、ウバザメの歯は極めて小さい(5~6mm)鉤(かぎ)状を呈したものとなっており、殆んど歯としての機能を持っていない。標準的個体は全長三~八メートルほどで、長期に亙る乱獲(おとなしい性質が災いして、多量に捕獲され続け、肉は食品・魚粉用、皮膚は皮革用、巨大な肝臓は油採取に用いられた)、肉を発の結果、本邦では九メートルを超えるような大型個体は今や目にすることはない。参照したウィキの「ウバザメ」によれば、和名「姥鮫」は、『体側部にある非常に長い鰓裂を、老婆の皺に例えて名付けられたとされる』とある。

「六、七尋〔(ひろ)〕」「尋」は本邦での慣習的な長さの単位で、基本は両手を左右に伸ばした際の指先から指先までの長さを基準にしたもので、一尋は五尺(約1.515メートル)、乃至6尺(約1.816メートル)で、水深では後者が使われる。ここは前者で採りたい。さすれば、九メートル強から十一メートル六十センチとなる。現在、確認されている最大のウバザメは全長12.27m、体重16t(推定)であるから、この数値自体は大袈裟ではない。但し、本邦の近海で最大級のウバザメを見ることはまずないから、これはやはり大袈裟と言うべきかも知れない。

「かせぶか」「其の首、橫に、ひろし。甚だ大なるあり」という特徴からも、前に注した通り、メジロザメ目シュモクザメ科シュモクザメ属 Sphyrna の別名で、本邦産種は、

シロシュモクザメSphyrna zygaena

ヒラシュモクザメSphyrna mokarran

アカシュモクザメSphyrna lewini

の三種である。漢字表記は「挊鱶」で、「桛」は紡(つみ)いだ糸を巻き取るH型やX型の道具で、頭部の形状をそれに見立てたものであろう。【2019年8月23日追記】いつもお世話になっているT氏よりメールを頂戴した。T氏は「大和本草」の「諸品図二巻」を調べられ(但し、この附図類は、『大和本草卷之十四 水蟲 介類 鱟 附「大和本草諸品圖」の「鱟」の図 参考「本草綱目」及び「三才圖會」の「鱟」の図』で示したカブトガニのブッ飛びのデフォルマシオンから推測されるように、図としての信頼性の価値が甚だ低く、私は益軒の手になるものではなく、その大半は絵心のない複数に弟子が描いたのではないかと疑っている)、その「カセブカ」のキャプションに(国立国会図書館デジタルコレクションの画像。左下。一部に句読点等を施して読み易くした)、

   *

【雙髻鯊。「シユモクザメ」トモ云。】其ノ橫ハ縱(タテ)ニ比スレバ、少シ、短シ。橫ノ兩端ニ目アリ。是、「フカ」ノ類。味、亦、同。形狀、甚、異ナリ。其形狀、婦女ノ布ノ經緯ヲ卷トコロノ、「カセ」ト云器ニ似タリ。

[やぶちゃん注:以下、手書き書入れ。]

付図、尾バカリニテ、鬚[やぶちゃん注:「鬣」(ヒレ)の誤記か?]ナク、頭ノ形、異也。爪[やぶちゃん注:判読に自信はない。]ナリ。

   *

図は例によってトンデモなくデフォルメされてあるが、確かにシュモクザメではある。

「をろか」「大ぶか」「人を食す」こちらを私はメジロザメ目メジロザメ科イタチザメ属イタチザメ Galeocerdo cuvier としたい。「をろか」は不明(「愚か」は歴史的仮名遣では「おろか」で一致しない)。

「鰐ぶか」漢籍からの引用から、これは正真正銘の脊椎動物亜門四肢動物上綱爬虫綱双弓亜綱主竜型下綱ワニ形上目ワニ目 Crocodilia のワニの記載である。

「鼈〔(すつぽん)〕」爬虫綱カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensis(本邦産種を亜種Pelodiscus sinensis japonicusとする説もある)。項で既出既注

「李淳風」(六〇二年~六七〇年)は初唐の天文学・数学者。太史令を歴任。六三三年、黄道環・赤道環・白道環よりなる三辰儀を備えた渾天儀を新たに作った。「晋書」と「隋書」の中の「天文志」と「律暦志」を編み、また「算経十書」の注釈を行った。高宗の時、日本では「儀鳳暦」として知られる「麟徳暦」を編んだ。彗星の尾は常に太陽と反対側に発生する事実を発見し、天文気象現象の記録を整理した。著書に占星術的気象学を記した「乙巳占」がある。

「其の身、已に朽〔(く)つるも〕、其の齒、三つ、作〔(な)れり〕」意味不明。仮に訓じた。後の「南州志」と同じく、三本の歯だけは生きていて、新たに生えてくるというのか?

「鱷魚〔(がくぎよ)〕」「鱷」は「鰐」の異体字。

「南州志」三国時代(二二〇~二六五 年)の呉の万震が記した華南から南方の地誌「南州異物志」のことか。

「厺」「去」の異体字。

「もだま」メジロザメ目ドチザメ科ホシザメ属ホシザメ Mustelus manazo「WEB魚図鑑」のホシザメから引く。『成熟サイズは全長62~70cm。全長25cmほどで出産され、雄で最大96cm、雌で117cmに達する。体は灰色ないしは茶褐色で、体側に多数の白色斑点が散在すること、背鰭は暗色で縁取られないこと、上側の唇褶は下側よりも長いこと、歯は尖らず、敷石状に並ぶことから』、『他の日本産ドチザメ科』Triakidae『魚類と区別できる。ホシザメ属には体側に白色点をもつものが他に何種か知られているが、白色点を持つ種で北西太平洋に分布するのは本種のみである』。『主に北西太平洋。北海道~九州の各沿岸(オホーツク海を除く)、南シベリア、朝鮮半島、中国、台湾、ベトナムに分布する』が、『例外的に西インド洋のケニア沿岸からも知られる』。『大陸棚上の潮間帯を含む浅海域の砂地や泥底に生息』し、『底生無脊椎動物、特に甲殻類を捕食する』。『卵胎生で胎盤をもたない。交尾期は夏。妊娠期間は10ヵ月ほどで、4月に母親の体サイズに合わせて1~22尾の仔ザメを出産する(普通2~6尾、平均5尾の仔ザメを産む)。成長が早く、3、4年で成熟する。食用で、日本、中国、韓国では延縄で漁獲される』とある。ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」のホシザメのページの「地方名・市場名」の項に『福岡県博多(福岡市)ではモダマ』と出、また、『福岡県玄海町』では『ノウサバ』『ノーサバ』の異名を載せる(益軒の『其の乾したるを「のうさば」と云ふ』と合致)。そこには、『体長1.5メートル前後になる。細長く、白い星状の斑文が散らばる』ともあり、「白星あるもの、あり」とも一致するが大型個体の「いなき」は確認出来なかった。「いなぎ」かも知れない。その場合、「稲置」で或いは「稲木」で刈り取った稲を掛ける横木のことを指すのではないかとも思ったりした。「もだま」は「藻玉」か? 意味不明。一部の卵生サメ類の皮革状卵嚢はまさに「藻玉」に相応しいが、本種は卵胎生であるから違う。或いは、別種の卵生のサメのそれを本種のそれと誤認したものかも知れない(例えば、後に「さゞいわり」の私の後者の方のリンクの図を参照)。【2019年8月23日追記】いつもお世話になっているT氏よりメールを頂戴した。それによれば、ネットで「モダマ」で捜すと、まず、

1・ドチザメ比定

「大海水産株式会社」公式サイト内の「大海水産のお勧め魚 熊本県産ドチザメ」に、『熊本県産ドチザメ』(メジロザメ目ドチザメ科ドチザメ属ドチザメ Triakis scyllium)『熊本では、モダマと呼んでい』るとある(益軒の近在)。

2・ホシザメ比定

abukamo氏のブログ「あぶかも」の「モダマ三種」では「モダマ」を私が同定したホシザメと比定し、しかも『博多では「モダマ」という名前で湯引きした』ホシサメがごく普通に売られている旨の記載があった(益軒は人生の殆んどを福岡で過ごした)。

3・カスザメ比定

syunsi3氏のブログ「『車いすで楽しめる食事処』・レシピ&ガーデニング」の「モダマ」(このブログ主は他の記事からみて福岡在の方である可能性が高い)の料理を掲げられた上、当該種を写真で掲げられており、「WEB魚図鑑」の当該種をリンクさせておられるが、それはエイ型形状に近い(しかしサメ)カスザメ(軟骨魚綱カスザメ目カスザメ科カスザメ属カスザメ Squatina japonica)である。問題は「2」との齟齬で、福岡(もしかすると別の地方でも)では或いは広く「サメ」「フカ」或いは鮫の肉を「モダマ」と呼んでいる可能性があるようにも思われる

4・ドチザメ比定

「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」の「ドチザメ」(メジロザメ目ドチザメ科ドチザメ属ドチザメ Triakis scyllium)の「地方名・市場名」の中に「モタマ」「モダマ」とある(多くの別種のサメ類の異名に「モダマ」があることは私も承知してはいた)

さらにT氏は例の「大和本草」の「諸品図二巻」を調べられ、その「カイノ」と標題する図(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの画像。左頁下)に、キャプションで(一部に句読点等を施して読み易くした)、

   *

モダマ・ツノジノ類。形、甚、「コチ」ニ似タリ。味ハ、「コチ」ニ不似、「モダマ」ニ似タリ。薄ク斬リ、能煮テ、スミソニテ食フ。

カイメノ腹[やぶちゃん注:下部。以下は刊本に書入れされたもの。]

「カイメフカ」・「カイメサメ」・「ナカヱイ」トモ。兵庫「ウカシ」。

コノ魚肉ニテ、生ニテ酢ミソニテ食ス。味、佳也。

漢名「犂頭魚」【閩書】。

   *

とある図を指摘し、T氏はこの『腹側の図は「エイ」としか見えない』とされ、『頭と胸鰭の形から、カスザメ又はコロザメのよう』であると指摘されていおられる。これからは少なくとも、益軒は「モダマ」「ツノジ」を、

5・カスザメ/コロザメの類と比定

していたことが判る。因みにエイ型ではあるが、

軟骨魚綱カスザメ目カスザメ科カスザメ属カスザメ Squatina japonica(リンク先は「WEB魚図鑑」)

カスザメ属コロザメSquatina nebulosa(同前)

はサメ類である(因みに、『カスザメは二基の背鰭が腹鰭より後方に位置すること、大きな棘の列が背面の正中線上にあること、胸鰭の先端の角度が小さいことで近縁のコロザメと区別できる』とウィキの「カスザメ」にある)。ともかくも、丁寧に調べ上げられたT氏に感謝申し上げるものの、異名で調べると、却って同定比定が困難になる厄介者ではあるのである。

「つのじ」「ツノジ」は前のホシザメの異名でもあるのであるが、それ以上に実は、「サメ」とは遠い昔に分かれてしまった、現行の生物学上は狭義の「サメ」ではない、軟骨魚綱全頭亜綱ギンザメ目ギンザメ上科ギンザメ科ギンザメ属ギンザメ Chimaera の異名としても知られるのである。しかも「背に刀のごとくなるひれあり」というのが、私には決め手と見えた。私の栗本丹洲 魚譜 異魚「ツノジ」の類(ギンザメ或いはニジギンザメ)』を参照されたい。同カテゴリ「栗本丹洲」の同「魚譜」には多数のギンザメ類やサメ類が載るので、是非、参照されたい(勿論、図附きである)。なお、ギンザメはサメ類と同じ軟骨魚類(軟骨魚綱 Chondrichthyes)ではあるが、その中でも非常に古くに板鰓類(板鰓亜綱 Elasmobranchii:サメ・エイ類)から分かれたグループである。分岐年代は定かではないが、約四億年前の古生代デボン紀には全頭類の化石が発見されていることから、それより前の四億三千九百万年前から四億九百万年前までのシルル紀に分岐したと考えられている。なお、全頭亜綱 Holocephali には現在、十三の目が置かれてあるが、その内の現生する種はギンザメ目 Chimaeriformes のみで、世界で三科六属で約四十種を数え、本邦近海には十一種の棲息が確認されている。総て深海性。外鰓孔は一つしかない

「西土」西日本。

「さゞいわり」「榮螺割(さざゑわり)」で、ネコザメ目ネコザメ科ネコザメ属ネコザメ Heterodontus japonicus の異名としてよく知られる。ウィキの「ネコザメ」によれば、『太平洋北西部』に分布し、『日本では北海道以南の沿岸で見られる他、朝鮮半島、東シナ海の沿岸海域に分布する。水深6-37mの浅海の海底付近に生息し、岩場や海中林などを好む』。『最大全長120cm』。『背鰭は2基で、いずれにも前端に鋭い棘を備える。これはとくに幼魚が大型魚の捕食から逃れるのに役立っている。臀鰭をもつ。体型は円筒形。薄褐色の体色に、縁が不明瞭な11-14本の濃褐色横帯が入る。吻は尖らず、眼の上に皮膚の隆起がある。この眼上隆起を和名ではネコの耳に、英名ではウシの角に見立てている。歯は他のネコザメと同様、前歯が棘状で、後歯が臼歯状である。循鱗は大きく、頑丈である』。『底生性で岩場や海藻類の群生地帯に住み、硬い殻を持つサザエなどの貝類やウニ、甲殻類などを好んで食べる。臼歯状の後歯で殻を噛み砕いて食べるため、サザエワリ(栄螺割)とも呼ばれる。日中は海藻や岩の陰に隠れ、夜間に餌を求めて動き回る夜行性である。遊泳力は弱いが、胸鰭を使って海底を歩くように移動することもある』。『卵生。日本では3月から9月にかけて産卵が行われ(3-4月が最盛期)、雌は卵を一度に2個ずつ、合計6-12個産む』。『卵は螺旋状のひだが取り巻き、岩の隙間や海藻の間に産み落とされた卵を固定する役割がある。仔魚は卵の中で約1年かけて成長し、約18cmで孵化する』。『雄は69cmで成熟する』。なお、本邦にはは和歌山以南の南日本にネコザメ属シマネコザメ Heterodontus zebra も棲息するが、こちらはかなり珍しい。なお、私の「栗本丹洲 魚譜 ネコザメの子(ネコザメの幼魚)」及び「栗本丹洲 魚譜 波マクラ(ネコザメの卵鞘と胎児)」をも、是非、参照されたい。【2019年8月23日追記】同じく、やはりT氏から指摘された「附図」の「サヾヱワリ」を同前の仕儀で示す(国立国会図書館デジタルコレクションの画像。右下。漢文表記部分は訓読した)。

   *

海魚。「フカ」ノ類。「モダマ」ニモ、味、相似テ、ヨシ。形、諸魚ト異リ[やぶちゃん注:「ことなれり」であろう。]。說ハ本書ニ見へズ。

[やぶちゃん注:以下、手書き書入れ。]

鯊魚[やぶちゃん注:「サメ」のこと。]ノ一类[やぶちゃん注:「類」の異体字。]也。齒ツヨシ。故ニ名ヅク。漢名「虎頭鯊」。

   *

これも確かにネコザメである。

「方(けた)」角張っていることを指す。但し、「首」というよりは、眼の上の隆起部分である。

「腮〔(あぎと)〕は、よこに五つ、きれたり」サメ類の鰓孔は五~七対である(鰓蓋はない)。しかし、益軒がここで初めて腮孔数を示すのはおかしい気がする。例えば、前に示した「フカ」類の内、多く出したネズミザメ目Lamniformesも鰓裂は五対で、通常のサメ類、というか、そもそもが板鰓類(板鰓亜綱 Elasmobranchii)は五対がまず基本だからである。これでは他の「フカ」類が五裂(五対)でないように読めてしまう。

『薄く切り、酒の糟を加へ、羹〔(あつもの)〕として食す。又、指身〔(さしみ)〕にして、最も、よし。「つのじぶか」に、まされり』益軒先生、よほどお好きと見た。今は専ら水族館のサメの中では定番の人気者であるが(私も好きだ)、ウィキの「ネコザメ」によれば、『和歌山など』、『地方によっては』、『湯引きなどで賞味される。酢味噌をあえる場合もある』とある。

「をほせ」板鰓亜綱テンジクザメ目オオセ科オオセ属オオセ Orectolobus japonicusウィキの「オオセ」によれば、『キリノトブカなど』、『地方名』を『多数』有する。『全長1mの底生性のサメで、オオセ科』Orectolobidae『では日本近海に分布する唯一の種』である。『太平洋西部、南日本から朝鮮半島、フィリピン、東シナ海、東南アジアにかけて分布する。沿岸の水深200mまでの砂泥質の海底や岩礁、サンゴ礁などに生息する』。全長は一メートルで、『体型は上下に押しつぶされたような縦扁型。吻は平たく、丸い。口はほぼ頭部前面に幅広く開口する。口の辺縁には複数の皮弁が存在するが、オオセは皮弁数が7-10本であること、先端が二叉することが特徴であり同定のキーとなる。噴水孔』(目のすぐ後ろにあり、ここから呼吸に使う水を吸うことが出来るようになっている。但し、遊泳主体の通常のサメ類ではあっても小さいか塞がっている。本種は底在性傾向を示すために機能している)『は涙型で大きい』。『体色は全体的に褐色のまだら模様で、薄褐色、濃褐色、灰色などの雲状斑が大小モザイク状に配列し、全身に小白色斑が散在する。背鰭2基は体後方に位置する。胸鰭はやや大きい。臀鰭は尾鰭のごく近くに付く。尾鰭は上葉が長く、欠刻がある。下葉はない』。『詳しい生態や生息数に関してはよく分かっていない。体色の模様はカモフラージュであり、夜行性で海底や岩などに姿を隠している』。『待ち伏せ捕食型で、底生の硬骨魚類や甲殻類、サメ、エイなどを狙う』。『卵胎生』で『21-23cmの子どもを最大20-27尾まで産む』。『妊娠期間は約1年と推定される』。『日本では漁獲され』、『食用になる。その他、中国、台湾、韓国、ベトナムなどでも漁獲される』が、『近づくと咬まれる危険性がある』とある。「守宮(やもり)」「に似て、見苦し。又、蟾蜍〔(ひきがへる)〕に似たり」とムチャクチャな言われ方をされているが、確かに上唇外縁のもよもよした鬚のような突起(器官としての感触突起であろう)と言い、頭でっかちで全体に形が捩じれているところや、強い擬態性を感じさせる背面の斑模様など、格好は確かに悪い(が、私は好きである)。グーグル画像検索「Orectolobus japonicusをリンクさせておく。因みに漢字表記は「大瀬」であり、これだと「おほせ」でないとおかしくはある。ただ、この後の記載の「其の形、海水を離れて、日久しく、死なず」「其の肉を片々にきれども、死なず、猶ほ、活動す」「味、よし」「肉、白し」の文字列ばかりは黙って眺めてはいられない。オオセの肉は知らないが、白くはあろう。しかし、海底の底在性生活をしているオオセが「海水を離れて、日久しく、死なず」に大気中(或いは水桶の中でもいいが)で生き、「其の肉を」細切れにしても「死なず、猶ほ、活動す」るなんてことは絶対に考えられない。しかし、ここで「はっ!」と思うたのである。……「守宮(やもり)」「に似て、見苦し」くて「又、蟾蜍〔(ひきがへる)〕に」も「似」ていて、「肉」が「白」くて、「味」がいい、しかも「水を離れて」も「日久し」い間、「死なず」に生きており、「其の肉を」散々に傷つけても、「死なず」に「猶ほ」元気に「活動」し、時に切られた部分を再生出来る生物? いるじゃないの!』ってだ!……体を真っ二つされても死なないことから、「ハンザキ」の異名を持つ、そう! あれだよ! 両生綱有尾目サンショウウオ亜目オオサンショウウオ科オオサンショウウオ属オオサンショウウオ Andrias japonicus だ! 「大和本草卷之十三 魚之上 魚/鯢魚 (オオサンショウウオを含む広範なサンショウウオ類)」を注した際にも感じたのだが、益軒はオオサンショウウオの存在は知っていたと思うが、実物を見たことはなかったのではないだろうか? オオサンショウウオは九州では現在、宇佐市院内町の南院内地域(旧南院内村)(この附近か。グーグル・マップ・データ)が唯一の生息地である。益軒は或いは話は聴いていた「オオサンショウウオ」の話の一部を、「オオセ(ウオ)」のことと混同してここでは記してしまったのではあるまいか?【2019年8月23日追記】やはりT氏から本書の附図の「オフセ」(「フ」はママ)を指摘された(国立国会図書館デジタルコレクションの画像。左頁上。同前の仕儀でキャプションを電子化した)。

   *

フカ。サヾエワリ。「モダモ」ノ類ナリ。遍身、ウスネズミ色ナリ。黒㸃、多シ。腹、白ク、口濶シ。鬣(ヒレ)、大小、三所ニアリ。ヒゲアリ。「ナマヅ」ノ如シ。目ノ傍ニ耳穴アリ。其性、強(ツヨク)シテ、死ガタシ。身ヲ切レドモ、猶、動ク。熱湯ヲ以、ユビキテ、指身(サシミ)トス。味、ヨシ。形、「コチ」ニモ、「蟾」[やぶちゃん注:蟾蜍(ひきがえる)。]ニモ似タリ。

   *

これは図も解説も「オオセ」と見て問題ない。なお、T氏はいろいろ示して下さったその最後に、『益軒先生、書物・話は色々見聞きしているが、生きた又はあがったばかりの「フカ」は実見ていないよう』で、『本草家なので食い意地は「はっている」と厭味を一言』と言い添えておられる。激しく同感!

「かいめ」不明。「形、扁たく、薄し。頭、尖り、薄し」とか、『「つのじ」』(先のギンザメ類と採る)『より、橫、ひろくして、「こち」』(新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目コチ亜目コチ科コチ属マゴチ Platycephalus sp. でとっておくが、分類学上は全くの別種の、形状のよく似たものも総称する語ではある。ここはしかし形状だからこれでよかろう)『に少し似たり。口は頷〔(あご)〕下にあり。目は背にあり』という解説で思い出した種は、メジロザメ目トラザメ科ナヌカザメ属ナヌカザメ Cephaloscyllium umbratile であった。ちょっと疲れた。それで正しいか、違うかは、ウィキの「ナヌカザメ」をリンクさせておくので、読者のお任せする。グーグルブックスの直海衡齋選とする本書の刊行から六年後に出た本書の考証書らしい「廣大和本草」(全十巻附二巻・正徳五(一七一五)年刊)のこちらには「カイメブカ」と出、本草書の漢字表記も示されてあるが、そもそもが項目名の漢字表記がワカランチンの漢字で、文中の「筌魦魚」でも探してみたが、徒労であった。識者に任せる。

「指身〔(さしみ)〕」刺身。

「虚冷」体調が全体に不全で、身内の平常あるべき熱が有意に下がっている証の人。

「えい」板鰓亜綱Elasmobranchii に属する軟骨魚類のうち、鰓裂が体の下面に開くものの総称。基本的にはエイ上目 Batoidea に属するもの(中間型もあるので絶対的ではない)。サメと同じく、総てが卵胎生なわけではないので、これも誤り

「たなご」ここは卵胎生の条鰭綱棘鰭上目スズキ目ウミタナゴ科ウミタナゴ属ウミタナゴ亜種ウミタナゴ Ditrema temmincki temmincki のこと。

「其の驚くときは母の腹中に入る」サメの中には♂が幼魚を子育てをする種があり、外敵が近づくと、父親の口の中に彼らが退避する行動をとるのをテレビで見た記憶がある。]

小泉八雲 門つけ (田部隆次訳)

 

[やぶちゃん注:本作(原題“A STREET SINGER”)は明治二九(一八九六)年にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された作品集“KOKORO HINTS AND ECHOES OF JAPANESE INNER LIFE”」(「心 日本の内面的生活の暗示と影響」:来日後の第三作品集)の第三章(大見出しナンバー)に配された作品である。同作の原文は、原本初版画像)では「Internet Archive」のこちらから読め、活字化されたものは「The Project Gutenberg」のここの“III. A STREET SINGER”で読める。

 底本は、サイト「しみじみと朗読に聴き入りたい」の別館内のこちらにある、昭和二五(一九五〇)年新潮文庫刊の古谷綱武編「小泉八雲集 下巻」の田部隆次氏の訳の「門つけ」(PDF)を視認した。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 なお、本文で「玉米 竹次郞」とあるのは、読者が「玉米竹次郞」という姓名と誤読する虞れを私は感じたので、特異的に一字空けを施したものである。これは原文に“Tamayoné and Takejiro”(斜体は原文のママ)とある通り、「玉米(たまよね)」という女の名(源氏名)と、男の名であるからである。転載される場合は字空けを詰められたい。

 また、その心中話の「』」で冒頭を示されてある(最終行のみ「』」有り)それは、その全体が三字下げであるが、ブログ・ブラウザでの不具合を考えて行頭まで引き上げた。転載される場合は、三字下げすることをお忘れなきよう。

 最後に少し気になった箇所について、オリジナルな注を附した。

 本電子化は、昨日の「人形の墓」との仄かな絡みを感ずるのための他に、たまたま、現在、私が唯一、サイト・ブログでの定期更新を通知している SNS である「ツイッター」を始めてから今日で八年目となるのを記念して公開することとした。【二〇一九年八月二十一日 藪野直史】]

 

 

    門  つ  け

 

 三味線を携へて七八つの男の子に手を引かれた女が私の家へ歌を歌ひに來た。彼女は農夫のなりをして、頭に靑い手拭を卷いてゐた。醜かつた、そしてもとよりの酷さが殘酷な疱瘡に襲はれたために一層ひどくなつたのであつた。子供は版にした流行歌の一束をもつてゐた。

 そこで近所の人々は私の表ての庭に集まつて來た、――多くは若い母親や背中に赤ん坊を負うた子守だが、爺さん媼さん――近所の隱居達――も同じく來てゐた。それから又つぎの町角にある帳場から車屋も來た、そしてやがて門の内にはもう餘地がなくなつた。

 女は私の入口の階段に坐つて、三味綜の調子を合せて伴奏の一節を彈いた。そこで一種の魅力が人々の上に落ちた、そして彼等は微笑しながら驚いてお互に顏を見合せてゐた。

 

 卽ちその醜い不恰好の唇から奇蹟のやうな聲、――若い、深い、透るやうに妙(たへ)なるところは名狀のできぬ程の感動を與へる聲が流れたりさざなみをうつたりして出たからである。一人の見物は『女か、それとも森の仙女か』と尋ねた。只の女であるが、甚だ甚だ偉大なる藝術家である。その樂器の取扱ひ方は最も熟練なる藝人をも驚かしたであらう。しかし、こんな聲はどんな藝人からも聞かれた事はなかつた、そしてこんな歌も。彼女は只農夫が歌ふやうにしか歌はなかつた、恐らく蟬や藪鶯から習つた聲の節で歌つた、そして西洋の樂譜に決して記された事のない聲の細(こまか)い、又その半分程の細い、その半分の半分程の細い調子で歌つた。

 そして彼女が歌つて居ると、聞いて居る人々は默つて泣き始めた。私には言葉の意味ははつきりしなかつた、しかし私は日本生活の悲しさと樂しさと苦しさが彼女の聲と共に私の心へ通つて行くのを覺えた、――決してそこにない何物かを悲しげに求めながら。目に見えない衷れさは私共の周りに集まつて震へて居るやうであつた、そして忘れられた場所と時問の感覺が、――人の記憶にある場所や時間の感情でない、もつと靈的な感情と混つて靜かに歸つて來た。

 その時私はその歌ひ手は盲目である事を見た。

 

 歌が終つた時私共は女を誘つてうちへ入れて身上を聞いて見た。昔は彼女のくらしが相應によかつたので小さい時に三味線を習つた。小さい子供は彼女の倅であつた。夫は中風であつた。彼女の眼は疱瘡のためにつぶれた。しかし彼女は强壯で遠くまで步く事ができた。子供が疲れて來るといつも彼女は背中に負うてやる。彼女は床についた夫と又子供とを養つて行かれる、それは女が歌ふ時、きく人は泣いて彼女に小錢と食物を與へるからである。……彼女の身上話はこんなであつた。私共は彼女にいくらかの金と食事を與へた、それから子供に手を引かれて彼女は去つた。

 

 私は近頃の心中に關する流行歌『玉米 竹次郞の悲しき歌、作者大阪市南區日本橋四丁目十四番屋敷竹中よね』と題する物を一部買つた。それはたしかに木版であつた、そして小さい繪が二つあつた。一つには若い男女が一緖に歎いて居るのを表はし、他方は『終りの繪』のやうになつて、机、消えかかつた燈火、開いた手紙、燒香、死人へ但物をする佛式に用ひられる聖い植物、樒(しきみ)のさしてある花瓶を示してあつた。たてに書いた速記のやうに見える妙な草書は、譯して見ると只こんな物になつた、

 

『評判名高き大阪の西本町一丁目――心中話の哀れさよ。

『十九歲の玉米を、――見て戀をせし若き職人竹次郞。

『二世も三世も變らじと誓ひし二人、――遊女を戀ひし悲しさよ。

『互に腕に彫りしは龍と竹の文字、――浮世の苦勞をよそにして。……

『女の身代五十五圓を拂はれぬ、――竹次郞の心の切なさよ。

『この世で添はれぬ兩人は、共に死なんと誓する。……

『囘向を朋輩に賴みしのち――露と消え行く二人の哀れさよ。

『死ぬ人々の誓する水盃を取り上ぐる。……

『心中する人の心の亂れ、――空しく消ゆる命の哀れさよ』

 

 要するに話には何も甚だしく變つた事はない。詩に著しいところは少しもない。その演奏の感嘆を博したのはその女の聲のためであつた。それにしてもその歌ひ手の行つたずつと後まで、その聲が未だ殘つて居るやうであつた、――不思議な聲の祕密を私は說明しようとしないでは居られない程、不思議な快感と悲哀感とを私の心に起させながら。

 そして私はつぎに書いた事を考へた、――

 

 凡ての歌、凡てのふし、凡ての音樂は只感情の原始的な自然の表現の或進化、――樂音によつて表はされる悲哀、喜悅、激情の自然の言葉に外ならない。外の言葉に變化のあるやうにこの音の結合の言葉にも變化がある。それ故私共を深く動かす音曲は日本人の耳には何の意味もない、そして私共に少しも觸れない音曲は靑色と黃色と違ふ程、私共と違つた精神生活をもつ人種の感情に力强く訴へるのである、……それでも私に分りもしないこの東洋の歌が、――この下層社會の一盲目の女のありふれた歌が、――外國人である私の心に深い感動を與へたのは何の理由であらう。必ずこの歌ひ手の聲に一人種の經驗の全體よりも大きな物、――人生程廣い物、そして善惡の知識程古い物に訴へる事のできる性質があつたからであらう。

 

 二十五年の前或夏の夕、ロンドンの或公園で一人の少女が誰か通りかかりの人に『お休み』と云つて居るのを聞いた。只その『お休み』と云ふ二つの小さい言葉だけ。その少女は誰であつたか私は知らない、私は彼女の顏を見もしなかつた、そして私はその聲を再びきかなかつた。しかし今もなほ、一百の季節の過ぎ去つたあとで彼女の『お休み』を思ひ出すと快感と悲哀感との不可思議な二重の剌戟を感ずる、――疑もなく私のでなく、私一生のでなく、前生の、前世界の快感と悲哀感とである。

 けだし、こんなに只一度きいた聲の魅力となつて居る物はこの世の物ではない。それは無限無數の忘れられた人生の物である。たしかに全く同じ性質をもつた二つの聲はなかつた。しかし愛の言葉のうちには、凡て人生の幾千億の聲に共通なやさしい音色がある。遺傳の記憶によつて生れたての赤子でもこの愛撫の調子の意味がよく分る。疑もなく、同情、悲嘆、衷憐の調子に關する知識もそれと同じく遺傳である。そしてそのわけで、極東のこの町に於ける一人の盲目の女の歌が西洋の人の心にも一個體よりももつと深い感情、――漠然たる物を云はない忘れられた悲哀の情、――覺えてゐない時代のおぼろげな愛の衝動、――を起させるのであらう。死人は決して全く死ぬと云ふ事はない。死人は疲れた心臟、忙しい頭腦の最も暗い小さい室に眠つて居る、そして稀に彼等の過去を呼び起す或聲の反響によつて目をさますのである。

 

[やぶちゃん注:底本では、最終行に一字上げインデントで『(田部隆次譯)』、次の行に同じインデントで『A Street Singer.Kokoro.)』とある。

 なお、本訳文ではダッシュによって示されるのみの心中話の詞章が、原文では、斜体と感嘆符によって効果的に浮き上がるようになっている(ここここ)。原本原文を可能な限りそのままに写してみる。

   *

   "In the First Ward of Nichi-Hommachi, in far-famed Osaka— O the sorrow of this tale of shinjū!

   "Tamayoné, aged nineteen,—to see her was to love her, for Takejirō, the young workman.

   "For the time of two lives they exchange mutual vows— O the sorrow of loving a courtesan!

   "On their arms they tattoo a Raindragon, and the character 'Bamboo'—thinking never of the troubles of life.  .  .  .

   "But he cannot pay the fifty-five yen for her freedom— O the anguish of Takejirō's heart!

   "Both then vow to pass away together, since never in this world can they become husband and wife.  .  .  .

   "Trusting to her comrades for incense and for flowers— O the pity of their passing like the dew!

   "Tamayoné takes the wine-cup filled with water only, in which those about to die pledge each other.  .  .  .

   "O the tumult of the lovers' suicide!—O the pity of their lives thrown away!"

