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2019/08/25

生と死の斷片 小泉八雲(LAFCADIO HEARN)(田部隆次訳)

 

[やぶちゃん注:本作(原題は“BITS OF LIFE AND DEATH”。私は「生と死の断章」と訳したい)は明治二八(一八九五)年にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された作品集“OUT OF THE EAST:Reveries and Studies in New Japan”」(「東方の国から――新日本に於ける夢想と研究――」:来日後の第二作品集)の第五章(大見出しナンバー)に配された作品である。同作の原文は、「Internet Archive」のこちらから原本当該作画像が、活字化されたものが「The Project Gutenberg」のここの“V BITS OF LIFE AND DEATH”で読める。なお、私が標題に小泉八雲の元の名(正確には Patrick Lafcadio Hearn)の名を添えたのは、本書刊行時は未だ「小泉八雲」を名乗っていないからで、彼の帰化手続が完了して「小泉八雲」と改名したのは、本書刊行の翌年である明治二九(一八九六)年二月十日のことであったことを意識してのものである。但し、実際には生前に刊行された英文著作は改名以降も総て「Lafcadio Hearn」名義ではある。

 底本は、サイト「しみじみと朗読に聴き入りたい」の別館内のこちらにある、昭和二五(一九五〇)年新潮文庫刊の古谷綱武編「小泉八雲集 下巻」の田部隆次氏の訳の「生と死の斷片」(PDF)を視認した。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 なお、作中内の時制とロケーションであるが、本書刊行時、小泉八雲は神戸におり、無職であった(熊本第五高等学校は明治二七(一八九四)年十月までに退職し(契約切れと、五高に馴染めなくなっていたこと(特に明治二四(一八九一)年(十一月十五日着)に五高に彼を招いて呉れ、敬意を持っていた校長嘉納治五郎が転任して以降)等の外に、著作への専念の希望もあった。神戸着は明治二十七年十月十日)、同月九日に『神戸ジャパン・クロニクル』社に記者として就職、神戸に転居していたが、疲労から眼を患い、この年の一月に退社していた)が、作中のそれは熊本五高時代(始め熊本市手取本町(現在は熊本市中央区)で、後、明治二六(一八九三)年の秋に坪井西堀町(同前)へ移った。前者は上田和夫訳「小泉八雲集」の年譜によると、『静かな士族屋敷』とあるので、本文の「二」以降の内容から見て、後者であると私は思う)の上記の閉区間内となる。

 「一」の後は行間がないが、他「二」以降に合わせて一行空けた。また、「三」の原註はポイント落ちで全体が本文で七字分下げてあるが、本文同ポイントで示し、ブラウザでの不具合を考えて、一行字数を減じて改行してある。同じことを、「六」のト書きでも施した。また、このシナリオ形式の前半部分は各人の登場人物の名を冠した台詞初行が一字下げであるが、これは無視して行頭に引き上げてある。転載される御場合は、底本を見られ、そのように直されたい。

 なお、いらぬお世話とも言えようが、一部で私の注を当該段落の後或いは文中に附した。但し、今回は、幾つかについては調べたものの、種々の、主に人権上の配慮から注を附さなかったり、簡略にした箇所もあることをお断りしておく。]

 

 

    生 と 死 の 斷 片

 

       

 

 七月二十五日。今週私の家に三つの變つたおとづれがあつた。

 

 第一は井戶替職人であつた。每年一囘は凡ての井戶がからになるまで吸み替へられねばならない。さうしないと水神樣の怒りを招く。この折に私は日本の井戶とその守護神の事について學んだ事が多少ある、井戶の守護神には名が二つあつて、又水波之賣命(ミヅハノメノミコト)とも云はれる。

[やぶちゃん注:「吸」はママ。「汲」の誤植であろう。

「水波之賣命(ミヅハノメノミコト)」ウィキの「ミヅハノメ」によれば、「古事記」では、「弥都波能売神(みづはのめのかみ)」、「日本書紀」では「罔象女神(みつはのめのかみ)」と表記する。『神社の祭神としては水波能売命などとも表記される。淤加美神』(おかのかみ:伊邪那岐が迦具土(かぐつち)を斬り殺した際に生まれたとされる。私は神名をカタカナ表記するのを好まない)『とともに、日本における代表的な水の神(水神)である』。「古事記」の神産みの段において、カグツチを生んで陰部を火傷し苦しんでいたイザナミがした尿から、和久産巣日神(ワクムスビ)とともに生まれたとし』、「日本書紀」の『第二の一書では、イザナミが死ぬ間際に埴山媛神(ハニヤマヒメ)と罔象女神』(みつはのめのかみ:同じく水神)『を生んだと』する。なお、次段で小泉八雲は「この神に捧げてある神社を見た事はない」と記しているが、『丹生川上神社(奈良県吉野郡)などで淤加美神とともに祀られているほか、各地の神社で配祀神として祀られている。大滝神社(福井県越前市)摂社・岡田神社では、ミヅハノメが村人に紙漉を教えたという伝説が伝わっている』とある。]

 水神樣は水を淸く冷くして凡ての井戶を守護する、その代り家主の方では嚴しい淸淨法を守らねばならない、その規則を破る人には病氣それから死が來る。稀にこの神は蛇の形となつて現れる事がある。この神に捧げてある神社を見た事はない。しかし每月一度神主が井戶のある信心深い家を訪ねて水神に何か古い祈りをする、そして井戶の端に何かの符號の小さい幟を立てる。井戶替のあとでもやはりこの事がなされる。それから新しい水をくむ第一のつるべは男子によつてくまれる、もし婦人が初めに水をくめば、その井戶はそれからあといつも濁るからである。

 水神にはその仕事の小さい助手がある。日本人が鮒と呼ぶ小さい魚である。水蟲を退治するために一つ二つの鮒はどの井戶にも飼つてある。井戶替の時この小さい魚を甚だ大事にする。私が始めてうちの井戶に二つの鮒の居る事を知つたのは井戶替職人の來た時であつた。鮒は井戶に水の滿つる間冷水の桶に入れられて、それからもとの淋しさへ再び投ぜられた。

