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« 小泉八雲 十六日櫻  (田部隆次訳) | トップページ | 小泉八雲 力ばか (田部隆次訳) »

2019/09/23

小泉八雲 安藝之助の夢 (田部隆次訳) 附・陳翰「槐宮記」(書き下し文)

 

[やぶちゃん注:本篇(原題“THE DREAM OF AKINOSUKE”)は明治三七(一九〇四)年四月にボストン及びニュー・ヨークの「ホートン・ミフリン社」(BOSTON AND NEW YORK HOUGHTON MIFFLIN COMPANY)から出版された、恐らく小泉八雲の著作の中で最も日本で愛されている作品集「怪談」(原題“KWAIDAN: Stories and Studies of Strange Things”。来日後の第十作品集)の十四話目である。なお、小泉八雲はこの年の九月二十六日に五十四歳で心臓発作により急逝した。

 同作品集はInternet Archive”のこちらで全篇視認でき(リンク・ページは挿絵と扉標題。以下に示した本篇はここから。)、活字化されたものは“Project Gutenberg”のこちらで全篇が読める本篇はここ)。

 底本は上記英文サイトInternet Archive”のこちらにある画像データをPDFで落し、視認した。これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。

 田部隆次(たなべりゅうじ 明治八(一八七五)年~昭和三二(一九五七)年)氏については先に電子化した「人形の墓」の私の冒頭注を参照されたい。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。

 最後に原拠とされる陳翰(ちんかん)「槐宮記(かいきゅうき)」(晩唐の屯田員外郎であった陳翰の撰になる伝奇か。但し、先行する酷似した中唐の李公佐撰の伝奇小説「南柯太守傳(なんかたいしゅでん)」がある)を訓読したものを附した。]

 

 

  安藝之助の夢

 

 昔、大和國、遠市と云ふ處に宮田安藝之助と云ふ鄕士がゐた。……〔ここで私は、日本の封建時代には兵士兼農夫の特殊階級、英國の鄕士(ヨーメン)の階級に相當するものがあつて、鄕士と呼ばれた事を讀者に告げねばならない〕

[やぶちゃん注:「英國の鄕士(ヨーメン)」原本では“yeomen”と複数形。イングランドの独立自営農民ヨーマン(Yeoman)のこと。ウィキの「ヨーマン」によれば、十四『世紀半ば以降、イングランドでは百年戦争やペストの流行で』、『かつての封建制に異変が起こった。 貨幣経済の進展で地代が労働から生産物・貨幣になる中、ペストの大流行により』、『農奴が不足し、荘園制が古典荘園から純粋荘園へと移行した。 そして百年戦争や薔薇戦争で貴族が没落し』、『農奴が自立し始めた中ヨーマンが現れた』。十五『世紀のイングランドでは、ヨーマンが多数を占めたことにより、封建貴族の勢力が衰退し始めた。だが、農村内部が上層農民(後にジェントリ階級』(gentry:下級地主層の総称。「郷紳(きょうしん)」と訳される。貴族階級である男爵の下に位置し、正式には貴族に含まれないものの、貴族とともに上流階級を構成した)『を形成する)と没落農民とに区分されるようになり、農村共同体内部に利害の対立が起こった』とある。

「鄕士」(がうし(ごうし))は江戸時代、城下町に住む武士に対して、農村に居住する武士を指して言った。本来、諸藩の家臣は兵農分離によって城下町に住むべきものとされていたが、農民支配の末端機構として郷士を利用する藩も少くなかった。また、財政難のために藩士を帰農させることもあり、新田開発に郷士を動員することもあった。郷士は地方によって呼び名が異なっており、薩摩藩の「外城家中」や土佐藩の「一領具足」、紀州藩の「地士」、藤堂藩の「無足人」などがその例である。その存在形態も異なるが、一般的に郷士は城下町の武士よりも身分的に低いものとされた(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

 安藝之助の庭に大きな古い杉の樹があつて、蒸し熱い日には彼はいつもその下で休んでゐた。或大層暖かな午後、彼がこの樹の下に、同じ鄕士の友人二人と酒を飮みながら、雜談に耽つて居るうちに、突然眠りを催した、あまり眠いので、お客の前だが、少しまどろむ事を許して貰ひたいと友人に賴んだ。それから、その樹の根に橫になつて、こんな夢を見た、[やぶちゃん注:読点はママ。原文は“:—”であるから、穏当。]