   *

訳文とは、かなり印象が異なる。「玉米」と「竹次郞の悲しき歌、作者大阪市南區日本橋四丁目十四番屋敷竹中よね」(原文““The sorrowful ditty of Tamayoné and Takejirō,— composed by Takenaka Yoné of Number Fourteen of the Fourth Ward of Nippon-bashi in the South District of the City of Osaka.””。斜体はママ)とある作品の原文を見たいと思ったが、ネット上では全く掛かって来ない。気づくのは作者の姓名に二人の名が一字ずつ含まれてあることで、モデルとなった当時の心中事件があって、この作者が名を操作して創作したものででもあるのかも知れぬ。なお、この住所は現在の大阪府大阪市浪速区日本橋四丁目(グーグル・マップ・データ)に相当する。

「五十五圓」先の「人形の墓」でも挙げたが、「野村ホールディングス」と「日本経済新聞社」の運営になる、こちらの記事によれば、本作が発表された翌年(明治三〇(一八九七)年)頃で、『小学校の教員や』巡査『の初任給は月に』八~九『ぐらい』で、『一人前の大工』『や工場のベテラン技術者で月』二十『円ぐらいだったようで』、『このことから考えると、庶民にとって当時の』一『円は、現在の』二『万円ぐらいの重みがあったのかもしれ』ないとするから、玉米(たまよね)の身請けのそれは実に百十万円相当となる。]

2019/08/20

小泉八雲 人形の墓 (田部隆次訳)

 

[やぶちゃん注:本作は明治三〇(一八九七)年にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された作品集“GLEANINGS IN BUDDHA-FIELDS STUDIES OF HAND AND SOUL IN THE FAR EAST”」(「仏陀の畑(仏国土・浄土)の落穂集 極東に於ける手と魂の研究」:来日後の第四作品集)の第六章に配された作品である。同作の原文は、原本ではInternet Archiveのこちらから読め、活字化されたものはThe Project Gutenbergのここで読める。

 底本は、サイト「しみじみと朗読に聴き入りたい」の別館内のこちらにある、昭和二五(一九五〇)年新潮文庫刊の古谷綱武編「小泉八雲集 下巻」の田部隆次氏の訳の「人形の墓」を視認した。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏は富山県生まれの英文学者。東京帝国大学英文科で小泉八雲に学び、後に八雲の研究と翻訳とで知られた。富山高等学校(現在の富山大学)にハーンの蔵書を寄贈して「ヘルン文庫」を作った。四高(現在の金沢大学)・女子学習院・武蔵高を経て、津田塾大教授。第一書房版「小泉八雲全集」を大谷正信らと共訳している。御覧の通り、彼はパブリック・ドメインである。

 なお、「子供はつづけた、『未だおばあさんに……」の段落部の一部の会話を、誤読或いは躓く虞れを感じたので、特異的に改行してある。転載される場合は、ベタで続けられんことをお忘れなく。

 登場人物の一人である「萬右衞門」は「まんゑもん」と読む(原文“Manyemon”)。

 また、本文からは読み取り難いが(冒頭シーンにそれが匂わせてある)、この少女は恐らくは門付(かどづけ)芸人であろう。或いは以前にも何度か「萬右衞門」の家に訪ねてきたことがある者とも読める。

 遠い二十歳の頃に読んで以来、忘れ難い掌品である。最後に附した注も読後に必ず参照されたい。【二〇一九年八月二十日公開 藪野直史】]

 

     人 形 の 墓

 

 萬右衞門はその女の子をすかして内に入れて、喰べさせた。賢い、氣の毒な程おとなしい、十一ばかりの子供に見えた。名は稻であつた、そしてその弱々しくほつそりして居るのがその名をふさはしく思はせた。

 萬右衞門の穩やかな勸めによつて彼女が話を始める時、私は彼女の聲がその話につれて變つて來た事から何か風變りな話があると豫想した。彼女は全く一樣な高い細い可愛い聲で話し出した、炭の火の上で小さい鐡瓶が吟じて居ると同じ樣に變化のない、感情の現れない聲であつた。日本では人は屢々こんな落着いた平板なそしてよく透る聲で、決してありふれた事でない何か感ずべき或は殘酷な或は恐るべき話を、女や女の子が話すのをきく事がある。その實、いつでも感情は抑制されて居るのである。

『うちには六人ゐました』稻は云つた『母さんと父さんと、大へん年とつた父さんの母さんと兄さんと私とそれから妹と。父さんは表具屋でした、ふすまを張つたり又かけものの表裝をしたり致しました。母さんは髮結でした。兄さんは版木屋に年季奉公に行つてゐました。

『父さんも母さんも景氣がよかつたのです。母さんの方が父さんよりもつとお金をまうけました。私共はよい着物を着てよい物を食べてゐました、そして父さんが病氣になるまで私共には本當の心配といふ物はありませんでした。

『暑い季節の眞中でした。父さんはいつも達者でした。私共は父さんの病氣はさう惡いとは思ひませんでした、そして父さんもさう思ひませんでした。しかし丁度その翌日死にました。大へん驚きました。母さんは胸の中をかくして前の涌りお客の前に出るやうにしてゐました。しかし母さんは丈夫ではありませんでした、そして父さんのなくなつたと云ふ心配が餘り急に參りました。父さんの葬式のあと八日たつて母さんが又なくなりました。餘り不意だつたので驚かない者はありませんでした。それから近所の人達は直ぐに人形の墓を造らないではいけない、造らないと又私共のうちでもう一人死ぬだらうと申しました。兄さんはその話は本當だと云ひましたが、云はれた通りにする事は延しました。私に分らないけれども多分金がそれ程なかつたからでせう、とにかく墓はできませんでした』……

 

 『何ですか、人形の墓とは』私は遮つた。

 萬右衞門は答へた『多分あなたは人形の墓を澤山御覽になつてゐてお氣がつかなかつたのでせう。丁度見たところ子供の墓のやうです。一家のうちで同じ年に二人死んだら三人目に死ぬ人が必ずあると信じられてゐます。「いつでも墓は三つ」と云ふ諺があります。ですから一家内で同年に二人の葬式があつたらその二人の墓のつぎに第三番目の墓を造ります、そしてそのうちへほんの小さい藁人形のある棺を入れます、そして墓の上に戒名を書いた小さい墓石を建てます。その墓地をもつて居るお寺の僧侶はこんな小さい墓石に戒名を書いてくれます。人形の墓をたてると死なないやうになると考へられてゐます……稻、話のあとをきかしておくれ』

 

 子供はつづけた、『未だおばあさんに兄さんと私と妹と四人ゐました。兄さんは十九でした。父さんがなくなつた丁度前に年季奉公を終つたところでした、これも私共を神樣が憐んで下さるやうだと思ひました。兄さんは家の主人となつてゐました。仕事が大へん上手で、澤山同情して下さる方がありましたから私共を養つてくれる事ができました。初めの月に十三圓まうけました、版屋としてはそれは中々いゝのです。或晚病氣して婦りました、頭が痛いと申しました、丁度その時母の四十七日になつてゐました。その晚兄さんは食べる事ができませんでした。翌朝も起きられません、――大へん高い熱がありました、私共は一所懸命看護して夜ねないでわきにゐました、しかしよくなりませんでした。病氣になつてから三日目の朝私共は驚きました、兄さんが母さんに話をし始めたからです。母さんがなくなつてから四十九日でした、四十九日に魂が屋根を離れます、そして兄さんは丁度母さんが呼んで居るやうに物を云ふのでした

「はいはい、母さん、ぢきに參ります」

それから兄さんは母さんが袖を引つぱつて居ると申しました。指をさして私共に

「あれ、あすこに居る、あすこに、見えないか」

と申します。私共は何(なん)にも見えないと申します。さうすると

「あゝ、早く見なかつたからだ、母さんは今かくれて居る、今疊の下へはひつた」

と申します。午前中こんな風な事を云ひました。仕舞におばあさんは立ち上つて、床の上で足をふみならして大きな聲で母さんを叱りました。

「たか」

おばあさんは申しました。

「たか、お前は大へん間違つた事をして居る。お前の生きて居る時は私共は皆お前を大事にした。お前に邪見な事を云つた者は一人もない。今どうしてあの倅をつれて行かうとするのか。あれはうちの大黑柱である事はお前も知つて居るだらう。あゝ、たか、これはひどい、これは恥知らずだ、これは無茶だ」

おばあさんは大へんに怒つてからだがふるへました、それから坐つて泣きました、そして私と妹が泣きました。しかし兄さんはやはり母さんが袖を引つぱると云ひました。日の沈む頃、なくなりました。

『おばあさんは泣いて、私共をなでて、自分で作つた歌を歌ひました。今でも覺えてゐます、――

   親のない子と濱邊の千烏

   日ぐれ日ぐれに袖ぬらす

『そこで第三の墓ができましたが、人形の墓ではありませんでした、そしてそれが私共のうちのお仕舞でした。私共は冬になるまで親類にゐましたが、その時おばあさんがなくなりました。おばあさんは夜誰も知らないうちになくなりました。朝眠つて居るやうでしたが、なくなつてゐたのです。それから私と妹は分れました。妹は父さんのお友達の疊屋の養女になりました。大事にされてゐます、學校へも參ります』

『あゝ不思議な事だ、困つたね』と萬右衞門はつぶやいた。それから暫らくの問同情の沈默があつた。稻はお辭儀をして、歸らうとして立ち上つた。草履の鼻緖に足を入れた時、私は老人に質問をしようと思つて、彼女の坐つてゐた場所へ動いて行つた。彼女は私の意向を認めて直ちに萬右衞門に何か不思議の合圖をした。萬右衞門は丁度私が彼女の側に坐らうとしたのを止めて、その會圖に答へた。

 彼は云つた『稻は旦那樣に先づその疊をおたたき下さいと願つてゐます』

『しかし、何故』と私は驚いて問うた、ただその子供の坐つてゐた場所が心地よく暖まつて居る事だけを、靴をはかない足に感じた。

 萬右衞門は答へた、

『外の人のからだで暖かくなつた場所に坐ると、その人の不幸を皆取る事になるから、初めにその場所をたたかないといけませんとこの子は信じて居るのです』

 そこで私はその『まじなひ』をしないで坐つた、そして私共二人は笑つた。

『稻』萬右衞門は云つた『旦那樣はお前の不幸を御自分にお取りになります。旦那樣は』(私は萬右衞門の使つた敬語を譯する事はとてもできない)『外の人の苦しみがお分りになりたいと思つておいでです。お前は心配をしなくてもいゝよ、稻』

 

[やぶちゃん注:底本では、最終行に一字上げインデントで『(田部隆次譯)』、次の行に同じインデントで『Ningyō-no-Haka.Gleanings in Buddha-Fields.)』とある。

「十三圓」「野村ホールディングス」と「日本経済新聞社」の運営になる、こちらの記事によれば、本作が発表された明治三〇(一八九七)年頃は、『小学校の教員や』巡査『の初任給は月に』八~九『ぐらい』で、『一人前の大工』『や工場のベテラン技術者で月』二十『円ぐらいだったようで』、『このことから考えると、庶民にとって当時の』一『円は、現在の』二『万円ぐらいの重みがあったのかもしれ』ないとするから、二十六万円ほどとなり、兄は相当な稼ぎ手であったことになる。

 本作については、非常に繊細に本掌篇を扱われた、牧野陽子氏の論文『「人形の墓」を読む―ラフカディオ・ハーンと日本の〝近代〟」(二〇一四年七月発行『成城大學經濟研究』(第二百五号)所収。こちらからPDFでダーン・ロード可能)があるが、牧野氏も『物語は、語り手の「私」の家に、門つけの少女が現れるところから始まり、その少女が、〝人形の墓〟という風習にまつわる一家の悲劇を語る、という構成をとっている』と、彼女を門付芸人としている。また、ここに出現する興味深い習俗としての第三の墓、「人形の墓」に就いては、

   《引用開始》

 この物語のもとになったのは、「熊本で雇い入れた梅という名の子守の身の上話」(田部隆次[やぶちゃん注:牧野氏注に『田部隆次『小泉八雲』北星堂、一九八二年、二三二頁』とある。])であり、話に登場する老僕の万右衛門とは実際はセツ夫人のことだったとされている。また、〝人形の墓〟をつくるのは熊本地方の習慣で、人の座ったあとの畳をたたいて座るのは出雲の習慣だと田部氏の解説にある。作品中の「私」は、「その人形の墓ってなんですか?」と口をはさみ、ついで万右衛門が異国の民俗を説明するのだが、ちなみに、柳田国男の『葬送習俗語彙』をみると、「スラバカ」という項目に、「阿蘇の黒川村では、一家に二人つづけて死人があると、三人つづかぬやうに人形をつくって葬式する風があるといふ。同宮地町ではかかる際には、スラ墓といふ作り墓を造る(葬號)。空言をスラゴツといふ所だから、多分ソラ墓であらう。」[やぶちゃん注:牧野氏注に『柳田国男『葬送習俗語彙』昭和十二年、国書刊行会(昭和五十年)、一五六頁』とし、さらに『なお、『綜合日本民俗語彙』(平凡社、昭和三十年)の「スラバカ」の項も、同文の説明である』とある。]とある。そして「葬號」と挿入があるため、柳田の記述が、『旅と傳説』「誕生と葬禮號」(昭和八年七月)に掲載された全国各地の報告文のうち、熊本懸[やぶちゃん注:ママ。「縣」の誤字であろう。]宮地地方の葬礼についてまとめた八木三二という地元の人の記事[やぶちゃん注:牧野氏注に『『旅と傳説』「誕生と葬禮號」(昭和八年七月)、三元社、一八三頁』とある。]に依拠したものだとわかる。あるいは、ハーンの雇った梅という子守も、阿蘇の黒川村か、宮地町の出身だったのかもしれない[やぶちゃん注:牧野氏注の一部に『後の民俗学の研究によって、全国各地に』これと『類似の習俗があることが明らかになっている』とある。]。そしてハーンに、その身の上を話したのだろう。

   《引用終了》

という、素材の種明かしと、小泉八雲による作品内現在時制部分に於けるシチュエーションの再物語化という創作過程が明かにされてある。同論文は本篇の要(かなめ)々を原文並置で和訳されつつ、全体の構造分析から、小泉八雲の類話への指摘など、すこぶる興味深いものがある。強く一読をお薦めする。]

諸国因果物語 巻之五 正直の人虵の難をのかるゝ事

 

     正直の人虵の難をのかるゝ事

Hebi



 越後新潟といふ所に傳介といふ百姓あり。我すむ所より畑(はたけ)までは半道ありけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、朝、とく、畑に出んとしては、先[やぶちゃん注:「まづ」。]、焼めしを、二つ三つほど、こしらへ、昼食のたくはへとし、ちいさき藁(わら)づとに入て、もちゆき、畠(はたけ)の畝(うね)にをきて[やぶちゃん注:ママ。]、常に田をも打、畠をも、つくりけり。

[やぶちゃん注:「半道」一里の半分で二キロメートル弱。]

 ある年の夏の事なりしに、いつもの如くして畠へ行、彼(かの)やきめしの入たる畚(ふご)を、かたはらなる木の枝にかけ置、農業をつとめ、漸(やゝ)日も昼にかたぶきけんとおもふ比(ころ)、かの畚をおろして昼食(ちうじき[やぶちゃん注:ママ。])せんとせしに、食物は、なし。

「こは、いかに。」

と、思ひめぐらすに、慥(たしか)に今朝(けさ)入たるに、まがひなくおぼゆれども、さあればとて、人のとりたるかとおもふ事も、なし。

[やぶちゃん注:「畚」ここは竹や藁などを編んで作った容れ物。]

 ふしぎながら、腹のすきたるを堪忍(かんにん)して、其日をつとめ、歸りぬ。

 又、明(あく)る日、おなじごとくに木の枝に掛たりしが、又、焼めしを失ひて、なし。

『合点の行(ゆか)ぬ事。』

と、おもひて、さまざまにためしけるに、二、三日のほど、おなじ木にかけて、ためし見るに、何ものゝ態(わざ)ともしれず、只、かいくれて、失(うせ)けるまゝ、口おしき事に思ひて、此たびは畚ばかりを木にかけ、焼めしは手ぬぐひにつゝみて、腰にさげ、農業をやめて、うかゞひしに、やうやう日もたけて、八ツ[やぶちゃん注:夏で百姓であるから、不定時法で午後二時半頃。]にやなりぬらんとおもふころ、腰のまはりの、ひやゝかになりたるやうにおぼへ[やぶちゃん注:ママ。]しかば、ふりかへりて見るに、三尺ばかりなる小虵(へび)の來りて、腰につけたるやきめしの手ぬぐひを、

「くるくる。」

と卷(まき)て、まん中ほどを、くいきりつゝ、かの食を、くらひける。

『にくいやつかな。扨は。此ものゝしわざなりけり。』

と、思ひしかば、鎌をひそかにぬき出して、まき付せながら、此虵を、

「ずたずた。」

に、切てすてたり。

『あら、心よや。けふよりして、又と焼めしは、とらるべからず。』

と、おもひて、畠をせゝり[やぶちゃん注:掘り起し。]、田の水をおとしなどして、いつもの夕ぐれになりければ、歸らんとせし所に、むかふより、見馴れざる女、のりものをかきて、こなたへ來りぬ。

 御こしもと・はした、それぞれの女中、あまたありて、おさへ[やぶちゃん注:護衛。]と見ゑ[やぶちゃん注:ママ。]つるは、四十ばかりの[やぶちゃん注:人数。異様に多い。]侍・若黨など、きらびやかにて、すゝみ來るを、

『あれは、何方(いづかた)へ行人ぞや。此道は聖つゞきにて、末は道もなき所なるに。いかなる事にや。』

と、おもふ内、傳介が傍ちかくなりける時、あとにすゝ見つる侍、ことばをかけ、

「その男なり。のがすな。」

と、いふは、とこそあれ、若黨ども、

「ばらばら。」

と、取まはし、傳介をくゝりあげ、のり物の前に引すゑける時、のり物の戶をあけて、顏さしいだしける人は、年のほど、廿ばかりかと見へし、氣高(けだか)き女房の、いろいろの小袖ひきつくろひたるが、脇息にもたれて、數珠(じゆず)をつまぐり、淚、おしのごひて、腰元をよび、の給ひしは、

「先、姬が行ゑを見とゞけ、死骸を取て、彼が首にかけさせて、御前(ぜん)に引べし。」

と也。

 傳介は、一圓(いちゑん)、おぼへなき事なれば、合点ゆかず、何を何とわきまへたる所もなくて、うつぶき居たるを、何やらん、

「しか。」

と、重き錦(にしき)のふくろを、傳介が首にかけさせ、又、引たてゝ行[やぶちゃん注:「ゆく」。]事、一里ばかりして、大きなる惣門の内へ入りぬ。

 やゝありて、おくより、三十ばかりと見ゆる男、玄關に立いて[やぶちゃん注:ママ。「立ちゐて」。]、傳介にいふやう、

「おのれ、此國に生れて、此所に、かゝる御かたありといふ事をしらずや。年ごろの無禮はともあれ、今日、我君の姬を殺せしは、何事ぞ。此つみ、もつとも輕(かろ)からされば、今、すでに天帝へ申、雷神をもつて、たゞいま、汝がかうべを、打くだくぞ。」

と、あらゝかにいひける時、傳介、ふりあふのき、

「我、つゐに人を損ずる事、なし。君、また、何人と、しらず。定(さだめ)て、人たがひに候ぞ。」

と、いふに、又、いはく、

「此ほど、汝がわづかなる食をおしみて、さまざまとねらひしは、いかに。」

と、とひけるにぞ、

『扨は。我、けふ殺しつる虵の事なるべし。』

と思ふに、彼(かの)首にかけたる袋より、小虵、いくらともなく、わき出て、傳介が手足、すき間なく、まきたてしとぞ見えしが、俄(にはか)に、空、かきくもりて、雷(かみなり)、おびたゞしく、いなづま、しきりに、雨は車軸を流し、傳介が上におほふ、と見えしに、傳介、大ごゑをあげ、のゝしりて、いふやう、

「それ、天道は、まことをもつて人をたすけ、神鳴、また、正直のかたへにやどり給はずや。我を飢(うへ[やぶちゃん注:ママ。])つかれさせ、おのが口をたすけんと、人の目をくらましける盗(ぬすみ)は、天、これを惡む所にて、謀計(ぼうけい)の罪、のがれがたし。それをたすけて、我を殺したまはゞ、神明、なにゝよりて、人の信あるべき。よし、殺さば殺し給へ。我、まことある神となりて、此むくひは、しらせ申さん。」

と、飛(とび)あがり、飛あがり、大にいかりて、空をにらみて立けるに、今まで、ましぐらに[やぶちゃん注:まっしぐらに。]鳴(なり)おほひし空も雷も、すこし遠ざかるやうに覚へしが[やぶちゃん注:ママ。]、

「はた。」

と、落(おち)し神鳴に、傳介も氣を失ひ、しばし、うつぶきて居たりし内、やうやうに、空、はれ、月のひかりも花やかにさし出しかば、いましめの繩も、ことごとく、引ちぎれ、身(み)の内、何の事なかりしまゝ、急ぎ、我宿に歸りぬ。

 明(あけ)の日、かの所に行(ゆき)て見るに、大なる蝮(うはばみ)、いくらともなく、頭(かしら)を雷(らい)に打くだかれ、そのほとり、七、八丁がほどは、血にそみてありしとぞ。

 

 

諸國因果物語卷之五

[やぶちゃん注:この伝介、ただの百姓とは思えない類い稀れなる智者である。これまでの暴悪姦計の人非人どもとの対照が際立つ。

「七、八丁」約七百六十四~八百七十三メートル。

 本話を以って「諸国因果物語」巻之五は終わっている。]

諸国因果物語 巻之五 男の一念鬼の面に移る事

 

     男の一念鬼の面に移る事

Oninokubi



 京都冷泉(れいぜい)通油小路(あぶらのこうぢ)に小間物屋庄左衞門といふものあり。

[やぶちゃん注:旧交差位置から推すと、京都府京都市中京区大文字町(北)と橋本町(南)の孰れかが相当する(グーグル・マップ・データ)。]

 此女房、十二、三より、去方(さるかた)につとめ、髮かたちも人に勝れ、琴・しやみんの態(わざ)も大かたに間(ま)のわたる程也しかば、ゆくゆく一國の御臺(みだい)樣などゝもいはるべかりける身の、心ざま、みだりがはしく、色ふかき人なりければ、十八、九のころより、親もとへ歸り居たりしが、不圖(ふと)したる緣にて、此庄左衞門につれそひ、はや、六、七年にもなりければ、六つになりける子と、四つになると、二人の子もちになりぬ。

[やぶちゃん注:伏せてあるが、彼女が奉公先から戻っらざるを得なくなったのも、その主人との色事やそれに関わる色事、或いは家人とのそれと匂わせている。]

 庄左衞門は、こまものを賣(うり)につきても、歷々の家に出入(いでいり)ごとには、女中まじはりの多きにつきて、芝居ばなし・物まねなど、そこそこに覚え、又は、はやり歌のはしばしをも、すこしは諷(うたひ)などする事、今時の小間物やは、大かた、これを屑(とりゑ)[やぶちゃん注:以前にも出た。これを見るにやはり誤字ではなく、得意なものの意である。]にしてあきなひもする事なれば、御日待ぞ、庚申ぞ、といふ内證(ないせう[やぶちゃん注:ママ。])のあそびには、出入の小座頭(こざとう)・魚屋の男など、御こゝろやすう、めしよせらるゝ中間ともなるためとて、其比、宇治外記(げき)とかやいひし淨瑠理の太夫に通ひて、託宣(たくせん)の道ゆき、「あふひのうへ」・「賴政」など、けいこ隙なく、折ふし、手まへにも、月待などゝかこつけて、彼(かの)外記を呼て、ふるまひなどする事、たびたびなりけるに、いつとなく心やすくなりて、時ならず、庄左衞門方へも行かよひしかば、後々は庄左衞門が留主をもいはず、晝も尋ねゆきつゝ、起(おき)ふしして淨瑠理[やぶちゃん注:ママ。]を口すさび、芝居ばなしなどしてあそぶ事、たびたびに及び、あまつさへ、庄左衞門が妻に、心をうつして、人しれず、何かといひ、渡りけるに、女房も心おほき生れつきといひ、殊に音曲などにおもひ、つらい[やぶちゃん注:ママ。]女こゞろの習ひなれば、何の事もなく、うちとけたり。

[やぶちゃん注:「日待」既出既注

「庚申」「庚申待(まち)」。私の「北越奇談 巻之三 玉石 其七(光る石)」の私の「庚申塚」の注を参照されたい。

「内證のあそび」内輪だけの私的な遊宴の集まり。「日待」や「庚申待(まち)」は、とっくに名目ばかりで中身は単なる夜明かし遊びと化していた。

「託宣」ここは他者の指導する義太夫節を冗談めかして言ったものであろう。

「あふひのうへ」「源氏物語」の葵上が六条御息所の生霊に苦しめられるそれを謡曲化した「葵上」。世阿弥以前に作られて改作された能。詳細は「銕仙会~能と狂言~」のこちらを参照されたい。

「賴政」源三位頼政の霊を扱った複式夢幻能のそれ。世阿弥作。詳細は同じく「銕仙会~能と狂言~」のこちらを見られたい。

「中間ともなるためとて」「中間」は「なかま」。構文が今一つ上手くない。庄左衛門は、家へ出入りする小座頭・魚屋(うおや)の男などをも、貴顕の家に心安く呼ばれる際の、芸の磨きを掛けるための「仲間」ともなろうからしてと考え、太夫の外記を呼んでは自分と一緒に習わせた、というのである。

「宇治外記」これを名乗った太夫は実在する。川端咲子氏の論文「宇治一派の末流達 宇治姓の人形遣いを中心に」(一九九九年発行『待兼山論叢 文学篇』三十三巻所収・PDF)京都には「土佐」という太夫の名代があったが、これは延宝期に「宇治加賀掾」と並び賞された京都の太夫「山本角太夫」の『受領号であった。しかし、角太夫没後』、『その名代は所持していた角太夫の息子源助を経て、正徳五年十二月』『に源助の従弟で』宇治一派の一人であった宇治外記『へと譲られた』とあるからである。]

 外記は、いよいよ是に心をとられ、戀に、知惠、くらみて、

『我、いまだ定(さだま)りたる妻とてもなし。あはれ、かゝる情(なさけ)ある人を引とり、一期(いちご)[やぶちゃん注:一生。]、我ものとしても見ばや。』

と、思ひつゝ、寢(ね)るにも起(おき)るにも、心にかゝりて、いやましの戀しさ、やるかたなければ、さまざまと術(てだて)をこしらへ、庄左衞門が女房と相圖して、來らん時節を待たりしに、ある時、庄左衞門、三十六、七におよびて、痘疹(はしか)といふものを煩ひ、よほど、大事なりしが、さまざまの療治、手をつくしける功見へて、やうやう、本復(ほぷく)したりけるに、兄むすこの庄太郞、六つになりけるもの、食傷(しよくせう)をしそめてより、疳氣(かんけ)になり、是も、いくばくの世話となりて、

「少、此ほどは、心地よろしきかたになりしよ。」

と、見る内、また、女房、何となくふらふらと病出(やみいだ)して、物なども、しかじかと食(くは)ず。

「定て[やぶちゃん注:「さだめて」。]此ほどの、病人うちつゞきたるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]は、情(せい)[やぶちゃん注:ママ。「精」の誤記か。]のつかれなるべし。」

などいひて、藥などのませけれども、しかじかと、そのしるしもなくて、同じ調子になやみ渡りける。

 庄左衞門も、病後いまだちからづくまでしなきに、惣領の子は、いまだ煩ひの心もとなくて、せがみ泣(なく)も悲しき中に、妻は、ふらふらと病ながらも、己(おのれ)の子をすかし、とりまはして、世話にするなど、是は何さまにも只事にあらずと、心もとなさも、一かたならねば、いつも德意(とくい)のやうにして[やぶちゃん注:神仏ずくで報酬を求める風もないようにして。]、此二、三年が間、一日・廿八日には、かならず見舞るゝ常德院とかやいふ山ぶしの來られしをたのみて、当卦(とうけ[やぶちゃん注:ママ。])を見てもらひけるに、

「今年は、夫婦ともに『禍害(くはがい)』といふ卦にあたれり。『禍』は『わざはひ』の文字、『害』は『殺害(せつがい)』とて『人を殺す』の卦なり。そのうへ、本番[やぶちゃん注:意味不祥。当該の卦の別な本来の属性を見ると、の意か。]は『離(り)』の卦也。『離』は『はなるゝ』の理ありて、たがひに、夫にわかれ、妻に別れ、子を失ふの年なりたれば、是を祈禱するには、七日が間、夫婦に別火(べつくわ)させ、所をかへて夜も寢て、たがひに目も見あはせず、物をもいふ事をいむ也。その心は、假(かり)に七日の内は離別する心まで居たまふを、某(それがし)、そのあひだに、祈り、加持して、夫婦の緣をむすび直して參らすべし。」

など、口に任せていひけるを、外記も、此ほどの不仕合(しあはせ)にたんじて[やぶちゃん注:「嘆じて」か。]、さらば、兎も角も、然るべきやうに祈禱を賴たてまつるよし、ひたすらにいひける。其しさ[やぶちゃん注:「示唆」か。「由真に書房」版は『ましさ』であるが、それでは意味がとれない。]もあらば、

「先、我らが、いふやうに仕たまへ。」

とて、家内にしめを張(はり)、ことごとく敷壇(しきだん)をかまへ、此壇の右左(みぎひだり)を仕切て、夫婦を置、たがひに別火をたて、俄(にはか)に、

「物もいはず、目も見あはせぬやうに。」

と、堅くいましめられ、亭主は、夜のねざめ淋しく、

『かやうの事にては、中々、七日もすぐしがたく、物うけれど、身のため、人のためなれば。』

と、心をとりなをし[やぶちゃん注:ママ。]、氣を持かためて待ぬるに、明日(あす)は七日の滿參(まんさん)といふ夜、常德院、きたりていふ樣、

「此ほど、つゝがなくつとめて、早(はや)、あすは、願(ぐはん)成就の日なり。假(かり)に、こよひ、夫の方より、暇(いとま)の状を書て渡し給へ。こよひ緣切(ゑんきり)のおこないをつとめ、明日は生をかへて、めでたく、緣をむすばせ申べし。」

と、すゝめけるまゝ、心には染ぬ[やぶちゃん注:「そまぬ」。]ながら、庄左衞門は、硯、ひきよせ、三行半(みくだりはん)に、妻を去よしの手形を渡しけるに、女房も、淚こぼして請取、そのまゝ、かけ硯の中へなげいれけるとぞ見えし。

[やぶちゃん注:「かけ硯」「掛け硯」で「掛硯箱(かけすずりばこ)」の略。掛子(かけご:箱の縁にかけて、中に嵌まるように作った箱のこと。蓋附きの箱)のある硯箱。外箱の縁に内箱が掛かって重なるようにしてあり、そこに硯や墨や水入れを入れ、別に小物を入れる引出(ひきだし)などを作り、また、蓋をした状態で提げることができるようになっているものを言う。]

 かくて、夜明けるまゝに、常德院がさし圖にて、女房を、先(まづ)、祇園の厄神(やくしん)へ參らせ、

「此人御かへりあらば、又、庄左衞門も參り給へ。晚ほど、來りて、祝言(しうげん)めでたくとりむすび申べし。」

などいひて、歸りぬ。

 庄左衞門、まづ、今は所願もかなひぬる心地して、女房の歸るを、今や今やと、待ゐけるに、日、くるれども、歸らざりしかば、心もとなく、悲しくなりて、さまざまと穿鑿しけるに、常德院と外記と、心をあわせた[やぶちゃん注:ママ。]ばかりて、女房を離別させ、今ほどは、大津百石町邊にふかく忍びて住(すむ)よしの沙汰を聞出(きゝいだ)し、腹立(はらたつ)るは山々なれども、一たび、僞(いつわり[やぶちゃん注:ママ。])にもせよ、いとまとらせし女なれば、すべき方なくて、是を氣にしけるより、亂心になりて、井戶へ身を投(なげ)て、死けり。

[やぶちゃん注:「大津百石町」現在の滋賀県大津市中央のこの附近かと思われる。]

 かくともしらず、外記が家には、おもふまゝに仕おほせ、月日を送りけるほどに、明(あけ)の年の三月には、

「久しく都の花をも見ず。なつかしければ。」

と、女房をともなひ、京都に上り、東山のさくら、見めぐり、歸りには壬生(みぶ)の大念仏(だいねんぶつ)などおがみて歸りけるついで、

「近所の子どもへの土產にもせばや。」

と、鬼の面、一つ、買(かい[やぶちゃん注:ママ。])もとめ、道すがら、手にさげて大つなる宿へもどりぬ。

[やぶちゃん注:「壬生の大念仏」壬生狂言。京都市中京区壬生にある律宗の別格本山である壬生寺(宝幢三昧(ほうどうさんまい)院或いは地蔵院とも号して通称は壬生地蔵)で現行では四月二十一日から二十九日の「大念仏会」の間に行われる民俗芸能。「壬生大念仏」とも呼ぶ。鎌倉末期の正安二(一三〇〇)年,壬生寺中興の円覚が、大衆を導くために始めたもので、鰐口(わにぐち)・太鼓・笛の囃子に合わせて舞い踊る無言劇。約二十曲が残っている(以上は平凡社「百科事典マイペディア」に拠る)。ウィキの「壬生狂言」によれば、『仮面をつけた演者が、鉦や太鼓、笛の囃子に合わせ、無言で演じる』。『演目には、勧善懲悪などの教訓を伝える話や、『平家物語』のほか御伽草子などに取材した話がある。煎餅を観客席に投げる「愛宕詣り」、紙でできた糸を観客席に投げる「土蜘蛛」、綱渡りをする「鵺」「蟹殿」、素焼きの皿(焙烙)を割る「炮烙割り」といった派手な見せ場を持つ演目もある。炮烙割で約』三『メートル下に投げ落とされる皿は』、『およそ一千枚にも及び、厄除けや開運のため』、『参拝客があらかじめ奉納する』。『鉦と太鼓の音から「壬生寺のカンデンデン」の愛称で親しまれている』とある。私は未見なので注した。]

 其夜は、くたびれて、宵より、夫婦ともに寢たる夢心に、彼(かの)面(めん)、おそろしき眼(まなこ)を見いだし、聲をいからかして、頻(しきり)に呼(よぶ)とおもへば、夢、さめぬ。

 女房、あまり、心うく、おそろしくて、かたはらなる外記を引おこしけれども、日ごろに違(ちが)ひて、殊さらに寢いりて、目をさまさず。

 後(うしろ)より、つかみ立るやうにおぼへて、あまり、こはくおぼへ[やぶちゃん注:ママ。]しかば、油火(あぶらび)をかき立、うしろを見歸りしに、昼、買て來りし鬼の面、大きなる口をあき、眼(まなこ)をいからして、飛かゝりけるを、

「あつ。」

と、いひて、外記にしがみつきける所を、すかさず、くらひつきて、左のかたさきを、

「ほう。」

と、喰(くひ)ちぎりける。

 此ひゞきに、外記も目をさまし、此すがたを見るに、氣を取うしなひ、夜明がたまで、絕入(ぜつじゆ)したりしかども、誰(たれ)ありて、かいはうする人もなければ、昼の比になりて、やうやう、正氣になりしほどに、跡の事ども、とかくして取つくろひ、

「しばし、此事、おんみつに。」

と、ふかく忍びて、寺へもをくり[やぶちゃん注:ママ。]けれども、猶、かくれなければ、恥かしくて、引こもりありし内、又、外記も傷寒(しやうかん)といふ物をやみて、死けるとぞ。

[やぶちゃん注:鬼の面を巨大に描いた絵師に快哉。

「寺へもをくり」は、肩先を食い破られて絶命した妻(庄左衛門から奪った女房)の葬儀を内密に仕まわしたことを指す。

「傷寒」昔の高熱を伴う疾患。熱病。現在のチフスの類。]