[やぶちゃん注:「水蟲」原文は“the water of larvae”。“larvae”(ラーヴィ)は「幼虫」を意味する“larva”の複数形。言わずもがな、ボウフラを代表に考えればよろしい。]

 私の井戶の水は綺麗で氷のやうに冷たい。しかし今ではそれを飮む每にいつでも暗黑のうちを徘徊して、下りて來て水に落つるつるべによつていつまでも驚かされるそれ等の二つの小さい白い生命を思はずには居られない。

 

 第二の變つたおとづれは、裝束をつけて手で動かす火消ポンプを携へた土地の消防であつた。昔の習慣に隨つて土用の間に年一囘彼等の持場を一𢌞りしてあつい屋根に水をまいて、富んだ家家から何か少しの報酬を受ける。長い間屋根に雨が落ちなければ太陽の熱だけで燃え出す事もあると信ぜられて居る。消防は私の屋根、樹木、庭園へ蛇管(ホース)を向けて非常に淸々した氣分にしてくれた、そしてその代りに私は酒代を與へた。

 

 第三のおとづれは、地藏のお祭りを適當に行ふために少しの助力を乞ひに來た子供の總代であつた、この地藏の堂は街路の向側で丁度私の家に面したところにある。私はその資金へ寄附する事を甚だ喜んだ、私はこの溫和な佛を愛するからである、そして私はその祭禮は面白いだらうと思つた。翌朝早く私はその堂がすでに花と奉納の提燈とで飾つてあるのを見た。新しいよだれかけが地藏の首の𢌞りにかけられて、佛式の御膳はその前に供へてあつた。あとで大工連が子供の躍るために地藏堂の廣場に舞臺を組み立てた、そして日のくれる前におもちや屋連が境内に一列の小屋をたてて商店を列べた。夜になつて私は子供の躍りを見るために如何にも綺麗な提灯の光の中へ出かけた、そして私は私の門の前に三尺以上の巨大なとんぼの止まつて居るのを見た。それは私が子供等に與へた少しの助力に對する彼等の感謝のしるしの飾りであつた。私は一時その眞に迫つて居るのにびつくりした、しかしよく調べて見ると、からだは色紙でつつんだ松の枝で、四つの翼は四本の十能で、光つた頭は小さい土瓶である事を發見した。全體は非常な影のでるやうに置いた提灯でてらされてゐた、その影も考案の一部であつた。美術的材料の一點もなくしてつくつた美感の驚くべき一例であつた、しかも全くそれは僅か八歲の貧しい子供の仕事であつた。

[やぶちゃん注:「十能」原文“fire-shovels”。点火している炭火を運んだり、かき落したり、石炭ストーブの石炭補給や灰を取出すのに用いる道具。金属性の小型のスコップ(シャベル)状のものが多い。炭火を運ぶだけのものでは金属製の椀状の容器に木製の台と柄をつけたものがあり「台十能」と呼ぶ。ここはそれであろう。【2020年1月9日追記】本底本の親本である昭和二年二月第一書房刊「小泉八雲全集」(全十八巻)の第四巻を見たところ、ここに以下の田部氏の訳注が入っているのを見つけたので以下に示す。底本はポイント落ち四字下げであるが、引き上げて同ポイントで示した。

譯者註一 著者は熊本で二度家を借りた。初めは手取本町三十四番地、後に外坪井西堀端町三十五番地に移つた。これ等の事件は多く後の家で起つた。

前者には明治二四(一八九一)年十一月二十五日に入居し(現在の熊本市中央区安政町(ごく北直近で手取本町と接する)に「小泉八雲熊本旧居」(グーグル・マップ・データ。以下同じ)として移転・復元されている)、後者(復元された前者の直線で約一キロメートル北方で、現在の中央区坪井一丁目のこの中央付近)には明治二十五年十一月中旬頃に転居している。

 

       

 

 七月三十日。南側の私の隣りの家(低い陰氣な建物)は染物屋である。日本の染物屋のあるところは、日に乾かすために家の前に竹竿の間に絹や木綿の長い切れ、濃い靑、紫、薔薇、薄靑、銀鼠の色の廣い帚帶が張り渡してあるのでいつでもすぐに分る。昨日私の隣人がその家庭を訪問するやうに私を誘うた。そしてその小さい表の方を通つたあとで、私はどこか古い京都の御殿に置いてもよい程の庭園に臨んだ奧の緣側から眺めて居る事に漑がついて驚いた。そこに優美な築山の山水があつた、そして淸い水の池があつて不思議に複雜な尾をもつた金魚がゐた。

 暫らくこの景色を眺めて居ると、染物屋は佛間になつて居る小さい部屋へ私を案内した。何でも必要上小規摸にできて居るが、私はどこの寺でも、これよりもつと美術的な物を見た覺えはない。彼は私に千五百圓かかつたと告げた、私はそんな金額でどうして足りたか分らなかつた。三つの入念に彫刻した壇、――漆と金とで光つた三重の壇、やさしい佛像の數々、多くの精巧な器物、黑壇の經机、木魚、二つの立派な鐘、つまり一つの寺院の諸道具一式が縮形になつて居た。私の主人は若い時お寺で勉强した事があつた、そして御經を知つてゐた、淨土宗に用ひられる御經は悉くもつてゐた。普通の讀經なら何でもやれると私に語つた。每日一定の時刻に家族全部がお參りのために佛間に集まる、そして主人は一同のために讀經する。しかし特別の場合には近所の僧が來てお勤めをする。