 庭に橫になつて居ると、何か立派な大名行列のやうな行列が、すぐそばの坂を下つて來るのを見たので、それを見物しに起き上つたと思つた。大層立派な行列である事が分つた、――これまで見たことのない程いかめしいものであつた。それからそれが彼の家に向つて前進して來た。その先驅に立派な服裝をした若い人々の一隊があつて、きらきらする靑い絹のかかつた御所車を曳いて居るのを見た。家に近く來た時行列がとまつた、それから立派な服裝の人――確かに位の高い人――がその行列から進み出て安藝之助に近づき、鄭重にお辭儀をして、それから云つた、

 『わが君さま、御前に參りましたのは常世の國王の家來でございます。主人國王は私に代つて御挨拶を申し上げ、そして御用を何でも私に仰せつけ下さるやうにと申しました。國王は又宮殿へ御出で下さる事をお願致ししますと、申上げよと申します。それ故どうかお迎にさし上げましたこの御車にすぐお召し下さいませ』

[やぶちゃん注:「常世」(とこよ)不老不死の仙境。中国伝来の神仙思想と結びついて形成された観念とされる。]

 かう云ふ言葉を聞いて安藝之助は何か適當な返答をしたかつた。しかし彼は言葉の出ない程驚き且つ當惑した、――それと同時に彼の意志は彼からとけて行くやうであつた。それで家來が命じた通りにしかできなかつた。彼は車に乘つた。家來は彼のわきに乘つて、何か合圖をした。曳き手は絹の綱をとつて、南の方へその大きな車を向けた、――それから旅行が始まつた。

 驚いた事には、忽ちのうちに、車がこれまで見た事のない支那風の大きな樓門の前で止まつた。ここで家來は下りて云つた、「私は御着(おちやく)を知らせに參ります』――それから見えなくなつた。しぱらく待つたあとで、安藝之助は、紫の絹の着物と、高い位を示す形の、高い帽子を冠つた二人の氣高い人が門から來るのを見た。この人々は恭しく彼に挨拶したあとで、車から下りる手傳をして、大きな門を通つて廣い庭を橫ぎつて、宮殿の入口に案内した。その宮殿の表ては束西へ數哩[やぶちゃん注:「マイル」。一マイルは約一キロ六百九メートル。]の距離に廣がつて居るやうであつた。安藝之助は、それから非常に大きな立派な應接室へ通された。案内者は彼を上席に導いて、彼等は恭しく離れて坐つた。その間に禮裝した侍女は茶菓を運んだ。茶菓のすんだあとで、二人の紫の着物をきた侍者は安藝之助の前に低くお辭儀をして、つぎの言葉を彼に申し述べた、――宮中の儀式に從つて銘々代る代る述べながら、――

 『只今、申上げまする事は、私共の光榮ある義務でございます、……こちらへお招きした理由につきまして。……主人國王は、あなたに御養子になつて戴く事をお願でございます。……そして丁度今日、結婚式をあげる事は王の願、又命令でございます、……王の姬君、内親王と。……私共はすぐに謁見室へ御案内致します。……そこで陛下は丁度お待ち受けてございます。……しかし先づあなたに適當な禮服を……お着せ申す事が必要と存じます』

 かう云つて侍者は一緖に立ち上つて、金蒔繪の大きな簞笥の置いてある床の間へ進んだ。簞笥を開いて、そのうちから立派な品の色々の着物と帶、それから冠をとり出した。それ等のものを安藝之助に着せて内親王の花婿にふさはしくした。それから謁見所へ案内した。そこで安藝之助は常世の國王がいかめしい高い黑の帽子を冠り、黃色の絹の着物を着て玉座の上に坐して居るのを見た。玉座の前にはお寺の佛像の如く、不動の姿勢で華やかに左右に大勢の大官が居ならんでゐた。そして安藝之助は、その眞中へ進んできまりの三拜の最敬禮をした。王は丁寧な言葉で彼に挨拶して、それから云つた。

