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2019/08/24

諸国因果物語 巻之六 正直の人をそねみてむくひし事 / 諸国因果物語~電子化注完遂

 

    正直の人をそねみてむくひし事

Tenngu



[やぶちゃん注:本篇は底本の十九丁の裏(挿絵のみ)と二十丁の表(本文)が脱落しているため、そこは「ゆまに書房」版を参考にした。]

 丹後宮津の町に善藏といふ男、極めて正直・むよくのもの也。

[やぶちゃん注:「丹後宮津」「天橋立」で知られる現在の京都府宮津市の、宮津市街(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]

 人の事といへば、足手(あして)を空(そら)にして取もち、何とぞ首尾させたく、世話をやきて、やまず、吉事にも、あしき事にも、賴(たのま)れたる事を麁末(そまつ)にせず、夜を日についで、心にかけ、請(せい)にいれて、肝煎けるまゝに、てうほうの事におもひて、人もまた、おろそかにもせずありけれども、生れ付(つき)て貧なる事、我(われ)口ひとつさへ、心やすくはあらざりけるを、誰(たれ)々も笑止なることにおもひける。

 ある時、宮津の町にて、何がしといはるゝ冨貴(ふうき)の人、立願(りうぐはん)の事ありて成相(なりあひ)に七日こもりけるに、

[やぶちゃん注:「成相」天橋立を望む京都府宮津市成相寺にある、古来からの山岳信仰の修験場であった真言宗成相山(なりあいざん)成相寺(なりあいじ)。慶雲元(七〇四)年に文武天皇の勅願寺として真応が創建したとされる古刹。本尊は聖観世音菩薩。公式サイトはこちら。]

「伽(とぎ)のため、其方も、來りて、通夜(つや)したまふまじや。此つゐで[やぶちゃん注:ママ。]に、何とぞ、[やぶちゃん注:以下、「ゆまに書房」版を参考に今までの仕儀で手を加えた。]其方も、身にとりて仕合(しあはせ)するや、この願(ぐはん)をもたて給へかし。」

と、すゝめられ、善藏も大に悅び、

「我も、さこそ常々に願ひつる事なり。さらば、御供申べし。」

とて、打(うち)つれ、成相にこもりつゝ、一心に何やらん、ふしおがみ、ふしおがみ、たゞ一度(ど)、祈る体(てい)なりしが、そのゝちは、又、拜むさまも、そこそこに見えて、此人の世說(せわ)[やぶちゃん注:ママ。]をやきつゝ、夜をあかしけるに、七日に滿けれども、すゝめつる人は、何の御示現(じげん)もなければ、

『又、七日、こもらん。』

と思ひて、善藏をさそはせけるに、

「最早、此方は御利生(りしやう)ありて、名譽(めいよ)なる、まじなひの法を覚えたり。『是(これ)にて汝が一代は安樂にくらすべし』との瑞夢ありて、しかも、ちいさき劔(つるぎ)一ふりを得たれば、また、外にねがふ事、なし。いまよりしては、隙(ひま)もなく候へば、餘(よ)の人をめしつれ給へ。」

と、返事しけるを、

『何が、示現あるべき。近ごろ、卒尓(そつじ)なる事にこそ。』

[やぶちゃん注:「卒尓」「卒爾」「率爾」に同じ。ここは「無礼なこと」で、掌を返したようにけんもほろろに断ったことを、そう感じて不満を言ったもの。]

と、おもへど、つねに、たはぶれ事、いはぬ人なれば、

『もしや。さもある事もこそあれ。』

と思ひ[やぶちゃん注:ここから本来の「霞亭文庫」に戻る。]ゐたるに、いつとなく、世間にひろく沙汰ありて、

「善藏こそ、ふしぎなるまじなひを覚えたれ。我も此まじなひにて、つぶれたる目を、二たび、あきたれ。」

と悅び、彼(かれ)も、

「此ほど、呪(まじなひ)を賴(たのみ)て、十死一生のやまひを、本腹(ほんぷく)したり。」

と、もてはやしける程に、三、四ケ月の内に、はや、よほど人の餘勢(よせい)ありて、時行(はやる)事、おびたゞしかりければ、一年の程に、大ぶんの德(とく)付(つき)て、下人ども、多くめしつかひ、家居(いゑゐ[やぶちゃん注:ママ。])なども、おびたゞしく、冨貴しけるを、おなじ邊(ほとり)に住(すみ)ける忠左衞門といふ男、うらやみ思ひけるまゝ、何となく此善藏に取いり、懇望して、