2019/08/19

諸国因果物語 巻之五 美僧は後生のさはりとなる事

 

     美僧は後生のさはりとなる事

Bisou



 鎌倉建長寺のかたはらに、念性司(しやうず)といふ所化(しよけ)あり。生れつき美くしく器量よき僧にて學問も人にすぐれ、手をよく書けるほどに、人のもてはやしも、おほく、心ばへ[やぶちゃん注:ママ。]、又、やさしき人がらなれば、若きも老たるも、

「念性、念性。」

と、いひて、馳走し、假初(かりそめ)の齋(とき)・非時(ひじ)にも、かならず呼(よび)、衣類のすゝぎなども、我人と、あらそひて、此僧の事には隙(ひま)をいとふ事なくぞありける。されば、ゆくゆくは事なくぞありける。されば、ゆくゆくは似合しき寺にも肝いりて自他の菩提をも心よくとぶらはればやとおもふ者も、すくなからざりける。

[やぶちゃん注:「建長寺」流石に鎌倉史をずっとやってきた私にして注を附ける気になれない。私の「新編鎌倉志卷之三」をリンクさせておく。「かたはらに」とあるが、建長寺外を考える必要はあるまい。話の展開からも建長寺の塔頭の一つと読んで問題ない。なお、ここにあるような伝承や類似譚は鎌倉には全く現存しない。

「齋(とき)・非時(ひじ)」仏教では僧の戒律として、本来は正午を過ぎての食事を禁じており、食事は日に午前中に一度のみ許される。しかし、それでは実際には身が持たないので、時間内の正式な午前の食事を「斎食(さいじき)」「斎(とき)」と呼び、午後の時間外の補食を「非時食(ひじじき)」「非時(ひじ)」と呼んだ。それらの語が時刻に関わるものであったところから、後に仏教では食事を広く「とき」と呼ぶようになった。さすれば、「とき」には「僧侶や修行者が戒に従って、正午前にとる正式な食事」又は「精進料理」、広く「法会の際に供される施食(せじき)」、果ては「法会や仏事の俗な呼称」になった。それにつれて、破戒僧も等比級数的に増殖したと言えるだろう。]

 此所の地頭より世話をやかれ、龜谷坂のあたりに草堂を取たて、念性司を爰(こゝ)に居(すへ)たりしに、近鄕の百性ども、おのづから此僧になつき、纔(わづか)半年ばかりが間に、樣子よく居黑め、しほらしく住つきけるまゝに、折ふしは、鎌倉一見の旅客(たびゝと)、あるひは、貴人(きにん)の御馬をもよせらるゝ程なり。

[やぶちゃん注:「地頭」江戸時代には知行取りの旗本を指す(又は各藩で知行地を与えられて租税徴収の権を持っていた家臣も指す)。現在の鎌倉や大船地区の多くは、江戸時代はさえない農漁村となっていて、寺社領以外は複数の旗本に、かなり神経症的に細かく分割されて与えられていた。

「龜谷坂」「かめがやつざか」。底本は「谷」の右に『かへ』と振るが、採らない。建長寺門前から百八十メートルほど県道二十一号を大船方向に戻ったところを、左南西に扇が谷(おおぎがやつ)に下る亀ヶ谷坂。坂上の角(北西)に臨済宗建長寺派宝亀山長壽寺がある。]

 爰に粟舩といふ所に、小左衞門後家といふものあり。年、やゝ六十にあまり、七十にちかき身にて、子は一人もなく、纔の田地を人にあてゝ、身のたすけとしけれども、万(よろづ)たのしき後世(ごせい[やぶちゃん注:ママ。「ごぜ」が普通。])なりしかば、あけくれ、寺まいりを事とし、假(かり)にも仏道を忘るゝ事なく、賴(たのも)しき行跡(こうせき)也しかば、

「此人なくては、仏になるべき人もなし。」

などゝ、世のうわさにもいひなしける人也けるに、此後家、過(すぎ)し元祿十年[やぶちゃん注:一六九七年。]の冬、腹をわづらひて死(しに)けるを、彼(かの)念性に賴(たのみ)て、とりをき[やぶちゃん注:ママ。]、位牌なども、此草堂に居(すへ)て、毎日の仏餉(ぶつしやう)、夜毎(よごと)、廻向(えかう)をもうけさせける念性も、油斷なく勤(つとめ)、おこたらぬ人也しかば、朝暮(てうぼ)、佛前のつとめ、かゝさず。

[やぶちゃん注:「粟舩」「あはふね」。底本は「粟」にのみ「あふ」と振るが、採らない。現在の私の住んでいる大船の古い広域呼称。中世前までは現在の境川から柏尾川の筋を深沢やおこ大船地区近くまで粟を満載した輸送用の大型船が進入出来たことに基づくとされる。

「仏餉(ぶつしやう)」「仏聖」とも書き、仏に供える米飯。「仏飯(ぶっぱん)」「仏供(ぶっく)」。]

 ある夜、逮夜に行事ありて、おそく歸り、

「いまだ、けふの勤もせざりけるよ。」

と、いつもの如く、佛前にむかひ、香などもりそへ、燈明のあふらなとさして行ひにかゝらんとせしに、彼後家が位牌、にはかに、手足出來て、うごき出たり。

[やぶちゃん注:「逮夜」(たいや)ここはこの老女の月命日の前夜のことととっておく。]

「こは、いかに。狐狸(きつねたぬき)の我をたぶらかさんとて、かゝるあやしき事をなすにや。」

と、心をしづめ、

「きつ。」

と、座しけるに、此いはい[やぶちゃん注:ママ。「位牌」は「ゐはい」が正しい。]、佛壇よりおりて、念性に、とりつき、

「かなしや、我、此世にありける間は、年の程に恥(はぢ)、人めをおもひて、露ばかりもいはず、死しては、此まよひによりて、成仏(じやうぶつ)に疎(うと)く、中有(ちうう[やぶちゃん注:ママ。])にまよふこそ悲しけれ、我、念性司の庵に、毎日、おとづれ、佛餉を手づから奉り、衣(ころも)のせんたく、こぶくめの縫くゝり迄、二こゞろなくつとめしを、何と請(うけ)給ひしぞや。語り出すも恥かしながら、我、君(きみ)に心ありて、人しれぬ戀とはなりぬれども、今までは、つゝみ參らせし。今此はかなき姿なりとも、一たびの枕をかはし給はゞ、浮世の妄執、はれて、年ごろのつみ、すこしは消滅すべし。」

[やぶちゃん注:「成仏(じやうぶつ)」「ゆまに書房」版は『処仏』と翻刻するが、これでは意味も採れず、読みもおかしいので、採らない。

「中有(ちうう)」(歴史的仮名遣は「ちゆうう」でよい)は「中陰」に同じ。仏教で、死んでから、次の生を受けるまでの中間期に於ける存在及びその漂っている時空間を指す。サンスクリット語の「アンタラー・ババ」の漢訳。「陰(いん)」・「有(う)」ともに「存在」の意。仏教では輪廻の思想に関連して、生物の存在様式の一サイクルを四段階の「四有(しう)」、「中有」・「生有(しょうう)」・「本有(ほんぬ)」・「死有(しう)」に分け、この内、「生有」は謂わば「受精の瞬間」、「死有」は「死の瞬間」であり、「本有」はいわゆる当該道での「仮の存在としての一生」を、「中有」は「死有」と「生有」の中間の存在時空を指す。中有は七日刻みで七段階に分かれ、各段階の最終時に「生有」に至る機会があり、遅くとも、七七日(なななぬか)=四十九日までには、総ての生物が「生有」に至るとされている。遺族はこの間、七日目ごとに供養を行い、四十九日目には「満中陰」の法事を行うことを義務付けられている。なお、四十九日という時間は、死体の腐敗しきる期間に関連するものとみられている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「こぶくめ」判読・字起こしに非常な時間がかかった。「ゆまに書房版は『とふくめ』とするが、従わない。これは「小服綿(こぶくめん)」の省略形である。「小服綿」とは、僧侶が着用した十徳(じっとく:「直綴(じきとつ)」の転か。男子の上着の一つで、丈は短く、羽織に似る。武家のものは素襖(すおう)に似ていて胸紐がある。鎌倉末期から用いられ、中間や小者は四幅袴(よのばかま)の上に着た。江戸時代には医師・儒者・茶人などの礼服となった)に似た略衣で、白色の袷(あわせ)が通常であったが、尼は紅色を着用することもあり、室町時代頃から用いられた。また、広く「綿入れの着物」の意にも用いる。以上は小学館「日本国語大辞典」によるが、それを確定し辞書を引くに至るまでに、最大の確信を与えて呉れたのは、昭和二三(一九四八)年中央公論社刊の真山青果著「西鶴語彙考証 第一」の「こぶくめ」であった(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。心より感謝する。

などゝ、かきくどきけるに、念性も、今は、心みだれ、おそろしさいふばかりなければ、ふり切(きつ)て迯(にげ)けるに、足もとなる火桶より、雀(すゞめ)、いくらともなく飛出(とびいで)、念性をとりまはし、つゝきかゝりし程に、

「なふ、かなしや、たすけ給へ。」

と、大こゑをあげて、なげきさけびけるこゑにおどろき、近邊の人ども、出あひ、先(まづ)、念性を引すへ、氣付(きつけ)などのませ、聞きゝけるに、右のやうすを語りぬ。

「あまり、ふしぎなる事也。よもや、さほどの怪しみ、あるべき事に、あらず。定(さだめ)て、氣のくたびれしより、物にさそはれ、かゝる怪しき事、見たまひし事ぞ。」

と、藥などのませて、夜ひとよ、人々とりまわしつゝ[やぶちゃん注:ママ。]、守りあかしけるに、何事もなかりしまゝ、みなみな、心ゆるして、歸りぬ。

 又の夜は、近所の人、

「もしや、心あしき事もこそ。」

と、宵の程、かはるがはる、見まひしに、事もなし。

 いよいよ、藥など、すゝめ置て、

「又、明日(あす)こそまいらめ。」

と、いひて、歸りぬ。

 それより、二、三日も過(すぎ)て、ある朝(あした)、久しく草堂の戶のあかぬ事あり。

「いかなる事ぞ。齋(とき)に行(ゆか)れつる体(たい)もなかりしが。」

と、不審して、窓(まど)よりのぞきて、聲をかくるに、答(こたへ)ず。

 戶は、内よりしめたれば、門口よりはいるべき樣もなくて、心もとなきまゝに、生垣(いけがき)をくゞり、庭より簀(す)がきの下(した)へ、人を入つゝ、居間を尋(たづね)させけるに、念性が咽吭(のどぶえ[やぶちゃん注:ママ。])、くひ切(きり)たるあと有て、佛壇の間に、ふんぞりて、死(しゝ)てあり。

「こは、いかに。」

と、あたりを見れば、後家が位牌に、血、つきて、彼(かの)くひかきたる咽ふゑの、皮肉(ひにく)、此まへにありけるこそ、ふしぎなれ。

[やぶちゃん注:位牌に手足が生えて変化した七十歳に近い老女の亡霊から、若き美僧が「一たびの枕をかはし給は」れと言い寄られるシークエンス、コーダの、喉笛を喰いちぎられて死んだ彼のそばに、後家の位牌が血だらけになってあり、その前に美僧の喉笛の皮と肉が飛び散っていたというそれは、想像するだに素敵に慄っとするではないか?!

諸国因果物語 巻之五 願西といふ法師舍利の罪を得し事

     願西といふ法師舍利の罪(ばち)を得し事

Gansai



 山城國新田(しんでん)といふ所に与十郞といふものあり。彼が家にふしぎの本尊あり。御長[やぶちゃん注:「おんたけ」。]、立像二尺ばかりにて、いかさま、名作とは見ゆれど、いかなる仏工の作ともしらず、只、惣身[やぶちゃん注:「そうみ」。]より、ひた物、舍利の分し[やぶちゃん注:「ぶんし」。自然に分かれる。]給ふ事、たとへば、瘡疱(はうさう)の出たるが如くにて、毎日蓮臺のうへに落る所の舍利、七、八粒づゝありて、絕る事なし。

[やぶちゃん注:「山城國新田(しんでん)」現在の京都府宇治市広野町東裏にあるJR「新田駅」(グーグル・マップ・データ)の周辺か。]

 是を聞つたへ見及びたる人は、遠き國、はるかなる道をいとはず、信心のあゆみをはこびて、一たび拜(おがみ)たてまつり、後生の善果を得ん事をねがふ人も、おほく、又は、さまざまの所緣(ゆかり)をもとめて、此御舍利一粒(りう)を乞うけ、七寶の塔をたて、香花をさゝげ、他念なくおこなふ人もすくなからず。

 かゝる人のもとへ入給ひし舍利は、又、おのおの、分(ぶん)つぎて、二十粒、三十粒となり、あるひは、何とぞ、心いれ、あしくなる人、または、不信心になるやうの事ある時は、悉(ことごとく)減(へり)て、もとの一粒になりなどして、㚑驗(れいげん)あらたなりしかば、いとゞ、五幾内に此うはさのみにして、尊(たうと)み、もてはやす事にぞありける。

[やぶちゃん注:「五幾内」大和・山城・河内・和泉・摂津。]

 爰に、南都より引こみける道心あり。願西といひしが、此新田にちいさき[やぶちゃん注:ママ。]庵をもとめ、二、三年ありけるが、彼本尊の驗(しるし)ある事を、うらやみ、そねみて、

『何とぞ、此本尊を我ものにし、世わたる業(わざ)のたねにも。』

と、おもへど、人の信(しん)まさるにつきて、參詣の人めしげく、与十郞は無欲のものにて、人の施物(せもつ)をむさぼる心なけれども、外より何かにつきて心をつけ、それとはいはねど、時おりふしの餘勢も、すくなからず、宥冨(ゆうふく)にくらして、殊に老の身のたのしみ、六十の暮より、隱居をかまへ、ひとへに本尊の守(もり)になりたる樣にて祕藏しければ、心やすく盗むべき手だてもなく、さまざまと心をくだき、やうやうに思ひ付て、都へのぼりけるについで、佛師のみせにありける立像二尺ばかりの古きほとけを買とり、ひそかに是を打わり、与十郞方より緣をもつて貰ひをきたる[やぶちゃん注:ママ。]佛舍利を、胎内にをさめ、惣身(そうみ)に、ちいさき穴をほりあけ、もとのごとく打あはせて、佛前にそなへ、香華をたてまつりて、二月ばかりありしに、彼(かの)造りこめたりし舍利、おほく分(ぶん)つきて、

「ほろほろ。」

と、彼あなより、こぼれ出たりければ、

『扨こそ。日ころの念願はかなひつれ。』

と、おもひ、急ぎ、佛檀をことごと敷(しく)かざり、庵(あん)など、きらひやかに普請(ふしん)しつゝ、さて、其あたりちかき村中へ、ふれをなし、

「我、このほど、都黑谷(くろだに)に法事ありて參りける歸るさ、筑紫(つくし)の善導寺の出家とて、旅の道すがら、打つれ侍りしに、伏見の宿にて頓死したり。同宿せし不肖といひ、僧の役とおもひ、彼(かの)死骸をかきいだきて、㙒道に送り、土葬せんと、暮過てあゆみ出たるに、二、三町も過ぬとおもふ比、殊外、背中輕くなりしやうにおぼへしまゝ、打おろして見るに、棺桶の中には、死骸はなくて、此本尊、おはしましたり。しかも舍利の分などつきて、おそろしくも尊き佛にてまします。いざ、參り給へ。おがませ申さん。」

と、ふれありきけるほどに、

「我も我も。」

と、足を空にしておしあひつゝ、群集(ぐんじゆ)せり。

 誠に、願西がいひしに違(たがは)ず、舍利の分など、所々にふき出て、

「殊勝さ、いふばかりもなし。」

と、めんめんに、珠數(じゆず)さしのばして、佛の御手にうけていたゞき、又は、善の綱にすがりてのびあかりつゝ、後より、佛の御面相をおがまんとして、

「ひた。」

と、おしあひけるほどに、何とかしたりけん、善の綱に、人、おほく取つき、あなたへゆすり、こなたへゆするひゞきに、本尊を引たをし[やぶちゃん注:ママ。]、御手なども打折[やぶちゃん注:「うちをり」。]けるほどに、胎内にこめ置つる佛舍利百粒ばかり、惣身の内にあけをき[やぶちゃん注:ママ。]たりける穴より、一度に、

「ざつ。」

と、こぼれ出たりしを、

「有がたや、舍利の分ありしは。」

といふほどこそあれ、いやがうへに、

「我、一。」

と、おりかさなり、手の上に手を出し、奪ひとり、せりあひて、一粒も殘さず、人の物になりぬ。

 願西は、たくみし事、相違(さうい)し、あまつさへ、舍利は殘なくひらはれける腹立に、本尊を、臺座より、引おろし、もとの繼目(つぎめ)を引はなしける時、右の手の内に、

『ちいさき契(そげ)、ひとつ、しかと立けるよ。』

と、おぼへしが、終に大なる種物(しゆもつ)[やぶちゃん注:ママ。「腫物」。]となり、三、四十日がほど、煩ひて、腐り死したりけるとぞ。

[やぶちゃん注:因みにこの増殖する(信心がなければ、消滅する)仏舎利というのは、何らかのカビか粘菌の類の胞子体ではないかと想像したりした。

「黑谷」京都市左京区黒谷町

「筑紫の善導寺」福岡県久留米市善導寺町飯田にある浄土宗井上山(せいじょうざん)善導寺。建久二(一一九一)年開創。開山は法然上人の直弟子聖光(浄土宗第二祖)。

「同宿せし不肖」亡くなった同宿の名刹の僧侶に対し、自身をとるに足らない愚僧と謙遜したもの。

「二、三町」二百十八~三百二十七メートル。

「足を空に」足が地に着かないほどに慌てて急ぐさま。

「善の綱」実際の仏像の手にかけておき、信者に引かせて仏の功徳に導かれるさまを比喩する綱。

「契(そげ)」「契」には「刻む」の意があり、それに「そげ」(削げ・殺げ:動詞「そげる」の連用形の名詞化。竹や木の薄くそげたもの。ささくれ。とげ)を当て訓したもの。挿絵では派手に右掌から血が噴き出している。]

大和本草卷之十三 魚之下 エツ

 

エツ 筑後柳川寺江ノ海ニアリ海ヨリ河ニノボ

 ル海河ノ間ニアリタチ魚ニ似テ身セハク薄シ長六七

 寸以上一二尺ニイタル色如銀或色淡黑目口相

 近シ鱗小也水上ニ浮ヒヲヨク肉中細骨多乄毛

[やぶちゃん注:「ヲヨク」はママ。]

 ノ如シ骨柔ナリ鱠サシミカマホコ炙トシテ食ス味カロ

 ク乄脆美ナリ多ク食フヘシ夏多シアミニカヽレハウコカ

 ズ死シヤスシ早ククサル今其形狀ヲ詳ニキクニ鰣魚ニ

 ヨク合ヘリ本草綱目考フヘシ彙苑曰鰣魚盛於四

 月鱗白如銀其味甘𦚤多骨而速腐○鰣魚ヲハス

 ト訓シヱソト訓ス皆不可ナリエツノ魚ナルヘシ

○やぶちゃんの書き下し文

エツ 筑後柳川・寺江の海にあり。海より河にのぼる。海・河の間にあり。「たち魚」に似て、身、せばく、薄し。長さ、六、七寸以上、一、二尺にいたる。色、銀のごとく、或いは、色、淡黑。目・口、相ひ近し。鱗、小なり。水上に浮び、をよぐ。肉〔の〕中に細き骨、多くして、毛のごとし。骨、柔かなり。鱠〔(なます)〕・さしみ・かまぼこ・炙(あぶりもの)として食す。味、かろくして、脆く美なり。多く食ふべし。夏、多し。あみにかゝれば、うごかず、死しやすし。早く、くさる。今、其の形狀を詳かにきくに、「鰣魚〔(じぎよ)〕」によく合へり。「本草綱目」、考ふべし。「彙苑」に曰はく、『鰣魚、四月に盛〔りなり〕。鱗、白く、銀のごとし。其の味、甘〔にして〕𦚤〔(こ)え〕、骨、多くして速く腐る』〔と〕。

○鰣魚を、「はす」と訓じ、「ゑそ」と訓ず、皆、不可なり。「えつの魚」なるべし。

[やぶちゃん注:条鰭綱ニシン上目ニシン目ニシン亜目カタクチイワシ科エツ亜科エツ属エツ Coilia nasus。漢字表記は「斉魚」「鱭(魚)」。ウィキの「エツ」によれば、『東アジアの汽水域に生息する魚で、食用になる』。『成魚は全長30cm-40cmほど』で、『体は植物の葉のように前後に細長く、左右から押しつぶされたように平たい。体側は銀白色の円鱗におおわれ、全体的にはナイフの刃のような外見である。目は頭の前方にあり、口は目の後ろまで大きく裂ける。胸びれ上方の軟条が糸状に細長く伸びる。尻びれは前後に細長く、体の後半ほとんどに及ぶ。尾びれは小さな三角形で、ほぼ尻びれと連続している。顔つきや鱗などは同じ科のカタクチイワシに似るが、上記の優雅に長く伸びるひれの形状もあって、外見はかなり印象が異なって見える』。『渤海、黄海、東シナ海の沿岸域に分布する』が、本邦での棲息域は、筑後川河口域を中心とした有明海の湾奥部及び大河である筑後川にほぼ限られている有明海特産魚である。『中国と朝鮮半島の個体群は亜種 C. n. ectenes Yuan et Quin, 1985、日本の個体群は基亜種 C. n. nasus とされており、ムツゴロウやワラスボなどと同じ大陸系遺存種と考えられている』。『普段は汽水域とその周辺の海に生息し、清んだ透明度の高い水域よりも、大河から流入したシルトや粘土が激しい潮汐によって懸濁して濁って見える水域を好む。プランクトン食性で、おもに動物プランクトンを鰓でろ過して捕食する』。『産卵期は初夏で、産卵を控えた成魚は川をさかのぼり、夕方に直径1mmほどの浮性卵を産卵する。中国の長江では河口から1000kmの所で成魚が見つかった例もある。ただし日本でのエツの繁殖地はもともと大陸的な大河に依存していることもあってほぼ筑後川に限られ、他の河川で産卵することは少ない』。『卵は川を流れ下りながら1日以内に孵化するが、塩分が濃い所まで流されると』、『死んでしまう。稚魚は秋まで塩分の薄い汽水域にとどまって成長し、冬には海水域の深場に移る。寿命は2年から4年ほどで、産卵した親魚はほとんど死んでしまう』。『エツの日本での分布は狭く、絶滅危惧II類(VU)(環境省レッドリスト)に指定されているが、筑後川では筑後大堰の建設でエツの繁殖や成長に適した水域が半減した上、食材として重宝されるために乱獲もされている。エツの漁獲量は1980年代から減少していて、沿岸漁協による放流なども行われているが、改善はあまり進んでいない』。『中国では同属の魚を「鳳尾魚(フォンウェイユー fèngwěiyú)」と総称し、華東、華南の沿岸地域では食品として利用することが一般的である。また、漢方医学の材料として使われる場合もある。上海市や江蘇省では長江周辺で捕れる主にC. mystusが出回っているが、子持ちのものが珍重されるので、産卵期が旬である。浙江省温州市では甌江で取れるものを利用することが多い。広東省では珠江水系のC. grayiがよく利用されており、唐揚げにして味付けしたものが特産の缶詰となって売られている。蒸し魚、唐揚げが一般的であるが、スープなどにも利用される』。『日本では筑後川流域で多く漁獲され、代表的な郷土料理の食材ともなっているが、他地域ではあまり利用されない』。『筑後川では毎年5月中旬から7月中旬にかけて福岡県久留米市城島町付近までエツが遡上し、周辺市町ではこれを狙ったエツ漁が5月1日から7月20日まで解禁される。また、福岡県大川市では漁期に合わせて「えつ供養祭」が行われる。なお、この時期にあわせ』、『国土交通省九州地方整備局は』『漁業協同組合の要請を受ける形で』、『エツの遡上を助ける』ため、『管理する松原ダム・下筌ダムから河川維持放流を行っている』。『流し刺し網や地引き網などで漁獲される。刺身やエツずし、天ぷら、唐揚げ、膾、塩焼き、煮つけなど様々な料理で食べられる』。『小骨が多いので』、『ハモと同様に骨切りを施す必要があり』、『また』、『傷みも早いので手早い調理をしなければならない。そのため、産地では筑後川に浮かべた漁船の上で、観光客などに獲りたてのエツをすぐに調理して供することも行われる』。『「むかし、一人の僧侶が筑後川を渡る際、渡し舟の船頭に払うお金がなかったので、近くに生えていたヨシの葉を取り、それを川に浮かべたところ、たちまち魚(エツ)に変わった。この僧侶はのちの弘法大師(空海)であった。」という伝承が、福岡県、佐賀県の筑後川下流域に伝わる』とある。ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」のエツのページも必見。残念ながら、私はエツの生体を実検したことがなく、食したこともないので、グーグル画像検索「Coilia nasusをリンクさせておくが、遊泳している成魚画像はごく少ないので、よく見られたい。

「筑後柳川」福岡県柳川市(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「寺江」後の本「大和本草」批判を目的の一つとした小野蘭山の「重訂本草綱目啓蒙」(弘化四(一八四七)年の「巻之四十」の「鱭魚」に(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)『鱭魚  ヱツ ウバエツ【筑後小者】』と始まる中に(記号を付加した)、

   *

「エツ」ハ、筑後柳川、及、肥前寺江【今ハ寺井ト云。】ニアリ。海ヨリ河ニノボルモノ。故ニ河海ノ間ニテ取ル。香魚(アユ)ノゴトク一年ニシテ死ス。長サ六七寸、大ナルモノハ一二尺ニイタル。長サ一尺許ナルノモハ濶サ一寸許ニシテ扁ク、背ノ方ハ微シ[やぶちゃん注:「すこし」か。]アツクシテ腹ノ方ハ漸ク薄ク刀刃ノゴトシ腹ノ鱗ハ三角ニシテ尖リテ鰶魚(コノシロ)ノゴトシ。尾ハ狹ク尖レリ。首ヨリ順ニ漸ク狹細ニシテ小刀ノ形ノゴトクシテ銀色ナリ肉ニハ細刺多シ。鱠軒(なますさしみ)[やぶちゃん注:一口大に切った刺身を「軒(けん)」と呼ぶ。]トナシテ食フ。目・口、甚近ク、上脣ノ堅骨、兩吻へ剰り[やぶちゃん注:「かかり」か。]出、左右ノ鰭、ミナ、細ク分レテ、麥芒ノゴトシ。ソノ形狀、他魚ニ異ナリ。鱭魚ヲ、「タチウヲ」ト訓ズルハ非ナリ。「タチウヲ」ハ、形、長クシテ海鰻(ハモ)・鱺[やぶちゃん注:「うなぎ」。]ニ似タリ。閩書ノ「帶魚」ナリ。

   *

とあることから、柳川の北西方の少し内陸の佐賀県佐賀市諸富町大字寺井津のことと考えられる。筑後川が最後に早津江川に分流する地点の現在の右岸に当たる。

「たち魚」スズキ目サバ亜目タチウオ科タチウオ属タチウオ Trichiurus lepturus

「鰣魚〔(じぎよ)〕」条鰭綱ニシン目ニシン亜目ニシン科シャッド亜科テヌアロサ属 Tenualosa ジギョ(仮称)Tenualosa reevesii。中国周辺の回遊性固有種の一種。中国音音写「シーユー」。ウィキの「ジギョ」によれば、『通常』、『海水の上層で回遊している魚であるが、4月から6月になると、長江、銭塘江、閩江、珠江など、中国の川の下流域に産卵のために遡上し、かつ脂が乗っているため、季節的に現れる魚との意味から「時魚」と称し、古来珍重されてきたが、標準和名は付けられていない。明治時代の『漢和大字典』』『には「鰣」に「ひらこのしろ」の注が見られるなど、ヒラコノシロやオナガコノシロと記した字書、辞書、料理書もあるが、根拠は不明。ヒラはニシン目ヒラ科ヒラ亜科』Pelloninae『に分類され、コノシロは』ニシン科コノシロ亜科Dorosomatinae『で近縁種とはいえず、魚類学、水産学の書籍で使っている例は見いだせない。なお、国字の「鰣」は「ハス」と読むが、これは全く異なるコイ科』(条鰭綱コイ目コイ科 Cyprinidae。ハスはクセノキプリス亜科 Oxygastrinae ハス属ハス Opsariichthys uncirostris)『の魚である。広東省では「三黎」、「三鯠」(広東語 サームライ)と称する。古名に「魱」(ゴ、hú)、「鯦」(キュウ、jiù)、「當魱(当互)」、「魱鮥魚(河洛魚)」がある』。『reevesii(レーベシー)という種名』は、『東インド会社の茶の鑑定人で、1812年に広東を訪れ、この魚の記録を残したJohn Reevesの名にちなむ』。『一般的に成魚は、雄が体長40cm前後、体重1.3kg程度、雌が体長50cm前後、体重2kg程度。最大60cm以上になるものもある。体色は銀灰色で、背側が黒っぽく、腹側が白っぽい。体は長いひし形に近く、V字型の長い尾鰭を持つ』。『中国周辺の黄海南部から、台湾、フィリピン西部にかけての海域に生息する。春に淡水域まで遡上した成魚は、5月ごろ産卵した後、海に戻る。一尾で200万粒程度の卵を産む。産卵後1日程度で孵化し、稚魚は淡水域で数ヶ月育ち、秋の9月-10月に海に移動する。3年で成魚となるといわれる』。『長江流域を中心に、かつて、年間数百トン獲れ、1974年には1500トンを超えたともいわれる。当時は湖南省の洞庭湖や、さらに上流でも捕獲できたが、乱獲によって1980年代には年間1トン未満となり、幻の魚と呼ばれるようになった。このため、資源が枯渇するのを防止すべく、中国政府は1988年に国家一級野生保護動物に指定し、現在は捕獲を禁じている』。『

春の、産卵時期より早い4月末から5月ごろが旬で、脂がのっている。川を遡上する途中で、餌はあまり取らないため、上流になるほど脂は落ち、風味も下がるとされる。新鮮なものを、蒸し魚とすることが好まれた。鱗は取らず、湯で表面の臭みを洗ってから、塩などで下味をつけ、ネギなどの薬味を乗せて蒸し、後でたれをかけた「清蒸鰣魚」にする場合と、ブタの網脂で覆い、シイタケ、タケノコ、金華ハムなどを乗せて、鶏がらスープをかけて蒸す場合がある。また、醤油と砂糖を使った煮物や、鍋料理などにも用いられた。鱗を取らないのは、鱗が柔らかくて脂がのっているためとされるが、旧暦の端午の節句を過ぎると硬くなり食べられなくなる』。『20世紀には、特に長江流域の鎮江市から南京市辺りの名物料理とされた』。『後漢の『説文解字』「鯦、當互也」の記載がある。『爾雅』「釈魚」にも「鯦、當魱」の記載がある』。『明以降には皇帝への献上品として用いられた。南京は産地であって新鮮なものが食べられたが、北京に都が移ると輸送が難しくなり、腐敗が始まって臭くなったため、「臭魚」とも呼ばれた』。『清の書籍には具体的な産地や調理法の記録も多くなる。浙江省紹興周辺の言葉を集めた范虎の『越諺』には、「厳瀬、富陽の物が良く、味が倍加する。滋味は鱗と皮の間にある。」と記載されている。『中饋録』には調理法として、「わたは取るが』、『鱗は取らず、布で血を拭き取り、鍋に入れて、花椒、砂仁、醤、水、酒、ネギを加えて和え、蒸す。」と具体的に書かれている。陸以湉の『冷廬雑識』には、「杭州で鰣魚が初物として出回る時には、富豪がこぞって買いにやるため、値が高く、貧乏人は食べられない。」との記述がある。また、清の詩人袁枚は『随園食単』の「江鮮単」で、エツ類と同様に甘い酒の麹や醤油と共に蒸したり、油をひいて焼くのが良い、風味が全くなくなるので、間違ってもぶつ切りにして鶏肉と煮たり、内臓や皮を取って調理してはならない、と述べている』とある。但し、益軒は「本草綱目」の「鰣」(「鱭魚」とは別に載る)の貧弱な記載から相同性を誤認しており、グーグル画像検索「Tenualosa reevesiiで見る限り、エツとは似ても似つかない魚である。

『「本草綱目」、考ふべし』「鱗之三」に載る。

   *

鱭魚【音「劑」。「食療」。】

釋名【鮆魚(音「劑」)・鮤魚(音「列」)・鱴刀(音「篾」)・魛魚(音「刀」)・鰽魚(「廣韻」音「道」。亦作「鮂望魚」。時珍曰、魚形、如劑物裂篾之刀、故有諸名。「魏武食制」謂之「望魚」。】

集解【時珍曰、鱭、生江湖中、常以三月始出。狀狹而長薄、如削木片、亦如長薄尖刀形。細鱗白色。吻上有二硬鬚、腮下有長鬛如麥芒。腹下有硬角刺、快利若刀。腹後近尾有短鬛、肉中多細刺。煎炙或作鮓、鱐、食皆美、烹煮不如。「淮南子」云、『鮆魚飲而不食、鱣鮪食而不飮』。又「異物志」云、『鰽魚初夏從海中泝流而上。長尺餘、腹下如刀、肉中細骨如毛。云是鰽鳥所化、故腹内尚有鳥腎二枚。其鳥白色、如鷖、羣飛。至夏、鳥藏魚出、變化無疑。然今鱭魚亦自生子、未必盡鳥化也』。】

氣味【甘溫無毒】詵曰、「發疥、不可多食」。源曰、「助火、動痰。發疾」。

主治 貼痔瘻【時珍】。

附方 新一。瘻有數孔、用耕垈土燒赤、以苦酒浸之、合壁土令熱、以大鮆鮓展轉染土貼之每日一次【「千金方」】。

   *

これは形状や食用部を見るに、確かにエツを記載していると考えてよかろうとは思う。

「彙苑」「異物彙苑」・明の学者で政治家(最終官位は刑部尚書)の王世貞(一五二六年~一五九〇年)の撰になる類書(百科事典)。

「𦚤〔(こ)え〕」「下腹(したばら)が丸々と肥えている・腹が出ている」の意。]

2019/08/18

諸国因果物語 巻之五 目録・舍利の奇特にて命たすかりし人の事

 

諸國因果物語卷之五

 

舍利の奇特(きどく)にて命たすかりし事

願西といふ法師舍利の罰(ばち)を得し事

美僧は後生の障(さはり)となる事

男の一念鬼の面(めん)に移る事

正直の人蝮(うはばみ)の難を遁るゝ事

  

 