 『わが面前へ呼ばれた理由については、すでに聞かれた通りである。御身をわが獨り娘の婿にするときめたから、――それで婚禮は今行ふ事にする』

 王の話が止むと、樂しい音樂の音が聞えた。それから美しい官女の長い行列が幕のうしろから進んで、花嫁の待つて居る部屋へ安藝之助を案内しに來た。

 部屋は非常に廣かつた。それでも婚禮を見に集つた大勢の客を入れる事は中々できなかつた。安藝之助が王女に面して、設けてある座蒲團の上に坐つた時――一同が、安藝之助に對して敬禮した。花嫁は天津乙女のやうに見えた、彼女の着物は夏の空のやうに美しかつた。そして婚禮は大歡喜のうちに行はれた。

[やぶちゃん注:「天津乙女」「あまつをとめ」。文は“a maiden of heaven”。天女。] 

 そのあとで新夫婦は、宮殿の一部分にかねて準備してあつたいくつかの部屋へ導かれた。そこで彼等は大勢の貴い人々の祝詞と數へきれぬお祝の品々をうけた。

 

 幾日か後に安藝之助は、再び玉座のある部屋へ呼ばれた。今度は以前よりも一層鄭重に迎へられた、それから王は、彼に云つた。

 『わが領土の西南に萊州[やぶちゃん注:「らいしう」。]と云ふ島がある。御身を今度その島の知事に任命した。その人民は忠實で柔順である。しかしそこの法律は未だ常世の國の法律と一致してゐない。それからそこの習慣は正しく整理されてゐない。責任を以てできるだけ、そこの社會狀態を改良する事を任せる、それで親切と智慧を以て彼等を治めて貰ひたい。萊州への旅行に必要な準備は、もう既にできて居る』

 

 そこで海岸までは貴族や役人の大護衞に伴はれて安藝之助と花嫁は常世の國の宮殿から出かけた。そして王の準備した立派な船に乘つた。それから順風におくられて、安全に萊州に行つた。そしてその島のよい人民が、彼等を歡迎するために岸に集つて居るのを見た。

 

 安藝之助は直ちに、彼の新しい任務にとりかかつた。その任務は別にむつかしいものではなかつた。知事となつての初めの三年間は、法律を制定してそれを行ふ事に重に忙しかつた。しかし彼は助けてくれる賢い相談役をもつて居た、そして彼はその仕事を不快と思はなかつた。全く終つた時に、昔の習慣できまつて居る儀式や、禮儀に出席するより外になすべき實際の任務はなかつた。病氣や貧苦のない程に、この國は健康地であり、又肥沃であつた。人民は善良で、法律を破る事はかつてなかつた。安盛之助はそれから萊州に二十年住んで治めた、――合せて二十三年とどまつた。その間に何の悲しみの影も彼の生涯をよぎらなかつた。

 しかし彼が知事になつてから二十四年目に一大不幸が彼に來た。七人の子供――五人の男の子と二人の女の子――を生んだ彼の妻は病死した。彼女は壯麗な儀式をもつて範龍口の地方の美しい丘の頂上に葬られた。そして非常に立派な記念碑が墓の上に建てられた。しかし安藝之助は、もはや生きてゐたいと思はない程、彼女の死を悲しんだ。

[やぶちゃん注:「範龍口」原文は“Hanryōkō”。原拠とされる「槐宮記」や明らかにその濫觴である「南柯太守傳」では孰れも「盤龍岡(ばんりようこう(ばんりょうこう))」である。

 

 さて、きまり通りの忌服が終つた時、常世の宮殿から萊州へ使者が來た。使者は安藝之助にくやみの言葉を傳へて、それから彼に云つた、

 『私共の主人常世の國の王が、あなたにくりかへして云ふやうにと、命令なさる言葉はかうであります「今御身を御身の人々と御身の國へ送りかへすつもり。七人の子供の事は、王の孫であるから適當に養育する。それ故その子供については心配には及ばない」』

 この命令を受けで安藝之助は、おとなしく出發の用意をした。一切の事務が片つき、顧問や信賴した役人達に別れを告げる儀式も終つた時に、枝は港まで恭しく見送られた。そこで彼のために送られた船にのつた。船は碧い空の下を靑い海へと乘り出した。そして萊州の島の形までも靑くなつた。それから灰色になつた、それから永久に消えた。……そして安藝之助は不意に目をさました――彼自身の庭園の杉の樹の下で。……