「我も、此まじなひの弟子になりつゝ、冨貴せん。」

と願ひしを、依怙(ゑこ[やぶちゃん注:ママ。])なき心から、いとやすく請(うけ)あひて、悉(ことごとく)おしへけるに、忠左衞門、悅びいさみて、ひた[やぶちゃん注:「行ふ」にかかり、「いちずに・ひたすら」の意。]、此まじなひを善藏と立ならびて行ふに、一さい、其しるしなければ、度々、行(ゆき)て、

「もしや。大事(だいじ)を穩して、傳へられざるにや。」

と、うらみかこちて習へども、善藏は、

「此外に、さらさら、奧意(おくい)をのこす事、なし。」

と、大誓文(だいせいもん)を立て[やぶちゃん注:「たてて」。]いへども、有無に[やぶちゃん注:全く。すっかり。]此まじなひのしるしなきをいきどをりて[やぶちゃん注:ママ。]、ひそかに善藏が寢間にしのび入り、彼(かの)、觀音より夢想に得たりし劔(けん)をぬすみ出し、是にて、人をまじなひしに、却(かへつ)て、まじなふ程のもの、本腹せず、あまつさへ、輕(かろ)き病(やまひ)は重く、腫物(しゆもつ)は腐(くさり)ひろがりける程に、いよいよ、まじなひをたのむものなければ、

「今は、善藏こそ敵(かたき)なれ。此とし比(ごろ)、懇望して、此事、習(ならは)んために、下人同前につかはれつる恩のほども思はず、『そらせいもん』を立て、我に此いつはりをおしへしは、堪忍ならず。」

[やぶちゃん注:「そらせいもん」「空誓文」ここは中身のない無効化の似非の呪(まじな)いを指す。]

と、夜ふけ、人しづまりてより、ひそかに刄(は)物をふところにさし、善藏が方(かた)へと行けるに、おもひもよらず、後(うしろ)より聲をかけて、いふやう、

「……心ばせ――直(すなほ)なら――蓄藏なればこそ――かゝる大事を傳へたるに……おのが心ばせ――よこしまにて――まことなき心から――きかぬまじなひをかへり見ずして……善藏を殺さんとや……あれ――引さいて捨よ。」

と、いふか、とおもへば、我ながら、風にふかるゝ木(こ)の葉のごとく、

『ふはふは、中(ちう[やぶちゃん注:ママ。])にあがるよ。』

と、おぼへしが、やゝしばしありて、心づきけるまゝに、目(め)をひらきて、見まはすに、たしかに、丹波の國なる御嶽山(みたけさん)のほとりと覚えて、數(す)十丈ばかりもあらんとおもふ杉の木ずゑに、帶のすこし引かゝりたるにつながれて、谷のかたへ、さかさまにぞ、かゝりける。

[やぶちゃん注:「丹波の國なる御嶽山」兵庫県丹波篠山市にある標高七百九十三メートルの「御嶽(みたけ)」。ウィキの「御嶽(兵庫県)」によれば、『丹波篠山市の最高峰、多紀連山の主峰で』、「三嶽」『とも表記する』。『御嶽は小金ヶ嶽』(七百二十六メートル)・西ヶ嶽(七百二十七メートル)の『三山からなる』。『石室のある東峰、三角点のある西峰からなる』。『多紀連山は鎌倉時代から室町時代にかけては、丹波修験道場の中心地として栄え、御嶽はその中心であった。現在でも御嶽山頂から』六百メートル『離れたところに』、『当時の修験道の拠点であった大岳寺の跡や、東の峰には役行者を祀った石室が残されている。最盛期には大岳寺のほか、数ヶ所に堂が建ち、東の小金ヶ嶽の頂上には蔵王堂、その南側直下には福泉寺ほか数々の寺院群や里坊なども存在した』が、『丹波修験道は室町時代の文明一四(一四八二)年に、『大峰山に代表される大和修験道との争いに敗れ』、『主峰御嶽の南側直下の大岳寺など』が『焼き払われ』てしまった。]