諸國因果物語卷之五

     舍利の奇特にて命たすかりし人の事

Syari



 津國瀨川の宿(しゆく)待兼山(まちかねやま)のほとりに、甚之丞といふものあり。そのかみ、荒木津守(あらきつのかみ)が伊丹籠城のおりふし、數度(すど)の高名ありて、感狀なども多く、攝津守、つゝがなく在世なれば、瀨川・本町・櫻塚、そのあたり廿鄕ばかりの押領使なりければ、天晴、よき武士となるべかりしに、伊丹沒落の後、やうやう居屋敷ばかりになりて、牢浪の身たりしが、今にいたりて三代、終に家の名を起さず、然も土民の數に入ながら、農業をしらず、心にもあらぬ隱逸の身なりなどゝ、人も問(とは)ぬむりを語り、身を高(たか)ぶりて、年ごろを過(すぐ)すもの、あり。せめてのとりへには、人に無心がましき事いはず、損かけず、何を所作(しよさ)する体(てい)もなけれども、見事、人なみに木綿衣裳さつぱりと着こなし、年に二度ほどは、近所の衆(しゆ)を呼(よび)て、碁(ご)・將棊(しやうぎ)にあそびなど、いかさま、天道、人を殺さぬためし、かゝる事にこそと、人もいひあへりける。

[やぶちゃん注:「津國瀨川の宿(しゆく)待兼山(まちかねやま)」現在の大阪府箕面市瀬川の千里丘陵西端にある小山(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。標高七十七メートル。西国街道沿いの景勝地で歌枕として知られ、かの「枕草子」の「山は」の〈山尽くし〉の章段にも「まちかね山」として出る。大阪府豊中市待兼山町も山麓に接する。

「甚之丞」後で姓を「山中(やまなか)」と出すが、不詳。

「荒木津守(あらきつのかみ)が伊丹籠城」安土桃山時代の武将で「利休七哲」の一人とされる摂津伊丹(有岡)城主荒木村重(天文四(一五三五)年~天正一四(一五八六)年)の織田信長との籠城戦。初め池田氏、後に三好氏に属し、天正元(一五七三)年には織田信長に仕えた。同二年、伊丹城を乗取り、四方の諸城に一族を配して摂津一円を治めたが、同六年、信長に背いて籠城(天正六(一五七八)年七月から翌天正七年十月十九日)、攻められては妻子を見捨てて居城を逃れ、毛利氏を頼って落ち延び、尾道に隠棲した。後に剃髪して「道薫」と号し、茶人として豊臣秀吉に仕えた、如何にも厭な奴である。

「感狀」戦さで立てた手柄を讃えて主君や上官が与える書付。

「攝津守、つゝがなく在世なれば」時制上は逆転したおかしな謂いである。

「瀨川」上記の豊中市瀬川の北で大阪府箕面市瀬川も接するのでそこも含むと考えるべきであろう。

「本町」大阪府豊中市本町。待兼山の少し南東に当たる。

「櫻塚」同前の南地区に「桜塚」地区が接して広がっている。

「押領使」暴徒鎮圧・盗賊捕縛などに当たった職。]

 其隣鄕(りんがう)、宮(みや)の森の邊(へん)に、重太夫とて、甚之丞とは無二の友なりけるあり。是は庄屋にて、餘程、下人などもめしつかひ、手まへ、冨裕の者なりしかば、隙(ひま)あるにまかせて、常にそのあたり、心やすき方に行かよい[やぶちゃん注:ママ。]、殊に甚之丞も遊び好(ずき)なると、悅びて、たがひに朋友のまじはり、淺からずぞありける。

[やぶちゃん注:「宮(みや)の森」不詳。但し、一つ、待兼山の西直近の大阪府池田市石橋に「宮の前遺跡」(弥生中期から古墳時代)の名を見出せた。]

 ある朝(あした)、用の事ありて、多田の方へ行けるに、大和河(やまとがは)の端(はた)に高札(たかふだ)を立たるあり、讀てみるに、

     當月十二日の夜此河の端にて金子

     三百兩入たる打替壱つ黑塗の箱

     封付壹つ捨申し間覚ある御かたは目

     祿御持參有りし引合候て本主へ相

     わたし申上候以上

         瀨川の客  山中甚之丞

と、しるしたり。

[やぶちゃん注:高札(ここは単なる私的な告知を書いたもの)の内容は高札らしく漢字のみで示した。以下に整序・訓読したものを示す。

   *

當月十二日の夜(よ)、此河の端(はた)にて、金子三百兩入たる打替(うちがへ)壱つ、幷[やぶちゃん注:「ならびに」。]黑塗(くろぬり)の箱〔封付(ふうつき)〕壹つ、捨(ひらひ)申し間、覚ある御かたは、目祿(もくろく)御持參(ごじさん)有り、し引合候て本主(ほんじゆ)へ相(あひ)わたし申上候。以上。

    瀨川の客(きやく) 山中(やまなか)甚之丞

   *

先にこの高札の注をしておくと、「三百兩」は既に示した一両(六千文)を現在の約七万五千円とする換算なら、二千二百五十万円という莫大な額に相当する。「打替(うちがへ)」は「打飼袋(うちがひぶくろ)」の略。これは本来は、文字通り、鷹・猟犬・馬などの食糧を納めて携行する容器を指したが、後に転じて、旅人の携行する食糧の容器を言う。時には貨幣や鼻紙の類も納めた(軍陣の際、歩卒が一食分の食糧を納めたものを点々と結んで肩に掛けた細長い袋のことを特に「数珠打飼(じゅずうちがい)」と呼んだ。以上は小学館「日本国語大辞典」に拠る)。「目祿」とはここでは、紛失物についての、より細かい形状その他の事蹟・特徴を記したもので、当該物と同一であることを証明するためのものである。「し引合」「仕(し)引き合ひ」ととった。その目録の内容ととくと比較対照して吟味することを言っていよう。

「大和河」不詳。現行の大和川水系は大阪府のずっと南部寄りで、上記ロケーションとは重なる部分がない。地図では幾つかの無名の小流れはあるので、それらのどれかととっておく。

「多田」兵庫県川西市の多田地区か。直後で「有馬行」という語が出るのと合わせると、自然な位置であると私は思う。]

 往來の旅人、有馬行の駕籠の者など、是を見て、

「誠に此札は遠く京海道まで立をきたり。上枚にて始て見たり。」

と、いふに付て、

「我は櫻井にて見たり。」

と、いふもあり、あるひは、

「郡山・芥河・高槻(たかつき)の邊にありし。」

[やぶちゃん注:「上枚」大阪府高槻市神内(こうない)の阪急電鉄京都本線の「上牧(かんまき)」駅のある附近か。

「櫻井」大阪府三島郡島本町桜井か。先の上牧の東北部に接する。

「郡山」大阪府茨木市郡山か。後の「高槻」の南西。

「芥河」大阪府高槻市芥川町或いはその西端を流れる「芥川」。JR京都線「高槻駅」はこの住所内である。

「高槻(たかつき)」狭義の現在の大阪府高槻市高槻町JR京都線「高槻駅」南に当たる。]

など、口々にいふを、重大夫、つくづく聞て、感じ、

『誠に。甚之丞ならずば、かゝる高札も立まじ。さりとは、無欲の仕かた、此ごとく、所に札をたつる程の事を、我に何の沙汰せざりけるも。何とおもひて、語らざりけるぞ。』

と思ふ内にも、欲は、きたなき物かな、

『いで、此高札に付て、何とぞ、似つかはしき事を取繕ひ、自然、手にもいらば、德分よ。』

と、おもひけるより、引返して、甚之丞かたへ行、彼(かの)高札の事を問聞て、いふやう、

「我、手まはりの者、此ほど、池田へ屆(とゞく)る酒代を預り、大坂より歸りしが、荷物、何かと大分の擔(にな)ひものありしゆへ、此打かへをくゝり付しに、しやらとけして、落しを知らず、不念のいたり、其もの、夜前(やぜん)も承りしに、難義に及ぶよし。幸の事也。我に渡し給るべし。」

との挨拶、甚之丞、聞とゞけ、

「然らば、それに僞もあるまじ。殊に貴殿と某(それがし)の中なれば、早速も渡すべし。けれども、ケ樣の事には念入たるが互のため也。其人の口づから、箱の中の色品。上書[やぶちゃん注:「うはがき」。]の樣子、金子は封印に何とありけるぞ、目彔[やぶちゃん注:「目錄」に同じい。以下同じ。]を以て、引合せ、渡し申べし。」

との事也。

[やぶちゃん注:「しやらとけて」しゃらっと(「軽くさらっと」。オノマトペイア)ほどけて。]

 重太夫、聞て、

『是は。心もとなき。目彔、何とあるべしや。』

と、おもひしかども、内に歸り、似合しき案文(あんもん)をしたゝめ、持參せしに、二、三日過て、甚之丞方より、

『成程、目彔に相違なし。但、箱の内は封印のまゝなれば、何とあるも存(ぞんぜ)ざれども、今晚、相渡し申べし。』

との使(つかい[やぶちゃん注:ママ。])、うれしく、早速、うけ取に行けるに、

「金子三石兩封のまゝ。」

と、彼(かの)箱とを、渡しぬ。

 重太夫方より當座の礼として、金子百兩持參しけるを、甚之丞、堅く辭退しけれども、やうやうに渡し、酒など吞(のみ)かはし、夜ふくる迄、語り居て、歸りぬ。

 明(あけ)の日は、早天(さうてん)より起(おき)て、先[やぶちゃん注:「まづ」。]、此金子に灯明(とうめう[やぶちゃん注:ママ。])など奉り、重太夫、心に人しれぬ笑(ゑみ)をふくみ、氏神を幾度か拜みて、扨、かの封を切けるに、三百兩ながら、悉(ことごとく)眞鍮(しんちゆう)にて作りし似せ小判、壱文が物にもならず。

「こは、いかに。」

と、大に化轉(けでん)し、其まゝ、此金を引さげ、甚之丞が方へ行き、いろいろと穿鑿しけれど、却(かへつ)て、重太夫、言かけ者のやうになりて、樣子あしければ、

『一代の不覚也。』

と、肝をつぶして、歸りぬ。

[やぶちゃん注:「化轉(けでん)」「怪顚」とも書く。吃驚すること。

「言かけ者」理屈に合わない言いがかりをつける輩。]

 元來、跡かたもない事なけれども、此似金(にせがね)[やぶちゃん注:金子に似せた贋金。]は、甚之丞の工出(たくみいだ)して、渡世の元債(もとで)となしける也。

 かゝる橫道をたくみて、人の金銀を手もぬらさずして取こみしかば、今まで樂々と過しけるに、此事のせんさく有けるより、何とやらん、ひそひそと、村中の取ざた、あしく、人まじはりも疎(うと)くなりしかば、此ほど、住なれたる家も纔(わづか)の金に代(しろ)なし、右の百兩に合て[やぶちゃん注:「あはせて」。]、大坂に下り、元鞚錦(うつぼにしき)丁に、少の由緣(ゆかり)あるを賴み、しばらく、付食(つけめし)に身を隱し、折ふし、北濱の米市(こめいち)に端(はた)を仕(し)て、少々の利分を窺(うかゞひ)けれども、始の程こそ、德分も付つれ、後々(のちのち)は、餘程の蹴込行(けこみゆき)て、次第に下りを請、よろづに心のまゝにとあらぬ矢先、此宿の亭主、ある夜、妻子を道修(だうしう[やぶちゃん注:ママ。])町なる親もとへ遣し、只ひとり、居間に寢もやらず、夜半のころまで、留守を守りて居たり。甚之丞は、其夜、谷(たに)町邊(へん)に用の事ありとて、出たりし跡なり。

[やぶちゃん注:「橫道」「わうだう(おうどう)」。「人としての正しい道に外れていること・邪道」或いは「不正と知りながら行うこと」。

「元鞚錦(うつぼにしき)丁」不詳。前に出た大阪府大阪市西区靱本町辺りか。次の「北濱」は、東北直近で、ごく近い。

「付食(つけめし)」賄い付きの居候か。

「北濱」大阪府大阪市中央区北浜。船場の「北」の「浜」(大阪では河岸(かし)を指す)の意。

「米市(こめいち)に端(はた)を仕(し)て」米の小売りに手をつけ。と言っても、これまでの甚之丞の様子から見ても、誰かを雇ってやらせものであろう。

「蹴込行(けこみゆき)て」舞台の蹴込に落ちるように、がっくりと儲けがなくなり。

「下りを請」「くだりをうけ」。赤字となって、であろう。

「道修町」大阪市中央区道修町(どしょうまち)。江戸時代からの薬種問屋街で、現在も製薬会社が並ぶ。北浜の南直近。

「谷(たに)町」大阪府大阪市中央区町。]

 比は元祿十五年[やぶちゃん注:一七〇二年。]の秋、もはや名月にちかき空、俄にかき曇り、時ならぬ夕立、一通り降(ふり)て、物さはがしくすさまじき折から、庭の沓(くつ)ぬぎの下より、人音して、立出(たちいづ)るもの、あり。

『こは、いかに。盗人にこそあるらめ。』

と思ふより、平生(へいぜい)、物おぢする人なりければ、憶病神(おくびやうがみ)[やぶちゃん注:ママ。]にひかされ、ちつともはたらかず、一念に大悲觀世音の名号をとなへ、

『所詮、此家にある程の宝、たとへ丸剝(まるはぎ)にして行たりとも、命さへあらば。』

と觀念し、他念なく念佛したりける後(うしろ)より、慥に[やぶちゃん注:「たしかに」。]、一(ひと)太刀、きり懸(かけ)つる、と覚けるが、其後、夢中(むちゆう)のやうになりて、前後をしらず。

 盗人は、

「仕(し)すましたり。」

と、急ぎ、とゞめをさすべき心に成て、切つけし刀を引に[やぶちゃん注:「ひくに」。]、何に切つけしにや、有無(うむ)に[やぶちゃん注:どうしても。]、切込し所より、ぬけず。

「こは、いかに。」

と、心せきて、大汗(おほあせ)になりて、

「ゑいや、ゑいや。」[やぶちゃん注:「ゑ」はママ。]

と引ける内、あるじの女房、手代などに送られ、歸りけるが運のつきとて、表の戶をしめざりける儘に、程なく、みなみな、門、一入[やぶちゃん注:「かど、ひとしほ」。]、音(おと)しければ、刀を捨(すて)て迯(にげ)んとせしが、何とかしけん、踏(ふみ)はづして、我着物の裾の破れに足を引かけ、

「どう。」

と、仆(たふ)れけるを、手代ども、見付て、やにはに、とらへて見れば、甚之丞也。

「扨は。きやつが手にかけ、旦那を殺しけるにや。」

と、切こみし刀を引ぬきて見しに、亭主には、露ばかりも疵つかず、持仏堂の戶を切割(きりわり)て、中なる舍利塔(しやりたう)に切先(きりさき)をきりこみて、ありける。

 かたじけなくも、此舍利は、和州法隆寺より申うけて、年比、侘心したりし、生身[やぶちゃん注:「しやうしん」。]の仏舍利にてありしとぞ。

[やぶちゃん注:「侘心」「わびごころ」か。心から静かに祀り拝んできたことを謂うか。

「生身の仏舍利」私も諸寺で見てきたが、高名な寺院のそれ、本物の仏舎利と称するものは、概ね、水晶であった。]

 亭主も此奇特に、性根(しやうね)も付かゝる不思議を得たりし悅に[やぶちゃん注:「よろこびに」。]、甚之丞が命をたすけるに、甚之丞も此瑞現(ずいげん)より、心ざしをあらため、其場にて髻(もとゞり)を切、すぐに道心の身となり、今に玉造(たまつくり)の邊にありとぞ。

[やぶちゃん注:「性根(しやうね)も付かゝる」心底をぶすりと突かれたような、の意でとっておく。

「玉造」大阪府大阪市中央区玉造。個人的には私なら、こんな近くに居てはほしくないね。]

大和本草卷之十三 魚之下 鰤(ブリ)

 

【和品】

鰤 鰤ノ字ハ昔ヨリ国俗ニブリトヨム然モ出處未詳本

 草ニ魚師トイヘルハ別物ナルカ其形狀ヲノセス唐韻

 ヲ引テ曰鰤ハ老魚也ト然ラバ鰤ト魚師ト一物カ又

 本草引山海經曰魚師食之殺人トアリフリハ微毒ア

 レトモ人ヲ殺サレドモ松前蝦夷ノフリハ殺人ト云凡フ

 リハ病人ニ不宜又瘡疥ヲ發シ痰ヲ生ス有宿食及

 癤瘡金瘡人不可食丹後鰤ハ味美ナリ若狹ナト隣

 國ナレドモブリノ味ヲトル丹後フリ油多キ故塩脯トナラス

[やぶちゃん注:「ヲトル」はママ。]

 筑紫ノフリハ塩脯トスヘシ鰤ノ小ナルヲハマチト云江戶

 ニテイナタト云筑紫ニテヤズト云地ニヨリテ名カハレリ皆一

 物也三月ニ多ク捕ルヤズニモ色ノ少シアカキアリ少大

 ナルヲ目白ト云小フリナリブリヨリ小ナル故味ウスク

 毒ナシハマチ丹後若狹攝州等ノ産ハ味ヨシ筑紫ノ

 産ハ味淡ク酸シ目白ハ味ヨシ凡丹後ノサバカレイアヂフ

[やぶちゃん注:「カレイ」はママ。歴史的仮名遣では「カレヒ」。]

 リナト皆脂多味美○一種ヒラマサト云モノアリフリニ似テ

 大ナリフリニ比スレハ味淡ク無毒其小ナルヲサウジト云味

 淡美ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

鰤(ぶり) 「鰤」の字は、昔より、国、俗に「ぶり」とよむ。然も、出處未だ詳らかならず。「本草」に「魚師」といへるは別物なるか。其の形狀を、のせず。「唐韻」を引きて曰はく、『鰤は老魚なり』と。然らば、鰤と魚師と一物か。又、「本草」、「山海經〔(せんがいきやう)〕」を引きて曰はく、『魚師、之れを食へば、人を殺す』とあり。ぶりは微毒あれども、人を殺さず。されども、松前・蝦夷(えぞ)の「ぶり」は人を殺すと云ふ。

凡そ、「ぶり」は病人に宜しからず、又、瘡疥〔(さうかい)〕を發し、痰を生ず。宿食有〔り〕、及び、癤瘡〔(せつさう)〕・金瘡〔(きんさう)〕の人、食ふべからず。

丹後鰤は、味、美なり。若狹など、隣國なれども、「ぶり」の味、をとる。「丹後ぶり」、油多き故、塩脯〔(しほほじし)〕とならず。筑紫の「ぶり」は、塩脯とすべし。

鰤の小なるを「はまち」と云ひ、江戶にて「いなだ」と云ひ、筑紫にて「やず」と云ひ、地によりて、名、かはれり。皆、一物なり。三月に多く捕る。「やず」にも色の少しあかきあり。少し大なるを「目白(めじろ)」と云ひ、小ぶりなり。「ぶり」より小なる故、味、うすく、毒、なし。「はまち」、丹後・若狹・攝州等の産は、味、よし。筑紫の産は、味、淡く酸〔(す)〕し。「目白」は、味、よし。凡そ、丹後の「さば」・「かれい」・「あぢ」・「ぶり」など、皆、脂、多く、味、美なり。

○一種、「ひらまさ」と云ふものあり。「ぶり」に似て、大なり。「ぶり」に比すれば、味、淡く、毒、無し。其の小なるを「さうじ」と云ひ、味、淡美なり。

[やぶちゃん注:条鰭綱スズキ目スズキ亜目アジ科ブリモドキ亜科ブリ属ブリ Seriola quinqueradiataウィキの「ブリ」によれば、『標準和名「ブリ」については、江戸時代の本草学者である貝原益軒が「脂多き魚なり、脂の上を略する」と語っており』(本書の本条ではない)、『「アブラ」が「ブラ」へ、さらに転訛し「ブリ」となったという説がある。漢字「鰤」は「『師走』(』十二『月)に脂が乗って旨くなる魚だから」、または「『師』は大魚であることを表すため」等の説があ』るとする。別に『身が赤くて「ブリブリ」しているからといった説がある』とある(また、他に、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑2 魚類」(平凡社一九八九年刊)の「ブリ」の記載では、「日本山海名産図会」の説として、「年經(ふ)りたる」の「ふり」が濁音化したものであるという説を示しておられ、これは出世魚(後述)としても腑に落ちる語源説と言える)。本条にも出る通り、本種は出世魚として知られ、『日本各地での地方名と併せて』、『様々な呼び方をされ』(百種前後の異名があるとされる)、

・関東

モジャコ(稚魚)→ワカシ(35cm以下)→イナダ(35-60cm)→ワラサ(60-80cm)→ブリ(80cm以上)

・北陸

コゾクラ・コズクラ・ツバイソ(35cm以下)→フクラギ(35-60cm)→ガンド・ガンドブリ(60-80cm)→ブリ(80cm以上)

・関西

モジャコ(稚魚)→ワカナ(兵庫県瀬戸内海側)→ツバス・ヤズ(40cm以下)→ハマチ(40-60cm)→メジロ(60-80cm)→ブリ(80cm以上)

・南四国

モジャコ(稚魚)→ワカナゴ(35cm以下)→ハマチ(30-40cm)→メジロ(40-60cm)→オオイオ(60-70cm)→スズイナ(70-80cm)→ブリ(80cm以上)

を示す(リンク先にはより詳細な表対照のものも載る)。また、『80cm 以上のものは関東・関西とも「ブリ」と呼ぶ。または80cm以下でも8kg以上(関西では6kg以上)のものをブリと呼ぶ場合もある』。さらに『和歌山県は関西圏』であるが、例外的に『関東名で呼ぶことが多い。流通過程では、大きさに関わらず』、『養殖ものをハマチ(?)、天然ものをブリと呼んで区別する場合もある』とある。荒俣氏は上掲書で、「ハマチ」について、「羽持ち」(大きくはないが、胸鰭が有意にスマートで体側後部へ鳥の羽のように伸びるからか)又は「浜育ち」『の意があるという』と述べておられる。ウィキでは養殖物を「ハマチ」と呼ぶとあるのは、現在の流通での区別でしかなく、既に室町時代の「塵添壒囊抄(じんてんあいのうしょう:行誉らによって撰せられた百科辞書)で「魬」を「はまち」と読んで出ており、江戸時代には「ハマチ」は普通に「ブリ」を指す語であったから、注意が必要である。但し、現代日本で初めて養殖に成功したのは、富山県氷見市で、私はその近くの高岡市伏木で中高時代を過ごしたが、確かに通常個体は「ハマチ」の呼称が一般的ではあった(塩巻にするような大型個体は「ブリ」であった)。なお、益軒は福岡であるので、現行の北九州のものを示すと、

ワカナゴ・ヤズ(20cm未満)→ハマチ(40 cm未満)→メジロ(60 cm未満)→ブリ(80 cm未満とそれ以上)

となり、益軒の叙述とも一致している。益軒は毒性の記述をしているが、ブリ本体には有毒成分はない。ただ、脂が強いので、多量に食えば、消化不良を起こす可能性があるから、それを謂っているか。但し、悪名高いアニサキス(線形動物門双腺(双線)綱回虫目回虫上科アニサキス科アニサキス亜科アニサキス属 Anisakis の内、Anisakis simplexAnisakis physeterisPseudoterranova decipiens の三種)がブリに寄生するので、それを毒と称している可能性はある。なお、他にブリには特有の大型(長大)のブリ糸状虫(線形動物門双腺綱カマラヌス目ブリキンニクセンチュウ Philometroides seriolae)が寄生するが、これは人体には無害である(但し、見た目は甚だ気持ち悪くはある)。

『「本草」に「魚師」といへるは別物なるか。其の形狀を、のせず』李時珍の「本草綱目」の巻四十四の「鱗之四」に、

   *

魚師【「綱目」】

集解【時珍曰、『陳藏器、「諸魚注」云、魚師大者、有毒殺人。今無識者』。但、「唐韻」云、『鰤、老魚也』。「山海經」云、『歴㶁之水有師魚、食之殺人』。其卽此與。】

   *

とあるのを指すが、絶対属性の形状を「大」「老」と言っており、益軒は種を同定出来る形状記載がないと言っているのであるが、その内容から見ても、明らかにこの「魚師」は「ブリ」ではない時珍は単に「魚」の「師」(老師)、則ち、老いて大魚となったもの(海産淡水産を問わずである)を総称する語として「魚師」と述べているのである(「本草綱目」は一般単独種のみならず、一般名詞も項目として挙げて記しているので何らおかしくない。益軒はそれらをも種名と読む誤謬を犯しているのである)。大型の魚類の中には(特に海産の中・深海性の種群)、高級脂肪酸(ワックス)を筋肉に持っていたり、肝臓に多量のビタミンAを蓄積する種が見られ、これらを過度に食すると、激しい下痢(前者)や皮膚剥落(後者)の症状を発症するケースがまま見られるので、「有毒」というのは腑に落ちるとは言える。

「唐韻」唐代に孫愐(そんめん)によって編纂された韻書。もとは全五巻。中国語を韻によって配列し、反切によってその発音を示したもので、隋の陸法言の「切韻」を増訂した書の一つ。後、北宋の徐鉉(じょげん)によって、「説文解字」大徐本の反切に用いられたが、現在では完本は残っていない(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「『鰤は老魚なり』と。然らば、鰤と魚師と一物か」どうして短絡的にそうなるかなぁ、益軒先生!

『松前・蝦夷(えぞ)の「ぶり」は人を殺すと云ふ』意味不明。或いはアイヌ語で別の動物を指すのではないかと思い、調べて見たが、見当たらない。

「瘡疥〔(さうかい)〕」ここは広義の発疹性皮膚疾患であろう。寄生虫等によるものではなく、叙述からみて、魚肉アレルギ性のそれと思われる。

「宿食」食べた物が消化せずに胃の中に滞留すること。脂の強いそれなら腑に落ちる。

「癤瘡〔(せつさう)〕」通常は現在の毛包炎、「おでき」を指す。化膿して熱を持っている病態は消化機能も落ちているから、脂の強いものを食するのはよくはない。

「金瘡〔(きんさう)〕」刃物による切り傷。同前。

「丹後鰤は、味、美なり」先の荒俣氏の記載によれば(ピリオド・コンマを句読点に代えた)、『ブリは丹後の産が最上とされた。その理由は、《本朝食鑑》によると、東北の海から西南の海をめぐり、丹後の海上にいたるころに、ちょうど身が肥え、脂も多く、はなはだ甘美な味になるから』で、『また、《日本山海名産図会》によれば、丹後与謝の海』(京都府宮津湾奥部、天橋立の砂州で区切られた潟湖の阿蘇海(あそかい)の古い異名)『の海峡にイネという場所があって(現京都府与謝郡伊根町)』(丹後半島の北東部尖端。ここ(グーグル・マップ・データ))、『椎の木が多く』、『その実が海にはいって魚の餌となるから、美味になる、という』とある。但し、ブリは肉食性で、幼魚時はプランクトン食だが、成長するにつれて魚食性になるから、この話は眉唾っぽい。但し、現行の養殖では、飼料に小魚(こざかな)をペレット化したものをやるが、そこにカボスやカカオポリフェノールを含ませるとあるから、絶対に食わないとは言われないかも知れぬ。

「塩脯〔(しほほじし)〕」塩漬けにした一種の干物。脂が強いと向かないとは思う。

『少し大なるを「目白(めじろ)」』ブリはやや大きくなると、眼球の白目部分が有意に見えるようになるからであろう。

「ひらまさ」平政。ブリ属ヒラマサ Seriola lalandi。ブリと『よく似ているが、ブリは上顎上後端が角張ること、胸鰭は腹鰭より長いか』、『ほぼ同長であること、体はあまり側扁しないこと、黄色の縦帯はやや不明瞭なことで区別できる。また』、『ブリは北西太平洋のみに分布するので、他地域ではヒラマサのみになり』(ヒラマサは全世界の亜熱帯・温帯海域に広く分布(但し、赤道付近の熱帯海域には見られない)し、日本近海では北海道南部以南で普通に見られる)、『混乱は起こりにくい。またヒラマサの旬は夏である。ブリとヒラマサはまれに交配することがあり、ブリマサまたはヒラブリと呼ばれる個体が水揚げされることがある』とウィキの「ブリ」にある。ヒラマサには別に「平鰤」という字が当てられることから、「ブリ」よりも「平」たくて、体側の太い黄色縦帯を木の「柾」目(まさめ)に譬えたのが「ひらまさ」の語源であろうと言われる。なお、ブリとは、口部の端外側上部(主上顎骨後縁上部。口端真上の三角形を成す部分)がヒラマサでは丸く角張らないのに対し、ブリでは切り取ったようにかっちり角張っていることで容易に識別出来る。ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」のヒラマサのページに当該部位の対照写真があるので見られたい。

『其の小なるを「さうじ」と云ひ』同前リンク先に「ヒラソウジ」の異名が載る。「さうじ」「ソウジ」の語源は不詳だが、成長過程で黄帯を持つシマアジ(スズキ目アジ科シマアジ属シマアジ Pseudocaranx dentex)にも「ソウジ」の異名があり、或いは「双」一紋「字」辺りが語源かも知れぬなどと勝手に夢想した。]

2019/08/17

諸国因果物語 巻之四 狸の子を取て報ひし事

  

     狸の子を取て報ひし事

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 加州金沢に弥九郞といふものあり。奇妙の狐(きつね)つり也。

 此おとこ、出て行時は、假初(かりそめ)にも萬の[やぶちゃん注:「よろづの」。]獸(けだもの)、心よく出て遊ふ事、なし。何といふ事なく、一目見つる物をのがさす、悉(ことごとく)つりて、市にはこび、五貫、三貫のあたひを得て、おのが身のたすけとしけるに、ある時、用の事ありて、越前の國福井へ行事ありしに、月津(つきづ)よりとゞろきへ行あひだに、敕使(ちよくし)といふ所有、此邊に「道竹(どうちく[やぶちゃん注:ママ。])」とて、隱れもなき古狸ありて、漸(やゝ)もすれば、人をたぶらかし、化して難義させけるが、折もこそあれ、弥九郞が通りける時、道竹が子ども、二、三疋、此ちよくし川の邊(ほとり)に出て、遊び居けるを、弥九郞、はるかに見付、

「あつぱれ、よき儲(まふけ)や。是を釣(つり)て、道中の酒代に。」

と、おもひ、かたはらなる茨畔(いばらくろ)に這(はひ)かくれ、さまざまと手を盡し、難なく、二疋は釣おほせ、一疋は取逃しぬ。

[やぶちゃん注:「五貫、三貫」本作が刊行された一七〇〇年代で、金一両は銀六十匁で銭四貫文(四千文)で、一両を現在の十三万円と換算する例があったのに従うなら、「五貫」で、一両二匁半で十八万二千円、「三貫」だと七匁半で九万七千五百円となる。

「月津(つきづ)」現在の石川県小松市月津町(つきづまち)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「とゞろき」福井県あわら市轟木

「敕使(ちよくし)」石川県加賀市勅使町(ちょくしまち)。名(旧村名)は花山法皇や一条天皇の勅使の逗留所が在ったことに由来するとされている。

「道竹」不詳。この妖狸の名は伝承や他の怪奇談には出ないようである。

「茨畔(いばらくろ)」川の畔(ほとり)の茨の茂み。]

「口おしき事歟[やぶちゃん注:「か」。「口おしき」はママ。]。我、今まで何ほどか獸をとりけれども、終に仕損(しそん)ぜし事、なし。おのれ、是非に釣(つら)ずして置べきか。」

と、かの二疋を囮(をとり)として、逃うせし狸を待し所へ、五十ばりかと見ゆる禪門、かせ杖にすがりて、此所を通りあはせ、弥九郞が隱れゐたる所へ立より、

「弥九郞、弥九郞。」

と呼(よぶ)。

[やぶちゃん注:「かせ杖」「鹿杖(かせづゑ)」と漢字表記する。先が二股になった杖、或いは、上端をT字形にした杖。撞木(しゅもく)杖。また別に、僧侶などが持つ、頭部に鹿の角をつけた杖。]

 弥九郞、むなさはぎして、

『こは、何ものぞ。』

と、立あがりけるに、禪門のいふやう、

「我、もと人間にあらず。其方も聞およびつらん、此所に年久しく住(すみ)て多(おほく)の人を欺きたぶらかしける、道竹なり。我、今、千年を經たれば、通力、心のまゝにて、よく火に入、水に隱れ、雲となり、霞と化(け)して、自在なる事を得たるがゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、此國に弥九郞といふ狩人(かりふど[やぶちゃん注:ママ。])ありて、手をつくせども、我、また、變化(へんげ)して、終に其方が手にまはらず。今、あらはれて爰(こゝ)に來(きた)る事、大切なる望(のぞみ)あるがゆへ也。我願ひをかなへ給らば、我、そのかはりに其方が身、一代光耀にほこり、歡樂にほこる樣(やう)をおしへ[やぶちゃん注:ママ。]申さん。」

と、いふ。

 弥九郞、聞(き)て[やぶちゃん注:ママ。]、

「何なりとも、いひ給へ。かなへ申さん。」

と、請合[やぶちゃん注:「うけあふ」。]時、道竹、なみだを、

「はらはら。」

と流し、

「誠に生ある者として子を思はざるはなきぞかし。我、此年ごろ、人を惱し、人に敬(うやま)はれ、恐れを請(うけ)し事あれども、人に詞(ことば)をたれ、人に手をさげし事、なし。弥九郞なればこそ、我も詞をかはし、我なればこそ、子のために顯(まのあたり)かたちを顯しけるぞや。最前、其方に釣(つら)れしは、我が子ぞもの中にても、殊に末子(まつし)なり。常に、我、いましめて、猥(みだり)にあそぶ事なかれ、と制すれども、おさなき心にはやりて、今、此難にあひけるを、親の身なれば、見捨ても置かだく侍り。此心を察して、彼が命をたすけ得させ給ひてんや。」

と、淚にむせびける程に、弥九郞、

「しからば、我、二疋の子をたすけ歸すべし。其悅(よろこ)びには、何をもつて、我に一生の歡樂をあたふべきや。品によりて、免さん。」

といふに、道竹、

「されば、一生の歡樂といふは、過去の因緣に隨ひ、宿習(しゅくしう[やぶちゃん注:ママ。])の福報をうけ、音、德本(とくほん)を植(うへ[やぶちゃん注:ママ。])て、今、冨貴(ふうき)の身となり、尊(たつと)きにいたる也。我、數(す)千歲(ざい)を經て、神通無㝵(じんつむげ)[やぶちゃん注:「無碍」に同じい。]なれども、其宿福をおこして、決定して、貧を轉ずる事、あたはず。只、幻化虛妄(げんけこもう[やぶちゃん注:ママ。])の奇特(きどく)をもつて、假(かり)なる樂(たのしみ)を語るに、術を得たり。今、しばらく、大なる福を受(うく)るといへども、人を惑(まどは)し、魂(たましい[やぶちゃん注:ママ。])を奮(ふるひ)て冨貴を貪(むさぼ)るが故に、未來は、かならず、惡趣(あくしゆ)に落(おち)て苦を受(うく)る事、治定(ぢでう)也。しかれども、我、これを知(しる)といへども、畜生の身を得しかば、本心、また、過去の業(ごう[やぶちゃん注:ママ。])にひかれて、漸(やゝ)もすれば、惡にそみやすく、此妙用を樂しみと思ふ也。かゝる類(たぐひ)の幻術、いくばくともなく、我に備へたれば、其方に命を乞(こひ)て、子をたすけ、其変替りに、歡樂をなさしめ、一生の榮花にほこらせ申さんといふも、此通力の内を、只、ひとつ、授(さづけ)申さんがため也。」