[やぶちゃん注:「千五百圓」先の「人形の墓」でも挙げたが、「野村ホールディングス」と「日本経済新聞社」の運営になる、こちらの記事によれば、本作が発表された翌々年(明治三〇(一八九七)年)頃で、『小学校の教員や』巡査『の初任給は月に』八~九『ぐらい』で、『一人前の大工』『や工場のベテラン技術者で月』二十『円ぐらいだったようで』、『このことから考えると、庶民にとって当時の』一『円は、現在の』二『万円ぐらいの重みがあったのかもしれ』ないとするから、小泉八雲は「私はそんな金額でどうして足りたか分らなかつた」と言っているが、どうしてこれは実に三千万円相当となる。]

 

 彼は私に盜賊に關する珍らしい話しをした。染物屋は格別泥棒に入られ易い、幾分はそこに委託してある高價な絹のため、又この職業は儲けが大きいと知られて居るからである。或晚このうちへ泥棒が入つた。主人は町にゐなかつた、老母と妻と女中だけがその時うちにゐた。覆面をして長い刀を携へた三人が、うちに入つた。一人は女中に職人が誰かまだこの家に居るかと尋ねた、そこで泥棒をおどかさうと思つて、女中は、若い衆は皆未だ仕事をして居ると答へた。しかし泥棒はこの證言にはびくともしなかつた。一人は入口に立番し、二人は寢室へ大股であるいて行つた。女達は驚いて立ち上つた、そして妻は『どうして私達を殺さうとするのです』と尋ねた。頭らしい男は答へた、『殺さうとは思はない、金が要るだけだ。しかし金を出さなけりやかうだ』と云つて刀を疊につきさした。老母は云つた、『どうか嫁をおどかして下さるな、さうすればうちにあるお金はありたけ上げます。しかし御承知下さい。倅は京都へ行つてゐますから澤山あるわけはありまぜん』彼女は金簞笥の引出しと自分の財布とを渡した。丁度二十八圓と八十四錢あつた。泥棒の頭はそれを數へて甚だ穩かに云つた、『あんたをおどかしたい事はない。あんたは大層信心深い人だと云ふ事は知つて居る、それで虛言は云はないだらうね。これで皆ですか』『はい、皆です』彼女は答へた『おつしやる通り私は佛法を信じて居ります、それであなたが今私の物を取りにお出になるのは全く昔私自身前の世であなたの物を取つた事があるからだと信じて居ります。これはその罪のための罰です。それですから虛言を云ふどころか、この際前の世であなたに對して犯した罪の償ひのできる事を有難く思ひます』泥棒は笑つて云つた『あんたはよいおばあさんだ、あんたの云ふ事は疑はない。あんたが貧乏だつたら、わしもあんたの物を取らうとはしない。そこで着物を二枚ばかりとこれだけ欲しい』と云つて甚だ立派な絹の羽織に手をかけた。老婦人は答へた『倅の着物は皆でも上げませう、しかしそれは取つて下さるな、倅の物ぢやありません、只人から染めるために預かつて居る物ですから。私共の物なら上げますが、人樣のものは上げられません』『それは全く道理だ』泥棒は承認した『それぢやそれは取らない』

 僅かの着物を受け取つたあとで、泥棒は甚だ丁寧にお休みなさいと云つたが、婦人達に自分等のあとを見送らないやうに命じた。年老いた女中はやはり戶の近くにゐた。泥棒頭はそこを通つたとき『貴樣は虛言をついたな――それやる』と云つて彼女を打ち倒して氣絕させた。泥棒は一人もその後捕へられなかつた。

 

       

 

 八月二十九日。或佛敎の宗派の葬式によつて、屍が燒かれた時に、佛樣と云ふ小さい骨、一般に喉の小さい骨と想像される骨が灰の間からさがされる。實際どんな骨だか、そんなかたみを調べる折がなかつたから私は知らない。

[やぶちゃん注:「喉の小さい骨」言わずもがなであるが、実際の咽仏(のどぼとけ)は甲状軟骨で焼かれて消失する。事実は普通見せられるのは第二頸椎の骨である。この呼称は一般には頸椎骨(七つある)の見た目が仏が座って合掌している姿に似ているからとされる。]

 火葬のあとで見出されたこの小さい骨の形によつて死者の來世の有樣が像言される。その魂の次ぎの狀態が幸福であれば、骨は佛の小さい姿の形になる。しかし來世が不幸になる時には醜い形になるか、或は全く形がない。

 小さい男の子、隣の煙草屋の倅が一昨夜死んだ、そして今夜死骸が燒かれた。火葬のあとに殘つた小さい骨に、三體の佛の形が發見された、それがあとに殘つた兩親に少しは精神的慰籍を與へるであらう。

 

     註 大阪天王寺ではこの骨が窖へ投
     ぜられるが、その時の音で、又後生に
     關する知らせが與へられると信ぜられ
     て居る。この骨が集まつて百年になる
     と、それを粉末にして、それをこねて大
     佛を造ると云ふ事である。

[やぶちゃん注:「天王寺」大阪市天王寺区四天王寺にある聖徳太子建立七大寺の一つとされている荒陵山(あらはかさん)四天王寺。本尊は救世(ぐぜ)観音。もともと特定の宗派に属さない八宗兼学で(本書刊行当時は天台宗であったと思われる)、現在は単立の「和宗」の総本山。

「窖」「あなぐら」と読む。原文は“a vault”で、英語では「教会や墓所の地下納骨所」を意味する。但し、ネットを検索してもこの特異な葬送儀礼は見当たらず、現在も行われているかどうかは不明である。そのようなもので出来た仏像というのも私は寡聞にして聴いたことがない。非常に興味深いので、何かご存じの方は是非とも御教授を願う。]

 

       

 

 九月十三日。出雲松江からの手紙に、私に羅宇を供給した老人は死んだと云つて來た。(日本のキセルは普通三つの部分、印ち豆の入る程の大きさの金屬製の雁首と、金屬製の吸口と、一定の時に取りかへられる竹の軸からできて居る事を讀者は知らねばならない)この老人は羅宇をいつも甚だ綺麗に塗つた、或は豪猪(やまあらし)の刺(はり)のやうに、或は蛇の皮の圓筒のやうに。彼は市(まち)はづれの變な狹い小さい町に住んでゐた。私はその町を知つて居るのは、そこに白子地藏と云ふ名高い像があるからである、この地藏は私は一度見に行つた。人はその顏を何かの理由で舞子の顏のやうに白くする、その理由を私はどうしても発見する事ができないで居る。