 今は、中々、おもひし事もかなしく、人を恨(うらむ)氣もうせて、

『最後の時も、いまぞ。』

と、大ごゑを上げて、一心に念仏を申つゝ、たゞ、死のいたるを待(まつ)に、はるかむかふ[やぶちゃん注:ママ。]の山より、聲ありて、

「……その者……やつてのけよ――やつてのけよ……」

[やぶちゃん注:「やつてのけよ」は今の「遣って退けよ」であるが、ここは念仏が如何にも厭で五月蠅いから、「そ奴をそこからどこぞ遠くへ投げやって除(の)けろ!」と言っているのである。]

と、いひしを、我(わが)かりたる杉の下(もと)に音(こゑ)して、

「――よし――今は惡念も有(ある)まじ――念仏を申がやかましきに――歸してとらすべし――」

と、いふやいなや、此杉をとらへて、ゆする事、おびたゞし。

『さてこそ、今の内に、いかなる谷、いかなる岩角(いはかど)にあたりてか、みぢんになるべき。』

と、かなしくて、いよいよ、高聲(かうしやう)に念仏したりしに、あやまたず、

「ぶい。」[やぶちゃん注:底本のママの「ふい」でもよい。]

と、はなれて、はるかなる谷に落(おつ)る、と、おもへば、都の北山に聞へたる「僧正が谷」に立(たち)すくみて居たりしを、貴舩(きふね)の山人(やまびと)ども、見つけて、やうやうと、看病し、正氣になりてより、二たび、國に歸る事を得たりとぞ。

[やぶちゃん注:挿絵(右下に羽団扇を持った烏天狗、左上に天狗)で判る通り、善蔵に呪文を伝えたのは、魔道をテリトリーとする天狗であったのであり、さればこそ念仏を嫌うのである。]

 

諸國因果物語卷之六終

[やぶちゃん注:「僧正が谷」京都市左京区の北西部、鞍馬山奥の院不動堂と貴船神社との間にある谷。僧正ガ谷不動堂(京都府京都市左京区鞍馬本町)があり、牛若丸が武芸を修業したと伝えられる場所として知られる。珍しく京嫌いの私も歩いたことがある。

 以下、跋。跋後の鷺水の署名は底本では下二字上げインデント。]

 

 近代諸國因果物語六卷は、さきだちて梓(あづさ)に入し[やぶちゃん注:「いれし」。]百物語の撰次後編(せんじこうへん)なり。猶、此續(つゞき)ありて、都合十八卷を全部とし、世と共に、是をもてあそび、語り傳へ、聞(きゝ)およぼし、兒女・童蒙の目(め)をよろこばしめ、且は覆轍(ふくてつ)の戒(いましめ)となすの助(たすけ)ともなれとおもふ心ざし、あなりといへども、筆、いとまなく、日月(ひつき)、しばらくも住(とゞま)る事なきに、いちはやく年も暮れ、後集(こうしう[やぶちゃん注:ママ。])、いまだ、功おはらざる所あるが故に、今、猶、桜がもとに、花を催して、ひそめり。今、我、梅園(うめぞの)の梅の榮へを羨(うらやみ)がほに、眉(まゆ)ごもる柳の糸永(なが)き春のうちには、此後編もかならず、といひて、やみぬ。

               白梅園鷺水

[やぶちゃん注:「近代諸國因果物語」「近代」はママ。

「百物語」既に本「怪奇談集」で電子化注を完結している同じ青木鷺水の怪談集「御伽百物語」(六巻)のこと。本作の前年の宝永三(一七〇六)年にやはり江戸で開版したもの。

「撰次」は「選んで順序立てること」。

「覆轍」「ひっくり返った車の轍(わだち)」の意で、前の車が転倒した跡。転じて、「前人の失敗・失敗の前例」の意。

「花を催して」花を咲かせて。

「眉(まゆ)ごもる柳の糸」柳の細いえしなやかな枝葉を「柳眉」「柳の糸」と形容する。

 以下、広告と奥附。字のポイント違いや字位置は底本通りではない。現物はここ。「近代」は底本ではポイント落ちで、右から左に横書である。板元と書肆の下は右から左に「板行」とあるものを再現したもの。冒頭注で述べた通り、残念なことに、「近代 芭蕉翁諸國物語」は未刊に終わった。]

 

近代 芭蕉翁諸國物語   全部六卷

     近日出來申候

 

  寶永四年三月吉日

        江戸日本橋南一町目

           出雲寺四良兵衞 板

   書肆   京寺町松原下

           菱屋  治兵衞 行

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