と、いふに、弥九郞も未來を恐れざるにはあらねども、先(まづ)、當分の歡樂といふに、心うつりて、

「さらば、其神通の内を、何にても、我に授(さづけ)よ。」

と望しかば、子を思ふ心の闇にひかれて、道竹は弥九郞をともなひ、ほそろ木の山ちかき熊坂(くまさか)の城あとへ、わけのぼり、さまざまの行ひをさせ、いろいろの勤(つとめ)を敎けるが、一つも、人間の世に聞(きゝ)もしらぬ事ども也。

[やぶちゃん注:「惡趣(あくしゆ)」三悪道。悪業の結果、受ける輪廻転生の存生の様態。狭義に「地獄」・「餓鬼」・「畜生」を指す(但し、広義には六道輪廻自体が煩悩に拠る不全の時空間であるから、広義にはそれに「修羅」を加えて「四悪趣」とも、また「人間」「天上」を加えた六道輪廻全体をもそれとなる)。

「ほそろ木の山」福井県坂井郡にあった細呂木村(ほそろぎむら)か。現在のあわら市の北東部で、北陸本線細呂木駅の周辺に当たる。なお、当該駅から東北に四キロメートル弱の位置に石川県加賀市熊坂町がある。

「熊坂(くまさか)の城あと」上記の熊坂町内には複数の山城跡(土塁・郭・堀)が残る。「熊坂花房砦」・「熊坂菅谷砦」・「熊坂黒谷城」・「熊坂口之砦」を見出せる。よく判らないが、南北朝期以後の山城か。]

 さて、

「此つとめ、毎日、朝日にむかひ、身、おはる迄、行ひ給はゞ、万寶(まんぼう)は心のまゝなるべし。」

と、堅く誓言(せいごん)させ、

「今こそ、其方が經法はかなひたれ。あなかしこ。此事、人に語り給ふな。」

とて、立わかれぬ。

 弥九郞は、何を何とわきまへたる所もなく、いぶかしけれど、此山中を立いづるに、行(ゆき)かふ山人・里人など、弥九郞を、ふりかへり、ふりかへり、見て、

「扨も。美しき女郞(ぢようらう[やぶちゃん注:ママ。])かな。およそ、此近國にあれほどの女をみず。」

と、私語(さゝさき)わたりけるにも、

「扨は。此身ながら、女になりけるにや。」

と、心もとなさに、あたりなる溜池にさしうつぶき、水かゞみ見しに、

『さても、化(ばけ)たり。我ながら、是程には、器量よく、髮のかゝり、爪(つま)はづれのよくも、女とは、なりしよな。』

[やぶちゃん注:「爪(つま)はづれ」「爪外(つまはづ)れ」「褄外れ」で裾のさばき方。転じて、身のこなし・所作の意。]

と、見るより、あまた人の見かへり見とむるを、面白く、福井の町を行返りけるに、年ばへなる女、弥九郞が袖をひかへ、

「みづからは、加州大聖寺(だいせうじ[やぶちゃん注:ママ。])より一里ばかり山代の湯もとに隱れなき『増㙒(ますの)』と申者なり。我、湯もとに年久しく住(すみ)て、あまた、湯治の人を宿し、按摩を所作(しよさ)として、客達の機嫌を取、あるひは、女中・お國住(ずみ)のお局(つぼね)・御國腹(おくにばら)の御姬さまなどに取入(とりいり)、御痞(つかへ)を挲(さすり)、腰をもみて、定(さだま)りの外の金銀をまふけ、活計に暮し、今、六十にちかくなるまで、何のふそくもなき身なれども、夫(おつと)は十年跡(あと)に世を去(さり)、親類とては從兄弟(いとこ)むこ一人のみなり。我家は此所作に名ありて持(もち)つたへし宿や、殊に貴人・高位にも立(たち)まじはる事を專(せん)とすれば、尋常なる人にゆづる事も本意なく、年ごろ、湯本の藥師堂に此事を歎き、祈りけるしるしに、此ほど、正(まさ)しき夢想ありて、『福井まで迎(むかへ)に出べし』との告(つげ)、ありありと人相・衣服まで露ばかりも違(たが)はず。其方は、我家(わがいゑ[やぶちゃん注:ママ。])の跡とり也。いざ、此方(こなた)へ。」

とさそはれ、心はづかしく、

『いかゞ、』

と思へども、

『是や、彼道竹がはからひなるべし。』

と、おもふに任せて、いとやすく請(うけ)あひ、此祖母(うば)と、うちつれて山代へ行けるに、聞(きゝ)しは物かは、家居(いゑい[やぶちゃん注:ママ。])、おびたゞしく、下部(しもべ)なども餘(あま)た出入て、にぎはしく、湯治の男女(なんによ)、ひまなき中にも、幕(まく)の湯(ゆ)・留湯(とめゆ)など、いひのゝしり、女中、ひまなく此家に關札(せきふだ)を打(うち)て、いり込(こむ)に、祖母(ばゞ)は弥九郞を引(ひき)つれ、

「我(わが)むすめ也。」

と、披露しけるは、心にいかばかりおかしけれども、齒をくいしめて、聞いたるに、「平河(ひらかは)の御かた」といふ名をさへ付て、地(ぢ)なしの小袖を打かけさせ、御目見へ[やぶちゃん注:ママ。]させける。

[やぶちゃん注:「大聖寺(だいせうじ)」大聖寺藩の城下町。現在の石川県加賀市中心部。「大聖寺」を冠する町が並ぶ。

「山代の湯もと」石川県加賀市山代温泉

「湯本の藥師堂」行基が開いたとされる山中温泉の、真言宗薬王院温泉寺の本尊である薬師瑠璃光如来像が祀られてあったものであろう。本堂は木造平屋建て、入母屋、銅板葺き、平入、桁行4間、正面3間軒唐破風向拝付き、現在は本堂内陣にあるが、三十三年に一度しか開帳されない秘仏である(次の開帳は二〇四八年である)。

「幕(まく)の湯(ゆ)」不詳。当時の湯治場は開放式(露天)が普通であったから、貴人女性などが入浴するために、幔幕を巡らしたところがあったものか。次注も参照されたい。

「留湯(とめゆ)」不詳。複数ある源泉の中でも最後に入るべき湯のことか。或いは山代温泉は硫酸塩泉系と単純温泉系の二種の泉質の源泉が存在するから、その区別なのかも知れない。

「關札」ここは宿札(やどふだ/しゅくさつ)のこと。大名・旗本などが宿泊する本陣や脇本陣の門又は宿の出入り口に、宿泊者の名を書いて掲げた札。

「平河(ひらかは)の御かた」由来不詳。]

 恥かしき燈臺の陰に綿ぼうしとりかけたるひまより、御客と覺しき御かたを見れば、年のほど、廿二、三と見えて氣高く美しき女中也。さすがに、我はいやしかりし身のかゝる貴人の姬君など、いさゝかにも見たる事なく、そのうへ、此きみの器量、また、類(たぐひ)あるべしとも覺えぬうつくしさに、見とれ、

『何とぞして、此御方に取いり、思ひそめつるかたはしをも、いひしらせ奉り、せめては哀(あはれ)ともいはれ參らせばや。』

の心づきて、夜と共に御かたはらを離れず、湯治の御あかり場(ば)[やぶちゃん注:脱衣所のことであろう。]までも入たちけるにつきて、御浴衣(ゆかた)を參らせける序に、御腰(こし)を、

「しか。」

と、いだき參らすれば、

「こは、いかに。」

と仰られしを便(たより)に、平河、なみだを流し、

「誠は、我、をんなにあらず。弥九郞と申[やぶちゃん注:「まうす」。]獵人(かりうど)なり。去(さる)子細ありて、かゝる女のかたちを作り、此宿のあるじとなる事を得たれば、冨貴榮耀は並びなき身となり候へども、知(ち)あるも、愚(おろか)なるも、たゞ、彼[やぶちゃん注:「かの」。]まどひの一つは忘れがたく、君がありさまを見そめまいらせしより、露(つゆ)わするゝ隙なくて。」

などゝ、搔(かき)くどきけるは、おもひもよらぬ事に、姬君も當惑したまへども、はしたなくも引はなさず、

「誠に御心ざし、無下(むげ)にはなし難(がた)く、いとほしと思へど、かゝる男心ありては、湯治(たうじ)のしるしもなきとかや、湯文(ゆぶみ)にもしるされて待れば、心よく待(また)せたまへ、ひとまはりといふも、暫(しばら)くの事ぞかし、又の年の迎ひ湯には、かならず。」

と、いひて慰め給ふに、弥九郞、面(おもて)の色をかへ、

「よしよし、賤(いやしき)身とおもひて此事をなだめ、いたづらに戀死(こひじぬ)とも、又、あはじとおぼしめす心底にこそ。いでいで、我心ざしを無足(むそく)にし給はゞ、見すべき報(むくひ)こそあれ。」

と、御腰(こし)いだきたる手を、つきはなしけると思へば、俄に、五体、くるしみ、御病氣、おもくなり、物いひ給ふ事もなりがたく、口ごもるやう也けるまゝ、是に恐れて、心よく、身をうき物と思ひながら、假(かり)の枕をかはし給ひしより、人しれぬ通ひ路に、關守も心とけて、あさからぬ中となり給ひける。

[やぶちゃん注:個人的には最後のシークエンスは言葉が足りない気がする。「是に恐れて」の部分で、これは、彼(女に化けた弥九郎)が姫君を突き放したところが、姫の病いが急に重くなってしまい、言葉さえまともに発することが出来なくなってしまった結果(文脈上では弥九郎の神通力によってという風に読めるようには出来ていよう)、「その変事を姫君自身が恐れてしまい、」ということである。]

 かゝる事ありとは夢にもしらず、此度、湯治の御禮せし團佐(だんすけ)といひし侍、この平河が器量になづみ、明暮と心をつくし、隙(ひま)を窺(うかがひ)、

「責(せめ)て、一言のなさけにも預らばや。」

と心かけ居たりしに、ある朝、まだほの暗きに、平河の御かた、姬君の御ねやより、しのびやかに出で歸りけるを、兎(と)ある片陰に引すへけるを、はしたなく聲たてゝ、

「爰に男あり。」

と、のゝしるを、團佐は日比、戀わびし思ひの色、よしや、此女ゆへには、たとひ、命を捨(すつる)とも、露(つゆ)うらみぬ氣になりしかば、ひたすらに、いだき留つゝ、何角(なにか)と聞(きゝ)もわきがたく、言つゞけ、ふところに手をさし入けるに、むないたより、毛、おひ、骨ぐみ、あらゝかなりしかば、恐しき心つきて、

「おのれ、癖者め。のがさじ。」

と、いひしより、人々も出あひ、立かゝりて、吟味せしに、弥九郞が化(ばけ)あらはれ、終に死罪におこなはるゝよ……と……おもへば……夢のさめたる如くにて……勅使川原に……たゝずみ、ける。

 是より、思ひとまりて、長く獵師をとまりしとぞ。

 

 

諸國因果物語卷之四

[やぶちゃん注:エンディングの現実覚醒部分には特異的にリーダを用いた。ここまでの話柄の中では、特異的に、徹頭徹尾、面白さを狙ったものである。構造上は神話伝承に於ける、〈破約のモチーフ〉であるものの、標題自体が「狸の子を取て報ひし事」であるのは、予め、エンディグは決定(けつじょう)されていた夢落ち、まんまと弥九郎は老化狸道竹に騙されたのであった。そもそもが、道竹はその語りに於いて、越前・加賀の獣たちから非道の狩人弥九郎を懲らしめてくれるように頼まれていたに違いないということが、見え見えではないか。とすれば、この子狸三匹でさえも、道竹の子らなんどではなくて、彼の使った陰陽道の式神(しきがみ)みたようなものが演じたダミーだったのではなかろうかと私は考えてさえいるのである。

「湯治の御禮せし」よく判らない。湯治にきて、宿の女将に挨拶にきたということか。

 本話を以って「諸国因果物語」巻之四は終わっている。]

諸国因果物語 巻之四 人形を火に燒てむくひし事

 

     人形を火に燒(たき)てむくひし事

Ningyou



 寛文のころまで世にもてはやされける說經太夫に、「日暮」といひし者は、たぐひなき譽(ほまれ)を殘して、今も片田舍のものは、折ふし、ことの物忘れぐさに、「しんとく丸」・「さんせう太夫」などいひて、愚なる祖母(うば)・口鼻(かゝ)を泣せ、頽廢(すたれ)たる音曲(をんぎよく)に頑(かたくな)なる耳を驚かす事にぞありける。

[やぶちゃん注:「寛文」一六六一年~一六七三年。第四代将軍徳川家綱の治世。

「說經太夫」中世に勃興して中世末から近世にかけて盛んに行われた語りもの芸能であった説経節(せっきょうぶし)を演じた芸能者。ウィキの「説経節」によれば、『仏教の唱導(説教)から唱導師が専門化され、声明(』しょうみょう:『梵唄)から派生した和讃や講式などを取り入れて、平曲の影響を受けて成立した民衆芸能である』。『近世にあっては、三味線の伴奏を得て洗練される一方、操り人形と提携して小屋掛けで演じられ、一時期、都市に生活する庶民の人気を博し』、京阪では万治(一六五八年~一六六〇年)から寛文(一六六一年~一六七二年)にかけて、江戸では遅れて元禄五(一六九二)年頃まで『がその最盛期であった』。『説経が唱門師(声聞師)らの手に渡って、ささらや鉦・鞨鼓(かっこ)を伴奏して門に立つようになったものを「門説経」(かどせっきょう)、修験者(山伏)の祭文と結びついたものを「説経祭文」(せっきょうさいもん)と呼んでおり』、『哀調をおびた歌いもの風のものを「歌説経」、ささらを伴奏楽器として用いるものを「簓説経」(ささらせっきょう)、操り人形と提携したものを「説経操り(せっきょうあやつり)」などとも称する』。『また、近世』(安土桃山時代)『以降に成立した、本来は別系統の芸能であった浄瑠璃の影響を受けた説経を「説経浄瑠璃」(せっきょうじょうるり)と称することがある』。『徹底した民衆性を特徴とし、「俊徳丸(信徳丸))」「小栗判官」「山椒大夫」などの演目が特に有名で、代表的な』五『曲をまとめて「五説経」と称する場合がある』とある。

「日暮」同前より引用。『説経の者は、中世にあっては「ささら乞食」とも呼ばれた』。『ささらとは、楽器というより』、『本来は洗浄用具であって、茶筅を長くしたような形状をしており、竹の先を細かく割ってつくり、左手で「ささら子」または「ささらの子」というギザギザの刻みをつけた細い棒でこすると「さっささらさら」と音のするものであるが、説経者はこれを伴奏にしたのである』。『北野天満宮、伊勢神宮、三十三間堂』『といった大寺社は、中世から近世初頭の日本にあっては「アジール」の機能を果たして』お『り、非日常的な空間としてさまざまな芸能活動がさかんにおこなわれる空間』であった。説教太夫もそうした中から生じ、発展していったものであった。『近世に入り、説経節は小屋掛けで操り人形とともに行われるようになり、都市大衆の人気を博した。戸外で行われる「歌説経」「門説経」から「説経座」という常設の小屋で営まれるようになった。浄瑠璃の影響を受け、伴奏楽器として三味線を用いるようになったのも、おそらくは劇場進出がきっかけで、国文学者の室木弥太郎は寛永』八(一六三一)年『より少し前を想定している』。また、「さんせう太夫」などの説経節の正本(しょうほん)に『のこる演目は、一話を語るにも』、『相当の時間を要し、かなり高度な力量を必要とした』『とりわけ後述する与七郎や七太夫などといった演者は第一級の芸能者であり、もはや、ただの乞食ではない』。『説経者の流派は、玉川派と日暮派が二分し、関東地方では玉川派、京阪では日暮派が太夫となったが、ともに近江の蝉丸神社』『の配下となり、その口宣を受けた』。『京都では、日暮林清らによって鉦鼓を伴奏とする歌念仏が行われていたが、この一派から』「日暮八太夫」や「日暮小太夫」を名跡とする説教者が登場し、『寛永以前から四条河原で説経操りを興行したと伝えられている』。『正本の刊行などから推定して』、『寛文年間が京都における説経操りの最盛期であったと考えられ、葉室頼業の日記(『葉室頼業記』)によれば、小太夫による』寛文四(一六六四)年の『説経操りは後水尾法皇の叡覧に浴すまでに至っている』。因みに、「日暮小太夫」の名跡自体はずっと後の宝暦(一七五一年~一七六四年)の頃まで続いたと『推定されている』。『説経操りは、大坂・京都を中心とする上方においては』、『義太夫節による人形浄瑠璃の圧倒的人気に押され』、江戸にくらべて早い時期に衰退してしまった。『浄瑠璃が近松門左衛門の脚本作品をはじめ、新機軸の作品を次々に発表して新しい時代の要請に応えたのに対し、説経操りは題材・曲節とも、あくまでもその古い形式にこだわった』結果であった。『上方についで名古屋でも説経操り芝居が演じられた。『尾張戯場事始』によれば』、寛文五(一六六五)年、『京都の日暮小太夫が名古屋尾頭町で説経操りを興行して』おり、『そのときの演目は「コスイ天王(五翠殿)、山桝太夫、愛護若、カルカヤ(苅萱)、小栗判官、俊徳丸、松浦長者、いけにえ(生贄)、小ざらし物語」と記載されており、曲目がこのように明瞭に残された記録は珍しい』とある。

「ことの物忘れぐさ」京阪の都市部では既に、後に出る通り、「頽廢(すたれ)たる音曲(をんぎよく)」となっていたから、日常中では、何となくもう忘れられてしまったような古い話及びその題名として。

「しんとく丸」「信德丸」。伝承上の人物を主人公とした「俊徳丸(しゅんとくまる)伝説」(高安長者伝説)を元にした語り物。ウィキの「俊徳丸」によれば、『河内国高安の長者の息子で、継母の呪いによって失明し落魄するが、恋仲にあった娘・乙姫の助けで四天王寺の観音に祈願することによって病が癒える、というのが伝説の筋で、この題材をもとに謡曲の』「弱法師(よろぼし)」、本説教節の「しんとく丸」、人形浄瑠璃や歌舞伎の「攝州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)」などが『おなじ説教節』の「愛護若(あいごのわか)」『との共通点も多い』とある。詳しく各種のシノプシスはリンク先を読まれたい。

「さんせう太夫」「安寿と厨子王」伝承や森鷗外の小説「山椒大夫」で知られる。ご存じとは思うが、ウィキの「安寿と厨子王丸」をリンクさせておく。

「口鼻(かゝ)」「嚊」(但し、「鼻息が荒いの意」であって、「母」の意はない)の字を分解したもの。「嬶」(「鼻息の荒い女」の意からできた国字)。「日本語俗語辞書」の「かかあ」の記載によれば、『妻や母に対する親しみを込めた呼び方』で、「はは」や「かか(さま)・かかあ・(おつ)かあ」は、古代には「蛇」の意味で使われていた「かか」が時代とともに転訛していき、庶民間で「母」や「妻」(自他ともに)という意味で使われた。古代に於いては「k」音と「h」音の発音が曖昧であったため、「かか」と「はは」の二種が定着したもとされている、とある。]

 されば、元祿十一年[やぶちゃん注:一六九八年。]の比迄、日暮小太夫という者ありて、美濃・尾張・因幡・筑紫など、いたらぬ所もなく、秋入の時節[やぶちゃん注:陰暦七月。]を窺、雨ごひの悅びを手つだいて、行脚のごとく、國々にめぐりて、說經をかたり、辻打(つじうち)の芝居に傀儡(でく)を舞(まは)して渡世(とせい)としけるが、それも、世くだり、人さかしく成て、如何なる國のはて、鄙(ひな)の長路(ながぢ)の口すさびにも、「あいごの若」などいふ、古びたる事をいはず、只、わつさりと、「時行歌(はやりうた)」・「角太夫ぶし」こそよけれ、と行(ゆく)も歸るも、耳をとらへ、顏をかたぶけて、「七(なゝ)小町」・「杉山兵衞」などゝいふものをしぼりあげ、又は、上がたへのぼりて纔(わづか)に「讀賣(よみうり)」・「歌びくに」などの口まねを、はしばし覺えて、日待の家、祝言(しうげん)の酒に長じて、

「今は、都にても、かゝる歌をこそ諷(うた)へ。」

と、我しりがほに頭をふり、聲をはりてどよめくに、一座の人は、何をいかにと、聞(きゝ)わけたる方もなけれど、

「ようよう。」

と、

「ほめや、いや。」

と。わめきて、說經を聞て、なぐさまんといふもなく、是にうつりて、たまさか、年よりし者の噂するもあれど、

「昔の小太夫は、上手にて、聞(きく)に、袂(たもと)をぬらさぬはなかりき。今の世の若き者どもの、たまたまにかたるは、說經ではなくて、居ざりの物貰ひが、節つけて、袖ごひするに、似たり。」

などゝいやかるに付て、渡世、おのづから、うとく、

「市がけの芝居にやとはれて、せめて人形づかひになりとも行ばや。」

と、かせげども、それも、今時の人形づかひは、「おやま五郞右門」が風ぞ、「手づま善左門」が流(りう)などゝ、さまざまの身ぶりを移し、中々に生(いき)たる人の如く、細やかに氣をつくして遣ふのみか、衣紋(ゑもん[やぶちゃん注:ママ。])といひ、髮形(かみがたち)其まゝの、人形と見えぬを手がらに、「我、一[やぶちゃん注:「われ、いち」。]」と、たしなむほどに、それも望[やぶちゃん注:「のぞみ」。]たへて、次第につまり行、身過(みすぎ)のたね、今は何喰(くふ)べき便(たより)もなく、衰(おとろへ)ゆくに任せて、恥をすて、顏を隱して、袖ごひを仕(し)ありき、今迄、たばひ置し、人形の衣裳を剝(はぎ)て「守袋(まもりぶくろ)」・「けぬき入[やぶちゃん注:「毛拔き入れ」。]」の切(きれ)に賣(うり)、あか裸の人形を相割(わり)て、火に燒(たき)、雪の夜嵐(よあらし)の朝(あした)、石竃(いしくど)にまたがりて、尻をあぶり、食(めし)を燒(たき)て打くらひ、今まで此影(かげ)にて何ほどの身をたすかり、妻子をはぐゝみし恩を思はず、手あしをもぎて、楊枝につかひ、きせるをさらへなどしけるが、中にも、「おやま人形」一つは殘して、在々所々へ持まはり、「地藏の道行」など、やうやうに諷(うた)ひ舞(まは)せて、袖ごひのたねとしけれども、かゝる零落のみぎりには、する程の事、心にたがひて、一人の口にだに、たらぬ米の溜りやうなれば、歸りて、そのまゝ、此人形を石に投付(なげつけ)、足にかけて蹴とばし、人形の科(とが)のやうに恨(うらみ)のゝしりける事、およそ半年ばかり也。

[やぶちゃん注:「傀儡(でく)」操り人形。「木偶(でく)の坊」。もとは平安時代の「傀儡(くぐつ)」という木彫りの操り人形のこと。人形が「木偶の坊」(「坊」は「小さな人」の意であろう)と呼ばれるようになった由来は、「でくるぼう」とも言われたことから、「出狂坊(でくるひぼう)」を語源とする説や、「手くぐつ」が訛った「でくる」からなどが有力とされるが、正確な語源は未詳である。

「あいごの若」「愛護の若(わか)」。古い説経節の曲名。また、その主人公。万治四(一六六一)年以前に成立。長谷観音の申し子の「愛護の若」は、継母によ、り盗人の汚名を着せられて自殺するが、後、山王権現として祀られるストーリー。この題材は浄瑠璃や歌舞伎などの一系統として発展した(小学館「大辞泉」に拠る)。

「角太夫ぶし」「角太夫節(かくだいふぶし(かくだゆうぶし))」。古浄瑠璃の一派。寛文(一六六一年~一六七三年)頃に京都で山本角太夫(後に土佐掾(とさのじょう)を名乗る)が創始した。この派から「文弥節(ぶんやぶし)」が生まれた。「土佐節」とも呼ぶ。

「七なゝ小町」小野小町の伝説に取材した七つの謡曲及びそこから派生した芸能の総称。謡曲のそれは「草子洗小町」・「通(かよい)小町・「鸚鵡小町」・「卒都婆(そとば)小町」・「関寺小町」・「清水小町」・「雨乞小町」の七曲で、それに基づく浄瑠璃・歌舞伎・歌謡などが生れた。

「杉山兵衞」もとは「天下一石見掾藤原重信(天満八太夫)」を正本とする説経節。延宝(一六七三年~一六八一年)から元禄(一六八八年~一七〇四年)頃に成立。大津にある石山寺の十一面観音の本地を、蓮花上人の生涯を通して説く物語。ブログ「猿八座 渡部八太夫古説経・古浄瑠璃の世界」の「忘れ去られた物語たち 15 説経石山記(蓮花上人伝記) ①」以下六回に亙って詳細なシノプシスが載る。それによれば、「杉山兵衞」はこの蓮花上人の俗名で、明徳(一三九〇年~一三九三年:足利義満の治世)頃の、もと近江の国高嶋郡(滋賀県高島市)の「杉山兵衛の尉」、紀州の藤白(和歌山県海南市藤白)にいた猛悪無道の荒くれ者で「下河辺弾正左衛門国光(しもこうべだんじょうさえもんくにみつ)」と称した人物とある。ここはそれを発展させた古浄瑠璃「江州杉山兵衛国替付(つけた)り石山開帳之事」の後であろう。

「讀賣(よみうり)」江戸時代、世間の出来事を摺り物とした瓦版を面白く読み聞かせながら、街を売り歩いたもの。唄本なども売り歩き、後には、二人一組みとなって連節(つれぶし)で売って回った。幕末には長編の事件物も売られ、明治の演歌師に引き継がれた(小学館「日本国語大辞典」に拠る)。

「歌びくに」近世の下級宗教芸能者。中世の遊行宗教者である熊野の「絵解(えとき)比丘尼」や「勧進比丘尼」が零落したもので、ビンザサラを伴奏とした小歌などを唄い、盛場に出て、売色を専らとしたが、春になると、無紋の地味な小袖に幅広帯を前に結び、黒木綿を折った帽子を頭に、脇に箱を抱え、柄杓を持った小比丘尼を連れて、勧進に出た。江戸中期には年の過ぎた者が「御寮(おりょう)」と称し、山伏などを夫に持って、江戸浅草などで「比丘尼屋」を出し、売色をして繁盛したが、天明年間(一七八一年~一七八九年ま)以降、次第に廃れた(平凡社「世界大百科事典」)。

「日待」集落の者が集まって信仰的な集会を開き、一夜を眠らないで籠り明かすこと。「まち」は本来は「まつり(祭)」と同語源であるが、後に「待ち」と解したため、日の出を待ち拝む意に転じた。期日として正月の例が多い。但し、転じて単に仲間の飲食する機会をいうところがあり、休日の意とするところもある。

「居ざり」躄(いざり)。

「おやま五郞右門」義太夫節の創始者で初世竹本義太夫(慶安四(一六五一)年~正徳四(一七一四)年)。始め五郎兵衛、次いで清水(きよみず)五郎兵衛,清水理(利)太夫から竹本義太夫となり、やがて受領(ずりょう)して竹本筑後掾と称した。大坂天王寺村の農民であったが,清水理兵衛(井上播磨掾門下で,近くで料亭を営み「今播磨」と呼ばれた)の門に入り、さらに、京都で人気の宇治嘉太夫(宇治加賀掾)のワキを語った。四条河原での独立興行に失敗、中国筋巡業の後、貞享元(一六八四)年、道頓堀に竹本座を建て、旗揚げし、「世継曽我」を手始めに、「藍染川」「以呂波物語」を興行して成功した。翌年の新暦採用に際し、加賀掾は下坂して井原西鶴作「暦」を上演、一方、義太夫は「賢女手習并新暦」で対抗して好評を得た。次いで、加賀掾は西鶴作「凱陣八島(かいじんやしま)」を出し、近松門左衛門作「出世景清」を演じる義太夫を圧しだしたところ、芝居から火を発したため、加賀掾は京都へ帰ってしまう。これ以後、大坂における義太夫の地盤は固まり、元禄一一(一六九八)年には竹本筑後掾藤原博教を受領、また元禄一六(一七〇三)年の世話物第一作「曽根崎心中」が大当りし、積年の借財を一気に返済し得たと伝えられている。宝永二(一七〇五)年からは、竹田出雲が座本となって竹本座の経営に当たり、近松門左衛門を座付作者に迎えて、「丹波与作待夜のこむろぶし」「傾城反魂香」「堀川波鼓(ほりかわなみのつづみ)」「嫗山姥(こもちやまんば)」などの名作を上演していった。音声は大音で、生涯に百三十編余の作品と多数の門弟を残した。なお、二世は大坂の生れで、初世義太夫に師事し、近松晩年の世話物などを初演し、「竹本政太夫」を名乗ったが、享保一九(一七三四)年に二世義太夫を襲名、翌年、竹本上総少掾を受領し、のち竹本播磨少掾を再受領しているが、ここは初世でよかろう。「おやま」は人形浄瑠璃で女役の人形のこと。語源はいろいろ説があるが,承応(一六五二年~一六五五年)頃に活躍した女役の人形遣小山次郎三郎の「小山人形」から出たとするのが有力である。ここは竹本義太夫の「おやま」の「クドキ」を真似たことを言うのであろう。

「手づま善左門」「手づま」は「手妻人形」で浄瑠璃の手遣人形の一つ。引き糸により、顔面の変化や五体の一部の早替わりなどの出来る人形。からくりの併用によって、元禄から享保(一六八八年~一七三六年)頃にかけて流行し、大坂の人形遣山本飛騨掾が特に知られた。「善左門」は不詳。

「地藏の道行」江戸初期の遊里を中心として流行した歌謡の一つ。座敷浄瑠璃と称されるものの一つで、謡物に近く、江戸浄瑠璃の初期の姿が窺がわれる。]

 此心いれなれば、いよいよ、乞食し、いよいよ、短氣になりて、ある日の事なるに、朝(あさ)より暮迄ありきけれども、米一つかみ、麥一つふさへもらはず、いたづらにありきくらして、すでに渴(かつへ)に及びけるまゝ、大きに腹だちて、此人形を踏(ふみ)たり、蹴(け)たり、石を以て、さんざんに打敲(たゝき)、なを[やぶちゃん注:ママ。]、あきたらずや有けん、目より高くさしあげ、力にまかせて投げるいきほひに、道々、拾ひためたりし木切・竹の枝・捨薦(すてこも)などを火にたき、菜のはを水に煮て食せんとおもひて燒(たき)たてし炎の中へ、

「ほう。」

と打こみければ、衣裳も、髮も、たまらず、

「めらめら。」

と、やけける間、

「よしよし。是も、ましに、なまじいに、おのれを賴にしてありくゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、腹立(はらたつ)事もある也。よいきみ。」

と、いひつゝ、猶、あしにてふみこみけるに、此人形の首、さかんに燃る時、

「ぱちぱち。」

と鳴音(なるおと)して、二つに割(われ)て、飛(とぶ)とぞ、見えしが、その片割(かたわれ)の火、小太夫がむないたに、

「ひし。」

と、取つきぬ。

[やぶちゃん注:「ましに、なまじいに」なまじっか、ますます。]

 あつさ、堪がたく苦しければ、あわてゝ、此火をはらひ落さんとするに、あをたれて[やぶちゃん注:ママ。「煽(あふ)られて」か。]、いよいよ、おこり、いよいよ、焦(こげ)いりけるまゝに、せんかたなく、其ほとりにありける小川へはしり行て、

『水をかゝらばや。』[やぶちゃん注:ママ。]

と思ひ、息をきりて、走り行とて、㙒中の井戶へ、まつさかさまに踏(ふみ)はづして、落(おち)たり。

 此きほひに、つみたる石の井戶側(がわ[やぶちゃん注:ママ。])、くずれて、なんなく、小太夫は、生(いき)ながら、埋(うづ)まれて、死たりとぞ。

[やぶちゃん注:人形浄瑠璃好きの私としてはこの結末は快哉。挿絵も強力に本文を外れて幻想的でオリジナルにいい。]

2019/08/16

諸国因果物語 巻之四 死たる子立山より言傳せし事

 

     死(しゝ)たる子立山より言傳(ことづて)せし事

Tateyamanokotodute



 京都六条の寺内(じない)に木綿(もめん)かせを賣ける市左衞門といふ者、むす子一人あり、市之介といひける。親市左衞門は淨土宗にて、殊外の信心者なり。年毎の山上(さんじやう)も、袈裟筋(けさすぢ)を繼(つぎ)て、大峯(おほみね)にわけいり、若王(にやくわう)寺の補任(ぶにん)も數通(すつう)さづかり、本山の先達(せんだち)となり、又は、水無月の大河(おほかわ[やぶちゃん注:ママ。])を勤(つとめ)て、冨士の山上(せんじやう)も、二、三度に及びぬ。其外、諸寺の靈佛開帳の名尊(めいそん)あると、ある事にかゝりて報謝をなし、寄進を心にかけ、人をも勸(すゝめ)、我も隙(ひま)を盡し、隨分の作善(さぜん)をいとなみける。