[やぶちゃん注:「羅宇」(らう)は小泉八雲が説明している「竹の軸」の部分。キセルの火皿と吸い口とをつなぐ竹の管。「羅宇」は単なる当て字で、ラオス(Laos)産の竹を使ったことに由来し、「らお」とも呼ぶ。

「白子地藏」原文を見ると“Shiroko-ō,—"White-Child-Jizō,"”とあるので、「しらこ」ではなく、「しろこ」である。しかし、ネット上では見当たらない。但し、「八雲会」(私の電子化をいつも気にしてリツイートして下さる)公式サイト内の一九八七年同会刊の梶谷泰之氏の「へるん百話―小泉八雲先生こぼれ話集」の紹介ページの「目次」に「白子地蔵」があるので、読む機会があったら、追記する。]

 老人にお增と云ふ娘が一人あつた、それについて物語がある。お增は今も存命である。長い間幸幅な妻となつて居るが啞である。ずつと昔怒つた群集が市中の或米相場師の家と倉庫を荒して破壞した。小判の大分交つて居る金錢は往來中にまき散らされた。暴徒(無敎育な正直な農夫)はそれを欲しがらなかつた、彼等は盜まうとしないで破壞しようと思つた。しかしお增の父はその晚泥の中から小判を一つ拾つてうちへ歸つた。あとで近所の人が告發したので彼は拘引された。彼を前に引出した判事はその當時十五のはにかんだ娘のお增を詰問して何か證據を得ようとした。彼女はもし續いて答へてゐたら、われ知らず父のためにならない證據を與へる事になるだらうと感じた、彼女は彼女の知つて居る事を何でも彼女に認めさせるやうに造作なく强ひる事のできる熟練なる審問者の前に居る事を感じた。彼女は默つてしまつた、そして口から血が流れ出た。只舌をかみ切つて永久に無言になつたのであつた。父は赦された。その行爲に感嘆した或商人は彼女を娶つて年老つた彼女の父を養つた。

[やぶちゃん注:【2020年1月9日追記】本底本の親本である昭和二年二月第一書房刊「小泉八雲全集」(全十八巻)の第四巻を見たところ、ここに以下の田部氏の訳注が入っているのを見つけたので以下に示す。底本はポイント落ち四字下げであるが、引き上げて同ポイントで示した。譯者註一は本文の「白子地藏」に、その二は最終段落冒頭の「老人にお增と云ふ娘が一人あつた、それについて物語がある」に註記号が附されてある。

譯者註一 この地藏は松江市奥谷萬壽寺にあるとの事。

譯者註二 この話は杵築の事實談。

「萬壽寺」は臨済宗で同地に現存するが(ここ)、この地蔵の確認は出来なかった。]

 

       

 

 十月十日。子供の生涯のうちに前生の事を覺えてゐてその話をする日が一日、たつた一日だけあると云はれる。

 丁度滿二つになるその日に、子供は家の最も靜かなところへ母につれられて箕の中に置かれる。子供は箕の中に坐る。それから母は子供の名を呼んで、『お前の前生は何であつたかね、云うてごらん』と云ふ。そこで子供はいつも一言で答へる。不思議な理由で、それよりも長い答の與へられる事はない。時に返事は謎のやうで、それを解釋するのに僧侶か易者を賴まねばならない事がよくある。たとへば昨日銅鍛冶の小さい倅はその不思議な問に對してただ『梅』と答へた。ところで梅は梅の花か梅の實か、女の名の梅かの意味に取れる。その男の子は女であつたと云ふ意味だらうか、或は梅の木であつたらうか。ある隣人は『人間の魂は梅の木には入らない』と云つた。今朝易者はその謎について問はれて、その男の兒は多分學者か詩人か政治家であつたらう、それは梅の木は學者、政治家、及び學者の守護神である天神の象徵であるからと斷言した。

[やぶちゃん注:「箕」(み)。原文は“a mi, or rice-winnowing basket”で田部氏は判り切っているから省略している。今や外国人のためではなく、日本人の若者のために注を附さねばならない時代となってしまった。穀物を入れて煽り、その中の籾殻や塵などを篩(ふる)い分ける塵取り状をした農具。藤蔓・柳・割り竹などで編んで作る。

「お前の前生は何であつたかね、云うてごらん」の部分は原文でも“"Omae no zensé wa, nande attakane?—iute, gōran."”と生の日本語をローマ字で示し、小泉八雲が章末に “"Thy previous life as for,—what was it? Honorably look [or, please look] and tell."”(「お前はその前世で何だったのだい? どうか、ちゃんと(又は「どうか、後生だから(お願いだから)」)ね、教えておくれ。」)と注を附すという臨場感を大切にした体裁を採っている。]

 

       

 

 十一月十七日。日本人の生活の事で外國人にはどうしても分らない事を書いた驚くべき書物を作る事ができよう。その書物のうちには稀れではあるが、しかし恐るべき憤怒の結果に關する硏究がなければならない。

 國民的法則として日本人は容易に怒りを表はさない。下層社會の間でさへ、重大なる威嚇は微笑と共に、君の恩は忘れない、こちらは感謝して居ると云ふ證言になる事が多い。(しかし、これは私共の言葉の意味で反語と想像してはいけない、それはただ婉曲な辭令で、――酷い事を本當の名で呼ばないのである)しかしこの微笑の證言は死を意味する事がないとは云へない。復讐の來る時には不意に來る。日本國内なら距離も時間もその復讐者、一日に五十哩步ける、荷物は極く小さい手拭に皆包める、忍耐は殆んど限りを知らないと云ふその復讐者には、何の故障にもならない。彼は庖丁を選ぶ事もある、しかしそれよりも刀、――日本の刀を使ふ事がもつと多い。これが日本人の手で使はれると最も恐るべき武器となる、そして怒つた人が十人もしくは二十人を殺すに一分まではかからない。下手人は逃れようと考へる事は餘りない。古への習慣は人を殺したら自分で死ぬべき事になつて居る、それ故警官の手に落つる事は恥辱である。豫じめ準備をして書置をして、葬式の用意をして、事によれば(昨年の或物凄い例にあつたやうに)自分の墓石まで彫つて置く。自分の復讐を充分に仕遂げてから自殺する。