 

 しばらく彼はぽんやりして目がくらんだ。しかし二人の友人は未だ彼のそばに坐つて、――酒を飮みながら談笑して居るのを見た。彼は當惑したやうに彼等を見つめて、大きな聲で叫んだ、

 『不思議だな――』

 『安衞之助殿は夢を見られたに相違ない』一人は笑つて、叫んだ。『何か不思議なものを見ましたか』

 それから安藝之助は自分の夢の話、――常世の領土の萊州の島に、二十三年間とどまつた夢の話をした、

しかし彼等は實際彼が數分間しか眠らなかつたから驚いた。

 一人の鄕士は云つた、

 『なる程、君は不思議なものを見ました。私共も君が眠つて居る間に妙なものを見た。小さい黃色の蝶が一つ君の顏の上をちよつとの間飛んでゐた。そして私共はそれを見てゐた。それからそれがその樹のそばで、君のわきの地面にとまつた。それからそれがとまると殆んど同時に大きい蟻が穴から出て來て、それを捕へて穴の中へ引きこんだ。丁度君が眼をさます前に、正しくその蝶が又穴から出て來て、前のやうに君の顏の上をヒラヒラ飛んで居るのを見た。がそれが不意に消えた、どこへ行つたのだか分らない』

 『多分それは安藝之助殿の魂だ』今一人の鄕士が云つた、――『たしかに安藝之助殿の口ヘ飛び込むのを見たと思つた。……しかしたとひ、その蝶が安藝之助殿の魂であつたとしても、その事はその夢の證明にはなりさうにない』

 『蟻が說明するかも知れない』初めの人が云つた。『蟻は不思議なものだ……或はお化けかも知れない。……とにかくあの杉の樹の下に大きな蟻の巢がある』

 『見よう』この思ひつきにひどく感心して、安藝之助が叫んだ。それから彼は鍬を取に行つた。

 

 杉の樹の𢌞りから下へかけての地面は最も驚くべき風に、蟻の巨大な群によつて掘られてゐた。さらにその上に蟻はその掘つた處へ建築した。そして藁と黏土と蔕((へた)や莖でできた極めて小さい建造物は、奇妙に小さい都會に似てゐた。外のものより著しく大きな建物の眞中に、黃色のやうな羽と、長い、黑い頭をもつた大層大きな蟻の身の𢌞りに、小さい蟻の驚くべき群がゐた。

 『あ〻、私の夢の王が居る』安藝之助が叫んだ、『そして常世の御殿がある。……こりや大變だ。……萊州はそこの、どこか西南にある筈だ――あの大きい根の左の方に、……さうだ、ここにある。……あ〻、不思議だ。今度はきつと範龍口[やぶちゃん注:ママ。]の山と姬君の墓を見つけられる』……

 彼はこはれた巢の中をしきりにさがした。そしてたうとう小さい丘を見つけた、その上に佛敎の碑に似た形の、水で角のとれた小石が据ゑであつた。その下に彼は粘土につまれた――雌蟻の死體を見つけた。

 

[やぶちゃん注:私は原拠として挙げるのであれば、先行する中唐の李公佐撰の「南柯太守傳」(リンク先は「中國哲學書電子化計劃」の同作)を示すべきかと思うのだが、ちょっと長いので、講談社学術文庫一九九〇年刊小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」が「原拠」と推定しつつも、あくまで『参考』として載せる、小泉八雲旧蔵の帝国文庫本「馬琴傑作集」所収の「三七全傳南柯夢」の「序」に引かれている陳翰の「槐宮記」を掲げてお茶を濁すこととする。但し、「南柯太守傳」は好きな作品なので、何時か、別に電子化訓読をしたいと思っている。その時は追記する。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを視認した。但し、ご覧の通り、「槐宮記」パートは句点のみが打たれた白文であるから、訓読した。訓読に際しては、講談社学術文庫(同書は白文を示した後に訓読文を掲げてある。但し、漢字は新字である)のそれを一部で参考にさせてもらった。句点を適宜読点に代え、読点や記号を追加し、段落も成形し(白文の句点位置には従わなかった部分がある)、読みも一部で歴史的仮名遣で補った。オリジナルに注を附した。なお、最後にある「簑笠隱居」という署名は曲亭馬琴の晩年の別号である。