[やぶちゃん注:「京都六条の寺内(じない)」「寺内町(じないちょう/まち)は、ウィキの「寺内町」によれば、『室町時代に浄土真宗などの仏教寺院、道場(御坊)を中心に形成された自治集落のこと。濠や土塁で囲まれるなど防御的性格を持ち、信者、商工業者などが集住した』。『寺内町は自治特権を主張または獲得し経済的に有利な立場を得た。これらの特権は』、一五三〇年代(享禄三年~天文八年)に『大坂の石山本願寺』(現在の大阪城本丸の場所にあった浄土真宗の本山。現在は廃寺。明応五(一四九六)年に蓮如が建立、天文元(一五三二)年に山科本願寺が焼かれて後、証如がここを本願寺とした。織田信長と対立し、天正八(一五八〇)年に降伏し、退去の際に焼失した)『が管領細川晴元から「諸公事免除(守護代などがかけてくる経済的あるいは人的負担の免除)」「徳政不可」などの権限を得たことが始まりとされる。また、以後』、『これらの特権を「大坂並」とも言うようになった。寺内町がこれらの特権の維持を図って』、『一揆を起こすこともあった』。『商業地である門前町とは異なる』とある。さて、この「寺内」を浄土真宗の西本願寺の寺内町(そこでよいとするならば、個人サイト「古い町並を歩く」の「京都市西本願寺寺内町の町並み」に詳しい。地図もある。それによれば、現在の西本願寺境内外の六条から七条の間の南北に当たる。そう思われる方は以下は無用となるが、私はそれを採らない)ととっても問題はないとは言えるが(浄土真宗とは本来は親鸞が、『師法然の浄土宗の「真」(まこと)の教え』という一般名詞で用いた語で、浄土宗と別個な宗派を指すわけではなかったからである)、あくまで浄土真宗の寺ではなく、浄土宗に拘るとならば、浄土宗で、京都の「六条通」にある現存する知られた寺としては、下京区本塩竈町六条上ル本塩竈町富小路通にある知恩院(京都市東山区)を本山(本文の「本山」はそれでとる)とする負別山(ふべつざん)蓮光寺が挙げられる(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「木綿(もめん)かせ」「かせ」は「桛」「綛」などと漢字表記し、紡(つむ)いだ糸(ここは木綿)を、巻き取るためのH型・X型をした道具のこと。

「年毎の山上(さんじやう)」「大峯(おほみね)」奈良県の南部にある大峰山(おおみねさん)か。古くから、山岳信仰や神仙思想・道教・仏教の修行と習合した修験道のメッカである。

「若王(にやくわう)寺」読みとの一致を採るだけならば、滋賀県大津市大石中にある浄土宗金剛山大日院若王寺(にやくおうじ)であるが、特にこの寺が浄土宗門で特別な位置にあった事実は見出せない(この書き方はそういう寺であるとしか読めない)から、違うか。

「補任(ぶにん)」寺社などが、回峰祈誓を実務担当者に託した補任状のことであろう。

「水無月の大河(おほかわ)」不詳。陰暦六月に行われる浄土宗門の何らかの法会の実務主幹か。因みに、現在の知恩院では、法然が師と仰いた初唐の名僧善導大師の忌日法要(祥月命日は三月十四日であるが、知恩院では何故か)を六月中旬に行ってはいる。但し、これがそれだと私は言っているわけではない。識者の御教授を乞うものである。]

 其子市之介をも、十三の歲より、大河をつとめさせ、山上させ、商(あきなひ)のひまには、ともに佛事を手つだはせけるに、元祿十四の年[やぶちゃん注:一七〇一年。]卯月はじめつかたより、時疫(じえき)[やぶちゃん注:流行病。]を煩ひ、もつての外に重り、十死一生と見えけるほどに、一人子なりしかば、父母の悲しみ、尋常(よのつね)ならず、

「何とぞして、此たびの病氣、ほんぷく。」

とて、まどひ、我々の命に替(かへ)ても取とめたく思はれ、あるとある療治、さまざまの祈禱を盡し、昼夜(ちうや)、まくらもとも離れず、看病しけるに、其となりは、又、日蓮宗の信者にて、何事にも、「法花經」ならで功能(くのう)あるものなしと、深くおもひ込し人也ければ、市之介が病氣を見舞ながら來りて、さまざまと勸(すゝめ)こみつゝ、

「此經をたもち、此宗に入る人は、一さいの惡病・厄難もなやます事、あたはず。たとへば、此心を『陀羅尼品(だらにぼん)』に說(とき)給ひし旨をもつて申さば、「『若不順我呪惱亂說法者頭破作(にやくぶじゆんがじゆなうらんせつほうしやづさ)七分(ぶん)』と、仏も、のたまひけり。此心は、『若(もし)、我(わが)此經、意(い)を讚(ほめ)て眞言(しんごん)を述(のべ)し心に違(たが)ひ、此妙法を說(とかん)ものを惱(なやま)し亂(みだり)て障㝵(しやうげ)[やぶちゃん注:既出。「障碍」に同じい。]せば、頭(かしら)より十羅刹女(らせつによ)の手にかけ、七分(ぶん)に破(やぶり)くだき、父母を殺し、人をあざむくに、二舛(ふたます[やぶちゃん注:ママ。])をつかひ、僧を破却(はきやく)せし是らの罪どもを一つにしたる程の殃(わざはひ)をさづくべし』と也。我[やぶちゃん注:話し相手を指す二人称。市左衛門のこと。]、此すゝめを聞て、市之介を日蓮宗になし給はゞ、早速、病氣も平癒し給ふべし。」

と、かきくどきけるにぞ、親の身の悲しき、子を思ふ闇にまよふ心から、

「さらば、受法させて給(たべ)。」

と、曼荼羅を守りにかけさせ、題目をとなへさせなどして、さまざまに氣を盡しけれども、定業(ぢやうごう[やぶちゃん注:ママ。])にやありけん、十八の正月といふに、眠れるが如くして、終に、あだし㙒のけぶりと立のぼりぬ。

[やぶちゃん注:「陀羅尼品(だらにぼん)」「妙法蓮華経陀羅尼品第二十六」のこと。「島根龍泉寺龍珠会」公式サイト内のこちらによれば、「陀羅尼品」(リンク先では「だらにほん」と清音表記である)は、「法華経」を『弘めるにあたって必ずや遭遇するであろうさまざまな迫害や災難を、二人の菩薩と二人の天王と十人の羅刹(らせつ)が秘密神呪(ひみつじんじゅ)をもって守護するということを表明した』ものであるとし、『陀羅尼というのは、インドの古い言葉のダーラニーを音写したもので、一字一字の意味はない。あえて漢訳すれば』、「『すべてをよく保持して忘れないということ』」の意から、「総持(そうじ)」、『あるいはまた』、『悪法をよくさえぎることから』、「能遮(のうしゃ)」とも『訳される。しかし、もともとこの陀羅尼というのは』、『一種の秘密の言葉』、『いわゆる』、『呪文として考えられ、これをただ口にして唱えるだけで、さまざまな障害を除き、数々の功徳が得られると信じられている』とある。その『大意』は『法華経を受持する者を守護するために、薬王(やくおう)菩薩・勇施(ゆうぜ)菩薩・毘沙門天王(びしゃもんてんのう)・持国天王(じこくてんのう)・十羅刹女(じゅうらせつにょ)及び鬼子母神(きしぼじん)等がそれぞれ咒文(じゅもん)を説かれた。つまり、本品では、迷いと動揺に対し、守護と咒文をもって応えたものと言える』とする。また『陀羅尼には次の四つの力がある』とあって。『病を直す力』・『法を護る力』・『罪を滅す力』・『悟りを得る力』で、『このように、陀羅尼には病気を治す力があり、正法を守護する力があり、人間がつくるさまざまな罪を滅してくれ、そうして最後に悟りを得させてくれる、そういう力があるという』とある。

「若不順我呪惱亂說法者頭破作七分」中文(繁体字)のサイト「千佛山全珠資訊網」の「妙法蓮華經午疑―陀羅尼品第二十六」の最後に(一部表記を改めてある)、

   *

卽於佛前、而說偈言、

若不順我呪  惱亂說法者

頭破作七分  如阿梨樹枝

如殺父母罪  亦如壓油殃

斗秤欺誑人  調達破僧罪

犯此法師者  當獲如是殃

   *

ここに出る文字列と全く同じものを見出だせる。この「陀羅尼品」は、こちらで詳細な現代日本語訳がなされており、そこを拾って(ややダブりが多いので)少し書き変えてみると、

  《引用補足合成開始》

一心に呪を説いて、

「法華経」を受持し、読誦する法師を守護しようとする精神に逆らい、説法者を悩ます者があれば、

その者は罪の報いとして、頭が阿犂樹(ありじゅ)の枝の如く裂けるであろう。阿犂樹の木は、強い風で枝が折れてしまうとき、七分八裂して地に落ちるように、その者の頭が、阿犂樹の枝の如く、裂き割れてしまう。

羅刹女や鬼子母が唱えた呪は、「法華経」の説法者を悩ます者の罪は父母を殺する罪と同じ大罪(たいざい)を犯すことだから、「油を圧(お)す殃(つみ)」と同じだ(昔のインドで自分勝手な非常に悪い譬えとして語られていた用語。当時のインドでは油を絞るとき、原料の植物の上に重し石を置いて造ったが、その原料に虫が湧く。丁度、良い重しの石は虫を圧し潰さないので美味しい油が出来るが、この重し加減が悪いと、虫は圧し潰されて死んで不味(まづ)い油が出来上がることにより、「他の生命を尊重せず、自分だけ良ければいい」という行為を強く戒めた譬えである)。

秤(はかり:目方や量)を誤魔化して人を騙(だま)す罪も、同じような重い罪である。

信仰者の共同体である「僧伽(さんが)」の和合を打ち壊すことは 非常に大きな罪なのである。

「法華経」の説法者を悩乱させる者の罪は、以上のような大罪に等しいのである。

  《引用補足合成終了》

という謂いと考えてよかろう。また、「教えのやさしい解説」『大白法』五百十四号「若悩乱者頭破七分(にゃくのうらんしゃずはしちぶ)」というページに(『大白法(だいびゃくほう)』とは日蓮正宗法華講本部の機関紙である)、「若悩乱者頭破七分 有(う)供養者福過(ふっか)十号」という言葉を解説して、『「若悩乱者頭破七分」とは正法(しょうぼう)誹謗(ひぼう)の罰(ばち)をいい、「有供養者福過十号」とは正法受持の功徳をいいます』。『「若悩乱者頭破七分」は、妙楽大師の『法華文句(もんぐ)記(き)』に説かれた文(もん)で、「若(も)し悩乱する者は頭(こうべ)七分(しちぶ)に破(わ)る」と読みます。これは法華経『陀羅尼品(だらにほん)』に、「若し我(わ)が咒(しゅ)に順ぜずして 説法者を悩乱せば 頭破れて七分に作(な)ること 阿梨樹(ありじゅ)の枝の如くならん」(新編法華経』『)と示される、法華経の行者を悩乱する者の頭を鬼子母神(きしもじん)・十羅刹女(じゅうらせつにょ)が阿梨樹の枝のように破る、との誓いを釈(しゃく)した文です』。『また『種々御振舞御書』に』、『「頭破作七分と申すは或(あるい)は心破作(しんはさ)七分とも申して、頂(いただき)の皮の底にある骨のひゞたぶるなり。死ぬる時はわるゝ事もあり(中略)これは法華経の行者をそ(謗)しりしゆへにあたりし罰(ばち)とはし(知)らずや」(御書』『)とあるように、「頭破七分」は「心破作七分」ともいいます。日蓮大聖人は、三大秘法の大御本尊および大御本尊を信ずる人を誹謗する者は、頭(あたま)が破(わ)れ、心(精神)が錯乱(さくらん)すると御教示(ごきょうじ)されています』。(中略)『『御本尊七箇之(しちかの)相承』に、「本尊書写の事、予(よ)が顕わし奉るが如くなるべし。若し日蓮御判(ごはん)と書かずんば』、『天神・地神もよも用(もち)い給わざらん。上行(じょうぎょう)・無辺行(むへんぎょう)と持国(じこく)と浄行(じょうぎょう)・安立行(あんりゅうぎょう)と毘沙門(びしゃもん)との間には、若悩乱者頭破七分有供養者福過十号と之(こ)れを書く可(べ)し。経中の明文(みょうもん)等心(こころ)に任(まか)す可(べ)きか」(日蓮正宗聖典』『)『と御相伝(ごそうでん)のように、両文(りょうもん)は、御本尊の右肩(みぎかた)と左肩にそれぞれ認(したた)められています』(以下略)とあることで、以上から本文の意味は概ね理解できるものと思う。

「二舛(ふたます)をつかひ」そもそもこの「舛」という漢字は「ます」とは読めないことに注意しなくてはならない。「舛」は「枡」ではない。「舛」は「背く・違(たが)う・悖(もと)る」或いは「入り混じる・交り乱れる」の意である。先の中文サイトの「斗秤欺誑人」の「斗秤」(合成引用の「秤(はかり)を誤魔化して人を騙(だま)す」の部分)を鷺水が勝手に解釈(誤訳)してしまったものと推定される。

 二親の歎き、いふばかりなく、明暮、こひこがれ、なきかなしみ、たもとのかはく間もなけれども、いひかひなき事ともなれば、香花の手(た)むけ、心ゆくばかりして、二七日[やぶちゃん注:「ふたなぬか」。十四日。]も過(すぎ)ぬ。

 かゝる所へ、冨士先達の同行なりける人、久しき望(のぞみ)にて、白山・立山の山上を心がけ、彌生のすゑより、思ひたちて、先(まづ)、加州の白山に詣(まふで)、かへるさに、立山を仕舞、樣子よくば、すぐにこれゟ冨士にも、と心がけ、立山にかゝりけるに、山上の、思ひがけもなき所にて、市之介に逢(あひ)たり。

 見れば、さのみ拵(こしらへ)たる旅すがたにもあらず、かろらかなる風流(ふり)して、此先達を見つけ、なつかしげに近より、

「我、此程は冨士山上(せんじやう)いたし、これより立山を拜みにと、すぐに思ひ立[やぶちゃん注:「たち」。]しにまかせ、爰(こゝ)まで、やうやうと參りし也。なを[やぶちゃん注:ママ。]白山・湯殿山なども心にくければ、つゐでに[やぶちゃん注:ママ。「序でに」。]參詣せばやと思ふに付て、故鄕(ふるさと)へ言傳(ことづて)たき物の侍る。これ、參らせん。」

とて、小き紙につゝみたる物一つと、あわせの袖をすこし、おし切て、渡し、道のほど、日數(かず)をつもりたる旅なれば、急ぎ申也。かまへて、よく淚し給り候へ。」

と、いひて、別れぬ。

[やぶちゃん注:「よく淚し給り候へ」聴きなれない言い方であるが、「どうか、格別に、我らとの別れを惜しんで下されませ」という意であろう。霊の別れの言葉となら、不思議ではない。]

此先達、此おりふし、歸り着て、まづ、彼(かの)市左衞門かたへ立より、

「扨も。是の市之介は、若き人の、奇特(きどく)に信心を發して、しかも一人旅と見えつるが、立山にて、逢たり。よくぞ心ざしをたすけて、祕藏子ともいはず、參らせ給ひし。」

などゝ、褒(ほめ)あげ、さて、件(くだん)の言傳(ことづて)し紙つゝみを渡しけるにぞ、人めをも、恥も、二人の親は、聲をあげて泣さけびつゝ、

「羨(うらやま)しや、是下(そこ)には、市之介に、あひ給ひしよな。我は分れてより、夢にだに見ず。戀し戀しと思ふ餘りには、命を仏に奉りても、來世に逢(あふ)と賴みさへあらば、と願ふ方には、つれなくて、此うき便(たより)を聞(きく)事よ。」

と、泣(なき)かなしみけるにぞ、

「扨は。市之介は死(しに)けるか。亡魂(ぼうこん)の出むかひて、我に詞をかはしけるも、心こそあらめ、先、その物、ひらきて見たまへ。」

と、すゝめられ、紙つゝみを、なくなく、開きて見けるに、市之介の末期(まつご)にいたりて、珠數(じゆず)きらせける時、かけさせつる題目の曼荼羅なりけり。

 扨、立山にておし切(きり)て添つる袷(あはせ)の袖は、死するまで着せたりし袷の袖。

 いかにしてか、袖下の切(きれ)たりしとおもひしも、今、引合せて見るに、

「これも、正(まさ)しく、亡者の態(わざ)よ。」

と、思ひしりぬ。

「さては心にもあらぬ事に、むざとは、宗旨をも替まじき事にこそ。」

と、其後は、ひとへに淨土宗門のとぶらひをなしける。

[やぶちゃん注:題目(南無妙法蓮華経)を書いた曼荼羅(挿絵にあるそれ。そこでは左右に梵字の種子(しゅじ)が見え、左は「カ」(地蔵菩薩或いは五大の「風(ふう)」)に近く、右は「キャ」(十一面観音)に近い。まあ、絵師がいい加減に入れたものではあろう。題目の髯文字も上手くないから、絵師は日蓮宗ではない)真言宗などで言うものとは異なるもので、日蓮が始めた題目曼荼羅のこと。題目の周囲に漢字或いは梵字で記された如来・菩薩・仏弟子天台系名学僧或いはインド・中国・日本の神々の名号などを配した、日蓮宗系の諸派で本尊として使用される。「法華経」の世界を図や名号などで表わした「法華曼荼羅」の一種である)を霊となって諸霊山回峰をする市介が返してよこしたということは、それは霊としての彼には意味のないものであったからにほかならない。それが真に有効で霊験あらたかなものであるなら、霊はそれを持ったままで霊としての回峰を続けるはずであるからである。則ち、市之介は日蓮宗の題目曼荼羅を断固拒否したのである(「袖」は、言わずもがな、本人認証の証しである)。また、市之介は、何故、この現世で霊峰登山をしているのかを考えてみるに、まず、彼はこの世にあって迷っているのではないということである。万一そうだったら、彼は霊峰巡りなどは以ての外で、寧ろ、立山の地獄谷で熱湯に煮られているのが関の山となるからである。ということは、彼は極楽往生した後、衆生を済度するために、現世へ戻って回峰していると読むべきであろう。これは所謂、中国の浄土教に於いて、南北朝時代の僧で中国浄土教の開祖とされる曇鸞が「浄土論註」の巻下で説いた、「回向」の二種、「往相(おうそう)回向」と「還相(げんそう)回向」の後者であると私は読むのである。前者が自他の区別をなくして、誰しも皆ともに浄土に往生するもので、対する「還相回向」とは「還来穢国の相状」の略で、浄土へ往生した者が、再び、この世で衆生を救うために、敢えて還りきたる行為を指し、これらは阿弥陀如来の本願力の回向による絶対他力によるものとするのである。即ち、市之介は浄土宗の最も至高の存在となって戻ってきたのであると私は思うのである。それを知ったからこそ、父市左衛門も、再び、浄土宗に戻ったのである。無論、本篇から見ても、筆者青木鷺水は浄土宗の信者であったものと考えてよいように思われる。

2019/08/15

諸国因果物語 巻之四 幡摩灘舟ゆうれいの事

 

     幡摩灘(はりまなだ)舟(ふな)ゆうれいの事

Hunayuurei



 是も大坂立賣堀(いたちぼり)はいや町(てう[やぶちゃん注:ママ。])の住人にて、湯川朔庵といふ儒醫あり。

[やぶちゃん注:標題「ゆうれい」はママ。

「大坂立賣堀(いたちぼり)はいや町」大阪市西区立売堀(いたちぼり)は現存するが(グーグル・マップ・データ。以下同じ)、「はいや町」(歴史的仮名遣では「ちやう」が正しい)は不詳。「灰屋」であろうかと推測はする。ウィキの「立売堀」によれば、『江戸時代から地域の南部に立売堀川、北西部に薩摩堀川、西端部に百間堀川が流れていたが、昭和中期に埋め立てられた。江戸時代から』、『材木の集散地として栄え』た。「摂津名所図会大成」に『よると、大坂冬の陣・夏の陣で』、『伊達氏が』、『この付近に堀をつくり陣地を構えていたこと、その跡を掘り足して川としたことから』、『はじめは伊達堀(だてぼり)と呼んでいたが、そのうち「いたちぼり」と呼ばれるようになった。後に材木の立売りが許されるようになったので』、『漢字のみ「立売堀」と改められた、とのことである』。『江戸時代の町名は三右衛門町(さんえもんちょう)・中橋町・船坂町・薩摩堀中筋町・薩摩堀東之町・納屋町(なやまち)・百間町(ひゃっけんまち)・吉田町・西国町・立売堀一から四丁目・孫左衛門町・助右衛門町・立売堀中之町・立売堀西之町となっていた』とあって、「はいや町」に類似する町名は、ない。]

 生れ付たる器用とて、およそ灘波(なには)の津におゐては、肩を並ぶべき者もなき学者なりしかば、講談、日をかさねて、門弟も多く、醫の道、また、發明にして難治の症、ことに、かならず、卽効(そくかう)の妙をあらはしける程に、人みな、此德になつきて、東西にもてはやし、門(かど)に、藥取の使(つかひ)たゝぬ時なく、席(せき)に敎義の書生なき日もなくて、普(あまね)く西海・東武の人にちなみけるまゝに、其比、伏見兩替町(ふしみれうがへてう[やぶちゃん注:ママ。])邊(へん)にて、小西の何某とかやいひける人の子息も、朔庵の弟子になりて、醫學を稽古しける樞機をもつて、猶、學業のくはしき事をも窺はんために、彼小西の子息を勸(すゝめ)、我(わが)一跡をも引こして、長崎の津に渡りぬ。朔庵の妻女、又、堺の生れにて、占辻(うらのつじ)邊(へん)に名高き人の娘なり。

[やぶちゃん注:京都市伏見区両替町(まち)

「樞機」ここは「縁故」の意。

「堺」「占辻」大阪府堺市堺区市之町大小路(おしょうじ)辻附近。「ホウコウ株式会社」公式サイト「堺意外史」(中井正弘氏執筆)の中の「Vol.36 晴明辻(大小路付近)の信仰」に、『堺の旧市街を南北に分ける摂津と和泉の国境線に当たる大小路と大道に近い、東六間筋との交差点を古くから晴明辻とか占い辻と呼ばれ、ここで吉凶を占うとよく当たると伝えている』「堺鑑(さかいかがみ)」(天和四年・貞享元(一六八四年)に『よると』、かの陰陽師安倍『晴明が泉州信太村(堺・和泉市)から』、『この辻を通ったときに、占い書を埋めて』、『辻占いを行ったと伝えている。しかし、同じ江戸時代の』「全堺群志」(宝暦七(一七五七)年)では、『「皆、拠無の説なり」と、晴明がこの道を往環したから付会したにすぎない、とすでに一蹴している』。『この辻から真東』一・三キロメートルの『ところに摂津泉三国の接点・三国ヶ丘に方違神社がある。ここでも、方位・日時など諸事に忌みがあるとし、今でも出向・引っ越しなどの安全祈願をする人を見かける。いずれも境界にあたるところに、特別な意味を持たせたものと思われる』とある。]

 彼是よき由緣あるに付て、長崎におゐても、又、發向し、彼方此方(かなたこなた)にもてはやされ、殊に療治は、入船(にうせん[やぶちゃん注:ママ。])の異國人を試(こゝろみ)に申免(ゆる)されて、出嶋(でじま)の出入なども自由しけるにぞ、近比の名醫と唐人も感じ、所の衆にも類(たぐひ)なき事にぞ、いひあひける。

 かゝる折しも、朔庵の父、いまだ大坂にあり、今年元祿七年[やぶちゃん注:一六九四年。]の夏也しに、大病を得て、十死一生なるよし、種々、藥を服し、針・按摩にいたる迄、術(てだて)をかへ、治(ち)をつくせども、驗(げん)なし。

『迚(とて)も死すべき命ならば、恩愛の子にも心よく暇乞(いとまごひ)して、なき跡の事をも語らひ置(おか)ばや。』

と狀のほしに聞へしかば、朔庵も心ならず、奉行所に御いとまを願ひ、大坂へと思ひ立けるに、妻も此たびの序(ついで)、嬉しく、舅の病氣をも尋ね、一つは故鄕(ふるさと)の二親にも逢(あひ)まひらせ[やぶちゃん注:ママ。]たければ、

「道すがらの事也、堺へも立よりて。」

と朔庵に願ひて、是も同じ旅にと、物いそぎして、六月廿日餘りより、舟出し、海路(かいろ)つゝがなく、夜を日につぎて、漕(こぎ)わたりけるに、播州赤穗(あこ[やぶちゃん注:ママ。])の御崎(みさき)へかゝらんとする比、何とか仕たりけん、不圖(ふと)、手あやまちを仕出し、朔庵が乘たる住吉丸といふ舩、片時(へんじ)の[やぶちゃん注:瞬く間であること。]炎(ほのほ)となりて、もえあがる折ふし、塩あひにて、舟さしよすべきも便(たより)なし。

[やぶちゃん注:「播州赤穗(あこ)の御崎(みさき)」兵庫県赤穂市御崎

「塩あひ」「潮合」。潮流。]

 其うへに、助舟(たすけぶね)なども如何したりけん、さのみも出ず、卒尒(そつじ)に[やぶちゃん注:急なこととて。]寄(より)つかるゝ物にもあらず、水をいとふは、舩のならひとて、只、いたづらに手をつかねて、多(おほく)の荷物、乘合(のりあひ)の男女、目の前に燒死(やけじに)、あるひは[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、炎を恐れ、心まどひ、

「せめて、海にいらば、もしや、たすかる。」

と水心さへしらぬ身の、着のまゝも飛いらず、金銀大小、あるひは、妻や子の手に手を取て、千尋(ちいろ)の海に身を投れば、思はず、潮(うしほ)に呼吸(こきう[やぶちゃん注:ママ。])をきられ、身につけし資財にほだしをうたれ、たちまち、八寒八熱のくるしみ、叫喚阿鼻の呵責を目の前にあらはし、數(す)万の荷物、いくばくの命を捨(すて)けん、誠に舩の火事こそ、殊に哀なる事のかぎり也けれど、人毎(ひとごと)に念佛し、廻向(えこう[やぶちゃん注:ママ。])せぬものは、なかりけれ。

[やぶちゃん注:「ほだしをうたれ」「絆しを打たれ」で「行動の自由を妨げるものとして枷(かせ)の如くに束縛されて」の意。]

 されば、此あまた失(うせ)たりし亡者の中にも、朔庵夫婦は、子もなくて、他國に住居(すまゐ)し、親あれども、孝にうとく、名を思ひ、譽(ほまれ)を願ふ貧欲(とにょく)に着(ちやく)して、日夜になす所、みな化(あだ)たる世の事わざ也しに、一人は老病[やぶちゃん注:老いて病んだ父。]の名殘おしまんため、一人は故鄕のなつかしさ、やるかたなさに、おもひたちたる心ざしをも、遂得(とげえ)ずして、此舟にうかび、此難に逢(あひ)て死期(しご)のかなしさ、いかばかりか。

 『流轉のきづなを生(しやう)せざらんや』と、いひしに違(たがは)ず、それより、後(のち)、大坂堺より通ふ舩とだにいへば、夜にいりて、此沖を過る比、かならず、海の表十間[やぶちゃん注:約十八メートル。]四方ほどの間は、底より、俄に、火熖(くはゑん[やぶちゃん注:ママ。「くわえん」が正しい。])おこりて、

「くわつ。」

と、燃あがるよとおもふに、男女の聲して、

「なふ、悲しや。」

といふ木玉(こだま)、物がなしく、乘合の者の耳に入けるとぞ。

 此沙汰、そのころ、もつぱら也しかば、大坂堺の舷乘・中間より、僧を請(しやう)じ、流灌頂(ながれくはんてう)をつとめ、法事、一かたならず、とぶらひしより、此炎、二たびおこらざりしとぞ。

[やぶちゃん注:海上の怪火の舟幽霊譚であるが、わざわざ仔細に語った登場人物らの前振りが、あまり成功していないように思われ、ちょっと残念である。

「流灌頂(ながれくはんでう)」歴史的仮名遣は「ながれくわんぢやう」が正しい(現代名遣「ながれかんぢょう」)。川端や海辺に、四方に竹や板卒塔婆を立てて布を吊り広げ、柄杓を添えて、そばを通る人や船客などに水を注がせる法要の一習俗。主として難産で死んだ女性の供養のために行ったが、地方によっては水死者のためにも行い、供養の仕方にも違いがある。布の色や塔婆の文字が消えるまでは死者は成仏出来ないとされる。「あらいざらし」「流水灌頂」とも呼ぶ。]

2019/08/14

諸国因果物語 巻之四 目録・腰ぬけし妻離別にあひし事

 

諸國因果物語卷之四

腰ぬけし妻を離別せし人の事

播磨灘舩ゆうれいの事

死たる子立山より言傳(ことづて)せし事

人形を火に燒(やき)てむくひを請(うけ)し事

狸の子を取(とり)て死罪にあふ事

 

 

諸國因果物語卷之四

Kosinuke



     腰ぬけし妻離別にあひし事

 大坂長町(ながまち)に、京や七兵衞といふ男、きはめて無得心(むとくしん)の者也。元來は京にて丸太町邊(へん)に居たりしが、女房、とし久しく腰氣(こしけ)を煩ひ、さまざま療治せしかども、露ばかりも驗(げん)なく、此一兩年は腰ぬけとなりて、朝夕の食物(くひもの)はいふに及ばず、大小用をさへ、漫器(まる)にとらるゝ身のはて、悲しけれども、七つと四つになる娘まである中也。

[やぶちゃん注:「大坂長町」現在の大阪市日本橋(中央区・浪速区)の旧町名。「名護町」「名呉町」とも書いた。ウィキの「長町」によれば、『豊臣秀吉が大坂から堺へ通う便宜のため』に『開いた町といわれ』、十七『世紀末までには長町と呼ばれるようになった』。『江戸期から明治初期まで貧民窟として知られ』、『幕末・明治初期に長町から日本橋筋に改称された』とある。この附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「無得心」「むどくしん」とも読む。不人情であること。残忍であること。無情。無慈悲。

「丸太町」京都府京都市中京区丸太町(まるたまち)。「丸太町通」は、現在の京都御所(京都御苑)の南端を走る。嘗つて、この通り沿いの西堀川に沿って材木商が多かったことに由来するといわれている。

「腰氣(こしけ)」現行の「帯下(こしけ)」と同じ。血液以外の女性生殖器からの分泌物が不快感を起こすほどに増量した症状を指す。この女房は女性生殖器に腫瘍や筋腫等と大きな疾患があり、それが悪化して腰が立たなくなったものと推定される。

「漫器(まる)」所謂、「おまる」である、漢字では「御虎子」が知られる。「おまる」は「大小便を排泄する」意の動詞「まる」に基づく便器の古称で、古くは木製の浅い桶で小判形をしていたため、小判を「虎の子」と呼んだところから「虎子」の字が当てられたともいう。「漫」は「みだりに」「締りがない」「一面に広がる」の意があり、音「マン」が「まる」に似ていることから当て字したものであろう。]

 親とては、父ひとり、それも越中の井波といふ所に瑞泉寺といふ一向宗の御堂(みだう)あるを、のぞみて剃髮の後(のち)、承仕(しやうし)の僧となりて彼(かしこ)へ下り給ひぬ。今は、一門とては挨(ほこり)ほどもなき身也。

[やぶちゃん注:「瑞泉寺」戦国時代の越中一向一揆の拠点として知られる、現在の富山県南砺市井波にある真宗大谷派井波別院杉谷山(すぎたにさん)瑞泉寺。明徳元(一三九〇)年、本願寺第五代綽如により建立され、慶長七(一六〇二)年の本願寺の分立では「准如を十二世法主とする本願寺教団」(現在の浄土真宗本願寺派。本山は本願寺(西本願寺))に属したが、慶安二(一六四九)年、「教如を十二代法主とする本願寺教団」(現在の真宗大谷派。本山は真宗本廟(東本願寺))に転派した。

「承仕(しやうし)」読みはママ。「しょうじ」とも読む。歴史的仮名遣では「しようし」或いは「しようじ」となる。堂内の仏具の管理などの用に従事する僧。]

 夫の七兵衞は、近比(ちかごろ)ためしなき情しらぬ者とは兼ても知りたれども、かくなり下りたる因果の程を觀(くはん[やぶちゃん注:ママ。])じて、万に[やぶちゃん注:「よろづに」。]氣をかねて[やぶちゃん注:気兼ねして。遠慮して。]、

「亭主の心に背(そむ)かじ。」

と詞(ことば)をたれ、機嫌をとりて、明(あか)し暮すにも、只、同じくは、

『いかにもして死なば、此世を早く去(さり)つゝ、夫の心をもやすめ、我も思ふ事なくなりてよ。』

と佛にも祈り、心にも願へども、つれなき命は、心にもあらで、長く、夫は尋常なる時さへ、むごくつらかりし者の、今、かゝる腰ぬけとなりては、日比より猶、きびしく、無得心にて、朝夕の食事もおしみ憎みて、思ふまゝには食せず、兎(と)に付、角(かく)につけても、

「業(がう[やぶちゃん注:ママ。])ざらしめよ、賊(すり)めよ。」

[やぶちゃん注:これは罵倒の卑称。前者は、世の業(ごう:歴史的仮名遣は「がふ」が正しい)によってかくも現世に於いて下半身不自由となり、その無様な姿を晒して生きているという『「業晒し」めが!』であり、後者は「賊」に「掏摸(すり)」を当て訓した「盗っ人女郎(めろう)めッツ!」といった、聴くに忌まわしい差別的な罵詈雑言である。]

と、いひのゝしり、又は、

「おのれが親の根性、よからず、一生、欲ばかりさらし、人を取つぶしても、おのれが身の德づかん事をせし報(むくひ)ぞかし。とく、死(しに)うせよかし。夫に漫器(まる)をとらせぬばかりにて、食物(くらいもの[やぶちゃん注:ママ。])まで人にさせ、のけのけとくらふは、よき物ぞ。」

[やぶちゃん注:人物設定が今一つ明瞭でないが、まず、この腰の悪い女房の父こそが、先に語られた、自ら望んで剃髪し、瑞泉寺の承仕僧となっている、宗門の中ではとるに足らぬ存在である、という存生(ぞんしょう)の人物であろう。さすれば、妻(腰の悪い女房の母)はもはやおらず、娘と二人、この丸田町で家を借り、何かの商売をしていたところへ、この七兵衛が婿入りで入ったものと読んでよかろう。さて、その父はこれがまた、現役であった頃は、他人の店を腰砕けに潰してでも儲けるといった、かなりのヤリ手商人(あきんど)であったが(仮定推定)、晩年、そうした自身の欲得尽(づ)くの過去を顧み、ふと、『これ、極楽往生、覚束なし』と思うや、恐懼し、店や娘や婿を放擲して出家し、北の地の承仕法師となって音沙汰なしと相成った勝手さを、七兵衛は自身を棚に上げておいて、ここでは激しく罵倒しているのではあるまいか? と、とって私は初めて腑に落ちるのである。

「とく、死(しに)うせよかし」「さっさと、死に失せちめえッツ!」。無論、腰の立たない妻に言っている暴言である。

「夫に漫器(まる)をとらせぬばかりにて、食物(くらいもの[やぶちゃん注:ママ。])まで人にさせ、のけのけとくらふは、よき物ぞ。」「とりえと言やぁ、夫に『おまる』の始末をさせぬというだけがとりえで、食事の世話さえ人にさせ、のうのうと食ってただただ生きているってえのは、如何にも、まんず、いい御身分じゃあねえかッツ!」といった謂い。]