[やぶちゃん注:「重大なる威嚇は微笑と共に、君の恩は忘れない、こちらは感謝して居ると云ふ證言になる事が多い」これは逐語的には正しいのだが、どうもシチュエーションとして想起しにくい。敬愛する平井呈一氏の訳(一九七五年恒文社刊「東の国から・心」所収の「生と死の断片」)のすっきりと鯔背に訳された当該部を引用しておく。

   *

なにかむきになって人を嚇(おど)しつけるようなばあい、その威嚇は、おめええの心持はおれは忘れねえからこそ、こして怒ってるんだぜ。‥‥すると怒られる方でも、そのお心もちはほんとにありがてえと思ってます。――といったような、ちょっと見得(みえ)をきったようなことばを、おたがいに笑顔まじりにかわしあう、という形をろることが多い。

   *

意訳とも言えるが、なんと、小泉八雲が大事にした臨場感に富んだ名訳ではないか。インキ臭い学誰彼の訳より、何よりも遙かに文学として優れている。

「五十哩」「哩」は「マイル」。約八十キロメートル。]

 熊本から餘り遠くない杉上と云ふ村にさう云ふ分らない悲劇が一つ、ついこの頃起つた。主なる役者は、成松一郞、若い店商人、妻おのと二十歲、結婚して僅かに一年、それからおのとの母方の叔父杉本嘉作なるもの、一度入監した事のある怒りつぽい男、これだけであつた。この悲劇は四幕であつた。

 

   第一段。場面――錢湯の内部。杉本嘉作
   入浴中。成松一郞入場、着物を脫ぎ、自
   分の親戚の居る事に氣がつかないで蒸氣
   の立ちこめて居る湯に入る、そして大聲
   で叫ぶ、――

『ああ、地獄のやうだ、この湯は、あつい、あつい』

   (『地獄』は佛敎の地獄の意味だが、監獄
   の事にもなる――この時は不幸なる暗合
   であつた)

嘉作(非常に怒つて)『おい小僧、喧嘩をする氣だね、何が氣に入らないんだ』

一郞(不意に出られてびつくりする、しかし勇鍼を起して嘉作の調子に反抗する)『なに、何だ、おれが何を云はうと勝手だ。湯が熱いと云つたつてお前にもつと熱くしてくれとは賴まない』

嘉作(けはしくなつて)『おれの失敗で一度ならず二度迄監獄に行つたつて何も不思議な事はない、貴樣はばかか惡者にちがひない』

   (互に飛びかかる隙をねらつてにらみ合
   つて居るが、互にためらつて居る、しか
   し日本人の口にしないやうな事を云ひ合
   つて居る。この老いたる人と若い人は互
   角の力だから手出しができない)

嘉作(一郞が怒つて來るに隨つて靜かになつて來る)『小僧、小僧のくせにこのおれと喧嘩する氣か。貴樣のやうな小僧は妻などもつてどうする。貴樣の妻はおれの親戚だ。地獄から來た男の親戚だ。おれのうちへ返しに來い』

一郞(今腕力では嘉作の方が上手(うはて)である事が充分に分つたので、やけになつて)『おれの妻をかへせ。おれの妻をかへせと云つたな、よし、すぐかへしてやる』

 

 そこまで一切の事は充分分る。それから一郞は歸宅する、妻を愛撫する、彼の愛を彼女に保證する、一切の話をする、それから彼女を嘉作の家でなく兄の家へやる。二日たつて日が暮れてからまもなく、おのとは夫に戶口へ呼ばれてそして二人は夜のやみに消える。

 

   第二段。夜の場面。嘉作の家が閉ぢて居る、
   雨戶の隙間から光が見える。女の影が近づ
   く。たたく音。雨戶があく。

嘉作の妻(おのとを認めて)『あゝあゝ、よく來てくれたね、どうぞお入り、お茶でもおあがり』

おのと(甚だやさしく云ふ)『どうも有難う。が嘉作さんはどこにお出でですか』

嘉作の妻『外の村へ行きました、しかし直に歸る筈です。入つておまちなさい』

おのと(一層やさしく)『どうも有難う。ちよつとして又參ります。しかし、先づ兄に云はねばなりませんから』

   (お辭儀する、暗がりにすつと入る、そし
   て又影になる、これが外の影と一緖になる。
   二つの影が動かずに居る)

 

   第三段。場面、松の木が兩側にある夜の
   河の堤防。嘉作の家の黑い影が遙かに
   見える。

 おのとと一郞が樹の下に、一郞は提灯をもつ。兩人共白い手拭で鉢卷きをして、身輕に着物をきて、袖にたすきをかけて腕のよくきくやうにして居る。銘々長い刀をもつ。

 時刻は日本人が、最も滴切に云ふ油り『河の音が最も聲高く聞える』時刻である。松の葉に風が長い時々のつぶやきをする外は何の音も聞えない、秋の末で蛙の聲も聞えない時であるから。二つの影は話をしない、河の音が高くなるだけである。 。

 不意に遠くでじやぶじやぶ音がする、誰か。が淺い流を渡つて居る、それから下駄のひびき、不規則なよろよろするひびき、酪どれの足音が段々近づいて來る。醉どれが聲を上げる、嘉作の聲である。彼は歌ふ、

 

   『好いたお方に强ひられて、

              や とんとん』

 