   *

 淳于棼(じゆんうふん)、廣陵に家す。宅南に、古き槐(えんじゆ)、有り。生(せい)、其の下に豪飮し、因りて醉ふて疾(しつ)に致れば[やぶちゃん注:悪酔いしてしまったので。]、二友、生を扶(たす)けて、歸る。

 夢に、一(ひとり)の玄(くろ)き衣(ころも)の使者、曰はく、

「槐安國王(かいあんこくわう)、奉邀(はうよう)す。」

と。

[やぶちゃん注:「槐」バラ亜綱マメ目マメ科エンジュStyphonolobium japonicum。落葉高木。中国原産で、街路樹によく用いられる。志怪小説等を読むと、中国では霊の宿る木と考えられていたらしい。

「奉邀す」お出迎え申し上げる。御招聘なされておられます。「邀」は招くの意。]

 生、二使に隨ひて上車するに、古き槐を指して一穴中に入る。大城、朱門、題して「大槐安國」と曰(い)ふ。

 一騎有り、傳呼して曰はく、

「駙馬、遠降(えんこう)せり。」

と。

[やぶちゃん注:「駙馬」は元は「天子の副え馬」を指したが、昔、中国で天子の娘の夫は「駙馬都尉(ふばとい)」に任ぜられたところから「天子や貴人の婿」を謂い、ここは後者である。

「遠降」は遠くにいる異民族が従いなびくこと(投降)。ここは召しに応じて参上したことを上奏して言っている。]

 生を引きて、廣殿に升(のぼ)る。見るに、一人、素練(それん)[やぶちゃん注:白い練絹(ねりぎぬ)。]の服を衣(き)、朱華(しゆくわ)の冠(かんむり)す。生をして王を拜せしめ、王、曰はく、

「前(さき)に賢尊の命、あり。女(むすめ)の瑶芳(えうはう)をして君子に奉事(はうじ)せしむを許す。」

と。

[やぶちゃん注:「賢尊の命」貴君(淳于棼)の御尊父からの命令(婚姻許可)。

「君子」ここは王の娘婿となる淳于棼生を敬して呼んだもの。]

 僊姬(せんき)、數十有り。樂を奉じ、燭を執りて引き導く。金翠(きんすい)の步障(ほしやう)、玲瓏(れいろう)、斷へず。

[やぶちゃん注:「僊姬」仙女のように美しい女たち。

「金翠の步障」金と翡翠で作った美しい「步障」(竹・木などで枠を作り、布帛(ふはく)を張り巡らした囲い。目隠しとしたり、女性が外出時に身を蔽い隠したりするのに用いた)。

「玲瓏」実は原文は「玲」が「珍」となっている。意味が通らぬので特異的に変えた。所持する「南柯太守傳」でも「玲瓏」になっている。「玉のように輝くさま」又は「玉などの触れ合って美しく鳴るさま。音声の澄んで響くさま」を指す。美姫たちと仙楽であるから二重にとれる。]

 一門に至る。「金儀宮」と號(がう)し、一女子「金枝公主」と號(よば)はる。儼(おごそか)なること、神僊のごとし。交驩(かうくわん)して禮を成せり。情禮、日に洽(あまね)し。

[やぶちゃん注:「交驩」互いに親しく交わり楽しむこと。

「情禮」愛情と夫への礼節。

「洽(あまね)し」「情禮」が日増しに厚いものとなってゆく。]

 王、曰はく、

「吾が南柯郡は、政事、理(をさま)らず、屈(ま)げて、卿守(けいしゆ)と爲(な)れ。」

と。有司[やぶちゃん注:官吏。]に勅(ちよく)し、金玉・錦綉(きんしう)を出だし、僕・妾・車馬、旋(たちま)ち、廣衢(くわうく)に列し、公主の行くを餞(せん)す。

[やぶちゃん注:「卿守」郡の最高責任者(司令官)であろう。

「錦綉」錦(にしき)と刺繡を施した美しい織物・衣服。

「旋」は底本では「施」であるが、どうも読めない。ここは講談社学術文庫が『施(旋)』とし「たちまちに」と訓じているのに従った。

「廣衢」広い道。大通り。]