などゝいひ、二つめには杖・棒をふり、庭へ踏(ふみ)おとし、髮をかなぐりて、門(かど)中へ引出しなど、日に幾度となく、わめきちらし、

『追(おひ)出さばや。』

と思へども、近邊(きんぺん)隣(となり)の衆など、立あひつゝ、七兵衞をなだめ、あるひは、見る目も不便(びん)さに、年寄・家主など呼(よび)付て異見せられしかば、いよいよ、㙒心さしおこり、打敵(うちがたき)など、隙(ひま)なくせしかば、今は家ぬしも、せんかたなさに[やぶちゃん注:「年寄」は狭義の役職としての町方役人を考える必要はあるまい。]、

「宿(やど)をかへ給へ。」

と使(つかひ)を立、少(すこし)の遣銀(つかいぎん[やぶちゃん注:ママ。])までとらせけるに、七兵衞も、是非なく、毎日、

「宿を見立に。」

とて、出けるが、岩神通西(いわかみどをりにし[やぶちゃん注:ママ。])に借屋(しやくや)を極(きは)め、近々に替(かゆ)べきよし、家主へも斷(ことはり[やぶちゃん注:ママ。])、妻にもいひ聞せ、何かと、心用意して、着替(きがへ)なども洗濯をあつらへ、

「腰ぬけの役(やく)に仕立(したて)よ。」

[やぶちゃん注:京都府京都市中京区岩上町岩上通六角下る附近。丸太町からは、「堀川通」(この「堀川」の名は本文に後で出る)を真南にわずかに一キロメートルちょっとの、ごく近距離である。

「心用意して」「こころよういして」。心遣いをして。

「腰ぬけの役(やく)に仕立(したて)よ」着替え用の着物を洗い張りをして再び仕立てる際に、「腰が悪い者が着用し易いように配慮して仕立てよ」と命じたのである。]

と、日を操(くり)て[やぶちゃん注:その仕立て直しの日限を急かして。]、いそがせ、漸(やうやう)、宿替(やどがへ)の朝(あした)にもなれば、何(いつ)なき事にて、七兵衞、手づから、飯(めし)などもりて、女房にも食(くは)せ、我も、機嫌よく、酒など吞(のみ)ていひけるは、

「見苦しかるべき物は、そなたの役(やく)に見はからひて、それぞれに荷を認(したゝめ)させ給へ。とても足たゝぬ身の、先だちて行たればとて、埒(らち)もあくまじければ、着物をも着がへ、引繕(ひきつくろ)ひて待(まち)給へ。我、先(まづ)、行て、勝手などもよくかたづけ、其うへにて、駕籠を迎へに參らすべし。日も長(たけ)て時分よくば、爰(こゝ)に飯(めし)もあるぞ。」

[やぶちゃん注:「見苦しかるべき物は」ちょっと人目に触れてはそなたが恥ずかしく思うような日用の生活・台所用品などは、という意。]

などゝ、念比(ねんごろ)にいひ置(をき[やぶちゃん注:ママ。])、さて、錢二百文、あてがひ、

「もしや、日雇賃(ひようちん)などの入事[やぶちゃん注:「いること」。]もあるべし。是、おぬしが腰に付て居たまへ。」

などゝいひて、大かたの道具は車に積(つみ)て、人、おほく雇ひ、手ばしこく仕舞(しまひ)、今、跡に殘る物とては、古き着籠(つゞら)一つ、半櫃(はんびつ)一つと、女房の後(うしろ)にもたれ物とし、あら筵(むしろ)の上につきすゑ、二人の娘も留主(るす)に置(おき)て、出行たり[やぶちゃん注:「いでゆきたり」。]。

 同じ長屋の亭主、近所の内義など、日ごろ、馴染たる人ども、立かはり見舞に來りけるにも、女房、先(まづ)、なみだをおとして、いふやう、

「是(これ)のおやらは御存[やぶちゃん注:「ごぞんじ」。]の通(とほり)、日ごろは白き齒をも見せず、假初(かりそめ)にもむごくいはるゝ人の、何と、思ひなをして[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]、心入[やぶちゃん注:「こころいれ」。]なをりけん。今朝(けさ)も、かうかういはれし也。我、この年ごろの恨めしさも、此一言にて千盃(ばい)ぞかし。」

などゝ悅びいさみて、迎(むかひ)の駕籠を待(まち)居けるに、日も、はや、八つに過[やぶちゃん注:「すぎ」。午後二時過ぎ。]、七つ[やぶちゃん注:午後四時。]にかたぶけども、今朝(けさ)行ける雇人(やとびと)も歸らず、まして、亭主も見えねば、あまり心もとなくて、姊娘を隣へやりて、相借(あいじやく)屋の亭主を賴み、岩神の其所(そこ)とかや、聞はつりしを、しるべに見せに遣しけるが程なく、此亭主、引かへして語りけるは、

[やぶちゃん注:「相借(あいじやく)屋」(歴史的仮名遣は「あひじやく」が正しい)同じ棟に借屋すること。相店(あいだな)。]

「今朝(けさ)、この家より車に積て出たる道具どもは、一つも殘らず、堀川の道具やに有りて、市を立、悉(ことごとく)賣(うり)たて、銀(かね)を請取て、本人は歸りたるよしにて、道具や共、打寄(うちより)つゝ、分(わけ)取て行(ゆく)を、見つけたり。岩神には、もとより、借屋の跡かたもなし。」

と、いひけるにぞ、初(はじめ)て仰天の心付(づき)、急ぎ、葛籠(つゞら)をあけて、吟味するに、女房の着替、二つ、三つ、娘の古き着がへ、少々のこして、暇(いとま)の狀を認(したゝめ)入たり[やぶちゃん注:「いれたり」。]。

「こは、如何に。だまされしよ。」

と思ふり、狂氣して、さまざまに泣(なき)のゝしり、狂ひけるが、町内にも、此よしを聞(きゝ)て、哀(あわれ[やぶちゃん注:ママ。])がり、其夜は開家(あきいゑ[やぶちゃん注:ママ。])に一夜、置つゝ、

「腰ぬけなれば、よも、怪我(けが)はあらじ。」

などゝ油斷して置ける夜の間に、二人の娘をしめ殺し、我(われ)も首くゝりて、死(しゝ)たり。

 かくて七兵衞は此大坂に下り、長町(ながまち)に宿を借り、少の商(あきなひ)に取付、かなたこなたと挊(かせぎ)ける内、太左衞門橋[やぶちゃん注:大阪府大阪市中央区宗右衛門町に現存する道頓堀直近の橋。]の邊(へん)にて、歷々の人の後家なるよし、去(さる)子細ありて、逼塞(ひつそく)[やぶちゃん注:落魄(おちぶ)れて世間から隠れてひっそり暮らすこと。]の身となり、東高津(ひがしかうつ)[やぶちゃん注:大阪市天王寺区東高津町(ひがしこうづちょう)。]のほとりに屋敷をかまへ、世を捨たるにはあらで、交(まじは)りを止(やめ)、心に任(まか)せたる髮切[やぶちゃん注:「かみきり」。ここは尼僧。]有しを、何(いつ)の比(ころ)にか、見初(そめ)、露忘るゝ隙もなく、餘りせんかたなきまゝに、色々と媒(なかだち)を賴(たの)みて、兎角(とかく)いひ寄(より)けるに、終に心のごとく、なびきて、

「今宵、かならず。」

との返事、うれしく、出たゝんと思ふにも、衣類のなければ、心やすき方に借(かり)とゝのへ、小者一人、やとひ、度(た)し揃はぬ始末をあはせて[やぶちゃん注:加え揃えることが出来ない格好の悪い部分も何とか始末をつけて。]、東高津へと急ぎけるに、聞(きゝ)しには勝りて夥(おびたゞ)しき居なし[やぶちゃん注:「ゐなし」「居成し」。屋敷の立派さをいう。]、心も詞(ことば)も及(および)がたきに、下女・はした・腰元など、さしつどひ、行(ゆき)歸りて、一かたならぬ饗應(もてなし)も、何くれと過(すぎ)て、夜も、早、八つ[やぶちゃん注:これは定時法のそれで午前二時頃であろう。怪異出来の時刻でもあるからである。]に近からんとおもふ比、玉をみがき、錦をかざりたる床(とこ)の上に、偕老の衾(ふすま)を並ぶるとぞ見へしが……漸(やゝ)ありて、次の間に臥(ふし)たりし小者が手をとり、七兵衞、みづから、顏におしあて、さめざめと泣(なく)を、餘り、不思議さに、手をのばして、ふところへ入て、さぐりけるに、大きなる虵(へび)の、ふしたけ二丈ばかり[やぶちゃん注:「臥丈二丈」。蜷局(とぐろ)を巻いた縮んだ状態の見かけ上でも六メートルは有にある。]もやあるらんとおもふが、七兵衞を、足より胸いた[やぶちゃん注:「胸板」。]迄、

「くるくる。」

と卷(まき)て、鐮首を、もつたて[やぶちゃん注:もたげて。]、七兵衞が咽(のど)をくわへたり[やぶちゃん注:ママ。]。

小者は、肝つぶれ、心まどひ、

「こは、いかに。」

と、おそろしさ、しばらくも溜(たま)られず[やぶちゃん注:とどまって居られず。]、急ぎ、迯(にげ)出んとするに、

『腰元は、ふすはよ。』

と見へかし。

[やぶちゃん注:判読に非常に時間が掛かった。自信はないが、「臥(ふ)すはよ」で、「(人間なのに、べたっと)伏すようじゃないか?!」という小者の目線からの観察であろうと採った。「ゆまに書房」版は『腰元はすはよと見えかし』で、であれば、「腰元は『すはよ』と見えかし」となろうが、これでは、文意が微妙に通らない気がする。「すはよ」は、「今だわ!」の謂いとも採れなくはないが、小者の視線のみから、そのような感情認識表現は私のは無理が感じられるのである。原本はここ(左頁二行目)である。当該部は、印字が何とも怪しいので、私を含めて、判読に誤りがある可能性がある。識者の御教授を乞う。]

 みな、狐などの化(ばか)せしにや、其邊(そのへん)には小虵(こへび)、いくらともなくありて、踏(ふみ)も分(わけ)がたきに、七つばかりなる女の子の声として、

「嬉しや。本望(ほんもう)をとげたり。」

と、いへば、二、三人の声して、

「我も、さあり。本望かな。」

といふに、いとゞ轉(こけ)まどひ、命からがらにて、歸りぬ。

 後に、程へて、樣子を聞けるに、岡山のおくに、人を取(とる)「うはばみ」あり、七兵衞が屍(かばね)を卷立(まきたて)、くらひながら、蝮(うはばみ)も死(しゝ)てありとぞ語りしか。

 誠に、おそろしき怨念にもぞありける。

 正(まさ)しく元祿六年の事也。

[やぶちゃん注:本話のコーダの特異性は、閨房入りの直後から、突如として、名もない小者の視点から描かれていることで(特異的にそこにリーダを挟んだ)、これは、なかなかに面白い。但し、読解には、かなり高度な読者としての第三者的冷静な視点が必要とされ、これは寧ろ、現代の映画的なカメラ・ワークであるように私には思われる。確かに、おぞましい七兵衛の見た目やその感懐なんどは、確かにいらないとは思う。しかし、ただの私の大いなる勘違いかも知れぬ。私の判読・読解にこそ大いなる誤りがあるのかも知れぬ。識者の御叱正を乞うものはである。

「元祿六年」一六三五年。]

2019/08/13

諸国因果物語 巻之三 長谷の空室寮の事

 

     長谷の空室(くうしつ)寮(れう)の事

Hasenokusitu

 長谷の學寮に空室といふ僧あり。出羽の所化(しよけ)なり。

[やぶちゃん注:「長谷」奈良県桜井市初瀬(はせ)にある真言宗豊山(ぶさん)神楽院(かぐらいん)長谷寺(グーグル・マップ・データ)。宗学としての長谷寺は密教及び倶舎(くしゃ)・唯識(ゆいしき)論の学匠が輩出し、諸宗の学徒も、多く参集して賑わった。]

 杉の寮といふ長屋にありけるが、明暮の食事をこしらへ、夜の間の下(した)見・歸見などに心を屈(くつ)し、寢ざめのつれづれにも、物いひ・伽(とぎ)なくては、いとゞさびしさも勝り、學問も物うくおぼゆるまゝ、京なるしるべのかたへ賴[やぶちゃん注:「たより」。手紙。]つかはして、吉之助といふ少人(せいにん)の、十二、三なるを呼下(よびくだ)し、寢起(ねおき)の物いひ・伽(とぎ)とし、男色(なんしよく)の因(ちなみ)、世のつねならず、たがひにむつまじくいひかはし、二、三年を過しけるに、國許より[やぶちゃん注:「空室」の故郷である。]、文をのぼせける便(たより)に聞(きけ)ば、

「一人ある母の今年七十にちかきが、『膈(かく)』といふ病にとりむすび、已に半年におよびて、療治もさまざまと手を盡せども、いさゝかの驗(しるし)もなく、食を斷(たち)て、今、二ケ月あまり也。世に賴なきありさまの内にも、恩愛のきづな、すてがたくや思はれけん、足下の事のみ、なつかしがり、いひ出しては、淚にむせび給ふ也。何とぞ、此便につきて下り、生(いけ)る母の顏、見まいらせましや。」

[やぶちゃん注:「下(した)見・歸見」教学修行に於ける予習・復習のことか。
「膈(かく)」「膈噎(かくいつ)」であろう。厳密には、「膈」は食物が胸の附近でつかえて吐く症状、「噎」は食物がすぐ喉の附近でつかえて吐く病態を指すが、現在では、現行の胃癌又は食道癌の類を指していたとされる。ここはまさに進行したそれを考えてよいように思われる。]

と、一門の方より知らせけるに、心動きて、悲しくも、なつかしさも、いや増(まし)ければ、隣の坊にも此事を語り、寮頭(れうがしら)の僧にも此あらましを斷(ことはり[やぶちゃん注:ママ。])つゝ、國のかたへと思ひたつに、吉之助も打しほれ、物おもはしき顏ながら、かゝる親子のかぎりある別(わかれ)おしまんために旅だつ人を、引とゞむべきにもあらず、跡に殘りて待(まち)つけん日かずもいつとしらず、心もとなければ、人しれず、こぼるゝ淚に袂のかはく間もなければ、

「まぎらはさん。」

と、硯、引よせつゝ、手ならひのつゐで[やぶちゃん注:ママ。]に、

     くやしともいひてかひなきさきの世を

     今のちきりになけきそへつゝ

[やぶちゃん注:和歌はそのまま写した(以下も同じ)。整序すると、

 悔しとも言ひて甲斐なき前(さき)の世を今の契りに歎き添へつゝ

であろう。これは無論、稚児吉之助の詠歌。]

と、書すさびけるを見て、空室も、さすが離れがたく、おさな心[やぶちゃん注:ママ。]に、かく迄したひけん哀さも引そへて、悲しけれども、召具(めしぐ)して行べき道にもあらず、人のおもはん所も恥かしく思ひわづらひて、一日、二日は、とかくして、延しけれども、迎(むかへ)の人も、間(ま)なく行かよひ、

「などや、遲(おそ)なはらせ給ふ。」

[やぶちゃん注:「遲なはる」は「遅くなる・遅れる」の意の動詞。]

などゝいふまゝに、心づよく思ひつめて、吉之助を寮に殘し、其あたりなる僧どもに[やぶちゃん注:同じ学寮の修行僧たちに。]、いひあはせけるは、

「我、此たび、陸奧(みちのく)に下り、母の病(やまひ)をも問[やぶちゃん注:「とひ」。]、または、限りある命にてもましまさば、これを終(つい[やぶちゃん注:ママ。])の別れの對面(たいめん)どもすべきなれば、引返してのぼるとも、二月餘りには覚束なし。若(もし)また、臨終の砌(みぎり)をも見るならば、七七日(なゝなぬか)のつとめも、十日の程に、よも登り難く覚ゆる也。月忌(ぐわつき)までは、定(さだめ)て國にあるべければ、此冬のさし入には、かならず、此寮に歸るべし。それまでは僧達、かまへて、吉之助を、よくいひ慰め、心をそへて給よ[やぶちゃん注:「たまへよ」或いは「たべよ」。]。下り着なば、先、文して、音信(おとづれ)申べきぞ。万(よろづ)に不自由させ給ふな。穴賢(あなかしこ)、我とおもひて、問[やぶちゃん注:「とひ」。]なぐさめて給(たべ)。」

[やぶちゃん注:この空室の台詞は意味が非常にとり難い。或いは以下、注に誤りがあるかも知れぬ。誤りがあるとならば、是非、御教授、下されたい。

「二月餘りには覚束なし」単に別れの挨拶だけをして(臨終を看取らずに)、往復したとしても二ヶ月余りでも覚束ないであろう。

「七七日(なゝなぬか)のつとめ」四十九日の忌明け法要。

「十日の程に、よも登り難く覚ゆる也」意味不明。「四十九日の法要を十日のうちに詰めて行ったとしても、そう早くは帰ることは出来そうもないように思われる」か。そういう法要の圧縮が、当時、出来たのかどうかは知らない。

「月忌(ぐわつき)」月命日。亡くなって一ヶ月後の同日。

「此冬のさし入」「さしいり」と判読し、冬の初旬、則ち、旧暦十月初旬と読んだ。但し、この部分には原本に汚れがあり、判読に自信がない。「ゆまに書房」版では『さし入にい』であるが、これでは意味が通じない。その頃には「かならず、此寮に歸」らんと思う、と言っているからには、空室が長谷寺を旅立ったのは、最低でもその年の七月中旬以前ということになる。単純往復(二ヶ月+α)に加えて、それに看取りと月命日が加わるからである。

「我とおもひて、問なぐさめて給(たべ)」「僧たちよ、私に成り代わったと思って、吉之助に声をかけ、慰めてやって下されよ」の意か。]

など、念比にたのみをき、主寮(しゆれう)にもいひつゝ、なくなく、立出ぬ。

 吉之助も、心うく、かなしさ、はやるかたなけれども、後(うしろ)すがたの隱るゝまで、見送り、見かへりて、ひとり寮に歸りつゝ、はかなき淚に面かげをいだきて、泣ふしたり。

[やぶちゃん注:「かなしさ、はやるかたなけれども」「悲しみは、それを向けるべき(解消すべき)ものもないけれども」の謂いか。]

 かくて、程へぬれども、いひしは、あだなる誓ひとなりて、そよ、との風のたよりだになくて、いたづらに獨ねの枕さびしく、永き夜、あかしがたきあかつきの空さえ、まさる木(こ)がらしの音に、夢おどろきては、面影を泣(なく)なみだ、數そひて、袂の水、とけやらぬ、むねの内、たれにかたらん友もなければ、

     待かほに人には見らしとはかりに

     なみたの末にしほれてそぬる

[やぶちゃん注:整序すると、

 待顏に人には見らじとばかりに淚の末に萎(しほ)れてぞ寢(ぬ)る

か。泣き尽くして萎れる、というのであろう。]

などゝ思ひつゞけ、また、ある夕暮は、寮の口にたちて、

「もしや。」

と、日をくらし、大門のかたへ立いでなど、心ひとつに待くらして、

     我も人もあはれつれなきよなよなに

     たのめもやますまちもよはらす

[やぶちゃん注:整序すると、

 我も人も哀れなき夜な夜なに賴めも止まず待ちも弱らず

か。「夜な夜な」の「夜」は無常の「世」を掛けていよう。]

など、打ながむるにも、人めわろきまで、淚のこぼるれば、すごすごと立かへり、

『せめて、心や、まぎるゝ。』

と、主寮(れう)の僧の方へ、さしのぞけば、折ふし、了海・義空などいふ若坊主ども、此寮に入りこみて、はなし居られしが、吉之助を見て、了海、立て、さしまねき、

「などや、我は、此ほど色惡(わろ)く、瘦(やせ)て、物おもひ顏なるぞ。氣分のあしきか。又は、淋しさの餘り古里の戀しくて歟(か)。心にかなはぬ事あらば、つゝまず、語りてよな。」

と、慰め、

「國もとより、便もなしや。空室は煩ひもするか。絕て音信もなく、さぞや、待かねぬらん。」

と、情らしくいひかはさるゝにも、先[やぶちゃん注:「まづ。」]、むね、ふくれて、声をも立つべく、悲しけれども、色に出て[やぶちゃん注:「いでて。」]それと見られんも恥かしければ、おしうつぶきて居たるかたはらより、義空のいふやう、

「了海は知り給はずや、一昨日(おとゝひ)の暮つかた、空室方より、飛脚きたりて、主寮(しゆれう)迄、屆[やぶちゃん注:「とどけ」。]すてゝ歸りぬ。

『母の病は終に治(ぢ)せずして、死給ひぬ。その跡のとぶらひをいとなみ、一門の人々、行つどひ、五十日・百ケ日と、さまざまの佛事を空室に任せて、とりおこなひけるまゝに、心ならず、日を過しける内、上がたより下りし去[やぶちゃん注:「さる」、]人の子息にて、義量よき少人(せうにん)を弟子に取しが、此親もとより、同國の内、何とかやいふ寺へ空室を肝煎(きもいり)けるほどに、今は、中々、おびたゞ敷(しき)寺持(てらもち)となり、爰もとの事などは、思ひ出す事にもあらず、明暮、榮耀をなすゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、最早、吉之助などにも隙(ひま)をとらせ、寮をも、近々、に開(あけ)わたすべし。』

との事なり。されば、『寮並びの法師たち、諸事に付て出入もあらば、くわしく[やぶちゃん注:ママ。]書立置(かきたておく)べし、との内意の狀、のぼりたり。」

など、跡かたもなき虛言(うそ)を誠(まこと)しくいひつゞくるに、吉之助、今は聞さへもうらめしく、むねにせきくるなみだの雨、間なく、隙(ひま)なく、袖にみなぎるを、「恥かし。」

と、立かゞよひて、何となく寮に歸り、内外よりのしまり共、よくさしかため、また、昼すぎの日あしを見もはたさず、

「心ち、あしき。」

とて、打ふしたり。

[やぶちゃん注:「立かゞよひて」は「ゆまに書房」版では『立かゝして』であるが、私にはこれでは意味が判らない。原本を見て、以上のように判読したが、文字よりも意味に合わせて読んだ感は免れぬ。ここ(左頁の最後から四行目の末尾)であるが、識者の御教授を乞うものである。

「寮並びの法師たち、諸事に付て出入もあらば、くわしく書立置(かきたておく)べし」空室の寮の並びの修行僧たちで、彼及び彼の稚児である吉之助のために、諸事、いろいろと金品等、支出致いておった分(ぶん)があるならば、詳しく書き出しておくように、という回状である。嘘なのだが、それを空室に請求するという如何にも事実めいた謂い添えである。妄語の極みの義空、極端に救い難い厭な奴である。]

 寮隣(れうどなり)の坊たちも、何心なければ[やぶちゃん注:事態(義空が忌まわしい嘘を吉之助についたこと)を知らないので。]、

「吉之助、はやく寢たりな。心ちにても、あしきや。」

と、いふもあり。または、

『待かねて、例の門口へ行しにや。』

とおもひつゝ、打すぐしぬ。

 かくて、二、三日も過ける、霜月の十四あまり、空室は、國もとの用ども、そこそこにしつらひ、夜を日につぎて、京へとのぼり、吉之助が宿にて、旅すがたをあらため、

「明(あけ)の日は、長谷へ。」

と、心ざして、しばらく、まどろみしに、吉之助がおもかげ、夢に見えて、枕もとに、たてり。

「いかにや。久しく逢(あは)ざりつるが、さぞ待にこそ待(まち)つらめ。」

などいふに、何のこたへもなくて、

     おもひしれ度かさなれる空たのめ

     けにことはりのうらみなりとは

[やぶちゃん注:整序すると、

 思ひ知れど重(かさ)なれる空賴(そらだのめ)げに理(ことは)りの恨みなりとは

か。]

と、いひて、むせかへりつゝ泣(なく)とぞ見えし程も、明にければ、空室も、いとゞ心もとなくて、急ぎつゝ、寮に歸り、人々にもそこそこに物いひなどして、先、日比の舍(やど)りに立いらんとするに、表も裏も、門より堅くしめて、人音、なし。

「こは、いかに。寢たりしや。」

と、しばし敲(たゝけ)ども、こたへず。

 其となりの僧たちに、

「吉之助は、いかゞし侍る。」

と、問(とふ)とも、木のはしのやうに生れつきたる人共なれば、

「何事もしらず。」

といふに、

「さればよ。」

と、心うごきて、今はこらへがたく、入口の戶を引はなして、立入けるに……

……むざんやな、吉之助、義空が虛言(そらごと)を信じて、

――此ほど迄――待よはりつる[やぶちゃん注:「待ち弱りつる」。]心ざしも――無下になりけるよ――

……とおもふ恨(うらみ)のあまり、空室が常にせし手巾(しつきん)にて、首縊(くゝり)て死(しゝ)てあり。

 空室は、是を見るより、氣を失ひ、

「さればよ、かゝる事にてこそ、此ほどの夢は見えつらめ。」

と悲しき身に餘り、やるかたもなければ、此死骸にすがり付、身をもだえ、夜日(よひ)となく、泣(なき)けるを、あたりの僧たち、さまざまにいひなぐさめ、引除(のけ)んとすれど、離れず。

 いよいよ、引ば[やぶちゃん注:「ひけば」。]、いよいよしがみ付て泣ほどに、かくて、二日一夜、なきつゝ、終に、いだき付ながら泣死(なきじに)たり。

「かゝる奇代のためしこそなけれ。よしや、此まゝに取置べし。」

とて、此二人が死骸、そのまゝながら、取おきけるが、是よりして彼(かの)寮には、よなよな、空室・吉之助兩人が姿、

「ありあり。」

と顯れ、泣つ、笑ひつ、おそろしき事ども、多かりしかば、その後(のち)、此寮には、さらに人すむ事なく、只、年(とし)々、主寮(しゆれう)より、空寮(くうれう)にして、

――空室――

と張札(はりふだ)をおしかへ、うち捨て、今に、あり、とぞ。

 

諸國因果物語卷之三

[やぶちゃん注:例外的に最後にリーダとダッシュを用いた。僧と稚児の若衆道の悲恋の怪異譚として、まっこと、上質である。電子化注しながら、思わず、しみじみしてしまった。空室の帰還は、約束より一ヶ月半遅れた。これはしかし、距離と不定性から仕方がなかった。吉之助は空室を信じているべきであった。空室を信じずに、早まったことをしてしまった。確かに、吉之助に宛てて手紙を書かなかった空室にも重い罪はある。しかし、それは少年とはいえ、やはり愚かであったのではないか?――ともかくも――私なら――義空を――阿鼻叫喚地獄に落とす――そうして――空室と吉之助の三世の契りを願う…………

「木のはしのやうに生れつきたる人共なれば」「徒然草」の「あだし野の露」を挙げるまでもなく、本来、愛欲は仏教に於ける最も断ち難い煩悩ではある。従って、この修行僧どもは、普通の凡夫の大衆の持つ当たり前の人情から見れば、仏道を志すからには、木端(こっぱ)のような無愛想な存在なのだということにはなろう。

「手巾(しつきん)」「手巾帶(しゆきんおび(しゅきんおび))」の略。手拭いのような、長さ五尺(約一・九メートル)ほどの布を帯にしたもの。主に僧尼が用い、衣の上から巻いて前で結んだ。

 以上の持って「諸国因果物語」の「巻之三」は終わっている。]

諸国因果物語 巻之三 猫人に祟をなせし事

 

     猫人に祟をなせし事

Mekotatatri

 備後福山にて、淸水何(か)右門といふ人あり。

[やぶちゃん注:「備後福山」福山藩は主に備後国(広島県東部)南部と備中国南西部周辺を領有し、現在の広島県福山市(グーグル・マップ・データ)に藩庁を置いた。]

 元祿元年のころの事なりしに、ひたと物の失(うす)る事あり。魚(うを)・鳥によらず、何にても、料理せんと思ひて、洗はせ、又は、買(かひ)などして、しばらく間あるをば、かいくれて見えず。

[やぶちゃん注:「元祿元年」は貞享五年九月三十日(グレゴリオ暦一六八八年十月二十三日に改元している。]

「下部(しもべ)などの内に、心よからぬ者ありて、かゝる手むさき事もあるや。」

と心を付て問聞(とひきゝ)、又、ある時は、物かげより、目代(めしろ)を置(おき)て窺(うかゞは)すれども、誰(たれ)とるとも、知らず、目、ふる間に、失(うす)る、といふ程に、あまりふしぎさに、此度は、

「蛸を料理せん。」

とて、洗はせ、何右門みづから、半弓(はんきう)を持て物かげより見居たるに、此蛸、かいくれて、失たり。

[やぶちゃん注:「目代(めしろ)」代理の者、或いは目付役・監督。

「半弓」通常の弓(大弓)のほぼ半分の長さ或いは大弓より短い弓。大弓は七尺三寸(約二メートル二十一センチメートル)を標準とし、六尺三寸(一メートル九十一センチメートル弱)以下を広義に半弓と呼ぶ。射程距離と威力は劣るが、座位で射ることができ、室内でも使用可能である。]

『扨も。心得ぬ事。』

と、おもひ、猶々、目をはなさず、しばらく其邊のやうすを窺ゐたれば、やゝありて緣の下より、最前の蛸の足を、少くはへて、猫壱疋、

「のさのさ。」

と出(いで)、また、魚板(まないた)の上にありける鰹(かつを)を見て、

「そろり。」

と、あがり、此鰹をくはゆる所を、半弓、引しぼりて、

「ひやう。」

と射られしが、今すこし、手のびして、魚板より飛おるゝ猫の後(うしろ)足にあたりぬ。それも、かすり手[やぶちゃん注:「かすりで」。擦っただけの傷手。]なりけるまゝ、何の事なく迯失(にげうせ)たり。

[やぶちゃん注:「手のびして」手元が狂って。「ゆまに書房」版は『根のひ』とする(この場合は「矢の根」で「鏃」が狙撃位置から延びてしまって左右上下に外れるの謂いとなるか)が、原本を見ると、次の一行の同位置にある「かすり手」の「手」と全く同じ崩し字であるので、採らない。]

「殘念の事。」

と、おもへど、是非もなければ、其分也しに[やぶちゃん注:「そのぶんなりしに」。ここはそれだけのこととして終わったのだが。]、其夜より、何右門が寢間に、あやしき女の忍びいりて、何右門をとらへ、さんざんに恨(うらむ)事あり。

「何やつなれば、かく迄、寢間ふかくしのび入て、我を惱(なやます)や。いで、物見せてくれん。」

と、枕にたてつる、刀、ひきよせん、起(おき)んと、身をもがき、心をはたらけども、いかに仕(し)つる事にか、五體、すくみて、はたらかず。

 口おしさは、かぎりなけれど、此障㝵(しやうげ)[やぶちゃん注:「障碍」(障害)に同じい。]にたぶらかされて、いたづらに臥(ふし)たる体(てい)にもてなしつゝ、いふ事を聞(きけ)ば、彼(かの)女、いふやう、

「おのれ、纔(わづか)なる食のために、我[やぶちゃん注:「わが」。]たのしぶ心ざしを破り、よくも、殺さんとしけるよな。我は同じ蓄(ちく)るひなれども、此里におゐて[やぶちゃん注:ママ。]、八百歲を經たれば、小神通(せうじんつう)を得て、変化自在(へんげじざい)なる身となりぬ。おのが貪欲(とんよく)の刀(やいば)にかけて奪(うあばは)んとせし命の惜(おし)さと、今、また、おのれを苦しめて取んとする命と、おもひくらべて見よ。いづれが、惜(おし)き。去ながら[やぶちゃん注:「さりなががら」。]、急にとりつめては、本意なければ、こよひより、通ひそめて、幾夜も幾夜も、惱(なやま)し苦しめ、なぶり殺しにすべき也。おもひしれ、おもひしれ。」

といふ声のしたより[やぶちゃん注:声のするそばから。]、五体しびれ、心くるしくなりて、半死半生のくるしみ、せつなさの餘り、

『今は。声をたてゝ、人をおこし、此世の名殘をもおしまばや。』

など思ふ事、千度(ちたび)なるを、又、おもひ返し、

『口おしや[やぶちゃん注:ママ。]、此わづかなる四足の見入に[やぶちゃん注:「みいるに」。「魅入るに」。]なやまされ、比興(ひきやう)なるふるまひを人にも見せ、世にもいひはやされては、何の面目(めえんぼく)ありてか、人に面[やぶちゃん注:「おもて」。]をむくべきや。流石(さすが)に我も、侍ぞかし。』

と、思ひなぐさみて、

「屹(きつ)。」

と身を持かため居たる程に、はや、明がたの鳥の声も、かすかに聞え、廿六夜の月も、光りほのかに、寢間の上なる切窓にさし入りける光りに、きのふ見し猫と覚えて、下より、ふと、飛あがり、窓より外へ行よ、とおもへば、五体のすくみも和らぎ、手足も自由になりけるにぞ。

[やぶちゃん注:「比興(ひきやう)」これは「非拠」或いは「非興」の意ともされ、「不都合なこと・不合理なこと」を意味する。]

『扨は。彼(かの)射そんじたる猫の所爲(しよい[やぶちゃん注:ママ。])なりけり。』

と、いよいよ無念さ勝るに付ても、

『此猫ほどの根性になやまされ、心よはく、人を駈催(かりもよほ)しては、後のそしりをいかゞせん。よしや、此上は、猫と我と運をくらべて、討(うた)ば、討(うつ)べし。』

と、堅く心に誓ひて、かりそめにも、人にいはず、妻子とてもなければ、知るべき人もなく、只、我のみ、さまざまと手を替、術(てだて)をつくして、夜毎に待(まつ)に、此障碍もかならず、夜ごとに來りて惱(なやま)す事、いつもの如くにして、いかにともすべきかたなく、初(はじめ)の程こそ、兎角、心をも盡しけれ、半年ばかりにもや成(なる)らんと思ふ比は、氣もおとろへ、力、よはりて、色わろく、瘦(やせ)つかれ、物もしかじかと食ず[やぶちゃん注:「くはず」。]、日にそひて、顏色もおとろへしかば、てまはりの者なども、心もとながり、種々(さまざま)と機嫌をうかゞひ、尋ねとへども、堅くいはず、只、うかうかと惱まされゐたりしが、与風(ふと)、思ひつきて、