――戀と酒の歌である。

 直ちに二つの影が、その歌ひ手の方へ走りよる、彼等の足は草鞋をはいて居るから、音はしないで輕く走られる。嘉作は未だ歌つて居る。不意にゆるい石が一つ足下で動いた、彼は足首をねぢつて怒りのうなりを發する。殆んど同時に彼の顏に近く提灯がさし出される。恐らく三十秒程それがそこにぢつとして居る。誰も物を云はない。黃色の光は三つの顏と云ふよりむしろ妙に表情のない面といふべき物を照して居る。その顏を見て、風呂屋の事件を思ひ出して、そして刀を見て、嘉作の醉が一時にさめる。しかし恐れはしない、そしてやがて嘲りの笑を突發する。

『へつへつ! 一郞夫婦だな。おれを又子供だと思つて居るな。手にそんなものをもつて何をするつもりだ。使ひ方を敎へてやらう』

 しかし一郞は提灯を落して突然、雨乎に力一杯をこめて斬り下したので、殆んど嘉作の右の腕が肩から離れさうになつた、犧牲がよろめくところを女の刀は左りの肩をつき通した。彼は『人一殺し』と一聲恐ろしく叫んで倒れる。しかし彼は再び叫ばない。十分程二つの刀は彼に對して烈しく働いた。未だ燃えて居る提灯はそのすさまじい光景を照して居る。おそく步いて歸る二人の人は近づいて、聞いて、見て、足から下駄を落して物も云はずに暗がりへ逃げてかへる。一郞とおのとは仕事が苦しかつたから息をつくために提灯のわきに坐る。

 十四になる嘉作の倅は父を迎へに走つて來る。彼は歌を聞いて、それから叫び聲を聞いた、しかし未だ恐ろしい事を知らなかつた。二人は彼の近づくがままにして置く。彼がおのとに近づくと、女は彼を捕へてなげ倒して、膝の下で彼の細い腕をねぢて、そして刀を固く握る。しかし未だ喘いで居る一郞は、『いやいや、子供はいけない、その子は何にもしなかつたから』と叫ぶ。おのとは彼を放つてやる。子供は氣拔けして動く事もできない。彼女はひどく彼の顏を打つて『行け』と叫ぶ。彼は走る、叫ぶ事も敢てしないで。

 一郞とおのとは斬りさいなんだ物を捨てて、嘉作の家へ行つて大聲で呼ぶ。返事はない、ただ死を覺悟する女と子供の悲しく蹲つて居る沈默があるだけ。しかし彼等は恐るるに及ばないと告げられる。それから一郞は叫ぶ、

『お葬式の用意をなさい、嘉作は私の手でもう死んだ』

『それから私の手で』とおのとは金切聲で云ふ。

 それから足音は退く。

 

   第四段。場面、一郞の家の内部。客間に三
   人が坐つて居る。一郞、妻、及老母、老母
   は泣いて居る。

一郞『そこで、母さん、あなたは外に息子がないのですから、あなたを獨りこの世に置いて行くのは本當に惡い事です。ただお赦しを願ふ外はありません。しかし叔父はいつもあなたのお世話を致します。それで叔父の家へすぐに行つて下さい、もう私共二人は死なねばなりませんから。つまらない拙い死に方は致しません、見上げた立派な死に方を致します。そこであなたは見てはいけません。さあ、行つて下さい』

 老母は悲嘆にくれながら出て行く。彼女の出たあとをしつかり戶締りする。用意ができる。

 おのとは劍のさきを喉へつぎこむ。しかし彼女はやはりもがく。最後のやさしい言葉で一郞は一打で首を切つて彼女の苦痛を終りにする。

 そしてそれから。

 それから彼は硯箱をとり出して硯を用意し、墨をすり、よい筆を選んで、そして注意して選んだ紙の上に歌を五つつくる、最後のはつぎの物である。

 

   『冥土より郵電報があるならば

          早く安着申しおくらん』

 

 それから彼は自分の喉を立派に切る。

 

 さて、これ等の事實が公に調査されて居る間に、一郞夫婦はひろく人に好かれ、又二人とも幼時から愛嬌があるので著しかつた事がよく分つて來た。

 

 日本人の起源に關する學術的問題は未だかつて解決されてゐない。しかし時々一部マレイの起源を主張する人は多少の心理的證據を味方にもつて居るやうに思はれる事がある。最も溫和な日本女性の從順なやさしさの下に、(そのやさしさについては西洋の人はとても想像がでぎない)事實を目擊せずには全然考へられない冷酷の可能性がある。彼女は千度も容赦する事はできる、云ふ事のできぬ程感ずべき風に千度も自分を犧牲にする事ができる。しかし一つ特別の魂の神經が剌される事があれば、火が赦しても彼女は赦さない。さうなると突然その弱々しく見える婦人に、正直な復讐の信ずべからざる勇氣、恐ろしい用意周到なる挑まない精神が現れる。男子の驚くべき自制と忍耐の下に、達するには甚だ危險な盤石の如き物が存する。妄りにそれにふれる事があれば赦される事はない。しかし怨みはただ偶然に激成される事は殆んどない。動機は嚴密に判斷される。過ちは赦される。故意の惡意は決して赦されない。

[やぶちゃん注:「マレイの起源」サイト「10代の人権情報ネットワーク Be_FLAT」の沖浦和光氏の『「日本人」はどこから来たのか』によれば、『現在の日本民族には6つの源流が考えられます。まず、アイヌ系と南島人で、古モンゴロイド系の縄文人の末裔です。2つめは倭人で、彼らの多くは稲作農耕民と海の近くで舟運に従事し、漁をして暮らす海民です。3つめは南方系海洋民で、その主力は黒潮に乗って北上したマレー系海民とみられています。今日のフィリピン人、インドネシア人の源流に連なる人びとです。4つめは、朝鮮三国からの渡来人ですが、その主力は倭人系です。5つめは、中国の江北地方から朝鮮半島を経て北九州に渡ってきた新モンゴロイド系で、大陸の北方に住む漢人系の人びとです。6つめが北方系騎馬民族(新モンゴロイド系・ツングース族)で、ヤマト王朝を建国した天孫族にもこの流れが入っています』とあり、『このように、日本民族は、異なる時期に、相次いでこの列島にやってきた、さまざまなモンゴロイド系の混交によって形成されました。いくつものモンゴロイド種の、数万年以上にわたる複雑な混血の結果が今の現在の日本民族なのです。純粋かつ一系(ひとつの流れ)の日本民族というものは存在しません』と述べておられる。]