 夫人、子(こ)を戒めて曰はく、

「淳于郞は、性、剛(かう)にして、酒を好めり。婦の道爲(た)るは、柔順に在るを貴(たふと)む。爾(なんぢ)、善(よ)く之に事(つか)へよ。」

と。

[やぶちゃん注:「夫人」王の夫人。娘である金枝公主にかけた言葉。]

 生は日を累(かさ)ねて郡に至る。官吏・僧・道、有り。音樂もて來迎す。車を下り、風俗を省(かへり)み、疾苦を察すれば、郡中、大ひに理(をさ)まる。

[やぶちゃん注:「官吏・僧・道」出迎えた郡の役人と僧侶と道士。]

 凡そ二十載、百姓(ひやくせい)、生きながらにして祠(ほこら)を立て、王は爵を賜ひ、邑(いう)を錫(たま)ふ。位(くらゐ)は台輔(たいほ)に居(を)らしむ。五男二女、生まれ、榮盛(えいせい)、比(くら)ぶるもの莫(な)し。

[やぶちゃん注:「百姓、生きながらにして祠を立て」淳于棼の善政に感謝して生きながらにして神として祀られ、祠が建てられたのである。

「邑」領地。

「台輔」天子を補佐し、百官を統率する者。宰相。]

 公主、疾(しつ)に遇ひて薨(かう)ず。生は請ひて、喪を護り、國へ赴く。王は夫人と素服(そふく)にて、郊(こう)に慟哭す。儀杖・羽葆(うほ)を備へ、鼓吹して、主を盤龍岡(ばんりようこう)に葬る。

[やぶちゃん注:「素服」喪服。

「郊」郊外まで王と夫人が遺体を迎えに来たのである。

「儀杖」底本は「備儀」であるが、おかしい。「南柯太守傳」で「杖」を補った。

「羽葆」儀式用の鳥の羽飾りのついた車(ここは霊柩車)の覆い。車蓋(しゃがい)。]

 生は貴戚を以つて威福、日に盛んなり。人、有り。上表して云ふ、

「玄象(げんしやう)に謫見(たくけん)し、國に、大恐、有り。都邑(という)は遷徙(せんし)し、宗廟は崩壞す。事は蕭牆(せうしやう)に生ず。」

と。

[やぶちゃん注:「玄象」天(日月星辰)の状態。

「謫見」「謫」は普通でない「気(き)」を指す。異常な気の動きが漂っていることを言う。

「遷徙」都が遷ることになること。

「蕭牆」現代仮名遣「しょうしょう」。本来は「君臣の会見する所に設けた囲い」であるが、転じて「内輪・一族・国内」の意。これは国内。]

 時に議するに、生の僭侈(せんし)の應(おう)を以つてす。

[やぶちゃん注:「僭侈」は身分不相応に奢り昂ぶること。凶兆の原因は淳于棼が王を敬わず、好き勝手にしているからであるというのである。讒言である。「南柯太守傳」を見ると、最初に異民族が原因と言っているので、淳于棼が人間であるから禍いを齎すという作品構造の根幹に触れる箇所がある。

 王は、因りて、生に命じて曰はく、

「卿は暫く本里に歸り、親族に一見すべし。諸孫は以つて、念を爲すこと、無かられ。」

と。

[やぶちゃん注:後半部は「孫たち(淳于棼の子どもたち)のことは全く心配はいらない。」の意。]

 復た、二使者をして、一穴より、送り出ださしむ。

 遂に寤(さ)む。見れば、家僮(かどう)は庭にて彗(はうき)を擁し、二客は榻(とう)にて足を濯ふ。斜日は未だ西垣に隱れず。餘樽、尙ほ、東牖(とういう)に湛(たた)へり。

[やぶちゃん注:「家僮」家で使っている少年のボーイ。

「彗」箒(ほうき)。

「二客」最初と対応していない。「南柯太守傳」では気分が良くなるまで待って、足を洗って帰ると淳于棼に言っていて、齟齬がない。

「榻」底本は「搨」。「南柯太守傳」で訂した。次の段落の「榻」も同じ誤りをしている(訂した)。長椅子。

「餘樽」底本は「餘尊」。「南柯太守傳」で訂した。

「東牖」東側の窓際。]