『かゝる時こそ、不動の「慈救呪(じくのじゆ)」の驗(げん)はありぬべけれ。』

と、おもひ、日に二百返づゝ、おこたらず、操(くり)ける事、廿日ばかり也しに、其夜も例のごとく來りて、いつもの如く苦しめ、

「今宵、過なば、命を取べし。扨も、此ほど、さまざまに苦しむるに、心づよく我に敵對して、よくも降參せざるよな。」

と、いひのゝしりて、毎(こと)に[やぶちゃん注:意味は「殊に」。]宵より責(せめ)さいなみけるに、

『五体も、今は、中々に、くだけ、命も限りなるべし。』

と、おもふ程也しが、あまりに强くあたられ、我も身を捨て[やぶちゃん注:何衛門の地の文への一人称敷衍表現。]、爭ひけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]にや、草臥(くたびれ)てすこしまどろみける、と覚ええて、しばらく何の事をも忘れたるやうにて、目ざめしかば、手をのばし、足を動かすに、思はず、自由になりぬ。

『こは、嬉し。』

と思ひ、

「そろり。」

と起(おき)て見まわし[やぶちゃん注:ママ。]たるに、彼(かの)ねこも、宵より手ひどくもみあひしに、草臥(くたびれ)てか、現(うつゝ)なく、ね入りたると見えて、ねこの形を顯して、添(そひ)ふしたり。

『すは、天のあたへぞ。』

と、かたはらに、ぬき置て[やぶちゃん注:「拔き置きて」。そっと気づかられぬよう、衾から抜け出して。]、絹羽織(きぬはをり)を打かけ、飛かゝりて、組ふせたれば、是に驚きて、目を覚し、又、頭(かしら)より、次第に、女となるを、强く押へられて、泣(なき)もだへける所を、枕刀(がたな)に懸(かけ)て、指殺(さしころ)し、下々を呼て、此死骸を燒(やき)すてさせしかども、猶、心もとなく、氣味あしくて、眞言寺の僧を請じ[やぶちゃん注:「しやうじ」。]、密符(みつふ)をかけ、祈禱などさせければ、二たび、此あやしみも絕(たへ[やぶちゃん注:ママ。])、其身も、半年ばかり養性(ようじやう)[やぶちゃん注:漢字も読みもママ。]して息災になりける。

[やぶちゃん注:『不動の「慈救呪(じくのじゆ)」』衆生を慈愛を以って救護するとされる不動明王の大・中・小(呪の長さが異なる)三呪文の一つである「中呪」。この呪文を誦えると災害を免れ、願いが叶うとされる。「ナウマクサマンダ(発音はノウマクサーマンダ) バザラダン センダンマカロシャダ ソワタヤ ウンタラタ カン マン」がそれ。

「密符(みつふ)」真言密教の呪符。恐らくは真言でも梵字でもなく、特殊な呪字(漢字ではない)を書いたものであろう。]

諸国因果物語 巻之三 盗せしもの神罰をかうふる事

 

     盗せしもの神罰をかうふる事

Jyukusigaki

 丹波桑田郡篠村に与八といふ物あり。

[やぶちゃん注:「丹波桑田郡篠村」、京都府南桑田郡にあった村。現在の亀岡市篠町(しのちょう)の各町。この中央周辺(グーグル・マップ・データ)。嵐山の西方で因幡へ越えるルートである。]

 心だてよろしからぬ男にて、神佛をも蔑(ないがしろ)にし、人を人とも思はず。常に雇はれありく身として、何によらず、「ほしき」とおもふ物あれば、盗とりて歸り、後日に恥をかく事あれども、何とも思はず、不敵なるくせ者也。

 同じ心の友とて、其邊(あたり)近く住ける小左衞門といふ者、是も能なしにて、博突(ばくち)といふ事に身を打こみ、方々とかせぎありきけるに、与八も無二の友にて、いづく迄も往來して、酒をのみ、人をむさぼりて、たのしみ暮しける。

 ある時、小左衞門は博突に打ほうけ、仕合、さんざんにて、此ほど、因幡より歸りけるが、

『此まゝにて宿へ歸りては、妻子どもの待うけつる甲斐もなく、飢たる色を見んも心うし。よしや、姿を替、何ものにもあれ、剝(はぎ)とりて設(まうけ)にせばや。』

と、おもひ、新八幡の鳥居なる木隱(こがく)れに、旅すがたのまゝにて、隱れ居たり。

[やぶちゃん注:「新八幡」同篠町篠の上中筋旧村社の篠村八幡宮(グーグル・マップ・データ航空写真)が鎮守の森とともに現存するので、この境内に新たに建てられたか、近隣の林に末社としてあったものであろう。この神社は中世史では足利尊氏縁りの神社として知られたもので、ウィキの「篠村八幡宮」によれば、『社伝や本殿の棟札によれば』、延久三(一〇七一)年に『勅宣によって源頼義が誉田八幡宮(大阪府羽曳野市)から勧請し』、『創建したとされ』、延久四(一〇七二)年五月十三日『付の頼義の社領寄進状も現存する。篠村の荘園は藤原氏によって開かれたものであったが、いつの頃からか源氏が相伝することになり、その荘園に勧請されたものとされる』。現在の主祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと=応神天皇)で、仲哀天皇と神功皇后を合祀神とする。『当地は足利高氏(尊氏)が鎌倉幕府打倒の挙兵をした地として知られ、亀岡市指定史跡にも指定されている。高氏は』、元弘三(一三三三)年四月二十九日に『篠村八幡宮に戦勝祈願の願文を奉じ』、十『日間滞在したのち、六波羅探題を滅ぼして建武中興の礎を築いた。また後醍醐天皇と決別したのち』、建武三(一三三六)年一月参〇日に『京都攻防戦で敗れたため』、二月一日まで『篠村八幡宮で敗残の味方の兵を集めるとともに』、『社領を寄進して再起祈願を行なっている。そして尊氏は九州へ逃れ、体勢を立て直すと』、『京都に戻り』、『室町幕府を開くこととなる』のである。『現在も高氏(尊氏)旗揚げの願文(京都府指定文化財)や御判御教書(寄進状)が伝わるほか、境内には矢塚や旗立楊が残されている』。『本殿は一間社流造。境内には、高氏挙兵にまつわる「矢塚」が残』り、「太平記」によれば、『高氏は篠村八幡宮に願文とともに一本の鏑矢を供えたといい、多くの武将もそれに続けて供え、矢がうず高く積み上げられたという。矢塚は、これらの矢を埋納した場所とされ、塚上には椎の木が植えられている』とある(或いは、ここで拝殿に稲を積み上げて奉納しているのは神饌であると同時に、この矢奉納の再現かも知れない)。『尊氏にとっては』二『度の岐路で篠村八幡宮により大願が成就したことから』、貞和五(一三四九)年八月十日には『尊氏自身が当社にお礼参りをしたほか、歴代足利将軍からも多くの社領を寄進され、盛時にはその社域は篠の東西両村に渡ったという』。『この頃、別当職は醍醐寺三宝院門跡が務めていた』。『しかし、のちの応仁の乱や明智光秀の丹波侵攻によって社伝・社域の多くを失ったという』。『江戸時代に入り』。寛永年間(一六二四年~一六四三年)に『亀山城主・菅沼定芳によって本殿が改修され、以後』、『亀山城主の直轄神社として庇護された』とあるので、新はこの菅沼定芳の新本殿を称している可能性が高い(と言っても本書刊行は再建から八十七年後の宝永四(一七〇七)年ではあるが)。何故なら、次の冒頭に出る「やたつの森」は「矢立の森」で、以上の鎮守の森内の「矢塚」のことではないかとも思われるからである。しかも、以下で、与八が「矢を射かけられた」と言っているのもそれに合致するからである。則ち、本話にはこの篠村八幡宮に纏わる歴史的事実が強く作用しているのである。]

 与八は、又、此「やたつの森」に付たる田刈にて、拜殿に大ぶん、稻を刈(かり)つみけるを見置たれば、

『何てもあれ、今宵のまふけに、一、二荷(か)ぬすみとりて、食物にせんや。』

と思ひ立(たち)、枴(ほうこ)に繩をまきそへて打かたげ、夜中に過(すぎ)たる空の星あかりを侍つけて、宮(みや)の方へ步みけるを、小左衞門、よくすかして見るに、

[やぶちゃん注:「枴(ほうこ)」の歴史的仮名遣は「あふご」が正しい(現代仮名遣「おうご」。「おうこ」とも)。「朸」とも書き、物を担う天秤棒のこと。挿絵参照。]

『与八よ。』

と見るまゝに、日ごろ、心やすき中なれば、後より、そろそろと付て行[やぶちゃん注:「ゆき」。]、与八を目當(めあて)に石を打かけ、

「やれ、賊め。」

と、声をかけけるに、与八は小左衞門が邪興(じやけう[やぶちゃん注:ママ。])にするとは知らず、

『こは見付られしよ。』

と、心まどひ迯(にげ)て、森の方へ隱れんとせしを見て、小左衞門、いよいよ、可笑さに、

「やい、うろたへ者。我なるとは知らぬか、知らぬか。」

と、ひた物、小石を打かけて、追付(おひつく)やうにすれば、与八は、なをなを[やぶちゃん注:ママ。]、迯まどひ、かたはらなる柹(かき)の木に、

「ぼう。」

と行あたりける。

[やぶちゃん注:「ぼう」底本「ほう」。「ボン!」とぶち当たったオノマトペイア。]

 折しも、

『石、ひとつ、首筋の程へあたりしよ。』

と、おもへば、いかゞしたりけん、頭より血のながるゝやうに覺えて、心ち、あし。

 それは先[やぶちゃん注:「まづ」。]、手につきたる物も、腰なる手ぬぐひにて拭(のご)ひ、星の光りにすかし、神前の灯明(とうめう[やぶちゃん注:ママ。])にてよく見るに、疑もなき、

『血也。』

と思ふより、目まひ、しきりにして、一あしも引れねば、森の入口にて、

「どう。」

と仆(たほれ[やぶちゃん注:ママ。])たる所へ、小左衞門、はしり寄(より)、

「与八が。何とせしにや。」

と問(とは)れて、漸(やうやう)、息の下より、いひけるは、

「我、としごろ、神佛をあなどり、何もなき物と思ひこなして、宮寺(みやでら)の物、おほく盗みとりつゝ、世を渡る便(たより)とせし罪科(つみとが)、今といふ今、身に報ひて、拜殿の刈稻を盗まんと手を懸し所に、社の内より、聲をかけ給ふとおもひしが、あやまたず、白羽の矢、一筋きたりて、我首の骨を射ぬき、あれなる柹の木に射つけられしを、やうやう、迯(にげ)のびたりと思へど、今は、命、ながらふべきやうにも思はず、殊に所もあしければ、夜明(よあけ)て、人の目にかゝり、恥を得ては、いよいよの罪つくりぞかし。日ごろのよしみには、そなたが手にかけて殺してくれよ。」

と、苦しげにいふにぞ、小左衞門も、身の毛たち、おそろしくおぼえ、先、手をあてゝ与八が首すぢを探り見るに、いかにも、血にまみれつゝ、腦なども碎けるにか、肉なども、出たり。

「よしや、思ひきれ、与八。此疵にて、たすかる事、叶ふまじ。汝か跡は、念比(ねんごろ)にとぶらいてとらすべし。觀念せよ。」

と、一かたなに指殺(さしころ)して、歸りぬ。

 夜明て、聞ば[やぶちゃん注:「きけば」。]、

「何ものゝ仕業にや。与八は、宮の森に刺殺(さしころ)してあり。」

と、村中の取沙汰して、我も我もと、集(あつま)りて見るを、小左衞門も、何となく、行(ゆき)て、人の後(うしろ)より、のぞきてみるに、我手にかけし疵ばかりにて、与八が頭には、何の跡も、なし。

 餘りふしぎさに、近々と立寄(たちより)、おし動かして、よく見れば、彼(かの)柹の木に行あたりける時しも、上より、熟柿(じゆくし)一つ落(おち)て、頭(かしら)にあたり、潰れたるを、与八は心に雲りある氣から、白羽(しらは)の矢と思ひて、心よはくなり、我も罪の深きに、『「深手ぞ」と見付て、殺したる也』と合點する程、おそろしく、かなしく、

『これぞ、誠(まこと)の神罰にてありける。』

と、心におもひこみけるより、其場にて、小左衞門は、髻(もとゞり)切(きり)て、遁世し、四國・西國をめぐり、年をへて、二たび、國に歸り、此事をさんげしけるとぞ。

[やぶちゃん注:因みに、私は帰国して「さんげ」(懺悔:本邦では近世まで一貫して「ざんげ」ではなく「さんげ」である)をした(篠村八幡宮神官及び別当寺である醍醐寺三宝院へ出向いたものと思う)小左衛門は処罰されなかった可能性が高いと判断する。まず、与八は神饌を盗もうとした神仏をも畏れぬ悪逆の窃盗罪である(但し、これは未遂(準備を整えて宮に入り、実行行為に移っていたと判断されるから未遂犯である)であるが、死に臨んでの同様の余罪が多いことを白状しており、その自白(懺悔)は相応の価値はあると見做されるものの、寺社は彼の死に至る経緯については情状酌量の余地は持たないはずである)、小左衛門は追剥を計画するも、その与八を見つけて、その実行行為を中断しているから、未遂ではあっても情状酌量の余地がある。また、小左衛門が与八を刺殺したのは、被害者である与八の誤認による嘱託殺人(自殺幇助罪)に相当するものであるが、与八は死ぬ以外に道はない致命傷と誤認し、暗がりの中で、かく依頼されて小左衛門自身も同じく救い得ぬ重傷と迂闊にも誤認した訳で(但し、小左衛門には状況を今少し冷静に判断して与八の命を救うべき手だてがあったという点では非難されるべき有意な責任性はある)、しかも即座に遁世僧となり、西国を行脚して与八の冥福を弔い、而して帰郷し、事実を寺社に対して公的に懺悔した以上、三宝院(京都市伏見区醍醐にある真言宗醍醐派総本山醍醐寺の塔頭・大本山・門跡寺院にして真言宗系修験道当山派を統括する本山。しかも三宝院門跡は醍醐寺座主を兼ねており、真言宗醍醐派管長の猊座にあった)は彼を与八の殺人犯として訴え出ることはなく、寧ろ、懇ろに保護したと考えるのが至当と思うからである。]

2019/08/12

諸国因果物語 巻之三 祖父の死靈祖母をくひ殺す事

 

     祖父(ぢい)の死靈(しれう)祖母(ばゝ)をくひ殺す事

Titikuiyaburi

 これも元祿四年の事也。伊賀の上㙒大つぼとかや、所は忘れたり。甚吉といふ百姓あり。

[やぶちゃん注:「元祿四年」一六九一年。

「伊賀の上㙒大つぼ」三重県伊賀市久米町(グーグル・マップ・データ。以下、同じ)内に字で「大坪」なら現存する。]

 彼が母一人あり。後づれの親にて、常に心よからぬ事あり。其いはれは、爺(てゝ)の親、死する。此身にありける子、しかも男子なりければ、何角(か)と、和讒(わざん)をいひかけ、弟に生れたりといへども、繼母(けいぼ)のはからひとして、甚吉を押のけ、跡職(あとしき)を我子に繼(つが)せたり。

[やぶちゃん注:「和讒」一方に取り入るために他方を悪くいうこと。「讒言」に同じい。

「跡職」ここは家督と家屋に限っていよう。以下で当初、田地を分離しているからである。]

 田地も少あるを、是迄、弟にと、貪りしかども、庄屋など、一圓(ゑん)心に任せて、「弟に」といはざれば、是非なく、兄甚吉にあたへけれども、猶、欲の心あきたらねば、

「然るべき妻子をも定め、身上[やぶちゃん注:「しんしやう」。]とも、かくもなる迄は、此弟に讓狀を書て[やぶちゃん注:「かきて」。]、渡し置(おく)べし。」

などゝ、いぢりける程に、今は、せんかたなくて、庄屋・肝煎などに心をあはせ、僞りて、讓り狀を書、村中へ出したる分にもてなし、

『何分にも、母と名の付たる人也。繼(まゝ)しきとても、さからふべきにあらず。』

と思ひ、萬[やぶちゃん注:「よろづ」。]に付て、孝行を盡しけれども、日にそいて、いよいよ邪(よこしま)に、事毎(ごと)に、僻(ひが)事のみ、いひけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、餘りやるかたなく、心うくて、九月の初より、京都にのぼり、室町立賣(たちうり)の邊(へん)にて、久七奉公をつとめ、しばらくの程、母の心をも休め、我も上(かみ)方の風(ふう)を見習ふために、と假初(かりそめ)に勤(つとめ)ける。

[やぶちゃん注:「庄屋・肝煎」既出既注

「繼しき:形容詞「ままし」。継父・継母・継子などの血の繋がらない間柄であることを言う。

「室町立賣(たちうり)」現在の京都市内の東西の通りの一つ「上立売通(かみだちうりどおり)」と「室町通」との交差点辺りは、室町時代に店舗を構えずに商売を行う商人、「立売」が多かったことから、「立売の辻」と呼ばれた。ここ

「久七奉公」「ひさひち」か。不詳。年季奉公の男の奉公人のことか。「七」の字を貰えるのは手代になってからとかつて聴いたが、甚吉は年齢的に丁稚では老け過ぎではある。]

 元來、すなほなる心といひ、影ひなたなき律義もの也しかば、主人も情を懸て遣ひ、甚吉も此旦那を大切にしける程に、けふと暮(くれ)、明日(あす)と過(すぐ)し、十年ばかりも舊功を積けるまゝに、似合敷(にあはしき)妻をも、旦那より、引合せ、金銀・味噌・鹽の世話まで、細やかに氣を付、宿はいり、首尾能(よく)とり繕(つくろ)ひ、仕(し)付られける儘、此うへに何の欲かあるべき。

[やぶちゃん注:「宿はいり」ここは嫁を迎えて、主人の町屋の屋敷内の長屋にでも住むことを謂うか。だとすると、甚吉は番頭格になっていたことになる(手代は結婚が許されなかったはずである)。よく判らぬ。]

 一つは母の心ざしをも逐(とぐ)る爲にと、ある時、みづから、伊賀に下り、彼(かの)田地、ことごとく證文をいたして、弟にゆづり、

『今は、いかなる繼母なりとも、心にかゝり給ふ事あらず。』

と思ひ悅ひて、歸りぬ。

 此間に彼(かの)腹(はら)がはりの弟も、近鄕より妻をむかへなどして、子あり。此甚吉の田地うけ取付る夜(よ)、生れて、しかも男子也ければ、祖母も一しほに悅び、いさみつゝ、しばしも下(した)に置事なく、懷(いだき)かゝへて、かあやかりそだて[やぶちゃん注:ママ。「可愛がり育て」。]、夜(よ)の程も乳を吞(のま)する間(ま)ばかり、娵(よめ)に渡し、其外は祖母の手に取て寢起したりしに、二七夜(や)[やぶちゃん注:生まれて十四日。]も過(すぎ)ぬらんと思ふ比、彼生れ子、祖母の懷に手を延し、乳ぶさをとらへて口に含まんとするを、繼母は嬉しさのあまり、

「恐しの知惠や、此子は早、乳(ち)を探る事よ。」

と、乳ぶさを取て、赤子の口に入けるに、始の程は、

「しかしか。」

くと嚙(かむ)やうに覺えしが、次第に痛く覺えしまゝ、恐しくて、引はなさんとする時、此孫、左の乳ぶさを喰切(くひきり)たれば、祖母(はゝ)は、

「のふ、悲しや。」

と、いひて、絕入(ぜつじゆ)したり。

 夫婦、おどろき、急ぎ、起(おき)て見るに、赤子、俄(にはか)に起(おき)なをり、

「我は汝が父、甚介なり。いかに繼(まゝ)しき事なりとて、惣領たる甚吉を追のけ、此跡職のみか、田地まで、ことごとくおのれらが物にさせたる根性の惡さに、我、今、此家に生(むま)れ、祖母(はゝ)には、思ひしらせ、喰殺しける也。あら、心よや。」

といふ聲そのまゝの甚介にて、『物いひやみしよ』と思へば、やがて、是も、死たり。

 おそろしき事也。

[やぶちゃん注:う~ん、なんだか、珍しく妙に読後感が悪い。実父の変成(へんじょう)した赤ん坊が後妻であった継母の乳房を食い破って殺し、その赤ん坊のままに祖母の声を出して恨みと本懐を述べ、しかしてゴロンと、その赤子も死ぬという一連のコーダが、どうも映像として生理的に気味(キビ)悪いのである。]

諸国因果物語 巻之三 目録・女の執心人に敵を討する事

 

諸國因果物語卷之三

 

女の執心人にかたきを討(うた)する事

祖父(ぢい)の死㚑(しれう)來りて祖母(ばゝ)を喰殺す事

盗(ぬすみ)せしもの神罰(しんばち)をかうふる事

猫の生㚑(いきれう)人に祟をなせし事

長谷の空室(くうしつ)寮(れう)の事

[やぶちゃん注:「㚑」(「靈」の異体字)の「れう」はママ。]

 

 

諸國因果物語卷之三

     女の執心人に敵を討する事

Kyotou

 奧州仙臺役者町(やくしやまち)といふ所に都筑慶元(つゞきけいげん)といふ者あり。名作の脇差を持り[やぶちゃん注:「もてり」。]。

[やぶちゃん注:「仙臺役者町」不詳。古地図を探そうと思ったが、町名を視認可能なものが見当たらない。

「都筑慶元」不詳。]

 此もの、名作を持ける事は、その近き邊(ほとり)に伊達の何とかやいひし武士の後家あり、一門とてもなくて、只、独(ひとり)すみたり。女ながらも、心ざま、かいがいしく[やぶちゃん注:ママ。]、侍の心ばへを失なはず、二たび、何方(いづかた)へも身を寄るなどゝいふ事もなく、卅八、九迄、貞女をたて、紡績(うみつむぎ)、織(をり)ぬふ態(わざ)に氣を盡し、人仕事(ひとしごと)にて渡世しけるが、此をんなに傳(つたは)りて、重代の腰の物あり。「村政」とかやいふ物とぞ。此女、十二、三のころ、此家に嫁しける時、父が手より讓り得しかども、子もなくて、夫に離れけるまゝ、また、此後(このゝち)たれに傳ふべき筋もなく、心にもあらず、月日を送りける所に、慶元その比(ころ)、卅ばかりにて、いさゝか武道を心がけ、劔術(けんじゆつ)に身をよせける比なりしかば、

「天晴(あつぱれ)、うき一腰(こし)もがな。身に添るたましい[やぶちゃん注:ママ。]ともせばや。」

と心がけける折も、此脇差の事を聞(きゝ)いだし、

『何とぞして、是を奪ひ、我たからとなさばや。』

の心ざし起り、幸、我も寡(やもめ)なりけるまゝ、此女に心ある體(てい)にもてなし、中立(なかだち)を賴み、さまざまと文(ふみ)を通はせ、みづからも、折ふしは忍び寄(より)などして、淺からぬ心ばへなど、かきくどき、又は、衣服・金銀の類ひなどを遣(つかは)し、心ばへを引うごかしけれども、更に色ある方の事は見むきもせず。まして衣類・金銀のおくり物、手もふれず、怒り恥かしめて返し、萬[やぶちゃん注:「よろづ」。]つれなく、はしたなくもてなしけるを、

「時分こそよけれ。」

と、切なき戀に思ひつめて恨(うらみ)いはんため忍びたるやうにもてなし、夜ふけ、人、しづまりて、彼(かの)中だちの人をすかし出(いだ)し、此家に忍ひ込(こみ)、女の寢たりける納戶に入りつゝ、わりなき風情(ふぜい)して泣(なき)うらみけるに、女は、思はずなる姿に肝をつぶし、寢間を迯いでんとするを、引とゞめ、やるかたもなく、何かといひつゞけ、かき口說やうにもてなしけれども、中々、なびくべき氣色ならぬを幸に、

「よしや。今は是迄也。我も思ひつめたれば、今宵かぎりの命ぞかし。おもひ知り給へ。」

などいふまゝに、懷より、九寸五ぶを拔(ぬき)いだし、女の心もとを、乳[やぶちゃん注:「ち」。]の下かけて、切さけ、返す刀にとゞめさして、扨、彼村政を尋ねもとめ、夜の程に逐電し、しばらく、世間を窺ひけるに、段々と沙汰あしく、工(たくみ)の樣子も、誰いふとなく露顯せしかば、貞女を殺すといひ、盗賊の科(とが)、遁(のがれ)がたければ、國許へ歸るべき望みも絕果(たへはて[やぶちゃん注:ママ。])ける故、方々と流浪し、元祿十年の夏の時分より、しかるべき由緖を賴み、越前の敦賀に下り、今橋といふ所に住つきて、猶、習ひこみたる事とて、武藝の指南を表とし、所の若侍をあつめ、小太刀など打せ、立會・入身などおしへつゝ、身を助(たすく)るよすがとはなしける。

[やぶちゃん注:「人仕事(ひとしごと)」人から頼まれた縫い織り仕事。

「村政」伊勢桑名の刀工の村正のことであろう。室町中期以後に代々活躍し、文亀から天文年間(一五〇一年~一五五五年)に同名の刀工が数代あるが、中でも永正年間(一五〇四年~一五二一年)の作品に傑作が多い。相州正宗の弟子とも伝えるが、これは年代的に見て根拠がなく、作風も、寧ろ、美濃物(関(せき)物)の系統に近い。利刃を以って知られたが、徳川家で村正の刀による不祥事が相次いだことから、祟る刀として妖刀伝説が生まれた。私の「耳囊 卷之二 村政の刀御當家にて禁じ給ふ事/利欲應報の事」でも根岸鎭衞は「村政」と誤っているから、特に鷺水のそれは奇異ではない(或いは彼は創作物としてわざと実在のそれとは名を変えたともとれる)。村正や妖刀伝説については、そちらに私が詳しく注しているので見られたい。

「うき一腰もがな」この「うき」は「愛(う)き」であろう。「愛い奴」のそれで、殆んどは連体形のみで用い、主に目下の者を褒めるに用いる。ここは武家の夫人の持ち物として実父から渡されたもので、脇差でも所謂、小刀(さすが)・懐剣に近い、かなり短いものなのであろう。されば「感心な・殊勝な」の謂いとして判る。

「九寸五ぶ」九寸五分(くすんごぶ)。刃の部分の長さが九寸五分(約二十九センチメートル)の短刀。鎧通(よろいどお)し(前注の婦人護身用の小刀・懐剣をかく呼ぶこともある)。

「工(たくみ)の樣子」謀略を以って騙した手口。

「國許へ歸るべき望みも絕果(たへはて[やぶちゃん注:ママ。])ける」強盗殺人の重罪人であるから、出身地には真っ先に触れが回る。

「元祿十年」一六九七年。

「越前の敦賀」「今橋」現在のこの附近(福井県敦賀市蓬莱町)(国土地理院図)。

「立會」「たちあひ」。正規の対決同様の心構えで試合をすること。

「入身」「いりみ」。素早く相手の懐に入って、自分の優位な間合をとる動作。]

 此枢機(すうき)を以て去方[やぶちゃん注:「さるかた」。]に仕官すべき事あり。三日市といふ所に化物屋敷ありて、年久しく住人もなく、逢逅(たまさか)も武邊の器量人(きりやうびと)ありといへども、此屋敷に一夜と置ず[やぶちゃん注:「おかず」。]して殺す程に、今は、いよいよ荒まさりて、物寒(すさま)じき[やぶちゃん注:「ものすさまじき」]屋形也。

[やぶちゃん注:「枢機」「枢」は戸の枢(くるる)、「機」は「石弓の引き金」で、「物事の最も大切なところ・かなめ・要所」の意。ここはその武術の評判が幸いしたことを言う。

「三日市」敦賀市の「博物館通り賑わい創出計画」(PDF)のレジュメの「2.博物館通りの変遷」の「(1)奈良・平安~江戸時代」に「江戸時代の敦賀」の地図が載り、狭義の「今橋」(旧橋)の少し上流を三本入った通りに「三日市町」の名を認める。現在の福井県敦賀市相生町(あいおいちょう)附近と思われる。彼の住まい(道場)にごく近いことが知れる。]

「若[やぶちゃん注:「もし」。]、今も此屋敷に住つくべきの器量人あらば、無足にて百石を給り、永代押領すべき、との朱印を給らん。」

との事を屬託(ぞくたく)ありしを、慶元も、一生の安否といひ、武邊をもためさばやの心ざしにて、所の侍を賴み、先[やぶちゃん注:「まづ」。]、こゝろみに一夜泊りて見たき由いひ込[やぶちゃん注:「こみ」。]、名主などへも披露せず、心やすき門弟四、五人に知らせ、忍びやかに出立て、彼屋敷へ行つ。

[やぶちゃん注:「無足にて……」知行地はなしの藩士で、屋敷のみ永代に与えられ、藩より百石が給付されるというのである。

「屬託(ぞくたく)」「嘱託」に同じい。]

 あれたる軒の板庇、もり來る月の光りのみ昔に替らぬさまして、梟(ふくろう[やぶちゃん注:ママ。])の聲、あるじ顏に鳴出たる書院の塵、手づから掃て、破たる障子、引たて、燭臺に摺火[やぶちゃん注:「すりび」。]打とり、添(そへ)、大蠟燭かゞやかし、打刀[やぶちゃん注:「うちがたな」。]ぬきかけて、膝の下に敷[やぶちゃん注:「しき」。]、「千手陀羅尼」、ひまなくとなへ、

[やぶちゃん注:「千手陀羅尼」「千手千眼大悲心陀羅尼」とも称し、「千手千眼観自在菩薩広大円満無礙(碍)大悲心陀羅尼経」の略称。千手観音の功徳を述べた八十二句からなる呪文で「千手経」などにあることからかく呼ばれるが、元来は青頸観音(しょうきょうかんのん:インドの諸神が不死の妙薬甘露(アムリタ)を求めんとして、乳海を撹拌したが、この時、猛毒が発生し、世界が焼き尽くされんとしたが、これを見たシヴァ神がこの毒を飲んで世を救った。その飲んだ毒のためにシヴァ神の喉は青く焼けたが、これが仏教にとり入れられた観音。信仰するれば、総ての災難・恐怖から救済されるとされる)という別の変化(へんげ)観音のものである。この呪(じゅ)を唱えれば、千手観音の功力(くりき)により、すべての悪業・重罪を消滅するとされる。主に禅宗で誦えられる。]

『今や、此ばけ物、出來る[やぶちゃん注:「いできたる」。]。』

と、四方に目をくばり、心をすまして居たりけるに、夜も、はや、子の刻ばかりにもや、とおもふ比、天井より、いくらともなく、美しく、細き手を出して、

「もやもや。」

とする程に、慶元の鼻を摘(つまみ)ける所を、しや引ぬいて切はらふに、

[やぶちゃん注:「しや引ぬいて」「しゃっぴきぬいて」(現代仮名遣)とオノマトペイアでとった。間投助詞「し」では同じ「や」が落ち着かない。]

「あつ。」

といふ聲して消ると思へば、奧の間より、閑(しづか)にあゆみ來る音して、襖、おしあけ出る者を見れば、十二、三なる禿(かぶろ)の美しさ、玉のやうなるが、慶元を一目見て、

「さればこそ。客の候は[やぶちゃん注:「さふらうは」。]。」

と、いひて、立歸る後(うしろ)すがた、俄(にはか)に曝頭(されかうべ)となりて、庭の方へ飛ちる、と見る程に、廣庭(ひろには)、人音[やぶちゃん注:「ひとおと」。]して、

「慶元、慶元。」

と呼(よぶ)。

「何ものぞ。」

と問(とふ)時、ゑんの障子をあけて、はいるを見るに、さし渡し、七、八尺も有らんと思ふ男の首、白髮頭を惣髮(さうがみ)に結(ゆひ)たるが、苦し氣(げ)なる息をつき、口より火を吹て、來り、いふやう、

「我は此屋敷の主(ぬし)也。子細ありて、人に讒(ざん)せられ、主人の恨(うらみ)を請(うく)る事ありて、しばらく閉門する事ありしに、あまつさへ、讒者(ざんしや)が謀(はからひ)として、此やかたへ斥候(しのび)の者をつかはし、かくの如く、闇打にし、某(それがし)が首を、雪隱の底に埋隱(うづみかく)し、表むきは自滅せし樣に披露せられ、其恨(うらみ)、骨髓に透りて、今にあり。此敵(かたき)、今猶、ありといへども、敵つねに『千手陀羅尼』を信じて、毎日、おこたらず讀誦(どくじゆ)するが故に、我、みづから行て仇(あだ)をなす事、あたはず。其方が武邊、又、世に並びなきを感じて、今、吾(わが)無念を晴さんとおもふ。意趣を語るは、君(きみ)、我ために此かたき打て給らば、此屋敷、永く其方にあたへ、我、また、守神となるべし。」

と、語る。

 慶元。聞とゞけて、いとやすく請合ぬ[やぶちゃん注:「うけあひぬ」。]。

「さて、其敵はいかにして討べき。名は何といふぞ。」

と問。

 こたへて、いふ樣、

「其かたきといふは、今、其方が兵法の弟子、設原(しだら)專(せん)左衞門なり。彼が我を討し時の脇差、今に身を離さず、我方に所持したり。迚もの事に[やぶちゃん注:「とてものことに」。]、此脇差にて討て給[やぶちゃん注:「うちてたまへ」。]。明晚、かならず、持參すべし。」

と、ねんごろに約束し歸りぬ、とおもへば、程なく夜もあけけるまゝに、やがて此やうすを披露し、

「かゝる慥(たしか)なる事を見屆つる上は。」

と、名主・代官などへも斷(ことわり)つゝ、又、一夜(ひとよ)、とまりしに、化物も、此たびは、六十ばかりの侍と顯はれ、慶元にむかひて一礼し、扨、若黨に持せし刀箱より、錦(にしき)の袋に入たる、二尺ばかりの刀の金造(きんづく)りなると、封したる文(ふみ)とを、慶元に渡し、

「此刀を以て、彼(かの)敵(かたき)、首尾よく討(うち)て給るべし。其後、この文を開き、名主へも披露あれ。我意趣、ことごとく、此書中に注(しる)し置し也。かまへて仕(し)おほせ給ふ迄、封じめを、ほどき給ふべからず。」

と、いひ渡すと思ふに、かいくれて、消ぬ[やぶちゃん注:「きえぬ」。]。

 されども、

『敵(かたき)の宿を語らざりしは、麁相(そさう)なる事かな。何ものを、いかに見わけて、本望(ほんもう)とげて得さすべき。』

などゝ思ふ内、又、夜もあけはなれしかば、

「先[やぶちゃん注:「まづ」。]、此事を披露せばや。」

と、急ぎ、名主がたへ行けるが、彼(かの)ばけ物の得させし刀をも、何心なく、「村政」にさしそへてぞ、出ける。

 名主がたには、慶元がありさまを見るより、何となく、内外(ないげ)[やぶちゃん注:単なる家の表・奥。]、さはぎ立て、先、口々の