 富んだどこの家庭ででも、客はよくその家寶をいくつか見せられる事がある。そのうちには殆んどきまつて日本固有なあのやかましい茶の湯に關する道具がある。多分小さい箱が諸君の前に置かれよう。それをあけると讀者は小さい房のついた絹紐で結んだ綺麗な絹の袋を見るであらう。その絹は甚だ柔かな凝つた物で、手のこんだ模樣がある。こんな包みの下にどんな不思議な物が隱れて居るだらう。その袋を開く、又違つた種類の、しかし甚だ立派な袋がもう一つある。それを開くと、驚いた事には、見よ又第三のがあつてそれに第四のを入れて居る。それが第五のを入れ、それが第六のを入れ、それが第七の袋を入れて居る。その第七の袋に讀者が見た事のないやうな最も奇妙な、最も粗末な、最も堅固な瀨戶物の器が入れてある。しかしそれは珍らしいばかりでなく又貴重である、それは一千年以上を經た物である事がある。

 丁度その通り數百年の最も高い社會敎化は日本人の性格を包むに禮讓、優美、忍耐、溫和、道德的情操の多くの貴い柔かなおほひをもつてした。しかしこれ等の優しい幾重かのおほひの下に、鐡の如く固い原始的粘土が殘つて居る、――蒙古のあらゆる血氣、――マレイのあらゆる危險なしなやかさでこねられた粘土が。

[やぶちゃん注:【2020年1月9日追記】本底本の親本である昭和二年二月第一書房刊「小泉八雲全集」(全十八巻)の第四巻を見たところ、ここに以下の田部氏の訳注が入っているのを見つけたので以下に示す。底本はポイント落ち四字下げであるが、引き上げて同ポイントで示した。註記号は本文の「熊本から餘り遠くない杉上と云ふ村にさう云ふ分らない悲劇が一つ、ついこの頃起つた」の「悲劇」に附されてある。

譯者註一 熊本の新聞で讀んだ事實。明治二十六年十一月頃チエムバレンあての手紙參照。

「明治二十六年」は一八九三年。年譜等を調べてみたが、このチェンバレン宛の手紙は特定出来なかった。]



       
     

 十二月二十八日。私の後庭を圍んで居る高い垣の向うに、最も貧しい階級の人々の居る甚だ小さい何軒かの家の茅の屋根が見える、小さい家の一軒からたえずうなり聲、――苦しんで居る人の深いうなり聲が聞える。一週間以上夜も晝も聞える、しかしこの頃その聲は段々長くなり高くなる、一息一息が苦痛であるやうだ。私の老いた通譯萬右衞門は非常な同情の顏をして云ふ『誰かあすこで大層惡い』

 

 その聲が私をいらいらさせて來た。『その誰かが死んだら關係のある人々にかへつてよからうと思ふが』と私はむしろ殘酷に答へる。

 萬右衞門は私の惡い言葉の影響を拂ひ去るやうに兩手で三度早い急な手振をして小さい佛敎のいのりを口の中で唱へて、そして非難するやうな顏をして私のところを去る。それで良心に責められて私は病人のところへ女中をやつて醫者があるか、何か世話をしようかと聞きにやつた。やがて女中が歸つて來て、お醫者はきまつて來てくれる事、外に何も施しやうがない事を報告する。

 しかし蜘蛛網のやうな手付はしたが、萬右衞門の辛抱强い神經はその響でやはり惱まされて居る事に氣がつく。彼はできるだけ遠ざかりたいから往來に近い小さい表の部屋にゐたいとさへ白狀した。私は書く事も讀む事もできない。私の書齋は一番うしろにあるから、そのうなり聲はそこでは殆んど病人がその部屋に居るやうに聞える。いつでもこんな苦しみの聲のうちに、苦しみの强さの分る一種の物すごい音色がある、そして私は自分で問ひつづける。私がそれを聞いて苦しんで居るその本人に取つて、もつと長く苦しみつづける事ができるものだらうか。

[やぶちゃん注:「そして私は自分で問ひつづける。私がそれを聞いて苦しんで居るその本人に取つて、もつと長く苦しみつづける事ができるものだらうか。」日本語としては意味がとりにくい。原文は、

“and I keep asking myself, How can it be possible for the human being making those sounds by which I am tortured, to endure much longer?”

で、これは、

そして私は自問し続けるのだ、「現に私を拷問にかけている、あんな呻き声を発している人は、はたして、どれだけ長くその苦痛を耐え、どれだけ永く生ることができるというのだろう?」と。

と謂った意味であるようである。しかし、私は、それが自問であるということ、小泉八雲や「萬右衞門」にとって事実として堪え得ぬおぞましい呻き声であること、さらに附け添えられる後日談を考えると、感覚的には、

そして私は自問し続けるのだ、「現に私を拷問にかけている、あんな呻き声を発している人間に対して、はたしてどれだけの人間が、どれだけ長い間、我慢していられる、というのか?」と。

と言った意味でとりたくはなる。因みに、平井氏は前掲書で、

『わたくしは自問自答をつづけるのであった。――あんなうめき声を出して、他人に迷惑をかけている人間に、いったいこっちは、いつまで我慢をしていればいいのか、と。』

と訳しておられる。]

 午前おそくなつて、そのうなり聲が病室で小さい佛式の太鼓の音と澤山の聲の南無妙法蓮華經の合誦によつて打ち消されるのを聞くのは全く一安心である。たしかにその家に僧侶と親戚が集つて居る。『誰か死ぬのです』と萬右衞門は云ふ。そして彼も又妙法蓮華の讃美の聖い言葉をくりかへす。