 因りて、二者と古き槐の下の穴を尋ぬ。洞然として明朗[やぶちゃん注:ぽっかりとして明るい。]、一榻(とう)を容(い)るるべし。土壤を上げ、城・廟・臺殿(だいでん)の狀を爲す。蟻(あり)、數斛(こく)有り。二つの大きなる蟻は素翼(そよく)にして朱首(しゆしゆ)、乃ち、槐安國王なり。又、一穴を窮むれば、直だ南枝に上る。群れたる蟻、亦、其の中に處(を)る。卽ち、南柯郡なり。又、一穴は盤屈して、龍蛇の狀のごとし。小墳、有り。高さ尺餘り。卽ち、盤龍山岡(ばんりようざんこう)なり。

[やぶちゃん注:「洞然として明朗」「朗」は底本では「郞」。「南柯太守傳」で訂した。ぽっかりとして明るい様子。

「斛」一斛は十斗(約百八十リットル)。何万匹もいたのである。]

 生は追想して、感歎す。遽(には)かに遺(のこ)して掩塞(えんそく)す。是の夕(ゆふべ)、風雨、暴(には)かに發す。

[やぶちゃん注:淳于棼は妻の塚を友人らに壊されたくなかったから、慌ててそこを埋め戻したのである。]

 且つ、視れば、其の穴、遂に失せ、群れたる蟻の之(ゆ)く所、知る莫し。

「國記に、大恐、有り。都邑は遷徒す。」

とは、此れ、其の騐(しるし)なり。  右陳翰「槐宮記」

 

[やぶちゃん注:以下、馬琴の識語。カタカナをひらがなに直し、読みの一部を本文に出した。読み一部に留めた。クレジットと署名は引き上げた。なお、これは講談社学術文庫版にはない。前半部分に本原拠の絡みがあるので、電子化した。但し、後半の「三七全傳南柯夢」に関わる注は附さなかった。]

 

「槐宮記(くわいきうき)」は淳于棼(じゆんうふん)が故事なり。陳翰、嘗つて、棼が夢に嫁(か)して、榮枯得喪(とくそう)の理(り)を推(お)すこと、沈既濟(ちんきせい)が「枕中記」に一般(おな)じ。皆、是れ、寓言といへども、蒙昧を醒ますに足(た)れり。予も亦、取ることあつて、三勝半七(さんかつはんしち)が奇耦(きぐう)を述べ、名づけて「三七全傳南柯夢(さんしちぜんでんなんかのゆめ)」と謂ふ。事(こと)は米谷山(こねだにやま)の楠南柯(なんなんか)に起こつて、千日寺(せんにちでら)の南无佛(なむぶつ)に畢(を)はる。文辭、荒唐(くわいたう)にして、君子は一噱(いちぎやく)を惹(ひ)く似たり。然(しか)れども、艷曲淫奔(ゑんきよくいんほん)の脚色(きやくしき)を借(か)らずして、勸懲(くわんちやう)の微意(びい)每卷(まきごと)に存す。閲(み)る者の利害、彼(かれ)と此れと、如何(いかん)。因(よつ)て數行(すごう)を卷端(くわんたん)に題すと云。

 

文化四年丁卯夏盂   飯 台  簑笠隱居

   *

「沈既濟」沈既済(しんきせい 七五〇年~八〇〇年頃)は盛唐末から中唐にかけて生きた歴史家で小説家。蘇州呉の人。

「枕中記」「ちんちうき」。馬琴は「しんちうき」とルビしている。八〇〇年頃の成立。確かに、夢落ち構造が非常によく似ている。「南柯太守傳」(八〇二年成立)との影響関係は判らないが、以上の通り、両作は殆んど同時期に書かれたものと推定されてはいる。なお、私はサイト版で、

『黃粱夢 芥川龍之介 附 藪野直史注 + 附 原典 沈既濟「枕中記」全評釈 + 附 同原典沈既濟「枕中記」藪野直史翻案「枕の中」他」』

という、長大なものを公開している。お暇な折りに覗いて戴けると嬉しい。

「奇耦」奇遇に同じい。

「一噱」普通は「いちきやく(いっきゃく)」で「噱」は「大笑いすること」の意。「一笑」に同じ。

「飯台」馬琴の別号に「飯台陳人」がある。

「文化四年」一八〇七年。]

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