[やぶちゃん注:「聖い」「きよい」。]

 題目と太鼓の音が幾時間かつづく。それが止むとうなり聲が又聞える。一息一息がうなりである。夕方になると一層惡くなり恐ろしくなる。それからそれが不意にとまる。數分の間死のやうな沈默がある。そしてそれから烈しい泣音が聞える。女の泣き聲、それから名を呼ぶ聲。萬右衞門は『あゝ誰か死んだ』と云ふ。

[やぶちゃん注:「泣音」「なきごゑ」と訓じておく。]

 私共は相談をする。萬右衞門はそこの人々は哀れに貧しい事を見出した、そして私は良心が咎めるから甚だ僅かの金ですむ葬式の費用を贈らうと云ふ。萬右衞門は私が全くの善意からさうするのだと思つて美はしい事を云ふ。私共は女中をやつて好意を傳へさせ、又できる事なら死人の履歷を知るやうに指圖した。私は何か悲劇らしい事のある事を思はずに居られなかつた、そして日本の悲劇には大槪興味がある。

[やぶちゃん注:同居していたセツの養祖父は稲垣万右衛門と言ったが、小泉八雲の他作品に登場するこの人物は、概ね実際にはセツ夫人のことであることが多いようではある。しかし、このシークエンスでは私は演出的には前者の方が相応しいように思う。]

 十月二十九日。私の察しの通り死人の話は聞く價値があつた。その家族は四人であつた、父、母、二人とも老年で弱つて居る、それから二人の息子と。死んだのは三十四の長男であつた。七年間病んでゐた。若い弟は車屋で一家を唯一人で支へてゐた。彼は自分の車をもたない、一日使用料を五錢拂つて他人から借りてゐた。强壯で、走る事が早いが儲けが少かつた、その仕事にはこの節競走が多過ぎて利益が少い。兩親と病人の兄を養ふのに全力を要した、不撓自制力がなければ、それをする事はできなかつたらう。彼は一杯の酒を飮むと云ふ樂みさへなかつた、彼は獨身でゐた、彼は唯兩親と兄に對する義務のために生きてゐた。

[やぶちゃん注:「不撓」「ふたう(ふとう)」。「撓(たは)まず」で、困難に出合ってもひるまないこと。]

 これは死んだ兄の話であつた、二十の頃、魚屋の商賣に從事して居る時、彼は或宿屋の綺麗な女中を愛するやうになつた、その女は彼の愛に酬いた。彼等は互に深く約束した。しかし結婚に邪魔が起つた。女は多少財產のある人の注意を惹く程綺麗であつた、その男は習慣通り彼女を貰ひに來た。彼女はその男を嫌つた、しかしその男の申込みの條件は兩親をその方へ決心させた。一緖になれないのに絕望して二人は情死をする事に決心した。どこかで夜彼等は會つた、酒を酌交して二人は約束を新たにし、世間に暇乞をした。若者は劍の一打で愛人を殺してすぐあとで同じ刀で自分の喉を切つた。しかし人々は彼の息の切れないうちにその部屋へかけ込んで、刀を奪ひ取り、警官を迎へにやり、師團から軍醫を招いた。その未遂の自殺者は病院へ運ばれ、巧みに看護されて健康になり、それから數ケ月の恢復期ののちに殺人犯の取調を受ける事になつた。

 どんな宣告が下つたか、私はよく知る事ができなかつた。當時日本の裁判官は人情にからんだ犯罪を扱ふ時に餘程自分の獨斷的判斷を用ひた。そして彼等の憐みの行[やぶちゃん注:「おこなひ」。]は西洋の模範でできた法典で未だ制限される事はなかつた。多分この場合では情死に生き殘つた事それだけが甚しい罰であると考へたのであらう。輿論はこんな場合には法律よりも無慈悲である。禁錮の或期間のあとでこの不幸な人は家へ歸る事を許されたが、たえず警察の監視を受けてゐた。人々は彼を避けた。生き殘つたのは彼の誤であつた。ただ兩親と弟は彼の味方であつた。そして間もなく彼は名狀のできない肉體の苦痛の犧牲となつた。しかし彼は生に執着してゐた。

 當時事情の許す限り巧みに手當はされたが喉の古疵は恐るべき惱みを起し出した。表面は直つてゐたが、何か徐々たる癌腫的形成がそれから擴がつて刃[やぶちゃん注:「やいば」。底本は「刅」の右の点のない字体。原文は“the sword-blade”であるのでかく訓じた。]の通つた氣管の上下へ達した。外科醫の刀、燒鏝の苦しみはただその最期を延すだけであつた、しかしその人はたえず增加して來る苦しみの七年間生き長らへた。死人を裏切つた結果、一緖に冥途に旅しようと互に約束をした事を破つた結果について不吉な信仰がある。殺された女の手がいつでもその疵を又開いたのだ、外科醫が晝のうちに仕上げた事を夜又もとにかへしたのだと人々は云つた。夜になると苦痛はいつでも增し、心中を企てた丁度その時刻には最も恐ろしくなつたからである。

 その間節約と自制とによつて、そのうちの人々は藥代、看護人、及び彼等自身がかつてそんな贅澤をした事がないやうな滋養物に拂ふ方法を講じた。彼等は彼等の恥、貧乏、負擔になる物の生命をできるだけの方法で延した。そして今死がその負擔を取り去つたので彼等は泣く。

 恐らく、私共凡てはどんなに苦しくともそれに對して犧性をするやうになつて居る者を愛するやうになるのである。實際私共に最も多くの苦痛を與へる者を最も多く愛するのではないかと云ふ疑問を起してもよからう。

[やぶちゃん注:底本では、最終行に一字上げインデントで『(田部隆次譯)』、次の行に同じインデントで『Bits of Life and Death.Out of the East.)』とある。]

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